夢の収蔵庫2024年04月27日 14時32分13秒

せっせと資料を集めていると、なんだか「自分だけの小さな博物館」を作っているような気分になることがあります。

自分だけのミュージアムを持てたら…。
これは私にとっての夢であると同時に、多くのコレクターにとっての夢でもあるでしょう。そこにどんなものが並ぶかは、人それぞれだと思いますが、お気に入りのモノに囲まれた世界にずっと身を置きたいというのが、そのモチベーションになっていることは共通しているはずです。

まあ、中には例外もあります。たとえば“私設戦争犯罪資料館”があったとして、そこに並ぶ品がオーナーにとって「お気に入りのモノ」とは思えないし、江戸の春画コレクターにしても、その世界にずっと身を置きたいとは思わないでしょう。

そんな例外はあるにしても、「お気に入りのモノに囲まれた世界にずっと身を置きたい」というのは、わりと普遍的な観望だと思います。

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今の私の部屋はさながらコックピット状態で、「お気に入りのモノに囲まれる」という部分だけ取り出せば、すでに目標達成といってもいいですが、じゃあこれが理想の姿かと言われれば、もちろん違います。

たとえ小さな博物館でも、博物館を名乗るからには、「展示」「収蔵」、さらに「調査研究」のためのスペースが分離していてほしいわけで、今の環境はそのいずれも満たしていません。たしかにモノはそこにあります。でも、単にモノが堆積している状態は「展示」とも「収蔵」とも言わないでしょう。収蔵とは、きちんとモノが整理され、必要な時に必要なモノにアクセスできることをいうのだと思います。

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そんな願望から、7段のトレイが付いた小引き出しを手に入れました。


これが私のイメージする収蔵庫のミニチュアで、何だかいじましい気もしますが、千里の道も一歩からです。


これを購入したのはもちろん実際的な理由もあって、ウクライナのブセボロードさんを知って以来、アストロラーベやそれに類する天文機器が急に増えたので、それを効率的に収納する必要に迫られたからです。


平面的なモノを収めるには、こういう浅いトレイの引き出しが便利で、ほかにも対象に応じて、いろいろな物理的収納形態が考えられます。中には気密性の有無が重要になる品もあるでしょう。

いずれにしても、深浅大小さまざまな引き出しが壁一面にあって、モノを自由に取り出したりしまったりできたら嬉しいですね。そして(もちろん)ゆったりとした書棚があり、ガラス戸つきの大きな戸棚があり…となると、だいぶ理想のミュージアムに近づいてきますが、いかんせんそれらを置く空間を作り出すことが難しいので(神様ならできるかもしれませんが)、今のところは単なる夢想に過ぎません。

大コレクター逝く2023年07月29日 09時38分29秒

ペーター・ラウマン(Peter Louwman)氏の訃報に接しました。
ラウマン氏は、アンティーク望遠鏡、及びその周辺光学機器の大コレクターです。

ラウマン家は自動車の輸入販売で財をなしたオランダの一族で、代々が蒐集したクラシックカーの一大コレクションは、その私設博物館に堂々と陳列されています。


■Louwman Museum 公式サイト

ペーター・ラウマン氏の望遠鏡コレクションも同博物館の一角に収蔵されているらしいのですが、改めて公式サイトを見ても、その説明がありません。「あれ?」と思って、よくよく事情を聞いてみると、下のページにその説明がありました。


■ラウマンの歴史的望遠鏡: ラウマン博物館(オランダ、ハーグ)
 ~世界最大の望遠鏡の個人コレクションは、オランダの自動車博物館の秘密の翼廊に隠されている~

それによると、氏の望遠鏡コレクションは確かに博物館の一角に収められているものの、博物館の公式コレクションではなく、あくまでもラウマン氏の個人的営みであるため、ふだんは原則非公開。ただし毎月第1金曜日だけ、博物館の入館券を持った人に限り、見学を認めているということです。もちろん、事前にラウマン氏の許可を得れば、他の日でも見学は可能であり、いずれもラウマン氏自身が親しく展示品について説明をしてくれるだろう…というのですが、主亡き今、今後どうなるのかは不明です。

そのラウマン氏のコレクションの一端と、自ら展示品の解説をしてくれている在りし日のラウマン氏を、下の動画から偲ぶことができます。


■Louwman Historic Telescopes

それにしても、世に中にはすごい人がいるものです。
そして、この世界はまだまだ広いです。

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ラウマン氏のご冥福をお祈りします。

人類学博物館にて2023年07月19日 18時51分35秒

すさまじい暑さが続いていますが、一昨日は『高岡親王航海記』を注文した後、勇を振るって外出しました。向かった先は南山大学人類学博物館
『高岡親王航海記』には、いろいろ南方の異人たちが登場するらしいので、そこから連想しての訪問です。

まあ大航海どころか、てくてく歩いて行けるぐらいの距離なんですが、なにせ学校休業日は博物館も休みだし、平日も午後4時半には閉まってしまうので、これまで行く機会がありませんでした。一昨日はたまたまオープンキャンパスの日と重なったための初訪問です。

【注】 同日撮影した写真を手違いですべて削除してしまい、復元もできないため、以下、Googleマップに投稿された写真をお借りします。著作権はもちろんすべて原撮影者の方にあります。なお、撮影時期の関係で、現況とは異なる場合があります。


南山大学は上智大学と兄弟分のカトリック系の大学です。
カトリックの僧侶はザビエルの昔から、世界の津々浦々に布教に赴き、布教と併せて現地の文化について研究を重ねてきた…という歴史が、この人類学博物館の背後にはあります。そして、南山大学の人類学教室は、日本の人類学の歴史の中でも特筆すべき地位を占めていると聞きました。

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博物館は正門近くのR棟地下にあります。
入口に置かれたクリアファイルも記念絵葉書も、ご自由にお取りくださいという太っ腹。しかも展示品はレプリカではなく全て本物なのに、どれも触ってOK、写真もフラッシュをたかなければどうぞご自由に…という、これまた鷹揚な点に驚きました。


私も含め多くの人は、「見るだけの展示」に慣れ過ぎていますが、実際に手で触れるというのは、とても重要なことだと思いました。私が痛感したのは、たとえば新旧の石器類です。


その刃の尖り具合と切れ味は、見ているだけでは決して分からないでしょう。そしてその感触の向こうに、文字を持たなかった人々の見ていた風景が、一瞬鮮やかによみがえったような気がしました。


上の写真は、タイの少数民族で唯一漢字を用いているユーミエン族(ヤオ族)の「評皇券牒」。ユーミエン族の出自から説き起こし、彼らが中国皇帝から直々に移住生活の自由や免租の特権を与えられていることを、皇帝の勅許状という体で書き記した一種の偽文書です。その内容・体裁が、木地師の元祖を惟喬親王に仮託した、いわゆる木地屋文書【参考LINK】とそっくりなことに驚きました。

(ヤオ族の女性。Wikipediaより(rex pe 氏撮影)。ただしこれはタイではなく、中国在住者を撮影した写真のようです。)

ユーミエン族がタイの国境を越えたのは19世紀のことだそうで、そう古いことではありません。でも、ユーミエン族に限らず、中国南部の各民族は、これまで幾度となくその居住域を変え、インドシナ半島へと移り住んだ集団もあるでしょう。今では国境線がリジッドになり、定住政策も進んだので、その移動は緩慢なものとなりましたが、  ユーミエン族の歴史の向こうには、それよりもさらに長く、複雑な民族移動の歴史が――それこそ高丘親王の時代から続くであろう歴史が――垣間見えるようです。

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帰り際、再び石器コーナーの前に立った時、唐突にこんなことを考えました。

人類最大の発明は、火薬でも、活版印刷でも、インターネットでもなく、「言語」だと私は思います。言語を獲得したことで、人類は後戻りのできないルビコンを渡ったと思えるからです。

言語によって人は経験を固定し、それを他者に伝えることができるようになりました。その意味で、言語こそ文化的遺伝子そのものです。そして言語によって、人は「今、ここ」のくびきを逃れて、未来でも過去でも、はるかな山の向こうでも、時空を超えて自由に精神を飛ばすことができるようになりました。

人はいつ言語を獲得したのか?
それはもちろん文字の発明よりもはるかに前でしょうが、「いつ」に関して定説はありません。でも、石器の進化の歴史の中のどこかであることは確実です。


石器と言語はともに世界を切り開き、裁断する―。
この石器群の中にこそ、人類が不可逆な変化を遂げた言語誕生の秘密も隠されているのであろう…と、その刃先に一つずつ触れながら、考えていました。


一方で、言語が生まれたことで、人はリアルな世界から切り離されて、言語が作り出すヴァーチャルな世界に閉じ込められたとも言えます。我々は「アオイ-ソラ-ト-シロイ-クモ」という言葉に邪魔されて、もはや本当の青い空と白い雲と向き合うことができなくなっている気がしてなりません。(たしかに、無心に空を見上げているときもなくはないんですが、対象を意識するともうだめです。このことはたしか以前も書きました)。

言語はこの上なく強力な道具であると同時に、強く人を束縛するものです。
言語以前の人類は、たぶん眼前にないことを思い患うことはなかったでしょうし、ひょっとしたら死すらも恐れなかったかもしれません。言語こそがアダムの林檎であり、楽園を追われる元となった、人類の原罪そのものではないか…と思ったりします。

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人類学博物館を訪れ、そこを辞するまで、参観者は私一人だけでした。
人目を気にすることなく、上のような思い入れたっぷりの時間を過ごせたことは、とても贅沢な時間の使い方で、暑さを乗り越えて訪問してよかったです。

鉱物標本を読み解く2022年10月04日 21時03分04秒

昨日、ツイッターで以下のようなツイートが流れてきて、「お、いいね」と思いました。
ツイート主は、ケンブリッジ大学ホイップル博物館の公式アカウントです。


写っているのは、同博物館に保管されている、19世紀後半~20世紀初頭の鉱物・化石の標本セットで、小さな箱にきっちりと詰まった様子が、いかにも標本らしい表情をしています。そして、単に見た目にとどまらず、その先を追ってみたら、話がいよいよ深いところに入っていったので、ますます「いいね」と思いました。

上の標本に注目し、ホイップル博物館のメイン展示室に陳列したのは、台湾出身のグエイメイ・スーさんです。たぶん漢字で書くと、徐(または許)貴美さんだと思うのですが、スーさんは、レスター大学の博物館学の学生として、ホイップル博物館でワーク・プレースメント(実習を兼ねた短期就労)を経験し、その実習の仕上げとして、オリジナルのミニ展示を企画するという課題を与えられました。

以下はスーさん自身のサイトに書かれた、事の顛末です。


スーさんに与えられたのは、わずか110×70センチ、高さは22センチのガラスケース。このスペースで、何か博物館学的に意味のある展示をせよ…という、なかなかチャレンジングな課題なのですが、スーさんが紆余曲折の末に到達したテーマが「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学(Collecting the Nation: Geology in Nationalism, Colonialism, and Modern Education)」というものでした。

そこに展示されたのは、まずチェコで作られた教育用の小さな化石標本セット
その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます(※)。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。

あるいは、イギリスで作られた鉱物標本セットと、それに付属する論文抜き刷りの束。そこに書かれた、あからさまに植民地を軽侮する言葉の数々―。

(上記「Placement Reflection 3」より寸借)

そしてもう一品は、1960年代に頒布された、アメリカ版「○年の科学」のような理科教材(Things of Science)に含まれる鉱物・化石標本です。
これはミニサイズの鉱物標本の長い伝統と、鉱物学習においてきわめて重要な側面、すなわち「触覚的側面」を思い起こさせるものとして、展示に加えられました。この触覚的側面こそ、コロナ禍のオンライン学習では決定的に不足したものです。

これらを組み合わせて、スーさんは「国家収集:ナショナリズム、植民地主義、近代教育における地質学」という企画をされたわけです。

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古い鉱物標本を見て、「趣があるねぇ…」ということは簡単です。
しかし、モノはいろいろな文脈に位置付けることができ、そこからいろいろな意味を汲み取ることができます。客観を旨とする自然科学の標本であっても、歴史的・社会的に価値フリーということはありえません。

しかも、これらの標本セットは、スーさんも指摘するように、「博物館のミニチュア」でもあって、こうした展示を博物館で行うことの入れ子構造と、博物館そのものに浸み込んだ国家主義と植民地主義を逆照射する面白さが、そこにはあります。
総じていえば、「メタの視点の面白さ」を、今回の一連の記事から感じました。

私の部屋の見慣れた品々も、掘り下げてみれば、まだまだいろいろな顔を見せてくれることでしょう。


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(※)チェコ民族復興運動との関連では以下の記事も参照。

 ■彗星と飛行機と幻の祖国と

アドラーは一日にして成らず2021年09月05日 11時15分25秒

昨日も触れましたが、シカゴのアドラー・プラネタリウム(1930年開館)は、天文博物館を併設していて、天文分野に限っていえば、そのコレクションはヨーロッパの名だたる博物館――ロンドンの科学博物館、パリの国立工芸館、ミュンヘンのドイツ博物館等にもおさおさ劣らず、西半球最大というのが通り相場です。

しかし、それほどのコレクションがどうやってできたのか?
20世紀の強国、アメリカの富がそれを可能にしたのは確かですが、逆にお金さえあれば、それが立ちどころに眼の前に現れるわけではありません。そこには長い時の流れと熱意の積み重ねがありました。

…と、相変わらず知ったかぶりして書いていますが、創設間もない時期に出た同館のガイドブックを見て、その一端を知りました(著者のフォックスは、同館の初代館長です)。


Philip Fox
 Adler Planetarium and Astronomical Museum of Chicago.
 The Lakeside Press (Chicago), 1933. 61p.

以下、ネット情報も交えてあらましを記します。

結論から言うと、アドラー・コレクションの主体は、既存のコレクションを買い取ったものです。もちろん創設以来、現在に至るまで、そこに付け加わったものも多いでしょうが、核となったのは、メディチ家とならぶフィレンツェの富豪貴族、ストロッツィ家のコレクションでした。

500年近く前に始まった、同家の科学機器コレクション、それが19世紀末にパリの美術商、ラウル・ハイルブロンナー(Raoul Heilbronner、?-1941)の手に渡り、次いで第1次世界大戦後に、名うての美術商・兼オークション主催者だったアムステルダムのアントン・メンシング(Antonius Mensing、1866-1936)が、それを手に入れました。この間、ハイルブロンナーとメンシングは、それぞれ独自の品をそこに加え、コレクションはさらに拡大しました(その数は全体の3割に及ぶと言います)。



工匠の技を尽くしたアストロラーベ、ノクターナル、アーミラリー・スフィア、天球儀、日時計、古い望遠鏡…等々。その年代も、まだ新大陸が発見される前の1479年から、アメリカ建国間もない1800年にまで及ぶ、目にも鮮やかな逸品の数々。メンシングはその散逸を嫌い、アドラーが入手したときも、一括購入というのが販売の条件でした。

約600点から成る、この一大コレクションを購入した際の資金主が、百貨店事業で財を得た、地元のマックス・アドラーで、これは旧世界の富豪から、新世界の富豪への時を超えた贈り物です。

(Max Adler、1866-1952)

以上のような背景を知るにつけ、「アドラーは一日にして成らず」の感が深いです。

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気になるその購入価格は、ちょっと調べた範囲では不明でした。
ただ、箱物であるプラネタリウム本体も含めた、その建設費用の総額が約100万ドル(参考LINK )だそうで、もののサイトによるとこれは現在の1600万ドル、日本円でざっと17億円にあたります。600点のコレクションの中には、とびきり高いものも、そうでないものもあると思いますが、丸めて平均100万円とすれば6億円、建設費用全体の3分の1~半分ぐらいがコレクション購入に充てられたのでは…と想像します。

なんにせよ豪儀な話です。

では、わが家の「小さなアドラー」の方は、1点あたり平均1万円、総額600万円ぐらいで手を打つか…。私は車も一切乗りませんし、維持費が馬鹿にならない車道楽の人の出費に比べればささやかな額でしょう。それにしたって、小遣いでやりくりするのは大変で、これぐらいのところでせっせと頑張るのが、身の丈にあった取り組みという気がします。小さなアドラーだって決して一日にしては成らないのです。

(これぞホンモノの「小さなアドラー」。1933年シカゴ博のお土産品)

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最後にちょっと気になったのは、アントン・メンシングのことです。
メンシングの名前は以前も登場しました。ただ、その登場の仕方があまり芳しくなかったので、科学的な身辺調査の実施状況も含めて、「小さなアドラー」の主として、いささか御本家のことが慮(おもんぱか)られました。

■業の深い話

ヴィクトリアン・サイエンスの夢2017年09月05日 07時23分18秒

知られざる理系アンティークショップは、まだまだ世界に多いな…と、下の写真を見て思いました。画像検索していて、偶然行き会った写真です。


有名どころの理系アンティーク・ショップは、それぞれ商品構成に特徴がありますが、こんなふうに、古風な電気実験機器をメインにした店は珍しいです。

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…というような想像が、私の脳内を一瞬駆け抜けましたが、その画像元を見に行ったら、これはショップではなくて、博物館のスナップ写真でした。その名も『ヴィクトリアン・サイエンス博物館』

Museum of Victorian Science(公式サイト)

こんな素敵な博物館の存在を今まで知らずにいたのは、私の無知のせいもありますが、そればかりではなく、この場所自体、かなりマイナーな珍スポットに属するという事情もあります。

グーグルマップでその場所を訪ねると、イングランド北部、リーズ北東70kmの草深い地に…



こんな看板がぽつんと出ているだけの施設です。
しかも、公式サイトを見ると、「見学は要予約。できれば数日前に予約されたし。16歳未満は入館禁止〔別の箇所には18歳未満禁止とも〕。質問は電話でのみ受け付けます。」と、相当な偏屈ぶりを匂わせています。

とは言え、トリップアドバイザーの該当ページを見ると、「旅行者の評価」は「とても良い」が45人で、「良い、普通、悪い、とても悪い」は0人。つまり、全員が「とても良い」を付けています。たいていの観光スポットは、「とても良い」「良い」「普通」にばらけるのがふつうですから、これは例外的な好評ぶりと言って良いでしょう。

口コミの冒頭にある、イギリス・インバネスから訪問した某氏のコメント(トリップアドバイザーによる機械翻訳をそのまま転載)。

「ビクトリアの科学博物館を見学します」
「では博物館は信じられないを訪れになりました。ありがとう!" 私たちはマルコーニでは、スライド、大砲は気に入りました!! ほぼ 2 つの砲弾獲れた! ウィムズハーストマシン素晴らしかったですthe 、私たちのお気に入りは、フランケンシュタインフィナーレでした!は、紅茶、ビスケットに感謝します。もよかったです。 私達は、本当に私たちはまた来ることができますここは私たちが今までに行ったことが今まで最高の博物館だったのでいつか行きたいです!もあり、科学に興味をお持ちでない場合は、この場所ととても魅力的であるがとても気に入りました。もします。 科学博物館の裏手にある歴史的背景もありとても気に入りました。 本当にありがとうございましたまた泊まりたいです!!!!!」

不思議な日本語はさておき、そのびっくりマークの多さに、某氏の感動と興奮がダイレクトに感じられます。

全体として、館長の個性が前面に出た、いかにもアクの強い個人博物館…といった趣です。そこにこそ、得も言われぬ面白さがあり、衝撃があるのでしょう。


さあ、あなたも“現代のフランケンシュタイン博士”、素敵な館長トニーの案内で、夢多きヴィクトリアン・サイエンスの世界へ!!!!!!

パドヴァ天文台2017年02月19日 11時46分25秒

長靴型のイタリア半島の付け根、東のアドリア海に面する町がベネチアで、ベネチアの西隣に位置するのがパドヴァの町です。

ガリレオは1592年にパドヴァ大学に赴任し、1610年にフィレンツェに移るまで、この町で研究に励みました。彼の最大の功績である望遠鏡による星の観測や、『星界の報告』の公刊も、パドヴァ時代のことです。


上は、そのパドヴァの町にそびえる天文台。
1910年前後の石版刷りの絵葉書。緑のインキで刷られているところがちょっと珍しい。
左側にミシン目が入っていて、使うときは切り取って使ったものらしいです。

(一部拡大)

この塔こそ、ガリレオが星の観測に励んだ場所だ…というのは、ずいぶん昔からある伝承で、「そりゃ嘘だ。第一、時代が合わない」という声を尻目に、そう信じている地元の人も少なくないそうです。

その辺の事情を、INAF(Istituto Nazionale di Astrofisica、イタリア国立天体物理学研究所)のサイトでは、こう説明しています(以下、適当訳)。

パドヴァ天文台博物館 「ラ・スぺコラ」
 パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史

 多くのパドヴァ市民(や市外の人)に伝わる誤った伝承によれば、この天文台の塔こそガリレオの塔であり、高名な科学者は、この場所から素晴らしい天文学の発見の数々を成し遂げ、人類史上初めて、天空の裡に隠された星々の特異な性質を解き明かしたとされる。これらの発見によって、彼は天文学のみならず、科学全体に革命を起こしたのだ。

 このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。

 ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。

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その「スぺコラ博物館」の内部の様子は、同じINAFの以下のページで少し覗き見ることができます。

■SPECOLA, THE ASTRONOMICAL OBSERVATORY OF PADUA

展示の主力は18世紀後半~19世紀の天文機材で、ガリレオ時代のものは仮にあったとしても、他所から持ってきたものでしょう。それでも、13世紀にさかのぼる中世の塔に、古い天文機材が鈍く光っているのは、なかなか心を揺さぶられる光景です。

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以下、おまけ。ちょっと角度を変えて撮った絵葉書も載せておきます。


こちらはリアルフォトタイプなので、1920年代ぐらいの光景だと思います。




天文台とは関係ないですが、添景として写っている少年たちの姿がいいですね。
こんな塔のある古い町で子供時代を送ってみたかったな…と、ちょっと思います。



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閑語(ブログ内ブログ)

沖縄のこと、福島のこと。
そしてまた南スーダン、共謀罪、森友学園の土地取得疑惑…と、政権周辺波高し。
にもかかわらず、またぞろ強行採決をもくろむとすれば、やっぱり現政権は●っているとしか思えません。でも、今日はちょっと違うことを書きます。

今朝、ふと菅元総理の「最小不幸社会」というスローガンを思い出しました。
あれは2010年のことで、その言葉がニュースで報じられるや、「なんで『最大幸福社会』と言わないんだ」と大ブーイングでした。

当時の言説をネットで読み返すと、「考えが後ろ向きだ」、「希望がない」、「覇気がない」、「敗北主義だ」とか、あまりにも感情的な言葉が並んでいるのに、ちょっと驚かされます。菅さんへの個人的好悪をさておき、私自身は、当時も今も「最小不幸社会」の実現は、政治家として至極真っ当な主張だと思っています。

金持ちがいっそう金持ちになるべく、欲望をぎらつかせることは勝手ですが、何も政府がその後押しをする必要はありません。お上は、もっと弱い立場の人に目配りしてほしい。幸福の総量が増すことと、その分配が真っ当に行われるかは別の問題ですし、仮に一部の者の幸福が、他の者の不幸の上に築かれるとしたら、それは不道徳というものです。

小石川とインターメディアテク2016年10月16日 12時11分49秒



昔…といっても、まだ10年も経ちませんが、東大総合研究博物館の小石川分館で常設展示されていた「驚異の部屋展」を、この時期になると懐かしく思い出します(私の中では、小石川は秋のイメージと結びついています)。

文明開化の息吹を伝える、明治の擬洋風建築(旧医学館)の床をギシギシ、コトコト言わせて、古い標本や教具の間をゆっくり見て回るのは、とても豊かなひとときでした。あそこはいつ訪ねても人気(ひとけ)がなく、窓の外の植物園には、ときに冷たい雨が、ときに柔らかな日差しが降り注ぎ、自分はそれを眺めながら、昔のことや今のことをぼんやり考えたのでした。

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あそこに並んでいたモノの多くは、今も丸の内のインターメディアテク(IMT)で目にすることができます。でも、それはかつての小石川の経験と等質ではありません。

別にIMTが悪いというわけではありません。

…と言いつつ、やっぱり悪口になってしまいますが、今のIMTに見られる「物量主義」と「豪華珍品主義」は、結局のところ、20年以上昔に『芸術新潮』が「東京大学のコレクションは凄いぞ!」という特集を組んだ際(1995年11月号)の、「お宝バンザイ」的なノリと何ら変わりません。あえていえば、それは「アカデミックな成金趣味」そのもので、あの展示を見ていると、「どうだ、恐れ入ったか!」と、驚嘆することを強いられているような、妙な疲労感を覚えることがあります。

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あれ、キミらしくないね。物量と珍品こそヴンダーカンマーの本質だろ?何でそれがいかんの?

いやあ、齢のせいかな。この頃、焼肉よりお茶漬けを好むようになってね。

はは、なるほど。でも、別にIMTの物量に圧倒される必要はないよ。ありゃあ大時代な“帝国主義的博物館”の一種のパロディというか、モノを展示しているように見せて、実は“博物館的空間”を展示している、巨大なインスタレーション作品なんだから。そこに西野館長の狡猾な――もとい緻密な計算があるわけさ。

え、本当かい?そんなもんかなあ…

ああ、間違いない。あのあざとい壁の色を見れば分かる。

まあ、それなら得心がいくけど。

IMTに侘び茶の風情を求めるのはお門違いさ。IMTに行ったら、IMTそのものを楽しまなくちゃ。

うーん…でも強いて望むなら、IMTにはもっと静寂と、木々の緑と、大らかさが欲しいね。その点は、昔の小石川のほうが遥かに良かったよ。それでこそ、空間そのものをもっと楽しめる気がする。

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…と、上の赤い人は無責任な感想を述べていますが、「あれで入館無料」という東大の太っ腹には、私も大いに敬意を払っていますし、これからも度々足を運ぶことでしょう。

そして、これは100%確実な予想ですが、もしIMTが将来閉館したら、「あんな素晴らしい、夢のような空間はなかった」と、私はしみじみ述懐するはずです。私は追憶の中でしか生きられないのかもしれません。

首都の週末(2)…インターメディアテク(後編)2016年07月25日 20時59分58秒

インターメディアテクは、ミュージアムショップがよくない…と、以前書きました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/10/14/7458230)。

さて、最近はどうであろうかと、例によってミュージアムショップ(正式には、「IMTブティック」と呼ぶそうです)に立ち寄ったんですが、品数も幾分か増え、オリジナルの品――以前とは違って、ちゃんと収蔵品にちなむもの――も並んでいたので、ちょっと嬉しかったです。

その中でも特に目を惹いたのが、この標本壜。

(つまみを含む全高は約33cm)

古くなった保存液の風情を出すため、黄褐色の透明シートを丸めて入れてあるのが、心憎い工夫です。

ショーケースには「オリジナル標本瓶 15本限定」という以上の説明はなく、また店番のバイト氏に聞くのも覚束ない気がしたので、特に聞かなかったのですが、若干擦れや汚れがあって、まっさらの新品ではなさそうです。おそらく東大のどこかから出て来たデッドストック品ではないか…と思いました(この点は定かではありません)。


ガラス蓋のつまみ。手わざを感じさせる涼し気な練り玉。
それを透かして見る景色を見ながら、「驚異の小部屋」で見かけた、分厚い半球状のガラスに覆われた標本をぼんやり思い浮かべました。


私が行ったときは、これがショーケースに4本並んでいました。
それぞれにエディション・ナンバーが入っているのですが、そのうちの1本を見たら、「お、一番やんけ」…と、別に河内弁にならなくてもいいですが、ちょっとラッキー感があったので、思い切って購入することにしました。

そして、包んでもらった壜を手に、いそいそとインターメディアテクのゲートを出ようとしたところで、館長である西野嘉章氏とすれ違いました。別に言葉を交わしたわけでもなく、本当にすれ違っただけですが、ほんの数秒時間がずれていたら、このすれ違いも生じなかったでしょうから、まさに「袖触れ合うも多生の縁」です。

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今は漫然と窓際に立ててありますが、ここは「驚異の小部屋」を見習って、もうちょっとディスプレイの仕方を考えてみます。
(さらに、この壜だけでは飽き足らず、インターメディアテクの空気を求めて、帰宅後に画策したことがありますが、それはまた別の機会に書きます。)


(この項つづく。この後は西荻窪に向います)