貧窮スターゲイザー、草場修(6) ― 2012年04月14日 17時09分09秒
咲く桜、散る桜に目もくれず続けてきたこの話題も、今日で最終回です。
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こうして、恵まれた環境の中、1937年(昭和12)春、ついに「草場星図」は世に出ました。(とはいえ、刊行された星図には、オリジナルの3万2千個に遠く及ばぬ、5千ないし6千個あまりの星しか記載されていません。「天界」誌掲載の近刊予告では、「先ず大衆的な恒星図に現はした」とありますが、実際にはコストと印刷技術の壁が完全製品化を阻んだのかもしれません。)
(↑「天界」 昭和12年6月号より。小川誠治氏提供=上門卓弘氏のご手配による=。
私は最初、下の『簡易星図』イコール後の『草場簡易星図』のことだと思いましたが、両者はどうも別物のようです。)
私は最初、下の『簡易星図』イコール後の『草場簡易星図』のことだと思いましたが、両者はどうも別物のようです。)
辛苦が実を結んだ草場の喜びは、いかばかりであったか。
しかし、その直後に彼の運命は再び暗転します。頼みの山本一清が失脚したのです。
京都帝国大学理学部教授として、また会員1万人を擁する東亜天文協会会長として、当時得意の絶頂にあった山本ですが、この昭和12年、ペルー日食遠征から帰国と同時に、京大総長選挙をめぐる疑獄事件に巻き込まれ、結局、彼は翌年春に教授辞任を余儀なくされます(その間の事情については、以前、チラリと書きました↓)。
■天文趣味を作った人、山本一清(7)(8)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/08/01/4471711
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/08/03/4477889
こうなると、当然、山本の食客である草場も京大にいることはできません。
いるか書房・上門氏からの情報提供によれば、草場は、1938年(昭和13)の暮れには広島県の瀬戸村観測所にいたことが分かります。ここは東亜天文協会のいわば直営施設ですから、これは草場の身の処し方を心配した山本の配慮によるものだと思います。
その後の草場の足取りははっきりしません。
あるいは写真会社に短期間勤務したというのは、この時期のことかもしれません。草場の経歴の中で、写真会社勤務というのは唐突に響くのですが、想像するに、京大時代に天体写真の撮影に伴うDPE技術を実地に学ぶ機会があり、器用な彼はその方面でも大いに才を発揮したのではないでしょうか。その後、山本の口利きでその方面に就職できたと考えれば、話のつじつまは合います。
いずれにしても、1942年(昭和17)の時点では、京都の左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」というのを自営していました。また翌年には北海道まで日食観測に出かけたり、西星会の主要メンバーとして後進の指導にあたったり、アマチュアの立場でそれなりに充実した天文ライフを送っていたようです。
しかし、戦争の激化とともに、草場の足取りはますますはっきりしなくなります。
ここで1つ気になるのは、草場は変光星の観測報告を、昭和17年には「天界」誌に送っているのに、翌18年には日本天文学会の「天文月報」に送っていることです(改訂版『日本アマチュア天文史』、p. 172およびp.177参照)。
日本天文学会と東亜天文学会は、現在でこそプロvs.アマというはっきりした住み分けがありますが、一時は東大系vs.京大系、あるいは関東vs.関西の闘争意識が絡んで、微妙な関係にありました。少なくとも会長の山本の脳裏には、日天への対抗意識がはっきりあったと思います。もちろん、一般のアマチュアはその辺を顧慮することなく、両方に参加していた人も実際多かったようですが、ただ、山本のいわば「子飼い」である草場が「天文月報」に接近したのは、山本との距離をうかがわせる出来事です。
そして、終戦後の1946年(昭和21)に、山本一清ではなく、神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を出したことは、明瞭に山本からの離反を物語るもので、たぶん「何か」が、両者の間にあったのだと、私は思います。(←これは深読みのしすぎかもしれません。参考程度に聞いておいてください。)

(↑恒星社厚生閣の出版物(=野尻抱影著 『肉眼・双眼鏡・小望遠鏡 星座見学』、昭和27年再版)の巻末広告より)
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さて、ようやく平和が訪れた日本で、草場はその後どんな人生を送ったのか?
今のところ、まったく手がかりがありません。いつどこで亡くなったのかも不明です。
1966年(昭和41年)の頃には、天文界に顔の広い草下英明氏が「まったく消息を聞かない」と、『天文ガイド』誌上で書いていたぐらいですから、天文界から完全に姿を消していたのでしょう。その頃は60代の後半ですから、すでに鬼籍に入っていた可能性もあります。
★
数奇な運命の末に、一時は天文界のみならず社会の寵児として、脚光を浴びた草葉修。
日本の天文趣味史に鮮やかな足跡を残した「貧窮スターゲイザー」に、ここでは注目してみました。話の後半はちょっと尻切れトンボになりましたが、もし、草場氏について何かご存知のことがありましたら、ぜひご教示ください。
(この項おわり)
貧窮スターゲイザー、草場修(5) ― 2012年04月13日 23時25分50秒
(昨日のつづき)
こうして艱難辛苦の末に完成させた星図を持って、草場はある思い切った行動に出ます。
「去る〔10月〕二十日午後京大花山天文台で東亜天文協会の総会が開かれ山本一清博士を初め多数の天文学者が集ってゐるところへ、商人か百姓のやうな頗る風采のあがらぬ、しかも耳の遠い中年男が現はれて十三枚の大製図紙に経度、緯度も正確に、無数の星を記入した星図を並ゐる天文学者達の前に繰り広げて一同を驚嘆させた」 (大阪朝日新聞、10月24日)
劇的な天文界デビューです。(とはいえ、東亜天文協会はアマチュア主体の団体でしたから、「並みいる天文学者達の前に」云々というのは、若干記者の脚色が入っています。おそらく草場はそれ以前から協会員になっており、この日、満を持して星図を持参したのでしょう。)
このとき草場が持参した星図は、10月27日付けの大阪朝日に写真が出ています。一見して、非常に完成度の高い図で、山本一清以下が驚倒したのも当然です。写真を見る限り、当初作成していたのは全13枚の部分図から成るアトラス式のもので、後の『新撰全天恒星図』のような1枚物のマップではありません。
この図を目にした山本一清のコメントが新聞に載っています。
「自分の口から変にきこえるかも知れないが、率直にいへば、今日一般の学俗間に用ひられてゐる星図といふものは皆かなり時代離れのした、不満足なものばかりである。〔…〕文化の進んだ今日の時代に全く似つかはしからぬ原始的なものばかりが世にはびこってゐるのは、どうしたわけであるか?〔…〕ノルトン然り、クライン然り、ゲッ・シュリヒ然り、古賀恒星図も、新撰恒星図もまた然りである。〔…〕単に室内賞玩用としても星の図は立派に美術品となり得る可能性があるのだがと、時時思ふ。」
こうして当時の標準星図をなで斬りにした挙句、
「〔…〕けれど、まだまだ時機は早くて、美術的な星図が出版されるには至らない。草場君の星図をはじめて見た時から、自分の心にはかうした考へがムラムラと湧いて来てゐる。
草場君のこんどの星図は〔…〕約七等級半までのあらゆる天体をことごとく載せ、その数三万二千、これに洋名、和名、漢名を美しく記入したものであって。構図上からも色彩上からも全く無類の品でこれを見た専門家も皆驚嘆してしまった。」 (大阪朝日新聞、10月27日)
美術上の価値を力説してやまぬあたりに、星座の美を高唱した、プロの天文学者らしからぬ山本の興味関心のありようが感じられます。
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草場の記事は大変な反響を呼びました。
「本社をはじめ京大の山本一清博士、あるひは直接草場君のもとへ毎日配達される激励賞賛の手紙はおびたゞしい数にのぼり、あるものは朝鮮から、あるものは北海道から、なかには女文字の匿名(芳子)で『あなたの記事をよんで私はいろんな意味で泣けました、あなたは現代に得難いお方でございます…』と百円の為替を同封したものもあり」 (大阪朝日新聞、11月10日)という具合で、物質的にも、毎月の研究費を出そうと申し出る人やら、自分のツァイス望遠鏡を寄贈しようという人やら、草場を支援しようという、多くの篤志家が現れました。
山本一清その人も、草場を手元にひきとって、さらに勉学させることを決心し、草場は京大に行くことになります。(正式にどういう身分なのかは分かりません。山本の好意による私費研究生のような形だったのでしょうか。)
山本一清その人も、草場を手元にひきとって、さらに勉学させることを決心し、草場は京大に行くことになります。(正式にどういう身分なのかは分かりません。山本の好意による私費研究生のような形だったのでしょうか。)
(東京朝日新聞 昭和9年11月11日)
★
さて、ここまで書いてきて、いくつか重要な情報が不明であることに気づきます。
草場の教育歴はどの程度だったのでしょうか? 彼が無学文盲の人でないのはもちろんですが、落魄の身となる以前、どの程度の教育を修めていたのでしょう? 彼は久留米で兵役を終え、その後東京で仕事をしていたそうですが、いったいそこで何をしていたのでしょうか? これらのことは、今のところ一切分かりません。
いずれにしても山本一清は、草場に豊かな才能を認め、天体観測の実経験をさせることも含め、2年あまり星図完成に向けて自分の手元で研鑽を続けさせます。
昭和11年の「天界 5月号」に、草場は「保井春海と其の子ヒサタダに就いて」という近世天文学史に関する記事を書いており(http://www.h5.dion.ne.jp/~iruka-fu/D010/ten181.txt)、京大以前からの下地はあったにせよ、その修学範囲の広さを伺うことができます。
(この項つづく。次回完結)
貧窮スターゲイザー、草場修(4) ― 2012年04月12日 20時49分21秒
(昨日のつづき)
もしや…という思いを捨てきれずに、探索の範囲を広げたところ、新聞縮刷版のあるページで私の目と手はピタリと止まりました。
「あったー!!!!!」
それは東京朝日新聞の、昭和9年10月24日号です。
そこには、「半纏〔はんてん〕の素人天文家/世界一の「星図」/努力の結晶・三万二千を記載/専門家達を驚かす」という見出しが大きく載っていました。
1つ見つかれば、あとは芋づる式で、全部で7編の記事が次々に見つかりました。以下にその見出しを掲げます(以下、「東京」は東京朝日新聞、「大阪」は大阪朝日新聞。ページは縮刷版での記載箇所)。
(1)東京(昭和9年10月24日号、p.355)
「半纏〔はんてん〕の素人天文家/世界一の「星図」/努力の結晶・三万二千を記載/専門家達を驚かす」
(2)大阪(同10月24日、p.433)
「落魄〔らくはく〕のアマチュアが/世界一の星図を完成/精密に 支那名まで 実に三万二千/わが天文学界の誇り」「失意絶望の東海道で/死を阻む銀河の光/“定規一つ、コンパスは竹切れで”/法被〔はっぴ〕姿で語る孤独の草場君」「全く驚嘆する/専門家も多く教へられる/京大 山本博士談」
(3)大阪(同10月27日、p.485)
「見よ、この貴き努力の黄金塔/輝く草場大星座図」「専門的に検討してもあっぱれな大星図/識者の後援を得てもっと勉強をさせ度い/アマチュア天文家 草場君の星図/京大花山天文台 理学博士 山本一清」
(4)大阪(同11月10日、p.173)
「“世界的星図”の草場君/輝く第二の人生へ/竹のコンパスや法被姿も忘れずに/京大、山本博士の許で研鑽」「温かい情の雨に送られて」
(5)東京(同11月11日、p.150)
「法被の天文家/学界へ進出/京大山本博士に引取られ/「世界一星図」に精進」
(6)大阪(同11月11日、p.191)
「流星より滋く注ぐ同情/星図に精進の草場君に」
(7)大阪(同11月14日、p.239)
「京大入の草場君の初仕事/獅子座流星群の観測に/山本博士と共に生駒山へ」
★
草場の経歴については、今のところ朝日新聞の一連の報道しか材料がないので、それをまとめてみます。
彼はこの昭和9年(1934)の時点で36歳。逆算すると明治31年(1898年)前後の生まれになります。眼の良かった草場は、九州にいた小さい頃から星に興味があったといいます。しかし、もちろん正式に天文学を学んだ経験はありません。
家族関係は不明ですが、この昭和9年の頃には、付き合いのない親類が1人あるきりという、孤独な身の上でした。きっと早くから辛酸をなめたのでしょう。しかも彼は、久留米で兵役についたとき耳を悪くし、その後、東京で働いていた昭和2年頃に完全に聴力を失うという大きなハンデを抱えていました(昭和9年の時点では、新聞記者と筆談でやりとりしています)。
絶望のあまり、死を決意して東海道をさまよい歩いていたとき、夜空の銀河の光に慰められて死ぬ決心が鈍り、結局彼は大阪に流れ着きます。そこで浮浪罪に問われ、留置場にぶち込まれたこともあります。まさにルンペンです。
その際、警察の給仕から大阪職業紹介所を教えられた彼は、同所を頼り、衛生組合の溝浚い人夫という職につきます。もちろんこれは立派な正業ですが、新聞記事は「恵まれぬルンペンの群に落魄しながらも…」という書き方をしているので、当時の通念に従えば、依然「ルンペンのような存在」であったのは確かでしょう。
そして、ここから草場と星との本格的な対話が始まったのです。
記者から星図の完成にかかった年数は?を聞かれた彼は、こう答えています。
「とりかゝってから五年半かゝりました、毎日仕事がすむと中之島の図書館へ通ひ、あすこにある天文の本はみんな読みつくしてしまひ、借出し番号まで暗誦してゐます、図書館から帰へると星の観測です」。 (大阪朝日新聞、10月24日)
彼は、天文学書から約32,000の星について、経度、緯度、光度、さらにはその日本名や中国名を調べ上げ、それを粗末な製図器具を使って、丹念に図面に落としていきました。
これを読んで、私が最初に感じた疑問も解けました。
彼はもちろん星空を実際に眺めもしましたが、しかし土管から星を見上げて星図を作ったというのは一種の脚色で、実際には既存の天文学書のデータを利用し、それを1枚の星図にまとめ上げたのでした。とはいえ、図示した星の数も桁外れなら、中国の伝統星名を表記するなど、その内容もきわめて独創的であり、それを独学・独力でやり遂げたところに、彼の真に驚嘆すべき業績はあったのです。
― 大空の星があなたの無二の友だちですね?
『さうです、私の友だちはいつも大空にかゞやいてゐます』 (同上)
(この項つづく)
貧窮スターゲイザー、草場修(3) ― 2012年04月11日 20時15分00秒
(昨日のつづき)
一瞬たじろいだものの、鉄面皮の私は、さっそく一面識もない上門氏にメールを送り、ルンペン説についてどう思われるか、またメーカー勤務のソースは何か、率直にお聞きしてみました。
上門氏からは、その後数回にわたって、多くの資料とご意見をいただきました。
その中ではっきりした事実を、以下に箇条書きしてみます。
○「草場恒星図」は、「天界」昭和12年2月号で、「近日発刊 予約注文の受付開始」と広告され、その後、同年6月号の新刊紹介欄で取り上げられていることから、この間に刊行されたと考えられること。
(「天界」 昭和12年2月号より=小川誠治氏提供(上門卓弘氏のご手配による)=)
(「天界」 昭和12年6月号より=同上=。 記載星数が、広告では6133、新刊紹介では5133となっていますが、どちらが正しいかは不明。)
○「天界」昭和13年12月号の「東亜天文協会 地方委員」の住所録には、「広島県沼隈郡瀬戸村観測所」(黄道光観測所)の住人として草場の名が挙がっており、少なくともこの時点では路上生活者とは考えられないこと。(なお、この前年、昭和12年11月号では、同観測所の住人は本田實氏と荒木健児氏になっている。)
○「天界」昭和13年12月号の「東亜天文協会 地方委員」の住所録には、「広島県沼隈郡瀬戸村観測所」(黄道光観測所)の住人として草場の名が挙がっており、少なくともこの時点では路上生活者とは考えられないこと。(なお、この前年、昭和12年11月号では、同観測所の住人は本田實氏と荒木健児氏になっている。)
○草場は、「西星 第4号」(昭和18年11月)への寄稿論文の中で、自ら「某写真会社の乳剤研究部在職中の浅い経験であるため」云々と書いており、一時期メーカーに勤務していたのは事実らしいこと。
○「東星〔=関東を中心とした天文同好会の会誌〕第1号」(昭和17年3月)の裏表紙に「草場写真化学研究所」の広告があり、草場は当時、京都市左京区一乗寺に居を構え自営していたらしいこと。
(各種星図の複写をうたう広告。「東星 昭和17年3月号」より=上門卓弘氏提供=)
○「西星 第1号」(昭和18年3月)の編集後記によれば、草場はこの直前に、北海道へ日食観測に赴いたとおぼしく、当時それだけ生活に余裕があったと推定されること。
○「西星 第1号」(昭和18年3月)の編集後記によれば、草場はこの直前に、北海道へ日食観測に赴いたとおぼしく、当時それだけ生活に余裕があったと推定されること。
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以上の点を踏まえて、上門氏は、「一時期、経済的に困窮したことがあるのかもわかりませんが、ルンペン云々はにわかに信じがたい気がします。…が、もしそうであるならば、路上生活を送りながら星図を作ったというのではなく〔…〕山本氏からの金銭的援助を受けながら完成させた、というのではないでしょうか」というご意見でした。
なるほど、これは後の回想ではなく、同時代資料に基づく推論ですから、非常に説得力があります(上門氏の挙げられた資料には、草場がルンペンであったことを匂わせる記述は一切ありません)。ルンペン云々の話は、ささいな事実にいろいろ尾ひれがついて広まった「神話」ではないか?…というところに、話は落ち着きそうでした。
さらに、草場星図の発刊準備が進んでいたとおぼしい、昭和11年暮れから12年夏にかけての新聞記事を丹念に読んでも、「ルンペン天文学者」の記事はまったく見つからず、このことも上の推測を裏付けているようでした。
が、しかし。
(緊迫しつつ、この項つづく)
【4月12日付記】 記事中に画像を追加しました。
貧窮スターゲイザー、草場修(2) ― 2012年04月10日 20時12分04秒
(昨日のつづき)
上村氏からは、さっそく丁寧なご返事とともに、貴重な資料をお送りいただきました(どうもありがとうございました)。
「草場氏について参考にしたのは、天文ガイド1966年2月号に載った故・草下英明氏による、『星につながる人々』です。詳しい経歴などは記されていないのですが、当時中学生の私はこのコラムに衝撃を受け、ずっと忘れないでいました。〔…〕草場氏は星図を出されてから、東亜天文学会に入会しその機関誌「天界」に星座の話などを連載したようですが、戦前のことで、実物は見ていません。また写真関係の会社に勤めていたことがあると聞いたような(はっきりしませんが)。私も草場氏の経歴については知りたいと思いながら何もせずにいて詳しいことは判りません。」
(「天文ガイド」1996年2月号より=上村敏夫氏提供=)
以下に、草下氏のコラムから、関連部分を転載します。
「1935年ごろのことだと思うが、草場修さんという人がいた。今どうしているか、まったく消息をきかないが、この人は本当のルンペンだった。(このごろ、ルンペンがあまりはやらないが、どういうわけだろう)。ルンペンに、にせものほんものがあるかといわれるかも知れないが、確かにそうだった。
ゴミ箱のかげや橋の下にねころびながら、夜ごと星空をながめ、コツコツと星図をつくっていた。のちにこの星図は、神田茂先生の校閲〔引用者注:これは山本一清校閲のまちがい〕で「草場簡易星図」と名づけてたしか恒星社から発行された。当時の新聞などに、「ルンペン天文学者、星図を完成」という記事が出たこともある。この人の場合は、天文学はもちろんの副業である。本業の方はといえば、その後正業についたどうか知らないが、やはり当時はルンペンだったというよりほかはなかろう。」 (「天文ガイド」1966年2月号、p.18)
草下英明氏の名は、ベテラン天文家にはおなじみでしょう。野尻抱影門下で、天文界の裏表に通じた科学評論家。その草下氏が書くのですから、やはり、これは確かなことのように思えてきます。
(左から草下英明、野尻抱影、村山定男の三氏。昭和50年、抱影卒寿の祝いの席にて。草下氏著、『星日記-私の昭和天文史 1924~84 』より)
★
さらに「草場修」の名をネットで検索すると、あの偉大なアマチュア天文家、関勉氏が、新聞の連載コラムの中で、草場について触れているのを発見しました。関氏が、昭和25年の「南国高知産業大博覧会」に向けて、プラネタリウムの製作準備に追われていた頃の思い出話の中で、です。以下、関連部分を引用させていただきます。
「ある日、プラネタリウム製作の町工場に鎮夫さんが明るい笑顔で入ってきました。私を発見するなり大きな声で、「関君、星図がとうとう見つかったよ」と言いました。「えっ、本当ですか?」と答えると、鎮夫さんは続けました。「ほら、君も知っている『草場星図』だ。例の路上生活者の描いたという星図が遂に世に出たらしい」とやや興奮気味に話しました。
「草場星図」の話は当時の天文界で大きな話題となっていました。「プラネタリウム投影の元となる星図が無い。草場星図でもあったら何とかなるのだが…」と、鎮夫さんもさすがにこれには困って、最後には私たち二人で実際に星を観測して星図を作ろうか、と言うことになり、実は北斗七星あたりから描きかけていたのでした。しかしこれには少なくとも1年はかかります。博覧会の開催を目前にして間に合いそうにもありません。日増しに焦燥感の募るなか、「草場星図入手」の朗報が飛び込んできたのでした。
いち路上生活者が描いたという星図の話を載せた当時の新聞記事は感動的でした。地位も名誉も財産もない路上生活の青年、草場修にとっては、夜空の星だけが財産でした。草場は何よりも星が好きで、毎晩、粗末な機材を使って肉眼で見える頭上の星座を描き続けていました。その話が、京都大学の山本一清博士の耳に入りました。草場が描いたという1枚の星図を見た博士は「見事じゃ、このような精密な肉眼星図は世界に無い!」と激賞したといいます。のちに草場は、山本博士の指導の下に1冊の立派な肉眼星図を完成させたのでした。
こうしたことが契機となり、草場はのちに星図の研究家として世に出ることになります。」 (毎日新聞・高知版、2011年2月16日号)
★
さて、こういうふうに材料がそろってくると、草場の「ルンペン天文学者」像は、いよいよ鮮明になってきます。あとは草場のことを紹介した、当時の新聞記事を見つけ出せば万万歳。
しかし、その手がかりを求めて、さらにネット検索を続けているうちに、今度は次のような意外な記事を見つけました。
いるか書房は、天文古書の世界では有名なお店で、上の記事は、店主の上門卓弘氏が書かれたものです。
それによると、草場は「西星会(さいせいかい;関西を中心としたアマチュアの天文同好会)」の主要メンバーであり、フィルムメーカーの乳剤研究部に在職した経験をもとに、会誌に「写真化学」という記事を執筆していたと書かれています。
さらに、会誌上には、草場を指すとおぼしい「K氏」が、「星図や黄道光の研究に精進せられて、又優秀なる写真家でもあり」、「御勤務中の多忙にも拘らず、西星会を指導して下さって居」るという文章が載っていることも紹介されています。
先に、草下英明氏のコラムをご教示いただいた上村氏も、草場が写真関係の会社に勤務していたらしいと述べておられました。となると、「ルンペン天文学者」というのは、やっぱりガセで、草場はメーカー勤務の技術者だったのか?
たしかに、話としてはあまり面白くありませんが、その業績を見る限り、堅気の技術者と考えた方が、素直に理解できそうです。
うーむむむむ…
(この項、謎をはらみつつ続く)
貧窮スターゲイザー、草場修(1) ― 2012年04月09日 20時12分25秒
さて、1930年代の日本に、極貧のスターゲイザーがいたらしいという話題。
極貧の中で星空を眺めた人…というと、一時期の足穂氏もそうですが、ここで取り上げるのは、また別の人です。その名は、草場修(くさばおさむ)。
極貧の中で星空を眺めた人…というと、一時期の足穂氏もそうですが、ここで取り上げるのは、また別の人です。その名は、草場修(くさばおさむ)。
草場氏の名は、実は以前、下の記事にチラッと出てきました。
■ジョバンニが見た世界…天文掛図の話(その4)(その5)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/22/3536517
http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/23/3536640
これは、草場氏が原図を描き、神田茂博士が校訂した『新撰全天恒星図』(恒星社厚生閣)の紹介記事です(よく見たら、元記事では草場氏の姓を「草葉」と間違えていたので、訂正しておきました。また、初版出版年を「×昭和12年→○昭和21年」に訂正します)。
(『新撰全天恒星図』外袋)
そのときは、私自身、草場氏のことを何も知らずにいたのですが、最近、以下の記事に行き当たり、それを読んで仰天しました。それが今回の記事を書くきっかけともなったのです。(草場氏も故人と思われるので、以下敬称を略させていただきます。)
この記事によれば、草場はまったくのルンペンであり、橋の下や、土管の中から夜毎星を眺めながら星図を描いた…とあります。それがやがて東亜天文協会(現在の東亜天文学会)の創設者・山本一清の目にとまり、改めてその指導を受けた末に、彼の星図は公刊されることになったのだという話(※)。
事実とすれば、ものすごい話です。しかし、にわかには信じがたい気がしました。
私が真っ先に疑問に思ったのは、星図を作るには、まず星表を作らねばならないはずで、そこのところは一体どうしたのだろうか?ということです。つまり、星図というのは、上質の機材で厳密に星の位置を測定し、しかる後にそのデータを図面に落とすわけですから、土管の中からいくら熱心に星空を見上げたとて、それだけで星図を作れるはずがありません。これはひょっとしてガセネタでは?という疑念を捨てることができませんでした。
「ここはとにかくソースに当たることだ」と思い、ぶしつけながら、筆者の上村敏夫氏に直接教えを乞うことにしました。
(この項つづく。全6回で完結予定)
(※)「草場星図」の書誌情報について、以下のページにまとめました。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955
なお、神田茂校閲の『新撰全天恒星図』には、刊年記載がありませんが、国会図書館の目録では1946年発行となっています。また改めて星図をよくみたら、1946年の新星(かんむり座T)が記載されているので、やはりこれは国会図書館のデータが正しいのでしょう。
【4月12日付記】 草場星図の書誌を修正しました。
【4月21日付記】 草場星図の書誌を全面修正し、上記ページに掲載しました。
震えつつふりさけ見るや天の原…貧窮スターゲイザー伝(1) ― 2012年03月25日 21時17分55秒
今日も文学チックな話題から入ります。
『1984』で有名な作家、ジョージ・オーウェル(1903-1950)の若いころの作品に、『パリ・ロンドン放浪記』(1933)というルポルタージュものがあります。パリやロンドンの底辺社会を放浪しながら、自ら体験したことをまとめたもの(…と言っても、私は読んでいないので、これはネットで聞きかじったことの受け売りです)。
その中に、オーウェルが当時親しく付き合っていた「ボゾ」というあだ名の大道絵師が登場します。このボゾに関するエピソードを、私はA.チャップマン氏の『ビクトリア時代のアマチュア天文家』で読み、とても深い感銘を受けました。
■ □
ボゾはビクトリア時代も終わりに近い頃の生まれだが、彼はイートン校で教育を受けたオーウェルよりも天文学に詳しかった。何せ、その流星観測を是認する王室天文官からの手紙を2通も受け取っていたのだから。
テムズ河畔の凍てついたベンチで眠ろうとして、川向こうに惑星が輝いているのを見ると、彼はときどき火星や木星にも極貧の人間が住んでいるのだろうかと、じっと考え込んだ。
オーウェルはボゾのことを街頭の天文学教師とは決して呼ばなかったが、明らかにボゾは自分の知識を出し惜しみしなかったし、機会あるごとに大道絵の客に長広舌を振るおうとした。オーウェルは実際、極貧のボゾが大切に楽しんでいた強烈な知的生活にすっかり眩惑されていた。そして、芸術と天文学に関する彼の主張には、本章で述べた労働者階級の天文家たち全員がただちに共鳴したことだろう。つまり、たとえひどく貧乏だからといって「腑抜けた臆病者になるには及ばないよ。要は、それに捕われなけりゃいいのさ」。 (邦訳180-181頁/引用にあたり適宜改行)
□ ■
極貧生活の中でも、星を見上げ、豊かな内面生活を送ることはできる―。
そうした実例を知るにつけ、天文趣味というものは、まさに人間だけに与えられた喜びであり、福音であり、そして何だか只ならぬものだと思えてきます。
(オーウェルとボゾが出会ったころの大ニュース、冥王星の発見。戦前の東亜天文協会の絵葉書より)
★
さて、ボゾの逸話は実は前ふりで、日本にも当時ボゾのような人がいた…ということを書きたいのですが、今ちょっと書くのに難渋しているので、もう少し時間がかかります。
(この項つづく)
ゆったりとした天文趣味の話(7)…ハギンス夫妻・後編 ― 2012年01月17日 06時06分42秒
ハギンス夫妻のライフスタイルを眺めてみます。
下の写真はハギンス夫人、マーガレットの肖像。すでに人生の円熟期に入った頃だと思いますが、書斎の蔵書をバックに、涼やかな目元が印象的な、とてもチャーミングな女性です。
下の写真はハギンス夫人、マーガレットの肖像。すでに人生の円熟期に入った頃だと思いますが、書斎の蔵書をバックに、涼やかな目元が印象的な、とてもチャーミングな女性です。
(Margaret Huggins 1848-1916, Brück 前掲書より)
皆さんはこの写真を見て、どんな印象を持たれるでしょうか。
私はパッと見て、「白魔女」を連想しました。
「マーガレットその人は、とても面白くかつ愉快な人柄だった。彼女は強烈な個性の持ち主で、快活で断固としたところがあった。観測の邪魔にならぬよう、髪をショートにし、自分でデザインしたラファエル前派風の服をまとい、自分が描いた水彩画や木版画を家中に飾った。
彼女がアンティークの家具や美術品の購入・修繕をすれば、ウィリアムの方は古い天文機器の蒐集に励んだ。マーガレットは、「Nil nisi Caelesti Radio.(天空の光によらざれば何物もなし)」と刻まれた日時計が置かれた庭をせっせと手入れし、またピアノやオルガンを据え付けて、夫を口説いて、彼が若いころたしなんだヴァイオリンを再び手に取るように仕向けた。ふたりはいっしょに演奏し、友人や学者仲間とともに自宅で音楽の夕べを催した。」 (Brück 前掲書、p.169)
これだけ読むと、なんだかわがまま娘のようにも見えますが、マーガレットは別に享楽にうつつを抜かしていたわけではなく、夫のよき理解者・協力者として活躍し、この二人は「天文学の歴史において、最も成功したカップル」とも呼ばれます。そして、母親を失って長いこと気鬱に陥っていたウィリアムは、マーガレットとの結婚によって、大いに心が救われたのでした。
「有名なアメリカの望遠鏡製作者、ジョン・ブラッシャーは、茶事と天文台見学のためにタルスヒルを訪問した際、ハギンスが先着の別の天文関係者のことを、『天文学のことではなく、ヴァイオリンのことを話すために』やってきたと説明したことを書き留めている。
またハギンス夫妻が新婚まもない頃、妻とともに訪問したピアッジ・スミスは、この天文台付き住宅について、次のように書き残している。
『小さな家屋、狭い前庭と背後の広い庭。どの部屋も小さく、階段は低く狭いけれども、その全てが中世の調度に関する、途方もなく誇張された観念で満ちあふれていた。彗星を仰ぎ見るバイユー・タペストリーに登場する人物の群れを再現した、ドアの彩色ガラス。明るいプロミネンスを伴った太陽と固有のスペクトルを持った星雲たち。シダとシュロの温室は、狭いけれども実に見事だった』。
ステンドグラスのドアパネルは、おそらくマーガレットの示唆によって、ふたりが結婚後に嵌め込まれたものである。そのうち、ウィリアムの研究対象(太陽、彗星、スペクトル)を描いた1枚は、ウィリアム自身がデザインしたものだ。また2枚目は、バイユー・タペストリーの写しで、1066年の彗星(過去に出現したハレー彗星)を見上げるハロルド王を含む一群の人々が描かれている。3枚目にあたるステンドグラスの窓は、『天路歴程』から取った「キリスト者を称える輝けるもの」を描いており、ふたりの銀婚式を祝って1900年に付け加わった。
(参考画像: バイユー・タペストリーに描かれたハレー彗星。
出典:http://www.astronomynotes.com/solfluf/s7.htm)
出典:http://www.astronomynotes.com/solfluf/s7.htm)
天文台のドームへの通路は、家屋の中を通じていた。床にはカーペットが敷かれ、誘導コイル、分光器、その他の実験器具を備えた実験スペースがあった。住居と研究の場の間には、何の境界もなかった。犬たちでさえも、この天文天国の一部だった。大きな黄色のマスティフ犬はケプラーと名付けられ、ウィリアムは彼が足し算をできると主張した。もう1頭の黒い小型のテリアは、ティコという名だった。〔…〕
物質的なレベルに関していえば、この夫婦の嗜好は簡素であり、ほとんどスパルタ的とさえいえた。ウィリアム自身はもっぱら菜食で、薄い紅茶かミルクコーヒーよりも強いものは飲まなかった。それは彼自身が選んだ生活スタイルだった。マーガレットは自分たちの生活がシンプルなのは、『主に私たちの社会的地位が貧しいから、そう、とても貧しいからなのです』と、好んで主張したが、もちろんこれは誇張である。」 (Brück 前掲書、pp.169-170.)
お大尽のピアッジ・スミスは、ハギンス宅を評して「小さい、狭い」を連発していますが、ハギンス夫妻の生活はいわゆるアッパー・ミドルクラスのそれですから、確かにあふれるほどの富とは無縁だったでしょう。しかし、だからこそ、その住居は程良いスケールを持ち、自分たちの趣味を十二分に反映させることができたのだと思います。
ハギンス夫妻の場合、「ゆったりとした天文趣味」の「ゆったり感」は、博物趣味ではなく、主に芸術愛好癖や中世趣味に発しています。これもまた私の共感を大いに誘うところで、そこから更に、あるアメリカの奇怪な天文愛好家を連想するのですが、そのことはまた後日記事にしたいと思います。
いにしえの「驚異の部屋」には、珍奇な人工物や歴史的遺物も必須でしたから、その意味では、ここも立派な驚異の部屋。そこで営まれたなんとも心憎い生活!
残念なことに、現在のタルスヒルには、もはやハギンス旧居は残っていないそうです。
できることなら時をさかのぼり、ハギンス夫妻を訪ねて、その生活の様をつぶさに見てみたかったです。
ゆったりとした天文趣味の話(6)…ハギンス夫妻・前編 ― 2012年01月15日 22時50分22秒
(William Huggins(1824-1910)最晩年の写真。Wikipediaより)
今回は天文趣味どころか、超の付くぐらい一流の天文学者である、ウィリアム・ハギンス(1824-1910)と、その妻マーガレット(1848-1916)を取り上げます。
彼らを取り上げるわけは、その天文研究がいわば趣味の延長線上にあり、彼らのライフスタイル全体も、鷹揚な趣味的色彩を帯びていたからです。
以下にその様子を見ていきますが、今回もタネ本はブリュックの『Women in Early British and Irish Astronomy』です。
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ウィリアムは、服地を商う商家の一人息子として生まれ、「大富豪」とまではいきませんが、働かなくても十分食べていけるだけの資産を譲り受け、あとは悠々自適、心ゆくまで趣味の天文学にのめりこんで一生を送った人です(うらやましいですね)。
彼は正式な学校教育はほとんど受けたことがなく、もっぱら自宅で家庭教師について学びました。長ずるに及んで、当時はまだロンドンの郊外だったタルスヒル(Tulse Hill)に屋敷を構え、庭に個人天文台を建て、そこに口径20センチの屈折望遠鏡を据え付けると、本格的に天体観測に取り組み始めました。彼が30歳の頃のことです。(機材は後に45センチ反射と38センチ屈折にパワーアップ。)
(タルスヒルにあったハギンスの家と天文台。Brück前掲書より)
最初は漫然と惑星観測などをしていたのですが、1859年に突如開花した分光学と出会ったことで彼の人生は急転し、その分野の大家として、すぐに押しも押されもせぬ一流の天文学者となったのでした。恒星や星雲の組成を明らかにし、またスペクトルの偏移(ドップラー効果)に注目して、天体の視線速度の測定を試みたことは、その後の宇宙物理学の進展にとって、きわめて重要な意味があったことは周知の通りです。
マーガレットとの結婚は1876年。
51歳の花婿と27歳の花嫁という年の差カップルですが、結婚に向けて積極的だったのはマーガレットの方で、当時すでに熟練のアマチュア天文家だった彼女は、未来の夫の学問的業績を熱烈に崇拝しており、その尊敬の念がやがて愛情に転じたのだと言われます。(マーガレットを天文学に向かわせたきっかけこそ、少女時代にプレゼントされた、あのウォード夫人の『望遠鏡指南』だったとか。)
お堅いヴィクトリア時代後期の社会にあって、うらやましいほど伸びやかに生きた、このおしどり研究者の暮らしぶりと、マーガレットという魅力あふれる女性については、長くなるので次回にまわします。
(この項つづく)
ゆったりとした天文趣味の話(5)…P.H.ゴス・後編 ― 2012年01月09日 19時20分53秒
(前回のつづき)
このゴスの伝記は、息子のエドムンドの目を通して叙述されていますが、巻末にはゴスの妻(前妻をガンで失った後に迎えたイライザ)の手記が付録として収められています。同じような内容ですが、こちらも見てみます。
「この時期〔引用者註:晩年の数年間〕のこととして、夫が天体の研究に打ち込んだことを述べないわけにいきません。私たちは良い望遠鏡を持っていました。秋晴れの、星がいっぱいの晩には、それを使って主要な星座や二重星、それに星雲に関して、しっかり学ぶことができました。
この望遠鏡は、ある事故のせいで台無しになってしまいましたが、バザーの折に、ロチェスターの牧師さんから、もっと性能の良い望遠鏡を手に入れることができたので、それを使って私たちは、遠い遠い世界の素晴らしい光景を、さらに眺めることができるようになりました。このきわめて興味深い探究は1887年の終わりまで続きましたが、私にとって貴重な暮らしは、そこで幕を閉じたのです。
その年の冬の晩は冷え込んでいました。開け放った窓辺で熱心に立ったまま望遠鏡の調整をしていたせいで、夫は気管支炎の発作を起こし、1888年の初めには、深刻な病状になっていました。医者によって心臓の具合が悪いことも見つかり、それでも二人でちょっと散歩に出たり、ごく短い時間、田園まで馬車で出かけることはありましたが、夫の健康がすっかりだめになっていることが分かるのに、時間はかかりませんでした。」
夫婦で仲良く天体観測に励んだ様子が、何ともほほえましい。
ゴスは天文学に関しては完全に素人でしたから、上のこと(=夫婦で仲良く)は、当時の一般的なアマチュア天文ライフの一端を物語るものとも言えそうです。おそらく、この時期、天体観測は一般の女性も参画できる趣味として、徐々に認知されてきたのでしょう。
ゴスが天文趣味に目覚めた1862年というタイミングも興味深いです。
これはちょうどウォード夫人の『望遠鏡指南』(1859)が出て、好評を博していた時期にあたります。一般的に、この頃から天文趣味の裾野がぐんぐん広がり始めたので、ゴスもその波に乗った形です。かつての啓発家が反対に啓発されたわけで、当時の天文趣味の勢いを物語る話ではあります。
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「数限りない創造の驚異は、何の補助具もない肉眼では見えずとも、顕微鏡の助けを借りれば十分視野に入ってくる。その驚異へと至る小道を切り開くことこそ、本書の目的であり、その取り扱う内容である。
すべての目に見える事物において、神の力と智慧の顕現は偉大かつ華麗であるが、同様にこれらの栄光は、さらに予想もつかないほどの広がりを見せており、ただ光学機器製作者の技術がそれを明らかにするまでは、打ち捨てられ、見過ごされてきたのだと断じても差し支えあるまい。
まるで東洋の伝説に出てくる強力な魔神の所業のように、この真鍮の筒こそは、それまで見えなかった驚異と美に満ちた世界への錠を開ける鍵であり、それを一目見た者は、決してそれを忘れることはないし、感嘆の言葉が尽きることもないだろう。」
ゴスが、まだ天文趣味に目覚める前の1859年に著した『顕微鏡とともに過ごす夕べ Evenings at the Microscope』の序文の一節です(1896年のアメリカ版から訳出しました)。ゴス自身が、天体観測について何か本を書いた話は聞きませんが、上の文中の「顕微鏡」を「望遠鏡」に置きかえれば、彼が天文趣味に何を求めていたかは明らかです。
ゴスが使った機材や、その天文活動の詳細は不明ですが、「魔法の筒」を駆使して、博物学と天文学に熱狂した、もう1つの実例として、ここではゴスに注目してみました。
(↑過度に装飾的なヴィクトリア時代のプレパラート。
背景はゴスの『顕微鏡とともに過ごす夕べ』、1896)
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さて、ここまで書いてきて、ふと思ったのですが、天文趣味と他の興味関心―博物学でも、古物趣味でもいいですが―を両立させた人を挙げるとなると、賢治も、足穂も、抱影もそうですし、さらに言えば、アリストテレスも、ニュートンも、フックも、ハーシェルも…となって、話が終わらなくなります。
以下は、改めて話のポイントをしぼって、驚異の部屋への志向性と天文趣味が併存した例に内容を限定することにします。
ちなみに、古物の陳列室や「珍品のつまったキャビネット」を自慢したジョン・リーはその資格十分です。ウォード夫人やゴスの場合も、博物標本や採集・観察用具が山積した様は、きっと現代の目からすれば十分「驚異の部屋」的香気を放ったことでしょう。
次回は少し毛色の変わった例を見ることにします。
(このシリーズは少し間を開けてさらに続きます。なお、「ジョバンニが見た世界」も、画像の準備ができたら再開の予定です。)

















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