二廃人、趣味の階梯を論ず2017年11月03日 09時40分10秒

▽ よお、風邪はもういいのかい?
● やあ、キミか。ありがとう、おかげさまでこの通りさ。
▽ それは何よりだ。ところでどうしたい、沈思黙考を気取って。
● 相変わらず口が悪いね。なに、ちょっと趣味のあれこれについて考えていたのさ。
▽ 小人閑居してなんとやらだな。
● まあ、キミも暇な身のようだし、ちょっと話に付き合ってもらおうか。
▽ しょうがない、寝言の相手をしてやろう。

   ★

● こないだツイッターを見てたら、自宅の鉱物コレクションを見せ合うという話題があったじゃない?
▽ あった、あった。鉱物棚がどうこうってやつだろ?
● そう。キミ、あれを見てどう思った?
▽ いや、別に何とも思わんさ。きれいな鉱物を手元に並べて愛でようなんて、至極結構な趣味じゃないか。
● うん、そうなんだけどさ、あの先がどこに通じているのか、ふと気になった。
▽ あの先…というと?
● いや、集めてどうするのかなと。
▽ どうもせんさ。集めるのが趣味なんだから、それでいいじゃないか。

(二廃人…ではなくて、『ギリシャ語通訳』に描かれた、ホームズとワトソン博士)

● ボクも別にモノが言えるような立場じゃないけど、例えばサムネイル標本がきれいにディスプレイされているのを見ると、何だかトミカの棚を連想するんだよね。
▽ トミカねえ。
● もちろん、トミカ的に鉱物を愛でる人がいてもいいよ。鉱物の世界はトミカより間違いなく変化に富んでいるから、蒐集の喜びもいっそう大きいかもしれない。でも、「それだけ」っていうのは、どうなんだろうね。
▽ いきなり上から来る奴だな。お前さんだって、標本の醍醐味は「ズラッと感」だとか何とか言ってたじゃないか。
● うん、だからボクもそれを否定する気はないさ。ただ、ズラッと並べて、その先どうするかは、よくよく考えておかないと、後で困るような気がして。
▽ ははーん、お前さん、自分が困ってる口だな。
● 慧眼だね。

▽ で、沈思して何かひらめいたのか?
● うん。結局、トミカ的な蒐集の世界を貫いているのは、「コンプリート欲求」「レアもの至上主義」の二大原理だと思うんだ。でも、鉱物相手にコンプリート欲求を掻き立てられるのは、財布にとって危険極まりないし、鉱物の美を味わう上で、レアもの至上主義は、むしろ阻害的に働くんじゃないかな。
▽ というと?
● 一口に「鉱物の美」っていうけど、そこにはいろんな美があるよね。まず、すぐれて感覚的な美がある。つまり単純な色形の美しさだね。それを愛でる近道が「ズラッと感」さ。圧倒されるような色形の変異、鉱物たちが織り成すカレイドスコープ、そうしたものを味わうには、モノをズラッと並べて見せるのがいちばんだからね。
▽なるほど。“目も綾な”ってやつだな。

● で、その次に顔を出してくるテーマが、「どう並べるか」さ。
▽ ふむ。
● この辺は鉱物学の発展史をなぞることになるけど、昔の人も最初は多様な鉱物の、その多様性に眩惑されていたけど、だんだんその背後にある秩序や法則性を追い求めるようになったよね。いわば感覚を超えた「理」の世界さ。で、そうした秩序や法則性自体にも、燦然とした「鉱物の美」はあると思うんだ。
▽ トミカのディスプレイにだって秩序はあるだろ?
● たぶんね。でも、得てして人は単純に色・形の類似で並べたくなるけど、ここでいう秩序や法則性は、さらにその先にあるものさ。…何て言えばいいかな、ここで言う「鉱物の美」は、いわば、「図鑑美」に通じるものだよ。図鑑で隣り合う種類は、必ずしも色や形が共通するわけじゃない。でも、そこにはある法則に基く秩序があるよね。
▽ なるほど。でも、それとさっきの「レアもの至上主義が美を阻害する」っていうのは、どう関係してくるんだい?
● レアものでも、それが秩序ある配列を埋めるピースとして不可欠なら、追い求める価値は大いにあるさ。でも、中にはそういうことと関係なしに、「単にレア」というのもあるよね。たとえば昆虫標本でも、雌雄同体のアノマリーな個体とかが、往々高値を呼ぶけど、それは昆虫本来の秩序ある配列を埋めるピースじゃない。むしろ夾雑物さ。…もっとも、昆虫の発生学を研究している人にとっちゃ、そうした標本が貴重なピースになる可能性もあるし、「単にレア」かどうかは、相対的なものだけどね。
▽ 山高きが故に貴からず、だな。レアものも又レアなるがゆえに貴からず…ってわけか。

● さらにだよ、鉱物の世界の背後にある「理」が十分感得されてくると、実はズラッと並べる必要すらなくなって、ただ1個の標本を前にしただけで、そこにピンと張りつめた、研ぎ澄まされた美を感じるようになると思うんだ。
▽ 何だか神がかってきたな。
● いや、ボクもそんな境地に達したわけじゃないから、これは単なる想像だよ。でも、そこまで行くと、鉱物の美というのは、ごくありふれた鉱物にだって―いや、普遍的で、ありふれているからこそ、一層強く感じられるんじゃないかなあ。
▽ まあ、言わんとする意味は分かる。

● それにさ、キミは神がかってるとか何とか言うけど、人間と鉱物をめぐる精神史だって、ずいぶん大きなテーマだよ。まあ、こんなふうに考えてくると、アカデミックな鉱物学から文学や美術の世界まで、鉱物趣味の世界は途方もなく広いし、「集めて、並べて、終わり」ってことはないと思うんだ。もし、そこで止まっちゃったら、いかにも勿体ない気がする。
▽ コレクションは集めること自体が目的化しやすいっていうのは、その通りだろうな。

  ★

● ここで話をぐっと捻じ曲げると、天文アンティークもまさに同じだと思う。
▽ おっと、そっちに来たか。
● 天文アンティークも、ここ4~5年、すっかりイメージとして消費され尽くした感があるけど、色形の美だけで終わっちゃうパターンがけっこうあったよね。
▽ 「お星さまきらきら、金銀砂子」の世界だな。
● 本当は、古ぼけた1枚の星図だって、その時代背景や、現代天文学への道程における位置づけ、あるいは文化史的意味合いとか、いろんな切り口から語ることができると思うんだ。でも、「なんかカッコいい」「なんかきれい」で終わってる例が多いよね。

   ★

▽ ふーん…何だかんだ言って、他人の趣味に口をはさむとは、お前さんもずいぶん焼きが回ったな。
● そうかもね。星に比べて人の生はいかにも短いし、しょうがないよ。


病膏肓に入る2017年10月15日 20時49分48秒

仏文学者にして古書蒐集家である、鹿島茂氏のことは、以前も触れました。

鹿島氏のフィールドは、主に19~20世紀初頭のフランス古書で、当時の文学や文壇の話題に始まり、さらにはパリを中心とする風俗史全般へとその興味関心は広がり、今やその分野の蔵書に関しては、質・量ともに内外随一である…と聞き及びます。

ただ、その鹿島氏が最近――というよりも随分前から、古書以外にも、いろいろコレクションに励まれていて、その戦果が、『病膏肓(やまいこうこう)に入る―鹿島茂の何でもコレクション』という、かなりえげつないタイトルの本になる程だとは、つい最近まで知らずにいました。そして、本を手に取って、「うーむ、これは…」と、改めて唸ったのでした。


■鹿島 茂
 『病膏肓(やまいこうこう)に入る―鹿島茂の何でもコレクション』
 生活の友社、2017

元は『アートコレクターズ』という雑誌に連載されていた文章をまとめたもので、連載自体は、2011~15年にかけてだそうですから、結構前のことです。

掲載誌の性格によるのか、ここで開陳されているアイテムは、塑像や油彩画、版画など、いわゆる「アート」に分類される品が多いのですが、それだけにとどまらず、空き缶、灰皿、木靴、鉄道模型、ミニカー、人形、はては「世界の独裁者コレクション」のような、もはやフランスともパリとも全く関係ない品も多く登場しており、文字どおり病膏肓に入る感じが濃いです。

   ★

で、私が何に対して「うーむ、これは…」と思ったかといえば、鹿島氏は、それら雑多のものを蒐集するにあたって、いろいろ「大義」を述べておられるのですが、それを読みながら、何となく背筋に冷たいものが走ったからです。

氏曰く、“これは今度の○○展の肉付けに不可欠のモノだ。これはあの小説に登場する重要なアイテムで、あの小説好きならぜひ手元に置かねば。これは今やレアな品になりつつあるが、値段はまださほどでもない。これをコレクションせずして何とする。これは見た瞬間一目ぼれだった。しかも、こっそり調べたら思わぬ掘り出し物だ。これを買わない手はない”…とか何とか。

鹿島氏はこうも述べています。「ただ、なんでも闇雲にコレクションしているかといえば、そうでもない。私なりにこだわりのあるテーマについてだけコレクションを行なっているつもりなのである」(p.18)

その言葉に、微塵も嘘は感じられません。しかし、言行がどこまで一致しているかといえば、いささか覚束ないところもあります。「要は、何でもよいのではないか…」と、この本を手にした人は思うでしょう。

もちろん、鹿島氏はそうした自身の心の動きについて、かなり自覚的な所があります。氏は本文でも「あとがき」でも、パスカルの言葉を引き合いに出しながら、「コレクターはアイテムを求めているのではない。アイテムの探索という行為を求めているのである。」と繰り返し強調しています。要は、コレクターの心を動かすのは、コレクションの対象物ではなく、むしろコレクティングという行為だ…ということでしょう。

そして、私の背中に走った冷たいものの正体は、鹿島氏の1つ1つの言葉に、あまりにも深く頷く自分がいるという、その事実に対してです。鹿島氏の述べる「大義」に対して、「何を馬鹿なことを」と、一笑に付すのが、世間の健全な常識だと思うんですが、鹿島氏の言葉に思わず身を乗り出してしまう自分に、きわめて危険なものを感じ取ったのです。

   ★

私ができれば避けたいと思っている光景があります。
よく、「何でも鑑定団」なんかに登場する、まったく統一性のない雑多な骨董に囲まれてニコニコしている男性の図です。ご本人が満足しているのに、傍からイチャモンを付ける必要はまったくないのですが、でも、あれを見て、何となく滑稽で、物悲しい気分になる時があります。昔の遊園地にあった「鏡の部屋」で、歪んだ鏡に映る、自分のおどけた姿を見たときの気分…と言いますか。

   ★

こんなふうに書くと、何となく殊勝な感じが漂うかもしれません。

「そうか、己の非を悔いて、これからは『何でもコレクション』はやめようと言うのだね。それは結構。天文古書なら天文古書、それだけに集中するのが賢いコレクターの道だよ。何にせよ、生活を破壊してまで、買う価値のあるモノなんて世の中にありはしないからね。当面はこれまで買った未整理品の整理に励んで、不要なものはどしどし処分するがいいさ。さあ、断捨離、断捨離。」

…でも、絶対にそうはできないことは、自分でも分かっています。
だからこそ、鹿島氏の本は危険であり、同時に慰めでもあるのです。
当分はこれを枕元に置いて、繰り返し読むことになるでしょう。

(手元の品と「鹿島コレクション」との共通点はまったくありませんが、唯一、昔の「船舶用ランプ」の項に、アーミラリー・スフィアの話題がありました。このランプはアーミラリーを応用した複数の金属環からできており、どんなに揺れてもロウソクが直立する仕組みになっているそうです。)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

幼子とは無垢な者であり、未来の象徴です。
そして無垢なるがゆえの深い叡智を感じさせます。

しかし、幼子のごとき大人というのは、いかがなものか。
幼児的万能感に捉われ、幼児的虚言を弄し、幼児的癇癪を起す者に対し、慈父慈母のごとく接することは、少なくとも私には難しいです。

やっぱり大人には大人の智慧と分別というものが自ずとありますし、是非そうあらねばなりません。

和本の世界、過ぎゆく世界2017年10月05日 21時42分51秒

昨日、一通の封書が届きました。
F書房…と、イニシャルでお呼びする必要は、もはやないでしょう。その筋では有名な「ふくべ書房」さんが、このたび営業を終えられたというご案内でした。


ふくべ書房さんは、理系・博物系古書の専門店として、長く神保町に門戸を張り、その恐るべき質と量の在庫によって、マニアを眩惑し続けたお店です。

昨年、在庫整理のバーゲンセールがあり、さらに神保町から埼玉に移転されると伺ったときも、よもや完全に営業を終えられるとは思っていなかったので、この通知には少なからず衝撃を受けました。


定期刊行のカタログには、毎号「江戸の自然あります」の文字が―。

一口に「古書」と言っても、その範囲は広いですが、ふくべ書房さんは、江戸~明治の和綴じ本が主力商品で、和本というのは、現代日本人にとっては非常に遠い――ある意味、洋古書よりも遠い――存在ですから、その品揃えを眺めるだけで、一種エキゾチックなムードを感じたのでした。


ふくべ書房さんで注文した本が届いたとき、そこには常に喜びと驚きがありました。
本の中身は言うまでもありません。さらに、その外見がまた驚きを誘うものでした。
…といって、それらの本が、格別特異な風采だったわけではありません。和本には往々にして付き物の、古風な帙にくるまれていただけのことです。

でも、ある時、その帙が元からのものではなく、ふくべ書房さんが一つひとつに誂えたものと知って、店主の奥村氏がどれほど古書を大事にされているか、その古書に寄せる思いの深さを知って、驚いたわけです。

(明治版の 岩崎潅園著 『本草図譜(山草・芳草部)』。わりと廉価な本ですが、こうして帙にくるめば保存に便利だし、古書としての表情も華やぎます。)

   ★

何だか、いかにも上得意のような顔をして書いていますね。
でも、あけすけに言えば、私は上客でも何でもなくて、同店の商品ラインナップからすると、最も安価な部類の品を、時々思い出したように買わせていただいただけです。
しかし、そんな零細な客に対しても、自筆のお礼状を一通一通出されているところに、店主の御人柄がしのばれ、心に温かいものが通います。

閉店を惜しむ気持ちはもちろんあります。でも、それは言っても詮無いことでしょう。
今はその思いをこうして語ることで、滋味豊かな古書の世界が、これからも永く続くことを祈るばかりです。

   ★

書きながら、以前台湾で営業されていた胡蝶書房さんのことを、「ある書肆との惜別」と題して書き記したことを思い出しました。

たしかに美しい世界も無限には続きません。でも、陳腐な言い方になりますけれど、その美しい世界は記憶の中にこうして生き続けており、のみならず、そこでいっそう美しく輝くものです。

気象趣味のこと(附・ガリレオ温度計の祖型)2017年09月25日 07時02分27秒

昔から言われる天文趣味の大きな特徴は、「星は遠くから眺めるしかできない」こと。

天体は、昆虫や鉱物と違って、直接手に取って愛でたり、収集したりすることができません。したがって、フェティッシュな喜びから遠い…という意味で、いささか抽象度の高い趣味なのかもしれません。

   ★

しかし、星よりもはるかに身近でありながら、いっそう抽象度の高い趣味があります。
それが気象趣味です。

「え、気象趣味なんてあるの?」と、思われるかもしれませんが、趣味の延長で、気象予報士を目指す人が、毎年おおぜいいる事実を思い起こしてください。昔、19世紀のイギリスにも、自宅に気象観測機器を一式備え付けて、毎日律儀に記録を付ける紳士がたくさんいたと聞きます。

思えば、気温、湿度、気圧、風速、風向…これら気象学の主な観測対象は、すべて目に見えません。もちろん、計器の示度は読めますが、そこで測られる当の相手は、まったくインビジブルな存在です。

確かに雨は目に見えるし、雲は飽かず眺めるに足る存在でしょうが、しかし、いかにも取り留めがないです。そこには星座のようにピシッと決まった形もなければ、その運行もまったくの風任せです。

   ★

そうした取り留めのない対象の背後に、一定のパターンを見つけ出すことで、現象を説明し、予測する…そこに気象趣味の醍醐味はあるのでしょうが、やっぱり抽象度の高い趣味だと感じます。私が気象趣味に対して、何となく「高尚」な印象を勝手に抱くのも、その抽象度の高さゆえです。

   ★

とはいえ、この本↓はさすがに「ビジュアル」を謳うだけあって、見るだけで楽しいです。


ブライアン・コスグローブ(著)
 『気象』(ビジュアル博物館 第28巻)
 同朋舎出版、1992


大気の立体的な運動の解説も分かりやすいし、


古風な観測機器の図が、天文古玩の情趣にも合います。


中でも、このガラス製温度計の美しさときたらどうでしょう。

 「初期のフィレンツェの気象学者は、ヨーロッパで最も技術の高いガラス細工師の助けを借りることができた。このガラス吹きつけ技術のおかげで、多くの計測器具を実現できた。ここに見られる精巧で美しい温度計は、ガリレオの少しあとの時代のものである。管に満たした水中を色のついたガラス玉が上下して温度を表示した。」 (本文解説より)

   ★

話が枝葉に入りますが、上の説明にはちょっと腑に落ちない点があったので、所蔵表示を頼りに、ガリレオ博物館(Museo Galileo)にある現物を見に行ってきました。


そこでは、「房状温度計(Cluster thermometer)」の名前で紹介されており、高さは18センチと、思ったよりも可愛いらしいサイズです。

管の中を満たしているのは、(上の本に書かれているように水ではなく)アルコールで、そこに密度の異なるガラス球が封入されており、温度の上昇につれて、密度の低いものから順に浮かび上がる仕組みだそうです。

要は、今あるガリレオ温度計そのものなんですが、ただし、紹介文中にガリレオの名前はなくて、代わりに発明者として、メディチ家のフェルディナンド2世(1610-1670)の名前がありました。まあ、実際に製作したのは、大公お抱えのガリレオの弟子たちあたりでしょうが、この科学マニアの好人物に、その栄誉が帰せられたのは、ちょっと微笑ましい感じがします。

虫愛づる七夕2017年08月01日 20時22分11秒

前に紹介したのとは別の、『七夕和歌集』という和本があったので、話の流れで記事にしようと思いました。


この江戸後期の出版物は、楓園賤丸(伝未詳)なる人物が編み、江戸の須原屋茂兵衛らが版元となって出版されたもので、たまたま昨年秋に見つけたものです。
それを久しぶりに――というか、購入時にパラパラやって以来初めて――開いてみました。


しかし、冒頭の牽牛と織女を描いた口絵を見た瞬間、「あっ」と声が出ました。


ページの角に描かれた、この見事な抽象紋様はいったい?
そうです、虫です、虫にやられたのです。
当然、本文もただでは済みません。


不思議な生命の営みは、この部屋の内部でも、私の気づかぬ所で確実に行われていたのです。精妙な小甲虫の生態を、こうして居ながらに観察できるとは!

(ゴマ粒大の歓迎されざる小甲虫)

この食痕の主は、書物の代表的な加害昆虫、「シバンムシ」で、さらに細かく言い分けると「ジンサンシバンムシ」というのに当ります。「ジンサン」とは「ニンジン」の別音で、漢字で書けば「人参死番虫」。何だか字面からして微妙な印象を抱かせる虫です。

何でも、昔、高価な高麗人参に害をなしたことから「人参」、そしてヨーロッパ産の仲間のうちに、材木の中でコツコツ妙な音を立てる種類があって、それを時計片手に人の寿命を司る死神になぞらえて「死番虫」と命名された由。そう聞いて、興味深くは思いますが、あまり印象は好転しません。

   ★

昔は野外で枯死した樹木なんかを齧ってた、穏便な、そして生態学的にも重要な地位を占める連中だったわけですが、その特性を「ヒトの巣」の内部で発揮されると、巣の主としては大いに困ります。

とはいえ、シバンムシは本当にどこにでもいる虫で、完全に防除することは難しいようです。私のように管理能力の乏しい人間にとっては、「安からぬ和本を、風雅を気取って安易に買い込むことは控える」ことが、唯一有効な方策かもしれません。


まこと風雅の道は険しいものです。
そして、こうした連中にめげず、風雅な文化を守り伝えてきた先人の努力には、本当に頭が下がります。そして、次代に無事伝えることができなかった己の非を悔います。

空の旅(2)…ディスプレイのこと2017年04月13日 22時06分35秒

今回学んだのは、「ディスプレイの道は奥が深いなあ」ということです。

例えば本を展示するというのも、これがなかなか難しい作業。
ここに印象的な天文古書があるとして、私としては一冊の本を前に、あのページ、このページ、いろいろな構図がいっせいに脳裏に浮かんで、「これなら展示に堪えるんじゃないか」と思うのですが、実際に並べるときは、どれか1ページしか開けないわけで、知らない人が見たら、汚れた古本がポンと置かれているだけ…ということにならざるを得ません。


ネット上でヴァーチャル展示する場合は、そういう制約がないので、中身を存分に紹介できるのですが、リアルな展示というのは、その辺の縛りがきつく、なかなか本一冊を並べるのでも、その「見せ方」は難しいです。

幸いなことに、今回はantique Salon さんら、ディスプレイに関してはプロの方が展示を手がけられ、さらに展示意図を補強するためのキャプションも添えていただいたので、望みうる最高の展示となりましたが、それでもご覧になった方は、ちょっと地味な印象を受けたのではないかと思います。

   ★

もっとも、これはディスプレイの問題にとどまらず、「天文古玩的世界」(と仮に呼びますが)の本来的な性格に因るのかもしれません。

たしかに、豪奢なオーラリーとか、極彩色の天球図とか、精巧な天文時計とか、そういう艶やかなものをずらりと並べれば、ビジュアル的には人目を引くでしょうが、そういう品が手元にないという、自明な前提は脇に置くとして、基本的に天文古玩的世界は、半ば思念の力に支えられた、イマジナリーな世界です。

例えるなら、『宮沢賢治の世界展』を開くとして、そこに賢治の初版本や、ゆかりの品々をずらり並べても、それを見ただけで賢治の世界を理解できることは、おそらくないでしょう。賢治世界というのは、やはり作品を通して成立する、モノを超えたイマジナリーな世界です。

モノというのは、ときに興味深く、ときに美しく、ときには聖性すら帯びますが、神像を拝む人が、本当は神像ではなく、その向うの神様を拝んでいるように、天文古玩的世界も、モノは一種の触媒に過ぎず、本当はモノによって賦活される「理」や「情」の世界こそが肝だと思います。

以前の話を蒸し返しますが、『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが時計屋の店先で、星図や星座早見盤にじっと見入るシーン。あれも、ジョバンニが学校で銀河についての授業を受けていなかったら、あるいは友人カンパネルラの家で銀河の本を読んでいなかったら、あれほどジョバンニの心を惹きつけたかは疑問です。

天文アンティークというのは、背景となる知識があればこそ、その魅力が光を放つものであり、それがなければ、単に「薄汚れたガラクタ」と思われても仕方ありません。

   ★

…と、単体では自立しがたいモノを並べたことに対する言い訳めいた感じがなくもないですが、当日展示したモノについて、ここで再度思いの丈を語りながら、紙上ならぬ画面上展示を試みることにします。(それでも、なおモノが光を放たなかったとしたら、それは私の語り口が不味いせいです。)

(この項つづく)


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閑語(ブログ内ブログ)

「深い淵は決して音を立てない。
 浅い川ほど大きな音を立てる。」

という金言があります。
もちろん、ここで浅い・深いというのは、人間の度量の大きさといったようなことで、やかましく騒ぎ立てるのは大抵浅い人間だと、昔から相場が決まっています。

しかし、ここに来てどうでしょう。
やかましく騒ぎ立てているのは、他ならぬ私自身であり、淵の如く静まり返っているのは世間一般です。まあ、私の底が浅いのは進んで認めますが、それにしても…。

狂った政体というのは、昔からたくさんあるので、今の日本の政権もそのワン・オブ・ゼムに過ぎないし、そういうものとして彼らは存在しているのだ…というのは、(不愉快な事実ですが)理解はできるのです。

しかし、それを前にして、この静けさはいったいどういうわけでしょうか。
警察国家のように、何か言えば即しょっぴかれる、というなら沈黙を強いられるのも分かります。しかし、現政権はそうした国家を目指しながら、実際にはまだ道半ばであり、今はまだ何でもものが言える世の中です。それなのになぜ? わが同胞は、私の浅い理解を超えて、途方もなく度量が大きいのか?

これまで、自分なりにいろいろ人間を観察してきましたが、この疑問はそれこそ淵の如く、なかなか深いです。


黴の如く2017年02月17日 07時26分45秒

以前、仏文学者の鹿島茂さんが、エッセイで以下のように書かれていました。

 〔「本を書かない」か「本を買わない」かの〕 どちらかを選ぶとなったら、私は躊躇することなく「本を書かない」ほうを選ぶだろう。なぜなら、本を書くのは楽しくないが、本を買うことは楽しいからだ。 (『子供より古書が大事と思いたい』 文春文庫)

私と鹿島氏とでは、身の置き所が異なりますが、それでも「本を書く」より「本を買う」方が、だんぜん楽チンだ…というのは、よく分かります。

確かに、お金さえあれば、モノを買うのは、わりと簡単なことです。
――いや、そんなことはない。モノを買うということが、いかに大変なことか…というのも真実ですけれど、そう思われる方は、たぶんモノとの付き合い方が、抜き差しならないところまで行ってしまった方でしょう。まあ、一般論として、単純にモノを買う方が、モノから何かを生み出すよりも楽チンなのは確かです。

いずれにしても、前提となるのは、「お金さえあれば」という点。
鹿島氏は同じ本で、こうも書かれています。

 だが、いずれ、この病も、裁判所の執達吏が癒してくれることだろう。どうやら、全快の日はそれほど遠くはなさそうである。

この子供より古書が大事と思いたいという、かなりえげつないタイトルの本は、1996年に単行本が出て(版元は青土社)、文春文庫に入ったのは1999年です。しかし、鹿島氏の期待も空しく、氏はその後、2003年にはそれでも古書を買いました(白水社)という、病勢がさらにつのった趣の本を出され、その中で「子供と本は黴のように貧乏の上で増えていく」と述懐されています。


あれから14年が経ちましたが、鹿島氏が本復されたという話はついぞ聞きません。

   ★

「あの鹿島氏だって…」と、氏を引き合いに出すことで、自分の振る舞いが正当化されるわけではありませんし、今の世の中がそんな太平楽を許さない状況にあるのも痛感していますが、そこが宿痾(しゅくあ)の恐ろしさ。我ながら業の深いことだと、歎息するほかありません。

そんなわけで、記事を書くのをさぼっていても、モノを買うのは続いています。
こうしてモノは徐々に増えていきます。まさに黴の如くに。

…というような、愚にも付かぬことを書きながら、記事再開のタイミングを計っています。


古紙復活2016年11月18日 07時28分59秒

今日は天文とは関係ないですが、古玩とは関係のある話題。

   ★

小さな紙物や古絵葉書を買うと、商品が途中で折れ曲らないよう、他の絵葉書を台紙代わりに同封してくれることがあります。向こうも廃物利用のつもりだろうし、こっちもたいていは捨ててしまいます。


先日も、アビニョン教皇庁の絵葉書が台紙代わりに入っていました。
セピア色に変った石版の古葉書です。ありふれた観光土産で、そこに特段の価値はないのでしょうが、何しろこの場合、台紙の方が買ったものより古かったので、ちょっと捨てかねました。

こういうのを見ると、「売り手の目こぼしで、いつか思わぬ珍品が台紙として入ってた…なんて幸運もないとは言えんぞ」と、虫のいいことを考えますが、まあ向うも商売人ですし、それが実現する可能性は、限りなくゼロに近いでしょう(でもゼロではありません)。

現に、世の中には紙背文書(しはいもんじょ)とか、漆紙文書というのがあって、再利用された反古紙から、重大な歴史資料が発見された…なんてことも実際あります。

まさにリユース万歳ですが、ここで以前買った古楽譜のことを思い出しました。

   ★

私は楽譜が読めないくせに、古い楽譜に強く惹かれます。
単純な古物としての魅力に加え、音という形のないものに形を与える不思議さ、そして音の理論はピタゴラス以来、数学と結びついているので、そのグラフィカルな表現に、クールな数理的世界を感じる…というのが、その理由でしょう。


たとえば、羊皮紙に書かれたこの四線譜。
これは私が持っている楽譜の中ではいちばん古いもので、現代の楽譜と違うのはもちろん、グレゴリオ聖歌のネウマ譜とも違った形式を備えています。


調べてみると、この釘頭型音符は、14世紀以前のドイツで用いられた、ゴチック式のものだそうです。


で、この楽譜で気になったのは、その下部に直線状の切れ込みが入っていることです。

最初、その意味が分からなかったのですが、その後、西洋でも日本と同じく、古い羊皮紙を(特に装丁材料として)再利用することが少なくなかったと知り、これもそれかと気づきました。

(ネットオークションで見かけた別の例。これもおそらく本の補強材料として使われたものでしょう。それをまた誰かがはがして、こうして商品として流通しているわけです。)

いわば西洋版・紙背文書ですが、それがたどってきた遥かな道のりを思うと、「これぞ歴史だ」と、つくづく思います。

   ★

リユースといえば、失敗したコピー用紙の裏を再利用している職場も多いでしょうし、チラシの裏を使うお年寄りも健在ですが、あれもいつか歴史の中でよみがえるのかどうか?これまた可能性は限りなくゼロに近いでしょうが、ゼロではありません。

(楽譜の裏面)

濁りと飽和2016年09月19日 09時39分06秒

透明な水に青い粒をひとつ落とせば、美しい青の水になり、
そこに緑の粒を落とせば、美しい青緑の水になる。

…と、ここまでは良いのです。
でも問題は、さらに調子に乗って、紅い粒や、黄色い粒や、紫の粒を投下して、さてどんな美しい色が出現するかと見守っても、期待した色は現れず、どんどん汚く濁った色になることです。

惚れ惚れするような美しい粒を見つけて、「さすがにこんな綺麗な色を投じたら、この濁った水もたちどころに美しさを取り戻し、再び輝き出すだろう」と期待しても、やっぱりだめです。

そもそも、これぐらい濁ってしまうと、いかなる色を投下しても、その色合いや透明度が変わることはなく、入れる前と入れた後で、何の変化も生じません。

   ★

何の話かといえば、部屋の印象と、そこに置かれたモノの関係についてです。

なんぼ私でも、無分別にモノを買っているわけではなくて、「これは素敵だ。こんな素敵なものが身近にあったら、必ずや部屋に身を置く喜びが増すだろう」と思えるものを、選んで買っているのですが、現実はそうは行きません。

「変だなあ…こんな筈ではないのに」と、思案して分かったことは、「世の中には、混ぜてはいけない要素がある」ということです。少なくとも、多くの人の感性になじまない取り合わせがあるのは確かです。

   ★

…と、ここまで書いたのを読み直して、我ながら正しいことを言っている気がするのですが、「まあ待て待て。もうちょっと違う要素もあるぞ」という内なる声が聞こえます。

それは色合いの話とは別に、「溶液の飽和」ということで、たとえば「俺は塩辛いのが好きだから、うんと濃い塩水を作ってやる」と張り切っても、塩水というのは、ある程度以上の濃さにはなりません。飽和状態に達してしまえば、あとはどんなに塩を投下しても、溶け残って底にたまるばかりです。

モノについても、ある一定の量を超えると、部屋に溶け込むことができなくなって、沈殿が始まります。具体的には、床に積み上がります。これは大層見苦しいもので、いくらキレイな沈殿であってもゲンナリします。それに第一じゃまです。

飽和の問題」は上記の「濁りの問題」よりも単純で、広い部屋に移ればいいのですが、単純だから簡単に解決できるとも限らないわけで、むしろこれは難しい問題に属します。

それに、いくらより多くの塩が溶けたとしても、水の方も増えたら、同じ濃さの塩水が増えるだけのことで、「もっと鹹(から)さを!」と願う、塩好きの期待に応えることはできません。

残された道は、水の温度を上げて、同じ量の水により多くの塩を溶かしてやることですが、部屋とモノの関係について見た場合、「温度を上げる」というのが何を意味するのか、ちょっと俄かに答が見つかりません。

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あれ、何か既視感があるぞ…と思ったら、既に4年前に「モノの濃度」ということについて、似たようなことを考えていました。

二廃人、懲りずにオメデタイ話を繰り返す
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/03/01/

まったく成長がないようですが、やはり4年の経験は伊達ではありません。
4年前の自分の肩をポンと叩いて、「キミはまだモノとの本当の付き合い方を知らんな」とか言いながら、ニヤッとしてみたいですが、すると4年後の自分に肩を叩かれて、ニヤッとされそうです。