彗星と飛行機と幻の祖国と2021年11月15日 21時28分05秒

…という題名の本を目にして、「あ、タルホ」と思いました。
でもそれは勘違いで、この本は稲垣足穂とは関係のない或る人物の伝記でした。
その人物とは、ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニク(1880-1919)


■ヤーン・ユリーチェク(著)、長與 進(訳)
 彗星と飛行機と幻の祖国と―ミラン・ラスチスラウ・シチェファーニクの生涯
 成文社、2015. 334頁

334頁とかなり束(つか)のある本ですが、本文は265頁で、あとの70頁は訳者あとがきと詳細な註と索引が占めています。

本の帯に書かれた文句は、

「天文学者として世界中を訪れ 第一次大戦時には勇敢なパイロット
そして、献身的にチェコスロヴァキア建国運動に携わった、
スロヴァキアの「ナショナル・ヒーロー」の生涯」。

シチェファーニクのことは、5年前にも一度取り上げたことがあります。
過去の記事では「シュテファーニク」と書きましたが、上掲書に従い以下「シチェファーニク」と呼びます。

飛行機乗りと天文台

(シチェファーニクの肖像。上記記事で引用した画像の再掲)

天文学者で、飛行機乗りで、チェコスロヴァキア独立運動を率いた国民的ヒーローで…と聞くと、何だかスーパーマン的な人を想像します。たしかに彼は、才能と情熱に満ち、人間的魅力に富んだ人でしたが、詳細な伝記を読むと、彼が単なる冒険活劇の主人公ではなく、もっと陰影に富む人物だったことがよくわかります。

たとえば、彼はその肖像から想像されるような、鋼の肉体を持った人ではなくて、むしろ病弱な人でした。彼は重い胃潰瘍を患っており、それを押して研究活動と祖国独立運動にのめり込んでいたので、晩年はほとんどフラフラの状態でした。

(シチェファーニクの足跡・ヨーロッパ編)

(同・世界編)

本書の巻頭には折り込み地図が付いていて、シチェファーニクの生涯にわたる足跡が朱線で書かれています。その多くは独立運動のために東奔西走した跡であり、また少なからぬ部分が観測遠征の旅の跡です。病弱だったにもかかわらず、彼は実によく動きました。肉体はともかく、その精神はたしかに鋼でした。

彼は死の前年、1918年には日本にも来て、4週間滞在しています。そればかりでなく、原敬首相を始めとする時の要人に会い、大正天皇にも謁見しています。日本のシベリア出兵を促すためです。

シチェファーニクの独立へのシナリオは、第1次大戦で英・仏・露の「三国協商」に肩入れして、チェコ人とスロヴァキア人を支配してきたドイツとオーストリアを打ち破り、列国によるチェコスロヴァキアの独立承認を勝ち取ることでした。

ただし、ロシアでは革命で帝政が倒れた後、左派のボリシェビキと右派諸勢力の抗争が勃発し、在露同胞により組織されたチェコスロヴァキア国民軍とボリシェビキが対立する事態となったため、ボリシェビキを牽制するために、日本の力を借りる必要がある…と、シチェファーニクは判断したわけです。(そのため第二次大戦後、チェコスロヴァキアがソ連の衛星国だった時代には、シチェファーニクについて語ることがタブー視された時期があります。)

当時の複雑怪奇な欧州情勢の中で、シチェファーニクの情熱と言葉がいかに人々の心を動かしたか、その人間ドラマと政治ドラマが本書の肝です。そして、もちろん天文学への貢献についても十分紙幅を割いています。

   ★

1919年5月4日、彼が乗ったカプローニ450型機はイタリアを飛び立ち、故国スロヴァキアに着地する寸前で墜落し、彼は劇的な最期を遂げました。「カプローニ機は整備不良で事故が心配だから、鉄道で帰国してはどうか」と周囲はいさめたのですが、「自分はオーストリアの土地を踏みたくない」という理由で、強引に搭乗した末の悲劇でした。

(墜落事故の現場。本書より)

そして彼の遺骸から発見された、愛する女性への手紙を引用して本書は終わっています。

   ★

最後に蛇足ですが、チェコスロヴァキア建国運動の歴史的背景を、簡単に述べておきます(私もよく分かっていませんでした)。

チェコ人もスロヴァキア人も同じスラブ系の民族であり、チェコ語とスロヴァキア語は互いに方言程度の違いしかないそうですが、両民族のたどった歴史はだいぶ違います。すなわち、ドイツ人を支配層に戴きながらも、ボヘミア王国として独立の地位を長く保ち、近世になってからハプスブルク家の統治下に入ったチェコに対して、スロヴァキアは11世紀以降マジャール人(ハンガリー王国)にずっと支配されたまま、自らの国家を持ちませんでした。

それが19世紀になると、民族意識の高揚により、チェコ人とスロヴァキア人の同胞意識が芽生え、ドイツへの対抗意識が生まれ、オーストリア=ハンガリー二重帝国からの独立運動が熱を帯び、ついには「チェコスロヴァキア」という新たなスラブ国家創設へと結びついたのです。

その中心にいたのがシチェファーニクであり、彼はほとんど徒手空拳で中欧の歴史を書き換えた傑物です。

季節外れの七夕のはなし(おまけ)2021年11月07日 11時49分34秒

現代日本の七夕のありようは、江戸時代のそれとは違うし、江戸時代のそれは室町時代のそれとも違います。

同様に七夕の本場・中国でも、やっぱり内的変化はあって、現代の中国で標準的に受容されている七夕説話の背後にも、各時代を通じて施された彫琢がいろいろあることでしょう。いずれにしても、日本の我々が親しんでいる七夕説話とは、いろいろ違う点が生じており、その違いが面白いと思ったので、内容を一瞥しておきます。

   ★

中国で2010年に発行された「民間伝説―牛郎織女」という4枚セットの記念切手があります。


4枚というのは、七夕伝説を起承転結にまとめたのでしょう。ストーリーの全体は、チャイナネットの「牽牛織女の物語」【LINK】に詳しいので、そちらを参照してください。


まず1枚目。タイトルは「盗衣結縁」
設定として、牽牛(牛郎)は元から天界の住人だったのではありません。元は貧しい普通の男性で、相棒の老牛とつましく暮らしていました。一方、織女は天帝の娘、天女です。その二人が結ばれた理由は、日本の羽衣伝説と同じです。中国版が日本と少しく異なるのは、老牛の扱いの大きさで、「天女と結婚したいなら、天衣を奪え」と教えたのも老牛だし、話の後半でもヒーロー的な活躍をしますが、七夕説話が牽牛と老牛の一種の「バディもの」になっているのが面白い点です。

2枚目は「男耕女織」
日本の説話だと、結婚した二人が互いの職分を忘れてデレデレしていたため、天の神様が怒って、二人を銀河の東と西に別居させたことになっていますが、中国版だとふたりは結婚後もまじめに仕事に励み、子宝にも恵まれて幸せに暮らしていました。まずはメデタシメデタシ。


3枚目は「担子追妻」
しかし、その幸せも長くは続きません。自分の娘が地上の男と結ばれたのを知って怒った天帝が、西王母を地上につかわし、娘を糾問するため天界に召喚したからです。妻との仲を裂かれて嘆き悲しむ牽牛に、老牛が告げます。「自分の角を折って船とし、あとを追いかけよ」と。言われるまま、牽牛は牛の角の船に乗り、愛児を天秤棒で担いで、天界へと妻を追いかけます。しかし、あと一息というところで、西王母が金のかんざしをサッと一振りすると、そこに荒れ狂う銀河が現れて、二人の間を再び隔ててしまいます。

4枚目、「鵲橋相会」
銀河のほとりで二人は嘆き悲しみますが、その愛情が変わることはありません。それに感動した鳳凰は、無数のカササギを呼び集めて銀河に橋をかけ、二人の再会を手助けします。それを見た西王母も、7月7日の一晩だけは、ふたりが会うことを認めざるを得ませんでしたとさ。とっぴんぱらりのぷう。

   ★

この話にしても、地上に残された老牛はどうなったのか、牛がいなければもはや「牽牛」とは言えないんじゃないか?とか、天帝のお裁きは結局どうなったのか、夫婦はそれで良いとしても、母子関係はどうなるのか?とか、いろいろ疑問が浮かびます。

説話というのは、そういう疑問や矛盾に答えるために細部が付加され、それがまた新たな疑問や矛盾を生み…ということを繰り返して発展していくのでしょう。

繰り返しになりますが、これが中国古来の一貫して変わらぬ七夕伝承というわけではありません。絶えず変化を続ける説話を、たまたま「今」という時点で切り取ったら、こういう姿になったということで、その点は日本も同じです。

フラマリオンの部屋を訪ねる(後編)2021年10月16日 17時24分57秒

フラマリオンの観測所にして居館でもあったジュヴィシー天文台は、これまで何度か古絵葉書を頼りに訪ねたことがあります。まあ、そんな回りくどいことをしなくても、グーグルマップに「カミーユ・フラマリオン天文台」と入力しさえすれば、その様子をただちに眺めることもできるんですが、そこにはフラマリオンの体温と時代の空気感が欠けています。絵葉書の良さはそこですね。


館に灯が入る頃、ジュヴィシーは最もジュヴィシーらしい表情を見せます。
フラマリオンはここで毎日「星の夜会」を繰り広げました。


少女がたたずむ昼間のジュヴィシー。人も建物も静かに眠っているように見えます。

(同上)

そして屋上にそびえるドームで星を見つめる‘城主’フラマリオン。
フラマリオンが、1730年に建ったこの屋敷を譲られて入居したのは1883年、41歳のときです。彼はそれを天文台に改装して、1925年に83歳で亡くなるまで、ここで執筆と研究を続けました。上の写真はまだ黒髪の壮年期の姿です。


門をくぐり、庭の方から眺めたジュヴィシー。
外向きのいかつい表情とは対照的な、穏やかな面持ちです。木々が葉を落とす季節でも、庭の温室では花が咲き、果実が実ったことでしょう。フラマリオンは天文学と並行して農業も研究していたので、庭はそのための場でもありました。

   ★

今日はさらに館の奥深く、フラマリオンの書斎に入ってみます。


この絵葉書は、いかにも1910年前後の石版絵葉書に見えますが、後に作られた復刻絵葉書です(そのためルーペで拡大すると網点が見えます)。


おそらく1956年にフラマリオンの記念切手が発行された際、そのマキシムカード【参考リンク】として制作されたのでしょう。


葉書の裏面。ここにもフラマリオンの横顔をかたどった記念の消印が押されています。パリ南郊、ジュヴィシーの町は「ジュヴィシー=シュロルジュ」が正式名称で、消印の局名もそのようになっています。
(さっきからジュヴィシー、ジュヴィシーと連呼していますが、天文台の正式名称は「カミーユ・フラマリオン天文台」で、ジュヴィシーはそれが立つ町の名です。)


書斎で過ごすフラマリオン夫妻。
夫であるフラマリオンはすっかり白髪となった晩年の姿です。フラマリオンは生涯に2度結婚しており、最初の妻シルヴィー(Sylvie Petiaux-Hugo Flammarion、1836-1919)と死別した後、天文学者としてジュヴィシーで働いていた才女、ガブリエル(Gabrielle Renaudot Flammarion、1877-1962)と再婚しました。上の写真に写っているのはガブリエルです。前妻シルヴィーは6歳年上の姉さん女房でしたが、新妻は一転して35歳年下です。男女の機微は傍からは窺い知れませんけれど、おそらく両者の間には男女の愛にとどまらない、人間的思慕の情と学問的友愛があったと想像します。


あのフラマリオンの書斎ですから、もっと天文天文しているかと思いきや、こうして眺めると、意外に普通の書斎ですね。できれば書棚に並ぶ本の背表紙を、1冊1冊眺めたいところですが、この写真では無理のようです。フラマリオンは関心の幅が広い人でしたから、きっと天文学書以外にも、いろいろな本が並んでいたことでしょう。


暖炉の上に置かれた鏡に映った景色。この部屋は四方を本で囲まれているようです。


雑然と積まれた紙束は、新聞、雑誌、論文抜き刷りの類でしょうか。

   ★

こういう環境で営まれた天文家の生活が、かつて確かに存在しました。
生活と趣味が混然となったライフタイル、そしてそれを思いのままに展開できる物理的・経済的環境はうらやましい限りです。フラマリオンは天文学の普及と組織のオーガナイズに才を発揮しましたが、客観的に見て天文学の進展に何か重要な貢献をしたかといえば疑問です。それでも彼の人生は並外れて幸福なものだったと思います。

なお、このフラマリオンの夢の城は、夫人のガブリエルが1962年に亡くなった際、彼女の遺志によってフランス天文学協会に遺贈され、現在は同協会の所有となっています。

コメント欄に冴える包丁技2021年10月09日 14時36分00秒

ブログのコメント欄というのは、一般に和やかな交流の場だと思いますが、「天文古玩」の場合はそれに加えて、記事の内容を実質的に補うものとして、ときとして記事本編より内容が濃くなることがあります。ひとえにコメントを寄せられた方のお力によるもので、ありがたく思います。

私自身が書くものは、ネットの生け簀ですくった情報をそのまま皿に盛った「シッタカ鰤の俄か仕込み」で、本来であれば人様にお出しできるような代物ではありません。一方、世の中には真に知識と見識にすぐれた方がいて、そういう方のお話に接すると、本当の板前仕事とはこういうものかと、思わず背筋が伸びます。


   ★

昨日、Haさんとtoshiさんから頂いたコメントも、まさにそうした思いを抱かせるものでした。この場を借りて重ねてお礼を申し上げます。

Haさんからのコメントは、10月4日付の記事で採り上げた、日本天文学会(編)『新撰恒星図』に関連して、明治から昭和にかけての星座和名の変遷と、その陰にあった人間臭いドラマを詳細に述べられたものです。

一方toshiさんのコメントでは、10月8日に登場した『日本中心 表半球図』について、この「日本中心」「表半球」という特異な用語のルーツをご教示いただきました。

こういう貴重な情報がコメント欄に埋没してしまうのは良くないと思い、記事として挙げておきます。

   ★

「それにしても…」と、冒頭の感慨に戻りますが、何事も先達はあらまほしく、常に師友は求むるべく、そして師父は仰ぐべきものです。

虚空の花…かに星雲2021年09月25日 13時57分20秒


(パロマーの巨人望遠鏡が捉えた、今ではちょっと懐かしい「かに星雲」のイメージ。

メシエ目録の栄えある1番、M1星雲である「かに星雲」。
「かに星雲」といえば『明月記』…そう刷り込まれていたので、私はずいぶん長いこと『明月記』の作者、藤原定家(1162-1241)が超新星爆発を夜空に見て、それを自分の日記に記したのだと思っていました。

もちろんそれは間違いで、「かに星雲」の元となった超新星の出現は1054年のことですから、定家とは時代が全然ちがいます。定家はたしかに空に新天体を見ましたが、彼が見たのは彗星で、それを日記に書く際、参考として約180年前の古記録を併せて記したのでした(1230年のことです)。

しかも以下の論考によると、『明月記』の該当箇所は定家の自筆ではなくて、「客星」(普段の空には見られない星)について、陰陽寮の安倍泰俊(晴明七代の裔)に問い合わせた折に、先方から受け取った返書を、そのまま日記に綴じ込んだものらしく、そうなると定家と「かに星雲」の関係は、さらに間接的なものということになります。

■白井 正 氏(京都学園大学)
 京都の天文学(4) 藤原定家は、なぜ超新星の記録を残したか
 星空ネットワーク会報「あすとろん」第5号(2009年1月1日)

   ★

1054年は和暦でいうと天喜2年で、後冷泉天皇の御宇にあたります。
この帝の乳母をつとめたのが、紫式部の娘、大弐三位(だいにのさんみ)だと聞けば、いかにも平安の代にふさわしい、「王朝」の薫香をそこに感じます。
その王朝の空に光を放ち、その後千年かけて宇宙にほころんだ花、それが「かに星雲」です。

   ★

その花をガラスに閉じ込めて、好きな角度から眺められるようにした品があります。



以前、土星や銀河の模型を紹介した、イギリスのCrystal Nebulae自社サイト)の今年の新作です。現在はEtsyにもショップを出しているので、購入もいっそう簡単になりました。

(LEDステージに載せたところ)

6センチ四方のガラスキューブに、レーザーで「かに星雲」が造形されています。
3Dモデルというと、今では3Dプリンターが幅を利かせていますが、こんなフラジャイルな構造はとてもプリント不可能でしょうし(そもそも不連続で離散的な表現はできません)、透明なガラスならではの魅力というのも、やはりあるわけです。


7200光年先に浮かぶ星雲の背後に回って、その後姿を眺める…なんてことも、これなら簡単。人間、神様にはなれないしにしろ、神様の気分を味わうことはできます。


差し渡し10光年の光塊を、手のひらに載せてクルクル回す喜び。
1000年前には公卿・公達でも味わえなかった愉悦でしょう。

   ★

7200光年先の爆発を、1000年前の人が目撃した…ということは、超新星爆発が起こったのは今から8200年前で、ようやく1000年前に、その光が地球人の目に飛び込んだわけです。そして、今我々が見ているのは、当然7200年前の星雲の姿です。

以下のサイトで、1950年から2100年までの150年間におよぶ膨張変化を、GIFアニメで見ることができます。「現在のかに星雲」、すなわち「7200年後に我々が目にするであろう、かに星雲」は、この調子でさらに大輪の花を咲かせていることでしょうね。

「ハリー・ポッターと魔法の歴史」展によせて(2)…天文学のこと2021年09月20日 09時14分40秒

昨日、部屋の中でゴキブリを見かけ、殺虫剤を噴きかけたものの、逃げられました。あれがまだ部屋の中にいるのかいないのか、死んだのか生きているのか、シュレディンガー的な状態で、ずっと落ち着きません。別にゴキブリが怖いわけではないんですが、ゴキブリは本でも標本でもかじるので、私の部屋では最大のペルソナ・ノン・グラータ、要注意人物です。ここしばらくは警戒が必要です。

   ★

ゴキブリの話がしたいわけではなくて、ハリー・ポッター展の話です。
図録を見ての感想を書きつけたいのですが、図録そのものをここに載せるのは幾分遠慮して、話の都合上、その展示構成だけ述べておくと、「天文学」の章に登場するのは以下の品々です。こういった品々で、ホグワーツでの天文学の授業を偲ぼうというわけです。

●12世紀の写本から採った「おおいぬ座」の図(※シリウス・ブラックにちなみます)
●太陽・月・地球の配置を描いた、レオナルド・ダ・ビンチの手稿(1506~8頃)
●アラビア製のアストロラーベ(1605~06)
●ケプラーが著した『ルドルフ星表』(1627)(※彼の母親は魔女として捕えられました)
●ドイツのドッペルマイヤーが作った天球儀(1728)
●愛らしい星座絵カード「ウラニアの鏡」(1834)
●ジェームズ・シモンズ作の見事な大太陽系儀(1842)

(チラシより)

この展示構成で気になるのは、「占星術」の話題がまったく出てこないことです。
この展覧会には「天文学」とは別に「占い学」の展示もあるのですが、占星術はそちらにも登場しないので、結局、占星術の話題はゼロです。天文学と占星術の歴史的関係からしても、またハリー・ポッターの世界観からしても、占星術を抜きに語るのは、ちょっと不自然な感じはあります。

(ただ、今の目から見ると占星術はいかにも魔法っぽいですが、近代以前はオーソライズされた学問体系として、むしろ公的な性格のものでしたから、怪しげな魔術師風情といっしょにしないでくれよ…と、昔の占星術師なら思ったかもしれません。)

   ★

考えてみると、ハリー・ポッターと天文学の話題は、相当微妙ですね。
魔法使いたち御用達の「ダイアゴン横丁」では、惑星の運行を表す太陽系儀(オーラリー)が、教材として昔から売られているといいます。でも、オーラリーと魔法はどう関係するのか?

(ジョセフ・ライトが描いたオーラリー実演の光景。「A Philosopher Lecturing on the Orrery」、1766頃)

上の有名な絵も、一見したところ妖しい印象を受けます。
でも実際には真逆で、ニュートンが発見した万有引力の法則によって、天体の運行が見事に説明されるようになったこと、言い換えれば世界から魔術めいたものが一掃されたことを誇っている絵です。要は18世紀の啓蒙精神を鼓吹する絵ですね。

そればかりではありません。作品中には、ハーマイオニーがハリーとロンをたしなめて、次のように言う場面があって、図録でも引用されています。

 「木星の一番大きな月はガニメデよ。カリストじゃないわ…それに、火山があるのはイオよ。シニストラ先生のおっしゃったことを聞き違えたのだと思うけれど、エウロパは氷で覆われているの。子ネズミじゃないわ…。」

…ということは、魔法学校で講じられる天文学は、ルネサンスの手前で止まっているわけでは全然なくて、むしろ惑星探査とか最新の知識に基づいて行われているらしいのです。当然、天体力学や、さらには一般の物理学も踏まえた上でのことでしょう。

さてそうなると、通常の物理法則に従わない、自分たちの魔法・魔術というものを、彼らはどのように説明・理解しているのか?

もちろん、ファンタジーにそうした理屈は不要と割り切ってもいいのですが、こういう展覧会をやるとなると、その辺の接合が少なからず難しいなあ…ということを感じました。

(これもチラシより。それと図録の一部をやっぱり載せてしまいます)

おらがコペルニクス2021年08月22日 11時08分58秒

ときに、昨日の写真撮影の小道具に使った絵葉書に目を向けてみます。


写っているのはもちろんコペルニクスです。
キャプションには「ニコラウス・コペルニクス 1543-1943 没後400年」とあって、これは同年(1943)発行された記念絵葉書です。そして上部には、同じ年に発行された記念切手が貼られ、彼の命日(5月24日)にちなんで、1943年5月24日の消印が押されています。こういう「葉書・切手・消印」の3点セットの記念グッズを、郵趣界隈では「マキシムカード」と呼ぶのだとか。

コペルニクスはポーランドの国民的英雄なので、その銅像は首都ワルシャワとか、トルンとか、あちこちにあるのですが、上の絵葉書は彼が学生生活を送ったクラクフの町にある銅像です。

(バルーンの位置がクラクフ)

背景は彼の母校、ヤギェウォ大学(クラクフ大学)のコレギウム・マイウスの中庭。ただし現在、像はそこにはなくて、戦後の1953年に、同大学のコレギウム・ウィトコフ正面にあるプランティー公園に移設されました(LINK)。

(現在のコレギウム・マイウス中庭。中央下の水盤?みたいな所に、かつて像が立っていました。ウィキペディアより)

   ★

コペルニクスは後世に、もめ事の種を2つ残しました。

1つは言うまでもなく地動説です。これで世界中は大揉めに揉めました。
もう1つはコペルニクス自身のあずかり知らぬことで、揉めた範囲も局地的ですが、「コペルニクスはドイツ人かポーランド人か」という問題です。

上の絵葉書の消印を見て、その論争を思い出しました。


そこにははっきりと、「ドイツ人天文家(des Deutschen Astronomen)没後400年」と書かれています。消印の地は地元クラクフ(Krakau)なのに何故?…というのは愚問で、1943年当時、ここはドイツ軍の占領地域でした。しかも、ナチスのポーランド総督は、ここクラクフを拠点にして、領内に目を光らせていたのです(Krakauはクラクフのドイツ語表記です)。

ですから、ポーランドの人にしてみたら、このマキシムカードは忌むべき記憶に触れるものかもしれません。

   ★

民族意識というのはなかなか厄介です。

日本語版ウィキペディアのコペルニクスの項(LINK)は、

 「19世紀後半から第二次世界大戦までのナショナリズムの時代には、コペルニクスがドイツ人かポーランド人かについて激しい論争がおこなわれたが、国民国家の概念を15世紀に適用するのは無理があり、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。」

とあっさり書いていますが、そう簡単に割り切れないものがあって、実際ドイツとポーランドのWikipediaを見ると、その書きぶりから、この問題が今でもセンシティブであることがうかがえます。

 「ニコラウス・コペルニクス〔…〕はプロイセンのヴァルミア公国の聖堂参事会員であり天文学者」

 「ニコラウス・コペルニク〔…〕ポーランドの碩学。弁護士、書記官、外交官、医師および下級カトリック司祭、教会法博士」

(※ポーランド語版はさらに、「この『ポーランド人天文家(Polish astronomer)』という語は、『大英百科事典』も『ケンブリッジ伝記大百科』も採用している」…という趣旨の注を付けていて、相当こだわりを見せています。)

   ★

広大な宇宙を相手に、普遍的真理を求める天文学にとって、こういうのは些事といえば些事です。でも人間は一面では卑小な存在なので、なかなかこういうのを超克しがたいです。むしろそういう卑小な存在でありながら、ここまで歩んできたことを褒めるべきかもしれません。

王立天文学会に忍び寄る影2021年04月04日 15時53分03秒

久しぶりに休日らしい休日。
せっかくなので、のんびりした記事を書こうと思いましたが、何だか気になるニュースを耳にしたので、そのことを書きます。

   ★


ロンドンの街のど真ん中に「バーリントンハウス」という古い建物があります。

(wikipediaより)

元々バーリントン伯爵の私邸だったものを、19世紀に英国政府が買い上げて、現在はいろいろな学術団体がそこを間借りしています。

1820年創設の王立天文学会(Royal Astronomical Society;RAS)もその一つ。
下の写真は、1900年ごろの古い幻燈スライドに写る王立天文学会の玄関。


「王立」というのは、じきじきに国王の勅許を得て作られた団体ということで(勅許を得たのは1831年)、財政的には王室から独立した、単なる一民間団体といえばそうなのですが、いろいろな歴史的経緯によって、この一等地にある建物を、長年にわたってタダ同然で使用する権利を有していました。

それは、同居する他の団体も同様で、それら諸団体――王立天文学会、ロンドン地質学会、ロンドン・リンネ協会、ロンドン考古協会、王立化学会――を総称して「中庭協会(the Courtyard Societies)」と呼ぶのだそうです。

   ★

私がそこを訪ねたのは、上のスライドから約100年後の2005年3月のただ一度きりのことで、日本ハーシェル協会の「ハーシェルツアー」に参加して、故・木村精二代表のお供としてくっついて行ったのでした。

(玄関前に立つのは木村代表ご夫妻)

このときは外壁修理のため足場が組まれ、あまり見栄えが良くありませんでしたが、こうして見比べると、建物の表情にはいささかの変化も見られず、本当に時が止まったかのようです。

   ★

しかし、建物は変わらなくても、世の中の仕組みの方はそうはいきません。
世が世知辛くなるにつれて、年間家賃1ポンド(やはりバーリントンハウスに入居している、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの場合はそうなんだそうです)というような、浮世離れしたことはだんだん許されなくなってきます。

(王立天文学会図書室)

建物を所有するイギリス政府から、近年立て続けに家賃の値上げを通告され、今や英国を代表する各団体も青息吐息、このままでは栄えある文化の守護者たちも、バーリントンハウスから立ち退かざるを得ない、果たしてそれで良いのか?…ということで、英国の一部は今だいぶもめているそうです。

私はそれを天文学史のメーリングリストで目にし、他のリストメンバーの「金銭が王位につき、文化と科学がそのはるか後塵を拝するとは、いったい我々は何という世界に生きているのか!!」という憤りに共感しつつ、これは英国に限らず、足下の日本でもきっと似たような事例はたくさん起こっているでしょうし、今後ますます増えるだろうと思うと、憂鬱な気分です。

(王立天文学会紀要の古びた背表紙)

「文化で腹がふくれるか!」という人に対しては、「金銭で心が満たされるか!」と返したい気分ですが、貧すれば鈍すで、そんなふうに反論されてもまったく動じない人が増えつつあるのかもしれず、憂鬱といえば憂鬱だし、侘しいといえばこの上なく侘しい話です。

   ★

とはいえ、座して死を待つのみではなく、王立天文学会も今や事態の打開に向けて、盛んにロビー活動を展開しているようです。
以下に同学会から発せられた書簡を全訳しておきますので、義を見てせざるは何とやら、もしイギリスの国会議員にお知り合いがいれば、ぜひお声がけをお願いします。

(以下は、王立天文学会会長のEmma Bunce氏と、同エグゼクティブ・ディレクターのPhilip Diamond氏の連名書簡です。)


拝啓

バーリントンハウスのテナント権に関して、我々が現在直面している問題と、それに対して取っている行動の背景をご説明するため、この手紙を書いております。

2005年、〔政府と〕賃貸契約を結ぶことで、当学会のバーリントンハウスの使用権は正式なものとなりました。家賃は非営利ベースで計算し、(当時の副首相官邸の)資本コストと減価償却分をカバーする額とされ、80年以上かけてゆっくりと市場相場まで引き上げるものとされました。しかし、近年、(当学会の賃料がそこに連動している)ウエストエンドの物件価格が高騰した結果、賃料も驚異的なスピードで上昇してしまったのです。

2018年、担当大臣(Jake Berry議員)との話し合いを通じて、諸学会にとって受け入れ可能な解決に向けて事態は進んでいるように見えました。内閣の要請を受けて、5つの「中庭協会」のすべてが、財務省のグリーンブック〔公共政策評価に関する政府ガイダンス〕に基づき、PwCコンサルティング社が行った分析結果を提出しましたが、それらは我々の国民に対する貢献が、名目的な低額賃料による125年リース契約(これは政府側と諸学会側の双方の調査鑑定士が合意したものです)の価値を、大きく上回ることを示していました。しかし、議論はその後停滞し、パンデミックの発生とともに完全に停止してしまい
ました。

2020年の初頭に、現在の我々の家主である、住宅・コミュニティ・地方自治省(MHCLG)は、向こう5年間、賃料の値上げを年間8%(複利)に据え置くことを申し出ましたが、この値上げ率(実質的に8~9年ごとに家賃が2倍になります)は、諸学会にとって依然受け入れがたいもので、そうなれば遅かれ早かれ移転を検討せざる得なくなるでしょう。

交渉再開のため、諸学会はさらに努力を重ねましたが、不調に終わりました。歴史的にこれまで政府は、諸学会がバーリントンハウスに拠点を置くことの意義を認識してきたものの、持続可能な将来像について、オープンかつ公正な方法で議論することをMHCLGは拒否したのです。

年間賃料の上昇により、今や当学会は遅かれ早かれ、この歴史的建物からの移転を検討せざるを得ない状況に直面しています。市の中心部に代替施設を獲得できる可能性はほとんどありません。そして、手の届く範囲にある遠隔地への移転となれば、我々が持つコレクションに対する公共アクセスは潜在的に低下してしまうでしょう。

移転には数百万ポンドかかる見込みです。壊れやすい歴史的資料をまとめて移動することはきわめて困難ですし、コレクションを安全に収容し、かつアクセス可能な状態にするには、環境制御された部屋を持つ専用の施設が必要となります。

諸学会が、さまざまな活動やプログラムを通じて、英国の経済的・科学的・社会的・文化的な福利向上に果たした貢献を、PwCコンサルティング社が分析した結果、4つの学会による総額は年間4,700万ポンド〔約72億円〕を上回ると結論付けられました。同社はこの価値のほぼ3分の1が、移転によって失われると推定しています。 MHCLGが課す家賃の値上げによって、公共的価値に対するこの莫大な貢献は危険にさらされるでしょう。

強制的な移転は、諸学会の現状に対する脅威そのもので、我々が進める教育的・学術的・公共的な参加活動を脅かし、160万以上のアイテムを含む貴重なコレクションとライブラリの統一性を危険にさらします。それは、我々の英国に対する科学的・文化的・社会的・伝統的貢献を著しく損なう一方、政府に対しては些細で不確かな利益しかもたらしません。

我々は、バーリントンハウスに留まれるよう、政府を説得することに全力を注ぐ一方、必要とあらば代替施設を獲得するという選択肢を探る試みも続けています。

当学会の僚友である中庭協会―リンネ協会、考古学会、地質学会―も同様の結論に達しています。当学会の評議会は、我々が引き続きバーリントンハウスにいられるよう、政府との間で、受入かつ実行可能な解決策を見出すための全国キャンペーンを、諸学会と共に実施することに同意しました。キャンペーンの一環として、我々は国会議員諸氏に対して、145年以上の長きにわたって我が国に利益をもたらした現在の約定を維持するため、当学会を支援してくれるよう求めています。

我々がバーリントンハウスに留まり、唯一無二でかけがえのない発見の記録と歴史と伝統遺産を確実に保存できるよう、我々は政府に対して受入れ可能で持続可能な約定に同意するよう求めています。そうすれば、我々は勅許状を履行するために必要な拠点と長期的なセキュリティが得られますし、国民及び国家遺産、そして研究コミュニティの利益のために、未来に向けて投資できるようになります。

我々はこのキャンペーンに賛同し、国務長官や他の大臣と直接対話できるよう同僚議員に問題提起してくれる国会議員を求めています。我々の置かれた状況を知らせるために、地元選出の国会議員に手紙をお書きいただければ、大いに我々の助けとなります。またご専門の活動を通じて、政府に影響を与えうる人物をご存知でしたら、先様にご一報の上、当方までお知らせくだされば、当方より直接ご連絡をさせていただきます。当方のメールアドレスは○○@○○〔個人アドレスなので省略〕です。さらなる詳細がわかり次第、また追ってご連絡いたします。

敬具

会長 エマ・バンス
エグゼクティブ・ディレクター フィリップ・ダイアモンド


友情は太陽のごとく不動なり2021年03月14日 07時16分07秒

キリストや聖人たちの遺骸、あるいはゆかりの品である「聖遺物」(relics)

聖地巡礼が盛んになると、巡礼の証として、ありがたい聖遺物の授与を求める善男善女が増えて、それが少なからず教会経済を潤したので、各地の教会では、ゆかりの聖人の遺物を積極的に授与するようになりました。もちろんそこで下付されるのは、聖杯や聖槍のような伝説の世界に属する品ではなしに、もっと庶民的な品です。いわば西洋版の「御朱印」や「御守り札」のような存在。

主に18世紀以降の品と思いますが、そうした聖遺物を収めた聖遺物箱(reliquary)が、現在はアンティークショップの店頭で売り買いされています。(フランス語読みして「ルリケール」とも呼ばれます。)


私にとっては縁遠い品ですが、わけあって1つ入手しました。
直径38mmのペンダントサイズの金属容器に納められた、麦粒ほどの聖遺物。表面はガラス蓋で覆われています。

これはエスコラピオス修道会を創設した、聖ヨセフ・カラサンス(Joseph Calasanz、1557 –1648)の聖遺物です。といっても遺骨などではなくて、陶質の何か、たぶん彼が普段使いした食器か、墓石のかけらではないかと思います。

(聖ヨセフ・カラサンス、英語版Wikipediaより)


裏面は正真正銘であることを意味するのか、蝋で封じられています。
オランダの業者曰く、ベルギーの修道院に由来するもの…という説明でした。この紋章を手がかりに調べれば、その出所が分かるのかもしれませんが、現時点では詳細不明です。

   ★

カラサンスは実に偉い人です。
スペイン生まれの聖職者として、ローマで救貧活動に取り組み、さらに孤児や貧しい子供たちのために無料の学校を建て、教育者として無私の奉仕を続けました。

そしてカラサンスは、ガリレオ・ガリレイの無二の親友でもありました。
カラサンスは科学教育を重視し、ガリレオの不遇な時代にも彼を擁護し、援助を惜しみませんでした。もちろん、それはカトリックの指導層の意に反することでしたから、カラサンス自身も1642年、異端審問にかけられたのです。

彼の名誉が回復されたのは、その死後のことで、没後100年の1748年にカトリックの福者となり、さらに1767年に聖人として列聖されました。したがって、上の聖遺物もそれ以降のものということになります。おそらく1800年前後に、信者に授与されたものではないでしょうか。


太陽の輝きに包まれたカラサンスの「何か」。
その「何か」ははっきりしませんけれど、もしガリレオが自分の肖像とカラサンスにちなむ品が並んでいるのを目にしたら、きっと嬉しい気分になるでしょうし、その冷たいむくろに、いっとき温かいものが通うように思うことでしょう。



(…と、知ったかぶりして書きましたが、もちろん私はカラサンスに詳しいわけではありません。でも、その偉さはwikipediaの斜め読みからも分かる気がします。)

ガリレオ・メダルに見る星霜200年2021年03月13日 12時39分15秒

200年という歳月を、どう感じるでしょうか?
もちろん地球や宇宙のスケールでいえば一瞬ですが、普通の生活の中で考えると、200年という時間の長さは、どれぐらい重みを持つものなのか?

200年前の1821年は、日本でいうと文政4年。幕末の動乱はまだだいぶ先です。
小林一茶や相撲取りの雷電が存命中で、勝海舟や西郷隆盛は生まれてもいませんでした。

私と父方の曽祖父はほぼ100歳違いになります。これは私ばかりでなく、平均的な年代差でしょう。つまり200年前といえば、ひいお爺さんのひいお爺さんが、今の私と同じ年格好だった時分です。やっぱりずいぶん昔ですが、かといって遥かな遠い過去とも思えません。その頃の文物は、村のお堂とか、路傍のお地蔵さんとか、まだ身近にたくさん残っています。

   ★

唐突にそんなことを思ったのは、以下のメダルを目にしたからです。

(直径は4cm)

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)の肖像を鋳込んだ記念メダルで、鋳造されたのは1818年、今から約200年前です。

(メダルの裏面)

200年前の人が、そのまた200年前の人であるガリレオを偲んで作ったメダル。
微妙に遠く、微妙に近い200年前を中間点とすることで、ガリレオの体温が何となく伝わってくるような気がします。まあ、これは私だけの特殊な感じ方かもしれませんが、ガリレオは私の「ひいお爺さんの、ひいお爺さんの、ひいお爺さんの、ひいお爺さん」の世代の人であり、たしかにほぼ400歳年上だなあ…というのは、新たな気づきでした。

   ★

このメダルは、検索するとオックスフォードの科学史博物館にも収蔵されていて、これは一寸した自慢です。そのモノとしての素性について、参考として以下のページから書き抜いておきます。

Medals of the Series Numismatica Universalis Virorum Illustrium

このメダルは、「世界の著名人シリーズ」の1つとして、フランスで発行されたもので、発行を手掛けたのはアメデ・デュラン(Amedee Durand、1789-1873)。彼は彫刻家として、自らメダル彫刻を手掛けた人ですが、それだけでなく他の彫刻家も起用して、メダルの発行を手広く行いました。ガリレオ・メダルの場合、原型を制作したのはレイモンド・ゲイヤード(Raymond Gayrard、1777-1858)(※)です。

「世界の著名人シリーズ」は1817年からスタートして、ほぼ1820年代いっぱい発行が続きましたが、一部は1840年代にかかっています。その間、メダルの発行権をフランスの国家造幣局が独占したため、デュランが鋳型を造幣局に預けて委託発行していた時期もあり(ガリレオ・メダルがそうです)、鋳型を取り返してミュンヘンで発行した時期もあり、再度フランスでの委託発行となった時期もあり…と、結構メダルの製造史も込み入っているようです。


(※)…とネットには出てきますが、「レイモン・ゲイヤール」の方がより正確かも。ちなみにこのゲイヤードは父親の方で、彫刻家としては、同名の息子の方が有名らしいです。