彗星酒造の青い灰皿2017年05月17日 07時08分54秒

昨日の夕空は、朱と紫が入り交じった、ちょっと凄みのある夕焼けでした。
ここしばらく地味な画像が続いたので、少し色のあるモノを載せます。

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フランスといえばワイン…という連想が働きますが、19世紀のフランスでは、パリでも地方でもビールが大層人気で、人々は店先で黄金色の液体をグイとあおって、大いに渇を癒やしたものらしいです。しかし、地元の醸造所が流行ったのはせいぜい戦前までで、フランスもご多聞に漏れず、その後はハイネケンなんかに席巻されてしまいます。

そんなフランスの地元メーカーのひとつに、19世紀から続く「コメット酒造(Brasserie de la Comète)」という、素敵な名前の会社がありました。ここは戦後もずいぶん頑張っていたそうですが、結局、他社と統廃合の末、1970年前後に歴史の彼方に消えていきました。

そのコメット酒造の代表的なビールの銘柄が、「スラヴィア(Slavia)」です。


上は「スラヴィア」ビールの販促用、あるいは店舗用に作られた灰皿。
彗星の尾に「グルメのビール、スラヴィア」の文字が浮かんでいます。

どうです、この色、このデザイン。カッコイイでしょう。


材質はプレスガラス、発色はコバルトだと思います。
この色は、カメラだと青味が強く出て、目で見たままの色を再現するのが難しいですが、上は画像を調整して、見た目に近づけました。ご覧のように紫色を帯びた美しい青です。


青紫のガラスの夜を翔ぶ金色の彗星。
これは足穂氏にぜひ見せたかった…


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▼閑語(ブログ内ブログ)

土産物屋で見かける「親父の小言」グッズ。
あれはなかなか含蓄に富んでいて、「人には馬鹿にされていろ」なんていうのも、つまらないことに腹を立てがちな自分としては、座右の銘にしたいぐらいです。

しかし、「馬鹿に馬鹿にされるいわれはない!」と、さすがの親父の小言も役に立たないことが最近多くて、いくら親父に「人には腹を立てるな」と言われても、やっぱり腹を立ててしまいます。

よその家のお嬢さんが婚約されて、まあお目出度いことだねと思いますが、それを現下の状況下で「スクープ」して、目くらましを図ろうとするNHKの心根たるや―。
ことが慶事だけに、それを利用しようとするのは、この上なく下品で下劣だと思います。

彗星の記事帖(4)2017年05月15日 19時04分09秒

記事の中身を見る前に、ちょっと考えてみたいのですが、彗星と地上の災異の間には、何か関係がありうるでしょうか?

そりゃ昔からそう言われているなら、何かそれなりの根拠があるんだろうよ」と、素朴に考える人もいるかもしれません。「彗星なんて毎年出現するし、天災だって毎年起こる。そこに何か関係があるように思うのは、迷信以外の何物でもないよ」と思う人もいるでしょう。

そもそも、遠い天体が地上のことに影響するなんて非科学的だ」と思う人もいれば、「いや、太陽活動と地球の気象変動に関係があるのは事実だ。彗星が地球上の現象に影響を及ぼさないと、ろくに調べもせずに即断する方が、よっぽど非科学的だ」と思う人もきっといるはずです。

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こうした論点は、編集子も十分承知していました。
編集子の出発点も、まずは予断を持たずに過去の記録を調べてみよう、そこから何か見えてくるものがあるかもしれない…というところでした。

これはアプローチとしては穏当なものでしょう。

(連載第7回、文徳~清和天皇の間の記述)

ただ、編集子がしくじったのは、彼はまず過去の記録を調べた上で、一定の見通しを持って記事を書くべきだったのに、フライングで連載をスタートさせてしまったことです。そのため、記述が平安朝の初期まで進んだところで、手に余るものを感じ始め、連載第9回の冒頭は、少なからず言い訳めいた文章になっています。


 「本篇は最初、歴代の順序により彗星出現の年に起りし事変は細大となく、其略を列挙する考へなりしも、右は余りに繁雑なるを以て、其幾分は節減する方針を取れり。而も尚ほ普通の予定にては数十回を要するにより、茲(ここ)に大斧鉞(ふえつ)を加へて、大抵の類は皆な之を除去し、単に古今有数の出来事のみを採り、夫(それ)に多少の説明を加へて其完結をはやめんことを期せり」

「こりゃ勝手が違ったなあ」という、編集子の当惑ぶりがよく分かります。
最初にあらましを決めずに、勢いで書き始めると、得てしてこうなりがちです。
このブログでもちょくちょくあることで、100年前の編集子に大いに共感できます(大新聞の記事としては、ちょっとどうなの…と思わなくもありませんが)。

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このあと編集子は記述を大幅にはしょり、それでも相当苦労しつつ、平安、鎌倉、室町、戦国を経て、ついに幕末の孝明天皇の代まで、延々と記事を書き続けます。

(連載第16回冒頭。室町時代の後花園~後土御門天皇の間の記述)

その労は多とせねばなりませんが、この間の叙述は正直かなり退屈なものです。
ここは私も大いに斧鉞を加え、連載最終回の結論部だけ挙げておきます。



 「▲余論 本篇は以上にて尽きたれば、茲に筆を擱(おか)んとするに当り、尚ほ一言す可き要件あり。幵(そ)は彗星の出現と災異とは必ず一致す可きものなりや否やの問題なり。」

あれ? そもそもそれが目的じゃなかったの?…と思いますが、手段と目的を取り違えるほど、編集子も混乱していたのでしょう。

 「今、古来の実例に徴するに、其多くの場合は何等かの災異相伴ふと雖も、然らざる例も亦数多(あまた)あり。殊に悲惨の大を極めたる分のみを採れば、或は彗星出現の歳以外に生ぜし分多きやも知れず。故に古来の迷信は素より成立せずと雖(いえど)も、若し統計外に観察を下せば、略々(ほぼ)記述の如くなるを以て、世俗の信念を高むるは恠(あやし)むに足らず。

 吾人は敢て旧来の俗説に雷同するにあらざれども、有史以来数千歳の間、未だ二者の対照を試みたる人なきを遺憾として、遂に本篇を草せり。読者幸ひに之を以て無益の談となすこと勿れ。」

「彗星が災異を伴うというのは迷信だけれど、実際、伴う場合もあるので、人々が迷信にとらわれるのも無理はない。ともかく、これまでこういう試みをした人はいないのだから、それだけでも価値を認めてほしい」…というのは、確かにその通りで、「無益の談」とは決して思わないのですが、何となく「労多くして…」の感が濃いです。

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さて、いちばん気になるのは、この連載に対する大友翁の感想です。

ただ、残念ながら冒頭部(と表紙)を除けば、このスクラップ帖に大友翁の書き込みは一切ありません。それでも、毎回記事を丁寧に切り抜き、それをこうして一冊のスクラップ帖にまとめたということは、大友翁自身そうすることに、少なからず意味を感じていたはずです。

遠い過去に現れた彗星と、往時の世の混乱。
特に、連載の末尾に登場する、嘉永6年(1853)、安政5年(1858)、文久2年(1862)の彗星は、翁の少年期に出現したもので、そこに書かれた相次ぐ大火、地震、コレラの発生なども、身近に感じられたことでしょう。

そして、一連の記事を読んで、「うむ、確かに迷信には違いなかろうさ。じゃがのう…」と、翁は何か言葉にならぬ思いを抱いて、黙って夜空をふり仰いだ…かもしれません。

私だって、混迷せる現今の世相を背景に、大彗星を空に目撃したら、古人の迷信に大いにシンパシーを感じたと思います。

まあ、人間長く生きていると、ふと「天命」というようなことを感じたりするものです。


(この項おわり)

彗星の記事帖(3)2017年05月14日 16時36分18秒



ハレー彗星の記事の次に来るのは、20回に及ぶ連載記事「彗星と災異」の第一回。
その冒頭部を読んでみます。

「彗星爛たり、水漫々たりと云ふ古語はあるまじきも、本年は大彗星出現して、仏蘭西の巴黎〔パリー〕、日本の関東、東北、東海とに大洪水汎濫し、山を崩し、都卑を浸し、人畜を害し、資材を流せしこと其幾千万と云ふ数を知らず。」

ネットを拾い読みすると、1910年1月下旬のパリは、前年からの多雨によって河川の水量が増して、ついに1月28日には、通常より8.6メートルも水位が上昇し、市内各所が冠水した由。

日本でも、1910年は大洪水の年でした。

ウィキペディアには、「明治43年の大水害」というのが項目立てされていて、
「各地で堤防が決壊、関東地方における被害は、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に及んだ。〔…〕群馬県など利根川左岸や下流域のほか、天明3年(1783年)の浅間山大噴火後徹底強化した右岸側においても、治水の要、中条堤が決壊したため、氾濫流は埼玉県を縦断、東京府にまで達し、関東平野一面が文字通り水浸しになった。」
…と書かれています。「濫流は埼玉県を縦断」というのが、何ともすさまじいです。

ただし、この関東の大洪水が起きたのは同年8月のことです。
したがって、この彗星の記事が新聞に載ったのは、当初想像したような「5月」ではなくて、1つ前の「ハリー彗星」の切り抜きから3か月ほど経過した、8月以降のことになります。

ちょっと悠長すぎる気がしなくもないですが、きっと洪水の大惨害を前にして、忘れかけていたハレー彗星の記憶がふと甦り、記事執筆者(以下、編集子)の好奇心をいたく刺激したのでしょう。そして、その記事がまた大友翁の興味を刺激することになります。

「故に一方に於ては、学者の説として、彗星の出現と天災地変とは何等の関係なしと云ふ証言あるにも拘〔かか〕はらず、天下の万衆は尚ほ其間に幾分の影響あらざるやを疑ふの念慮を絶つこと能はず、殊に仏蘭西の某天文学者は已〔すで〕に右の大関係ある由を吹聴せしにより、一層旧来の迷信を高めたる観あり…」

ここに言う「仏蘭西の某天文学者」とは、フラマリオンのことではなく、当時ムードン天文台の台長だった、アンリ・デランドル(Deslandres Henri 1853-1948)という人らしいです。

(参照) 1910年のハレー彗星騒動―1910年3月3日
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(「彗星と災害」連載第3回・部分)

こうして新聞連載は、第2回目以降、彗星をめぐる古来の説を振り返り、さらに遠い飛鳥・白鳳の昔から説き起こし、歴代の彗星観測の記録と天変地妖の記事を突き合わせて、両者の関係の有無を考究していきます。

(この項つづく。次回あっさり完結)

彗星の記事帖(2)2017年05月13日 14時31分25秒

明治の彗星ファン、大友荘助翁のスクラップ帖は、5月7日の「○ハリー彗星 △見頃は本月十九日」という記事で始まっています。


そして、スクラップ記事の前にこう書き付けています。

 「彗星(すゐせい) 箒星(ほうきほし)之事 
 明治四十三年五月七日/東京日日新聞所載
 明治四十三年一月始メヨリ〔同年五六月?〕頃マデ
 毎夜午後六時頃ヨリ西鳥治山の北の方ニ彗星(ホーキホシ)現ル
 十九日頃ハ見頃デ有た」

翁は新聞記事に目を通すだけではなく、自ら彗星を実見していました。
そして「見頃であった」と過去形で書いていることから、このスクラップ帖は、前から切り溜めておいた記事を、後から整理して貼り込んだものなのでしょう。

ただし、上の書きぶりからすると、翁は明治43年1月に見た彗星と、同年5月19日に見頃を迎えた彗星(=ハレー彗星)を同じものと考えたようですが、両者は別物です。そもそも1月の段階では、ハレー彗星はまだ8等級未満ですから、肉眼では見えません。翁が目にしたのは、ハレー彗星に先立って出現した、きわめて明るい彗星、「Great Daylight Comet」(C/1910 A1)だったと思われます。(地名の「鳥治山」は未詳)


以下、「見頃は本月十九日」と傍点で強調された記事の冒頭。(引用に当って句読点を補いました)

 「快晴の朝三時半頃東方の空を眺ると、明の明星の稍北方に位して、光輝燦然たる彗星が見える。尾は数千条の直線で上方に向ひ、其長さは約七百哩〔マイル〕ある。是れこそ近頃世を騒して居るハリー彗星である。ハリー彗星の出現に就ては、古昔から種々な荒誕無稽の臆説が行はれて、科学の最も発達した今日でも、尚一種の迷信に駆られ、或は不祥の象徴たるかの如く疑惑を抱いてゐる者が少くない。ハリー彗星が果して恐怖の眼を以て観るべきものであるか、東京天文台員は曰く…」

明治の末は、さすがに20世紀の世の中ですから、科学万能がうたわれ、彗星に絡む不吉の観念は、「迷信」の2文字で片付けられています。そして彗星の尾に含まれる毒ガス云々という、科学的体裁をとった奇説も、東京天文台員氏によって、記事の末尾で軽くいなされています。


 「▲人類は有毒瓦斯に倒れず 彗星が地球に最も接近する十九日頃には、地球は多少彗星の尾に包まれる様になる。処が此尾にある有毒瓦斯は、地球の空気を侵害して人類の呼吸を妨ぐると或学者は警告して居るが、此有毒瓦斯は人類の棲息せる地点迄では迚(とて)も及ぶまいとの推測がつくから、先づ安心して可なりであらう。」

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思えば、大友翁が若いころ、周りの人はみなちょん髷を結っていました。
そして、村でも町でも、狐や狸が普通に人を化かしていましたし、むしろ「お化けや幽霊なんて迷信だ、あれはみんな狐や狸の仕業だ」と、怪異を狐狸の仕業と見なすことが合理的で、「開明的」な態度だったのです。

そんな時代から出立して明治の世を逐一眺め、今や老境に至った大友翁。
その道のりを考えただけで、私は頭がクラクラしてきます。
でも、常に理性的な大友翁は、新聞を丹念に読み、人の話を聞き、さらに自分の目で観察して、彗星の正体をよく理解し、そして彗星の尾に含まれる毒ガスの説にも惑わされることなく、きっと泰然としていたのではあるまいか…。

スクラップ帖一冊から、ずいぶん想像をたくましくするんだね…と嗤われそうですが、私はどうもそんな気がします。

(この項つづく)

彗星の記事帖(1)2017年05月11日 07時11分45秒

かつて「東京日日新聞」というのがありました。
系譜的には、今の毎日新聞につながる新聞です。

創刊は明治5年(1872)と相当に早く、その創設者が日本画家・鏑木清方のお父さんに当る条野採菊(じょうのさいぎく)と、血みどろ絵で名をはせた浮世絵師の歌川芳幾だ…というのも一寸変わっています。

時代は下って、昭和13年(1938)にオープンした、東京で最初のプラネタリウム「東日天文館」の「東日」とは、この東京日日新聞に由来するので、天文ファンとの縁も浅からぬものがあります。


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さて、その東京日日新聞の古いスクラップ帖が手元にあります。
和紙を綴じた手製の帳面に、明治43年(1910)5月に連載された記事をまとめて貼り込んだものです。

(横綴じの帳面のサイズは、約14×38 cm)

「彗星と災異 二十回 / 彗星と天災事変との関係 六回」
「彗星 箒星之事」

と、几帳面な楷書でタイトルが書かれています。
ハレー彗星接近にちなみ、海の向うでコミカルな絵葉書が作られていた頃、日本の新聞社は、彗星と災害の関係を過去にさかのぼって検証する記事を連載していました。


それをまた丁寧に切り抜いて一覧できるようにしたのは、大友荘助翁、65歳
当時の65歳は今の80代にも当るでしょう。逆算すれば弘化2年(1845)の生れです。

まったく無名の、市井の一老人とはいえ、その年齢を感じさせぬしっかりした運筆は、翁の旺盛な知識欲と相まって、非常に頼もしい感じを抱かせます。

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記事の内容も興味深く、明治の新聞というエフェメラルな存在も興味深く、そしてまた明治時代の老人の彗星に寄せる関心の程も興味深い。

(ネガポジ反転)

この珍品の中身を覗いてみます。

(この項つづく)

5月10日、ハレー彗星迫る2017年05月10日 07時14分55秒

フランスの大統領選が終わり、ルペン候補は辛くもしりぞけられました。
別にルペン氏に個人的な恨みはないですが、極右と排外主義のドミノが食い止められたのは良かったと思っています。

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そういえば、今から100年ちょっと前の5月も、フランスの人々は落ち着かない気持ちで、日々を過ごしていました。


言わずと知れた、1910年のハレー彗星騒動です。
上は「1910年5月19日の思い出。世界の終わり」と題して、それを風刺的に描いた絵葉書。


「ルシュール教授講演会。間近に見るハレー彗星」と銘打った路上観望会。
望遠鏡を覗く男の驚愕の表情と、筒先に迫る彗星。
さらにその脇には、「今日は最後の10日」という札が掲げられています。

絵葉書のタイトルにもあるように、この年のハレー彗星は、5月19日に太陽面を通過したのですが、その際、彗星の尾に含まれる毒ガスが地球を包み込み、人類は死滅する…という怪説が事前に流れて、人々を不安と恐怖に陥れたのでした。

そして、運命の19日を控え、ひょっとしたら人類にとって「最後の10日」となるかもしれない5月10日の光景を描いたのが、この絵葉書というわけでしょう。

まあ、「不安と恐怖」といっても、それを面白がる気持ちが多分に交じっていたのは、こういうコミカルな絵葉書が作られたこと自体が物語っています。何せ高名な学者たちは、「そんなことは決してない」と太鼓判を押していたので、人々は「人類最後の日」については懐疑的でしたが、「でも、ひょっとしたら…」という思いも捨てきれずにいたのでしょう。

要は、そういう流言が広がりやすい、不安な時代だったのだと思います。
そして、その不安の正しさは、4年後の第一次世界大戦勃発によって証明されました。

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地球脱出をもくろむ人々と、それを商売のタネにする人。

「救命浮き輪。比類なき上昇力。1個60スイスフラン。
お支払いは使用済み自動車タイヤでも可!」

日本では戦後の1947年に、この彗星騒動に取材した『空気のなくなる日』という小説が出て、その中で、人々が窒息死を免れようと、当時自転車の空気チューブがバカ売れした…という挿話が描かれました。それがさらに映画やアニメを通じて伝播するうちに、今やすっかり「事実認定」された観があります。

その事の真偽を私は知りませんが、ひょっとしたら、こんな絵葉書が元になって、それに尾ひれがついて、小説のネタになったのではあるまいか…という想像も浮かびます。

(なお、文中に「スイスフラン」とあるので、この絵葉書はフランスではなく、スイス向けに出されたもののようですが、売り手はロレーヌの人でしたから、フランスでも流通したのでしょう。)

【5月11日付記】 …と、偉そうに書いたものの、この「スイスフラン」は全くの誤解で、これは普通に「フラン」である由、コメント欄でご教示いただいたので、ここに訂正します。


風船に遺書をくくり付ける人。
そして「全部失くしちまった。これで災厄が来なかったら、いったいどうするんだ?!」とうなだれる男。

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100年後のどこかの国でも、私欲のために人々の不安を煽るだけ煽って、しれっとしている人がいますが、ああいうのは本当に罪深いと思います。

旅人未満2017年03月19日 09時24分42秒

永六輔・作詞、中村八大・作曲でヒットした「遠くへ行きたい」。

 知らない街を 歩いてみたい
  どこか遠くへ行きたい
 知らない海を ながめてみたい
  どこか遠くへ 行きたい 

ウィキペディアによれば、この歌の発売は1962年で、ずいぶん古い歌です。
私の耳に残っているのは、その後1970年に始まった旅番組、「遠くへ行きたい」の主題歌として、頻繁に流れるようになってからのことと思います。

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知らない世界を求めて、「今ここ」から「どこか遠くへ」と向かうのが旅。
その中には、知らないモノを求めてさまよう「蒐集の旅」というのもあります。
世界中を自分の足で歩き、不思議な店の門をくぐり、にぎやかなマーケットを覗き、未知のモノを探し出して、トランクに詰め込む。

できれば私もそんな旅がしたいのですが、己の性格と生活環境のしからしむるところにより、自室のディスプレイの画面を、老いた釣り師の如くじっと眺めて、未知のモノが針にかかるのをひたすら待つ…ぐらいが今は関の山です。

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以前ご紹介した(http://mononoke.asablo.jp/blog/2017/02/25/)、「第5回 博物蒐集家の応接間 “避暑地の休暇 ~旅の絵日記~”」の開催まで、あと一週間を切りました(会期は3月25日(土)~29日(水)まで)。

この旅をテーマにしたイベントに、旅をしない自分が、どう関わればいいのか迷いましたが、考えてみれば、人間は――大きく言えば人類は――世界と自分を知るために、長い長い旅を続けているようなものですし、星の世界とのかかわりも、そんな旅の1ページなのだ…と達観することにしました。

そんなわけで、天文の歴史を旅になぞらえた「空の旅」という小さなコーナーを、会場の隅に作っていただくことになりました。

例によって品数が少ないので、その展示意図が伝わらないといけないと思い、あえて「洒落の解説」のような不粋な真似をしましたが、私のささやかな意図はそういうことです。

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先日、針にかかったミッドセンチュリーのタイピン。


彗星を収めた小さな宇宙空間。
この「星界の旅人」を胸元に覗かせて、三省堂の会場内を、旅人のような顔つきで歩いている人がいたら、それは私です。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

政治というのは利権が絡むものですから、政治家の中には悪に手を染める人もいる…というのは、時代劇を見ても分かる通りで(そういえば、最近時代劇が少なくなりましたね)、そのことに驚く人はいないでしょう。

それにしてもです。
特定秘密保護法とか、安保関連法とか、共謀罪創設とか、働かせ放題法とか、その他何とかかんとか。安倍氏とその取り巻きが、これほどまでに遠慮会釈なく、大っぴらに悪事を重ねるのを見て、怒りも恐怖も通り越して、一種の異界感すら覚えます。

彼らは、なぜこれほどやりたい放題を続けられるのか?
もちろん、議会の多数を占めているという根本原因があるのですが、話を聞いてみると、それ以外にもいろいろカラクリがあるのだそうです。

例えば、政治家と官僚は、癒着もする一方で、互いに強く反目しているわけですが、その抵抗をそぐための手法が、人事(と予算)の掌握です。安倍氏の場合、第2次政権の発足と同時に、以前からあった内閣人事局構想の具体化に向け全力で動き出し、これによって官僚を無力化することに成功したことが、その権力のベースにあるという話。これは、官僚を意のままに操ることのできる、いわば「魔法の杖」です。

そして、この魔法の杖をぶんぶん振って、司法人事にも介入し、検察や裁判所までも骨抜きにしてしまおう…と狙っているのだとか(その完成も間近だそうです)。

さらに、時の権力者が、ダークな力をふるうための便利な財布が、内閣官房機密費で、これは政権の如何によらず、昔からあるのだそうですが、完全に使途不明のお金だけに、やろうと思えば何でもできてしまうという、これまた実に恐ろしい「杖」です。マスコミが急速に無力化した背景には、この後ろ暗いお金の存在があるらしい…と風聞します。実際、鼻薬を嗅がされた人、弱みを握られた人も相当いるのでしょう。

こんなふうに、抵抗勢力を排除する手法を洗練させ(嫌な洗練ですね)、うまく排除に成功したのが安倍氏とその周辺で、実に鮮やかな手並みと言わねばなりません。我々庶民は、「お上」にうまうまとやられぬよう、こういうことを「世間知」として知っておく必要があると思います。

安倍氏に限らず、その手法に学ぶ政治家は、今後も必ず出てくるからです。


再びハリーとハレー2017年01月04日 07時25分47秒

ハレー彗星と、その発見者であるエドモンド・ハレーに関する昨日の記事に、常連コメンテーターのS.U氏からコメントをお寄せいただきました。それに対してお返事を書いていたら結構な分量になったので、他の方からのご教示も期待しつつ、以下にその内容を記しておきます。S.Uさんの元のコメントと併せてごらんいただければと思います。

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S.Uさま
 
ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。

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まず、外来語の表記について、お上が何か言っているかな?と思って調べたら、文科省がずばり「外来語の表記」という内閣告示を出していました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html

でも、これはものすごくゆるくて、ほとんど何も言ってないに等しいです(慣用があるものは慣用に従え、語形に揺れがあるものはどっちでも良い、特別な音の書き表し方は特に制限を設けず自由に書いてよい…etc.)。他の決め事も、全てこれぐらい大らかだと結構なのですが、それはともかくとして、今に至るまで外来語の表記について、しっかりした官製ルールはないように見受けられます。

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「-ley」の日本語表記が揺れているのは、Halleyの他にも、Stanley(スタンレー、スタンリー)やBentley(ベントレー、ベントリー)のように、いくらもあるでしょうが、私見によれば、この揺れの背後にある根本原因は、横文字を日本語で表記する際の「2大ルール」がコンフリクトを起こしていることで、その根はなかなか深いと思います。

全くの素人談義ですけれど、その2大ルールとは「原音主義」と「ローマ字準拠主義」で(勝手な命名です)、たとえば同韻の単語でも、potatoは原音主義により「ポテト」、tomatoはローマ字準拠により「トマト」となるように、英単語の表記は、この両者の間を歴史的に絶えず揺れ動いてきました。

前者は、音声言語でやりとりする際に利があり、後者は日本語から原綴を復元しやすく、文字言語でやりとりする際に利があります。(まあ、これはスペルと発音の乖離が著しい英語だから悩むのであって、独仏語なんかの場合は、ローマ字を持ち出すまでもなく、それぞれの発音ルールにしたがって音写すればことが足ります。)

ハリーとハレーの差も、結局は原音主義をとるか(ハリー)、ローマ字準拠主義をとるか(ハレー)の違いによるもので、それぞれ一長一短がありますから、なかなかすっきりと結論は出そうにありません。

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ただ、ハレーに関していうと、これはやや中途半端な表記で、完全にローマ字準拠主義をとるなら「ハルレイ」となるはずで、実際、明治期にその用例があります(下述)。おそらく、その後「ハルレイ」→「ハレイ」→「ハレー」という変化を経て、ハレーが定着したのでしょう。

昭和8年(1933)に出た、山本一清・村上忠敬著の『天文学辞典』では既に「ハレー」となっており、この頃には既にハレーがかなり一般化していたことを窺わせます(同時期、荒木俊馬は「ハレイ」を使っていて、昭和戦前は「ハレイ」と「ハレー」が混在していたようです)。

参考までに手元の明治期の本を見ると、

○小幡篤次郎 『天変地異』(1868) ハルリー
○西村茂樹訳・文部省印行 『百科全書 天文学』(1876) 哈勒(「ハルレイ」とルビ)
○文部省印行 『洛氏天文学』(1879) ハルレー
○横山又次郎 『天文講話』(第5版、1908) はれー
○本田親二 『最新天文講話』(1910) ハリー
○須藤傅治郎 『星学』(第9版、1910) ハーレー

となっており、「リー」と「レー」の間で、表記がずっと揺れていますが、どうもこの頃から「レー」が優勢だった気配もあるので、ハレーの普及を抱影翁一人の責めに帰すのはやや酷かもしれません。(でも「あの」抱影がハレーと書けば、全国の天文ファンも当然右にならえしたでしょうから、抱影の影響も必ずやあったことでしょうね。)

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なお、抱影がどこからそれを引っ張ってきたかは不明ですが、「エドマンド」は明らかに「Edmund」を意識したものと思います。

姓は針井、名は江戸主水2017年01月03日 11時42分36秒

新年から小ネタです。

なんとなくウィキペディアのハレー彗星の項を見ていたら、この「ハレー彗星」という表記は間違いで、「ハリー彗星」と書くのが正しいのだ…という議論があることを知りました。ウィキペディアだと、本編の記述ではなく、ノートのページでその議論が行われています。傍から見ると、かなり感情的な言葉の応酬で、ちょっと身構えるものがありますが、そこまで情熱的になれるのは、ある意味すごいことです。

   ★

「ハリー派」の論拠は、主にネイティブの発音は「レー」より「リー」に近いというもので、私の耳にも確かにそう聞こえます。

でも、そうすると Edmond Halley のファーストネームの方は「エドモンド」のままでいいのか、NHKのアナウンサーはこれを「江戸主水」と同じ読み方をするでしょうが、これは元の「Edmond」の発音とは相当距離があって、そっちはそのままでもいいのか?…という疑問が頭をもたげます。

では、他にどう書けばいいのか?と問われても、特に名案はなくて、結局のところ英語の音韻を、日本語の五十音(限られた子音と母音)で表記するのは、最初から無理なのだ…と達観するほかない気もします。その意味では、ハレーもハリーも五十歩百歩だというのが、偽らざる感想です。

   ★

で、今日改めて知ったのは、実はこのハレー彗星とエドモンド・ハレーの発音をめぐっては、ネイティブの間でも意見が分かれているということです。ただし、それは「レー」と「リー」の違いではなく、冒頭の「ハ」の字の部分です。

Wikipediaの「Halley's Comet」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Halley's_Comet)を見ると、一番最初に「発音 Pronunciation」という節があって、

 「ハレー彗星は、通常『valley』と同韻の /ˈhæli/〔ハリー〕、もしくは『daily』と同韻の /ˈheɪli/〔ヘイリー〕と発音される。Edmond Halley の名前の綴りは、彼が在世当時、Hailey、Haley、Hayley、Halley、Hawley、Hawlyと様々であり、同時代にどのように発音されたかははっきりしない。」

と書かれています(出典として、ニューヨークタイムズの「サイエンスQ&A」の記事が挙がっています)。要は「ハリー」か「ヘイリー」かで、向うの人も悩んでいるようなのです。

このことは、「Edmond Halley」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Edmond_Halley)を見たら、「発音と綴り Pronunciation and spelling」の節で、さらに詳しく書かれていました。ざっと適当訳してみます(改段落は引用者による)。

 「Halley という姓には3通りの発音がある。
イギリスでも
アメリカでも、最も普通なのは、/ˈhæli/〔ハリー〕である。これは、現在ロンドンで暮らしている Halley 姓の人の多くが、自ら用いている発音である。

それに代わる/ˈheɪli/〔ヘイリー〕というのは、ロックンロール歌手のビル・ヘイリーと共に育った世代が、エドモンド・ハレーとその彗星を呼ぶ際に、しばしば好んで用いる発音である。ビル・ヘイリーは、ハレー彗星の読み方として、当時〔1950年代〕のアメリカでは一般的だった発音〔ヘイリー〕をもじって、自分のバックバンドを「コメッツ」と呼んだ〔最初は「Bill Haley with Haley's Comets」、後に「Bill Haley & His Comets』が、そのグループ名〕。

ハレーの伝記作家の一人であるコリン・ロナンは、/ˈhɔːli/〔ホーリー〕という発音を好んだ。

同時代の記述は、ハレーの名前をHailey、Hayley、Haley、Haly, Halley、Hawley、Hawlyと綴っており、おそらく発音も同様に多様だったろう。」

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そして、「エドモンド」というファーストネームについても議論があるようで、Wikipediaは上の説明に続けて、

 「そのファーストネームに関していうと、1902年の〔タイムズ紙掲載の〕ある記事は、『Edmund』という綴りの方がずっと一般的ではあるが、『Edmond』こそ、ハレー自身が用いた綴りだとしている。

しかし、2007年の『International Comet Quarterly』誌掲載の論文は、これに異を唱えている。同論文は、ハレーの公刊された著作の中で、『Edmund』は22回も使われているのに、『Edmond』はたったの3回しか使われておらず、また他にもラテン語化された『Edmundus』のような、いくつかのバリエーションが用いられていることを指摘している。

こうした議論の多くは、ハレーが生きた時代には、英語の綴字の慣習はまだ標準化されておらず、したがってハレー自身も複数のスペリングを用いたという事実に由来している。」

と、その間の事情を明かしています。

   ★

こういうのは、行き過ぎると「言葉咎め」や、さらには「言葉狩り」のようになって良くないですが、しかし一歩踏み込んでみると、興味深い事実が分かりますし、いろいろ考えさせられます。

(本人自身がどう発音していたかは、最も重要な基準でしょうが、これも行き過ぎると、「宮沢賢治を欧文表記するときは、“Miyazawa Kenzu”が正しい」…ということにもなりかねません。)

彗星が見た夢2016年11月21日 07時09分00秒

何だか辛いことが多くないですか?
ひょっとして、若い人は辛いことがデフォルトになっていて、そう感じないかもしれませんが、それはそれで辛いことです。

   ★

古絵葉書を一枚。


タイトルに「五番街とブロードウェイ」とありますが、ニューヨークではありません。
ここはインディアナ州ゲイリーの町。

 街灯のともる、静かな夜の街角。
 窓から洩れる明かりに、人々の暮らしの確かな温もりが感じられます。
 左手には誇らしげにはためく星条旗。
 それと競い合うかのように、空一面に星がまたたき、
 ハレー彗星がスッと横切っていきます。


美しい、まるで夢の中で見る光景のようですが、これは1910年5月20日、人々の目に確かに写った光景です。

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…でも、やっぱりこれは「夢」なのかもしれません。
アメリカという国と、そこに住む人々が見た美しい夢。

以下、ウィキペディアの記述から、そのまま引用します。

 「ゲーリーは1906年、USスチール社が同地に新工場を設立したことによって誕生した。市名は同社の社長の名にちなんでいる。以来、同市はアメリカ合衆国における製鉄業の隆盛と共に隆盛を迎えた。」

ゲイリーは、当時驚くほど新しい町でした。上の絵葉書は、新しい町が生まれ、人々が最も活気と希望に満ちていた時代のものなのです。

 「しかし、ゲーリーの凋落もまた、製鉄業と運命を共にするように訪れた。その原因は、1960年代に全米の多くの都市同様、レイオフで大量の失業者が出たことであった。〔…〕今日においても、同市は失業・財政問題・犯罪といったさまざまな都市問題を抱えている。〔…〕ゲーリーは全米有数の犯罪都市として悪名が高い。モーガン・クイットノー社の調査では、同市は1997年・1998年と2年連続で『全米で最も危険な都市である』と報告された。」

ここは、アメリカのラストベルト(錆ついた地帯)のど真ん中であり、今や最も活気と希望から遠い場所です。変化を求めて、トランプ氏を熱狂的に支持したのも、この地の人々でした。

   ★

ハレー彗星が、前々回の接近時(1910)に見た地上の光景と、前回(1986)見た光景は、驚くほど違いました。

次回(2061)は果たしてどうなっているでしょう?
夢、活気、希望…そんな言葉を、人々は口にできているでしょうか?

人間の自由意思を信じる人ならば、「どうなっているかを問うのではなく、我々がどうしたいかを問え」と言うかもしれません。私は自由意思万能論者ではないので、そこまで強い言い方はできませんが、でも、夢や活気や希望というのは、周囲に流されるときには生まれ難く、自ら決断するときに生まれることが多い…というのは、経験的に正しい気がします。

ともあれ、45年後の再開を期して、今からいろいろ夢を紡いでおきたいです。