巨星墜つ2023年06月01日 20時14分41秒

しばらく体調を崩していました。

といって、寝込んだとか、病院の世話になったとかいうのではないんですが、この間の急な暑さと梅雨入りで、ずっと身体がだるくて、朝もなかなか起きられないし、夜も食事をして風呂に入ると、すぐ床に倒れ込むような感じだったので、ブログの方も自ずと休業状態になっていました。

今からこんなでは、先が思いやられますが、そういう方は他にもいらっしゃると思います。まあ、お互い無理せずやっていきましょう。

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さて、いつもの天文学史のメーリングリストは、ここ2,3日、稀代の碩学 オーウェン・ギンガリッチ氏 の訃と、それを悼む声一色でした。

ギンガリッチ氏は、日本では『誰も読まなかったコペルニクス』(早川書房、2005)の著者として、いちばんよく知られていると思います。


同書カバーに簡単な紹介が載っていたので、書き写しておきます。

 「オーウェン・ギンガリッチ Owen Gingerich 1930年生まれ。スミソニアン天文台名誉教授、ハーバード大学天文学・天文学史教授。著書に、本書で描かれたコペルニクスにかかわる書誌的研究の学術的成果をまとめた An Annotated Census of Copernicus’ De Revolutionibus など。」

そのギンガリッチ氏を悼む人々は、一様にその温かい人柄を偲び、惜しみない助言に感謝し、氏が「真のジェントルマン」だったと述べています。各人の文章からは、それがお座なりな言葉ではなく、掛け値なしに真実であることが伝わってきます。(昔、私がメーリングリストでごく初歩的な質問をしたときも、ギンガリッチ氏は真摯に、懇切に答えてくださいました。あとは推して知るべしです。)

(ギンガリッチ氏の肉声 https://www.youtube.com/watch?v=cyXVYsQrSwU

それにしても、最近の政界の醜状を目にし、耳にするにつけ、「真のジェントルマン」は世に得難いものだなあ…と思いますが、でもそう呼ばれ、敬慕される人が現にいるということに、大きな慰謝と希望を感じます。

ギンガリッチ氏のご冥福を心からお祈りします。

ガリレオ問題(The Galileo Affair)2023年03月24日 18時04分56秒

バチカン天文台が盛んに「ハロー、CQ、CQ」とやっていた頃、ポーランドのクラクフで4日間に及ぶ学術集会が開かれました。1984年5月24日から27日まで行われた「クラクフ会議」です。


会議後にまとめられた論文集が、この『ガリレオ問題―信仰と科学の出会い』と題された冊子です。


発行元はバチカン天文台で、時の教皇はヨハネ・パウロ2世(1920-2005/在位1978-2005)。この教皇は、この会議後の1992年に、ガリレオ裁判が誤りであったことを正式に認め、ガリレオに謝罪した人です。そして、クラクフは教皇の出身地でもありました。そういう意味で、これは非常に象徴的な1冊と感じられます。

冒頭の献辞にはこうあります。


 「今から50年前の1935年9月29日、教皇ピウス11世聖下は、カステル・ガンドルフォに、J. ステイン神父を長とする新バチカン天文台と、A. ガッテラー神父を長とする新天体物理学研究所を開設された。宗教的信仰と科学的研究は両立することを、目に見える形で世界に示そうという教会の継続的努力を力強く先導されたお二人と、彼らに協力された方々に本冊子を捧げる。 編者一同」

会議に顔を揃えた15人のうち、5人が「Rev.(~師)」の肩書を持つ聖職者で、残り10人が俗人の研究者です(本書の編者であるG.V. Coyne、M. Heller、J. Źycińskiの3人はいずれも聖職者)。所属機関の国別だと、バチカン2人、アメリカ4人、デンマーク1人、ポーランド8人という配分になります。

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この論文集を勇んで読もうと思ったのですが、私の英語力の限界もあるし、そもそも寝転がってサラサラ読める類の本ではないので、ここでは後の参考として、目次だけ訳しておくにとどめます。

■第1部 ガリレオ問題の歴史
W.A. Wallace 「ガリレオの科学概念」
J. Dietz Moss 「ガリレオがコペルニクス体系について記述する際の証明レトリック」
J. Casanovas 「ガリレオ当時の年周視差問題」
O. Pedersen 「ガリレオの宗教」
G.V. Coyne & U. Valdini 「青年期のベラルミーノの世界体系に関する思想」

■第2部 ガリレオと科学の進歩
M. Heller 「ガリレオにとっての相対性」
M. Lubański 「ガリレオの無限に関する見解」
J.M. Źyciński 「ガリレオの研究プログラムは、なぜ競合する他のプログラムに取って代わったのか」
K. Rudnicki 「ガリレオの方法論を適用する上での限界」

■第3部 ガリレオ問題の文化的反響
P. Feyerbend 「ガリレオと真理の専制」
F.M. Metzler 「ガリレオの発見における神話と想像力」

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冊子を斜め読みしての感想ですが、ここに何か“抹香臭さ”のようなものがあるわけではありません。いずれもごく普通の論文です。もし、そこに「バチカンらしさ」があるとすれば、それは「信仰と科学の出会い」という表題そのものと、口絵に収められた、1枚のステンドグラスの写真でしょう。


そのキャプションにはこうあります(適当訳)。

 「本書の口絵として、スタニスワフ・ヴィスピャンスキが制作したステンドグラス、『創造者たる神(God, the Creator)』の複製を選んだことには、2つの理由がある。

1つは、この作品が我々の集会が開かれた美しい歴史都市、より正確に言えばクラクフのフランシスコ教会に存在し、同市の市民たちがヴィスピャンスキの芸術を誇りに思っているからだ。

そして2つ目の理由は、この芸術作品において、見る者は神がそこに存在することを確信しているにもかかわらず、その姿を見つけることが難しいからだ。これぞまさにガリレオが経験したことであり、我々の多くが現に経験していることでもあろう。我々は、神がその作り給うた世界のうちに、そして神の教会のうちに存在することを確信しているが、彼を見出すには努力が必要なのだ!」

   ★

ガリレオが精力的に著述に励んだ時代から400年。ガリレオ問題を振り返ったクラクフ会議から数えても、すでに約40年の歳月が流れました。

もはや「世界の中心は地球か?太陽か?」というような問いは意味を失い、我々は信仰と科学の関係を新たな光のもとで考えるべき時代を生きています。それは当然、「神」あるいは「超越者」をめぐる新たな省察を伴うものです。

たぶん現時点での最大公約数的理解は、超越者が物理的に存在するかどうかよりも、超越者という観念を我々が有していることこそが重要なのだ…というものでしょう。

その観念のルーツ(のひとつ)は、言うまでもなく星空を見上げる経験です。
ここで再び400年前に立ち返り、満天の星空を見上げたガリレオの心のうちに去来した、言葉にならぬ思いを想像したりします。

囚われのガリレオに会いに行く2023年03月21日 05時57分37秒

バチカンといえば、一つずっと気になっていたことがあります。
それは10年前の以下の記事を書いた時から引きずっているものです。


■Don’t be curious.

この10年前の記事は、カトリックの『禁書目録』を取り上げたものですが、そこで私が果たせなかったのは、ガリレオの名前がそこに載っているのを見ることでした。

『禁書目録』には大量の人名・書名が収録されていますが、その一部が以下のページにデータとして載っています。それによると、ガリレオの名前が『禁書目録』に載っていたのは1835年までで、私が以前手にしたのは1905年版ですから、当然その名前はありませんでした。


「それを見てどうするんだ?」というのは真っ当な考えで、確かにそれを見たからといって、社会の動静にも、私の人生にも、いささかの影響もありません。でも、それを言ったら、エッフェル塔を見るのだって、ナイアガラの滝を見るのだって、同じことでしょう。この自分の目でそれを見たい――たったそれだけの理由で、人は月や火星にだって出かけていくものです。

   ★

そんなモチベーションに突き動かされて、私は新たにもう1冊の『禁書目録』を入手しました。今度のものは、前回よりもさらに200年古い1705年に発行されたものです。


時代も古いし、ごく粗末な紙装丁なので、崩壊を防ぐために新たに保護用の帙をあつらえたほどです。


扉にその名が見える時の教皇は、クレメンス11世(1649-1721/在位1700-1721)。

さて、ここにガリレオはいるのか、いないのか?
ページをめくっていくと、「G」の項目にぴたりと目が留まります。


いた! 紛れもなく「Galileo Galilei」
そこには「Dialogo di Galileo を見よ」と註があるので、さらにそちらも見に行きます。

(一番上の行)

なるほど、ありました。1632年に出た彼の代表作『天文対話』です。(長々と訳せば、『ガリレオ・ガリレイの天文対話 ― プトレマイオスとコペルニクスの二大世界体系について4日間にわたる会合にて論ず(Dialogo di Galileo Galilei: Dove ne i congressi di quattro giornate si discorre sopra i due massimi sistemi del mondo Tolemaico, e  Copernicano)』)

ガリレオはバチカンにとって忌むべき存在であり、その著書は禁書だったのだ…ということを、こうして私は自分の目で確認したのです。もちろん、それは誰でも知っている事実でしょうが、それを自分の目で見た人は少ないはずです。そのことに満足を覚えつつ、私のささやかな「旅」は終わりました。

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でも、せっかくですから、ついでに他の「見所」にも足を伸ばしてみます。


そこには、ケプラー(ioannis Keppleri)がいました。


そして、もちろんコペルニクス(nicolaus Copernicus)もいます。

「ああ、やっぱり!」と、心の中で叫んでいる自分がいます。
天文学や歴史の本で知ったことを、私は自分の手の中で、今、まぎれもない事実として眺めたのです。もっと言えば、このくすんだページと活字こそが、天文学の歴史そのものであり、私はその歴史を自ら体験したのだ!…とさえ言えるかもしれません。

(これが今回作ってもらった帙。下は開いたところ)


ルネサンス期の天文学者の部屋を覗く2023年01月14日 10時55分40秒

前回、空想の天文学者の書斎を眺めました。
じゃあ、現実のルネサンス期の天文学者の部屋はどうだったのか?
それを窺わせるのが、かつて(2012年)オックスフォードの科学史博物館で開かれた「天文学のルネサンス」展です。


 
そのトップページに、以下の画像が貼られています。

(上のサイトから入ってもらうと、もっと大きな画像を開くことができます)

窓辺に置かれたアーミラリー、天球儀、日時計、アストロラーベ…。
演出写真とはいえ、当時の天文学者の身辺日常を彷彿とさせます。いずれの品も、現在の評価額は唸るような価格でしょうが、ただこれが絵面として豪華かといわれると、やっぱり地味は地味です。ひとつの島を領有し、立派な城に住んだティコ・ブラーエのような例外を除き、当時の(今も?)天文学者はおしなべて富貴とは縁遠かったと思います。

余談ながら、このインスタレーションを行った人は、たぶんフェルメールの有名な『天文学者』(1668年頃)を意識したんじゃないでしょうか。


17世紀後半、オランダ黄金時代の天文学者でも「きらびやか」とは程遠い、地味なイメージで描かれているわけですから、その100年前の天文学者が地味でも、ちっとも不思議ではありません。

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ついでなので、上の画像に写っているモノたちの素性を確認しておきます(それぞれ個別の説明ページにリンクを張りました)。


④~⑤ ※不明
⑥ カミーロ・グアリーノ・グアリーニ(著)『天界数学論・第一部』
 (Camillo Guarino Guarini、Caelestis mathematicae pars prima、1683)
  ※出品リストになし
⑨ 『ユークリッドの光学(Euclidis Optica)』 ※出品リストになし

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地味かもしれませんが、こういうのはいいなあと思います。
眺めるだけでなく、雰囲気だけでも真似してみるか…と思ったりもします。

一枚の星座早見盤が開く遠い世界2022年12月26日 06時33分29秒

皆さんのところにサンタクロースは来ましたか?
私のところにはちゃんと来ました。
今年、サンタさんから届いたのは一枚の星座早見盤です。


これは世界にまたとない品です。なぜならこの早見盤が表現しているのは、紀元137年のアレクサンドリアの星空なのですから。


「紀元137年のアレクサンドリア」とは、何を意味するのか?
それはアレクサンドリアで活躍した、かのプトレマイオス(紀元100頃-170頃)の大著『アルマゲスト』に含まれる星表のデータが記録された年であり、この早見盤はそのデータを元に作られた、いわば「アルマゲスト早見盤」なのです。この円盤をくるくる回せば、「プトレマイオスの見た星空」が、文字通り“たなごころに照らすように”分かるわけです。

(今からおよそ1900年前、12月25日午後8時のアレクサンドリアの空)

この早見盤は、元サンシャインプラネタリウム館長を務められた藤井常義氏から頂戴したもので、藤井氏こそ私にとってのサンタクロースです。この早見盤のオリジナルは、藤井氏がまだ五島プラネタリウムに勤務されていた1976年に制作されたものですが、最近、私がいたくそれに感動したため、藤井氏自ら再制作の労をお取りいただいたという、本当に嬉しいプレゼントでした。

(早見盤の裏面)
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アレクサンドリアの位置は北緯31度、日本だと九州最南端の佐田岬付近に当たるので、今でもそこから見える星空は、東京あたりとはちょっと違います。でも、1900年の歳月はそれ以上の変化を星空にもたらしました。


こぐま座のしっぽの位置に注目。今では北極星として知られる尻尾の先端の星が、天の北極からずいぶん離れてしまっています。言うまでもなく地球の歳差運動によるもので、当然プトレマイオスの頃は、この星はまだ「北極星」と呼ばれていませんでした。


あるいは、先日のオジギソウの記事(LINK)のコメント欄で、みなみじゅうじ座β星「ミモザ」の由来が話題になったときに、古代ローマ時代にはすでに南十字が知られていたという話が出ました。早見盤を見ると、そこには南十字こそ描かれていませんが、位置関係からいうと、ケンタウルス座の足元に、今では見えない南十字の一部が確かに見えていたはずです。

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プトレマイオスの威光のせいで、当時のアレクサンドリアは栄光の絶頂期のようなイメージを個人的に持っていましたが、話を聞いてみると、アレクサンドリアが文化・経済の中心として繁栄したのは紀元前2世紀頃のことで、プトレマイオスの時代には有名なアレクサンドリアの大図書館も、ずいぶん寂しいことになっていたらしいです。まあ今の日本のようなものかもしれませんね。

それでも古代ローマの残照はいまだ眩しく、この早見盤の向こうには遠い世界の華やぎと、星座神話が肌感覚で身近だった時代の息吹が感じられます。

『星学手簡』2022年11月26日 09時03分24秒

しばらく、ひそかにミモザ(オジギソウ)問題に集中していました。
ミモザが登場するはずのないギリシャ神話に、なぜミモザが出てくるのか?
さらにコメント欄で指摘のあった、「みなみじゅうじ座β星」の固有名である「ミモザ」の由来は何か?
しかし、いろいろ徘徊したものの手がかりは得られず、空しい結果に終わりました。
まあ、こういうときもあります。この辺で気を取り直して、記事を再開します。

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何か心が軽くなる話題はないかな…と思って、先日耳にしたニュースを思い出しました。


国立天文台が所蔵する『星学手簡(せいがくしゅかん)』が、国の重要文化財に指定されることになったというニュースです。これはまことに目出度いことで、こういうものが大切されてこそ、文明国を名乗る資格がある…と、いささか時代がかった感想ですが、そんなことを思いました。

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『星学手簡』は、江戸の天文学者の書簡集です。
そのわりに「星学」というのが明治っぽい語感ですが、上のニュース記事にあるように、本書は、「明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉(かのう こうきち)の手に渡り、その後東京天文台に譲渡され」た…という伝来を持つので、この間に付されたタイトルじゃないかと思います。

江戸の天文学者といっても、その数は多いですが、ここに登場するのは主に二人の学者です。ひとりは大阪定番同心という役宅に生まれた、幕臣の高橋至時(たかはしよしとき、1764-1804)、そしてもう一人は大阪の富商で、「十一屋(といちや)五郎兵衛」を通称とした、間重富(はざましげとみ、1756-1816)です。他の人とのやりとりも多少混じっていますが、大半は両人がやりとりしたもので、言ってみればこれは両者の往復書簡集です。

二人は若年の頃から天文学に傾倒し、師・麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)のもとでその才能を開花させると、武士、町人の身分の違いをこえた同志として、長く共同で研究を続けました。結果として至時は幕府天文方となり、重富も天文方と同格に遇せられましたが、両者の成果として有名なのが、独自の暦法改良にもとづく「寛政暦」の完成です(1798年施行)。

『星学手簡』は、両者が寛政暦を完成する直前の1796年から、至時が没する間際の1803年頃までの間にかわした書状+αを、全部で86通収録しています。編者は至時の次男である渋川景佑(しぶかわかげすけ、1787-1856)と推定されています。したがって、本書に収録された手紙は、差出人もしくは受取人のどちらかが必ず至時になっています。

ここで付言すると、至時の息子が父親あての手紙を編纂するのはいいとしても、父親が差し出した手紙の内容がどうして分かったのか?いちいち相手に聞いて回ったのか?と疑問に思う方がいるかもしれません。でも、昔の人は手紙を出すとき、用心して控えを作っていたので、それがとってあれば、こちらが送った手紙の内容も分かるわけです。

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上のニュース記事でもリンクを張っていますが、この貴重な『星学手簡』は、現在オンラインで全て公開されています。



二人の俊英の学問上のやりとり、日常身辺のあれこれの気遣い、ときに滑稽な、ときに悲しい噂話の数々―。200年余り前の天文学者の肉声をじかに聞くことは嬉しくもあり、背筋の伸びることでもあります。

夜の長い季節に、こういうのをじっくり読んでみたいものだ…と思いますが、筆文字を読むのはなかなか難儀です。重文指定を機に、ぜひ活字化と口語訳をしてもらえればと思います。

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(以下は自分用メモ)
ただ活字化に関していえば、『星学手簡』は過去に何度か翻刻されています。
それは主に日本洋学史の研究者、有坂隆道氏(1921-2004)の業績です。

『星学手簡』は、元々年代を考慮して編纂されているようなのですが、有坂氏はさらに検討を加えて、より厳密な年次を考えて再配列されました。その上で寛政年間――より詳しくは寛政7年~寛政12年(1795~1800)――にやりとりされた書簡20通を、注解とともに以下で活字化しています。これはほぼ原著の上巻収録分に相当します。

■有坂隆道「寛政期における麻田流天文学家の活動をめぐって」
 大阪歴史学会々誌「ヒストリア」第11号、12号、13号に連載。
 それぞれ昭和30年(1955)2月、5月、8月刊。

この続編として、原著のほぼ中~下巻に相当する書簡を活字化したものは、単行本の形で読むことができます。

(今日は地味な画像が続きますね。でも地味な中にも滋味があるのです。)

■同「享和期における麻田流天文学家の活動をめぐって-『星学手簡』の紹介-」
 同(編著)『日本洋学史の研究Ⅰ』、創元社、昭和43(1968)、pp.159-330.

前者の雑誌発表論文は管理人未見ですが、寛政年間の書状4通(第5、13、16、22号書簡)は、以下でも読むことができます。

■広瀬秀雄(校注)「星学手簡 抄(間重富・高橋至時)」
 日本思想大系 『近世科学思想 下』、岩波書店、1971、pp.193-222.
 (pp.422-427に補注、pp.476-480に解題あり)

ジョージ星辰王2022年11月12日 16時33分27秒

天王星といえば、その発見者であるウィリアム・ハーシェル(1738-1822)の名が、ただちに連想されます。そればかりでなく、19世紀後半に「ウラヌス」の名称が定着する以前は、天王星そのものを「ハーシェル」と呼ぶ人がおおぜいいました。

この名は主にフランスとアメリカで用いられ、ニューヨークで出版された、あの『スミスの図解天文学』(1849)でも、天王星は「ハーシェル」として記載されています。



もちろん、これはハーシェルの本意ではなく、ハーシェル自身は、時のイギリス国王・ジョージ3世に敬意を表して、ラテン語で「ゲオルギウム・シドゥス」(ジョージの星)という名前を考案しました。そしてこれを元に、イギリスでは天王星のことを「ジョージアン」と呼んだ時期があります。

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ジョージ3世(1738-1820/在位1760-1820)は、自分と同い年で、“同郷人”(※)でもあるハーシェルを目にかけ、物心両面の支援を惜しみませんでした。(※ハーシェルはドイツのハノーファー出身で、ジョージ3世はイギリス生まれながら、父祖からハノーファー選帝侯の地位を受け継いでいました。)

ハーシェル推しの私からすると、ジョージ3世は、もっぱらその庇護者という位置づけになるのですが、でもジョージ3世の天文好きは、ハーシェルと知り合う前からのことで、彼はもともと好学な王様でした。金星の太陽面通過を観測するために、1769年、ロンドン西郊のキュー・ガーデンに天文台を新設し、併せてそこを科学機器と博物コレクション収蔵の場としたのも彼です。

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そんなジョージ3世ならば当然かもしれませんが、彼には一種の「時計趣味」があり、精巧な天文時計を、ときに自らデザインして一流の職人に作らせ、それらを身近に置いていたことを、以下の動画で知りました。


George III and Astronomical Clocks(by Royal Collection Trust)


上は、1765年、ジョージ3世が27歳の誕生に贈られ、寝室に置いていたという天文時計。Eardley Norton(活動期 1760-92)作。(詳細はこちら


こちらは、ジョージ3世自身が筐体デザインした天文時計。1768年、Christopher Pinchbeck 2世(1710-83)作。(詳細はこちら

こうした興味関心の延長上に、キューの天文台があり、ハーシェルとの出会いがあったわけで、思えばハーシェルは実に良いタイミングで世に出たものです。そして、彼が捧げた「ジョージの星」の名も、単なるお追従ではなかったわけです。(まあ、そういう気持ちも多少はあったでしょうが。)

死者はどこからやって来るのか?2022年10月30日 11時57分56秒

 陽が沈み 宵闇が濃くなりまさるとき
 あらゆる死者はよみがえり
 夜通し円舞し うたいさざめけど
 ひとたび曙光がほのめけば
 みなうたかたの如く消え失せぬ


   ★


(元記事 http://mononoke.asablo.jp/blog/2017/02/05/8351402


ハロウィンは秋と冬の節目の行事で、この日は死者がよみがえり、家族の元を訪ねてくるので、それを饗応しないといけない…というのは、日本のお盆とまったく同じですね。


でも、よく「死んだらお星さまになる」とも言います。

言い換えれば、毎晩見上げる星空は、そのまま亡者の群れであり、我々は毎晩死者に見下ろされながら、晩餐したり、眠ったりしていることになります。この説にしたがえば、死者が身の回りを跳梁するのは、何もお盆やハロウィンに限らないわけです。


まあ、毎日これだけ多くの人が亡くなっていると、空もすぐ星でいっぱいになりそうなものですが、そこはうまくしたもので、流れ星も夜ごとに降ってくるし、あれは死者の世界から地上に生まれ変わる人の姿なんだ…というのは、パッとは出てきませんが、きっとそういう伝承が各地にあることでしょう。


それでプラマイゼロ、空の星も地上の人口も、数の均衡が保たれる理屈です。

でも、産業革命以降、世界人口は爆発的な増加傾向にあり、どうも空の星のほうが払底しそうな勢いです。現に空に見える星の数が、文明の進展とともに目に見えて減っているのは、周知のとおりです。


   ★


…というような軽口で終わろうかと思いましたが、ふと「死んだらお星さまになる」の由来が気になりました。


パッと検索すると、「人間は死んだら星になるって本当ですか?」という疑問は、日本でもアメリカでも繰り返し質問サイトに寄せられており、この件に関する人々の関心は非常に高いようです。


(質問サイトQUORAより。 右側の「関連する質問」にも注目)


中には「そのとおり。人間を構成する物質は星から生まれ、そして死ねば星に還るのだ」というような、すこぶる“科学的”な回答もありましたが、この伝承の起源そのものはよく分かりませんでした。


「星になった人」というフォークロアは世界中にあって、身近なところでは牽牛(彦星)もそうですし、出雲晶子さんの『星の文化史事典』を開くと、「星になった兄弟」(タヒチ)、とか、「星になった椰子取り」(パラオ)とか、「星の少年」(カナダ)とか、いろいろ出てきます。西南政争で横死した西郷隆盛が星になったという、「西郷星」の逸話なんかも、その末流でしょう。昔の人の心の内では、地上と天上は意外なほど近く、往還可能なものだったことがうかがえます。


   ★


ネット上を徘徊していて、この件でキケロの名前を挙げている人がいました。


Q 死んだら星になる、と聞いたことがあるのですが、元ネタがもしあれば教えてください。
A ギリシャ神話じゃないですか?亡骸を星に変えた、星になった事でずっと一緒にいられる、功績を称えられ星座としてのこされた……などなど。あと、そういう感じの思想を説いた(?)人物なら、ローマの政治家だったキケロとか。

(小説の創作相談掲示板:小説の書き方Q&A スレッド名「死んだら星になる」


(キケロの胸像。カピトリーノ美術館蔵。©Glauco92)


キケロ(Marcus Tullius Cicero、BC106-43)は古代ローマの文人政治家です。

ここでキケロを手がかりに更に追っていくと、どうも彼の「スキピオの夢(Somnium Scipionis)」に、その記述があるようでした。


スキピオ(小スキピオ)は、キケロよりもさらに前代のローマの執政官で、キケロからすると祖父または曽祖父の世代にあたる人です。そのスキピオが見た夢に仮託して、宇宙の成り立ちについて説いたのが「スキピオの夢」で、彼の主著『国家論』のエピローグとして書かれました。


「スキピオの夢」については、その訳文と解説が以下にあります。


■池田英三「スキピオの夢」研究、北海道大学人文科学論集、2巻、pp.1-32.

 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34270/1/2_PL1-32.pdf


スキピオは、夢の中で尊敬する祖父スキピオ(大スキピオ)と対話し、いろいろな教えを受けます。大スキピオは小スキピオの問い――すでに亡くなった人々も、実は生きているのですか?――に答えて、「いかにもこの人々は生きているのだ。彼等はあたかも牢獄から釈放される如くに、肉体の束縛から飛び去ったのであって、お前達の所謂生とは本当は死に外ならないのだ」と言います。生とは肉体の牢獄に捕縛された「魂の死」であり、死んでそこから解放されることこそ「魂の生」なのだ…というわけです。


大スキピオの言葉はさらに続きます。

我々の魂のふるさと、そして死後に還るところは、「お前たちが星座とか星辰とか呼んでいるあの永久の火焔」であり、死者の集いに参加するための道が、「(星辰の)火焔の中でもとりわけ光彩陸離たる円環」であり、ギリシャ人が「乳白の圏」と呼んだ天の川なのだと。


   ★


とはいっても、これはキケロの創案ではなく、当時広く行きわたっていた観念に、彼が文飾を施したものだろうとは容易に想像がつきます。したがって、「死んだらお星さまになる」という観念の真の淵源は依然はっきりしないのですが、これはたぶん一人の人に帰せられるような単純なものでもないのでしょう。


とはいえ、キケロの時代には既にこうした考えがあったことはこれで分かります。またキケロは中世以降のヨーロッパで大変な知的権威でしたから、「キケロ曰く」と引用されることで、この観念が広まる上で大いに力があったろうことも確かだと思います。



【メモ:関連記事】

■スターチャイルド

 http://mononoke.asablo.jp/blog/2018/07/02/8907960

■スターチャイルド(2)

 http://mononoke.asablo.jp/blog/2018/07/03/8908168


カロライン・ハーシェルの肉声を取り戻す2022年10月06日 20時45分23秒

現在、名古屋市科学館で「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が開かれていることは、以前お伝えしました(LINK)。

偉大な天文学者であるウィリアム・ハーシェル。
彼には、終生頼もしい相棒がいて、その助力がなければ、彼の偉大な発見の数々もどうなっていたか、一寸分かりません。少なくとも、彼が論文をまとめ、それを公表するまでに、だいぶ手間取ったことは確実です。

その相棒が、彼の妹カロライン・ハーシェル(Caroline Lucretia Herschel、1750-1848)です。彼女は兄ウィリアムの研究助手であると同時に、独立した天文学者でもあり、その実力と功績は誰の目にも明らかでしたから、晩年には栄えある王立天文学会ゴールドメダルを授与され、最終的に同学会初の女性会員にも選出されました。

   ★

そのカロライン(と兄ウィリアム)の第一級の伝記資料として、『カロライン・ハーシェルの回想録と書簡集(Memoir and Correspondence of Caroline Herschel)』(1876)という本があります。


カロライン自身が記した追想録と手紙を編纂したもので、編纂したのはウィリアムの息子、すなわちカロラインから見れば甥っ子に当たる、ジョン・ハーシェルの妻であるマーガレット・ハーシェル。

カロラインとマーガレットは、要するに義理の叔母と姪の関係になるわけで、普通だったらわりと縁遠い関係だと思うんですが、マーガレットはカロラインのことを非常に尊敬しており、一族の歴史を記録する意味でも、本書の編纂を思い立ったのでした。

(カロライン92歳の肖像。上掲書口絵)

   ★

さて、ここからが本題です。
昨日、全身が一気にざわつくような感覚を覚えました。

それは、この『回想録と書簡集』の元になった、カロライン自身の自筆草稿がマーケットに現れ、近々クリスティーズで売り立てがある…という知らせを耳にしたからです。貴重この上ない、しかも出版された本には載ってない情報も含む、あのカロラインの手稿がです。何ということだ!と思いました。


このニュースを知らせてくれたのは、イギリスのハーシェル協会です。
そこには、ハーシェルゆかりの地に立つ「ハーシェル天文博物館」が、この手稿の獲得に向けて募金活動を進めていて、今月末までに3万8千ポンド(約620万円)の基金増資が必要だ、だから皆さんもぜひ力を貸してほしい…というアピールが掲載されていました。

更なる詳細と募金情報は、下記のハーシェル天文博物館のサイトをご覧いただければと思いますが、そちらには基金増資目標額がさらに10万8千ポンド(約1800万円)と記されていて、どうも事態は容易ならぬことになっているようです。

■The Herschel Museum of Astronomy
 “Help Us To Give Caroline Herschel Her Voice Back”

博物館として、喉から手が出るほど欲しいことは痛いほど分かるので、私もハーシェル協会員として、貧女の一灯をと思っています。ご奇特な方は、ぜひお力添えを願います。

ルヴェリエ賛江2022年09月29日 06時44分20秒

パリ天文台の絵葉書は、これまで何枚か載せた記憶がありますが、これはまだだった気がします。

(1910年ごろの石版刷り)

パリ天文台に長く勤め、後に天文台長となったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier、1811-1877)の銅像です。この像について、コメント欄でお尋ねがあったので、覚えとして貼っておきます。

ルヴェリエの名は、海王星とともに記憶されています。
1846年の海王星発見に関わった役者は何人かいますが、ルヴェリエもその一人。
彼は天王星の位置が計算値と微妙にずれること(摂動)から、そこに未知の惑星が影響していると考え、その位置を計算によって導き出しました。海王星はその意味で、「発見される前に予測された最初の惑星」です。


ルヴェリエはその偉業によって、英国王立天文学会のゴールドメダルを受賞し、こうしてパリ天文台にも立派な銅像が立ちました。

   ★

さて、コメント欄でのお尋ねというのは、「この像が建立されたのはいつか? その際の写真や記録はあるか?」というものでした。パパッと検索したところ、建立時期についてはこちら【LINK】のページに記載がありました。

少し肉付けして引用すると、この記念碑は1889年6月27 日に除幕式があり、式典には当時の公共教育大臣(後に大統領)、アルマン・ファリエール(Clément Armand Fallières、1841 -1931)が臨席し、その面前で様々なスピーチが行われた…という趣旨のことが書かれています。

で、ここからさらに検索すると、以下の同時代資料に行き当たりました。

■La Statue de le Verrier a l'Observatoire de Paris.
 L'Astronomie、vol. 8(1889)、pp.281-284.

フランス語なので詳細はお伝えできないのですが、当日のスピーチを引用しながら、式典の模様が描写されているようです。

   ★

それにしても―。


絵葉書の隅に、こんなかわいいお客様が、ルヴェリエを表敬されていたことに、今の今まで気づきませんでした。人間の目って存外いい加減なものですね。

この少女の存在によって、「無個性な絵葉書」は、にわかに「個性あふれるスナップ写真」となり、その場の空気、匂い、音までも感じ取れるような気がします。
そして、彼女はこの後どんな人生を歩んだのか?…と、連想は静かに続きます。