狐狸と屍喰(グール)の跋扈するところ2025年06月07日 13時10分44秒

(前回のつづき)

和田維四郎(号は雲村)の古書蒐集に関して、前出の川瀬一馬氏は、もう少し言葉を加えています。

 「村口は雲村の購書を一手に扱って、ほかの古本商を寄り付けぬように努め励んだと言います。〔…〕雲村は、岩崎・久原両文庫へ購入する古書の中に自分が欲しい物があると手もとに残し、それは後に「雲村文庫」として岩崎文庫に買って貰いました。体のよい二度取りです。それは半分久原文庫へ遣らなければならぬはずのものですが、久原は破産して最後は購入費を出しませんでしたから、岩崎文庫の方へ皆行ってしまったのでしょう。」 (川瀬前掲書、p.160)

川瀬氏はさらに

 「古書善本の購入にかかわると利が伴ないますから、生活のため色々のことが起こりやすいものであります。その間に身を潔く保つことははなはだ難しいことです。」(同)

と余韻のある結び方をされていますが、川瀬氏の本には、ほかにもいろいろと人間臭いエピソードが紹介されていて、学ぶことが多かったです。

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こういう商取引に関わる「ズル」以外に、この本には偽作の話題も出てきます。
私はこれまで書画骨董の世界は偽作・贋作だらけにしても、刊本である古書にもそうした例があることを知りませんでした。

具体的には、名のある蔵書、たとえば古くは北条氏の「金沢文庫」とか、下って太田南畝の「南畝文庫」とかから出た本であることを装う<偽印>、あるいは無刊記の本に他本の刊記を持ってきて補う<目直し>など。もちろん、いずれも書物の「格」と値段を吊り上げるための工夫に他なりません。

(川瀬氏の本に紹介されている偽印の例。右は真正の金沢文庫印、左は偽印三体)

まあふつうの古書だったら、初版本のコレクターが「本当の初版」の見極めに血眼になったり…とかはあると思いますが、意図的な偽作というのは、あまり聞きません(「著者サイン入り」が、別人の筆だった…というのは聞きます)。しかし「古典籍」の世界はまさに生き馬の目を抜く世界で、なかなか油断できないわけです。

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古書と言えば、最近、こんな事実を知りました。
書物研究家の庄司浅水(しょうじせんすい、1903-1991)氏の古書エッセイに教えられたことです。

庄司氏は、愛書趣味の先人、アンドリュー・ラング(Andrew Lang、1844-1912)のいう「ブック・グール(書籍墓発き)」を紹介して、こう書きます(改段落は引用者)。

 「〔…〕「書籍墓発き」に至っては、本を滅茶々々にしないと収まらないと云ふのだから、困ったものである。彼等は題扉(タイトルペーヂ)、口絵(フロントピース)、挿画、蔵書票等を蒐集するを以てこよなき楽しみとしてゐる。これがためには、公私の別なく書庫に忍び入り、湿した糸を挿込んでは己が欲する挿画を切り取り、アラビヤの伝説に伝はるかの不吉な悪魔の如く、巨人の残骸に見入る者である。

この方の代表的人物にジョン・バグフォードと云ふ靴屋の親爺がある。彼は英吉利好古物協会創設者の一人であるが、己が地位を利用して、各国各地の図書館、文庫を歴訪し、貴重珍稀な書籍を見せて貰ひ、監視の眼をごまかしては、さうした本のタイトル・ペーヂを片っ端からちぎり取ったのである。斯くして蒐集したものは、夫々の国々町々によって分類し、キチンと板紙に貼付けたが、二つ折判にして、優に百冊を突破したとのことである。」 (庄司淺水「書蠹」、奥本大三郎・編『蒐集(日本の名随筆別巻34)』、作品社、1993所収)


なるほどと思いました。
古書のカタログを見ていると、よく「タイトルページ欠」という本が売られています。現に私の手元にもあります。あれが一体何なのか、ずっと不思議に思ってたんですが、どうやら意図的に切り取る人がいたんですね。これが美しい口絵なら、それを切り取って手元に置きたいという気持ちは理解できるので、「口絵欠」の本は別に不思議とは思わないんですが、無味乾燥なタイトルページまで集めている人がいるとは、ちょっと予想していませんでした。

庄司氏と同様、私もそうした行為には眉をひそめますが、でもタイトルページがないおかげで、普通だったら手の届かない本が安価に売られている場合もあって、そのおかげをこうむっている私も、実は共犯者か…と、後ろめたいものも感じます。

(タイトルページを欠いたPierre Pomet(著)『A Compleat History of Druggs』、1712(フランスの本草書の英訳本)。パッと見タイトルページがあるように見えますが、これは前の所有者がカラーコピーで補ったもの)

石の人、本の人…和田維四郎のこと2025年06月05日 06時16分26秒

この間の「旅」のこぼれ話の一つとして、ひょんなところで和田維四郎(わだつなしろう、1856-1920)に出くわしたことがあります。

日本の鉱物学草創期の偉人である和田のことは、以前――15年も前のことです――、その名をとった「和田石」の話題のところで、少し触れました。

(和田維四郎 出典:ウィキペディアの同人の項

■人、石と化す

また前後して、和田の三男が幻想・推理作家の大坪砂男(本名:和田六郎、1904-1965)であることも話題にしました。

■鉱物、幻想、文学の系譜

その和田は、息子ばかりでなく自身も文学畑の活動にいそしみ、和漢の古典籍の蒐集家として名をはせたことを先日知りました。この事実はウィキペディアの同人の項にも、

 「晩年は雲村と号し、岩崎久弥〔=三菱財閥総帥〕と久原房之助〔=くはらふさのすけ、「鉱山王」の異名をとった久原財閥総帥〕の財政支援により古書籍を蒐集、研究し、大著『訪書余録』などを著わし、科学的な書誌学の開拓に貢献した。」

…とあるので、その道の人には周知のことかもしれませんが、恥ずかしながら私は全く知らずにいました。

上の引用文中に出てくる『訪書余録』というのは、私が和田と古典籍との関係を知るきっかけとなった本です。大正7年(1918)に和装本の形で自費出版され、現在は古書価が20万円前後もする高価な本です。ただ幸いなことに、臨川書店から昭和53年(1978)にハードカバーの複製本が出たおかげで、その内容に触れることは容易です(ただしオリジナルは高さ33cmの大型本ですが、こちらは高さ26.5cmに縮刷されています)。

(全6編で出たオリジナルを「本文篇」と「図録篇」の2巻に再構成した複製本。本文篇は268頁、図録篇は裏面が白紙の折込図も多いため、単純に頁数で数えられませんが、全部で412図を収めています)

(同書奥付)

「本文篇」の内容は、漢文訓読のための「ヲコト点」の解説や、文字・料紙・印刷等の基礎知識、現存する主要古典籍の紹介ですが、目を引くのはなんといっても大部な「図録篇」です。普段容易に見ることのできない秘籍類を、原色版(オリジナルでは精巧な多色木版で表現)もまじえて紹介した内容は、和田の旺盛な集書・探書活動の賜物であり、その背後に大財閥の豊かな資力があったればこそです。まあ、言ってみれば「他人の褌」なのですが、彼の活躍によって財閥の書庫に収まった貴重書類は、その後も散逸することなく、現在の東洋文庫や大東急記念文庫に引き継がれたので、その努力は仇花で終わることなく、大きな実を結んだことになります。

(図版篇より『高野版 悉曇字記』)

(同『三十六人家集』 西本願寺蔵)

(図録篇目次。各種のサンプル画像を「標本」と呼んでいるのが、鉱物学者らしい)

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ここまでだと、和田は文理双方に深い学殖を備えた天晴れな人物である…ということなりますが、先ほどのウィキペディアの記述は、その次に妙な一文があります。

「但し、川瀬一馬の『日本における書籍蒐蔵の歴史』によれば、『訪書余録』は高橋微笑という者の編著という。」

川瀬一馬(1906-1999)は日本書誌学の権威と呼ばれた人。
学生時代から古典籍の世界の表裏を知り抜いた川瀬氏は、また違った和田像を伝えています。ついでなので、氏の言葉も原文で挙げておきます。

 「さて、村口〔=神田神保町の村口書店主・半次郎〕はそれ以前に和田維四郎(雲村)にうまく結び付いて一人占めにして、数年の間に古本屋の巨商とも言うべき地位を獲得しましたが、どうも一手にすがるお客様がいないと心淋しいと漏らしていました。〔…〕大正の半ばに村口がうまく取り付いた和田維四郎(雲村)は、憲法以前の農商務省鉱山局長の役職にいて、藤田組や三菱に有望な鉱山を払い下げて、その見返りに両方から一生多額な小遣いを貰って暮らし、年を取って茶屋遊びから古書買い遊びに転じた人で、『江戸物語』などを作りましたが、『訪書余録』なども全部高橋微笑の編著です。」 (川瀬一馬『日本における書籍蒐蔵の歴史』(ぺりかん社、1999)、p.159)


これは相当毒のある評言ですが、斯界の権威・川瀬氏の目には、和田の古典籍研究も所詮は「古書買い遊び」のレベルに映ったのでしょう。なお、ここに名前の挙がっている「高橋微笑」は、『訪書余録』の「緒言」に見える「又高橋美章君は本書の印刷を監督せられ」…云々とある人のことと思われ(微笑はその名を音読みした号でしょう)、川瀬氏の回想では東京の市ヶ谷仲之町に屋敷を構えていたそうですが、それ以上の伝は未詳。

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若き日の和田はたしかに鉱物に心をはずませ、死後、自ら石と化しました。
しかし、生身の人間が硬く冷たい鉱物に伍すことはやはり相当難しいことで、ときに生臭いエピソードが漏れ出るのもやむを得ません。まあ、だからこそ人間的であり、人でなしと呼ばれるよりはいいのだ…とも言えます。

(庭仕事をしているときに拾った青い小石。玉髄?)


積んどけ!2025年01月26日 09時34分21秒

先日、Facebook上の「Vintage Astronomy Books」というグループに加えてもらったという話をしました。で、その過去記事を見ていて、「天文古書とは関係ないが、興味深い内容だ」として、以下の記事が紹介されているのを目にしました。


 (日本人が「ツンドク」と呼ぶこの習慣は、永続的な効用をもたらし得る)
 BIG THINK、2022年12月22日掲載 

いきなり「tsundoku 積ん読」が出てきて面喰いますが、積ん読の功徳を大いに力説する内容で、私自身、根っからの積ん読派なので、少なからず勇気づけられました。

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著者の主張をかいつまんで言えば、未読の本に囲まれて暮らすことは、自分の無知を自覚することにつながり、無知を自覚することは、自分の知っていることを自覚するよりもはるかに価値がある…ということです。

我々はみな多かれ少なかれ無知であり、無知それ自体を恥じ入る必要はありません。万巻の蔵書を誇るウンベルト・エーコだって、その全てを読んだわけではないし、人間の能力を考えれば、そもそもそれは物理的に不可能です。

未読の本の背表紙は、いかに広大な無知の領域が我々を取り巻いているか――著者の書斎の例でいえば、暗号学、羽毛の進化、イタリアの民間伝承、第三帝国における悪しき薬物使用、昆虫食とは何か等々――を教えてくれます。そして未知の対象があると知るからこそ、我々は新たな読書体験を求め続けるのです。

この「読まれざる本の山」を、著者は統計学者であるNassim Nicholas Talebの造語を借りて、「アンチライブラリー(反図書館)」と呼びます。しかし記事の後半では、アンチライブラリーの語感があまりよろしくないのと(『ダヴィンチ・コード』の著者、ダン・ブラウンの小説にでも出てきそうだ、と著者は言います)、普通の図書館だって多くの本が読まれないままなのだから、あえてアンチと呼ぶ必然性が薄いという理由で、日本語の「積ん読」に軍配を上げます。積ん読もまた「読書」の一形態だ…という点に魅力を感じたのでしょう。

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著者はライターとして記事を量産している人なので、この記事にしても、どこまで本気で書いているのか、何となく常識の逆張りで人目を引こうという意図や、そもそも「こたつ記事」っぽい感じが無くもないですが、でもこうやって堂々と言ってもらうと、家族に対しても、「どうだ、Dickinson氏曰く…」と胸を張れるような気がします。

まあ、これも人は自分に都合のよい情報だけを取り入れがちという、「確証バイアス」の例に過ぎないといえば、その通りでしょうけれど…。


ポスト・アポカリプスに希望の灯あり2025年01月14日 05時58分21秒

文明社会が滅び、荒廃した地球。
あのカタストロフを辛くも生き延び、荒野をさまようひとりの男。
男はある日、彼と同じように災厄を生き延びた人々が小さなコミュニティを作り、ささやかな「文明の灯」を守り続けているのを見い出した。信じられない思いでゲートを叩く男の前に、おごそかに現れたコミュニティの長(おさ)。それはかつて男が「師」と仰いだ人物だった…

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そんなSFチックな場面が現実にあるとは!!

いつものようにネット空間を徘徊していたとき、ふとFacebook上に「Vintage Astronomy Books」というグループが存在するのを見つけました。以下はその冒頭に書かれたグループ紹介。

 「ここは、天文古書とその著者、天文エフェメラや思い出の品にまつわるストーリー・情報・画像を共有し、これら過去の魅力的な品々の収集と保存について語り合うことに特化したフォーラムです。興味深い天文古書がオークションにかけられたり、売りに出ている場合、メンバーが該当ページにリンクを張ることもありますが、このグループは売買の場ではないことに留意してください。また上述のとおり、(天文古書と関連がある場合を除いて)新刊書や、このグループの趣旨とは関係のない、一般的な天文学の話題について投稿する場所でもありません。」

なんと天文古玩的な場所でしょう!
このグループが作られたのは2019年2月、現在のメンバーは2,656人です。
そして、このグループのモデレーター(管理者)の名前を見たとき、私は「嗚呼!」と深く嘆息したのでした。

その名は Richard Sanderson 氏
氏は以前、米マサチューセッツのスプリングフィールド博物館で学芸員をされていた方ですが、必ずしも天文の世界で有名な方とは言えません。しかし、サンダーソン氏は紛れもなく私の「師」であり、この「天文古玩」の生みの親なのです。

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このブログがスタートしたのは、2006年1月23日。
その開設直後に、私は「天文古玩の世界への招待」という連載記事を書きました。いや、書いたというか、別の方が書いたコラムを要約して翻訳しました。

それこそサンダーソン氏の文章であり、原題を『Relics of Astronomy's Past(過ぎ去りし天文学の形見)』といいます(以下、画像は過去記事より再掲)。


■天文古玩の世界への招待(1)
■天文古玩の世界への招待(2)…望遠鏡
■天文古玩の世界への招待(3)…オーラリー、天球儀
■天文古玩の世界への招待(4)…古書
■天文古玩の世界への招待(5)…星座早見盤、絵葉書、シガレットカード
■天文古玩の世界への招待(6)


連載を終えるにあたり、自分はこうも書きました。

 「以上、リチャード・サンダーソン氏の天文コラムをご紹介しました。
 真鍮製の望遠鏡、オーラリー、天球儀、アストロラーベ、古書、星座早見盤、絵葉書、シガレットカードなど、何とも魅力的なアイテムの数々です。
 観望機材にかけるお金の一部でも、こうしたモノに回せば、天文趣味もまた別の滋味を発揮するのではないでしょうか?」

私のその後の営みは、サンダーソン氏の描いた海図に従った航海に他なりません。私はサンダーソン氏という巨人の肩に乗った小人に過ぎず、このブログもサンダーソン氏のミミックに過ぎないのです。ですから、上で書いた「なんと天文古玩的な場所でしょう!」というのは真逆で、この天文古玩こそ「なんとサンダーソン氏的な場所でしょう!」と言わないといけないのでした。

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その後、サンダーソン氏とネット上で再会したのは2014年のことで、その折のことは以下の記事に書きました。

■天文古書の黄昏(1)
■天文古書の黄昏(2)


天文古書で有名な名物本屋の廃業に関して、サンダーソン氏が天文学史のメーリングリストに投稿した内容を紹介するものでしたが、天文古書の世界に弔鐘が鳴らされたようで、私もひどく暗い気持ちになったものです。

サンダーソン氏が件のMLにその後も投稿されることがあったのかどうか、少なくとも私は見た記憶がないので、氏のその後の動向はまったく分からず、おそらくサンダーソン氏の趣味の世界にも黄昏がやってきたのだろう…と勝手に思い込んでいました。

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そうした長い時の流れを経て、冒頭の出来事に戻るわけです。
最初に書いたことが決して戯言でないことが、これでお分かりいただけるでしょう。

私はFacebookを使ったことがなくて、使い方もよく分らないんですが、何はさておきグループメンバーに加えていただきました。このコミュニティが永く安住の地になるのか、再び荒野にさまよい出ることになるのか、映画のプロット的には後者ということになるのですが、これは現実世界の出来事なので、そうはならないかもしれません。

苦集滅道諦2024年12月07日 10時23分35秒

「うーむ悔しい。実に悔しい。まさか自分以外にあれを買う人がいるとは!」

「逃がした魚は大きい」というのは一大真理です。
物を買う場合も同様で、狙いをつけた品を目の前でさらわれるのは、実に悔しいものです。呆然自失感が強烈で、たぶん今の私は死んだような眼をしていることでしょう。

先日、ある品を見つけました。
即断即決で買わねば!というほどではなかったんですが(値段も張ったので、その勇気が出ませんでした)、見るたびに「ああ、いいなあ」と思いながら横目で見ていました。ボーナスが出たら…とひそかに思ってたんですが、その日を目前にしてダメでした(ひょっとしたら、私に先んじて買った人も、ボーナスを当て込んだのかもしれません)。わりと渋めの品だったので、他に興味を持つ人もなかろうと甘く見ていたのが敗因でした。

他にもそれを欲した人がいるということは、やっぱりそれだけの価値があったのだろう…と思いつつ、そんなことを考えても何の慰めにもならないし、悔しさは募るばかりです。

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お釈迦様は人生の本質を「苦」だと喝破し、基本的な苦のあり様を「四苦八苦」に分けて説きました。「生・老・病・死」の四苦、そこに愛する者と別れる苦しみ(愛別離苦)や、憎らしい対象と出会う苦しみ(怨憎会苦)等を加えた八苦の教えは、誰にとっても切実でしょうし、素直に頷かれるところだと思います。

その八苦の一つに「求不得苦(ぐふとっく)」というのがあります。
欲しいものが手に入らない苦しみもまた、人間にとって根源的な苦しみだとお釈迦様は言うのです。

そうした煩悩を払うために、我々は修行に努めねばならず、モノの一つや二つでオタオタしてはいけないのですが、迷い多き衆生にとってはこれが実に難しく、その苦しさを遁れるのは容易なことではありません。

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こうして苦しむのは、私が人間的な心を備えている証拠でもあるのでしょう。
人間的な、あまりに人間的な…


一枚の紙片の向こうに見える風景2024年12月05日 18時17分22秒

韓国の大乱。
過ぎてみればコップの中の嵐の感もありますが、人の世の不確実性を印象付ける出来事でした。我々は今まさに歴史の中を生きているのだと、ここでも感じました。

師走に入り、業務もなかなか繁忙で、これで当人が「多々益々弁ず」ならいいのですが、あっぷあっぷっと流されていくばかりで、どうにもなりません。世界も動くし、個人ももがきつつ、2024年もゴールを迎えようとしています。

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さて、そんな合間に少なからず感動的な動画を見ました。
今から4年前、2020年6月にアップされたものです。


■I bought a medieval manuscript leaf | (It got emotional...)

動画の投稿主は、ブリジット・バーバラさんというアメリカ人女性。
彼女は古い品や珍奇な品に惹かれており、動画の冒頭はニューヨーク国際古書市(New York International Antiquarian Book Fair)の探訪記、後半はそこで彼女が購入した品を紹介する内容になっています。

(主催者である米国古書籍商組合のブログより)

バーバラさんは古書市の会場で、マルチン・ルターやアブラハム・リンカーンのような偉人の手紙や、1793年に書かれた無名の子供の学習帳のような、「肉筆もの」に強い興味を持ちました。そう、100年も200年も、あるいはもっと昔の人がペンを走らせた紙片や紙束の類です。

(話の本筋とは関係ありませんが、バーバラさんの動画に写り込んでいた17世紀の美しい星図、Ignace-Gaston Pardies(著)、『Globi coelestis in tabulas planas redacti descriptio』。バーバラさん曰く“If you can afford it, you can own it”.)

この動画が感動的なのは、バーバラさんがそれらの品を紹介するときの表情、声、仕草が実に生き生きとしていて、見る者にも自ずと共感する心が湧いてくるからです。

そして彼女が古書市で購入したのも、そうした肉筆物した。


時代はぐっとさかのぼって、1470年頃にイタリアで羊皮紙に書写された聖歌の楽譜、いわゆるネウマ譜です。バーバラさんは素直に「いいですか、1470年ですよ?1470年に書かれたものが、今私の手の中にあるんです!」と感動を隠せません。

もちろん事情通なら、15世紀のネウマ譜の写本零葉は、市場において格別珍しいものではないし、値段もそんなに張らないものであることをご存知でしょう。でも、「ありふれているから価値がない」というわけでは全くないのです。

バーバラさんが言うように、それは確かに昔の人(無名であれ有名であれ)が、まさに手を触れ、ペンを走らせたものであり、それを手にすることは、直接昔の人とコンタクトすることに他ならない…という気がするのです。

そして、そこからいかに多くの情報を汲み出せるかは、それを手にした人の熱意と愛情次第です。バーバラさんは、この写本に書かれた聖歌が何なのか、ラテン語のできる友人に読んでもらい、これが四旬節の第 2 日曜日の早課で歌われた聖歌であることを突き止めます。さらに、そのメロディーはどんなものか、同時代の宗教曲に耳を傾けながら、さらなる情報提供を呼び掛けています。たった1枚の紙片も、その声に耳を澄ませる人にとっては、実に饒舌で、心豊かな会話を楽しませてくれます。

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バーバラさんの感動や興味関心の在り様は、私自身のそれと非常に近いものです。私もこれまで断片的な資料から、いろいろ空想と考証を楽しんできました。以前も書いたように、それは旅の楽しみに近いものです。

人生という旅の中で、さらに寄り道の旅を楽しむひととき。
忙しいからこそ、そんなひとときを大切にしたいと思いました。

いつもの例の話2024年11月10日 14時26分53秒

うーむ…と思いました。
いつもの天文学史のメーリングリストに今日投稿された1通のメッセージ。

 「私は 1955 年 9 月号から 「S&T(スカイ・アンド・テレスコープ)」誌を定期購読しており、「S&T DVD コレクション」に収録されている 2010 年以前の号(厚さにして12フィート分)は、紙の雑誌の方はもはや不要なので、送料さえ負担してもらえれば、すべて寄付したい思います。どこかでお役に立てていただけないでしょうか?」

今やどこにでもある話で、その反応もある程度予想されるものです。

A氏 「あなたのS&Tに早く安住の地が見つかりますように。私の手元にある某誌もずっと寄贈先を探しているのですが、うまくいきません。」

B氏 「数年前、私は S&T やその他の天文雑誌を、すべて UNC の学部生に譲りました。私は天文学部の教授である隣人を通じて彼と知り合いましたが、何でもオンラインでアクセスできる今の時代、そのようなもののハードコピーを欲しがる人を見つけるのは本当に大変です。幸運を祈ります!」

C氏 「私が退職したときは、ケニアで教えていた同僚が、私の歴史ジャーナルのコレクションを、自分が教鞭をとっていた大学に送ってくれました。海外とご縁があるなら、同じことを試してみてもいいかもしれませんね。」

D氏 「数年前、私もS&T について同様の状況に直面し、ずっと受け入れ先が見つからなかったため、結局、観測関連の記事だけは切り抜いて、将来の観測に備えてバインダーに保存することにしました。残念ながら、それ以外のものは一切合切、地元の古紙回収ステーションに出さざるをえませんでした。」

そう、表現はさまざまですが、要するに皆さん異口同音に言うのは、「それはもうただのゴミだ!」という冷厳な事実です。まあ、私は決してゴミとは思わないんですが、世間一般はもちろん、天文学史に関心のある人にとっても既にそうなのです。それに、かく言う私にしたって、「じゃあ送料はタダでいいから、あなたのところに送りましょう」と仮に言われたら、やっぱり困ると思います。

(eBayでも大量に売られているS&Tのバックナンバー)

   ★

ただ一つのポジティブなメッセージは、アマチュア天文家にして天文学史に造詣の深いロバート・ガーフィンクル氏(Robert〔Bob〕Garfinkle)が寄せたものでした。

 「私の S&T 誌のコレクションは、前身である「The Sky」と「The Telescope」誌にまで遡ります。私も会員になっているイーストベイ天文協会の友人から、シャボット・スペース&サイエンスセンターが、製本済みのS&Tを処分すると聞いたとき、私の手元には、ほぼ完全な未製本雑誌のコレクションがありました。シャボット から譲られたのは第 1 巻から第 67-68 巻 (1984 年) までで、その間の未製本雑誌はすべて箱詰めしてあります。製本済みの方は、約 7,000 冊の天文学の本、いくつかの天文学の学術誌の全巻、数十枚の月面地図、1800 年代から今日に至るまでの数百枚の月写真、そしてローブ古典文庫の約 3 分の 1 の巻とともに、今も私の書庫の棚に並んでいます。
 なぜこんなにたくさんの本を持っているのかと何度も尋ねられました。その答は、私が原稿を書くのは夜間であり、ほとんどの図書館は夜には閉まっているからです。それに私の手元には、どの図書館も持ってない珍しい本が何冊かあります。そのうちの1冊は、これまで2冊しか存在が知られておらず、私の手元にあるのは、まさにそのうちの1冊なのです。」

いくら夜間に執筆するからといって、DVD版も出ている今、紙の雑誌を手元に置く理由にはならないですが、ガーフィンクル氏がこう言われるからには、氏にとって紙の雑誌には、デジタルメディアで置き換えることのできない価値が確かにあるのでしょう。

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遠い将来、人間の思念が物質に影響を及ぼすことが証明され、さらに物質上に残された過去の人々の思念の痕跡を読み取ることができるようになったら、そのとき紙の本はたとえようもない貴重な遺産となるかもしれません。

しかし、そんな遠い未来を空想しなくても、私は古い紙の本を手にすると、ただちに元の持ち主の思いを想像するし、それが読み取れるような気がすることさえあります、そのことに価値を感じる限り、紙の本はこれからも私の身辺にあり続けるはずです。

洋星と和星2024年10月04日 18時32分13秒

先日、『野尻抱影伝』を読んでいて、抱影の天文趣味の変遷を記述するために、「洋星」「和星」という言葉を思いつきました。つまり、彼が最初、「星座ロマン」の鼓吹者として出発し、その後星の和名採集を経て、星の東洋文化に沈潜していった経過を、「洋星から和星へ」というワンフレーズで表せるのでは?と思ったのです。


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骨董の世界に西洋骨董と和骨董(中国・朝鮮半島の品を含む)の区別があるように、星の世界にも「洋星」と「和星」の区別がある気がします。もちろん星に洋の東西の区別はありませんが、星の話題・星の文化にはそういう区別が自ずとあって、ガリレオやベツレヘムの星は「洋星」の話題だし、渋川春海や七夕は「和星」の話題です。

(Wikimedia Commons に載っている Occident(青)vs. Orient(赤) の図)

もっとも洋の東西とはいっても、単純ではありません。
たとえばエジプトやメソポタミアは「オリエント」ですから、基本的に東洋の一部なんでしょうが、こと星の文化に関しては、古代ギリシャ・ローマやイスラム世界を通じて、ヨーロッパの天文学と緊密に結びついているので、やっぱり「洋星」でしょう。


じゃあ、インドはどうだろう?ぎりぎり「和星」かな?
…と思ったものの、ここはシンプルに考えて、西洋星座に関することは「洋星」、東洋星座に関することは「和星」と割り切れば、インドは洋星と和星の混交する地域で、ヘレニズム由来の黄道12星座は「洋星」だし、インド固有の(そして中国・日本にも影響した)「羅睺(らごう)と 計都(けいと)」なんかは「和星」です。

その影響は日本にも及び、以前話題にした真言の星曼荼羅には黄道12星座が描き込まれていますから、その部分だけとりあげれば「洋星」だし、北斗信仰の部分は中国星座に由来するので「和星」です。つまり、星曼荼羅の小さな画面にも、小なりといえど洋星と和星の混交が見られるのです。


近世日本の天文学は、西洋天文学の強い影響を受けて発展したものの、ベースとなる星図は中国星座のそれですから、やっぱり「和星」の領分です。いっぽう明治以降は日本も「洋星」一辺倒になって、「銀河鉄道の夜」もいわば「洋星」の文学作品でしょう。

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とはいえ世界は広いので、「洋星」と「和星」の二分法がいつでも通用するわけではありません。サハラ以南のアフリカや、中央アジア~シベリア、オセアニア、あるいは南北のネイティブアメリカンの星の文化は、「洋星」とも「和星」とも言い難いです。

非常に偏頗な態度ですが、便宜的にこれらを「エスニックの星」にまとめることにしましょう。すると、私が仮に『星の文化大事典』を編むとしたら、洋星編、和星編、エスニック編の3部構成になるわけです。一応これで話は簡単になります。

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「洋星」と「和星」をくらべると、一般に「洋星」のほうが人気で、「和星」はちょっと旗色が悪いです。まあ「洋星」の方が華やかで、ロマンに満ちているのは確かで、対する「和星」はいかにも地味で枯れています。

しかし抱影と同様、私も最近「和星」に傾斜しがちです。
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という古川柳がありますけれど、元気な若い人はまだ見ぬ遠い世界に憧れ、老いたる人は懐かしい故郷に自ずと惹かれるものです。

たしかに私は抱影ほど伝統文化に囲まれて育ったわけでもないし、幼時からなじんでいるのはむしろ「洋星」ですが、それでもいろいろ見聞するうちに、抱影その人へのシンパシーとともに、「和星」思慕の情が徐々に増してゆくのを感じています。

ストックブックを開いて…再び太陽観測年の話2024年08月25日 15時43分52秒

ストックブックというのは、切手保存用のポケットがついた冊子体の郵趣グッズで、それ自体は特にどうということのない、いわば無味無臭の存在ですが、半世紀余り前の切手ブームを知っている者には、独特の懐かしさを感じさせるアイテムです。

その後、子ども時代の切手収集とは別に、天文古玩の一分野として、宇宙ものの切手をせっせと買っていた時期があるので、ストックブックは今も身近な存在です。

最近は切手に意識が向いていないので、ストックブックを開く機会も少ないですが、開けば開いただけのことはあって、「おお、こんな切手もあったか!」と、感興を新たにするのが常です。そこに並ぶ古い切手はもちろん、ストックブックという存在も懐かしいし、さらには自分の趣味の変遷史をそこに重ねて、もろもろノスタルジアの源泉ではあります。

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昨日、「太陽極小期国際観測年(IQSY)」の記念切手を登場させましたが、ストックブックを見ていたら、同じIQSYの記念切手のセットがもう一つありました。


同じく東欧の、こちらはハンガリーの切手です。
この切手も、そのデザインの妙にしばし見入ってしまいます。

時代はスペースエイジの只中ですから、ロケットや人工衛星も駆使して、地上から、成層圏から、宇宙空間から、太陽本体の活動に加え、地磁気、電離層、オーロラと大気光、宇宙線など、様々な対象に狙いを定めた集中的な観測が全地球的に行われたと聞きます。


IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~1958年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので(※)、さらに極地を対象とする観測プロジェクト、「国際極年(International Polar Year;IPY)」がその前身だそうで、その流れを汲むIQSYも、いきおい極地観測に力が入るし、そもそも太陽が地球に及ぼす影響を考える上で、磁力線の“出入口”である南北の磁極付近は最重要スポットなので、この切手でも極地の描写が目立ちます。


下の左端の切手は、バンアレン帯の概念図。
宇宙から飛来した電子・陽子が地球磁場に捕捉されて出来たバンアレン帯は、1958年の国際地球観測年のおりに、アメリカの人工衛星エクスプローラー1号の観測成果をもとに発見されたものです。

東西冷戦下でも、こうした国際協力があったことは一種の「美談」といってよいですが、それでも研究者以外の外野を含め、美談の陰には何とやら、なかなか一筋縄ではいかない現実もあったでしょう。


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(※)【2024.8.25訂正】
上記の記述には事実誤認があるので、以下の通り訂正します。

(誤) 「IQSYは、太陽黒点の極大期である1957年~58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」と対になるもので」
(正) 「IQSYは、太陽黒点が極大期を迎える1968~70年の「太陽活動期国際観測年(International Active Sun Years;IASY)と対になって、1957~ 58年に設定された「国際地球観測年(International Geophysical Year;IGY)」を引き継ぐもので」

天文学者のライブラリに分け入ってみたら…2024年05月17日 17時43分20秒

更新をさぼっている間、例の 『天文学者のライブラリ(The Astronomers’ Library)』を、せっせと読んでいました(無事読了)。

先日書いたこと(こちらの記事の末尾)を訂正しておくと、最初パラパラめくった印象から、「自分の書斎も、かなり理想のライブラリに近づいているんじゃないか」…と大胆なことを書きましたが、改めて読んでみると、それは幻想に過ぎず、収録されている書物の大半はやっぱり手元にありませんでした。

といって、「じゃあ、これから頑張って理想のライブラリを目指すんだね?」と問われても、たぶん是とはしないでしょう。この本に教えられたのは、「天文学史上重要な本」と「魅力的な天文古書」は必ずしも一致しないという、ある意味当然の事実です。


たとえばニュートンの『プリンキピア』(↑)は、天文学史のみならず自然科学史全体においても最重要著作でしょうが、それを手元に置きたいか?と問われたら、正直ためらいを覚えます。読む前から理解不能であることは明らかだし、挿図の美麗さとか、造本の妙とかいった、書物としての魅力に富んでいるとも言い難いからです。(『プリンキピア』を人間理性の金字塔とただちに解しうる人は幸せです。そういう人を除けば、たぶんその魅力は「分からない」点にこそあるんじゃないでしょうか。「分からないから有難い」というのは倒錯的ですが、仏典にしても、抽象絵画にしても、そういう魅力は身近なところにいろいろあります。)

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そうした意味で、私が本書で最も期待したのは、第5章「万人のための天文学 Astronomy for Everyone」です。著者はその冒頭でこう書いています。

 「この章を完璧なものとする方法はないし、これまでに出版された教育的天文書を網羅することも不可能だ。したがって、ここでは面白い挿絵のある本や、顕著な特色のある本をもっぱら取り上げることにしよう。率直に言ってこれらの本の多くは、単に目で見て面白いだけのものに過ぎないが。」

なるほど、「面白い挿絵のある本」や「目で見て面白い本」、こうした本こそ、私を含む天文古書好きが強く惹かれるものでしょう。確かに目で見て面白いだけのものに過ぎないにしても―。

とはいえ、この章における著者のセレクションは、あまり心に刺さらないなあ…というのが正直な感想でした。ここにはメアリー・ウォードの『望遠鏡指南 Telescope Teachings』(↓)も出てくるし、


ロバート・ボールの『宇宙の物語 The Story of yhe Heavens』や、愛すべき『ウラニアの鏡 Urania’s Mirror』(↓)も出てきます。


でも、この分野では不可欠といえる、カミーユ・フラマリオンの『一般天文学 Astronomie Populaire』は出てこないし、ファンの多いギユマンの『天空 Le Ciel』も、ダンキンの『真夜中の空 The Midnight Sky』も、スミスの『図解天文学 Smith’s Illustrated Astronomy』も、いずれも言及すらされていないのは、一体どういうわけか?

愛らしく魅力的な天文古書はいろいろあるのになあ…と思いつつ、現代の職業研究者(天文学者/宇宙物理学者)である著者は、こうしたポピュラー・アストロノミーの著作に必ずしも通じていないのだろうと想像されました。こういうと何となく偉そうに聞こえますが、別に私が偉いわけではなくて、やっぱりこの手の本は、今では学問的というよりも、完全に趣味的存在だということでしょう。

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というわけで、自分にとって理想のライブラリは、己の琴線に触れるものを一冊ずつ吟味し、拾い集めた末にできるものであり、そう考えれば、今の私の書斎こそ“私にとって”理想のライブラリにいちばん近いのだ…という結論に再び落ち着くのです。書斎とその主との関係を男女にたとえれば、まさに「破れ鍋に綴じ蓋」、「Every Jack has his Jill」じゃないでしょうか。

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うーん…ちょっと月並みな結論になりましたね。そして負け惜しみっぽい。
美しく愛らしい天文古書をずらっと紹介した本があれば、もちろん読んでみたいし、それを参考に購書計画を立ててみたいですが、でもそんな都合のいい本はなかなかないですね。