銀河の流れる方向は2021年10月05日 05時50分58秒

(昨日のおまけ)

「新撰恒星図」と、「銀河鉄道の夜」との関わりについて、一言補足しておきます。

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これも以前の話ですが、「この物語を実写化するとしたら、こんな星図が小道具としていいのでは?」という問題意識から、その候補を挙げたことがあります。それはドイツ製の掛図で、北天だけを描いた円形星図でした(もちろん賢治その人は、その存在を知らなかったでしょうが)。

(画像再掲。元記事はこちら

ここで改めて、「銀河鉄道の夜」の原文を見てみます。
問題の星図が登場するのは、物語が幕を開けた直後です。

一、午后の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」先生は、黒板に吊した大きな黒い星座の図の、上から下へ白くけぶった銀河帯のようなところを指しながら、みんなに問をかけました。

ここで注目したいのが、「上から下へ白くけぶった銀河帯」の一句。
賢治の脳裏にあった星図は、銀河が「縦」に流れており、そこが上のドイツ製星図のいわば“弱点”です。一方、「新撰恒星図」はこの点で作品の叙述と一致しています。


まあ、銀河が縦に流れる星図は世の中に無数にあるので、そのことだけで「新撰恒星図」を推すのも根拠薄弱ですが、資治がそれを学校時代、現に目にしていたことの意味は大きいです。しかも、「掛図形式の星図」としては、当時日本ではおそらく唯一のものでしたから、その影響は小さくないと考えます。

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銀河が縦に流れるか、横に流れるかは、あえて言えば作図者の趣味で、そこに明確なルールがあるわけではありません。どちらも星図としては等価です。

天の赤道と銀河面の関係は下の図のようになっています。

(出典:日本天文学会「天文学辞典」 https://astro-dic.jp/galactic-plane/

赤道面と銀河面のずれが仮に90度だったら、銀河は天の両極を貫いて、星図の中央を真一文字に横切るはずですが、実際には62.6度の角度で交わっているため、文字通りの真一文字とはいかず、天の両極を避けるように、弓なりに星図を横切ることになります。(天球上の星々を天の赤道面に投影したのが円形星図です。)

そして、赤道面と銀河面の交点を見ると、春分点(ないし秋分点)から、ほぼ直角の位置――正確には約80度離れた位置――から、銀河は立ち上がっているので、<春分点‐秋分点>のラインが水平になるように作図すれば、銀河はそれと交差して縦に流れるし、分点ラインが垂直ならば、銀河は横方向に流れることになります。


「新撰恒星図」の場合は、分点ラインが水平で、秋分点を接点として南北両星図が接しているので、当然銀河は縦に流れるわけです。

(春分点が右にくると、必然的に赤経18時が真上にきます)

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縦か横か。ささいな違いのようですが、銀河が縦に流れれば、銀河鉄道の旅もそれに沿って流れ下るイメージになり、生から死への一方向性がより一層強調される…というのは、たった今思いついた奇説ですが、そんなことがなかったとも言い切れません。

星座掛図は時をこえて(後編)2021年10月04日 05時30分04秒

(昨日のつづき)

(表装を含む全体は約83×105cm、星図本紙は約72×101cm)

細部はおいおい見るとして、全体はこんな表情です。傷みが目立ちますが、こうして自分の部屋で眺めると感慨深いです。上の画像は、光量不足で妙に昔の写真めいていますが、それがこの掛図にちょうど良い趣を添えている…と言えなくもないような。

(よく見ると植物模様が織り出してあります)

星図そのものとは関係ありませんが、この古風な布表装に、昔の教場の空気を感じます。ひげを生やした先生が、おごそかに咳ばらいをしている感じです。

星図は、天の南北両極を中心とした円形星図と、天の赤道を中心とした方形星図を組み合わせたもので、1枚物の全天星図としては標準的な構成です。


凡例。1等星と2等星の脇の小さな注記は「ヨリ」。つまり、これらは明るさに応じてさらに2段階に区分され、「より」明るい星を大きな丸で表示しているわけです。


刊記を見ると、手元の図は昭和3年(1928)8月8日の発行となっています。


さらに説明文を読むと、これは「昭和3年改訂版」と称されるもので、明治43年(1910)の初版に続く、いわば「第2版」であることが分かります。となると、これは賢治が目にした星図とは、厳密に言えば違うものということになります。実際、どの程度違うのか?

オリジナルの明治43年版は、京大のデジタルアーカイブ【LINK】で見ることができます。

(明治43年版全体図。京都大学貴重書デジタルアーカイブより)

(同上 解説文拡大)

こうしてみると、全体のデザインはほとんど同じ。違うのは恒星の位置表示で、明治43年版は「ハーヴァード大学天文台年報第45冊」に準拠し、昭和3年版は「同第50冊」に拠っています。ただ、恒星の座標表示の基準点である「分点」は、いずれも1900年(1900.0分点)で共通です。各恒星の固有運動による、微妙な位置変化などを取り入れてアップデートしたのでしょうが、それもパッと見で分かるほどの変化ではないので、賢治が見たのは、やっぱりこの星図だと言っていいんじゃないでしょうか。


天の南極付近。
1930年に星座の境界が確定する前ですから【参考LINK 】、星座の境界がくねくねしています。星座名は外来語以外は基本漢字表記で、いかにも古風な感じ。中央の「蠅」(はえ座)の上部、「両脚規」というのが見慣れませんが、今の「コンパス座」のこと。その右の「十字」は当然「みなみじゅうじ座」です。

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上で述べた明治43年版との違いが、やっぱりちょっと気になったので、うしかい座で比べてみます。上が明治43年版、下が昭和3年版です。

(京都大学貴重書デジタルアーカイブより)


比べて気づきましたが、星座名が一部差し替わっています。明治43年版では「牧夫」「北冠」だったのものが、昭和3年版では「牛飼」「冠」になっており、この辺は明治と昭和の違いを感じます。現行名はそれぞれ「うしかい座」「かんむり座」です。

肝心の星の位置ですが、うしかい座α星「アークトゥルス」――ひときわ大きな黒い丸――は、固有運動が大きいことで知られ、毎年角度で2秒ずつ南に移動しています。比べてみると、明治43年版では赤緯+20°の線に接して描かれていたのが、昭和3年版では+20°線から分離しており、確かに動いていることが分かります。明治43年版と昭和3年版はやっぱり違うんだなあ…と思いますが、違うといってもこの程度だともいえます。

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この星図が出る少し前、明治40年(1907)には、同じく三省堂と日本天文学会が組んで、日本最初の星座早見盤が売り出されており、これまた「銀河鉄道の夜」に登場する星座早見盤のモデルとされています【参考LINK】。

(画像再掲)

その意味で、この星図と星座早見はお似合いのペアなので、どうしても手元に引き寄せたかったのです。それに「銀河鉄道の夜」を離れても、これは近代日本で作られた、最初の本格的な星図であり、その歴史的意味合いからも重要です。そんなこんなで今回の出会いはとても嬉しい出会いでした。やはり長生きはするものです。

星座掛図は時をこえて(前編)2021年10月03日 10時10分04秒

ブログを長く続けていると、過去の自分と対話する機会が増えてきます。
その中で、「あの時はああ書いたけれど、今になってみると…」とか、「あの時取り上げた品には、実は兄弟分がいて…」というように、複数の記事が響き合って、新たな意味が生じることも少なくありません。

あるいは、過去の自分への贈り物めいた記事もあります。
過去の自分が憧れた品、あるいは「こんなものがあったらいいな」と言いながら、その存在すら知らなかったような品を、当時の自分に届けるつもりで記事を書く場合です。

こういうのはブログに限らず、日常でも経験することですが、ちょっと不思議な感じを伴います。当時の自分も自分だし、今の自分もやっぱり自分。そこには一貫したアイデンティティがあるのに――あるいは、だからこそ――自我が分裂したような、自分が同時に二つの場所に存在するような気分といいますか。まあ、それこそが「経験の年輪」というものかもしれません。

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今日の品は、13年前の自分への贈り物です。贈り先は以下の記事。

■ジョバンニが見た世界…天文掛図の話(その3)

ここで話題になっているのは、「銀河鉄道の夜」の冒頭の授業シーンで、ジョバンニが目にした星座掛図の正体、ないしモデルを探るというものです。上の記事では、賢治が学生の頃、母校の盛岡高等農林(現・岩手大学農学部)で接した掛図が、そのモデルではなかろうか…という説を採り上げています。

それは明治43年(1910)に、三省堂から出た『新撰恒星図』で、草創期の日本天文学会が作成したものです。13年前は、それを京大や金沢大の所蔵品として眺めるだけで、現物を手にすることがどうしてもできませんでした。しかし「求めよさらば与えられん」。13年越しに、それはやってきました。


多年の思いとともに、その中身を見てみます。

(この項つづく)

峰雲照らす天の川2021年08月08日 09時25分03秒

残暑お見舞い申し上げます。
暦の上では秋とはいえ、なかなかどうして…みたいなことを毎年口にしますが、今年もその例に漏れず、酷暑が続いています。

さて、しばらくブログの更新が止まっていました。
それは直前の4月17日付の記事で書いたように、いろいろよんどころない事情があったせいですが、身辺に濃くただよっていた霧もようやく晴れました。止まない雨はないものです。そんなわけで、記事を少しずつ再開します。

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今日は気分を替えて、壁に掛かっている短冊を取り替えました。


 草山に 峰雲照らす 天の川   亜浪

作者の臼田亜浪(うすだ あろう、1879-1951)は最初虚子門、後に袂を分かって独自の道を歩んだ人。

平明な読みぶりですが、とても鮮明な印象をもたらす句です。

まず眼前の草山、その上に浮かぶ入道雲、さらにその上を悠々と流れる天の川…。視線が地上から空へ、さらに宇宙へと伸びあがるにつれて、こちらの身体までもフワリと宙に浮くような感じがします。季語は「天の川」で秋。ただし「峰雲」は別に夏の季語ともなっており、昼間は夏の盛り、日が暮れると秋を感じる、ちょうど今時分の季節を詠んだものでしょう。

個人的には、この句を読んで「銀河鉄道の夜」の以下のシーンも思い浮かべました。

 そのまっ黒な、松や楢の林を越こえると、俄にがらんと空がひらけて、天の川がしらしらと南から北へ亘(わた)っているのが見え、また頂の、天気輪の柱も見わけられたのでした。つりがねそうか野ぎくかの花が、そこらいちめんに、夢の中からでも薫だしたというように咲き、鳥が一疋、丘の上を鳴き続けながら通って行きました。
 ジョバンニは、頂の天気輪の柱の下に来て、どかどかするからだを、つめたい草に投げました。 (第五章 天気輪の柱)

ジョバンニが、親友カムパネルラと心の隙間を感じて、ひとり町はずれの丘に上り、空を見上げる場面です。そのときの彼の心象と、この亜浪の句を、私はつい重ねたくなります。そしてジョバンニの身と心は、このあと文字通りフワリと浮かんで、幻影の銀河鉄道に乗り込むことになります。

銀河の時計2021年01月26日 22時42分19秒

先日、天文時計の話題から、時計と天文学はつながっている…という話題につなげました(LINK)。だからこそ、このブログで時計の話題を採り上げる意味もあるし、昨年8月には「時計」という新たなカテゴリーが生まれたのでした(LINK)。

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時計に関して、もう少し話題にしようかな…と思ったとき、このブログで時計を取り上げる理由が、もう一つあったのを思い出しました。それは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の世界に出てくる時計たちの存在です。

たとえば物語冒頭近くの時計屋の場面。
あのショーウィンドウに並ぶ時計たちの何と魅力的なことか。あのショーウィンドウを再現するためだけに、このブログは相当な時間と労力を費やしたことを思い出したので、さっき過去記事を拾い出して、改めて「時計」のカテゴリーに分類し直しました。

それだけではありません。鉄道とは何よりもダイヤの正確さを貴ぶものです。
空を走る銀河鉄道も、常に定時運行を心がけているので、ジョバンニが車内の時計をぼんやり見ていると、検札に来た車掌は、「南十字〔サウザンクロス〕に着く時刻は次の第三時ころになります」と厳かに告げるし、白鳥の停車場付近を散策する二人は、列車の出発に遅れぬよう、腕時計に目をやって一目散に駆け出すのです。

そして印象的なのが、ドラマの終幕で、カンパネルラのお父さんの手に握りしめられた懐中時計。その針は、お父さんに残酷な事実――息子の死――を告げます。

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天体の動きを説明する際、回転と周期性の概念は、頻々と顔を出します。
地球という小さな惑星もそうだし、巨大な銀河もまたそうです。時計と暦が生まれたのも、もちろん地球の自転と公転の反映に他なりません。

物体の物理的な運動だけでなく、生命現象や社会現象に関しても、サイクリックな変化は常に観察されるもので、その背後に円環的なダイナミズムが想定されることも多いでしょう。「そしてまた、生と死も永遠に回り続ける巨大な環のようなものなんだよ」…とか言うと、何となくもっともらしさと胡散臭さが同時に漂いますが、こんな静かな雨の晩は、「銀河鉄道の夜」と時計のメタファーの関係を、ぼんやり考えたりしたくなるのです。


天にウシを掘る2021年01月02日 11時05分43秒

ウシと天文といえば、おうし座のことがすぐ連想されますが、ここではちょっと視点を変えて、『銀河鉄道の夜』の世界に目を向けてみます。

(小林敏也(画)、パロル舎版 『銀河鉄道の夜』より)

 「君たちは参観かね。」その大学士らしい人が、眼鏡をきらっとさせて、こっちを見て話しかけました。
 「くるみが沢山あったろう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしていたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまえ。ていねいに鑿でやってくれたまえ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔はたくさん居たさ。」 
(『銀河鉄道の夜』、「七、北十字とプリオシン海岸」より)

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鮮新世(Pliocene)を意味する「プリオシン海岸」のモデルは、賢治がたわむれに「イギリス海岸」と呼んだ、花巻郊外を流れる北上川の河岸というのが定説です。賢治はここでウシの足跡の化石を発見したことがあり、その足跡の主を、作中の大学士に「ボス」と呼ばせているわけです。

ボス(Bos)は「ウシ科ウシ属」のラテン名で、ここには複数の種が含まれます。現在、飼育されている家畜牛も当然そこに含まれます。ウシ属の中で特に「牛の先祖」と呼ばれているのは、ボス・プリミゲニウス(Bos primigenius)のことで、これはあらゆる家畜牛の祖先種に当たり、「原牛」とも呼ばれます。

ただし、賢治が発見した足跡の主は、ウシはウシでも、ボスとは別系統の「ハナイズミモリウシ」だと判明しています。では、岩手にボス・プリミゲニウスがいなかったかといえば、やっぱりいたらしい…というのがややこしいところで、ここで少し話を整理しておきます。

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黒澤弥悦氏(奥州市牛の博物館)の「モノが語る牛と人間の文化(2)岩手の牛たち」を拝読すると、大要以下のことが書かれています。

○1927年5月、岩手県南部の花泉村(現・一関市)でおびただしい数の獣骨が出土し、そこには2種類のウシの化石骨が含まれていた。
○1つは、現在ヨーロッパやアメリカにいる野牛(バイソン)に近い種類のハナイズミモリウシ(Leptobison hanaizumiensis)で、今から2万年程前の第四紀更新世後期の氷河期を生きた野牛である。
○もう一つは原牛(Bos primigenius)である。原牛は家畜牛の祖先種で、英名オーロックスの名で呼ばれることも多い。花泉で見つかった原牛も「岩手のオーロックス」と呼ばれたことがある。
○岩手のオーロックスとハナイズミモリウシは共に旧石器人の狩猟の対象とされ、また生息地の環境の変化などによって絶滅したと考えられる。

賢治がイギリス海岸で足跡の化石を見つけた1922年には、まだハナイズミモリウシが種として認知されていなかったので、賢治が自分の業績をハナイズミモリウシと結び付けて考えることは不可能でした。だからこそ、賢治はそれを「牛の先祖、すなわちボス」と書いたわけです。それ自体は誤認ですが、でも太古の岩手にはボスも暮らしていたので、トータルすれば、そう間違っているわけではありません。

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さて、ここまで書いて、ようやく毎年恒例の「骨」の写真を掲げることができます。


ネズミからウシへのバトンタッチ。
ウシの方はドイツのベンスハイムで発掘された、ボス・プリミゲニウスの後肢化石骨。年代は後期更新世・ヴュルム氷期(約10万〜7万年前)という説明を受けました。

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それにしても、誰かも書いていましたが、空の上の銀河のほとりで化石を掘るというのは、途方もなく不思議な発想ですね。空の地面はどこにあって、大学士たちは一体どっちの方向に向かって掘り進めているのか?

でも、つねに変わらぬ恒星世界にも、太古の存在があり、天界の住人たちも進化を続けている…というのは、たぶん当時ホットな、と同時に謎めいた話題であった「恒星進化論」を連想させます。ひょっとしたら、賢治の頭の隅にも、そのことがあったかもしれません。そして、その先には銀河系の進化や、宇宙そのものの進化の話題が続き、我々は今も天の化石探しを続けているのだ…とも言えます。

賢治さん、あなたは今どこにいるのか2020年04月12日 16時34分55秒

灰色の空から雨がしきりに降っています。
ブログを書く気分というのがありますが、今はだめですね。
だから桜の話もちょっと中断です。

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 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
 東ニ病気ノコドモアレバ
 行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ
 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ
 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバ
 ツマラナイカラヤメロトイヒ

賢治の言葉はいちいち心にしみますが、最後のくだりだけは頷けません。

もちろん、つまらない喧嘩や訴訟ならやめればいいですが、世の中には大切な喧嘩や訴訟もあります。病気の子供や疲れた母親を放置している社会の不正義に対しては、大いに怒らないと、彼の理想は実現しないはずです。まあ、そんな当たり前のことは賢治だって百も承知で、たぶん賢治が言いたかったのは、「自利の喧嘩」はダメだということでしょう。

眼前の事態に対して、「こんなときに政府を批判するな」と言う人がいます。それに対する反論もあります。思うに、こういうとき大切なのは、目の前の人を突き動かしているのが自利の心か、利他の心か、それを虚心に見つめることでしょう。表面的な発言よりも、その点に心を向けると、いろいろ見えてくる気がします。

病気の子供や、疲れた母や、死にそうな人のために怒り、行動する人。
そういう者に私はなりたいですが、懐手をしてウンウン唸っているばかりで、なかなか動けないのが、我ながら不甲斐ないです。

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賢治さん、あなたは今どこにいるのですか?
今も下の畑を歩いているのですか?

火の山へ2019年03月21日 06時57分57秒

以前、書斎の写真集をめくっていて、「おや?」と思う光景を目にしました。

(E. Ellis, C. Seebohm & C.S. Sykes、『At HOME with BOOKS』(Clarkson Potter、1995)より。ニューヨーク在住のStubb夫妻の書斎)

よく見ると、中央の額も、足元に無造作に置かれた額も、すべて画題が火山になっていて、「なるほど、世の中には<火山趣味>というのがあるんだな」と、悟りました。

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火山の噴火は、もちろん恐ろしいものです。
昔のポンペイにしろ、浅間山にしろ、近くは木曾御岳にしろ、噴火によって一瞬で命を奪われた人が大勢います。火山はまずもって畏怖の対象。と同時に、その人智を超えた巨大なエネルギーが人の心を捉え、ときに神格化され、またときにこうして絵姿に描かれます。

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火山の絵というと、手元にもなかなかの優品があります。
しかし、それは「火山美」を描いたものではなく、かといって、火山災害の恐ろしさを説くものでもありません。それは火山のジオグラフィーを科学的に描いた、学校教育用の掛図です。


大阪教育社編纂、明治40年(1907)刊行の「噴火山」の図。
ずいぶん前に登場した月面図と同じく、同社の「天文地文空中現象掛図」シリーズ中の一本です。

こうした明治の地学掛図は、かなり珍品の部類に属するので、大いに自慢したいところですが、残念ながら上の画像は自前ではなく、商品写真の流用です(以下同じ。現物は戸棚の奥にしまいこまれ、容易に取り出すことができません。悲しむべきことです)。

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この絵は構図からして、たぶんナポリのヴェスヴィオ火山の写真ないし絵を元にしているのでしょう。

(ヴェスヴィオ火山の絵葉書。20世紀初頭)

それにしても不思議な絵です。


火山が大噴火しているのに、慌てふためいて戸外に走り出る人もなく、町はいたって静かです。煙突からはゆっくりと煙が上り、湾内の船舶もみな錨を下して、おとなしくしています。この町では、こんな噴火が日常茶飯事で、誰も驚かないのでしょうか。


さらに、ここに並ぶ建物群がまた独特で、現実感が希薄というか、なんとも言えないシュールな味わいです(ナポリの町とはまるで違います)。幻燈が暗闇に映し出す外国風景や、昔の文明開化の記憶、それに汽車から一瞥した神戸の街並みといった、断片的イメージを、画工が脳内でつきまぜてこしらえあげた、「この世に決して存在しない西洋風景」のように見えます。

科学的な絵でありながら、やっぱりここには不思議な美が漂っています。

こうした「空想の異国」は、関西の画工の脳内にきざすと同時に、東北に住む賢治の胸裏にも浮かび、彼はそれを「イーハトーヴの世界」として描きました。

ここで賢治を持ち出したのは、もちろん『グスコーブドリの伝記』の連想からです。ブドリがたどり着き、命をかけて救った町は、きっとこんなたたずまいだったに違いありません。さらに火山の断面図が発する科学の香りには、クーボー大博士の咳払いや、ペンネン技師の横顔も重なって感じられます。

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明治40年、賢治は11歳で小学校の高等科の生徒でした。すでに「石っこ賢さん」の異名をとるほどの鉱物好きで、2年後には県立盛岡中学校に入学し、その鉱物趣味や天文趣味にさらに磨きがかかります。

賢治が学校時代に似たような掛図を見せられ、それが記憶に潜在し、後のグスコーブドリの物語が生まれたのだ…となると、話としては面白いのですが、そんな論考がすでにあるのかどうか、寡聞にして知りません。

ムーンストーンの月2017年11月30日 21時01分59秒

Moonstone ―「月の石」。

アポロが持ち帰ったのも「月の石」で紛らわしいですが、こちらは英語だと「Moon rock」で、まったくの別物です。でも、英語版Wikipediaで「Moonstone」の項を見たら、「両者を混同してはならない」と、冒頭に断り書きがしてあったので、アメリカにも混同する人がいるのでしょう。

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ムーンストーンは、日本では「月長石」と訳されました。

(インド産の月長石)

月長石と聞けば、銀河鉄道の線路沿いに咲く、「月長石ででも刻まれたような、すばらしい紫のりんどうの花」を思い出します。そして、賢治はほかにも自作で、月長石に幾度か触れていることを、加藤碵一・青木正博両氏の『賢治と鉱物』(工作舎、2011)を読んで知りました。

孫引きすると、

眼をつぶると天河石です、又月長石です
(「小岩井農場」先駆形A)

あるいは、

うすびかる 月長石のおもひでより かたくなに眠る 兵隊の靴
(大正5年8月17日付け保阪嘉内あて葉書)

などなど。

これらを読み比べると、両氏が記すように、賢治の脳裏にある月長石には、青く光り輝くイメージと、冬の日を思わせる寂しい乳白色のイメージの両様があったようです。
これは宝石のムーンストーンにも、その輝色によって、青光を放つものと、白光を放つものの2種類があることに対応しています。

ただ、月長石をストレートに「月」と重ねて詠んだ例は見られないので、詩人・賢治は、そういう幼稚な――よく言えば素朴な――比喩を用いるのを、潔しとしなかったのかもしれません。

でも、私は以前から「ムーンストーンでできた月」があれば素敵だなと思っていました。昨日の月のブローチもムーンストーンをあしらったものですが、もっと月そのものというか、たとえば月長石を刻んで拵えた三日月があれば…と考えていたのです。

残念ながら、まだそういう品を目にしたことはありません。
そういう切削加工そのものが困難なのか、あるいは通常のカボションカット以外だと、ムーンストーン独自の輝きが生まれないので、ムダな努力をあえてしないのか、正確な理由は門外漢には、よく分かりません。

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現実にあるのは、例えば三日月形の台座に、円いムーンストーンを並べた、こんな品です。


こういう莢(さや)豆型のブローチは、ヴィクトリア時代にずいぶん流行ったらしく、今でもよく目にします。手元のブローチは、これまた時代不明ですが、つややかなムーンストーンの列は、空を転がる満月を思わせ、また月の女神セレネーの皓歯のようでもあります。当初のイメージとは違いますが、これはこれで愛らしい品。


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ときに、月にも月長石は産するのでしょうか?

長石の仲間は、地球でも月でもありふれた造岩鉱物ですから、探せばきっとあるでしょう。Moon rock から採ったMoonstoneで月を刻み、それを月光にかざしたら、どんな光を放つのか?…なんてちょっとベタですが、連想はそんなところにも及びます。

賢治、銀河より帰省す2017年08月05日 18時23分12秒

今から25年前、宮沢賢治だけをテーマにした雑誌『アルビレオ』というのが、賢治の故郷岩手で産声を上げました。ビジュアル面を重視した、なかなか洒落た感じの雑誌でしたが、俗に言う「3号雑誌」の例に漏れず、『アルビレオ』もわずか3号で休刊を余儀なくされたのでした。

以前の記事でも触れましたが、日の目を見ることのなかった、その幻の第4号では、「長野まゆみ――私の賢治」というインタビュー記事が載るはずでした。

「アルビレオ」 という雑誌があった

上の記事を書いた時、貴重な機会が失われたことを知って、とても残念に思いました。
その後も、長野氏が賢治作品を常に手元に置き、繰り返し読まれていたことを知り(http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/09/18/)、長野氏が賢治に向けた思いに、いっそう興味を覚えましたが、氏が実際のところ、賢治をどう評価しているのか、その肉声はちょっと遠い感じがしていました。

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しかし、この度ついに長野氏が正面から賢治に取り組んだ「評伝」が世に出ました。

(装幀:名久井直子、装画:山下陽子)

長野まゆみ(著)、『銀河の通信所』、河出書房新社、2017

この本は今日届きました。
奥付の発行日は「8月30日」となっているので、本当に出たばかりの本です。

この本は、上述のとおり、長野氏による賢治の「評伝」と言っていいと思うのですが、その結構が変わっていて、関係者へのインタビュー集の体裁をとっています。

インタビューを受けるのは、賢治本人、賢治の同時代人、そして賢治の作中人物に仮託した純粋な空想的存在。そして、インタビューするのは、「銀河通信速記取材班」に所属する児手川精治氏ら。


児手川氏は、河出書房の前身「成美堂」に勤務されていた方です。
当時の成美堂は、農事関係の出版物に力を入れており、児手川氏は、賢治の師匠に当る恒藤規隆博士の講義録の編纂なども手掛けた関係で、賢治の科学的知識の背景をよく知り、また速記術にも長けた、今回のインタビューにはうってつけの人です。

…といって、児手川氏が本当に実在の人なのか、そこが何となくボンヤリしています。仮に実在の人としても、児手川氏は昭和16年に病没したと書かれているので、結局、このインタビューは「非在の人物による、非在の存在への聞き書き」であり、死者とも自在に交信できる銀河通信所以外には、なし得ない仕事です。

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こう書くと、何だかフワフワした、大川ナントカ氏による駄法螺的書物を想起されるかもしれませんが、それは全く当りません。むしろ、これはファンタジックな設定とは裏腹に、相当手堅い作品です。その記述はすべて賢治作品からの引用、歴史的事実、状況証拠を踏まえた推論に基づくもので、ここであえて「評伝」と呼ぶ所以です。


賢治の同時代人として、稲垣ATUROH、北原秋、内田といった人物が、語り手として登場しますが、これは作者のちょっとした韜晦(とうかい)で、文中に引用されているのは、全て足穂、白秋、百閒その人の文章です。

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結局のところ、ここに書かれているのは、全て彼らの口を借りた、長野まゆみ氏の賢治評です。長野氏の描く賢治像は、歴史的にも、人間的にも実にリアルです。また作品と作者の関係をめぐる考察も、深く頷けるものがあります。こうしたことは、長野氏の賢治像が一朝一夕にできたものではないことを、はっきりと示しています。

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長野氏ほどの文才がないせいで、いかにも抽象的な評言に終始しましたが、この本は新たな賢治論として、また長野まゆみという作家を評価する上で、見落とせない一書だと思います。