市松結晶模型2017年07月09日 16時42分16秒

天文古玩は早めのバカンスを満喫しています。

ブログを更新しないと「あいつは死んだのかな?」と思われるかもしれませんが、ちゃんとこうして生きています。逆に言うと、別にブログを書かなくても死ぬわけじゃないし、ブログというのは、たまさか気の向いた時に書けばよい…というのが、正常な在り方で、これまで何となく義務感というか、妙な勤勉精神に囚われていた方が、むしろ異常なのです。

で、そのバカンスとやらの間に何をしてるんだい?」と問われれば、「いや、バカンスとは、何もしない空っぽの時間を言うのさ」と、しれっと言うのがこの場合無難でしょうが、もちろん実際はそんなことはなくて、本も読めば、買い物もするし、まあ記事を書かないだけで、やっていることは以前と変わりません。

   ★

で、今日がその「たまさか気の向いた時」。
たまたま昨日気になったことがあるので、そのことについて書きます。


手元に差し渡し4~5センチの、積み木のようなものがあります。
全体が白木と黒塗りのツートンという、なかなか伊達な姿。


鉱物趣味の方ならご存知のとおり、これは鉱物結晶模型の一種です。
そう聞かされて、「ふーん」と思い、そのまま長いこと棚のオブジェになっていたのですが、ふと、このツートンの意味が気になりました。


ものの本を見ると、確かにそれらしい説明図が書かれています。


これは、鉱物図鑑の「等軸完面晶族」から「三斜半面晶族」まで全部で32種類ある「32晶族」についての解説ページで、そこにはいくつかの面によって囲まれた多様な結晶の姿を、その対称面、対称軸、対称心によって分類記述してあります。


…といって、同形同大の2個の六角柱をこのように塗り分ける意味は何なのか、私にはいまだによく分かりません。件の解説を凝視しても、文字列は双の眼から虚空へと抜けていくばかりで、脳内には何の像も結びません。

結局、一日かけても何も得るものは無く、ボンヤリ物思いにふけるだけで終わりました。これこそ優雅なバカンスであり、人間として好ましい生き方なのだ…と強弁してもいいのですが、意味が分かるに越したことはなく、簡便にご教示願えるものなら、ぜひお願いしたく思います。

(よく見ると、個々の模型には数字が刻印されており、左から順に、116、230、213と読めます。結晶の多様性に応じて、塗り分けなしの白木の結晶模型も、おそろしくたくさん作られましたが、ツートンの模型もそれに劣らずたくさんあるのでしょう。)

五月の鉱物2017年05月19日 06時53分02秒

芽吹きの季節を過ぎ、今は若葉の季節です。
あの透明感のある美しい若緑を、他のモノにたとえると…と考えていて、思いついたのは、緑玉髄(クリソプレース)の色です。


透明感はあるけれども、決して透明ではない、柔らかい緑。
明るく、みずみずしいアップルグリーン。


かつて宮沢賢治も、落葉松の新芽の色を、この鉱物にたとえました。

(『春と修羅』所収「小岩井農場 パート七」)

  「から松の芽の緑玉髄」

(保育社版『原色日本植物図鑑 木本篇(Ⅱ)』より)

そして、「からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだ」と書いたのは、やはりその色合いに宝石の美しさを感じたせいでしょう。

(「小岩井農場 パート三」)

賢治さんと緑玉髄の関わりは、板谷栄城氏の『宮沢賢治 宝石の図誌』(平凡社)に教えていただいたことですが、こうして改めてモノを並べてみると、何となくそこに賢治さんの心象が揺らめくようでもあります。


   ★

美しい緑の季節に不似合いな、どろどろしたニュースに胸が塞がる思いです。
でも、あの暗い時代に光を放った賢治さんの後姿を眺め、どこまでも広がる自然を前にすれば、これからだって歩いていかれないことはないぞ…と思います。

夏、標本、鉱石2016年07月15日 22時01分52秒

ピンクの百日紅が咲き、紅い夾竹桃が咲き、
その脇を「暑い、暑い」と言いながら出勤する毎日です。
でも、私は基本的に夏が好きなので、そんなに口で言うほど苦ではありません。

そして来週からは、いよいよ夏休み。
夏休み向きの企画が、既にいろいろ始まっています。

   ★

横須賀美術館では、「標本」をテーマにした美術展が開催中。


自然と美術の標本展――「モノ」を「みる」からはじまる冒険
○会期 2016年7月2日(土)~8月21日(日)
      10:00-18:00  (7月4日(月)、8月1日(月)は休館)
○会場 横須賀美術館(http://www.yokosuka-moa.jp/index.html
      神奈川県横須賀市鴨居4-1
      アクセスMAP http://www.yokosuka-moa.jp/outline/index.html#02
○出品参加
      江本創、鉱物アソビ・フジイキョウコ、橋本典久、原田要、
      画材ラボPIGMENT、plaplax、山本彌  (フライヤー掲載順) 
○公式ページ http://www.yokosuka-moa.jp/exhibit/kikaku/1602.html


フライヤーの解説に目をやると、「自然をテーマに、標本や自然を題材にする現代作家の作品」と、「横須賀市自然・人文博物館が所蔵する岩石や昆虫、植物などの標本」を取り合わせることで、「美術館と博物館という境界を越え、「モノ」を「みる」という純粋な行為に身を投じてみてはどうでしょう」と誘いかける企画です。

近年の博物ブームと、それをアートの文脈に位置づける試みが、公立美術館でも大規模に行われるようになった点で、この試みは大いに注目されます。
そしてまた、これまで主に「鉱物趣味の多様化」の文脈で語られてきたフジイキョウコさんの活動が、明確に<現代美術>の営みとして捉えられたことも、鉱物趣味の歴史を語る上で、画期的な出来事と思います。

   ★

さらに、フジイさん以外の方の作品も、興味を激しく掻き立てられます。


超高解像度人間大昆虫写真。
リアルといえば、これほどリアルなものもないですが、リアルを突き抜けた一種の幻想性が漂っています。


江本創氏による幻獣標本。
こちらは逆に幻想にリアルを注入した作品です。
氏の作品は、これまで写真等で見る機会はありましたが、残念ながらその現物を目にしたことはないので、機会があればぜひ直接拝見したいです。

   ★


フジイさんからいただいたご案内には、これまた嬉しいDMが同封されていました。

鉱物Bar (vol. 9) Alchemy ~錬金術~  結晶が科学反応をおこす夜
○会期 2016年8月12日(金)~8月21日(日) 月・火休み
      15:00-21:00 (8月20日、21日は20:00まで)
○会場 ギャラリーみずのそら(http://www.mizunosora.com/index.html
      東京都杉並区西荻北5-25-2
      MAP http://www.mizunosora.com/map.html
○参加メンバー
      鉱物アソビ(鉱物標本)、piika(博物系アンティーク)、
      coeur ya.(アクセサリー)、cineca(鉱石菓子)、彗星菓子手製所(同)、
      なの(同) 
○公式ページ http://www.mizunosora.com/event200.html


「鉱石(イシ)をみながら酒をのむ」
――この文字を目にする季節が、ついにまた巡ってきたのです。

鉱物とアンティーク、そして鉱物にちなんだリキュールとお菓子。
美しく不思議なモノを眺め、それにまつわる物語を聞きながら、舌の喜びを味わう。
何と贅沢な宵の過ごし方でしょう。

今回のテーマは、「Alchemy 錬金術」です。

わりと近い過去まで、鉱物趣味の徒は、高価な光学機器に頼ることなく、劈開を調べ、条痕の色を見、石同士をすり合わせて硬度を決定し、いくつかの試薬や吹管による化学分析を行うという、どちらかといえば素朴な手段によって、鉱物を同定していたと聞きます。

こうした化学分析の営みこそ、8世紀のアラビアの錬金術師ジャビール・イブン・ハイヤーンから、16世紀のパラケルススへと至る、正統派錬金術の直系の子孫というべきものです。

透明な鉱物の向うに、自然を構成する始原の存在を思いつつ、アラビア科学の精華たる「アルケミー」と「アルコール」を併せて堪能する。今回の愉しみのひとつは、そこにあると想像します。

プロキシマ系鉱物2016年06月11日 09時08分22秒

プロキシマは遠いようで、たしかに近い。


現に、プロキシマで採取された鉱物が、ここにこうしてあります。


プロキシマ系鉱物、2種。


硝子壜の中に固定された、細く鋭角的な両錐の結晶。
透明な基質の中に、ライムグリーンとぶどう色が広がり、涼し気な味覚を感じさせます。

   ★

「アーティスト・小林健二氏」とは別に、氏が制作・デザインしたアイテムの頒布を担っているのが「銀河通信社」です(http://aoiginga.shop-pro.jp/)。

このプロキシマ系鉱物は同社から届きました。


銀河通信社に問い合わせをすれば、返信があるし、商品を注文すれば、たしかに届きます。発送元を見れば、それは東京の町中にあると自己主張しています。
しかし、本当にそれは「在る」と言えるのかどうか、ちょっと自信が持てません。
銀河通信社自体、何となく氏の作品のような非在感が伴います。


皆さんは、今単なる液晶の揺らぎを眺め、その向うに、硝子壜に封じ込められた美しい結晶が実在すると信じているでしょう。でも、そのことと、その結晶がプロキシマ由来のものであるという事実を対比させた場合、その「事実性」において、両者にいかほどの懸隔があろうか…と、ぼんやり考えます。

これについては、いろいろな答があるでしょうが、いかに事実性の認定にシビアな人でも、現実のプロキシマ、観測されたプロキシマ、推測されたプロキシマ、思念されたプロキシマ、憧憬のプロキシマ…等々が、この世界でどんな風に折り重なって存在しているかを考えれば、やっぱり頭がぼんやりしてくるのではないでしょうか。

プロキシマ2016年06月10日 06時39分05秒



銀の小口を持った本。
先日の砂時計の記事の中で、「ケンタウルス座α星」という単語を書き付けたら、この美しい本のことを思い出しました。

(『PROXIMA』、銀河通信社、2001)

西暦2000年に、三菱地所アルティアム(福岡)で、小林健二氏の展覧会「プロキシマ:見えない婚礼」が開催され、それを記念して出版された本です。内容は、小林氏の過去の作品や文章、インタビューを再構成し、そこに上記展覧会の内容を添えた写真文集。

「プロキシマとは星の名です。

 ケンタウルス座のα星の伴星の1つで、主星が明るいため見つけにくい星であります。またこの星はNearest Star(最近星)と言われ、地球に最も近い恒星として人間に知られていて、地球からの距離は約4.27光年で、27万天文単位、つまり地球から太陽までの距離のおよそ27万倍という事になります。この少し想像を超えてしまうような遠方の星が、地球人にとって最もプロキシマ(すぐそばの意)な星なのです。そしてこのプロキシマのあたりは、地球型の生命系の存在が最も期待されている場所でもあるのです。
 
 ある日、宇宙から見ればそんなに近くの、そしてそれほど遠い方向から、ぼくは1通の幻をもらった気がしたとしてください。」   
(『PROXIMA』 序文より)

太陽系の隣人である「ケンタウルス座α星
この三重連星の中で、地球に最も近い恒星「プロキシマ」。
プロキシマは、主星の回りを100万年かけて、ゆっくり公転しています。
さらにプロキシマの周囲を回る六番目の惑星、「ナプティアエ」(「婚礼」の意)。

ナプティアエの地殻は、厚さ60kmに及ぶ無色の無水珪酸から構成されています。
その内部に形成された晶洞は、透明な天井を複雑に屈折しながら届く、プロキシマの緑の光、さらに茜色と水色に輝くもう2つの太陽の光が満ち、そこに鉱物質の生命「亜酸性鉱質膠朧体」が息づいています。

彼らは7つの性を持ち、27種の核酸基によって生き、1プロキシマ年(2740地球年)に、2度花を咲かせます。まさに我々の想像を超えた、「侵しがたく、また静かなる神秘の都」。

   ★

(『PROXIMA』の1ページ)

小林氏の作品は、こうした不思議で美しい「幻」から生まれました。
そして、ナプティアエは小林氏が創出した多くのイマジナリーな世界の1つに過ぎないのでしょうが、氏にとっては、確かに大きな意味を担った世界のようでもあります。

以下、本書のあとがき(「PROXIMA/奇蹟の場所/Miracle place」)より。

 「ぼくは子供の頃から、鉱物や恐竜などが展示してある自然科学の博物館に行くのが好きでした。そしてまたぼくが思い出せないところまで自分の記憶を辿ってみても、そうしたものを物心がつく頃より好きだったと思うのです。その他にもぼくのお気に入りは、クラゲやゼリーのように、あるいは硝子や石英のように透明なもの、また鳥や飛行機のように空を飛ぶものや電気などによって発光する淡い光、蛍や夜光するものたち、星や宇宙の話、そして闇に潜む目に見えない霊と言われるものたちの事。また、ときにひどく醜いかも知れない悲しみを背負った怪物と言われるものたちすべて、等々です。」

 「プロキシマという天体に興味を持ったのは、子供の頃プラネタリウムに行っていた時「ケンダウルス座のα星辺りに生命がある兆しが発見されそうだ」といったようなことを聞いたからだと思います。もちろん聞き違いだったかも知れません。でも、今でさえどこかの星の上で、地球とはまた異なる世界があることを考えると、何か言い知れずわくわくしてくるのです。」

プロキシマは、氏の幼時の思い出と深く結びついています。
透明なもの、空飛ぶもの、光るもの、妖しいもの、そしてその全てであるところの星の世界。それは我々から遠い存在のようでもあり、すぐそばの存在のようでもあります。
小林氏の作品は、そうした間(あわい)から零れ出たものたちです。

鉱物もまたそうです。
それは透明で、光を放ち、妖しく、我々から遠く、近い存在です。
そして当然の如く、鉱物は氏の子供時代から関心の対象であり、後に人工結晶という形で、氏の「作品」ともなりました。

 「このプロキシマの世界についてまず思ったのは、結晶の世界のことでした。それはここ数年、結晶を作ることにとりわけ興味があることと関係していると思います。」

 「地球上のいたるところで今まで数多くの鉱物結晶が発見発掘されてきました。しかし他の見知らぬ天体では、いったいどのような結晶世界が繰り広げられていることでしょう。生命現象の確認が困難でも、地球型の惑星であるなら必ず鉱物は存在するからです。地球とは異なった組成や地学的運命によって創成される出来事は、どのようなものなのでしょう。」

鉱物はさすがに空を飛ばないだろう…と思われるかもしれません。
でも、それは溶液中を無数のイオンとして飛び交い、互いに引かれ合い、ついには想像を絶する巨大な(イオンの目からすれば、です)幾何学的構造物をつくるに至るのです。

 「結晶が成長していく様を眺めていると、そこはかとなく不思議な世界へといざなわれてゆくのです。一日のうちに0.5ミリでもその成長が見える程なら、実はその物質のイオンは1秒あたり数百の層を結成していることになるというのです。観察者にとっては何千何万年の時間の流れを見るかのようです。いかなる天然の摂理が導くのか、それぞれの成分はその姿を顕わなものとしてゆきます。どのような力が、あるいはまたどのような想いが促すのか、人間には計り知れないと思える世界を、ただ只、まのあたりにするだけです。そんなときにぼくの中に浮かんできた言葉が「見えない婚礼」というものでした。1つ1つ光量子やイオンの世界から極大な宇宙に至るまで、何か人間の目には見えにくい方法があって、それらが知らず知らず了解し合うような、まるで聖なる婚礼のような…。」

(プロキシマ展に並んだ、小林氏の人工結晶「プロキシマ系鉱物」)

   ★

プロキシマ、近くて遠いもの。
人は小林氏の目と耳と口を借りて、その世界を覗き見ることができます。
でも、小林氏の手わざは持たないにしろ、もしそれを望むならば、誰もが自分だけのプロキシマを自分の内に持ち得るのだ…とも思います。

エジプトの星2016年05月03日 09時13分06秒

どうも黄金週間と云いながら、いろいろ口に糊するための苦労が多く、まぶしい青葉も今ひとつ目に冴えません。
そんな状況なので、手っ取り早く、いちばん最近手元に来たモノを載せます。


妙にごつごつトゲトゲした、黒っぽい塊。
差し渡しは約2センチですから、指でひょいとつまんで、口に放り込めそうです。

昨日、買い物のついでに、東急ハンズをブラブラ歩いているとき見つけました。
これが何かというのは、付属のラベルに書かれていますが、要はいったん形成された白鉄鉱の結晶が、外形はそのままに、時間経過の中で成分だけ赤鉄鉱に置き換わった、いわゆる「仮晶」だそうです。


エジプト特産なので、通称は「エジプトの星」。

初めてその名を見聞きしましたが、見るなり、私の連想が足穂の「星を売る店」に飛んだのはもちろんです。あそこに出てくる「星」もやっぱり、指先でつまめるぐらいの大きさで、金平糖のような形をしていました。

ただ、作品に出てくる星と違うのは、あちらはキラキラと色鮮やかに輝いているのに、こちらはチョコレート細工のような黒褐色をしていることです。それに、足穂の星はエチオピアが原産で、それをエジプト人商人が売りさばいているという設定でしたが、こちらは最初からエジプトで採れるそうなので、ひょっとしたらエチオピア産を真似て、エジプトで抜け目なく模造したのかもしれません。

…というふうに、だんだん現実とフィクションは入り交じり、今の季節、「青々と繁ったプラタナスがフィルムの両はしの孔のようにならんでいる山本通りに差しかか」れば、きっと海からは涼しい風が吹いているでしょうし、南京町では怪しい手品師が妙な口上を述べているはずですし、そして山手の一角では、ショーウィンドウに青い光が満ちた「星を売る店」が、今日もひっそりと店を開けているにちがいないと思うのです。


明治地質学の精華(3)2016年04月28日 07時06分05秒


(地質図の部分拡大。フォッサマグナを含む中部地方。フォッサマグナのことは『説明書』の中で、「日本を南北に区画する大鴻溝」として言及されています。)

(同じく、東北・北海道。目立つ黄色は新生代・第三紀層)

   ★

例の『説明書』を前に、明治地質学の精華をぞんぶんに味わおうと意気込んだのですが、どうも難しいです。地質学や地質学史の素養がないので、そもそも何をどう味わうべきかが、よく分からない…というのは、味わう前に気づくべきでしたが、実際口に入れたらそんな塩梅でした。

ただ、読んでいて強く感じたのは、地質学を日本に移入するのが、いかに大変だったかです。もちろん、地質学に限らず、どの分野でも近代科学を摂取するのは大変だったと思いますが、地質学の場合、端的に「モノの違い」が、大きな困難をもたらしていました。

これが天文学ならば、空に浮かぶ星は、ヨーロッパも日本も同じですし、機材が整えば、まったく同じ現象を観測し、論じることができます。動・植物学にしても、そこに生息する種類は違うように見えて、ユーラシア大陸の東と西で生物相は似ていますし、たとえ違う種類でも、標本を直接並べて研究することができます。

しかし、地質学ではそれができません。
岩石ならばいいのですが、岩石の集合である岩層、地層、山塊というのは、直接持ち運ぶことができませんし、何よりもその土地の成り立ちによる個別性が高くて、単純な比較ということが、はなはだ困難です。

その辺の事情は、ちょっと考古学と似ています。
石器・土器・青銅器の発達順序を研究し、さらに苦心してその絶対年代を決めたとしても、その知識がよその文化圏にも当てはまるかといえば、大いに参考にはなるでしょうが、ストレートには当てはまらないものです。

地質学の場合も同じことで、欧米で確立した地層区分を、そのまま日本に持ち込むことはできません。できるのは異国で編み出された「方法論」を学び、独自に足元の土地に応用することだけです。一口に「欧米」といいますが、現に、飛び離れた土地である「欧」と「米」の間で、そうした応用が可能だったのですから、日本だってそれができないわけはありません。

とは言え、これは言うは易く、行うは難きことです。

 「欧米諸州に於てはカンブリア、シルリア、デブヲン、石炭、二畳の五系を区別し、各岩層には各特有の古生物を蔵するも、本邦に於ては其石炭系下部に相当するものの外、完全なる化石を発見せず、是を以て彼に於けるが如く古生物に基きて古生大統を分類する能はざれば、単に層位及岩質に従ひて全岩層を細分するの外なし」 (pp.58-59。原文はカナ書き)

…という次第であり、

 「此方法たるや遠隔の地層を比較するに正確なる能はざれば唯、本邦に頒布する岩相の分類に止り、海外既知の地方と時代を比較するに足らず、此理由により本邦古生大統は之を五大系に区別するに由なく一括して秩父系となせり」 (p.59)

…という辺りで、満足せざるを得ませんでした。
カンブリア紀、シルル紀、デボン紀、石炭紀、二畳紀(ペルム紀)、こうした耳慣れた用語も、明治時代には「名のみあって体無し」の状態で、全部が「秩父系」の名の下に包摂されていたわけです。

大雑把と言えば大雑把ですが、御維新以来の30年間で、まがりなりにも全国的な地質調査を終え、こういう形でデータ整理できたのですから、明治人の奮闘は大したものです。

   ★

明治の大地質図を作成した「農商務省地質調査所」の後身は、現在の「産業技術総合研究所・地質調査総合センター」で、同センターの「日本列島の地質と構造」のページには、「これまでに提案されてきた日本列島の構造区分を総括したもの」として、以下の図が掲げられています。


『大日本帝国地質図』の刊行以来、さらに110余年を経て、日本の地面の素性もずいぶん明らかになったことが分かります。

   ★


 「エドムンド、ナウマン氏嘗て本邦古生大統を古期新期の二に区別したることあり、原田博士に従へば其所謂古期なるものは即小仏層にして、秩父系上部の一部分は(に?ママ)過ぎず、ナウマン氏は其古期なるものを以てカンブリア並にシルリア系を含むものとせるも、層位上より論ずれば日本弯の片麻岩帯の外に結晶片岩帯あり、秩父系あり、小仏層は更に其外に位し…」 (p.59)

ナウマン博士の教えを受けて歩み始めた日本の地質学が、その先師をも乗り越えて、独り立ちしようとする清新さが、その筆致から感じられます。

   ★

新生代の地層についても、当時の悩みと戸惑いが露呈しているので、そちらも引用しておきます。

 「欧米諸国に於ては第三系は更に細別して始新、漸新、中新、最新の四統とするも、本邦に於ては之に含有せらるる化石頗る夥多なるに拘はらず、近接の諸外国と比較して研究するを得ざるを以て未だ判然たる区別を確立する能はず、而して中新、最新の二統に相当するものの存在はナトホルスト其他学者の研究によりて明かなるも是亦岩石、層位等の関係複雑を極むるを以て地質図上に其区別を示す能はず」 (p.134)

事情は古生代とまったく変わりません。

ときに、ナウマン氏は「氏」が付いているのに、ナトホルストは呼び捨てなんですね。自ずと親疎の情が現れているようで興味深いです。ナトホルスト(ナトールスト)については、以下に登場しましたが、これも明治の地質学の興味深いエピソードでしょう。

木の葉石と木の葉化石園のはなし(1)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/03/05/5724596

(ナウマン氏はどこでもナウマン氏)

  ★

最後に大地質図製作スタッフの名前を掲げておきます。


当時の地質調査所長・巨智部忠承(こちべただつね、1854-1927)以下、日本の地質学を文字通り身を張って築いた先人たち。湯川秀樹博士の実父、小川琢治(1870-1941)の名も見えます。

(この項おわり)

明治地質学の精華(2)2016年04月25日 07時00分20秒



地図の隅に書かれた緒言というか、端書きのようなもの。
その年記は明治31年(1898)になっています。昨日の篆書体の標題に書かれた印行年は明治32年(1899)で、さらに東陽堂から売りに出たのは明治33年(1900)ですから、地図が実際に世に出るまで結構長い時間を要しています。明治時代にこれだけのものを製版・印刷するのは、やっぱり大変だったのでしょう。

上の文面から察するに、本図作成の目的は、純粋な自然科学上の研究というよりは、産業の発展に資するためという理由が大きく、そもそも農商務省が発行元になっているという事実も、それを示すものでしょう。


西南日本の拡大。
紀伊半島から四国を横切って地質の境界線が走り、その先は九州に及んでいます。
これが問題の「中央構造線」です。


彩色のルールは上記のとおり。
たとえば、中央構造線の東端、紀伊半島を見てみます。半島の中央北半分には、ピンクの「片麻岩層」が分布しています。その南に接するのは薄茶の「古生層」で、この古生層が四国の真ん中を突っ切って、九州まで達しているのが分かります。

ここには、「片麻岩層」という岩石名による区分と、「古生層」という時代名による区分が混在していて分かりにくいのですが、片麻岩層は時代区分でいえば「太古大統」、すなわち古生代以前の原生代や始生代に属します。

いっぽうの古生層は、地層の並び(層位)や示準化石から、古生代に属する層と見当がつき、一定のまとまりをもった岩層と認識できるものの、それを構成する岩石の種類は多様で、単純に「○○岩層」とも呼び難いため、時代名を冠して呼ぶようです(例えば四国に分布する古生層には、石英岩、粘板岩、凝灰岩、石灰岩、緑色凝灰岩などが混じりあっています)。

   ★

…と、分かったように書いていますが、もちろん全然分かっていなくて、上に書いたことは、この地質図と一緒に出た『百万分一 大日本帝国地質図説明書』を見ながら、泥縄で書いています。



そして、この『説明書』は、旧制の熊本中学校(現・県立熊本高校)の博物科参考書として伝来したものなので、そこに多少の因縁を感じます。


明治半ばの知識ですから、現代の用語や結論と一致しないところも多いでしょうが、ここは明治人になったつもりで、日本列島の地質区分をさらに見てみます。

(この項つづく)

明治地質学の精華(1)2016年04月24日 09時16分30秒

熊本地震の報道で、たびたび「中央構造線」というタームを目にしました。
そして、それが明治の昔に提唱された古い概念だと知り、いっそう興味を覚えました。
地震学につづき、ここで地質学の古い扉を叩くことにします。

   ★

下は古い地質図の標題です。


篆書(てんしょ)体の文字が、まさに明治の御代の雰囲気。
目をこらすと「大日本帝国地質図/農商務省地質調査所」と読めます。


普段は小さく折りたたまれて、これまた明治調の表紙に収まっています。
発行は明治33年、西暦でいうとジャスト1900年で、19世紀最後の年に当ります。

これを買ったのはずいぶん前ですが、実をいうと、広げたのは今回が初めてです。
古いものなので、ちょっと油断するとビリッと行きそうで怖かったからです。
そして、ひょっとしたら今回が最後になるかもしれません。


どうぞ、その「雄姿」をご覧くださいまし。

幅は約160cm、そして高さは180cmを越えるという、ほぼ畳2畳分の大地質図です。
いつもの部屋では広げることも、写真を撮ることも、とても無理なので、和室に持ち込んで、ようやく一望できました。

次回、その細部を眺めてみます。

(この項つづく)

地震学の揺籃期(4)2016年04月23日 10時32分56秒

地震発生から1週間。

常ならぬ事態への対処と並行して、普通の日常を取り戻すための努力も、既に始まっていることでしょう。その一方で、「もうあの日常は決して戻ってこない」という思いを抱いている方もいらっしゃると思います。周囲の日常が回復するほど、増す悲しみもあります。いろいろな心に思いをはせたいです。(これは被災地に限りません。)

   ★

多くの工夫を凝らして地震計が完成し、据付けも終わりました。
地震発生とともに、地震計の針がピピピと揺れ、記録紙に波形が記録されました。
さて、それをどう読むか…? というのが、実践家が直面する大きな課題です。

このことは本書の「第四編 地震観測法」、特に「地震記象」の章に、詳しく説かれています。記録用紙の波形を前にした観測者は、いろいろ補正を加えつつ、その継起時間、周期、振幅などを計測するのは当然として、その前に一つ大事な作業があります。

それは「相を取ること」です。
地震記録は、最初ピピピと揺れた後、ツーと波が収まり、再びピピピ…ツー…ピピピ…と、間欠的に波形が記録されるのが常ですが、それぞれの波がいったい何を表わしているのか、つまり「波の意味」を読み解くことが、すなわち「相を取ること」に他なりません。

地震のP波S波という用語に聞き覚えのある方も多いでしょう。
Pは「primary」の略で「初期微動」、Sは「secondary」の略で「第二波」。
P波の本態は縦波(疎密波)であり、横波であるS波よりも進行速度が速いために、両者同時に発せられても、P波の方が先に到達するわけです。

(震央まで2千キロ未満の近地地震の波形例。震央付近では、特に「オルツベーベン」と称しました。定訳は不明ですが、“現地震”といった意味合いです。)

(震央距離=2千~5千キロの中距離地震の波形例)

「相を取る」上で、このP波とS波の区別が、まずは基本作業です。
さらに観測地点と震源の距離が遠くなると、S波が地面で一度、二度と反射した波や、地球内部の層状構造の境界面(いわゆる不連続面)で反射・屈折した波、さらに地球を一周ぐるりと遠回りして到達した波などが入り乱れて、それぞれ記録されるので、その読み取りには、高度の技量が要求されます。

「この相を取ることは可成りの熟練を要するものにして震波の速度、地震計の性能等に対する智識経験を必要とす。故に此処に詳しく述ぶることを止む。之等は経験者に指導を受くるか或は永らく観測に携はりて自ら会得さるるものなればなり。」 (p.166)

と、その実態たるや、まさに口伝・奥義の世界でした。さらに、

「此処に注意したきは種々の相をとる場合には公平無私なる態度ならざるべからず。其の間牽強付会して自己の独断に陥らざることなり。」 (同)

と、地震波を読み取るためには、厳しく己を律することが求められたのでした。現在ではその辺がどう変わったのか、あるいは変わっていないのか、詳しいことは分かりませんが、当時の測候技術官養成所(現在の気象大学校の前身)では、そうした鍛錬が日々行われていたのでしょう。

(震央距離=1万キロまでの遠地地震と、さらに遠い最遠地地震の波形例)

このように地震波をコード化することは、現在も行われていますが、その体系が当時と今では異なるようなので、参考までに当時の表記法を掲げておきます。(pp.170-171)




   ★

地震国・日本。
地震とはこれからも縁が切れないでしょうが、そのわりに地震学のあれこれが、国民の共通知識とはなっていないように見えます。今後の課題かと思います。

(この項おわり)