オールドペーパー2021年10月27日 22時26分56秒

記事が間遠になっています。
こんな駄文でも、自ずと記事を書くときの気分というのがあって、今は選挙も近いし、なかなか泰然と文章をひねるのが難しいです。まあ、本当はこういう時期だからこそ、泰然とすべきだと思うのですが、そこが小人の小人たるゆえんです。それでも強いて泰然たるふりをして、記事を書きます。

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部屋を片付けていたら、本棚からコトンと1冊の本が落ちました。
一瞬「?」と思いましたが、すぐにしみじみ懐かしい気分がよみがえりました。


■倉敷意匠アチブランチ(編・発行)、『old paper』、2012

これは良い本です。最初手に取ったときも良い本だと思いましたが、しばらくぶりに手にして、やっぱり良い本だと思いました。

ここに紹介されているのは古い紙モノたちです。あるいはモノの形をとった紙。
たとえば16世紀の本草書の断片。


あるいはグレゴリオ聖歌の楽譜や、時祷書の零葉。


西洋のものばかりではありません。そこには泥絵があり、仏教版画があり、李朝民画があり、紙製の玩具があります。


まさに同じような品に惹かれ、私なりに集めてもいたので、この本を見たとき、これを編んだ人が他人のような気がしませんでした。そして、私がそうした品に惹かれるという事実と、この本の制作意図を考え合わせたとき、私自身、明らかに「紙フェチ」の傾向があるな…と悟ったのでした。(それまでは、当然そうしたモノの「内容」に惹かれているのだと、自分では思っていました。もちろん、それは嘘ではないにしろ、事実の半面に過ぎなかったわけです。)

いったんそうと分かれば、私が古書に惹かれ、デジタルライブラリーでは満足できない理由も、本物が手に入らないときは、たとえ複製でもいいから手に入れたいと願うわけも、よく分かります。私は無条件で紙が好きなのです。

何故か?というのは、フェティシズムの常として説明できませんが、きっと幼時の体験もあるのでしょう。それに紙フェチの人であれば、この気持ちは説明しなくても分かるし、そうでない人には、たとえ説明しても分からないだろうな…という気もします。

フェティシズムというと、何となく倒錯したものを連想して、あまり印象が良くないですが、茶人が茶碗にこだわるのも、天文趣味人が機材にこだわるのも、往々にしてフェティシズムの発露ですし、さらに言えば、およそ蒐集家の営みは全てフェティシズムのなせる業ですから、決して悪い目で見ないでほしいと願います。(まあ公平に見て、そう良いものでもないですが。)

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【閑語】

報道を見ると、どうも与党堅調の世論調査結果がちらちら見えて、ふたたび「これは…」と腕組みをしています。

よく公明党を揶揄して、「下駄の雪」という言い方がありますね。「(自民党に))踏まれても踏まれても、どこまでもついていく」という意味だそうですが、今や少なからぬ国民が「下駄の雪」となっているのかと、怪訝な気持ちです。

もし私が良心的な自民党関係者だったら、「これはおかしい…。いったいどうなっているんだろう?」と、やっぱり不審の念を覚えるでしょうし、悪辣な自民党関係者だったら、「国民なんかチョロいチョロい」と、口笛のひとつも吹くでしょう。

なんだか住みにくい世の中になったものです。
まあ、結果は蓋を開けてみるまで分からないので、泰然と31日を待つことにしましょう。

蒐集の果てに2021年10月21日 21時54分34秒

昨日は黒々とした空に、電球のような月がまぶしく光っていました。
おとといはおとといで、長々とした雲が川のように空を走り、そこに半身を浸した月が、まるで急流をさかのぼっていくようで、とても不思議な光景でした。
一転して今宵は曇り。月は美しいものですが、あんまり明る過ぎるのも不穏なもので、ときには月のない晩のほうが心穏やかだったりします。

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昨日、雑誌を読んでいて、「これは…」と思いました。
最近「これは…」と思うことが多いのですが、今回はかなり危機感を伴った「これは…」です。

■中尾智博 「ためこみ症と社会的孤立:ゴミ屋敷問題の処方箋」
 公衆衛生vol.85 No.10 (2021年10月) pp.668-673.

「ためこみ症」というのがあります。読んで字のごとく、他人の目から見るとつまらない物をせっせと溜め込んでしまう病気で、精神医療の世界で重んじられる「DSM」という診断基準にも記載された、正式な診断名の1つです。いわゆるゴミ屋敷問題で注目されました。

以前は強迫症の1類型と見なされていたのですが、2013年に出たDSMの第5版(DSM-5)から独立した疾患単位になりました。そのように変更されたのは、ためこみ症と他の強迫症とでは、少なからず様相が異なるからです。

すなわち強迫症、たとえば不潔を恐れて何十回も手を洗ったり、家のカギを閉めたか気になって外出もできないような状態は、本人にとっても苦しいことであり、「苦しくてやめたいのに、やめられない」のが特徴であるのに対して、「ためこみ症」は本人がそれを全く苦にしていない、むしろそうして溜め込んだ物に、本人が強い愛着を抱いている…という点に特徴があります。つまり症状が自我異和的か(強迫症)、自我親和的か(ためこみ症)という違いです。

この辺の記述から、徐々に私の不安は高まってきます。
そして、中尾氏が述べる「中等度~重症例」の記述を読むと、その不安は頂点に達します(太字は引用者)。

 「発症から10年以上経過し、ためこまれた物により部屋の機能が大きく損なわれた場合は、治療の難易度はぐっと高まる印象がある。」
 「介入については、長年にわたりためこまれた物に対し、どこから手を付けたらよいのか分からない場合が予想される。そのようなケースの場合、筆者らは入院治療を提案している。ここには入院環境で密度の高い面接を行うとともに、物があふれていない空間で生活することの機能的なメリットを実体験してもらう狙いもある。」

ああ、やんぬるかな。
これを読んで恐怖を感じない蒐集家はいないでしょう。
ちなみに「最重症例」になると、

 「発症から数十年を経て、家屋の住居としての機能は完全に失われ、屋外にまで物があふれかえるような、いわゆるゴミ屋敷状態に至ったケースでは、介入の難易度はより高まる。本人単独による状況の改善は考えにくく、上記に示したような入院加療も含めた濃密な治療戦略と同時に、家族や行政機関とも連携をとり、保健師や訪問看護などによる支援も取り入れながら、根気強く取り組むこととなる。」

…という状態に立ち至るのです。

(中尾氏上掲論文より)

わが身に「濃密な治療戦略」が練られるというのも恐るべきことですが、蒐集行為に多くの時間と労力をかけてきた自分の一生の意味が、そこで鋭く問われるという、なんだか≪実存的局面≫に蒐集家は直面するわけです。そのとき、強く自分の生を肯定できるかどうか? できたらいいな…とは思いますが、こればかりはその場面にならないと分からないでしょう。

――いや、そうではありません。蒐集家はむしろこう言うべきなのです。
「このモノたちに価値があるのか無いのか、それによって私の人生の価値が決まるのではない。私の人生はこのモノたちと共にあったことによって、既に価値あるものなのだ」と。そして、「このモノたちの価値は、私の人生が既にそれを証明しているのだ」と。


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 独立した疾患としての「ためこみ」と、他の疾患に伴う「ためこみ症状」は区別される必要があります。たとえば、うつ病だと物を片付けることができなくなって、ためこみ状態を呈することがあるし、逆に躁状態において、物をバンバン買って、部屋が物だらけになることもあります。それらはうつ病や双極性障害(躁うつ病)の治療をすれば、ためこみも自然と収まるので、本来のためこみ症(過剰なためこみ欲求)とは異なります。同様に、統合失調症や認知症、ADHD等でも「ためこみ症状」を呈することがあります。

アドラーのヴァーチャル展示2021年09月04日 10時32分28秒

Googleが世界中の美術館・博物館と連携して、ヴァーチャル展示会を提供している、「Google Arts & Culture」というサービスがありますが、その中にシカゴのアドラー・プラネタリウムが、テーマを決めて自館の収蔵品をあれこれ紹介しているページがあるのに気づきました。


Google Arts & Culture :Adler Planetarium のトップページ

アドラー・プラネタリウムのコレクションは、いわゆる天文アンティークに類する品を含め、広く古今東西の天文関連の文物を対象にしているので、バラエティ豊かで、目で見て楽しいです。しかも、ヴァーチャル展示は、ほんのさわりを紹介しているだけで、その向こうにはさらに多くの品が山とあるわけですから、本当にすごいです。

たとえば占星術についての展示、あるいは月についての展示、あるいは貴重書についての展示…。

こういうのを見ると、「いいなあ」と思と同時に、同様のコレクションを自分でも持ちたいと思ってしまうのが、私の弱点です。こんなことを真顔で言うと、何だか見てはいけないものを見るような目で見られるかもしれません。でも、Jリーグにあこがれて練習に励む小学生のように、夢を抱き、目標を高く持つことは決して悪いことではないはずです。

とはいえ、私は小学生ではないし、その夢がかなう可能性はゼロなので、世間的には全く無意味な試みです。それでも、自分だけの「小さなアドラー」が持てたら、それだけで心豊かな老後を送れるような気がします。


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【閑語】

いよいよ政局ですね。「政治と政局は違う」というのは正論で、「今はそんなことで騒いでいる状況ではない」というのも確かですが、しかし今の局面だからこそ、この先の展開は大いに気になるし、水面下での後ろ暗い動きにも、十分目を向けておきたいと思います。このゴタゴタの中から、人間について学べることも多いでしょう。

ときにふと気になったのですが、ひょっとして「人間、口ではどんな綺麗事を言っても、所詮は私利私欲で動いているんだ」というのが、2021年現在の日本の「本音」であり、共通認識になってはいないでしょうか?でも、私はそれに当たらない実例をたくさん見聞きしてきました。信じられない人には信じられないかもしれませんが、私利私欲で動かない人はたしかにいるのです。それも少なからず。

問題は、今の永田町にそういう人がどれだけいるかです(これは自民党に限りません)。少なくとも、総裁選に関して言うと、「赤あげて、白あげて」の旗揚げゲームのように、出馬を宣言したり、こそこそ引っ込めたりする人は、欲得づくの心底が透けて見えて、最初から論外でしょう。

コペルニクスの肉声を求めて2021年08月21日 09時36分13秒

新型コロナというのは、最初の頃は「ああ怖いねえ」と言いながら、テレビのニュースで見るものだったと思います。少なくとも私はそうでした。でも、その後「リング」の貞子みたいに、コロナはテレビの「向こう」から「こちら側」に這い出してきて、日々のささやかな営みも、不穏な存在によって絶えず脅かされています。

とはいえ、不安と恐怖に圧倒されるばかりでなく、一方で日常をしっかり守ることも大事ですから、記事を続けます。

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語学の勉強を細々と続けています。
前々回の記事の画像には、コペルニクスの『天球の回転について』が写っていますが、もちろんコペルニクスを原書で読もうとたくらんでいるわけではありません。でも章題とか目次とか、部分的にでも読めたら嬉しいし、ドイツ語の本だったら児童書ぐらいは読めたらいいなと思っています。

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コペルニクスの『天球の回転について』は大部な本で、全6巻から成ります(…といっても本の体裁が全6冊というわけではなくて、現代風にいえば、これは「第1部~第6部」に相当し、本としては全体が1冊の本です)。

(1927年に仏のHermann社が出した『天球の回転について』1543年初版の複製本)

その原典を全訳したのが、高橋健一氏による『完訳・天球回転論』(みすず書房、2017)で、これは非常な労作と拝察しますが、残念ながら現在品切れで、古書価も相当なことになっていますから、私の手元にはありません。


私の手元にあるのは、同氏がそれ以前に出された『コペルニクス・天球回転論』(同、1993)です。これは全6巻のうちの総説的な第1巻を訳出し、解説を付したものです。まあ白状すれば、私はこの抄録版すらちっとも目を通していないのですが、その「まえがき」には大いに心を打たれました。

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そこにはこうあります(太字による強調は引用者)。

 コペルニクス研究に取り組み始めてから、かれこれ10年近くになる。本格的に取り組むようになったのは、九州大学教養部のゼミナールで『天球回転論』を読んだときからであった。学生はたった一人しかいなかった。この個人授業で、学生は日本語訳と英訳とを読み、私はラテン語原典に目を走らせていた。学生の熱心さがこちらにも乗り移り、時間を延長してゼミをするのが通例となった。こうしてテクストを精読するうちに、新しい日本語訳の必要性を痛感するようになった。

読んだ瞬間、うらやましい!と思いました。
何と濃密な時間がそこにはあったことでしょう。こういうことが最近の大学でもありうるのかは不明ですが、話に聞くオックスフォードやケンブリッジの「チューター制」を思わせる光景です。こういうのはコストカッターの手にかかると、真っ先に屠られてしまいますが、こういう環境からしか生まれない知的営為というのも確かにあるでしょう。現に高橋氏の訳業がこうしてあるわけで、またその薫陶を受けた有為な学生とは、現在早稲田で科学史を講じておられる加藤茂生氏です。

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にわかに表現しにくいですが、「こういう世界」に私は憧れます。
ひとりひとりの人間は、根無し草のように世界に漂っているのではなく、時代と国を超えて多くの人と結びついている…というのは、ある意味当然のことですが、そのことを本やモノを通じて実感したいというのが、これまで倦まず綴ってきたことです。

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コペルニクスの肉声が、かすかにでも聞き取れたら…と思いながら、今日もテキストを開きます。

古典とワクワク2021年01月11日 22時52分25秒

コロナ禍もすでに1年余りが経過し、これからは「去年の今頃は何があったかな?」と振り返るのが日課になりそうです。ちなみに去年の1月11日は、中国で<原因不明の肺炎>による初の死者が出た、と報じられた日でした。

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それを思うとずいぶん昔のことですが、今から7~8年前の新聞で、興味深い記事を読みました。ユタ州の地方紙「ソルトレイク・トリビューン」の2013年2月21日号に掲載されたものです(記者はSheena McFarland氏)。


Old book collection a thrill for astronomy enthusiasts
 ― University of Utah's J. Willard Marriott Library featured original editions of books that laid the foundation for astrophysics.

見出しは、「古書の山に天文ファン興奮――ユタ大学のウィラード・マリオット図書館が、宇宙物理学の基礎を築いた書物を原書で公開」といった意味合いでしょう。

地元出身の富豪、ウィラード・マリオット氏(日本にも進出しているマリオット・ホテルグループの創始者らしいです)の寄贈によってできた、ユタ大学の専門図書館が、天文学の古典を公開し、地元のアマチュア天文家が、それに興奮して見入った…というのが記事のあらましです。

私が興味を覚えたのは、私の知るアマチュア天文家は、普通そういうものに関心を示さないイメージがあったからです。大抵の天文ファンは、望遠鏡で星を眺めるのは好きでも、昔の天文学の歴史には興味が薄いし、たまさか歴史に興味を持つ人がいても、古書そのものには関心を持たない…というイメージがありました。でも、実はそうでもないのかなと、この記事を読んで考え直しました。

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図書館に並んだのは、たとえばニュートンの『プリンキピア』の初版(1687)です。
以下、記事を部分訳してみます(かなり適当訳です)。

 「天文家にとって『プリンキピア』はバイブルなんです」と、パトリック・ウィギンズは言った。彼はスタンズベリーパークの住人で、ソルトレイク天文協会会員を中心とする一行15人のツアーを企画したアマチュア天文家だ。「これは実に感動的な経験です」と、本を手にしながら彼は述べた。

 展示されている本の年代は、最も古い西暦800年代から、1900年代初頭のアインシュタインの著作にまで及ぶ。39冊の本の大部分が初版本で、オリジナルの装丁のまま、何百年も経た今でも完全な状態で読むことができる。

ここに並ぶのは、ほかにジョバンニ・パオロ・ガルッチの星図集『世界劇場』(スペイン語版、1607)とか、アンドレアス・セラリウスの美麗な『大宇宙の調和』(1661)とか、ガリレオの『天文対話』(1632)などで、いずれも貴重な歴史の証人です(なお、上でいう「西暦800年代」の本は原書ではなく、複製本のようです)。

 一行のうちの2人、トゥーイル在住のテラとスティーブのペイ夫妻は、ウィギンズから「関心があればぜひ」とメールで誘われて参加した。スティーブは言う。「歴史上、科学思想のターニング・ポイントとなった本があります。そうした本を眺め、手に取ることができるなんて、生涯で一度きりの経験でしょう。」

年間約40のグループが、学外からこのマリオット図書館の貴重書コレクションを見に訪れる。その財源は税金と個人的寄付であり、誰でも特定の本をリクエストし、書庫から司書が運んでくればすぐに、それを手に取って読むことが出来ると、貴重書担当のポウルトン主任学芸員は言う。

 ソルトレイクに住むアマチュア天文家のフレッド・スワンソンは、これほどの貴重書を前に喜びを隠せない。スワンソンは言う。「これらは西洋科学を作り上げた資料の一部に他なりません。それらを見ると、本当にワクワクします。私はこれまでずっと天文学と物理学に関心がありましたが、私が使った教科書はすべて、ここにあるケプラーやニュートンやアインシュタインの著作に基づいて書かれたんです。こんなにワクワクすることはありませんよ。」

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皆さん、至極穏当でまともな意見だと思います。
モルモン教の根付いた土地ですから、訪問する人もどちらかといえば善男善女タイプの、篤実な人が多いのかもしれず、平均的アメリカ人の感性とはずれている可能性もありますが、それにしても市井の人が、こういう思いで科学の古典に接するのは、間違いなく好いことでしょう。

日本だったら…と当然考えますが、実際のところどうなんでしょう?
たぶんお勉強気分で、神妙な面持ちで眺めることはするでしょうが、あまりワクワクやドキドキはないかも。

同じ眺めるのでも、「よそながらに眺める」のと、「自分に結びついたものとして眺める」のとでは天地雲泥の差があって、後者の感覚を持てるかどうかが、教育の成否を測る物差しではないか…と、何だか我ながら説教臭いですが、そんな風にも思います。

天文和骨董 序説2020年11月17日 06時39分41秒

天文和骨董を考える上で、前から考えていたことを書きます。

天文和骨董というのは、絵画や工芸の分野に限れば、要するに日月星辰を描いた作品です。…というと、「じゃあ、正月の床の間にかける初日の出の掛け軸も、『天文和骨董』と呼んでいいの?」という疑問が、もやもやと浮かんできます。

(オークションで売られていた掛軸の画像をお借りしました)

「さすがにそこまで行くと、概念の拡張のしすぎじゃない?」という、内なる声も聞こえます。でも、初日の出の掛け軸だって、見方によっては立派な天文和骨董だ…というのが、熟考の上での結論です。

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日本は、星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だというのが、一般的理解だと思いますが、そんな日本人の暮らしにも、星(天体)に関する行事は、連綿と引き継がれています。

たとえば七夕です。あるいはお月見です。
そして初日の出を拝む行為もその一つです。

毎年、暦の最初の日に、大地や海から上る太陽を拝んで一年の幸を祈る、さらにそれを絵に描いて家の中心に飾る…となれば、これは押しも押されもせぬ、立派な天文習俗でしょう。あまりにも陳腐化して、我々はそのことを忘れがちですが、異文化の目を通して見れば、きっとそのように見えるはずです。

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それと、もう一つ気になっていることがあります。

それは「お星様」という言い方です。「お日様」「お月様」という言い方もあります。これらは現在、何となく幼児語として扱われている気がしますが、「お海様」とか「お山様」とは言いませんし、「お雲様」とも「お虹様」とも言いません。ただし「雷様」とは言います。

こうして並べてみると、「雷様」が明らかに人格化された雷神を指しているように、お星様、お日様、お月様という言い方も、日月星辰を神格化し、敬っていた名残だろうと推測されるのです。そして、お日様を「お天道様」とも言うことから、そこには中国思想の影響が濃いこともうかがえます。

こういう風に考えると、日本は星にかかわる習俗や文化が相対的に希薄だ…という言い方もちょっと怪しくて、過去のある時期において、日本人は大いに日月星辰を意識して、しょっちゅう天を振り仰いでいたんじゃないかなあ…と思うのです。(そのわりに星座や星座神話が未発達なのは何故か?というのは、また別に考えないといけません。)

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旭日画に「お日様」の姿が読み取れるなら、月の絵についてはどうでしょうか?

月を愛でるのは、多くの文化に共通でしょう。日本でも月を描いた作品は、これまで無数に描かれてきました。ただ、日本に特徴的なのは、桜、梅、ホトトギス、秋草、雁…そういう特定の自然物と組み合わされて描かれることが多いこと、すなわち表現の様式化が著しいことです。これは日本の詩歌も同様と思います。

(これも借り物の画像)

言うなれば、これはリアルな月(=個性化された月)よりも、様式化された月(=無個性な月)を愛でる態度に通じます。これこそが旭日画との大きな共通点であり、そこに私は「お月様」の匂い――月の神格化の残滓――を感じるのです。(宗教画は本来「偶像」であり、没個性をその本質とするものでしょう。) ここでは、梅や秋草や雁は、いわば月という<本尊>に対する「お供え」であり、荘厳(しょうごん)なのだ…というわけです。

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まあ、この辺は異論もあるでしょうし、私の中でもまだ生煮えの考えに留まっています。
それに、上に書いたことは、あくまでも「理念」です。潜在的に天文和骨董と呼びうるからといって、何でもかんでもそうだと言い立てるのは、良識ある態度とは言えません。記事の方はもう少し節度をもって書き進めたいと思います。

いずれにしても、この国に暮らした人々の天空への思いを、モノを通してたどろう…というのが、私の意図するところです。

天文和骨董の世界2020年11月15日 16時41分51秒

世の中は三日見ぬ間の桜かな。
まことに転変の多い世です。


昔の高橋葉介さんの漫画、「宵闇通りのブン」(1980)だと、少女ブンが「パパ遅いな…」と、街灯の下で腕時計を気にしている間にも、貧相なチョビ髭の男が民衆の英雄となり、一国の指導者に上り詰め、戦争が起こり、「話が違うじゃないか!」と嘆く民衆の上に爆弾が降り注ぎ、焼け跡に終戦の号外が配られたところで、ようやく父親が姿を見せて、「ひどいわ。ずいぶん待ったのよ。退屈しちゃったわとブンがふくれっ面をする傍らで、かつての「英雄」は、民衆によって縛り首になる…。


それぐらいの時間感覚で、世界が動いている感じです。
まあ、動くにしても、いい方向に動いているかどうかが肝心でしょうが、そこは一寸混沌としています。

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さて、しばらく蟄居している間に、私の身辺や心の内にも、いろいろなことが去来し、そこにも有為転変の風は吹き荒れていました。でも、だからこその天文古玩です。自らを安んじるため、古人の思いを訪ねて、モノを手にすることは続いています。

そんな中で、最近考えるのは「天文和骨董」は可能か?という命題です。

天文アンティークというのは、私自身それを唱導し、また世間でもそれを愛好する人がポツポツ現れて、そういう品に力を入れるお店もあるわけですが、総じて西洋の品で商品棚が埋まっているのが現状でしょう。

このブログだと、七夕の話題に関連したりで、和の品もときどき登場しましたが、それに興味を持つ人は皆無と言ってよく、2020年現在、「天文和骨董」というジャンルは、まだ存在していないと思います。しかし、これはいずれ形を成す…いや、成してほしいです。

まあ、遠い星の世界を愛するのに、地球上の国や地域という区分は、あまり意味がないとは思います。でも、人々の星への思い―すなわち「星ごころ」は、文化的バックグラウンドがあって花開くものですから、星と同時に「星ごころ」を愛でようとするとき、その時代や国・地域を無視することはできません。

そして、この島国に生まれ育った私が、自らの星ごころを振り返り、その文化的背景に自覚的であろうとすれば、「天文和骨董」というジャンルは、どうしてもあって欲しいのです。確かにそれがなくても、別に困りませんが、自分の趣味嗜好を、他の人と分かち合うためには、そこに共通言語があったほうが何かと便利でしょう。

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「天文和骨董」というと、野尻抱影にも先例があって、抱影には『星と東方美術』という著作があります。この本は以前【LINK】取り上げましたが、そこで抱影が話題にしているのは、「東方美術」の名にふさわしい、博物館や社寺の秘庫に収まっているような歴史的文化財です。

(画像再掲)

一方、私の言う天文和骨董は、趣味人が手元に置いて愛でたくなるような、身近な品々なので、抱影の文章は大いに参考にはなりますが、その手引きには程遠いです。ですから、天文和骨董を語ることは、ちょっと大げさに言えば、「僕の前に道はない」的な、やや強い決意を要することです。

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と言って、最初から「これが天文和骨董だ」と、決めてかかることはしません。

今回、ささやかな試みとして、「和骨董・和の世界」という新カテゴリー【LINK】を作りました。ここには和骨董的な古びた品々をはじめ、ジャパネスクな伝統工芸品や、和の匂いの濃い品をまとめました。そうした品々が集積した先に、おそらく「天文和骨董」の世界も徐々に輪郭を備えてくるのではないか…と予想します。


古き者たちの記憶2020年10月18日 07時16分33秒

その後も古典に親しみ続けています。
といっても、読んでいるとすぐに眠くなるので、なかなか読み進めることはできません。でも、それだけ楽しみが続くと思えば、それはそれで良いのです。ことによったら、死ぬまでこれが続くかもしれません。まあ、それが幸福な死にざまかと言えば、そうとも言い難いですが、穏当な生き方であったとは、多分評されるでしょう。

   ★

今読んでいるガリレオの『天文対話』は、3人の人物(ガリレオの分身である新派の学者、アリストテレスに心酔する旧派の学者、聡明な素人)の対話体で進む、『三酔人経綸問答』みたいな体裁の本で、全編が天動説を論駁し、地動説を擁護する内容です。


そこには読んでいて、読みやすい箇所と、非常に読みにくい箇所があります。
後者は主に、ガリレオが攻撃するアリストテレスの説が、「素朴科学」を超えて、「思弁哲学」に入っている部分です。そういう個所では、そもそもアリストテレスが何を言っているのか分からないので、3人の議論が頭に入らないです。

それでも、ガリレオの時代にあってもなお、アリストテレスの権威がどれほど大したものだったか、そして、彼を本尊と仰ぐ旧派の学者の態度がいかなるものであったか、3人の人物はガリレオの創作にしろ、時代の空気はよく伝わってきます。

さらにまた、ガリレオは1642年1月に没し、同じ年の12月にニュートンが生まれたと聞くと、その後の時代の変化が、いかに急だったかも分かります。コペルニクス以来、人類の精神史にとっては革命につぐ革命の時代だった…というのは、知識としては知っていても、こうして古典に接することで、それが皮膚感覚として分かったことは、個人的に嬉しかったです。

   ★

古典に限らず、アンティークの良いところは、古くなってもアンティークの価値は変わらないところです。もちろん、アンティーク業界にも流行りすたりがあるので、商品価値は常に変動しますけれど(その意味でアンティークはナマモノです)、その歴史的意義というか、そこに堆積した時の重みは一向に変わりません。むしろ、その重みはどんどん増していきます。

   ★

古いモノたちは、今も時の重みを身にまといつつあります。
彼らにとって、「今」はどんな時代と目に映っているんでしょうね?
彼らを将来手にするであろう未来の人にとってはどうでしょう?

同時代人たる私の目には、愚なる時代としか見えないんですが、愚なる時代かどうかはともかく、確かにそう思った持ち主がいたことを、次代に語り継いでほしいと切に願います。

私は声を上げる2020年09月28日 21時56分34秒

ナチズムに抵抗したマルティン・ニーメラーの有名なメッセージを、どこかで目にされたことがあるでしょう。このブログでも、過去に一度登場しました。

  最初、彼らは共産主義者に矛先を向けた
  だが、私は声を上げなかった
  私は共産主義者ではなかったから

で始まり、徐々に「異分子」が排除されていった挙句、

  ついに矛先は私に向いた
  そして、私のために声を上げる者はもはや誰もいなかった

で終わる、不安と恐怖に満ちた教訓詩。

   ★

あれと同じ感覚を、某古書店が発行するニューズレターを読んでいて感じました。
かつて偉大な「文化の守り神」だった古書店は、現在急速に淘汰が進みつつあり、その淘汰の先にあるのは、一種の「都市鉱山」です。アマゾンの出品業者は、既にそうなっているでしょう。


私の中のニーメラーはこう謳い出します。

  最初、町の本屋がごっそり消えた
  だが、私は声を上げなかった
  本は町の本屋以外でも簡単に買えたから

町の本屋に続いて、小出版社が消え、中出版社が消え、公共図書館も大学図書館も本を買わなくなり、専門書が消え、翻訳書が消え、専門家が食えなくなり、誰も本を買わなくなり、古書店も消えつつあります。

  あらゆるものが次々に消えた
  だが、我々は声を上げなかった
  それらが消えても、我々は誰も困らなかったから

少なくとも私は大いに困るんですが、これが今の時代の気分なのかもしれません。
でも、その先にあるものは―?

   ★

ここまで読んでも、あまり危機感を持たれない方もいると思います。
でも、ここで注意を要するのは、上の話は容易に語りの次元を上げられることです。つまり、上の話は「出版文化」に限定していましたが、いきなり

  最初、出版文化が消えた
  だが、私は声を上げなかった
  本は私の生活に何のかかわりもなかったから

…というところから始めて、映像、音楽、美術、工芸、ファッション等々、さまざまな文化が次々に消滅する過程をうたうことだってできます。どの道筋をたどっても、その先にあるのは、人間精神の根幹が立ち枯れる、索漠とした未来でしょう。そういう危うい時代にあることを、私は古書店主の文章を読みながら感じました。

   ★

思うに、文化そのものが、完全に根こぎになることはないのかもしれません。
ヨーロッパ暗黒の千年のように、すぐれた文化はシスト化して、精神の乾期を乗り越え、いずれまた豊饒な花を咲かせるかもしれません。

でも、シストはいいとしても、生身の人間が、そういう苛烈な時代を生き延びるのは、なかなか大変だろうと思います。

透かし見る空…透過式星図(4)2020年09月26日 06時56分51秒

話の順番では、次にOtto MöllingerHimmelsatlas(1851年)を採り上げるところですが、前回の末尾に書いた「或る疑問」をめぐって、ここで1回寄り道をします。

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2つの星図を並べてみます。御覧のとおり表紙デザインは全く同じです。


右側は昨日も登場したブラウン星図で、正確なドイツ語タイトルは、『Himmels-Atlas in transparenten Karten』(透過式カードによる星図アトラス)
左側はフランス語で、『Astronomie Populaire en Tableaux Transparents』(透かし絵による一般天文学)。タイトルは微妙に違いますが、中身は当然ブラウン星図のフランス語版です……というのだったら、なんの問題もありません。しかし事実は違うのです。


左の中身は、なぜか連載第1回に登場した、『レイノルズ天文・地学図譜』のフランス語版。いったい全体、何がどうなっているのか? 

レイノルズの『天文・地学図譜』は、スウェーデン語版やロシア語版まで出ているぐらいですから、フランス語版が存在しても、別に不思議ではありません。しかし、その「衣装」がブラウン星図と同じというのは、いかにも変です。そうであるべき理由がありません。


それと、もう一つ気になるのは、このフランス語版の紙質と印刷が、微妙に粗末なことです。

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以下はまったくの想像で、全然違っているかもしれません。しかし、おぼしきこと言わざるは何とやら、無遠慮に書いてしまいます。

私の想像というのは、要はこれは海賊版じゃないかということです。
そう思うのは、レイノルズのフランス語版が出るなら、当然パリの出版社から出るはずなのに、これがベルギーのブリュッセルで出ているからです。別にブリュッセルを軽んずるつもりはありませんが、ブリュッセルと聞くと、何となく身構えてしまう自分がいます。何といっても、19世紀のブリュッセルは、名にし負う海賊版の本場だったからです。

その辺の事情を論じた文章があるので、引用しておきます。

■岩本和子
 ベルギーにおけるロマン主義運動―想像の「国民文化」形成
 神戸大学国際文化学部紀要11巻(1993年3月)、pp.1-35. 
その「Ⅲ 出版資本主義 海賊版 contre-façon 論争をめぐって」(pp.14-19)という節にはこうあります。

 「19世紀のベルギー、とりわけロマン主義の時代は、「海賊版」の時代でもあった。今日でも我々が19世紀のフランス語の稀覯本カタログを手にすると、しばしばブリュッセルの匿名出版社発行であることに気づく経験をする。

「海賊版」には大きく分けて3通りのやり方があったようである。ひとつには、「最近」パリで出版されたものを無許可でコピーし、ヨーロッパ市場へ売り出すというものである。当時ブリュッセルでの印刷費はパリでの半分だったとも言われる。安価な上、読者の反響がすでにある程度わかっているものだけに、確実に売れる方法である。フランスの有名作家はまず例外なく対象となった。」
(p.14)

これは相当なものですね。
さらには、「ベルギーのこのような節操のない無制限のフランス書籍出版」(p.16)とか、「国を挙げてと言ってもいいほどのベルギーの海賊出版」(p.17)といった烈しい文言も出てきます。(ちなみに海賊版のあとの2つの方法とは、「新聞・雑誌に連載されたものを、フランス本国よりも先に単行本化してしまう」というのと、「フランスで発禁処分になったものを、ベルギーで堂々と印刷発行する」ことを指します。)

――「いや、これはたまたまブリュッセルで出ただけで、やっぱり正規のフランス語版なのだ」という可能性だって、当然あります。もしそうならば、版元の Keslling 書店にお詫びせねばなりません。しかし、その場合も、同社がブラウンのポートフォリオ・デザインを剽窃した疑いは依然残ります(その逆は、よもやありますまい)。

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余談の余談ですが、この怪しいフランス語版は、かつてパリの名店、アラン・ブリウ書店のショーウィンドウを飾っていたことがあります。

(画像再掲。元記事はこちら

私は当時上の写真にあこがれて、日に何度も飽かず凝視していました。仮に海賊版だとしても、「あの」アラン・ブリウ書店の店頭にあったんだから、我が家にあったっていいじゃないか…というのは妙な理屈ですが、モノとの付き合いを長く続けていると、いろいろなところに思わぬ結び目ができるものです。

(この項つづく)