人体模型の現在(いま)2012年02月06日 19時47分21秒

机の上を片付けていたら、去年の新聞の切り抜きが出てきました。
メーカーが語る、当代の人体模型事情。
元記事は、朝日新聞 2011年11月3日朝刊。

********************* 引用ここから *********************

学校モノがたり/人体模型さわって学ぶ

 夜になると校舎内を歩く。ときどき「本物」が交じっている―。都市伝説ならぬ学校伝説の筆頭格といえば、理科室のあの人、人体模型だ。

 内臓系と骨格系がある。どちらも現在は多くが外国製。学校向け価格は4万~50万円で、国産は高め。理科室に住み始めた歴史は長く、精密機器メーカー島津製作所の創業記念資料館(京都市)によると、明治20年代には学校向けに造られていたようだ。

 教材会社アーテック(大阪府八尾市)によると、素材はプラスチック。骨格の場合、例えば肋骨は25パーツに分けて金型を作り、溶かして流し込む。留め合わせて完成だ。
 小学校では4年生が関節の動きを勉強する。なるほど、精巧な腕の動き。ん? 手首はありえないぐらい反りますね。「ひじの部分で学ぶので…。そこはご愛敬」と藤原悦専務(40)。
 同社では160センチ、85センチ、42センチを用意する。最近はグループ学習向けの小型が人気。「大勢を前に解説する形は古いんです。一人ひとりがさわれる方が記憶にも残ります」

 ところで、昔から気になっていたこと。モデルは男?それとも女? 答えは「どちらもいる」。アーテックの場合、すべて女性。たたずむスペースが小さくて済むのが理由だとか。 (山下知子)
 
工場で出荷を待つ人体骨格模型 =中国浙江省、アーテック提供

********************* 引用ここまで *********************

上の写真、まるでダンス・マカブル(死の舞踏)の出を待つ亡者の群れのようですね。
まあ、何にせよ、人体模型も世につれ…の感が深いです。
今では、愛すべき骸骨たちも海外での生産が主で、しかも大型の模型は流行らないとは知りませんでした。

   ★

「どうだい、君はもう古いんだそうだ。」
「ふん、別に否定はせんよ。まあ、せいぜいお互い『古い』と書いて『美しい』と読むことにしようや。」

彼はそう言って、薄闇の中、カラカラと哄笑するのでした…


千年の古都で、博物ヴンダー散歩…島津創業記念館(3)2011年10月23日 17時58分57秒

■S.Uさん、たつきさんからのコメントへのお答に代えて■

昨日、島津製作所と科学ロマンについて、お二人からコメント欄で言及がありました。
「島津製作所には科学に対するロマンの香りがある!」
実に素晴らしいことです。ただ、この「香り」が、馥郁と香っているのか、はたまた単なる残り香なのか、ふと気になりました。
科学に対する人々の思いが、不安と不信に塗りつぶされようとしている今、科学へのロマンはどんな形をとりうるのか?あるいは、どんな形で再生するのか?

昨日何気なく手に取った本に、その「答」が書かれていました。
その本は冒頭で、「今日、科学と社会の間の界面(インターフェース)を活性化させるために、われわれに足りないもの、それは「もうひとりの○○○○」である」と力強く宣言していました。○○○○に入るのは、初代・島津源蔵(1839-1894)の11年前に生まれ、11年後に死んだ、あるフランス人の名前です。

その名は「ジュール・ヴェルヌ(1828-1905)」。
文化と研究を、無知な文科系と教養なき科学者を和解させ、縫合し、知識と同時に魅惑と驚異をもたらす人、それが今こそ必要なのだ!と、この一文の筆者ミシェル・セールは言います(私市保彦監訳、『ジュール・ヴェルヌの世紀―科学・冒険・《驚異の旅》』、東洋書林、2009、序文)。

島津源蔵の生涯は、そっくり「ヴェルヌの時代」と重なっていた…というのが、私なりの発見で、源蔵の夢とヴェルヌのそれは、必ずどこかでつながっている気がします。ひとつの時代精神とでもいいますか。

源蔵の衣鉢を継ぐ者はいますが、果たしてヴェルヌの方はどうか?
上の本の尻馬に乗って恐縮ですが、現代のヴェルヌの登場が待ち遠しいです。

   ★

さて、創業記念館の見学をつづけます。


現在の京都科学(株)の前身は、明治28年(1895)に設立された島津製作所標本部です。当時の島津製作所は、物理・化学系の実験器具に加えて、生物標本や模型も手掛ける総合理科教材メーカーでした。そうした歴史を物語るのがこの展示です。


日本的な面ざしの人体模型。一種の殿様顔ですね。
(これには時代表記がありませんが、人体模型愛好家として言わせてもらうと、これは島津の製品でも後期に属するもの、たぶん昭和に入ってからの品ではないでしょうか。)


各種キノコの模型(蝋製か)。


哺乳類前脚比較標本(アシカ、ネコ、サル、モグラ、コウモリ)。


生物標本の展示ケースの前には、誘導機電機(ウィムシャースト感応起電機)が置かれています。ふつう教室で使うものよりもはるかに大型サイズで、バリバリ放電しそうです。


2階部分は小屋組がむき出しです。
島津の歴史をつぶさに見てきた、黒々とした木材。


創業資料館は、各地に残る自社製品の積極的な収集活動や、寄贈受け入れによって、コレクションを充実させてきました。そして館内には、寄贈品だけからなる展示コーナーができています。


たとえば上は、大谷高校が寄贈した「ワインホールド氏 水の底圧力試験器」。
このコーナーの傍らには次のような解説板がありました。

「歴史遺産として 保存に向けた取り組み

 当館は、製品保存や寄贈の受け入れ、収集活動により約1100点の理化学器械を収蔵しており、国内最多の展示数を誇っています。
 これらは、島津の歴史を語る品々として意義深いというだけのものではありません。近代日本を牽引してきた科学・技術と工業がどのように誕生し成長してきたかを、雄弁に物語ってくれる貴重な資料なのです。
 他にも国内には、京都大学所蔵の三高コレクションをはじめとして、各地の旧制高校由来の実験器具群が点在しており、それぞれについて関係者による調査、研究が行われてきました。理化学器械を貴重な歴史遺産として見直し、大切に保存する気運が高まっています。」

まさに然り。そして、このことは旧制高校レベルばかりでなく、戦前・戦後の小・中学校でも同じことだと思います。各地でポイポイ古い理科教材が捨てられていますが、ぜひ一考をお願いしたいところです。

   ★

さてさて、博物ヴンダー散歩は、このあとジリジリ東へと向かいます。
次なる目的地は「京都大学総合博物館」。

人体模型の面相学(6)2011年08月28日 07時29分26秒

子どものころ、「人の嫌がることはするな」と教えられました。
そのバチが当たったのかもしれません。

ネットの件はサポートセンターでも解決せず、結局本体を修理に出すことにしました。そのため、昔々のPCを押入れから出して、今こうやって作業していますが、いつまで動いてくれるか心配です。もし、突然ブログの更新が途絶えたら、老体の冥福を祈って
やってください。(修理には1ヶ月近くかかるそうです。)

天罰に懲りずに、話題を身近な人体模型に戻して、しつこく記事を続けることにします。

   ★

樹脂性人体模型が普及する以前の、個性豊かな人体模型の面々を順不同で眺めてみます。



これはなかなかの名品。あどけない少年の風貌から、その内面までもうかがえる作品で、作者のすぐれた力量が感じられます。何でも鑑定団(存続するんでしょうか?)の人形鑑定大会に出したいですね。この品は京都科学ではなくて、山越製作所というところで作られました。

上のような堂々たる作品を前にするとき、下の作品はなんと言えばいいのか…。なんだか子供が夏休みに作ったもののようにも見えます。人体模型といっても、本当にひとくくりにはできないなあ…と思います。
 
  

こんな奴、クラスにいたなあ…。(顔立ちが、です。別に内臓と筋肉をさらしていたわけではありません。)


こわかわいい。
 
上と同じヒトをパカッとしたところ。さすがに怖いです。
 
 

こちらは眉目秀麗な美男と美女。目の表現に特徴があります。

 
尼さん?妙にしなを作っているのが変です。
 

これも女子タイプですが、ちょっと表情に影のある女人です。人生の辛酸に耐えている感じです。もうちょっと顔の造作が左右対称だと良かった。

小学校の人体模型は「裸+赤身」がスタンダードですが、中には「赤身+骨」タイプもあります。下のヒトは赤身なんだけれど、物思わしげな憂いの表情があって、人間的魅力を感じます。


   ★

こういう個性的な顔ぶれに交じって、だんだんニュートラルで、無難な顔立ちの人体模型が勢力を伸ばしてきたのではあるまいか…ということを、この連載の初めに書きました。そうした作品例を以下に挙げます。

これは美男タイプに分類できるかも。

ニュートラルですが、ライティングがこわい。。

えらの張っているところに民族的特徴が出ています(この品は樹脂製かもしれません)。

もちろん、厳密にいえば、今日掲げた作品個々の時間的先後は不明なので、「時間経過とともに無個性化が進行した」という説は、あくまでも推測にすぎません。でも、大づかみにはそういう経過をたどったんじゃないかなあと考えています。

   ★

どうでしょう、「理科室の王者」・人体模型の豊かな世界の一端をお楽しみいただけたでしょうか。では、夏休みも終わるので、そろそろ通常の「天文古玩」の世界に回帰することにします。

(この項、今日で完結です。)

人体模型の面相学(5)2011年08月24日 20時44分01秒

先に人体模型の日本的展開ということを言いましたが、ナショナリティの発露こそ、人体模型の面相学を語る上でのキーワードだと思います。

そもそも、人体模型(=我々が普通にイメージする人体模型)の歴史は、1820年代、フランスのオゾー(Louis Thomas Jerôme Auzoux ;1797-1880)による、紙塑製人体模型の発明が一応の起点になります。
 
(オゾー作・人体模型頭部)

もちろん、人体模型自体はそれ以前からあって、イタリアのラ・スぺコラや、ボローニャの人体模型博物館のヴンダーな展示を想起される方もいらっしゃるでしょうが、しかし、ああいう手の込んだワックスモデルは、はなはだ高価で、量産も不可能でした。オゾーは、医学教育のためには、安価で正確な模型の普及が必須と考え、紙塑(パピエ・マッシュ)の応用を思い付いたのでした。
 
(ラ・スぺコラ展示室。ウィキメディア・コモンズより)

オゾーのモデルは長崎経由で幕末の日本にも伝来し、その後明治になって国産も始まりました。その最大の雄は、京都科学の前身、「島津製作所標本部」(戦後、京都科学として分社・独立)で、同部は明治28年(1895)の創設です。明治39年(1906)には、河原町工場内に標本部工場を新設し、量産体制を確立しました。

 (丸髷を結って人体模型製作にはげむ女性。『島津製作所史』、昭42より)

そうした過程で、オゾー模型のリアルさが、日本的美意識によって薄められると同時に、日本人にも親しみやすい相貌が生み出されました。これが上でいうナショナリティの発露です。

下は1907年のデロールの商品カタログの1ページ。
 

ポーズにしろ、プロポーションにしろ、ここには西欧の伝統的美意識が色濃く反映されています。
それと同じように日本製の人体模型には、日本独自の美が現われていると思うのです。

下は島津製作所の古い紙塑製人体模型です。左の頑固な老人の像も味わいがありますし、右側のたおやかな女性も素敵です(ラ・スペコラには「解剖されたヴィーナス」というのがいますが、こちらは「解剖小町」と呼ぶのがふさわしいですね)。
これらはデロールの模型と同時期の作と思いますが、ここには人体模型の日本化がはっきりと見てとれます。
異文化の受容と摂取を考える上で、人体模型はなかなか面白い素材ではないでしょうか。
 
(出典:http://www.flickr.com/photos/ayano/66396699/in/photostream/
2005年に群馬県立自然史博物館で行われた「ニッポン・ヴンダーカマー 荒俣宏の驚異宝物館」の展示風景より)


(この項つづく)

人体模型の面相学(4)2011年08月23日 19時17分31秒

昨日の「変な人体模型」にも、ちゃんと下のような類例があります。
やっぱり変で、下手だなあ…と思いますが、こういう「ゲテ」な作品が、当時(下の模型には昭和23年の備品票が貼られています)、ある程度の数量作られたことが伺えます。(ひょっとしたら、作り手は同じかもしれません。)
 

人体模型は、たしかに一時期、明瞭な日本的展開を見せており、下の少年なども同時期のものと思いますが、純朴さをたたえた典型的な「昭和日本少年」の風貌をしています。ふっくらとした頬が郷愁を誘います。
 

さらに戦前にさかのぼると、「少年」ですらない、奇怪な人体模型も作られました。
 

なんと、お爺さんの人体模型です。肉付きといい、ポーズといい、誰か生身のモデルがあったとしか思えない、生き生きとした作品です。これこそ、現代の無個性な人体模型の対極に位置するものです。

(この項つづく)

人体模型の面相学(3)2011年08月22日 20時57分27秒

ひょっとしたら、この話題で、「天文古玩」は多くの読者を失うことになるのかもしれません。しかし途中でやめることはできません。乗りかかった船です。人体模型が苦手な方も、観念してお付き合いいただければ幸いです。

   ★

まずはお馴染みの、比較的最近の人体模型2体。別の業者から別の時期に出品されたものですが、双子のようによく似ています。現代の製品は、たとえ個体差はあっても、その差はごく小さいのが一般的です。
 

 

下も同系統の作品。ちょっとボンヤリした表情で、無個性な、いわば万人向けの顔立ちです。
 

紙塑製時代にも先行例はあって、たとえば↓のような顔立ちが、上記タイプの祖型ではないかと思います。塗りが粗雑なせいで、受ける印象はだいぶ違いますが、目鼻立ちはよく似ています。
 

さて、この辺までは何の変哲もない話。しかし、「人体模型とは所詮こういうものさ」と決め込んでいらっしゃる方は、下の模型を見て、認識をぜひ改めていただきたい。
 

うーん、この素っ頓狂な少年はいったい何なんでしょう。職人さんの本気具合を疑いたくなりますが、でも別に人を笑わそうと思って作ったわけではないでしょう。こういう人体模型が、立派な商品として通用していた時代もかつてはあったのです。

この顔を最初見た時、「何て下手くそな造形だ!!」と思いましたが、でも、ひょっとしたら、日本人のリアルな顔立ちを追求したらこうなった可能性もあるぞ…と思い直しました。昭和20年代には、こういう顔立ちの少年が確かにいたと思います。

少なくとも、この作品は、欧米では絶対に作られることのない、人体模型の日本的展開の好例だと言えるでしょう。

(この項つづく)

人体模型の面相学(2)2011年08月21日 18時05分24秒

(今日は字ばかりです)

京都・伏見にある京都科学を訪問した村上・安西の両氏を案内してくれたのは、同社営業課の横山さんで、以下は横山さんの話。

「顔には苦労しますねえ。新製品、必ずどこかクレームついて、またやり直しなんかしてますよ。結局まあ、うける顔っていうとまず優しくて可愛いということになりますね。だからタイプが決まっちゃって、たとえばある顔が気に入られたら、それじゃ次も同じようにしようか、ということはありますね。

 そういうのは『こういうのはどうですか?』といって持っていった看護学校の先生の判断に影響されるわけなんですよね。だから、Aという先生はこれでいいわと言っても、ほかの学校行ったら『なんですか、これ、もうちょっとなんとかなりませんか』というような、よくそういう話はしていますね。我々の立場からするとしょうもない話なんですけどね。教育にどう関係あるのかとは思うんですけど、実際はなかなか…」

人体模型の「顔」を決めたのは市場だった…ということがよく分かる話です。

   ★

そういう「うける顔」を安定的に作り出すことを可能にした技術的バックボーンが、樹脂成型の技法でした。樹脂製の人体模型は、京都科学自身が戦後に開発したもので、無個性な表情の人体模型が世間に行き渡るようになったのには、そういう実際的な理由もあったと言えます。

以下は、村上・安西両氏が京都科学を訪問した、1986年当時の人体模型製造工程です。

「工場の入口を入るとまず樹脂の成型工程がある。この部分には特殊なものは何もない。〔…〕つまり肝臓を作るなら肝臓の形をした金型に樹脂を注ぎ、鯛焼きみたいに焼いちゃうわけである。その辺にはいろんな金型があり、胎児の首やら骨盤やらがずらりと並んでいて、異様といえば異様だが、工程そのものは洗面器を作ったりするのと同じことで、技術的に特筆すべきことは何もない。」

現代のマスプロ化した人体模型が生まれる現場の様子です。
ただ、そこには人体模型ならではのこだわりもあって、彩色の段階になると、そこに微妙な「個性」が生まれるのだともいいます。

「そこを通り抜けて階段をとんとんと上っていくと〔…〕彩色部です。下の工場で成型されたものがここに運ばれて、職人さんの手でひとつひとつ彩色される。」
「この作業場の仕事は一人一人の職人の独立性がかなり強く、仕事の分担というのは殆どない。ある人が始めた仕事は本人が終らせるというのが原則のようである。だから大きな人体模型みたいなものでも、一人が一体全部やってしまう。」

再び営業の横山さんの話。

「〔…〕単にね、平面的なものにバッと色を塗るというんであれば、これは機械でもできるんです。しかしね、色わけを細かくしたりとか、質感を出すために独特の彩色〔…〕をするとなると、これは機械では無理です。熟練した人が手でこなしていくしかないわけです、今のところ」

   ★

そして、さらに昔にさかのぼれば、型づくりから職人の手作業ですから、個性あふれる人体模型が生まれたのは理の当然です。

京都府が出している「きょうと府民だより」の2004年4月号に、同社のベテラン職人である、鶴岡邦良さんへのインタビュー記事が載っていて、鶴岡さんが入社した昭和34年(1959)当時の状況がこう語られています。

「就職した当時まだ模型は和紙製で、張り子の要領で固めた和紙を彫刻刀などで削っていくという地道な作業でした。手取り足取り教えてもらえるわけでもなく、先輩の技を見て覚える。まさに職人の世界ですね。人体の構造を昼夜問わず猛勉強し、実際の人体の解剖に立ち会ったことも」

京都科学の「沿革」(http://www.kyotokagaku.com/jp/corporation/history.html)によれば、同社が合成樹脂製の人体模型の製品化に成功したのは、昭和29年(1954)ですが、上の鶴岡さんの話によると、旧来の紙塑製人体模型は、昭和30年代に入ってからも依然として作られ続けていたようです。当時はその方がコストが安かったせいかもしれません。

しかし、各校に理科室備品が急速に普及する「理科室大躍進期」に入ると、樹脂による製造法に大きなスケールメリットが生まれ、個性的な紙塑製人体模型は、急速に没個性的な樹脂製人体模型によって置き換わったのだと想像します。いずれにしても、昭和30年代というのは、人体模型史における一種の過渡期だったように思います。

   ★

さて、以上のような流れを念頭に置いて、具体的な人体模型の「顔」のバリエーションを見て行くことにしましょう。(なお、以下の画像は、主にネットオークションでの商品紹介画像の借用であり、画像の著作権は各出品者の方にあることをお断りしておきます。)

(この項つづく)

人体模型の面相学2011年08月19日 17時46分41秒


(新潮文庫版・『日出る国の工場』 より)

夏休みが終わる前に、これだけはぜひ書いておきたい。
それは人体模型の話です。
話題が天文からも、鉱物Barの風情からも遠ざかっていくようで、ちょっと気がひけますが、今しばらくは夏休みの理科室気分を味わうことにしましょう。

  ★

かつてこのブログにいただいたコメントに、「人体模型の少年の顔は、どこか東京神宮館の高島暦に出てくるイラストみたいな、ちょっと昭和八年ふうの、どこかおどろしいような、周波数のずれたような味わい」という一節がありました。

私もこれを読んで、我が意を得たり!とハタと膝を打ちました。
蛭子能収のサラリーマン漫画の主人公のように、無個性なんだけれども、妙にじめっとした不気味さを漂わせている面貌に、人体模型の魅力の一端はあると、その時は考えていたのです。

しかし、その後人体模型との関わりが長くなるにつれて、これは事実の半面に過ぎないことが徐々に見えてきました。どういうことかというと、現代のモデルやアイドルの顔のように、人体模型もマスマーケットに受け入れられる顔立ちを追求し、試行錯誤を繰り返した結果、互いによく似た顔立ちを獲得するに至ったのであって、実は歴史をさかのぼると、かつては驚くほど多様な容貌の人体模型が作られ、しかもいずれも愛すべき連中であることがわかってきたのです。

   ★

作家の村上春樹さんに、『日出る国の工場』という単行本があります。
1987年、『ノルウェイの森』が出る直前に出たもので、イラストレーターの安西水丸さんと組んで、日本各地の特徴ある工場 ―といっても「結婚工場」と称して玉姫殿を取り上げたりしていますが― を紹介したルポルタージュ作品です。

その中で、人体模型を製造する京都科学標本(株)も取り上げられていて、昭和末期の同社の様子がよく分かります。上の問題を考える出発点として、このルポから少し引用をさせていただきます。

   ★

村上氏は人体模型が好きだ、少なくとも嫌いではない、と公言しています。

「さて全国数百万…そんなにはいないか…数十万の人体標本ファンの皆さん、いよいよ人体標本工場の登場です。正直言って、僕もこういうのが決して嫌いな方ではない。好きな女の子の十二指腸をティッシュペーパーにくるんで持ち歩きたいというような倒錯した趣味はもちろん持ちあわせてはないけれど、それでも前出の友人と同様、少年時代にはあの理科室にずらりと並んだ骸骨や分解できる人体標本やホルマリン漬けのわけのわからない白っぽい動物たちに妙に心をひかれ、食い入るようにそれを眺めたものである。」

村上氏は昭和24年(1949)の生まれなので、昭和30年代の理科室大躍進期の恩恵を受けた一人だと言えます。

子供たちは理科室の標本を通じて、<生と死>と向き合い、<自己>という存在を相対化することを学ぶのだ…と村上氏は説きます。自分たちが、大作家の誕生になにがしか影響を及ぼしたと知れば、理科室の標本や人体模型も、さぞ鼻が高いことでしょう。

さて、話を元に戻して、人体模型の顔について。

(話が長くなりそうなので、ここで記事を割ります。)

夏休みは理科室へ…理科室の怪談(その1)2011年08月06日 17時36分17秒


(↑「学校の怪談」予告編(1995)。
「学校の怪談って観終わった後なぜか寂しいような切ないような気持ちになってた~ もう10数年前の話ですけど^^夏休みの終わりって感じがします」という、YouTubeに寄せられたコメントがいいと思いました。)


夏深し。朝の通勤時に生垣のそばを通ると、懐かしい夏の匂いがします。
ラジオ体操の行き帰りに嗅いだのも、ちょうどこんな匂いでした。
来週8日は立秋で、その翌週はお盆。そうなると子どもたちは、ぼちぼち夏休みの残りが気になって来るころでしょう。

この季節は、理科室趣味の徒にとっても、そぞろ懐旧の情を催す時で、理科室情緒を求めて、いろいろ空想にふけったりします。

   ★

今宵は季節柄、理科室の怪談について考えてみたいと思います。

理科室には、気色悪い人体模型(※)やビン詰め標本があったり、ガラスの実験器具や薬品が魔術めいたムードを発散させていたりして、もともと子どもたちにとっては剣呑な雰囲気があるので、怪談の舞台としては絶好のように思えます。

しかし、現実に流布している学校の怪談話の中で、理科室の役割は意外なほど軽いです。

たとえば、映画「学校の怪談」シリーズの原作(というよりタネ本)となった、常光徹氏の『学校の怪談』(角川ソフィア文庫、平成14)や、あるいは松谷みよ子氏の労作、「現代民話考」の1冊である、『学校― 笑いと怪談、子供たちの銃後・学童疎開・学徒動員』(立風書房、1987)を見ても、学校の怪談の舞台として断トツに多いのは「トイレ」、次いでピアノ、階段、体育館、時計、鏡、肖像画などにまつわるもので、理科室はどちらかといえば「その他大勢」的な地位に甘んじています。

怪談というのは「何となく不安を掻き立てる」場所に発生しやすく、理科室のように「あからさまに怪しい」ところには、むしろ発生しにくいのかもしれません。

とはいえ、理科室にまつわる怪談も複数報告されているので、「理科室民俗学」(今作った用語です)の材料として以下に転記し、簡単に考察を加えてみます。

(文章が長いので、ここで記事を割ります。以下、明日につづく)


(※) 私は人体模型を気色悪いとは思いませんし、むしろ愛らしいと思いますが、多くの生徒が恐がるという事実は当局も無視できなかったようで、文部省が著した 『改訂版・新しい特別教室』 (昭和36、光風出版)という本を見ると、「人体模型および骨格模型ケース」は、「生徒が不快の感を起さないよう、ガラス戸の内面からカーテンを引いてお」きなさいという注意事項が書かれています(p.65)。

これは当局自身が、「不快な存在」のお墨付きを与えたに等しく、人体模型がちょっとかわいそうですね。それに、下手に隠すともっと怖いんじゃないでしょうか。本来であれば、そうした不快の感を超克し、人体生理に知的興味を抱かしむるのが理科教育だと思うんですが…。まあ、余談です。

続・大正の理科室2011年01月11日 20時37分49秒

明治と大正を行ったり来たりして忙しいですが、関連する絵葉書をもう1枚。

兵庫県立豊岡高等女学校(現・豊岡高校)の理科室です。
一見明治風の派手なデザインですが、大正の終り頃の光景。(同校が県立となったのは大正11(1922)年のことです)。

ここでも静電気の授業、そして誘導起電機が主役ですが、何とその脇には人体解剖模型と骨格模型が!まさに王様と金銀飛車角の豪華な顔ぶれ。

こういう絵葉書はありそうで、無いです。そもそも人体模型が被写体になること自体少ない。昔の人も絵葉書と云う「ハレ」の場にはそぐわないと思ったんでしょうか。その意味で、これはすこぶる貴重な1枚です。(この写真師は、明らかに2つの模型をフレームに収めようと意識していますね。そこに理科室らしさを感じ取ったのでしょう。)

それにしても、この学校では常時、教室の前にこの2人が立ってたんでしょうか。
すぐそばの生徒さんは何だかかわいそうですね(私だったら嬉しいですが)。