恐竜クラシック ― 2012年04月07日 19時01分28秒
昔の恐竜、今の恐竜。
その変化から類推して、さらに「未来の恐竜」というのを思い浮かべました。
で、「将来、恐竜はこうなる!」という予言記事を書いてみたらどうかとか、あるいは「2013、これが恐竜のニュートレンドだ!!」と煽りを効かせてみたらどうかと夢想してみました。
…書いていて、我ながら素敵にバカバカしいですが、でも、恐竜たちが、今も人々の想念の中で進化を続けていると考えるのは、ちょっと悪くない気がします。
その変化から類推して、さらに「未来の恐竜」というのを思い浮かべました。
で、「将来、恐竜はこうなる!」という予言記事を書いてみたらどうかとか、あるいは「2013、これが恐竜のニュートレンドだ!!」と煽りを効かせてみたらどうかと夢想してみました。
…書いていて、我ながら素敵にバカバカしいですが、でも、恐竜たちが、今も人々の想念の中で進化を続けていると考えるのは、ちょっと悪くない気がします。
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さて、昨日のおじいさんが憧れた恐竜は、きっと↑こんな姿をしているに違いありません。
ノッシ、ノッシ。
(斜めから写したので、ちょっと歪んでいます)
(斜めから写したので、ちょっと歪んでいます)
とぼけた表情に味わいがあるような…。
遠くの方でもノッシ、ノッシ。
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上の品は、「白亜紀の動物」と題された、ドイツの教育掛図で、1960年代頃のもの。
ドイツ中央教具研究所(Deutschen zentralinstitut fur Lehrmittel)監修、ベルリンのVolk und Wissen Verlag 社発行。Heinz Dost という画工の名前が欄外に見えますが、どうもこの絵は素人目にも下手ですねえ。
東西冷戦下の東ドイツ(略称DDR)では、教育用の掛図が大量に作られたらしく、それらは今や古物市場で二束三文の捨て値で売られています。私は勝手に「DDRもの」と呼んでいますが、全体に粗製乱造の気味があるので、買う時にはいささか用心が必要です。
ひっそりと眠る驚異の博物標本室 ― 2011年12月27日 20時45分03秒
この頃は5時ともなれば、辺りはとっぷりと暮れ、しかも空気が乾燥しているせいで、おぼろな感じがなくて、黒々とした夜空が頭上に広がっています。
今日、仕事帰りに西の空を見上げたら、駅舎の上にかっちりした三日月と金星が、並んで光っていました。何だかその脇に「足穂」と落款を押したいような、実に絵になる光景でした。
今日、仕事帰りに西の空を見上げたら、駅舎の上にかっちりした三日月と金星が、並んで光っていました。何だかその脇に「足穂」と落款を押したいような、実に絵になる光景でした。
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さて、1つ前の高校生の理科の話題、ヴンダーカンマーの話題から、三題噺的に話を続けます。
真に驚くべきものは、人知れずひっそりと、そして意外に身近な場所にあるのかもしれません。驚異の部屋に憧れる人、博物趣味に思い焦がれる人が、呆然となるような場所が、都内豊島区にあるのを発見しました。私もつい先日知ったのですが、見た瞬間、我が目を疑いました。
それは学習院高等科の標本保管室です。
リンク先には、掛図の紹介ページと、生物・骨格標本の紹介ページとがあります。詳細なデータはありませんが、いずれも驚くほど良質の資料と見受けられます。しかも、同室にはとびきりの鉱物標本も所蔵されていることを、下のページで知りました。きっと他にも知られざる逸品が収蔵されているのでしょう。まさに博物学の一大聖地。
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こうした品が、なぜ大学ではなく、高校という中等教育機関に所蔵されているのか、そのこと自体不思議ですが、その辺の経緯は下のページに略術されていました。
■旧制学習院歴史地理標本室コレクション:学習院大学東洋文化研究所
http://www.gakushuin.ac.jp/univ/rioc/vm/c01_zenkindai/c0104_hyouhon.html
それによれば、学習院所蔵の博物資料群は、そもそも旧制の学習院で、博物学教育に供するために設けられた「標本室」がルーツでした。これらの貴重な標本は、残念ながら関東大震災でいったん全て失われてしまうのですが、その後、新たに建てられた理科特別教場に再び「博物学標本室」が設けられ、昭和初年以来、熱心に標本の収集活動が続き、それが戦後になって同校高等科に移管され、現在に至るという流れです。
要するに、これらの標本は本来、旧制高校ないし大学に相当する高等教育機関が収集したものであり、コレクションの質と量の豊かさは、そのことの直接的反映です。
しかも、学習院は今でこそ一私立学校ですが、戦前にあっては(文部省ではなくて)宮内省が管轄する、皇族・華族のための特殊な官立学校で、国家の強力な後ろ盾がありましたし、何と言っても、博物学は「殿様の学問」として大いに奨励されましたから、そのコレクションの充実ぶりは当然といえるかもしれません。
とにもかくにも瞠目すべき空間であり、標本群です。
もちろん私は、即座に学校に電話をして、見学が可能かどうか問い合わせました。しかし残念ながら、学習院側の回答は「一般には公開していないので、見学は不可」というものでした。
まあ、今後何らかのルートで許可が得られる可能性もなくはないでしょうが、今のところそういうルートが思い浮かばないので、当面は想像の世界で、ひそかに探訪するしかありません。しかし、だからこそ謎めいた妖しい魅力がいっそう増す気がします。
ともあれ、学習院の生徒さんは、精一杯そのメリットを享受し、すべからく博物趣味の涵養に努めていただければと念願しております(←余計なお世話でしょうが)。
アトミック・エイジ ― 2011年03月19日 20時36分16秒
今日は近くの公園緑地を歩きました。
あちこちに水色のオオイヌノフグリ、白いハコベ、黄色いタンポポが咲き、そこにモンキチョウが、つがいでひらひらと飛び、まさに春本番です。
青空を白い雲が流れ、吹く風が心地よく感じられるぐらい温かい日でした。
のどかで、平和で、まるで震災などなかったかのようです。
本当に、あの日の出来事が夢であってくれたら…
あちこちに水色のオオイヌノフグリ、白いハコベ、黄色いタンポポが咲き、そこにモンキチョウが、つがいでひらひらと飛び、まさに春本番です。
青空を白い雲が流れ、吹く風が心地よく感じられるぐらい温かい日でした。
のどかで、平和で、まるで震災などなかったかのようです。
本当に、あの日の出来事が夢であってくれたら…
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「原子=物質の最小部位」。
1955年に、旧・西ドイツで出版された教育用掛図です。
原子というのは、モノ自体は変わらないのに、イメージの方は、時代に連れて大きく変わったものの1つではないでしょうか。何と言うか、昔の原子は「どっしり・カッチリ」していました。
つやつやした陽子(赤)と中性子(白)の粒が固まった原子核。左はカリウム、右はウラニウム。
そして、その周りを青い電子がヒュンヒュン軽やかに回っているという、いわゆる「惑星型モデル」。今では、何だかフワフワと雲のようにつかみどころのない存在になってしまいましたが、でも、原子はやっぱりこうでなくちゃ…と思わせるものがあります。
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神とか、正義とか、善とか、家族とか、かつてはあんなに強固だった概念の多くが、今ではあやふやになってしまい、そのこと自体悪いとも言いきれませんが、でもそれを不安に思う人も多いことでしょう。
原子だけでなく、「原子力」の社会的意味合いも大きく変わりました。
かつては、東海原発が誇らしげに、輝かしい存在として語られた時代もあったような気がします。
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この掛図が出た1955年には、「惑星型モデル」は学問的には既に過去のものとして、単なる比喩以上の意味を失っていたはずですが、でも、子供たちの脳裏では、こういうクールな姿の原子が、依然として鮮やかに輝き続けていたのでした。
雲よ! ― 2010年12月10日 07時04分05秒
悲しい時、淋しい時、楽しい時、疲れた時、気分が高揚した時。
雲は、折に触れて湧いてくる感情を托すのに、ふさわしい相手です。
雲も、感情も、どこからともなく湧いて出るものだからでしょうか。
雲は、折に触れて湧いてくる感情を托すのに、ふさわしい相手です。
雲も、感情も、どこからともなく湧いて出るものだからでしょうか。
心をよぎるのが感情で、空をよぎるのが雲。
遥かな高みにある星々よりも、雲は我々にずっと近しい「有情の存在」という気がします。
遥かな高みにある星々よりも、雲は我々にずっと近しい「有情の存在」という気がします。
↑は昭和13(1938)年発行の「雲形図」。
発行者は水路部です。水路部というのは、今は海上保安庁の所管ですが、昔は海軍に所属し、文字通り海図の作成や海洋測量を行うほか、海洋気象観測も掌っていたので、こうした図が作られたわけです。
そういう理由だからでしょう、各種雲の図はたいてい海の上に浮かんでいます。
ちょっとピンぼけですが、下は凡例と観測要領の解説。
ご覧のとおり、この図にはあちこち書き込みがあります。
「機上ヨリ見」た塔状雲には、「高積雲又ハ積雲カラ 幾ツカノ小サナ雲柱ガ並ンデ 聳立スルモノ 雷雨ノ前兆」と几帳面にペンで書かれています。
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昭和13年。いろいろなことがあり、そして、いろいろなことがその後に続きました。
この図の以前の持ち主は、いったいどんな思いで雲を見上げていたのでしょうか。
機械的観測ばかりでなく、時には喜怒哀楽をそこに投影することもあったんでしょうか。おそらくそうだろうと想像しますし、ぜひそうあってほしいです。
明治科学の月影さやか ― 2010年09月22日 21時43分12秒
今日は旧暦8月15日。
残念ながら全天雲に覆われて、今夜は月の見えないお月見です。
でもふり返れば、そこに真ん丸い月が。
残念ながら全天雲に覆われて、今夜は月の見えないお月見です。
でもふり返れば、そこに真ん丸い月が。
本棚にかかっているのは、明治40年(1907)発行の学校掛図。
ラベルには「天文地文空中現象掛図 第一輯 六軸之内 五」とあって、天文・地学教材として作られた、シリーズ物のうちの1枚のようです。
明治時代の掛図は、後のものに比べて小さいと以前書きましたが(http://mononoke.asablo.jp/blog/2008/05/20/3531187)、実際この掛図もサイズは約86×56cmしかありません。
編纂は大阪教育社、著作発行・兼印刷者は、大阪市西区の「集画堂・吉江治平」となっています。集画堂(大阪集画堂)は、教育用掛図の古い版元で、戦後も昭和30年頃迄まで存続していましたが、その後廃業したのか、消息を聞きません。
月の海や光条の表現が独特で、ザラザラした砂目石版による表面の陰影とも相まって、何とも不思議な表情の月です。おそらく何か外国から来た元絵があると思うんですが、いまだに見当がつきません。
ちょっと画像をいじると、いっそう幻想的な雰囲気に。
(画面の輝度を調節すると、きれいな満月が浮かび上がります。)
明治の科学少年の目には、名月がこう映ったのかもしれません。
続・デロールの鉱物掛図 ― 2010年08月04日 20時20分45秒
鉱物掛図の話の続き。
実は、このあいだの掛図には相棒がいます(2枚セットで売っていました)。こちらは更に保存状態が悪く、べこべこになっています。
実は、このあいだの掛図には相棒がいます(2枚セットで売っていました)。こちらは更に保存状態が悪く、べこべこになっています。
デロールのカタログを見たら、相棒の方も、「No.234 鉱物 ― 50種、色刷り」として、名前が挙がっていました。「デロールの学校博物館」シリーズ全261種の中で、鉱物を描いた掛図は、これらを含めて全3種(ただし、化石は除く)ですから、やっぱり鉱物掛図はマイナーな存在です。
で、ふと思うのですが、これはフランスに限らず、日本でも、どこでもそうだったんじゃないでしょうか。
そう思う根拠は単純で、学校で習うような鉱物はレアな品よりも、ごく一般的なものがメインなので、それなら絵で見せるよりも、実物を見せたほうが手っ取り早かったのではないか、つまり、鉱物標本は流通・保管が容易なため、学校備品としての普及も早く、あまり掛図に頼る必要がなかったのではないか…というのが、私の推測です。(何せ、学校備品どころか、学童1人1人が所有する鉱物標本セットまで普及していたぐらいですから。→こちらを参照)
で、話の焦点は、鉱物趣味の普及過程と、そうした愛らしい鉱物標本セットがどのように生れたか?ということに向うのですが、それについて、最近ちょっと興味深い資料を目にしたので、そのことを近いうちに書いてみようと思います。
(後日につづく)
デロールの鉱物掛図 ― 2010年08月01日 17時02分26秒
ついに8月。酷暑の中にも、秋の気配が忍び寄ります。
スイカ、かき氷、蝉しぐれ、戦争の記憶、甲子園。
地面にも、心にも、濃い影が落ちる季節。
スイカ、かき氷、蝉しぐれ、戦争の記憶、甲子園。
地面にも、心にも、濃い影が落ちる季節。
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さて、もったいぶったモノの正体は、デロールの鉱物掛図でした。
光量の関係で、ちょっと写真がぼてっとしていますが、実物も保存状態が悪いので、そう見栄えはしません。しかし、あのデロールが制作した鉱物画というのは、それ自体貴重だと思います。
↑下の余白には、デロールファンにはおなじみの「バック街46番地」の住所と社名。
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デロールは、今のような剥製・標本商になる前は、学校教材全般を扱っていて、この種の博物掛図はデロールのドル箱(死語?)でした。大袈裟でなしに、フランスでは19世紀の末以来、ほとんど全ての初等・中等学校がデロールの掛図を備えていたので、デロールが作った掛図の総量は膨大なものになるはずです。
今、手元に1924年版のデロールの商品カタログがあります。
そこには一体いくつの掛図が載っているのか、参考までに書き出してみます。
○第1集 一般編(20種)
○第2集 産業技術編(86種)
○第3集 比較標本編(96種)
○第4集 人体解剖編(59種)
総計261種。これだけでも大したものですが、しかしこれが全てではありません。
上記掛図は、全体で「デロールの学校博物館:諸事学習用(Musée Scolaire Deyrolle pour Leçons de Choses)」というシリーズを構成しているのですが、他にも「幼児教育シリーズ」やら、「農業教育シリーズ」やら、その他もろもろのシリーズがあって、結局どれだけ品目があったのかはっきりしませんが、とにかく大変な量です。掛図が当時どれほど教育現場で使われたか、それは現代のビデオやDVD以上のものだったでしょう。
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さて、今回取り上げた鉱物掛図は、上のカタログでいうと、「第3集 比較標本編」に含まれている<No.235 鉱物 ― 46種、色刷り>という品だと思います。ちなみに当時の価格は、7フラン50サンチーム。全体の傷み具合から考えても、おそらく20世紀の第1四半期を下るものではないでしょう。【付記:記事を書き上げてから見直したら、掛図の右肩に、たしかに 235 と書かれていました。】
前述のように、デロールの掛図でいちばんポピュラーなのは動・植物学関係のもので、鉱物関係のものはかなり珍しい部類に属します。
1枚刷りではなく、鉱物図を別刷り(多色石版)にして、それを9枚台紙に貼りつけてあるのも、他の掛図にはない特徴です。鉱物画は、動植物以上に微妙な色合いを表現する必要があったためでしょうか。
残念ながら保存状態が悪いため、あちこちに染みが浮き出て、全体に退色も進んでいるようですが、元はさぞきれいな絵だったでしょうね。
(この項つづく)
賢治の理科教材絵図(3) ― 2009年07月01日 20時18分04秒
賢治の科学観…というような話題を、コンパクトに書くことは、とてもできそうにないので、この件はしばらく寝かせておくことにします。
ここでは天文古玩的に「モノ」のレベルにこだわって、賢治の絵図について、気付いたことをメモしておきます。
(1)絵図の大きさ
この本(『宮澤賢治 科学の世界』)を含め、手元の本には、なぜか絵図の大きさが書かれていません。それだと現物をイメージしづらいので、文中の記述をもとに大体の大きさを書いておきます。
まず、通番2「原子・分子と岩手県」の図↑では、一番下の水素原子の直径(電子軌道径)が16センチとあります。とすると、絵図全体のサイズは、約60×40センチ(本に掲載するにあたって、周囲がトリミングされている可能性もありますが、とりあえず印刷された部分のみ考えることにします)。
また通番10「土壌粒子の粒径区分」では、土壌の顕微鏡拡大図の視野径が9センチとあるので、同じく約56.5×32センチに相当します。
さらに通番4「日出・日入時刻と日照時間」は、図中の賢治のメモ書きから判断して、約38×25.5センチの大きさ。
要するに、賢治はA2版(59.4×42センチ)やB4版(36.4×25.7センチ)に近い大きさの用紙を使って作図したようです。「掛図」というには一寸小さいですね。手書きという制約もありますし、羅須地人協会の教室(※)は10畳間程度なので、これで十分だったのかもしれません。ただし、下述のように花巻農学校でも使っていたとすると、やや小さすぎるような気もします。
(※)以下のサイトに内部の様子が紹介されています。
○宮澤賢治の里より:羅須地人協会について(その6:賢治先生の家)
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/52536250784dd27e3343b080ec4266f1
(2)これらの絵図はいつ作られたか?
今回、一連の記事を書くにあたって、畑山博氏の『教師宮沢賢治の仕事』(小学館、1988)を通読しました。これは教師としての賢治の姿を、昔の教え子たちに取材してまとめた労作です。同書を読むと、人々の記憶の中では―ごく自然なことですが―かなり理想化・神格化されている気配があって、ただそれを割り引いても、彼はきわめて魅力的な先生であったようです。(前回、唐突に「土」の話題が出てきたのは、畑山氏の本にそれが感動的なエピソードとして書かれていたことに由来します。)
で、そこに次のような話が出てきます。
「羅須地人協会で、賢治先生が、青年たちに講義をするために作られた教材絵図がありますね〔……〕あれは、羅須地人協会のために初めて賢治先生が作ったもののように皆思われているようですが、実はそうではありません〔……〕農学校で、同じものを、すでにわたしたちも習っておったのですよ」(話者:瀬川哲夫氏、上掲書68ページ)
現存する絵図が、花巻農学校時代にも既に使われていたのか、あるいは農学校で使われたのは似たような別の図だったのかは不明ですが、現役教師時代にも、賢治が手製の教材を使っていたのは確かなようです。
既製の教材にあきたらず、いろいろ工夫していたのは、賢治がごく良心的な教師だった証拠でしょう。(彼は英語、代数、化学、気象、作物、土壌、肥料、実習を担当しました。)
上の画像の中央右に見えるのは水素分子の運動模式図です。
「これは水素ガスの分子運動なのです。/水素ガスの分子が、一秒間にどれだけ多く他の分子にアタックする機会があるかということを示しています。/何回だと思いますか。/100億回。100億回ですよ。/生きものたちの身体を作っている分子たちだって同じです。/生物でない無機物だって同じです。/無機物のからだの中でだって、同じように分子たちは飛びまわり、いつもぶつかり合っているのです。/そうなると、生きものも無機物も区別のつかない面も出てきます。/そうです。そうなのです。/こうしてじっと息をつめていたって、細胞は、黙ってないんだ。/黙ってない細胞が沢山集まって出来ているのが人間なんだ。/人間というのはだから、細胞が集まってやっているお祭りなんですね。」(同、77‐78ページ)
賢治の教え子・瀬川哲夫氏が、遠い日を回想して再現した賢治の授業風景です。
夢のような光景であり、体験ですね。。。
賢治の理科教材絵図(2) ― 2009年06月27日 12時57分42秒
「雪の結晶と原子・分子」の図。
賢治が心をこめて描いた雪の結晶が愛らしいですね。ただ、全体構成からいうと、これは一連の絵図の中でも、かなり例外的な分野を扱っています。
これらの絵図は、描かれた目的からして当然ですが、広い意味での農学、つまり植物の構造や土壌についての説明図が大半を占めています。いわば純粋科学よりは応用科学的な内容で、「理科趣味」的感興はいささか薄いような気がします。
…と書きかけて、考えました。
そもそも、賢治にとって科学とは何であったのか?
少なくとも、それは私が玩弄するような「日常からの逃避」や「好事な慰み事」としての<理科‘室’趣味>とは恐ろしく遠いものに違いないと気付いて、その距離の大きさに今更ながら愕然としています。
賢治にとっては応用こそが科学、いや、彼には応用も純粋もなく、科学とは宇宙のコトワリそのものであって、当然のごとく日々の暮らしに直結するものだったでしょう。
例えば、農の基本である「土」。ひとくれの土には、地球が誕生して以来の生物・無生物の長い営みが凝縮されている…そのことへの驚嘆。それはセンチメンタルな観念の遊戯ではなく、一方には厳密な土質分析と詳細な肥料設計への挑戦があって、それらの総体が彼にとっての科学だったはずです。
ですから、賢治にとっての科学とは、消閑の具でも、しかつめらしいものでもなく、この上なく真摯で、しかも強く軽やかに身に添うものであり、これは彼の芸術観とも共通するものだろうと想像します。(何だか、我ながら月並みなことを、上滑り気味に書いている気がしますが、彼の場合、そこに常に実践が伴ったのは何と言ってもエラかった、と思います。)
★
ところで、ここに星や宇宙の説明図がないのは、いかにも残念。(気候との関係で、日照や太陽黒点の消長についての図はあります。)
原子・分子の説明があるならば、その対極に宇宙の構造を説く図があって、その間に生があり、死があり、絶え間ない物質とエネルギー循環がある…という風に講義が進んで欲しかったような気もします。
(この項つづく)
賢治の理科教材絵図 ― 2009年06月25日 07時03分44秒
最近買った賢治本。
■宮澤賢治 科学の世界-教材絵図の研究
高村毅一・宮城一男(編)
筑摩書房、1984
これまでも文学アルバムの類で、賢治の手描きの理科教材を見たことはありましたが、その詳しい来歴は、この本で初めて知りました。
賢治は大正末年~昭和初年ころ、理想主義的な農村振興運動体である「羅須地人協会」を設立し、そこで独自の成人教育に取り組みました。そのとき自ら講義用に絵筆をとったのが、この絵図類です。
実弟の宮沢清六氏の解説によると、これらの絵図は、賢治の没後も実家の土蔵にそのまま置かれていたのですが、太平洋戦争の終結間際、昭和20年8月10日に危機が訪れます。この日、花巻は米軍の空襲を受け、宮沢家からも火の手が上がります。当時宮沢家に疎開していた高村光太郎らも手伝って、懸命に消火活動に当たったものの、焼夷弾の炎は衰えを知らず、清六氏も一時は炎に囲まれて逃げ場を失い、辛くも防空壕に逃れて命をつないだのでした。
清六氏が防空壕から這い出したときには、蔵を残して家屋は全焼。
蔵は火事の発生後すぐに、味噌で入り口や窓の隙間を目張りしておいたので、中のものは無事だったのですが、火事の余熱とは恐ろしいもので、鼠穴からわずかに空気が通じたせいで、空襲後3日目にして土蔵からも火が出て、結局内部は半焼してしまいました。
貴重な教材絵図も、丸められた状態のまま黒く焦げ、水が掛かり、長いこと広げることもままならぬ状態でしたが、地元の表具師・菊池武年氏の努力で丁寧な補修がなされ、今は全49図が宮沢賢治記念館に大切に保管されているとのことです。
賢治の理想、農村の現実、戦争の惨禍etc…多くのことをこれらの絵図に感じ取ることができますが、ここでは理科趣味的視点から、この絵図を見てみようと思います。
(この項つづく)

























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