黴の如く2017年02月17日 07時26分45秒

以前、仏文学者の鹿島茂さんが、エッセイで以下のように書かれていました。

 〔「本を書かない」か「本を買わない」かの〕 どちらかを選ぶとなったら、私は躊躇することなく「本を書かない」ほうを選ぶだろう。なぜなら、本を書くのは楽しくないが、本を買うことは楽しいからだ。 (『子供より古書が大事と思いたい』 文春文庫)

私と鹿島氏とでは、身の置き所が異なりますが、それでも「本を書く」より「本を買う」方が、だんぜん楽チンだ…というのは、よく分かります。

確かに、お金さえあれば、モノを買うのは、わりと簡単なことです。
――いや、そんなことはない。モノを買うということが、いかに大変なことか…というのも真実ですけれど、そう思われる方は、たぶんモノとの付き合い方が、抜き差しならないところまで行ってしまった方でしょう。まあ、一般論として、単純にモノを買う方が、モノから何かを生み出すよりも楽チンなのは確かです。

いずれにしても、前提となるのは、「お金さえあれば」という点。
鹿島氏は同じ本で、こうも書かれています。

 だが、いずれ、この病も、裁判所の執達吏が癒してくれることだろう。どうやら、全快の日はそれほど遠くはなさそうである。

この子供より古書が大事と思いたいという、かなりえげつないタイトルの本は、1996年に単行本が出て(版元は青土社)、文春文庫に入ったのは1999年です。しかし、鹿島氏の期待も空しく、氏はその後、2003年にはそれでも古書を買いました(白水社)という、病勢がさらにつのった趣の本を出され、その中で「子供と本は黴のように貧乏の上で増えていく」と述懐されています。


あれから14年が経ちましたが、鹿島氏が本復されたという話はついぞ聞きません。

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「あの鹿島氏だって…」と、氏を引き合いに出すことで、自分の振る舞いが正当化されるわけではありませんし、今の世の中がそんな太平楽を許さない状況にあるのも痛感していますが、そこが宿痾(しゅくあ)の恐ろしさ。我ながら業の深いことだと、歎息するほかありません。

そんなわけで、記事を書くのをさぼっていても、モノを買うのは続いています。
こうしてモノは徐々に増えていきます。まさに黴の如くに。

…というような、愚にも付かぬことを書きながら、記事再開のタイミングを計っています。


古紙復活2016年11月18日 07時28分59秒

今日は天文とは関係ないですが、古玩とは関係のある話題。

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小さな紙物や古絵葉書を買うと、商品が途中で折れ曲らないよう、他の絵葉書を台紙代わりに同封してくれることがあります。向こうも廃物利用のつもりだろうし、こっちもたいていは捨ててしまいます。


先日も、アビニョン教皇庁の絵葉書が台紙代わりに入っていました。
セピア色に変った石版の古葉書です。ありふれた観光土産で、そこに特段の価値はないのでしょうが、何しろこの場合、台紙の方が買ったものより古かったので、ちょっと捨てかねました。

こういうのを見ると、「売り手の目こぼしで、いつか思わぬ珍品が台紙として入ってた…なんて幸運もないとは言えんぞ」と、虫のいいことを考えますが、まあ向うも商売人ですし、それが実現する可能性は、限りなくゼロに近いでしょう(でもゼロではありません)。

現に、世の中には紙背文書(しはいもんじょ)とか、漆紙文書というのがあって、再利用された反古紙から、重大な歴史資料が発見された…なんてことも実際あります。

まさにリユース万歳ですが、ここで以前買った古楽譜のことを思い出しました。

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私は楽譜が読めないくせに、古い楽譜に強く惹かれます。
単純な古物としての魅力に加え、音という形のないものに形を与える不思議さ、そして音の理論はピタゴラス以来、数学と結びついているので、そのグラフィカルな表現に、クールな数理的世界を感じる…というのが、その理由でしょう。


たとえば、羊皮紙に書かれたこの四線譜。
これは私が持っている楽譜の中ではいちばん古いもので、現代の楽譜と違うのはもちろん、グレゴリオ聖歌のネウマ譜とも違った形式を備えています。


調べてみると、この釘頭型音符は、14世紀以前のドイツで用いられた、ゴチック式のものだそうです。


で、この楽譜で気になったのは、その下部に直線状の切れ込みが入っていることです。

最初、その意味が分からなかったのですが、その後、西洋でも日本と同じく、古い羊皮紙を(特に装丁材料として)再利用することが少なくなかったと知り、これもそれかと気づきました。

(ネットオークションで見かけた別の例。これもおそらく本の補強材料として使われたものでしょう。それをまた誰かがはがして、こうして商品として流通しているわけです。)

いわば西洋版・紙背文書ですが、それがたどってきた遥かな道のりを思うと、「これぞ歴史だ」と、つくづく思います。

   ★

リユースといえば、失敗したコピー用紙の裏を再利用している職場も多いでしょうし、チラシの裏を使うお年寄りも健在ですが、あれもいつか歴史の中でよみがえるのかどうか?これまた可能性は限りなくゼロに近いでしょうが、ゼロではありません。

(楽譜の裏面)

濁りと飽和2016年09月19日 09時39分06秒

透明な水に青い粒をひとつ落とせば、美しい青の水になり、
そこに緑の粒を落とせば、美しい青緑の水になる。

…と、ここまでは良いのです。
でも問題は、さらに調子に乗って、紅い粒や、黄色い粒や、紫の粒を投下して、さてどんな美しい色が出現するかと見守っても、期待した色は現れず、どんどん汚く濁った色になることです。

惚れ惚れするような美しい粒を見つけて、「さすがにこんな綺麗な色を投じたら、この濁った水もたちどころに美しさを取り戻し、再び輝き出すだろう」と期待しても、やっぱりだめです。

そもそも、これぐらい濁ってしまうと、いかなる色を投下しても、その色合いや透明度が変わることはなく、入れる前と入れた後で、何の変化も生じません。

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何の話かといえば、部屋の印象と、そこに置かれたモノの関係についてです。

なんぼ私でも、無分別にモノを買っているわけではなくて、「これは素敵だ。こんな素敵なものが身近にあったら、必ずや部屋に身を置く喜びが増すだろう」と思えるものを、選んで買っているのですが、現実はそうは行きません。

「変だなあ…こんな筈ではないのに」と、思案して分かったことは、「世の中には、混ぜてはいけない要素がある」ということです。少なくとも、多くの人の感性になじまない取り合わせがあるのは確かです。

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…と、ここまで書いたのを読み直して、我ながら正しいことを言っている気がするのですが、「まあ待て待て。もうちょっと違う要素もあるぞ」という内なる声が聞こえます。

それは色合いの話とは別に、「溶液の飽和」ということで、たとえば「俺は塩辛いのが好きだから、うんと濃い塩水を作ってやる」と張り切っても、塩水というのは、ある程度以上の濃さにはなりません。飽和状態に達してしまえば、あとはどんなに塩を投下しても、溶け残って底にたまるばかりです。

モノについても、ある一定の量を超えると、部屋に溶け込むことができなくなって、沈殿が始まります。具体的には、床に積み上がります。これは大層見苦しいもので、いくらキレイな沈殿であってもゲンナリします。それに第一じゃまです。

飽和の問題」は上記の「濁りの問題」よりも単純で、広い部屋に移ればいいのですが、単純だから簡単に解決できるとも限らないわけで、むしろこれは難しい問題に属します。

それに、いくらより多くの塩が溶けたとしても、水の方も増えたら、同じ濃さの塩水が増えるだけのことで、「もっと鹹(から)さを!」と願う、塩好きの期待に応えることはできません。

残された道は、水の温度を上げて、同じ量の水により多くの塩を溶かしてやることですが、部屋とモノの関係について見た場合、「温度を上げる」というのが何を意味するのか、ちょっと俄かに答が見つかりません。

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あれ、何か既視感があるぞ…と思ったら、既に4年前に「モノの濃度」ということについて、似たようなことを考えていました。

二廃人、懲りずにオメデタイ話を繰り返す
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/03/01/

まったく成長がないようですが、やはり4年の経験は伊達ではありません。
4年前の自分の肩をポンと叩いて、「キミはまだモノとの本当の付き合い方を知らんな」とか言いながら、ニヤッとしてみたいですが、すると4年後の自分に肩を叩かれて、ニヤッとされそうです。


原子を感じた日2016年04月11日 21時00分49秒

今、私が坐っている机の左手には幅広の本棚があります。

それぞれの棚には、本以外のものもゴチャゴチャ置かれていて、この前の薬匙以来、それを順番に記事にしているわけですが、左の棚が終ったら右の棚、机の下、後ろの棚、物入れ、押入れ…というふうに順番に「棚卸し」をしたら、ずいぶん気分がスッキリするだろうと思います。

平成になって28年、世紀が替わってからでも16年。
この間に増えたモノは、相応の量になっていて、それはその時々の自分の興味関心を物語るものですから、いわばちょっとした「モノで綴る自分史」です(ずいぶんかさばる自分史ですね)。

ゴチャゴチャの棚は、ゴチャゴチャした頭と心の反映のようにも見え、記事にすることでその素性来歴を整理したら、少しは頭の中も風通しが良くなるのではないか…という期待があります。

本当は買った順に時系列で並べると、文字通り自分史っぽくなるのですが、もはやその辺は分からないことが多くて、「ずいぶん昔」とか、「数年前」とか、「わりと最近」ぐらいの区別がボンヤリつくぐらいです。

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今日のモノは「ずいぶん昔」に属します。絶対年代でいうと、平成の初めごろ。


これは何だといえば、ただの金属の球と立方体です。
素材は、銅、アルミ、鉛、ステンレス、真鍮。
銅・アルミ・鉛は言うまでもなく単一の金属であり、ステンレスは鉄にクロムを、そして真鍮は銅に亜鉛を混ぜた合金です。


これらは東急ハンズの「素材」コーナーに置かれていたもので、もともと何か決まった用途があるわけでもないのでしょう。

私も最初は、単なるオブジェのつもりで手にしたと思います。
でも、かわるがわる手に載せているうちに、ふと「同じ大きさなのに、ずいぶん重さが違うなあ」と思いました。そして「ああ、そうか」と思いました。別に空気が混ぜ込んであるわけでもなく、ギュッと詰まった金属なのに重さが違うのは、原子そのものの違いを手が感じ取っているのだと。

(鉛は自重で変形しています)

昔の科学者も、質量を有力な手掛かりに、物質の振る舞いの背後にある「世界の真実」を探求しましたが、このささいな経験によって、そのことが理屈抜きに直覚されたのでした。(もちろん原子量の話とかは、学校で教わったはずですが、それまであまり身になっていなかったのでしょう。)

こうした経験が下地になって、後に元素コレクションへの興味が派生するのですが、それはまた別のところで話題にします。



コレクターの夢2016年03月24日 20時47分55秒

何かとバタバタする時期ですが、記事の方はぽつぽつ書き継いでいきます。

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マイナーなものが続きましたが、では、天文古玩の中核的アイテムは何か?といえば、もちろん、星座早見であり、星図であり、天文古書であり、さらに天球儀や、オーラリーや、望遠鏡なんかも是非ほしいね…と、そんなところに話は収斂すると思います。

そして星座早見にしろ、星図にしろ、古書にしろ、それぞれがまた独自の蒐集領域を形成しているので、その中にまた中核的アイテムと周辺アイテムがあって…というふうに話は続きます。その複雑さゆえに、同じ趣味を有するコレクターであっても、互いのコレクションは独自の個性を獲得し、唯一無二のものとなり得るわけです。

そして、一層話が込み入ってくるのは、中核といい、周辺といっても、結局それは予算次第だということです。「100万円の予算で選ぶなら、これぞmust have」という品も、私を含め大方の人にとっては、周辺的な品とならざるを得ないでしょう。

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コレクターにとって、この蒐集と予算の関係は、古くて新しい永遠の課題です。
先日、あるコレクターの方と、この件でやりとりをする機会がありました。
その人はさらに別のコレクターとも議論したそうで、やっぱりみんなに共通するテーマなのでしょう。

コレクター氏曰く、

 お金と蒐集の関係については、最近他のコレクターとも意見を交わしました。まあ、本当のことは分かりませんが、もしあなたが無尽蔵にお金を持っていたとしても、あなたが得られる楽しみには、たぶん限りがあるんじゃないでしょうか。それにもちろん(お金がなくたって)とびきり素敵な品をいつかは購入できるかもしれませんしね。
 ここで私は祖母がいつも言っていた言葉を思い出さずにおれません。叶わぬ夢を持つことは良くないことかもしれない。でもね、何も夢が無いよりはましよ…。」

お金は無いより有る方がいいのかもしれませんが、有れば有るほどいいというような単純なものでもありませんし、お金がなくたって、コレクター氏のお祖母さんが言うように、人間には誰しも「夢」という大きな財産があるのです。

そして、コレクションにおいて、形あるモノと同じぐらい重要なのがイマジネーションであり、モノとお金の欠落は、豊かな夢と想像力で補うことができるはずだ…と思うのです。もっと言うと、形あるモノの背後に、夢と想像力を働かせてストーリーを紡ぐのがコレクターという存在であり、重要なのはむしろ後者のような気がします。

彼(コレクター)はモノを集めているように見えて、実は夢を集めているのだ…というのは、ちょっと極端な物言いかもしれませんが、でも過半真実だと思います。

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と言って、じゃあ夢だけあればいいのかというと、やっぱりそこには形あるモノもないとツマラナイわけで、この辺の複雑な心模様はなかなか一言では言い表せません。
―たぶん、夢はモノという触媒があることによって、いっそうよく花開くのでしょう。

(何だか書いているうちに論旨がぼやけてきましたが、そもそも「永遠の課題」なので、簡単に答は出ない気もします。)

ダメ。ゼッタイ。2016年03月20日 15時49分21秒

世の中には「8・2の法則」というのがありますね。

つまり「結果の8割は、2割の要素が決める」という経験則で、例えば要点をしぼって勉強すれば、全体の2割覚えただけで80点とれるとか、会社の利益の8割は営業成績上位2割の社員が上げているとか、ホントかウソかは知りませんが、そんなような内容で、提唱者の名をとって「パレートの法則」ともいうそうです。

   ★

コレクションの場合も、ジャンルごとにいわゆる「must have」アイテムがまずあって、その周辺をベーシック・アイテムが取り巻き、さらにその外側にマイナー・アイテムがロングテール状に存在する…みたいなイメージがあって、中核の2割を集めれば、コレクターとしての満足感・達成感は、8割がた得られるような気は確かにします。

おそらく、そこで踏みとどまるのが人として穏当な、賢い生き方なのでしょう。
さらに10割の満足感を得ようと思ったら、残り2割のために、それまでの4倍もの苦労を重ねなければなりません。これは確かに常軌を逸しています。でも、コレクター気質は本質的に狂気をはらんでいるので、往々にして彼らはその茨道を歩もうとします。

以前も書いたように、私自身は別にコレクターではないんですが、漫然とモノを買い続けているうちに、最近ついに「2割の線」を越えた自覚があります。まあ、これは一種の自慢の裏返しで、本人は悪いこととはちっとも思ってないんですが、ただこの先は長いぞ…という予兆を感じて、改めて身の引き締まる思いです。

   ★

…とか何とか、ここまでは実にオメデタイ話で、「馬鹿な奴だ」の一言で片付きますが、ここで私は世人に強く注意を喚起しておきたいことがあります。

上述の購入量と満足感の比をとれば明らかなように、最初は1つのモノを買えば1、あるいは「must have」アイテムなら、3とか4の満足感があったのに、「2割の線」を超えると、得られる満足感が「零コンマいくつ」に急速に薄まってきます。したがって、昔と同じ満足感を得ようと思ったら、3つも4つも買わないといけないことになりがちです。

そのせいで、本人も何かおかしい…と感じながら、どこがおかしいのか気づかないまま、強迫的に蒐集(購入)を続けている例が、世間には少なくないと睨んでいます。

これはまさに、より大量の、より強い薬物を求める薬物中毒者と同じ状態です。
徐々に耐性が形成されて依存症状が強まる―。

背後にある生理的メカニズムは全く違いますが、症状としてはそれに類したことが蒐集行為にも伴うわけです。ここに蒐集行為の大きな危険性があり、世のコレクターに警鐘を鳴らしたい点です。

   ★

蒐集物を家族に隠す。
モノが増えてないと嘘をつく。
蒐集のことを考えて仕事がおろそかになる。

…というのは、依存症に典型的に見られる行動で、こうなるとちょっと本気で心配しないといけません。

1.3×10の7乗2016年01月31日 15時44分47秒

もぞもぞ「駄菓子」を味わっているうちに、例の豪華な天文時計のオークションも、つつがなく終りました。

サザビーズの評価額は2万~4万ドルでしたが、落札価格は…


なんと予想をはるかに上回る11万ドル。
日本円では1,300万とんで56,380円と、画面には出ています。

1,300万円値引きしてくれたら…あるいはさらに5万円おまけしてくれたら何とか…と思うんですが、いかんせんこうなると、サザビーズに支払う手数料(落札価格の25%)すら遠く及びません。

   ★

こういのは、まったくの異世界ですね。

まあ、異世界は異世界だから、覗き見的楽しさもあるわけで、異世界に首までどっぷりつかってしまったら、そこにはまた「こちらの世界」とは比較にならぬ苦悩や、憎悪や、悲哀が渦巻いていることでしょう。

縁側に寝そべって、気楽に駄菓子を頬張っているのが結句安穏か…と、うららかな冬晴れの空を見て思いました。

嗚呼、それにしても…

二たび三たび、ヴンダーカンマーについて考える2016年01月08日 07時08分51秒

昨日ご紹介したバーバラさんの文章を読んで、私はアメリカのヴンダー趣味の徒の行動原理というか、頭の中がようやく分かった気がします。

これまで、そうした人のキャビネットを眺めながら、「たしかにこれは私の棚とよく似ている。でも、同じようでいて、何かが違う。この人たちが愛でているのは、いったい何なのだろう?」…というのが、ずっとモヤモヤしていました。

バーバラさんは、ずばり書いています。

「今日見られる個人コレクションの多くは、整然とした科学的研究を目指すのではなく、個人の美意識と興味関心を表現し、好奇心と驚異の念をそそる品を展示するため」にあるのだと。

そしてまた、博物学(昆虫コレクション、鳥の剥製、動物の骨格標本など)」は、医学用品、葬儀にまつわる品、あるいは宗教にまつわる工芸品など」と完全に並列する存在であると同時に、単にカッコいいと思えるだけの品…という場合もある」と。

  ★

結局、ヴンダー趣味の徒の行動原理は、ナチュラリストのそれとは全く異なるものであり、往々にして「理科室趣味」と対立するものです。

もちろん単なる理科室趣味が、「整然とした科学的研究」の実践であるとは言い難いですが、少なくとも、そこには科学的研究への‘憧れ’があり、科学的研究の‘相貌’―しばしば古き時代のそれ―をまとうことに、腐心しています。要は「科学のミミック」です。

それに対して、現代のヴンダーカンマーは、(いささか特異な)美意識の発露であり、すぐれてアーティスティックな営みです。

これまでも、何となくそうではないかと想像していたものの、バーバラさんのように、それを正面から書いてくれる人はいませんでした。

   ★

ヴンダー趣味と理科室趣味の棚は、やっぱり似て非なるものです。

おそらく両者の差は、自らのコレクションを語る時の、語彙の選択の違いに現れる気がします。理科室趣味の徒は、棚に置かれた標本の学問的分類にいっそう敏感で、対象を動/植/鉱物学的語彙を以て叙述することに、いっそう喜びを感じるはずです。

例えて言うならば、一個のしゃれこうべを前にして、理科室趣味の徒は、医学解剖学と自然人類学について語り、ヴンダー趣味の徒は、美術解剖学と文化人類学について語る…そんなイメージです。

(ファーブルの仕事部屋。理科室趣味の徒が魅かれるのは、たぶんこんな風情。出典:ジェラルド・ダレル、リー・ダレル(著)、『ナチュラリスト志願』、TBSブリタニカ)

   ★

もちろん、一人の女性の意見を以て、全体を推し量るのは危険で、アメリカ一国に限っても、ヴンダー趣味の徒には、さまざまな言い分があることでしょう。
でも、バーバラさんは以前、シカゴ歴史博物館で、布織関係の収蔵品の目録作りをされたこともあるそうなので、ヴンダー趣味と、現代の博物館の違いに相当程度自覚的であり、その意見には聞くべきものが多いように思います。

   ★

…と、何だか「理科室趣味代表」のような顔をして、エラそうに書いていますが、私の部屋にしたって、ピンバッジや、絵葉書、果ては煙草の空き箱など、現実の理科室には在り得ないモノであふれており、すでに(‘憧れ’はともかく)科学的研究の‘相貌’からは、ずいぶん遠い所に来てしまっています。

それに結局のところ―。
露悪的でさえなければ、私はヴンダーカンマーが好きだし、やっぱり興味深く思います。そして、いつか昔々の元祖ヴンダーカンマーに身を置き、この目で見たいという欲求は変らずあります。

(この話題、上手く語り切れない不全感がいつも残るので、また折に触れて取り上げます。)

恐竜の卵 【附・化石の新古】2015年12月06日 10時27分19秒

最近世間で評判の(天文古玩調べ)恐竜の卵。

(プラケースのサイズは、約8cm×5.5cm)

ラベルの記載を信用すれば、この化石は南米パタゴニア産で、時代は約7000万年前、白亜紀後期の地層から出たものです。

タイタノサウルス(ティタノサウルス)は、ブラキオサウルスやアパトサウルスと同じ竜脚類の仲間で、長い首と尾を持ち、のっしのっしと四足歩行した巨大な草食恐竜。
ただし、ジュラ紀の住人であるブラキオサウルスやアパトサウルスよりも、数千万年ばかり新参者です。


粟おこしのように、粒つぶした表面。
この郵便切手大の破片からも、軽く湾曲しているのが分かりますから、全体の大きさもさして大きくないと想像できます。10数メートルの巨体が生んだ卵にしては、やっぱり小さいです。


裏面もほぼ同じテクスチャー。


殻の厚さは約5ミリあります。鉛直方向に細かい筋が無数に見えますが、この多孔性の殻を通して、外部とガス交換が行われたのでしょう。

   ★

ところで、この卵殻の化石を見ていて、ふと気になりました(最近、ふと気になることが多いです)。

この品は何年か前に買ったのですが、もし私がこれを他の人に譲り渡すとしたら、それって中古品扱いになるのでしょうか? まあ、何となくそうなる気はするのですが、この場合、中古といい、新品といい、その言葉に一体どんな意味があるのか…?

いくぶん敷衍すると、昔のヴンダーカンマーに飾られていた化石は骨董品で、先月掘り出された化石は新品ということになるのかどうか?

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骨董の世界には「伝世古」「土中古」という言葉があります。

同じ古い物でも、代々人の手から手へと伝わってきた品を「伝世古」、長い間土に埋もれていた発掘品を「土中古」といいます。あるいはその中間的な存在、たとえば漢代の器物が明代に発掘されて、その後伝世しているような場合、「土中伝世」という称もあったように記憶しています。

化石の場合も、掘り出されたばかりのウブな化石は「土中古」で、それが市中に出回り、あちらこちらするようになると「土中伝世」の扱いになると、一応は整理できそうです(いずれにしても「新品」は変でしょう)。

しかし、数千年ならまだしも、数千万年とか数億年を経た相手に、そういうみみっちい区別をすることに意味があるのかどうか。そういう区別を立てること自体、偏狭な人間中心主義の表れではなかろうか…という気もします。

   ★

遠い遠い将来、人類文明の痕跡すらも消滅した頃。
我々とは別の知性が、この星の生命の歴史を研究する過程で、新生代のある時期の地層から、古生代や中生代の化石が大量に再出現する謎めいた事実に直面し、大いに首をひねるのではありますまいか。

人は過去の歴史に介入し、すでに大幅に改変してしまっているのかも。
(私もそれになにがしか手を貸しています。)

師走大放談2015年12月01日 20時53分46秒

今日から師走。
何だか冗談のようですが、本当に今年もあと少しで終わってしまうのですね。
大いに焦りますが、焦りついでに、この頃気にかかることについて、無責任な放談をしたいと思います。

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先日、神戸のイベントの打ち合わせのために antique Salon さんを訪ね、店主の市さんといろいろ話をした中で、次のようなことが話題になりました(今回に限らず、わりと頻繁に話題になることです)。

ひとつは、最近、あちこちで博物系のイベントをやっているけれど、こうなるとイベントを打ってもインパクトが弱まるし、独自性を出すのがだんだん難しくなってくるね」という話題。そしてもう一つは、アンティークと創作系の作品との関係で、この頃、博物系の作品を作るクリエイターさんが増えて、現代の作品とアンティークが競合する場面も出てきたね」という話題です。

  ★

大局的には、いずれも博物系界隈の活況を意味することですから、本来喜ぶべきことなのでしょう。それに神戸のイベントにしたって、究極は商売向きの話ではあり、そのことに口をつぐむことはフェアではありません。でも、しかし―。

ひとつはっきりしているのは、余りにも「売らんかな」の姿勢で臨まれると、こちらも鼻白むことです。「売れるから資本を投下し、売れなくなればあっさり手のひらを返す」ような仕打ちが、もし仮になされるとすれば、この愛すべき趣味の小世界に、はっきりと悪影響を残すと思います。ソロバン上手な人の草刈り場にはなってほしくないなあ…というのが、一愛好家としての願いです。

そして、創作系の方に望むことは、当たり前の話ですが、ぜひオリジナリティを持っていただきたいことです。たとえば、天文系の品でもそうですが、19世紀以前の美しい星図や天文画を直接引用して事足れりとするのは、いささか安易に過ぎ、創作家としてのアイデンティティを放棄するものではありますまいか。

まあ、創作とは無縁の私がこんなことを言うのは、それこそ放談以外の何物でもありませんが、昔のイメージを記号的に参照するにとどまらない、新たな宇宙憧憬と美の表現をぜひ見てみたいという、これまた切なる願望です。

   ★

…と、ここまでは市さんとも大方共通する意見ですが、ここから先は私単独の言い分になります。

今回、神戸のイベントに参加されるアンティーク・ディーラーの方たちの多くは、どちらかと言えば、アートと古物への趣味嗜好から出発されて、その美意識にかなうものとして、古風な博物学的品々に接近されたのではないか…と、私は勝手に推測しています。

一方、私はといえば、子供の頃の理科と理科室への憧れから出発して、郷愁を満たすものとして、博物趣味的品々に接近したので、出発点がちょっと異なります。(仮に本を編むとすれば、前者は美術史に、後者は科学史の棚に並ぶことになるでしょう。)

したがって、個人的な思いとしては、博物趣味的品々にオブジェとしての面白さ以上のもの、即ちその科学史的意味合いをどうしても求めたくなります。

それに―。
そもそも、科学は美と対立するものではなく、それ自体美しく興味深いものだ…と思うのです。ただ、そのためには、いろいろ額に汗して学ぶことが避けられないし、そうするだけの価値があるはずです。

   ★

私の理想を言うならば、

  世界に対する博物学的関心を持ち、
  科学に対する豊かな素養を備え、
  科学という学問の美しさを知悉し、
  科学を生み出した人間そのものに深い興味と洞察を示し、
  芸術や文学に一家言持ち、
  歴史の何たるかを知り、
  モノに対する豊かな目を持ちながら、モノには囚われず、
  人生の重みと同時に軽みを知りぬいている。
  そういう人に私はなりたい。

   ★

うーん…なりたいですが、まあ、なれないですね。
理想を一言でいえば、文武両道ならぬ「文理両道」ということで、これは言うは易く行うは難いことです。でも、人間いくつになっても理想は大切ですから、これをコンパスの指針として、これからも歩んでいきたいと思います。

   ★

何となく来年に向けての抱負のようになり、これはこれで年末に相応しい話題かも…。
それにしても、上のことを思うにつけ、まこと賢治さんは偉大な人でありました。