人とモノは出会い、対話する2024年02月03日 16時36分53秒

前回の記事は、おしまいのところを故意にぼかしていました。

実は注文をキャンセルされた私は、天を仰いで嘆くだけでは終わりませんでした。
「じゃあ、フランス国内の(売り手はフランスの人です)個人輸入代行業者を代理人として立てるから、そこに送ってもらえないか?」「まあ、それなら…」ということで交渉成立、かろうじて土俵際でこらえたのでした。(もちろん、そんな「なじみの業者」が都合よくいるわけはありませんから、泥縄で探しました。)

この件を振り返ると、我ながら“年を経た”というか、老練な手管を身に着けたものよ…と、一抹の感慨を覚えます。(まあ、送料の注意書きを見落とすなんて、老練というよりは老耄に近いですが、ここは目をつぶりましょう。)

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先日、こんな本を買いました。


■荒俣宏の「イーベイ」お宝コレクション術 (平凡社、2000)

荒俣宏さんが、今から四半世紀前に書いたeBayの入門書です。
もちろん、今ではまったく実用性のない本ですが、だからこそ歴史的文献として貴重な気がします。ずいぶん前に図書館で手にして、当時すでに内容が時代にそぐわなくなっていたことから、かえって印象に残った本です。

eBayが「eBay」という名称でサービスを始めたのは1997年です。
荒俣さんはその最初期からeBayに注目し、2000年には早くもその指南書を出したわけです。

荒俣さんは「はじめに」で、こう書きます。

 「ほしくてもみつからなかったマニア向けグッズが、信じられないほどドンドン手に入るおかげでわたしは、スリリングでスリリングで、死にそうなほど刺激的に生きるようになった。どうしてそうなったかといえば、これまで経験と人脈が頼りだった趣味の世界が、インターネットのおかげで、だれにも参入可能になったからなのだ。」(p.9)

また「おわりに」には、

 「とにかく、ビッドに次ぐビッドで攻めまくり、ひとつずつ具体例に即した知識を獲得していただきたい。〔…〕きみはもう21世紀のとば口に立っている(pp.125-6)

ビックリマークから、その当時の興奮が伝わってきます。
そして、これは一人荒俣さんに限らず、多くの人が感じたことでもあったでしょう。

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私がeBayのアカウントを作ったのは2002年ですから、これまた相当昔のことです。
そして、ネットでしか見つけられないものを次々と目にして、やっぱり相当興奮しました。いや、それは興奮というよりも、一種の「万能感」に近かったかもしれません。

偉大な先人たちですら、話に聞くばかりで、決して目にしなかったであろう珍奇な品々。それをいながらにして我が物にすることができるという驚き。以前も書いたかもしれませんが、これは世界中の珍物・奇宝がヨーロッパに押し寄せ、それに眩惑された「大航海時代」の人々の心情になぞらえることができるような気がします。

しかし、その後、ネットを通じて行き来する情報量がいっそう増加し、その情報の山の中で「手にとることのできる形あるモノ」は徐々にリアリティを失っていき、同時にモノを収集するという行為の意味合いも大きく変わりました。でも2000年当時は、まだモノにリアリティ(価値といってもいいです)を感じる人が、私を含め大勢いたので、収集という行為や、収集家という人種も成り立ちえたのです。

かつてのeBayで見られた「ビッド文化」は、それを背景にしていたのかもしれんなあ…と、今やビッド商品をほとんど目にしなくなったeBayの画面を見て思います。

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とはいえ―。
私という存在がすべて情報に還元されるSF的な未来は知らず、私自身が形あるモノであり続ける限り、私はこれからも形あるモノとの付き合いを欲するし、その相互作用に尽きせぬ意味を感じることでしょう。

オークションという魔所2024年02月01日 18時35分02秒

個人的印象ですが、最近のeBayはめっきり「Place bid」が減って、「Buy It Now」ばかりになってませんか。オークションサイトの看板はそのままながら、実態は販売価格の明示されたショッピングモール化している感じがします。


これは精神衛生にとって非常に良いことです。
オークションというのは、駆け引きを伴うギャンブル性の強い行為なので、心をむしばむ面があります。つまり、そこで商われている商品そのものよりも、入札して競り落とすという行為に淫する恐れがあるのです。脳内物質が多量に放出されるあの感覚には、明らかに依存性があります。

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そんなことを思ったのは、先日久しぶりに入札する機会があったからです。

まあ、それほど執着してないモノだったら、そんなに心も乱れないわけですが、今回は絶対に欲しいと思った品で、しかも全世界で40人以上が Watchlist に入れているという人気の品だったので、非常に厳しい戦いが予想されました。いやがうえにも緊張が高まるわけです。オークション終了5分前ともなれば、文字通り全身がゾワゾワし、1分前には動悸とともに目の前がチカチカしてくる始末です。

こういうときの入札のタイミングは明白で、入札終了の数秒前に限られます。それより前だとカウンタービッドが入って競り負けるし、それより後だとシステムや回線の関係でタイムアウトの恐れがあります。まさに必死剣鳥刺しというか、一撃必殺の構えです。

(藤沢周平・原作の「必死剣 鳥刺し」(東映、2010)のワンシーン)

その息詰まるドラマの結末は…?
もちろん落札したのは私です(しかも、心に決めた金額のだいぶ手前で)。これは完全に私の気合勝ちで…というようなことを誇ること自体、だいぶ心をむしばまれている証拠で、落札できて嬉しい反面、非常に危険なものを感じたのでした。

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しかも、話はこれで終わりません。
無事落札できて枕を高くして眠りについた翌日、「オーダーキャンセル」のメールが届いたときの私の気持ちを、どうかご想像いただきたいのです。

「えっ!なぜ?」と思いつつ文面に目を通したら、「海外の入札者には事前に送料確認をお願いしていましたが、あなたはそれを怠りました。それに日本にこの品を送るには、ややこしい手続きが必要なので、申し訳ありませんが…」と書いてありました。

嗚呼、何としたことでしょう。そう言われれば、たしかに商品説明の中にその旨の記述がありました。これは完全に私の不注意なので、弁解の余地はありません。文字通り天を仰いで茫然自失。

やっぱりオークションには魔物が住んでいるのです。
君子は進んでこれを遠ざけるべきです。

天文古玩の書斎を形にする2024年01月14日 05時56分57秒

天文アンティーク趣味というのは、いにしえの星ごころや、現代では失われた美的感覚を古いモノの中に探し求めるという、なかなか床しい趣味なわけですが、そんな苦労をしなくても、最近はAIがなんでも形にしてくれるので、趣味の在りようも今後は変わっていくのかもしれません(目を愉しませるだけなら、AIの画像を見てればよろしい…となりかねないからです)。

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生成AIの進歩は目をみはるばかりです。
描画用のそれにしても、ちょっと前まで指示の与え方が結構面倒くさかった記憶がありますが、今や誰でも簡単にお絵描きできるようになりました。

たとえば「天文古玩の書斎、ブリューゲル風」と指定したら、こんな絵を描いてくれました。


なかなか楽しげな絵ですね。そこがブリューゲル風なのか、小さな奇妙なフィギュアがたくさん机上に載っていますが、これはたぶんAIが「古玩」を「古いおもちゃ」と解釈したからで、「尾形光琳風」と指定しても、やっぱり下のような感じで返してきます。


それなら…と、こんどは「天文アンティークのコレクターの書斎」を光琳風に描いてもらったら、とたんに壮大な光景に転じて、なんだか極端だなあと思いますが、それにしてもAIというのは賢いものだと感心することしきりです。


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でも、最初は面白くても、やっているうちにだんだん飽きてくるのも事実。
それは一連の画像にどこか「AI臭さ」があって、一見多様なようでいながら、描法が単調だからだと思います(これは「アニメ風に」とか「劇画風に」とか、いろいろ指示を変えても、どこまでも付きまとうものです)。

じゃあ、と気を取り直して、「とてもAIが描いたとは思えない画風で」と指定したらどうか?


やってみると、「えー、ぜんぜん普通じゃん…」という結果でした。
それならば、『いかにもAIが描いたような絵で』と命じたらそれっぽく描けるのか?と、しつこく試したところ、


「おんなしやないか!」と、思わず関西弁で声が出ました。
どうも現状はこの辺にまだ課題を残しているようです。

博物画の魅力2023年12月18日 11時14分08秒



山田英春氏の近著、『美しいアンティーク鉱物画の本(増補愛蔵版)』(創元社、2023)を書店で見かけ、さっそく購入しました。出版前から一部では話題になっていたので、すでに購入済みの方も多いことでしょう。


2016年に出た初版とくらべると、判型も大きくなり、内容もボリュームアップして、見ごたえ十分です。

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この本を見ながら、博物画の魅力とは何だろう?と、改めて考えていました。

博物画というと、昨日の『雑草のくらし』のような科学絵本にも、明らかにその影響が及んでいる気がします。科学絵本には童画風のソフトな絵柄の作品もあるし、対象を緻密に描き込んだハードな作品もありますが、後者を突き詰めていくと、現代の博物画家によるスーパーリアリズムの世界に至るのでしょう。その超絶技巧には思わず息を呑みます。

博物画の魅力は、絵そのものの魅力によるところがもちろん大きいです。
でも、個人的には「絵の向こうに広がっている世界」の魅力も、それに劣らず大きいように感じています。

たとえば現代の博物画であれば、各地で活躍するナチュラリストと自然とのみずみずしい交歓や、彼らの弾むような好奇心、そして環境への目配り・気配り、そうしたものが見る側に自ずと伝わってくるから、見ていても気持ちが良いし、小さなものを描いても、何かそこに大きなものを感じます。


これが18世紀~19世紀の博物画となれば、まさに「大博物学時代」の香気や、「博物学の黄金時代」の栄光を物語る生き証人ですから、絵の向こうに当時の博物学者の重厚な書斎の光景がただちに浮かんできます。それはダーウィンやファーブル先生が生きた世界への扉であり、学問の佳趣への憧れや、科学がヒューマンスケールだった時代への郷愁をはげしく掻き立てる存在です。

結局、私にとっての博物画は一種の象徴であり、宗教的な「イコン」に近いものなのでしょう。

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ところで、山田氏の本の帯には、「写真では味わえない、レトロで温かみのある、多色石版印刷(クロモリトグラフ)の玉手箱」という惹句があります。

鉱物画は博物画の下位分類なので、鉱物画の魅力というのも、当然博物画の魅力と重なる部分が大きいはずです。そして、一枚の絵として見た場合、この「写真にはない手わざの温もり」が魅力であるということも、博物画の魅力としてしばしば言及されることです。

ただ鉱物画の場合、他の博物画とはちょっと違う点もあります。
それはほかでもない「温かみ/温もり」についてです。というのも、昔の鉱物画家はひたすら鉱物らしい、冷たく硬質な質感を目指して努力していたはずで、画家自身そこに「温かみ」を求めてはいなかっただろうし、むしろそれを排除しようとしていたのでは?と思えるからです。動物画や植物画の場合は、描き手もアプリオリに「温かみ」を排除していたとは思えないので、そこが鉱物画の特異な点です。


それでも現代の我々の目には、これらの鉱物画は十分「温かみのある絵」として目に映ります。これはたぶん基準点の置き方の違いで、昔の画家は当時の平均的な具象画を念頭に、それを超えたリアリズムを追求したのに対し、現代の我々は「実物以上に美しい鉱物写真」を見慣れているので、「それに比べれば、昔の鉱物画は素朴で、温かみに富んでいるよね」と思い、それこそが魅力だと感じるのでしょう。

この点で、往時の描き手と、現代の鑑賞者との間で、鉱物画の捉え方をめぐって不一致が生じているのように思いましたが、まあこういうすれ違いは、レトロ趣味全般でしょっちゅう起きていることですから、事新しく言うには及ばないかもしれません。

(鉱物と鉱物画。それらを写した写真を掲載した本。そのまた全体を収めた写真。虚実皮膜とはこういうことを言うんでしょうかね。なかなか世界は複雑です)

身の丈に合った蒐集ということ…『瓦礫洞古玩録』2023年09月13日 18時16分27秒

天文アンティークとは全然畑が違いますが、モノの蒐集ということを考えたとき、私が深く私淑している方がいます。仏教考古学者で、奈良国立博物館の館長も務められた石田茂作氏(1894-1977)です。

石田氏は、ご自分が専門とする仏教美術の小品を蒐集することに喜びを感じ、多年にわたる蒐集の結果を一書にまとめ、『瓦礫洞古玩録』という図録を私家版で出しています。昭和39年(1964)、氏が70歳のときのことです。

(『瓦礫洞古玩録』 扉)

(同 奥付)

私がブログを始めるにあたって「天文古玩」と題した理由は、私自身、もう曖昧になっていますが、「古玩」の二文字を選び取ったのは、石田氏の本が念頭にあったからだと記憶しています。

同書序文の中で、石田氏は自身の蒐集方針とされてきたことを述べています。
曰く、

一、物を蒐集してもよい

二、但し自分の学問研究に必要なものに限る

三、高価なものは手出しせぬ事、研究に必要だと云って高価なものを買い、為に妻子が生活に困り家庭争議を起した例もあるからその点最も警戒し、家庭の生活費をおびやかす事なく、自分の小遣銭で買える程度なら買って差支えないと我心に言い聞かせた。

四、蒐集品は決して売らない事、売って利益があればそれに味を占めて研究がお留守になるのみならず、世間の誤解もそれによって生ずる事が多いからだ。

まことに穏当な指針だと思います。特に「三」は往々問題になる点で、石田氏はこの点で、ご自分をしっかり律してきたことを誇っていますが、それは確かに誇るに足ることです。マニアとは狂気(マニー)をはらむ存在とはいえ、そういう病的な要素とは無縁の健全な蒐集もあることを、氏は教えてくれます。

こうした蒐集方針に基づく結果について、石田氏はこうも述べています。

「然し蒐集対象の制限と経済的の制約とは、どうせ優品の集まる筈はなく、徒らに数は増えても、お恥ずかしい物ばかりである。あんなに数はなくても一点でよいからもっとましなものを集めたらと云われる方もあるが、私の蒐集はこれでよいと思っている。〔…中略…〕破片断簡が多く完全なものは少なく骨董的には無価値に近いものが大部分である。」

もちろんこの言葉には、謙遜もまじっているでしょう。
しかし、その大半は本音だと思います。石田氏は国立博物館館長という要職にあったので、並の勤め人よりは俸給もよかったでしょうが、それでも金に飽かせた蒐集とは無縁の生活だったはずで、何より文字通り「博物館級のお宝」に日々囲まれていたわけですから、ご自分の蒐集を省みて「瓦礫洞」と称されたのも自然なことと思います。

(粘土を型押して作られた「塼仏(せんぶつ)」とその残欠)

私の場合、学問研究とは無縁という基本的立場の違いはありますが、その穏当さにおいて氏を大いなる先達と敬仰し、その末流を称する資格があると自ら任じています。私の場合も、「徒らに数は増えても、お恥ずかしい物ばかり」だし、「破片断簡が多く完全なものは少なく骨董的には無価値に近いものが大部分」であるにしても、「私の蒐集はこれでよい」と素直に思えるからです。(若い頃は一寸違う思いもありましたが、年を重ねてそういう境地に達しました。)

ただ、私が氏にはるかに及ばないのは、その眼力です。
私が石田氏を尊敬するもう一つの理由は、その蒐集品が、たとえ文字通りの瓦礫ではあっても、みなどこかに見どころのある優品ぞろいだからです。その選択眼の確かさ、あるいは人が見落としている価値を見抜く目、そうしたフィルターを経たモノたちだからこそ、それは単なるガラクタの集積ではなく、総体として美しいコレクションとなっているのです。この点は、追いつくことは到底叶わなくても、これから一生かけて学んでいかなければなりません。

たぶん、ここで重要なのは、何を買うかを選別する能力と同時に、「何を買わないか」を選別する能力で、「単なるガラクタの集積」や「美しくないコレクション」は、多くの場合、後者の能力不足に起因するのではないかと睨んでいます。

(右は仏事に用いる鉦鼓(しょうこ)用引架。昭和37年(1962)に重要文化財に指定されました。氏の眼力の確かさを雄弁に物語る品です。その後、氏の郷里・愛知県岡崎市の昌光律寺に寄贈され、現在も同寺が所蔵)

ソビエトの星(補遺)2023年07月26日 18時58分01秒

昨日の星座早見に触発されて、天文とは全然関係ありませんが、ちょっとした思い出を書き付けておきます。


東西冷戦体制というのは、私が生まれたときには既に存在したので、何か自然物のような、あたかも大昔からある太平洋や富士山と同じようなものとして、子供心に受け止めていたような気がします。だから冷戦が終結した時、「どんなに強固に見えても、人間社会というのは変わるものなんだなあ…」ということを、頭ではなく、生々しい感覚として味わったのでした。きっと、玉音放送を聞いた少国民も、そんなことを思ったでしょう。

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若い人からすると、ソ連も今のロシアも同じに見えるかもしれません。
確かに連続している部分も多いのですが、でも「ソ連」という言葉には、今の「ロシア」にはないいくつかのイメージが付きまとっていました。

一つは「盟主」のイメージです。
ソ連は痩せても枯れても「東側陣営」の盟主でしたから、孤立しがちな今のロシアよりも、はるかに堂々としたイメージがありました。

もう一つは「労働者」のイメージです。
ソ連は建前としては労働者による、労働者の国でしたから、町のあちこちに筋骨隆々とした労働者像が立ち、人々はしょっちゅう労働歌を歌って団結を誇る…みたいなイメージがありました。

あるいは国家全体を覆う「鉄」のイメージもあります。
ソ連の労働者は盛んに鎌を振るい、ハンマーを打ち下ろし、鉄鉱石を掘り出しては砲弾を拵えました。そして共産党政府は鉄条網で国土を仕切り、鉄の組織で国家を統制したのです。

そんなもろもろのイメージを、プロパガンダアートにくるみ、ソ連という国は自己像の演出に余念がありませんでした。

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何だか妙に熱弁をふるっていますが、要はある世代にとって、「ソ連」という存在には独特の感慨が伴うことを言いたかったのです。そしてここまで語って、はじめて「旧共産圏グッズ」の味わいも伝わるような気がします。

振り返れば、昨日の星座早見盤にも、上のような個人的連想がまとわりついていることを認めないわけにはいきません。

七夕の雅を求めて(7)2023年07月07日 06時57分28秒

この連載も7回目を迎え、いよいよ今宵は七夕。
これまで紹介してきた品々を机の上に並べて、ささやかな乞巧奠を執り行うことにします。


単にモノが散らかってるだけのようにも見えますが、とりあえずはこんな感じです。(この辺は、もうちょっと工夫のしようがあるかも。)


一つ一つの品にこめた思いを振り返れば、これぞ私なりのスノビズムの発露…なんですが、でも、最近こういうのはあまり流行らないみたいですね。しかし、だからこそへそ曲がりの私としては、一層要らざる力こぶを入れたくなるのです。

【閑語】

考えてみると、こういういかにも「伝統でござい」という顔をしたモノに対しては、一寸斜に構える…というのが、私の若い頃のスタンダードだった気がします。

でも、それは伝統やハイカルチャーが実体的に存在したからこそ通用した態度です。たとえば諸道の家元制度なんかも、それが厳然とあればこそ、「なんてくだらない制度なんだ!家元制度こそ諸悪の根源だ!!」と、こぶしを振り上げて痛罵できたわけですが、今や表・裏の千家茶道ですら、体力が落ちてヨロヨロとしていますから、なんだか批判するのが申し訳ないような、むしろ「頑張ってください」と励ましたくなるような気すらします。

「斜に構える」というのは、相手を知った上で反発の態度を示すことでしょうが、今や相手を知る必要もなければ、それで誰も、何も困らないわけです。いわば、伝統もハイカルチャーも、教養も格式も、すべて無化された状態。

見る角度によっては、かつての伝統文化が、新しい文化に置き換わっただけともいえるので、そう大げさに喚き立てる必要はないかもしれませんが、それにしたって、文化の連続性を自ら断ち切って根無し草になるのは、いかにも寂しい気がします。スノビズムだろうが、要らざる力こぶだろうが、ここはあえて守旧派として振る舞うことにしたゆえんです。

(この項おわり)

空の上、空の下2023年06月03日 12時16分32秒

台風一過の青空が明るく広がっています。
今回のは台風そのものというよりも、その影響で前線上に発生した線状降水帯による被害、というのが正確かもしれませんが、とにかく激しい雨と風でした。
東京に出かけた家人が帰れなくなったり、身近なところにも影響がありました。

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ギンガリッチ氏の死に触発されて、あれこれ考えていました。
何にせよ、人というのはいつかいなくなってしまうものですね。

井伏鱒二は「サヨナラだけが人生だ」といい、寺山修司は「サヨナラだけが人生ならば、人生なんかいりません」といいました。でも、その二人ともすでに亡くなって久しく、「人生は短く、芸術は長し」の箴言だけが、今はひらひらと青空をただよっているようです。

こんなブログを書いている私自身に限らず、おしなべて古物を愛好する人は、身の回りに過去の遺物を積み上げて生活されているんじゃないかと思いますが、そのひとつひとつのモノの向こうに、今は亡き人の姿を思い浮かべると、突如自分がカタコンベのただ中にいるような気がしてきます。

それに対して、ゾッとするような思いを抱くのが真っ当な神経というものかもしれませんが、今は静かな安心感の方が大きいです。「自分もまもなく…」という気落ちが自然と湧いてくるからです。(たぶん本物のカタコンベに行っても同様でしょう。)

特に起承転結のない文章ですが、暗い部屋から青空を見上げて、そんなことを考えていました。


天文アンティークの夕べ2023年02月26日 08時44分06秒

(今日は2連投です)

それまで「鉱物Bar」をイベント開催されてきたフジイキョウコさん(Instagram 、Twitter )が、東京・吉祥寺に鉱物Barの実店舗を構えられたのは、2020年夏のことです。しかし、遠くから憧れつつ、まだお店をお訪ねしたことはありません。


でも、そこで行われる最新のイベントが「天体嗜好症展」であり、さらにスペシャルイベントとして、「ofugutan」さん)こと今井麻裕美さんによる天文アンティークのトークショーが2月25日にあると知って、「うーむ、これは…」と、心のうちで大いに期するものがありました。

何とかスケジューリングできないものかと悩んでいたところ、フジイさんから「当日、インスタライブを行いますよ」という吉報がもたらされ、昨日ディスプレイごしに無事参加がかなったのでした。

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今井麻裕美さんはライター・編集者として活躍される一方、博物蒐集家であり、空を愛する「星のソムリエ」であり、そこから天文アンティークの収集もされている方です。

古い日時計の話に始まり、星たちがくるくる回るメカニカル・マジックランタンの上演、スペースエイジの息吹を伝える、当時の月球儀やスプートニク形のウェザーステーション、天体モチーフのジュエリーの紹介、そしてアンティーク望遠鏡の登場―。

素敵な品に目を喜ばせ、今井さんの愉しいトークに耳を傾けながら、ふと気づいたことがあります。「そういえば、自分以外の誰かが天文アンティークの魅力を語っているのを、こうして生で見聞きするのは、生まれて初めてだなあ…」と。

あまたの天文アンティークを前に、「ああ綺麗だね、ああ興味深いね」という人は少なくありませんが、実際それを蒐めようと思う人はごくわずかでしょう。ですから私の潜在意識において、何となく自分のやっていることに孤絶感がありました。それだけに、こうして熱心にその魅力を語る人の姿を目の当たりにして、嬉しくもあり、大いに感動もしたのです。本当に参加できてよかったです。

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貴重な機会と、心豊かなひとときを与えていただいたフジイさんと今井さんに、改めてお礼を申し上げます。

「天文古玩とは何か?」― 識者に聞く2023年01月17日 20時13分39秒

不易あれば流行あり。
ChatGPTがネットで話題のようなので、私も流行に触れてみました。ChatGPTというのは、AIによる対話シミュレーターというか、要はSiriの親玉みたいなものです。ログインすると、何の準備も不要ですぐ使えるのが便利なところで、さっそく知りたいことを尋ねてみました(クリックで拡大)。


うーむ、なかなか巧みに答えますね。ただ、AIは「天文古玩」を「天文アンティーク」と同義ととらえているようだったので、ちょっとそのことも聞いてみます。

私: 天文古玩と天文アンティークとは同じ意味ですか?それとも違う意味ですか?

ChatGPT: 「天文古玩」と「天文アンティーク」は、どちらも古い天文学に関連した道具や機器などを指します。天文古玩は、古い天文学に関連した道具や機器を収集、評価することを楽しむ人たちが使う言葉です。天文アンティークは、古い天文学に関連した道具や機器を指して、古美術商などが使う言葉です。

ただし、「天文古玩」と「天文アンティーク」は、概念上は同じ意味ですが、使用する場面や目的によっては、意味合いが異なることもあるかもしれません。そのため、「天文古玩」は、天文学者や天文史学者などの専門家によって使用されることが多いですが、「天文アンティーク」は、古美術商や古物商などが使うことが多いです。

意味が通っているような、通ってないような、そこはかとなく「ああ言えばこう言う」感はありますが、巧みといえば巧みです。
しかもAIは言葉巧みなだけでなく、なかなか物知りでもあります。

私: 天文古玩についての学術論文を教えてください。

ChatGPT: 天文古玩に関する学術論文は多数存在します。特に、歴史的な天文器具や書物についての研究は、天文学史や技術史の研究において重要な役割を担っています。以下に幾つかの例を挙げますが、これらはあくまで一例であり、専門家によってはさらに多くの論文があるかもしれません。

"The History of the Telescope" by Henry C. King (1955)
"Astronomical instruments of the Islamic world" by David A. King (2010)
"A History of Astronomical Instruments" by J.A. Bennett (2003)
"Astronomy in the Low Countries" by J.A. Bennett (2008)
"The history of astronomical observing instruments" by Giorgio Strano (2018)

これらの論文は、大学や研究所のライブラリーで利用することができるか、学術雑誌のオンライン版で閲覧できるかもしれません。また、天文古玩に関する研究は、天文学や歴史学などのさまざまな分野で行われているため、それぞれの分野の学会や学術誌でも論文が発表されていることがあります。

なるほど。ただし、ここには重大な落とし穴があって、ChatGPTが教えてくれる著書・論文には大量の嘘が混じっていると言われます。上に挙がっている本はどれももっともらしいですが、どうやら2番目以降はデタラメっぽいです。

最後に大切なことを聞きます。


どうもはぐらかされているような気がするし、彼は平気で嘘もつきますが、私の知りたいことに対して、少なくとも私の家族よりは、はるかにうまく答えることができます。「なるほどなあ…」と感心しつつ、ここまでくると、「あたかも自我があるようにふるまう対話シミュレーター」を作ることも、意外に簡単かもしれず、子供の頃に想像した未来は、すぐ足元に来ている感じがします。

(楳図かずおの『漂流教室』に出てくる「物言うコンピューター」)