100年前のプラネタリウム熱2024年02月10日 17時36分49秒

プラネタリウムの話題で記事を続けます。
プラネタリウムの歴史の初期に、ツァイス社が作成した横長の冊子があります。


発行年の記載がありませんが、おそらく1928年ごろに自社のプラネタリウムを宣伝する目的で作られたもののようです。

(タイトルページ)

  ☆ ツァイス・プラネタリウム ☆
― 星空観望: テクノロジーの驚異 ―


「目次」を見ると、

○なぜツァイスプラネタリウムが必要なのか?
○天文学者はツァイスプラネタリウムについてどう述べているか?
○ツァイスプラネタリウムの構造
○ツァイスプラネタリウムはどのように操作するか?
○演目
○プラネタリウムの建物は他の目的にも使える

…と並んでいて、「プラネタリウムの建物は他の目的にも使える」のページでは、“プラネタリウムのドームは、映画の上映会や音楽演奏会にも使えるんです!”と怠りなくアピールしており、ツァイス社が販売促進に鋭意努めていたことが窺えます。

こうしたプラネタリウムの概説に続いて、冊子は各地に続々と誕生しつつあったプラネタリウムを紹介しており、ボリューム的にはむしろこちらの方がメインになっている感があります。

(バルメン)

(ハノーファー)

(ドレスデン)

いずれもまことに堂々たる建物です。
試みにここに登場する各プラネタリウムの開設年を、ネット情報に基づき挙げてみます。

▼Barmen  1926
▼Berlin  1926
▼Dresden  1926
▼Düsseldorf  1926
▼Hannover  1928
▼Jena  1926
▼Leipzig  1926
▼Mannheim  1927
▼Nürnberg  1927
▼Wien  1927

既述のように、ミュンヘンのドイツ博物館で世界初のプラネタリウムが商業デビューしたのは、1925年5月のことです。その直後からドイツ各地で、雨後の筍のようにプラネタリウムのオープンが続いたわけです。

まだ生まれたての、それこそ海のものとも山のものとも知れない新技術に、なぜ当時の人々は間髪入れず――しかも巨額の費用をかけて――呼応したのか?各地のプラネタリウムを作ったのはどんな人たちで、どこからそのお金が出ていたのか?いったい、当時何が起こっていたのか?

   ★

ネット情報を一瞥すると、たとえばライプツィヒ・プラネタリウムの場合は、時のライプツィヒ市長のカール・ローテが、ミュンヘンでプラネタリウムの試演を見て大興奮の末に地元に帰り、市議会に諮って即座に建設が決まったのだそうです。

(ライプツィヒ)

ライプツィヒに限らず、当時のプラネタリウムはほとんど公設です。
もちろん議会もその建設を熱烈に支持したわけです。ドイツのように都市対抗意識の強い国柄だと、一か所が手を挙げれば、我も我もとなりがちだったということもあるでしょう。それこそ「わが町の威信にかけて…」という気分だったのかもしれません。

それらは博覧会の跡地に(ドレスデン)、あるいは新たな博覧会の呼び物として(デュッセルドルフ)、動物園に併設して(ベルリン)建設され、人々が群れ集う場として企図されました。

(ベルリン)

プラネタリウムに興奮したのは、もちろん市長さんばかりではありません。ベルリン・プラネタリウムの場合は、初年度の観覧者が42万人にも達したそうです(これは日本一観覧者の多い名古屋市科学館プラネタリウムの年間40万人を上回ります)。

(デュッセルドルフ)

このデュッセルドルフの写真も興味深いです。
当時の客層はほとんど成人客で、子供連れで行く雰囲気ではなかったようです。これはアメリカのプラネタリウム草創期もそうでしたが、当時のプラネタリウムは大衆教育の場であり、それ以上に大人の社交場だったのでしょう。

(大人のムードを漂わせるデュッセルドルフのプラネタリウム内部)

「もう見ましたか?」 「もちろん!」
「今月のプログラムはすごかったですね」 「いや、まったく」

プラネタリウムなしでは夜も日も明けない―。
さすがにそれほどではなかったかもしれませんが、当時のプラネタリウム熱というものは、我々の想像をはるかに超えるものがあった気がします。

それはツァイス社という一企業の努力に還元できるものではなく、当時の科学がまとっていたオーラの力のゆえであり、その力があったればこそ、市長さんも市議さんも一般市民も、もろ手を挙げてプラネタリウムを歓迎したのでしょう。

竜と天文学と絵本のはなし2024年01月21日 14時19分12秒

今日は地雨が静かに降り続いていて、心を落ち着けるには良い日です。
熱いコーヒーを淹れ、本棚から肩のこらない本を持ってきて、ときおり窓越しに灰色の空を見上げながら目の前の活字を追う…というのは、本当にぜいたくな時間の使い方で、人間やっぱりこういう場面が必要だなあと思います。

   ★

毎年、年の初めには干支にちなんだ話題を書くことが多いですが、今年は地震ですべて吹き飛んでしまいました。でも、今読んでいる絵本にひどく立派な竜が出てきたので、載せておきます。


これは西洋のドラゴンではなくて、本物の竜で、冒頭の天文学の歴史を説く章に登場します。中国の伝説的王朝「夏」の第4代皇帝・中康の治世に、お抱え天文学者が日食予報をさぼったために誅殺された…というエピソードに続けて、当時の人々は竜が太陽を食べてしまうため日食が生じると考えたこと、そのため日食になると、大声を上げて銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、竜を必死で追っぱらったことが紹介されています。

これは古人を嗤うための滑稽なエピソードとして紹介されているわけではありません。古代にあっては天文学が公共の知ではなく。魔術師や為政者の独占物だったこと、そして日食の予報とそのメカニズムの解明は、まったく別次元の問題であることを作者は言いたいのです。…というわけで、これはかなりまじめな本です。

(オーラリーの表紙がカッコいい)

■Roy A. Gallant(文)、Lowell Hess(絵)
 Exploring the Universe.
 Garden City Books(NY)、1956.62p.

作者のギャラントは画家のヘスとコンビを組んで、これ以外にも当時「Exploring」シリーズというのをたくさん出して好評を博しました。これもその1冊です。


竜の絵だけだと「え?」と思われるかもしれませんが、これは1956年当時の天文学の知識を、美しい挿絵とともに綴った、なかなか魅力的な科学絵本です。




   ★

私は子供のころから科学絵本が好きで、よく手にします。
理解力が進歩してないということもありますが、それ以上に紙面に吹く科学の風に惹かれるからで、その風はたいてい良い香りがするものです。

もちろん、絵本の中にも駄作はあります。単なるハサミと糊の仕事であったり、読者である子供よりも、金主である親におもねっていたり…。でも、まじめな作り手だったら、相手が子供だからこそごまかしがきかないし、下手なことは書けないぞと、真剣にならざるをえないので、それが科学という学問の純粋さと呼応して、そこに良い香りが漂うのでしょう。

この68歳になる本にも、そうした良い香りを感じました。
本書の冒頭は、2人の天文学者の仮想対話から始まります。

「明日も太陽はのぼるかな?」「いや、明日はのぼらないと思うね。のぼるって言うなら、君はそれを証明することができるかい?」「もちろんさ。天文年鑑を見ると、明日の日の出は午前7時12分と書いてある。」「それは。その本を書いた人間がそう考えただけだろ?それは証明じゃないよ。ぼくはその証明が知りたいんだ。」

本に書いてあるから、偉い人が言ったから正しいことにはならない、現に「昔の偉い人」は珍妙なこともたくさん言っているよ…と、作者はそこから天文学の歴史を語り始めます。こういうことは、もちろん科学論文に書かれることはないし、大人向けの本でもあまり正面切って説かれることはありませんが、でも科学を語る上ではこの上なく重要なことです。

そういう当たり前のことに気づかせてくれるのも、科学絵本の魅力と思います。
(まあ科学絵本に限らず、良い絵本とはそういうものかもしれません。)

衝撃の出会い…松村巧氏のこと2023年12月30日 10時31分37秒

来年の1月で、「天文古玩」が始まって早18年になります。
この間、天文アンティークの周りを常にウロウロし、それにまつわる話を見聞きしてきたわけですから、「見るべきほどのことは見つ」…とまでは言わないにしろ、何となく心のうちに既視感が広がっていたのも事実です。要は新鮮な「驚き」が薄れつつあったわけです。

しかし、そんな薄ら生意気な感想が見事に打ち砕かれ、驚愕の大波に呑み込まれる日がやってきました。それは「日本の古本屋」で、たまたま1冊の本を見つけたからです。

■松村 巧(著) 『日本天文名所旧跡案内』
 私家版、1982.(B6判・126頁)

天文名所旧跡とは何か? 試みに本書の「もくじ」冒頭を掲げます。


天文に関わる名所旧跡は、かくのごとく多様です。
「第1章 天文遺跡・古い天文機器・天文台跡・隕石落下地・新星発見地・時・報時・天文関係旧跡」では、こんなふうに沖縄から北海道まで、天文に関連する<場所>と<物>が、都道府県別にガイドされています(ただし、全県を網羅しているわけではありません。また著者の編集方針により、活動中の天文台やプラネタリウムは省かれています)。この第1章(全71頁)が、本書のいわば肝の部分。

つづく「第2章 日食観測」では、戦前の日本で観測された皆既・金環食のゆかりの地とエピソードが紹介され、「第3章 測量基線」では、明治の国家事業として測量が実施された際、各地に設定された測量基線と三角点を考証するという、相当渋い内容になっています。

さらに、「第4章 未調査の天文名所旧跡」では「田上隕石について」はじめ7項目を採り上げ、最後の「第5章 天文名所旧跡案内第一集で紹介した主な天文名所旧跡」では、沖縄の「星見石」等、前著『天文名所旧跡案内』(1981)から主要58項目を再録しています。まさに至れり尽くせり。

私が言うのも僭越ですが、本書は大変な熱意に裏打ちされた、緻密な調査の賜物に相違なく、本を前にして、私は思わず居ずまいを正しました。そして、著者・松村巧氏のお仕事をもっと知りたいと思い、いろいろ探しているうちに、地元の図書館に以下の著作が収蔵されているのを知りました。

■松村 巧(著) 『近代日本雑学天文史』
 私家版、1991.(B6判・164頁)

私家版ゆえか、こちらは古書市場でも見つからなかったので、頑張ってコピー本をこしらえました。

(『雑学天文史』は片面コピーなので、原著の倍の厚みになっています)

こちらも「もくじ」の一部をサンプルとして掲げます。


この2冊を手にして、何だか急に自分が物知りになったような気がします。
それにしても、松村氏のお名前と業績を、なぜ今まで知らずにいたのか。そのことを大いに恥じ、且つ残念に思いますけれど、遅ればせながらその学恩に浴し得たことを、それ以上に嬉しく思います。本当に出会いというのは大切ですね。

松村氏の著作は、斉田博氏や佐藤利男氏らによる「天文史話」の発掘と紹介に連なるお仕事だと思いますが、こういうのは天文学や歴史学の専門家があまり手掛けない領域で、まさにアマチュアにとってのブルーオーシャン。私自身、大いに勇気づけられる思いがしました。

北欧世界地図帳2023年12月16日 07時40分52秒

今日はひさしぶりの休日。記事を再開します。

   ★

前回登場したいわく付きの地図帳ですが、あの地図帳には、さらに長い前史…というほどでもありませんが、経緯があります。あれを注文したのは、前述のとおり今年の9月でしたが、私は同じ本を5月にも一度注文しています。しかし、オランダの本屋さんからは待てど暮らせど発送の連絡がなく、メールで問い合わせても梨のつぶて。結局しびれを切らして、3か月目にキャンセルしました(このときは古書検索サイトが、古書店に代わって返金処理をしてくれたので助かりました)。

その後、2度めのチャレンジの結果がどうなったかは、前回書いたとおりです。

しかし、あの地図帳をどうしても手に入れたかった私は、スウェーデン王立図書館の権威を振りかざす怪しい古書店と揉めている最中、別の店に3度めの発注をかけました。幸い「二度あることは…」とはならず、今度は無事に真っ当な商品が届いて、ほっと胸をなでおろしました。正直、2軒めの店のせいで、スウェーデンの印象もだいぶ悪化していましたが、やはりスウェーデン人の多くは実直で、2軒めの店主が特異なのでしょう。


三度目の正直で届いたのがこちら。


50枚の図版を含むだけあって、36枚の図版しか含まない問題の地図帳(上)と比べると、判型は同じでも、厚さがずいぶん違います。

改めて本書の書誌を記しておきます(ちなみに36図版バージョンも、同出版社・同書名・同発行年なので要注意)。

■S. Zetterstrand & Karl D.P. Rosén(編著) 
 Nordisk Världsatlas(北欧世界地図帳).
 Nordisk Världsatlas Förlag (Stockholm), 1926.
 表紙40×26 cm、見開き図版50図+解説136頁+索引48頁

書名で特に「北欧」を謳っているのは、一連の地図の中でも、特に北欧エリアが詳細だからでしょう(「北欧」のパートには全11図が含まれています)。



上質の紙に精細に刷り上げた美しい石版の地図帳は、大戦間期の世界を覗き込む興味はもちろん、紙の本ならではの「めくる愉しみ」に富んでいます。
それだけなら、36枚版でもいいのでしょうが、私が50枚の図版にこだわったのにはワケがあります。


STJÄRNHIMMELN ――すなわち「星図」。
この地図帳の最後を飾る第49図と第50図は美麗な星図で、それをどうしても手に入れたかったからです。

(この項つづく)

ポラリスへの旅2023年12月03日 13時07分55秒

荒唐無稽であることは変わりませんが、昨日の本よりも高めの年齢層を意識し、そこに科学的フレバーをまぶすと、こんな本になります。


■Charls S. Muir (著)
 A Trip to Polaris or 264 Trillion Miles in an Aeroplane.
 The Polaris Co. (Washington, D.C.), 1923


この本は口絵以外に挿絵はないので、「絵本」ではまったくありません。でも、「天文学の本は面白く書けば、もっと面白くなるはずだ」という信念のもと、天文学に関しては素人のお父さんが、10歳の息子さんのために書き下ろした天文入門書…というのが素敵だと思いました。

(序文)

版元の「ポラリス社」は、どうやらこの本1冊しか出してないようで、要は著者ミューア氏の私家版でしょう(その割に今も古書市場にたくさん出ているのは、相当な部数を印刷したのでしょう)。

   ★

それにしても、『ポラリスへの旅―飛行機に乗って264兆マイル』というタイトルはすごいですね。これは比喩的な意味ではなく、文字通り特別製の飛行機に乗って、北極星まで行こうというお話しです。

 「ポラリスに向け、総員搭乗!我々の飛行機はまもなく出発します!現在、最後の酸素タンクを積み込み中です。これは264兆マイルもの北極星までの長旅には、最も必要なものです。さて、お友達にさよならと手をふる前に、この素敵な旅について一言述べておきましょう。」

 「我々の旅はすべての惑星をめぐり、その後、最も近い恒星を目指して、より遠くの宇宙を進みます。最も近いといっても、そこは惑星系よりも遥かに遠い場所です。さらに星座の間を縫うように飛び、ポラリスを目指します。その過程で、私たちは星たちの「内部」情報を手に入れることになるでしょう。」

 「さあ、酸素タンクの積み込みが終わりました。パイロットもお待ちかねです。皆さん、席に着いてください。機体は上昇を始め、地球がほんの小さな点になるまでぐんぐん上昇を続けます。まずは我々になじみ深い太陽へと向かいます。我々の旅はそこからスタートする必要があるからです。太陽までは9300万マイルもありますが、我々の飛行機は光の速さで飛ぶため、8分20秒以内に到着します。」

こんな具合に宇宙の旅は始まり、飛行機は天界の名所を次々と訪れ、天体について学びながら、何年も飛び続けます(この旅では相対性理論による時間短縮効果は考慮されていません)。

(中身はこんな感じ。子供向けにはもっと挿絵がほしいところ)

そしてついに目的の星、ポラリスへ。
我々は264兆マイルの距離を飛び続け、言い換えれば264兆マイルの落下を続けて、ついにポラリスへドーン!「…と、ベッドから床に落ちた拍子に頭をぶつけ、眼の前には、これまで訪れた星々がいっせいにチカチカしています。すべては夢だったのです。でも、きっと多くのことを学べたことでしょう。」

   ★

こちらも最後は夢オチです。

安易な気もしますが、夢オチ以外、話の決着を付けられないというのは、人間の想像力の一種の限界を物語るもので、地上の日常世界と天上の非日常世界の境界を越えるには、「夢」というツールが欠かせなかった…ということかなと思います。

「お伽の国」ほどではないにしろ、今でも宇宙は「なんでもありの世界」として描かれがちです。古代ギリシャの哲人も、月を境として、卑俗な4元素から成る下界と、透明なエーテルで満たされた天上界とを厳然と分けて考えましたが、こういう思考はなかなか根が深いです。

   ★

最後にひとつ気になったのが、ポラリスまでの距離。
264兆マイルというのは45光年に相当し、最新の値は448光年なので、ひょっとして著者は一桁勘違いしている?とも思いましたが、調べてみると、これはこれで正しいようです。

本書が出たのと同じ1923年、京大の山崎正光氏が、雑誌「天界」に「天体距離の測定法(三)」という文章を書いていて【LINK】、それを見ると北極星までは44光年となっています。

当時は、恒星までの距離を求める方法として、年周視差の測定以外に、新たに分光視差法(スペクトル型からその星の絶対等級を推定し、見かけの等級と比較することで距離を求める方法)が導入された時期であり、方法論的進展が見られた時期です。

とはいえ、近傍の恒星までの距離を知るには、年周視差の測定がもっとも正確な方法であることは昔も今も変わらず、45光年から448光年に数字が置き換わったのは、もっぱらこの間の観測精度の向上によるものです(現在は観測衛星のデータを利用しています)。

   ★

それにしても、光速でも450年近くかかると知ったら、さすがのミューア氏も本書を書くのをためらったか、少なくとも目的地の変更は避けられなかったでしょうね。

星への旅2023年12月02日 15時56分33秒

こんな品を見つけました。


表面にPOST-BOOKとあります。ひょっとしたら今でもあるのかもしれませんが、当時は切手を貼るとそのまま投函できる、こういう小さな絵葉書サイズの絵本があったらしいです。


「星への旅 A Trip to the Stars」
タイトルページを除き全13ページ。ぱっと見、1920年代の品かな?と思いましたが、よく見ると1907年のコピーライト表示があって、意外に古いものでした。

タイトルページ以外は、オールカラー(おそらく網点併用のクロモリトグラフ)の凝った作りです。作者のOlivia Barton Strohm(1869-1953)は、シカゴ在住の作家で、当時広告業界でも活躍した女性のようです。作画を担当したClaude L. Ottman については未詳。


内容は、テッドとジュディの兄妹がお手製の凧に乗って、星の世界を大冒険するというもの。


お腹がすけばミルキーウェイで牛乳を一杯。


流星に凧を燃やされそうになってハラハラしたり、彗星の尻尾をつかまえたり、土星の環っかのメリーゴーランドを楽しんだり…。


最後はお決まりの夢オチという他愛ないお話ですけれど、ここには何の教訓もないところがいいですね。

   ★

童心や無邪気さを無条件に肯定できる世界―。
それを与えられている子どもは、今の世界ではむしろ少数かもしれません。
それでも、すべての子どもの頭上には、今も無限の星空が広がり、そこに夢を託すことが許されています。すべての子どもにとって、星の世界が、常に美しい夢とおとぎの国でありますように。

せめて星の世界だけでもそうあらねば、あまりにも救いがないではないか…と、悲惨なニュースを見て思います。

あの名店がお隣にやってきた2023年09月09日 15時24分20秒

ブログをそろそろ再開…といいながら、なかなか再開しないのですが、物事の終わりというのは、得てしてこういうものかもしれませんね。炎が徐々に細くなって、ふっと消える感じといいますか。とはいえ、一息に吹き消すつもりもないので、この駄文もまだしばらくは続きます。

   ★

最近、心に波風が立ったこと。

以前も何回か言及した Daniel Crouch Rare Books
私はたわむれに「倉内古書店」とか、「倉内さん」とか心の中で呼んでいますが、同社はそんなふうに馴れ馴れしく呼ぶのは本来畏れ多い相手で、ロンドン・メイフェア近くの一等地に店を構え、最近はニューヨークにもオフィスを設けている、古地図・古典籍の世界では押しも押されもせぬ超一級のディーラーです。

そのクラウチ古書店が、宝の山を抱えて、今、すぐ近くまで来ていると聞きました。
9月6日から9日まで、すなわち今週の水曜日からちょうど今日まで、ソウルで開かれている「フリーズ・ソウル」というイベントにブースを設けて、同社も出展しているのだそうです。

(9月7日付けの同社のX(ツイッター)ポスト。

(クラウチ古書店の取扱商品の一部。

フリーズ・ソウルは、美術雑誌『FRIEZE』の版元であるフリーズ社が例年開催しているアートフェアの一環で、今のところロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、そしてソウルが開催地となっており、ソウルでの開催は、昨年につづき今年で2回めだそうです。

   ★

フリーズ・ソウルには、日本のアート・ディーラーも多数参加しているので、これがただちに日本の凋落を意味するわけでもないでしょうが、何しろこういう催しは、より多くのお金が落ちるところで開かれるのが常ですから、それが今ではトーキョーではなくソウルになった…というところに、なにがしかの感慨を覚えます。ことに先日の国立科学博物館のクラウドファンディングの一件以来、文化的貧困の淵に沈む日本の行く末に思いをはせていたので、よけい心に冷たい秋風が吹くわけです。

   ★

まあ、日本一国の運命がどうであれ、世界規模で見たときに文化が栄えるのであれば大いに結構な話で、そうくよくよするにも及ばない…とは思うんですが、でも日本の貧困化と私自身の貧困化はかなりシンクロしているので、身辺に及ぶその影響は、決して小さいものではありません。

戦火の抱影2023年08月06日 15時05分25秒

私の職場にも一応空調は入っているのですが、その設備はひどく旧式で、外気温が高い日には、どんなに頑張っても室温が30度を下回ることはありません。そんな中で一日仕事をするのですから、心身の疲労も甚だしく、夜は泥のように眠り、行き帰りの電車の中でも常に眠りこけているような有様です。絵に描いたような夏バテ状態ですね。

そんなわけで、ブログの更新もできず、コメントへもはかばかしくお返事できかねる状態で、当分はこんな感じでしょう。でも、昨日一日寝ていたので、今日は少し元気になりました。

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今日は8月6日。
8月になると、メディアでは先の大戦を回顧して、戦争関連のコンテンツが多くなります。現在も戦争状態にある国や地域が多いことを思えば、こういう年中行事自体、日本が平和であることの証です。もちろん、対外戦争をしていないからといって、国内がすべて太平ともいえませんが、それでも戦火に追われたり、砲弾に怯えたりすることがないのは、ありがたいことに違いありません。

   ★


石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)には、大戦末期の抱影の心模様の一端が綴られています(本書は『星の文人 野尻抱影伝』と改題して、中公文庫に入っています)。

そこには終戦の翌年、昭和21年(1945)8月に出た『星の美と神秘』(恒星社厚生閣)のはしがきが引用されています。同書は抱影の戦後第1作です。たまたま原著が手元にあるので、石田氏による引用の前後も含めて、引き直してみます。


 「久しい間科学は挙げて剣の奴隷だった、且つ多くがそれに殉じた。そのうち比較的に純粋さを保ち得たものに天文学があった。最近復員した或る青年は、部隊長から私の著書を自由思想の有害な読物であるとして没収されたと話して、私を苦笑させた。その私は海軍航空技術本部から、航空兵に星座知識を授ける方法に就いて、度々提案を求められてゐたのだった。」

抱影について、「自由思想の有害な読物」という見方が一部にあったというのは意外です。抱影もそのことに苦笑していますが、今となっては抱影にとって名誉な事実でしょう。

 「しかし星そのものには、同好の人たちもさうだったらうやうに、私も殆ど全く遠ざかってゐた。むしろ、下界の悲劇をよそにする彼等の冷徹な瞳に反感をさへも覚えるに至ってゐた。時にはまた絶望的に、地球がひとつ首を振ってくれれば万事一ぺんにけり〔2字傍点〕がつくのにと思ひ、それを友人にも言ったりした。愛機 LONG TOM の銘をも烙き消さうとしたり、またその献納を思ひ立って周囲から留められたりしたが、空襲が激しくなってからは、三脚と格納函を庭の樹蔭に出しぱなしにして、自然の運命にまかせておいた。五月闇の中で、梅の実が函に落ちるかたい音を、幾たびか聞いたのを憶ひ出す。」

愛機の望遠鏡すら手放そうとしたぐらいですから、にわかには信じがたいことですが、抱影は一時本当に天文と縁切りを考えていたようです。

   ★

抱影がこれほど捨て鉢な気持ちになったのは、彼の身辺の出来事も影響したのでしょう。


上は同書「はしがき」末尾です。
抱影は、亡妻の面影に似た四女みかを掌中の玉と思い、大切にしていました。みかは美しい娘で、絵の才に恵まれ、多摩美術学校を卒業後、本格的に画業に志しましたが、その明るい未来は病魔によって阻まれてしまいます。以下は石田氏の著書からの引用です。

 「黒のベレー帽をかぶり大版のスケッチ帖を小脇にかかえて大道を闊歩していたこの黄金の「画家の卵」が、やがて胸を病み、東村山のサナトリウムに入院する。〔…〕みかの命日は四月六日である。終戦の年、二十七歳の生涯を終えたその深夜は立川、八王子の大空襲で明け方まで南の地平は赤々と業火がもえていた。みかの死は早朝で、抱影は構内の竹林に入り、大地に伏して号泣した。」(石田五郎、『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』p.275)

何だかジブリの「風立ちぬ」を思わせるエピソードで、傍目には一種のロマンを感じなくもないのですが、父・抱影にしてみれば、まさに心の折れる一大痛恨事だったでしょう。このときの抱影は、あと半年で還暦という齢です。

   ★

しかし、抱影の心は、戦時中も完全に星から離れたわけではありません。以下は再び『星の美と神秘』「はしがき」から。

 「天文書の多少珍しいものだけは、故松本泰君が海を渡って来た大トランクに詰めておき、もし無事だったら寄贈することに決め、その旁ら、倖ひに生き残れたらそれだけの著述で晩年は送れさうな、多年蒐集の星の和名を全速力で整理したり、また李・杜・韓・白〔李白、杜甫、韓愈、白楽天〕はじめ唐宋の星に関する詩句を、予て作ってあった索引から、夜昼かけて筆写したりしてゐた。」

このときの抱影の心を満たしていたのは、英米の書物を通じて親しんだ星座ロマンではなく、日本の民間に伝わる星座語彙であったり、中国の古典に描かれた星宿美であったりしましたが、これは別に抱影が戦争によって米英を敵視したからではありません。戦争が終わり、世の中が落ち着きを取り戻してからも、彼は東洋美術に描かれた星の研究に熱中するなど、明らかに「東方回帰」の傾向を見せていたので、これもその一環と思います。

世間一般では、抱影イコール星座ロマンの人でしょうが、抱影自身の意識としては、それは何となく借り物の知識という思いがあったんじゃないでしょうか。余生を意識し、本当にオリジナルな世界を追求しよう、あるいは自身の魂のルーツを探そうと思ったとき、そうした東方回帰には、一種内的な必然性があったのだと思います。

(このあとも抱影にちなんで話を続けます)

なつのほし(第三夜)2023年08月01日 22時06分18秒



(ぬきながら)
夏の星座には、
へびつかい座。さそり座。はくちょう座。
いて座。などゆうめいです。

―― 少しの間 ――

北の空に。ひしゃく形にならんだ、七つの
星が見えます。
〔中略〕この 北斗七星は。又 おおくま座とも
よばれています。

「ゆうめいです」というなら、それらを物語ればいいと思うのですが、紙芝居はなぜか北斗七星とおおぐま座を話題にします。一般的におおぐま座の見ごろは春ですから、いくぶん違和感もありますが、教育紙芝居として、北斗七星の話題は必ず入れないといけないという、何かしばりのようなものがあったんでしょうか。


ほら、ね。くまの かたちになった
でしょう?
さあ、こんどは アメリカのインデヤン
につたわるお話を致しましょう。

こうして、紙芝居は熊が星座になったわけを物語ります。
昔々、森の木々がそこらを歩き回っていた頃、熊が道で大きな樫の木にぶつかって、腹立ち紛れに相手を蹴飛ばすと、こんどは樫の木が怒って、「こらッ!くまのぶんざいで、この森の大王様になにをするのか!」


と、くまの尾っぽを ひとひねりして、空へ
  ブルルルルルン!
と、投げ上げました。

―― 少しの間 ――

こうして、くまは そのまま空で 星に
なって いまでも 空を廻っているのだと
いうことです。

このネイティブ・アメリカンの伝承は、野尻抱影も本に書いているので、出典はたぶん抱影でしょう。でも、これって七夕と並び立つほどの、代表的星座物語なんでしょうか。いくぶん疑問も感じますが、ギリシャ神話ほど込み入った「あや」がないし、子供でも親しめるという理由で、あえて入れたのかもしれません。ともあれ、こうして紙芝居の方は終幕を迎えます。

(ぬきながら)
このように 星に、まつわる おもしろい
伝説は まだ たくさんあります


が この空にまたたいている星は、
とても遠いところにあるのです。
七夕の 織女星などは、私たちにごく近い
星ですが、それでも 織女星からの光りは
二十六年もかかって やっと私たちに
とどくのです。
 天文学では、星への距離をあらわすのに
「光年」つまり、光りで何年かかるかと いう
ふうにいいます。織女星の距離は、二十六光年
ということになりますね。

―― 少しの間 ――

 これで 夏の星のお話は終わりますが、
皆さんも 星のきれいな夜、いっしょう
けんめい、はたを織りつづけている織女姫
の織女星や、空へ投げ上げられたおお熊の
北斗七星を さがしてみて下さい。

   ★

70年近く前の子供たちの心に、この紙芝居はどんな影響を及ぼしたか?
中には、その後豊かな天文趣味に目覚めた子もいるかもしれません。そうでなくても、先生の導きによって、空を見上げ星を探した子どもは大勢いるでしょう。

たとえ、彼/彼女らがそのことを忘れてしまったとしても、その瞳をかつて星の光が満たしたことは、この宇宙の歴史の確かな一コマですし、それはいわば「宇宙と観測者の出会い」にほかならず、その意義は無限大である…と、粗末な紙芝居を前に、そんなことを考えたりします。

(この項おわり)

【おまけ】
この『なつのほし』には、姉妹編の『冬の星』があります。そちらはまた冬の凍てつく晩に眺めようと思います。

なつのほし(第二夜)2023年07月31日 18時09分21秒

(昨日のつづき。タイトルを「なつのせいざ」から「なつのほし」に改めました。)


コマのようにくるくる太陽のまわりを まわって
います。そのため一日の同じ時間でも、空に見える
星座は季節によってちがうのです。
春、夏、秋、冬、いろとりどりに咲く花がちがう
ように、星空も たえずうつりかわっているのです。
 さて、今日は、みなさんに夏の星のお話をいたし
ましょうね。

…という流れで、まずは七夕の物語が語られます。


この紙芝居では、織姫は「天の王様の娘」である「織女姫」という設定です。
機織り好きの織女姫が、ある時期からぱたっと機織りをしなくなり、王様をいたく心配させるのですが、ある日その原因が露見します。

織女姫には 西の岸に住む 牽牛という
お友達が出来たのです。
(織女姫)『さあ、こんどは お舟にのってあそび
ましょうよ。」
まい日、まい日、織女姫は こうして
あそんでいたのです。

牽牛と織女を「お友達」とするのは、教育的配慮からかもしれませんが、ちょっと苦しいですね。

こうして天の王様の怒りに触れたふたりは、天の川の両岸に遠ざけられ、一年に一度しか会うことを許されなくなります。でも、

一年に一度のその日に 雨が降ると、川の
水がふえて 川が渡れなくなってしまうのです。


それを見かねた かささぎ鳥が
(かささぎ)『かわいそうに、私がわたして
あげましょう』
と、さっとつばさをひろげて 織女姫を
むこう岸にわたしてくれました。

―― 少しの間 ――

これが、七夕の、中国につたわる伝説です。

こうしてまず1つめの物語が終わって、次はおおぐま座のお話に移っていきます。

それにしても、この作画家は「かささぎ」を完全にサギと混同しているし、かささぎの橋の物語も、<サギの背に乗ってひとっ飛び!>みたいなイメージで描いているので、教育的にどうなの?と思わなくもありません。

おそらく当時の紙芝居業界は、同時代に隆盛をきわめた貸本漫画と同じノリで、とにかくどんどん数を出さないといけない…ということで、校閲とかもほぼノーチェックだったんじゃないでしょうか。

(第三夜につづく)