フラマリオンの部屋を訪ねる(前編)2021年10月15日 05時38分53秒

国学者の平田篤胤(1776-1843)は、生前まみえることがなかった本居宣長(1730-1801)の学風を慕うあまり、夢の中で宣長に入門を許されたとして、「没後の門人」を称しました。

私はフラマリオンに深く傾倒しているわけでもなく、そもそもフランス語がからっきしなんですが、それでも彼が世に広めようとした望遠鏡を持ち、その本をながめ、さらには本の宣伝ポスターまで部屋に飾ってるぐらいですから、「没後の門人」とまでは言わずとも、彼のシンパを名乗る資格はあるでしょう。

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改めてフラマリオンという人についてですが、ウィキペディア【LINK】のコピペだと味気ないので、ここでは恒星社の『天文学人名辞典』から引いておきます(文中の〔※〕は引用者)。

(ウィキペディアより)

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フラマリオン Flammarion, Nicolas Camille(1842~1925)

 フランスの天文学者、商業をもいとなむ農家の四男として生まれたが、5歳と9歳のとき日食を観望し天文・気象観測をさかんに行っていたという。1856年パリに移転し、フラマリオンは彫金業者の徒弟として働きながら工業高校の夜間部に通い、代数、幾何、英語などを学んだ。当時彼を診察した医師の紹介でパリ天文台長ルヴェリエの知遇を得、1858年同天文台職員となった。1861年、最初の著書 La plirarité des mondes を出版、読みやすい文体で人気を得、その後 L’Astronomie を含む多くの著作を書き、天文学の普及につくした。1867~80年にかけ多くの気球実験を行い、また1877年〔〕名著 Astronomie Populaire を出版し、これは多くの国語に訳された。1878年、火星面の季節変化に注目、1909年 La Planète Mau〔※※〕を出版した。1887年フラマリオンはフランス天文協会を創立し、天文学の普及に貢献、ここから今世紀の多くの天文学者が輩出した。かれはまた数冊の科学小説をも書いている。

〕これは1879年が正しいと思いますが、初版の出版を1880年とする資料も多くて、有名な本のわりにちょっと書誌が混乱しています。
※※〕原文ママ。正しくはMars。
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この紹介文を読むと、若いころはなかなかの苦労人ですね。正式な天文学の教育を受けないまま、16歳で台長のルヴェリエに才を見出されて、パリ天文台の職員となった…というのも、なかなかすごいエピソードですが、このあたりはこのブログでは有名人の草場修氏【LINK】をちょっと連想します。

しかし草場氏とフラマリオンの、その後のライフコースはまったく違います。
貧窮のうちに亡くなった草場氏に対して、フラマリオンはお城のような天文台に住み、フランス天文協会の会長として、自らがひとつの権威となりました。また簡明素朴な草場氏とは違って、フラマリオンは火星や月における生命の存在にこだわって、ときにオカルト的な主張も辞さなかった、相当癖の強い人でもあります。そこがまた同時代人の熱い支持を集め、要は彼は時代のカリスマだったのでしょう。

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私も極東のシンパとして、そんなフラマリオン先生の御自宅をお訪ねしようと思ったんですが、ちょっと長くなったので、実際に訪ねるのは明日以降にします。

(この項つづく)

フラマリオンの巨大表紙絵2021年10月12日 05時49分13秒

今日は掛図のようで、掛図でない品。

(巻き癖が強くて、うまく写真に撮れませんでした)

見ての通り、“フランスの野尻抱影”、カミーユ・フラマリオン(Nicolas Camille Flammarion、1842-1925)が著した大ベストセラー、『アストロノミー・ポピュレール』(初版1879年)の表紙デザインを拡大したものです。

もちろん用途は掛図ではなくて、同書の宣伝用ポスターです。
サイズは145×98cmと、今の感覚からすると相当大きいですが、当時のポスターとしては標準の範囲内。


印刷はリトグラフ。あちこちに細かいかすれや色版のズレがあって、この場合それが「味」なのでしょう。保存目的のため、背後からキャンバス地による裏打ち補修がされています。


印刷所はミュシャのポスターも手掛けた、パリのシャンペノワ社(1874-1915)。


隅に「 Camard et Associés 」という小さなシールが貼られています。ここは21世紀のパリに短期間存在したマイナーなオークションハウスらしく、このポスターも以前そこの売り立てに登場したもののようです。

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宣伝メディアとして、ポスターの重要性が格段に大きい時代でしたから、ロートレックやミュシャのように、今に残る傑作ポスターの数々も生まれたのでしょうが、このフラマリオンの広告は、本の表紙を大きくしただけで、特段ひねりもないので、独創性という観点からは、あまり良い点数を付けられないでしょう。(それとも当時の本の広告というのは、みんなこんなものだったんでしょうか?)

でも、こういうポスターがパリの街のそこここに貼られ、人々の天文熱をあおり、フラマリオンが時代の寵児となった世相を想像すると、それだけで胸が熱くなりますし、天文趣味史的には大層興味深い品だと思います。

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『アストロノミー・ポピュレール』はベストセラーだっただけに、今でもたくさん古書が流通しており、さらには1980年に出た復刻版というのもあって(その後も刷りを重ねています)、この表紙絵を目にする機会は多いです。

(フランスのアマゾンを見たら、今も2002年に出た復刻版が売られていました)

その一方で、以前の持ち主が好みの装丁を施した本も多く、これは出版当初からハードカバーの版元装丁本と、未装丁の仮綴じ本(要はペーパーバックです)が並行して売られていたのだと推測します。

そして版元装丁にも、表紙絵の夜空の色の違いに応じて「黒版」と「青版」の2種類があって、装丁の種類もたいていは布装ですが、上製の革装を目にしたこともあります。こういうバリエーションの豊富さは、間違いなくフランスの書籍文化の豊かさを物語るものでしょう。

(手元の1冊は、1880年に出た版元布装の黒版です。透明カバーをかけたまま撮影)

上で「ひねりがない」と書きましたが、こういうポスターが存在すること自体、版元もこのデザインにはかなり自信を持っていて、ぜひこのデザインで手に取って欲しいと願ったのかな…と、そんなことも思いました。

日本のグランドアマチュア天文家(後日譚)2021年04月10日 09時37分59秒

「あれ?おかしいなあ。4月になったら余裕ができて、記事もバンバン書けるはずだったのに…」と首をかしげつつ思うに、確かに生業の方は若干余裕が生まれたものの、通勤時間が1時間余分にかかるようになって、時間的にはむしろ余裕が乏しくなったのでした。以前は文字通り「朝飯前」に記事を書いてましたが、今それをやろうと思うと、異様に早起きしなければなりません。でも、新しいリズムに慣れてくれば、その辺もまた変ってくるでしょう。

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さて、本題です。
最近、すこぶる嬉しいお便りをいただきました。

これまた過去記事に絡む話題ですが、以前、日本のアマチュア天文史の一ページを彩る存在として、萑部進・守子(ささべすすむ・もりこ)夫妻という、おしどり天文家が、戦前の神戸で活躍していたことを、5回にわたって紹介しました。


神戸は今でも素敵な町です。さらに戦前の神戸となれば、その不思議な多国籍性が、とびきりハイカラで、モダンで、お洒落な香りをまとって、さながら稲垣足穂の『一千一秒物語』のような世界であった…と、この目で見たわけではありませんが、そんなイメージがあります。

(昔の神戸の絵葉書)

そのモダン都市・神戸の一角、六甲の高台に、萑部夫妻は瀟洒な邸宅を構え、私設天文台に据え付けた巨大な望遠鏡で星を追い、海を眺め、音楽を楽しんだ…という、本当にそんな生活がありうるのかと思えるようなライフスタイルを、上の一連の記事でスケッチしました。

(萑部氏の山荘風邸宅と天文台。上記「日本の…天文家(1)」から再掲)

最近いただいた嬉しいお便りというのは、神戸大学の青木茂樹氏からのもので、氏がさまざまな探索手法を駆使した末に、萑部氏の邸宅跡を発見・特定されたこと、そしてお二人の戦後の動向についても情報を得て、それらをまとめて紀要論文にされたという内容でした。

青木茂樹(著) 「六甲星見臺」址を探して
 神戸大学大学院人間発達環境学研究科研究紀要
 Vol.14, No.2, pp.85-89
 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81012658.pdf

そう、萑部氏の私設天文台「六甲星見台」は、本の中だけの存在ではなく、確かに「実在」したのです。そうであるならば、萑部氏の営んだ美しい生活もまた実在し、そして憧れの夢幻都市・神戸も、やはりこの世に存在したのだ…と、あえて断言したいと思います。

内容の詳細は、青木氏の論文を参照していただくとして、特筆すべきは、萑部夫妻の写真をそこで拝見できたことです。

(青木氏上掲論文より)

いずれも戦後のポートレートですが、お二人とも理知的で人間的な豊かさに満ちた素敵な面差しです。この写真から20~30年前の若き日のご両人を想像し、その六甲での暮らしを思うと、やっぱり夢幻的だなあ…と思います。

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しかし―と繰り返しますが、お二人は確かに現実の人です。

お二人の体温を直接感じるのは、何よりもその愛機(望遠鏡)です。拙稿では、その後紆余曲折を経て、それが神奈川県の横浜学園に所有されていることまでは触れましたが、青木氏の論文によれば、望遠鏡はそこからさらに四国に渡り、現在は香川県の「天体望遠鏡博物館」で大切に保管されている由。(事の顛末を、同博物館の白川博樹氏が、雑誌「天界」2020年5月号に発表されています)。

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神戸は、そして世界は、今ウイルスの侵襲で大変なことになっています。
またコロナ禍とは別に、社会の在り様は、いささか無惨なものとなっています。

まあ冷静に振り返れば、無惨な社会の方が歴史的にはデフォルトなのかもしれませんが、かつて美しい町、美しい生活、美しい心根が存在したことも、また確かな事実です。そして、世界が人の心の投影であるならば、美しいものに対する憧れさえ失わなければ、夢幻世界は何度でもよみがえるに違いありません。

日本の星座早見盤史に関するメモ(6)…昭和50年頃の早見盤界2020年05月31日 10時26分47秒

渡辺教具の星座早見盤を素材として、一気に現在まで時を流れ下りましたが、話を過去に戻して、昭和50年ころの星座早見盤の顔ぶれを、同時代資料で確認しておきます。

当時の代表的な星座早見盤について、一覧表を2つ見つけました。
まずは、高城武夫(著)『天文教具』(恒星社厚生閣、昭和48年/1973)に掲載された表です。

(高城氏上掲書、p.127より)

表としては画像の方が見やすいですが、参考のため文字に起こして、同書掲載の写真を添えておきます。

【左から「品名」、「編作者(様式)」、「発行所」の順】
①新星座早見、 日本天文学会、 三省堂
②星座早見、 名古屋科学館、 名古屋星の会
③精密 恒星及惑星早見、 伊藤精二、 地人書館
④新星座早見盤、 (南北天両面式)、 恒星社
⑤星座早見、 (金属板準半球)、 渡辺教具製作所
(昨日の記事でいうと「第3期」に相当)
⑥星の観察、 (南北天両面式)、 大和科学教材研究所
⑦惑星運行早見、 (火星、木星、土星の位置計算器)、 島津理化器械製作所
⑧赤道星座案内、 (壁掛型、早見、木製)、 尾藤製作所

ここで注記しておくと、③の編者「伊藤精二」は、日本ハーシェル協会代表を務められた故・木村精二氏の旧姓。また、⑥の設計者は、本書の著者・高城氏自身です。
なお、⑦の「惑星運行早見」は、月の早見盤とともに、過去記事に登場したことがあります。


上の表では島津理化発行となっていますが、これはおそらく販売のみ島津が行ったもので、いずれも製造元は渡辺教具です(考案者は佐藤明達氏)。過去記事を読み返して気づきましたが、惑星早見盤の発売が1960年代前半、そして月早見盤が1950年代後半ですから、よりベーシックな教具である星座早見は、当然それに先立って販売されていたんではないかなあ…と、再度推測します。

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同様に、日本天文学会(編)『星図星表めぐり』(誠文堂新光社、昭和51年/1977)から、「市販されている星座早見」の表を挙げておきます。

(日本天文学会(編)上掲書、p.10より)

【左から「名称」、「発行所」、「直径」の順。太字は高城氏の表と重複する品】
①新星座早見(日本天文学会編)、 三省堂、 23cm
②ジュニア星座早見、 三省堂、 22cm
③新星座早見盤、 恒星社厚生閣、 15cm
④コル星座盤、 キング商会、 23cm
⑤ワタナベ星座早見盤、 渡辺教具製作所、 20cm
⑥ワタナベ式星座早見盤(教授用)、 渡辺教具製作所、 40cm
⑦星座早見(名古屋科学館)、 名古屋星の会、 30cm
⑧星の観察、 大和科学教材研究、 特殊

これら2つの表に名前の挙がっているのが、昭和の良き時代の代表的星座早見盤ということになるのでしょう。個人的郷愁から、この時期のものまでは収集してもいいかな…と思うのですが、この辺の品は、探してもなかなか見つからないです。

基本的に消えモノだし、今は単なる中古品扱いで、値段も二束三文なので、誰も売りに出そうと思わないのでしょう。でも、今後ヴィンテージやアンティークとしての付加価値が生じれば、全国の押し入れや物置から、いろいろ珍品が発掘されて、市場をにぎわす可能性もありそうです。

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一連の早見盤の中で異色なのは、公的機関である名古屋科学館(現在は「名古屋科学館」ですが、昔は「市立名古屋科学館」と言いました)が作ったもので、これはどんなものだったのか、ちょっと気になります。

(これはご当時モノではなくて、後年の紙製早見盤。名古屋市科学館・監修、名古屋市科学館振興協会・発行)

以下、余談に流れますが、「名古屋星の会」について、同館の天文ボランティアに関するページ【LINK】に以下のような説明がありました。

「名古屋市科学館には、市民観望会などの行事で望遠鏡の操作などを通じて天文事業をサポートする教育ボランティアの組織、天文指導者クラブ(AstronomicalLeader's Club)、ALCがあります。ALCはアルクと読みます。

ALCの前身のリーダー会は、1972年発足。市立名古屋科学館(当時)のなかよし大観望会(現、市民星まつり)や、星の会(当時)の小中学生を指導するリーダーとして、当時の大学生・大学院生が組織されました。その後、天文クラブ中学生クラスの研修会のリーダーなどを通じて、組織が充実・拡充して行きました。そして1986年、旧理工館屋上天文台が整備され、定例行事としての市民観望会や昼間の星をみる会などの天文行事が始まり活動の場が広がりました。翌1987年、名古屋市公認ボランティア団体ALCとなり、社会人のメンバーも受け入れるようになって現在に至っています。」

いにしえの天文ブームの頃、東京だと上野の国立科学博物館とか、渋谷の五島プラネタリウムとかを結節点に、アマチュア天文家のさまざまな活動が展開されましたが、名古屋では市立科学館がそれに相当するのでしょう。

そして、「星の会」とは、科学館を舞台に活動した小・中学生のグループで、大学生を中心とする「リーダー会」が彼らを指導していた…というのですが、往時を知る者として、これは実に羨ましい。私も天文趣味をしっかりした基礎から学び、同好の少年たちと心の火花を散らせることができていたら、その後の人生も、少し変わっていたでしょう。

ハレー彗星来たる(その2)2020年02月02日 11時18分29秒

17世紀は「科学革命の時代」と持ち上げられますが、その一方で魔女狩りもあり、ペスト禍もあり、地球規模で寒冷な時期だったせいで、人々は素寒貧だったし、ヨーロッパの王様は戦争ばかりやってたし、まるで中世の再来のように暗い面がありました。

ハレー彗星は17世紀に2回来ています。すなわち1607年と1682年です。
それが人々の心にどんなさざ波を立てたのか、詳らかには知りませんが、1607年の彗星は間違いなく超自然的な凶兆だったでしょうし、1682年のときだって、程度の差こそあれ、人々を不安にしたことは間違いありません。

それが1758年になると、さすがは啓蒙主義の時代、ハレー彗星も「単なる科学ニュース」になっていた…というのが、前回書いたことでした。

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さて、その次は1835年です。
この間に、ハレー彗星のイメージはどう変わったのか?

1835年も、ハレー彗星は立派な科学ニュースでした。その点はたぶん同じです。
でも、それだけではありません。

このとき、彗星は新たに「ファッション」になったのです。
言い換えると、ここにきて彗星はにわかに「カッコいいもの」になったのです。これこそが、19世紀の新潮流でした。

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ブローチのデザインの一種に、「彗星ブローチ」というのがあります。

ジュエリー関係の人は、しばしば1835年のハレー彗星こそ、そのきっかけになったと語ります(これは主にeBay業者の言い分ですが、ハレー彗星コレクターであるスチュアート・シュナイダー氏も、自身のサイト「ハレー彗星は1835年に、彗星を記念する新しいジュエリースタイルによって歓迎された」と書いているので、おそらくそうなのでしょう。)

手元にあるアメシストのブローチも、1835年当時のイギリス製と聞きました。


イギリスではヴィクトリア女王が即位(1837)をする直前で、「ヴィクトリアン様式」のひとつ前、「ジョージアン様式」に分類される古風な品です。

この形は、一見どっちが頭(コマ)で、どっちが尾っぽか分かりませんが、いろいろ見比べてみると、どうも大きい方が頭のようです。我々は、写真に納まった“長大な尾を引く彗星”のイメージに慣れすぎていますが、たいていの彗星は、尻尾よりも頭の方が明らかに目立ちますから、素直に造形すれば、確かにこうなるわけです。

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その後も彗星ブローチは作られ続けました。


特に意識して集めているわけではありませんが、しばしば目に付くものですから、小抽斗の中には、新古取り混ぜて彗星ブローチがいろいろたまっています。そのデザインは千差万別で、人間の想像力の豊かさを感じさせますが、これは実際に彗星の形が多様ということの反映でもあります。

天空を翔び、胸元を飾るそのフォルムに注目した「彗星誌(Cometography)」を、いつか書きたいと思っているので、彗星ブローチの件はしばらく寝かせておきます。

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話を元に戻して、19世紀に入って、彗星がなぜ「カッコいい」存在になったかですが、その理由はしごく単純で、19世紀の幕開けとともに、一般のホビーとして「天文趣味」が成立し、それがファッショナブルになったからじゃないかなあ…と思います。

市民社会の成立は、多くのホビーを生み出しましたが、その中でも科学的装備をこらして、遥か天界の奥を窺う天文趣味は、何となく高尚で「カッコいい」行為となり、暗夜にきらめく星空はロマンの尽きせぬ源泉となりました(その流れは今も続いていると思います)。

中でも変化と動きに富む彗星は、まさに夜空のヒーローであり、その天空ショーがまた新たな天文趣味人を生むという好循環によって、19世紀は天文趣味が大いに興起した100年となったのです。


(次の回帰は1910年、ハレー彗星はいよいよ時代の人気者となっていきます。この項つづく)

中世チックな天文趣味を考える2019年03月12日 21時41分05秒

昨日の記事を書いてから、しばし考えました。
昨日登場したような「中世チックな天文趣味」は、なぜ現代人の心を引き付けるのか?

(「History of Astronomy」の直近1年間のトップツイートより。画像出典は大英図書館。http://www.bl.uk/manuscripts/FullDisplay.aspx?ref=Harley_MS_937

単純に考えれば、その主因は「いわゆる中世ロマン」なのでしょう。
すなわち、騎士や、お姫様や、魔法使いが活躍する、RPG的な冒険譚に彩られた中世ロマンの香り―これは19世紀に流行した中世趣味の直系の子孫でもあります―が、退屈な日常からの逃避を与えてくれるからだ…というわけです。

しかし、「いわゆる中世ロマン」の内実は、なかなか複雑です。

例えば、星にまつわる中世ロマンといえば、天文学と占星術が混淆した時代の、妖しくもマジカルな匂いが肝でしょうが、この点はよくよく吟味が必要です。なぜなら、中世における占星術の流行は、むしろ中世という時代を否定するものであり、新時代への曙光に他ならないからです。ですから、それを「中世ロマン」の語でくくると、ちょっとおかしなことになります。

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ヨーロッパにおける「中世的世界」とは、「キリスト教的世界」とほぼ同義でしょう。
教科書風にいえば、中世はキリスト教という単一の世界観・価値観が世を覆った時代で、一方には封建諸侯を上回る絶対的な権力を誇る教会が、他方には抑圧された個人がいました。

しかし、中世後期になって、この強固な世界に徐々にひびが入ります。
そのひびの一つが占星術に他なりません。12星座にしても、神格化された惑星にしても、キリスト教の正当教義からすれば明らかに異教的要素であり、教会権威にとって不穏なものをはらんでいました。占星術の側からすれば、自らの学問体系は、観察と思索に裏打ちされた立派な経験科学であり、一途な宗教的信念を蒙昧視する傾向が無きにしも非ず。したがって、両者の間には常に緊張関係があったのです。(と言っても、当時の占星術研究者は、たいてい学僧であり、自ら教会に属していましたから、その緊張関係の在り様も単純ではありません。)

いずれにしても、いわゆる12世紀ルネサンスを迎えるころ、イスラム圏を経由して、古代のギリシャ・ローマの学問がヨーロッパ世界に流入し、本格的なルネサンスが開花する下準備が整いつつありました。もちろん占星術もギリシャ・ローマから吹き寄せる風の一つであり、各地に大学が生まれたのもこの時期です。

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「中世チックな天文趣味」が美しく、ロマンに富んでいるのは、宗教的圧力を撥ねのけるまでに、中世後期のヨーロッパ人の「星ごころ」が沸騰していたからではないでしょうか。そこには古さと同時に清新さがあり、それが我々の心を打つのだ…というのは、定説でも何でもない、個人的感想にすぎませんけれど、私なりにぼんやり考えたことです。

教条主義が幅を利かせた中世前期、そこでは「光輝く星空はすべて神様が作ったもので、そこに不思議な要素は何もない」とする静的世界観が優勢でした。しかし、占星術という新奇な学問は、そこに「星空には人間が探求すべき謎と不思議が満ちている」という動的世界観をもたらした…そんな風に言い換えることもできそうです。

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ここで、ひとつ連想することがあります。

18世紀、ニュートン力学が鮮やかに世界を席巻し、天体の運行はすべて万有引力によって説明がつくようになりました。果ては、「この宇宙に新たに探求すべきことはない」とまで言われるようになったのですが、同時にそれは天文学からワクワク感を奪い、それを退屈な学問にしてしまいました。

しかし、19世紀の「新天文学」、すなわち天体物理学の誕生は、星空を新たな不思議で満たし、天文学は再びワクワクする学問になったのです。

アナロジカルに考えれば、かつての占星術は、近代の天体物理学に等しい存在です。
19世紀の天文趣味に純な「星ごころ」が満ちているように、中世の占星術に純な「星ごころ」の発露を見る…というのは、一見奇説めいていますが、あながち無茶な説でもなかろうと、自分では思っています。

(「ヨーロッパ」とか、「中世」とか、妙に大きい主語を持ち出す話は、大抵ヨタか不正確と相場が決まっています。もちろんこの記事も例外ではありません。)

貧窮スターゲイザー始末…晩年の草場修2018年11月10日 15時57分31秒

ブログを放置して、早ふたつき、みつき。
自身が訪れることもまれになったある日、ふと管理画面に分け入ると、そこに驚くべきコメントが書き込まれているのに気づきました。これはぜひとも周知せねばなりませんので、遅ればせながら、一本記事をまとめることにします。

HN「放物線彗星」さんからお寄せいただいた、その驚くべき情報とは、かつて集中的に取り上げたこともある、草場修という数奇な天文家の事績に関わるものです。

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草場は1900年頃、大分県の生まれ。放浪の末流れ着いた大阪で、どぶさらいの日雇い人夫として暮らす中、独学で星図づくりを学び、その才を京大教授の山本一清に見出され、彼の推挙によって京大に職を得たという、一種のシンデレラボーイです。

(画像再掲。昭和9年(1934)当時の新聞に登場した、法被姿の草場)

貧窮にあえいだ日雇い人夫と天文学の取り合わせも奇抜だし、さらに草場には耳が聞こえないというハンデがあったので、当時のマスコミはこれを一種の「美談」として報じ、一時は世間の注目を大いに集めたのでした。

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ここで資料的な意味から、過去の草場記事の一覧をまとめておきます。
まず、私自身が草場という人物に惹きつけられ、その正体を追った一連の記事があります。


さらにその補遺として、草場が作った星図についてメモ書きしたのが以下です。

■「草場星図を紙碑にとどめん」
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/04/21/6420955

そして、上記の一連の記事から3年後、コメント欄で「烏有嶺」さんに教えていただいた、雑誌のインタビュー記事(昭和10年「婦人之友」誌)を元に、草場の生い立ちを補足したのが、以下の続編です。


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しかし、ここまで追いかけても、草場は依然謎の多い人物で、特にその後半生については、これまでほとんど知られていませんでした。これまでに分かっていたのは、以下のような片々とした情報のみで、彼が戦後どのような暮らしを送ったのか、そしていつ亡くなったのか、皆目不明のままでした。

▼昭和12(1937)山本一清の失脚に伴い、草場も京大を退職。
▼昭和13(1938)東亜天文協会の瀬戸村観測所(広島県)に在籍。
▼昭和17(1942)京都市左京区一乗寺で「草場写真化学研究所」を自営。
▼昭和18(1943)北海道日食観測に遠征。アマチュア天文クラブ「西星会」に所属。
▼昭和21(1946)神田茂の校閲で『新撰全天恒星図』を恒星社厚生閣から出版。

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しかし―。まことにネットの海は広大で、世間には慧眼の士がおいでになるもの哉。
冒頭の「放物線彗星」さんが挙げられた資料は、ある大学の紀要論文で、しかも意外なことに、それは天文学とは縁もゆかりもない、経済学部の教授が記した、ある女性経済人の評伝でした。

■上田みどり
 『Gender学からみる 江副碧 ―リクルート事件を乗り越えて(前編)―』
 広島経済大学研究論集 第38巻4号(2016年3月)pp11-29.

 http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hue/detail/1222720160419130110

その評伝の主人公とは、上のタイトルからもお分かりの通り、かつて「リクルート事件」で世間を騒がせたリクルート社会長・江副浩正氏の夫人で、自身も女性起業家として活躍した江副碧氏(1936- )です。

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 上田論文には「エピソード5」として、氏の小学生時代の思い出がこんな風に紹介されています(大元は氏が2005年に「Epic World」誌に寄稿した手記)。時代は、終戦後の1947年、場所は大阪茨木でのことです。

 「その広々とした畑の中、大きな旧家に建て増しをして住むことになったわけだが、庭師が大きな庭石を運んできたり、大工が茶室を作るのを碧は、何時間も飽きることなく見ていた。そんな頃、家の雑用をする男衆として、‘草場のおっちゃん’という人が来た。草場さんは、軍隊で体罰を受けて鼓膜が破れて耳がきこえなくなっていて、碧の家と会社に近いところに建てられた、会社のバラックに住んでいた。家や会社の片付けや雑用をこなし用務員のような役目だった。草場さんは、仕事を終えてから、毎晩バラックの前の草庭に床机を出して、空を見上げていた。手作りの望遠鏡で星を観察していた。」

 江副(旧姓西田)碧氏の父親は、富裕な工場経営者でしたが、戦後の草場は、縁あってそこで住み込みの男衆として働いていたというのです。一時の羽振りを考えると、いささか零落の感は否めませんが、戦後は多くの人が食べるために何でもやった時代ですし、法被姿こそ草場の本領だともいえます。

 「ある晩、碧が横に座ると、草場さんは嬉しそうに言った。「とうちゃん、お星さまをみてもええのか」「うん」とうなづくと、草場さんは星を指しながら星座の説明をし、望遠鏡を渡した。星が大きく見えた。
 草場さんは一生懸命に話してくれたが、碧にはそれを半分も理解できなかった。なぜなら、草場さんは耳が聞こえないので、言葉の発音や抑揚が、明快ではない。それでも、碧は少し分かるような気がして楽しんだ。」
〔…〕
 姉がある日、「草場さんは、星を発見した人やて。とてもえらい人なんよ」と教えてくれた。「そうやさかいに、おっちゃんはお星さまが大好きなんやねえ」と碧は答えた。」

 それにしても、草場の天文趣味は本当に純粋ですね。彼は世に出る手段として星を学んだのでもなければ、人に誇るためでもなく、自分を取り繕うためでもなく、本当に星を見ることが好きで、星を眺め続けた人であったことが、この一節からうかがえます。
 こうして、小さな星仲間を得て、貧しいながらも穏やかな生活が続くかと思えた、草場の戦後ですが、それも長くは続きませんでした。

 「一年位経った頃、草場さんの姿がみえなくなった。すると、「草場さんは具合が悪くて、高槻の老人病院ホームに先週入院したよ。みどりに一目会いたかったと気にしていたよ」とある日、父が話した。「どないしたーん!」と、碧は涙をぽろぽろ流しながら大声で叫んだ。
〔…〕
 それから一ヶ月位して、碧は父から草場さんの調子が悪いらしいと聞き、父が「リンゴを持って行ってあげなさい。そして、これを渡してあげなさい」と封筒を預かった。〔…〕
 草場さんはベッドの中で静かに目をつむっていた。私が汚れてくしゃくしゃになった顔で「おっちゃん!」と呼びかけると、目を開けて碧の顔を慈しむように見て、手で涙をぬぐった。「また,リンゴ持ってきた」と言って、リンゴ一つと父からの封筒を手に握らせたが、いつもと違って草場さんは、とても静かだった。その翌々日、草場さんは、亡くなった。」

 嗚呼、草場修ついに死す。
 戦後の草場の足取りが知れないのも道理で、彼は戦後まもなく世を去っていたのでした。前後の記述を読み比べると、草場が亡くなったのは、1948年のことのようです。
(なお、彼が没した「高槻の老人病院ホーム」というのは不明ですが、ひょっとしたら、吹田の「大阪市立弘済院」(=困窮者向けの医療保護施設)かもしれません。でも、茨木からだと、吹田と高槻は方角が反対です。)

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まこと、貧窮スターゲイザーの名にふさわしい晩年であり、その死です。
それでも、彼が完全なる孤独の内に亡くなったのではなく、むしろ周囲の人の記憶に長くその姿をとどめていたことに、改めて深く心が慰められる思いがします。

末筆ながら、貴重な情報をご教示いただいた「放物線彗星」さんに改めて御礼申し上げます。

(この項、6年越しで完結)

スターチャイルド(その2)2018年07月03日 06時53分03秒

「星と赤ちゃん」の取り合わせは意外にポピュラーで、赤ちゃんが夜空を彩る絵葉書は、ときどき目にします。


上はフランス国内で差し出されたもの。
1903年10月11日という日付と、「Bons ナントカ」と書かれています。ちょっと判然としませんが、これも子どもの誕生を伝える、めでたい葉書かもしれません。(裏面はアドレスのみ。ベルギー国境に近いスダンの町に住む、マダム・ガンツなる人物に宛てられています。)

(消印なし。1910年頃のフランスの絵葉書)

夜空ではありませんが、こちらは飛行機で飛来し、落下傘で降下する赤ちゃん。


真ん中の赤ちゃんは、堂々とキャベツに座っているし、キャプションも「赤ちゃんがお空から落ちてくる。さあ巣作りを」と急き立てているので、明らかに幼な子の誕生をテーマとしたもの。


それにしても、この黒々とした背景と、そこに居並ぶ子供たちを見ていると、私は単なるめでたさばかりでない、何か不穏なものをそこに感じてしまいます。

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乳児死亡率は、現代では限りなくゼロに近づいていますが、明治の頃は、30%を超えていました。つまり、生まれた赤ちゃんの3割以上が、1歳の誕生日を迎えることができなかったのです。さらに幼児期の死も含めれば、当然その数はもっと多くなります。現代では、アフリカの最貧国と呼ばれる国々でも、乳児死亡率は10%程度ですから、当時の日本の状況が、いかに過酷だったか分かります。

今の人は、死といえば老人の専売特許で、「子供の死」というと、何か突発的で異常な出来事と感じるかもしれません。でも、上のような次第で、昔の人にとって「子供の死」は非常にありふれたものでした(さらに言えば、若者の死も、壮年の死もありふれていました)。何せ「老人」と呼ばれる年齢まで生き伸びられる人はごく少数で、老人は「人生のエリート」でしたから、「老人の死」はいっそ貴重で、稀なものだったのです。

そして、「子供の死」がありふれていたからこそ、賽の河原の石積みの話が人々の心を強く揺さぶり、地蔵信仰も盛んだったわけです。

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ことは日本に限りません。20世紀初めのアメリカでも、1000件の出産(死産を除く)があれば、そのうち100人の赤ちゃんは1歳未満で亡くなっていました。都市によっては、死亡率が3割に及ぶこともあったそうです。(→ 参照ページ

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そういう背景の下に、昨日今日の絵葉書を置いて眺めると、そこに漂う一寸ヒヤッとする感じの正体も、よく分かる気がします。もちろん昔だって、赤ん坊の誕生はめでたいことに違いなかったでしょうが、そのめでたさの中には、常に危うい感じが伴っていました。

そう、赤ちゃんはいつだって星の世界に近い存在であり、星の海を越え、嬉々として地上に降り立つかと思えば、両親を残して星の世界にふっと旅立つことも、また頻々とあったのです。

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天文趣味とはあまり関係ないかもしれませんが、人々が星に寄せた思いの一側面として、「星と赤ちゃん」の関わりについて、少し考えてみました。
どうか、すべての子供たちに幸多からんことを。

(良き年を願い、星を振りまくキューピッド。アメリカの絵葉書、1915年)

(この項おわり)

アストロノミア(後編)2018年05月26日 13時19分48秒

ずっと欲しかった「アストロノミア」。
空に浮かぶ星のように、遠くから憧れることしかできなかった存在―。
それが今、こうして手元にあるのですから、こんなふうに顔を赤くして、いかにも自慢たらしく語るのも、世人これを許せ…といったところです。


アストロノミアは、ふつうのトランプと同じように、1スートが13枚、それが4スートの計52枚のカードから構成されています。各スート、すなわちトランプのクラブ、ハート…に相当するのは、春(青)・夏(赤)・秋(黄)・冬(白)。そして、各スートを構成する13枚には、全スートに共通する11枚と、スートごとに異なる、2枚のスペシャルカード(leading card)が含まれます。

(夏の木星と土星)

共通カードには、当時知られていた7つの惑星(水・金・地・火・木・土・天)と、

(秋のセレス)

セレス、パラス、ジュノー、ヴェスタの小惑星が当てられています。

(秋の彗星と星座)

また、スペシャルカードには、各季節の黄道十二星座と、月(春)、太陽(夏)、彗星〔1680年のキルヒ彗星〕(秋)、太陽系天体の軌道図(冬)が描かれています。

(冬の軌道図(中央))

果たして、これでどうやって遊んだのかは、ルールブックが手元にないので不明ですが、おそらく共通カードをそろえて「役」を作りながら、スペシャルカードで点数アップを狙ったり、あるいは他のプレイヤーから手札を巻き上げたりして遊んだんじゃないでしょうか。想像するだに雅です。

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残念ながら、手元のセットは、全52枚中46枚(6枚欠け)しかない不完全なものですが、その美しい仕上がりを堪能するには十分です。

(春の月。左側はカードの裏面。裏面は白紙になっています)

例えば、この月カードの繊細さはどうでしょう。
月の輝きと本体をとりまく光のローブが見事に版画で表現されています。

(冬の地球。欄外の「Tellus」は、ラテン語で「Earth」と同義)

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宇宙を美しく描こうとする試みは、もちろん18世紀以前にもありました。
例えば、華麗な星座絵を、これでもかというほどカラフルに彩色したり、グラフィカルな天球表現で見る者の目を楽しませたり…。

でも、星のかなたに広がる漆黒の闇の深さ、広大な宇宙が醸し出す静謐な詩情、あるいは宇宙を貫く望遠鏡のクリアな視界――こうした現代に通じる「天文趣味」が誕生したのは、やはり19世紀になってからだと思います。それは、観測技術の向上によって、新天体の発見が相次いだことや、恒星までの距離測定が可能となり、宇宙の大きさが実感されてきたことと無縁ではないでしょう。

この1830年頃作られたカードは、そうした新時代の宇宙美を端正に表現した、初期の名品と呼ぶにふさわしい品です。この延長線上に、あのエドウィン・ダンキンの傑作、『真夜中の空』も位置付けることができるように思います。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

「あれ?おかしいなあ。安倍さん、なんでまだ総理大臣やってるんだろう?」
「すぐにも辞めるはずだったのに、なんで?」
…と、狐につままれたような気分の方も多いんじゃないでしょうか。

事情通の人に「それこそが、すでに独裁の完成した証拠さ」と耳打ちされ、「あ、そうか」と今更ながら気づきました。比喩とか揶揄とかでなしに、正真正銘の独裁というのは、こういうことを言うのかと、得心がいきました。

まことに恐ろしいことです。
私の中では、どこかまだ「話せばわかる」的な思いもあったのですが、「問答無用!」とバッサリやられた無念さを覚えます。もう無茶無茶です。まあ、「独裁」イコール「無敵」ではないし、独裁が続いたためしはありませんから、私は今後もよこしまな相手には非を鳴らし続けます。

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ときに、上の文章を書くついでに、昭和の暗い時代を象徴する「五・一五事件」と、凶弾に散った首相・犬養毅のことをウィキペディアで読み返していました。

そこに出てくる「犬養の演説は理路整然としていて無駄がなく、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があった」…とか、「政界で隠然たる影響力を誇っていた山縣有朋が『朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ』と語った」…とか、「宮崎滔天ら革命派の大陸浪人を援助し、宮崎に頼まれて中国から亡命してきた孫文や蒋介石、インドから亡命してきたラス・ビハリ・ボースらをかくまった」…とかの記述を読むと、毀誉褒貶はありながらも、犬養が非常にスケール感のある人物であったことは否めません。

振り返るに、今の宰相はどうか。何だかため息しか出ませんが、戦前回帰するなら、せめてこういう性根の部分で回帰してほしいなあと思います。それにしても、安倍さんの場合、仮にその場になっても「話せばわかる」とは、お義理にも口にできないでしょうね。

『ペーター坊や月への旅』(1)2018年05月09日 07時05分07秒

さらに連想しりとりは続きます。

前回紹介したドイツの愛らしい壁飾りは、童話のキャラクターがモチーフになっていると書きました。例えば、「星の少女」ならば、グリム童話の『星の銀貨』が元ネタです。

では、「月の坊や」はどうかといえば、こちらはゲルト・フォン・バッセヴィッツ(Gerdt von Bassewitz、1878-1923)が著した創作童話、『ペーター坊や月への旅(Peterchens Mondfahrt)』というお話が元になっています。最初は芝居として上演され(1912年初演)、本として出版されたのは1915年のことです。

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日本には宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』という名作があって、題名だけなら誰でも知っているし、あのリリシズムは我が国の天文趣味の在り方にも、少なからず影響を及ぼしているように感じます。

では他の国ではどうか? あんな風に、不思議な星の世界へと人々をいざない、国民の共有財産といえるまでに広く親しまれている作品があるのだろうか?
…というのが、私の長年の疑問でしたが、少なくともドイツにおける『ペーター坊や月への旅』は、そう呼ばれる資格が十分あります。

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この作品で星の世界を旅するのは、ペーターとアンネリの兄妹です。

この本はたいそう売れたので、英訳本も出ています。昔は原題そのまま『Little Peter's Journey to the Moon』となっていましたが、お兄ちゃんだけ取り上げるのは差別的と思われたのか、最近出た版では、『Peter and Anneli's Journey to the Moon』と改題されています。

(Marianne H. Luedeking 訳、Bell Pond Books 刊、2007年。挿絵はHans Baluschek による原作初版のまま)

以下、この英訳本に基づいて、そのファンタジックな内容を見ていきます。

(この項つづく)