白昼に金星を視る2024年03月10日 07時49分45秒

再び絵葉書の話題。
先日、ドイツの古書店から4枚の絵葉書をまとめて送ってもらいました。そのうち「上弦の月男」、「時計塔の女の子」、「保険会社の天文時計」の3枚はすでに登場済みで、残りの1枚がこれ↓です。


ライプツィヒの望遠鏡商売を描いた絵葉書。
まだ裏面に住所欄と通信欄の区別がない、いわゆる「Undivided-back」タイプなので、年代的には1900年頃のものと思います。印刷は多色石版。

(絵葉書の裏面)

望遠鏡商売については、以前も書きました【LINK】

要は小銭をとって望遠鏡を覗かせる大道商売です。見せるのは地上の景色という場合もあったかもしれませんが、主に天体です。昼間なら太陽黒点を、夜なら月のクレーターや土星の環っかといったポピュラーな対象を、面白おかしい口上とともに見せる商売で、面白おかしいだけではなく、一般の人々に天文学の基礎を教える、社会教育的機能も果たしたと言われます。


この絵葉書だと、望遠鏡の足元に「Venus」とあって、昼間の空に浮かぶ金星を見せているようです。金星も満ち欠けをしますから、三日月型の金星を昼間眺めるというのが、この日の呼び物だったのでしょう。

描かれた場所は、絵葉書の隅に「ケーニヒス広場」とあって、これは現在の「ヴィルヘルム・ロイシュナー広場」だそうです。下の写真がちょうど同じ場所。この辺は第2次大戦中の空襲で焼かれたため、すっかり様子が変わっていますが、正面奥のライプツィヒ市立図書館(旧・グラッシ博物館)のファサードに、辛うじて昔の面影が残っています。

(Googleストリートビューの画像より)

(比較のため再掲)

左手の点景に写り込んでる自転車の少年は、かつて同じ場所で、人品卑しからぬ紳士と淑女が望遠鏡を覗いたことを知らないでしょう。でも、それを知って眺めると少し妙な気分になります。まことに人も街も、変われば変わるものです。

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ところで絵葉書に刷り込まれた「Gruss aus Leipzig(ライプツィヒからこんにちは)」の文字。

この「Gruss aus ○○」というのは、昔の観光絵葉書では定番のフレーズで、当然その町の名所や名物と並んで書かれることが多いのですが、となると望遠鏡商売はライプツィヒの名物で、よそから来た人の目には物珍しく感じられたということでしょうか? 少なくとも同時代のロンドンでは見慣れた光景だったと聞きますが、ドイツではまだ新手の商売だった可能性もあり、この辺は今後の宿題として、類例を探してみようと思います。

星はゆふづつ2023年06月06日 15時12分20秒

清少納言は金星(ゆふづつ)を、すばる・ひこぼしと並んで、見どころのあるものとしました。そのまばゆく澄んだ光は、清少納言ならずとも美しく感じることでしょう。

金星は今、夕暮れの西の空にあって見頃です。
6月4日には東方最大離角の位置に来て、望遠鏡でみると半月形をしていたはずです。これから金星は徐々に三日月形に細くなっていきますが、地球との距離が近づくので、明るさはむしろ増し、7月10日に最大光度マイナス4.5等級に達すると、星空情報は告げています。

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こんな絵葉書を見つけました。

(1910年発行のクロモリトグラフ)

「金星をご覧あれ。5セント」という看板をぶら下げた、望遠鏡の街頭実演家を描いたコミカルな絵葉書です。これは昔、実際にあった商売で、道行く人に望遠鏡で星を見せ、初歩的な天文学の知識をひとくさり語って聞かせて、お代を頂戴するというものです。


場面は、貧しげな風体の男が望遠鏡をのぞくと、樽の中から少年がさっと現れて、ロウソクの炎を金星と偽って見せているところ。三者三様の表情がドラマを感じさせます。まあ、こんな詐欺行為までが実景だったとは思いませんが、こうした見世物の客層が、主に貧しい人々だったのは事実らしいです。


右肩の「Things are looking up」というフレーズは、「こいつは運が向いてきたぞ」という意味の慣用句。金星はたしかに美の化身ですが、ラッキーシンボルというにはありふれているので、それを見たから格別どうということもないと思うのですが、この場合、腰をかがめて「looking up」している男の動作と慣用句を重ねて、一種のおかしみを狙っているのでしょう。

(絵葉書の裏面。版元はニューヨークのJ. J. Marks、「コミックス」シリーズNo.15と銘打たれています)

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宮廷住まいの清少納言とはいかにも縁遠い風情の絵葉書ですが、もし彼女がこれを見たら何と言ったでしょう?「いとをかし」か、「いとわろし」か、それとも「すさまじ(興ざめだ)」か?

まあ勝ち気な彼女も、晩年には「月見れば老いぬる身こそ悲しけれ つひには山の端に隠れつつ」などという歌を詠んで、人生の哀感を深く味わっていたようですから、このユーモラスな絵葉書の底ににじむペーソスも、十分伝わったんじゃないでしょうか。

太歳太白、壁に合す(たいさいたいはくへきにがっす)2023年03月04日 09時47分38秒

タイミングを逸して、いくぶん気の抜けた記事になりますが、今週末の木星と金星の接近。何と言っても全天で一二を争う明るい惑星が並ぶというのですから、これは大変な見もので、何だか只ならぬ気配すらありました。昔の人ならこれを「天変」と見て、陰陽寮に属する天文博士が、仰々しく帝に密奏したり、大騒ぎになっていたかもしれません。

(群書類従「諸道勘文」より)

今回の異常接近はうお座で生じましたが、二十八宿でいうと「壁宿(へきしゅく)」あたりで、今日のタイトルは、そこで太歳(木星)太白(金星)が出会ったという意味です。壁宿は占星では「婚姻に吉」とされるそうなので、折も良し、両者の邂逅はまるで男雛女雛が並んでいるように見えました。

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西洋に目を向けると、ジュピターとヴィーナスはローマ神話由来の名前で、ギリシャ神話だと、それぞれ主神ゼウス美神アプロディーテに当たるので、これまた好一対です。

(シガレットカード「星のささやき(What the Stars Say)」シリーズ(1934)から。イギリスの煙草ブランド‘De Reszke’(デ・レシュケ/デ・リスキー)のおまけカードです))

ただ、神話上、両者に婚姻関係はなく、ゼウスから見るとアプロディーテは娘(母はディオーネ)、あるいは息子(へパイトス)の嫁と伝承されています。そしてゼウスは周知のとおり多情な神様で、正妻ヘラ(星の世界では小惑星ジュノーに相当)以外に、あちこちに思い人がいたし、アプロディーテもアレス(同じく火星に相当)と情を通じたとか何とかで、なかなか天界の男女模様もにぎやかなのでした。

(ギリシャの学校掛図。惑星名はすべてギリシャ神話化されています。内側から、水・エルメス(へルメス)、金・アプロディーテ、地・ギー(ガイア)、火・アレス、木・ゼウス、土・クロノス、天・ウラノス、海・ポセイドーン、冥・プルトーン)

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話を東洋に戻すと、陰陽道では木星(太歳神)土星(太陰神 たいおんじん)を夫婦とみなす考えがあるそうで、これは肉眼で見ても、惑星の実状に照らしても、何となく腑に落ちるものがあります。太っちょで赤ら顔の旦那さんと、派手なアクセサリーを身につけた奥さんといったところですね。

賢治と土星と天王星2022年12月17日 11時24分30秒

先日話題にした、賢治の詩に出てくる「輪っかのあるサファイア風の惑星」

(詩の全文。元記事 http://mononoke.asablo.jp/blog/2022/12/13/9547757

コメント欄で、件の惑星は、やっぱり天王星という可能性はないだろうか?という問題提起が、S.Uさんからありました。これは想像力をいたく刺激する説ですが、結論から言うと、その可能性はやっぱりないんじゃないかなあと思います。

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1970年代後半に、恒星の掩蔽観測から発見された天王星の環ですが、そのはるか昔、18世紀の末にも天王星の環を見たという人がいました。他でもない、天王星の発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)その人で、彼は天王星本体のほかに、天王星の衛星と環を発見したという追加報告を行っています(※)

しかし、他にこの環は見たという人は誰もいないので、まあハーシェルの見間違いなんだろう…ということで、その後無視され続けていました(父を尊敬していた息子のジョン・ハーシェルでさえも、自著『天文学概論』(1849)で、「天王星に関して我々の目に映るものは、小さな丸く一様に輝く円盤だけである。そこには環も、帯も、知覚可能な斑文もない」と、にべもない調子で述べています)。

当然、明治以降に日本で発行された天文書で、それに言及するものは皆無です。
この点も含めて、取り急ぎ手元にある天文書から、関係する天王星と土星の記述(色とか、「まん円」かどうかとか、衛星の数とか)を抜き出してみたので、参考としてご覧ください。


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それともうひとつ気になったのは、これもS.Uさんご指摘の「7個の衛星」の謎です。
土星の衛星は17世紀に5個(タイタン、テティス、ディオーネ、レア、ヤペタス)、18世紀に2個(ミマス、エンケラドス)、19世紀に2個(ヒペリオン/1848、フェーベ/1899)発見されており、その後1966年にヤヌスが発見されて、都合10個になりました。賢治の時代ならば9個が正解です。

ただし、19世紀には上に挙げた以外にも、キロンやテミスというのが報告されており、後に誤認と判明しましたが、同時代の本はそれを勘定に入れている場合があるので、土星の衛星の数は、書物によって微妙に違います(上の表を参照)。
いずれにしても、サファイア風の惑星が土星であり、その衛星が7個だとすれば、それは19世紀前半以前の知識ということになります。

賢治の詩に出てくる

 ところがあいつはまん円なもんで
 リングもあれば月も七っつもってゐる
 第一あんなもの生きてもゐないし
 まあ行って見ろごそごそだぞ

というのは、夜明けにサファイア風の惑星に見入っている主人公ではなくて、脇からそれに茶々を入れている「草刈」のセリフです。粗野な草刈り男だから、その振り回す知識も古風なんだ…と考えれば一応話の辻褄は合いますが、はたして賢治がそこまで考えていたかどうか。賢治の単純な勘違いかもしれませんし、何かさらに深い意味があるのかもしれませんが、今のところ不明というほかありません。


(※)ハーシェルは彼の論文「ジョージの星〔天王星〕の4個の新たな衛星の発見について」(On the Discovery of four additional Satellites of the Georgium Sidus, Philosophical Transaction, 1798, pp.47-79.)の中で、以下の図7、8のようなスケッチとともに、1787年3月に天王星の環を見たという観測記録を提示しています。



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【閑語】

岸田さんという人は、もともとハト派で、どちらかというと「沈香も焚かず屁もひらず」的な人だと思っていました。でも、途中からどんどん印象が悪くなって、尾籠な言い方で恐縮ですが、どうも屁ばかりひっているし、最近は動物園のゴリラのように、それ以上のものを国民に投げつけてくるので、本当に辟易しています。

まあ岸田さんの影にはもっとよこしまな人が大勢いて、岸田さんを盛んに揺さぶっているのでしょうが、でも宰相たるもの、そんな簡単に揺すられ放題ではどうしようもありません。

それにしても、今回の国民的増税の話を聞くと、ここ数年、政府がマイナンバーカードの普及に血道を上げていた理由もよく分かるし、大盤振る舞いをもくろんでいる防衛費が、めぐりめぐって誰の懐に入るのか、雑巾や油粕のように搾り取られる側としては、大層気になります。

胸元のブループラネット2022年11月10日 19時11分42秒

「青い惑星」といえば地球。
そして、この前多くの人が目撃した天王星もまた青い惑星です。

地球の濃い青は海の色であり、豊かな生命の色です。
一方、天王星の澄んだ青は、凍てつく水素とメタンが織りなす文字通りの氷青色(icy blue)で、どこまでも冷え寂びた美しさをたたえています。

(ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した天王星。原画像をトリミングして回転。原画像:NASA, ESA, Mark Showalter (SETI Institute), Amy Simon (NASA-GSFC), Michael H. Wong (UC Berkeley), Andrew I. Hsu (UC Berkeley))

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以前、土星のアクセサリーを探していて、こんなブローチを見つけました。


見た瞬間、「あ、天王星」と思いました。
アメリカの売り手は天王星とは言ってなかったし、普通に考えれば土星をデザインしたものだと思うんですが、自分的には、これはもう天王星以外にありえない気がしています。

(裏側から見たところ)

飾り石はブルーカルセドニー(青玉髄)のようです。
『宮澤賢治 宝石の図誌』(板谷栄城氏著/平凡社)を開くと、「青玉髄」の項に、賢治の次のような詩の一節が引かれていました。

 ひときれそらにうかぶ暁のモティーフ
 電線と恐ろしい玉髄(キャルセドニ)の雲のきれ
 (「風景とオルゴール」より)

賢治の詩心は、明け方の蒼鉛の雲に青玉髄の色を見ました。
そこは天上の神ウラヌスの住処でもあります。
だとすれば、はるかな天王星をかたどるのに、これほどふさわしい石はないのでは…と、いささか強引ですが、そんなことを思いました。


月蝕日和2022年11月09日 22時00分38秒

昨夜の皆既月食は、寝そべって見るのにちょうどよい角度だったので、これ幸いと畳の上にゴロンと横になって、双眼鏡を手にジーッと月の変化を眺めていました。

地球がかぶっている「影の帽子」の中に、じりじりと滑り込む月を眺めていると、月の公転運動や、地球の大きさ、月との距離感が、有無を言わせずダイレクトに伝わってきて、「自分は今、たしかに宇宙の中にいるんだなあ」という実感がありました。

(A. Keith Johnston、『School Atlas of Astronomy』(1855)より月食解説のページ)

普通、星を見上げているときは、たいてい足下の大地のことは意識から消えていますが、月食は地球の存在そのものが天に投影されるという、非常に特異な天体ショーですね。

双眼鏡の視野のうちでは、きれいな茜色に染まった月の周りできらきらと星が輝き、そもそも「満天の星に彩られた満月」というのは、通常あり得ない光景ですから、皆既日食ほどドラマチックではないにしろ、やっぱり相当神秘的な眺めでした。

そして、話題の天王星食。
天王星が月の傍らで、あんなにはっきり見えるとは思わなかったので、これまたすこぶる意外でした。天王星の直径は月のほぼ15倍ですから、それだけの大きさのものが、あんなちっぽけな点に見えるぐらい遠くにあるんだなあ…と、太陽系の大きさを実感しつつ、月の地平線に消えていく天王星の姿を見守りました。

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こうした光景を、すべて寝っ転がって楽しめた…というのが個人的には高ポイントで、先年、奮発してスタビライザー付きの双眼鏡を買って良かったと、壮麗なドラマを前に、卑小な話を持ち出して恐縮ですが、そのことも少なからず嬉しかったです。

阿呆船2020年09月17日 10時51分46秒

菅内閣が発足し、また新たな人間観察の機会が与えられました。
ここまで来たら、もはや動じることなく、腰を据えて観察したいです。

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ときに、一連のニュースを見ていて、思い浮かんだワードがあります。

  『阿呆船』

15世紀末にドイツで出版され、16世紀を通じて各国でベストセラーとなった風刺文学です。ちなみに、私はずっと「あほうぶね」と読んでいましたが、さっきウィキペディアを見たら、そちらでは「あほうせん」と読んでいました(この辺は好みでしょう)。

私はタイトルを聞きかじっただけで、これまで内容を読んだことはないんですが、ウィキペディアの記述【LINK】を見たら、ひどく面白そうに思えてきました。

 「ありとあらゆる種類・階層の偏執狂、愚者、白痴、うすのろ、道化といった阿呆の群がともに一隻の船に乗り合わせて、阿呆国ナラゴニアめざして出航するという内容である。全112章にわたって112種類の阿呆どもの姿を謝肉祭の行列のごとく配列して、滑稽な木版画の挿絵とともに描写しており、各章にはそれぞれに教訓詩や諷刺詩が付されている。〔…〕その他にも、欲張りや無作法、権力に固執する者などが諷刺されている。本書は同時代ドイツにおける世相やカトリック教会の退廃・腐敗を諷刺したものとされる。」

こういう本が好まれ、長く読み継がれたという事実は、これこそ人間社会のデフォルトであることを示しているのではありますまいか。
しかも、その阿呆の群れの先頭を行くのが、

 「万巻の書を集めながらそれを一切読むことなく本を崇めている愛書狂(ビブロマニア)であり、ここでは当時勃興した出版文化の恩恵に与りながら、有効活用もせず書物蒐集のみに勤しむ人々を皮肉っている。」

…というのですから、まさに私自身、阿呆船の一等船客の資格十分です。

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今回ウィキペディアに恩義を感じたのは、上の項目から「ナレンシフ(小惑星)」にリンクが張られていたことです。

「ナレンシフ(Narrenschiff)」は、『阿呆船』のドイツ語原題。
旧ソ連の女性天文家、リュドミーラ・ゲオルギイヴナ・カラチキナが1982年に発見命名した小惑星で、正式名称は「5896 Narrenschiff(1982 VV10)」。火星と木星の間の小惑星帯を回り、絶対等級は13.8となっています。光学的観察からは、サイズ・形状ともに不明ですが、小惑星イトカワ(絶対等級19.2)が直径330mですから、2、3km~数kmのオーダーでしょう。

それにしても、カラチキナはなぜこれを「阿呆船」と名付けたのか?
この空飛ぶ阿呆船が目指す阿呆国「ナラゴニア」はどこにあるのか?

たいそう気になりますが、皆目わかりません。
そして、カラチキナの機知に感心しつつも、『阿呆船』と優先して命名されるべき天体は、他にあるような気がします。

【2020.9.18付記】 ナレンシフの命名者と命名理由について、コメント欄でS.Uさんにご教示いただきましたので、併せてご覧ください。

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そんなこんなで、私は『阿呆船』を注文することにしました。
たとえ積ん読になっても、それ自体が『阿呆船』の世界に入り込む行為ですから、それもまた良いのです。いずれにしても、あの顔もこの顔も、みな同船の客と思えば、親しみを持って観察できようというものです。

緑の金星2020年01月15日 20時00分33秒

ふと気がつけば、日脚が目に見えて伸びてきました。
前は5時には真っ暗だったのに、今日は5時半になっても西の空がほんのり明るく、浅い朱、淡い黄緑、灰青から成るグラデーションの帯ができて、その上の濃紺の空に、金星が鮮やかに光っているのが美しく眺められました。

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私が初めて望遠鏡を手にしたのは、たしか小学2年生のときです。

それは母親がどこかで見つけてきた、メーカー不明のバッタ品で、口径は50ミリ。ただし、安物によくあるように、対物レンズの後ろに絞りが入っていたので、有効口径は30ミリぐらいしかなかったはずです。

それでも月のクレーターははっきり見えましたから、私は愛機の優秀さをあえて疑うことはしませんでした(でも、「天文ガイド」の広告と見比べて、ちょっぴり不安はありました)。

その愛機を金星に向けた子供時代の私は、ピントの合わせ方がよく分かっていなかったので、合焦ノブを回したら、金星像がボヤンと素敵に大きくなるのを見て、「すごいぞ、これが金星か!」と大喜びでした。(もちろんこれはピンボケの状態で、星像がいちばん小さくシャープに見える位置が、ピントの合った状態です。)

その巨大な金星は、レンズの色収差のせいで、目の覚めるようなエメラルド・グリーンをしていましたが、後にも先にも、あれほど美しい金星を見たことはありません。

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私の家は経済的に楽ではなかったので、あの望遠鏡は母親にとって、かなり思い切った買い物だったはずです。それでも子供が喜ぶと思って買ってきてくれたことに、感謝の気持ちしかありません。

認知症を患い、特養で暮らす現在の母親に、その気持ちを伝えるすべは残念ながらありません。それでも、ここに「ありがとう」と書いて、かすかな慰めとします。

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人が満足と喜びを味わうには、いかにわずかなものしか要さないか。
今宵の金星を見て、昔の自分の気持ちを、ふと思い出しました。

現代の古地図(後編)2018年03月26日 22時55分53秒

かつて、夏から秋へと季節が移るころ、2隻の船が相次いで故郷の港を後にしました。
その姿は、彼らがこれから越えようとする大洋の広さにくらべれば、あまりにも小さく、かよわく、今にも波濤に呑み込まれそうに見えました。

しかし、彼らは常に勇敢に、賢くふるまいました。彼らは声を掛け合い、互いに前後しながら、長い長い船旅を続け、ついに故郷の港を出てから3年後に、それまで名前しか知られていなかった或る島へと上陸することに成功します。その島の驚くべき素顔といったら!

後の人は、彼らが残した貴重な記録をもとに、その島の不思議な地図を描き上げ、2隻の船の名前とともに、永く伝えることにしたのでした…

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勇気と智慧に富んだ2隻の船。それは、ずばり「航海者」という名前を負った、惑星探査機の「ボイジャー1号、2号」です。

1号は1977年9月5日に、2号は同年8月20日に、ともにフロリダのケープカナベラルから船出しました。途中で1号が2号を追い抜き、1号は1980年11月に、2号は1981年8月に土星に到達。(したがって、正確を期せば、2号の方は3年ではなく、4年を要したことになります。)

そして、彼らは上陸こそしませんでしたが、土星のそばに浮かぶ「島」の脇を通り、その謎に包まれていた素顔を我々に教えてくれたのでした。その「島」とは、土星の第一衛星・ミマスです。

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この時のデータを使って、1992年にアメリカ地質調査所(U.S. Geological Survey)が出版したミマスの地図は、確かに「現代の古地図」と呼ばれる資格十分です。


例によって狭い机の上では広げることもままなりませんが、全体はこんな感じです(紙面サイズは約67.5×74cm)。地図は、北緯57度から南緯57度までを描いた方形地図(200万分の1・メルカトル図法)と、南極を中心とした円形地図(122万3千分の1・極ステレオ図法)の組み合わせからできています。


多数のクレーターで覆われた地表面は、何となくおぼろで鮮明さを欠き、データの欠落が巨大な空白として残されています。


そんな茫洋とした風景の中に突如浮かび上がる奇地形が、他を圧する超巨大クレーター「ハーシェル」です。

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ボイジャーがミマスを訪れてから四半世紀近く経った2004年。
別の新造船が土星を訪れ、10年間の長期にわたって土星観測を続けました。
それが惑星探査機「カッシーニ」です。

このとき、ミマスについても一層詳細な調査が行われ、2014年には下のように精確な地図が作られました。

(ウィキペディア「ミマス」の項より)

解像度も高く、空白もないこの新たな地図を手にした今、ボイジャーがもたらした地図は価値を失ったのか…といえば、そんなことはありません。昨日の自分は、こんなことを書きました。

「古地図を見れば、当時の人が利用できたデータの質と量が分かる仕組みで、古地図には<地理的=空間的>データと、<歴史的=時間的>データが重ね合わされていると言えます。〔…〕古地図は古版画芸術であると同時に、人類の世界認識の変遷を教えてくれる、貴重な史資料でもあります。」

ボイジャーのミマス地図についても、まったく同じことが言えます。
繰り返しになりますが、これこそ「現代の大航海時代」が生んだ、「現代の古地図」なのです。(ボイジャーの地図は紙でできている…というのが、また古地図の風格を帯びているではありませんか。)

エジプトの星(2)…エジプトとメソポタミア2018年03月17日 16時53分42秒

あまりにも醜悪な政権にプロテストして断筆…というわけではなく、もろもろの事情の然らしむるところにより、やむなく断筆っぽい状態にありました。

そもそも、私が断筆しても、世間的には何の意味もありませんし、プロテストしたところで、後から後からプロテストしたいことがどんどん出て来るので、自分がいったい何にプロテストしていたのか、それすら失念しかねない状況です。まったくマトモな相手ではありません。

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さて、記事のほうは「エジプトの星」と題して、次のようなつぶやきとともに終わっていました。

 「でも、エジプトだって古代天文学が発達した土地で、独自の星座を使っていたわけだよね。それはいったいどうなったの?プトレマイオス朝になって、忽然と消えちゃったの?それに、そもそもメソポタミアって、エジプトのすぐ隣じゃない。ギリシャ経由で黄道12星座のアイデアが入ってくる前に、直接メソポタミアから伝わらなかったの?」

上のように呟いたときは、すぐに答えられそうな気がしたのですが、これはなかなかどうして簡単な問いではありませんでした。つまり事は星座に限らないわけで、エジプトとメソポタミアという、近接した地域で発展した古代文明相互の、文化の影響-被影響関係の実相は…という点にまで遡らないと、この問いには答えられないのでした。

そこで、積ん読本の山から『世界の歴史―古代のオリエント』というのを引っ張り出してきて読んだのですが、この一冊の入門書で、私の歴史感覚がかくも大きく変わるとは、予想だにしなかったことです。

古代オリエントの歴史の一端に触れれば、栄光の古代ギリシャといえど、オリエントの歴史絵巻の終わりの方に、ちょろっと出てくるローカルな話題に過ぎないと感じられるし、カール大帝以降のヨーロッパの歴史などは、まるで「現代史」のようです。

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以下は、素人が1冊の入門書から読み取ったことなので、間違っているかもしれませんが、とりあえずのメモとして書き付けます。

まず、一口に「古代エジプト」と言い、また「古代メソポタミア」と言いますが、両者の実態は大きく異なります。

エジプトの地では、長い年月のうちに多くの王朝の興亡がありましたが、それを担ったのは「エジプト人」という1つの民族であり、エジプトの社会は、多年にわたって相対的に純一な社会でした。

対するメソポタミアは、まさに民族の十字路といってよく、人種的にも言語的にも多様な民族が四方から流入しては、前王朝を滅ぼし、支配し、やはては滅び…ということを、100世代以上にわたって繰り返してきました。したがって「古代メソポタミア」という言葉の内実は、何かひとつの色に染まった世界では全くありません。

ただし、文化という点では、メソポタミアの地にも一定の連続性があった…という点で、やはり、「古代メソポタミア」という言葉は意味を持つのです。メソポタミア文明の創始者である、シュメール人が歴史の表舞台から消え、アッカド帝国が興り、バビロン王朝が栄え、アッシリアが巨大な帝国を築いても、新たな支配者たちは、いずれもシュメール人が生んだ文化を連綿と受け継ぎ、発展させました。

そして、多くの異民族がそこに関わったからこそ、メソポタミアの文化は普遍性を獲得し、文化的支配力・伝播力という点では、エジプトを大きく凌駕するものがありました。エジプトのヒエログリフの影響が、地理的に限定されているのに対し、楔形文字が言語系統の差を超えて、古代オリエント諸国で広く用いられたのは、その一例です。

(古代オリエントの歴史舞台。“イラク”と“クウェート”の文字の間に広がる灰褐色のパッチがメソポタミア。点々と続く疎緑地と耕地によって灰褐色に見えています。)

さらにまた、歴史を俯瞰して強調されねばならないのは、古代オリエント世界を彩ったのは、何もエジプトとメソポタミアだけではないことです。それに匹敵する古代文明のセンターだった「アナトリア」、すなわち今のトルコ地方や、それらの各文明を摂取し、それを地中海世界へと伝える上で重要な役割を果たした「レヴァント」、すなわち今のシリア・パレスチナ地方の諸王国の興亡が、古代オリエントの歴史絵巻を、華麗に、そして血なまぐさく織り上げているのです。(メソポタミアの天文知識がギリシャに伝わったのも、アナトリアやレヴァントという媒介者があったからです。)

そうした中で、エジプトとメソポタミアの両文明は、当然古くから直接・間接に接触を続けてきたのですが、エジプトの側からすると、他国の文化を自国に採り入れるモチベーションが甚だ低かった――これが、メソポタミア由来の黄道12星座が、エジプトでは長いこと用いられなかった根本的な理由ではないでしょうか。古代エジプトは、純一な社会であったがゆえに、強固な自国中心主義、一種の「エジプト中華思想」をはぐくんでいたように思います。

エジプトのこうした自国中心主義は、あのデンデラ天文図が作成された、古代エジプトの最末期、プトレマイオス朝時代にあっても健在で、あの図にはメソポタミア由来の星座以外に、カバや牛の前脚など、エジプト固有の星座も数多く描かれています。(そして、エジプト中心主義の崩壊とともに、エジプトの星座は消えていったのです。)

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ときに、メソポタミア時代の星空を偲んで、こんな品を見つけました。

(背景は近藤二郎氏の『星座神話の起源―古代メソポタミアの星座』)

紀元前700~800年頃、アッシリア帝国時代の円筒印章の印影レプリカ。
円筒形の印章に陰刻された図柄を、粘土板上で転がして転写したものです。


中央は古代メソポタミアで愛と豊饒の神として崇敬された女神イシュタル
彼女は金星によってシンボライズされる存在で、後のヴィーナスのルーツでもあります。その冠の頂部で金星が光を放ち、その身の周囲を多くの星が取り囲んでいます。

そして、イシュタルと向き合う人物の頭上に浮かぶ六連星は、プレアデス
さらにその右手には、奇怪な「さそり男」の姿が見えます。彼は太陽神シャマシュが出入りする、昼と夜の境の門を開閉する役目を負っており、その頭上に浮かぶのが「有翼の太陽」です。


古代エジプトでは、野生の動物を神として崇める動物崇拝が盛んでした。
一方メソポタミアでは、天空の星を神々と崇め、エジプト人よりも一層熱心に夜空を観察しました。メソポタミアで天文学と占星術が生まれたのは、その意味では必然だったのでしょう。


(あまり話が深まりませんでしたが、この項一応おわり)