星座神話のかけら2017年08月28日 07時06分19秒

一昨日の記事を書いた際、下の幻灯スライドのことを連想しました。


これは「ギリシャ時代のコインに見られる星座の姿」を写したもので、製作者は幻灯メーカーのニュートン社(ロンドン)。


キャプションを見ると、元はイギリスの科学雑誌『ナレッジ Knowledge』(1881~1918)に掲載された図です(同誌は1885年に週刊から月刊になり、巻号表示が変更されたため、以後「New series」と称する由)。

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これが一昨日のモザイク画とどう結びつくかと云えば、ギリシャ・ローマの天文知識を、生の形で(つまり後世のフィルターを通さずに)知る方法はないか?…という問題意識において、共通するものがあるからです。

我々は空を見上げて、ギリシャ由来の星座神話を気軽に語りますが、星座絵でおなじみの彼らの姿は、本当にギリシャ人たちが思い描いた姿と同じものなのか?

まあ、この点は有名な「ファルネーゼのアトラス像」なんかを見れば、少なくともローマ時代には、今の星座絵と同様のイメージが出来上がっていたことは確かで、それをギリシャまで遡らせても、そう大きな間違いではないのでしょう。

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とはいえ、何かもっと生々しい、リアルな資料はないか…?
そこで、コインの出番となるのです。


その表面に浮き出ているのは、星座絵そのものではないにしろ、確かに昔のギリシャの人が思い描いたペガサスであり、ヘラクレスであり、牡牛や牡羊などの姿です。

しかも、その気になれば、それらは現代の貨幣と交換することだってできるのです。
古代ギリシャの遺物を手にするのは、なかなか容易なことではないでしょうが、コインは例外です。絶対量が多いですから、マーケットには今も当時の古銭がたくさん流通しています。

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天文を中心に、『理科趣味』の雅致を、モノにこだわって嘆賞するサイト」の管理人であるところの私が、大昔の星座神話の欠片に惹かれるのは自然です。実際、購入する寸前までいきました。

でも、ここで「待てよ…」という内なる声が聞こえたのは、我ながら感心。
考えてみると、コインというのは、「なんでも鑑定団」でも、それ専門の鑑定士が登場するぐらい特殊な世界ですから、やみくもに突進するのは危険です。

たとえば下のサイトを見ると、粗悪なものから精巧なものまで、贋物コインの実例が山のように紹介されています。

■Calgary Coin: Types of Fake Ancient Coins

これを見ると、世の中に本物の古銭はないような気すらしてきます。実際には、やっぱり本物だって多いのでしょうが、いずれにしても、ここは少し慎重にいくことにします。(上のページの筆者、Robert Kokotailo氏も、「市場に流通しているコインの多くは本物だ。初心者にとって大事なのは、何よりも信頼のおける確かな業者を選ぶことだ」と述べています。至極常識的なアドバイスですが、これこそ古今変らぬゴールデンルールなのでしょう)。

マッチョな天文学者2017年08月26日 09時34分12秒

昔々の天文学者、たとえば紀元2世紀のプトレマイオスの姿というのは、はるか後世の想像図を通じて漠然とイメージされるだけで、実際どんな姿恰好をしていたかは分からないものだ…と思っていました。

(16世紀後半に本の挿絵として描かれたプトレマイオス。ウィキペディアより)

でも、それは私が無知なだけで、実は古代ローマ時代の天文学者の姿を描いた、同時代の絵画があることを偶然知りました。

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それはイギリス南部の島・ワイト島にあって、昔ブリタニアがローマ領だった頃、この島に建てられたヴィラを彩るモザイク画として残されたものです。

このヴィラの遺構は、19世紀に偶然発見されるまで土中にあったので、保存状態も良く、現在では遺跡全体を建物で覆った博物館ができています。
 
(Brading Roman Villa。 公式サイトはhttp://www.bradingromanvilla.org.uk/index.php) 
  

で、その一角に問題の天文学者像があります。


傍らに置かれた天球儀や水盤のような器具も目を引きますし、アーミラリースフィアらしきものを指示棒で指しながら、何やら思案に暮れている様子も興味深いです。

そして、いかにも古代ローマの人らしく、もろ肌脱ぎで、妙に筋肉質なところが、私にとっては目から鱗。これだけでもルネサンスの青白い天文学者とは、ずいぶんイメージが違いますし、ましてや、星の縫取り模様のマントを着て、三角のとんがり帽子をかぶった「お伽の国の天文学者」なんかとは、彼は全然異質の存在です。

まあ、この絵のモデルがプトレマイオスというわけでもありませんし、プトレマイオスが、こんなふうに筋肉モリモリだったかどうかは分かりませんが、その知的活動が身体的強壮に裏打ちされたものであることは確かでしょう。

そして、頑健な人は、得てして自分を中心に世界が回っているように思うものだ…というのは冗談ですが、健康状態によって世界の見え方が変わるのは、たしかに経験的事実です。

月遅れの七夕に寄せて:七夕和歌集(前編)2017年07月29日 12時46分08秒

アブラゼミに続いてクマゼミも鳴き出し、煮えるような暑さです。

汗を拭きながら出勤する途中、緑の濃いお宮の脇を通るのですが、その境内の片隅に、大きな「忠魂碑」が立っています。その表面につかまる物言わぬ蝉の抜け殻を見ると、もうじき訪れる8月のことをボンヤリと考えます。 (以下、「閑語」につづく)

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7月ももうじき終わりですが、バカンスと称して、記事の方を一服したせいで、今月は七夕に関する話題がひとつもありませんでした。でも、さっき暦を見たら、今年は「閏5月」が挟まったおかげで、旧暦7月の到来も後ろにずれて、8月27日が旧の七夕だそうです。では昨年は…というと、去年は8月9日が旧の七夕でした。

こういう風に、年によって年中行事の日取りが大きく前後にずれてしまうので、「旧暦の方が自然の季節感にフィットしている」というのは、全くの誤解です。

太陽と地球の位置関係(=季節のめぐり)を考えると、毎年ほぼ同日に、夏至や冬至、春分や秋分を迎える太陽暦の方が、よほど季節に忠実です。

ただ、旧暦の日付けで催していた季節行事を、そのまま新暦で強行すると、いろいろ不具合が出て、「新春」の正月行事を、冬の真っ最中に祝ったり、「初秋」の行事である七夕を真夏の、しかも梅雨時明け前に行うというような、いかにも不自然な結果になります。

いっそ、月遅れのお盆(8月15日)のように、旧来の行事は全部月遅れで行うことにすれば、季節感の点では問題ないのでしょうが、「7月7日」のように、“ゾロ目”に有難味がある行事だと、それも難しいかもしれません。

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月遅れの七夕を前に、こういう便利な本があることを知りました。


吉田栄司(編)、『七夕和歌集』(古典文庫 第559冊)、平成5年
(なお、古典文庫という一大叢書については、こちらに解説があります)

七夕を詠んだ古歌のアンソロジーは、『七夕星歌抄』『二十一代集七夕哥寄』をはじめ、江戸時代に繰り返し編纂されており、それらを一書にまとめて翻刻し、さらに索引を付したのが本書です(和歌の他、『新撰七夕狂歌集』のような近世の狂歌集も一部含まれます)。

(口絵および目次)

気になる歌に付箋を貼りながら読んでみたので、そのことをメモ書きしておきます。

(この項つづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

(冒頭のつづき)
死とは厳粛なものでしょう。しかし、数に還元された死となると…

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  私達は食用蛙です!
  クロツケ
  クロツケ
  泣け! 叫べ!
  〔…〕
  人間の屠殺だ!
  レケロ
  レケロ
  〔…〕
  卓上の噴水! 赤灯! 黄色の円――納棺だ!
  「万歳!」「万歳!」
  「ウラー!」――死人の山だ!

ダダイスト詩人の萩原恭次郎は、かつてこんな激烈な反戦詩を書きました。こうなると、もはや尊厳も何もありはしません。繰り返しますが、死とは厳粛なもののはずです。その意味で、私には「靖国」という、およそ本来の神道とは程遠い、近代国家の発明品が、至極不真面目なものに思えるのです。

   ★

昨日の朝日新聞を開いたら、「平成と天皇―首相経験者に聞く」と題して、鳩山元総理のインタビューが載っていました。その中で、鳩山さんは首相として内奏に臨んだ思い出をこう語っています。

 「陛下が、皇太子時代に美智子さまと訪れたアフガニスタンで自爆テロが頻発していることについて、『自分の命を失うことで天国に召されると信じている人びとに、自爆テロをやめさせるにはどうすればいいんでしょうか』とおっしゃったことがある。『若者を過激なイスラム主義に追いやっている貧困に手立てを講じることが、結果的に自爆テロをなくす道につながるのではないでしょうか』と申し上げたが、難しい問いに言葉に詰まった」

このとき天皇の脳裏には、かつての日本のことも同時に浮かんでいたのではないか…という疑念を私は持ちます。現天皇はまことに肝の据わった人で、そのリベラルな思想と相まって、私は大いに好感を持っていますが、さらに上のような問題意識を常に持っているとしたら、いよいよ立派な人物であり、ここはむしろ天皇自らの答を伺ってみたい気がします。

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8月の空を見上げて、忠魂の「忠」の意味合いを、私は通勤の度に考えるでしょう。

奈良から宇宙へ2017年05月28日 17時26分33秒


(薬師寺講堂の棟を飾る鴟尾(しび))

ゴールデンウィークに外出しなかった代わりに、昨日は奈良へ。
薬師寺の伽藍復興の一環として、かねてより進んでいた「食堂(じきどう)」が落成し、そのお披露目があるというので、参詣してきました。

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伊賀から大和に抜ける沿線は、まさに「たたなづく青垣」。
山々は燃え立つ緑に包まれ、空をゆく白雲が、山並みのところどころに影を落とし、その影が山肌をすべるようにゆっくりと移動していくのが、電車の窓から面白く眺められます。

耕地はちょうど田植えの季節で、山の斜面を上へ上へと続く棚田に張られた水は、空の青を映し、白く光り、これが日本の原風景なのだろうなあ…と、思わせるものがありました。

(伽藍の上に広がる古都の空)

電車を乗り継いで、近鉄・西ノ京駅で降りれば、すぐ目の前が薬師寺。
自慢じゃありませんけれど、私は極端な出不精で、旅行というのをほとんどしたことがないので、薬師寺に来たのは生まれて初めてです。

(法要で撒かれた散華)

薬師寺は、いわゆる奈良・天平に先行する「白鳳時代」に属し、夫婦で天皇位に就いた天武・持統両天皇が建立した寺です。そして、法要後に見学した同寺「聚宝館」で、私は白鳳の世界にしばし思いを馳せたのでした。


聚宝館では、今回の食堂完成を紀念して、工芸家の中野武氏(1945~)と、フレスコ画家の金森良泰氏(かなもりりょうたい、1946~)の作品展が行われていました。テーマは「生命(いのち)と、宇宙(そら)と: 命の形―その始まりと終わり」

私は中でも金森氏の星をテーマにしたフレスコ画に目を奪われました。

(展覧会チラシ・部分)

金森氏は、東西南北を守る四神、金の日輪と銀の月輪、そして輝く星を綴った古代の星座をモチーフとした連作を出品されていましたが、それらは明らかに高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に材を取ったもので、考えてみたら、両者はいずれも天武・持統の古代世界に属するものなのでした。

天武天皇という人は、後の「蘭学趣味にはまった殿様」のはしりのような、極端にハイカラ好みの帝で、自ら天文や遁甲の術をよくし、しかも文字面だけで満足することなく、率先して陰陽寮を作り、占星台を設け、当時にあっては最先端の「科学」である陰陽五行思想の摂取に努めた人です。

天武帝のハイカラ好みは、仏教と中国思想の混淆した世界観を生み、それは薬師寺の本尊である、国宝・薬師如来像の台座に、本来仏教とは無縁の四神像(青龍・朱雀・白虎・玄武)がはめ込まれていることにも、よく表れています。

とはいえ、こうしたハイカラ好みは、天武天皇だけの十八番(おはこ)ではなく、その後も我が国には多くの新思想が、まさに「新しい」という理由だけで流入し続け、前代の思想に接ぎ木され、独自の色合いを生み、混沌とした伝統を形作ってきました。むしろ「混沌こそ本朝の旨なり」と言うべきかもしれません。

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以下、旅の記憶のかけら。


薬師寺から唐招提寺に至る道。


創建時の姿を残す唐招提寺金堂。


輝く青もみじ。


道々拾った白鳳と天平の甍。
当時の製瓦技法に由来する紋様――凹面には布目、凸面には縄目――が浮き出ています。


当時は陶土の精練度が低かったせいか、断面に異物が顔を出しています。
中央に白く光る鉱物は、おそらく斜長石。

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1300年の時を長いと見るか、短いと見るか。
「宇宙の年齢(130億年)の1000万分の1」と聞けば、ほんの一瞬のようでもあります。

でも、たとえばウィキペディアの「宇宙の年表」の項によれば、この1300年という時間は、私たちの宇宙が、プランク時代、大統一時代、インフレーション時代、電弱時代、クォーク時代、ハドロン時代、そしてレプトン時代を経て光子時代へと至る、長い長い歴史物語を綴るのに十分な長さだと記されています。

他方、宇宙の130億歳という年齢だって、電子や陽子が崩壊に至る永劫ともいえる年月に比べれば、ほとんどゼロに等しいぐらいです。

一瞬は永遠で、永遠は一瞬。
瓦片の断面に光る斜長石のかけらに、そんな思いを重ねてぼんやりとするのが、私にとっての「良い休日」の過ごし方です。

世界は渦巻く2017年05月20日 17時32分12秒



彼は例によってもじゃもじゃの頭を掻きながら、ぼそぼそ呟いた。

「そう、銀河全体のことを考えれば、地球という微粒子上の、さらに小さな一区画で何が起ころうが、あまり大した問題ではないんですよ。」

私が何か言いたそうにするのを見て、彼は続けた。

「ただ問題はね、うなりを上げて旋回する巨大な銀河よりも、コップの中の嵐の方が、コップの中の住人にとっては、はるかに大きな影響を及ぼすってことです。」

(この銀河模型については、http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/06/16/5167091 を参照)

「それに―」と、彼はここで少し遠くを見るような目をした。

「このちっぽけなコップでも、そこに含まれる点の数は不可算無限であり、銀河どころか宇宙全体に含まれる点の数とも等しいのですよ。ええ、別に比喩的な意味じゃなしに、あなたが今手にしているコップ、そのコップでも同じことです。コップの中には嵐も吹くし、宇宙全体をすっぽり収めることだってできる。」

「なるほど。たかがコップ、されどコップってわけですか。」

「ええ、コップを侮っちゃいけません。」

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…というようなことを考えたのは、一昨日、天文学史のメーリングリストで、銀河系を相手にした、ある天文学者の政治信条に関する投稿を目にしたからです。

話題の主は20世紀前半に活躍した、オランダのアントン・パンネクーク

その投稿は、「このリストメンバーの中には、興味を持たれる方もおありでしょうから…」という書き出しで、以下のページにリンクを張っていました。

チャオカン・タイ(著)
 「急進左派と銀河系: アントン・パンネクークにおける科学的価値と社会主義的価値との結びつき」 (Left Radicalism and the Milky Way: Connecting the Scientific and Socialist Virtues of Anton Pannekoek)

リンク先には学術論文のアブストラクトが掲載されており、学術関係者ならばその先も読みにいけるはずですが、私が読んだのはアブストラクトだけです。その内容を適当訳すると、

 「アントン・パンネクーク(Anton Pannekoek, 1873-1960)は、有力なマルクス主義者であり、且つ革新的な天文学者だった。本稿では、天の川の見え方や、銀河系内部における恒星の統計学的分布を表現するために、彼が開発した様々な革新的手法を、認識論的価値(epistemic virtues)という枠組みを用いて分析する。それによって、彼の天文学研究が持つユニークな側面が強調されるばかりでなく、そうした側面と、彼が背負っているマルクス主義急進左派という看板との関係も明らかになるだろう。

パンネクークの天文学的手法のきわめて重要な特徴は、天文学者が果たすべき能動的役割だった。天文学者は、天の川の外見的特徴に適合するように、データをまとめ上げる直感的な能力を求められると同時に、個人的経験や銀河系の形状に関する理論的予想の影響を避けねばならなかった。

この手法により、彼はカプタイン宇宙モデル〔我々の銀河系は、直径約 4万光年で、太陽は銀河系の中心近くにあるとする説〕に否定的な結果を導き出し、代わりにハーロー・シャプレーの大銀河系説〔同じく直径約30万光年で、太陽は銀河系の中心から遠く離れているとする説〕を支持する証拠を見つけた、オランダで最初の天文学者となった。 

本稿では、まずパンネクークのマルクス主義哲学を検討し、彼の天文学的手法と史的唯物論に対する解釈は、いずれも人間精神に対する彼独自の理解を、光学的に応用すべく発展させた方略と見なしうることを論じる。」

どうも、これだけだと要領を得ないところもありますが、タイ博士によれば、パンネクークの中では、その研究活動と政治的信条が、密接不可分に結びついていたようです。

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銀河系の研究者といえば、常に広大な宇宙に心を浮遊させて、地上のことなど眼中にないんじゃないか…といえば、決してそんなことはなくて、中には積極的に政治にコミットした人もいました。もちろん、パンネクークのように、それがマルキシズムである必然性はありません。急進右派に向う人もいれば、中道に向う人もいるでしょう。

まあ、別にマルキストでもない「天文古玩」の管理人が、パンネクークを引き合いに出して力み返っても、いささか滑稽な感は否めないんですが、いずれにしても我々は(専門家も素人も)銀河の渦と同時に、コップの中の渦から逃れることはできませんし、両方に等しく関心を持って生きるのが自然ではなかろうかと思います。




空の旅(9)…『コスモグラフィア・ウニヴェルサリス』2017年04月26日 22時52分50秒

いつでも、どこでも、そこに人がいる限り、星との関わりが生まれ、星をめぐる物語が生まれ、そしてまた「物語をものがたるモノ」も生まれます。そんなモノを眺めながら、時代と国を越えて歩き続ける「空の旅」――。

何だか、ひどく大層なことにも聞こえます。
これが金満的な大規模展、例えば、今年の正月まで六本木の森美術館でやっていた、宇宙と芸術展とかなら分かるのですが、わびし気な天文古玩の管理人がチマチマとやれることなのかどうか…?

まあ、侘しかろうが何だろうが、多少の土地勘と想像力さえあれば、どんなに遠い旅だって、できないことはないぞ…と、幾分強がりまじりに思います。
それはちょうど、小口径の望遠鏡しか持たない人や、都会のひどく貧弱な星空の下で暮らす人でも、想像力でそれを補えば、いくらでも星の世界に分け入ることができるのと同じでしょう。

   ★

…と、言い訳をしたところで、旅を続けます。
これまで古代オリエントから出発して、イスラム世界、インド亜大陸、モンゴルの大地をたどってきましたが、ここで踵(きびす)を返して、西洋の天文学に話題を戻します。

イスラム世界からバトンタッチを受けて、試行錯誤をしながらも、天文学を大きく前進させたのは、ルネサンス以降のヨーロッパの人々であることは間違いありません。そんな時代の記憶を伝える紙物2点。


 「いずれも、ゼバスチアン・ミュンスター(Sebastian Münster, 1488?-1552)『一般宇宙誌(Cosmographia Universalis)』から取った一頁(元は1552年のバーゼル版か)。古代のプトレマイオスや、アラブ世界の天文学者について記す章の挿絵ですが、おそらく同時代の天文学者や占星術師の姿を反映した絵柄。手にしているのは四分儀です。」


ラテン語の説明文はさっぱりながら、「In parallelo qui transit per 72. dies maior est trium…」で始まる頁冒頭からボンヤリ眺めていると、「sphaerae mundi」とか、「parallelus conplectitur 24 horas diei et noctis」とか、何となく天文学や地理学の話題を語っているのだろうなあ…と感じられるものがあります。


まだ望遠鏡登場以前のこの時代、天体観測を表わすイコンは四分儀でした。
…というわけで、次回は四分儀です。

(この項つづく)

空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

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インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。

空の旅(2)…ディスプレイのこと2017年04月13日 22時06分35秒

今回学んだのは、「ディスプレイの道は奥が深いなあ」ということです。

例えば本を展示するというのも、これがなかなか難しい作業。
ここに印象的な天文古書があるとして、私としては一冊の本を前に、あのページ、このページ、いろいろな構図がいっせいに脳裏に浮かんで、「これなら展示に堪えるんじゃないか」と思うのですが、実際に並べるときは、どれか1ページしか開けないわけで、知らない人が見たら、汚れた古本がポンと置かれているだけ…ということにならざるを得ません。


ネット上でヴァーチャル展示する場合は、そういう制約がないので、中身を存分に紹介できるのですが、リアルな展示というのは、その辺の縛りがきつく、なかなか本一冊を並べるのでも、その「見せ方」は難しいです。

幸いなことに、今回はantique Salon さんら、ディスプレイに関してはプロの方が展示を手がけられ、さらに展示意図を補強するためのキャプションも添えていただいたので、望みうる最高の展示となりましたが、それでもご覧になった方は、ちょっと地味な印象を受けたのではないかと思います。

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もっとも、これはディスプレイの問題にとどまらず、「天文古玩的世界」(と仮に呼びますが)の本来的な性格に因るのかもしれません。

たしかに、豪奢なオーラリーとか、極彩色の天球図とか、精巧な天文時計とか、そういう艶やかなものをずらりと並べれば、ビジュアル的には人目を引くでしょうが、そういう品が手元にないという、自明な前提は脇に置くとして、基本的に天文古玩的世界は、半ば思念の力に支えられた、イマジナリーな世界です。

例えるなら、『宮沢賢治の世界展』を開くとして、そこに賢治の初版本や、ゆかりの品々をずらり並べても、それを見ただけで賢治の世界を理解できることは、おそらくないでしょう。賢治世界というのは、やはり作品を通して成立する、モノを超えたイマジナリーな世界です。

モノというのは、ときに興味深く、ときに美しく、ときには聖性すら帯びますが、神像を拝む人が、本当は神像ではなく、その向うの神様を拝んでいるように、天文古玩的世界も、モノは一種の触媒に過ぎず、本当はモノによって賦活される「理」や「情」の世界こそが肝だと思います。

以前の話を蒸し返しますが、『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが時計屋の店先で、星図や星座早見盤にじっと見入るシーン。あれも、ジョバンニが学校で銀河についての授業を受けていなかったら、あるいは友人カンパネルラの家で銀河の本を読んでいなかったら、あれほどジョバンニの心を惹きつけたかは疑問です。

天文アンティークというのは、背景となる知識があればこそ、その魅力が光を放つものであり、それがなければ、単に「薄汚れたガラクタ」と思われても仕方ありません。

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…と、単体では自立しがたいモノを並べたことに対する言い訳めいた感じがなくもないですが、当日展示したモノについて、ここで再度思いの丈を語りながら、紙上ならぬ画面上展示を試みることにします。(それでも、なおモノが光を放たなかったとしたら、それは私の語り口が不味いせいです。)

(この項つづく)


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閑語(ブログ内ブログ)

「深い淵は決して音を立てない。
 浅い川ほど大きな音を立てる。」

という金言があります。
もちろん、ここで浅い・深いというのは、人間の度量の大きさといったようなことで、やかましく騒ぎ立てるのは大抵浅い人間だと、昔から相場が決まっています。

しかし、ここに来てどうでしょう。
やかましく騒ぎ立てているのは、他ならぬ私自身であり、淵の如く静まり返っているのは世間一般です。まあ、私の底が浅いのは進んで認めますが、それにしても…。

狂った政体というのは、昔からたくさんあるので、今の日本の政権もそのワン・オブ・ゼムに過ぎないし、そういうものとして彼らは存在しているのだ…というのは、(不愉快な事実ですが)理解はできるのです。

しかし、それを前にして、この静けさはいったいどういうわけでしょうか。
警察国家のように、何か言えば即しょっぴかれる、というなら沈黙を強いられるのも分かります。しかし、現政権はそうした国家を目指しながら、実際にはまだ道半ばであり、今はまだ何でもものが言える世の中です。それなのになぜ? わが同胞は、私の浅い理解を超えて、途方もなく度量が大きいのか?

これまで、自分なりにいろいろ人間を観察してきましたが、この疑問はそれこそ淵の如く、なかなか深いです。


空の旅(1)…神保町発、時の彼方へ2017年04月11日 22時18分38秒

先月下旬、神保町の三省堂で開催された「第5回 博物蒐集家の応接間」は無事に終わりました。

既報のように、私も antique Salon さんに誘っていただいて、お味噌参加したのですが、なかなか時間も乏しく、十分な準備ができませんでした。かと言って十分時間があれば、あれ以上のものができたかと言えば大いに疑問で、やっぱりあれが私の限界なのでしょう。

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会期中の場内の雰囲気は、主催者である antique Salon  さんによる以下のページでご想像いただけると思います。

■第5回 博物蒐集家の応接間 旅の絵日記 を終えて
こういう耽美な会場の隅に、ちょっと地味な一角があって、それが「天文古玩的旅イメージ」のコーナーなのでした。


これのどこが「旅」なのか?
ここで「旅人」になぞらえられているのは、「人類」ないし「天文学という知の営み」です。


「彼/彼ら」は、遠い昔、ユーラシアの一角で旅ごしらえをし、古代ギリシャでその足を鍛えると、イスラム諸王朝、インド亜大陸、中央アジア、東アジアをくまなく歩きまわり、ヨーロッパ世界でその旅装束を一新しました。(本当は南北アメリカにも、彼の兄弟がいるのですが、そちらには目配りできませんでした。)


その長い旅の果てに、再びギリシャの地に立ち寄った彼は、こんな記念の品を残しています。


1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

(もう少し展示の話を続けます。この項つづく)

ガリレオの瞳2017年02月18日 14時46分01秒

先日、ガリレオ(Galileo Galilei、1564-1642)の誕生日が2月15日だというので、いくつか関連の記事を目にしました。

ただし、ガリレオはユリウス暦とグレゴリオ暦の端境期を生きた人で、誕生日の2月15日というのも、昔のユリウス暦のそれだそうです。今の暦に直すと、1564年2月25日が誕生日。いずれにしても、彼は今月で満453歳を迎えます。

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ガリレオの名を聞いて思い出したのが、下のカメラ。
1950年代前半に出た、イタリアのフェラーニア社製「エリオフレックス」。


これも「クラシック・カメラ」と言って言えないことはないのでしょうが、戦後の量産品ですから、わりとどこにでも転がっています。それでも、これを購入したのは、その出自がやっぱり天文古玩的な色彩を帯びているからです。


それは、このカメラが、ガリレオの名を負っていること。
レンズの脇には「オフィチーネ・ガリレオ(ガリレオ製作所)」の名が見えます。


オフィチーネ・ガリレオは、1862年にさかのぼるイタリアの老舗光学メーカー。
今では光学機器にとどまらず、光電子機器の製造も行なっています。

光学機器メーカーとしてはちょっと異色ですが、オフィチーネ・ガリレオの創設者は、二人の天文学者、アミーチ(Giovanni Battista Amici、1786-1863)と、ドナティ(Giovanni Battista Donati、1826-1873)で、さらに遡れば、1831年にアミーチが職人たちをモデナから呼び寄せ、フィレンツェ天文台の隣に光学機器製造の工房を設けたのが、その淵源だそうです。当然、その社名は尊敬する大先輩のガリレオにちなむものでしょう。

(19世紀の広告カードに描かれた、往時のオフィチーネ・ガリレオの建物。中央上部にガリレオの肖像。「オフィチーネ・ガリレオ創立150周年記念展」の案内ページより。

同社の光学製品は、明治の日本海軍にも納入されたそうですから、日本との縁も浅からぬものがあります。そして、その後も長く軍用品の製造に携わったのは、同社の技術力の高さを物語るもので、同社はイタリア国内のメラーテ天文台や、アジアーゴ天文台のような、プロユースの大型望遠鏡も手がけました。

(eBayで見かけた、オフィチーネ・ガリレオを舞台にした戦前の労働争議の図。ジブリの「紅の豚」的光景。歴史が長ければ、それだけいろいろなドラマがあるものです。)

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そんなわけで、この安手のカメラは(今では埃にまみれているとはいえ)「ガリレオの瞳」を持ち、その向うにイタリアの光学機器製造の歴史が仄見えるのです。


なお、冒頭、このカメラをフェラーニア社製と書きましたが、同社の本業はフィルムメーカーで、オフィチーネ・ガリレオ製のカメラに、自社の名前を入れて販売していた由。つまるところ、このカメラは、ボディも含めて全てオフィチーネ・ガリレオの工場で生まれたもののようです。


【参考リンク】

1)オフィチーネ・ガリレオについて
Museo Galileo「Scientific Itineraries in Tuscany(トスカーナ地方科学の旅)」より
 「オフィチーネ・ガリレオ」の項

2)フェラーニア社とガリレオ社について
クラシックカメラの物語「デザインのイタリアカメラ」