気象学の夜明け2024年02月17日 16時26分15秒

(昨日のつづき)

明治16年(1883)の天気図は残念ながらありませんが、その翌年に作られた天気図なら手元にあります。


■明治十七年気象略報/月別平均/四十一図
 日本東京/内務省地理局気象台

正確に言うと、これはいわゆる天気図(=ある特定時点における気圧・天候・風速のチャート図)ではなくて、明治17年の気象データを、主に1月から12月までの月別に、41枚の図を使って表現したものです。本書には奥付ページがないので、詳しい書誌は不明ですが、出版されたのは翌・明治18年(1885年)のことでしょう。

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具体的にどんな図が載っているかというと、たとえば第1図はこんな感じです。



表題は「天気図/明治十七年一月中低気圧部位ノ中心線路」
これは1884年1月中に観測された低気圧の中心部がどのように移動したか、その経路を図示したものです。

(日本の気象観測はドイツ人学者の手引きで始まったそうですが、本書はすべて英語併記になっています)

右側の説明を読むと、この月には計8個の低気圧が日本列島を移動しています。
その最初のものが、「四日九州ノ西ニ発生シテ日本南部ヲ経過シ五日ニ太平洋ニテ消失ス 晴雨計最低度七百六十五ミリメートル」というもので、ローマ数字の「Ⅰ」とナンバリングされています。(なお、当時の気圧の単位は「水銀柱ミリメートル(mmHg)」で、これに1.333を掛けると現在の「ヘクトパスカル(hPa)」になります。すなわち765mmHg=1019hPaです。) 

こうしてⅠ~Ⅷの符号がついた低気圧の経路を、日本地図に重ねたものが左側の図です。

(左側の図を一部拡大)

小円の中の数字は気圧(mmHg)で、その脇の数字は日付、さらにその下の「1~3」の数字は、それぞれ6時、14時、22時に観測された値であることを示します。

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この調子で、本書には以下の計41図が収録されています。

(1)「天気図/明治十七年○月中低気圧部位ノ中心線路」

明治17年の各月の低気圧中心の移動経路図です。1月、2月、3月…の計12図。
上に示したのが、その1月の図でしたが、9月の図はこんな感じです。


九州から関東を通過した低気圧「Ⅲ」は、最低気圧737mmHg(982hPa)を記録しており、速度を上げながら本州を横切る様子からも、明らかに台風ですね。

(2)「天気図/明治十七年○月中高気圧部位ノ中心線路」

同じく高気圧中心の移動経路図で、1月、2月、3月…の計12図。

(3)「天気図/明治十七年○月」

凡例には「同圧線、同温線、及ヒ例風」とあって、今風にいえば各月の平均等圧線、平均等温線、各地の卓越風の風向を1枚の図に落とし込んだものです。1月、2月、3月…の計12図。

(5月の図。実線が等圧線、破線が等温線です)

なお、平均気圧を求めるため、各測候所では1日3回、6時と14時と21時(5月以前は22時)に計測を行い、それを1か月分積み上げて平均を出しています。また各地のデータを相互に比較可能とするため、実測値をウイルド(Wild)氏の表をもとに気温0度・海抜0mの値に変換しています。

(4)「天気図/明治十七年同圧線及同温線」

上記(3)のデータを1年分積み上げた年間の平均等圧線・等温線図です。全1図。なお本図には卓越風の記載がありません。風向は季節によってガラッと変わるので、平均する意味がないからでしょう。

(5)「明治十七年/雨量」

各月の総雨量の分布図です。1枚の図版に月別の小図が4点印刷されているので、図版数としては「1~4月」、「5~8月」、「9~12月」の計3図から成ります。

(「5~8月」の図)

(6)「天気図/明治十七年雨量」

こちらは(5)のデータを積み上げた年間総雨量の分布図です。全1図。


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この労作を生み出したのが、外地も含めて26か所に開設された以下の測候所群です。


日本の気象学と気象観測の黎明期。
俗に「雲をつかむような話」と言いますが、当時の人がどれほど真剣に雲をつかもうとしていたか。実際、そこに渦巻くエネルギーは大変なものだったはずで、そのことが今の私にはとてもまぶしく感じられます。

コメント

_ S.U ― 2024年02月18日 06時55分17秒

英語表記面白いですね。当時、英仏から軍艦を盛んに購入していたと思いますが、それと関係あるのでしょうか。また、私は、子どもの時のお世話になった田舎の老町医者さん(明治30年頃の生まれと思われる)が、ドイツ語だけでカルテを書いているのを見て、田舎といえども医者はすごいと感心したことを思い出しました。
 天気予報は、江戸時代以前からあったのでしょう。たぶん、戦国時代までは「軍師」的な人がやっていたのでしょうが、江戸時代はどうだったのでしょうか。医師が兼任していたのか、それとも儒学者か農民か、とにかく民生のためだったでしょう。それが何らかのかたちで熱意として引き継がれたのかもしれません。幕末~明治にも戦争はありましたが、この時点では軍事的な意味合いは薄れていたかもしれないと思います。

_ 玉青 ― 2024年02月18日 13時34分50秒

完全に思い付きで書きますが、江戸時代において天気予報がより切実だったのは、主に漁労民、次いで山仕事やマタギの人だったような気がします。星の民俗もそうした人々の間で一層豊かなようですし、彼らにとっては日夜空を見上げ、星を見上げ、風を知り、雨を知り、方位を知ることが重要だったんだろうと想像します。

もちろん農村にも「お天気占い」的な口承はたくさんあったでしょうが、天候の急変に気を付けないといけないのは「はさ掛け」のときぐらいですから、その切実さにおいて漁村とは違ったものがあった気がします。(書物で観天望気の知識を仕入れた地方の知識人なんかは、完全に畳の上の水練で、あまり役には立たなかったんじゃないかなあ…とも想像します・笑)

ときに、「日本語を横書きするとき、昔は英語なんかとは反対に右から左に書いた」と言うと、「いや、あれは<右から左に横書きしている>わけじゃなくて、1字1行の文章を縦書きしているだけなんだよ」と、物知りの人が親切に教えてくれたりします。

でも、この『気象略報』の書きぶりは、完全に「右から左への横書き」ですよね。まるでアラビア語のようです。これも過渡期の産物なのでしょうが、こうして日英並記すると互いに鏡映描写になって面白いと思いました。

_ S.U ― 2024年02月18日 19時04分28秒

今でもそうですが、昔はなおさら、漁民、山民においては、天気の急変は生命に直結したでしょうね。農民は、生命に係わるほどではなかったにせよ、やはり場数は踏んでいたと見え、日本中、どこでもそうだったと思いますが、私の故郷では、私が子どもの頃でも、農業のベテランのお年寄りの天気予報は気象庁の予報と比べても一目置かれていました。今のような市町村ごとの予報や確率予報が現れるまでは、その土地土地での経験のほうが上回っていたように思います。

 結局は、日本語の横書きが、左から右になったのは、欧文の影響なのでしょうか。それはそうとして、最近知ったのですが、清朝の公用文字の一つであったも満州文字は、一つの単語を縦書きにし、文章は左から右に書いていくのだそうです。単語1つが縦になっていることを除けば英文と同じですが、こういうのは縦書きというのでしょうか横書きというのでしょうか。モンゴル文字は、素人目には満州文字とかわりませんが、単語ずらずらと縦書きで行は左から右に進むそうです。

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