聖夜を翔ぶ星2024年07月19日 13時52分45秒

わが家の年寄りが熱中症(疑い)で救急搬送され、右往左往しました。
幸い病院での処置が功を奏して大事には至らず、まずはホッと一息です。まあ、世間ではありふれた出来事だと思うんですが、身近で起こるといろいろ焦ります。

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何か涼しくなるものはないかな…と思って、こんな絵葉書を見つけました。


Weihnacht(ヴァイナハト)、英語にすれば Holy Night。
楽しかるべきクリスマスの晩に、ひとり雪山をゆく兵士。その背には銃が、足元にはスキーが見えます。姿勢を低くして辺りをうかがう斥候兵でしょうか。


その視線の先には、澄み切った冬の夜空と、それを切り裂くように飛ぶ彗星ないし流星の姿があります(彗星なのか流星なのかは、例によって曖昧です)。
兵士の緊張感も相まって、なんだか見るだけで、キーンと冷えた空気が感じられるようです。

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裏面を見ると、版元はゲオルグ・D・W・カールヴァイ(Georg D.W. Callwey)で、ここは 1884 年創設の、建築関係では有名なミュンヘンの出版社だそうです(今は単なるCallway社。海外展開する中で、読み方もコールウェイになっているかもしれません)。


さらに目をこらすと、上部に「Bayerische Kriegsinvaliden=fürsorge.」の文字が見えます。少し言葉を足すと、「バイエルン戦傷病者福祉向上絵葉書」の意味でしょう。第1次世界大戦中、ドイツの傷痍軍人、中でもミュンヘンを州都とするバイエルンの軍人たちを慰撫するために発行された愛国絵葉書で、 そう聞くと涼しいとばかり言ってられないような気もします。


絵の作者はリヒャルト・クライン。同一人物かどうか、今一つはっきりしませんが、これが芸術家のRichard Klein(1890-1967)だとすれば、彼は後にミュンヘン応用美術学校の校長を務め、ヒットラーとナチス政権の覚えめでたかった人。国威発揚の「大ドイツ美術展」(1937)にも出品したし、ナチスの勲章をいくつもデザインした…と聞くと、今度はなんだか別の意味で涼しくなってきます。

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1910年代は、1910年のハレー彗星を除き、特に目立つ彗星のない時期でしたから、描かれたのが彗星だとすると、これは純粋に画家の想像に基づく絵ということになります。

一瞬先は闇2024年03月31日 17時49分00秒

怒涛の3月が終わり、明日からはいよいよ4月。

今年の年度替わりは、例年以上に心身を痛めつけられました。それでも、とりあえず年度を越すことができてホッとしています。落語に出てくる昔の大みそかは、庶民にとって今とは桁違いの大イベントだったらしく、借金取りとの手に汗握る?攻防が面白おかしく言い伝えられていますけれど、今の世の年度替わりも、一部の人間にはちょっと似たところがあります。とにかく無茶でも何でも、事務の形を整えねばならないので、日本中でずいぶん珍妙なやり繰り算段があったことでしょう。

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そんな山場を越えて、今日はメダカの水を替えたり、小庭の草をむしったり、のんびり過ごしていました。ブログもそろりと再開せねばなりませんが、気ままなブログといえど、しばらく書いてないと、書き方を忘れるもんですね。まずはリハビリ代わりの気楽な話題から。

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「ぼくの保険会社だって?もちろんニューイングランド生命保険に決まってるじゃないか。でも何でそんなこと聞くんだい?」

蝶ネクタイでワイン片手に望遠鏡を覗きこむ2人のアマチュア天文家。
実にお洒落な二人ですが、なんで保険会社が話題になっているかというと…


雑誌「タイム」1969年10月24日号に掲載された、ニューイングランド生命保険の広告イラストです。描き手は諧謔味のあるイラストで、「プレイボーイ」や「ザ・ニューヨーカー」の誌面も飾った Rowland B. Wilson(1930-2005)。思わずクスリとする絵ですが、今だとちょっと難しい表現かもしれませんね。まあ画題はいささかブラックですが、この青い空と白い星の取り合わせはいかにも美しいです。

現実のアマチュア天文家が、当時こんな小粋なムードを漂わせていたかどうか。実際こんないでたちの人もいたかもしれませんが、でもこの広告の裏面(この広告は雑誌の表紙の真裏に載っています)を見ると、小粋でも気楽でもなく、「うーん」と大きくうならされます。

(「WHAT IF WE JUST PULL OUT? このまま撤退したらどうなるのか?」)

市松模様になっているのは、ニクソン大統領とベトナム戦争の惨禍、そしてアメリカ国内の反戦運動の高まりです。当時はアメリカのみならず、日本も熱い政治の時代で、この年はそこにおっかぶさるようにアポロの月着陸があり、翌年には大阪万博(Expo’70)を控え、今にして思えば、かなり騒然とした時代でした。まあ、私はまだ幼児だったのでリアルな記憶は乏しいですが、でも半世紀あまりを経て、人間のふるまいはあまり変わらんもんだなあ…とつくづく思います。

流星の夜2020年08月13日 06時52分30秒

ゆうべ夜中に目が覚めて、ふと「流れ星が見えるかな」と、寝室のブラインドを上げました。そのまま寝床に寝そべって、四角く切り取られた小さな空を、ガラス越しにじいっと見ていました。

月がやけに明るく、薄雲も広がっていましたが、雲間から明るい星がチラチラ見えていたので、はずみでひょいと見えるんじゃないか…と、かすかに期待したんですが、小半時のうちに流星は見えませんでした。

ときどき視界のすみを、光点がひょいと動くんですが、それは「そらし目」――光に鋭敏な周辺視野――に映った星が、眼球運動によってブレただけらしく、いわば私の願望が生み出した“偽りの流星”なのでした。

しかし、流星は見えなくとも、下弦の月が指し示す地平線下の太陽と、その周囲を旋回する彗星(スイフト・タットル彗星)を思い、我々の地球は今、宇宙空間を旅しながら、彼が残したダスト・トレイルに突入したんだな…と想像するのは、なかなか豪壮味のある経験で、寝苦しさをいっとき忘れました。

(古城を照らす下弦の月。フランス・シュノンソー城の古絵葉書。1910年ごろ)

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流星こそ見えなかったものの、そのとき確かに私の感覚を捉えたものがあります。
リーリーと鳴く、コオロギの声です。
そういえばすでに先週、暦は立秋を迎えていたのでしたね。

秋が来たと目にはっきり見えるわけではありませんが、虫の声にぞ驚かれぬる…というわけで、熱帯夜にも秋の兆しは明瞭でした。

涼を期待すると同時に、ちょっと寂しいものが混じります。

宇宙の謝肉祭(その1)2017年11月11日 16時33分19秒

最近、立て続けに妙な絵葉書を目にしました。

「妙な」といっても、同じ被写体を映した絵葉書は、以前も登場済みです。
それは、南仏・エクス(エクス=アン=プロヴァンス)の町のカーニヴァルで引き回された、星の形をかたどった不思議な山車を写したものです。

(画像再掲。元記事は以下)

天の星、地の星


エクスはマルセイユのすぐ北にあり、これぐらいの縮尺だと、その名も表示されないぐらいの小都市です。でも、その歴史はローマ時代に遡り、往時の執政官の名にちなみ、古くは「アクアエ・セクスティアエ(セクスティウスの水)」と呼ばれたのが転訛して「エクス」になった…というのを、さっきウィキペディアで知りました。

その名の通り、水の豊富な土地で、今も町のあちこちに噴水が湧き出ているそうです。そして、多くの高等教育機関を擁する学園都市にして、画家・セザンヌの出身地としても名高い、なかなか魅力的な町らしいです。

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今回まず見つけたのは、上と同じ山車を写した、別の絵葉書でした。


まだ芽吹きの時期には早いですが、いかにも陽の明るい早春の街をゆく山車行列。
道化姿の男たちと、馬に乗ったとんがり帽子の天文学者に先導されて、大きな星形の山車がしずしずと進んでいく様は、上の絵葉書と変わりません。こちらも「流れ星の天文学(L'astronomie sur l'étoile filante)」と題されていますから、これがこの山車の正式な呼び名なのでしょう。

(一部拡大)

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で、何が「妙」かといえば、この絵葉書に続けて、偶然こんな絵葉書も見つけたのでした。


こちらは、「Mars communiquant avec la Terre(火星と地球の交感)」と題された、これまた星形の山車です。そして、この絵葉書には「1912年」という年号が、欄外に明記されています。

(一部拡大)

これまで、他の町でも行われた同様の催しを手がかりに、冒頭に登場した山車は、1910年のハレー彗星接近をテーマにした、一種の時事ネタ的演目だろうと推測して、これまで疑うことがありませんでした。でも、この火星の絵葉書を見つけたことで、上の推測は再考を迫られることになったのです。

要するに、エクスの町のカーニヴァルには、天文モチーフの山車が複数登場しており、その登場時期もハレー彗星騒動があった1910年に限らない…ということが、この葉書から判明したわけです。

そういう視点で探してみたら、確かにエクスのカーニヴァルには、他にも天体を素材にした山車がたびたび登場していました。他の町はいざ知らず、少なくとも20世紀初頭のエクスの町では、天文モチーフの山車が毎年のように作られ、人気を博したようです。何だか不思議な町です。

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関連する他の絵葉書のこと、そして、この1912年に登場した火星の山車の時代背景について、次回以降考えてみます。

(この項つづく)

迫りくる大怪星2017年09月17日 07時58分01秒

これもシュナイダー氏の蒐集と重なりますが、1910年のハレー彗星騒動の絵葉書を探していたら、こんな1枚が目に留まりました。


巨大な彗星を前に、地上は大混乱。


大火球のような彗星を目にして、逃げ出す者、銃で応戦する者、絶望的な表情で抱き合う者。街中が阿鼻叫喚の渦です。
(しかし中には、気球で後を追ったり、冷静にカメラを構える者も…)


慌てた旦那さんは、たらいに隠れて顔面蒼白。
奥さんや娘さんも、てんでに戸棚や樽に飛び込もうとしています。


寝所の夫婦は、何とか傘で災厄をしのごうという算段。


Weltuntergang ―― 「最後の審判の日」。
今まさに、恐るべき災厄が地球に迫っていました…

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というふうに一瞬思ったものの、ちょっと日付が合いません。
上のキャプションは「地球に向かう彗星。1899年11月14日」となっています。
あのハレー彗星騒動よりも10年以上前です。

日付けを見て、「ははーん」と思った方も多いでしょうが、これはハレー彗星ではなくて、もう一つの天体ショー、「しし座流星群」の場面を描いたものでした。

「しし群」は、ほぼ33年周期で出現し、76年周期のハレー彗星よりも、人々の生きた記憶に残りやすい出来事です (たいていの人は、生涯に2回ないし3回、それを目撃する機会を与えられています)。この1899年は、1833年の歴史的大流星雨のあと、1866年にも相当の流星群が見られたのを受けて訪れた、天文ファンにとっては、絶好の観測機会。

ただ、それを絵葉書作者が「彗星 Komet」と呼んだのは、市井の人々の意識において、流星と彗星が、いずれも空を飛ぶ星として常に混同されがちだった…という事実を裏付けるものとして、興味深いです。

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しかし、それにしても当夜のウィーン(版元はウィーンの会社です)は、実際こんな有り様だったのか?その答は、葉書の裏面にありました。


葉書の投函日は1899年11月11日。
そう、すべては実際に流星群が出現する前に想像で画かれた絵だったのです。
流星とは似ても似つかない怪星も、実景を見たことのない者が描いたからに他なりません。

それでも、11月14日という日付けを正確に予言できたのは、天文学者がそれを計算したからです。そして、学者たちは流星群の当日も、それが「天体ショー」以上のものではないことを、冷静に告げていたはずです。(既に1866年には、「しし群」の起源が、テンペル・タットル彗星であることも判明しており、絵葉書の「彗星」の呼称は、それに影響された可能性もあります。)

したがって、この絵葉書は、世紀の天体ショーを前にして、版元がジャーナリスティックな煽りを利かせて作ったものであり、きっと作り手も買い手も、それを大いに面白がっていたんじゃないでしょうか。

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1910年のハレー彗星のときも、人々の狼狽ぶりを面白おかしく描いた絵葉書が大量に作られましたが、そちらについても、かなり割り引いて解釈する必要があると思います。(本当に恐怖のどん底にあったら、絵葉書を作ったり、買ったりする余裕はないはずです。)

なお、1899年は「しし群」の外れ年で、ウィーンっ子たちはさぞガッカリしたことでしょう(逆の意味で狼狽したかもしれません)。

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台風の中、今日から小旅行に出るので、記事の方はしばらくお休みします。

火星来たる(3)2016年07月03日 07時18分00秒

故郷の火星を飛び出して、宇宙空間を放浪し、地球に捕捉されて落ちてくるまで。
隕石が語り出せば、長い思い出話をしてくれることでしょう。

それにくらべれば、ずっとささやかですが、隕石が商品として流通する過程にも、いろいろ有為転変のエピソードがあるものです。


この品は、フランスの隕石ディーラーから買いました。
これは1997年に、12,000個作られたうちの1つで、通販専門チャンネルのQVCで売られたものだそうです(発売当時は、「Mars Owner’s Manual(火星オーナーの手引き)」というパンフが付属していましたが、手元の品にはありません)。

こう聞いただけでも、実に商魂たくましい、人間臭い背景がうかがえると思います。

1997年にこれを売り出したのは、Darryl Pittという人で、私はピット氏のことは何も知りませんでしたが、ネット上を徘徊しているうちに、次のような興味深い記事を見つけました。1997年11月18日付けの、ニューヨークタイムズの記事です(意味の取れない箇所が複数あったので、以下、かなり適当訳)。

Where Prices Are Out of This World (途方もない値段がつくところ)
  http://www.nytimes.com/1997/11/18/us/where-prices-are-out-of-this-world.html

 アリゾナ州ペイソン。マーヴィン・キルゴアは、探鉱者たち――金の粒を求めてアメリカ南西部中をくまなく探し回った武骨な男たちの流れを汲む者だ。
 
 「俺は言葉を覚えるよりも早く、金を探していたよ。」あたりにメスキートやチョヤサボテンが繁る、フェニックス近郊の、ここシエラ・アンチェス沙漠を歩きながら、キルゴア氏は言った。彼は片手につるはし、もう片方の手には金属探知機を持ち、汚れたテンガロンハットが、その顔に影を落としている。「俺の脳味噌はいつも石のことでいっぱいさ。」

 このところ、キルゴア氏(42歳)の心は浮き立っている。金のせいではない。隕石のせいだ。彼は金鉱探しをやめて、地球大気を通って焼けつくような旅を経験した、この貴重な天体に鞍替えしたのだ。

 その美しさと希少な成分を賞される標本の中には、1グラム――1オンスのわずか28分の1――当たり500ドル以上の値を付けるものもある。さらに火星からやって来た隕石(回収された隕石のうち、それはわずか12個に過ぎない)ともなれば、その値段は1グラム当たり1,000ドル以上に跳ね上がる。キルゴア氏は最近チリの沙漠まで旅したが、そこで隕石から得た収入は、1日あたり2,000ドルだった。

 「こいつは薄汚れた黒い石ころに見えるかもしれない。でも、どんな金ぴかの奴よりも、こいつの方がいいのさ。」と彼は言う。

 去年の夏、マーズ・パスファインダーが火星に着陸したことや、火星の隕石から原始的生命の痕跡が発見されたこと、さらに宇宙の塵(cosmic detritus)の価格が天文学的上昇を見せていることにより、アメリカ人は、今や熱い隕石ブームに巻き込まれつつある。1836年にナミビアで発見された鉄隕石――高さ16インチで並外れた曲線美を持っている――は、3年前に2,000ドルで売却されたが、去年オークションに出た際は4万ドルの値を付けた。

 惑星間を漂う物質の商いは、今や天井知らずである。ロレン・ヴェガは、通販専門チャンネル「QVC」で売られた火星隕石を、1個90ドル支払って買った4,000人の視聴者のうちの1人だ。彼が買ったのは、ナイジェリアで見つかったザガミ隕石の細粒入りの赤いキャップの小壜が、アクリルキューブ中に浮かんでいる品である。


 ニュージャージー州フランクリン・パークのレントゲン技師、ヴェガ氏(39歳)は語る。「テレビ番組で火星の写真を見ながら、『もしあの惑星の小石1個でも手にできたら、どんなに嬉しいだろう』と、私はひそかにつぶやいたんです。」

 まだキューブが届く前から、ヴェガ氏は書斎の棚にそれを置くための専用スペースを用意した。アラスカで手に入れた、毛の生えたマンモスの牙の化石と、ニューヨーク訪問中に買い入れた古代シュメールの石板のかけらの中間だ。

 マンハッタンのアッパーウエストサイドにある博物系ショップ「マキシラ&マンディブル(Maxilla & Mandible)」では、隕石のかけらを、ペンダントに加工した並品59ドルから、ウエハース大の火星隕石の切片2,000ドルまで販売している。

 「別の世界からやってきた品を所有するという考えに、人々は憑り付かれつつあるんです。」と、ショップオーナーのヘンリー・ガリアノは言う。「隕石は干し首の隣に置きたくなるような品なのでしょう。」

 ガリアノ氏は、総額3万ドルの隕石を昨年販売したが、買い手の中には、株よりも有利な投資先を探している者もいるという。「そういう人に、私は隕石を勧めるんです。絶対に大損はしませんからと。」

 しかし、最後には重力がものをいって、その価格も地に落ちるのではないかと懸念する業者もいる。「正直言って、そのうちバブルがはじけるんじゃないかと心配です。」と語るのは、コロラドの隕石蒐集家で、販売も行っているブレーン・リードである。「マーケットはいささか制御不能に陥っているように思います。」

 このブームは誰からも歓迎されているわけではない。青天井の価格上昇によって、趣味をあきらめざるを得ないコレクターもいるし、多くの科学者は標本マーケットに価格破壊をもたらした業者を呪っている。

 「こうした貴重な素材がスライスされ、イヤリングやアクセサリーに加工されるなんて、まったく恥ずべきことですよ。」と、テネシー大学地質学教授で、1,000人の会員を擁する隕石学会前会長のハリー・マクスウィーンは言う。「我々が隕石から学ぶべきことは、まだまだ多いのです。しかし、今のような状況では、博物館や科学者が真に重要なものを買うことはできません。我々はこの手の競争に不慣れなのです。」

 ニューヨークで音楽会社を経営するダリル・ピット(42歳)は、個人としては世界最大の隕石コレクションの1つを所有しており、彼こそ隕石マーケットをその頂点にまで持って行った人物かもしれない。

 2年前、ピット氏とそのパートナーは、1962年にナイジェリアで発見されたザガミ火星隕石(元の重さは40ポンド)から取った、握りこぶし大(400グラム)の石板を入手した。ピット氏は数か月かけて、その大きな塊を、販売に適した粒状にする方法を発見した。マンハッタンに製剤用具を備えた診療室を構え、最初は隕石の一部を粉状にしてしまったせいで、何千ドルも損をしたが、最後にはそのプロセスをマスターし、彼は2.5インチ角のアクリルキューブに入った微粒子を売り出した。


 このコレクター向けキューブの中身が、“車道の砂利”のように見えることはピット氏も認めるが、彼はこの“宇宙のパン粉”の販売こそ、消費者平等主義を促進する行いだと雄弁に語る。「金持ちだけが自分専用の火星のかけらを所有できるなんて、そんなことがあっていいのでしょうか?」と彼は言う。

 恐竜の化石とは異なり、多くの隕石は科学的価値や金銭的価値を減ずることなく分割できると、ピット氏は主張する。しかし、彼は多くの科学者の非難を浴びている。

 「隕石は複合的な物体であり、全体として研究されるのがいちばんです。」と、ヘイデン・プラネタリウムの学芸員であるマーティン・プリンツは言う。「端っこならちょっと削ってもいい、とはいかないんですよ。」

 とはいえ、隕石採集の経済的誘因が強まることは、もしそうでなかったら見過ごされたであろう隕石が見つかる可能性を高めると考える研究者もいる。「私はこの手の隕石屋が大っ嫌いなんですが、でも石を求めて何か月もサハラ砂漠をふるいにかけて歩こうなんていう人間は、結局あの連中ぐらいのもんでしょう。」と、匿名を条件に語ってくれた有名な某地質学者は言う。「せいぜい望みうるのは、彼らが見つけたものの一部と、あなたが余分に持っているものとを、彼らが交換してくれることでしょうね。」

 ニューヨーク在住の、フィリップス・インターナショナル・オークショナー社のオークション担当者で、評価鑑定人でもあるクローディア・フロリアンは、蒐集対象として隕石に対する関心が高まっていることに気づいた最初の一人である。2年前、彼女はフィリップス社として最初の隕石オークションを手がけ、30万ドルの売り上げを記録し、さらに2回目のオークションでは、売り上げは70万ドルに達した。

 「すべての標本が驚くようなストーリーを秘めています。」と彼女は言う。

 実際、魅力的なストーリーを秘めていればいるほど、その石の価値も高まる。5年前、ニューヨーク州ピークスキルで1台のシボレー・マリブを直撃したソフトボール大の隕石は、その組成に特に変わった点はなかったにもかかわらず、後に3万9,000ドルで売れた。

 フロリアン氏は、芸術的オブジェとして星間物質を熱狂的に愛しているものの、投資の対象としては推奨しない。「あなたも、たぶん地道に株をやったほうがいいと思われるでしょうね。」

 マーヴィン・キルゴアは隕石で金持ちになるつもりはないと言う。「俺は隕石を探し出して、そいつを眺めるのが大好きなのさ。もっとも、世界中旅を続けようと思ったら、見つけた物のいくつかは売りはらう必要があるがね。」と彼は言う。

 ペイソンにある隕石でいっぱいのリビングルームで、繁盛しているメールオーダービジネスを切り盛りしていないとき、彼と妻のキティは、二人して地球の果てまで新たな物質を求めて歩き回る。

 「何日たっても、何一つ見つからないこともあるよ。」と彼は言う。「だけど、言ってみりゃ金鉱にぶち当たるような時もあるのさ。」

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これを読んで、例のキューブ誕生の詳細や、隕石ブームに沸いた当時の世相を、まざまざと知ることができました。このキューブは、火星の素顔ばかりでなく、当時の熱気を伝える「文化史的資料」でもあったのです。さらに、1990年代はヴンダーカンマー・ブームのはしりでしたが、隕石はその文脈で語られていた節もあることが分かりました。

気になるのは、20年経った現在、隕石マーケットがどうなっているかですが、その辺は事情にうといので、よく知りません。

それにしても、人が隕石に注ぐ視線の何と人間的なことか。
金銭的欲望は言うまでもありません。
そして宇宙への憧れも、それに劣らず人間的な感情だと思います。
おそらく或る高みから望めば、両者にあまり隔たりはないでしょう。



火星来たる(2)2016年07月02日 08時58分24秒

今週はバタバタして、記事が書けませんでした。
そしてバタバタしているうちに、今年も既に半分終わり、何だか気ばかり焦ります。

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さて、火星にちなむものとは何か?
それはタイトルのとおり、火星そのものです。
火星にちなむものとして、これ以上のものはないでしょう。

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窓辺に置かれた、62ミリ角のアクリルキューブ。
その中に小さなガラス壜が封じ込められています。


この壜の中に、0.1カラット(20ミリグラム)の火星の断片が入っている…というのですが、はたしてどんなものでしょうか。

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よく「月の石」というのを、理系グッズの店で見かけます。
近年、南極での発見例が多いですが、地球に落ちてくる隕石のうちのいくつかは、成分分析の結果、月起源と推定されており、それをディーラーが入手して、砕片にしたものが、商品として流通しているわけです。(素性の確かな品も多いでしょうが、中にはかなりアヤシゲなのもあって、一種のジョークグッズとして扱われている気配もあります。)

あれの火星版があって、上の品もその1つです。
火星は何といっても月より遠いですし、その一部が――他の隕石が衝突した衝撃などによって――引力圏外に飛び出すための初速も、月よりずっと大きいので(月の脱出速度は秒速2.4km、火星は5.0km)、いきおい火星隕石は月隕石よりも数が少ないです。

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火星隕石について、NASAのジェット推進研究所のページから引用(青字部分)してみます。

■Mars Meteorites (by Ron Baalke)
 http://www2.jpl.nasa.gov/snc/index.html

これまで地球上で発見された約6万個の隕石のうち、火星起源のものと同定されたのは124個に過ぎない。1996年8月、NASAがこうした火星隕石のうちの1つに、微小化石の痕跡が存在するらしいと発表した際、この希少な隕石群は世界中に波紋を呼んだ。
下表は、同類の隕石をまとめて、ほぼ発見順に並べたものである。

…とあって、表は省略しますが、1815年にフランスで見つかった「シャッシニー隕石」から、2004年にアルジェリアで見つかった「NWA(North West Africa)2626隕石」までが、リストアップされています。

件の小壜の隕石は、1962年にナイジェリアで発見された「ザガミ(Zagami)隕石」というのに該当し、その解説(http://www2.jpl.nasa.gov/snc/zagami.html)をさらに読んでみると、

隕石名: ザガミ
発見地: ナイジェリア、Katsina地方、ザガミ
落下日時: 1962年10月3日
隕石タイプ: シャーゴッタイト(SNC)

1962年10月のある午後、トウモロコシ畑でカラスを追っていた1人の農夫のすぐそば、わずか10フィートのところに、この隕石は落下した。農夫は恐ろしい爆発音を聞き、圧力波に打ちのめされた。ドーンと煙が上がり、隕石は深さ約2フィートの穴にめり込んでいた。ザガミ隕石の重さは約18kg(40ポンド)あり、これまでに発見された単独の火星隕石としては最大のものである。

隕石はKaduna地質調査所に送られ、その後ある博物館に収蔵された。何年か後、隕石ディーラーのRobert Haagが、ザガミ隕石の大部分を入手した。個人コレクターにも手が届くSNC隕石として、ザガミ隕石は最も入手が容易なものである。

…というわけで、このザガミ隕石が人の手から手へと渡り歩くうちに、あたかも土地が徐々に細分化される如く、果てはこんな細かい砂粒となって、私のところに届いたわけです。

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ときに、上の引用中「シャーゴッタイト(SNC)」という言葉が出てきました。
隕石にも「隕鉄」とか「石質隕石」とかいろいろありますが、シャーゴッタイトは、石質隕石のうち「エイコンドライト」と呼ばれるグループに属するもので、主成分は輝石と長石です。

そして、エイコンドライトのうち、共通する特徴を持った、シャーゴッタイト、ナクライト、シャンナイトの3種の隕石を、まとめてSNC(スニック)と呼びます。

SNCが注目されたのは、形成年代の顕著な若さ(2000~3000万年前)と、母天体の火山活動に由来するらしいその成分です。この点から、SNCは最近までマグマ活動をしていた惑星に由来するものと推測され、さらに火星探査の成果として、その希ガスの含有量や同位体比を、火星の岩石と直接比較できるようになったおかげで、これは間違いなく火星由来のものだろう…と、言えるようになったのだそうです。

(上の記述は、F.ハイデ/F.ブロツカ(著)『隕石―宇宙からのタイムカプセル』を参考にしましたが、1996年に出た古い本なので、ひょっとしたら、現在の理解とは違うかもしれません。)

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火星隕石についてざっと事前学習したところで、手元の品の「人間的側面」も含めて、さらに話を続けます。

(この項つづく)

或る夜の事件2016年02月18日 20時45分56秒



部屋のドアを開けたら、


お星さまが立っていた。

…と、タルホの『一千一秒物語』風に書きたいピンバッチ。

高さ2.5cmほどのかわいいサイズですが、ちょうつがいでドアの開け閉めができる仕掛けになっています。

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刻印に見られるJJこと「Jonette Jewelry」は、1935年に創業し、2006年に廃業した米ロードアイランド州のアクセサリー・メーカー。そのカジュアルで多様なデザインから、熱心なコレクターも多いと聞きます(以上、ネット情報の切り張り)。
なお、上のピンバッチは1980年頃の製品だそうです。

天の星、地の星2016年01月06日 06時58分36秒

自然との再会…と言ったそばから何ですが、人間臭いものに引き寄せられる性情は容易に改まらないもので、天上で光を放つ星と同時に、こんな↓星を見れば、やっぱり興味をそそられますし、しばし見入ってしまいます。


1910年頃のフランスの絵葉書。
最初見たときは、何だかさっぱり分かりませんでしたが、絵葉書の左肩には、
 
 CARNAVAL D’AIX (エクスの謝肉祭)
 L'astronomie sur l'étoile filante (流れ星の天文学)

という文字が見えます。

「エクスの謝肉祭」とは、南仏プロヴァンスの町、エクサンプロヴァンス(Aix-en-Provence)で春先に行われるお祭りで、今も賑やかに山車や人形が練り歩くのだそうです。この奇抜な山車も、ほぼ百年前、その出し物の1つとして作られたのでしょう。


めかしこんだ馬が引っぱる星のハリボテをよく見ると、真ん中には流星の女神様がいて、それをトンガリ帽子の天文家たちが、四方から望遠鏡で眺めている…という場面構成。山車の裾を覆う幕も、飛行機に三日月と、空と縁のある柄になっているのが微笑ましいです。

   ★

なんぼ私でも、このハリボテと、遥けき天体が等価だというつもりはないんですが、面白さという点では、なかなか劣らぬものがあります。(ここでさらに、「1枚の絵葉書にも、大空の如き興趣あり」…とか言い出すと、話がちっとも前に進みませんが、まあそれはそれ、これはこれでしょう。)

京都博物行(6)…ラガード研究所にて2015年07月17日 18時35分13秒

コンチキ コンチキ コンチキチン。
祇園祭のことを思うと、いろいろな日々の憂いも、すべて夢のような気がします。
栄華も戦乱も越えて響くお囃子の向うにあるのは、人間の勁(つよ)さでしょう。
人間とは勁いものです。

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さて、脳内の暦によれば、今は7月5日。
ウサギノネドコさんで、バス乗り場を教えていただき、京都の町中をバスで移動。
これは京都に限りませんが、バス路線というのは、外来者に非常に分かりにくいので、バス一本で移動できることが分かって、大助かりでした。緑したたる京都御所の北、冷泉家住宅の脇を通って、洛東・北白川にのんびり向います。

ラガードさん訪問は2回目ですが、今回も目指すビルが分からず、その前をウロウロすること数度。外から見えるところに看板がないので、場所は非常に分かりにくいです。秘密基地というか、秘密結社というか、とても「秘密」の似合う店です。

■Lagado研究所 http://lagado.jp/index.html

大体、上のサイトの「ABOUT」のページ(http://lagado.jp/about/index.html)は、アバウトすぎて、全然aboutになってないし…というところからも、このお店(とオーナーの淡嶋さん)の性格はよく分かるのです。

しかし、それこそが魅力で、最近いろいろ屈託している私が、今回ぜひ再訪したかったのも、そういう力の抜けたところに触れたかったからなのでした。まあ、あんまり「癒しの空間」などという表現を安易に使いたくはありませんが、私にとってのラガード研究所はまさにそうした意味合いの場所です。

ちなみに前回の訪問記録は以下。

千年の古都で、博物ヴンダー散歩…ラガード研究所(1)、(2)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/10/27/
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/10/28/

カウンターで淡嶋さんにコーヒーをごちそうになりながら、ふと目の前を見たら、こんな紙片が束になって置かれていました。


ペルセウス座流星群観察会
「おや?」と裏返すと、そこにはササッとこんなお知らせが書かれていました。


この紙片は、来月鴨川で予定されている流星群観察会の告知用DMなのでした。
なんと1枚1枚、すべて淡嶋さんの手書き。

「消しゴムで消せるDMがあっても面白いかと思って…」

むう、常ならぬ発想です。
「手書き風」DMはあっても、本当に手書きする人は少ないでしょう。淡嶋さんは別にウケを狙ったり、パフォーマンスを企てているわけではなくて、真面目にこういうことをするので、だからこそ人を惹きつけるし、私も好きなのです。


研究所で淡嶋さんと交わした個人的な会話はさておき、ラガード土産を見ながら、あの空間を反芻してみます。

(この項つづく)