ロイヤル天文同好会のこと(前編)2026年04月04日 16時59分53秒


(ちくま文庫版『ライカ同盟』より)

赤瀬川原平さんは、1970年から86年まで、東京神田の「美学校」の講師を務めていました。美学校は「東京神田美学校」とかの略称ではなく、「美学校」という固有名詞を持った一種の私塾です。そこで原平さんは「オモシロ芸術学」とでも呼ぶべき奔放な内容で談論風発、それが幅広い年代のオモシロ好きの人たちを引き寄せ、そこに不思議な空間が生まれたのです。路上の超芸術「トマソン」が発見され、後年、路上観察学会へと発展したのも、この「赤瀬川サークル」があったればこそです。

1974年にロイヤル天文同好会が生まれたのも、また美学校の赤瀬川サークルからでした。

…と、いったんは書き出したものの、実はちょっと気になることがあります。
たしかに、原平さんの単行本『ゴムの惑星』(誠文堂新光社、1995)を読むと、冒頭に

 「ゴムの惑星というのは、ぼくたちロイヤル天文同好会の機関誌の名前だ。ぼくがむかし美学校というところの先生をしていて、そこの生徒たちといっしょに作った。」

と書かれています。でも、「ノバ・シグナス一九七五」という短編(初出は「オール読物」1982年3月号、のちに『ライカ同盟』所収)には、

 「ミナミ君〔=南伸坊〕と二度目に会ったとき、ミナミ君はロイヤル天文同好会の会誌を見せてくれた。『ゴムの惑星』という名前で、最初見たときは、何かちょっと、その名前からして怪し気な団体かと思った。でもミナミ君は話していてぜんぜん怪し気ではないし、ぼくも前から天文に関心があったので入会させてもらった。会誌を見ると会長は田中ヒロミという人で、それがどんな人だろうかという興味もあった。」 

と書かれています。「あれ、どっちが正しいのかな?」と思いましたが、これはやっぱり最初の話が正しくて、「ノバ・シグナス」という私小説は、小説の常として潤色と改変が加わっているようです。

そもそもロイヤル天文同好会の会長は「田中ヒロミ」ではなく、田中ちひろ氏です。田中氏は美学校における原平さんの年若いお弟子さんでしたが、天文趣味に関しては本格的な知識を持ち、原平さんを導く立場だったので、自ずと会長になられたのでした。

その田中氏は、単行本『ゴムの惑星』末尾の「付録」でこう書きます。

 「赤瀬川さんの文章にもあるように、『ゴムの惑星』というのは、ボクたちロイヤル天文同好会の機関誌の名称です。〔…〕

 ところで、『ゴムの惑星』という不思議な機関誌の名称のことですが、とりあえず会報を出そうというんで、みんなが集まっていた時、『ゴムの惑星』っていうのはどう?と、突然言い出したのは赤瀬川さんだったと思います。〔…〕

 『ゴムの惑星』にくらべて『ロイヤル』の名称が決まるまでには、結構時間がかかりました。〔…〕その頃、中央線沿線に住んでいた赤瀬川さんとH会員、それに私は、毎週土曜日の美学校の授業のあと、いつも水道橋駅から下りの電車に乗って一緒に帰っていましたが、その道すがら、たまたま線路沿いのネオンのひとつに、「高級クラブ ロイヤル」というのがあって、「ロイヤル!いいネェー」となり、一気に「ロイヤル天文同好会」という名称が決定されました。」

(長いのでここで記事を割ります。後編につづく)

ロイヤル天文同好会のこと(後編)2026年04月04日 17時09分47秒

(本日は2連投です。前編のつづき)

単行本『ゴムの惑星』と、会誌「ゴムの惑星」があってややこしいですが、会誌の方は文字通りの3号雑誌で、第3号が出た後で休眠状態に入りました。

■第1号 1975年12月刊(限定100部)
■第2号 1976年8月刊(限定150部)
■第3号 1979年6月刊(限定200部)

こういう会の創設と会誌発刊の事情は、会誌「ゴムの惑星」を読めば一目瞭然なのでしょうが、国会図書館に行かない限り、読むのはなかなか困難です。今、たまたま「日本の古本屋」に第1号と第2号のセットが売りに出ていますが、そのお値段はなんと11万円。それだけの価値がある珍本なのでしょうが、さすがに11万円を出す勇気はありません。

そちらは他の方にお任せするとして、私の手元には第3号があります。


ロイヤル天文同好会は、その成立事情から、何となくおふざけ気分のある、天文同好会と名乗ってはいても、天文以外の活動をいっそう面白がるクラブではないか…という疑念がありました。でも会誌を読んで、その疑念は消えました。会員はみな純な天文好きで、会誌の内容も至極まじめなものだったからです。


第3号の巻頭に原平さんの詩が載っています。

 今日つくった詩
  ダイコンと
  ジャガ芋と
  油揚を買って
  娘の手を引いて帰りながら
  一番星を見つけた
  娘より先に見つけた

ああ、なんと純な詩でしょう。
原平さんの星ごころは、これほどまでに純なものだったのです。


目次を見ても、本当に普通の天文同好会誌という感じで、「星空案内-晩春から初夏へ」とか、「ロイヤル天文学講座『黄道光と対日照』」とか、それにまじって原平さんは「ぼくの欲しいレンズ」という一文を書いています。



また南伸坊(伸宏)さんは、「中国の星の話」の中で、『捜神記』から北斗と南斗の逸話を紹介しています。伸坊さんは中国の伝奇・志怪小説を好み、後にそれらを題材にした漫画作品集も出していますが、まだ30歳になるやならずの頃から、そうした渋い読書体験を重ねられていたことを、これを読んで知りました。まことに畏敬すべき人物です。

(上の北斗と南斗の話は「星に遭う」と題した漫画作品となり、『李白の月』(マガジンハウス、2001)に収められています)

   ★

1970年代の天文趣味は、「個と孤」ではなく「集と群」の中で営まれていました。学生のみならず社会人も進んでクラブを結成し、会誌をせっせと天文雑誌に送り、それを結節点として、クラブとクラブがゆるく結合し、全国規模の巨大な天文サークルができていたのです。

これは1970年代に限った話ではありません。要は欧米では1870年代から、日本では遅れて1910年代から発展した「クラブの時代」の末流に1970年代は位置していた…ということだと思います。

現代は反対に「クラブ消滅の時代」で、天文に限らず、あらゆるクラブや団体が会員の減少と高齢化に苦しんでいます。もはや人々はネット上で集うことはしても、現実世界で集うことを求めてはいないようにも見えます。

まあ、天文趣味は自らの星ごころ(人によっては機材ごころ)を満たすことが目的であり、クラブを結成することが目的ではありませんから、現状に異を唱える必要はありませんけれど、それでもやっぱり当時を懐かしみ、羨む気持ちも少なからずあります。

純で素朴でシャイなロイヤル天文同好会。
そこに集った才人たちの含蓄あるやりとりを、間近で見聞きしてみたかったです。

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【おまけ】

「ゴムの惑星」第3号の巻頭言で、原平さんはのその刊行間隔を凝視し、これが不定期刊ではなく「放物刊」であると喝破しました。

■第1号 1975年12月刊
■第2号 1976年8月刊
■第3号 1979年6月刊

そしてその放物線を延長すると、第4号が出るのは1990年2月である…というのが、原平さんの予測でした。

(横軸は号数。計算式の第3項(28275)は、1900年1月1日を1とするシリアル値。年号にすると1977年5月30日)

しかし、エクセルの多項式近似曲線を延長すると、第4号はもっとはやく1984年5月には出ていたはずです。会長である田中氏は、この刊行遅延は、モロモロの重力源の摂動の影響であると推測し、「会長としては、第四号の刊行をズバリ一九九九年末とみています」と書かれています(単行本『ゴムの惑星』付録)。

しかし、最後の予測も裏切られ、会誌「ゴムの惑星」は無限遠の彼方に消えました。
でもひょっとしたら、2014年10月26日、原平さんが最後の一番星を見たとき、目に見えない第4号がひそかに刊行されていたかもしれません。

ハーグ新報とプラネタリウム2026年04月12日 09時59分54秒

なかなか記事が書けずにいます。
新年度に入って前年度の報告事務が重なり疲弊しているとか、齢のせいで生産性が落ちたとか、理由付けはいろいろできますが、どうもこの「おっくう感」はそれだけではなくて、ちょっと鬱が入ってる気がします。

といって、別に不安焦慮にさいなまれたり、微小妄想にとらわれたりすることもなく、普通に日常生活を送っているのですが、なんだかひどく億劫で、根気や集中力が続かない感じが持続しています。ひょっとしたら、これは同世代の多くの人が感じていることかもしれず、そうなるとやっぱり齢のせいかな…と思ったり。

まあ、こういうちょっとしたことが積み重なって、老いの坂を上ったり下ったりしていくのでしょう。そのこと自体、興味深いことではあります。

   ★

さて、億劫は億劫なりに、天文古玩道の鍛錬を欠かすことはなく、モノは単調増加を続けています。


1960年代の品とおぼしいラペルピン。


強い光を放つ十字の星は、あるいは北十字(はくちょう座)と南十字(みなみじゅうじ座)をシンボライズしたものかもしれません。そこに「Zeiss Planetarium Haagsche Courant」の文字が見えますが、これはオランダ・ハーグの老舗新聞、「ハーグ新報(Haagsche Courant)」の本社屋上にあったプラネタリウムのことで、この品はその記念バッジです。

(ハーグ新報社屋とプラネタリウム。これを見ると、2つの十字星は同プラネタリウムのシンボルだったようです。出典:Worldwide Planetariums Database

ここにツァイス製プラネタリウムが設置されたのは1934年のことで、オランダでは最も古いプラネタリウムのひとつ。1976年の火災で建物が焼失したことにより、その歴史は幕を閉じましたが、辛うじて難を逃れた投影機本体は、今も別の場所に保管され、近年修復されて稼働可能になった由。


バッジの裏面に見える「Ferd Berentzen Maastricht」は、このバッジの製造メーカーで、1960~70年代、主に石油会社のロゴ入りノベルティグッズを手掛けた会社だそうですが、それが今ではオランダのレトロな広告文化を代表するアイテムになっていると、AIは教えてくれました。

   ★

以下、余談。

プラネタリウムを運営していたハーグ新報は、ハーグ密使事件(1907)の舞台となった新聞社です。韓国が独立国家から日本の保護国に、さらに属領となる流れの中で、世界に韓国の苦境を訴えるため、時の高宗皇帝はハーグ万国平和会議に3人の密使を送りましたが、列国は出席を拒否。そこに手を差し伸べたのがハーグ新報です。密使たちに共同記者会見の場を設け、同紙がその声を大々的に報じたことは、欧州世論に強いインパクトを与えました。その結果、日本が態度を硬化させ、植民地支配のくびきが強まったことは歴史の皮肉ですが、同様のことは現在の国際政治でもしばしば見られます。

さらに後年、これはプラネタリウム閉館後のことですが、“ハーグのアル・カポネ”と恐れられたエーフ・ホース(Eef Hoos)の不正を同紙が報じたことで、ホース一味の怒りを買い、発行元のシトホフ社(ハーグ新報以外にも複数の新聞を発行していた親会社です)に対する大規模な自動車爆弾テロ事件が起こりました(1986年)。ホースは後に逮捕され、この事件はオランダにおける報道の自由に対する重大な挑戦として、今も語り継がれているとのことです。

   ★

ドイツ占領下のハーグで、ナチス寄りの報道を行ったことは同紙の黒歴史とはいえ、ハーグ新報はリベラルな保守系日刊紙として、戦前も戦後も一貫して硬骨な報道を続けてきました(リベラルと保守は別に二項対立するものではありません)。


無駄なような気もしましたが、あえて色違いのラペルピンを買い足したのは、その姿勢を大いに是としたからです。

星乙女の本2026年04月19日 12時36分54秒

この季節の空をいろどる「春の大曲線」
北斗七星の柄杓を延長すると、うしかい座のアルクトゥールスを通って、おとめ座のスピカまでのカーブが描けるという、星好きにはおなじみの曲線です。

日本の民俗語彙では、アルクトゥールスは「麦星(むぎぼし)」の名を得ています。
ちょうど晩春から初夏にかけて、麦が熟す「麦秋(ばくしゅう)」の空に輝く星で、その色合いも、熟した麦の実にぴったりの好い名前です。

いっぽう西洋星座では、おとめ座が手にする麦の穂先がスピカで、これまた麦に縁があります。アルクトゥールスと同じく、麦の収穫期に輝く星であり、おとめ座が農耕神の性格を持つのも、そのためでしょう。

   ★

先日届いた本。


■F. E. Bernhardi
 Asträa:  Briefe über Astronomie an eine Dame
 (アストレア―ある貴婦人への天文書簡)
 Carl Rümpler(Hannover)、1858(第2版)、387頁

(タイトルページ)

アストレア(アストラエア)は「星乙女」の意で、おとめ座と同一視されるギリシャ神話の女神。おとめ座の神格については、複数の伝承がありますが、おとめ座のルーツは古代ギリシャ以前に遡るので、それらはいずれも付会であり、細かい詮索はあまり意味がないように思います。いずれにしても遠い昔、農耕生活に入った人類が常に頭上に仰いできた「農事の星」が、おとめ座であり、スピカです。

『アストレア』は、星乙女が表紙を飾る美しい本。
もちろん想定読者が女性だからこその星乙女であり、判型も16折判(ほぼ葉書サイズ)と愛らしいのも、女性向けを意識しているようです。

(背表紙にも麦の穂)

著者のベルンハルディは、ドイツの教育者、アドルフ・テルカンプ(Johann Dittrich Adolf Tellkampf 、1798-1869)の変名で、当時はやった書簡形式で書かれた天文学入門書です。

(目次)

内容は、第1書簡「天文学に関する本書簡集を執筆するに至った動機。受け手の要望に応えることの難しさ」、第2書簡「宇宙体系の予備的な図解。特に地球の公転および自転について」に始まり、第42書簡「天体現象についてフォン・フンボルトが語ったこと」に至るまで、さる御婦人(もちろん架空の存在)に宛てた42通の手紙によって、天文学の基礎を説くものです。


表紙の美しさにひきかえ、中身は当時の天文古書にありがちですが、わりと地味。


巻末に折り込み星図があるほか、文中にところどころ挿絵があるぐらいで、字が多めです。


でも、公的な科学教育から疎外されがちだった当時の女性が、この小さな本に読み取った星ごころを想像すると―ドイツ語が読めないので、想像するだけですが―、この本は地味どころか、なかなか滋味を感じさせます。

(裏表紙には同じ星乙女が空押しされています)

紫の佳人…『女性のための天文学』2026年04月25日 17時21分02秒

さて、今日も天文古書です。
前回登場した『アストレア』と、いわば同工異曲の作品。


■Wilhelm Plath
 『Sternkunde für Frauen』(女性のための天文学)
 J.H. Meyer(Braunschweig)、1872.

同工異曲と書いたのは、これまた架空の女友達に宛てた手紙形式の本だからです。副題には、『中部ドイツで見える星座の知識、および太陽系の一般的な状況に関する手引き ― ある女性の友人へ宛てた書簡形式による通信 ―』とあります(例によって昔の本はタイトルが長いです)。

(『アストレア』と並べたところ。判型は相対的に大きく、厚さはやや薄いです)

女性のための本ということで、これまた装丁が非常に凝っているのが目を引きます。


紫のクロス装にくっきりとしたエンボス加工、そこに金箔押し。まことに美麗です。


天・地・小口の三方金と、これまた豪華。

(目次)

内容はというと、第1書簡「序論。星空の光景が人間の心に及ぼす影響」、第2書簡「天球儀とその欠点」、第3書簡「地極と天極の関係についての異論を排す」…等々、全35篇の書簡形式の章節から成ります。

ただ、本書が『アストレア』と違うのは、176頁の本文中には挿絵がなく、巻末に29点の星図を含む32点の図版がまとめられていることです。しかも「29点の星図」は、純粋な星図と、それと重なる星座絵の2枚がセットになっているので、星座パートだけで58葉(ページ数にすると116頁分)という、星図のウェイトが非常に大きいのが本書の特徴です。


たとえば上はおとめ座の絵ですが、


そこにこのような星図が重なります(下にうっすらと星座絵が透けて見えます)。

ちょっと不思議なのは、こういう工夫をする場合、普通は星図の上に星座絵を重ねるのに対して、本書では星図の下に星座絵が来ることです。でも考えてみれば、星座を眺めるときは、星の配列がまず眼前にあって、そこにぼんやりと星座絵を重ねて想像するわけですから、本書のやり方のほうが一層リアルな気もします。


うみへび座とその周辺。


うみへび座とポンプ座にはさまれて、ちんまりといるのは「猫座」
この絵はちょっと体形が変ですが、猫好きのラランドが設定したと言われる、現存しない星座です。その他は「らしんばん座」と「ろくぶんぎ座」。

(星図以外の挿絵はこんな感じです。裏面はすべて白紙)


さらに末尾には大きな折り込み図が付きますが、


こちらは星図ではなく、太陽系の図です。

   ★

なお、著者のヴィルヘルム・プラート(Wilhelm Plath、1795-1873)は、ハンブルクの医師で、科学啓蒙活動で知られた人の由。医師としては産科を専門とし、助産師教育にも努めた…というところが、本書の執筆動機と重なっているように思えます。

   ★

なんだかんだ言って、1週間に1回ぐらいしか更新できない状態が続いていますが、諸事情を勘案すると、当分はこんな感じだと思います。

鈴木敬信氏と春の大曲線2026年04月29日 10時27分48秒

そういえば…のメモ書きです。

先日、『アストレア(星乙女)』という天文古書に触れた際、おとめ座がらみで「春の大曲線」に言及しました。この「春の大曲線」について、ウィキペディアは「この呼び名を考案したのは日本の天文学者 鈴木敬信である」と自信満々に言い切っています。

鈴木敬信、1905-1993

でも、そこで出典として挙がっている、原恵氏の『星座の神話』(恒星社厚生閣、初版1975/新装改訂版1996)の該当箇所を見ると、「この曲線を「春の大曲線」と呼んだのは、鈴木敬信氏であったと思うが、〔…〕」 (新装改訂版p.67)と、いくぶん慎重な書き方になっています。

   ★

鈴木敬信氏の名を聞くと、私はただちに石田五郎氏による人物評を思い浮かべて、「ひたすら怖いおじいさん」をイメージします。

 「敬信についてはさまざまなエピソードがある。戦後のことである。日本天文学会の年会が木造バラックの麻布飯倉の東大天文学教室で開かれた頃である。〔…〕上座の大先生から自己紹介が始まる。末座の私が立ち上がったとき、間髪を入れず、
「H君に嫌われて天文台を追い出されたのはキミか」と、丁度芝居でいえば大向うの掛声、これが敬信であった。また大先生の叙勲パーティーでこの天文界のドンに献辞として、

  稔るほど 頭の垂るる 稲穂かな

といって満座をシンとさせたのも敬信である。まだ物凄いのがあるが、私怨に類するので割愛する。そして書評の筆致も辛辣激越をきわめた。時にはあやまちを指摘して「噴飯もの」とか「抱腹絶倒」という表現までつかう。我々後輩の徒はひそかに「ガラ先生」とよんで畏怖した。」
 (石田五郎著 『星の文人 野尻抱影伝』、中公文庫、p.175)

「ガラ」とはガラガラヘビのことで、敬信氏が巳年の生まれだったことに掛けたあだ名です。まあ、これだけでも相当なものですが、さらに凄いエピソードがあるというのですから、控えめに言っても「性、狷介、自ら恃む所頗る厚」き方ではあったのでしょう。

その怖いおじいさんが、「春の大曲線」という優美な名の生みの親なのか?
石田氏の前掲書によれば、敬信氏は東大を卒業後、上野の科学博物館の主任研究員をつとめ、多くの天文解説書を執筆するとともに、戦前を代表するプラネタリウム「東日天文館」の開設に関わって、そのパンフレットも手がけたそうですから、学者仲間に対してはともかく、一般の天文ファンには親切な啓発家の顔も見せていたようです。

「春の大曲線」の直接の出典は未詳ですが、氏の経歴を考えると、いかにもプラネタリウムの解説の中で編み出された言葉という気はします。

   ★

ただし、「春の大曲線」という名称は日本独特としても、春の大曲線に相当する概念(=星の見つけ方)は、他国にもありました。


たとえば、E. C. Clarke の『Astronomy from a Dipper』(1909)を見ると、下の図とともに、「北斗の柄(え)をごらんなさい。そして、その柄が描くカーブを想像し、およそ北斗と同じ長さだけ伸ばしてごらんなさい。曲線の先にはアルクトゥールスがあるでしょう。これはオレンジ色をした、最も明るい星のひとつです。さらに曲線を同じ長さだけ延長してみましょう。その先にはスピカがあります。こちらは純白の一等星です。」と解説されていて、まさに春の大曲線です。たぶん、探せばもっと古い用例も見つかるでしょう。


この星探しの方法は、ボーイスカウト活動の中で一般化し、「Follow the arc to Arcturus, then spike to Spica」という韻文のフレーズとともに覚えた人が多いようで、検索すると、そのバリエーションを含め、関連ページがたくさん見つかります。