本日、天体議会を招集。2022年04月11日 07時19分11秒

先日話題にした旧制盛岡中学校の天文同好会。
コメント欄でmanami.shさんから続報をいただき、衝撃を受けたので、他人の褌を借りる形になりますが、これはどうしても記事にしなければなりません。

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manami.shさんは、同中学校の校友会雑誌を通読され、天文同好会に関する記述を抜粋されているのですが、まず驚いたのはその旗揚げの弁です。同好会のスタートは1928年9月のことで、その際の意気込みがこう記されています。

 「花が植物学者の専有でない如く、星も亦、天文学者のみの独占物ではない。この信念を以て、我等は、遂に天文同好會をつくりあげたのだ。」

なんと頼もしいセリフでしょう。
そして、この言葉に敏感に反応する方も少なくないはずです。なぜなら、稲垣足穂の言葉として有名な、「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」をただちに連想させるからです。

足穂の言葉は、彼の「横寺日記」に出てきます。初出は「作家」1955年10月号。もっとも作品の内容は、昭和19年(1944)の東京における自身の体験ですが、それにしたって、盛中の天文少年たちの方が、時代的にはるかに先行しており、足穂のお株を完全に奪う形です。

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こうして意気揚々とスタートした天文同好会ですが、それでも私はごく一部の熱心な生徒が、細々と校舎のすみで活動しているイメージを持っていました。いかに意気軒高でも、今だってそれほどメジャーとはいえない学校天文部が、戦前にあってそれほど人気を博したとは思えなかったからです。

しかし、同好会が発足して1年後の1929年12月の校友会雑誌には、驚くべき事実が記されていました。manami.shさんの記述をそのままお借りします。

 「会員が百名に達しており、観測会は15回、太陽黒点観測は1929年10月から開始したこと。会員の中には望遠鏡所有者がいたこと、熱心な会員は変光星観測を始めたことがわかりました。更に、研究会の毎月のテキストは、星野先生、2~3人の上級生が執筆していたとありました。」

何と会員数100名!しかも、当時はなはだ高価だった望遠鏡を所有する生徒や、変光星観測に入れ込むマニアックな生徒もいたというのです。そして開催回数からして、彼らは月例の観測会をコンスタントに開いていたと思われます。

まさにリアル天体議会―。

「天体議会」とは、長野まゆみさんの同名小説(1991)に出てくる、天文好きの少年たちの非公式クラブの名称です。観測の際は、議長役の少年が秘密裏に議会を招集し…という建前ですが、有名な天体ショーを観測する折には、部外者の少年たちもたくさん押しかけて、なかなかにぎやかな活動を展開しているのでした。
長野さんが純然たるフィクションとして描いた世界が、戦前の盛岡には確かにあったわけです。


それにしても、旧制中学校でこれほど天文趣味が盛り上がっていたとは。しかし、全国津々浦々で同様の状況だったとは思えないので、これはやっぱり盛岡中学校固有のファクターがあったのでしょう。賢治の甥っ子たちの面目躍如といったところです。

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さらに翌年の1930年には、次の記述が登場します。

 「1930年10月には、水沢緯度観測所の山崎正光技師が「天文に関して」と題して講演し、特に同好會員には反射望遠鏡の作り方について話されていることもわかりました。」

山崎正光(1886-1959)は、カリフォルニア大学で天文学を学び、1923年から42年まで水沢緯度観測所に勤務したプロの学者ですが、本業の傍ら変光星観測や彗星観測を、いわば趣味で行った人。反射望遠鏡の自作法を日本に伝えた最初の人でもあります。そして、直接面識があったかどうかは分かりませんが、山崎氏の在職中に、賢治は何度か水沢緯度観測所を訪ねています。

その人を招いて天文講演会を開き、かつ望遠鏡作りを学んだというところに、盛中天文同好会の本気具合というか、その活動の幅を見て取ることができます。

(山崎正光氏(1954)。『改訂版 日本アマチュア天文史』p.167より)

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とにかく盛中天文同好会、予想以上にすごい会でした。
今回の知見は、戦前の天文趣味のあり方について、私の認識を大きく変えるもので、改めてmanami.shさんにお礼を申し上げます。

(賢治が在籍した頃の盛岡中学校。国会図書館「写真の中の明治・大正/啄木・賢治の青春 盛岡中学校」より【LINK】。オリジナルをAIで自動着色。なお、同校は大正6年(1917)に校地移転しているので、天文同好会時代の建物はまた別です)

銀河をゆく賢治の甥っ子たち(後編)2022年03月27日 08時02分06秒

盛中天文同好会の会誌「アストロノミー」。

(表紙に続くタイトルページ)


その活動の実態は、この会誌を読んでも明瞭ではありませんが、いくつかヒントはあります。まず目次に続く巻頭の「屡々〔しばしば〕用ひらる術語の解説」にはこうあります。

 「天文学には種々の術語があります。解ってゐないと本を読んだり、研究会で話を聞いたりする際に困りますから、新会員諸子の為に屡々用ひられる術語を解説することにしました。一年生諸君にも解る様に出来るだけ平易に、簡単に書くやうに努めたので、或る所は幾分厳密を欠いて居るかも知れません。その点はどうぞ御寛恕下さい。尚、不明のことは、上級生の人にでも質問願ひます。」

この号は5月に出たので、新入部員向けなのでしょうが、筆者の堀内政吉君はだいぶ先輩風を吹かせていますね。あんまり上から目線で物を言うと嫌われるのは、昭和のはじめも変わらなかったでしょうが、とにもかくにも先輩が後輩を熱心に教え導く雰囲気の中で、この同好会は営まれていたのでしょう。

そして、当時の天文少年は「研究会で話を聞」く機会があったことも分かります。校内で行われる仲間内の研究会もあったでしょうし、更に上級の学校に在籍する天文ファンとの交流や、大正9年(1920)に創設された全国組織である天文同好会(現・東亜天文学会)の支部活動に触れる機会なんかもあったかもしれません。

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同じく堀内君による「新遊星の発見」
これはこの会誌が出る直前、1930年2月に発見された冥王星の紹介記事です。もっともこの5月の時点では、まだ英名のPlutoも、和名の冥王星も定まってなかったので、その命名の帰結に堀内君も興味津々です。

堀内君は、天王星を発見したハーシェルに触れ、海王星発見の立役者たち(ブヴァール、アダムズ、ルヴェリエ、ガレ)を紹介し、最後に「五月号の科学智識・科学画報に、東京天文台の神田茂氏・小川清彦氏が新遊星に関する文を寄せて居られますから、ぜひ御一読あらん事を希望致します。」と一文を結んでいます。堀内君の知識の源が分かる気がします。当時の天文少年にとって、ビジュアルな科学雑誌は貴重な情報源であり、必読書だったのでしょう。

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盛岡中には天文趣味のイコン、天体望遠鏡があったのかどうか?
『改訂版 日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)には、射場保昭氏が1936年現在でまとめた全国の望遠鏡所在リストから、学校所有の機材を抽出した表が載っています。

(『改訂版 日本アマチュア天文史』 p.343)

ご覧のとおり、天体望遠鏡を保有していた旧制中学校は何か所かありますが、盛岡中学の名前は見えません。雄弁な堀内君も、望遠鏡については一言も触れていませんし、おそらく同校に望遠鏡はなかったのでしょう(※)

【2022.4.6付記】 少なくとも昭和7年(1932)の時点では、盛中にはちゃんと望遠鏡がありました。それと併せて、天文同好会に在籍した人々の経歴も、manami.sh さんから的確なご教示をいただきました。どうもありがとうございました。詳細はコメント欄をご覧ください。


しかし、盛中天文同好会は「畳の上の水練」ばかりやっていたわけではありません。
末尾の「星図の見方」という一文を見ると、「添付の星図『五月の星空』は五月一日午後九時の天空の模様を画いたものです。〔…〕詳しい事は観測会の時説明します。」とあって、定例的に眼視観測会を催していたようです(なお、手元の冊子に星図は付属しません。はがされた形跡があります)。

さらに、

 「実際吾々が天文観測するにはこの星図だけでは不十分です。簡易星図は日本内地で見える四等以上の星全部記載してあります。尚之でも不足な人は「新撰恒星図」又は「古賀恒星図」をお奨めします。何れも全天の肉眼で見える星全部星雲星団も含んでゐます。値は簡易星図は十銭、新撰恒星図一円、古賀恒星図五十銭です。何れも希望者に取ってあげます。見本も本会にあります。」

…とあって、当時入手可能だった各種の星図を取り揃えて、彼らは星見の準備に余念がありませんでした。星図に親しみ、夜ごと空を見上げ、雑誌を熟読し、時には研究会に参加する…というのが、往時の模範的天文少年のあり方だったようです。

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望遠鏡がない代わり、彼らには暗い空がありました。そして若者らしい想像力が。
賢治にしても、他人の望遠鏡を覗く機会はあったにしろ、自前の望遠鏡は持たぬまま星の世界に沈潜し、あのように美しい世界を創造できたのは、独自の豊かなイマジネーションがあったればこそでしょう。

現代の我々には、暗い空も、想像力も不足しているから、大掛かりな観望機材と撮影機材に頼らなければならないのだ…というのは的外れな意見でしょうが、でも全く的外れかといえば、そうでもない気がします。


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(※)ただし、同書のp.346には以下のような図が載っていました。


戦前の盛中天文同好会との関係は不明ですが、盛中の後身である盛岡第一高校には立派な天文部があって(同校のサイトによれば今もあります)、1950年代前半には、10cm反射望遠鏡を使って太陽黒点の観測を行っていたとのことです。

銀河をゆく賢治の甥っ子たち(前編)2022年03月26日 09時30分33秒



『アストロノミー』第1巻第1号と題された冊子を手にしました。
ごく粗末な謄写版刷りで、全22頁。昭和5年(1930)5月に発行されたものです。
発行者は「盛中天文同好会」

当時の旧制中学校で「盛中」と略せるのは、岩手県立盛岡中学校だけです。
すなわち今の盛岡第一高校の前身であり、宮沢賢治の母校。

もちろん、この冊子と賢治が在籍した時代はずれています。
賢治が盛中に入学したのは明治42年(1909)年で、卒業したのは大正3年(1914)ですから、彼が卒業してから既に16年が経過しています。同好会のメンバーは、いわば賢治の甥っ子、ないし年の離れた弟に当たる世代の少年たちです。それでも、賢治の母校に天文同好会があった…ということを発見して、何となく嬉しく感じました。



当時、ここにはどれだけの会員がいたのか?
執筆しているのは「会友 堀内政吉」君と「星野先生」の2名で、それ以外に「編輯人 大川 将」君という名前が奥付に見えます。もし星野先生が顧問の先生だったら、会員はわずかに2名。でも、「編輯後記」を読むと、「四月は事務多忙に就いて遂に何も出版出来なかった。会員諸子におはび〔原文ママ〕申します。今月も可なりおそくなって申訳ありません」と平身低頭しているので、もうちょっといたのかもしれません。

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ここで、星野先生が書いた「宇宙(Univers)」という一文を読んでみます(引用に当たって句読点を補いました)。


 「暑い夏の一日も暮れて、夕飯後、打水の涼しい庭先に涼み台を出して、団扇を片手に仰向に寝転ぶ。日は暮れ果てて涼風がたち初める。何とも云ひようも無い好い気持ちだ。空はあくまで澄み渡り、金銀を鏤めた様に天空に植え込まれた無数の星。神秘を物語るかの如く、囁くかの如く、頻りに瞬く。大きい星、小さい星、青白く輝くもの、赤く光るもの、乳色にほの白く流れる天の河…。

 数へれば数へる程数を増し、凝視すればする程新しく現れて来る。一体星の数はどれ程あるものだらう?星の世界は何処まで続くものだらう?どこまで拡ってゐるのだらう?而して其の果はどんなものになってゐるのだらう?

 不思議は更に不思議を生み、神秘は更に神秘を加ふ。〔…〕」

ここには「あからさまなロマン」があります。そして、そのことに何のためらいも照れもありません。当時の天文趣味の素朴さを感じるとともに、こういう大らかさを今一度見直したい気がします。

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こうして星野先生は星空の美を謳い、さらに最新の銀河の説に説き及びます。

 「この星の総ては殆ど銀河系統と云ふ宇宙界に於ける星の集団に属してゐるのです。どうしてこんな名前をつけたのかと申すと、夏の夜、頭の上を北方の天から南方の天にかけて、乳色に光る天の河(銀河と云ふ)と云ふのが流れているでせう。これを望遠鏡で見ると、みんな輝く恒星の集からなって、又それが天の河方向にのみ多く重ってゐるので、あんなに見えるのだと云ふことがわかったのです。天の河の他にある星も、この広い広い空間に拡ってゐる天の河に属する星に過ぎないと云ふ事が知られました。そして、この天の河に属する星一切を含めて銀河系と呼ばれてゐるのです。
〔…〕
 こんな広大な宇宙(銀河系)の形はどんなのかと申しますと、色々の説がありますが、先ずレンズ型と見たらよろしいでせう。次の図のやうにこの宇宙が又素晴しい勢で矢の方向に廻転してゐるのです。そして全体が一度廻転して仕舞ふに三億年前後はかかるだらうと見られてゐます。」


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昭和5年といえば、ちょうど賢治が「銀河鉄道の夜」の執筆と推敲を行っていた時期です。そして、作品冒頭に置かれた「午后の授業」を知っている人ならば、上の星野先生の文章が、それとよく似ていることに驚くでしょう。

一、午后の授業

「ではみなさんは、そういうふうに川だと云いわれたり、乳の流れたあとだと云われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
〔…〕
「このぼんやりと白い銀河を大きないい望遠鏡で見ますと、もうたくさんの小さな星に見えるのです。ジョバンニさんそうでしょう。」
〔…〕
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズを指しました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶがみんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いのでわずかの光る粒即ち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒即ち星がたくさん見えその遠いのはぼうっと白く見えるというこれがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれ位あるかまたその中のさまざまの星についてはもう時間ですからこの次の理科の時間にお話します。〔…〕」

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賢治は当時ほぼ無名の人であり、「銀河鉄道の夜」のストーリーも、彼の原稿用紙の中にのみ存在しました。おそらく天文同好会のメンバーと賢治は、互いの存在を知らなかったでしょう。それでも星野先生のような人が自ずと現れて、ジョバンニの先生のような口ぶりで銀河の説を語るというのは、さすがイーハトーブです。

まあ、当時一般化しつつあった説を、生徒向けに分かりやすく説いたために、自ずと口調が似ただけのことかもしれませんが、その偶合が他ならぬ盛岡中学校で起こったことに、やっぱり不思議なものを感じます。

(この項つづく。後編では彼らの天文ライフを垣間見ます)

フラマリオンの部屋を訪ねる(前編)2021年10月15日 05時38分53秒

国学者の平田篤胤(1776-1843)は、生前まみえることがなかった本居宣長(1730-1801)の学風を慕うあまり、夢の中で宣長に入門を許されたとして、「没後の門人」を称しました。

私はフラマリオンに深く傾倒しているわけでもなく、そもそもフランス語がからっきしなんですが、それでも彼が世に広めようとした望遠鏡を持ち、その本をながめ、さらには本の宣伝ポスターまで部屋に飾ってるぐらいですから、「没後の門人」とまでは言わずとも、彼のシンパを名乗る資格はあるでしょう。

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改めてフラマリオンという人についてですが、ウィキペディア【LINK】のコピペだと味気ないので、ここでは恒星社の『天文学人名辞典』から引いておきます(文中の〔※〕は引用者)。

(ウィキペディアより)

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フラマリオン Flammarion, Nicolas Camille(1842~1925)

 フランスの天文学者、商業をもいとなむ農家の四男として生まれたが、5歳と9歳のとき日食を観望し天文・気象観測をさかんに行っていたという。1856年パリに移転し、フラマリオンは彫金業者の徒弟として働きながら工業高校の夜間部に通い、代数、幾何、英語などを学んだ。当時彼を診察した医師の紹介でパリ天文台長ルヴェリエの知遇を得、1858年同天文台職員となった。1861年、最初の著書 La plirarité des mondes を出版、読みやすい文体で人気を得、その後 L’Astronomie を含む多くの著作を書き、天文学の普及につくした。1867~80年にかけ多くの気球実験を行い、また1877年〔〕名著 Astronomie Populaire を出版し、これは多くの国語に訳された。1878年、火星面の季節変化に注目、1909年 La Planète Mau〔※※〕を出版した。1887年フラマリオンはフランス天文協会を創立し、天文学の普及に貢献、ここから今世紀の多くの天文学者が輩出した。かれはまた数冊の科学小説をも書いている。

〕これは1879年が正しいと思いますが、初版の出版を1880年とする資料も多くて、有名な本のわりにちょっと書誌が混乱しています。
※※〕原文ママ。正しくはMars。
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この紹介文を読むと、若いころはなかなかの苦労人ですね。正式な天文学の教育を受けないまま、16歳で台長のルヴェリエに才を見出されて、パリ天文台の職員となった…というのも、なかなかすごいエピソードですが、このあたりはこのブログでは有名人の草場修氏【LINK】をちょっと連想します。

しかし草場氏とフラマリオンの、その後のライフコースはまったく違います。
貧窮のうちに亡くなった草場氏に対して、フラマリオンはお城のような天文台に住み、フランス天文協会の会長として、自らがひとつの権威となりました。また簡明素朴な草場氏とは違って、フラマリオンは火星や月における生命の存在にこだわって、ときにオカルト的な主張も辞さなかった、相当癖の強い人でもあります。そこがまた同時代人の熱い支持を集め、要は彼は時代のカリスマだったのでしょう。

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私も極東のシンパとして、そんなフラマリオン先生の御自宅をお訪ねしようと思ったんですが、ちょっと長くなったので、実際に訪ねるのは明日以降にします。

(この項つづく)

フラマリオンの巨大表紙絵2021年10月12日 05時49分13秒

今日は掛図のようで、掛図でない品。

(巻き癖が強くて、うまく写真に撮れませんでした)

見ての通り、“フランスの野尻抱影”、カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion、1842-1925)が著した大ベストセラー、『アストロノミー・ポピュレール』(初版1879年)の表紙デザインを拡大したものです。

もちろん用途は掛図ではなくて、同書の宣伝用ポスターです。
サイズは145×98cmと、今の感覚からすると相当大きいですが、当時のポスターとしては標準の範囲内。


印刷はリトグラフ。あちこちに細かいかすれや色版のズレがあって、この場合それが「味」なのでしょう。保存目的のため、背後からキャンバス地による裏打ち補修がされています。


印刷所はミュシャのポスターも手掛けた、パリのシャンペノワ社(1874-1915)。


隅に「 Camard et Associés 」という小さなシールが貼られています。ここは21世紀のパリに短期間存在したマイナーなオークションハウスらしく、このポスターも以前そこの売り立てに登場したもののようです。

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宣伝メディアとして、ポスターの重要性が格段に大きい時代でしたから、ロートレックやミュシャのように、今に残る傑作ポスターの数々も生まれたのでしょうが、このフラマリオンの広告は、本の表紙を大きくしただけで、特段ひねりもないので、独創性という観点からは、あまり良い点数を付けられないでしょう。(それとも当時の本の広告というのは、みんなこんなものだったんでしょうか?)

でも、こういうポスターがパリの街のそこここに貼られ、人々の天文熱をあおり、フラマリオンが時代の寵児となった世相を想像すると、それだけで胸が熱くなりますし、天文趣味史的には大層興味深い品だと思います。

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『アストロノミー・ポピュレール』はベストセラーだっただけに、今でもたくさん古書が流通しており、さらには1980年に出た復刻版というのもあって(その後も刷りを重ねています)、この表紙絵を目にする機会は多いです。

(フランスのアマゾンを見たら、今も2002年に出た復刻版が売られていました)

その一方で、以前の持ち主が好みの装丁を施した本も多く、これは出版当初からハードカバーの版元装丁本と、未装丁の仮綴じ本(要はペーパーバックです)が並行して売られていたのだと推測します。

そして版元装丁にも、表紙絵の夜空の色の違いに応じて「黒版」と「青版」の2種類があって、装丁の種類もたいていは布装ですが、上製の革装を目にしたこともあります。こういうバリエーションの豊富さは、間違いなくフランスの書籍文化の豊かさを物語るものでしょう。

(手元の1冊は、1880年に出た版元布装の黒版です。透明カバーをかけたまま撮影)

上で「ひねりがない」と書きましたが、こういうポスターが存在すること自体、版元もこのデザインにはかなり自信を持っていて、ぜひこのデザインで手に取って欲しいと願ったのかな…と、そんなことも思いました。

日本のグランドアマチュア天文家(後日譚)2021年04月10日 09時37分59秒

「あれ?おかしいなあ。4月になったら余裕ができて、記事もバンバン書けるはずだったのに…」と首をかしげつつ思うに、確かに生業の方は若干余裕が生まれたものの、通勤時間が1時間余分にかかるようになって、時間的にはむしろ余裕が乏しくなったのでした。以前は文字通り「朝飯前」に記事を書いてましたが、今それをやろうと思うと、異様に早起きしなければなりません。でも、新しいリズムに慣れてくれば、その辺もまた変ってくるでしょう。

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さて、本題です。
最近、すこぶる嬉しいお便りをいただきました。

これまた過去記事に絡む話題ですが、以前、日本のアマチュア天文史の一ページを彩る存在として、萑部進・守子(ささべすすむ・もりこ)夫妻という、おしどり天文家が、戦前の神戸で活躍していたことを、5回にわたって紹介しました。


神戸は今でも素敵な町です。さらに戦前の神戸となれば、その不思議な多国籍性が、とびきりハイカラで、モダンで、お洒落な香りをまとって、さながら稲垣足穂の『一千一秒物語』のような世界であった…と、この目で見たわけではありませんが、そんなイメージがあります。

(昔の神戸の絵葉書)

そのモダン都市・神戸の一角、六甲の高台に、萑部夫妻は瀟洒な邸宅を構え、私設天文台に据え付けた巨大な望遠鏡で星を追い、海を眺め、音楽を楽しんだ…という、本当にそんな生活がありうるのかと思えるようなライフスタイルを、上の一連の記事でスケッチしました。

(萑部氏の山荘風邸宅と天文台。上記「日本の…天文家(1)」から再掲)

最近いただいた嬉しいお便りというのは、神戸大学の青木茂樹氏からのもので、氏がさまざまな探索手法を駆使した末に、萑部氏の邸宅跡を発見・特定されたこと、そしてお二人の戦後の動向についても情報を得て、それらをまとめて紀要論文にされたという内容でした。

青木茂樹(著) 「六甲星見臺」址を探して
 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要
 Vol.14, No.2, pp.85-89
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81012658.pdf

そう、萑部氏の私設天文台「六甲星見台」は、本の中だけの存在ではなく、確かに「実在」したのです。そうであるならば、萑部氏の営んだ美しい生活もまた実在し、そして憧れの夢幻都市・神戸も、やはりこの世に存在したのだ…と、あえて断言したいと思います。

内容の詳細は、青木氏の論文を参照していただくとして、特筆すべきは、萑部夫妻の写真をそこで拝見できたことです。

(青木氏上掲論文より)

いずれも戦後のポートレートですが、お二人とも理知的で人間的な豊かさに満ちた素敵な面差しです。この写真から20~30年前の若き日のご両人を想像し、その六甲での暮らしを思うと、やっぱり夢幻的だなあ…と思います。

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しかし―と繰り返しますが、お二人は確かに現実の人です。

お二人の体温を直接感じるのは、何よりもその愛機(望遠鏡)です。拙稿では、その後紆余曲折を経て、それが神奈川県の横浜学園に所有されていることまでは触れましたが、青木氏の論文によれば、望遠鏡はそこからさらに四国に渡り、現在は香川県の「天体望遠鏡博物館」で大切に保管されている由。(事の顛末を、同博物館の白川博樹氏が、雑誌「天界」2020年5月号に発表されています)。

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神戸は、そして世界は、今ウイルスの侵襲で大変なことになっています。
またコロナ禍とは別に、社会の在り様は、いささか無惨なものとなっています。

まあ冷静に振り返れば、無惨な社会の方が歴史的にはデフォルトなのかもしれませんが、かつて美しい町、美しい生活、美しい心根が存在したことも、また確かな事実です。そして、世界が人の心の投影であるならば、美しいものに対する憧れさえ失わなければ、夢幻世界は何度でもよみがえるに違いありません。

日本の星座早見盤史に関するメモ(6)…昭和50年頃の早見盤界2020年05月31日 10時26分47秒

渡辺教具の星座早見盤を素材として、一気に現在まで時を流れ下りましたが、話を過去に戻して、昭和50年ころの星座早見盤の顔ぶれを、同時代資料で確認しておきます。

当時の代表的な星座早見盤について、一覧表を2つ見つけました。
まずは、高城武夫(著)『天文教具』(恒星社厚生閣、昭和48年/1973)に掲載された表です。

(高城氏上掲書、p.127より)

表としては画像の方が見やすいですが、参考のため文字に起こして、同書掲載の写真を添えておきます。

【左から「品名」、「編作者(様式)」、「発行所」の順】
①新星座早見、 日本天文学会、 三省堂
②星座早見、 名古屋科学館、 名古屋星の会
③精密 恒星及惑星早見、 伊藤精二、 地人書館
④新星座早見盤、 (南北天両面式)、 恒星社
⑤星座早見、 (金属板準半球)、 渡辺教具製作所
(昨日の記事でいうと「第3期」に相当)
⑥星の観察、 (南北天両面式)、 大和科学教材研究所
⑦惑星運行早見、 (火星、木星、土星の位置計算器)、 島津理化器械製作所
⑧赤道星座案内、 (壁掛型、早見、木製)、 尾藤製作所

ここで注記しておくと、③の編者「伊藤精二」は、日本ハーシェル協会代表を務められた故・木村精二氏の旧姓。また、⑥の設計者は、本書の著者・高城氏自身です。
なお、⑦の「惑星運行早見」は、月の早見盤とともに、過去記事に登場したことがあります。


上の表では島津理化発行となっていますが、これはおそらく販売のみ島津が行ったもので、いずれも製造元は渡辺教具です(考案者は佐藤明達氏)。過去記事を読み返して気づきましたが、惑星早見盤の発売が1960年代前半、そして月早見盤が1950年代後半ですから、よりベーシックな教具である星座早見は、当然それに先立って販売されていたんではないかなあ…と、再度推測します。

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同様に、日本天文学会(編)『星図星表めぐり』(誠文堂新光社、昭和51年/1977)から、「市販されている星座早見」の表を挙げておきます。

(日本天文学会(編)上掲書、p.10より)

【左から「名称」、「発行所」、「直径」の順。太字は高城氏の表と重複する品】
①新星座早見(日本天文学会編)、 三省堂、 23cm
②ジュニア星座早見、 三省堂、 22cm
③新星座早見盤、 恒星社厚生閣、 15cm
④コル星座盤、 キング商会、 23cm
⑤ワタナベ星座早見盤、 渡辺教具製作所、 20cm
⑥ワタナベ式星座早見盤(教授用)、 渡辺教具製作所、 40cm
⑦星座早見(名古屋科学館)、 名古屋星の会、 30cm
⑧星の観察、 大和科学教材研究、 特殊

これら2つの表に名前の挙がっているのが、昭和の良き時代の代表的星座早見盤ということになるのでしょう。個人的郷愁から、この時期のものまでは収集してもいいかな…と思うのですが、この辺の品は、探してもなかなか見つからないです。

基本的に消えモノだし、今は単なる中古品扱いで、値段も二束三文なので、誰も売りに出そうと思わないのでしょう。でも、今後ヴィンテージやアンティークとしての付加価値が生じれば、全国の押し入れや物置から、いろいろ珍品が発掘されて、市場をにぎわす可能性もありそうです。

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一連の早見盤の中で異色なのは、公的機関である名古屋科学館(現在は「名古屋科学館」ですが、昔は「市立名古屋科学館」と言いました)が作ったもので、これはどんなものだったのか、ちょっと気になります。

(これはご当時モノではなくて、後年の紙製早見盤。名古屋市科学館・監修、名古屋市科学館振興協会・発行)

以下、余談に流れますが、「名古屋星の会」について、同館の天文ボランティアに関するページ【LINK】に以下のような説明がありました。

「名古屋市科学館には、市民観望会などの行事で望遠鏡の操作などを通じて天文事業をサポートする教育ボランティアの組織、天文指導者クラブ(AstronomicalLeader's Club)、ALCがあります。ALCはアルクと読みます。

ALCの前身のリーダー会は、1972年発足。市立名古屋科学館(当時)のなかよし大観望会(現、市民星まつり)や、星の会(当時)の小中学生を指導するリーダーとして、当時の大学生・大学院生が組織されました。その後、天文クラブ中学生クラスの研修会のリーダーなどを通じて、組織が充実・拡充して行きました。そして1986年、旧理工館屋上天文台が整備され、定例行事としての市民観望会や昼間の星をみる会などの天文行事が始まり活動の場が広がりました。翌1987年、名古屋市公認ボランティア団体ALCとなり、社会人のメンバーも受け入れるようになって現在に至っています。」

いにしえの天文ブームの頃、東京だと上野の国立科学博物館とか、渋谷の五島プラネタリウムとかを結節点に、アマチュア天文家のさまざまな活動が展開されましたが、名古屋では市立科学館がそれに相当するのでしょう。

そして、「星の会」とは、科学館を舞台に活動した小・中学生のグループで、大学生を中心とする「リーダー会」が彼らを指導していた…というのですが、往時を知る者として、これは実に羨ましい。私も天文趣味をしっかりした基礎から学び、同好の少年たちと心の火花を散らせることができていたら、その後の人生も、少し変わっていたでしょう。

ハレー彗星来たる(その2)2020年02月02日 11時18分29秒

17世紀は「科学革命の時代」と持ち上げられますが、その一方で魔女狩りもあり、ペスト禍もあり、地球規模で寒冷な時期だったせいで、人々は素寒貧だったし、ヨーロッパの王様は戦争ばかりやってたし、まるで中世の再来のように暗い面がありました。

ハレー彗星は17世紀に2回来ています。すなわち1607年と1682年です。
それが人々の心にどんなさざ波を立てたのか、詳らかには知りませんが、1607年の彗星は間違いなく超自然的な凶兆だったでしょうし、1682年のときだって、程度の差こそあれ、人々を不安にしたことは間違いありません。

それが1758年になると、さすがは啓蒙主義の時代、ハレー彗星も「単なる科学ニュース」になっていた…というのが、前回書いたことでした。

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さて、その次は1835年です。
この間に、ハレー彗星のイメージはどう変わったのか?

1835年も、ハレー彗星は立派な科学ニュースでした。その点はたぶん同じです。
でも、それだけではありません。

このとき、彗星は新たに「ファッション」になったのです。
言い換えると、ここにきて彗星はにわかに「カッコいいもの」になったのです。これこそが、19世紀の新潮流でした。

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ブローチのデザインの一種に、「彗星ブローチ」というのがあります。

ジュエリー関係の人は、しばしば1835年のハレー彗星こそ、そのきっかけになったと語ります(これは主にeBay業者の言い分ですが、ハレー彗星コレクターであるスチュアート・シュナイダー氏も、自身のサイト「ハレー彗星は1835年に、彗星を記念する新しいジュエリースタイルによって歓迎された」と書いているので、おそらくそうなのでしょう。)

手元にあるアメシストのブローチも、1835年当時のイギリス製と聞きました。


イギリスではヴィクトリア女王が即位(1837)をする直前で、「ヴィクトリアン様式」のひとつ前、「ジョージアン様式」に分類される古風な品です。

この形は、一見どっちが頭(コマ)で、どっちが尾っぽか分かりませんが、いろいろ見比べてみると、どうも大きい方が頭のようです。我々は、写真に納まった“長大な尾を引く彗星”のイメージに慣れすぎていますが、たいていの彗星は、尻尾よりも頭の方が明らかに目立ちますから、素直に造形すれば、確かにこうなるわけです。

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その後も彗星ブローチは作られ続けました。


特に意識して集めているわけではありませんが、しばしば目に付くものですから、小抽斗の中には、新古取り混ぜて彗星ブローチがいろいろたまっています。そのデザインは千差万別で、人間の想像力の豊かさを感じさせますが、これは実際に彗星の形が多様ということの反映でもあります。

天空を翔び、胸元を飾るそのフォルムに注目した「彗星誌(Cometography)」を、いつか書きたいと思っているので、彗星ブローチの件はしばらく寝かせておきます。

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話を元に戻して、19世紀に入って、彗星がなぜ「カッコいい」存在になったかですが、その理由はしごく単純で、19世紀の幕開けとともに、一般のホビーとして「天文趣味」が成立し、それがファッショナブルになったからじゃないかなあ…と思います。

市民社会の成立は、多くのホビーを生み出しましたが、その中でも科学的装備をこらして、遥か天界の奥を窺う天文趣味は、何となく高尚で「カッコいい」行為となり、暗夜にきらめく星空はロマンの尽きせぬ源泉となりました(その流れは今も続いていると思います)。

中でも変化と動きに富む彗星は、まさに夜空のヒーローであり、その天空ショーがまた新たな天文趣味人を生むという好循環によって、19世紀は天文趣味が大いに興起した100年となったのです。


(次の回帰は1910年、ハレー彗星はいよいよ時代の人気者となっていきます。この項つづく)