前原寅吉、北の地で怪気炎を上げる(後編)2012年05月08日 22時07分25秒

(↑寅吉翁の号「天文山」を刻んだ印章。『前原寅吉天文論文集』のコピーよりスキャンして加工)

寅吉翁は、凶作克服のために天文学の知識を応用しようという、宮沢賢治ばりの志を持っていたと言われます。このことが、翁を偉人視する大きな理由でもあるようです。
しかし、これまでのことから予想されるように、その所説はかなり怪しげです。

第五説、天候は果して人為に依りて左右せらるゝか」の中で、翁は「人為を以て天候を随意に左右し得らるゝか、否か」、「換言すれば人為を以て、晴天続きに降雨を促し、又は霖雨を霽〔は〕らして晴天となす至極便利なる方法を講ぜん」ことを試みています。

その至極便利なる方法とは、焚火をたくことです。
いわゆる伝統的な日和乞いの習俗ですが、「是等は全く迷信的の遣り方の如しと雖も、其の理由を説明するに於ては全然科学的の方法にして、大に取るべき点あり」と翁は力説します。その理由はまことにシンプルで、「夫れ地上に篝火を焚くや附近の空気は温暖となりて上昇すると同時に、地の寒冷なる空気は其隙間に乗じて入り代り、空気に変動を来すの結果、或は風を起すこともあるべく、或は雨を呼ぶこともある」からだ、と翁は言います。

焚火の上に上昇気流が生じるのは事実としても、果たして、それだけで気候を変えうるものか?

斯く云はば人或は笑ふて言はん。此広き地上に於て或一小局部に篝火したりとて何の功あらんやと。然れども、怪む勿れ、大事小事より起ることを。鍼灸の一局部に施して巧験全身に及ぶと同じ理なり
故に余は断じて云はんとす。晴天を促し、或は降雨を望む際には、風なき時ことに危険なき処へ、朝夕毎日三十分位に篝火をなし以て人為的に天候を動かし得べしと

何だか落語を聞くようです。翁の説が正しいとすると、天候が温和な時には、天候不順になる恐れがあるので、うっかり火を焚くこともできません。翁の誠を疑うわけではありませんが、これはやはり怪説と言わざるを得ないのではないでしょうか。

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翁の天文学応用はおどろくほど広範囲にわたります。
曰く「第八説、星学上より見たる地球の内外を論じ併せて其変化変動を論ず」、曰く「第十説、天文学上より人生の運命を論ず、宇宙学より見れば世に不思議なし」、曰く「第十一説、天文学上より世人無情とする原因を論じ、併せて記憶速成法を論ず」…

(↑寅吉翁が描いた太陽系の図。往時の絵葉書より)

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寅吉翁は、高等教育を受けぬまま成長し、制約の大きい中で精進を重ねた人です。
そうした老翁を、後世の知識で嗤うことは厳に慎まねばなりませんが、しかし、翁の「奇説・怪説」の類もきちんと取り上げなければ、やはり公正さを欠くと思います。

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敬愛すべき寅吉翁に対して、いささか皮肉めいた調子になるのも厭わず、あえてその負の面を書き綴ったのは、寅吉翁を過剰に神格化する動きが最近も続いているからです。

例えば、昨年10月、青森県企画政策部は、『見つけよう!伝えよう!あおもりの人財』マンガ誌(vol.1)というのを発行しました(http://www.pref.aomori.lg.jp/kensei/seisaku/jinzai_manga02.html)。

これは青森ゆかりの著名人を、県内の中高生が取材してマンガ化したもので、そこで寅吉翁は、子供たちに慕われ、世の蒙を啓き、ハレー彗星の太陽面通過の観測に世界でただ一人成功した人として、理想化して描かれています。

取材者である生徒さんの純真は疑うべくもなく、またその取材の不備を責める気も毛頭ありません。何せ、世間にはそういうミスリードの情報があふれているのですから。

問題とすべきは、発行者・青森県の見識です。この事業は、「中高生の自主的取材とその成果を、県として応援しているだけ」なのかもしれませんが、しかし、発行者として青森県に最終的な責任があることは言うまでもありません。

繰り返しますが、寅吉翁については、上記のような、あきらかに「奇説」と言うほかない主張も含めて、もっときちんとその事績を紹介すべきです。現代の言い方では、寅吉翁は「トンデモ」系の要素が多分にある人なので、それを「天文学の大偉人」のように持ち上げるのは問題が大きいと考えます。そうした説が破たんするのは明らかなので、これは教育的にも、むしろよろしくないと思います。

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(日本天文学会発行の絵葉書。1910年)

さて、問題のハレー彗星の一件。
これは寅吉翁を語る上で、もっとも華やかなエピソードで、ウィキペディアも、1910年のハレー彗星の項(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AC%E3%83%BC%E5%BD%97%E6%98%9F#1910.E5.B9.B4)で麗々しく記述していますが、その出典がはっきりしないことを以前↓書きました。

■「明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(7)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/28/5613143

しかし、この小冊子でそれがはっきりしたので、そのことを記しておきます。
結論から言うと、出典は「満州日日新聞」の明治43年(1910)5月下旬(日付未詳)の記事なのですが、文章自体は新聞記者ではなく、寅吉翁自身の手になるものでした。つまり、翁の投稿に基づく記事です。当然他紙にも書き送ったと思いますが、結果的に採用されたのが、外地の満州日日新聞だけだったのでしょう。同紙がこの投稿に敏感に反応した理由は、以前↓の記事で推測まじりに書きました。

■「明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(6)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/28/5613140

翁の『天文論文集』に再録された該当記事は以下の通りです。


注意を要するのは、寅吉翁がハレー彗星の観測に成功したのは、「太陽面直接観望用眼鏡」と称する独自の装置を使ったからだという説がありますが(連載(4)(8)を参照)、上の記事を読むと、「右三鏡〔=翁が所持した3種類の望遠鏡〕にて直接望見せんが為黒色硝子を製し観測せしに」とあるだけで、普通にサングラスを使って観望しただけのように読めることです。

当時、他の観測者もサングラス越しに彗星と太陽面を観測していたわけですが、色の変化(彗星が太陽面を通過する時、太陽が青く変じたと言います)を察知し得たのは、寅吉翁だけだったという事実。これは寅吉翁にとって「見る」という行為がどんなものであったかを示すエピソードです。

どうも寅吉翁には、容易に何かを「見て」しまう癖があったようです。
翁の天文論文の第十二説、「太陽のプロミネンスを容易に見る法なきか」には、プロミネンスを簡単に見る方法が説明されています。それは、たらいに水を入れて、そこに太陽を反射させて、白い幕か紙に投映するというもので、そうすると、「例へば間欠温泉の噴出するやうに或は火山の噴火するやうに、又海上ならば竜巻を見るやうに、陸上ならば旋風を見るやうに、或はポンプで空中に水をまくやうに昇るのが写るのです」。もちろん、これは水面の揺らぎや立ち昇る水蒸気によるものに違いありませんが、翁もその可能性を一応認めつつも、3分~5分毎に爆発的に映じる像は、やはりプロミネンスだろうと、自説に強くこだわっています。

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翁は、たしかに常識にとらわれず、ユニークな発見を追求した人です。
ハレー彗星の青い光にしても、水鏡によって捉えたプロミネンスにしても、そのユニークさを証するエピソードだとは思います。ただ、奇想の人であるだけに、その所説の解釈には十分な慎重さが求められると思います。

私が寅吉翁を評価するのは、何も翁が天文学の天才だからとか、学問的に価値のある業績を上げたから…というわけではありません。
そうではなしに、天文趣味がまったく普及していなかった明治時代の日本で ― しかも八戸という、中央から遠く離れた土地で ― 星への強烈な憧れを抱きつづけ、その夢を一生かけて追った天文趣味の大先輩として、深いを敬意を表したいと思うからなのです。

天文古書と星ごころ2012年03月04日 17時55分16秒

ブックデザインにも、英米、仏、独とお国ぶりがありますが、天文古書に関しては、どうもドイツの本に良書が多い気がします(ここでは、19世紀半ばから20世紀初頭の本をイメージしています)。


■Wilhelm Meyer
 Kometen und Meteore 『彗星と流星』(第7版)
 Franckh’sche Verlagshandung (Stuttgart), 1906, 104p.

上のような、他愛ないペーパーバックでも、その挿絵と文字の配列が何となく心憎い感じがします。

熱帯の空にすっと尾を曳く巨大な彗星。

中身は地味なモノクロページが続くので、それほど見所はありません。

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反対に、いちばんよろしくないのがフランスです。
そもそもフランスは版元装丁の習慣がない(皆無ではない)ので、買った人が好みの装丁を施すわけですが、結局は豪華なモロッコ革でくるんであればそれで良しとする気風があるらしく、贅を尽くした革工芸としての価値は認めるにしても、そこにどれだけ「星ごころ」が盛り込めているかというと、甚だ心もとない気がします。

装丁のみならず、フランスの天文書にはどうも「星ごころ」が乏しい。
フランス語が読めないのに、偉そうなことを言うのも滑稽ですが、それにしても、フランスの人が歴史的事件や人間臭いエピソードを好む傾向は、天文書の挿絵からも容易に感じ取れるものです。

フランス最大の天文啓蒙家、カミーユ・フラマリオンの著作を見ても、「天文学史」や「天文学者」、あるいは「星座神話」をめぐる記述が妙に目立ち、これはもうハッキリ国民性と言ってもいいのではないでしょうか。

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森閑とした無限の世界への夢。あるいは宇宙的郷愁
私がいう「星ごころ」とはそういうものです。賢治や足穂的リリシズムと親和的な、かつ明瞭に超越的(transcendent)な色彩を帯びたものです。

それにいちばん馴染むのが、ドイツの天文古書であるという事実は、たぶんドイツ精神の巨大な水脈である神秘主義思想と関係があるのではないか…というのは、今記事を書きながら思いついたことですが、けっこう正しい気がします。(←話半分に聞いてください。)

雪の宵、彗星は空をかける2011年02月11日 12時06分40秒

今日は雪。
窓から見る景色も、あっという間に白一色となりました。

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絵葉書の中では、お使い帰りの子供たちが夜道を歩いています。
空気はキュンと冷え、辺り一面ペールブルーの世界。
でも丸い月のおかげで、雪原は驚くほどの明るさです。
ふと足をとめて見上げれば、青い空にはきらきら光る星、そして大きな箒星。

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この愛らしい絵葉書は、20世紀初めにスロベニアで発行されました。
当時はまだオーストリア領だったので、裏面には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像切手(1908年発行)が貼られています。

100年の時を超え、ハレー彗星は不思議な暗合を地上にもたらした!2010年12月28日 19時00分20秒

(↑1910年にドイツで作られたハレー彗星絵葉書。ただし復刻品)

今、何とも云えない気分です。

実はこの年末年始は少しノンビリしようと思って、記事を書きためておきました。それが「明治日本のアマチュア天文家」という連載で、我ながら力作の長文です。

書き終えてホッとしていたら、NHKで1910年のハレー彗星騒動に取材した番組を放映することを耳にしました(28日22:00~)。何だか不思議な気がしました。でも、「まさか前原寅吉のことは取り上げないだろう…」と思っていました(メジャーな人とはとても思えなかったので)。

でも、そのまさかだったのです。こういうことが世の中にはあるのです。
寅吉翁の奇才とハレー彗星の神秘が、奇怪な偶然を生んだのです。

もうチビチビ記事を小出しにしている場合ではないので、ドンと一気に掲載します。(後々の引用のしやすさを考えて、原案通り切り分けてアップします。ブログの常で、新しい記事ほど上に来るので、順序が逆になって読みにくいと思いますが、どうかご容赦ください)。

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もう一度繰り返しますが、私は寅吉翁が好きです。そして近しいものを感じます。それは、私も翁と同じくアマチュアの天文愛好家であり、なるべく自分の頭で対象を捉えようと思っているからです。

私もこれから番組を見て、自分の推測の当否をもう一度考えてみますが、皆さんのご意見もお聞きできればと思います。

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(8)2010年12月28日 18時49分17秒

彗星の尾を通して「太陽面の一部が青く見えた」という記述についてはどうでしょう?

ガス状のものが空を覆えば、届く太陽光は散乱しにくい長波長に偏り、赤味を帯びるんじゃないかとか、いや彗星のガスの成分によっては太陽光によってガスそのものが青みを帯びてもおかしくないとか、いろいろ説を立てることはできます。

しかし一番重要なのは、寅吉は白昼にサングラスを装着した望遠鏡でそれを見たと言っていることです。裸眼では(そして他の望遠鏡でも)どんなに目を凝らしても、何の変化もなかったというのに。果してそんなことがあり得るでしょうか?

   ★

そこで登場するのが、謎めいた「太陽面直接観望用眼鏡」です。鈴木氏は『野の天文学者』で以下のように書いています(pp.106‐107)。

「男の人が「前原時計店」に入ってきてたずねました。
〔…〕
「いや、わたしは東京の天文学会からきたものです」
「そうですか。それはそれは遠いところ、ご苦労さまでした」

 寅吉は、仕事台から立ち上がりました。
「あの、どのようにして、太陽の写真をとったのですかね。ふつうは太陽の写真をとることはむずかしいんですがね。いわんや、黒点など写せません」
「それはですな」
寅吉は、部屋のすみにおいてある、特別な装置を見せました。
「これであんす。これは写真館の高野直太郎さんとわたしの二人で考えて作ったものであんす」
「ほうなるほど、これですか。なるほど、なるほど」
その学者は、ていねいに見ていきます。そして、
「これは、太陽面直接観望用眼鏡ですな」
と、いいました。
「はい、そうです。やっぱり学者の方ほ、いい名前をつけるもんであんすな。その名前いただきます」

 現在、寅吉の作った「太陽面直接観望用眼鏡」は残っていませんので、どのような装置かわかりませんが、すぐれた報道写真を数多く写した高野直太郎の技術と、時計の修理をしながら、いろいろと機械をあつかっているうちに気がついた寅吉の考えとが、ひとつになってつくられたものと思われます。

 学者が帰って間もなく、寅吉は、
「日本天文学会特別会員」
 に推せんされたのでした。」

このシーンもどこまで事実に基づくのか不明ですが(多分にフィクションめいています)、「太陽面直接観望用望遠鏡」というのは、何か特殊な機構を備えた装置としてイメージされています。

しかし、「天文月報」第1巻第6号(明治41年9月)の巻末の広告欄には、寅吉がこれを10個作って、日本天文学会有志に配布を申し出たことが記されています。

「本会特別会員 前原寅吉君(青森県八ノ戸在住)より 太陽面観望用として 直接に又は双眼鏡及び望遠鏡と共に使用し得べき 便利なる眼鏡十個を送付せられ 会員中有志の人に贈与したき旨申越され候に付 希望の人は本月二十五日迄に申込まれ度候 希望者十名以上ある時は 抽籤にて配布可致候」

直接覗いてもよく、また双眼鏡や望遠鏡でも使用可の「便利なる眼鏡」というのは、単純に眼鏡型のサングラスのことではないでしょうか? 例えば、アメリカで1932年に皆既日食があったとき、下のような日食グラスが販売されましたが、似たような形状のものではなかったかと、私には想像されます。

(↑アメリカの日食観測用眼鏡2種、いずれも1932年製)

鈴木氏も、「天文月報」誌上の記述には目を留めておられて、「個人で十個も寄贈するのですから、〔…〕そんなに複雑で高価なものではないと思います」と書かれていますが(p.139)、まったく同感です。いずれにしても、肉眼では捉えられない不思議な光学現象を捕捉する精妙な装置だとはとても思えません。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(7)2010年12月28日 18時45分28秒

次いで、寅吉の報告内容を検討してみます。

ウィキペディアの記述には、文語体で太陽の見え方の変化が書かれていますが、基本的なこととして、その出典が不明です。寅吉自身の記載なのか?それとも満州日日新聞の記事の引用なのか?大事な点ですが、未詳です。

ただ、いずれにしても、寅吉が報告しているのは、彗星本体の太陽面通過ではなく、彗星の尾が地球を覆うことによって、太陽の見え方に変化が生じたことです(なにせ当日の位置関係では、彗星の核自体はどんな大望遠鏡でも捉えることは不可能でしたから)。であれば、金星の太陽面通過のように、開始と終了の明確な区切りはないように思うのですが、寅吉は分単位でそれを報告しています。即ち、午前(ウィキペディアには午後とありますが誤記でしょう)11時20分に太陽の変色が始まり、午後12時17分に終ったと。

ここでいささか気になることがあります。
実は「天文月報」の同じ号(第3巻1号)の雑報欄には、ハレー彗星の太陽面通過に関して、具体的予測が出ていました。

「クロンメリン氏は又前記現実軌道の要素に依りて 来る五月十九日に起るべき太陽面通過の時刻方向等を推算せり、其結果左の如し、(時刻は日本中央標準時。)
 経過の初。 午前十一時二十二分
         方向角二百六十四度
 経過の終。 午後零時二十二分
         方向角九十二度
 最も太陽の中心に接近するは午前十一時五十二分にして、其時に於ける彗星の位置は太陽の中心より南方一分二秒の処に在るべしと云ふ。」

クロンメリンが行ったのは、あくまでも彗星本体と太陽の位置関係の推算です。そこから伸びる尾がどのような振舞いを見せ、地球にいつ到達するのかは、天文学者にも予測不能でした(この点については下記を参照して下さい)。

■暦と星のお話>1910年のハレー彗星騒動>1910年5月19日
 http://www.geocities.jp/planetnekonta2/hanasi/halley/kiji/19100519.html

したがって、寅吉の報告が、上記の開始/終結の予想時刻とあまりにも符合しているのは、かえって不自然です。

寅吉は確かに何かを「見た」のかもしれません。しかしそれが他の人にも見えたかどうかは別問題です。そして彼はこの「天文月報」の記事を事前に目にしていたはずです。そして満州日日新聞もそれを知っていました。(というか、当時この時刻は各紙が事前に報じていたので、国民周知でした。)

予断があったために、寅吉がそこに無いものを見てしまった。あるいは、寅吉が曖昧な形で報告したものを、新聞記者が自らのストーリーに合わせて改変してしまった。そうした可能性を考えるべきです。

後者とすれば何をかいわんやですが、仮に前者だとすると、寅吉を責めるのはいささか酷かもしれません。火星の運河論争を思い起こせば分かる通り、どんなに訓練された天文学者であっても、自らが期待するものの影響を完全に脱することは、きわめて困難なことだからです。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(6)2010年12月28日 18時38分56秒

実は、満州日日新聞は、このハレー彗星の観測を大がかりなイベントとして計画していました。費用は全て会社持ちで、満州にハレー彗星観測隊を送ることをぶち上げ、天文界もこれに呼応し、大連に2人の研究者を送り込み、当日を待ちうけたのです(※)。

(※)以前、満鉄と天文学会の組み合わせにピンと来るものがある、と書いた(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/12/27/5611389)のはこのことです。純粋な憶測ですが、植民地経営と天文観測という点で、両者には何か相利共生的つながりがあったのでかもしれません(イギリスの国策からの連想です)。

「天文月報」第3巻第1号(明治43年4月)の雑報欄に、そのことが出ています。
 
(出典:http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191004.pdf よりスナップショット)

満州に渡ったのは、理科大学〔=東大理学部〕講師・早乙女清房と東京天文台助手・帆足通廣の2名。では、「その瞬間」はどうであったか?
その後7月に出た同誌(第3巻第4号 http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1910/pdf/191007.pdf)にそのレポートがあります(内容は、満州日日新聞所載の「日誌」の再録のようです)。

「◎大連のハリー彗星観測
 〔…〕五月十九日は風なき晴天にして、月入の後直に彗星の尾を東天に認めたる由、其幅の最広き部分は六度に達し其長百〇五度に及べりと、尚写真は二時三十分に始め一時五分間の曝露をなせりと云ふ。
 同日の太陽面経過に就ては矢張り其面上に何等の異状をも認めずと云はれたり。
 尚同日夕刻は快晴なりしも、月光の跋扈の為彗星の尾を認むるを得ずと、尤も日没後の薄明が目立て橙黄色を帯びたるを見たれども、彗星と関係あるや疑はしと附記されたり。」

結局、東京と同様、大連でも何の変化も観測されなかったのです。鳴り物入りで待ち構えていた新聞社としては、ちょっと格好がつかないですね。そんなところに、もし寅吉が何かポジティブな情報を伝えたとすれば、新聞社にとってはまさに渡りに船、得たりや応と飛び付いたのではないか…というのが、この「スクープ」の陰に想定される事情です(確証はありません。想像です)。

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(5)2010年12月28日 18時35分55秒

問題のウィキペディアの記事にはこうあります(ハレー彗星/1910年 の項)。鈴木氏の文章と内容が重複しますが、念のため転記します。

「日本では、1910年(明治43年)、世界中の天文台が当時としては最新の機材を使って観測にあったにも拘らず、結局、確実に見たとの報告はなかった。現在の八戸市に住む、一人の天文愛好家、前原寅吉(1872年 - 1950年)がハレー彗星の太陽面通過を鮮明に観測したとして、大きくクローズアップされている。

前原寅吉は、自作の「黒色ガラス」をつけた3台の天体望遠鏡を自宅の物干し台に取り付け、観測、発表した。「5月19日、午後〔ママ〕11時20分に至り西より東に向き太陽面上段青色に変じたり。これ全く核(ガス状になった彗星の本体)の経過せしものにて午後12時17分まで見えたるも西方より白色状の状態に復したり」とあり、彗星の通過によって、そのガスがフィルターとなり、太陽面が変色する様子をはっきり捉えている。寅吉の快挙について、満州日日新聞の記事は「列国の天文台が観測に失敗し居れるに独り個人たる氏が此の大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄たりと言うべし」絶賛している。」

一読して明らかなように、寅吉の“偉業”を取り上げたのは「満州日日新聞」ただ1紙であり、それが当時「大きくクローズアップされ」たというのは誇大です。
「世界でただ一人」とか、「立派な装備を誇った学者たちを出し抜いて」というのは、ファクトというよりは、1つのアネクドート(逸話)、つまりそういう書き方をした新聞も当時あった…という解釈にとどめるべきだと思います。

少なくとも、「世界中の天文台が準備万端、彗星の太陽面通過を待ち受けた」というのは事実ではないので、こういう書き方はフェアではありません。何せヨーロッパやアメリカでは、太陽は地平線の下だったのですから。

それにしても、何故「満州日日新聞」だったのでしょうか?
同紙は明治40(1907)年に創刊された満鉄系の新聞で、いわば国策紙ですから、国威発揚的記事は大歓迎だったでしょう。でもどういうルートで外地までニュースが流れたのでしょう?

(この項つづく)

明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(4)2010年12月28日 18時32分25秒

『野の天文学者 前原寅吉』の著者、鈴木喜代春氏には、東北電力の広報誌「白い国の詩」(2008年夏号)のために書き下ろした、次の一文もあります(リンク先のページには寅吉の写真や、その使用した望遠鏡など、貴重な画像が載っています)。

■前原寅吉が観た宇宙
 (WEB版 http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/08_07/01toku/index.html

こちらは1次資料の直接引用もあり、いわば、『野の天文学者』よりも「大人向き」の内容です。冒頭、鈴木氏は「ハレー彗星を捉えた唯一の人」という章題で、以下のように記します。

「〔…〕こうして、いよいよハレー彗星が太陽の間を通過する〔1910年〕5月19日を迎えた。国立天文台は勿論、八戸町(現在は市)の前原寅吉も、3台の望遠鏡を物干し台に据え付けて、ハレー彗星の観測に備えた。

 ところがこの時、ハレー彗星の観測に成功したのは、時計店を営んでいた前原寅吉ただ一人だけだった。〔…〕
 このように天文台が総力をあげて観測に当たったが、新聞は次のように報じている。
 「観測の結果▽結局何の変化も見えず▽機械の不精巧が残念」(東京朝日新聞・明治43年5月20日)。
 「殆ど変化無し。昨日のハレー彗星観測。太陽面現象分らず。過半は望遠鏡の不備」(東京日日新聞・明治43年5月20日)。

 「満州日日新聞」では、「青森県八戸町前原寅吉氏は、夙に天文の研究に趣味を有し(中略)十九日、ハリー彗星の太陽面通過の際は、自家の考案になる望遠鏡にて、明らかに観測するを得たり(中略)列国の天文台が観測に失敗し居れるに、独り個人たる氏が此大成果を収め得たるは独り氏の名誉なるのみならず日本学界の光栄なりと云うべし」と報じた。

 「列国の天文台が観測に失敗し居れる」時、「独り個人たる」前原寅吉だけが「大成果を収め」成功したのだった。
 「天文台」の「観測に失敗」したのは「望遠鏡の不備」といっているが、この時の天文台の望遠鏡は、8インチ。寅吉の望遠鏡は3インチだった。寅吉はこの時、自分が考案した「太陽面直接観望用眼鏡」を望遠鏡に取り付けていた。」

   ★

ハレー彗星の太陽面通過の一件は、寅吉の「神格化」にあずかって最も大きなエピソードになっているようです。そして、それが子ども向きの本にとどまっているうちは、まだ良いのかもしれません。しかし、ウィキペディアの「ハレー彗星」の項にまで、その事績が大書されるに至っては、少なからず不安を覚えます(ウィキペディアの記事にはソースが書かれていませんが、たぶん鈴木氏の文章に拠ったのでしょう)。

はたして、これを全て事実と認定して良いか?

(この項つづく)

星の夜会へ2010年10月29日 19時21分00秒

明日は日本ハーシェル協会の年会。
そして夜には、いっぷう変わった星の集いが催されます。
気分はちょうど上の絵葉書のようなイメージ。

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白いパレスを照らすガス燈の明かり。
その下に佇む黒服の男たち。
上空には満天の星と、2本の尾を曳いた大彗星。

森閑とした、そしてちょっと謎めいた光景ですね。
何かドラマがこれから始まりそうな…

   ★

画像は1904年の消印のあるペルーの絵葉書です。
キャプションによれば、1901年3月11日午後7時、リマでの情景。

この彗星は1901年4月に近日点を通過し、「1901年のグレートコメット」または「ヴィスカラ彗星」という名前で呼ばれます。ただ、南半球で鮮やかに見えた分、北半球ではあまり馴染みがない存在のようで、その辺もちょっと謎っぽい感じです。

   ★

それにしても気になるのは迫りくる台風。
いずれにしても、明日はただならぬ宵になりそうな予感がします。