閑語…世界はうつろう ― 2026年09月01日 21時37分17秒
暦は9月。
残暑は相変わらずですが、夏の名残のツクツクボウシの声も間遠になってきました。
それと入れ替わりに、昨日は浴室の窓越しにリーリーという良い声が聞こえてきて、しみじみ秋を感じました。コオロギの代表種、ツヅレサセコオロギの鳴き声です。
地球規模の気候変動が進む中でも、時期がくれば自ずと虫は鳴き、花は開く。
その事実に心を慰められます。とはいえ、それもいつまで続くか分かりませんし、環境が変われば生物相も変わる方が、むしろ自然だという気もします。
「自ずから然り」と書いて「自然」。
決して長くはない残りの人生を通じて、私は自然界の不易と流行を見つめていくことになるのでしょう。
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ときに、「人は2度死ぬ。1度目は生物学的に死んだ時、2度目はその人を記憶している人がすべてこの世からいなくなった時」という話を聞きます。「あいつは俺の心の中でずっと生きている!」みたいなセリフを聞くと、「じゃあ、君が死んだら、“あいつ”はどうなるの?」という疑問が浮かびますが、この説はその疑問に答えるものでしょう。
この「天文古玩」が徐々に閲覧困難な「死に体」になりつつあることは、これまで何回か書きました。しかしそればかりではなく、「天文古玩」のかすかな記憶の痕跡すらも、今ネット空間から消えつつあることに気づきました。
AIの説明によれば、Googleの検索システムは既登録のページを定期的に巡回し、リンクが切れているものは検索結果に表示されない仕組みになっており、「天文古玩」のように過去の記事がすぐに開けないと、それだけでバッサリやられてしまうのだそうです。
そんなわけで、現在、過去記事の検索はまったく機能しておらず、キーワードはもちろん、記事のタイトルを、そっくりそのまま入れても、まるで反応がありません。Googleによって「透明な存在」にされることの悲しみもあるし、何よりも過去記事を参照できないのはひどく不便です。
まあ、ただでさえAIの普及によってネットのリソースが逼迫している昨今、情報の剪定作業の意義も理解はできます。それにしたって、21世紀の第2四半期になって、文字データ主体の素朴なブログの過去記事さえ、碌に検索できない世界が訪れようとは、ちょっと予想していませんでした。
「見えぬけれどもあるんだよ」と、ここで今一度繰り返さなければなりません。
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…という、いささか後ろ向きの記事を投稿しようとして、大変な事実が明らかになりました。
(この項つづく)

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