空の旅(17)…『スミスの図解天文学』異聞2017年05月05日 10時10分50秒

(今日は2連投です。以下、前の記事のつづき)

『スミスの図解天文学』についての新知識、それはこの本で最も有名で、最も人気のある最初の図版↓には、元絵があるということです。


このことは、会場でメルキュール骨董店さんに教えていただいたのですが、その元絵とは、Duncan Bradford という人が著した、『宇宙の驚異(The Wonders of the Heavens)』(1837年、ボストン)という本に収められたもの。

(ダンカン・ブラッドフォード著、『宇宙の驚異』 タイトルページ)

スミスの本の正確な初版年は不明ですが(※)、ダンカンの本は、スミスの本におよそ10年先行しているので、こちらが元絵であることは揺るぎません。

その絵がこちらです。


(上図部分拡大)

印刷のかすれが激しいですが、確かにほとんど同じ絵です。
しかし、その舞台背景はエジプトの神殿風ですし、先生役は黒い女神、そして生徒たちは黒いキューピットと、何だかすごい絵です。思わずため息が出る、奔放な想像力。

ブラッドフォードの本を手にしたのは、ずいぶん前のことですが、この挿絵の存在は、メルキュールさんの慧眼によって指摘されるまで気づかずにいました。メルキュールさんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げます。

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ところで、ブラッドフォードとスミスの絵には、舞台設定の違い以外にも、天文学史上の時代差が出ています。それは、前者には1846年に発見された海王星が描かれていないことです。

(ブラッドフォードの挿絵・部分。最外周を回るのは1781年に発見された天王星)

片やスミスの方には、当時最大の発見・海王星が、発見者の名をとって「ルヴェリエ」として記載されています(天王星の方は同じく「ハーシェル」)。

(スミスの挿絵・部分)

ちなみに日本の『星学図彙』ではどうかと思ったら、こちらは「海王」「天王」となっていました。

(『星学図彙』・部分)

「Neptune/海王星」、「Uranus/天王星」という新惑星の表記は、欧米でも日本でも、いろいろ揺れながら定着しましたが、日本に限って言うと、この直後(明治9年、1876)に出た『百科全書 天文学』(文部省印行)という本では、すでに「海王星」「天王星」となっているので、神田によるこの過渡的な表記は、ちょっと面白いと思いました。

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さて、いろいろな時代、いろいろな国をたどってきた「空の旅」も終わりが近づいてきました。次回は20世紀に足を踏み入れます。



(※) 連邦議会図書館には、1850年刊のものしか所蔵されていません。手元にあるのは1849年刊で、それでも「第4版(Fourth Edition)」となっています。年1回以上版を重ねることもあるので、おそらく初版は1848年~47年頃と推測します(さっき古書検索サイトを覗いたら、1848年に出たものが売られていました)。

空の旅(16)…海を渡った天文書2017年05月05日 10時00分19秒

さて、時代は19世紀の半ばから後半へと向かいます。
そして、場所はヨーロッパから船に乗り、大西洋を越えたアメリカ。


ニューヨークの公立学校の校長先生である、エイサ・スミスが著した『スミスの図解天文学』(第4版、1849)


改めて述べるまでもなく、そのクールな図版で、今や天文古書の中でも一、二を争う人気者ですから、天文アンティークファンならば先刻ご承知でしょう。

スミス先生の頃のアメリカは、まだジャイアント天文台の建造ラッシュ前で、天文学の面ではヨーロッパに大きく遅れをとっていました。でも、教育に関してはひどく熱心でしたから、こうした天文書の傑作が生まれたものと思います。

思えば、この「天文古玩」との関わりもずいぶん古く、今から11年前、このブログが誕生して、まだ生後10日目ぐらいのときに早々と取り上げているので、相当な古なじみです。

しかし、今日のテーマはスミス先生の本ではなく、これがさらに太平洋を越えて、極東で芽を吹いた…という話題です。


明治4年(1871)、神田孟恪(本名・孝平、1830-1898)が訳した『星学図説』
邦訳は本文2冊、図版1冊の3分冊で刊行され、図版編には特に『星学図彙』という別タイトルが付されました。


これによって、長い長い「空の旅」は、ぐるっと地球を一周したことになります。
 The East meets the West.
 The West meets the East.
宇宙についての学問は、こうしてまさに「ユニバーサル」なものとなったのです。


とはいえ、両者に漂う「情緒」の違いといったら―



両者は確かに同じだけれども、やっぱり違う…と感じます。



これはたぶん天文学という学問の受容の仕方もそうでしょう。
そこで説かれる事実・法則・理論は、もちろん世界共通ですし、当然同じものでなければなりません。でも、そこに漂う情緒や「湿り気」は、必ずしもそうではありません。

その違いは、学問的著作には現れないかもしれませんが、一般向けの本や、児童向けの本になると徐々に染み出してきて、各国の「天文趣味」にローカルな色彩を与えているように感じます。

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ところで、スミスの本について、今回の「博物蒐集家の応接間」で新たに知ったことがあるので、オマケに書き添えておきます。

(ちょっと記事が長くなったので、ここで記事を割ります)

空の旅(15)…日食地図2017年05月04日 10時23分20秒

今回の「空の旅」はレプリカも多くて、ちょっと展示に弱さがありました。
それを補う、何かアクセントになるものを入れたいと思って、19世紀初めに出た美しい「日食地図」をラインナップに加えました。

(販売時の商品写真を流用)

■Cassian  Hallaschka(著)
 『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
  ab anno 1816 usque ad annum 1860』
 (地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
 日食概説)


「1816年にプラハで出版された日食地図。1818年から1860年にかけて予測される日食の、食分(欠け具合)と観測可能地点を図示したもの。日食の予報は、天文学の歴史の中でも、最も古く、最も重要なテーマのひとつでした。」


オリジナルは107ページから成る書籍ですが、手元にあるのは、その図版のみ(全22枚ののうちの11枚)を、後からこしらえたポートフォリオ(帙)に収めたものです。
その表に貼られているのは、オリジナルから取ったタイトルページで、図版はすべて美しい手彩色が施されています(各図版のサイズは、約25.5cm×19.5cm)。

(タイトルページに描かれた天文機器)

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ここでネット情報を切り貼りして、補足しておきます。

著者のフランツ・イグナーツ・カシアン・ハラシュカ(Franz Ignatz Cassian Hallaschka、1780-1847)は、チェコ(モラヴィア)の物理学者。
ウィーンで学位を取り、母国のプラハ大学で、物理学教授を長く勤めました。今回登場した『日食概説』も、同大学在職中の仕事になります。

上記のように、日食の予報は洋の東西を問わず、天文学者に古くから求められてきたもので、その精度向上に、歴代の学者たちは大層苦心してきました。

そうした中、ハラシュカが生きた時代は、ドイツのヴィルヘルム・ベッセル(1784-1846)や、カール・ガウス(1777-1855)のような天才が光を放ち、天文計算に大きな画期が訪れた時代です。ハラシュカの代表作『日食概説』も、日食計算の新時代を告げるもので、そうした意味でも、「空の旅」に展示する意味は大いにあったのです。


さらに、この地図の売り手が強調していたのは、当時まだ未踏の北極地方の表現が、地図史の上からも興味深いということで、確かにそう言われてみれば、この極地方のブランクは、科学の進歩における領域間の非対称性を、まざまざと感じさせます。(北極以外も、このハラシュカの地図には、16世紀の地図のような古拙さがあります。)


遠くの天体の位置計算がいかに進歩しようと、足元の大地はやはり生身の人間が目と足で確認するほかないのだ…などと、無理やり教訓チックな方向に話を持って行く必要もないですが、当時はまだ広かった世界のことを思い起こし、そこから逆に今の世界を振り返ると、いろいろな感慨が湧いてきます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ハラシュカの地図じゃありませんが、生活者たる身として、遠い世界と同時に身近な世界のことも当然気になります。

安倍氏とその周辺は、公然と改憲を叫び、共謀罪の成立を目指しています。
その言い分はすこぶるウロンですが、それを語る目元・口元がまたウロンです。

何せ、スモモの下では進んで冠を正し、瓜の畑を見ればずかずかと足を踏み入れ、そして袂や懐を見れば、何やらこんもり重そうに膨れている…そんな手合いですから、その言うことを信じろと言う方が無理です。

彼らは冠よりもまずもって身を正すべきです。
議論は全てそれからだと私は思います。

空の旅(14)…オペラグラス2017年05月03日 11時41分52秒

世はゴールデンウィーク。

『博物蒐集家の応接間 ~旅の絵日記~』が神保町で行われてから、すでにひと月以上経ちました。でも、ブログ内の時空は、依然としてあの場に固着しています。「旅」の軽やかさとは程遠い鈍重さですが、地球全体を巡る2千年以上に及ぶ旅の日記であってみれば、歩みが遅いのも止むを得ません。(どうか、そういうことにしておいてください。)

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さて、今日のテーマは「オペラグラス」。
例によって、展示当日のプレートの文面を引いておきます。

「19世紀のオペラグラス」
「イギリスのドロンド社製の双眼鏡(19世紀前半)。観劇用に用いられたので、「オペラグラス」の名がありますが、手軽な星見の道具としても重宝されました。時代は下りますが、天文趣味を広めたギャレット・サーヴィスには、『オペラグラスによる天文学(Astronomy with an Opera-Glass)』(1910)という愛らしい本があります。」


当日は、サーヴィスの本も会場に並べて、オペラグラスと天文趣味の結びつきを視覚化しました。


オペラグラスについては贅言無用と思います。
天界散歩の友としては、スパイグラスよりも一層スマートで、観劇帰り、手にしたバッグからひょいと取り出して、今度は星たちのドラマを眺める…なんていう洒落た紳士や淑女もいたことでしょう。

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ところで、サーヴィスの本の中身ですが、こちらは現代の観測ガイドとほとんど変わりません。

(サーヴィスの本の目次)

章立ては季節ごとになっていて、そのときどきの空の見所を図入りで紹介しています。


春は北斗の季節。
今だと、ちょうど夜の9時ごろに高々と空にのぼった姿が眺められます。

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同時にこの前後、大空から天の川の姿がいっとき消えます(条件の良いところならば、地平線に沿って天の川がぐるりと一周しているのが見えるはずですが、それは望みがたいでしょう)。このとき、日本の地平面は、ちょうど銀河面と同一になり、我々はまさに銀河の只中に身を置いて、天頂高く銀河北極を眺める格好になります。そして、そこからは何十億光年も彼方の光が、微かに、しかし確実に我々の元まで降り注いでいるのです。

…ありふれた日常の中でも、そんな壮大なイメージで、世界そのものを感じ取れるのが、天文趣味の妙味。

空の旅(8)…モンゴルの暦書2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

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ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

   ★

モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

   ★

モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

   ★

インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。

空の旅(6)…オスマン朝の天文書2017年04月20日 06時57分55秒

前回の暦術書は、わずか一ページの断片でしたが、今日は完全な一冊の本です。
時代はさらに下って、イスラム世界最後の大帝国、オスマン朝末期に出版されたもの。いわばイスラム天文学の末流の、そのまた掉尾を飾るもの…と言える品です。


例によって、プレートの文字を転記しておきます(例によって信頼性は怪しいです)。

「オスマントルコ時代の天文書」 「1894年、オスマントルコで出版された天文書。西洋から摂取した近代天文学と、伝統的なイスラム天文学の知識が混淆しています。石版印刷。」


表紙はあずき色の革装丁で、そこに凝った空押し模様が施されています。
この本は、「博物蒐集家の応接間」のイベントの際は、表紙を閉じたままガラスケースに入っていたので、来場された方も、中身をご覧いただくことはできませんでした。
ちょっと勿体ぶりつつ、改めてその表紙を開くと…

(本文は薄黄色の紙に、石版で刷られています)

冒頭からイスラム情緒全開です。

これがアラビア語なのか、ペルシア語なのか、あるいは更に別の言語なのか、その判別もできないぐらい、私はイスラム文化にうといのですが、でも遠い存在だからこそ、憧れが生まれる余地もある…とは、前にも書いた通りです。(にわか仕込みの知識で見直すと、文中にペルシア語だけで使う文字が見て取れるので、ペルシア語なのかな?と想像しますが、ぜんぜん違うかもしれません。)


いちばん下の図は、おそらく月の満ち欠けを示す月相図
イスラム暦(ヒジュラ暦)は太陰暦の一種なので、毎月の日にちと月相が一致します。この図は、円の全周を29の区画に分かち、一番右側の、時計でいえば3時の箇所だけ、他よりもちょっと大きくなっています。イスラム暦は、29日の「小の月」と、30日の「大の月」の繰り返しから成り、ひと月は平均29.5日ですから、この箇所に1.5日分を配当しているのでしょう。

となると、真ん中の図は月の満ち欠けの説明図であり、似たような図は中世の書物にも載っています。

(英語版wikipedia「Astronomy in the medieval Islamic world」の項より。

では、いちばん上の図は何か?…と思ってじっと凝視すると、プトレマイオス的天動説の説明図のように見えます。すなわち、地球を中心に置いて、いわゆる周転円の概念を用いて天体の運行を解いた図。これまた中世のイスラム黄金時代を経由して、古代の知識が近代まで持ち伝えられた例と言えるかもしれません。

(出典同上)


こちらは天動説的な太陽系図のようでもありますが、やっぱり地動説的な多殻天球図かも。

とはいえ、こうした図がどこまで19世紀末のオスマン朝で、真面目に受け止められていたのか?あるいは、天文学史を説明する項目において、過去の学説として紹介されているだけなのかもしれず、その辺がボンヤリしています。

そもそも、「イスラム黄金時代」というような言葉を使って、自分は何かを分かった気になっていますが、そこからして相当あやふやで、ましてや近世以降のイスラム世界における科学の概況なんかは、完全に知識のブランクになっています。


そんな次第にもかかわらず、この異国の天文教科書に手が伸びたのは、まさに私自身の憧れのしからしむるところで、遠い世界への憧れなしには、そもそもこのブログ自体成り立ちませんから、それはそれでよいのです。


(…と開き直りつつ、さらにこの項つづく)

空の旅(5)…イスラムの暦術書2017年04月18日 23時02分49秒

さて、これまでのところは、カタラン・アトラスから始まって、天文石板、アストロラーベと、みんな複製品でした。天文アンティークも、時代をさかのぼるとなかなか本物を手にすることは困難です。

簡単に手に入るのは、ここでもやっぱり紙物で、今回はこんなものも並べました。

(紙片のサイズは約22.5×18cm)

傍らのプレートの説明は、以下の通り。

 「イスラム暦術書の零葉 「1725年、北アフリカのイスラム世界で編纂された暦書の一頁。太陽・月・惑星の位置を計算するためのパラメーターをまとめたもの。こうした天文表の歴史は非常に長く、イスラム以前のササン朝ペルシアの頃から、各種作られてきました。」

何となくもっともらしく書いていますが、これは売り手(フロリダの写本専門業者)の説明と、ネット情報を切り貼りした、完全な知ったかぶりに過ぎません。
私にその当否を知る術はなく、そもそも写真の上下の向きがこれで合っているのか、それすらも自信がありません。それでも、これが天文表の一部であることは、その体裁から明らかでしょう。

(裏面も同様の表が続きます)

この種の天文表を、イスラム世界では「Zij」――この名称は織物の「縦糸と横糸」に由来する由――と称し、説明プレートにも書いたように、これまで多くのZijが作られてきました…というのも、さっき英語版wikipediaの「Zij」の項を見て知ったことです(https://en.wikipedia.org/wiki/Zij)。

(インクには膠(にかわ)質の成分がまざっているのか、角度によりポッテリと光って見えます)

18世紀といえば、すでに西洋の天文学が、近代科学として確立した後の時代ですから、今さらイスラム天文学の出番でもなかろうとも思うのですが、ちょっと想像力を働かせれば、この1枚の紙片の向うに、古のイスラム科学の黄金時代が鮮やかに浮かび上がる…ような気がしなくもありません。

(ページの隅に圧された刻印が、いかにもイスラム風)


(この項つづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ふと、今は幕末の世なのか…と思うことがあります。
その独断的な強権姿勢が、井伊直弼の姿を彷彿とさせるからです。
でも、眼前に見る奢り高ぶりや、浅ましい腐敗の横行を見ると、むしろ古の平清盛や、鎌倉を滅亡に導いた北条高時に、一層近いものを感じることもあります。

いずれにしても、勝手専横な振舞いや、強権腐敗は道義の退廃を招き、阿諛追従のみの愚かな取り巻き連中は、その主を守る力や気概を急速に失い、そうなると政権が自壊するのも時間の問題だ…というのが、歴史の教えるところです。

安倍氏も、せめて晩節だけは汚さぬよう、そして過去の権力者たちのような悲惨な最期を遂げぬよう(清盛は異常な高熱に斃れ、高時は自刃し、直弼は桜田門外の雪を朱に染めました)、よろしく身を処していただきたいと切に思います。

小さな天体観測家2017年01月24日 06時55分34秒

1冊の愛らしい星の本。


■Linda Whittier MacDonald
  『The Little Star-Gazer』
  The Murray Press (Boston), 1928. 77p.

星にあこがれ、星のことなら何でも知りたい少女・スー。そしてスーの先生役を務める、星に詳しいスー叔母さん。本書はこの2人のスー、すなわち「リトル・スー」と「アント・スー」のやりとりで進む星座入門書です。


こういう問答体の星座入門書は、他にもいろいろあると思いますが、本書の特色は、そのやり取りがすべて手紙で行われている点です。しかも、この設定は単なる作者の思いつきではなくて、現実に作者には星好きの姪がおり、彼女と手紙でやり取りした事実と文面が、本書の下敷きになっています。


本書を捧げられたマリオン・ガートルードというのが、件の姪御さんでしょう。
彼女はB.A.という立派な称号を有していますが、これは文学士(Bachelor of Arts)の意味ではなくて、「こども天文学者(Baby Astronomer)」の略。こんなところに、叔母さんの温かいユーモアがあふれています。

作者の住む東部ボストンから、7歳の姪が住む西部コロラドまでは、ざっと3,200km。その距離を越えて、幾たびも交わされた夜空の往復書簡集――。

何と心優しい話だろう…と思います。この本は別に美しいイラストにあふれているわけでもなく、どちらかといえば地味な本ですが、でもそこに流れる空気は、とても気持ちがよいものです。


こういう優しい心根に触れると、「アメリカは、なぜこれほど粗雑な国になってしまったのか?」と素朴に疑問に思いますが、でもトランプ候補(今はトランプ大統領)に投票した人たちが求めたものこそ、まさに「古き良きアメリカ」のイメージなのかもしれず、この辺はちょっと流れが複雑です。まあ、それにしたって、今のアメリカが子供に優しい社会かといえば、大いに疑問符が付くと思います。

(見返しに書かれた、著者リンダ・マクドナルドの自筆署名と献辞。相手がマリオンだったらなお良かったのですが、どうも贈り先は違うようです。)

『星恋』のこと2017年01月02日 14時54分59秒

星の文学者・野尻抱影(1885-1977)と、星を愛した俳人・山口誓子(1901-1994)が著した句文集、『星恋』(初版1946)。その冒頭に置かれたのが、誓子の「星恋のまたひととせのはじめの夜」という一句です。

「星恋」というフレーズが何とも良いし、明るい星々がきらきら輝く今の時期の空を見上げて、冷たく澄んだ空気を胸に吸い込んだときの清新な気分は、星好きの人にとって言わずもがなの情趣でしょう。

敬愛する霞ヶ浦天体観測隊http://kasuten.blog81.fc2.com/)のかすてんさんは、毎年この句でブログ開きをされるのを嘉例としていて、私もそのマネをしてみたいと思います。

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といって、私の方は地上の話題に終始するのですが、私の手元には『星恋』が5冊あります。なんでそんなにあるかといえば、『星恋』には終戦直後の昭和21年(1946)に鎌倉書房から出た初版と、昭和29年(1954)に中央公論社から出た版とがあり(この2つは内容が多少異なります)、さらに昭和61年(1986)に深夜叢書社から出た『定本 星恋』と合せて、全部で3種類の異版があるからです。このことは既に5年前に取り上げました。

■『星恋』ふたたび

でも、それだけでは5冊にまだ2冊足りません。
実は鎌倉書房版と中公版は、それぞれ後からもう1冊ずつ買い足しました。

(左・鎌倉書房版、右・中央公論社版)

なぜかといえば、それぞれに抱影と誓子の署名が入っているという、関心の無い人にはどうでも良いことでしょうが、『星恋』に恋する者には無視できない要素が含まれていたからです。


中公版は抱影の署名入り。ミミズの這ったような…というと叱られますが、抱影の独特の筆跡で、仏文学者の高橋邦太郎(1898-1984)に献じられています。


対する鎌倉書房版には、誓子の几帳面な署名と落款が印されています。

古書を手にすると、昔の人の体温がじかに伝わってくる気がしますが、この2冊は確実に二人の作者が手に取って、ペンを走らせた本ですから、両者の存在がなおのことしみじみと身近に感じられます。何だか今もすぐそばに座っているような気すらします。



  星恋のまたひととせのはじめの夜
  初春といひていつもの天の星

変るものと変わらぬもの。
世の転変を横目に、今宵も星と向き合い、そして自分の心と向き合いたいと思います。