時計と天文学2021年01月21日 21時17分16秒

ヨーロッパ各地にある天文時計は、大時計の文字盤と並んで、月の満ち欠けとか、今太陽が十二宮のどこにあるかとか、各種の天文現象をシミュレートするからくり仕掛けで、見る者の目を楽しませてくれます。

(ベネチアのサンマルコ広場の天文時計。ウィキペディアより)

しかし、時刻を知らせる普通の大時計にしても、あるいは、それを見上げる観光客の手首に光る腕時計にしたって、そもそも、それ自体が天文現象をシミュレートするために生み出されたんだ…ということは、ややもすれば忘れられがちです。何の天文現象かといえば、太陽の日周運動であり、見方を変えれば地球の自転です。このことは以前も書きました。


そのことを改めて想起したのは、『時計製作術-天文学の子供』という、そのものズバリのタイトルの本を見たからです。

■Dominique Fléchon & Grégory Gardinetti(著)
 『Horology, a Child of Astronomy』
 Fondation de la Haute Horlogerie (Genève)、2013.

この本は、スイスのジュネーブに本拠を置く「高級時計財団」が発行したものです。ここは要するに時計の業界団体なのでしょうが、そこが自らのアイデンティティを振り返ったとき、自分たちは天文学という伝統ある学問の直系の子孫なんだ…と自覚したというのは、何だかスケール感のある話だなと思いました。


内容は美しいカラー図版で、天文学をめぐるいくつかのテーマに沿って、工芸品的な古今の時計を紹介するというものです。



時計というのは、昔から金満家の独壇場で、今でも百万円単位、さらには1千万円単位の腕時計を購入して悦に入る富裕層が少なくないようです。ステータスシンボルとしての時計と聞くと、少なからず感情的な反発も覚えますが、時計自体に罪はないし、一見無駄な細工に余分なコストをかけるのが文化だ…という考えに従えば、やっぱりこれも文化なのでしょう。

まあ金満家とは縁遠いにしろ、毎日使っている時計を眺めて、そこに天文学の片鱗を感じるとしたら、それはそれで豊かな経験といえるんじゃないでしょうか。

名古屋星めぐり(その3)2020年11月25日 06時42分00秒

(前回の続き)

これら「天の両極」を囲むように、さらに、いくつかの関連スポットを見出すことができます。

一つは「星の町」です。
それが天の両極エリアの東北に位置する「星ヶ丘」


これは古い地名ではありません。
戦後になって、新興住宅地のイメージ向上を狙ってネーミングされたものです。そこに込められた願いは、「星にもっとも近く、輝く星の美しい丘」。全国のあちこちに新興の「ナントカが丘」は多いですが、星を持ってきたのは上出来です。

その甲斐あってか、今ではちょっとオシャレな繁華街として、毎年、住みたい街ランキングの上位に入る街に成長しました(あくまでも名古屋ローカルのイメージです。全国区ではありません)。

(「やっぱり憧れの街」と購買欲をあおるデベロッパー。

古い由緒はないにしろ、戦後(1950年代)、星のロマンチシズムが人々に訴求力を持ち、引いてはその住選択行動までも左右したという事実、これも星の文化史の一頁でしょう。

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もう一つは、「月の町」です。
すなわち、天の両極エリアの西北に位置する、「観月町(かんげつちょう)」「月見坂町」で、いずれも江戸時代、ここが月見の名所だったことに由来します。



現在は、地下鉄の覚王山駅(※)をはさんで、南が観月町、北が月見坂町になっています。

(覚王山駅周辺の景観。ウィキペディアより)

今ではすっかり都市化しましたが、江戸の昔、名古屋の風流人士は盛んにこの地に杖をひき、月への憧れを和歌や俳句に詠みました。星ヶ丘にならえば、ここは「月にもっとも近く、輝く月の美しい丘」だったわけです。

(※)覚王山とは「覚王山日泰寺」のこと。ここはインドで発見された真正の仏舎利を祀る寺として有名です。明治時代、インドからタイを経て日本に贈られた、この仏舎利の受け入れをめぐって、京都と名古屋の仏教会が、当時熾烈な争いを繰り広げたと聞きます。現在は各宗が輪番で住職を務める、超宗派の寺院になっています。

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以上のことは、単なる言葉遊びに過ぎないかもしれません。
でも、偶然にも「意味のある偶然」というのがあります。そして、そこに確かに意味があるならば、さらに偶然は続くものです。

天の両極を囲んで「星の町」と「月の町」があるなら、「太陽の町」もあるべきで、現に「太陽の町」は存在します。そして日月星辰が美しいトライアングルを描いているのです。


「太陽の町」、それは両極の南に位置する「八事天道(やごとてんどう)」です。
八事には興正寺のほかに、実はもうひとつ「コウショウジ」があって、そちらは「天道山高照寺」(臨済宗)といいます。もちろん、町名はこの寺の名が元になっています。上の地図の「天道幼稚園」がその位置で、ここは高照寺が経営する幼稚園です。


このお寺は「天道祭り」というのを、毎年行っています。
「天道祭り」と書いて「おてんとまつり」、文字通り「おてんとさま」ですね。


立派な境内ですが、仔細に見ると、ここはずいぶん不思議なお寺です。


本堂の中をのぞき込むと、その本尊は何と「神鏡」。
仏像の一形態として、金属円盤に仏の姿を彫りつけた「鏡像」というのもあるので、鏡を本尊にしても、別に悪くはないんですが、この鏡は神社のご神体そのままです。一体なぜか?

それを解くカギが、拝殿の長押(なげし)に掲げられた御詠歌の文句(和讃)です。



要するに、このお寺が祀るのは「太陽」であり、月であり、星であり、太陽をシンボライズした大日如来こそが、その本尊だというのです。そして大日如来は、本地垂迹説に基づいて天照大神と同一視され、鏡はその象徴です。まさにすべてが太陽尽くし。だからこその「天道」山であり、「高照」寺なのです。

「その1」に登場した、妙見山浄昇寺と同様、ここも神仏習合の匂いが濃いですが、実際、明治の神仏分離以前、ここは隣接する「五社宮」という神社と一体の存在でした。臨済宗らしからぬ大日如来を本尊にしているのも、もともと宗派のはっきりしない「村のお堂」にそのルーツがあるからでしょう。

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名古屋のごく狭い地域に限っても、星をめぐる文化史的エピソードには事欠きません。こうして眺めてくると、日本には星に関わる信仰・習俗が希薄どころか、大いにあった…ということが、自ずと実感されます。そしてまた、習合を繰り返した星の神々の複雑な歴史の向こうに、汎ユーラシア的な文化の広がりが感じられるのです。

(この項おわり)

名古屋星めぐり(その2)2020年11月24日 06時19分35秒



昨日の浄昇寺から南に10分ぐらい歩くと、「八事山興正寺(やごとさんこうしょうじ)」という大きなお寺があります。



尾張徳川家の祈願所として、「尾張高野」とも呼ばれた真言宗別格本山で、境内には江戸時代に建立された五重塔がそびえる、なかなか立派なお寺です。(ひところ寺の経営をめぐって内紛があり、新聞紙上をにぎわしましたが、今は正常化しました。)

(興正寺公式サイト https://www.koushoji.or.jp/

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その本堂の隅に、一体の仏像が祀られています。


しかし、これまた仏像といっていいのか、神像といっていいのか、でもルーツを考えれば、道教系の神様でしょう。

(本堂の正面向かって右手の厨子に安置されています。)

それは寿老人です。興正寺の寿老人は、「名古屋七福神」の一つになっているので、福を求める人々になかなか人気があります。

妙見が北極星の神格化なのに対して、寿老人は南極星の神格化です。
もちろん、日本や中国からだと、天の南極は地平線下にあって見えませんけれど、南の地平線近くに輝くカノープス(りゅうこつ座アルファ星)を南極星に見立てて、これを古来「南極老人星」と称しました。

北極星も、南極星も、人の運命を司る存在という基本的な性格は同じです。
でも、北極星には「死」、南極星には「生(長寿)」のイメージが投影されたことで、寿老人は、妙に福々しい存在となりました。

(大日如来や弘法大師が祀られた本堂)

そして興正寺は真言宗の寺ですから、真言の儀軌にしたがって、毎年2月に星祭り(星祭御札祈祷会)が行われます。

(興正寺発行のフリーペーパー「八事山文庫」、2020冬号より)

北に北極あれば、南に南極あり。
名古屋のこの狭いエリアで、天の南北両極が対峙し、星に祈りを込める人々の強い磁場が形成されているのは、なかなか見事な眺めです。

(この項さらに続きます)

名古屋星めぐり(その1)2020年11月23日 08時31分28秒

昨日の今日ですが、忙しいと逃避したくなるもので、やっぱり記事を書いてしまいます。
天文和骨董から連想して、以下、身近な場所で日本における星の文化史を考えようという試みです。

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名古屋の東部、昭和区に「浄昇寺」というお寺があります。


名古屋の地理に通じている方は少ないでしょうが、ランドマークでいうと、名古屋大学や東山動物園の南にあたります。

(浄昇寺公式サイト http://joushouji.web.fc2.com/
 同寺インスタグラム https://www.instagram.com/josho_ji/?hl=ja

ここはお寺なんですが、なぜか参道に鳥居が立っていて…


そこに「妙見宮」という額がかかっています。


お寺の正式名称は「妙見山浄昇寺」。妙見町という地名の由来にもなっています。

(一つ上の写真は裏参道で、こちらが表参道。ここにも鳥居と「妙見宮」の扁額)

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宗派でいえば日蓮宗のお寺ですが、より端的には「妙見信仰」の寺で、こういう神仏習合的な寺のあり様は、妙見信仰そのものの複雑な性格を物語っています。

(ウィキペディアの「妙見菩薩」の項に載った、その多様な姿)

本尊である妙見菩薩は、北極星を神格化したもので、仏教や神道というよりも、本来は道教や陰陽道の星神信仰の色彩が濃い尊格です。日本では、中世に武神としての性格を強め、さらに北斗信仰と融合し、坂東平氏の一族である千葉氏が深く帰依したことでも知られます。

近世に入ると、「妙見」の文字から、眼病平癒を祈願する庶民信仰の場として、各地で繁盛しました。浄昇寺の場合も、元は神仏に祈って眼疾が治った村人が、妙見像を勧請したのが始まりだそうです。


しかし、本堂に「北辰殿」の額がかかり、星祭りの祈祷会を毎年行っているのは、星辰信仰の場たるその本分を今に伝えています。

名古屋における妙見信仰の場は、ごく希少です。まずはここを起点に話を進めます。

(この項つづく)

庚申信仰2020年09月21日 07時16分17秒

(今日は2連投です。前の記事のつづき)

その干支のひとつに「庚申(こうしん/かのえさる)」があります。
西暦でいうと、直近は1980年で、次は2040年。

ただし、干支というのは「年」を指すだけでなく、「日」を指すのにも使います。だから旧暦を載せたカレンダーを見ると、今日、9月21日は「丁卯」で、明日は「戊申」、あさっては「己巳」だ…というようなことが書かれています。

そういうわけで、庚申の日も60日にいっぺん回ってきます。近いところだと先週の月曜、9月14日が庚申の日でした。次は11月13日です。庚申塚とか、庚申講とか、いわゆる「庚申信仰」というのは、この庚申の日に関わるものです。

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庚申信仰について、ウィキペディアばかりでは味気ないので、紙の本から引用します。

 「〔…〕庚申(かのえさる)にあたる日には、特殊な禁忌や行事が伝えられている。とくに庚申の日に、眠らないで夜をあかすという習俗は、もともと道教の説からおこったものである。人の体に潜む三尸(さんし)という虫が、庚申の日ごとに天にのぼり、その人の罪を天帝に告げるという。そこで、その夜には、守庚申といって、眠らないで身を慎むのである。

〔…〕庚申待ちの礼拝の対象は、一般に庚申様と呼ばれている。しかし、もともと庚申の夜には、特定の神仏を拝んだわけではなかった。初期の庚申塔には、山王二十一社や阿弥陀三尊などがあらわれ、江戸時代になって、青面金剛(しょうめんこんごう)が有力になってくる。さらに神道家の説によって、庚申が猿田彦に付会され、道祖神の信仰にも接近した。

〔…〕庚申信仰の中核となるのは、それらの礼拝の対象とかかわりなく、夜こもりの慎みであったと考えられる。そのような夜こもりは、日待ちや月待ちと共通する地盤でおこなわれていたといえよう。」
 (大間知篤三・他(編)、『民俗の事典』、岩崎美術社、1972)

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引用文中に出てくる「青面金剛」の像を描いた掛け軸が手元にあります。(元は文字通り掛け軸でしたが、表装が傷んでいたので、切断して額に入れました。)


憤怒相の青面金剛を中心に、日月、二童子、三猿、それに二鶏を配置しています。
庚申の晩は、これを座敷に掛けて、近隣の者がその前で夜通し過ごしたのでしょう。といって、別に難行苦行というわけではなくて、ちょっとしたご馳走を前に、四方山の噂をしたり、村政に関わる意見を交わしたり、村人にとっては楽しみ半分の行事だったと思います。


線は木版墨摺り、それを手彩色で仕上げた量産型で、おそらく江戸後期のもの。
改めて庚申信仰を振り返ってみると、

○それが暦のシステムと結びついた行事であること、
○道教的宇宙観をベースに、人間と天界の交流を背景にしていること、
○日待ち・月待ちの習俗と混交して、日月信仰と一体化していること、
○夜を徹して営まれる祭りであること

…等々の点から、これを天文民俗に位置づけることは十分可能です。まあ、この品を「天文アンティーク」と呼べるかどうかは微妙ですが、このブログで紹介する意味は、十分にあります。

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ところで、手元の品を見て、ひとつ面白いことに気づきました。


この掛け軸は、絵そのもの(いわゆる本紙)は、割と保存状態が良かったのですが、一か所だけ、三猿の部分が著しく傷んでいます。特に「言わざる」の口、「聞かざる」の耳、そして「見ざる」に至っては顔全体が激しく摩耗しています。

おそらくこれを飾った村では、見てはいけないものを見た人、聞いてはいけないことを聞いた人、言ってはいけないことを言った人は、庚申の晩に、対応する三猿の顔を撫でて、己の非を悔いる風習があったのではないでしょうか。そうした例はすでに報告されているかもしれませんが、私は未見なので、ここに記しておきます。

(上の想像が当たっているなら、その摩耗の程度は、当時の「三悪」の相対頻度を示すことになります。昔は見ちゃいけないものが、やたら多かったのでしょう。)

「星座」の誕生(後編)2020年06月07日 13時32分05秒

昨日のエピソードに似たことは、抱影の評伝を書いた石田五郎氏も自身の経験として述べています(『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』、リブロポート(1989)、p.186)。

「また東北地方の山奥にこけしを買いに入ったとき老木地師に尋ねても
 「サア、孫たちはオリオンとか北斗七星とかいってますが…」
という返事である。
小学校の天文教育やテレビの科学番組が、古きよき神々を追放したのであろう。」

公教育の普及によって、古い星名が消滅することは、ひとつの文化が消え去ることに等しく、それを惜しむ気持ちはよく分かります。そして消え去る前に、それを記録しておくことは、同時代人の責務だと思います。

とはいえ、民間語彙を駆逐する立場にある、科学のボキャブラリーにしたって、やっぱり消長と盛衰があって、一つの言葉が生まれれば、一つのことばが消えていくのが常でしょう。

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今回のテーマは「星座」という言葉の誕生をめぐってです。

これは、5月31日の記事に対する、S.Uさんのコメントが元になっています。
その中で、S.Uさんは constellation という外国語が「星座」と訳された時期、そして個々の星座を「○○座」と呼ぶようになった時期を問題にされ、明治30年代に画期があったのでは?という仮説を述べられました。

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ここでもう一度抱影に登場してもらって、彼のヒット作、『星座巡礼』(研究社、大正14/1925)を開くと、そこには「北冠座」とか「蛇遣座」とかの項目が並んでいます。

(手元にあるのは昭和6年(1931)の第7版です)

「北冠座」というのは、今でいう「かんむり座」のことで、後者も今は「へびつかい座」とかな書きすることになっているので、古風といえば古風ですが、そう違和感はありません。そして、抱影以後は、誰もがこういう言い方に親しんでいます。「おおぐま座」とか「オリオン座」とか、個別の星座を「○○座」と呼ぶのは、確かに便利な言い方で、コミュニケーションにおいて言葉の節約になります。

でも、昔はそうではありませんでした。

そもそも「コンステレーション」に伝統的な日本語を当てれば「星宿」であり、実際そのように呼ぶ人が、昔は大勢いたのです。そして「星座」の訳語が生まれても、そこからさらに「○○座」の表現が使われるまでには、結構タイムラグがありました。

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さっそく実例を見てみます。

明治時代の天文書における表記の変遷(「星座」vs.「星宿」、および個々の星座の呼び方)をたどってみます。ここでは便宜的に、明治時代を3区分して、「前期」(鹿鳴館の時代まで、1868~1883)、「中期」(日清戦争を経て日英同盟まで、1884~1902)、「後期」(日露戦争と大正改元、1903~1912)とします。

【明治前期】
〇関藤成緒(訳)『星学捷径』(文部省、明治7/1874)
 「星座」(星座例:“「ヘルキュルス」星座”、“「オライオン」星座”)
〇西村茂樹(訳)『百科全書 天文学』(文部省、明治9/1876)
 「星宿 コンステルレーション」
 (星座例:“大熊 ウルサマジョル”、“阿良〔「オリオン」とルビ〕”
〇鈴木義宗(編)『新撰天文学』(耕文舎、明治12/1879)
 「星宿
〇内田正雄・木村一歩(訳)『洛氏天文学』(文部省、明治12/1879)
 「星座」〔「コンステレーション」と左ルビ〕
 (星座例:“ユルサマジョル グレートビール(大熊)”、“リブラ バランス(秤衡)”、“ヘルキュレス ヘルキュレス(神ノ名)”、“オリオン オリオン”)

(『洛氏天文学』より。下も同じ)


【明治中期】
〇渋江保(訳)『初等教育 小天文学』(博文館、明治24/1891)
 「星宿」(星座例:“グレート、ビーア(大熊星)”、“ヅラゴン(龍星)”、“オリオン”)
〇須藤伝治郎『星学』(博文館、明治33/1900)
 「星宿」(星座例:“ウルサメージョル(大熊)”、“シグナス”、“ライラ(織女)”、“ヲライヲン(参宿)”)
〇横山又次郎(著)『天文講話』(早稲田大学、明治35/1902)
 「星座」(星座例:“大熊宮”、“かしおぺや宮”、“獅子宮”、“おりよん宮”)

【明治後期】
〇一戸直蔵(訳)『宇宙研究 星辰天文学』(裳華房、明治39/1906)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“かっせおぺあ星座”)
〇本田親二(著)『最新天文講話』(文昌閣、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“獅子座”、“カシオペイア座”)
〇日本天文学会(編)『恒星解説』(三省堂、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“琴(こと)”、“琴座のα星”、“双子座β星”)

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こうして見ると、「星座」という言い方は結構古くて、明治の初めにはすでに使われていました。しかし、「星宿」も頑張っていて、最終的に「星座」で統一されたのは、明治も末になってからです。日本天文学会が創設され(明治41/1908)、用語が統一されたことが大きかったのでしょう。

「星座」vs.「星宿」に関しては、最終的に新語が勝ち残った形です。
単に明治人が新し物好きだから…ということなら、「Astronomy」も、古風な「天文学」ではなしに、新語の「星学」が採用されても良かったのですが、結果的に定着しませんでした。この辺はいろいろな力学が作用したのでしょう。

いっぽう「〇〇座」の言い方ですが、これもいろいろ試行錯誤があって、「○○星座」とか、「○○宮」とかを経て、最終的に「○○座」が定着したのは、これも明治の末になってからです。

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ときに先のコメント欄で、S.Uさんが「以下は私論ですが」と断られた上で、
「星座は境界のある「空の区域」を示すものですから、単に星座の絵柄の名前でなく「座」をつけるのが正式とされたのだと思います。」「少なくとも学術的には星座は常に空の区域の名称ですから、星座名としての「オリオン」は間違いではないとしても、正式名称は「オリオン座」でその省略形と見なされるのではないかと思います。」
と述べられたのを伺い、なるほどと思いました。

要は、棍棒を振り上げて、雄牛とにらみ合っているのは、たしかに空の狩人「オリオン」ですけれど、オリオンを含む空の一定エリアを指すときは「オリオン座」と呼ぶのだ…という理解です。たしかに、1930年に国際天文学連合が、星座間の境界を確定して以降は、このように星座のオリジナルキャラと、「○○座」という空域名は、明瞭に区別した方が便利で、実際そのように扱われることが多いのではないでしょうか。

(天界の土地公図。『Délimitation Scientifique des Constellations』(1930)表紙)

とはいえ、改めて考えてみると、東洋天文学で「参」と「参宿」を区別したように、現代の「空域としての星座」は、むしろ「星宿」の考え方に近く、オリオン座も「オリオン宿」と呼んだ方がしっくりするのですが、これはもうどうしようもないですね。

「星座」の誕生(前編)2020年06月06日 14時52分18秒

野尻抱影は、星の民俗を考える上で非常に示唆的な話を、自著『星三百六十五夜』(改装新版1969〔初版1955〕)の中に綴っています。一夜一話形式のこのエッセイ集の5月16日の項に出てくる「マタギの星」というのがそれです。

  「飯豊・朝日の山間、小国郷〔引用者注:山形県小国町〕はマタギ(猟夫)の本場として聞こえている。カモシカの皮の甚平に麻のたっつけ(袴)、村田銃と朱房のついた七尺ヤリを携えたのは、一時代昔のことだろうが、私のおいは、その奥も奥の、戸数八戸という越戸部落の山元、熊狩の統率では神の如く崇められていた、当時八十四才のM老人と親交があった。そして、私のために。その部族に伝わる星の名を問い合わせてくれた。」

(マタギ装束、大正6年。出典:新庄デジタルアーカイブ

抱影が日本古来の星名に関心を持ったのは、大正末年からで、その蒐集活動は昭和20年代いっぱい続きました。これはその時期のエピソードです。文中の「山元」というのは、文脈からすると、山の狩猟権を保有するマタギの棟梁という意味合いのようですが、上の問い合わせに対して、山元のM老人とは別のAという人から返事が来ました(太字は原文傍点)。

 「星さまでは、北極星を当方では北の明星といって、大そう崇めて、この方向には鉄砲を打たないことにしてあります。その星の近くにあるたくさんの星を当方では熊座と崇めて毎夜拝んでいます。山元の家では、この方角に当って不浄をさえしないように気をつけております。熊祭には特にこの熊座に灯明を捧げて一同礼拝します 云々」

マタギの古俗に根差したらしい、いかにも野趣に富んだ話です。

 「私はこの手紙を手にして、一応は首をひねった。何よりも熊座の「座」が気になったからだ。けれど、これは北の明星(北極星)を熊猟でも北のしるべとして崇めるところから、自然その周囲の星々に熊の名をつけたもので、大熊・小熊とは偶然の符号だろうと思い返した。」

昔の囲炉裏を切った民家では、主人が座るのは「横座」、妻は「かか座」、客人は「客座」と、人々の座る位置が厳密に決まっていました。そこから類推すると、北極星のまわりで、神聖な熊が座を占めるべき位置を「熊座」と呼んだのは、さして突飛とも思われません。

でも、やっぱりこの話にはオチがあったのです。
翌年、抱影のおいは直接小国郷を訪ね、その真相を抱影に知らせて寄こしました。

 「Aという人は、この部落で二十年からいる、六十を越した先生だったのは意外でした。字のたっしゃな人が居らぬため返信を頼まれたのだそうで、熊座が果して小学読本からのものだったのにはがっかりしました。」

そう、古俗でも何でもなく、「熊座」の名は小学校の副読本に出てくる「おおぐま座、こぐま座」の引用だったのです。


 「もっとも先生の教育宜しきを得るためか、八十四の山元のMじいさんまで、大熊座と小熊座とは、シチョーノホシとネノホシ〔引用者注:北斗七星と北極星のこと〕附近の古来からの別称と思ってるらしいのです。この二つの名を、黄いろい前歯が一本だけの老人の口から聞い〔原文ママ〕時の感じを御想像下さい。云々

 私も苦笑するほかはなかった。そして、教育もよくもまあ普及したものだと思った。」

   ★

その教育の片棒をかついだのは、他ならぬ抱影自身ですから、彼も苦笑いするばかりでは済まんぞ…と思いますが、まあこういうことは明治以降、各地で絶えず起こったでしょう。

近代に限らず、江戸時代も出版文化は非常に盛んでしたから、地方の知識人が書物から得た知識を元に、その土地の古俗に国学的解釈をまぶして、それがまた地誌に記録されて、いつのまにか確固たる「事実」に転化したり…なんてことは、いくらでもあったと思います。

こういう民俗調査の陥穽には、よくよく注意しなければなりません。

   ★

…ということを実は書きたかったわけではなく、今では当たり前の「○○座」という言い方が、明治以降、どのように普及したかを書こうと思ったのでした。前置きが長くなったので、本題は次回に。

(この項つづく)

太陽の王冠(後編)2020年05月11日 06時43分03秒

今回は、結論が見えぬまま、調べるのと書くのとを同時並行で進めているので、どうしてもくだくだしくなります。でも、ようやく出口が見えてきました。
前回を受けて、1840年代に目星をつけて、さらに深掘りしていきます。

   ★

自分で1840年代と書いて、ピンと来た本があります。
それは、ウィリアム・ハーシェルの息子で、当代随一の碩学と言われたジョン・ハーシェル(1792-1871)が出した天文学の教科書です。

ジョン・ハーシェル(以下ハーシェル)は、1833年に『天文学要論(Treatise on Astronomy)』という本を出しています。手元には1845年に出た、その「新版(New Edition)」というのがあります。しかし、彼は天文学の発展をカバーするのに、これでは全然不十分と思ったらしく、1849年にはこれを大幅に増補し、『天文学概論(Outlines of Astronomy)』と改題した<全改訂新版>を出しました。この本は、大いに歓迎され、1873年まで12回も版を重ねています。


それらを見ると、1845年の『天文学要論(新版)』には、コロナが全く登場しませんが、1849年の『天文学概論』には、「bright ring or corona of light is seen(…).This corona was beautifully seen in the eclipse of July 7. 1842」という風に出てきます(p.235)。

(ジョン・ハーシェル『天文学概論』(1849)より)

さらに、新たな挿図として、この1842年7月の皆既日食を口絵に加えています。

(同上)

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1840年代は、やっぱり1つのターニング・ポイントだったと思います。
ここでさらに大胆に推論すると、ハーシェルをコロナづかせた(?)、この「1842年7月の皆既日食」の観測記録こそが、コロナ普及にあずかって大いに力があったのではないか…という想像も浮かびます。

天文学界への影響力、そしてハーシェル個人への影響力を考えると、その最有力候補はフランシス・ベイリー(Francis Baily、1774-1844)で、彼はハーシェルとともに王立天文学会を創設した古参メンバーです。

ベイリーの名は、日食の際、月面の凸凹(山谷)が背後の太陽の光をきれぎれに洩らし、あたかも光点の数珠のように見える現象、いわゆる「ベイリー・ビーズ」を記載した人として、天文ファンにはおなじみです。それは1836年5月15日の金環食の報告(LINK)に出てくるのですが、そこにはコロナに関する言及はありません。

ベイリーがコロナについて明確に述べているのは、彼の最晩年にあたる1842年の日食報告の中においてで、このとき彼はイタリア・ミラノの近郊、パヴィアの町に陣取って、当日を迎えました。

■Francis Baily, Esq.
 Some Remarks on the Total Eclipse of the Sun, on July 8th, 1842 
 Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 5, Issue 25, November 1842, Pages 208–220

報告の中で、ベイリーは例の1806年のデ・フェレールの業績にも言及しつつ、自らが見た日食をヴィヴィッドに叙述しています。

彼が前回(1836年)見たのは金環食で、皆既日食を見たのは初めてです。
彼はそれまで先人のコロナ記録を読んで、漠然と「太陽や月の暈のようなもの」を想像していましたが、実際目にしたのはまったく別物でした。「そのため、私は突如視界に広がった、その壮麗な光景に少なからず吃驚仰天してしまった」(I was therefore somewhat surprised and astonished at the splendid scene which now so suddenly burst upon my view.)と、彼は告白しています(p.211)。その上で、彼はコロナの色、広がり、形状等について、できるだけ正確に記載しようと言葉を尽くしています。

ここで注意すべきことは、彼はコロナを指すのに、すべて斜字体の「corona」――日本風に言えばカギかっこ付きの「コロナ」――を、文中一貫して用いていることで、ベイリーが「コロナ」という語に、一定の意味的負荷――「日食特有の光」というような――をかけて用いていることが明瞭です。

ハーシェルが、この論文を見たことは確実なので(『天文学概論』は、観測地にパヴィアを挙げています)、『天文学概論』に登場した「コロナ」の語も、おそらくベイリーに感化されて使用したものと想像します。

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以上はラフ・デッサンで、この「太陽の王冠」をめぐる歴史物語には、当然もっと多くの人が絡むはずです。しかし、あのベイリーが使い、ジョン・ハーシェルが教科書に記したとなれば、「コロナ」が学術用語として公認されたも同然ですし、この辺から一気に用例が増えたのも事実ですから、物語の絶対年代はあまり動かない気がします。

確かにクダクダしいと言えばクダクダしい―。
でも、「コロナ」という言葉が生まれたことで、人々の注意がコロナに向き、世紀の後半には多くの分光観測がなされ、太陽の層状構造論が進歩していったわけですから、言葉というのはやっぱり大事です。

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さて、閑な人間(私のことです)が、天上のコロナを見上げている間も、地上のコロナの形勢は、刻一刻と変化しています。こちらは果たしてどんな歴史をたどるのでしょう?

(この項おわり)


(注) 19世紀の日食リスト【LINK】を見ると、デ・フェレールの1806年以降、ベイリーの1842年までに限っても、22回もの皆既日食が、地球上のどこかで起こっています。それらの観測記録の中で「コロナ」の語を用いた例は多いでしょうし、またそれを引用して論じた人はさらに多いでしょう。

太陽の王冠(中編)2020年05月10日 11時32分11秒

(今日は2連投です。)

デ・フェレールの言う「luminous corona(光の王冠)」が、同時代人にとっては単なる修辞に過ぎず、学術用語と感じられなかったであろうことは、以下の本からも読み取れます。

■Duncan Bradford,
 The Wonders of the Heavens.
 Amwrican Stationers Company (Boston), 1837

ブラッドフォードのこの本は、一般向けの天文書としては、ごく早期に属するものですが、その中にデ・フェレールの文章をそっくり引用している箇所があります(p.233)。でも、その言い回しは微妙に変わっていて、原文の「The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous coronaは、「(…)forming a contrast with the luminous ringに改まっています。また、その前後を見ても、「コロナ」という語は一切登場しません。

明らかに、ブラッドフォードは「コロナ」の語に特別な意味を認めず、「リング」と置換可能と捉えていた証拠です。

(ブラッドフォード、上掲書より)

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では、「コロナ」が、明瞭に天文学上の用語となったのはいつか?
これまた余りはっきりしないんですが、例えば A. Keith Johnston『School Atlas of Astronomy』(1855)を見ると、以下の挿図に寄せて、こう解説しています(p.7)。


 「図3〔上図の中央〕は、あるドイツ人天文家のスケッチから写したものである。本図は1851年6月28日の皆既日食中に、月の暗い本体の周囲に見られたものを示している。〔…〕月は空に浮かんだ黒い球ないし円板として見えている。その周りには、あらゆる方向に向かう光の線が、輝く暈(ハロー)を形作り、これは『コロナ』と呼ばれる。」

原文だと、末尾の『コロナ』は、斜体字の corona で表示されており、1855年の時点では、「コロナ」が「王冠」の意を離れて、天文学上の用語として熟していたことが窺えます。

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さらに下って、アグネス・ギバーン(Agnes Giberne)『Sun, Moon, and Stars』(1882)を開けば、「太陽のコロナとプロミネンス」と題する見慣れた感じの図が載っていて、もう「コロナ」といえば、断然あのコロナのことなんだ…という風に、時代は変わったことが知れます。

(ギバーン、上掲書より)

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だいぶゴチャゴチャしてきたので、話を整理します。

まず、皆既日食中に見られる光の暈を、最初に「王冠」に喩えたのは、おそらく定説通り、1806年(ないし1809年)のデ・フェレールなのでしょう。人類は皆既日食を目にするたび、コロナの光を見てきたはずですが、それに「王冠」を当てたのは、なかなか上手い見立てで、だからこそ後の人もこぞって採用したのでしょう。

でも、その呼び方がしっかり天文学の世界に定着するには、かなり長い時間が必要で、1830年代になっても、天文学入門書に登場するほどの普及ぶりには達していませんでした。その後、1850年代には、用語として明瞭な輪郭を備えるに至ったので、まあ間をとって、1840年代ころ天文学の世界に定着したんじゃないかなあ…というのが、現時点における大ざっぱな推測です。

もちろん、これはごくわずかな、しかも英語圏のみの資料に基づく想像なので、あまり自信はありません。でも、これぐらい目星をつければ、作業仮説としては十分です。

(この項さらに続く。次回完結編)

太陽の王冠(前編)2020年05月10日 11時10分03秒

地にコロナあれば、天にもコロナあり。
以前、かんむり座のことを書きましたが、太陽のコロナのことはまだでした。

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皆既日食の折り、太陽を包むように神秘の輝きを放つコロナ。


上の画像、右は1851年6月28日、バルト海沿いのリクスヘフト(現ポーランド領ロジェビエ)で観測された皆既日食の図。ヨハン・メドラーが1861年に出版した、『皆既日食、特に1861年6月18日の日食について(Über Totale Sonnenfinsternisse mit besonderer berücksichtigung der finsternis vom 18. Juli 1861)』所載の図で、原図は Dr. C. Fearnley によるものです。

また、左の幻灯スライドは、スコットランドの伯爵天文家のジェームズ・リンゼイが、1870年12月22日、スペインに日食遠征して撮影した像。太陽研究の記録手段も、スケッチから写真へと、急速に変わりつつあったことが分かって、興味深いです。

ところで、この「コロナ」という言葉。
太陽本体からパーッと王冠のように広がっているから、コロナと言うのだな…ということは分かりますが、でも、いつから天文用語として使われるようになったのでしょうか?

そんな些末なことを、自粛ムードのつれづれに考えてみます。

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まず、ウィキペディアで「コロナ」の項を見ると、そこにはこう記されています。

 「1809年、スペインの天文学者ホセ・ホアキン・デ・フェレールは「コロナ」という言葉を生み出した。デ・フェレールはまた、ニューヨーク州キンダーフックでの1806年の日食の観測に基づいて、コロナは月ではなく太陽の一部であると提唱した。」


 「1806年に、ニューヨーク州キンダーフックから観測した日食に関する記述の中で、彼は皆既日食中に観測される明るいリングを指すものとして、『コロナ』という語を作り出した」

…と書かれているので、たぶんこれが定説なのでしょう。でも、これで納得せずに、もうちょっとこだわってみます。

【2020.5.11付記】
 太陽コロナの初出について、HN「パリの暇人」さんから本記事「中編」へのコメント欄でご教示いただきました。それによると、コロナの初出は、1809年どころか、さらに100年あまり前の1706年の由。一部を引用させていただくと、「南仏モンペリエで、Plantade と Clapiès の二人は、1706年の5月12日の皆既日食を観測し論文を書いていますが、その中で、≪"コロナ"(仏語でcouronne)の様な光≫と記述しています」。こうなると、以下に論ずることは抜本的に見直しが必要となりますが、その余力がないので、そのままとしておきます。

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ウィキペディアは、デ・フェレールのオリジナル論文を典拠に挙げています。

■de Ferrer, Jose Joaquin (1809). “Observations of the Eclipse of the Sun, June 16th, 1806, Made at Kinderhook, in the State of New-York”. Transactions of the American Philosophical Society 6: 264. 【LINK

リンク先の264ページ以下が、件の論文になります。
この中に以下のような形で「corona」という言葉が出てきます。

 The disk had round it a ring or illuminated atmosphere, which was of a pearl colour, and projected 6' from the limb, the diameter of the ring was estimated at 45'. The darkness was not so great as was expected, and without doubt the light was greater than that of the full moon. From the extremity of the ring, many luminous rays were projected to more than 3 degrees distance. ― The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous corona; with the telescope I distinguished some very slender columns of smoke, which issued from the western part of the moon. The ring appeared concentric with the sun, but the greatest light was in the very edge of the moon, and terminated confusedly at 6' distance. (pp.266-7)

 (太陽面は一種のリングないし輝く大気に囲まれていた。それは真珠色をして、辺縁部から角度6分のところまで広がり、リングの直径は45分と推定された。暗闇は思ったほどではなく、間違いなく満月のときよりも明るかった。リングの端からは、多くの光線が3度以上の距離まで伸びていた。一方、月面はぼんやりとして非常に暗く、明るいコロナとは対照的だった。望遠鏡を使って、私は月の西側から放出された非常に細い煙の柱を識別した。リングは太陽と同心円状に見えたが、最も明るいのはちょうど月の端の部分で、角度6分の距離でぼんやりと終っていた。)

デ・フェレールの言いたいことは、同誌の巻末に載っている以下の挿図を見ると、よく分かります。

(Transactions of the American Philosophical Society 6(1809)巻末に収録)

この「corona」という語は、同じ「luminous corona」という形で、p.275にもう1回出てきます。でも、上では「明るいコロナ」と一応訳したんですが、思うにこれは文字通り「光の王冠」という、一種の比喩的修辞に過ぎず、そのように訳すべきではないか?…という疑念が、私の中にくすぶっています。

というのも、文章の前後を見ても、彼が「コロナ」を、天文学上の新語として特に意味づけている箇所はありませんし、上図の説明にあたる箇所(p.274)には、次のような簡単な記述があるだけで、「コロナ」に全く言及されていないからです。

 「図版6第1図は、皆既日食を描いたものである。ここで月の周りの輝くリング(luminous ring)は、日食の最中に見えたままを正確に描いたもので、また月面中に見える光は、太陽光線が最初に出現するよりも、6.8秒だけ先行していたと述べるにとどめよう。」(p.274)


(長くなったので、ここで記事を割ります。この項続く)