奈良から宇宙へ2017年05月28日 17時26分33秒


(薬師寺講堂の棟を飾る鴟尾(しび))

ゴールデンウィークに外出しなかった代わりに、昨日は奈良へ。
薬師寺の伽藍復興の一環として、かねてより進んでいた「食堂(じきどう)」が落成し、そのお披露目があるというので、参詣してきました。

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伊賀から大和に抜ける沿線は、まさに「たたなづく青垣」。
山々は燃え立つ緑に包まれ、空をゆく白雲が、山並みのところどころに影を落とし、その影が山肌をすべるようにゆっくりと移動していくのが、電車の窓から面白く眺められます。

耕地はちょうど田植えの季節で、山の斜面を上へ上へと続く棚田に張られた水は、空の青を映し、白く光り、これが日本の原風景なのだろうなあ…と、思わせるものがありました。

(伽藍の上に広がる古都の空)

電車を乗り継いで、近鉄・西ノ京駅で降りれば、すぐ目の前が薬師寺。
自慢じゃありませんけれど、私は極端な出不精で、旅行というのをほとんどしたことがないので、薬師寺に来たのは生まれて初めてです。

(法要で撒かれた散華)

薬師寺は、いわゆる奈良・天平に先行する「白鳳時代」に属し、夫婦で天皇位に就いた天武・持統両天皇が建立した寺です。そして、法要後に見学した同寺「聚宝館」で、私は白鳳の世界にしばし思いを馳せたのでした。


聚宝館では、今回の食堂完成を紀念して、工芸家の中野武氏(1945~)と、フレスコ画家の金森良泰氏(かなもりりょうたい、1946~)の作品展が行われていました。テーマは「生命(いのち)と、宇宙(そら)と: 命の形―その始まりと終わり」

私は中でも金森氏の星をテーマにしたフレスコ画に目を奪われました。

(展覧会チラシ・部分)

金森氏は、東西南北を守る四神、金の日輪と銀の月輪、そして輝く星を綴った古代の星座をモチーフとした連作を出品されていましたが、それらは明らかに高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に材を取ったもので、考えてみたら、両者はいずれも天武・持統の古代世界に属するものなのでした。

天武天皇という人は、後の「蘭学趣味にはまった殿様」のはしりのような、極端にハイカラ好みの帝で、自ら天文や遁甲の術をよくし、しかも文字面だけで満足することなく、率先して陰陽寮を作り、占星台を設け、当時にあっては最先端の「科学」である陰陽五行思想の摂取に努めた人です。

天武帝のハイカラ好みは、仏教と中国思想の混淆した世界観を生み、それは薬師寺の本尊である、国宝・薬師如来像の台座に、本来仏教とは無縁の四神像(青龍・朱雀・白虎・玄武)がはめ込まれていることにも、よく表れています。

とはいえ、こうしたハイカラ好みは、天武天皇だけの十八番(おはこ)ではなく、その後も我が国には多くの新思想が、まさに「新しい」という理由だけで流入し続け、前代の思想に接ぎ木され、独自の色合いを生み、混沌とした伝統を形作ってきました。むしろ「混沌こそ本朝の旨なり」と言うべきかもしれません。

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以下、旅の記憶のかけら。


薬師寺から唐招提寺に至る道。


創建時の姿を残す唐招提寺金堂。


輝く青もみじ。


道々拾った白鳳と天平の甍。
当時の製瓦技法に由来する紋様――凹面には布目、凸面には縄目――が浮き出ています。


当時は陶土の精練度が低かったせいか、断面に異物が顔を出しています。
中央に白く光る鉱物は、おそらく斜長石。

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1300年の時を長いと見るか、短いと見るか。
「宇宙の年齢(130億年)の1000万分の1」と聞けば、ほんの一瞬のようでもあります。

でも、たとえばウィキペディアの「宇宙の年表」の項によれば、この1300年という時間は、私たちの宇宙が、プランク時代、大統一時代、インフレーション時代、電弱時代、クォーク時代、ハドロン時代、そしてレプトン時代を経て光子時代へと至る、長い長い歴史物語を綴るのに十分な長さだと記されています。

他方、宇宙の130億歳という年齢だって、電子や陽子が崩壊に至る永劫ともいえる年月に比べれば、ほとんどゼロに等しいぐらいです。

一瞬は永遠で、永遠は一瞬。
瓦片の断面に光る斜長石のかけらに、そんな思いを重ねてぼんやりとするのが、私にとっての「良い休日」の過ごし方です。

世界は渦巻く2017年05月20日 17時32分12秒



彼は例によってもじゃもじゃの頭を掻きながら、ぼそぼそ呟いた。

「そう、銀河全体のことを考えれば、地球という微粒子上の、さらに小さな一区画で何が起ころうが、あまり大した問題ではないんですよ。」

私が何か言いたそうにするのを見て、彼は続けた。

「ただ問題はね、うなりを上げて旋回する巨大な銀河よりも、コップの中の嵐の方が、コップの中の住人にとっては、はるかに大きな影響を及ぼすってことです。」

(この銀河模型については、http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/16/5167091 を参照)

「それに―」と、彼はここで少し遠くを見るような目をした。

「このちっぽけなコップでも、そこに含まれる点の数は不可算無限であり、銀河どころか宇宙全体に含まれる点の数とも等しいのですよ。ええ、別に比喩的な意味じゃなしに、あなたが今手にしているコップ、そのコップでも同じことです。コップの中には嵐も吹くし、宇宙全体をすっぽり収めることだってできる。」

「なるほど。たかがコップ、されどコップってわけですか。」

「ええ、コップを侮っちゃいけません。」

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…というようなことを考えたのは、一昨日、天文学史のメーリングリストで、銀河系を相手にした、ある天文学者の政治信条に関する投稿を目にしたからです。

話題の主は20世紀前半に活躍した、オランダのアントン・パンネクーク

その投稿は、「このリストメンバーの中には、興味を持たれる方もおありでしょうから…」という書き出しで、以下のページにリンクを張っていました。

チャオカン・タイ(著)
 「急進左派と銀河系: アントン・パンネクークにおける科学的価値と社会主義的価値との結びつき」 (Left Radicalism and the Milky Way: Connecting the Scientific and Socialist Virtues of Anton Pannekoek)

リンク先には学術論文のアブストラクトが掲載されており、学術関係者ならばその先も読みにいけるはずですが、私が読んだのはアブストラクトだけです。その内容を適当訳すると、

 「アントン・パンネクーク(Anton Pannekoek, 1873-1960)は、有力なマルクス主義者であり、且つ革新的な天文学者だった。本稿では、天の川の見え方や、銀河系内部における恒星の統計学的分布を表現するために、彼が開発した様々な革新的手法を、認識論的価値(epistemic virtues)という枠組みを用いて分析する。それによって、彼の天文学研究が持つユニークな側面が強調されるばかりでなく、そうした側面と、彼が背負っているマルクス主義急進左派という看板との関係も明らかになるだろう。

パンネクークの天文学的手法のきわめて重要な特徴は、天文学者が果たすべき能動的役割だった。天文学者は、天の川の外見的特徴に適合するように、データをまとめ上げる直感的な能力を求められると同時に、個人的経験や銀河系の形状に関する理論的予想の影響を避けねばならなかった。

この手法により、彼はカプタイン宇宙モデル〔我々の銀河系は、直径約 4万光年で、太陽は銀河系の中心近くにあるとする説〕に否定的な結果を導き出し、代わりにハーロー・シャプレーの大銀河系説〔同じく直径約30万光年で、太陽は銀河系の中心から遠く離れているとする説〕を支持する証拠を見つけた、オランダで最初の天文学者となった。 

本稿では、まずパンネクークのマルクス主義哲学を検討し、彼の天文学的手法と史的唯物論に対する解釈は、いずれも人間精神に対する彼独自の理解を、光学的に応用すべく発展させた方略と見なしうることを論じる。」

どうも、これだけだと要領を得ないところもありますが、タイ博士によれば、パンネクークの中では、その研究活動と政治的信条が、密接不可分に結びついていたようです。

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銀河系の研究者といえば、常に広大な宇宙に心を浮遊させて、地上のことなど眼中にないんじゃないか…といえば、決してそんなことはなくて、中には積極的に政治にコミットした人もいました。もちろん、パンネクークのように、それがマルキシズムである必然性はありません。急進右派に向う人もいれば、中道に向う人もいるでしょう。

まあ、別にマルキストでもない「天文古玩」の管理人が、パンネクークを引き合いに出して力み返っても、いささか滑稽な感は否めないんですが、いずれにしても我々は(専門家も素人も)銀河の渦と同時に、コップの中の渦から逃れることはできませんし、両方に等しく関心を持って生きるのが自然ではなかろうかと思います。




空の旅(9)…『コスモグラフィア・ウニヴェルサリス』2017年04月26日 22時52分50秒

いつでも、どこでも、そこに人がいる限り、星との関わりが生まれ、星をめぐる物語が生まれ、そしてまた「物語をものがたるモノ」も生まれます。そんなモノを眺めながら、時代と国を越えて歩き続ける「空の旅」――。

何だか、ひどく大層なことにも聞こえます。
これが金満的な大規模展、例えば、今年の正月まで六本木の森美術館でやっていた、宇宙と芸術展とかなら分かるのですが、わびし気な天文古玩の管理人がチマチマとやれることなのかどうか…?

まあ、侘しかろうが何だろうが、多少の土地勘と想像力さえあれば、どんなに遠い旅だって、できないことはないぞ…と、幾分強がりまじりに思います。
それはちょうど、小口径の望遠鏡しか持たない人や、都会のひどく貧弱な星空の下で暮らす人でも、想像力でそれを補えば、いくらでも星の世界に分け入ることができるのと同じでしょう。

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…と、言い訳をしたところで、旅を続けます。
これまで古代オリエントから出発して、イスラム世界、インド亜大陸、モンゴルの大地をたどってきましたが、ここで踵(きびす)を返して、西洋の天文学に話題を戻します。

イスラム世界からバトンタッチを受けて、試行錯誤をしながらも、天文学を大きく前進させたのは、ルネサンス以降のヨーロッパの人々であることは間違いありません。そんな時代の記憶を伝える紙物2点。


 「いずれも、ゼバスチアン・ミュンスター(Sebastian Münster, 1488?-1552)『一般宇宙誌(Cosmographia Universalis)』から取った一頁(元は1552年のバーゼル版か)。古代のプトレマイオスや、アラブ世界の天文学者について記す章の挿絵ですが、おそらく同時代の天文学者や占星術師の姿を反映した絵柄。手にしているのは四分儀です。」


ラテン語の説明文はさっぱりながら、「In parallelo qui transit per 72. dies maior est trium…」で始まる頁冒頭からボンヤリ眺めていると、「sphaerae mundi」とか、「parallelus conplectitur 24 horas diei et noctis」とか、何となく天文学や地理学の話題を語っているのだろうなあ…と感じられるものがあります。


まだ望遠鏡登場以前のこの時代、天体観測を表わすイコンは四分儀でした。
…というわけで、次回は四分儀です。

(この項つづく)

空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

   ★

インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。

空の旅(2)…ディスプレイのこと2017年04月13日 22時06分35秒

今回学んだのは、「ディスプレイの道は奥が深いなあ」ということです。

例えば本を展示するというのも、これがなかなか難しい作業。
ここに印象的な天文古書があるとして、私としては一冊の本を前に、あのページ、このページ、いろいろな構図がいっせいに脳裏に浮かんで、「これなら展示に堪えるんじゃないか」と思うのですが、実際に並べるときは、どれか1ページしか開けないわけで、知らない人が見たら、汚れた古本がポンと置かれているだけ…ということにならざるを得ません。


ネット上でヴァーチャル展示する場合は、そういう制約がないので、中身を存分に紹介できるのですが、リアルな展示というのは、その辺の縛りがきつく、なかなか本一冊を並べるのでも、その「見せ方」は難しいです。

幸いなことに、今回はantique Salon さんら、ディスプレイに関してはプロの方が展示を手がけられ、さらに展示意図を補強するためのキャプションも添えていただいたので、望みうる最高の展示となりましたが、それでもご覧になった方は、ちょっと地味な印象を受けたのではないかと思います。

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もっとも、これはディスプレイの問題にとどまらず、「天文古玩的世界」(と仮に呼びますが)の本来的な性格に因るのかもしれません。

たしかに、豪奢なオーラリーとか、極彩色の天球図とか、精巧な天文時計とか、そういう艶やかなものをずらりと並べれば、ビジュアル的には人目を引くでしょうが、そういう品が手元にないという、自明な前提は脇に置くとして、基本的に天文古玩的世界は、半ば思念の力に支えられた、イマジナリーな世界です。

例えるなら、『宮沢賢治の世界展』を開くとして、そこに賢治の初版本や、ゆかりの品々をずらり並べても、それを見ただけで賢治の世界を理解できることは、おそらくないでしょう。賢治世界というのは、やはり作品を通して成立する、モノを超えたイマジナリーな世界です。

モノというのは、ときに興味深く、ときに美しく、ときには聖性すら帯びますが、神像を拝む人が、本当は神像ではなく、その向うの神様を拝んでいるように、天文古玩的世界も、モノは一種の触媒に過ぎず、本当はモノによって賦活される「理」や「情」の世界こそが肝だと思います。

以前の話を蒸し返しますが、『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが時計屋の店先で、星図や星座早見盤にじっと見入るシーン。あれも、ジョバンニが学校で銀河についての授業を受けていなかったら、あるいは友人カンパネルラの家で銀河の本を読んでいなかったら、あれほどジョバンニの心を惹きつけたかは疑問です。

天文アンティークというのは、背景となる知識があればこそ、その魅力が光を放つものであり、それがなければ、単に「薄汚れたガラクタ」と思われても仕方ありません。

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…と、単体では自立しがたいモノを並べたことに対する言い訳めいた感じがなくもないですが、当日展示したモノについて、ここで再度思いの丈を語りながら、紙上ならぬ画面上展示を試みることにします。(それでも、なおモノが光を放たなかったとしたら、それは私の語り口が不味いせいです。)

(この項つづく)


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閑語(ブログ内ブログ)

「深い淵は決して音を立てない。
 浅い川ほど大きな音を立てる。」

という金言があります。
もちろん、ここで浅い・深いというのは、人間の度量の大きさといったようなことで、やかましく騒ぎ立てるのは大抵浅い人間だと、昔から相場が決まっています。

しかし、ここに来てどうでしょう。
やかましく騒ぎ立てているのは、他ならぬ私自身であり、淵の如く静まり返っているのは世間一般です。まあ、私の底が浅いのは進んで認めますが、それにしても…。

狂った政体というのは、昔からたくさんあるので、今の日本の政権もそのワン・オブ・ゼムに過ぎないし、そういうものとして彼らは存在しているのだ…というのは、(不愉快な事実ですが)理解はできるのです。

しかし、それを前にして、この静けさはいったいどういうわけでしょうか。
警察国家のように、何か言えば即しょっぴかれる、というなら沈黙を強いられるのも分かります。しかし、現政権はそうした国家を目指しながら、実際にはまだ道半ばであり、今はまだ何でもものが言える世の中です。それなのになぜ? わが同胞は、私の浅い理解を超えて、途方もなく度量が大きいのか?

これまで、自分なりにいろいろ人間を観察してきましたが、この疑問はそれこそ淵の如く、なかなか深いです。


空の旅(1)…神保町発、時の彼方へ2017年04月11日 22時18分38秒

先月下旬、神保町の三省堂で開催された「第5回 博物蒐集家の応接間」は無事に終わりました。

既報のように、私も antique Salon さんに誘っていただいて、お味噌参加したのですが、なかなか時間も乏しく、十分な準備ができませんでした。かと言って十分時間があれば、あれ以上のものができたかと言えば大いに疑問で、やっぱりあれが私の限界なのでしょう。

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会期中の場内の雰囲気は、主催者である antique Salon  さんによる以下のページでご想像いただけると思います。

■第5回 博物蒐集家の応接間 旅の絵日記 を終えて
こういう耽美な会場の隅に、ちょっと地味な一角があって、それが「天文古玩的旅イメージ」のコーナーなのでした。


これのどこが「旅」なのか?
ここで「旅人」になぞらえられているのは、「人類」ないし「天文学という知の営み」です。


「彼/彼ら」は、遠い昔、ユーラシアの一角で旅ごしらえをし、古代ギリシャでその足を鍛えると、イスラム諸王朝、インド亜大陸、中央アジア、東アジアをくまなく歩きまわり、ヨーロッパ世界でその旅装束を一新しました。(本当は南北アメリカにも、彼の兄弟がいるのですが、そちらには目配りできませんでした。)


その長い旅の果てに、再びギリシャの地に立ち寄った彼は、こんな記念の品を残しています。


1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

(もう少し展示の話を続けます。この項つづく)

ガリレオの瞳2017年02月18日 14時46分01秒

先日、ガリレオ(Galileo Galilei、1564-1642)の誕生日が2月15日だというので、いくつか関連の記事を目にしました。

ただし、ガリレオはユリウス暦とグレゴリオ暦の端境期を生きた人で、誕生日の2月15日というのも、昔のユリウス暦のそれだそうです。今の暦に直すと、1564年2月25日が誕生日。いずれにしても、彼は今月で満453歳を迎えます。

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ガリレオの名を聞いて思い出したのが、下のカメラ。
1950年代前半に出た、イタリアのフェラーニア社製「エリオフレックス」。


これも「クラシック・カメラ」と言って言えないことはないのでしょうが、戦後の量産品ですから、わりとどこにでも転がっています。それでも、これを購入したのは、その出自がやっぱり天文古玩的な色彩を帯びているからです。


それは、このカメラが、ガリレオの名を負っていること。
レンズの脇には「オフィチーネ・ガリレオ(ガリレオ製作所)」の名が見えます。


オフィチーネ・ガリレオは、1862年にさかのぼるイタリアの老舗光学メーカー。
今では光学機器にとどまらず、光電子機器の製造も行なっています。

光学機器メーカーとしてはちょっと異色ですが、オフィチーネ・ガリレオの創設者は、二人の天文学者、アミーチ(Giovanni Battista Amici、1786-1863)と、ドナティ(Giovanni Battista Donati、1826-1873)で、さらに遡れば、1831年にアミーチが職人たちをモデナから呼び寄せ、フィレンツェ天文台の隣に光学機器製造の工房を設けたのが、その淵源だそうです。当然、その社名は尊敬する大先輩のガリレオにちなむものでしょう。

(19世紀の広告カードに描かれた、往時のオフィチーネ・ガリレオの建物。中央上部にガリレオの肖像。「オフィチーネ・ガリレオ創立150周年記念展」の案内ページより。

同社の光学製品は、明治の日本海軍にも納入されたそうですから、日本との縁も浅からぬものがあります。そして、その後も長く軍用品の製造に携わったのは、同社の技術力の高さを物語るもので、同社はイタリア国内のメラーテ天文台や、アジアーゴ天文台のような、プロユースの大型望遠鏡も手がけました。

(eBayで見かけた、オフィチーネ・ガリレオを舞台にした戦前の労働争議の図。ジブリの「紅の豚」的光景。歴史が長ければ、それだけいろいろなドラマがあるものです。)

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そんなわけで、この安手のカメラは(今では埃にまみれているとはいえ)「ガリレオの瞳」を持ち、その向うにイタリアの光学機器製造の歴史が仄見えるのです。


なお、冒頭、このカメラをフェラーニア社製と書きましたが、同社の本業はフィルムメーカーで、オフィチーネ・ガリレオ製のカメラに、自社の名前を入れて販売していた由。つまるところ、このカメラは、ボディも含めて全てオフィチーネ・ガリレオの工場で生まれたもののようです。


【参考リンク】

1)オフィチーネ・ガリレオについて
Museo Galileo「Scientific Itineraries in Tuscany(トスカーナ地方科学の旅)」より
 「オフィチーネ・ガリレオ」の項

2)フェラーニア社とガリレオ社について
クラシックカメラの物語「デザインのイタリアカメラ」

再びハリーとハレー2017年01月04日 07時25分47秒

ハレー彗星と、その発見者であるエドモンド・ハレーに関する昨日の記事に、常連コメンテーターのS.U氏からコメントをお寄せいただきました。それに対してお返事を書いていたら結構な分量になったので、他の方からのご教示も期待しつつ、以下にその内容を記しておきます。S.Uさんの元のコメントと併せてごらんいただければと思います。

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S.Uさま
 
ご教示ありがとうございます。
以前、S.Uさんが目にされたメーリングリスト上の議論に接していないので、あるいは単なる蒸し返しになるかもしれませんが、私なりに考えたことを下に記してみます。

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まず、外来語の表記について、お上が何か言っているかな?と思って調べたら、文科省がずばり「外来語の表記」という内閣告示を出していました。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19910628002/k19910628002.html

でも、これはものすごくゆるくて、ほとんど何も言ってないに等しいです(慣用があるものは慣用に従え、語形に揺れがあるものはどっちでも良い、特別な音の書き表し方は特に制限を設けず自由に書いてよい…etc.)。他の決め事も、全てこれぐらい大らかだと結構なのですが、それはともかくとして、今に至るまで外来語の表記について、しっかりした官製ルールはないように見受けられます。

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「-ley」の日本語表記が揺れているのは、Halleyの他にも、Stanley(スタンレー、スタンリー)やBentley(ベントレー、ベントリー)のように、いくらもあるでしょうが、私見によれば、この揺れの背後にある根本原因は、横文字を日本語で表記する際の「2大ルール」がコンフリクトを起こしていることで、その根はなかなか深いと思います。

全くの素人談義ですけれど、その2大ルールとは「原音主義」と「ローマ字準拠主義」で(勝手な命名です)、たとえば同韻の単語でも、potatoは原音主義により「ポテト」、tomatoはローマ字準拠により「トマト」となるように、英単語の表記は、この両者の間を歴史的に絶えず揺れ動いてきました。

前者は、音声言語でやりとりする際に利があり、後者は日本語から原綴を復元しやすく、文字言語でやりとりする際に利があります。(まあ、これはスペルと発音の乖離が著しい英語だから悩むのであって、独仏語なんかの場合は、ローマ字を持ち出すまでもなく、それぞれの発音ルールにしたがって音写すればことが足ります。)

ハリーとハレーの差も、結局は原音主義をとるか(ハリー)、ローマ字準拠主義をとるか(ハレー)の違いによるもので、それぞれ一長一短がありますから、なかなかすっきりと結論は出そうにありません。

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ただ、ハレーに関していうと、これはやや中途半端な表記で、完全にローマ字準拠主義をとるなら「ハルレイ」となるはずで、実際、明治期にその用例があります(下述)。おそらく、その後「ハルレイ」→「ハレイ」→「ハレー」という変化を経て、ハレーが定着したのでしょう。

昭和8年(1933)に出た、山本一清・村上忠敬著の『天文学辞典』では既に「ハレー」となっており、この頃には既にハレーがかなり一般化していたことを窺わせます(同時期、荒木俊馬は「ハレイ」を使っていて、昭和戦前は「ハレイ」と「ハレー」が混在していたようです)。

参考までに手元の明治期の本を見ると、

○小幡篤次郎 『天変地異』(1868) ハルリー
○西村茂樹訳・文部省印行 『百科全書 天文学』(1876) 哈勒(「ハルレイ」とルビ)
○文部省印行 『洛氏天文学』(1879) ハルレー
○横山又次郎 『天文講話』(第5版、1908) はれー
○本田親二 『最新天文講話』(1910) ハリー
○須藤傅治郎 『星学』(第9版、1910) ハーレー

となっており、「リー」と「レー」の間で、表記がずっと揺れていますが、どうもこの頃から「レー」が優勢だった気配もあるので、ハレーの普及を抱影翁一人の責めに帰すのはやや酷かもしれません。(でも「あの」抱影がハレーと書けば、全国の天文ファンも当然右にならえしたでしょうから、抱影の影響も必ずやあったことでしょうね。)

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なお、抱影がどこからそれを引っ張ってきたかは不明ですが、「エドマンド」は明らかに「Edmund」を意識したものと思います。

姓は針井、名は江戸主水2017年01月03日 11時42分36秒

新年から小ネタです。

なんとなくウィキペディアのハレー彗星の項を見ていたら、この「ハレー彗星」という表記は間違いで、「ハリー彗星」と書くのが正しいのだ…という議論があることを知りました。ウィキペディアだと、本編の記述ではなく、ノートのページでその議論が行われています。傍から見ると、かなり感情的な言葉の応酬で、ちょっと身構えるものがありますが、そこまで情熱的になれるのは、ある意味すごいことです。

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「ハリー派」の論拠は、主にネイティブの発音は「レー」より「リー」に近いというもので、私の耳にも確かにそう聞こえます。

でも、そうすると Edmond Halley のファーストネームの方は「エドモンド」のままでいいのか、NHKのアナウンサーはこれを「江戸主水」と同じ読み方をするでしょうが、これは元の「Edmond」の発音とは相当距離があって、そっちはそのままでもいいのか?…という疑問が頭をもたげます。

では、他にどう書けばいいのか?と問われても、特に名案はなくて、結局のところ英語の音韻を、日本語の五十音(限られた子音と母音)で表記するのは、最初から無理なのだ…と達観するほかない気もします。その意味では、ハレーもハリーも五十歩百歩だというのが、偽らざる感想です。

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で、今日改めて知ったのは、実はこのハレー彗星とエドモンド・ハレーの発音をめぐっては、ネイティブの間でも意見が分かれているということです。ただし、それは「レー」と「リー」の違いではなく、冒頭の「ハ」の字の部分です。

Wikipediaの「Halley's Comet」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Halley's_Comet)を見ると、一番最初に「発音 Pronunciation」という節があって、

 「ハレー彗星は、通常『valley』と同韻の /ˈhæli/〔ハリー〕、もしくは『daily』と同韻の /ˈheɪli/〔ヘイリー〕と発音される。Edmond Halley の名前の綴りは、彼が在世当時、Hailey、Haley、Hayley、Halley、Hawley、Hawlyと様々であり、同時代にどのように発音されたかははっきりしない。」

と書かれています(出典として、ニューヨークタイムズの「サイエンスQ&A」の記事が挙がっています)。要は「ハリー」か「ヘイリー」かで、向うの人も悩んでいるようなのです。

このことは、「Edmond Halley」の項(https://en.wikipedia.org/wiki/Edmond_Halley)を見たら、「発音と綴り Pronunciation and spelling」の節で、さらに詳しく書かれていました。ざっと適当訳してみます(改段落は引用者による)。

 「Halley という姓には3通りの発音がある。
イギリスでも
アメリカでも、最も普通なのは、/ˈhæli/〔ハリー〕である。これは、現在ロンドンで暮らしている Halley 姓の人の多くが、自ら用いている発音である。

それに代わる/ˈheɪli/〔ヘイリー〕というのは、ロックンロール歌手のビル・ヘイリーと共に育った世代が、エドモンド・ハレーとその彗星を呼ぶ際に、しばしば好んで用いる発音である。ビル・ヘイリーは、ハレー彗星の読み方として、当時〔1950年代〕のアメリカでは一般的だった発音〔ヘイリー〕をもじって、自分のバックバンドを「コメッツ」と呼んだ〔最初は「Bill Haley with Haley's Comets」、後に「Bill Haley & His Comets』が、そのグループ名〕。

ハレーの伝記作家の一人であるコリン・ロナンは、/ˈhɔːli/〔ホーリー〕という発音を好んだ。

同時代の記述は、ハレーの名前をHailey、Hayley、Haley、Haly, Halley、Hawley、Hawlyと綴っており、おそらく発音も同様に多様だったろう。」

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そして、「エドモンド」というファーストネームについても議論があるようで、Wikipediaは上の説明に続けて、

 「そのファーストネームに関していうと、1902年の〔タイムズ紙掲載の〕ある記事は、『Edmund』という綴りの方がずっと一般的ではあるが、『Edmond』こそ、ハレー自身が用いた綴りだとしている。

しかし、2007年の『International Comet Quarterly』誌掲載の論文は、これに異を唱えている。同論文は、ハレーの公刊された著作の中で、『Edmund』は22回も使われているのに、『Edmond』はたったの3回しか使われておらず、また他にもラテン語化された『Edmundus』のような、いくつかのバリエーションが用いられていることを指摘している。

こうした議論の多くは、ハレーが生きた時代には、英語の綴字の慣習はまだ標準化されておらず、したがってハレー自身も複数のスペリングを用いたという事実に由来している。」

と、その間の事情を明かしています。

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こういうのは、行き過ぎると「言葉咎め」や、さらには「言葉狩り」のようになって良くないですが、しかし一歩踏み込んでみると、興味深い事実が分かりますし、いろいろ考えさせられます。

(本人自身がどう発音していたかは、最も重要な基準でしょうが、これも行き過ぎると、「宮沢賢治を欧文表記するときは、“Miyazawa Kenzu”が正しい」…ということにもなりかねません。)

至宝登場2016年11月26日 14時57分36秒

『皇帝天文学』については、天文学史の泰斗、オーウェン・ギンガリッチ氏が、著書(邦題 『誰も読まなかったコペルニクス、早川書房、2005)の中で、それにまつわるエピソードを紹介しています。


その1つが、『皇帝天文学』が世に出てから40年後、1580年にティコ・ブラーエがこの本を大枚はたいて購入し、謎の多い天文学者パウル・ヴィッティッヒへの贈り物にした逸話で(そのときヴィッティッヒは、客人としてティコの城に滞在していました)、ティコの献辞が入ったその現物は、現在、シカゴ大学図書館にあるといいます(邦訳139頁以下、「第7章 ヴィッティッヒ・コネクション」参照)。

ギンガリッチ氏は、地動説が知識層にどのように受容されていったか、それをコペルニクスの『天球の回転について』の欄外書き込みを比較考証して跡付けるという、聞くだに大変な研究――何せ『天球…』の初版に限っても世界中に分散所蔵されているのですから――に手を染め、そのあれこれの追想記が、この『誰も読まなかったコペルニクス』で、まあ一種の「古書探偵譚」です。

氏の探索の手は、同時代の天文学書にも及び、『皇帝天文学』の書誌も当然のごとく熟知し、それについてさらにこう記しています(邦訳p.210。途中改行は引用者)。

 「エディツイオン・ライプツィヒは、すばらしい印刷の美術書や、図書館にある貴重な本の複製を刊行してドルを稼ぐことに熱心な東ドイツの大手出版社だった。

16世紀の出版界における偉業の一つは、『回転について』のわずか3年前に出版された、ペトルス・アピアヌスの『皇帝天文学』で、ブラーエが熱烈な思いをこめてヴイツティッヒに贈った豪華な本だ。この本は、回転円盤〔ボルベル〕がふんだんについた天体図をいくつも収め、人の手ですばらしい彩色を施した巨大な二つ折り判だった。一番複雑に組み合わされたボルベルは7層に重なり、プトレマイオス説の周転円の理論をシミュレーションして水星の経度を見つけるという、アナログコンピュータの機能をもっていた。

 エディツイオン・ライプツィヒは、チューリンゲン州中部のゴータの図書館にあった一冊のばらばらになった本をもとにして豪華な複製本を作り上げた。」

これが即ち昨日言及した複製本で、1967年に、全部で750部が作られました。
国内では東大の駒場図書館や、国立天文台の三鷹図書室が所蔵しており、千葉市はオリジナルの他に、複製本も持っているそうです。

複製本の方は、オリジナルのように何千万円ということはなくて、何十万円…というのも言い過ぎで、古書価だと十何万円です(「何十万」と「十何万」は似て非なるもの也)。


だから、我が家にもあります。
十何万というと、「お宝鑑定団」では「はい残念でした」レベルですが、言うまでもなく我が家にあるモノの中では最も高価な部類で、ボーナスをはたいて買った、まさに「我が家の至宝」。

このささやかな至宝を眺めながら、さらにギンガリッチ博士の言葉に耳を傾けてみます。

(この項つづく)