極微の写真のものがたり2008年09月18日 06時45分41秒

(ジョン・B.ダンサーのショップ広告。Clifton, 1996より)

マイクロフォトグラフの創始者であるジョン・B.ダンサーは、18世紀の後半に遡るマンチェスターの科学機器メーカーの3代目です。取扱い品目は多岐にわたり、望遠鏡や顕微鏡の他にも、気圧計、比重計、天秤ばかりなど幅広く手がけましたが、彼を最も有名にしたのが、マイクロフォトグラフの発明でした。

ダンサーはまだ20代の頃からマイクロフォトグラフの実験を重ね、1852年にその技法を完成しました。以来、彼は500種類以上ものマイクロフォトグラフを売り出し、当時の顕微鏡愛好家の多くがそれを所有していたといいます。

W. Hislop, J. H. Sidebotham, Herbert Watkinsなど後発の業者もいろいろ生まれ、テーマも人物あり、風景あり、建物あり、名画の複製あり、時事ネタありと実に様々でした。中にはエロティックな主題のものもあったと記憶しています。

ダンサーが編み出したマイクロフォトグラフの製法とは、要するに顕微鏡の光路を逆転させたものです。まず元写真のガラス乾板(ネガ)を幻灯機にセットします。次いで、その光を顕微鏡の対物レンズに、反対向きに通せば縮小した像を結びますから、それをガラス板上のコロジオン膜に感光させれば良いわけです。できるのはネガのネガ、すなわちポジですから、定着したコロジオン膜の小片をそのままプレパラートに封入すれば、マイクロフォトグラフが完成します。

マンチェスターの店は8人の従業員を抱え、なかなか羽振りもよかったのですが、58歳の時に悲劇が彼を襲います。緑内障にかかり、その商売に不可欠の「光」を徐々に失っていったのです。8年後にはついに失明し、彼は失意のうちに店を娘たちに譲り、引退を決意します。商売も急速に左前となり、ダンサーは暗黒と貧困に苦しみながら、75歳でひっそりと世を去りました。

かつてはチャールズ・ダーウィンやファラデー、ジェームズ・ナスミス、A. S. ハーシェル(ジョン・ハーシェルの長男)といった錚々たる顔ぶれと知己だったのに、晩年は全くの孤独でした。没後40年余り経って、地元のマンチェスター文学哲学協会で、彼の業績を伝える論文が読み上げられるまで、ダンサーの名は完全に埋没していたと言います。

さて、ダンサーの3人の娘は力を合わせて、父の商売を細々と続けましたが、それも1896年までで、この年に在庫とネガ原版、それに製作ノウハウの一切を50ポンドで、Richard Suterというロンドンの顕微鏡ディーラーに譲渡しました。シューターはネガから新規にスライドを作ることまではせず、完成品のスライドに自分名義のラベルを貼って、自社製品として販売を続けました。

シューターは1959年に95歳で没しました。彼も最期は失明していたそうです。シューターの死後、彼の屋根裏部屋から、60年分の煤と埃にまみれた大量のネガ原版が見つかりました。シューターの妹からそれを譲り受けたのが、A.L.E. Barronという人物で、彼が事の顛末を1960年のThe Microscope誌で発表したことによって、ダンサーの仕事の詳細がようやく判明したのです。

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ダンサーの名は今ではよく知られています。また、ときどきeBayでもその製品を見かけますが、その背後には、こんなストーリーがあったと知ると、いっそう興味がわきます。

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ところで、この前の満月のマイクロフォトグラフは、後年(1970~80年代ころ)古いネガから作られた覆刻品らしいのですが、詳細は不明。年次からすると、ダンサー由来のものでないことは確かです。天文関係のものだけ5枚セットになっていました。ダンサーのオリジナル商品にも天文ネタのものは、いろいろあったらしいので、いずれ手に入れたいと思っています。


■参考■

○Roy Winsby, The Microphotograph Slides of John B. Dancer and Richard Suter.
 http://www.microscopy-uk.org.uk/mag/indexmag.html?http://www.microscopy-uk.org.uk/mag/articles/winmicph.html

○Gloria Clifton, Directory of British Scientific Instrument Makers 1550-1851, 1996