貧窮スターゲイザー始末…晩年の草場修2018年11月10日 15時57分31秒

ブログを放置して、早ふたつき、みつき。
自身が訪れることもまれになったある日、ふと管理画面に分け入ると、そこに驚くべきコメントが書き込まれているのに気づきました。これはぜひとも周知せねばなりませんので、遅ればせながら、一本記事をまとめることにします。

HN「放物線彗星」さんからお寄せいただいた、その驚くべき情報とは、かつて集中的に取り上げたこともある、草場修という数奇な天文家の事績に関わるものです。

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草場は1900年頃、大分県の生まれ。放浪の末流れ着いた大阪で、どぶさらいの日雇い人夫として暮らす中、独学で星図づくりを学び、その才を京大教授の山本一清に見出され、彼の推挙によって京大に職を得たという、一種のシンデレラボーイです。

(画像再掲。昭和9年(1934)当時の新聞に登場した、法被姿の草場)

貧窮にあえいだ日雇い人夫と天文学の取り合わせも奇抜だし、さらに草場には耳が聞こえないというハンデがあったので、当時のマスコミはこれを一種の「美談」として報じ、一時は世間の注目を大いに集めたのでした。

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ここで資料的な意味から、過去の草場記事の一覧をまとめておきます。
まず、私自身が草場という人物に惹きつけられ、その正体を追った一連の記事があります。


さらにその補遺として、草場が作った星図についてメモ書きしたのが以下です。

■「草場星図を紙碑にとどめん」
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955

そして、上記の一連の記事から3年後、コメント欄で「烏有嶺」さんに教えていただいた、雑誌のインタビュー記事(昭和10年「婦人之友」誌)を元に、草場の生い立ちを補足したのが、以下の続編です。


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しかし、ここまで追いかけても、草場は依然謎の多い人物で、特にその後半生については、これまでほとんど知られていませんでした。これまでに分かっていたのは、以下のような片々とした情報のみで、彼が戦後どのような暮らしを送ったのか、そしていつ亡くなったのか、皆目不明のままでした。

▼昭和12(1937)山本一清の失脚に伴い、草場も京大を退職。
▼昭和13(1938)東亜天文協会の瀬戸村観測所(広島県)に在籍。
▼昭和17(1942)京都市左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」を自営。
▼昭和18(1943)北海道日食観測に遠征。アマチュア天文クラブ「西星会」に所属。
▼昭和21(1946)神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を恒星社厚生閣から出版。

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しかし―。まことにネットの海は広大で、世間には慧眼の士がおいでになるもの哉。
冒頭の「放物線彗星」さんが挙げられた資料は、ある大学の紀要論文で、しかも意外なことに、それは天文学とは縁もゆかりもない、経済学部の教授が記した、ある女性経済人の評伝でした。

■上田みどり
 『Gender学からみる 江副碧 ―リクルート事件を乗り越えて(前編)―』
 広島経済大学研究論集 第38巻4号(2016年3月)pp11-29.

 http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/detail/1222720160419130110

その評伝の主人公とは、上のタイトルからもお分かりの通り、かつて「リクルート事件」で世間を騒がせたリクルート社会長・江副浩正氏の夫人で、自身も女性起業家として活躍した江副碧氏(1936- )です。

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 上田論文には「エピソード5」として、氏の小学生時代の思い出がこんな風に紹介されています(大元は氏が2005年に「Epic World」誌に寄稿した手記)。時代は、終戦後の1947年、場所は大阪茨木でのことです。

 「その広々とした畑の中、大きな旧家に建て増しをして住むことになったわけだが、庭師が大きな庭石を運んできたり、大工が茶室を作るのを碧は、何時間も飽きることなく見ていた。そんな頃、家の雑用をする男衆として、‘草場のおっちゃん’という人が来た。草場さんは、軍隊で体罰を受けて鼓膜が破れて耳がきこえなくなっていて、碧の家と会社に近いところに建てられた、会社のバラックに住んでいた。家や会社の片付けや雑用をこなし用務員のような役目だった。草場さんは、仕事を終えてから、毎晩バラックの前の草庭に床机を出して、空を見上げていた。手作りの望遠鏡で星を観察していた。」

 江副(旧姓西田)碧氏の父親は、富裕な工場経営者でしたが、戦後の草場は、縁あってそこで住み込みの男衆として働いていたというのです。一時の羽振りを考えると、いささか零落の感は否めませんが、戦後は多くの人が食べるために何でもやった時代ですし、法被姿こそ草場の本領だともいえます。

 「ある晩、碧が横に座ると、草場さんは嬉しそうに言った。「とうちゃん、お星さまをみてもええのか」「うん」とうなづくと、草場さんは星を指しながら星座の説明をし、望遠鏡を渡した。星が大きく見えた。
 草場さんは一生懸命に話してくれたが、碧にはそれを半分も理解できなかった。なぜなら、草場さんは耳が聞こえないので、言葉の発音や抑揚が、明快ではない。それでも、碧は少し分かるような気がして楽しんだ。」
〔…〕
 姉がある日、「草場さんは、星を発見した人やて。とてもえらい人なんよ」と教えてくれた。「そうやさかいに、おっちゃんはお星さまが大好きなんやねえ」と碧は答えた。」

 それにしても、草場の天文趣味は本当に純粋ですね。彼は世に出る手段として星を学んだのでもなければ、人に誇るためでもなく、自分を取り繕うためでもなく、本当に星を見ることが好きで、星を眺め続けた人であったことが、この一節からうかがえます。
 こうして、小さな星仲間を得て、貧しいながらも穏やかな生活が続くかと思えた、草場の戦後ですが、それも長くは続きませんでした。

 「一年位経った頃、草場さんの姿がみえなくなった。すると、「草場さんは具合が悪くて、高槻の老人病院ホームに先週入院したよ。みどりに一目会いたかったと気にしていたよ」とある日、父が話した。「どないしたーん!」と、碧は涙をぽろぽろ流しながら大声で叫んだ。
〔…〕
 それから一ヶ月位して、碧は父から草場さんの調子が悪いらしいと聞き、父が「リンゴを持って行ってあげなさい。そして、これを渡してあげなさい」と封筒を預かった。〔…〕
 草場さんはベッドの中で静かに目をつむっていた。私が汚れてくしゃくしゃになった顔で「おっちゃん!」と呼びかけると、目を開けて碧の顔を慈しむように見て、手で涙をぬぐった。「また,リンゴ持ってきた」と言って、リンゴ一つと父からの封筒を手に握らせたが、いつもと違って草場さんは、とても静かだった。その翌々日、草場さんは、亡くなった。」

 嗚呼、草場修ついに死す。
 戦後の草場の足取りが知れないのも道理で、彼は戦後まもなく世を去っていたのでした。前後の記述を読み比べると、草場が亡くなったのは、1948年のことのようです。
(なお、彼が没した「高槻の老人病院ホーム」というのは不明ですが、ひょっとしたら、吹田の「大阪市立弘済院」(=困窮者向けの医療保護施設)かもしれません。でも、茨木からだと、吹田と高槻は方角が反対です。)

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まこと、貧窮スターゲイザーの名にふさわしい晩年であり、その死です。
それでも、彼が完全なる孤独の内に亡くなったのではなく、むしろ周囲の人の記憶に長くその姿をとどめていたことに、改めて深く心が慰められる思いがします。

末筆ながら、貴重な情報をご教示いただいた「放物線彗星」さんに改めて御礼申し上げます。

(この項、6年越しで完結)

スターチャイルド(その2)2018年07月03日 06時53分03秒

「星と赤ちゃん」の取り合わせは意外にポピュラーで、赤ちゃんが夜空を彩る絵葉書は、ときどき目にします。


上はフランス国内で差し出されたもの。
1903年10月11日という日付と、「Bons ナントカ」と書かれています。ちょっと判然としませんが、これも子どもの誕生を伝える、めでたい葉書かもしれません。(裏面はアドレスのみ。ベルギー国境に近いスダンの町に住む、マダム・ガンツなる人物に宛てられています。)

(消印なし。1910年頃のフランスの絵葉書)

夜空ではありませんが、こちらは飛行機で飛来し、落下傘で降下する赤ちゃん。


真ん中の赤ちゃんは、堂々とキャベツに座っているし、キャプションも「赤ちゃんがお空から落ちてくる。さあ巣作りを」と急き立てているので、明らかに幼な子の誕生をテーマとしたもの。


それにしても、この黒々とした背景と、そこに居並ぶ子供たちを見ていると、私は単なるめでたさばかりでない、何か不穏なものをそこに感じてしまいます。

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乳児死亡率は、現代では限りなくゼロに近づいていますが、明治の頃は、30%を超えていました。つまり、生まれた赤ちゃんの3割以上が、1歳の誕生日を迎えることができなかったのです。さらに幼児期の死も含めれば、当然その数はもっと多くなります。現代では、アフリカの最貧国と呼ばれる国々でも、乳児死亡率は10%程度ですから、当時の日本の状況が、いかに過酷だったか分かります。

今の人は、死といえば老人の専売特許で、「子供の死」というと、何か突発的で異常な出来事と感じるかもしれません。でも、上のような次第で、昔の人にとって「子供の死」は非常にありふれたものでした(さらに言えば、若者の死も、壮年の死もありふれていました)。何せ「老人」と呼ばれる年齢まで生き伸びられる人はごく少数で、老人は「人生のエリート」でしたから、「老人の死」はいっそ貴重で、稀なものだったのです。

そして、「子供の死」がありふれていたからこそ、賽の河原の石積みの話が人々の心を強く揺さぶり、地蔵信仰も盛んだったわけです。

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ことは日本に限りません。20世紀初めのアメリカでも、1000件の出産(死産を除く)があれば、そのうち100人の赤ちゃんは1歳未満で亡くなっていました。都市によっては、死亡率が3割に及ぶこともあったそうです。(→ 参照ページ

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そういう背景の下に、昨日今日の絵葉書を置いて眺めると、そこに漂う一寸ヒヤッとする感じの正体も、よく分かる気がします。もちろん昔だって、赤ん坊の誕生はめでたいことに違いなかったでしょうが、そのめでたさの中には、常に危うい感じが伴っていました。

そう、赤ちゃんはいつだって星の世界に近い存在であり、星の海を越え、嬉々として地上に降り立つかと思えば、両親を残して星の世界にふっと旅立つことも、また頻々とあったのです。

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天文趣味とはあまり関係ないかもしれませんが、人々が星に寄せた思いの一側面として、「星と赤ちゃん」の関わりについて、少し考えてみました。
どうか、すべての子供たちに幸多からんことを。

(良き年を願い、星を振りまくキューピッド。アメリカの絵葉書、1915年)

(この項おわり)

アストロノミア(後編)2018年05月26日 13時19分48秒

ずっと欲しかった「アストロノミア」。
空に浮かぶ星のように、遠くから憧れることしかできなかった存在―。
それが今、こうして手元にあるのですから、こんなふうに顔を赤くして、いかにも自慢たらしく語るのも、世人これを許せ…といったところです。


アストロノミアは、ふつうのトランプと同じように、1スートが13枚、それが4スートの計52枚のカードから構成されています。各スート、すなわちトランプのクラブ、ハート…に相当するのは、春(青)・夏(赤)・秋(黄)・冬(白)。そして、各スートを構成する13枚には、全スートに共通する11枚と、スートごとに異なる、2枚のスペシャルカード(leading card)が含まれます。

(夏の木星と土星)

共通カードには、当時知られていた7つの惑星(水・金・地・火・木・土・天)と、

(秋のセレス)

セレス、パラス、ジュノー、ヴェスタの小惑星が当てられています。

(秋の彗星と星座)

また、スペシャルカードには、各季節の黄道十二星座と、月(春)、太陽(夏)、彗星〔1680年のキルヒ彗星〕(秋)、太陽系天体の軌道図(冬)が描かれています。

(冬の軌道図(中央))

果たして、これでどうやって遊んだのかは、ルールブックが手元にないので不明ですが、おそらく共通カードをそろえて「役」を作りながら、スペシャルカードで点数アップを狙ったり、あるいは他のプレイヤーから手札を巻き上げたりして遊んだんじゃないでしょうか。想像するだに雅です。

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残念ながら、手元のセットは、全52枚中46枚(6枚欠け)しかない不完全なものですが、その美しい仕上がりを堪能するには十分です。

(春の月。左側はカードの裏面。裏面は白紙になっています)

例えば、この月カードの繊細さはどうでしょう。
月の輝きと本体をとりまく光のローブが見事に版画で表現されています。

(冬の地球。欄外の「Tellus」は、ラテン語で「Earth」と同義)

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宇宙を美しく描こうとする試みは、もちろん18世紀以前にもありました。
例えば、華麗な星座絵を、これでもかというほどカラフルに彩色したり、グラフィカルな天球表現で見る者の目を楽しませたり…。

でも、星のかなたに広がる漆黒の闇の深さ、広大な宇宙が醸し出す静謐な詩情、あるいは宇宙を貫く望遠鏡のクリアな視界――こうした現代に通じる「天文趣味」が誕生したのは、やはり19世紀になってからだと思います。それは、観測技術の向上によって、新天体の発見が相次いだことや、恒星までの距離測定が可能となり、宇宙の大きさが実感されてきたことと無縁ではないでしょう。

この1830年頃作られたカードは、そうした新時代の宇宙美を端正に表現した、初期の名品と呼ぶにふさわしい品です。この延長線上に、あのエドウィン・ダンキンの傑作、『真夜中の空』も位置付けることができるように思います。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

「あれ?おかしいなあ。安倍さん、なんでまだ総理大臣やってるんだろう?」
「すぐにも辞めるはずだったのに、なんで?」
…と、狐につままれたような気分の方も多いんじゃないでしょうか。

事情通の人に「それこそが、すでに独裁の完成した証拠さ」と耳打ちされ、「あ、そうか」と今更ながら気づきました。比喩とか揶揄とかでなしに、正真正銘の独裁というのは、こういうことを言うのかと、得心がいきました。

まことに恐ろしいことです。
私の中では、どこかまだ「話せばわかる」的な思いもあったのですが、「問答無用!」とバッサリやられた無念さを覚えます。もう無茶無茶です。まあ、「独裁」イコール「無敵」ではないし、独裁が続いたためしはありませんから、私は今後もよこしまな相手には非を鳴らし続けます。

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ときに、上の文章を書くついでに、昭和の暗い時代を象徴する「五・一五事件」と、凶弾に散った首相・犬養毅のことをウィキペディアで読み返していました。

そこに出てくる「犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があった」…とか、「政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が『朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ』と語った」…とか、「宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまった」…とかの記述を読むと、毀誉褒貶はありながらも、犬養が非常にスケール感のある人物であったことは否めません。

振り返るに、今の宰相はどうか。何だかため息しか出ませんが、戦前回帰するなら、せめてこういう性根の部分で回帰してほしいなあと思います。それにしても、安倍さんの場合、仮にその場になっても「話せばわかる」とは、お義理にも口にできないでしょうね。

『ペーター坊や月への旅』(1)2018年05月09日 07時05分07秒

さらに連想しりとりは続きます。

前回紹介したドイツの愛らしい壁飾りは、童話のキャラクターがモチーフになっていると書きました。例えば、「星の少女」ならば、グリム童話の『星の銀貨』が元ネタです。

では、「月の坊や」はどうかといえば、こちらはゲルト・フォン・バッセヴィッツ(Gerdt von Bassewitz、1878-1923)が著した創作童話、『ペーター坊や月への旅(Peterchens Mondfahrt)』というお話が元になっています。最初は芝居として上演され(1912年初演)、本として出版されたのは1915年のことです。

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日本には宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という名作があって、題名だけなら誰でも知っているし、あのリリシズムは我が国の天文趣味の在り方にも、少なからず影響を及ぼしているように感じます。

では他の国ではどうか? あんな風に、不思議な星の世界へと人々をいざない、国民の共有財産といえるまでに広く親しまれている作品があるのだろうか?
…というのが、私の長年の疑問でしたが、少なくともドイツにおける『ペーター坊や月への旅』は、そう呼ばれる資格が十分あります。

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この作品で星の世界を旅するのは、ペーターとアンネリの兄妹です。

この本はたいそう売れたので、英訳本も出ています。昔は原題そのまま『Little Peter's Journey to the Moon』となっていましたが、お兄ちゃんだけ取り上げるのは差別的と思われたのか、最近出た版では、『Peter and Anneli's Journey to the Moon』と改題されています。

(Marianne H. Luedeking 訳、Bell Pond Books 刊、2007年。挿絵はHans Baluschek による原作初版のまま)

以下、この英訳本に基づいて、そのファンタジックな内容を見ていきます。

(この項つづく)

Where the Past meets the Present2017年10月01日 07時45分52秒

イギリスの天文史学会(SHA;Society for the History of Astronomy)というのは、会費を払えば誰でも入会できる気さくな学会で、私もその一員に加えてもらっています。
昨日、その会誌が届いたので、パラパラ見ていました。


主要記事は、1927年にイギリスで見られた、皆既日食騒動の顛末や、SHA会員有志による今春のパリ天文史跡探訪、およびフランス天文学会(SAF;Société Astronomique de France)との交流記などなど。

パリ天文台や、フランス自然史博物館、パリ近郊のカミーユ・フラマリオンの私設天文台など、(いずれも足を運んだことはありませんが)心情的には近しい場所が、イギリスの人の目を通して紹介されるのが、ちょっと不思議な感じでした。


それにしても、時代小説を読んでいると、頭がだんだん江戸時代モードになって、突如「この推参者!」とか叫ぶように、100年も200年も前の天文史の話題を追っていると、いつの間にか、今が2017年であることを忘れてしまいます。
 

そして、「SHA図書館だより」の記事を読めば、図書館が入居している「バーミンガム&ミッドランド協会(BMI)」の煤けた赤煉瓦の建物を思い起こして、何だか1880年代を生きる天文家のような気分が、自ずと湧いてくるわけです。

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でも、その気分も長くは続きません。やっぱり今は2010年代です。


「現在BMIはポケストップになっており、当館にもポケモンの姿をした仮想訪問者がお出でになります。写真は、最近お見えになった、ズバット、コラッタ、ホーホー、マリルの皆さん。」

そうか、ポケモンかあ…。
どうもSHA司書のキャロリン・ベッドウェルさんは、最近「ポケモンGo」にはまっていて、天文古書に囲まれながら、仕事の合間にポケモンを盛んにGetしている模様。

たとえ煤けた建物に19世紀の本が山積みになっていても、やっぱり時の流れを止めることはできず、あたりには人知れずポケモンが跳梁し、ネットがなければ一切の仕事が成立しない…我々はそんな時代を生きていることを、今さらながら見せつけられる思いです。

お伽の国の天文学者2017年08月27日 13時05分48秒

「お伽の国の天文学者」と聞くと、19世紀末に出た、ロリダン神父の『アストロノミー・ピットレスク』の表紙をすぐに思い出します。

(背景が自然主義)

この立派なフォリオサイズの本の表紙をかざる天文学者。


お伽チックな街の、お伽チックな塔から、星を眺める姿を描いていますが、もちろんすべては空想世界に属するイメージです。

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現代の我々は19世紀フランスと聞くと、何となくベルエポックなロマンを連想しますけれど、19世紀の人は19世紀の人で、「つまらない日常」を逃れるべく、よその時代に夢を託すことに必死で、その具体例がこの表紙絵なのだと思います。


19世紀末のフランス人にとって、アンシャン・レジームは既に遠い過去であり、ましてや中世ロマンの世界は、遠い遠い歴史の霧に包まれた世界です。
逆に、そういう遠い世界だからこそ、自由奔放な夢を託すことができたわけで、これは現代の日本人が、不思議な「戦国ロマン」を語るのとパラレルな話だと思います。

また、仮に中世の吟遊詩人の時代に遡ったところで、そこで語られるアーサー王の物語は、彼らよりさらに500年以上も昔のお話なのですから、結局どこまで行ってもきりのない、逃げ水のような話です。

現実逃避というのは、いつの世でも起こり得るものです。
このブログにしたって、その例に漏れません。むしろ、「現実以外の現実」を生み出せるところが、人間の特殊性でもあるのでしょう。


【おまけ】

(本書のタイトルページ)

この本は純然たる天文学入門書ですが、カトリックの聖アウグスチノ会と、カトリック系のデクレー=ド・ブルーヴェル出版が組んで発行したというのが、ちょっと変わっています。タイトルページには刊年の記載がありませんが、ネットでは1893年刊という情報を目にしました。

なお、この本は「ピットレスク(英語のピクチャレスク)」を謳っていますが、ビジュアル的には、ところどころ白黒の挿絵が載ってるだけなので、購入の際は一考あって然るべきだと、老婆心ながら付け加えたいと思います。(こういう「表紙倒れ」の天文古書はたくさんあります。)

テレスコープ氏2017年07月16日 17時02分47秒



今日もフランスの紙物です。
「18世紀後期の銅版画」と称して売られていた、何かの本の1ページらしい紙片(裏面は白紙)。


タイトルは、「Potier rôle de Télescope dans la Comète」とあって、フランス語を眺めても、Googleに英訳してもらっても、「彗星における望遠鏡のポティエの役割」という、何だかよく分からぬ意味にしかとれません。


オレンジに星模様の派手な服と、彗星柄のストッキング。
手には地球儀を持ち、ポケットに望遠鏡を入れた怪しげな人物。

「うーむ…これは18世紀のカリカチュアライズされた天文家の姿で、ひょっとしたら実在のポティエという天文学者を描いたものかもしれないぞ…」と、最初は思いました。
だとすれば、天文趣味史的になかなか興味深い品です。

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事の真相を解く手がかりは、フランス国立図書館のデータベースにありました。
そこには、これと全く同じ図が載っていて(http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6400501s)、それを足掛かりに調べていくと、この絵の正体が判明しました。

結論から言うと、これは一種の「役者絵」だったのです。

時は1811年10月、所はパリのヴァリエテ劇場(Théâtre des Variétés)。
そこで、『ラ・コメット(彗星)』という一幕物の寸劇が上演され、その中で「ムッシュ・テレスコープ」という役を、シャルル・ポティエ(Charles Potier、1774-1838)という役者が演じ、この絵はその舞台衣装を描いたものなのでした。

当初の推測は外れたものの、これがカリカチュアライズされた天文家の姿だ…というのは、まんざら間違いでもないでしょう。ただ、時代はちょっとずれていて、このいかにも18世紀っぽい装束は、19世紀初めのフランス人がイメージしたところの、幾分マンガチックな擬古的デザインの衣裳なのだと思います。


ムッシュ・テレスコープのセリフ回し。
意味はよく分かりませんが、「こりゃ大変!俺は大地をこの腕に抱き、大空を懐に入れちまったぞ!」とか何とか、おどけたことを言っているのでしょう。

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天文学者(あるいは占星術師)は、歴史の中でしばしば「おちょくり」の対象になりましたが、これも19世紀初頭における実例と言えそうです。

空の旅(13)…スパイグラス2017年05月02日 09時15分54秒

天文趣味というのは、抽象的に宇宙に憧れるばかりでなしに、多くの場合、自分自身の目で、宇宙の深淵を覗き込みたいという方向に、(たぶん)自ずと向かうものです。

…というか、私がイメージする天文趣味は「天体観測趣味」とニアイコールで、そうした「趣味の天体観測」という行為が成立したのが、たぶん1800年前後だろうと踏んでいます。(最初期の天体観測ガイドブックの登場が、19世紀の第1四半期であることが、その主たる根拠です。)

19世紀の100年間、時を追うごとに、天文趣味はポピュラーなものとなっていきました。そして、当時、本格的な天体望遠鏡に手の届かない人たちが頼ったのが、多段伸縮式のスパイグラス(遠眼鏡)や、手近なオペラグラスでした。(19世紀前半には、天体望遠鏡の量産体制自体なかったので、財力の多寡を問わず、そうせざるを得ない面もありました。)

それらは、天体観測用途のスペックこそ満たしていませんでしたが、月のクレーターや、木星の4大衛星の存在なんかは教えてくれたでしょうし、何よりも肉眼では見えない微かな星を見せてくれることで、人々の「星ごころ」を強く刺激したことでしょう。

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その辺のことを表現したくて、今回の展示では、スパイグラスとオペラグラスを並べました。


木製鏡筒の古い遠眼鏡。

「1800年頃にイギリスで作られた小型望遠鏡。「昼夜兼用(Day or Night)」をうたっていますが、あまり天体観測の役には立たなかったろうと思います。それでも、こうした小さな望遠鏡を空に向けて、熱心に「宇宙の秘密」を覗き込もうとした人も大勢いたことでしょう。」


真鍮の筒をぐっと伸ばして、空をふり仰げば


この小さなレンズを通して、広大な宇宙の神秘が、かすかにその尻尾をひらめかせた…かもしれません。少なくとも、この筒を手にした人は、そう信じたことでしょう。

(この項つづく。次回はオペラグラス)

星を見上げる夢のおうち2017年04月23日 11時16分20秒

「空の旅」の途中ですが、この辺で箸休めです。

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今日の朝刊を開いたら、紙面の隅にこんな広告が載っていました。


昨日から、愛知県の刈谷市美術館で始まった、「描かれた大正モダン・キッズ 婦人之友社 『子供之友』 原画展」の案内です。(会期は4月22日~6月4日。詳細はこちら
 
これまで東京や兵庫を回って来た巡回展で、6月以降は、山形県の天童市美術館が会場になるそうです。

で、この広告に目が留まったのは、そこに使われた村山知義(1901-1977)の表紙絵が、あまりにも印象的だったからです。

(上記刈谷市美術館のサイトより寸借)

チラシ掲載の画像だと、元はこんな色合いで、1924年(大正13年)という発表年を考えると、これはもうモダンの一語に尽きます。


震災の翌年、当時まだ20代前半の新進モダニスト・村山がイメージしたところの、「一人の少女の目を通して見た理想の家」の姿がこれです。

家の中には犬がいて、ネコがいて、人形芝居が演じられるかと思えば、みんなで楽器を演奏し、気が向けば油絵を描き、そして天窓から望遠鏡で星を眺める…

旧来の家族制度を脱した、友愛に基づく人のつながり。
芸術と科学が日常に溶け込んだ生活。

これぞ大正モダニズムに裏打ちされた理想主義で、付言すれば、そこにトルストイ的な土の匂いを混ぜ込んだのが、やはり大正末期に、宮沢賢治が羅須地人協会で目指したライフスタイルなのでしょう。

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この絵では、星を眺めることが、絵画や音楽と並立する活動としてイメージされており、当時は金色に光る望遠鏡が、キャンバスやギターやピアノと同様の色合いを持っていた…というのが、天文趣味史的には興味深い点です。

要は、天体望遠鏡はハイカルチャーの象徴であったわけですが、でも同時に、それは天体観測がホビーとして人々の間に根付きつつあったこと、そして天文学が象牙の塔や一部の富者の元から、市井の人々の手の届くところまでやってきたことを意味しています。

まあ、大正時代の日本の現実はともかく、イメージとしては確かにそうで、震災の前後から一般向け天文書の出版点数は急速に増え、このあと野尻抱影は「時の人」となっていきました。

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望遠鏡イメージのポピュラライズについては、「空の旅」の最後の方で、もう一度言及します。

日本のグランドアマチュア天文家(5)2017年03月16日 22時57分18秒

萑部氏自身のことは不明ですが、萑部氏が所有していた望遠鏡(あるいは反射鏡)については、前々回も引用したように、戦後、横浜で開催された博覧会に出品された…という情報があります。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤),6吋屈折(赤)などを持ち、〔…〕その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品)を持っており,これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」 (『正編』、p.319)

さらに『続編』には、

 「兵庫県の萑部進は26cm反射を1933年に購入した。架台は西村のドイツ式赤道儀で、後にリンスコットの46cm反射を輸入し換装、15cmのレイの屈折が同架された。この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」 (『続編』、p.282-3)

とも書かれています(筆者は冨田弘一郎氏)。

後者の記述によれば、萑部氏の「六甲星見台」のメイン機材は、木辺氏が手がけた例の26cm反射鏡から、元々手元にあった46cmリンスコット製反射鏡に置き換えられたというのですが、戦況の緊迫する時期にあって、それが出来たとは到底思えないので、これは「後に…輸入し」というのと併せて、誤伝でしょう。46cm鏡は、『正編』の記述のとおり、望遠鏡未満の単品の状態で手元に留め置かれたものと思います。

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その巨大な反射鏡が、戦後、横浜で開催された博覧会(正式名称は「日本貿易博覧会」。会期は、昭和24年(1949)3月15日~6月15日)に出品された…というのも、何だか茫洋とした話ですが、この件については、天文古書の販売で有名な「いるか書房」さんが、詳しく調べて記事にされています。

昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書

ここでも諸説紛々、関係者の証言は互いに矛盾・錯綜しているものの、それらを取捨して、ある程度蓋然性のあるストーリーを組み立てると、横浜の博覧会に展示されたのは、たしかに萑部氏の望遠鏡であり、その前後の事情は以下のように想像されます。

すなわち、

○萑部氏は戦後、自機一式(26cm反射望遠鏡、同架の15cm屈折望遠鏡、西村製架台、そして46cm反射鏡)を、すべて手放すことにした。
○ちょうど博覧会の準備を進めていた横浜市が、それを購入。
○横浜市は、五藤光学に望遠鏡のレストアを依頼。
○五藤光学は46cm用鏡筒を新たに製作し、26cm望遠鏡と換装。
○こうして、旧蔵者の萑部氏が待ち焦がれた46cm望遠鏡がついに完成した。

…という筋書きです。

これは、博覧会の絵葉書に写っている望遠鏡(いるか書房さんの上記ページ参照)と、木辺氏の記事に載っている望遠鏡の架台(ピラー)の形状がよく似ていると同時に、望遠鏡本体は明らかに大型化しているという、至極単純な理由に基づく想像なので、全然違っているかもしれませんが、でも、あり得ないことではないでしょう。

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この望遠鏡と、それを収めた「天文館」は、博覧会終了後も、そのまま公共天文台としてアマチュアにも開放されていたようですが、望遠鏡の方は後に横浜学園(上で引用した冨田氏は「横浜学院」と書いていますが、これは横浜学園が正しい由)に譲られ、今も同校にあるそうです。

上の推測が正しくて、戦前のグランドアマチュアの残り香が、かすかに浜風に乗って漂っているのだとしたら、ちょっと嬉しい気がします。


【付記】

いるか書房さんが引用されている諸々の記事の中には、横浜に伝わった望遠鏡を「英国トムキンス製」とするものがあります。また、萑部氏が輸入した鏡面は、同じ英国の「リンスコット製」だと伝えられます。このトムキンスにしろ、リンスコットにしろ、あまり聞き慣れないメーカーなので、以下にちょっと確認しておきます。

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まず、「英国トムキンス」というのは、誤伝ではないでしょうか。
いるか書房さんも言及されていますが、トムキンスというのは、戦前を代表する大型望遠鏡である、京大の生駒山天文台の60cm反射望遠鏡の製作者として知られ、「大型望遠鏡といえばトムキンス」というイメージから、どこかで話が混線したように思います。そもそもトムキンスはイギリスではなくアメリカの人です。

下の大阪朝日の記事は、「アメリカのアマチュア天文学徒トムキンス氏」と記しており、その伝は未詳ですが、専業メーカーではなく、当時アメリカで熱を帯びていたATM(Amateur Telescope Making)、すなわち熱心な鏡面自作マニアの一人でしょう。なお、この60cm望遠鏡は、1972年、生駒山太陽観測所の閉鎖とともに飛騨天文台に移され、今も現役です。

2017年4月8日付記: 生駒から飛騨に移設された60cm反射望遠鏡は、トムキンス望遠鏡とは別の望遠鏡であることを、コメント欄でご教示いただきました。ここに訂正しておきます。詳細はコメント欄をご覧ください。】

大阪朝日新聞 1940.5.17 (神戸大学 新聞記事文庫)

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一方、リンスコットというのは、イギリスの有名な鏡面製作者ウィズ(George Henry With、1827-1904)が引退して商売をたたんだ後、その用具一式を買い取って、鏡面製作に励んだ J. Linscott のことだと思います。ドーバー海峡沿いのラムズゲートの町で、鏡面作りを商売にしたリンスコットのことは、「Journal of the British Astronomical Association」に載った下記論文の巻末註9にチラッと出ています。

■Jeremy Shears: The controversial pen of Edwin Holmes.