野間仁根とタコと星(後編)2024年09月29日 12時03分48秒

(本日は2連投です。前回のつづき)

さて、それを読んだ草下氏の所感が「野間仁根と星」です。


日付けは昭和22年(1947)10月23日、大倉土木株式会社の社用箋にペン書きされています。

昭和22年というのは、草下氏が大学を卒業した年。
まだ大学生だった4月、「銀河鉄道の夜」に出てくる星について書いた文章が、岩手の「農民芸術」誌に掲載され、これは氏にとって自分の文章が活字化された最初の経験です。6月には上野の科博で野尻抱影と初対面の挨拶を交わし、その自宅を訪問しています。そして10月から父親のコネで大倉土木(現・大成建設)に入社したものの、経理の仕事がまったく性に合わず、翌年「子供の科学」編集部に転職。

そんな時期に、22歳の若者が仕事のつれづれに書いた文章が「野間仁根と星」です。あくまでも個人的感想として書いたもので、たぶん活字化されることもなかったでしょう。用箋2枚のごく短い文章なので、これも全文書き写しておきます。

「野間仁根と星  「改造22.9より」

仁根といふのはどう読むのか知らなくて、私はジンコン、ジンコンと呼んでゐた。絵は上手なのか、下手なのか、サッパリ分らないが、この人とか、小山内龍(死んでしまった)、清水嵓の動物画、鈴木信太郎などの絵には何となく好感を持ってゐる。

最近改造九月号の広告を見てゐたら、「タコと星」野間仁根といふ標題を見つけた。「タコと星」か、「イカと星」なら分らんこともないがとくびをひねりながら、人に借りて見たら、何処かの海岸でタコを捕へてよろこぶ話が書いてあり、その晩はすてきな星空で、私は何んにも星のことは知らないが、小学生全集の星の巻をたよりに楽しみにしてゐるとか書いてあり、子供二人が砂浜に坐り、無雑作な天の川が流れ、天の川のわきにカシオペアとぺガススがハッキリ書いてあるのを見て、思はず微笑した。

その時ふと、新潮社版の宮澤賢治童話集「銀河鉄道の夜」のさし絵を書いたのはこの人だっけと思った。星の絵などといふものは、どうせいくら実感を出したところで、本物の星と比較するに由なき様な代物なのだから、かへって仁根のこんな風な絵の方が面白味もあるし、我々などにはともかく絵画の中に星座を発見出来たといふことは、日本画壇では始めてなのではないかと思はれて嬉しくなった。

ところが最近、友人と数寄屋橋際の日動画廊といふのをのぞいてみたら、野間仁根の「白夜」「星」と題して二つの絵に星が描かれてあるのを発見した。「星」の方は何んの星座を書いたものかよく分らなかったが、「白夜」と題する方は昭和二十二年の七月二十日(?)とかの夜の作品とかで、何かビルマか南方の風俗を思はせる人物と海浜の景色の上に、一杯に例の如き荒ッポイ星座がひろがってゐたが、それは正しく蝎座であり、アンタレスは赤く、木星もハッキリと輝いており、その間に六、七日位の月が書かれてあった。その他の星座も、特に射手座などもシッカリ書かれてゐる筈なのであらうが、ハッキリ認められなかったが、ともかく蝎座だけは見事に現れてゐた。

絵画としての星座は本当にこれが始めてなのではないか。が、それにしてももう少しなんとか他に書きようはないものか。仁根の絵は、好感は持つが、私としては星の美をそこなふ以外の何物でもないやうな気がするのだが。

氏の星に対する開眼をよろこび、一日も早く小学生全集からおそらく未知の野尻さんへと進展することを期待する。」

   ★

野間を画家として評価しつつ、その星の絵にはちょっと点数が辛いですね(私も同じ意見です)。そして、草下氏も野間仁根を『銀河鉄道の夜』の挿絵画家として想起した…というのも嬉しい点で、時を隔てて同じ思路をたどった「同志」のような気がします。

草下氏は1982年に『星の文学・美術』(れんが書房新社)を上梓し、その「あとがき」の中で、「なお、この本に取り上げた対象は、古典古美術が大部分で、明治以後の近代文学・美術については、未だかなりの資料をあたためているのだが、全体の体裁を考慮して、割愛させていただいた。それらについては、また稿をあらため、他日を期したいと思っている。」と書いています。


氏が言う「かなりの資料」は、今後、草下資料の中に見つかるかもしれませんが、結局、本の形で実現することはなく、草下氏も1991年に亡くなられました。でも、その構想の中では、きっと野間仁根についても1章を割り当てていたことでしょう。

   ★

稲垣足穂に「銀河鉄道の夜」を読ませたのも草下氏だし、抱影と足穂を引き合わせたのも草下氏です。ここでは抱影と野間を直接引き合わせたわけではありませんが、このあと野間は現に抱影と親しくなり、その著書の挿絵まで手がけるわけですから、事態は草下氏の予言どおりに進んだことになります。

草下氏は独特の嗅覚で、互いにくっつきそうな素材を見つけては、自らがその結合を促し、それまで存在しなかった化合物や合金を生み出しました。一種の触媒的存在であり、それこそがジャーナリストの本領なのかもしれませんが、それにしても草下氏というのはつくづく稀有な人だなあと思います。

コメント

_ S.U ― 2024年09月30日 18時21分40秒

>「瀬戸内海の魚介と、併せて星を描く」

これで、ピンと来ました。『星三百六十五夜』の中公版の箱・カバー絵を描いた画家さんだったのですね。中公文庫のカバーの折り返しにちゃんと「カバー・野間仁根」と書いてあるのを確認しました。私の気に入りの書物ですから、カバー絵が星座の絵であることは知っていましたが、改めてみると、「いて座」と「みなみのかんむり座」です。いて座の南のほうの普段見づらい部分と南に低いみなみのかんむり座が中央に来ていますので、星座になじみの少ない人はわかりにくいかもしれません。また、M8星雲(干潟星雲)が恒星になっているようなバランスです。野間氏もいて座の細部にはあまりくわしくなかったのかもしれません。

 それで、南のかんむり座の下には、ヒトデのような生物とヨメガカサのような貝が2つ描かれています。これらも星座かなと思っても、そんな星座はそこにはなく、星座としてここにあるのは「ぼうえんきょう座」のはずです。一瞬、不審に思いましたが、これは、瀬戸内海ということですぐに謎が解けます。これらは、海岸の砂浜か磯にいる生物なのでしょう。特徴的なのは、空と海の境の水平線が描かれていないことです。賢治流に言えば「天末線」です。でも、瀬戸内海では、きっとこの通り、遠くの天末線は肉眼では見えず、その上の南のかんむり座は見え、そして、海岸の生物は灯火で見えるのでしょう。

 草下氏の画の評価が今ひとつなのにも関わらず、本当に賢治と抱影の両巨頭の本に星座の絵を描いていたのでしょうか、としたら、どういうツテがあったのでしょうか。

_ 玉青 ― 2024年10月02日 18時02分52秒

これぞ海と星の画家の真骨頂ですね。
ここにヒトデを持ってきたのは、「海星」からの連想でしょうか。そういう目で見ると、カサガイも貝殻に現れた放射状の肋構造から星を連想したのかなあ…と思ってみたり。まあ、正解は分かりませんが、そこに仁根なりの機知や連想が働いているのは確かでしょう。

ちなみに仁根が賢治と抱影の本を手掛けた経緯ですが、抱影については「前編」で述べたような次第で、抱影が「星好きの画家」として仁根と親交を結んだことで、直接仁根に依頼したのでしょう。

一方、賢治の「銀河鉄道の夜」については、仁根を「星の画家」と見込んで特に依頼したというわけではなさそうです。このことは私もさっき認識したのですが、そもそも仁根は「銀鉄」を含む「新潮日本童話名作選集」全体の装幀・挿画を依頼されていたので、そこに偶然「銀鉄」が含まれていた…ということのようです。でも、仁根を仲立ちにして、抱影と賢治がちょっと粋な結び目を作っていたというのは、単なる偶然にしても、やはり「意味のある偶然」といえるのかもしれません。

_ S.U ― 2024年10月03日 09時41分23秒

「意味のある偶然」、よろしいですねぇ。
私は、神の叡慮とかオカルト的なシンクロニシティとかは信じませんが、社会や文化について努力をしている多くの人々がいた場合は、その時代精神や心持ちがそういう偶然を生むということについては、大いに支持したいと思います。

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