七夕の雅を求めて(6)…短冊奉納2023年07月06日 05時44分58秒

さて、今回の七夕企画の大トリは、七夕に不可欠の「短冊」です。
これについては、機知も、見立ても、「うがち」もなしの直球勝負で、七夕にちなむ古雅な短冊を飾ることにします。


詠題は「二星逢」、作者は尊純法親王(そんじゅんほっしんのう、1591-1653)という安土桃山から江戸の初めにかけての人です。皇族出身僧として天台座主をつとめ、書に優れた人だったと言います。まあ、これが真筆かどうかは保証の限りでないんですが、ここでは400年前の真筆として、恭しく二星に奉呈することにします。


  まとを〔間遠〕なる契りなりしも 天地の中に絶せぬ星あひの空

七夕の歌には、天上の恋にかこつけて地上の恋を詠んだものも多いですが、これは素直に星のことを謳っている点で好感が持てます。

歌意を按ずるに、「それは確かに“間遠”だけれども、天地の間にあって二星の逢瀬は永遠に繰り返される…」という詠嘆のうちに、人間のタイムスケールと宇宙のタイムスケールとが自ずと対比され、それが歌に奥行きと広がりを与えている気がします。

(この項つづく。明日はこれまで紹介した品の勢揃いです。)

牧野富太郎の手紙2023年04月09日 07時29分51秒

(昨日のつづき)

さて、牧野富太郎の手紙の内容に入ります。
手紙の差し出しは、昭和10年(1935)12月7日、消印は12月8日付になっています。


宛先は荏原区戸越、今の品川区に住んでいた篠崎信四郎という人物です。
篠崎は伝未詳ながら、明治43年(1910)に成美堂から『最近植物採集法』という本【LINK】を上梓しています。同書は牧野の校閲を経ており、篠崎は序文で牧野を「恩師」「先生」と呼んでいます。また、牧野が明治44年(1911)に組織した「東京植物同好会」(発足時の名称は「東京植物研究会」)の会員として、1910~30年代の植物学関係の雑誌に、その名が散見されます。おそらく牧野に学び、牧野の周辺で活動を続けた、在野の植物研究者なのでしょう。

手紙は便箋2枚にペン書きされており、下がその全文。


江戸時代のくずし字ほどではないですが、今ではこうした手紙もずいぶん読みにくいものになっていて、私も首をかしげた箇所がいくつかありました。それでも凝視していると徐々に読めてくるもので、特に不都合な内容もないので、以下に書き起こしてみます(改段落は引用者。ネット情報をつまみ食いして、いくつか註も附けました)。

   ★

貴簡をありがたく拝見いたしました。其后御変りない事と御慶び申上げます。

「趣味の植物採集」(注1)其内に御送りいたします これは三省堂の乞ひにより彼の岩波のもの(注2)や何かを集め参考して拵へたものです それに出てゐる菩多尼訶経(注3)の誤字御しらせ下され誠にありがとう存じます 私は出版語〔後〕余り気を附けて見なかったが大分訂正せねばならぬものがありますナー

神変大菩薩の碑(注4)の蘭山が若し彼の蘭山(注5)でしたらマダ誰れも知らぬ面白い事です それはそれが蘭山の手跡ならば其文字を見れば判断がつくと思ひます 拓本を作って見てはどうですか これは彼の雪花墨即ち鐘墨(ツリガネズミ)でやれは造作もなくとれます 鐘墨は鳩居堂に売ってゐます 廉価な品物です 確か一個十五銭位だと思ひます

榕菴(注6)の学識は無論貴説の通りシーボルトの感化もありませうが何を言へ蘭書など読む力が充分であった為めそれからそれへと読み行いてこそでいろいろの新知識と新知見を得たものでせう

作〔乍〕延引右御礼申上げます
御自愛を願上げます 牧野富太郎
   十二月七日
 篠崎賢台 机下

【注】
(1)『趣味の植物採集』は牧野の自著。1935年、三省堂より刊行。
(2)岩波書店から出た『岩波講座生物学 第8』(1932)を指すか。牧野は同書で「植物採集及び標本調製」の項を分担執筆した。
(3)『菩多尼訶経(ぼたにかきょう)』は、江戸後期の蘭学者、宇田川榕菴(うだがわようあん、1798-1846)が著した植物学書。文政5年(1822)刊。「ぼたにか」とは「botanica」(羅、植物学)の意。折本仕立ての経本をまねた体裁をとっている。
(4)神変大菩薩は、修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ、伝7
世紀の人)の諡号。彼の没後1100年を記念して、江戸時代の寛政11年(1799)、光格天皇より追贈された。ここに出てくる「蘭山」揮毫の碑が何を指すかは不明。
(5)小野蘭山(おのらんざん、1729-1810)。江戸時代の本草学者。蘭山は号で、本名は識博(もとひろ)。その曾孫が前々回の記事に登場した、植物学者の小野職愨(おのもとよし、1838-1890)。
(6)(3)に記した宇田川榕菴のこと。

   ★

旧知の弟子相手ですから、いかにも心安い感じの手紙です。文章もあまり推敲せず、さらさらと書き流した感があります。

内容は最初から最後まで植物学に関連した事柄ですが、リアル植物学に加え、植物学史や植物民俗史的な話題が多いのが注目されます。同時代の野尻抱影が、各地の弟子たちと盛んに文通して、天文民俗語彙の収集に努めていたことが思い合わされるのですが、牧野の場合も弟子たちと似たようなやりとりがあったんでしょうか。(遠目から見ると、こういう動向は、柳田民俗学の隆盛とシンクロしているように感じられます。)

   ★

昭和10年、牧野はすでに73歳になっていましたが、その活力と好奇心は衰えることなく、『牧野植物図鑑』や『(正続)植物記』等の主著を発表するのは、さらにこの後のことになります。平均寿命を考えれば、これは今よりも格段にすごいことで、この一点だけ見ても、牧野という人は文句なしに稀代の傑物です。

牧野富太郎の名刺2023年04月08日 16時30分49秒

牧野富太郎でさらに話を続けます。

以前、牧野という人物に関心を持った際、彼のことを身近に感じたくて、その自筆書簡を手に入れたことがあります。その詳細を書こうと思うのですが、何せ昔の人の手紙ですから、ちょっと読みにくいところもあって、内容については次回に回します。

ただ、書簡を手に入れて、ちょっと得した気分になったのは、そこに彼の名刺が付いていたことです。


ただ1行「牧野富太郎」の姓名のみで、裏面も白紙です。

今の情報過多の名刺とはえらい違いですが、ものの本によると、こういう姓名のみ、あるいはせいぜい位階勲等のみを添えたカードは、「コーリングカード(calling card)」と称するもので、今のゴタゴタした名刺、すなわち「ビジネスカード」とは本来別物だそうです。

ビジネスカードというのは、文字通り商売向けに配るものであるのに対し、コーリングカードは他家を表敬訪問した際、名刺受けに置いてくるもので、そうした折には先方の夫妻に敬意を表して、2枚置いてくるのがエチケットだった…という話です(板坂元(著)『紳士の文房具』、小学館)。

今や「刺を通ずる」というのは、大分古風な言い回しに感じられますが、そういう振る舞いも、こういう名刺を渡してこそ絵になろうというものです。

この場合は、ちょっとした挨拶代わりに名刺を封書に同封して送ったのでしょうが、こうして時空を越えて刺を通ぜられると、何となく牧野富太郎と親しく面会し、その謦咳に接した気分になります。

絵葉書探偵2023年03月25日 11時41分37秒

天文台の絵葉書を整理していて、以下の1枚が目に留まりました。



これはいったいどこの天文台か?
表にも裏にも、何のキャプションもないので、こういうのが一番難しいのですが、じっと見ているうちに、この「S. Fayet」という差出人の名前に、何となく見覚えがある気がしました。


検索すると、果たしてその名はすぐに見つかりました【LINK】。

すなわち、ガストン・ファイエ(Gaston Fayet 、1874-1967)。1917年から62年まで、フランスのニース天文台長を長く務めた人です。(ファーストネームのイニシャルが「S」に見えましたが、これはフランス語の筆記体で「G」ですね。)

ならば当然、被写体はニース天文台のはず。
調べてみると、確かにこれは1883年から運用を開始した同天文台の「小赤道儀棟(Petit Équatorial)」の写真です【LINK】。

   ★

では…と、宛先にも目を凝らすと、そこにも「observatoire」の文字が見えます。


なるほど、よく見るとこの葉書は「ブザンソン天文台 ルブフ台長御夫妻」宛てなのでした。

■Observatoire de Besançon

(ブザンソン天文台。上記ページより)

■Auguste Victor Lebeuf(1859-1929)

結局、これはある天文台長が別の天文台長に送った挨拶状という、なかなか天文趣味に富んだ1枚で、買ったときはそうした事情を一切知らずにいましたから、これはちょっと得をした気分。

(消印は1914年3月1日(1月3日?)付け)

まあ後知恵で考えると、切手の消印がニースですから、それに気づけばすぐニース天文台にたどり着けたはずですが、そうするとたぶん差出人と受取人の探索はせずに終わったでしょうから、これは回り道をして正解です。


なお、写真に写っている人物がファイエだと一層興味深いのですが、この写真だけでは何とも言い難いです。ちなみにファイエは下のような面差しの人だそうです。

(前列左がファイエ。1932年の国際天文連合総会にて。© IAU/Observatoire de Paris。出典:https://www.iau.org/public/images/detail/iauga1932-ship/

ハロー、CQ、CQ、こちらはバチカン天文台2023年03月19日 10時54分14秒

これも紙モノと言っていいのでしょうが、こんなものを見つけました。


「スペコラ・ヴァティカーナ」、すなわちバチカン天文台に設けられたアマチュア無線局「HV2VO」から送られたQSLカード(交信証明書)です。バチカンにハム(アマチュア無線)マニアがいたと知って、「へえ」と思いました。

珍しさついでに、細部に注目してみます。


右肩のスタンプは、カトリック・プロテスタント・正教会を包摂する「世界教会協議会」のロゴマークで、十字架のマストを立てて海に浮かぶ船は、キリスト教会のシンボルだそうです。


裏面を見ると、問題のバチカンのハムマニアは、エドムンド・J・ベネデッティという人です(最後の「S.J.」はイエズス会士を意味する、一種の称号)。


交信日は1985年2月16日、交信相手はW2NCG(ニューヨークに開設された無線局で、その主は戦中から無線趣味にはまっていた、Ralph Gozen(Golyzniak)というベテランの由)。使用周波数は7メガヘルツ帯で、交信はCW(電信)、すなわちトン・ツーのモールス信号で行われました。通信状況を示すRSTコードは最高度の「599」、すなわち「完全に了解可能で、電波も非常に強く、モールス信号の音調も問題なし」。QSLカードは、先にRalphさんの方から届いたので、「TNX(Thanks)」にチェックが入っており、末尾の「73」は、アマチュア無線家が交信を締めくくるときの符牒で「Best regards」の意味です。

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ハムには小学生の頃憧れたので、こういうのを見ると心にチカっと来るものがあります。それに何と言っても舞台がバチカン天文台ですから、二重三重に興味を惹かれます。

探してみるとこのバチカンのQSLカードはいろいろあって、もう1枚見つけたのがこれです。


ローマ教皇の離宮である、ローマ南郊のカステル・ガンドルフォ(ガンドルフォ城)と、そこに併設されたバチカン天文台の航空写真をデザインしたものですが、バチカン天文台は1980年代に入ってから、アメリカのアリゾナ州に観測拠点の移転を進めたので、これはバチカン天文台が、文字通りバチカンと結びついていた末期の姿ということになります。

こちらも裏面を見てみます。


こちらの交信日は1984年12月7日。交信相手はこれもアメリカにあったW2FP局です(主はニュージャージーのWalter Bernadynさんで、2015年に亡くなられた由)。このときも電信でのやり取りで、RSTは「599」でした。


このカードを見ると、バチカンのアマチュア無線局はHV2VOだけではなく、ベネデッティさんを含む5人が、それぞれ独自のコールサインを持って交信を行っていたことが分かります。こうなると、「よし、この5人のカードを全部集めるか!」と思ったりもしますが、そこまでいくと一寸やり過ぎなので、QSLカードはこれで打ち止めにします。

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バチカンのハムマニア、ベネデッティさんの事績は、『ヴァチカン天文台年報2016』【LINK】に、その訃報とともに載っていました(pp.51-2、以下改行と太字は引用者)。

「エドムンド・ベネデッティ・カリトウスキー神父(イエズス会士)が、〔2016年〕12月13日にバルセロナで死去した。

ベネデッティ神父は1920年にロンドンで生まれ、1935年にイタリアのトリノでイエズス会に入り、1950年にインドのダージリンで叙階され、80年間をイエズス会士として、また66年間を司祭として活躍した。彼は、その長く魅力的な人生の中で、南米でも幅広く活躍した。1950年代にロンドンでエンジニアとしての訓練を受け、1978年にバチカン天文台に入り、望遠鏡のエンジニアとして働き、趣味のアマチュア無線「ハム」に熱心なことでも有名だった

観測陣がアリゾナに移転するのに伴い、1988年にはツーソンに着任し、1992年までVATT(Vatican Advanced Technology Telescope、バチカン新技術望遠鏡)の機器開発に参加した。彼の特筆すべき業績は、アリゾナとアルゼンチンの望遠鏡で広く使用された偏光計VATTPolの開発に携わったことである。

天文台での仕事を終えた後も、VATTの所在地からほど近いウィルコックスの教区司祭としてツーソンに留まり、天文台のコミュニティと関わりを持ち続けた。1998年には、テキサス州コーパスクリスティに移り、80代半ばまで教区の仕事を続けた。2004年、引退してスペインに移住(ブラジルへも何度か旅行した)。」

Edmund Benedetti Kalitowski(1920-2016)。ほぼ御当人で間違いなかろうと思いますが、画像検索の結果からリンク先にうまく入れず、出典は不詳)


【参考記事】

■ヴァチカン天文台廃絶?

明治改暦によせて2022年12月04日 15時11分38秒

私の職場のエレベーターは、乗っている人を退屈させない工夫なのか、「今日は何の日?」というのがパネルに表示されます。それによると、昨12月3日は、明治改暦の日でした。すなわち、明治5年(1872)12月3日を以て太陰暦(いわゆる旧暦)を廃して、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に移行し、この日が明治6年(1873)1月1日となったのです。

「へえ、すると今日で太陽暦に移行して満150周年か。それは大きな節目だな」…と一瞬思いましたけれど、この12月3日は旧暦の日付ですから、そう思ったのは錯覚で、本当の150周年はもうちょっと先です。つまり、旧暦の明治5年12月2日がグレゴリオ暦の1872年12月31日に当り、翌12月3日が1873年1月1日なので、こんどの大晦日がくると旧暦終焉150周年、翌日の元旦が新暦開始150周年です。こんどの正月は、そのことを一緒にお祝いしてもいいですね。

   ★

それで思い出したのですが、明治5年の「改暦の布告」の生資料が手元にあります。

(表紙=p.1)

現在の埼玉県西部にあった「入間県」「第7大区各小区戸長中」あてに送達されたものです。

当時の政府からのお達しは、まず郵便で各府県庁に送られ、受け取った府県知事は、それを当時の「大区小区制」にしたがって大区の「区長」に送り、区長はそれを管内小区の「戸長」に送り、戸長がそれを掲示板に貼り出したり、直接住民に申し聞かせたりして周知を図る…という形でした。「大区小区制」は明治初めのごく短期の制度ですが、小区はほぼ江戸時代の村に相当する単位で、戸長にはたいてい旧来の庄屋・名主が任命されたと聞きます。

(裏表紙=p.6)

文書は2つ折りにした3枚の和紙をこよりで綴じてあります。こよりに割印しているのは、これが正式文書であることを示すものと思います。


ここには改暦の布告(11月9日付布告337号)だけでなく、その前後の「皇霊御追祭御式年」に係る太政官布告(11月7日付布告336号)や、「自今僧侶托鉢被禁候事」という教部省通達も書かれていて、区長は日付の近い文書をまとめて戸長に送っていたようです。

(pp2-3.改暦の布告はp.2から最後のp.6にかけて書かれています。)

改暦の布告は、京都府の例(※)のように独自に版本を作成して情報伝達した地域もあるので、入間県でもあるいはそうしたかもしれませんが、少なくとも小区レベルは、こういう書写本の形で情報が伝わっていました。

(※)改暦の話 http://www.kodokei.com/la_015_1.html

(pp.4-5)

ちなみに、改暦の布告は現在も生きた法令で、公式の法律データベース e-Gov(イーガブ)にも掲載されています【LINK】。

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で、あらためて手元の布告を見ると、いろいろ面白いことに気づきます。


まずは冒頭部分。以下、e-Gov掲載の原文は青字、手元の文書は赤字で表記します。

今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行相成候ニ付来ル十二月( )ヲ明治六年一月二日ト被定候事

細かい文言の違いも気になりますが、何といっても注目すべきは、「一月一日」が「一月二日」になっている点です。その上の「十二月( )」が虫食いで読めませんが、筆勢からすると、やっぱり「三日」のようなので、これは完全な誤記です。

(下に白紙を入れて撮影)

これだと入間県のこの地区は、新暦でも旧暦でも、盛大に祝うべき明治6年の元旦がなかったことになります。(その続きを見ていくと、ちゃんと「一月〔…〕其一日即旧暦壬申十二月三日」とあるので、間違える人はいなかったでしょうが…。)


ほかにも時刻の定めとして、「今後〔…〕昼夜平分二十四時ニ定メ」とあるべきところが、「二十二時ニ定メ」になっていたり、「子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ 午前幾時ト称シ 午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ 午後幾時ト称候事」とある箇所などは、「子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ 午前幾時ト称シ候事」と、後半部分をそっくり写し漏らしています。

この文書は、入間県第七大区の区長役場で作成されたのでしょうが、書写した人は相当な粗忽者か、役場全体が大慌てだったか、たぶんその両方のような気がしますが、当時の情報伝達の精度という点でも興味深いし、慌てふためく世相が彷彿として面白いと思いました。

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150年前というと、さほど遠い昔のこととも思えないんですが、それでも今の自分の身の回りを眺めるとその変化に愕然とします。やっぱり150年は相当な昔です。

カロライン・ハーシェルの肉声を取り戻す2022年10月06日 20時45分23秒

現在、名古屋市科学館で「ウィリアム・ハーシェル没後200年記念展」が開かれていることは、以前お伝えしました(LINK)。

偉大な天文学者であるウィリアム・ハーシェル。
彼には、終生頼もしい相棒がいて、その助力がなければ、彼の偉大な発見の数々もどうなっていたか、一寸分かりません。少なくとも、彼が論文をまとめ、それを公表するまでに、だいぶ手間取ったことは確実です。

その相棒が、彼の妹カロライン・ハーシェル(Caroline Lucretia Herschel、1750-1848)です。彼女は兄ウィリアムの研究助手であると同時に、独立した天文学者でもあり、その実力と功績は誰の目にも明らかでしたから、晩年には栄えある王立天文学会ゴールドメダルを授与され、最終的に同学会初の女性会員にも選出されました。

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そのカロライン(と兄ウィリアム)の第一級の伝記資料として、『カロライン・ハーシェルの回想録と書簡集(Memoir and Correspondence of Caroline Herschel)』(1876)という本があります。


カロライン自身が記した追想録と手紙を編纂したもので、編纂したのはウィリアムの息子、すなわちカロラインから見れば甥っ子に当たる、ジョン・ハーシェルの妻であるマーガレット・ハーシェル。

カロラインとマーガレットは、要するに義理の叔母と姪の関係になるわけで、普通だったらわりと縁遠い関係だと思うんですが、マーガレットはカロラインのことを非常に尊敬しており、一族の歴史を記録する意味でも、本書の編纂を思い立ったのでした。

(カロライン92歳の肖像。上掲書口絵)

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さて、ここからが本題です。
昨日、全身が一気にざわつくような感覚を覚えました。

それは、この『回想録と書簡集』の元になった、カロライン自身の自筆草稿がマーケットに現れ、近々クリスティーズで売り立てがある…という知らせを耳にしたからです。貴重この上ない、しかも出版された本には載ってない情報も含む、あのカロラインの手稿がです。何ということだ!と思いました。


このニュースを知らせてくれたのは、イギリスのハーシェル協会です。
そこには、ハーシェルゆかりの地に立つ「ハーシェル天文博物館」が、この手稿の獲得に向けて募金活動を進めていて、今月末までに3万8千ポンド(約620万円)の基金増資が必要だ、だから皆さんもぜひ力を貸してほしい…というアピールが掲載されていました。

更なる詳細と募金情報は、下記のハーシェル天文博物館のサイトをご覧いただければと思いますが、そちらには基金増資目標額がさらに10万8千ポンド(約1800万円)と記されていて、どうも事態は容易ならぬことになっているようです。

■The Herschel Museum of Astronomy
 “Help Us To Give Caroline Herschel Her Voice Back”

博物館として、喉から手が出るほど欲しいことは痛いほど分かるので、私もハーシェル協会員として、貧女の一灯をと思っています。ご奇特な方は、ぜひお力添えを願います。

ルヴェリエの肉声2022年10月01日 06時29分03秒

何だかずっとパリ天文台の話を続けています。

いい加減、次の話題に移っても良さそうなのに、同じ話をとどめられない…というのは、一種の「保続」なのかもしれません。保続というのは、同じ行為を延々と無意味に繰り返してしまう精神症状で、認知症の場合にも見られます。そこまでいかないにしても、話がくどいのは齢をとった証拠で、私もよくよく注意しないといけません。

でも、ここはしばらく保続モードで行きます。

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ルヴェリエといえば、ぜひここに載せておかなければいけない品があります。
他でもない彼の自筆書状です。

(20.5×13.2cm)


1863年11月1日付で、パリ天文台の用箋にペン書きされたものです。
彼は1854年に天文台長に任じられ、このときもその任にありました。

あて先は「Monsieur le Ministre」、すなわち“大臣閣下”あて。
おそらく天文台を所管する公共教育省(現・国民教育省)の長に差し出したものでしょう。時の教育相は、ヴィクトル・デュリュイ(Jean Victor Duruy、1811-1894)という人です。

肝心の内容がよく分からないのが遺憾ですが、大臣に報文集を送ったこと、そこにパリ天文台でルヴェリエの同僚だったフェイエ(Hervé Faye、1814-1902)の成果や、現在パリ天文台で進行中の計画が記されていること、このところ「連盟(l'Union)」から、自分への毀誉半ばする論文をいくつも受け取っていること…等が書かれているようです。


書き損じを気にせず、さらさら書いているところを見ると、ルヴェリエは大臣と日ごろ心安い関係だったのかもしれません。

   ★

ルヴェリエがその手で触れ、じかにペンを走らせた手紙。書かれたのは、パリ天文台の台長室の机の上でしょう。


先日、「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星「りゅうぐう」の小さな岩粒の、そのまた小さな穴の中から、液体の水が発見された…というニュースがありました。あんな具合に、この紙片の内部にも、繊維の隙間に引っかかるようにして、ルヴェリエの執務室の空気が、まだ残存しているんじゃないか? そんなことも考えます。


【おまけ】

この用箋のレターヘッドは「帝国天文台(Observatoire Impérial)」になっています。

この名称が気になったので、同天文台が出した年報のタイトルを、フランス国立図書館のデータベースで覗いたら、1868年版は『パリ帝国天文台年報(Annales de l'Observatoire impérial de Paris)』だったのが、1874年版になると、ただの『パリ天文台年報(Annales de l'Observatoire de Paris)』になっていました(この間の号は欠落)。

まあ普通に考えて、1870年に第2帝政が倒れ、第3共和政に移行したのを以て、その正式名称も変わったのでしょう。この手紙が書かれた1863年も帝政期なので、「帝国」の名称は自然です。

生物学の授業1939(その3)2022年06月25日 16時41分39秒

ところで現在の中学校では、生物の授業はどうなっているのでしょうか?


上は(株)進学会さんのサイトから勝手にお借りしたものですが、今の中学校の理科の生物分野では、大体こういうことを習うのだそうです。

80年余り前と今とを比較すると、意外にというか、当然というか、あまり習うこと自体は変わっていません。基本となるのは、大まかな生物分類の知識と、体の構造(細胞と器官)とその働き(光合成、呼吸、循環、消化、生殖)についてです。まあ、細部を見れば、今は生態系と環境のことを重視しているし、昔は保健分野(衛生の話題)が理科にくっついていたので、授業にやたら寄生虫の話題が出てくるという違いはあります。

   ★

それよりも大きな違いを感じるは、叙述のスタイルです。
一言でいうと、当時は妙に「文学的」です。川崎君のノートは、教科書の文体や、先生の口述を反映しているのでしょうが、その言葉遣いや、論の立て方・進め方に、何となく文学的な匂いを感じます。

たとえばこれから生物学を学ぼうという、1学期の第2回目の授業で、先生はこんな実験に言及します(おそらく先生も実際にやったわけではなく、あくまでも思考実験だと思います)。


それは同じぐらいの大きさのソラマメと小石をならべて土に植えるというもの。


ずっと観察を続けていると、ソラマメからは、やがて根と芽が出て、葉を茂らせ、花が咲き、実がなります。それに対して小石の方に何の変化もない。あるいは、陶製の擬卵と本物の卵を鶏に抱かせても又然り。生物は常に変化し、無生物は変化しない。一体なぜか?

 「これは不思議なことだときがつくと、これをどうしてもしらべずにおけなくなるのが人性の常である。しかし人はこれに不思議を感じない人が多い」

目の前の事実を、当たり前ですませずに、なぜなんだろう?と疑問に思うことこそ、人間の人間たるゆえんであり、そこから「科学する心」も生まれるのだ…と先生は言いたいわけです。こういう考えさせる授業は、今でもあると思いますが、問題設定の仕方がいきなりというか、相手の虚を突くところが、少なからず文学的と感じられます。

続く第3回の授業でも、

 「前回に述べたように、蚕豆や鶏卵は小石や陶器とちがって色々の変化をなすものである。
野蛮人は物を考へないが文明人たるものは物を考へねばならぬ。
故に我々文明人は斯様な現象が起るかを不思議であると思はづにいられない。」


と、同じテーゼが繰り返されており、先生としては、この点に相当力こぶを入れていました。「文明人」と「野蛮人」を対比するのは、いかにも時代がかっていますが、まあ、ここでは「知性を重んずる人とそうでない人」ぐらいの意味に捉えていいのかもしれません。

こうして我々の心に芽生えた疑問に、我々はどのように答えを見出すべきか?

「これをしらべるにはその動物を解部〔剖〕するのも一つの手段であるし又その動物を培養飼育をするのも一つの手段である。
又他人の経験録すなはち昆虫であればファーブルの昆虫記を読むといったふうにするのもよい。」


「生物の生活の現象をしらべるにはどうして研究するのが便利か
蚕豆の根を針の先ほどとってこれを顕微鏡で観ると図の如く見える」

こうして細胞の話から始まり、授業はいよいよ本格的な内容に入っていきます。
余談ながら、授業の中でファーブル昆虫記が大いに推奨された事実は、日本人のファーブル好きを物語るもので、ファーブルは教育的良書として、当時は今以上に喧伝されていた気配があります。

   ★

以後の内容は、当然のことながら教科書的な記述が多いですが、ところどころにリアルな授業の息吹が感じられる個所があります。たとえば、2学期の第5回の講義は、動物の呼吸について学ぶ回なのですが、なぜか唐突に上杉鷹山のことが出てきます。


 「かてもの
 この本は往昔山形の米沢の藩主上杉鷹山公が時の学者共に研究させて作った本である。当時は大ききんがたびたびあって人民はとても苦しんだ そこで上杉鷹山公は人民の苦るしみを思って終いにこの本をつくらうと意を決したのである。この本はだれにも読めるやうにかなまでがふってある。内容は米等があまり取れなかったのでその代りに何をたべればよいか又どうして食べればよいかなどとくわしく書いた本である。
明治時代等は何でも西洋のものがよいことにして西洋のものでなければだめであるといふ時代であったのでこの本などはわすれられた。しかし欧州大戦に独逸(Germern〔ママ〕)は野生の草を食用に用ひたので近来になって又日本の物がよいといふ時代になって再びこの本を造り出したのである。」

「かてもの」は「糧物」の意で、飢饉の際の救荒食物のことだそうですが、授業はこの後さらに脱線して、生徒たちは自ら「かてもの」作りを経験するため、校庭で育てていた大根の世話に精を出したことが書いてあります。

 「かてものの様なものを造る練習に夏休中に小使さん達が造ってゐて下さっ〔た〕大根をつくる事にした。今日は時間の余に1所に二〔三?〕株ある所を二株にしなほ時間があったので一株にし、なほ葉の後についてゐる蛾や蝶の卵をのぞきかつ家にもってかへった。」


   ★

こんな風に見ていくと、本当にきりがありません。
当時の授業の進め方は、学校によっても違ったでしょうし、先生の裁量も大きかったと思いますが、少なくとも川崎君の受けた授業はとても魅力的です。

ここに宮沢賢治的世界を重ねて見ることは容易ですけれど、現実世界ではきな臭いものが間近に迫っていました。

(3学期第12回のノート。日付は2600年1月15日。1940年(昭和15年)は皇紀2600年だというので、世間は大層浮かれていました。しかし翌年には太平洋戦争に突入して、学校も徐々に授業どころではなくなっていきます。)

(中途半端ですが、この項いったん終わり)

生物学の授業1939(その2)2022年06月19日 16時07分32秒

今でいうところの中学2年生に進級した川崎浩君。

川崎君が在籍した学校名を探したのですが、それはどこにも書かれていませんでした。ウィキペディアによれば(↓)、旧制の7年制高校は台湾の台北高校を含めて9校のみで、わりとマイナーな存在のようです。創立はいずれも大正末から昭和の初めにかけてで、時代的にもかなり限定されます。


このうちのどこかに在籍した川崎君の生物学の勉学のあとを追ってみようと思うのですが、まず外形的なことを述べておくと、このノートは1学期が18回、2学期は16回、3学期は22回の合計56回分の講義録から成ります。(なお、当時の学期の区切りは今と違って、2学期の授業は6月26日から、3学期の授業は11月22日から始まっています。)

そして全ての回について、その都度ノートを先生に提出して添削を受け、ときには「も少し丁寧に書きなさい」と注意を受けたりしながらも、延々と川崎君はノートを書き継いでいきました。


その間に、Nの向きを間違えることもなくなったし、最初は「NOⅡ」(第2回講義の意)としか書かれてなかった冒頭部も、最後の方は「第十八回 第九章 第二課 下等生物の生殖(其の二)」とシステマティックに書くようになり、川崎君にも成長のあとが見られます。


(川崎君の悪筆は最後まで変わりませんが、レタリングは上手くなりました)

   ★

授業は、1学期の最初の方は、

第1回 生物が生存する条件
第2回 生物と無生物、純正生物学と応用生物学
第3回 細胞
第4回 キュウリの種まき、植物の細胞観察、細胞の構造

…という具合に始まって、以下、細胞分裂、単細胞生物と多細胞生物、生物の栄養法、光合成、澱粉、下等動物の栄養法、昆虫の消化器、蝶の構造と観察、甲殻類と軟体動物、脊椎動物、哺乳類、(ここから2学期)寄生虫と寄生植物、生物の呼吸作用と循環作用、排せつ作用、蛙の解剖、植物の外皮、貝殻の真珠層、動植物の護身作用、(ここから3学期)保護色・警戒色・擬態、動物の移動運動、動物の感覚

…と続き、3学期の最後の方は

第15回 第9章 生殖 第1課 下等生物の生殖(其の一)
(アメーバ、バクテリア、ゾウリムシ)
第16回 同(ヒドラ)
第17回 同(菌類、スギゴケ、シダ)
第18回 第2課 下等生物の生殖(其の二)(つくし、とくさ)
第19回 同(サンショウモ、クラマゴケ)、第3課 顕花植物の生殖
第20回 第4課 下等動物の生殖(クラゲ、サナダムシ)
第21回 同(肝蛭、肝臓ジストマ、ミミズ、ヒル、回虫)
第22回 同(十二指腸虫、蟯虫、ウニ・ヒトデ、タコ・イカ・ハマグリ・アサリ・サザエ・ホラガイ)


…と、生殖作用に多くの時間をかけて、1年間の授業を締めくくっています。

   ★

次回以降、ノートの中身を見ながら、当時の生物学の授業を振り返ってみようと思いますが、ここで次の疑問に答えておきます。

そもそもこのノートはどのように作成されたのか?

このノートには丁寧な彩色図がたくさん入っており、いろいろな図版の切り抜きも貼り込んであります。授業を聴きながら、そんな作業をする余裕があったはずはないし、「今日は○○について習った」という書きぶりから察するに、これは講義の最中に筆記したのではなくて(そういう本当の意味でのノートはまた別にあったはずです)、授業後に、今日習ったことをまとめた「復習ノート」なのでしょう。(それを先生に提出して、チェックしてもらっていたわけです。たくさんある科目のひとつに過ぎない生物学でも、それだけ時間をかけて学んでいたとなると、全体としては相当な学習量ですね。)

(応用生物学の例として挙がっている金魚の品種改良)

それともう1つ気になったのが、ノートに貼られた図です。
そこには学習雑誌の付録っぽいのもありますが、どうも教科書から切り抜いたとしか思えないものもあって、教科書を切り刻むというのは、今の感覚からすると違和感を覚えますが、それを先生も咎めていないところを見ると、少なくとも川崎君の学校では、既成の教科書よりも、自分の手でまとめた講義録に重きを置いていたような気がします。

(鳩の解剖図)

(この項つづく)