賢治、銀河より帰省す2017年08月05日 18時23分12秒

今から25年前、宮沢賢治だけをテーマにした雑誌『アルビレオ』というのが、賢治の故郷岩手で産声を上げました。ビジュアル面を重視した、なかなか洒落た感じの雑誌でしたが、俗に言う「3号雑誌」の例に漏れず、『アルビレオ』もわずか3号で休刊を余儀なくされたのでした。

以前の記事でも触れましたが、日の目を見ることのなかった、その幻の第4号では、「長野まゆみ――私の賢治」というインタビュー記事が載るはずでした。

「アルビレオ」 という雑誌があった

上の記事を書いた時、貴重な機会が失われたことを知って、とても残念に思いました。
その後も、長野氏が賢治作品を常に手元に置き、繰り返し読まれていたことを知り(http://mononoke.asablo.jp/blog/2013/09/18/)、長野氏が賢治に向けた思いに、いっそう興味を覚えましたが、氏が実際のところ、賢治をどう評価しているのか、その肉声はちょっと遠い感じがしていました。

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しかし、この度ついに長野氏が正面から賢治に取り組んだ「評伝」が世に出ました。

(装幀:名久井直子、装画:山下陽子)

長野まゆみ(著)、『銀河の通信所』、河出書房新社、2017

この本は今日届きました。
奥付の発行日は「8月30日」となっているので、本当に出たばかりの本です。

この本は、上述のとおり、長野氏による賢治の「評伝」と言っていいと思うのですが、その結構が変わっていて、関係者へのインタビュー集の体裁をとっています。

インタビューを受けるのは、賢治本人、賢治の同時代人、そして賢治の作中人物に仮託した純粋な空想的存在。そして、インタビューするのは、「銀河通信速記取材班」に所属する児手川精治氏ら。


児手川氏は、河出書房の前身「成美堂」に勤務されていた方です。
当時の成美堂は、農事関係の出版物に力を入れており、児手川氏は、賢治の師匠に当る恒藤規隆博士の講義録の編纂なども手掛けた関係で、賢治の科学的知識の背景をよく知り、また速記術にも長けた、今回のインタビューにはうってつけの人です。

…といって、児手川氏が本当に実在の人なのか、そこが何となくボンヤリしています。仮に実在の人としても、児手川氏は昭和16年に病没したと書かれているので、結局、このインタビューは「非在の人物による、非在の存在への聞き書き」であり、死者とも自在に交信できる銀河通信所以外には、なし得ない仕事です。

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こう書くと、何だかフワフワした、大川ナントカ氏による駄法螺的書物を想起されるかもしれませんが、それは全く当りません。むしろ、これはファンタジックな設定とは裏腹に、相当手堅い作品です。その記述はすべて賢治作品からの引用、歴史的事実、状況証拠を踏まえた推論に基づくもので、ここであえて「評伝」と呼ぶ所以です。


賢治の同時代人として、稲垣ATUROH、北原秋、内田といった人物が、語り手として登場しますが、これは作者のちょっとした韜晦(とうかい)で、文中に引用されているのは、全て足穂、白秋、百閒その人の文章です。

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結局のところ、ここに書かれているのは、全て彼らの口を借りた、長野まゆみ氏の賢治評です。長野氏の描く賢治像は、歴史的にも、人間的にも実にリアルです。また作品と作者の関係をめぐる考察も、深く頷けるものがあります。こうしたことは、長野氏の賢治像が一朝一夕にできたものではないことを、はっきりと示しています。

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長野氏ほどの文才がないせいで、いかにも抽象的な評言に終始しましたが、この本は新たな賢治論として、また長野まゆみという作家を評価する上で、見落とせない一書だと思います。

五月の鉱物2017年05月19日 06時53分02秒

芽吹きの季節を過ぎ、今は若葉の季節です。
あの透明感のある美しい若緑を、他のモノにたとえると…と考えていて、思いついたのは、緑玉髄(クリソプレース)の色です。


透明感はあるけれども、決して透明ではない、柔らかい緑。
明るく、みずみずしいアップルグリーン。


かつて宮沢賢治も、落葉松の新芽の色を、この鉱物にたとえました。

(『春と修羅』所収「小岩井農場 パート七」)

  「から松の芽の緑玉髄」

(保育社版『原色日本植物図鑑 木本篇(Ⅱ)』より)

そして、「からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだ」と書いたのは、やはりその色合いに宝石の美しさを感じたせいでしょう。

(「小岩井農場 パート三」)

賢治さんと緑玉髄の関わりは、板谷栄城氏の『宮沢賢治 宝石の図誌』(平凡社)に教えていただいたことですが、こうして改めてモノを並べてみると、何となくそこに賢治さんの心象が揺らめくようでもあります。


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美しい緑の季節に不似合いな、どろどろしたニュースに胸が塞がる思いです。
でも、あの暗い時代に光を放った賢治さんの後姿を眺め、どこまでも広がる自然を前にすれば、これからだって歩いていかれないことはないぞ…と思います。

賢治童話ビジュアル事典2016年11月06日 11時30分14秒

最近出た、こんな本を手にしました。


■中地 文(監修)
 『賢治童話ビジュアル事典』
 岩崎書店、2016

この本は子供向きの本ですが、ふつうの子どもには買えません。
そしてまた、本屋さんの店頭に並ぶことも少ないでしょう。
なぜなら、定価が6千円もするし、主に学校図書館に置かれることを想定した本だからです。

巻末広告を見ると、版元の岩崎書店では、これまでも“「昔しらべ」に役立つ本”と銘打って、『昔の子どものくらし事典』とか、『日本のくらしの知恵事典』とか、『昔のくらしの道具事典』とかを、シリーズで出しています。賢治の事典もその一冊として編まれたようです。

たしかに、賢治作品は今や、国語・社会・理科にまたがる、総合学習にふさわしい教材なのかもしれません。

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子供向けの本とはいえ、この本はとても読みごたえがあります。
知っているようで知らなかったことを、私はこの本でたくさん学びました。なんだか急に物識りになった気分です。

たとえば、私はこれまで「やまなし」というものを、何となく知っている気になっていましたが、考えてみたら、その実物を目にしたことはありませんでした。


この事典を見ると、やまなしの写真があって、その脇に、やまなしというのは栽培品種の原種であり、日本では少なくとも奈良時代から食べられていたこと、中国では「百果の長」と呼び、その薬効を尊ばれたこと、そして東北では飢饉にそなえて、保存食として大事にされてきたことなどが、簡潔に書かれています。

また賢治作品の『やまなし』を理解する豆知識として、この「五月」と「十二月」の2つの章から成る童話は、初稿では「五月」と「十一月」となっており、イワテヤマナシの完熟期を考えれば、これはたしかに「十一月」が正しく、発表時の誤植がそのまま残ってしまったのだろう…という説が紹介されています。

「おお、なるほど!」という感じです。


ふいご」というのも、手でブカブカやる小型のふいごは知ってても、鍛冶屋さんが使う大型のふいごの構造なんて、まるで知らずにいました。あれはレバーを押しても引いても風を送れるようになってたんですね。(ご存知でしたか?)

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オリザ」のページを開けば、賢治が高く評価した米の品種、「陸羽132号」は、今のコシヒカリの祖父母に当る品種だと分かりますし、「赤い毛布」のページを開けば、田舎出の人を軽侮する「赤毛布(あかげっと)」という称は、日清戦争後に、軍用の赤い毛布が大量に民間に払い下げられて、寒い土地の人が、それで防寒着を作って重宝したことに由来する…というのも、この本で初めて知ったことです。

(「すぎな」と「ひきざくら」。寒い土地では桜のかわりに辛夷(こぶし)の花で種まきの時期を知り、「種まき桜」と呼んだ由。『なめとこ山のくま』に出てくる「ひきざくら」も辛夷のこと。)

(「活字」の項。絣の着物を着た子供たちが活字を拾う、明治40年頃の写真が目を惹きます。)

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以下、目次を一部紹介。

1 光と空の章
  幻燈、まわり燈籠、アセチレンランプ、ネオン燈、電信ばしら、かがり
2 土と草の章
  モリブデン、火山弾、いちょう、やどりぎ、かしわばやし、狼(おいの)…
3 しごとの章
  稲こき器械、めっき、鉄砲、発破、毒もみ、つるはし、糸車…
4 くらしの章
  萱ぶきの小屋、みの帽子、雪ぐつ、かんじき、陣羽織、ラッコの上着…
5 食べものの章
  西洋料理店、カリメラ、電気菓子、玄米四合、粟もち、ラムネ…

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最後に、この本が我が家に届いた経緯に触れておくと、それは「星座早見盤」の項に、写真を1枚だけ提供したお礼として頂戴したのでした。


こういうのを、「海老で鯛を釣る」というのだと、年少の読者には、ぜひ「昔の日本のことわざ」として覚えていただきたい。

あるいは賢治ファンには、「思いがけず、黄金のどんぐりを一升もらった気分だよ」と言ってもいいですが、この本は一郎がもらったドングリのように、家に持ち帰っても色あせたりせず、今もこうしてピカピカ輝いているので、「こんな拙いブログでも、やっぱり続けてみるものだなあ…」と、あらためて思いました。

ライト&レフト2016年07月09日 11時44分43秒

今日は閑語ではなく、真面目に書きます。

明日の選挙は、改憲との絡みで、歴史のターニングポイントになる選挙である可能性がきわめて高いです(与党がその争点化を必死に回避していることから、逆にその意図が透けて見えます)。

繰り返しますが、私は現政権にはっきりと反対の立場なので、野党に投じるつもりですが、こういうと「あいつはサヨクだな」と反射的に思う人も出てくることでしょう。

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このウヨク、サヨクという言葉。

時代の閉塞感が増して、社会の右傾化や、戦前回帰を憂える声も強いですが、戦前を振り返るとき、私はそこに少なからず違和感を覚えます。
私の目に映る現今の世相は、むしろ右翼の衰退です。

今のウヨクは、「保守、体制、資本主義」などのタームと親和性が高くて、「革新、反体制、社会主義」のサヨクと対立するイメージですが、これは21世紀の日本という、かなり限定された状況での理解ではないでしょうか。

昭和戦前の右翼には、「革新、反体制、反資本主義」という、現在とは真逆の主義主張がありました。血気盛んな彼らは、はっきりと反資本家の立場であり、右翼革命を志向していたのです。一人一殺主義を掲げ、政財界の要人を狙った、例の「血盟団事件」を想起すれば、この点は明らかでしょう。

昭和維新を呼号した人たちにとって、時の政治家や資本家は、いわば江戸時代の「幕閣」であり、自分たちこそ筋目正しい尊王の志士だ…というヒロイズムがあったのだと思います。彼らは為政者にとって、きわめて危険な存在として、目を付けられていました。

今のネトウヨ的な人々は、資本家の走狗となって、反資本家勢力を叩きのめすのに力を注ぐ「愚連隊」に近い存在で、戦前の右翼の衣鉢を継ぐ者とは、到底言えません。

   ★

ここで思い出すのは宮沢賢治のことです。

賢治が故郷岩手を出奔して、出入りしていた「国柱会」というのは、その名前から想像がつくように、はっきりいえば日蓮主義を掲げた右翼団体です。血盟団を組織した井上日召も日蓮宗の僧籍にある人でしたが、日蓮の思想はファナティックなものと結びつきやすく、日蓮主義を思想的バックボーンとした右翼団体は、当時いろいろありました。

賢治は抒情の人であるとともに、民衆愛の人であり、反権力の人でしたから、現代の区分でいうと、サヨクと親和性が高いと思いますが、昔の物差しでいえば、はっきりと右翼です。

   ★

もちろん、私は戦前の右翼を支持しているわけではありません。
左右どちらの看板を掲げていようと、私はあらゆる全体主義に反対です。
そしてまた「自由主義」の名で行われる不正義にも反対です。

おそらく、今の「ウヨク vs. サヨク」の図式から欠落しがちなのは、権力者 vs. 民衆(貧者)」のテーマです。お奉行様と越後屋が結託して民衆をいじめる…というのは、何も時代劇の世界ばかりではなくて、今目の前で起こっている事態は、まさにそういうことです。

おそらく今の為政者が警戒しているのも、「権力者vs. 民衆」の対立軸が、露骨に可視化することではないでしょうか。そういう語り口が、今は世間の表面から巧妙に隠蔽されていますが――あるいは、目くらましとして身近な「小金持ち」や他国に対するルサンチマンを刺激して、権力者への怒りをそらしていますが――でも、こういうことは、もっとあけすけに語った方が良いのです。そうでないと、とにかく民衆からは搾れるだけ搾ってやろう…という普遍的な悪だくみが、またぞろ繰り返されることになります。

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一人一殺は過去の悪夢です。
今はぜひ一人一票を。

かささぎの橋を越えて2016年07月07日 06時46分12秒

今日は七夕。
旧暦の7月7日といえば、新暦の8月中旬にかかる頃合いですから、ちょうど夏と秋が入れ替わる時期です。七夕は新旧の季節感が大きくずれる行事のひとつで、現代ではこれから夏本番ですが、俳句の世界では立派な秋の季語。

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以下、『銀河鉄道の夜』より、「九、ジョバンニの切符」の一節。

 「まあ、あの烏。」 カムパネルラのとなりのかおると呼ばれた女の子が叫びました。
 「からすでない。みんなかささぎだ。」 カムパネルラがまた何気なく叱るように叫びましたので、ジョバンニはまた思わず笑い、女の子はきまり悪そうにしました。まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱいに列になってとまってじっと川の微光を受けているのでした。
 「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」 青年はとりなすように云いました。

ここにカササギが出てくるのは、もちろん銀河と鵲(カササギ)の故事――すなわち、七夕の晩には、鵲が翼を並べて天の川に橋をかけ、そこを織姫が渡って彦星に会いに行く(あるいはその逆)という、中国の伝承にちなむものでしょう(古くは漢代の「淮南子(えなんじ)」に、その記述がある由)。

そんなことに思いを馳せつつ、今日はムードだけでも涼し気な品を載せます。

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七夕の茶事で用いられる香合(こうごう)。
夜光貝の銀河と、金蒔絵の鵲を取り合わせた可憐なデザインです。


香合は香を容れるための容器で、浅い身と蓋に分れます。


銀河のほとりには、織姫の坐すこと座が輝き、


その対岸に、牽牛(彦星)の住むわし座が羽を広げています。


そして、両者の間を縫うように、漆黒の空で鳴き交わす鵲たち。

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お茶道具といっても、通販で扱っている普及品ですから、価格はまあそれなりです。
でも、このデザインはなかなか素敵だと思いました。(産地は石川県、いわゆる加賀蒔絵の品です。)


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▼閑語 (ブログ内ブログ)

異国であまたの邦人が殺されようと、
いくら政府の要人や、その取り巻きが 
破廉恥なことや、悪辣なことや、愚昧なことを
言ったり、やったり、隠したりしても、
我が同胞は少しも慌てず騒がず、常に泰然自若としている。
まことニッポン人こそ、世界に冠たる忠勇無双の国民なり。
頼もしいことこの上なし。

…と、憎まれ口のひとつも叩きたくなる昨今です。
「天文古玩」と称して、ひどく呑気なことを書き連ねながら、今の状況を前にして、少なからず心を曇らせています。

そして、私は現政権と心中する気も無ければ、その危険な実験を温かく見守る気もありません。私の答は、はっきりとノーです。

   ★

おそらく、こういう物言いに反発を感じる人は、確実に何割かいらっしゃるでしょう。
政治の話なら、よそでやってくれ…というわけです。

たぶんこういう場合、ブログにしてもSNSにしても、多くの人は内容に応じて別アカウントを取得して、趣味なら趣味、政治なら政治と、切り分けて発言や行動をされているように想像します。それは社会生活をスムーズならしめる賢い振る舞いであり、他者への配慮でもあるのでしょう。

しかし、私にはそれが現代を広く覆う病理、「人格の解離」の大規模な実践に見えてしかたがないのです。

ついさっきまで悲しいニュースを、いかにも悲し気に読み上げていたアナウンサーが、次の瞬間、一転してにこやかな表情で、「さて次はスポーツです。テニスのウィンブルドン2日目…」と言うのを見ると、私はとっさに「この人は病んでいる」と感じます。もちろん、アナウンサーは職業上、悲し気な顔や、晴れやかな顔を作っているに過ぎないので、それを見ている方が、アナウンサーと一緒に気持ちを切り替えているなら、むしろ病んでいるのは視聴者の方でしょう。

チャンネルを替えるように、感情や思考の流れをパッパッと切り替えられるとしたら、その人の統一された「本当の自分」はいったいどこにあるのだろう…と不思議に思います。いや、その人は果たして本当に何かを感じたり、考えたりすることができているのだろうか…とすら思います。

   ★

自分が正しいことを書いている自信は全然なくて、明日になったらまた違う感想を持つかもしれません。しかし、今はぜひ言っておきたい気がして、あえて書きました。

いずれにしても、私の中では「天文古玩」的な世界と、政治的角逐が生じている現実世界とは地続きで、そこに境界はありません。それは1つの全体です。(…と大見得を切りましたが、以前は正反対のことを書いた記憶もあり、あまり信用してはいけません。それこそがネットリテラシーです。)

Q堂にて…金銅片喰蠍虫法具(こんどうかたばみかっちゅうほうぐ)2016年05月22日 11時34分12秒

今日は東京赤坂蚤の市で、「博物蒐集家の応接間」が開催される日です。
 奇にして怪、妖にして美夢にして幻
そんな博物蒐集家秘蔵の品々が、赤坂のアークヒルズに並び、今まさに人々の驚きを誘っていることでしょう(時間は午前11時から午後5時までです)。

   ★

あれ、Qさんは赤坂には行かないの?

やあ、いらっしゃい。どうも、このところ仕入れに忙しくてね、赤坂の話もずいぶん迷ったけど、今回は見送った。ところでTさんのブログ、ちょっと抹香臭い話が続いたね。

うん、やっぱり京都に行くと、どうしてもね。まあ、曼荼羅だ何だの話は、Qさんには縁遠いだろうけど。

いや、そうでもないよ。実は、こないだ妙な品を見つけてね。Tさん、抹香臭いの好きだから、こういうの詳しいんじゃない?


何、これ?これはこのままでいいの?ひょっとして、壁に掛けて使うとか?


いや、ちゃんと下に脚が付いてるから、こうやって置いて使うものだと思う。

全体の雰囲気は仏具っぽいね。

だろ? 僕も最初は密教法具の類とアタリを付けたんだけど、いくら本を調べても、出てこないんだ。

へえ、何となくありそうだけどね…。あ、そうだ!ヒーリングの店とか行くと、今出来のチベット密教の法具とか売ってるじゃない。存外、ああいうのに時代付けしたものとか?

はは、僕だって商売柄、抜かりはないさ。そっち方面もさりげなく調べたけど、やっぱり手がかりはゼロなんだ。正体不明のものを売るのも嫌だから、結局そのままにしてある。


何だか謎めいてるね。でも、この蓮弁ぽいのは、明らかに灯火具だよね。


で、この蕪型のは水瓶(すいびょう)っぽいし、


左右の筒に小穴が開いてるのは、ここに香具や供花具を取り付けたんじゃないの?
…となれば、やっぱり仏教関係か。

Tさんの見立ても同じか。で、ほら、こうして並べると、蓮弁の両腕と、左右の筒の小穴の幅がほぼ一致するんだ。ここにも何か意味がありそうで。


なるほどねえ。…ところで、これ、材質は何なの?

金銅…と言いたいとこだけど、真鍮かもしれない。ほら、裏返すと、まだ金味が新しいだろう?

(ハート形の最大幅は 10.5cm、前後長は約11.2cm)

あれ、これネジが切ってあるね。



うん。そこが時代判定のポイント。この品が日本製としての話だけど、日本でネジ切りが始まったのは、火縄銃なんかを除けば、江戸も後期からだから、これもそんなに古い品のはずがないんだ。明治以降かもしれない。


こうやって回してやれば、簡単に外れるよ。サソリの方も、ほら。

(長さは約5.5cm)

(裏面。半身に緑青が出ています)

サソリはネジ式じゃないんだ。

いや、それは僕の仕業。このサソリだけでも売り物にならないかと思って、取り外すとき、ネジの先を切っちゃったんだ。ちょっと早まったかな。

Qさんも、案外「文化の破壊者」だね(笑)。


それにしても、サソリかあ…。サソリの存在が、この品の最大のポイントだろうけど、サソリと仏教というとどうなんだろう、天蝎宮を祀る星宿信仰に関わる品とかかなあ…

だったら、よっぽど珍しいものだし、Tさんが「天文古玩」の棚に並べてもいいんじゃない?それにほら、『銀河鉄道の夜』で、自分の罪を悔いたサソリが、天に昇って真っ赤な炎で周囲を照らす存在になった…っていうくだりがあったよね。

Qさん、いつもながら商売が上手いね。そんなこと言われたら、買わないわけにいかないじゃない。うん、天から届いたサソリの形見としてもらっておくよ。でも、本当に正体が分かったら教えてよ。金を返せとは言わないから。

(笑)了解。毎度おおきに。

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というわけで、上の二人は納得づくの取り引きをして、めでたしメデタシ。
でも、現実世界で私がこれを買ったのは、もう20年以上前ですが、正体はまったく不明のままです。ぜひ博物蒐集家の皆さんの知識と知恵で、その正体を明らかにしていただき、私の迷妄を晴らしていただけないでしょうか。

京都へ(3)…比叡山詣で2016年05月20日 20時47分46秒

昨日書いた、「これまで行ったことのない場所」とは、比叡山延暦寺のことです。
お寺の話題は、このブログと関係ないように見えますが、以前、密教の星曼荼羅の話題もあったし(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/27/6523362)、しばらくお付き合いください。

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比叡山は、近江と山城の国境にあり、山頂の手前では京都市街を一望でき、山頂を超えると、こんどは琵琶湖を一望できます。京都と琵琶湖って、意外に近いんだな…という発見がありましたが、まずは京都から順を追って叡山に向うことにしましょう。

京都側から叡山に入るには、バス利用の手もありますが、今回は電車を使いました。
出町柳は叡山電鉄の始発駅で、ここから終点「八瀬比叡山口」の駅に向かいます。


この大正チックな駅舎がとても良くて、駅舎内の天井の構造が実に洒落ていると、天井好きとして嬉しく思いました。


しかし、ここは文字通りとば口で、ここからケーブルカーに乗り替え…

(帰途に撮影したので、これは下りの光景です)

さらにロープウェーに乗り替え…

(京都の街を振り返ったところ)

やっとのことで山頂に着いたところで、さらにバスに数分揺られて、ようやく天台宗の総本山、比叡山延暦寺にたどり着きます。

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この日の境内は山霧が横走りし、月曜日で参拝客も少なかったせいで、いやが上にも霊峰ムードが漂いました。


これが国宝「根本中堂」。
建物自体は江戸初期の再建だそうですが、その仏前に掲げられた灯火は、宗祖最澄の時代から不断に燃え続ける「不滅の法灯」で、その前で延々と護摩を焚き、陀羅尼を念誦する僧侶を目の当たりにすると、何やら山霊の気に感応し、見えないものが見えてくるような気になります。

そして、根本中堂を出たところで見たのが、このブログに縁浅からぬ賢治の歌碑。



「根本中堂」と頭書して、賢治はこの地で以下の歌を詠んでいます。
  
  ねがはくは 妙法如来 正徧知
  大師のみ旨 成らしめたまへ

(歌碑の手前に立つ銘文)

平成8年に歌碑が建立された際、賢治の弟である宮澤清六氏が、その由来を記していますが、それを読むと、賢治が父親に誘われて叡山を詣でたのは、大正10年(1921)4月のことです。

清六氏の文章は、抑えた筆致で当時の状況を記していますが、その頃の賢治は「日蓮かぶれ」が著しく、どう贔屓目に見ても、親泣かせのそしりを免れない時期でした。いっぽう父・政次郎の賢治への接し方は立派だったと思います。この父子の叡山詣での道行きを思うとき、私はむしろ政次郎に感情移入して、ちょっと涙ぐましい思いに駆られます。

   ★


そして、賢治の歌碑の脇には、偶然にも「星峰稲荷」がありました。
鳥居をくぐり、ちょっと上がったところに、ひっそりとその社殿があります。



これまた星に関係ある話で、少なからず奇縁を感じました。

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そして、星といえば、「天台って、ちょっと天文台に似てるな。でも“天台”って、そもそもどういう意味だろう?」という疑問が、ふと頭をよぎりました。
以下、例によってパパッと調べたことを記します。

天台宗とは、いうまでもなく最澄(767-822)を開祖とする日本仏教の宗派ですが、元は中国の天台宗(天台教学)を移入したもので、「天台」の名は中国に由来するものです。

その中国の天台宗は、天台大師・智顗(ちぎ、538-597)を実質的開祖とし、最澄はその法統の末に連なる者。そして、智顗が「天台大師」と称されるわけは、中国浙江省にある霊山「天台山」で活動を展開したからで、天台山でその教義を確立したゆえに「天台宗」と称するわけです。

   ★

結局、「天台」とは地名であり、山の名です。

で、「天を望む高台」だから「天台」と名付けられたのだろう…と、最初は単純に思いましたが、そこにはさらに奥があって、もし仮にそういう意味だったら、旧字では「天臺宗、天臺山」と書いたはずですが、事実は最初から「天台宗、天台山」であり、「天台」とは実は「天を望む高台」という意味ではありませんでした。

事の真相は、天台宗の若手僧侶の団体である「天台仏教青年連盟」のWEBページに、分かりやすく書かれていたので、その一部を引用させていただきます。

■「天台宗」という名前の意味:天台仏教青年連盟
 http://tinyurl.com/zqrvfqk

 漢和辞典を開いてみると、「台」にはもともと「臺」と「台」の2字があったと記されています。台地や縁台・台所などの「台」の本字は「臺」なのです。そして、「臺」ではない「台」とは星のこと、上台・中台・下台の三台星(さんたいせい)、三ツ星のことなのです。今は「台」も「臺」もどちらも「台」と書くので混乱してしまいますが、天台の「台」は星の名前、天(そら)に輝く星というちょっとロマンチックな名前を持つ天台宗なのです。

 天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説がありました。地上で最も神聖な場所だということです。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星は大熊座の一部と推測されています。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるというのです。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものです。そして、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教え、すなわち天台宗なのです。

----------------(引用ここまで)-----------------

要するに、天台とは星の名に由来し、その真下にある山だから「天台山」というわけです。

   ★

ここで、連想は再び「星峰稲荷」に戻ります。
まだ「天台」の原義が人々の脳裏にあった頃、この霊山を「星の峰」という美称で呼んだ時期があったのではないでしょうか。


星峰稲荷の由来書きには、そこまで書かれてはいませんでしたが、地名は土地の記憶を伝える、最も確かなものですから、ひょっとして…と思います。
この件は、もう既に書かれたものがあるかもしれませんが、私なりに思いついたこととして、ここに記しておきます。

   ★

さらにまた、中国の天台山のことをウィキペディアで読んでいたら、宗祖・智顗(ちぎ)が天台山に開いた「天台山国清寺」(旧名は天台寺)の項に、「天文学者としても有名な僧一行がこの寺で活動したため、境内に一行法師の碑や塔がある」という一文があるのを目にしました(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E6%B8%85%E5%AF%BA)。

一行という人のことも不案内だったので、そのままリンク先(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A1%8C)を読みに行くと、

 一行(いちぎょう、いっこう、諡号:大慧禅師、683年‐727年)は、中国の唐代の僧であり、天文学者でもある。俗名は張遂則で、大衍暦を編纂した。〔…〕それまで使用されていた麟徳暦が日食予報に不備があるため、梁令瓚と共に黄道游儀や水運渾象(水力式天球儀)を作成して天体観測を行い、更に南宮説と共に北は鉄勒から南は交州に至る大規模な子午線測量を行って、緯度差1度に相当する子午線弧長が351里80歩(約123.7km)という結果を算出し、それらの観測結果に基づいて『開元大衍暦』52巻を作成した。

要は、中国の渋川春海みたいな人で、その千年前の大先輩というわけです。

   ★

そんなこんなで、「天台」と「天文台」は直接関係ないにしても、この地は確かに星とかかわりがあり、今回の比叡山詣では、このブログの趣旨からそう外れるわけでもないようです。

星に導かれ、古い天球儀に惹かれて京都を訪ね、その足で叡山に登ったことは、何か偶然以上のものが作用したのかもしれません(作用しなかったかもしれません)。

(僧侶が受戒する戒壇院)

天の川原にゆれる薄2015年07月07日 22時14分16秒

今宵は七夕。
セオリー通り、今年も雲が一面空を覆っていますが、天上では人々の好奇の目を避けて、二星がゆっくり逢瀬を楽しんでいることでしょう。

七夕にちなみ、今日は和の風情を出して、1枚の短冊を載せます。


詠題は「七夕草花」。


「ひさかたの 天の川原の初尾花 まねくかひある こよひなりけり」

薄の穂が風になびくことを、人が手招きする様になぞらえて「招く」と表現します。
七夕の夜、天上では薄の若穂が涼しく揺れ、地上では嬉しくも大事な客人をこうして迎えることができた…という挨拶の歌でしょう。

作者は、植松茂岳(うえまつしげおか、寛政6年-明治9/1794-1876)。
尾張藩校で長く講じた、名古屋の国学者・歌人です。

この茂岳の名が天文学史の本にも顔を出すのは、彼には国学の立場から天文学を論じた『天説弁(文化13/1816)という著書があるからです。

これに対し、同じ国学の立場から、平田篤胤は『天説弁々』という反論の書を出し、茂岳はそれに応えて『天説弁々の弁』という再反論の書を出した…と聞くと、あまりにもベンベンしすぎて笑ってしまいますが、「これらの書物は平田篤胤派と、本居大平派の古道学者両派の言葉の上の論争で、天文学の立場から見れば、これという価値を見出すことはできないものと考えられるので、これ以上立入らない」と、識者はあっさり切り捨ているため、肝心の中身はよく分かりません。(引用は、渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史(上)』より)

   ★

その内容はともかく、星に心を寄せた、この風雅な国学者の歌を読んで、まっさきに思い浮かべたのは、「銀河鉄道の夜」の以下のシーンです。

 「〔…〕おや、あの河原は月夜だろうか。」
そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
 「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛を吹ふきながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしましたが、はじめはどうしてもそれが、はっきりしませんでした。けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって〔…以下略…〕
                      (『銀河鉄道の夜』、「六、銀河ステーション」より)

銀河の川原には一面に薄が茂り、さらさらと風になびいている…
この美しいイメージは、賢治のはるか以前から、日本の文芸の世界に連綿と続いてきたらしいことを、茂岳の短冊を見て知りました。

第三半球物語…カテゴリー縦覧:稲垣足穂編2015年04月16日 05時42分00秒



足穂の初期作品集、第三半球物語』の復刻版が出ていると知ったのは、わりと最近です。出たのは平成24年10月ですから、はや2年半も前。

復刻を手がけたのは、以前『一千一秒物語』の復刻も出した沖積舎で、そのことはずっと以前に書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/12/09/2495793)。

(二重箱から出した本体)

(カバーを外した裸本の状態もカッコいい)

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ここで足穂の初期作品をおさらいしておくと、第1作品集である『一千一秒物語』が金星堂から出たのは、大正12年(1923)、彼が23歳のときです(その草稿を佐藤春夫に認められ、春夫の書生みたいな形になったのは、その2年前のことでした)。

その後、大正14年(1925)に『鼻眼鏡(新潮社)が、大正15年(1926)には『星を売る店』(金星堂)が出て、さらに昭和2年(1927)に出たのが、この『第三半球物語』です。版元はこれまた金星堂。(ちなみに、金星堂は大正7年(1918)創業の出版社で、今も神保町でそのまま営業している由。あまりその名を聞かないのは、戦後は文学から語学書に方向を転じたからでしょう。)

そして、これらの著作に、翌昭和3年(1928)に出た『天体嗜好症(春陽堂)を加えたものが、初期タルホ・ワールドの構成要素で、いみじくも佐藤春夫が評したように、ココア色の芸術の葉をペーパーに巻き、アラビアンナイトの荒唐無稽を一本のシガレットに封じ込めた」ような作品群です。

(目次より)


上は足穂自ら手がけた口絵、”A Night at a Bar”。
巻頭作品、「バーの一夜」のために画いたもの。


「この中に星が紛れ込んでいる!」の一言で始まった大騒動の結末は…?
下が巻末作品、「星同志が喧嘩したあと」です。


何だかんだ言って、やっぱり洒落てますね。
この「洒落」(fancy & wit)の要素は、足穂に終生ついて回ったもので、賢治にはない肌触りです。

「ユリイカ」 2006年9月臨時増刊号(総特集・稲垣足穂)を読んでいたら、あがた森魚さんが、賢治「20世紀の山村の少年博物学」であり、足穂「20世紀の都市の少年博物学」だと語っているのが目に留まりました。果たしてそこまで簡略化していいものかどうか迷いますが、一方の作品舞台が「森の中に立つ料理店」であり、他方は「都会の街角に立つバー」だと聞けば、たしかにそんな気もします。

   ★


話が脱線しました。
ともあれ、タルホの世界を覗き見るには、当時のオリジナルを見るにしくはなく、タルホ好きにはお勧めの一冊です。

(奥付より。当時は「稲垣足穂」ではなく「イナガキ・タルホ」が正式な名乗りだっようです。)

銀河ステーションを定刻発2015年04月14日 22時45分21秒

再びそういえば、昨日の写真に写り込んでいた懐中時計。


これは旧ソ連製だそうで、値段もごく安価なものですが、兎にも角にも裏面のデザインに魅かれて購入しました。


「銀河鉄道の夜」の本文とは、直接関係ないとはいえ、いつか時計屋の店先を再現するときが来たら、是非その隅にそっと置きたいと思ったからです。


それに、いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原」とは、おそらくこんな色をしていたんじゃないかと、ふと思ったりします。


そして物語のラスト、息子の死を一見冷厳に告げた、カンパネルラのお父さんの手には、竜頭も折れよとばかり固く時計が握りしめられ、その表面はぐっしょりと汗で濡れていたはずだと思うのです。