少年採集家(4) ― 2012年03月12日 21時40分33秒
一通りこの本に目を通しましたが、やはり文中に戦争の影はまったく登場しません。それがむしろ不思議なほどです。序文の日付は昭和18年7月になっているので、開戦前に準備した原稿を、この時期に上梓したわけでもなく、きな臭い中での執筆だったはずですが、著者は一切そのことに触れようとしません。
著者の松室重行という方については何も存じ上げませんが、ネット情報によれば、戦中から戦後にかけて『ヘッセ小品集』や『ハウフ童話集』を訳したり、『医学ドイツ語小辞典』を編んだりした方です。昭和11年当時は、作家・牧野吉晴とともに、美術雑誌「東陽」編集部に在籍していました(http://10tyuutai.blog58.fc2.com/blog-entry-95.html)。
動植物に関する著作は、この『少年採集家』だけですから、要するに採集・標本については素人の趣味の範囲を出ない人だと思いますが、それだけに一層純な思いが本書にはこめられているのでしょう。
★
以下、「はしがき」から抜粋。
「近頃、少年少女の皆さんが、熱心に植物の採集や動物の採集を行ふことは、まことに結構なことだと思ひます。
たゞ、残念なことには、せっかくの採集が永つゞきしないことです。
すべての皆さんが、大きくなってから、植物学者や動物学者になるといふのではありませんから、いつまでもつゞけて欲しいとは申しません。
しかし、国民学校の四五年生ではじめたら、中学校の二年生や三年生ぐらゐまではつゞけて、一通り完成した採集標本をつくり上げていたゞきたいと思ふのです。」
この辺は実にリアリスティックですね。「さあ、みんな大学者たらんことを目指せ!」と尻を叩くようなことはせず、途中でやめてもいいから、意味のある採集を目指しなさいと、現実的な助言をしているわけです。
「少年少女の皆さんがする採集だからといって、それがたゞの、いくらかためになる遊びではないのです。さういふ考へ方は悪いと思います。」「採集することが決して目的ではなく、これはたゞ、動植物の知識を得る手段です。これをよく心得てゐて、そして一定の方針を持って採集をすゝめ、標本の保存と鑑賞とを忘れない人が、よく採集をつゞけられるのだと私は思ひます。」「科学する心といふのは、要するに正しい道をふんで、忍耐づよく、どこまでも、ものごとの奥底まできはめて行くといふ不撓不屈の精神のことなのです。どうか皆さんも、この精神を忘れずに、一つりっぱな採集標本をつくり上げるやうに努力して下さい。」
自分に言い聞かせるような強い調子があります。
この時期(ミッドウェーの敗戦からガダルカナル撤退、そしてアッツ島玉砕が続いた時期です)、お上の統制はいよいよ厳しく、知識人も時局におもねる発言が多かったと思いますが、松室氏はそうした言辞を弄することなく、少年少女に専一に正しい科学する心を説いたのは、立派だと思います。そしてまた少年少女を慈しむ目を感じます。
(すくい網採集法を試みる戦時中の少年)
★
イントロダクションにあたる第1章「博物採集とは」には、次のような一節があります。
「採集から我家に帰って来て、包を開いて、眺めたり、調べたり、較べたりするたのしさ。特別に美しい標本、珍しい標本、りっぱに仕上げた標本、かういふものを標本箱に入れるときのたのしさ。
静かな冬の夜ながに、ひとり静かに標本箱をとり出して来て、眺めたり、調べたりして、何度となく新しい発見をして喜ぶたのしさ。」
現実の日本には、すでにこういう喜びが失われていたはずだと思うと、なんだか切ないです。
★
さて、その内容ですが、表紙から受ける印象とは違って、著者がいちばん力点を置いているのは植物採集で、過半のページがそれに当てられています。しかも、通常の押し葉だけでなく、種子の標本や樹皮の標本、あるいはキノコやコケや地衣類や藻類の標本作りにまで記述が及んでいて、松室氏の本領が植物趣味にあったことがうかがえます。
その次に昆虫採集の話題ですが、そこでメインとなるのは蝶と蛾で、それ以外の昆虫はごく簡単にしか触れられていません(そして最後に貝のことがチラッと出てきます)。糖密採集法や叩き網採集法など、おなじみの方法も、主に蝶や蛾を採集する方法として紹介されているのが、ちょっと珍しく感じられました。
(中身は文字ばかりのページが多くて地味めです。)
(これは比較的図が多いページの例)
結局、著者は植物と蝶や蛾の熱心な採集家だったと想像されますが、そういう人には生きにくい時勢であったろうなあ…と、ここでもやっぱり思います。
書かれている内容自体は、私が子どもの頃読んだ採集と標本づくりの本とほとんど変わりません。もちろん、時代の流れを感じる叙述もあって、たとえば蝶の幼虫の乾燥標本を作るのに、私自身は「電熱器と茶筒」を使えと習いましたが、昭和18年当時は「アルコールランプと石油ランプのほや」を使うよう書かれています。あるいは、プリザーブドフラワーを作るのに、今だと強力な乾燥剤や機械の力を借りますが、当時は「熱してよく乾燥させた砂」の中に花を埋める方法が紹介されていて、その辺に時代を感じるのですが、でもやっていることは一緒です。採集と標本作りの基本的テクニックは、たぶんこの1世紀ぐらいほとんど変わってないんじゃないでしょうか。
(『少年採集家』より。ランプのほやが登場するのはさすがに古風。)
(これはこれで懐かしい小学館の『採集と標本の図鑑』。昭和45年・改訂第20版より。しかし口でぷーぷー吹くのは、むしろ昭和18年よりも技術的後退か。)
★
変わったなあ…と感じるのは、「中身」よりもむしろ「外皮」、すなわち表現形式の方です。
この『少年採集家』には、ごく少数の挿絵しかなくて、ノウハウはもっぱら文字で説明されています。昭和30年代以降、学習図鑑全盛時代になると、こういうのは全編カラーで図解されるのが普通になるので、そこは大きな違いです。父親世代と自分の世代の差はそこでしょう。
ただ、読んでみると分かりますが、文字だけでも意外によく伝わるものです。
戦後の教育者は、カラフルな図解こそが子どもの興味をひきつけるものと頑なに思い込んでいた節がありますが、下手な図解よりも、子どもの心に沁みる文章のほうが遥かに良くはないでしょうか?…まあ、これは私が年をとったせいでそう思うのかもしれませんが。
少年採集家(3)…戦時下の昆虫採集 ― 2012年03月08日 05時29分00秒
(↑本の置き方の悪い例。)
漫画家・手塚治虫が、旧制中学時代(※)に書いた昆虫随筆等を編んだ、『昆虫つれづれ草』という本があります(小学館、1997)。そのあとがき部分に、手塚とともに中学校で昆虫採集に熱中した、林久男氏へのインタビューが載っています。戦時下の昆虫少年の生態がわかる大変貴重な文章と思いますので、内容を抜粋してご紹介します。
(※)尋常小学校6年を卒業した男子が入学するのが旧制中学校(女子は高等女学校)。一般に「旧制中学は今の高校に相当する」と言われるのは、課程が5年制だったからで(戦時中は4年制に短縮)、今なら中学1年生から高校2年生に相当する年齢の生徒が在籍した教育機関です。(なお、昔は複線教育ですから、中学校以外にも、高等小学校や実業学校等、進路はいろいろありました。)
◆
手塚・林の両氏は、開戦の年(昭和16年)に、12歳で旧制北野中学(現大阪府立北野高校)に入学。入学当初はまだ真珠湾の前ですし、少なくとも中学生の身辺には依然のんびりした空気が漂っていたことが、林氏の回想から読み取れます。
まず当時の昆虫採集の位置づけについて。
〔以下、太字はインタビュアー、青字は林氏〕
― 当時、昆虫採集を趣味にしている中学生はあまり多くなかったわけですね。
林★ セミやトンボを追いかけるようなことは、どんな子どもでもしますよね。それでもその虫は何という種で、どんな暮らし方をしている、なんていう本格的な昆虫採集は、ほとんどだれもしていませんでした。
〔…〕そのころ登山、カメラ、昆虫採集といったら、西洋からやってきた新しい大人の趣味という感じでした。中でも昆虫採集は、ヨーロッパ貴族たちの優雅な遊びみたいな印象がありまして、私などは大いに魅きつけられてしまった。
― それを本格的にやっていた手塚少年は、大人っぽく見えたんですね。道具などもそろえていて、今でいうと中学生がライカのカメラを持っているような感じでしょうか。
林★ まさにそうですね。
「ライカのカメラ」とは、インタビュアーもうまい喩えを思いついたものです。
「昆虫採集」は「虫採り」とは違う、それは精神においても違うし、何よりも装備が違う…という感覚が当時はあったようです。
― そうして林さんたちは、手塚少年が語る昆虫の世界と昆虫採集という西洋の香り高い趣味に引き込まれていったんですね。
林★ ええ。あれは夏休み直前の7月の土曜日の午後だったと思います。私もとうとう昆虫採集をはじめる決心をして、大阪梅田の阪急百貨店の2階にあった昆虫採集道具売り場に行ったんです。手塚くんもいっしょに来てくれ、「あれがいい、これがいい」と世話をやいてくれました。私は当時1円ほどだった捕虫網や三角紙ケース、毒瓶、標本箱など道具一式を買いそろえました。
これが林氏の「昆虫採集」入門でしたが、師匠格である手塚のそれはまた規模が違います。
そして翌日の日曜日に、手塚くんの宝塚の家に行ったんです。彼の生家は、そのころ「門から玄関まで電車が走っている」と噂されるほど大きな家でした。噂はオーバーでしたが、庭にクスノキの巨木があったのをはっきり覚えています。訪ねると、私は彼の部屋に通されました。するとビックリ。標本箱の多さに圧倒されてしまった。それに、どの箱も私が前日デパートで買ったボール紙製のものとはちがって、木製のドイツ箱と呼ばれる大型のもので、その中に、きちっと種類別に、たくさんの昆虫が入っていました。蝶や甲虫だけでなく、ハチやアブまでありました。詳しく聞くと、彼は小学校5年生のとき、友人だった石原実くんに感化されて昆虫採集をはじめたという。でも標本の量と質は、2年間で集めたものとは、とても思えませんでした。
林氏の回想する昆虫少年ライフは、関西の富裕層や新興中産階級のそれですから、全国一般に敷衍することはできないでしょうが、実に堂々たるものであり、また羨ましくもあります。そして経済的な面についてばかりでなく、土地柄もまた良かったのです。
― 夏休み前にそんなことがあると、さぞや夏休み中は大変でしょうね。
林★ もう昆虫一色でした。当時私の家が吹田で、私が手塚くんの家〔=宝塚〕に行くことが多かったのですが、箕面や能勢で待ち合わせることもありました。箕面は山岳地帯で多くの昆虫学者を育てた昆虫相が豊かな場所。宝塚から電車で、当時は40分くらいかかったでしょうか。自宅周辺には平地の昆虫がいて、山地の昆虫もそう遠くないところで捕れた。こうした環境は私たちにとって大きかったと思います。〔…〕私はほんの4か月間で完全に虫の虜になってしまいました。
さらに、すぐれた指導者にも事欠きませんでした。
― 当時は現在の理科に替わる「博物」という授業があったそうですが、手塚さんや林さんのような少年は、授業のほうはいかがでしたか。
林★ 植物、動物、鉱物などをひっくるめて「博物」と称していましたが、授業で知らされるような内容は、図鑑や昆虫エッセイのはしりだった小山内龍の『昆虫放談』などを読んでましたから、ものたりなかったんですね。私たちが昆虫について学びにいったのは、もっぱら宝塚のファミリーランドの中にあった「宝塚昆虫館」です。北野中学の先輩には当時の昆虫学界を牛耳っていた、九州大学教授の江崎悌三、京都大学教授の上野益三など優秀な昆虫学者がいました。昆虫館の当時館長だった戸沢信義さんも先輩のひとり。手塚くんはここに小学生のときから通っていたそうです。学芸員だった福貴正三さんと彼は仲がよくて、私たちも頻繁にご指導いただきました。
こういうインフォーマルな人の輪が昔はありました。今も一部にはあるのかもしれませんが、世の先生方はなかなか忙しいので、イベントなどの場を除けば、子供たちの好奇心に正面から応える余裕は多くの場合失われているでしょう。
さて、手塚を中心とする昆虫マニアの少年たちは、中学2年に進級すると同時に、「博物班」という部活動を立ち上げ、さらにそれに飽きたらず、「動物同好会」なる非公式組織を結成し、翌年にはそれを「六陵(りくりょう)昆虫研究会」へと発展改組します。手塚が健筆をふるい、大人びた昆虫随筆を会誌に寄稿していたのは、まさにこの時期のことです。
― 今回復刻することになった『昆虫つれづれ草』をはじめ、一連の『昆虫の世界』など、多くの手作り本が生まれてくるのは、そのころからなんですね。
林★ そうですね。彼は本作りに熱中すると1、2週間で1冊を仕上げました。昭和18年に文部省の教科要目が改定されて、博物学が生物学に変わり、それにともなって「博物班」も「生物班」に名称を変えました。そして私たちは「動物同好会」を解散して「六陵(りくりょう)昆虫研究会」を新たに発足し、もっとレベルの高い研究書を目指して『昆虫の世界』を発行したんです。それもやっばり手塚くんが清書、装丁、製本をひとりでやっていました。
ここまでは実に順調。少年たちは存分に昆虫ライフを楽しんでいました。
しかし、昭和18年、彼らが中学3年生になった頃から、戦争の影は急速に濃くなっていきます。
― そのころになると、第二次世界大戦も激化していきますね。
林★ 昭和18年になると生物班の班員も、ひとり疎開していきました。勤労奉仕もその年には組み込まれ、次第に私たちは学校には行けなくなってしまった。私と手塚くんは別々の工場に配置されて離れ離れ。作ったばかりの「六陵昆虫研究会」も空中分解です。それでもまだ登校日がありましたから、そのときにみんなで会って採集の約束をしたりしていました。翌年になるともっと悲惨で、もうまったく学校に行かなくなってしまった。時代も昆虫採集どころではありません。捕虫網を持って歩いているのを見つかれば、学校の先生や近所の人に非国民扱いですよ。警察も厳しくて「誰何(すいか)」といって職務質問をされてこっぴどく叱られる。そうした中でも私たちは昆虫採集をしていましたが(笑)。
これこそが、今回取り上げた『少年採集家』の出版された当時の空気でした。
昆虫少年にとっては(すべての国民にとっても)まさに受難の時代です。
そして戦局は日増しに悪化していきました。
― 手塚さんも『昆虫つれづれ草』で書いているように、そんな時代をみなさんで呪っていたわけですか。
林★ 18年ころは、そんなでもなかった。むしろ軍人や軍医になって南方に飛んで、熱帯産の珍しい昆虫を捕りたい、とよく話していました。19年になると勤労動員も本格化して学校には1日も行かなくなって、敗色が濃くなるのが私たちにもわかりました。もう明日の命もわからない状況ですからね、将来の夢どころではありませんよ。
少年たちの夢や、ときには命さえも呑み込んで、日本は昭和20年(1945)を迎えます。
このあと、焦土の中から、民主教育の掛け声とともに、新世代の理科少年たちが育っていくことになるのです。
◆
引用がものすごく長くなりましたが、以上のような事実を念頭におきつつ、本書の内容を見てみようと思います。
(話を本題にもどし、この項つづく)
少年採集家(2) ― 2012年03月06日 21時20分01秒
(昨日のつづき)
裏表紙や扉はこんな感じで、実に愛らしい本です。
裏表紙や扉はこんな感じで、実に愛らしい本です。
この本の装丁は、私らの世代もぎりぎりでお世話になった、童画家・初山滋(はつやましげる 1897-1973)画伯が手掛けたもの。そう言われると、この絵の雰囲気には、なんとなく近しいものがあるような…。
しかし、表紙をめくった瞬間、目に飛び込んでくるのは、次のような見返しです。
やや!これは!!
捕虫網に捕えられた米軍機と、虫ピンに刺された仏軍機!!
著者・松室氏の文章中に、「連合国を殲滅せよ」と怒号するような激しい字句があるわけではありません(むしろ全篇それとは正反対の優しい調子で書かれています)。
それでは、これはいったいどうしたわけか? 初山画伯の趣味なのか? それとも、戦時下にかような本を出すことに気がとがめた出版社の過剰な配慮か?
まあ、いずれにしても虫を追うのも命がけという感じです。
★
話題がどんどん逸れていきますが、先ずは、この本が出た昭和18年(1943)当時の世相と昆虫採集事情について簡単に触れておきます。
(よく分からぬまま、この項つづく)
少年採集家 ― 2012年03月05日 22時21分18秒
どくとるマンボウ昆虫記 ― 2011年11月02日 22時47分25秒
作家の北杜夫さんが亡くなったと聞いて、一抹の感慨なきにしもあらず。
享年84歳ですから天寿といってよく、特に意外な感はありませんでしたが、何といっても私は一時その作品を愛読していたので、寂しいというか、空しいというか。
私が氏の作品を熱心に読んでいたのは中学生のときのことです。
そして最初に手に取ったのが『どくとるマンボウ昆虫記』だったと思います。
私が中学生のころ、氏はちょうど50歳前後で、私からすると憧れの伯父さんのような存在でした。
★
今にして思うと、当時、私は一種のアイデンティティの危機を迎えていました。
ちょっと前まであれほど好きだった昆虫に、急速に興味を失い始めていたからです。
昆虫を捕ってピンに刺したとて、それがいったい何になるのだろう?
そんなことをしたって、何にも生まれないじゃないか。
クダラナイ!コドモッポイ!!
そんな気持ちの一方で、やっぱり私は自分の過去を切り捨てることにもためらいがあって、何か虚無的な心を抱えていました。そんなときに、北杜夫さんの『昆虫記』に、そして氏の自伝的作品『幽霊』に出会えたことは、いくぶん大げさに言えば「魂の救済」にも相当する経験だったのです。
もはや自分は昆虫とオトモダチでいることはできない。
でも、そこから数々の物語を紡ぎだすことはできる。
生身の(というのも変ですが)昆虫たちの向こうには、さらに大きな世界があるらしい…そんなことを私はボンヤリと感じ取ったのでしょう。
ここでいう「さらに大きな世界」とは、文学とか、人間の心の領域とか、そういうものです。実際にそれが昆虫の世界よりも大きいかどうかは不明ですが、まあ中学生というのは、いろいろなルートで文学に目覚めるものですから、自分の場合、それがたまたま北杜夫さんだったということでしょう。
ともあれ、『昆虫記』のユーモアに、自分はどれほど心を慰められたことでしょう。
そして『幽霊』が描く心象風景に、どれほど魅せられたことか。
(「或る幼年と青春の物語」の副題を持つ『幽霊』は、とても美しい作品です。肉体と精神の成長の中で戸惑う主人公の昆虫少年(氏の分身)の繊細な心模様が、透明な自然描写と、入念な昆虫の生態描写とともに静謐に描かれています。)
★
こうして私は北杜夫さんの主要作品を次々と読み、学校で書く作文にもその文体が影響するまでになり、その影響の一部は今でも残っている気がします。
氏は嫌がるかもしれませんが、私あえて氏を「偉人」と呼び、その死を悼みたいと思います。さようなら、そしてありがとう。。。
享年84歳ですから天寿といってよく、特に意外な感はありませんでしたが、何といっても私は一時その作品を愛読していたので、寂しいというか、空しいというか。
私が氏の作品を熱心に読んでいたのは中学生のときのことです。
そして最初に手に取ったのが『どくとるマンボウ昆虫記』だったと思います。
私が中学生のころ、氏はちょうど50歳前後で、私からすると憧れの伯父さんのような存在でした。
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今にして思うと、当時、私は一種のアイデンティティの危機を迎えていました。
ちょっと前まであれほど好きだった昆虫に、急速に興味を失い始めていたからです。
昆虫を捕ってピンに刺したとて、それがいったい何になるのだろう?
そんなことをしたって、何にも生まれないじゃないか。
クダラナイ!コドモッポイ!!
そんな気持ちの一方で、やっぱり私は自分の過去を切り捨てることにもためらいがあって、何か虚無的な心を抱えていました。そんなときに、北杜夫さんの『昆虫記』に、そして氏の自伝的作品『幽霊』に出会えたことは、いくぶん大げさに言えば「魂の救済」にも相当する経験だったのです。
もはや自分は昆虫とオトモダチでいることはできない。
でも、そこから数々の物語を紡ぎだすことはできる。
生身の(というのも変ですが)昆虫たちの向こうには、さらに大きな世界があるらしい…そんなことを私はボンヤリと感じ取ったのでしょう。
ここでいう「さらに大きな世界」とは、文学とか、人間の心の領域とか、そういうものです。実際にそれが昆虫の世界よりも大きいかどうかは不明ですが、まあ中学生というのは、いろいろなルートで文学に目覚めるものですから、自分の場合、それがたまたま北杜夫さんだったということでしょう。
ともあれ、『昆虫記』のユーモアに、自分はどれほど心を慰められたことでしょう。
そして『幽霊』が描く心象風景に、どれほど魅せられたことか。
(「或る幼年と青春の物語」の副題を持つ『幽霊』は、とても美しい作品です。肉体と精神の成長の中で戸惑う主人公の昆虫少年(氏の分身)の繊細な心模様が、透明な自然描写と、入念な昆虫の生態描写とともに静謐に描かれています。)
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こうして私は北杜夫さんの主要作品を次々と読み、学校で書く作文にもその文体が影響するまでになり、その影響の一部は今でも残っている気がします。
氏は嫌がるかもしれませんが、私あえて氏を「偉人」と呼び、その死を悼みたいと思います。さようなら、そしてありがとう。。。
千年の古都で、博物ヴンダー散歩…京大総合博物館 ― 2011年10月26日 21時34分21秒
島津創業記念館を後にし、祇園北の骨董街で用を足してから、京阪鴨東線に乗り込み、出町柳の駅から、テクテクと京大まで歩きます。
「自然史」、「文化史」、「技術史」の3部門からなる総合博物館が、組織として発足したのは平成9年。さらに現在の建物が完成し、正式にオープンしたのは平成13年とのことです。つまり今年でめでたく開館10周年。なお、今回私がのぞいたのは、自然史と技術史の展示だけです。
★
自然史部門は、以下のようなテーマにそった展示となっています。
地震(地球の鼓動)
化石(化石から見た進化)
霊長類(京大が生み出した霊長類学)
動物植物(栽培植物の起源)
動物植物(温帯林の生物多様性と共生系)
ランビルの森(熱帯雨林の生態多様性と共生系)
昆虫
統一テーマはあるような、ないような…。
しかし、生態学はやはり大きな柱の1つではあるのでしょう。
今西錦司氏のフィールドノート(1958)。こういうのを、京大の至宝と呼ぶべきか。
京都の哺乳類の展示コーナー。館内はかなり照度を落としています。
★
館内を回って強く感じたのは、展示に「遊び」がなくて、全体が「お勉強モード」になっていることです。つまり、標本類の傍らにビッシリと細かい文字の解説パネルがあって、それをいちいち読まないと、展示内容が理解できない仕組み。
正直、気力・体力が充実していないと、見て回るのはしんどいと思います。
個々のテーマには、もちろん深い学問的意義があると思いますが、展示そのものを一つの「アート」と考えていないことは明らかで、この点で東大の総合研究博物館とは著しく対照的です。
けっこう珍奇な物もあるんですが、展示の仕方が地味(無雑作)なので、あまりおもしろそうに見えないのは一寸残念。
シロアリの標本。
何だか分からない写真ですが、アリの標本。
ナナフシ類の標本。
他にも南方に生息するゴキブリ類やら、糞虫の仲間やら、興味深い標本がズラズラ並んでいますが、「何となく並んでいる」だけなので、見る人は「ふーん」で終わってしまいます。
他にも南方に生息するゴキブリ類やら、糞虫の仲間やら、興味深い標本がズラズラ並んでいますが、「何となく並んでいる」だけなので、見る人は「ふーん」で終わってしまいます。
展示物の中で、ボルネオに広がる「ランビルの森」の実物大ジオラマは、唯一力が入っていましたが、これも厳しいことを言えば「子供だまし」の類で、「見るたびに新しい発見がある」という性質のものではありません。
★
技術史の展示室は完全に手抜きです。
京大では、『近代日本と物理実験機器―京都大学所蔵明治・大正期物理実験機器』(京大出版会)という単行本を出していて、旧制三高以来の備品調査は非常に進んでいるはずですが、こと博物館の展示に関しては、小さな部屋の、小さな棚に、ごく少数の器具が無造作に置かれているだけです。
展示品に1つ1つラベルが付けられているのは、上記調査の成果でしょうが、配列には何の必然性もなく、展示意図が不明です。
どうもブーブー文句ばかり言っていますが、建物は立派なのに、京大の本気具合がさっぱり感じられず、いかにも「片手間感」がぬぐえないので、ちょっと点数が辛くなりました。
(館内から見えた味のある建物)
★
★
京大の奮起に期待しつつ博物館を後にし、さらに今出川通りを東へ。
今回の旅の最後の目的地、Lagado(ラガード)研究所へと向かいます。
昆虫宝石箱(後編) ― 2011年10月16日 20時00分28秒
(昨日のつづき)
ラベルには1930年代の日付とベルギーの地名、それに「Coll. A. Fouassin」という文字が見えます(Coll.は、collectionの略?)。文字は手書きと印刷が混在しており、フアサン氏は、あらかじめ自分用のラベルを特注していたようです。
ラベルには1930年代の日付とベルギーの地名、それに「Coll. A. Fouassin」という文字が見えます(Coll.は、collectionの略?)。文字は手書きと印刷が混在しており、フアサン氏は、あらかじめ自分用のラベルを特注していたようです。
ただし、ラベルは箱の隅に2枚留められているだけて、個々の標本には付いていません。すくい網とか、叩き網とか、そんな方法で一網打尽にした虫たちを、名前調べは後回しにして、とりあえず標本に仕立てたのかもしれません。
★
ここまで読んでこられた方は、「ランスハップから来たヴンダーな箱とは、実は箱よりも中身がヴンダーだったのだね」と思われるでしょう。実際、その中身は「70年余り前のベルギーの昆虫標本」という、なかなかディープな品です。
しかし、実はやっぱり箱そのものが一層ヴンダーなのでした。
それは箱の裏側に貼られた1枚のラベルから明らかになります。
★
パリにあるヴンダーショップ、デロール好きの方にとっては、「バック街46番地(46, rue du Bac)」という地名が、耳に親しく感じられると思います。デロールは130年前の1881年から一貫してここに店を構え、現在に至るまで博物学の聖地として君臨してきたのですから、それも当然です。
しかし、この標本箱に貼られたラベルを見て、私はあっと驚きました。
デロールの住所が「モネ街23番地」になっている!
ここはデロールの初代、ジャン=バプティストが1831年に創業した場所で、3代目のエミールが現在地に移転するまで、半世紀にわたって商売を続けた縁故の地です。
つまり、この標本箱は、中身の標本からさらに半世紀以上遡る19世紀の品で、デロール初期の歴史を雄弁に物語る証人だったのです。
この品をランスハップブックさんのサイトで見た瞬間、「これは<絶対に>手に入れなければ!」と思い、お金のことは放念し、震えがちの手で電話をかけたのでした。
いささか病んでいる感じはありますが、それはともかく、これでデロールの生の歴史に、また一歩近づけたような気がしています。(だからどうした?という疑問は、ここではどうかグッと呑み込んでください。)
昆虫宝石箱(前編) ― 2011年10月15日 22時34分53秒
ランスハップブックからやってきた箱 ― 2011年10月14日 23時34分48秒
米国昆虫事情(続報) ― 2011年09月06日 22時47分59秒
(↑出典:http://www.fcps.edu/islandcreekes/ecology/eastern_hercules_beetle.htm)
一昨日の「足穂の里へ(5)」という記事は、足穂の旧居を推定する内容でしたが、記述に事実誤認のある可能性があり、それを迷惑と感じる方がいらっしゃるといけませんので、いったん閉じておきます。修正箇所を明示の上、改めて掲載の予定です。
最近、記事がいい加減になっているかもしれないので、天文科学館へ向かう前に、ここらでちょっと一服します。
★
ちょうど良い機会なので、先週、新聞で見てスクラップしようと思っていた記事を、ここに貼っておきます。以下、9月1日の朝日新聞より引用。
-------------------------------------------------------
○特派員メモ (ワシントン)
「さらば、ヘラクレス」
公園の街灯の下で、メスのカブトムシを見つけた。オリーブ色の体に茶色の斑点があって、日本のそれとは違うが、目はそっくりだ。単身赴任で米国に来て2カ月。旅愁も手伝ってか、飼ってみようかという気になった。
まず種を特定すべく、世界中の動植物を集めている国立自然史博物館に行ってみた。標本が展示されているが、名前はわからない。図鑑でみると「イースタン・ヘラクレス」という種らしいが、生きた状態で展示されるチョウやクモに比べ、カブトムシは明らかにマイナーな扱いだ。
ホームセンターで飼育用のケースを探してみたが、見つからない。聞いても「虫を飼う」という発想が理解されにくい。大型ペットショップにも行ってみたが、虫の飼育用品はやはり見当たらない。
店員に尋ねると、小さなケースを持ってきてくれた。日本の百円ショップに売っている虫のケースと変わらない。なんだ、あるじゃないか、と思ってよく見ると、「トカゲやヘビの飼育に適切です」と書かれていた。
寿命が残り少ないだろうカブトムシは、結局放すことにした。 (行方史郎)
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以前の関連記事は以下。
■甲虫女王、東京ヲ制ス
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/07/06/4416672
■素顔ノ甲虫女王、現ハル!
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/20/5172136
アメリカにおける昆虫趣味は非常に肩身が狭い、いや、昆虫趣味そのものがない…というのを聞いて、最初は「話を面白くふくらましているんじゃないか?」と疑いました。でも、本当にそうらしいですね。
もちろん広い国ですから、昆虫を趣味にする人が絶無とは思えませんが(現に昆虫をテーマにした米国サイトはたくさんあるようですし)、ただ明らかに奇人変人に属するぐらい少ないということかもしれません。
一昨日の「足穂の里へ(5)」という記事は、足穂の旧居を推定する内容でしたが、記述に事実誤認のある可能性があり、それを迷惑と感じる方がいらっしゃるといけませんので、いったん閉じておきます。修正箇所を明示の上、改めて掲載の予定です。
最近、記事がいい加減になっているかもしれないので、天文科学館へ向かう前に、ここらでちょっと一服します。
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ちょうど良い機会なので、先週、新聞で見てスクラップしようと思っていた記事を、ここに貼っておきます。以下、9月1日の朝日新聞より引用。
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○特派員メモ (ワシントン)
「さらば、ヘラクレス」
公園の街灯の下で、メスのカブトムシを見つけた。オリーブ色の体に茶色の斑点があって、日本のそれとは違うが、目はそっくりだ。単身赴任で米国に来て2カ月。旅愁も手伝ってか、飼ってみようかという気になった。
まず種を特定すべく、世界中の動植物を集めている国立自然史博物館に行ってみた。標本が展示されているが、名前はわからない。図鑑でみると「イースタン・ヘラクレス」という種らしいが、生きた状態で展示されるチョウやクモに比べ、カブトムシは明らかにマイナーな扱いだ。
ホームセンターで飼育用のケースを探してみたが、見つからない。聞いても「虫を飼う」という発想が理解されにくい。大型ペットショップにも行ってみたが、虫の飼育用品はやはり見当たらない。
店員に尋ねると、小さなケースを持ってきてくれた。日本の百円ショップに売っている虫のケースと変わらない。なんだ、あるじゃないか、と思ってよく見ると、「トカゲやヘビの飼育に適切です」と書かれていた。
寿命が残り少ないだろうカブトムシは、結局放すことにした。 (行方史郎)
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以前の関連記事は以下。
■甲虫女王、東京ヲ制ス
http://mononoke.asablo.jp/blog/2009/07/06/4416672
■素顔ノ甲虫女王、現ハル!
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/20/5172136
アメリカにおける昆虫趣味は非常に肩身が狭い、いや、昆虫趣味そのものがない…というのを聞いて、最初は「話を面白くふくらましているんじゃないか?」と疑いました。でも、本当にそうらしいですね。
もちろん広い国ですから、昆虫を趣味にする人が絶無とは思えませんが(現に昆虫をテーマにした米国サイトはたくさんあるようですし)、ただ明らかに奇人変人に属するぐらい少ないということかもしれません。
































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