タルホ、大いに怒る2025年12月28日 08時35分41秒

昭和46年(1971)の日付けを持つ、稲垣足穂の自筆葉書が手元にあります。


「御便り拝見 そちらはそちらで「顔」ということもありますから 出版紀念会をおやりになったらよいでしょうが、私は、メッセージなど、そんないじましい小細工を弄すことをするのは真平です。文学作品刊行は原則として「有害無益」 まして出版紀念会など、一般人に対して威張る根拠がどこにあるか。そのようにおつたまえ〔ママ〕下さい」

文字も文章も乱れているし、しかもそれを速達で送りつけているのは、怒り心頭だったのでしょう。1971年当時の足穂は坊主頭で、逆立てる頭髪を持ちませんでしたが、気持ちの上では怒髪天を衝く思いだったかもしれません。


葉書をもらった藤井宗哲(ふじいそうてつ、1941-2006)は、臨済宗のお坊さんで、鎌倉建長寺で修行僧の食事を調える「典座(てんぞ)」役を務め、後に日本料理研究家として、また演芸評論家として文名を挙げた人。1971年当時は、まだ30歳の青年僧です。(気付先の鎌倉雪ノ下の「くるみ」は、今も続く甘味喫茶です。)

国会図書館のデータベースを見ると、藤井が関わった出版物は、1974年に出た落語協会(編)『艶笑・廓ばなし』が最初で(藤井はその解説文を書いています。ずいぶんさばけたお坊さんですね)、1971年当時はまだ著書を持ちませんでしたから、これは第三者の出版記念会に足穂のメッセージがほしいと、藤井を通じて依頼があったことへの返書でしょう。

返事をもらった藤井も、まさか文面通り相手に伝えることもできず、相当困ったと思いますが、でも足穂の文学観を知る上で、これは貴重な一枚だと思います。何せ文学作品刊行は「有害無益」と言い切っているのですから。果たしてそれまでの自身の行いは何だと思っているのか、少なからず不思議な気もします。

へそ曲がりの足穂のことですから、所詮文学は「よしなしごと」であり、「狂言綺語(きょうげんきご)の堕地獄のわざ」と観じていたか、文学の目的は「書くこと」それ自体であり、それによって名利を求めるなどもってのほかと考えたか、いずれにしても出版記念会などは俗も俗、俗の最たるものと考えていたのは確かでしょう。

   ★

ただ、足穂の怒りの矛先は、もっぱらその出版記念会の主に向けられており、藤井に対する悪感情はなかったと思います。藤井と足穂の関係は、同じ1971年に足穂夫人である稲垣志代さんが出された『夫 稲垣足穂』に生き生きと描かれています(222-3頁。〔 〕内は引用者)。


 二、三年に一度か二度、托鉢姿の藤井宗哲さんが訪ねてこられる。
 彼は京都から埼玉まで、歩いて行ったことがあった。紅葉で有名な高尾のお寺にいたかと思うと、大阪湾の見える河内の山からお便りがあったりする。和歌山からは、自作のじゃが芋を持ってきてくれた。
 稲垣は「あれがほんまの雲水や」といっていたが、訪問が重なるにつれ、しだいに風格も備わり、坊さまらしいお辞儀も鮮やかになってきた。稲垣は、
 「どうやらほんものらしいなってきたなあ。挨拶が板についてきた」
 彼は、稲垣の作品をどこでみるのか、新聞のコラムから雑誌の編集後記評まで知っていて、自ら稲垣門下の一員だと称していた。
 鎌倉の建長寺から修行中との便りがあり、その後養斉の家〔※
桃山町養斉は足穂が住んだ土地の名〕にみえて、お寺での修行の日常など語られた。私は「人間わざでない」と感心させられた。稲垣は、
 「薄いカユと、親指の先ほどの焼きミソと、タクアン二切れでやっていく自信は、ぼくにもある」
 といったが、私は思った。
<しかしあなたには、それに斗酒がつく>

まあ、それだけ心安い相手だから、これだけ毒づくこともできたのでしょう。

   ★

1900年12月26日、稲垣足穂誕生。
一昨日は、彼の125回目の誕生日でした。

それを記念して、今日は兵庫県芦屋の「月光百貨店」さんで「Taruholic Cafe タルホリックカフェ vol,3」が開催(14~20時)されるというご案内を先日いただきました。俗世のしがらみで伺えない私も、こうして足穂の肉声をお届けすることで、イベントに協賛させていただきます。

葉書のタルホは大いに怒っていますが、こうして稲垣門下が連綿と続いていることを知れば、きっと相好を崩すと思います。

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(後編)2025年12月27日 13時22分28秒

「星の七姉妹」を詠んだ連作詩は、第3の星・ルーイ第4の星・ローザへと続きます。


<ルーイ>
遠くの方から、新たに ひとつの星が輝きわたる。
(他の星たちに負けぬほど明るく) 
その喜びに満ちた微笑みは、魂を勇気づけてくれる。 

たとえ雷鳴が轟き、 困難という名の嵐がしばし吹き荒れようとも。
光り輝く人よ、それは君のことだ。
太陽の光を宿したその瞳、 
そして、天使たちでさえ宝物にするであろう、その微笑み。


<ローザ>
もう戻らねばならぬ時間だ。
だが私は今も、 星のちりばめられた天の天蓋を見つめている。
そこには、清らかで淡い光を放つ一つの星が見える。
その輝きは、あの「輝かしき七星」の中でも 決して見劣りするものではない。


それは何に似ているだろうか。
明るく、清らかなバラのつぼみ。 
私の目に映る、バラを司る天使のようだ。
立ち去る間際、私はそよ風の中にそっと囁く。
「愛しき友よ、かわいいバラのつぼみよ、どうか私のことを忘れないで」

恋愛詩と見まごうばかりの女性崇拝の美辞が続きます。ステロタイプな表現も多く、とびきりの名詩とは思えませんけれど、これがヴィクトリア朝の教養層の文芸作法なのでしょう(何となくですが、作者はオックスブリッジの学生、あるいは卒業生のような気がします)。それに今でこそ陳腐に感じられても、往時はもっと清新な感じが伴ったことでしょう。

   ★


これまで名前の出た年長の4人に続いて、年下の3人は「The Children」のタイトルで一括されています(表題上の3つの星に注目)。彼女らが「その他おおぜい」扱いなのは、詩を献じるにはまだ幼い、文字どおり「子供たち」だったからだと想像します。

<子供たち>
それから私は、去り際にふと思った。
暗い地上から、頭上の輝く星々を仰ぎ見て。
この世はいかに冷たく、不親切で、不実なことか。
愛しき子供たちよ、
君たちの心根とはなんと懸け離れていることだろう。
世界は本心を悟られまいと仮面を被るが、 
子供の心は、自らの秘めた思いをありのままに差し出す。
君たちこそが星々だ。
その鮮やかな輝きは、俗世に生きる者の心を導き、 
暗闇から光の中へと連れ出してくれるのだ。


本書の末尾は、こんな言葉で結ばれています。

(すぐ上の画像の拡大)

<結び>
さて、これでお別れだ。 
どうか悪く思わないでおくれ。 
(今はちょうど、クリスマスの季節だから) 
君たち全員に、これを贈らせてもらうよ。
それは――― *

【編者注】 おそらく作者は、最後の一語を書く前に眠りに落ちてしまったようです。何が彼をこれほど夢見心地にさせたのか、私には本当のところはわかりません。 ―― 編者より

伏せ字扱いの箇所、原文では「I send you all a ------*」となっていて、そこに注が付けられています。もちろん「編者」とは作者本人に他ならず、一種の照れ隠しの修辞でしょう。ここに入る言葉は、おそらく「kiss」。この辺のユーモア感覚も、元祖『アリス』を連想させます。

   ★

この詩に登場する星は、天文学が対象とする天体とは大いに異なります。
でも、物理的実体を伴わないから「無い」とも言えません。それは心理的にやっぱり「有る」ものです。

人は自分の中にある光や影を天体に投影し、そうやって生み出された「人の似姿としての星」に憧れたり、それを畏れたりします。その思いはロマンチックな詩に限らず、天体観望や天体写真の撮影に励む現代の天文ファンにも分有されているし、あるいはひょっとしてプロの研究者の心の底にも潜んでいるのかもしれません。

「星ごころ」とは結句そういうものではなかろうか…と、いきなり風呂敷を広げますが、もう一人のアリスに導かれて思いました。

【余談】

さて、ここで告白です。

本書の英語は古風な詩文なので、私にはちょっと難しくて、今回はAIの助けを借りました。その結果は上に見る通り、実に驚くべきものでした。彼は古語に堪能で、文学的比喩やユーモアを十二分に解して、たちどころに日本語訳を作ってくれました。この詩の作者が年上の従兄ないし一家の家庭教師だろうと推測したのも、最後の一語が「kiss」だと見抜いたのも彼です。私は半ば恐怖すら覚えました。

インターネットという基盤が作られ、SNSというメディアが生れ、スマホというデバイスが登場し、そして今や生成AIが異常な発達を遂げつつあります。私はそのすべてをリアルタイムで経験しました。ひとりの人間の一生にも満たない、ごく短期間ですべてが起こったのです。

これから人間とその社会が否応なく経験するであろう変革の帰結は分かりません。
でも、そこから新たなプロメテウスの神話が生れることは間違いないでしょう。

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(中編)2025年12月26日 17時03分36秒

今日は仕事納め。早々に仕事を切り上げて、日の高いうちに家路につきました。
昨日の雨で空は青く澄み、光がキラキラした粒のようです。
しかし風はとても冷たく、時々ごうごうと樹をゆらしました。
この時期の「明るく冷たい日」が私は好きで、しみじみ一年の終わりを感じました。

   ★

さて、昨日のつづき。


この本は本文わずか7頁ですが、冒頭に立派な「序文」があります(序文は1頁半にわたります)。以下、試訳(適宜太字)。

<序> 
日は沈み、薄暗き夜が 空にそのマントを広げた。
月もなく、星もまた、人の目には見えぬ。

人々が眠りにつき、一日の過酷な労苦に 疲れ果てた体を休めている間、 
学生はただ独り、本を読み、「真夜中の灯火(ともしび)」を燃やし続ける。

やがて本は閉じられた。―― 彼は表へ歩み出し、 天の穹窿を仰ぎ見る。
星は見えず、その夜は月さえも 光を授けてはくれなかった。

歩みを進めるにつれ、彼の心には悲しみが満ち、 魂には重苦しい影が差す。
「この果てしない営みは、いつ終わるのだろうか」
「いつになったら、目的地へ辿り着くのか」

そう沈思に耽っているとき、一つの星が顔を覗かせた。
そして、次から次へと星々が現れる。
新たな勇気が湧き上がり、思考は流れ、 
次のような言葉となって溢れ出した。

末尾の一句、「次のような言葉となって溢れ出した」というのは、すなわちこの後に続く一連の詩を指します。

ご覧の通り、本書は元祖『アリス』のようなナンセンス・ストーリーとは違って、結構まじめな調子で書かれています。でも、表紙の「Dedicated (without permission) to」のフレーズに漂う調子を考えると。著者はやはりユーモアを解する人だったでしょう。

全体の主語は「学生(the student)」で、著者は7人姉妹のお父さんではなく(最初はその可能性も考えました)、一人の青年であることを物語っています。そもそもお父さんだったら、上の4人の名前だけ出して、下の3人は「その他大勢」みたいな書き方はしないでしょう。ある人に言わせれば、著者は一家と親しい年上の従兄、あるいは姉妹の家庭教師ではないか…というのですが、その辺が正解のように思います。

   ★

まず最初は長女・アリスに献じられた詩です。


<アリス>
そよ風に運ばれ、 私の心の奥底にまで届くあの音は何だろう。
またしても聞こえてきた。
そして私は その場を立ち去りがたく、足を止める。

ああ! それは君の甘い歌声が奏でる調べ。 
夢を見るまで私たちを癒やしてくれる鳥のさえずりのようだ。
目覚めて、その響きが止んでしまったとき、 
この世がいかに悲しく見えてしまうことか。

君こそが、その声を放つ星なのだ。
君の穏やかな光は、私の不安をすべて消し去ってくれる。
「天球の音楽」を絶えず導いているのは、
 私には君であるように思えるのだ。

アリスは「天球の音楽」を甘美に歌う星だというのです。
序文では姉妹が「暗夜に現れ、青年を勇気づけた星たち」にたとえられましたが、詩の中でも、姉妹はそれぞれ星になぞらえて称賛されています。

   ★

続いて、次女・アンに贈る詩。


<アン>
その昔、澄み渡る青き湖のほとりに、 一人の佳人が住んでいたという。 
その湖面は、彼女の穏やかで美しい瞳のように、 
天空の弧からその色を写し取っていた。

そして彼女の肩には、混じりけのない黄金の波が、 
太陽の光に染まった泉のように溢れていた。 
幼き頃から、その最期の日まで、彼女は麗しかった。

この二番目の星が、私にその面影を思い出させる。
だが、その星は、かつての彼女の顔よりもなお明るい。

黄金の髪をなびかせたあの佳人も、確かに愛らしかった。
けれど、私にとっては、君の面差しの方がはるかに愛おしい。

文中、「二番目の星」とあるのは、言うまでもなくアンのことです。
星の7人姉妹といえば、プレアデスを連想しますが、この詩集は7人姉妹を北斗七星にたとえていて、次女のアンを「二番目の星」と呼んだのでしょう。

   ★

この続きは、「後編」にゆずりますが、こうしたロマン主義全開の情調にはピンとくるものがあります。すなわち「星空浪漫、明治から大正へ」と題して、(1)(2)(3)の3回にわたって書いたことと、これは地続きだと思います。

佳人の面影に星の美を重ねる。
あるいは、星の光の向こうに麗しい人を思い浮かべる。

こうした文学的趣向が日本に移植されて、明治浪漫派の星菫趣味を生み、そこから野尻抱影や山本一清も育っていきました。それを考えると、この無名子の詩心は、まんざら現代の我々と無縁ではありません。

(この項つづく。次回完結予定)

クリスマスに寄せて…もう一人のアリス(前編)2025年12月25日 18時52分49秒

1862年の夏、筆名「ルイス・キャロル」で知られる、オックスフォードの数学講師、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(1832-1898)は、先輩上司の娘であるリデル家の三姉妹とピクニックに出かけ、そこで彼が子どもたちに語って聞かせたたお話しが元になって、あの『不思議の国のアリス』(1865)が生まれたことはよく知られます。

『不思議の国のアリス』が商業出版される前年に当たる1864年、ドジソンはリデル家の次女、アリス・リデルの求めに応じて、手書きの物語『地下の国のアリス』を完成させ、これをアリスへのクリスマス・プレゼントとしました。言うまでもなく、これが『不思議の国のアリス』の原型であり、挿絵も文字もドジソンの肉筆という、世界でたった一冊の珍本です。これは後に富豪たちの手から手へと渡り、最終的に大英図書館の蔵書となりました。

(『不思議の国のアリス・オリジナル』と題して、1987年に刊行された『地下の国のアリス』の原本複製)

   ★

同時代のイギリスには、ドジソンと似たようなマインドの人が他にもいたのでしょう、先日…といっても、ずいぶん前ですが、不思議な本を目にしました。

(判型は新書版よりわずかに大きいサイズ)

ごく薄手の本ですが、総革装で、天地と小口に金箔を押した、いわゆる「三方金」の立派な造本です。表紙に光る金文字は、「A. A. L. R. とその姉妹たちに(許しを得ることなく)捧ぐ」


見返しも至極上質の模様紙で、この本に込められた愛情のほどが察せられます。全体の感じは、この本がヴィクトリア朝中期、まさに『アリス』と同時代の作であることを窺わせます。


これがタイトルページ。
題して、『Septentriones. A Christmas Vision(北斗七星。あるクリスマスの夢)』

ご覧のとおり、本書は挿絵も文字もすべて手描きで、まさに『地下の国のアリス』と同工の作品です。そして本を捧げられた「A. A. L. R.」とは、「Alice, Ann, Louie, Rosa」の4人の頭文字で、これまたアリスつながり。3番目のルーイは男女両用の名前ですが、その内容からやっぱり女の子らしく、こちらのアリスは、「その姉妹たち」も含めて、女の子ばかりのきょうだい――タイトルの「北斗七星」から察するに7人姉妹――の長女なのでしょう。

ちなみに、ドジソンの小さな友人・アリスの方は、長女ロリーナ (Lorina)、次女アリス(Alice)、三女イーディス (Edith) の有名な三姉妹以外に、2人の兄、2人の妹、3人の弟がおり、早世した兄と弟を除くと8人兄弟姉妹の3番目でした。当時の人は実に多産です。

   ★

これがドジソンの作品だったらすごいのですが、まあそんなことはなくて、無名の人物の筆のすさびに過ぎませんが、そこに漂うフレーバーは、ドジソンの『アリス』の世界を彷彿とさせ、興味は尽きません(それとも当時は、お手製の本をクリスマスにプレゼントするのが流行ってたんでしょうか)。

そして、私がこの本に興味を覚えたのは、そればかりではなく、これが姉妹を星になぞらえた、一種の「夜想詩集」だったからです。

(次回、本の中身を見てみます。この項つづく)

続・冬の月2025年12月07日 08時43分15秒



一昨日の月は暖かみがありましたが、冬の月といえば、皓々と冴え返る銀月がまず念頭に浮かびます。確かに、あれはいかにも光が強いです。


 ふき晴(れ)て 月ひとりゆく 寒さかな

木枯らしが鳴り、耳が切れそうなほど凍てつく晩。
澄み切った漆黒の空に、月だけがまばゆい光を放っている…。
この場合、「ひとりゆく」のは月であり、同時に作者でもあります。

いかにも寒々とした句ですが、こういう凛とした風情を愛する人もいるでしょう。
冷気を肺に取り入れるたびに、身体の中が純化していくような感覚。

   ★

短冊には「是空」の名がありますが、この句を詠んだのは彼ではありません。
これは一茶の有名な句で、是空はそれに敬意を表しつつ筆意を凝らしたのでしょう。


是空については、短冊を包む「たとう」に以前の持ち主によるメモがありました。

ふきはれて月ひとりゆく寒さかな 下絵短冊
「是空 葛飾北斎四世画師 曇華」
是空 森崎氏 明治十二年没七十四才。通称幸左ヱ門。尾藩広敷詰。書を教へ、小沢さゝをに俳諧を学ぶ。熱田の衰へた俳風を興す。

森崎是空(1806?-1879)は、『名古屋市史 人物編 第2』にやや詳しい記述があり、上のメモもそれに基づいているようです。元は尾張藩に仕える小身の武士でしたが、中年以降職を辞して熱田に隠棲し、子供たちに書を教えるかたわら俳諧を学び、後にひとかどの宗匠となって門人多数…という経歴の人で、要は名古屋で活躍した地方文人のひとりです。

ただし是空が曇華という画号で絵師としても活躍したという記述は諸書に見えないので、これは更なる考究を要します。

ちなみに「葛飾北斎四世」とは、北斎を代々襲名したその4代目という意味ではなく、北斎の「曾孫弟子」という意味だと思います。北斎は文化9年(1812)と文化14年(1817)の2度にわたって名古屋に長期滞在し、牧墨遷、葛飾北雲、葛飾北鷹、葛飾戴懆、沼田月斎らの弟子をとっているので(吉田俊英『尾張の絵画史研究』)、彼らの孫弟子となれば、まあ「葛飾北斎四世」を名乗っても辛うじて許されるだろう…というわけです。


なお、短冊のツタ模様は肉筆ではなく木版ですが、ひょっとしてその下絵を描いたのが是空(曇華)なのかな?とも思いましたが、これまた確かなことは分かりません。

十五の春に2025年08月22日 15時18分09秒

(前回のつづき)

さて、「A to Z」の「Z」、バーナード・ラヴェル(Sir Alfred Charles Bernard Lovell、1913-2012)の手紙を見てみます。

(手紙はジョドレルバンクのラヴェル専用箋にペン書きされています)

前回の記事の最後に書いたことに重ねると、この手紙は「1984年8月3日」付けなので、これを買った2003年には、わずか「19年前の手紙」でした。それが今では「41年前の手紙」ですから、いやはや何ともです。購入した時には、手紙を書いたご当人もまだカクシャクとしていたことを思えば、手紙も私もずいぶん時を旅したなあ…と思います。

まあ、これは手紙の中身とは関係のない、どうでもいい個人的感想にすぎませんけれど、時の流れとは不思議なものよと、再び思います。

   ★

そんなわけで、この手紙は私にとって同時代の手紙といってもいいのですが、この「同時代の手紙」が、なんとまったく読めません。

(便箋の表面)

パッと見、読めそうな気もするんですが、読めません。150年前の手紙は読めるのに、これは一体どうしたことか。しかし、まったく読めなければ手紙を出す意味がありませんから、読める人には読めるのでしょう。現に、これを売ってくれたイギリスの古書店主は、購入当時、部分的に読み解いてくれました(本文6行目からです)。

 「When I was a schoolboy soon to sit for my O level examinations, I had no interest in my school work. I was crazy about cricket & the new ‘wireless’. I played endless cricket in the summers & built innumerable wireless sets when I was not playing cricket. One day the physics master announced that he was taking a party of boys to a public lecture in the University of Bristol by Prof. A. M. Tyndall. I joined in for the fun of the visit. – but Tyndall’s lecture on the ‘Electric Spark’ transformed my career in a matter of minutes.」

  「Oレベル試験〔※中等教育修了資格試験〕を間近に控えた中学時代、私は学校の勉強に全く興味が持てず、クリケットと新しい『無線』に夢中でした。夏には日がなクリケットをプレーし、クリケットをしていない時は、無線機を無数に組み立てていました。ある日、物理の先生が、男子生徒のグループを引率して、ブリストル大学で行われるA・M・ティンダル教授の公開講座を聴きに行くと発表しました。私はその訪問が面白そうだったので参加することにしました。しかし、ティンダル教授の「電気のスパーク」に関する講演は、わずか数分間で、その後の私の経歴をすっかり変えてしまったのです。」

なるほど、これはMrs G***  に宛てた、学校時代の回想記のようです。

(便箋の裏面)

そしてこの公開講座に触発されて、ラヴェルはティンダル教授(Arthur Mannering Tyndall、1881-1961)に弟子入りすべく一念発起し、その夢を叶えてさらに…ということが、手紙には書かれているのだと思いますが、これまた難読で、彼の肉声を聞き取れないのは残念です(件の古書店主がさらに勤勉だったらよかったのに…)。

(ラヴェルがティンダルに学んだ、ブリストル大学H.H.Wills 物理学研究所)

   ★

15歳のラヴェルと壮年期のティンダルとの出会いは有名な話らしく、以下の追悼記事でも紹介されています(そして彼が生涯クリケットを愛好したことも)。 

■IOP (The Institute of Physics):  Sir Bernard Lovell (1913-2012)

ラヴェルは物理学徒として出発し、博士号のテーマは金属薄膜の導電性で、その後、結晶学の分野で研究者としての道を歩み始めました。その彼が宇宙線の研究に方向転換したのは、これまた人との出会いによるところで、そこから電波天文学の第一人者にまでなったわけですから、「縁」や「運命」というのは、確かにあるのかもしれません。ラヴェルほど劇的ではないにしろ、誰しも自分の人生を振り返るとき、それを噛みしめるのではありますまいか。

(Bernard Lovell。スターのサインとかにありがちですが、知らないとやっぱり読めません)

鋼の人、ジョージ・エアリーの面影2025年08月20日 18時15分53秒

前回、『ビクトリア時代のアマチュア天文家』の最終章で、ジョドレルバンクのことを意識した…ということを書きました。

今考えるとちょっと変な気がするんですが、そのときの自分は、まだイギリスのアマチュア天文史に無知でしたから、どうすればその全体像に迫れるかを考えた末に、本の最初と最後に出てくる人物の肉筆書簡を手に入れることを思い立ちました。「From A to Z」の「A」と「Z」の肉声を聞けば、その途中の声をすべて聞いたに等しい…という、少なからず呪術めいた思考に囚われていたわけです。

その計画はただちに実行に移され、私の手元には2通の手紙が届きました。
今、記録を見ると、2通を購入したのは、ともに2003年4月のことです。

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その「A to Z」の「A」は、第7代グリニッジ天文台長・兼・王室天文官のジョージ・エアリー(Sir George Biddell Airy、1801- 1892)で、「Z」は言うまでもなくバーナード・ラヴェルです。

エアリーは、徹底したプロの天文学者ですが、その彼が『ビクトリア時代のアマチュア天文家』の冒頭に登場しているのは、そのプロフェッショナリズムと対比したとき、イギリス天文学の著しい特徴、すなわち生活の糧とは無縁のところで天文活動を営んだアマチュア天文家たちが、それをリードしたという事実が、より鮮明になるからです。

そしてバーナード・ラヴェルも、完全にプロの天文学者ですから、結局、その二人の書簡を手にしたところで、イギリスのアマチュア天文史に迫れるはずもなく、無知とは恐ろしいものだと思いますが、当時の自分の行動力だけは、なかなか侮れません。

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ともあれ、エアリーはグリニッジ天文台の改革を、鋼の意志で進めた立役者であり、一代の傑物と呼ぶに足る人物です。天文マニアの方であれば、「エアリーディスク」(※)にその名を残す人として、思い当たるでしょう。

ここで、ことの順序として、エアリーの手紙を先に見てみます。


「王立グリニッジ天文台 1839年3月26日」で始まる文面を文字起こしすると、

「An account of the experiments on Iron Ships alluded to in your letter of the 25th would occupy me for several hours. I need not point out to you that it is quite impossible for me to give this time to each individual interested in the subject. I am at present preparing an account for the Royal Society, but I cannot say when it will be completed. 
I am, Sir, Your obedient servant, G B Airy」

と読めます。

「拝啓 貴殿の25日付書簡で言及された鉄製船舶に関する実験についてご説明するには、数時間を要することでしょう。このテーマに関心を持つ方々それぞれに、それだけの時間を割くことが不可能なことは、申すまでもありません。 現在、王立協会への報告に向けて準備中ですが、完成時期は未定です。 貴殿の忠実な僕、G・B・エアリー」

文は人なり。その後、19世紀の天文学者の書簡をいくつか手にしましたが、エアリーの文字は非常に几帳面、かつ丁寧で、現代の我々にも読みやすいです。他の人だと、大抵は眉間にしわを寄せて、判じ物のように読むことが多いですが、これはいわば楷書の筆記体ですね。

(エアリーのサイン)

ただし、内容はきわめて事務的で素っ気ない。
しかし素っ気ないけれども、手紙を貰ったらすぐに返事を書く律義さ。
そう、やっぱり「文は人なり」で、この一通の手紙にも、エアリーの人柄はよく表れています。

(Sir George Biddell Airy、1801- 1892)

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ところで、なぜここに「鉄製船舶」が出てくるかですが、AIに聞くとたちどころに以下のことを教えてくれました。

「王立天文官ジョージ・ビデル・エアリーは、鉄船の磁気コンパスに関する研究で知られています。 彼は鉄船が引き起こす擾乱を調査し、コンパスの偏差を修正する方法を開発しました。 彼の研究は、当時普及しつつあった鉄船の安全な航行に極めて重要な役割を果たしました。」

なるほど、グリニッジは海事も司っていましたから、これは重要な研究です。

その実験に関する説明は、王立協会のサイト【LINK】に当たると、彼の1839年の報文、「Account of experiments on iron-built ships, instituted for the purpose of discovering a correction for the deviation of the compass produced by the iron of the ships(船舶の鉄が引き起こすコンパスの偏差を補正する方法を発見する目的で実施された鉄製船舶に関する実験報告)」として読むことができます(ただし、エアリーはこの前後にも同じテーマでいくつか論文を書いています)。

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この手紙、購入後22年目にして初めてじっくり読んだのですが、購入した時は164年前の手紙だったものが、今では186年前の手紙になっている事実に思い当たり、時の流れの不思議さを感じます。

(用紙の透かし模様。見る人が見ると、これで製紙工房が分かるらしい)


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(※)光の回折により、理想的レンズであっても、点光源が点像を結ぶことは決してなく一定の円盤像になること――すなわち解像限界が存在することを、エアリーは数学的に示しました。その円盤像がエアリーディスクであり、その周囲を取り巻く光環像がエアリーリングです。

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(10)…日食が終わって2025年07月20日 07時33分00秒

泰山鳴動…というと、観測隊の面々にとって甚だ失礼な言い方になるし、そもそも日食が見られなかったのは彼らの責任ではなく、すべては運です。それでも、あれほど入念な準備をして、万里の波涛を越えて来た人々にとっては、悔しい肩透かし以外の何物でもなかったでしょう。しかも翌日は雲一つない上天気だったというのですから、その無念たるや、察するに余りあります。

しかし、その思いをすべて胸の内に秘めて一行は撤収作業を進め、並行して地元のセレモニーに出席しました。日食の2日後、8月11日には、枝幸小学校の落成式があり、トッド、デランドル、寺尾の米・仏・日の日食観測隊長が来賓として招かれました。

 「続いてアメリカの天文学者が呼ばれ、子供たちは立ち上がってお辞儀をし、彼が話し終えるまで立ち続けました。彼は他にも様々なことをしました。中でも、有名なトルーヴェロの絵の一つである1878年のコロナの美しい額入りの絵を学校に贈呈し、英語を学ぶよう促し、手持ちの本を枝幸に数冊贈呈し、後日、東京から送ることを約束しました。このスピーチは、才気あふれる大島氏によって、一文一文丁寧に翻訳されました。その後、デランドル教授がフランス語で短いスピーチを行い、数年前にパリ大学で学んだ寺尾教授が通訳しました。」(『コロナとコロネット』より)

(トルーヴェロが描いた日食図(リトグラフ)、1882年刊。Wikipediaより)

落成式典のことは当然来日前は知らなかったはずですが、それでも現地で何か贈呈の折があるかもしれないと考え、トルーヴェロの絵を額入りで持参したのは、アマースト隊の準備がいかに入念であったかを示すエピソードです。

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ゲリッシュはこの落成式には参加していませんが、同日夕刻から催された送別会には参加しており、ゲリッシュ資料には前日受け取った招待状(※1)が含まれています。

(封筒の表書き。「ガーシュ」とは不思議な音写ですが、アメリカ風に巻き舌でGerrishと繰り返し言っていると、確かに「ガーシュ」に聞こえます)

(封筒裏。「発起人惣代 白坂庫太」は、当時の枝幸郡四か村を束ねた「戸長」を務めた人物)


「拝啓 陳者當枝幸小学校新築
校舎落成式之際 不斗當郡へ日食
観測ノ為メ来着相成居 千歳
ノ一遇 御苦労萬分一ヲ奉慰 併テ
送別之宴會相催候間 明十一日午後
四時御光来被成下度 奉待上候也
 但略服御着用之事
  発起人惣代
    白坂庫太
明治二十九年八月十日
ガーシュ殿」

ざっと口語に直せば、以下のような内容でしょう。

「拝啓 さて当枝幸小学校の新築校舎落成式に際し、偶然にも当郡へ日食観測のためお越しになられたことはまさに千載一遇、そのご苦労の万分の一でもお慰めしたく、また併せて送別の宴会を開催いたしますので、明日11日午後4時にお出でいただきたく、お待ち申し上げております。ただし平服着用のこと。発起人代表 白坂庫太」

メイベル・トッドは、このときの宴に深い感銘を受けました。

 「その後、日没近く、近くに新しく建てられた広々とした茶室で、アメリカ人を偲ぶ晩餐会が開かれた。入り口には星条旗と赤い日の丸が飾られ、海と街の反対側に大きく開かれた二階の大きな部屋で宴は開かれた。〔…〕料理は極めて上品で、料理の盛り付けも完璧だった。侍女たちは、青や淡い緑の絹の縮緬の美しい衣装に、豪華な錦織りの帯を締め、精巧に滑らかな髪を結い、まるで絵画のようだった。的外れかもしれないが、このオホーツク海岸よりはるかにアクセスしやすいメイン州北部の荒野にある「居酒屋」や、ノバスコシア州の漁村では、どんなウェイトレスに出会うのだろうか、という疑問が湧いてくる。」(『コロナとコロネット』)

メイベルは上品な料理と、絵のような女性をほめそやしていますが、当時枝幸で取材した北海道毎日新聞記者、朝永彜三(ともながつねぞう?)の回想によれば、地元の人にも言うに言われぬ苦労があったようです。

 「後で聞いたことだが、外人学者が大勢来ると言ふので、枝幸村民は随分緊張もし、接待法については頭を悩ましたらしい。立小便なんぞしちゃ「日本の風俗はどうも下品だ」と言はれるに違ひない。それでは国辱になると真剣に考へた戸長以下役場の吏員は、早速、「立小便する可からず」の立札を要所々々に立て村民の自重を促した。」(『枝幸町史・上巻』p.697)

それでも、同じ時間と空間と経験を共有した村人と観測隊員は心の距離を縮め、料亭岩見で開かれた送別の宴では、

 「西洋人たちははじめは窮屈そうに坐っていたが、やがて胡坐をかき、食事も日本人とおなじく箸をつかって日本料理を食べた。興に乗った若い米国人のトムソンは、口笛を吹きながら陽気にダンスをやって見せたりした。」(『枝幸町史・上巻』、p.693)

という具合だったそうです。

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こうした温かい交流の先に、トッド教授による書籍贈呈、それも一回こっきりではなく多年に及ぶ約1000冊の贈呈によって、枝幸に立派な図書館ができ(残念ながら1940年の枝幸大火で書籍と共に焼失)、枝幸の人々が長く博士の徳を慕ったことは、アマースト隊余話として欠かせぬところですが、ゲリッシュの足取りとは直接関係がないので、ここでは割愛します(※2)

(この項つづく。次回完結予定)


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(※1)以下の文献によれば、イエール大学図書館にはトッド博士の関係文書が保管されており、白坂庫太がトッド博士に宛てたほぼ同文の招待状が含まれています(吉宮氏が撮影した写真が掲載されています)。

■吉宮仁美
 「日食観測で来村したトッド博士の人生と枝幸村民との永遠の友情
 ~米国アマースト、イエール大学図書館などの調査から~」
 枝幸研究 16(2025)pp.37-56.


(※2)枝幸の図書館については、(※1)に挙げた文献のほか、以下の資料で引用された「枝幸に過ぎた洋書図書館」という一文も参照(筆者はトッドの同時代人・中澤毅一)。

■中桐正夫(国立天文台・天文情報センター・アーカイブ室)
 「明治29年日食組立式観測所写真に隠れた日米親善」
 アーカイブ室新聞2011年5月8日 第480号

星と石2025年06月08日 18時49分31秒

徐々に通常の話題に戻していこうと思いますが、もう少し「和」の話題を続けます。

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星と石、天文学と鉱物学。

両者は高校地学の二枚看板で、星も石も両方好きだよという方もきっと多いでしょう。賢治もそうだったし、足穂もそうでした。知識の多寡を無視すれば、かくいう私だってその一人に加わる資格はあります。

そんな次第ですから、古本屋の目録で「星石」を名乗る人物を知ったとき、すかさず「いいね」と思い、その人の筆になる古びた短冊をそそくさと注文したのでした。


星石山人作、月下吹笛図。


川面に舟を浮かべ、無心に笛を吹く男。


その姿を眺め、その楽に耳を澄ますのはひとり月のみ―。

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この短冊をしたためたのは、宋星石(1867-1923)という人物です。
「そうせいせき」と聞くと、なんだか中国や朝鮮王朝の文人を想像しますけれど、まぎれもなく本朝の人で、鎌倉以来、対馬国を領した宗氏第36代当主、宋重望(しげもち)がその本名。

彼が宋氏の当主となったのは、既に時代が明治となってからですが、大名華族として伯爵に列せられた彼は、まあ普通に言えば「対馬の殿様」と呼ばれうる立場の人です。もちろん殿様だからエライ…ということはないんですが、後半生を文人画家・書家・篆刻家として、もっぱら風雅の道に生き、東京南画会会長も務めた彼は、そのことを以て偉いと称しても差し支えないでしょう。

彼が星石という号を用いた理由は寡聞にして知りません。
呉石とか琴石とか耕石とか、「○石」という号を名乗る人は多いので、星石もそのバリエーションに過ぎないといえばそうかもしれませんが、何にせよ星と石が仲良く同居しているのは素敵な字配りで、私も使いたいぐらいです。

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宋星石とは関係ないと思いますが、ネットを見ていたら、「星石」とは隕石の古い言い方の一つだと知って、そのことも素敵だと思いました。



一枚の紙片の向こうに見える風景2024年12月05日 18時17分22秒

韓国の大乱。
過ぎてみればコップの中の嵐の感もありますが、人の世の不確実性を印象付ける出来事でした。我々は今まさに歴史の中を生きているのだと、ここでも感じました。

師走に入り、業務もなかなか繁忙で、これで当人が「多々益々弁ず」ならいいのですが、あっぷあっぷっと流されていくばかりで、どうにもなりません。世界も動くし、個人ももがきつつ、2024年もゴールを迎えようとしています。

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さて、そんな合間に少なからず感動的な動画を見ました。
今から4年前、2020年6月にアップされたものです。


■I bought a medieval manuscript leaf | (It got emotional...)

動画の投稿主は、ブリジット・バーバラさんというアメリカ人女性。
彼女は古い品や珍奇な品に惹かれており、動画の冒頭はニューヨーク国際古書市(New York International Antiquarian Book Fair)の探訪記、後半はそこで彼女が購入した品を紹介する内容になっています。

(主催者である米国古書籍商組合のブログより)

バーバラさんは古書市の会場で、マルチン・ルターやアブラハム・リンカーンのような偉人の手紙や、1793年に書かれた無名の子供の学習帳のような、「肉筆もの」に強い興味を持ちました。そう、100年も200年も、あるいはもっと昔の人がペンを走らせた紙片や紙束の類です。

(話の本筋とは関係ありませんが、バーバラさんの動画に写り込んでいた17世紀の美しい星図、Ignace-Gaston Pardies(著)、『Globi coelestis in tabulas planas redacti descriptio』。バーバラさん曰く“If you can afford it, you can own it”.)

この動画が感動的なのは、バーバラさんがそれらの品を紹介するときの表情、声、仕草が実に生き生きとしていて、見る者にも自ずと共感する心が湧いてくるからです。

そして彼女が古書市で購入したのも、そうした肉筆物した。


時代はぐっとさかのぼって、1470年頃にイタリアで羊皮紙に書写された聖歌の楽譜、いわゆるネウマ譜です。バーバラさんは素直に「いいですか、1470年ですよ?1470年に書かれたものが、今私の手の中にあるんです!」と感動を隠せません。

もちろん事情通なら、15世紀のネウマ譜の写本零葉は、市場において格別珍しいものではないし、値段もそんなに張らないものであることをご存知でしょう。でも、「ありふれているから価値がない」というわけでは全くないのです。

バーバラさんが言うように、それは確かに昔の人(無名であれ有名であれ)が、まさに手を触れ、ペンを走らせたものであり、それを手にすることは、直接昔の人とコンタクトすることに他ならない…という気がするのです。

そして、そこからいかに多くの情報を汲み出せるかは、それを手にした人の熱意と愛情次第です。バーバラさんは、この写本に書かれた聖歌が何なのか、ラテン語のできる友人に読んでもらい、これが四旬節の第 2 日曜日の早課で歌われた聖歌であることを突き止めます。さらに、そのメロディーはどんなものか、同時代の宗教曲に耳を傾けながら、さらなる情報提供を呼び掛けています。たった1枚の紙片も、その声に耳を澄ませる人にとっては、実に饒舌で、心豊かな会話を楽しませてくれます。

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バーバラさんの感動や興味関心の在り様は、私自身のそれと非常に近いものです。私もこれまで断片的な資料から、いろいろ空想と考証を楽しんできました。以前も書いたように、それは旅の楽しみに近いものです。

人生という旅の中で、さらに寄り道の旅を楽しむひととき。
忙しいからこそ、そんなひとときを大切にしたいと思いました。