江戸の星形を追う…アンサー篇2024年11月08日 18時44分12秒

まさに打てば響く。
昨日の記事の末尾で、「こうして書いておけば、きっと今後の展開もある」と書いたのが、こうも早い展開を見せるとは!こういうのを「啐啄の機(そったくのき)」というのかもしれません。

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「江戸の星形」については、すでに詳しい論考があることを、コメント欄でS.Uさんに教えていただきました。

■中村 士・荻原哲夫
 「高橋景保が描いた星図とその系統」
 国立天文台報 第8巻(2005)、pp.85-110.

大雑把にいうと、日本の江戸時代に流布した星図には2系統あり、1つは東アジアで独自に発展し、李氏朝鮮の『天象列次分野之図』の流れを汲む星図、もう1つはイエズス会宣教師が中国にもちこんだ西洋星図や星表が彼の地で漢訳され、日本に輸入された結果、生まれた星図です。

中村・荻原の両氏は、前者を「韓国系星図」、後者を「中国系星図」と呼んでいます。シンプルに、それぞれ「東洋系星図」、「西洋系星図」と呼んでもいいのかもしれませんが、ただ、ここでいう「西洋系星図」に描かれているのは、西洋星座(ex. オリオン座)ではなくて、やっぱり東洋星座(ex. 参宿)なので、無用な誤解を避けるため、ここは原著者に従って「韓国系」「中国系」と呼ぶことにしましょう。

ここで、「両方とも東洋星座を図示してるんだったら、「韓国系」と「中国系」は何が違うの?」と思われるかもしれません。その最大の違いは、「韓国系」は、星の位置情報のみが小円で表示されているのに対し、「中国系」は位置情報のみならず、星の明るさ(等級)の違いに関する情報が表現されていることです。そして問題の星形は、ここで登場するのです。

(中村・荻原の上掲論文(p.102)より転載。等級差の表示記号を両氏は「星等記号」と呼んでいます)

江戸の古星図に関して、私の目にはこれまで「韓国系」だけが見えていて、「中国系」の存在が欠落していた…というのが私の敗因なのでした。しかし、「中国系」の星図は、決して孤立例・散発例などではありません。上記論文はその作例として、高橋景保の『星座の図』(享和2年(1802))や、伊能忠誨(ただのり)の『恒星全図』、『赤道北恒星図』、『赤道南恒星圖』のような肉筆作品、さらには石坂常堅の『方円星図』(文政9(1826))や、足立信順の『中星儀』(文政7年(1824))(※)のような版本も挙げています。

この論文を読んで学んだことを、自分の関心に沿って整理すれば

① 江戸時代も後期に入ると、確かに『星形の星』が存在した
② その起源は、中国経由でもたらされた西洋由来の星の等級記号らしい
③ それは孤立例・散発例ではなく、一定の広がりをもって使用されており、もっぱらプロユースの星図上において使われた

…ということになろうかと思います。

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「江戸の星形」に関して残された問題は、この「星形の星」が江戸時代の人にどれだけのリアリティをもって受け止められたか、つまり星の等級を識別するための、便宜的な記号という以上に、「なるほど、星を虚心に眺めれば、小円よりも、こういうトゲトゲした形の方が実際に近いよなあ…」と思ったかどうかです。

まあ、本当のことは、タイムマシンで当時の人に聞かないと分からないのですが、こういう「星形の星」が星図の世界を飛び出して、たとえば歌川広景の「江戸名所道戯尽三十六 浅草駒形堂」【参考LINK/リンク先ページの作例⑤】や、歌川国貞の「日月星昼夜織分」【天牛書店さんの商品ページにリンク】のような浮世絵にも顔を出しているところを見ると、ある程度の――全幅のとは言いませんが――リアリティを喚起したんじゃないかなあ…と想像します。


(※)中星儀については、以下に図入りで詳細な解説があります

江戸の星形を追う2024年11月07日 05時29分46秒

うーむ、トランプ氏か…。世の中の真理は昔から「曰く、不可解」と決まっていて、そう呟きながら華厳の滝へ身を投げる人が後を絶ちませんが、今回もその思いを新たにしました。まこと人の心は予測が難しいです。

楳図かずおさんも亡くなってしまったし、何だかこんなことを書いていても実りがない気もしますけれど、しかし今は書くことが即ち前に進むことだ…と信じるしかありません。

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忘れないうちにメモ。
昨年7月、日本で星を星形(★)で描くようになったのはいつからか?ということを話題にしました。

■星形の話(前編)…晴明判と陸軍星
■星形の話(後編)…放射する光

それはおそらくは近代以降のことで、近世以前は、「日本の星の絵は円(circle)や小円(dot)ばかりで、光条を伴う作例は未だ見たことがありません」と、自分は<後編>で書きました。

確かに上の記事を書いたときは、その例を見たことがなかったのですが、先日、天文方の彗星観測の話題を書いたとき、大崎正次氏の『近世日本天文史料』をパラパラやっていて、次のような図に出くわしました。


描かれているのは、まさに先日話題にしたのと同じ「1811年(文化8年)の大彗星」ですが、注目すべきはその脇の「太陽守」(おおぐま座χ星)と北斗の一部である「天枢、天旋、天璣、天権、玉衡」で、いずれも見事な星形(+光条)をしています。

「これだ!これこそ江戸時代に星形が使われた実例だ!」と心が踊りました。

しかし、心を落ち着けて、図の出典を確認してみます。
『近世日本天文史料』には、『三際図説 竝 寛宝以来実測図説』(さんさいずせつ ならびに かんぽういらいじっそくずせつ)という本が出典だとあります。この書名で検索すると、それが東北大学附属図書館の「狩野文庫」に写本の形で存在することが分かり、しかも画像がネットで公開されているので【LINK】、内容をすぐに確認できます。


たしかに、そこに出てくるのは、『近世日本天文史料』と同じ図です。でも、その隣にまったく同じ図が、こちらは星形でなく小円で描かれている…というあたりから、何だかわけが分からなくなってきます。ここに同じ図が2つ載っている理由も書かれていないし、一体何がどうなっているのか?


さらに、こちらは同書所収の「明和六年(1769)彗星図」です。


拡大すると、なんだか花びらのような不思議な星が描かれています。これも星形のバリエーションなのでしょうか?

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改めて考えると、この『三際図説』という本が、そもそもいつ成立したのか、本自体には年記がないので不明です。本の中には「三際集説」というタイトルの見開き2頁の文章が含まれていて、ここには寛延3年(1750)の日付けがあるのですが、


収録されている天体観測記録は、その後のものが大半であるのが不審です。

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国書データベース【LINK】には、

著者 渡部/将南(Watanabe Shounan)
国書所在 【写】東北大岡本,東北大狩野(寛政以来実測図説を付す),旧彰考(一冊)(陰陽離地算験考・測記と合),伊能家

とあって、本書は東北大に2冊、旧彰考館に1冊、伊能家蔵書に1冊、計4冊が、いずれも写本の形で伝わっていることが分かります。このうち書写年代が分かるのは、東北大学が所蔵する別の1冊、すなわち「岡本文庫(和算関係文庫の一部)」中の一本で、これは明治19年の書写と、だいぶ時代が下ったものです【LINK】。そして著者・渡部将南については、ネットで検索しても、関連書籍を見てもまったく不明。

この明治19年の写本も、上のリンク先で内容を見ることができますが、先の写本とは内容に異同があり、記述が享和元年(1801)の幻日図までで、文化8年の彗星図は集録されていません。でも、他の図を見ると、上の明和6年の彗星図はもちろん、


いちばん古い日付けである、寛保2年(1742)の彗星図でも、


立派な星形が描かれています。ただし近代に入ってからの書写なので、これが本来の表現なのか、写し手の作為なのか、にわかに判断できません。

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江戸時代にも「星形の星」はありそうだけれども、書誌の闇に紛れて、結局よく分らない…という次第で、ごちゃごちゃ書いたわりに、情報量の乏しい記事になりました。こういうのは写本研究者の方には、おなじみのシチュエーションなのかもしれませんが、素人にはわけの分からない世界で、まさに「不可解」です。

でも、こうして書いておけば、きっと今後の展開もあるでしょう。


【参考LINK】 東北大学附属図書館 主要特殊文庫紹介

江戸のコメットハンター(4)2024年10月23日 07時49分34秒

『聞集録』については、以下で詳細な考察が行われています。

■田中正弘 「『聞集録』の編者と幕末の情報網」
 「東京大学史料編纂所研究紀要」、10巻(2000)pp.59-86.

私は最初、この論文を読めば必ずや何か見えてくるであろう…と予想して記事を書き始めたのですが、彗星の件と結びつけることは難しそうなので、とりあえず分かったことだけ記します。例によって竜頭蛇尾、羊頭狗肉の類です。

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まず、この『聞集録』の編者ないし筆録者は、近江国の在地土豪の流れをくむ、六地蔵村(現栗東市六地蔵)の名望家、高岡九郎左衛門(諱は秀気、号は楳里)で、享和2年(1802)に生まれ、明治11年(1878)に数え年77歳で没した人です。

彼は豪農であり、同時に士分として川越藩・松平大和守家に召し抱えられ、同藩が近江に持っていた5千石の領地の差配をする小代官でもありました。

ただ、彼が近江の片田舎でずっと暮らしていたら、いくら名望家だ、小代官だといっても、幕末裏面史に触れるような数々の情報に接することは難しかったでしょう。しかし、彼の場合、約20年間、川越藩の京都藩邸に詰め、京都留守居役の下僚として働く機会がありました(その間、家のことは長男に任せていました)。

京都留守居役は、京都を舞台にした公武の政治折衝・儀典の現地責任者であり、その下で実務を担う高岡九郎左衛門には、同僚はもちろん、他家の家臣とも濃い付き合いがあり、その顔と交際範囲がものすごく広かった…というのが、彼の情報網を支えていたようです。

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今回、田中氏の上記論文を読んで驚いたのは、幕末の情報統制があまりにも「パーパー」だったことです。人の口に戸は立てられぬといいますが、当時は私的な情報交換が非常に盛んで、一人が得た情報は「廻状」を回すことで、仲間内ですぐ共有されましたし、しかも通信の秘密も何もなくて、遠隔地とやりとりする幕吏の書簡なんかでも、途中でそれを盗み見た誰かが、これは重要だと思えばパッと写し取って、それをまた親しい人にこっそり知らせる…なんてことがまかり通っていました。まさに漏れ放題ですね。

また公家の家臣の中には、複数の大名家から扶持をもらっている者もおり、田中氏はそれを「情報提供への報酬」と推測していますが、こうなると現代の情報屋、タレコミ屋です。

『聞集録』は、安政5年に老中が大小目付、勘定奉行、勘定吟味役に対して発した指示書を写し取っており、そこには、「外交上の機密情報は、相手がたとえ譜代大名であっても漏らしてはならぬ」と書かれています。そんな指示を出さねばならぬほど、情報漏洩が日常茶飯だったのでしょう。だからこそ、武士としてはごく小身の高岡九郎左衛門のところにも、機密情報がいくらでも漏れて来たわけです。(驚くべきことに、『聞集録』には、米国総領事・ハリスと幕府との間で行われた、日米通商条約締結の事前交渉の生々しいやりとりといった、最重要機密と思える情報まで詳細に記録されています。)

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ここで例の彗星の件に戻ります。

上のような次第とすれば、そもそもあの天文方の文書は、機密情報でもなんでもありませんから、どこでどう流出し、拡散しても不思議ではありません。ただし、『聞集録』の件に関していえば、高岡九郎左衛門が同時代情報の筆録を始めたのは、天保2年(1831)頃、さらに本格化したのは天保7年(1836)頃からなので、文化8年(1811)の彗星の記事は、リアルタイムの筆録ではありません(当時の九郎左衛門は。まだ数えで10歳に過ぎません)。実際に彗星が飛んでから30年ほど経て、どこかで入手した資料を写し取ったたもの…ということになります。

その情報源がどこかは不明というほかありませんが、京都に住む高岡の情報網に引っかかるぐらい、その情報が出回っていたのは確かです。

以下は一つのありうる仮説です。
彗星が飛んだ文化8年(1811)は、同時に天文方・高橋景保の提唱により、幕府の蘭書翻訳機関、「蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)」が設立された年でもあり、景保はその責任者でした。蛮書和解御用は、当然長崎通詞と仕事上のつながりがありました。そして、高岡九郎左衛門の情報源の一人に、京都在住の楢林某という者がおり、彼は長崎通詞・楢林氏の縁戚と思われ、しばしば長崎在住の知人と文通し、長崎通詞の生の情報を得ていたことを、田中氏は指摘しています。そうした関係から、楢林某の手元に過去の彗星観測記録が残されていたとしても不思議ではありません。まあ、他にいくらでも情報ルートはあり得るので、これはあくまでも仮説であり、憶測です。

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…というわけで、私の手元にある一枚の文書も、当時たびたび作成されたであろう写しの一枚ということになるのですが、出所が何も記されてないので、どこで誰が写したかは分かりません。ただ、その正確な作図や、几帳面な書字から、原本に非常に近い写しだろうと推測されるばかりです。

連載(1)より再掲)

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最後に、原文書の作成者・報告者である、「天文方三名」とは誰かを確認しておきます。

渡辺敏夫氏の『日本の暦』(雄山閣、1976)には、天文方各家の事績を整理した編年年表が載っています(pp.33—48)。それによると、天文方を務めた家は、江戸時代を通じて8家を数え、渋川、猪飼、山路、西川、吉田、奥村、高橋、足立の各家がそれに当たります。そのうち文化8年当時の天文方は、渋川景佑(9代目)、山路諧孝(3代目)、吉田秀賢(3代目)、高橋景保(2代目)、足立信頭(初代)の5人(数字は天文方としての当家代数)です。このうち、渋川景佑は高橋家から渋川家に養子に入った人で、高橋景保の実弟。

「天文方三名」とは、これら5人のうちの誰かということになりますが、渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史』の702~708頁を参照すると、この彗星を実際に連測して、経路を決定したのは足立信頭(左内)なので、彼の名は確実にあったでしょう。また職責上、高橋景保と渋川景佑のどちらかは連署していたと思います。

【2024.10.24付記】 自信満々に書きましたが、これは私の勘違いでした。文化8年当時、足立信頭はまだ正式な天文方ではなく、高橋景保の手附として「暦作及観測御用手伝」の任にあったので、天文方として連署することはなかったはずです(天文方に任命されたのは、だいぶ時代が下った天保6年(1835)のことです)。したがって「文化8年当時の天文方」も足立家を除く4家が正しいことになります。以上訂正します。コメント欄でご教示いただいたS.Uさんに感謝いたします。【付記ここまで】

(渡辺敏夫 『近世日本天文学史』 p.704所載、「文化8年の彗星の経路(足立左内測並図)」)

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冒頭で述懐したように、ひどく竜頭蛇尾な結果に終わり、コメットもコメットハンターのこともほとんど登場しませんでしたが、当時の世相の一面を学んだことで個人的には良しとしたいと思います。

(この項おわり)

江戸のコメットハンター(3)2024年10月19日 17時35分31秒

前回のつづきを書くつもりでしたが、ちょっと話が脱線します。

そもそも『近世日本天文史料』という書物はどのようにして生まれたか?
前述のとおり、この本は大崎正次氏(1912-1996)の編纂によって1994年に出たものですが、そこにはさらにその「原本」ともいうべき稿本がありました。

その間の事情は、同書冒頭の「本書の成立と内容」に書かれています(引用にあたり漢数字の一部を算用数字に改めました)。

 「本書成立の第一歩は旧稿の発見からはじまった。旧稿とは、神田先生〔※引用者註:江戸時代以前の天文古記録を集めた『日本天文史料』(1935)の編者、神田茂博士(1894-1974)〕が亡くなられた数年後、先生の遺書の整理売却が一応終わったあと、先生の遺書の一括整理をまかされた古書店主児玉明人氏の倉庫にあった段ボールの数箱に、反故同様につめられた残品の中から、私が発見して買い求めた古ぼけた書き抜き原稿用紙(200字詰)約一千枚のことである。1983年6月のことであった。それは1601年以後の近世天文史料の書き抜き原稿の一束だった。」


なかなかドラマチックな話ですね。

上の一文の続きを読むと、この旧稿は、神田博士自身の収集になる部分も当然あったのでしょうけれど、当初から神田博士の仕事を手伝っておられた、他ならぬ大崎氏自身の手になる部分が多かったように読めます。結局、大崎氏はご自身の成果を、神田氏の遺稿から“再発見”されたのではないでしょうか(大崎氏の書きぶりには、ちょっと曖昧な部分もありますが)。

そしてこれを核として、さらに大崎氏や大谷光男氏らの関係者が、新史料の収集増補を続け、結果的に旧稿の2倍余りのボリュームになったものが、『近世日本天文史料』として上梓されることになったのです。

   ★

今回私が改めて疑問に思ったのは、「幕府天文方による公式記録類は、今どこにあるのか?」ということです。

もし、その記録類が一括して江戸城に保管され、明治新政府に引き継がれ、今は国立天文台や国会図書館が所蔵しているのだとしたら、それを参照すればよいわけです。しかし、こんなふうに苦労して史料収集をしなければならないということは、すなわち現実はそうなっていないことを意味し、結局、原史料は失われてしまったということです。

たしかに、江戸幕府から新政府の手に渡った史料もあります。
幕府の「御文庫」に蔵された貴重な蔵書類は、新政府に引き継がれ、現在は内閣府が保管しています(紅葉山文庫旧蔵書)。また町奉行所関係の記録類は、東京府庁に引き継がれ、現在は国会図書館に収められています(旧幕引継書)。寺社奉行・評定所関係の書類は、いったん東京帝大に収まったものの、関東大震災で焼失してしまいました。

しかしそうした例外を除き、多くの行政文書は、明治維新の折に廃棄(一部は意図的に焼却)あるいは散逸してしまい、天文方の記録類もその一部だったのでしょう。

渡辺敏夫氏『近世日本天文学史(下)』を見ると、485頁に「浅草天文台の終末」という一節があって、この天文方の観測拠点が、明治維新後にどういう運命をたどったか書かれています。それによれば、天文台の建物や器械類は、明治2年の段階でいったん東京府の管理下に入ったものの、結局「新しい天文台を建てるにしても、今の土地は不適当だから」という理由で取り壊しが決まり、器械類の方は、東大の前身である開成学校が引き渡しを願い出て、それが許可され…ということまでは文書で分かるのですが、その後の消息は不明だそうです(※1)。仮に天文台に記録類が当時残されていたとしても、おそらく同じ運命をたどったはずです。

残る希望は、天文方関係者の家に残された家蔵文書類ですが、幕府の役人の自宅は要するに「官舎」ですから、幕府がなくなればすぐに立ち退かねばならず、明日の生活も見えない中、転居の際に不要不急の文書がどうなったかは想像に難くありません。おそらく多くは反故紙として、二束三文で下げ渡されたのではないでしょうか。

そんなわけで、江戸の天文記録の跡をたどるのは大変な仕事です。

今、国立天文台の貴重資料展示室に収まっている資料類も、その主体は平山清次、早乙女清房、小川清彦、その他の各氏が多年にわたって収集し、寄贈した古書・古文書類です。各地の博物館・図書館にまとまって存在するものも、同様の経緯でコレクションに加わったものが多いと思います(東北大学狩野文庫や、大阪歴史博物館所蔵の羽間文庫(※2)等)。

何だか知ったかぶりして書いていますが、こういう基本的なことも、私は今まで知らなかったことを、こっそり告白しておきます。

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さて、そうした片々とした史料のひとつが、東大資料編纂所にある『聞集録』です。
これは近江の名望家であり、川越藩の近江分領の差配に関わった高岡家の当主が、方々で入手した情報を書き留めた「風説留」と呼ばれる性格の史料で、維新後に高岡家から明治新政府に全108冊が献納され、それが今東大にあるわけです。

(次回、話をもとに戻して続く)

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(※1)浅草天文台の払い下げ入札と、それに開成学校が待ったをかけた一件について、東京都公文書館のFacebookページに記述がありました。
■  【浅草元天文台の管理】2018年2月18日

(※2)羽間文庫の伝来については下記を参照。
井上智勝 「羽間文庫の高橋至時関係資料」
 「天文月報」第98巻第6号(2005年6月)pp.384-390

江戸のコメットハンター(1)2024年10月14日 11時16分16秒

紫金山・アトラス彗星の話題で、一般向けメディアも賑わっています。やっぱり彗星は人気者ですね。まあ、これは彗星の正体がわかって、この「宇宙の旅人」を歓迎するムードが高まってからのことで、それ以前はもっぱら不気味で不安を掻き立てる存在だったことは、洋の東西を問いません。

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日本で彗星に対する科学的関心が生まれたのは江戸時代中期、宝暦年間(1751~63)以降のことで、この頃から幕府天文方による正確な位置観測に向けての努力が始まった…と渡辺敏夫氏の『近世日本天文学史』には書かれています(p.692)。

もっとも天文方の本務は暦の作成でしたから、彗星観測はいわば余技で、それでも結構なエネルギーを注いだのは、彗星のようなぼんやりした対象の位置を正確に決定することは、非常にチャレンジングなことであり、彼らの研究者魂や技術者魂を強く刺激したからでしょう。

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そんな「江戸のコメットハンター」にちなむ品を手にしました。


浅草天文台を観測拠点として活動した、幕府天文方による彗星発見の第一報である「御届書付」です。天文方は若年寄の直属だったので、直接には若年寄に対して差し出したものでしょう。


美濃判サイズの和紙(実寸は28×38.5cm)に、細筆を使って丁寧に書かれています。図中の直線は、おそらく墨糸を打ったものでしょう。字体と紙質から、江戸期の文書と見て間違いないと思いますが、もちろん現物は若年寄に提出してしまったので、これはその写しということになります。

現物では彗星の位置は別紙に描かれていたようですが。ここでは同じ一枚にまとめて描かれています。また現物では、末尾に報告者である天文方3名の署名があったはずですが、写しでは単に「天文方三名」となっています。


ただ、写しにしても、ここまで丁寧に書かれているのは、「写しの写しのそのまた写し」とかではなく、現物を直接脇に置いて書いたものではなかろうかと、もちろん正解は分からないですが、今のところそんなふうに考えています。したがって天文方自身、あるいはその周辺の者が、控えとして作成したもの…という可能性もなくはありません。


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この文書が報じている彗星は、大崎正次氏が編纂した『近世日本天文史料』(原書房、1994)を見たらすぐに分かりましたが、この文書の素性に関しては、他にもいろいろ考えるべき点があるので、地味な話題ですが、のんびり筆を進めます。

(この項つづく)

天文学者のライブラリ2024年01月16日 05時40分19秒

忘れないうちにメモ。
一昨日の記事を書いてから、思い立って天文古玩のリアルな書斎のイメージを探しているときに、以下の本が目に留まりました。


■Karen Masters 
 The Astronomers’ Library:The Books that Unlocked the Mysteries
  of the Universe.
 Ivy Press (The Quarto Group)、2024(4月予定)、272p.

書物を通して天文学史を俯瞰したヴィジュアル本…というと、先年開催された「天文学と印刷」展過去記事にLINK】の図録を思い出しますが、こちらは時代も国もさらに広く採り上げているようです。

版元の説明によれば、

「過去800年にわたる最高の天文学書のコレクションを存分にお楽しみください。『天文学者のライブラリ』は、ヨーロッパ全土にまたがる天文学(および占星術) の書籍発行に関する充実した歴史書です。本書はドイツ、フランス、イタリア、オランダ、スペイン、英国など、ヨーロッパ大陸中の出版物を厳選して収め、また当然のことながら、占星術の本家本元である中東にも焦点を当て、ペルシャの本を複数採り上げています。」

…とのことで、これは相当期待が持てます。

構成は、「星図(Star Atlas)」、「異世界の地図を作る(Mapping other Worlds)」、「天文学と文化(Astronomy and Culture)」、「宇宙モデルの発展(Developping our Model of the Universe)」、「天文学の大衆化(Astronomy for Everyone)」、「現代の天文学(Modern Astronomy)」の全6章。

来たる4月刊行予定なので、まだしばらくはお預けですが、眺めるだけでも楽しそうだし、今後の購書の参考になる部分もきっとあるでしょう。アメリカのAmazonではすでに予約受付が始まっていましたが、日本のAmazonではまだデータベースに未登録なので、もう少し待ってから発注する予定です。なお、電子書籍も用意されていますが(こちらもリリース前です)、個人的には当然紙の本で眺めたいところ。

衝撃の出会い…松村巧氏のこと2023年12月30日 10時31分37秒

来年の1月で、「天文古玩」が始まって早18年になります。
この間、天文アンティークの周りを常にウロウロし、それにまつわる話を見聞きしてきたわけですから、「見るべきほどのことは見つ」…とまでは言わないにしろ、何となく心のうちに既視感が広がっていたのも事実です。要は新鮮な「驚き」が薄れつつあったわけです。

しかし、そんな薄ら生意気な感想が見事に打ち砕かれ、驚愕の大波に呑み込まれる日がやってきました。それは「日本の古本屋」で、たまたま1冊の本を見つけたからです。

■松村 巧(著) 『日本天文名所旧跡案内』
 私家版、1982.(B6判・126頁)

天文名所旧跡とは何か? 試みに本書の「もくじ」冒頭を掲げます。


天文に関わる名所旧跡は、かくのごとく多様です。
「第1章 天文遺跡・古い天文機器・天文台跡・隕石落下地・新星発見地・時・報時・天文関係旧跡」では、こんなふうに沖縄から北海道まで、天文に関連する<場所>と<物>が、都道府県別にガイドされています(ただし、全県を網羅しているわけではありません。また著者の編集方針により、活動中の天文台やプラネタリウムは省かれています)。この第1章(全71頁)が、本書のいわば肝の部分。

つづく「第2章 日食観測」では、戦前の日本で観測された皆既・金環食のゆかりの地とエピソードが紹介され、「第3章 測量基線」では、明治の国家事業として測量が実施された際、各地に設定された測量基線と三角点を考証するという、相当渋い内容になっています。

さらに、「第4章 未調査の天文名所旧跡」では「田上隕石について」はじめ7項目を採り上げ、最後の「第5章 天文名所旧跡案内第一集で紹介した主な天文名所旧跡」では、沖縄の「星見石」等、前著『天文名所旧跡案内』(1981)から主要58項目を再録しています。まさに至れり尽くせり。

私が言うのも僭越ですが、本書は大変な熱意に裏打ちされた、緻密な調査の賜物に相違なく、本を前にして、私は思わず居ずまいを正しました。そして、著者・松村巧氏のお仕事をもっと知りたいと思い、いろいろ探しているうちに、地元の図書館に以下の著作が収蔵されているのを知りました。

■松村 巧(著) 『近代日本雑学天文史』
 私家版、1991.(B6判・164頁)

私家版ゆえか、こちらは古書市場でも見つからなかったので、頑張ってコピー本をこしらえました。

(『雑学天文史』は片面コピーなので、原著の倍の厚みになっています)

こちらも「もくじ」の一部をサンプルとして掲げます。


この2冊を手にして、何だか急に自分が物知りになったような気がします。
それにしても、松村氏のお名前と業績を、なぜ今まで知らずにいたのか。そのことを大いに恥じ、且つ残念に思いますけれど、遅ればせながらその学恩に浴し得たことを、それ以上に嬉しく思います。本当に出会いというのは大切ですね。

松村氏の著作は、斉田博氏や佐藤利男氏らによる「天文史話」の発掘と紹介に連なるお仕事だと思いますが、こういうのは天文学や歴史学の専門家があまり手掛けない領域で、まさにアマチュアにとってのブルーオーシャン。私自身、大いに勇気づけられる思いがしました。

悲運の人、レピシエからの便り(後編)2023年11月29日 18時26分07秒

(前回の続き)


近代日本天文学の一番槍、エミール・レピシエ
その人の自筆書簡をイギリスの古書店で見つけました(もちろんネットカタログ上でのことで、それも狙ったわけではなく偶然です)。

(紙片の大きさは約11.5×13cm)

上がその全容。書簡といっても紙片に走り書きしたメモ程度のもので、日付も署名もありません。あるいはこれはもっと長文の手紙の一部を切り取ったもので、日付と署名は別の箇所に書かれていたかもしれません(その可能性は高いです)。


無署名なのに、なぜレピシエの手紙と分かるかといえば、右下に別筆で「astronome Lépissier de l'observatoire de Pékin(北京天文台の天文学者レピシエ)G.R.」と書かれているからです。この手紙の受取人、ないしは受取人から譲り受けた「G.R.」なる人物が、備忘として余白に書き残したのでしょう。ただし、レピシエが北京天文台に在籍したという記録はないので、これは事実誤認です。

肝心の本文は、幸い件の古書店主氏によってすでに読み解かれていました。

 「Si vous le jugez plus commode, Vous pouviez remettre les objets que je vous demande à Madame Coeuille, lingère au marché Papincourt, demeurant Petite rue Papincourt, No. 10, avec prière de me les fair parvenir à ma nouvelle adresse, à Shanghai, car nous avons du, pour cause de frénrité, quitter Pékin après le massacre de Tientjin.」

意味の判然としないところもありますが、Googleの力を借りると、およそ以下のような意味でしょう。

 「もしそのほうが好都合なら、私が頼んだ品々をパパンクール市場でリネン婦をしている、パパンクール小路10番地在住のクイユ夫人に託して、上海の私の新しい住所あて送ってもらうようお願いしていただいても結構です。何しろ天津での大虐殺の後、私たちは友愛会の関係で、北京を離れる必要があったものですから。」

どうやらまだ中国にいた頃、1870年に北京から上海に移った直後に、パリの知人に宛てて送った手紙のようです。

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レピシエの体温と息遣いを、このインクの染みの向こうに感じ、彼の苦労の一端を偲ぶだけでも、この書簡には大いなる価値があると思いますが、ここには新たな事実も顔を覗かせています。それは末尾の一文です。レピシエは「Tientjin」と綴っていますが、これは普通に考えて「天津」でしょう(現代フランス語では「Tianjin」と綴るそうです)。

ここでいう「天津での大虐殺」とはいったい何か?
いろいろ調べると、1870年に天津で起こった「天津教案」という事件がそれのようです(ウィキペディアの該当項目にLINK)。

なんでもこの年、天津では幼児失踪事件が相次ぎ、加うるに市中で疫病までもが流行りだし、教会が経営する孤児院でも3~40人の子供が病死する事態になりました。民衆の間から、「孤児院の修道女が子供を殺して薬の材料にしている」という噂が広まった結果、数千の群衆が教会を取り囲み、フランス領事の発砲をきっかけに、憤激した民衆がフランス領事と秘書、10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の中国人信者を殺害し、果てはフランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちするという大惨事になりました。さらにこのニュースが伝わるや、各地でキリスト教徒と非キリスト教徒の衝突が頻発するようになった…という事件です。

(焼き払われた天津の教会(望海楼)。出典:平頭阿銘(筆)「天津教案謎中謎―看曽国藩是怎様身敗名裂的」 https://zhuanlan.zhihu.com/p/44288377

前編で挙げた中村・デバルバ氏の論文は、「当初のレピシエの熱意は次第に失望へと変わり,やがて,北京はもはやとどまるべき地ではないと感じるようになった」、「1870年2月には,家族を養うために上海に移った」と記し、レピシエの上海移住の理由として、北京同文館での不遇を挙げています。もちろんそれも大きな理由でしょうが、この手紙からは、この「中国版・攘夷運動」の高まりによって、具体的に身の危険を感じたから…という理由もあったように読めます(北京と天津はいわば隣町ですから、影響は大きかったはずです)。

また天津教案は1870年6月の事件なので、実際には中村氏らが説くように1870年2月にぱっと転居したわけではなく、職探しや家探しやらで右往左往しているうちに、天津で例の事件が起こり、いよいよ上海へ…という流れではなかったかなあと想像します。

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まあ瑣末といえば瑣末ですが、小なりとはいえ新資料であり新事実ですから、レピシエ顕彰の一環として記しました。そして耳をすませば、この小さな紙片の向こうから、大きくうねる歴史の濤声も聞こえてくるような気がします。

悲運の人、レピシエからの便り(前編)2023年11月28日 19時58分49秒

なんぼ酔狂な私でも、”天文古玩”と称してマッチラベルばかり集めているわけではありません。天文学史の王道といえる品を手にして、しばし思いを凝らすこともあります。

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エミール・ レピシエ(Emile-Jean Lépissier、1826-1874)という人がいます。
一般には無名の人といっていいでしょう。でも、日本の天文学の歴史においては、きわめて重要な位置を占めています。何しろ江戸から明治に替わったばかりの日本にやってきて、開成学校(東大の前身)で天文学を講じた最初の先生がレピシエであり、明治政府に近代的天文台の建設を進言したのもまた彼だったからです。後代への影響を考えると、彼を「近代日本天文学の父」と呼ぶのは言い過ぎかもしれませんが、確かに「近代日本天文学の一番槍」ではあったのです。

(曜斉国輝画 『東京第一大学区開成学校開業式之図』 明治6年。
出典:国立教育政策研究所 教育図書館 貴重資料デジタルコレクションより)

とはいえ、レピシエの在日期間は1872年(明治4)から74年(明治7)までの2年余りに過ぎません。そしてその生涯と業績については、ごく最近まで謎に包まれていた…ということが、以下の論文に詳述されています。端的に言うと、その没年すら分かっていなかったのです。

中村 士、シュザンヌ・デバルバ
 悲運のお雇い外国人天文学者エミール・レピシエ(1826-1874)
 『天文月報』 2016年11月
上記論文はそのままレピシエの伝記にもなっているので、ぜひご一読いただきたいですが、以下、かいつまんで書きます。

○パリ時代
彼はパリ大学で文学を修めた後、1854年、畑違いのパリ天文台に就職。それを手引したのは台長のルヴェリエですが、ルヴェリエは相当なパワハラ気質の人で、レピシエも彼の横暴に散々泣かされた挙げ句、1865年、一方的に解雇されてしまいます。

○中国へ
その後、1867年、伝手があって北京の同文館(北京大学の前身)のフランス語教師の職を得て、中国に渡ります(日本でちょうど大政奉還と王政復古のあった年です)。レピシエは中国でも熱心に天体観測を行い、学術誌に報文を送ったりしていますが、これが同文館校長の意に沿わず(校長はフランス語教師の職務に専念しないなら解雇するぞと脅してきました)、やる気を削がれたレピシエは1870年に北京を離れ、上海でフランス語新聞の発行という、まったくの新事業に乗り出します。しかし、これもほどなく倒産。

○日本での教師生活と死
さらなる活路を求めて1872年、彼は横浜に上陸し、まもなく正式に明治政府の「お雇い外国人」の一人となった…というのが、彼の前半生です。でも、彼に「後半生」と呼べるものは、もはやほとんど残されていませんでした。前述のとおり、彼は草創期の日本の大学で、代数学、幾何学、そして天文学などを講じたのですが、早くも1874年には未知の病で教壇を降りることを余儀なくされたからです。おそらく治療目的のためにフランスに帰国したものの、薬石効なく同年没。

中村・デバルバ両氏の論文は「悲運のお雇い外国人」と題されていますが、こうして見ると、まさに彼は悲運に泣かされ続けた人という印象が濃いです。

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ここまでが話の前置きです。
この悲運の偉人の手紙を見つけた…というのが今回のテーマですが、長くなるので手紙の中身については後編に回します。

(この項つづく)

大地は亀の背に乗って2023年11月13日 05時46分41秒

余談の余談になりますが、「古代インドの宇宙観では、象が大地を支え、それを亀が支え…」というと、「ああ、あれはどうも嘘らしいよ」と思われる方が一定数おられると思います。ここで嘘というのは、「大地が象や亀に支えられている」のが嘘というだけでなく、「古代インド人がそう思っていた」のも嘘、という意味です。

手元でググると、「こだいいんどのう…」辺りで、「古代インドの宇宙観 嘘」という予測変換がパッと出てきます。そして、「まじかよ」とか、「良かった!誤った古代インドの世界観なんてなかったんだね!」というツイートを載せた<まとめサイト>に誘導されます。

この話の元は、天文学史家の廣瀬匠氏が2012年、第26回天文教育研究会で行った、「誤解だらけの天文学史~『古代インドの宇宙観』を例に」という発表で、その立論があまりにも鮮やかだったため、一寸薬が効きすぎて、こんどは「あれはみんな嘘だ」と思う人が出てきたのでしょう。

でも、それは廣瀬氏の所論の一知半解に基づく完全な誤解です。
氏が問題にしたのは、“古代インドの宇宙観“として長年世間に流布してきた下のようなイメージで、「象、亀、蛇の3点セットが、こういう形でインドの史資料に現れることはない」という事実を指摘されたのでした。

(Niklas Müller著『Glauben, Wissen und Kunst der alten Hindus(古代ヒンズー教徒の信仰、知識、芸術)』(1822)の付図より) 

2012年の原論文は残念ながら未見ですが、その後に出た氏の『天文の世界史』(インターナショナル新書、2017)から、該当箇所を引かせていただきます(〔 〕内は引用者)。

 「しかしながら、インドの文献にこのような宇宙観〔=丸い大地が象に支えられ、それが亀に支えられ、それがさらに蛇に支えられている〕の描写は存在しません。〔…〕ヒンドゥー教の見解では〔…〕大地が何に支えられているかについてはテキストによって描写がまちまちです。四頭あるいは八頭の象が支えているとする文献もあれば、一匹の大蛇が支えているとする文献もありますし、そもそも全く動物が登場しない文献も存在します。亀が大地を恒常的に支えているという記述はどこにも見当たらないのですが、ある目的で海に投じられていた須弥山を亀に化けた神が沈まないように支えた、というエピソードを含む神話はあります。〔改段落〕以上のような複数の伝承が混同されて一つの宇宙観にまとめられてしまったのではないか、というのが私の仮説です。」(p.243)

一読してお分かりの通り、廣瀬氏は大地を支える<象 or 亀 or 蛇>の伝承まで、全て否定されているわけではありません(というか肯定されています)。

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大地を支える動物(特に水棲動物)の観念は、汎世界的に見られるものらしく、英語版のWikipediaには「World Turtle(世界亀)」という項目があって、そこからさらにいろいろな項目――たとえば議論の無限後退を意味する「Turtles all the way down(ずっと下まで亀)という慣用句など――にリンクが張られています。

また、この分野の古典ともいえる岩田慶治・杉浦康平(編)『アジアの宇宙観』(講談社、1989)を参照すると、pp.326-347がそっくり「亀蛇と宇宙構造」の章に当てられていて(分担執筆者は伊藤清司氏)、この観念は中国はもちろん日本にも及んでいることが分かります。早い話、地震のナマズと要石の話にまで、この件はつながるそうですから、なかなかインドの人を笑うどころではないのです。

(『アジアの宇宙観』より)

(同カラー挿図18。キャプションは、「八頭の象に支えられた大地の上に、そびえたつメール山 須弥山。その下深くひろがる七層の地獄など、ヒンドゥー教的宇宙巨神の下部構造を描く。その体を支える竜・猪・亀・ガルーダ鳥たち。―インド細密画。18世紀。」

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それに――。
南瞻部洲(なんせんぶしゅう/インド亜大陸のこと)は、かつて人類が生まれるよりもずっと昔に、インドプレートの背に乗って、はるばる大海を越えてきたと聞きますし、各プレートは地殻に深い亀甲文様を刻んで、互いに相接しているわけですから、インドの人もまんざら間違っていたわけでもないかもしれんぞ…と思ったりもします。