月の空を飛んだ兄弟の記憶(前編)2017年11月24日 07時03分59秒

年の瀬が近づき、街はすっかりクリスマスムードです。
2017年ももうじき終わりですけれど、遅ればせながら2017年にちなんだ話題です。

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今からちょうど半世紀前の1967年。
人間の背丈ほどの人工天体が、月の周りを回りながら、課せられたミッションにせっせと取り組んでいました。すなわち、アメリカの「ルナ・オービター」4号機および5号機です。そして、彼らのミッションとは、月面の詳細な写真地図を作ること。

(NASAのロゴ。下に紹介する書籍の扉より)

ルナ・オービター計画自体は1964年からスタートしており、月への接近も前年の1966年から始まっていました。ただし、前任の1号機から3号機までは、アポロ計画の露払いとして、その着陸予定地点を精査することを目的としており、月面地図作りの大仕事を任されたのが、後継の4号機と5号機だった、というわけです。

その期待に応えて、4号機は月面の大半を写真撮影することに成功し、さらに5号機が、4号機の撮り洩らしたエリアもすべて写真に収め、一連の計画はすべて成功裡に終わったのです。

…というのは、例によってウィキペディア(「ルナ・オービター計画」の項)の受け売りに過ぎませんが、受け売りついでに書くと、同じ項の以下の記述も一寸驚きです。

 「ルナ・オービター計画の撮影システムは非常に複雑であった。まず、月面を撮影した後、軌道上にてフィルムの現像を自動で行い、濃淡を帯状にアナログスキャンし、データを地上に送信する。地上では、データをモニターに表示し、それを再び撮影する。そして最後に、帯状の画像をつなぎ合わせて全体の画像を作成していた。」

何といっても月探査機ですから、そこには当時の最先端技術が投入されたのでしょうが、画像処理に関しては、予想以上にローテクというか、アナログ一色の世界でした。しかし、それでも見事な成果を上げところが、やっぱり偉いといえば偉いし、スゴいといえばスゴかったわけです。

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ここでルナ・オービターの話題を持ち出したのは、先日、ルナ・オービターによる当時の月写真集を手にしたからです。

(高さ35cmを超える大判の写真集)

■L. J. Kosofsky & Farouk El-Baz,
 『The Moon as Viewed by Lunar Orbiter』 (ルナ・オービターが見た月)
 National Aeronautics and Space Administration (NASA)、1970

下は同書に掲載されている撮像システム。

(左:撮像システム、右:フィルムフォーマット概念図(部分))

搭載のカメラは、中解像度の80mm広角レンズと高解像度の610mm狭角レンズを備え、装置内には79mの長大な70mmコダックフィルムが装填されていました。そこに、写角が広狭の画像を、互い違いに写し込んでいく仕組みです。

同じくフィルムスキャンシステム。


光源は電子線を当てた蛍光物質から発する光で、それをレンズで点状に集光し、フィルム上の画像を舐めるように走査した結果が対向面で記録され、画像信号として地上に送信されました。

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かつて月上空を旋回した5機のルナ・オービターは、運用終了後、いずれも月面に落下し、その貴重な撮影フィルムも探査機本体と運命を共にしました。今となっては、ルナ・オービターの「声」を遥かな地上で聞き取って、それを元に画き起こした「絵」が、彼らの形見として残るのみです。

彼らの半世紀前の偉業をしのんで、ちょっと古めかしい写真集のページを開いてみます。

(この項つづく)

お伽の国の天文学者2017年08月27日 13時05分48秒

「お伽の国の天文学者」と聞くと、19世紀末に出た、ロリダン神父の『アストロノミー・ピットレスク』の表紙をすぐに思い出します。

(背景が自然主義)

この立派なフォリオサイズの本の表紙をかざる天文学者。


お伽チックな街の、お伽チックな塔から、星を眺める姿を描いていますが、もちろんすべては空想世界に属するイメージです。

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現代の我々は19世紀フランスと聞くと、何となくベルエポックなロマンを連想しますけれど、19世紀の人は19世紀の人で、「つまらない日常」を逃れるべく、よその時代に夢を託すことに必死で、その具体例がこの表紙絵なのだと思います。


19世紀末のフランス人にとって、アンシャン・レジームは既に遠い過去であり、ましてや中世ロマンの世界は、遠い遠い歴史の霧に包まれた世界です。
逆に、そういう遠い世界だからこそ、自由奔放な夢を託すことができたわけで、これは現代の日本人が、不思議な「戦国ロマン」を語るのとパラレルな話だと思います。

また、仮に中世の吟遊詩人の時代に遡ったところで、そこで語られるアーサー王の物語は、彼らよりさらに500年以上も昔のお話なのですから、結局どこまで行ってもきりのない、逃げ水のような話です。

現実逃避というのは、いつの世でも起こり得るものです。
このブログにしたって、その例に漏れません。むしろ、「現実以外の現実」を生み出せるところが、人間の特殊性でもあるのでしょう。


【おまけ】

(本書のタイトルページ)

この本は純然たる天文学入門書ですが、カトリックの聖アウグスチノ会と、カトリック系のデクレー=ド・ブルーヴェル出版が組んで発行したというのが、ちょっと変わっています。タイトルページには刊年の記載がありませんが、ネットでは1893年刊という情報を目にしました。

なお、この本は「ピットレスク(英語のピクチャレスク)」を謳っていますが、ビジュアル的には、ところどころ白黒の挿絵が載ってるだけなので、購入の際は一考あって然るべきだと、老婆心ながら付け加えたいと思います。(こういう「表紙倒れ」の天文古書はたくさんあります。)

月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(後編)2017年07月30日 08時11分42秒

ちょっと我ながら大胆過ぎる気がしないでもないですが、古今の七夕の歌を眺めての感想は、「七夕の歌に名歌なし」というものです。

七夕の歌は様式化が著しく、「年に一度の出逢いに焦がれる心」とか、「後朝の別れの恨めしさ」とか、やれ鵲(かささぎ)の橋がどうしたとか、ごく少数のパターンの中で、延々と類歌が作られ続け、しかもほとんど机上の空想歌ですから、これでは退屈な歌ばかり出来ても止むを得ません。

もっとも、これは文学において独創性を重んじる、現代の目で見るからそう思えるのであって、古人は詩歌の様式美とか、本歌取りの機知なんかを、もっと重視していたでしょうし、要は「名歌」の基準そのものが、時代とともに変ってしまった…という事情もあるのでしょう。

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奈良、平安、鎌倉―。
そんな遠い昔の人が、確かにその目で見た星の輝き、夜空の色。それが眼前に迫るような歌、すなわち天の川の美しさを素直に詠んだ叙景歌が、私にとっての名歌です。

上記のとおり、七夕の歌にそういう歌は少ないのですが、そんな中で目に付いた歌を書き抜いてみます(改行と分かち書き、及び〔 〕内はいずれも引用者)。

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さよふけて 天の川をそ 出て見る
おもふさまなる くもやわたると  (拾遺和歌集/よみ人しらす)

気まぐれな雲が空にかかっていないか、夜更けにつと天の川を見に屋外に出た…というだけの歌に過ぎませんが、そのさりげなさが、むしろこの歌にリアリティを与えています。

  曇り空に対する懸念。
  それを払拭するかのように、鮮やかに光る銀河。
  それを目にした作者の驚き、安堵、喜び…

そんな心理を裡にひそませつつ、初秋の涼しい空の色と、白く煙る銀河をイメージさせる、良い歌だと感じました。

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くもまより ほし合のそらを 見わたせハ
しつ心なき 天の川なミ  (新古今和歌集/祭主輔親)

前掲歌と同じく、天の川の印象を素直に詠んだ歌。織姫・彦星の人間臭いドラマよりも、天の川そのものを主役に据えた点に特徴があります。

描かれたのは「雲間の銀河」です。大気上層の状態によるのか、星々がチラチラと「静心なく」またたき、天の川が波立つように感じられた―という叙景が美しいです。

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ひこほしの 行あふかけ〔影〕を うつしつゝ
たらひの水や あまの河なミ  (正治院御百種/藤原朝臣範光)

これは風俗史的に面白い歌です。七夕の晩、たらいに張った水に牽牛・織女を映して、二星の行き合いを見守るというのは、江戸時代の絵でよく見ますが、その起こりは江戸よりはるか昔に遡るようです。

(伊東深水画、「銀河祭り」(1946)の絵葉書)

「澄んだ水に映る星影」というのが、清らかなイメージを喚起しますが、水鏡に星が映るぐらいですから、昔はよっぽど空が暗く、星が明るかったのでしょう。

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ちょっと毛色の変わったところでは、下の歌は、その着想において光っています。

天河 これやなか〔流〕れの 末ならん
空より落る 布引の滝  (金葉和歌集/よみ人しらす)

「布引の滝」は、今の新神戸駅の近くにある名滝で、古くからの歌枕。
どうどうと音を立てるこの瀑布は、天の川の遥かな末流である…と想像の翼を広げています。

(一昨年、神戸を訪れたときに見た布引の滝)

中国には、黄河をさかのぼると銀河に達するという観念があったことを、以前書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/06/16/)、あるいはそれに影響されたのかもしれません。しかし、発想は似通っていても、彼方の悠然たる大河に対し、冷たいしぶきを上げる滝を持ってきたところに、両者の風土の違いがよく出ています。

これは都人の机上の作だと思いますが、それだけにとどまらない、幻想味の濃い、鮮烈な良い歌です。

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…こんなふうに挙げていくと、「名歌なし」と言いながら、結構な数の歌を挙げることになってしまうので、最後に本当のメモを書き付けておきます。

これも以前の話題ですが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/07/07/)、『銀河鉄道の夜』に登場する、銀河のほとりに群生するススキの原に関連して、そのイメージは賢治以前から、日本の文芸の世界に伝わってきたものと推測したことがあります。

そのときは、江戸時代の短冊一枚からそう思ったのですが、『七夕和歌集』に他の類例を見付けたので、ここに挙げておきます。

七夕の 行あひになひく 初おはな〔尾花〕
こよひはかりや 手枕にせん  (新続古今和哥集/前大納言為定)

手枕は共寝の謂い。いかにも艶なる歌です。

月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(前編)2017年07月29日 12時46分08秒

アブラゼミに続いてクマゼミも鳴き出し、煮えるような暑さです。

汗を拭きながら出勤する途中、緑の濃いお宮の脇を通るのですが、その境内の片隅に、大きな「忠魂碑」が立っています。その表面につかまる物言わぬ蝉の抜け殻を見ると、もうじき訪れる8月のことをボンヤリと考えます。 (以下、「閑語」につづく)

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7月ももうじき終わりですが、バカンスと称して、記事の方を一服したせいで、今月は七夕に関する話題がひとつもありませんでした。でも、さっき暦を見たら、今年は「閏5月」が挟まったおかげで、旧暦7月の到来も後ろにずれて、8月27日が旧の七夕だそうです。では昨年は…というと、去年は8月9日が旧の七夕でした。

こういう風に、年によって年中行事の日取りが大きく前後にずれてしまうので、「旧暦の方が自然の季節感にフィットしている」というのは、全くの誤解です。

太陽と地球の位置関係(=季節のめぐり)を考えると、毎年ほぼ同日に、夏至や冬至、春分や秋分を迎える太陽暦の方が、よほど季節に忠実です。

ただ、旧暦の日付けで催していた季節行事を、そのまま新暦で強行すると、いろいろ不具合が出て、「新春」の正月行事を、冬の真っ最中に祝ったり、「初秋」の行事である七夕を真夏の、しかも梅雨時明け前に行うというような、いかにも不自然な結果になります。

いっそ、月遅れのお盆(8月15日)のように、旧来の行事は全部月遅れで行うことにすれば、季節感の点では問題ないのでしょうが、「7月7日」のように、“ゾロ目”に有難味がある行事だと、それも難しいかもしれません。

   ★

月遅れの七夕を前に、こういう便利な本があることを知りました。


吉田栄司(編)、『七夕和歌集』(古典文庫 第559冊)、平成5年
(なお、古典文庫という一大叢書については、こちらに解説があります)

七夕を詠んだ古歌のアンソロジーは、『七夕星歌抄』『二十一代集七夕哥寄』をはじめ、江戸時代に繰り返し編纂されており、それらを一書にまとめて翻刻し、さらに索引を付したのが本書です(和歌の他、『新撰七夕狂歌集』のような近世の狂歌集も一部含まれます)。

(口絵および目次)

気になる歌に付箋を貼りながら読んでみたので、そのことをメモ書きしておきます。

(この項つづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

(冒頭のつづき)
死とは厳粛なものでしょう。しかし、数に還元された死となると…

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  私達は食用蛙です!
  クロツケ
  クロツケ
  泣け! 叫べ!
  〔…〕
  人間の屠殺だ!
  レケロ
  レケロ
  〔…〕
  卓上の噴水! 赤灯! 黄色の円――納棺だ!
  「万歳!」「万歳!」
  「ウラー!」――死人の山だ!

ダダイスト詩人の萩原恭次郎は、かつてこんな激烈な反戦詩を書きました。こうなると、もはや尊厳も何もありはしません。繰り返しますが、死とは厳粛なもののはずです。その意味で、私には「靖国」という、およそ本来の神道とは程遠い、近代国家の発明品が、至極不真面目なものに思えるのです。

   ★

昨日の朝日新聞を開いたら、「平成と天皇―首相経験者に聞く」と題して、鳩山元総理のインタビューが載っていました。その中で、鳩山さんは首相として内奏に臨んだ思い出をこう語っています。

 「陛下が、皇太子時代に美智子さまと訪れたアフガニスタンで自爆テロが頻発していることについて、『自分の命を失うことで天国に召されると信じている人びとに、自爆テロをやめさせるにはどうすればいいんでしょうか』とおっしゃったことがある。『若者を過激なイスラム主義に追いやっている貧困に手立てを講じることが、結果的に自爆テロをなくす道につながるのではないでしょうか』と申し上げたが、難しい問いに言葉に詰まった」

このとき天皇の脳裏には、かつての日本のことも同時に浮かんでいたのではないか…という疑念を私は持ちます。現天皇はまことに肝の据わった人で、そのリベラルな思想と相まって、私は大いに好感を持っていますが、さらに上のような問題意識を常に持っているとしたら、いよいよ立派な人物であり、ここはむしろ天皇自らの答を伺ってみたい気がします。

   ★

8月の空を見上げて、忠魂の「忠」の意味合いを、私は通勤の度に考えるでしょう。

空の旅(17)…『スミスの図解天文学』異聞2017年05月05日 10時10分50秒

(今日は2連投です。以下、前の記事のつづき)

『スミスの図解天文学』についての新知識、それはこの本で最も有名で、最も人気のある最初の図版↓には、元絵があるということです。


このことは、会場でメルキュール骨董店さんに教えていただいたのですが、その元絵とは、Duncan Bradford という人が著した、『宇宙の驚異(The Wonders of the Heavens)』(1837年、ボストン)という本に収められたもの。

(ダンカン・ブラッドフォード著、『宇宙の驚異』 タイトルページ)

スミスの本の正確な初版年は不明ですが(※)、ダンカンの本は、スミスの本におよそ10年先行しているので、こちらが元絵であることは揺るぎません。

その絵がこちらです。


(上図部分拡大)

印刷のかすれが激しいですが、確かにほとんど同じ絵です。
しかし、その舞台背景はエジプトの神殿風ですし、先生役は黒い女神、そして生徒たちは黒いキューピットと、何だかすごい絵です。思わずため息が出る、奔放な想像力。

ブラッドフォードの本を手にしたのは、ずいぶん前のことですが、この挿絵の存在は、メルキュールさんの慧眼によって指摘されるまで気づかずにいました。メルキュールさんには、この場を借りて改めてお礼を申し上げます。

   ★

ところで、ブラッドフォードとスミスの絵には、舞台設定の違い以外にも、天文学史上の時代差が出ています。それは、前者には1846年に発見された海王星が描かれていないことです。

(ブラッドフォードの挿絵・部分。最外周を回るのは1781年に発見された天王星)

片やスミスの方には、当時最大の発見・海王星が、発見者の名をとって「ルヴェリエ」として記載されています(天王星の方は同じく「ハーシェル」)。

(スミスの挿絵・部分)

ちなみに日本の『星学図彙』ではどうかと思ったら、こちらは「海王」「天王」となっていました。

(『星学図彙』・部分)

「Neptune/海王星」、「Uranus/天王星」という新惑星の表記は、欧米でも日本でも、いろいろ揺れながら定着しましたが、日本に限って言うと、この直後(明治9年、1876)に出た『百科全書 天文学』(文部省印行)という本では、すでに「海王星」「天王星」となっているので、神田によるこの過渡的な表記は、ちょっと面白いと思いました。

   ★

さて、いろいろな時代、いろいろな国をたどってきた「空の旅」も終わりが近づいてきました。次回は20世紀に足を踏み入れます。



(※) 連邦議会図書館には、1850年刊のものしか所蔵されていません。手元にあるのは1849年刊で、それでも「第4版(Fourth Edition)」となっています。年1回以上版を重ねることもあるので、おそらく初版は1848年~47年頃と推測します(さっき古書検索サイトを覗いたら、1848年に出たものが売られていました)。

空の旅(16)…海を渡った天文書2017年05月05日 10時00分19秒

さて、時代は19世紀の半ばから後半へと向かいます。
そして、場所はヨーロッパから船に乗り、大西洋を越えたアメリカ。


ニューヨークの公立学校の校長先生である、エイサ・スミスが著した『スミスの図解天文学』(第4版、1849)


改めて述べるまでもなく、そのクールな図版で、今や天文古書の中でも一、二を争う人気者ですから、天文アンティークファンならば先刻ご承知でしょう。

スミス先生の頃のアメリカは、まだジャイアント天文台の建造ラッシュ前で、天文学の面ではヨーロッパに大きく遅れをとっていました。でも、教育に関してはひどく熱心でしたから、こうした天文書の傑作が生まれたものと思います。

思えば、この「天文古玩」との関わりもずいぶん古く、今から11年前、このブログが誕生して、まだ生後10日目ぐらいのときに早々と取り上げているので、相当な古なじみです。

しかし、今日のテーマはスミス先生の本ではなく、これがさらに太平洋を越えて、極東で芽を吹いた…という話題です。


明治4年(1871)、神田孟恪(本名・孝平、1830-1898)が訳した『星学図説』
邦訳は本文2冊、図版1冊の3分冊で刊行され、図版編には特に『星学図彙』という別タイトルが付されました。


これによって、長い長い「空の旅」は、ぐるっと地球を一周したことになります。
 The East meets the West.
 The West meets the East.
宇宙についての学問は、こうしてまさに「ユニバーサル」なものとなったのです。


とはいえ、両者に漂う「情緒」の違いといったら―



両者は確かに同じだけれども、やっぱり違う…と感じます。



これはたぶん天文学という学問の受容の仕方もそうでしょう。
そこで説かれる事実・法則・理論は、もちろん世界共通ですし、当然同じものでなければなりません。でも、そこに漂う情緒や「湿り気」は、必ずしもそうではありません。

その違いは、学問的著作には現れないかもしれませんが、一般向けの本や、児童向けの本になると徐々に染み出してきて、各国の「天文趣味」にローカルな色彩を与えているように感じます。

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ところで、スミスの本について、今回の「博物蒐集家の応接間」で新たに知ったことがあるので、オマケに書き添えておきます。

(ちょっと記事が長くなったので、ここで記事を割ります)

空の旅(15)…日食地図2017年05月04日 10時23分20秒

今回の「空の旅」はレプリカも多くて、ちょっと展示に弱さがありました。
それを補う、何かアクセントになるものを入れたいと思って、19世紀初めに出た美しい「日食地図」をラインナップに加えました。

(販売時の商品写真を流用)

■Cassian  Hallaschka(著)
 『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
  ab anno 1816 usque ad annum 1860』
 (地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
 日食概説)


「1816年にプラハで出版された日食地図。1818年から1860年にかけて予測される日食の、食分(欠け具合)と観測可能地点を図示したもの。日食の予報は、天文学の歴史の中でも、最も古く、最も重要なテーマのひとつでした。」


オリジナルは107ページから成る書籍ですが、手元にあるのは、その図版のみ(全22枚ののうちの11枚)を、後からこしらえたポートフォリオ(帙)に収めたものです。
その表に貼られているのは、オリジナルから取ったタイトルページで、図版はすべて美しい手彩色が施されています(各図版のサイズは、約25.5cm×19.5cm)。

(タイトルページに描かれた天文機器)

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ここでネット情報を切り貼りして、補足しておきます。

著者のフランツ・イグナーツ・カシアン・ハラシュカ(Franz Ignatz Cassian Hallaschka、1780-1847)は、チェコ(モラヴィア)の物理学者。
ウィーンで学位を取り、母国のプラハ大学で、物理学教授を長く勤めました。今回登場した『日食概説』も、同大学在職中の仕事になります。

上記のように、日食の予報は洋の東西を問わず、天文学者に古くから求められてきたもので、その精度向上に、歴代の学者たちは大層苦心してきました。

そうした中、ハラシュカが生きた時代は、ドイツのヴィルヘルム・ベッセル(1784-1846)や、カール・ガウス(1777-1855)のような天才が光を放ち、天文計算に大きな画期が訪れた時代です。ハラシュカの代表作『日食概説』も、日食計算の新時代を告げるもので、そうした意味でも、「空の旅」に展示する意味は大いにあったのです。


さらに、この地図の売り手が強調していたのは、当時まだ未踏の北極地方の表現が、地図史の上からも興味深いということで、確かにそう言われてみれば、この極地方のブランクは、科学の進歩における領域間の非対称性を、まざまざと感じさせます。(北極以外も、このハラシュカの地図には、16世紀の地図のような古拙さがあります。)


遠くの天体の位置計算がいかに進歩しようと、足元の大地はやはり生身の人間が目と足で確認するほかないのだ…などと、無理やり教訓チックな方向に話を持って行く必要もないですが、当時はまだ広かった世界のことを思い起こし、そこから逆に今の世界を振り返ると、いろいろな感慨が湧いてきます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ハラシュカの地図じゃありませんが、生活者たる身として、遠い世界と同時に身近な世界のことも当然気になります。

安倍氏とその周辺は、公然と改憲を叫び、共謀罪の成立を目指しています。
その言い分はすこぶるウロンですが、それを語る目元・口元がまたウロンです。

何せ、スモモの下では進んで冠を正し、瓜の畑を見ればずかずかと足を踏み入れ、そして袂や懐を見れば、何やらこんもり重そうに膨れている…そんな手合いですから、その言うことを信じろと言う方が無理です。

彼らは冠よりもまずもって身を正すべきです。
議論は全てそれからだと私は思います。

空の旅(14)…オペラグラス2017年05月03日 11時41分52秒

世はゴールデンウィーク。

『博物蒐集家の応接間 ~旅の絵日記~』が神保町で行われてから、すでにひと月以上経ちました。でも、ブログ内の時空は、依然としてあの場に固着しています。「旅」の軽やかさとは程遠い鈍重さですが、地球全体を巡る2千年以上に及ぶ旅の日記であってみれば、歩みが遅いのも止むを得ません。(どうか、そういうことにしておいてください。)

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さて、今日のテーマは「オペラグラス」。
例によって、展示当日のプレートの文面を引いておきます。

「19世紀のオペラグラス」
「イギリスのドロンド社製の双眼鏡(19世紀前半)。観劇用に用いられたので、「オペラグラス」の名がありますが、手軽な星見の道具としても重宝されました。時代は下りますが、天文趣味を広めたギャレット・サーヴィスには、『オペラグラスによる天文学(Astronomy with an Opera-Glass)』(1910)という愛らしい本があります。」


当日は、サーヴィスの本も会場に並べて、オペラグラスと天文趣味の結びつきを視覚化しました。


オペラグラスについては贅言無用と思います。
天界散歩の友としては、スパイグラスよりも一層スマートで、観劇帰り、手にしたバッグからひょいと取り出して、今度は星たちのドラマを眺める…なんていう洒落た紳士や淑女もいたことでしょう。

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ところで、サーヴィスの本の中身ですが、こちらは現代の観測ガイドとほとんど変わりません。

(サーヴィスの本の目次)

章立ては季節ごとになっていて、そのときどきの空の見所を図入りで紹介しています。


春は北斗の季節。
今だと、ちょうど夜の9時ごろに高々と空にのぼった姿が眺められます。

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同時にこの前後、大空から天の川の姿がいっとき消えます(条件の良いところならば、地平線に沿って天の川がぐるりと一周しているのが見えるはずですが、それは望みがたいでしょう)。このとき、日本の地平面は、ちょうど銀河面と同一になり、我々はまさに銀河の只中に身を置いて、天頂高く銀河北極を眺める格好になります。そして、そこからは何十億光年も彼方の光が、微かに、しかし確実に我々の元まで降り注いでいるのです。

…ありふれた日常の中でも、そんな壮大なイメージで、世界そのものを感じ取れるのが、天文趣味の妙味。

空の旅(8)…モンゴルの暦書2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

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ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

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モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

   ★

モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

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インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。