ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(後編)2024年04月19日 05時28分10秒

この写真集には、天文機器の写真とならんで、天文台の外観写真が何枚も載っています(全36枚の図版のうち10枚がそうした写真です)。


たとえば、ニューヨークのダドリー天文台。まさに「星の館」にふさわしい外観で、憧れを誘います。ワーナー社はここに12インチ(すなわち口径30cm)望遠鏡を提供しました。


同社の12インチ望遠鏡というと、これぐらいのスケール感。


ちょっと毛色の変わったところでは、中東シリアの首都ベイルートに立つ「シリア・プロテスタント大学」の天文台なんていうのもあります(ここはその後、無宗派の「ベイルート・アメリカン大学」となり、天文台も現存)。ここに納入したのも12インチ望遠鏡でした。


何度か名前の出たワシントンの米国海軍天文台
ワーナー社とは縁が深かったようで、ここには26インチ(約66cm)大望遠鏡をはじめ、6インチ子午環、5インチ経緯儀、さらに46フィートドーム(差し渡し14m)や26フィートドーム(同8m)といった多くの備品を供給しています。


上の写真の左端に写っている建物のアップ。
26インチ大望遠鏡はここに据え付けられました。望遠鏡以外に、昇降床やドームもワーナー社製です。


その内部に鎮座する26インチ望遠鏡の勇姿。ヤーキス天文台の40インチ望遠鏡にはくらぶべくもありませんが、それでも堂々たるものです。


海軍天文台の白亜の建物を設計したのは、著名な建築家のハント(Richard Morris Hunt 、1827—1895)で、ここは彼の最晩年の作品になりますが、そのハントの名は本書にもう1か所登場します。


それが冒頭、第1図版に登場するこの愛らしい天文台です(写真の左下にハ
ントの名が見えます)。


「ワーナー、スウェイジー両氏の個人天文台」


この小さな塔の上の


小さなドームの中で、ふたりはどんな夢を追ったのか?
巨大なドームにひそむモンスター望遠鏡ももちろん魅力的ですが、この小さな天文台をいつくしみ、写真集の巻頭に据えたワーナーとスウェイジーの心根に私は打たれます。かのハントに設計を依頼したのも、二人がここをそれだけ大切に思ったからでしょう。立派な中年男性をつかまえて可憐というのも妙ですが、その優しい心根はやっぱり可憐だし、優美だと思います。

(この項おわり)

ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(中編)2024年04月17日 07時28分49秒

写真集の中身を見てみます(以下、原著キャプションは青字)。


「米国海軍天文台、ペンシルベニア大学、その他のために製作された天文機器類」。ワーナー社の倉庫ないし展示室に置かれ、納品を待つ製品群です。手前の4台は天体の位置測定用の子午儀・子午環、その奥は一般観測用の望遠鏡。
前回、前々回触れたように、ワーナー社の光学機器はレンズを外注しており、そのオリジナリティは機械的パーツの製作にこそありました。


たとえば、こちらは「米国海軍天文台の26インチ望遠鏡用の運転時計(driving clock)」。天体の日周運動に合わせて鏡筒を動かし、目標天体を自動追尾するための装置です。


あるいは、天体の位置を厳密に読み取る「位置測定用マイクロメーター(position micrometer)」


あるいは、「自社で製作し使用している40インチ自動目盛刻印装置」。上のマイクロメーターもそうですが、計測機器の「肝」ともいえる目盛盤の目盛りを正確に刻むための装置で、工作機械メーカーの本領は、こんなところに発揮されているのでしょう。


そうした製作加工技術の集大成が、大型望遠鏡であり、それを支える架台であり、全体を覆うドームでした。(「ヤーキス天文台の40インチ望遠鏡、90フィートドームおよび75フィート昇降床」、「ワーナー・アンド・スウェイジー社設計・施工。1897年」。)


上のヤーキスの大望遠鏡は実地使用に先立って、シカゴ万博(1893)にも出展されました。足元には正装をした男女、頭上には巨大な星条旗。天文学では後発だったアメリカがヨーロッパに追いつき、けた外れのスピードで追い越していった時代の変化を如実に物語っています。

(この項、次回完結)

ワーナー・アンド・スウェイジー、夢の跡(前編)2024年04月16日 18時20分15秒

19世紀最後の年、1900年にワーナー・アンド・スウェイジー社(以下、つづめて「ワーナー社」と呼びます)は、自社の天文機器をPRするための写真集を出しています。


■Warner & Swasey
 A Few Astronomical Instruments:From the Works of Warner & Swasey.
 Warner & Swasey (Cleveland)、1900

(タイトルページ。手元にあるのはノースダコタ大学図書館の旧蔵本で、あちこちにスタンプが押されています。)

本書成立の事情を、ワーナーとスウェイジーの両名による序文に見てみます。

 「我々がこれまでその計画と天文機器の製作にかかわった第一級の天文台の数を考えると、それらを一連の図版にまとめることは、単に興味ぶかいばかりではなく、現代の天文装置が有する規模と完璧さを示す一助となるように思われる。

 一連の図版は自ら雄弁に物語っているので、機器類と天文台については、ごく簡単に触れておくだけの方が、詳しい説明を施すよりも、いっそう好ましかろう。

 ここに登場する三大望遠鏡、すなわちヤーキス天文台、リック天文台、海軍天文台の各望遠鏡の対物レンズは、いずれもアルヴァン・クラーク社製であり、他の機器の光学部品については、事実上すべてJ.A.ブラッシャー氏の手になるものである。

 本書に収めた写真を提供していただいた諸天文台の天文学者各位のご厚意に、改めて感謝申し上げる。」

強烈な自負と自信が感じられる文章です。
たしかにアルヴァン・クラークとブラッシャーのレンズ加工技術は素晴らしい、だが我々の機械工作技術がなければ、あれだけの望遠鏡はとてもとても…という思いが二人にはあったのかもしれません。


当時のワーナー社の工場兼社屋。
堂々とした近代的ビルディングですが、よく見ると街路を行きかっているのは馬車ばかりで、当時はまだモータリゼーション前夜です。


この前後、19世紀末から20世紀初頭にかけて、車は内燃機関を備えた「自動車」へと姿を変え、人々の暮らしは急速に電化が進みました。そうした世の中の変化に連れて、天文学は巨大ドームとジャイアント望遠鏡に象徴される「ビッグサイエンス」へと変貌を遂げ、20世紀の人類は革命的な宇宙観の変化をたびたび経験することになります。(このブログ的に付言すると、本書が出た1900年は、稲垣足穂生誕の年でもあります。)

(この項続く)

100年前のプラネタリウム熱2024年02月10日 17時36分49秒

プラネタリウムの話題で記事を続けます。
プラネタリウムの歴史の初期に、ツァイス社が作成した横長の冊子があります。


発行年の記載がありませんが、おそらく1928年ごろに自社のプラネタリウムを宣伝する目的で作られたもののようです。

(タイトルページ)

  ☆ ツァイス・プラネタリウム ☆
― 星空観望: テクノロジーの驚異 ―


「目次」を見ると、

○なぜツァイスプラネタリウムが必要なのか?
○天文学者はツァイスプラネタリウムについてどう述べているか?
○ツァイスプラネタリウムの構造
○ツァイスプラネタリウムはどのように操作するか?
○演目
○プラネタリウムの建物は他の目的にも使える

…と並んでいて、「プラネタリウムの建物は他の目的にも使える」のページでは、“プラネタリウムのドームは、映画の上映会や音楽演奏会にも使えるんです!”と怠りなくアピールしており、ツァイス社が販売促進に鋭意努めていたことが窺えます。

こうしたプラネタリウムの概説に続いて、冊子は各地に続々と誕生しつつあったプラネタリウムを紹介しており、ボリューム的にはむしろこちらの方がメインになっている感があります。

(バルメン)

(ハノーファー)

(ドレスデン)

いずれもまことに堂々たる建物です。
試みにここに登場する各プラネタリウムの開設年を、ネット情報に基づき挙げてみます。

▼Barmen  1926
▼Berlin  1926
▼Dresden  1926
▼Düsseldorf  1926
▼Hannover  1928
▼Jena  1926
▼Leipzig  1926
▼Mannheim  1927
▼Nürnberg  1927
▼Wien  1927

既述のように、ミュンヘンのドイツ博物館で世界初のプラネタリウムが商業デビューしたのは、1925年5月のことです。その直後からドイツ各地で、雨後の筍のようにプラネタリウムのオープンが続いたわけです。

まだ生まれたての、それこそ海のものとも山のものとも知れない新技術に、なぜ当時の人々は間髪入れず――しかも巨額の費用をかけて――呼応したのか?各地のプラネタリウムを作ったのはどんな人たちで、どこからそのお金が出ていたのか?いったい、当時何が起こっていたのか?

   ★

ネット情報を一瞥すると、たとえばライプツィヒ・プラネタリウムの場合は、時のライプツィヒ市長のカール・ローテが、ミュンヘンでプラネタリウムの試演を見て大興奮の末に地元に帰り、市議会に諮って即座に建設が決まったのだそうです。

(ライプツィヒ)

ライプツィヒに限らず、当時のプラネタリウムはほとんど公設です。
もちろん議会もその建設を熱烈に支持したわけです。ドイツのように都市対抗意識の強い国柄だと、一か所が手を挙げれば、我も我もとなりがちだったということもあるでしょう。それこそ「わが町の威信にかけて…」という気分だったのかもしれません。

それらは博覧会の跡地に(ドレスデン)、あるいは新たな博覧会の呼び物として(デュッセルドルフ)、動物園に併設して(ベルリン)建設され、人々が群れ集う場として企図されました。

(ベルリン)

プラネタリウムに興奮したのは、もちろん市長さんばかりではありません。ベルリン・プラネタリウムの場合は、初年度の観覧者が42万人にも達したそうです(これは日本一観覧者の多い名古屋市科学館プラネタリウムの年間40万人を上回ります)。

(デュッセルドルフ)

このデュッセルドルフの写真も興味深いです。
当時の客層はほとんど成人客で、子供連れで行く雰囲気ではなかったようです。これはアメリカのプラネタリウム草創期もそうでしたが、当時のプラネタリウムは大衆教育の場であり、それ以上に大人の社交場だったのでしょう。

(大人のムードを漂わせるデュッセルドルフのプラネタリウム内部)

「もう見ましたか?」 「もちろん!」
「今月のプログラムはすごかったですね」 「いや、まったく」

プラネタリウムなしでは夜も日も明けない―。
さすがにそれほどではなかったかもしれませんが、当時のプラネタリウム熱というものは、我々の想像をはるかに超えるものがあった気がします。

それはツァイス社という一企業の努力に還元できるものではなく、当時の科学がまとっていたオーラの力のゆえであり、その力があったればこそ、市長さんも市議さんも一般市民も、もろ手を挙げてプラネタリウムを歓迎したのでしょう。

竜と天文学と絵本のはなし2024年01月21日 14時19分12秒

今日は地雨が静かに降り続いていて、心を落ち着けるには良い日です。
熱いコーヒーを淹れ、本棚から肩のこらない本を持ってきて、ときおり窓越しに灰色の空を見上げながら目の前の活字を追う…というのは、本当にぜいたくな時間の使い方で、人間やっぱりこういう場面が必要だなあと思います。

   ★

毎年、年の初めには干支にちなんだ話題を書くことが多いですが、今年は地震ですべて吹き飛んでしまいました。でも、今読んでいる絵本にひどく立派な竜が出てきたので、載せておきます。


これは西洋のドラゴンではなくて、本物の竜で、冒頭の天文学の歴史を説く章に登場します。中国の伝説的王朝「夏」の第4代皇帝・中康の治世に、お抱え天文学者が日食予報をさぼったために誅殺された…というエピソードに続けて、当時の人々は竜が太陽を食べてしまうため日食が生じると考えたこと、そのため日食になると、大声を上げて銅鑼や太鼓を打ち鳴らし、竜を必死で追っぱらったことが紹介されています。

これは古人を嗤うための滑稽なエピソードとして紹介されているわけではありません。古代にあっては天文学が公共の知ではなく。魔術師や為政者の独占物だったこと、そして日食の予報とそのメカニズムの解明は、まったく別次元の問題であることを作者は言いたいのです。…というわけで、これはかなりまじめな本です。

(オーラリーの表紙がカッコいい)

■Roy A. Gallant(文)、Lowell Hess(絵)
 Exploring the Universe.
 Garden City Books(NY)、1956.62p.

作者のギャラントは画家のヘスとコンビを組んで、これ以外にも当時「Exploring」シリーズというのをたくさん出して好評を博しました。これもその1冊です。


竜の絵だけだと「え?」と思われるかもしれませんが、これは1956年当時の天文学の知識を、美しい挿絵とともに綴った、なかなか魅力的な科学絵本です。




   ★

私は子供のころから科学絵本が好きで、よく手にします。
理解力が進歩してないということもありますが、それ以上に紙面に吹く科学の風に惹かれるからで、その風はたいてい良い香りがするものです。

もちろん、絵本の中にも駄作はあります。単なるハサミと糊の仕事であったり、読者である子供よりも、金主である親におもねっていたり…。でも、まじめな作り手だったら、相手が子供だからこそごまかしがきかないし、下手なことは書けないぞと、真剣にならざるをえないので、それが科学という学問の純粋さと呼応して、そこに良い香りが漂うのでしょう。

この68歳になる本にも、そうした良い香りを感じました。
本書の冒頭は、2人の天文学者の仮想対話から始まります。

「明日も太陽はのぼるかな?」「いや、明日はのぼらないと思うね。のぼるって言うなら、君はそれを証明することができるかい?」「もちろんさ。天文年鑑を見ると、明日の日の出は午前7時12分と書いてある。」「それは。その本を書いた人間がそう考えただけだろ?それは証明じゃないよ。ぼくはその証明が知りたいんだ。」

本に書いてあるから、偉い人が言ったから正しいことにはならない、現に「昔の偉い人」は珍妙なこともたくさん言っているよ…と、作者はそこから天文学の歴史を語り始めます。こういうことは、もちろん科学論文に書かれることはないし、大人向けの本でもあまり正面切って説かれることはありませんが、でも科学を語る上ではこの上なく重要なことです。

そういう当たり前のことに気づかせてくれるのも、科学絵本の魅力と思います。
(まあ科学絵本に限らず、良い絵本とはそういうものかもしれません。)

衝撃の出会い…松村巧氏のこと2023年12月30日 10時31分37秒

来年の1月で、「天文古玩」が始まって早18年になります。
この間、天文アンティークの周りを常にウロウロし、それにまつわる話を見聞きしてきたわけですから、「見るべきほどのことは見つ」…とまでは言わないにしろ、何となく心のうちに既視感が広がっていたのも事実です。要は新鮮な「驚き」が薄れつつあったわけです。

しかし、そんな薄ら生意気な感想が見事に打ち砕かれ、驚愕の大波に呑み込まれる日がやってきました。それは「日本の古本屋」で、たまたま1冊の本を見つけたからです。

■松村 巧(著) 『日本天文名所旧跡案内』
 私家版、1982.(B6判・126頁)

天文名所旧跡とは何か? 試みに本書の「もくじ」冒頭を掲げます。


天文に関わる名所旧跡は、かくのごとく多様です。
「第1章 天文遺跡・古い天文機器・天文台跡・隕石落下地・新星発見地・時・報時・天文関係旧跡」では、こんなふうに沖縄から北海道まで、天文に関連する<場所>と<物>が、都道府県別にガイドされています(ただし、全県を網羅しているわけではありません。また著者の編集方針により、活動中の天文台やプラネタリウムは省かれています)。この第1章(全71頁)が、本書のいわば肝の部分。

つづく「第2章 日食観測」では、戦前の日本で観測された皆既・金環食のゆかりの地とエピソードが紹介され、「第3章 測量基線」では、明治の国家事業として測量が実施された際、各地に設定された測量基線と三角点を考証するという、相当渋い内容になっています。

さらに、「第4章 未調査の天文名所旧跡」では「田上隕石について」はじめ7項目を採り上げ、最後の「第5章 天文名所旧跡案内第一集で紹介した主な天文名所旧跡」では、沖縄の「星見石」等、前著『天文名所旧跡案内』(1981)から主要58項目を再録しています。まさに至れり尽くせり。

私が言うのも僭越ですが、本書は大変な熱意に裏打ちされた、緻密な調査の賜物に相違なく、本を前にして、私は思わず居ずまいを正しました。そして、著者・松村巧氏のお仕事をもっと知りたいと思い、いろいろ探しているうちに、地元の図書館に以下の著作が収蔵されているのを知りました。

■松村 巧(著) 『近代日本雑学天文史』
 私家版、1991.(B6判・164頁)

私家版ゆえか、こちらは古書市場でも見つからなかったので、頑張ってコピー本をこしらえました。

(『雑学天文史』は片面コピーなので、原著の倍の厚みになっています)

こちらも「もくじ」の一部をサンプルとして掲げます。


この2冊を手にして、何だか急に自分が物知りになったような気がします。
それにしても、松村氏のお名前と業績を、なぜ今まで知らずにいたのか。そのことを大いに恥じ、且つ残念に思いますけれど、遅ればせながらその学恩に浴し得たことを、それ以上に嬉しく思います。本当に出会いというのは大切ですね。

松村氏の著作は、斉田博氏や佐藤利男氏らによる「天文史話」の発掘と紹介に連なるお仕事だと思いますが、こういうのは天文学や歴史学の専門家があまり手掛けない領域で、まさにアマチュアにとってのブルーオーシャン。私自身、大いに勇気づけられる思いがしました。

北欧世界地図帳2023年12月16日 07時40分52秒

今日はひさしぶりの休日。記事を再開します。

   ★

前回登場したいわく付きの地図帳ですが、あの地図帳には、さらに長い前史…というほどでもありませんが、経緯があります。あれを注文したのは、前述のとおり今年の9月でしたが、私は同じ本を5月にも一度注文しています。しかし、オランダの本屋さんからは待てど暮らせど発送の連絡がなく、メールで問い合わせても梨のつぶて。結局しびれを切らして、3か月目にキャンセルしました(このときは古書検索サイトが、古書店に代わって返金処理をしてくれたので助かりました)。

その後、2度めのチャレンジの結果がどうなったかは、前回書いたとおりです。

しかし、あの地図帳をどうしても手に入れたかった私は、スウェーデン王立図書館の権威を振りかざす怪しい古書店と揉めている最中、別の店に3度めの発注をかけました。幸い「二度あることは…」とはならず、今度は無事に真っ当な商品が届いて、ほっと胸をなでおろしました。正直、2軒めの店のせいで、スウェーデンの印象もだいぶ悪化していましたが、やはりスウェーデン人の多くは実直で、2軒めの店主が特異なのでしょう。


三度目の正直で届いたのがこちら。


50枚の図版を含むだけあって、36枚の図版しか含まない問題の地図帳(上)と比べると、判型は同じでも、厚さがずいぶん違います。

改めて本書の書誌を記しておきます(ちなみに36図版バージョンも、同出版社・同書名・同発行年なので要注意)。

■S. Zetterstrand & Karl D.P. Rosén(編著) 
 Nordisk Världsatlas(北欧世界地図帳).
 Nordisk Världsatlas Förlag (Stockholm), 1926.
 表紙40×26 cm、見開き図版50図+解説136頁+索引48頁

書名で特に「北欧」を謳っているのは、一連の地図の中でも、特に北欧エリアが詳細だからでしょう(「北欧」のパートには全11図が含まれています)。



上質の紙に精細に刷り上げた美しい石版の地図帳は、大戦間期の世界を覗き込む興味はもちろん、紙の本ならではの「めくる愉しみ」に富んでいます。
それだけなら、36枚版でもいいのでしょうが、私が50枚の図版にこだわったのにはワケがあります。


STJÄRNHIMMELN ――すなわち「星図」。
この地図帳の最後を飾る第49図と第50図は美麗な星図で、それをどうしても手に入れたかったからです。

(この項つづく)

ポラリスへの旅2023年12月03日 13時07分55秒

荒唐無稽であることは変わりませんが、昨日の本よりも高めの年齢層を意識し、そこに科学的フレバーをまぶすと、こんな本になります。


■Charls S. Muir (著)
 A Trip to Polaris or 264 Trillion Miles in an Aeroplane.
 The Polaris Co. (Washington, D.C.), 1923


この本は口絵以外に挿絵はないので、「絵本」ではまったくありません。でも、「天文学の本は面白く書けば、もっと面白くなるはずだ」という信念のもと、天文学に関しては素人のお父さんが、10歳の息子さんのために書き下ろした天文入門書…というのが素敵だと思いました。

(序文)

版元の「ポラリス社」は、どうやらこの本1冊しか出してないようで、要は著者ミューア氏の私家版でしょう(その割に今も古書市場にたくさん出ているのは、相当な部数を印刷したのでしょう)。

   ★

それにしても、『ポラリスへの旅―飛行機に乗って264兆マイル』というタイトルはすごいですね。これは比喩的な意味ではなく、文字通り特別製の飛行機に乗って、北極星まで行こうというお話しです。

 「ポラリスに向け、総員搭乗!我々の飛行機はまもなく出発します!現在、最後の酸素タンクを積み込み中です。これは264兆マイルもの北極星までの長旅には、最も必要なものです。さて、お友達にさよならと手をふる前に、この素敵な旅について一言述べておきましょう。」

 「我々の旅はすべての惑星をめぐり、その後、最も近い恒星を目指して、より遠くの宇宙を進みます。最も近いといっても、そこは惑星系よりも遥かに遠い場所です。さらに星座の間を縫うように飛び、ポラリスを目指します。その過程で、私たちは星たちの「内部」情報を手に入れることになるでしょう。」

 「さあ、酸素タンクの積み込みが終わりました。パイロットもお待ちかねです。皆さん、席に着いてください。機体は上昇を始め、地球がほんの小さな点になるまでぐんぐん上昇を続けます。まずは我々になじみ深い太陽へと向かいます。我々の旅はそこからスタートする必要があるからです。太陽までは9300万マイルもありますが、我々の飛行機は光の速さで飛ぶため、8分20秒以内に到着します。」

こんな具合に宇宙の旅は始まり、飛行機は天界の名所を次々と訪れ、天体について学びながら、何年も飛び続けます(この旅では相対性理論による時間短縮効果は考慮されていません)。

(中身はこんな感じ。子供向けにはもっと挿絵がほしいところ)

そしてついに目的の星、ポラリスへ。
我々は264兆マイルの距離を飛び続け、言い換えれば264兆マイルの落下を続けて、ついにポラリスへドーン!「…と、ベッドから床に落ちた拍子に頭をぶつけ、眼の前には、これまで訪れた星々がいっせいにチカチカしています。すべては夢だったのです。でも、きっと多くのことを学べたことでしょう。」

   ★

こちらも最後は夢オチです。

安易な気もしますが、夢オチ以外、話の決着を付けられないというのは、人間の想像力の一種の限界を物語るもので、地上の日常世界と天上の非日常世界の境界を越えるには、「夢」というツールが欠かせなかった…ということかなと思います。

「お伽の国」ほどではないにしろ、今でも宇宙は「なんでもありの世界」として描かれがちです。古代ギリシャの哲人も、月を境として、卑俗な4元素から成る下界と、透明なエーテルで満たされた天上界とを厳然と分けて考えましたが、こういう思考はなかなか根が深いです。

   ★

最後にひとつ気になったのが、ポラリスまでの距離。
264兆マイルというのは45光年に相当し、最新の値は448光年なので、ひょっとして著者は一桁勘違いしている?とも思いましたが、調べてみると、これはこれで正しいようです。

本書が出たのと同じ1923年、京大の山崎正光氏が、雑誌「天界」に「天体距離の測定法(三)」という文章を書いていて【LINK】、それを見ると北極星までは44光年となっています。

当時は、恒星までの距離を求める方法として、年周視差の測定以外に、新たに分光視差法(スペクトル型からその星の絶対等級を推定し、見かけの等級と比較することで距離を求める方法)が導入された時期であり、方法論的進展が見られた時期です。

とはいえ、近傍の恒星までの距離を知るには、年周視差の測定がもっとも正確な方法であることは昔も今も変わらず、45光年から448光年に数字が置き換わったのは、もっぱらこの間の観測精度の向上によるものです(現在は観測衛星のデータを利用しています)。

   ★

それにしても、光速でも450年近くかかると知ったら、さすがのミューア氏も本書を書くのをためらったか、少なくとも目的地の変更は避けられなかったでしょうね。

星への旅2023年12月02日 15時56分33秒

こんな品を見つけました。


表面にPOST-BOOKとあります。ひょっとしたら今でもあるのかもしれませんが、当時は切手を貼るとそのまま投函できる、こういう小さな絵葉書サイズの絵本があったらしいです。


「星への旅 A Trip to the Stars」
タイトルページを除き全13ページ。ぱっと見、1920年代の品かな?と思いましたが、よく見ると1907年のコピーライト表示があって、意外に古いものでした。

タイトルページ以外は、オールカラー(おそらく網点併用のクロモリトグラフ)の凝った作りです。作者のOlivia Barton Strohm(1869-1953)は、シカゴ在住の作家で、当時広告業界でも活躍した女性のようです。作画を担当したClaude L. Ottman については未詳。


内容は、テッドとジュディの兄妹がお手製の凧に乗って、星の世界を大冒険するというもの。


お腹がすけばミルキーウェイで牛乳を一杯。


流星に凧を燃やされそうになってハラハラしたり、彗星の尻尾をつかまえたり、土星の環っかのメリーゴーランドを楽しんだり…。


最後はお決まりの夢オチという他愛ないお話ですけれど、ここには何の教訓もないところがいいですね。

   ★

童心や無邪気さを無条件に肯定できる世界―。
それを与えられている子どもは、今の世界ではむしろ少数かもしれません。
それでも、すべての子どもの頭上には、今も無限の星空が広がり、そこに夢を託すことが許されています。すべての子どもにとって、星の世界が、常に美しい夢とおとぎの国でありますように。

せめて星の世界だけでもそうあらねば、あまりにも救いがないではないか…と、悲惨なニュースを見て思います。

あの名店がお隣にやってきた2023年09月09日 15時24分20秒

ブログをそろそろ再開…といいながら、なかなか再開しないのですが、物事の終わりというのは、得てしてこういうものかもしれませんね。炎が徐々に細くなって、ふっと消える感じといいますか。とはいえ、一息に吹き消すつもりもないので、この駄文もまだしばらくは続きます。

   ★

最近、心に波風が立ったこと。

以前も何回か言及した Daniel Crouch Rare Books
私はたわむれに「倉内古書店」とか、「倉内さん」とか心の中で呼んでいますが、同社はそんなふうに馴れ馴れしく呼ぶのは本来畏れ多い相手で、ロンドン・メイフェア近くの一等地に店を構え、最近はニューヨークにもオフィスを設けている、古地図・古典籍の世界では押しも押されもせぬ超一級のディーラーです。

そのクラウチ古書店が、宝の山を抱えて、今、すぐ近くまで来ていると聞きました。
9月6日から9日まで、すなわち今週の水曜日からちょうど今日まで、ソウルで開かれている「フリーズ・ソウル」というイベントにブースを設けて、同社も出展しているのだそうです。

(9月7日付けの同社のX(ツイッター)ポスト。

(クラウチ古書店の取扱商品の一部。

フリーズ・ソウルは、美術雑誌『FRIEZE』の版元であるフリーズ社が例年開催しているアートフェアの一環で、今のところロンドン、ニューヨーク、ロサンゼルス、そしてソウルが開催地となっており、ソウルでの開催は、昨年につづき今年で2回めだそうです。

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フリーズ・ソウルには、日本のアート・ディーラーも多数参加しているので、これがただちに日本の凋落を意味するわけでもないでしょうが、何しろこういう催しは、より多くのお金が落ちるところで開かれるのが常ですから、それが今ではトーキョーではなくソウルになった…というところに、なにがしかの感慨を覚えます。ことに先日の国立科学博物館のクラウドファンディングの一件以来、文化的貧困の淵に沈む日本の行く末に思いをはせていたので、よけい心に冷たい秋風が吹くわけです。

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まあ、日本一国の運命がどうであれ、世界規模で見たときに文化が栄えるのであれば大いに結構な話で、そうくよくよするにも及ばない…とは思うんですが、でも日本の貧困化と私自身の貧困化はかなりシンクロしているので、身辺に及ぶその影響は、決して小さいものではありません。