ガリレオの瞳2017年02月18日 14時46分01秒

先日、ガリレオ(Galileo Galilei、1564-1642)の誕生日が2月15日だというので、いくつか関連の記事を目にしました。

ただし、ガリレオはユリウス暦とグレゴリオ暦の端境期を生きた人で、誕生日の2月15日というのも、昔のユリウス暦のそれだそうです。今の暦に直すと、1564年2月25日が誕生日。いずれにしても、彼は今月で満453歳を迎えます。

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ガリレオの名を聞いて思い出したのが、下のカメラ。
1950年代前半に出た、イタリアのフェラーニア社製「エリオフレックス」。


これも「クラシック・カメラ」と言って言えないことはないのでしょうが、戦後の量産品ですから、わりとどこにでも転がっています。それでも、これを購入したのは、その出自がやっぱり天文古玩的な色彩を帯びているからです。


それは、このカメラが、ガリレオの名を負っていること。
レンズの脇には「オフィチーネ・ガリレオ(ガリレオ製作所)」の名が見えます。


オフィチーネ・ガリレオは、1862年にさかのぼるイタリアの老舗光学メーカー。
今では光学機器にとどまらず、光電子機器の製造も行なっています。

光学機器メーカーとしてはちょっと異色ですが、オフィチーネ・ガリレオの創設者は、二人の天文学者、アミーチ(Giovanni Battista Amici、1786-1863)と、ドナティ(Giovanni Battista Donati、1826-1873)で、さらに遡れば、1831年にアミーチが職人たちをモデナから呼び寄せ、フィレンツェ天文台の隣に光学機器製造の工房を設けたのが、その淵源だそうです。当然、その社名は尊敬する大先輩のガリレオにちなむものでしょう。

(19世紀の広告カードに描かれた、往時のオフィチーネ・ガリレオの建物。中央上部にガリレオの肖像。「オフィチーネ・ガリレオ創立150周年記念展」の案内ページより。

同社の光学製品は、明治の日本海軍にも納入されたそうですから、日本との縁も浅からぬものがあります。そして、その後も長く軍用品の製造に携わったのは、同社の技術力の高さを物語るもので、同社はイタリア国内のメラーテ天文台や、アジアーゴ天文台のような、プロユースの大型望遠鏡も手がけました。

(eBayで見かけた、オフィチーネ・ガリレオを舞台にした戦前の労働争議の図。ジブリの「紅の豚」的光景。歴史が長ければ、それだけいろいろなドラマがあるものです。)

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そんなわけで、この安手のカメラは(今では埃にまみれているとはいえ)「ガリレオの瞳」を持ち、その向うにイタリアの光学機器製造の歴史が仄見えるのです。


なお、冒頭、このカメラをフェラーニア社製と書きましたが、同社の本業はフィルムメーカーで、オフィチーネ・ガリレオ製のカメラに、自社の名前を入れて販売していた由。つまるところ、このカメラは、ボディも含めて全てオフィチーネ・ガリレオの工場で生まれたもののようです。


【参考リンク】

1)オフィチーネ・ガリレオについて
Museo Galileo「Scientific Itineraries in Tuscany(トスカーナ地方科学の旅)」より
 「オフィチーネ・ガリレオ」の項

2)フェラーニア社とガリレオ社について
クラシックカメラの物語「デザインのイタリアカメラ」

再びハリーとハレー2017年01月04日 07時25分47秒

ハレー彗星と、その発見者であるエドモンド・ハレーに関する昨日の記事に、常連コメンテーターのS.U氏からコメントをお寄せいただきました。それに対してお返事を書いていたら結構な分量になったので、他の方からのご教示も期待しつつ、以下にその内容を記しておきます。S.Uさんの元のコメントと併せてごらんいただければと思います。

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S.Uさま
 
ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。

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まず、外来語の表記について、お上が何か言っているかな?と思って調べたら、文科省がずばり「外来語の表記」という内閣告示を出していました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html

でも、これはものすごくゆるくて、ほとんど何も言ってないに等しいです(慣用があるものは慣用に従え、語形に揺れがあるものはどっちでも良い、特別な音の書き表し方は特に制限を設けず自由に書いてよい…etc.)。他の決め事も、全てこれぐらい大らかだと結構なのですが、それはともかくとして、今に至るまで外来語の表記について、しっかりした官製ルールはないように見受けられます。

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「-ley」の日本語表記が揺れているのは、Halleyの他にも、Stanley(スタンレー、スタンリー)やBentley(ベントレー、ベントリー)のように、いくらもあるでしょうが、私見によれば、この揺れの背後にある根本原因は、横文字を日本語で表記する際の「2大ルール」がコンフリクトを起こしていることで、その根はなかなか深いと思います。

全くの素人談義ですけれど、その2大ルールとは「原音主義」と「ローマ字準拠主義」で(勝手な命名です)、たとえば同韻の単語でも、potatoは原音主義により「ポテト」、tomatoはローマ字準拠により「トマト」となるように、英単語の表記は、この両者の間を歴史的に絶えず揺れ動いてきました。

前者は、音声言語でやりとりする際に利があり、後者は日本語から原綴を復元しやすく、文字言語でやりとりする際に利があります。(まあ、これはスペルと発音の乖離が著しい英語だから悩むのであって、独仏語なんかの場合は、ローマ字を持ち出すまでもなく、それぞれの発音ルールにしたがって音写すればことが足ります。)

ハリーとハレーの差も、結局は原音主義をとるか(ハリー)、ローマ字準拠主義をとるか(ハレー)の違いによるもので、それぞれ一長一短がありますから、なかなかすっきりと結論は出そうにありません。

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ただ、ハレーに関していうと、これはやや中途半端な表記で、完全にローマ字準拠主義をとるなら「ハルレイ」となるはずで、実際、明治期にその用例があります(下述)。おそらく、その後「ハルレイ」→「ハレイ」→「ハレー」という変化を経て、ハレーが定着したのでしょう。

昭和8年(1933)に出た、山本一清・村上忠敬著の『天文学辞典』では既に「ハレー」となっており、この頃には既にハレーがかなり一般化していたことを窺わせます(同時期、荒木俊馬は「ハレイ」を使っていて、昭和戦前は「ハレイ」と「ハレー」が混在していたようです)。

参考までに手元の明治期の本を見ると、

○小幡篤次郎 『天変地異』(1868) ハルリー
○西村茂樹訳・文部省印行 『百科全書 天文学』(1876) 哈勒(「ハルレイ」とルビ)
○文部省印行 『洛氏天文学』(1879) ハルレー
○横山又次郎 『天文講話』(第5版、1908) はれー
○本田親二 『最新天文講話』(1910) ハリー
○須藤傅治郎 『星学』(第9版、1910) ハーレー

となっており、「リー」と「レー」の間で、表記がずっと揺れていますが、どうもこの頃から「レー」が優勢だった気配もあるので、ハレーの普及を抱影翁一人の責めに帰すのはやや酷かもしれません。(でも「あの」抱影がハレーと書けば、全国の天文ファンも当然右にならえしたでしょうから、抱影の影響も必ずやあったことでしょうね。)

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なお、抱影がどこからそれを引っ張ってきたかは不明ですが、「エドマンド」は明らかに「Edmund」を意識したものと思います。

姓は針井、名は江戸主水2017年01月03日 11時42分36秒

新年から小ネタです。

なんとなくウィキペディアのハレー彗星の項を見ていたら、この「ハレー彗星」という表記は間違いで、「ハリー彗星」と書くのが正しいのだ…という議論があることを知りました。ウィキペディアだと、本編の記述ではなく、ノートのページでその議論が行われています。傍から見ると、かなり感情的な言葉の応酬で、ちょっと身構えるものがありますが、そこまで情熱的になれるのは、ある意味すごいことです。

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「ハリー派」の論拠は、主にネイティブの発音は「レー」より「リー」に近いというもので、私の耳にも確かにそう聞こえます。

でも、そうすると Edmond Halley のファーストネームの方は「エドモンド」のままでいいのか、NHKのアナウンサーはこれを「江戸主水」と同じ読み方をするでしょうが、これは元の「Edmond」の発音とは相当距離があって、そっちはそのままでもいいのか?…という疑問が頭をもたげます。

では、他にどう書けばいいのか?と問われても、特に名案はなくて、結局のところ英語の音韻を、日本語の五十音(限られた子音と母音)で表記するのは、最初から無理なのだ…と達観するほかない気もします。その意味では、ハレーもハリーも五十歩百歩だというのが、偽らざる感想です。

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で、今日改めて知ったのは、実はこのハレー彗星とエドモンド・ハレーの発音をめぐっては、ネイティブの間でも意見が分かれているということです。ただし、それは「レー」と「リー」の違いではなく、冒頭の「ハ」の字の部分です。

Wikipediaの「Halley's Comet」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Halley's_Comet)を見ると、一番最初に「発音 Pronunciation」という節があって、

 「ハレー彗星は、通常『valley』と同韻の /ˈhæli/〔ハリー〕、もしくは『daily』と同韻の /ˈheɪli/〔ヘイリー〕と発音される。Edmond Halley の名前の綴りは、彼が在世当時、Hailey、Haley、Hayley、Halley、Hawley、Hawlyと様々であり、同時代にどのように発音されたかははっきりしない。」

と書かれています(出典として、ニューヨークタイムズの「サイエンスQ&A」の記事が挙がっています)。要は「ハリー」か「ヘイリー」かで、向うの人も悩んでいるようなのです。

このことは、「Edmond Halley」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Edmond_Halley)を見たら、「発音と綴り Pronunciation and spelling」の節で、さらに詳しく書かれていました。ざっと適当訳してみます(改段落は引用者による)。

 「Halley という姓には3通りの発音がある。
イギリスでも
アメリカでも、最も普通なのは、/ˈhæli/〔ハリー〕である。これは、現在ロンドンで暮らしている Halley 姓の人の多くが、自ら用いている発音である。

それに代わる/ˈheɪli/〔ヘイリー〕というのは、ロックンロール歌手のビル・ヘイリーと共に育った世代が、エドモンド・ハレーとその彗星を呼ぶ際に、しばしば好んで用いる発音である。ビル・ヘイリーは、ハレー彗星の読み方として、当時〔1950年代〕のアメリカでは一般的だった発音〔ヘイリー〕をもじって、自分のバックバンドを「コメッツ」と呼んだ〔最初は「Bill Haley with Haley's Comets」、後に「Bill Haley & His Comets』が、そのグループ名〕。

ハレーの伝記作家の一人であるコリン・ロナンは、/ˈhɔːli/〔ホーリー〕という発音を好んだ。

同時代の記述は、ハレーの名前をHailey、Hayley、Haley、Haly, Halley、Hawley、Hawlyと綴っており、おそらく発音も同様に多様だったろう。」

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そして、「エドモンド」というファーストネームについても議論があるようで、Wikipediaは上の説明に続けて、

 「そのファーストネームに関していうと、1902年の〔タイムズ紙掲載の〕ある記事は、『Edmund』という綴りの方がずっと一般的ではあるが、『Edmond』こそ、ハレー自身が用いた綴りだとしている。

しかし、2007年の『International Comet Quarterly』誌掲載の論文は、これに異を唱えている。同論文は、ハレーの公刊された著作の中で、『Edmund』は22回も使われているのに、『Edmond』はたったの3回しか使われておらず、また他にもラテン語化された『Edmundus』のような、いくつかのバリエーションが用いられていることを指摘している。

こうした議論の多くは、ハレーが生きた時代には、英語の綴字の慣習はまだ標準化されておらず、したがってハレー自身も複数のスペリングを用いたという事実に由来している。」

と、その間の事情を明かしています。

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こういうのは、行き過ぎると「言葉咎め」や、さらには「言葉狩り」のようになって良くないですが、しかし一歩踏み込んでみると、興味深い事実が分かりますし、いろいろ考えさせられます。

(本人自身がどう発音していたかは、最も重要な基準でしょうが、これも行き過ぎると、「宮沢賢治を欧文表記するときは、“Miyazawa Kenzu”が正しい」…ということにもなりかねません。)

至宝登場2016年11月26日 14時57分36秒

『皇帝天文学』については、天文学史の泰斗、オーウェン・ギンガリッチ氏が、著書(邦題 『誰も読まなかったコペルニクス、早川書房、2005)の中で、それにまつわるエピソードを紹介しています。


その1つが、『皇帝天文学』が世に出てから40年後、1580年にティコ・ブラーエがこの本を大枚はたいて購入し、謎の多い天文学者パウル・ヴィッティッヒへの贈り物にした逸話で(そのときヴィッティッヒは、客人としてティコの城に滞在していました)、ティコの献辞が入ったその現物は、現在、シカゴ大学図書館にあるといいます(邦訳139頁以下、「第7章 ヴィッティッヒ・コネクション」参照)。

ギンガリッチ氏は、地動説が知識層にどのように受容されていったか、それをコペルニクスの『天球の回転について』の欄外書き込みを比較考証して跡付けるという、聞くだに大変な研究――何せ『天球…』の初版に限っても世界中に分散所蔵されているのですから――に手を染め、そのあれこれの追想記が、この『誰も読まなかったコペルニクス』で、まあ一種の「古書探偵譚」です。

氏の探索の手は、同時代の天文学書にも及び、『皇帝天文学』の書誌も当然のごとく熟知し、それについてさらにこう記しています(邦訳p.210。途中改行は引用者)。

 「エディツイオン・ライプツィヒは、すばらしい印刷の美術書や、図書館にある貴重な本の複製を刊行してドルを稼ぐことに熱心な東ドイツの大手出版社だった。

16世紀の出版界における偉業の一つは、『回転について』のわずか3年前に出版された、ペトルス・アピアヌスの『皇帝天文学』で、ブラーエが熱烈な思いをこめてヴイツティッヒに贈った豪華な本だ。この本は、回転円盤〔ボルベル〕がふんだんについた天体図をいくつも収め、人の手ですばらしい彩色を施した巨大な二つ折り判だった。一番複雑に組み合わされたボルベルは7層に重なり、プトレマイオス説の周転円の理論をシミュレーションして水星の経度を見つけるという、アナログコンピュータの機能をもっていた。

 エディツイオン・ライプツィヒは、チューリンゲン州中部のゴータの図書館にあった一冊のばらばらになった本をもとにして豪華な複製本を作り上げた。」

これが即ち昨日言及した複製本で、1967年に、全部で750部が作られました。
国内では東大の駒場図書館や、国立天文台の三鷹図書室が所蔵しており、千葉市はオリジナルの他に、複製本も持っているそうです。

複製本の方は、オリジナルのように何千万円ということはなくて、何十万円…というのも言い過ぎで、古書価だと十何万円です(「何十万」と「十何万」は似て非なるもの也)。


だから、我が家にもあります。
十何万というと、「お宝鑑定団」では「はい残念でした」レベルですが、言うまでもなく我が家にあるモノの中では最も高価な部類で、ボーナスをはたいて買った、まさに「我が家の至宝」。

このささやかな至宝を眺めながら、さらにギンガリッチ博士の言葉に耳を傾けてみます。

(この項つづく)

過去記事フォローシリーズ…天文学者と正多面体2016年11月24日 20時32分13秒

以前、ちょっと変わった画題のコーヒーのおまけカードを載せました。


■ルネサンスの天文学者に捧げるカード
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/08/19/

この天文学者が巨大な正多面体を前にしているのは、自ら正多面体を研究をし、正多面体の入れ子構造として太陽系を考えた、ヨハネス・ケプラー(1571-1630)に対するオマージュではないか…と、そのときは考えました。

でも、それは間違いで、この絵には元ネタがあったことを知りました。
下の絵がそれです。右下の人物をモチーフとし、手にした器具を差し替えたのが上のカードの絵だったのです。


元絵は、ドイツの数学者・天文学者である、ペトルス・アピアヌス(Petrus Apianus(Peter Apian)1495-1552)が、1533年に著した『器具の書』(Instrument Buch)の扉絵。言うまでもなく、これはケプラーが生まれるよりも、ずっと前に出た本です。

『器具の書』は、その名が示すとおり、当時の数学・天文分野で用いられた計測・観測機器の解説書のようです。上の画像は下のページから寸借したもので、そこには本書についての簡単な解説も載っています。


ルネサンス期には、天文学者は一方では数学者と混じり合い、他方では占星術師と混じり合う存在でしたが、例の多面体は、その数学者としての相貌をシンボリックに表現したものなのでしょう。


【付記】
西暦2000年は「世界数学年」で、上でリンクしたページは、それに協賛してイギリスで作られた、「Count On」という数学・算数の総合教育サイトの1ページです。トップページはこちら。コンテンツを見ると、「Sudoku」とか、「Origami」とかあって、日本のその方面の貢献も興味深いです。)


デ・ラ・ルーとその時代(1)2016年10月21日 07時22分44秒

先日ドイツの天文古書を話題にしたとき(http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/09/14)、19世紀の天体写真家、ウォレン・デ・ラ・ルー(Warren de la Rue、1815-1889)の名前がちらっと出ました。

(ウォレン・デ・ラ・ルー。Wikipediaより)

デ・ラ・ルーという姓は、綴りからしてフランスっぽいのですが(フランス語読みすれば、ド・ラ・リュでしょう)、果たしてその先祖は、フランスのノルマンディー沖に浮かぶ、ガーンジー島の出です。

ガーンジー島は、昔々ノルマンディー公がイングランドを征服――いわゆるノルマン・コンクエスト(1066年)――して以来、イギリスが治める自治領となっていますが、住民には当然フランス系の人も多く、今も英語とならんでフランス語が公用語となっているそうです。デ・ラ・ルー自身、パリの学校で教育を受けました。

ともあれ、デ・ラ・ルーは、イギリスでは稀姓の部類でしょう。
でも、イギリスにはデ・ラ・ルー社という大きな印刷会社があって、名前自体はわりと耳に親しいものがあります。今は紙幣や小切手など、公的証票の印刷で知られますが、もう一つ有名なのがトランプメーカーとしての顔で、19世紀前半から1960年代まで、デ・ラ・ルー社のトランプはイギリス内外で大いに流通したのでした。

   ★

さて、ここからウォレンその人のことや、デ・ラ・ルー社のトランプのことなどを漫然と書いてみたいのですが、先回りして言ってしまえば、この2つの「デ・ラ・ルー」は関係が深い…どころの話ではなくて、ウォレンは他でもない、デ・ラ・ルー社の二代目社長です(初代は父親のThomas de la Rue、1793-1866)。

天文家としての活動は、あくまでの彼の「余技」であり、イギリスの偉大なアマチュア天文家の系譜に、彼もまた位置づけられるのです。

(この項つづく)


天文学史のススメ2016年10月13日 20時06分05秒

そういえば…と思い出すのですが、今年の夏、池袋の三省堂で開かれたイベント「博物蒐集家の応接間」(同イベントは装いを改めて、現在も継続中)に、手元の品をいくつか並べていただいた際、私は意識して2冊の本を混ぜておきました。

それは他の古書や古物とは異質の、ごく最近の本です。

天文系のアンティークが、何となくイメージ先行の「キラキラと綺麗なもの」としてばかり受容される傾向(これは客観的事実というよりも、私の単なる僻目かもしれません)を良しとしない自分がいて、そうすることが、あたかも自分のアイデンティティのような気が――少なくともその時は――したのでした。

その2冊とは、いずれも19世紀以降の天文学の発展を扱った本で、1冊はこれまで何度か言及した、アラン・チャップマン著の『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書、2006)で、もう1冊が下に述べる小暮智一氏の『現代天文学史』です。

美しく且つ興味深い天文アンティークを愛でるとき、その学問的な背景や、時代相を知っておくことは、無駄にならないどころか、その滋味を大いに豊かならしめるものと私は信じています(←かなり力が入っています)。

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(帯の惹句は「アマチュアの革新から巨大科学へ。星を視る眼を変えた200年」)

■小暮智一(著)
 『現代天文学史―天体物理学の源流と開拓者たち』
 京都大学学術出版会、2015

600頁を超える分厚い本です。とはいえ、現代天文学の通史という大きなテーマを考えれば、コンパクトにまとめられた本とも言えます。

ここでいう「現代」の範囲は、副題にもあるように、もっぱら天体物理学の誕生(19世紀)以降を指し、その叙述は20世紀の末まで及びます(ただし、18世紀に属するものとして、ウィリアム・ハーシェル(1738-1822)による、宇宙構造の解明に向けた研究も、チラッと顔を出しています)。

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天体物理学というのは、それ以前の位置天文学に対する言葉です。
大雑把に言うと、専門の学者を含め、18世紀以前の人々の意識の中で、恒星は単なる「点」であり、その位置と運動のみに関心が向けられていました。当時、観測技術の向上とは、より厳密な位置測定とイコールだったのです。

しかし、その後の学問の進展によって、人々は星を「面」であり、「立体構造を備えたもの」として、さらには独自の個性を備えた「世界」として認識するに至りました。もちろん、それは一挙に成し遂げられたわけではなく、世紀をスパンとする長い経過の中で徐々に成し遂げられたことです。

(目次の一部)

「天体物理学」という呼称は、ちょっと意味が取りにくいのですが、私流に言い換えれば、それは「星の生物学」とでも呼ぶべきものです。

それは星を対象にした解剖学(=星の内部構造論)であり、生理学(=光と熱を生むメカニズムの研究)であり、あるいは発生学生活史の解明(=星の誕生と進化の研究)であり、さらに生態学(=星たちの相互作用と集団営巣の観察、すなわち銀河や宇宙の大規模構造の解明)なども包み込む学問です。

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本書は、19世紀~20世紀にかけて成し遂げられた、この天文学の一大発展と、それを成し遂げた天文家たちの横顔を紹介した大変な労作です。

現代を生きる我々は、現在進行形の研究テーマを除けば、天文学をすでに確立された学問体系として考えがちです(いわゆる教科書的記述)。しかし、学問の進展は、言うまでもなく「現在進行形の積み重ね」であり、そこには迷いもあれば誤りもあり、当事者たちも自信があったりなかったり、自信があっても間違えたり、その逆だったり、人間らしいドラマが多々あるわけです。

それを順序を追って記したのが本書です。

もとは「天文教育普及研究会」の機関誌、『天文教育』誌に連載されたもので、全体に平易な叙述で一貫しています(その学理までもが分かりやすいというわけではありませんが、とっつきにくさを感じさせないという意味で)。

著者の小暮氏は、京都大学で銀河物理学を講じられた方で、退官後は岡山の美星町立美星天文台長も務められました。生年は1926年(大正15)だそうですから、今年で卒寿を迎えられます。

本書の元となった連載が「天文教育」誌で始まったのは2009年で、その時点ですでに氏は80歳をとうに超えておられたのですが、記事を書かれるに際しては、ほぼすべて原著や一次資料にあたって書かれています。ただもう尊敬と驚嘆しかありません。

文句なしの良著です。

飛行機乗りと天文台2016年08月20日 17時56分29秒

1枚の絵葉書から、またぞろいろいろ思いを馳せることにします。


石版刷りの古ぼけた絵葉書です。おそらくは1930~40年代のものでしょう。


居館風の建物の屋上に設けられた小さなドームと、そのスリットから覗く、小型の機材。

その「程のよい小ささ」が、いかにも居心地が良さそうで、「アマチュア天文家の夢の城」の印象を生んでいます。ドーム脇の屋上を飾るチェッカーボード模様も洒落ているし、周囲の緑の丘も、のどかで気落ちの良い風景を作っています。

こんなところに住んで、のんびり望遠鏡を覗いて暮らせたら…ということを考えて、この絵葉書を手にしました。

   ★

では、この素敵な天文台はいったいどこにあるのか?


その手がかりは、言うまでもなくキャプションで、ググってみれば、これが「短焦点の彗星捜索用望遠鏡を覆う東側ドームの光景」を意味する、チェコ語ないしスロバキア語であることが分かります。


さらに裏面を見れば、これはプラハに現存する「シュテファーニク天文台(チェコ語:Štefánikova hvězdárna)」の絵葉書なのでした。

シュテファーニク天文台 (公式サイト英語ページ)
 http://www.observatory.cz/english.html

場所はプラハの中心部、以前取り上げたプラハの天文時計とは、ブルタバ(モルダウ)川をはさんで反対側になりますが、そこに広がる広大なペトシーン公園の丘の上に、シュテファーニク天文台はあります。

(ウィキペディア掲載の現在のシュテファーニク天文台の姿。右手の緑青色のドームが、絵葉書に写っている「東側ドーム」。1970年代に改装されたせいで、屋上回りの様子が、絵葉書とはちょっと違います。)

この天文台が開設されたのは1928年だそうですから、そう古い施設ではありません。
そして、専門的な研究施設というよりは、教育プログラム主体の、市民向け公開天文台です。

しかし、その中央メインドームに据付けた機材は、ウィーンの熱心なアマチュア天文家にして、有名な月面観測者だった、ルドルフ・ケーニヒ(1865-1927)の巨大な愛機を移設したものであり、現在、西側ドームには37cm径マクストフ=カセグレンが、そして東側ドームには40cm径のミード製反射望遠鏡が設置されていて、公共天文台としては十分すぎる設備を有しています。

   ★

この天文台で見るべきものは、その機材ばかりではありません。
それが秘めている物語は、何よりもそのネーミングにあります。
「シュテファーニク」とは人の名前です。といって、この天文台を作った人ではありません。

(天文台の正面に立つ、ミラン・シュテファーニクの像。ウィキペディアより)

何でこんな飛行機乗りの格好をした人が、天文台と関係あるのかといえば、この人は飛行機乗りであると同時に、天文学者であり、そしてチェコスロバキア独立のヒーローだからです。そういう傑物を偲んで、この天文台は作られました。

さして長文ではないので、以下、ウィキペディアからそっくり引用します。

 「ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(Milan Rastislav Štefánik、1880年7月21日―1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。

 オーストリア・ハンガリー帝国領内(現在のスロバキア北西部)のコシャリスカーで生まれる。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。主に太陽(とくにコロナ)の観測・研究に従事した。1912年フランス市民権を取得。

 第一次世界大戦が始まると、フランス軍のパイロットとして参加するとともに、パリを拠点にマサリクやベネシュとともにチェコスロバキア国民委員会を設立して、独立に向けた外交活動を展開した。またチェコスロバキア軍団を組織し、その指導に当たった。このような外交努力によって、協商国側からチェコスロバキアの独立に対する支持を取り付けることに成功した。

 1919年、イタリアからスロバキアへ飛行機で帰国する途中、墜落事故のため死去。」

(軍服姿のシュテファーニク。出典:http://www.tfsimon.com/stefanik-note.htm

こういうのを、単純に「カッコイイ」と形容するのは軽薄でしょう。
しかし、学問を愛し、空を愛し、そして歴史の壮図に自分を賭けた、一人の人間の生き様は、心に強く響きます。少なくとも、安逸な生活に憧れ、静かな場所で望遠鏡をのんびり眺めて過ごしたい…と願うような男(私)に、彼の生き方は強く省察を迫るものがあります。

   ★

私はシュテファーニクのことも、チェコスロバキアの独立運動のことも、ついさっきまで知らずにいました。私だけでなく、東欧の近代史に関心のある人を除けば、この辺は知識の空白になっている方が多いのではないでしょうか。

世界は有名無名のドラマに満ちています。
まあ、ちっともドラマチックではない、平凡な日常こそ貴いというのも真実でしょうが、ときにはドラマに触れることも、日常を振り返る上で大切なことと思います。

(シュテファーニクが勤務したパリ天文台ムードン観測所の上を飛ぶ複葉機。この絵葉書は、かつてタルホ氏に捧げましたが、今一度シュテファーニク氏にも捧げます。)

ルネサンスの天文学者に捧げるカード2016年08月19日 21時46分01秒

三角帽子をかぶった変な天文学者のイメージは、これまでたびたび取り上げました。

■カリカチュアライズされた天文学者のルーツを探る(前編)(後編)

 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/07/12/5951388
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2011/07/13/5952391

「天文学者」と題された下の絵は、それらに比べると史実に忠実な感じがします。

(1930年代に出たテンゲルマン・コーヒー(Tengelmann Kaffee)のおまけカード)

しかし、それはコスチュームに限っての話で、その行動はいっそう奇妙なものです。


彼は四分儀らしきものを右手に持って星を見上げ、左手ではディバイダを操作し…
実際こんな覚束ない手つきで星の位置測定ができるはずはありませんが、それはご愛敬でしょう。

(奥のギザギザ円盤はおそらくノクターナル(星時計)。手前のボード状の道具は不明)

それよりも、ここでは天文学者の前に鎮座する、巨大な多面体の存在が注目されます。この20世紀の絵師は、一体なぜこんなものを、ここに描き込んだのか?


裏面の解説を読むと――と言いつつ、ドイツ語と髭文字のせいで文意が判然としないのですが――古来、天文学者たちは、この無限の宇宙を律する法則を探るために、非凡な努力を重ねてきたこと、そしてその代表選手が、クザーヌス(1401-1464)であり、プールバッハ(1423-1461)であり、さらに、レギオモンタヌス(1436-1476)を経て、コペルニクス(1473-1543)、そして「なかんずく(vor allen)」ケプラー(1571-1630)へと至る系譜であった…と、この短文の筆者は述べているようです。

そんなわけで、ここではケプラーが最大の功労者として名指しされているので、この多面体(正二十面体)も、ケプラーの多面体宇宙モデルをシンボライズし、彼に捧げているのではないか…と想像されるのです。

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それにしても、ここに出てくる人たちは、とてもコーヒーのおまけカードとは思えない渋い人選です。いかにもドイツらしい、重厚な思索の跡をしのばせますが、ひょっとしたら、ティコ・ブラーエやガリレオを無視したのは、単純にドイツ(ないしドイツ系)の人物を連ねて、国威発揚を狙っただけかも。

日英交流を祝う望遠鏡2016年08月13日 08時06分52秒

イギリスの天文史学会Society for the History of Astronomy ; SHA)というのは、アマチュアも多く参加している、いわば好事な趣味人の集まりです。少なくとも、こんないでたちで、古い天文台の廃墟を訪ねるぐらいには好事な人たちです。


そして、ここは誰にでも開かれている団体です。私もその末席に連なって、紀要やニューズレターを送ってもらっているのですが、最新の紀要(Bulletin Issue25、2016春号)を見ていたら、「Japan」の文字が目に付きました。


「何かな…?」と目をこらすと、「ジャパン400委員会が贈呈した天体望遠鏡」と題する記事で、今から3年前の2013年に、日英交流400周年記念行事の一環として、イギリス側から日本に贈られた1台の望遠鏡を紹介する内容でした。

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日英交流400周年と望遠鏡がどう関係するかといえば、1613年、時の国王ジェームズ1世が、徳川家康に書状を添えて望遠鏡を贈ったことがあって、その望遠鏡の現物はすでに失われているのですが、この故事にちなんで、改めてイギリスから日本に望遠鏡を贈ろう…というアイデアが出されたのでした(実際に望遠鏡が発注されたのは2012年のことです)。

その後、望遠鏡はロンドン、ケンブリッジ、さらに東京の駐日イギリス大使館を経て、日本各地を巡回し、今年の6月にようやく最終目的地である、家康ゆかりの駿府城に落ち着きました。


日英友好の望遠鏡復元 家康ゆかりの地に展示 静岡 (静岡新聞2016/6/22)
 http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/253051.html

そんなわけで、ニュースとしてはさほど旧聞というわけでもないのですが、国内報道の記事には、いくぶん不正確な点が目につきます。

たとえば、この望遠鏡は、家康に贈られた望遠鏡の「復元品」ではなく、今回のイベント用に特注されたオリジナルです。また、その焦点距離は1000ミリちょうどですから、「全長1.8メートル」というのは、明らかに過大です。また金メッキも施されていません(その黄金色はブラスそのものの輝きです)。

…というわけで、日英修好のために、ここにより正確なところを記しておきます。
何と言っても、上の紀要記事の著者、 Ian Poyser さんは、この望遠鏡を製作した本人なので、望遠鏡の詳細について書くには、これ以上の人はいません。

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イアン・ポイザーさん(とお読みすると思うのですが、ひょっとしたら特殊な読み方をするかもしれません)は、ウェールズで、望遠鏡の注文製作を仕事にされている方です。

ポイザーさんは、望遠鏡の歴史的経緯を略説し、当時この望遠鏡に関わった2人の人物――ジェームズ1世の指南役だった、初代ソールズベリー伯 ロバート・セシルと、英国船を歓待した初代平戸藩主・松浦法印(諱は鎮信 しげのぶ)――の子孫が、400年後に顔を合わせて、改めて望遠鏡の授受をしたくだりを親しく記します。

当代のソールズベリー侯(今は侯爵だそうです)が、当代の松浦章氏に望遠鏡を手渡す場面や、それがロンドン塔に置かれた家康寄贈の甲冑の前に展示されている場面などは、なるほど歴史性に富み、絵になるシーンです。

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で、肝心の望遠鏡本体についてですが、ポイザーさんは「Technical description of the Japan400 Presentation Telescope」の節で詳述しているので、それをかいつまんで紹介しておきます。

 「ジャパン400委員会のために製作した望遠鏡は、寄贈用の品であり、セレモニーで用いられる贈呈品なので、持ち運びの便を考慮し、我が社が扱う通常の天体望遠鏡よりも小型化する必要があった。我々は研摩した真鍮製天体望遠鏡を経緯台に乗せ、同じく研摩した真鍮製の付属品を備えたオーク製三脚で支えることにした。」

以下、基本スペックです。

対物レンズは、イギリス製の2枚玉アクロマートで、レンズ径86mm、焦点距離は1000mm。接眼レンズは、焦点距離35mmのプローセル式で、前記の対物レンズと組み合わせることで、29倍の倍率が出ます。

鏡筒は引抜成型の真鍮筒で、チューブ径は3.5インチ(約8.9cm)、ここに合焦用のドローチューブが2つ付きます。1つはラックピニオン式の2インチ径(約5.1cm)チューブ、もう1つはさらにその内部に入った押し引き式の粗動チューブで13/8インチ径(約4.1cm)で、焦点を合わせた状態だと、全体の鏡筒長は42インチ(約107cm)ほどになります。

付属の十字線入りファインダーは口径25mm、倍率は10倍。

経緯台付きのオーク製三脚は、高さ53インチ(約1.35m)で、望遠鏡を取り付けたときの、望遠鏡の中心線までの高さは61インチ(約1.55m)になります。

望遠鏡を収めた箱は、ウェールズ在住の家具職人、S. Gates氏の力作で、釘やネジを一切使わずに組まれた職人技の賜物です。

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…と、訳知り顔で引用したものの、実は上の記事はポイザーさんのサイトに発表済みのものを、SHAの紀要が再掲したもので、オリジナルの記事はネットでも読めます。ポイザーさんの手わざを、美しい写真と共にご覧ください。

(ポイザーさんのサイトのトップページ。左下から以下の記事にリンク)

The Japan400 Telescope
 http://www.irpoyser.co.uk/index.php?page=108

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歴史にはとげとげしいエピソードが多く、日英の封建君主の思惑も、到底「友情」などという代物ではなかったでしょうが、400年後にこのイベントを企画した人たちは、まぎれもなくフレンドシップに富んだ人たちであり、これはちょっといい話だと思いました。