英雄たちの選択…ある古書の場合(前編)2022年11月05日 10時35分31秒

古書の状態表示は、英語だとまずFine(新品同様)Near Fine(ほぼ新品同様)から始まって、Very Good(良好)Good+(まずまず)Good(経年並み)と続き、最後にFair(可)というのが来ます。


GoodとFairは、業者によっても相当判断に幅がありますが、少なくとも「状態がいいとは言えない」ということで、「古書のGoodはGoodではない」というフレーズが囁かれるゆえんです。さらにFairともなれば、相当ボロボロの本を覚悟しなければなりません(日本の業者なら、はっきり「状態悪し」と書くところです)。

しかし、下には下があって、さらに「Acceptable」という表現があります。これはFairと同義で使われることもありますが、区別する場合は「本として読めないことはない」、すなわち商品として流通しうる下限に相当し、これより状態が悪ければ、すなわち紙屑です。

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…というのが話の前置き。

先日のマックノート氏の本に触発されて、1冊の本を注文することにしました。
その時点でネット上に売りに出ていたのは、以下の3点です。
1冊は判型が初版よりも一回り小さい後版で、状態の良くないもの。残りの2冊は初版ですが、1冊は上記の「Acceptable」で、状態は極め付きに悪そうです。最後の1冊は申し分のない美本ですが、お値段はウン万円以上するし、しかも海外発送はしない業者の取扱品です。

さて、ここで一番賢明な振る舞いは何か? 
NHKの歴史番組「英雄たちの選択」よろしく、そのときの私の心のうちに分け入ってみましょう。

選択A 「ふーむ、同時に3冊も市場に出ているということは、この本は決して稀本ではないのだろう。だったら、もう少し待てば、まずまずの状態で、もっと値頃の品が出てくる可能性は高い。ここはいったん購入を保留して、好機を待つのはどうか。」

選択B 「いや、古書との出会いは一期一会。ここで出会いを無下にして、あとで後悔しても遅い。ここはあの美本に目星をつけて、まずは先方と発送の可否や価格について交渉してみるのが良いだろう。最終的な選択はそれからでも遅くはないはずだ。」

さて、皆さんだったら、どんな選択をするでしょう?


まあ、これはどちらも理のあることで、たぶんAを主体にして、Bを並行して試みるというのが、磯田先生(「英雄たちの選択」の司会者)的には正解だと思います。

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しかし私が最終的に選択したのは、そのいずれでもなく「Acceptable」な1冊でした。
果たしてそれがどんな結果を招いたか、それを以下に書きます。

(この項、緊張感をはらみつつ続く)

なぜ天文古書を?(後編)2022年09月11日 09時37分56秒

スチュアートさんの書き込みを読んだとき、実は微妙な違和感がありました。
それは、スチュアートさんが「天文古書なんて古臭いものを、なぜ一部の人は集めるのか?」と問うていたからです。

もちろんスチュアートさんの真意は全く違うところにあると思いますが、その問いの前提ないし含意は、「天文古書は古臭くて、実用性に欠け、そうしたものは読んでもしょうがないんだ」という考え方です。でも、私が天文古書に惹かれる理由(のひとつ)は、まさに「古風で実用性に欠ける」からなので、出発点からして全然違います。

(賑やかしの演出写真。以下も同じ)

京の伝統町家や、優美な茅葺の古民家を、単に「古臭い」とか「住みにくい」とかいう理由で取り壊して、新しい家に建て替える――実際そうした例は多いし、それは住む人の権利だとは思いますが、一部の人にとっては、はなはだ嘆かわしいことでしょう。私が天文古書をいとおしむ気分は、それに通じるものがあります。

人から人に伝わってきた古いものは、それだけで慈しむに足るし、ましてやそこに優美さや、往時の人の思いが感じられれば、それを尊重しないわけにはいきません。

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ここでちょっと注釈を入れておくと、「天文古書には実用性がない」と書きましたが、ある立場の人にとっては、天文古書にも立派な実用性があります。それは、過去の学説史を学ぶ人、つまり「天文学史」の研究者で、そうした人にとって、天文古書は大切な研究材料であり、いわば飯の種です。

研究こそしていないものの、私も興味関心は大いにあるので、天文学史家にはシンパシーを感じます。でも極論すれば、研究目的のためだけなら、デジタルライブラリでも事足りるので(今後、古書のデジタル化はますます進むでしょう)、モノとしての本は無くても良い…ということになりかねません。この点で、私の立場は純粋な天文学史家ともズレる部分があります。

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「天文古書好き」というのは、「天文好き」と「古書好き」の交錯領域に成り立つものでしょう。「真理を説く」という科学書の第一目的から逸脱してもなお、古民家のごとくそれを愛惜するというのは、もっぱら後者の観点からです。いわば審美的観点。


実際、天文古書はビジュアル面でも優美と呼ぶほかないものが多々あります。
古風な装丁もそうですし、その美しい挿絵の数々には、まったく目を見張らされます。まあ、美しい挿絵ならば現代の本にも多いわけですが、天文古書の場合は、まさに「古い」ということが重要な要素です。それは自分と過去の世界とのつながりを保証するものであり、甘美なノスタルジーを存分に託せるだけの頼もしさを備えています。

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そして、これまで何度も口にしてきた星ごころ」

16世紀の人は16世紀なりに、19世紀の人は19世紀なりに、そして21世紀の人は21世紀なりに、精いっぱいの知識と知恵で星空を見上げ、そこに憧れを投影してきたという事実、それが私のシンパシーを誘うわけです。この点では、古いも新しいもなくて、みな同格です。いずれも熱く、そして優雅な営みだと思います。


そして、現代の星ごころを知るためのツールはたくさんありますが、過去の人の星ごころを知ろうと思えば、何といっても天文古書が良き窓であり、好伴侶です。それが天文古書を集める大きな理由です。

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スチュアートさんの問いに対する答をまとめておきます。

「あなたは天文古書を集めていますか?」
はい、集めています。

「誰の本を?」
過去のあらゆる時代の星好きが著した本です。

「どんな本を?」
優美で、愛らしく、星ごころが横溢した本です。

「なぜ?」
それがまさに過去に属し、古人と語らう場となるからです。また審美的にも優れたものが多く、ロマンを感じさせるからです。

なぜ天文古書を?(中編)2022年09月10日 09時50分04秒

最近消耗しがちで、これがコロナの後遺症か?と思ったりもしますが、まあ普通に夏の疲れが出ているのでしょう。いくぶん間延びしましたが、話のつづきです。

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スチュアートさんの問いかけに、何人かの人が書き込みをしていました。

そこには、たとえば「いや、天文古書は今でも貴重な情報源だし、十分役に立ってますよ」という真面目な反論もあり、「私は知らず知らずのうちに天文古書を収集していました。つまり買ったときは別に古書ではなかったんですが、今や持ち主同様、老いぼれてしまったんです」という軽口もありました。

中でも、いちばんしみじみした意見は以下のようなものです。

「昨夜、シャープレスとフィリップスの『天文学』(1872)を通読しました。冥王星はまったく想像の外でしたが、バルカンの存在は考慮されていました。研究が進めば、水星と太陽の間にある惑星バルカンの存在が、いずれ証明されるだろうと本書は述べています。この学術的な著作を読了後に、私もきっとそれが実現すると確信しました(笑)。

この本を、数年前に手に入れた別の本と比較してみたいと思います。それは『望遠鏡の驚異。あるいは星空と宇宙体系の大観。天文学習の促進および簡便化のために。銅版画入り』という本です。同書はさらに『ロンドン。発行者ウィリアム・ダートン(版権譲渡)。ホルボーンヒル58番地。1823年』と付け加えることで、一層長ったらしい題名になっています。

(たまたま手元にあった『望遠鏡の驚異』の1805年版。版権譲渡前なので、版元はリチャード・フィリップスになっています)

本書の一節を読めば、我々が誰の肩の上に乗っているのか明らかです。それは、著者が「ハーシェル惑星」と呼んでいるものについてです(天王星の名が一般的になったのは、1827年頃で、本書が発行されてから4年後のことだと思います)。著者は人が住む惑星に関するハーシェルの意見に賛成しています。

曰く、「この惑星にも何らかの種族が住んでいると信じるべき、あらゆる理由がある。ハーシェル惑星は、我々が住む地球と同様、何百万人もの人々の幸福な住処である。我々に理解可能な方法や、説明可能な法則を用いてではないにしろ、彼らもまた創造主の善意を賛嘆していることだろう。何となれば、この世界をお作りになり、太陽がない間も明るく照らすため6個の衛星をこの惑星に与えた大いなる方は、居住者をその居住地に叶う姿にすることもできるのだから。」

くだくだしい文章ですが、非常に興味深い内容で、これは過去の世界に開かれた素晴らしい窓です。

(上掲書口絵の太陽系図。土星には7個、天王星(当時の“ハーシェル惑星”)には6個の衛星が描かれています)

技術面に目を向けると、最初の本(『天文学』、1872年)によれば、ワシントンの国立天文台では、毎日正午の時刻を慎重かつ厳密に計算した後、この情報をいくつかの重要な関係各方面に「電報」で送るのだそうです。

彼らの考えのうち、現在では正しくないものでも、私は別に滑稽だとは思いません。そうした考えは、当時得られていた最良の情報に基づく結論だったのですから。私自身の考えにしたって、十分考え抜いたはずなのに、後から振り返ると、愚かしく思えることもあります。

まだ幼かった1950年代、私たち一家はコロンビア空港への最終進入路の近くに住んでいました。庭に寝転がって星を見上げ(その頃ヒアリはまだいませんでした)、8時のイースタン航空のコンステレーション機が飛んでくるのを、わくわくしながら眺めたものです。頭上から低空飛行で轟音が響いてくると、巨大な星型エンジンの鼓動が感じられるのです。その後、ある日ジェットエンジンを搭載した新型機が飛んできました。私は子供心に、いつかジェット機に乗れる日が来るのかだろうか?と、いぶかしく思ったものです。でも、当時主流だったコンステレーションのような民間プロペラ機には、結局これまで一度も乗ったことがありません。私の数多くのフライトは、すべて何らかのジェットエンジンによるものです。」

とはいえ、最後の人を除けば、明瞭に天文古書コレクターといえる人の書き込みはありませんでした。それに、あまり話題が発展したようにも見えません。Cloudy Nights に書き込むような人は、わりとディープな天文ファンだと思うんですが、それにしたって、天文古書の話題はマイナーなんだなあ…と、改めて思いました。しかも2005年の時点で、すでにそうだったわけです。

そして、上の投稿から9年後の2014年に、私自身が以下のような記事を書きました。

■天文古書の黄昏(1)
天文古書界で有名だった、ポール・ルーサー氏が商売をたたみ、ひとつの時代が終わったことを述懐する内容で、それを悲しむ他の人の声も紹介しました(連載は3回にわたって続きました)。

その後さらに8年が経過し、天文古書の世界はさらにシュリンクした感もありますが、スチュアートさんの問いに、今の私ならどう答えるか?を、次回書きます。

(この項つづく)

なぜ天文古書を?(前編)2022年09月06日 19時17分47秒


(英国王立天文学会の図書室。同学会のfacebook投稿より。正面は同学会の初代事務局長を務めたFrancis Baily(1774‐1844)の肖像)

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このブログが始まったのは2006年1月で、もう16年も前のことです。
そのちょっと前、2005年12月に、「Cloudy Nights」(※)の片隅で、1つのはかなげなスレッドが立ちました。

(※)Cloudy Nights」というのは、アメリカをベースとするアマチュア天文家の巨大掲示板・兼・情報サイトです。

スレ主はハンドルネーム「ガンダルフ」、ことスチュアートさんという方です。17年前から響いてくる、その声に耳を傾けてみます。(私がこの投稿に気づいたのは数日前ですから、なんだか17光年先から届いたメッセージのような気がします。)

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 「多くの天文家は本棚の一つや二つ持っているでしょうし、それを見れば趣味の進展具合も分ろうというものです。

しかし、天文古書を集めている人となると、一体どれぐらいいるものでしょうか?そしてその理由は?

天文古書は、クラシック望遠鏡とはいくぶん異なる点があります。すなわち、そこに書かれた情報はあらかた時代遅れになりつつあるし、説明されている理論の中には、最新の研究成果―いわば後知恵(笑)―を身につけた現代の天文ファンには荒唐無稽に思えるものもあるでしょう。 それに対して、たいていのクラシック望遠鏡は、今でも十分実用になりますし、現行品に代わる立派な選択肢となりうるものがたくさんあります。

では、なぜ天文古書を集めるのでしょう?過去とのつながりを保つため?偉大な天文学者や、私たちアマチュアの先人の心を学ぶため?書物愛や装丁が好みだから?それとも現代の天文学の知識を、広い視野から捉えるため?

個人的なことを言えば、私は自分自身の研究上の興味から細々と収集を行っています。以前蒐集した本の多くは、英国天文学史学会(Society for the History of Astronomy)のロバート・ボール卿参考図書館(Sir Robert Ball reference library)に寄贈してしまいましたが、現時点では、もっぱら以下の3つのテーマに力点を置いています。

1. 月とその歴史、観測、探査
2. 天文学者であり放送作家でもあるパトリック・ムーア卿の作品
3. 科学者でありSF作家であるアーサー・C・クラーク卿の作品

あなたは昔の天文学や宇宙の本を集めていますか?誰の、何の本を?なぜ?

それとも、そのような本はまったく時間の無駄だと考え、趣味の参考書としては、最新のテキストだけを持っているのでしょうか?

スチュアート」

(ロバート・ボール卿参考図書館の内部。英国天文学史学会のサイトより)

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一口に天文アンティークといっても、古書と望遠鏡では意味合いが違う…という指摘は、これまであまり考えたことがありませんでしたが、言われてみれば確かにその通りです。要はアンティーク望遠鏡は実用性があるが、天文古書には実用性がない、ということでしょう。そして、その「実用性」を欠いた天文古書をあえて集めるとすれば、その理由は何か?というのが、スチュアートさんの問いです。

これに対して、当時の人々が何と答え、今の私自身ならどう答えるか?
それを腕組みしながら考えてみます。

(この項つづく)

円安時代をどう生きるか2022年09月03日 09時52分27秒

その後も円安傾向が止まらず、1ドル140円になったとのニュースが流れています。

(本日のGoogleFinanceの表示)

円安になると、海外のものは当然買いにくくなります。
1ドル100円の時代なら、100ドルのものを買うのに10,000円出せばよかったのに、1ドル140円になれば、14,000円出さないと手に入らない理屈ですから、これは辛いです。

まあ、輸入品の価格がいくら上がろうが、それに応じて給料も上がるならいいですが、今の日本は(輸出で潤っている一部企業を除いて)そうなってないので、海外からモノを買い入れることが趣味だ…なんていう人にとって、円安はあまり嬉しくないニュースでしょう。私もどちらかといえば、その一人です。

「ああ、こんなことならドル建てで預金しておけばよかったなあ…」なんて、その気もなかったくせにボヤいてみても、まさに何とかの遠吠え。

でも一瞬ひらめいて、「いや、待てよ。円高の頃に買ったあれこれを、今のレートで換算したら、途方もない金額になっているはずだ。これはひょっとして、相当な含み資産を抱えていることになるんじゃないか?」とも思いましたが、これまた捕らぬ狸の何とやら。その「途方もない金額になったあれこれ」を、一体どこの誰が買うというのか?

要するに、天文アンティークや天文古書は、資産としての流動性が極端に低いので、そこにも円安メリットは無いに等しいです。

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…というような、ソロバン高い話は、あまり趣味の世界にはなじまないでしょう。
もちろん私も現実世界に生きているので、お金のことは気にはなります。気にはなりますけれど、そもそも、そういう「下界の雑事」からいっときでも離れるための天文古玩趣味ではなかったか?という思いもあります。愛すべき品々を、一瞬でも「資産」と考えた時点で、「キミもずいぶん俗物だね」と自嘲したくなります。

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とはいえ(と、もういっぺん逆接をはさみますが)、欲しいものがどんどん遠いところに行ってしまうのは、やっぱり悲しいことです。

それを乗り越えるには、これまで以上に丹念に、思慮深くふるまうことが求められている気がします。懐が乏しいなら乏しいなりに、その範囲でなるべく面白いもの、美しいものを見つけるため、一層の努力をすること。これまで見えてなかったものに、よく目をこらすこと。身の丈にあったものを、よく吟味して買う姿勢に徹すること――。私も定年後にそなえて生活のダウンサイジングを求められているので、その辺を見直すにはちょうど良い機会です。

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「え?生活を見直すとか何とか言いながら、結局買っちゃうんだ。一体それのどこが思慮深いの?」という内なる声も聞こえます。

「まあ、理屈でいえばそうだけどさ。でも理屈を超えて、そこが自分の自分らしさだという気もするんだよ。仮にマグロが生活を見直して、泳ぐのをやめたら死んじゃうじゃない?」と、反論にならない反論をする自分もいます。

あまり物に執着するのもよくないですが、人は物にいろいろな思いを託し、その限りにおいて物は物以上の存在なので、まったく物なしで生きることも難しいです。大切なのは物との距離感ですかね。

ガラスの底の宇宙2022年02月04日 18時14分19秒

大自然の猛威を前に、人々はなすすべもなく立ち尽くしていた…。
今回のコロナ騒動を眺めていると、そんなステロタイプな言い回しが自ずと心に浮かんできます。確かにcovid-19も自然の一部には違いありません。

でも、それを言うなら、我々だって自然の一部です。
人は自然を何となく自分の外にあるものと思って、「ヒト 対 自然」の構図で物事を考えがちですが、covid-19の場合、外にあると思っていた自然が、実は自らの肉体の内部にまで広がっていることを痛感させてくれました。人とウイルスの主戦場は、ワクチン接種会場や医療機関などではなくて、我々自身の肉体の内部です。ウイルスにとっては、我々の肉体そのものが広大な「環境」であり、我々は宇宙の階層構造にしっかり組み込まれているのでした。

オミクロンに振り回されて、この間まったくブログも放置状態でしたが、ようやく第6波もピークが近い兆しがあります。何とかこのまま終息し、我々を取り巻くささやかな宇宙に早く平穏が戻ってきてほしいです。

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そんなこんなで、久しぶりに自ブログを開いたら、新しいコメントを頂戴しているのに気づきました(尚桃さま、ありがとうございました)。それは実に16年前の記事へのコメントで、内容は星座早見盤を組み込んだペーパーウェイトの紹介記事です。


■銀河鉄道の地図

読み返すまでもなく、記事を書いたことも、記事を書いたときの気分もはっきり覚えています。と同時に、しみじみ懐かしさを感じました。文章もそうだし、書き手である私も、今よりずっと素朴な感じがします。


この16年間、何が変わって、何が変わらないのか?
変ったものは、何といってもモノの量です。まあ、16年間も天文古玩周りの品を探し続けていれば、いい加減モノも増えます。それにまつわる知識の方は、必ずしもモノの量に比例しないので、増え方は緩やかですが、これもまあちょっとは増えました。


一方、変わらないもの。それはやっぱり「星ごころ」であり、賢治や足穂を慕う思いです。だから例のペーパーウェイトを前にすれば、昔と同じようにいいなあ…と思うし、銀河を旅する少年たちの面影をそこに感じるのです。その気持ちがある間は、まだまだ天文古玩をめぐる旅は続くでしょう。


部屋の窓から見上げれば、そこには宇宙がどこまでも広がっています。
そして机上のガラス塊を覗き込めば、その底にも漆黒の宇宙があり、銀河が悠然と流れているのが見えます。そのとき銀河は私の瞳や心の中をも同時に流れ、そこを旅する少年たちの声が、すぐ耳元で聞こえるのです。

幻灯スライドの時代を見直す2022年01月10日 11時54分33秒

ここに来てオミクロンの波高し。
その余波もあって、記事の方はポツポツ続けます。

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数ある天文アンティークの中でもポピュラーな品のひとつに、天体モチーフの幻灯スライドがあります。上のような19世紀の手描きの品はいかにも雅味があるし、一方で20世紀初頭のモノクロスライドは、涼しげな理科趣味にあふれています。

特に後者は数がたくさん残っているので、値段も手ごろで、手にする機会は多いと思います。そうしたガラスの中に封じ込められたモノクロの宇宙は、最新のカラフルなデジタルイメージとはまた別の魅力に満ちており、いわば現代のデジタル像が饒舌なら、昔の銀塩写真は寡黙。そして夜中に一人で向き合うには、寡黙な相手の方が好ましく、そこからいろいろ「言葉以前の思い」が湧いてきたりします。


そんなわけで、私の手元にも天体の幻灯スライドはかなりたまっていて、上の木箱や紙箱に入ったセットもその一部です。

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ところで、最近、自分がある勘違いをしていたことに気づきました。
それは、そうした幻灯スライドの年代についてです。


上のスライドは、有名な「子持ち銀河」M51で、ウィルソン山天文台の100インチ望遠鏡を使って撮影されたもの。撮影は1926年5月15日だと、ラベルにはあります。

上の品もそうですが、この種のガラススライドは、19世紀末から1920年代いっぱい、あるいはもう少し引っ張って、せいぜい1930年代ぐらいまでの存在で、それ以後はスライドフィルムに置き換わった…というのが、私の勝手な思い込みでした。

自分の経験として、ガラススライドは既に身辺からすっかり消えていたので、かなり遠い時代のものと感じられたし、1950年代の学校教材カタログを開いても、視聴覚教材は当時既にスライドフィルム ―― つまりガラスではなくプラスチック素材に感光層が載った、ペラペラのフィルムに置き換わっていたからです(このことは後日改めて書きます)。

でもそれは間違いです。少なくとも天文分野に関しては、ガラススライドは1960年代まで「現役」だったことを、最近知りました。それは古い時代のものがその頃まで使われていた…というだけではなく、新たなガラススライドも、依然作られ続けていたという意味においてです。

例えば、下の画像。これはハーバード・スミソニアン天体物理学センターの Lindsay Smith Zrull 氏のツイートからお借りしたものですが、そこには「1957年8月22日」という日付入りで、ムルコス彗星の画像がスライド化されています(同センターに所蔵されているガラススライド・コレクションの1枚です)。


おそらく、より鮮明で情報量の多い画像を得るには、より大きな画面サイズが必要で、そうした「プロユース」にとって、一見古風なガラススライドは恰好のメディアだったのでしょう。

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ここで、以前参考のために買ったカタログのことをにわかに思い出しました。


上の写真は、いずれも米国の天文台が頒布していた天体写真や天文スライドのカタログです。左はカリフォルニアのリック天文台が1962年に発行したもの、中央と右は、シカゴ近郊のヤーキス天文台が1960年と1911年に発行したものです。

こういう1960年代のカタログが存在すること自体、天文のガラススライドが、その頃まで商品として流通していたことを示すもので、またそうした「商売」が、20世紀初めから行われていたことも分かります。


気になるお値段は、リック、ヤーキス(1960)ともに、4.25×4インチのアメリカ標準サイズのモノクロスライドが、1枚1ドル50セント。リックはカラー版も扱っていて、そちらは5ドルとなっています(※)


ただ、カタログの内容を見て分かったのは、上で「新たなガラススライドも、依然作られ続けていた」と書いたのは事実としても、そこにはある程度保留が必要だということです。というのは、太陽や月、惑星、星雲や星団――こういうおなじみの被写体は、やっぱり1900年初頭~1920年代に撮影されたイメージが大半で、1950年代以降の写真は、新発見の彗星などに限られるからです。(撮影年が書かれてない品も多いので、きっぱり断言もできませんが、年代が明記されているものに限れば、上の傾向は明瞭です。)



冒頭で載せた木箱・紙箱に入ったスライドは、ウィルソン山天文台(リック天文台の弟分)とヤーキス天文台のもので、20世紀初めの撮影にかかるものばかりです。でも、このスライド自体は後年に焼き増ししたものかもしれず、時代は不明というほかありません(やっぱり1960年代のものかもしれません)。

天文の幻灯スライドは、「撮影年」イコール「スライド制作年」とは即断できず、ニアイコールの場合もあれば、半世紀ぐらい乖離がある場合もある…というのが、今日の結論です。


(※)もののサイト(The Inflation Calculator)によると、1960年当時の1ドルは、2020年の8.88ドルに相当するそうです。今のレートだとモノクロが1500円、カラーが5000円ぐらい。結構高いものですね。

世界に驚異を取り戻すために2022年01月03日 13時42分54秒

実感をこめて言いますが、人間は齢とともに必ず変化するものです。
その変化が「円熟」と呼びうるものなら大いに結構ですが、単なる老耄や劣化という場合も少なくありません。この「天文古玩」と、その書き手である私にしても、全く例外ではありません。それはある意味避けがたいことでしょうけれど、せめて新年ぐらいは初心に帰って、昔の新鮮な気持ちを思い出したいと思います。

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下は、時計の針を捲き戻して、自分が子どもだったときの気分が鮮やかによみがえる品。


1932年に発行された、『Wunder aus Technik und Natur(テクノロジーと自然界の驚異)』と題された冊子です。時の流れの中で大分くすんでしまっていますが、その表紙絵がまず心に刺さります。


峡谷をひた走る弾丸列車が何とも素敵ですし、その周囲にも夢いっぱいの景色が広がっています。


空には巨大な星々。その光に白く、また赤く浮かび上がる断崖絶壁と山脈。
その間を縫って自在に舞い飛ぶプロペラ機。


そして大地の下に眠る太古の生物。

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ページをめくると、さらに鮮やかな世界が広がっています。


冒頭は「第1集・自然界の怖ろしい力」と題されたページ。そこに流星、稲妻、火の玉(球電)、雪崩、竜巻、トルネードという、6枚の絵カードが貼付されています。(ちなみにドイツ語では、海上の竜巻(Wasserhose)と地上のトルネード(Tornado)を区別して表現するようです。)


この冊子はシガレットカードのコレクションアルバムで、発行元はドレスデンの煙草メーカー、エックシュタイン・ハルパウス社(Eckstein-Halpaus)

シガレットカードは、煙草を買うとおまけに付いてくるカードで、そのコレクションは昔の子供たち(と物好きな大人たち)を夢中にさせました。そしてカードがたまってくると、こうした別売のアルバムブックに貼り込んで、コレクションの充実ぶりを自ら誇ったわけです。

この「テクノロジーと自然界の驚異」は、第1集から第48集まであって、各集が6枚セットなので、全部で288枚から成ります。手元のアルバムは、そのコンプリート版。
その内容は実に多彩で、




カラフルな世界の動・植物もあれば、


子どもたちが憧れる乗り物もあり、


神秘的な古代遺跡の脇には、


ピカピカの現代建築物がそびえ、


あまたの巨大なマシンが、目覚ましい科学の発展を告げています。

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ここに展開しているのは、90年前の子どもたちの心を満たしていた夢です。
もちろん、煙草メーカーは純粋無垢な心でこのカードを作ったわけではなく、もっぱら商売上の理由でそうしたのでしょうが、それは当時の少年少女が求めたものを知っていたからこそできたことであり、その夢は50年前の子どもである私にも、少なからず共有されています。

このアルバムブックを開くと、私の内なる子どもの目が徐々に開かれるのを感じます。
そして、世界がふたたび驚異を取り戻す気がするのです。

オールドペーパー2021年10月27日 22時26分56秒

記事が間遠になっています。
こんな駄文でも、自ずと記事を書くときの気分というのがあって、今は選挙も近いし、なかなか泰然と文章をひねるのが難しいです。まあ、本当はこういう時期だからこそ、泰然とすべきだと思うのですが、そこが小人の小人たるゆえんです。それでも強いて泰然たるふりをして、記事を書きます。

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部屋を片付けていたら、本棚からコトンと1冊の本が落ちました。
一瞬「?」と思いましたが、すぐにしみじみ懐かしい気分がよみがえりました。


■倉敷意匠アチブランチ(編・発行)、『old paper』、2012

これは良い本です。最初手に取ったときも良い本だと思いましたが、しばらくぶりに手にして、やっぱり良い本だと思いました。

ここに紹介されているのは古い紙モノたちです。あるいはモノの形をとった紙。
たとえば16世紀の本草書の断片。


あるいはグレゴリオ聖歌の楽譜や、時祷書の零葉。


西洋のものばかりではありません。そこには泥絵があり、仏教版画があり、李朝民画があり、紙製の玩具があります。


まさに同じような品に惹かれ、私なりに集めてもいたので、この本を見たとき、これを編んだ人が他人のような気がしませんでした。そして、私がそうした品に惹かれるという事実と、この本の制作意図を考え合わせたとき、私自身、明らかに「紙フェチ」の傾向があるな…と悟ったのでした。(それまでは、当然そうしたモノの「内容」に惹かれているのだと、自分では思っていました。もちろん、それは嘘ではないにしろ、事実の半面に過ぎなかったわけです。)

いったんそうと分かれば、私が古書に惹かれ、デジタルライブラリーでは満足できない理由も、本物が手に入らないときは、たとえ複製でもいいから手に入れたいと願うわけも、よく分かります。私は無条件で紙が好きなのです。

何故か?というのは、フェティシズムの常として説明できませんが、きっと幼時の体験もあるのでしょう。それに紙フェチの人であれば、この気持ちは説明しなくても分かるし、そうでない人には、たとえ説明しても分からないだろうな…という気もします。

フェティシズムというと、何となく倒錯したものを連想して、あまり印象が良くないですが、茶人が茶碗にこだわるのも、天文趣味人が機材にこだわるのも、往々にしてフェティシズムの発露ですし、さらに言えば、およそ蒐集家の営みは全てフェティシズムのなせる業ですから、決して悪い目で見ないでほしいと願います。(まあ公平に見て、そう良いものでもないですが。)

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【閑語】

報道を見ると、どうも与党堅調の世論調査結果がちらちら見えて、ふたたび「これは…」と腕組みをしています。

よく公明党を揶揄して、「下駄の雪」という言い方がありますね。「(自民党に))踏まれても踏まれても、どこまでもついていく」という意味だそうですが、今や少なからぬ国民が「下駄の雪」となっているのかと、怪訝な気持ちです。

もし私が良心的な自民党関係者だったら、「これはおかしい…。いったいどうなっているんだろう?」と、やっぱり不審の念を覚えるでしょうし、悪辣な自民党関係者だったら、「国民なんかチョロいチョロい」と、口笛のひとつも吹くでしょう。

なんだか住みにくい世の中になったものです。
まあ、結果は蓋を開けてみるまで分からないので、泰然と31日を待つことにしましょう。

蒐集の果てに2021年10月21日 21時54分34秒

昨日は黒々とした空に、電球のような月がまぶしく光っていました。
おとといはおとといで、長々とした雲が川のように空を走り、そこに半身を浸した月が、まるで急流をさかのぼっていくようで、とても不思議な光景でした。
一転して今宵は曇り。月は美しいものですが、あんまり明る過ぎるのも不穏なもので、ときには月のない晩のほうが心穏やかだったりします。

   ★

昨日、雑誌を読んでいて、「これは…」と思いました。
最近「これは…」と思うことが多いのですが、今回はかなり危機感を伴った「これは…」です。

■中尾智博 「ためこみ症と社会的孤立:ゴミ屋敷問題の処方箋」
 公衆衛生vol.85 No.10 (2021年10月) pp.668-673.

「ためこみ症」というのがあります。読んで字のごとく、他人の目から見るとつまらない物をせっせと溜め込んでしまう病気で、精神医療の世界で重んじられる「DSM」という診断基準にも記載された、正式な診断名の1つです。いわゆるゴミ屋敷問題で注目されました。

以前は強迫症の1類型と見なされていたのですが、2013年に出たDSMの第5版(DSM-5)から独立した疾患単位になりました。そのように変更されたのは、ためこみ症と他の強迫症とでは、少なからず様相が異なるからです。

すなわち強迫症、たとえば不潔を恐れて何十回も手を洗ったり、家のカギを閉めたか気になって外出もできないような状態は、本人にとっても苦しいことであり、「苦しくてやめたいのに、やめられない」のが特徴であるのに対して、「ためこみ症」は本人がそれを全く苦にしていない、むしろそうして溜め込んだ物に、本人が強い愛着を抱いている…という点に特徴があります。つまり症状が自我異和的か(強迫症)、自我親和的か(ためこみ症)という違いです。

この辺の記述から、徐々に私の不安は高まってきます。
そして、中尾氏が述べる「中等度~重症例」の記述を読むと、その不安は頂点に達します(太字は引用者)。

 「発症から10年以上経過し、ためこまれた物により部屋の機能が大きく損なわれた場合は、治療の難易度はぐっと高まる印象がある。」
 「介入については、長年にわたりためこまれた物に対し、どこから手を付けたらよいのか分からない場合が予想される。そのようなケースの場合、筆者らは入院治療を提案している。ここには入院環境で密度の高い面接を行うとともに、物があふれていない空間で生活することの機能的なメリットを実体験してもらう狙いもある。」

ああ、やんぬるかな。
これを読んで恐怖を感じない蒐集家はいないでしょう。
ちなみに「最重症例」になると、

 「発症から数十年を経て、家屋の住居としての機能は完全に失われ、屋外にまで物があふれかえるような、いわゆるゴミ屋敷状態に至ったケースでは、介入の難易度はより高まる。本人単独による状況の改善は考えにくく、上記に示したような入院加療も含めた濃密な治療戦略と同時に、家族や行政機関とも連携をとり、保健師や訪問看護などによる支援も取り入れながら、根気強く取り組むこととなる。」

…という状態に立ち至るのです。

(中尾氏上掲論文より)

わが身に「濃密な治療戦略」が練られるというのも恐るべきことですが、蒐集行為に多くの時間と労力をかけてきた自分の一生の意味が、そこで鋭く問われるという、なんだか≪実存的局面≫に蒐集家は直面するわけです。そのとき、強く自分の生を肯定できるかどうか? できたらいいな…とは思いますが、こればかりはその場面にならないと分からないでしょう。

――いや、そうではありません。蒐集家はむしろこう言うべきなのです。
「このモノたちに価値があるのか無いのか、それによって私の人生の価値が決まるのではない。私の人生はこのモノたちと共にあったことによって、既に価値あるものなのだ」と。そして、「このモノたちの価値は、私の人生が既にそれを証明しているのだ」と。


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 独立した疾患としての「ためこみ」と、他の疾患に伴う「ためこみ症状」は区別される必要があります。たとえば、うつ病だと物を片付けることができなくなって、ためこみ状態を呈することがあるし、逆に躁状態において、物をバンバン買って、部屋が物だらけになることもあります。それらはうつ病や双極性障害(躁うつ病)の治療をすれば、ためこみも自然と収まるので、本来のためこみ症(過剰なためこみ欲求)とは異なります。同様に、統合失調症や認知症、ADHD等でも「ためこみ症状」を呈することがあります。