ハレー彗星来たる(その4)2020年02月09日 10時41分43秒

1835年のパリと1910年のパリ―。

どっちにしたって「昔のパリ」だから、そんなに違わないんじゃないか?…と、私なんかは思ってしまいますが、その場にいた人に言わせると、「いや、全然違う」ということになるようです。

そもそもフランスの近代史は、非常に錯綜しています。
年表を見ると、1835年の直前に「復古王政」から自由主義的な「七月王政」が誕生し、そこからまた革命を経て「第二共和政」に転じ、その反動で「第二帝政」となり、その揺り戻しで「第三共和政」へ…というふうに、政体が目まぐるしく変わっています。そして1910年当時は、この第三共和政の世の中です。

でも、ボン・マルシェの彗星カードを見ると、そんな歴史の荒波は脇に置いて、1910年のパリ人は、ひたすら物質面の繁栄を誇り、彗星にもっぱらそのことをアピールする姿勢が目に付きます。


「(No.2)パリの都は愛らしい彗星に、機関車や自動車や自転車、電信と電話、首都のありさまを、急ぎ足でお目にかけます。いずれも彗星が前回訪れた1835年にはなかったものばかりです。」


「(No.3)パリの都はゴンドラに乗って、アレクサンドル橋とトロカデロ広場、そしてエッフェル塔を望む、花盛りのセーヌ川のほとりへと愛らしい彗星を案内します。これらの偉観は75年前には存在しませんでした。」

こんな風に、カードはやたらと「75年前にはなかった」ものを強調し、そうした新機軸を全肯定するのです。あたかも、当時の大衆の脳裏には、「この75年間で失われたもの」への懐古や郷愁など、全く存在しないかのようです。(実際はそんなこともないのでしょうが、歴史好きのフランス人にしても、当時の目覚ましい技術革新に、大いに幻惑されたのでしょう。)


「(No.4)パリの都は愛らしいハレー彗星に、美しいフランスの兵士たちとともに、飛行艦隊と最新の航空機を誇らしげに紹介します。これまた75年前にはなかったものです。」


「(No.5)パリの都は、75年前にはなかった壮麗なオペラ座が誇らしく、愛らしいハレー彗星に敬意を表して祝賀演奏会を催します。」

オペラ座はパリの華やぎの象徴です。そして、ボン・マルシェ百貨店自体が、オペラ座の建物をモデルに改装を行ったので(1887年)、この文化の殿堂には一目置いていたのでしょう。(同時代の日本にも、「今日は帝劇、明日は三越」のコピーがあったことを思い出します。余談ながら、小説『オペラ座の怪人』が新聞連載されたのが1909年で、単行本化されたのが1910年だそうです。)

それと、空飛ぶ彗星に対して、人間側も航空機の発明を自慢する…というのも、時代の気分をよく表しています。ですから次のカードでは…


こんなふうに、彗星を無理やり飛行機に乗せて、遊覧飛行までしてしまうのです。
向かう先は、もちろん我らがボン・マルシェ。

「(No.6)愛らしい彗星はこの75年間のことを何も知らないので、パリの都は彼女を驚かせようと、急いでボン・マルシェ百貨店に案内します。」


最後のNo.7はスペシャルカードで、30.8×23センチと、他よりも一回り大きいサイズになっています。カードの裏面の説明を読むと、このカードシリーズは、1910年5月1日から18日(彗星の尾が地球に達すると言われた日)までの期間限定で買い物客に配布され、このNo.7はたぶん最終日に配ったのでしょう。

 「いよいよ運命の5月18日。街を覆う赤い夕闇は、地球が炎に焼かれる最後の災いを意味するのでしょうか?いえ、これこそ1910年の彗星がもたらす輝かしい栄光のしるしなのです!」

ちょっとキャプションの文意がとりにくいですが、たぶんこんなことが書いてあるようです。彗星の尾の中には、さらに有翼の車輪に乗った彗星の女神がいて、彼女がもたらす豊かな恵みに、農民たちが歓呼の声を上げている…そんな場面を描いて、1910年の彗星騒動は、大団円を迎えたのでした。

何だか能天気な気もしますが、これが1910年の世の中でした。

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お次は、私自身も体験した1986年ということになるのですが、このころになると彗星の意味が拡散しすぎて、天文ファンを除けば、世間一般の関心は、今一つだった印象があります(その見え方もたいそう貧弱でした)。

でも、1986年に「松明のように燃えている大きな星」が空から落ちてきて、人々を大いにおののかせたのは事実です。ただし、その名は「ハレー」ではなく、ウクライナ語で「苦よもぎ」を意味する「チェルノブイリ」でした。春先のハレー接近の報など、4月のチェルノブイリ事故によって、すっかり世間の記憶や関心から吹っ飛んだ…というのが、個人的実感です。

 「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は『苦よもぎ』といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」 (聖書「ヨハネの黙示録」第8章第10-11節)

1910年のあと、人類は2度の世界大戦を経て、さらに巨大技術が引き起こした惨禍を目の当たりにしました。だからこそ、ボン・マルシェのカードが、いっそう能天気っぽく思えるのですが、反面そこにまぶしさと羨ましさも感じます。でも、我々はもう後戻りはできないですね。

ハレー彗星来たる(その3)2020年02月08日 18時20分04秒

1758年のハレー彗星は、科学ニュースとなりました。
1835年のハレー彗星は、科学ニュースであると同時にファッションとなりました。
では、1910年のハレー彗星はどうなったか?

それは科学ニュースであり、ファッションであり、さらに「コミックとカリカチュア」になったのです。1910年のハレー彗星をネタにした漫画は、文字通り無数にあって、枚挙にいとまがありません。世の中は市民社会から、さらに大衆社会となり、享楽的な気分が漂っていたことの反映でしょう。

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ここで、ハレー彗星をネタにした、一寸変わった品を見てみます。
大衆社会は消費社会でもあって、その申し子である百貨店が作った宣伝用カードです。

パリの有名なボン・マルシェ百貨店は、1852年の創業。

(下に紹介する品の裏面に刷られたボン・マルシェの威容)

消費社会では宣伝戦略がものを言いますから、同社も余念なく広告に力を入れ、19世紀から20世紀にかけて、同社は広告文化の一翼を担う存在でした。

1910年のハレー彗星は、格好の時事ネタをボン・マルシェに提供しました。
同社は、これを7枚シリーズの大判の色刷りカード(24.5×18センチ、オフセット印刷)に仕立てました。たぶん、買い物のオマケとして配ったのでしょう。

その内容はまさに時代の鏡です。これを見ると、1910年のパリ人が、1835年の父祖と我が身を比べて、どのように自己規定していたかが如実に分かります。

以下、順々に内容を見ていきます。まずはシリーズの第1番。


「75年ぶりに現れた愛らしいハレー彗星がしずしずと歩み寄り、パリの都がお出迎えです。」

左側の青いドレスの貴婦人はパリの擬人化、そして長い裳裾を引く右のピンクの麗人がハレー彗星です。美しい両人が75年ぶりに出会った場面を、ドラマチックに描いているのですが、まあこんな甘いお菓子のような表現は、フランス以外では生まれようがないでしょう。

この後、パリの都がハレー彗星を、あちこち案内するという体でストーリーが展開しますが、長くなるので以下次回。

(この項つづく)

ハレー彗星来たる(その2)2020年02月02日 11時18分29秒

17世紀は「科学革命の時代」と持ち上げられますが、その一方で魔女狩りもあり、ペスト禍もあり、地球規模で寒冷な時期だったせいで、人々は素寒貧だったし、ヨーロッパの王様は戦争ばかりやってたし、まるで中世の再来のように暗い面がありました。

ハレー彗星は17世紀に2回来ています。すなわち1607年と1682年です。
それが人々の心にどんなさざ波を立てたのか、詳らかには知りませんが、1607年の彗星は間違いなく超自然的な凶兆だったでしょうし、1682年のときだって、程度の差こそあれ、人々を不安にしたことは間違いありません。

それが1758年になると、さすがは啓蒙主義の時代、ハレー彗星も「単なる科学ニュース」になっていた…というのが、前回書いたことでした。

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さて、その次は1835年です。
この間に、ハレー彗星のイメージはどう変わったのか?

1835年も、ハレー彗星は立派な科学ニュースでした。その点はたぶん同じです。
でも、それだけではありません。

このとき、彗星は新たに「ファッション」になったのです。
言い換えると、ここにきて彗星はにわかに「カッコいいもの」になったのです。これこそが、19世紀の新潮流でした。

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ブローチのデザインの一種に、「彗星ブローチ」というのがあります。

ジュエリー関係の人は、しばしば1835年のハレー彗星こそ、そのきっかけになったと語ります(これは主にeBay業者の言い分ですが、ハレー彗星コレクターであるスチュアート・シュナイダー氏も、自身のサイト「ハレー彗星は1835年に、彗星を記念する新しいジュエリースタイルによって歓迎された」と書いているので、おそらくそうなのでしょう。)

手元にあるアメシストのブローチも、1835年当時のイギリス製と聞きました。


イギリスではヴィクトリア女王が即位(1837)をする直前で、「ヴィクトリアン様式」のひとつ前、「ジョージアン様式」に分類される古風な品です。

この形は、一見どっちが頭(コマ)で、どっちが尾っぽか分かりませんが、いろいろ見比べてみると、どうも大きい方が頭のようです。我々は、写真に納まった“長大な尾を引く彗星”のイメージに慣れすぎていますが、たいていの彗星は、尻尾よりも頭の方が明らかに目立ちますから、素直に造形すれば、確かにこうなるわけです。

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その後も彗星ブローチは作られ続けました。


特に意識して集めているわけではありませんが、しばしば目に付くものですから、小抽斗の中には、新古取り混ぜて彗星ブローチがいろいろたまっています。そのデザインは千差万別で、人間の想像力の豊かさを感じさせますが、これは実際に彗星の形が多様ということの反映でもあります。

天空を翔び、胸元を飾るそのフォルムに注目した「彗星誌(Cometography)」を、いつか書きたいと思っているので、彗星ブローチの件はしばらく寝かせておきます。

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話を元に戻して、19世紀に入って、彗星がなぜ「カッコいい」存在になったかですが、その理由はしごく単純で、19世紀の幕開けとともに、一般のホビーとして「天文趣味」が成立し、それがファッショナブルになったからじゃないかなあ…と思います。

市民社会の成立は、多くのホビーを生み出しましたが、その中でも科学的装備をこらして、遥か天界の奥を窺う天文趣味は、何となく高尚で「カッコいい」行為となり、暗夜にきらめく星空はロマンの尽きせぬ源泉となりました(その流れは今も続いていると思います)。

中でも変化と動きに富む彗星は、まさに夜空のヒーローであり、その天空ショーがまた新たな天文趣味人を生むという好循環によって、19世紀は天文趣味が大いに興起した100年となったのです。


(次の回帰は1910年、ハレー彗星はいよいよ時代の人気者となっていきます。この項つづく)

ハレー彗星来たる(その1)2020年01月26日 10時35分37秒

「史上最初に観測されたハレー彗星は、西暦何年のものでしょう?」

――正解は1758年です。

1682年に出現した彗星が周期彗星であることを見抜いた、英国のエドモンド・ハレーが、「次は1757年に再び現れるぞ」と予言し、若干時期はずれたものの、見事その予測が当たったことから、この彗星は「ハレー彗星」の名を得たのでした。すなわち、同じ実体を備えていても、それ以前に登場したのは「ハレー彗星」という名を持たず、初めて「ハレー彗星」として観測されたのが、1758年の暮れだったのです。

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このときの近日点通過は、翌年の1759年にずれこみましたが、それを紹介する当時の新聞記事が売られていました。


掲載紙は1732年に創刊した『ザ・ロンドン・マガジン』。
新聞と言っても月刊で、今で言うと「雑誌」に当たるのですが、当時はそれでも十分耳新しいニュースを人々に提供したのでしょう。

その1759年6月号に、図入りでハレー彗星が紹介されています。

(図版ページが上下逆に綴じ込まれているのは、おそらく乱丁)


星図(Fig.Ⅱ)の中央に描き込まれた点線(Fig.Ⅲ)が、彗星の位置変化。
下から順に5月1日、2日(e)、5日(a)、6日(b)、18日(c)、21日(d)…と移動していき、いちばん上が5月30日の位置。「うみへび座」の南から、天の赤道を越えて「しし座」まで、ひと月かけてその位置を変えていく様子が描かれています(この図は天球儀と同じく、左右(東西)が逆転した描写になっています)。

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それにしても、これを読んで世の中の変化を実感します。

当時、人々の主要関心事は、すでに議会内外の人間模様であり、貿易問題であり、株の値動きでした。そして彗星の出現は、かつてのように凶兆でも何でもなく、ちょっとした科学ニュースの一つに過ぎなくなっていたのです。

これは世俗化著しいイギリスだから、特にそう感じるのかもしれませんが、それにしたって、250年前の人は、さらにその250年前(西暦1500年ごろ)とは、まるで違った世界を生きていたのは確かで、むしろ250年後の現代人とそう変わらない精神構造を持っていたと言えるんじゃないでしょうか。

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程度の差こそあれ、事情は日本でも似ています。
江戸時代の人は、士農工商を問わず、室町時代の人とはずいぶん違った心組みを持っていた気がします。その背景にあったのが、日本版「啓蒙主義」の発展と、「世俗化」の進行であり、それを下支えしたのが出版文化の隆盛です。

くしくも江戸開幕と時を同じくして、海の向こうではセルバンテスの『ドン・キホーテ』が大当たりをとり、17世紀の幕開けと共に、欧州でも日本でも、中世は遠い物語の世界に押し込められていったのです。

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とはいえ―。 いつの世も若者は過去を嗤い、老人は過去を懐かしみ、その若者もやがては老人となって、新たな若者の登場に目をみはり…そんなことを繰り返しながら、時代は徐々に移り替わっていきます。

ハレー彗星の75~6年周期というのは、人の一生と奇妙にシンクロしていて、非常に人間臭い周期です。今後、人間の寿命が大きく変わらない限り、未来の人々もハレー彗星の話題が出るたびに、「前回あいつが来たときは…」と、しみじみ振り返ることを繰り返すでしょう。

(この項、間をおいて続く。次回は1835年の回帰です。)

100年前、8月の空を彗星が飛んだ2019年08月19日 10時33分52秒

ちょっと素敵な品を見つけました。
明治時代に刷られた天文モチーフの絵葉書です。


地上の黒々としたシルエットは、こんもりと茂る木々に火の見梯子と電信柱、大きな屋根は村のお堂でしょうか。これは紛れもなく日本の風景です。そして、その上に広がる紺色の空と白い星、刷毛ではいたように飛ぶ彗星。

19世紀後半以降、ヨーロッパではギユマンの『Le Ciel』をはじめ、星景画の傑作がたくさん生まれましたが、明治の日本でも、こんなに美しい作品が描かれていたのですね。これは嬉しい発見。


キャプションを見ると、「明治40(1907)年8月20日、午前3時の東の空」だと書かれています。

薄明を迎える前のこの時刻、西の地平線では巨大な白鳥がねぐらへと急ぎ、頭上にはアンドロメダが輝き、そして東の空にはオリオンとふたご座がふわりと浮かんでいます。8月の空も、夜明け前ともなれば初冬の装いです。

絵師はK.Oonogi(大野木?)という人ですが、伝未詳。当然、外国書も参照したでしょうが、それを日本に移植して、詩情あふれる一幅の絵にしたのは、相当の絵ごころ、星ごころを持った人だと思います。(「オリオン座」を「オリオン宮」とするのは変だし、英語キャプションの「STER」もスペルミスでしょうが、この際それは些事です。)

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ところで、今から112年前のちょうど今頃見られた天体ショーの主役である、この美しい彗星。


これは、米国のザキアス・ダニエルが、1907年6月9日に発見した「ダニエル彗星 C/1907 L2(Daniel)」です(日本語版ウィキペディアで「ダニエル彗星」を検索すると、彼が1909年に発見した“33P/Daniel”しか出てきませんが、ここに登場するのはその2年前に発見されたもの)。

発見後にぐんぐん光度をあげて、7月中旬には4等級となり、肉眼でも見えるようになりました。さらに8月初めには3等級となり、15度という長大な尾――これは満月を30個並べた長さです――を引いた姿が、夜明け前の東の空に眺められました。そして9月初めには、尾の長さこそ短くなりましたが、最大光度2等級に達したのです。(この件はなぜか英語版Wikipediaには記述がなくて、上記はドイツ語版を参照しました)

数多の大彗星の前では、ちょっと影が薄いですが、それでもここまでいけば大したものです。

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以下、余談。

現代の星景写真は、主に雄大な大自然の中で見上げる星空を取り上げており、「人間生活と星たちの対比」という視点は薄いように思います。でも、かつての星景画を見たとき、最も胸に迫るのは、「転変する人の世と常に変わらぬ星空」という普遍的なテーマです。都会地で星を撮るのは大変だとは思いますが、ぜひ現代のデジタル撮像と画像処理技術を駆使した、現代のギユマン的作品に接してみたいです。

空をつるぎが飛ぶ日2019年06月16日 17時24分59秒

今日は一日中涼しい風が吹いていました。
風の音以外何も聞こえない、とても静かな休日で、畳に寝転んで青い空を見ていると、憂き世のことなど忘れてしまいます。しかし、たとえ現実から目をそらしても、その苛烈さが無くなるわけではありません。

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今日も青い幻灯スライドです。

(ロンドン・ニュートン社製、19世紀末)

隅に見える手描きの文字は…


「Comet Sword over Jerusalem (エルサレム上空の彗星の剣)」。

西暦66年1月、エルサレム上空に巨大な剣(つるぎ)の形をした彗星が出現し、人々に何か恐るべき事態が近いことを告げているようでした。


果たしてこの年、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ属州の民は、帝国に対して反乱を起こし、ローマ軍との大規模戦争へと発展しました。しかし、ユダヤの民の奮戦も空しく、西暦70年には、ローマ軍によってエルサレムが制圧され、かつてヘロデ王が築いた壮大な第二神殿も、破壊焼亡の憂き目を見たのです。これこそが後世「流浪の民」と呼ばれた、ユダヤ民族の長い苦難の歴史の始まりでした。

なお、後世の学者はこの66年の大彗星を、ハレー彗星と推測しています。

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さて、時は移って西暦2019年の日本。

かつて一時の繁栄を誇った国も、急速に衰運の道をたどり、漠たる不安が社会の隅々にまで広がっています。いずれ天意が象(かたち)となって、大空に出現せぬものでもあるまい…と、昼となく、夜となく、油断なく空を見守る日々が続きます。

彗星のメロディ2019年05月08日 21時36分52秒

彗星のアイテムを漫然と探していて、こんな品を見つけました。


「コメット・ラグ」。1910年にボストンで出版された楽譜です。作者はEd. C. Mahony。
探してみたら、ずばり「ハレー彗星ラグ」というのもあって、いずれもハレー彗星の接近を当て込んで作られた曲のようです。

(こちらは未入手)

「ラグ」というのは、「ラグタイム」の略。
19世紀末から20世紀初頭にアメリカで流行った、陽気で明るいアップテンポなピアノ曲がラグタイムで、時代的にはジャズに先行し、その淵源の一つになったと言われます。スコット・ジョプリンの「ザ・エンターテナー」というのが、たぶん一番有名な曲で、聞けば誰でも「ああ、あれね」と思うはず。(YouTubeだと、例えばこちら


それにしても、この彗星のラグたち、いったいどんな曲なのか?
いかんせん楽譜が読めないので、さっぱりです。

…ここで、ふと思いついて検索したら、果たして「コメット・ラグ」も「ハレー彗星ラグ」も両方ともYouTubeにアップされていました。便利な世の中です。

■Comet Rag by Ed Mahony (1910, Ragtime piano)

■Halley's Comet Rag by Harry J. Lincoln (1910, Ragtime piano)

この陽気さも、ハレー彗星騒動の一側面ですね。
個人は知らず、世界に目を向ければ、そこにパニックなどなかったということは、重ねて強調しておく必要があります。

貴婦人との別れ2019年04月16日 07時10分11秒



「ドナティ彗星、パリからの眺め、1858年10月4日」
アメデ・ギユマンの『Le Ciel』(第5版、1877)の巻頭を飾る、美しい口絵です。

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1858年10月に接近した、巨大なドナティ彗星(C/1858 L1)。
その公転周期は千数百年に及び、次の回帰は西暦3000年代と推定されています(正確な値は未確定)。


優美な地上の貴婦人と、壮麗な天上の貴婦人の邂逅は、結局1858年に、ただ一度きりのものでした。――いや、ノートルダムは今後修復されるでしょうし、2回目、3回目があるのかもしれません。でも、その姿は昔日の彼女とは違っているでしょう。それは彗星の側も同じです。


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出会いはすべて一期一会だ…などと、こんな際にしたり顔で教訓めいたことを言うのは、かえって不謹慎かもしれませんが、焼け落ちる前の姿に接する機会を永遠に失った私としては、やっぱり一枚の絵を前に、いろいろな思いにとらわれます。

(昨日の話の続きは次回に)

指先にともす彗星2019年03月10日 11時20分37秒



彗星マッチの中でちょっと異彩を放つのが、このミニマッチ。
まりの・るうにい装画の小さな小さなマッチ箱。
昨日登場したマッチラベルとくらべると、どれだけ小さいかお分かりになるでしょう。


作品名は「マッチの彗星」


これぞタルホ趣味の最たるもの。
マッチの炎が暗夜を走り、それがいつしか彗星と化している…この小さな箱が物語るのは、そんな状景です。

この品は以前、Librairie6(シス書店)さんのオンラインストアで見つけました(現在も販売中。「LIBRAIRIE6オリジナル」のカテゴリーをご覧ください)。

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今日3月10日は、昭和20年(1945)に恐るべき東京大空襲があった日です。
10万を超える死者が出た惨劇の夜。

その業火を想像し、手元のマッチを眺めていると、炎の向こうにいろいろな想念が浮かんできます。結句、炎というのは、指先にともしたり、燗酒をつけたりするぐらいが丁度良くて、憎悪をこめて街を焼き尽くすなどというのは論外です。

でも、その論外の所業がしれっと出来てしまう人間の心は、紅蓮の炎より一層恐るべきもので、こうなるとやっぱり足穂氏と差し向かいで、語り明かさねばなりません。

彗星燃ゆ2019年03月09日 08時14分36秒

「こまい」話といえば、私はこまいモノの収集家だったのを思い出しました。


それは「彗星のマッチラベル」という、こまいと言えば相当こまいもので、最近はちょっとご無沙汰していますが、一時はずいぶん熱心に探したものです。私はたぶん世界でも五指に入る「彗星マッチラベルのコレクター」でしょう。というか、ひょっとしたら、他にはいないかもしれません。(これまでネットオークションで競り合った記憶がないので。)


ただ、これらも単に集めたばかりで、個々の素性は調べてないので、コレクションとして中途半端な感はあります。おおざっぱに言えば、いずれも戦前~戦後しばらくにかけてのもので、同じデザインでも多言語で印刷されているのは、それが輸出仕様だからでしょう。

まあ、この辺はあまり色を成して調べるのも興ざめかも。
というのも、彗星マッチのラベル収集は、足穂趣味から派生しており、ここで追求されているのは、実在の彗星というよりも、「非在の彗星」「想念の彗星」であり、肝心のマッチにしても、多分に想念の世界に属するからです。


異国の夜空に壮麗な尾を曳く彗星。


昔はマッチ大国だった日本の製品も頑張っています。
右は足穂のホームグラウンド、兵庫の小林燐寸製コメットマッチ。左はどこかのカフェー、あるいはバーの広告マッチでしょう。いずれも大正~昭和初期のもの。

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マッチのデザインに彗星が取り入れられたという事実は、かつて忌むべき凶星だったものが、20世紀に入って、すっかり「カッコいい」存在になったことを示しています。でも、ハレー彗星騒動やら何やらで、妖しく危ないイメージも一方には依然あって、だからこそいっそう謎めいた魅力を感じたのでしょう。足穂氏が魅かれたのも、まさにそこでしょう。

多彩な彗星マッチの世界。
こまいながらも、なかなか心憎い連中です。
彗星シガーにシュッと火を点すのにも好いですね。

(画像再掲。元記事:http://mononoke.asablo.jp/blog/2017/09/16/