博物学と名物学(後編)2017年10月10日 06時50分14秒

名物学が博物学のルーツと称するに足る…というのは、たとえば以下の書籍に窺うことができます。


岡 元鳳(編)、橘 国雄(画)
 『毛詩品物図攷』(もうしひんぶつずこう) 全7巻(草/木鳥/獣虫魚に3合冊
 平安杏林軒・浪華五車堂、天明5年(1785)刊

『毛詩品物図攷』とは、「毛詩に登場するモノたちの絵入り解説書」といった意味。
そして「毛詩」とは、周代に成立した中国最古の詩集・『詩経』の別名です。日本でいえば万葉集みたいなものですが、中国では時の流れと共に経典扱いされて、『詩経』の名を得ました。

何せ3000年近く前に詠われた古詩ですから、その言葉遣いも、詠い込まれた事物も、後代の人にとっては難解な点が多く、だからこそ有り難味があったのかもしれません。

ともあれ、この本はその『詩経』に出てくる動・植物を、絵入りで考証した本です。
作者の岡 元鳳(おかげんぽう、1737-1787)は、江戸中期の儒学者・医師。
この本は近世の日本で成立した、日本人向けの本ですが、内容的には古来中国で編まれた『詩経』の注釈書を引用しながら、それに和名を当てる…という作業を基本にしています。

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オオバコの図。『詩経』での名は「芣苢(フイ)」。
岩波の「中国詩人選集」に収められた『詩経国風 上』(吉川幸次郎注)によれば、『詩経』の原詩は以下のとおりです(四句三連から成る詩の冒頭四句)。

 采采芣苢  芣苢(ふい)を采(と)り采(と)り
 薄言采之  薄(いささ)か言(わ)れ之を采る
 采采芣苢  芣苢を采り采り
 薄言有之  薄か言れ之を有(も)つ

吉川博士の訳は「つもうよつもうよおおばこを。さあさつもうよ。つもうよつもうよおおばこを。さあさとろうよ」。

オオバコが不妊症の治療薬とされたことから、後人はいろいろ深読みしたようですが、元は農村の生活から生まれた、簡明素朴な歌なのでしょう。

挿絵の脇に記された本文を読むと、作者・元鳳は、「毛詩」の名の起こりともなった、秦末~漢初の学者・毛亨による注釈「毛伝」を引きつつ、「芣苢」とは「車前」の別名であり、日本でいう車前草(オオバコ)のことである…と説いています。

まあ、くだくだしいといえば、くだくだしいのですが、名物学とは元来そういったものです。

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こんな調子で、本書にはいろいろな動植物が登場します。

(サソリ)

(左:ハリニレ、右:シダレヤナギ)

(左:クリ、右:ハシバミ)

クリの解説を読むと、先行書を引いて「日本産の栗では丹波産のものが上等とされる。鶏卵ほどに大きく、味も良い」といった、雑学的なことも書かれています。

そして、何と言っても極め付きは…


このワニの図。

おそらくモノの方は、中国に住む「ヨウスコウワニ」だと思うのですが、作者・元鳳はこれに「カアイマン」を当てています。本来のカイマンワニは南米に住み、カイマンという言葉自体、スペイン語ないしポルトガル語に由来するらしいので、これは相当ハイカラな知識です。

それにしても、古詩の注釈に、ワニの液浸標本が登場するというのが驚き。
(これは西洋式の液浸標本の、最も古い図かもしれません)。

この辺までくると、名物学が本草学と合体して、それが博物学の祖となったことが、自ずと納得されます。

博物学と名物学(前編)2017年10月09日 09時57分23秒

博物の話題が出たので、この頃気になっていることを、少しメモ書きしておきます。

それは日本における博物学のルーツは何か…という問題です。
「もちろん、本草学でしょう」――以前の私なら、そう即答したはずです。

博物学は本草学、すなわち薬草を主とする生薬の学に発し、江戸後期になると、そこから実利を離れた、純然たる自然物への興味が育ち、蘭学・洋学の影響も受けて、多くの動・植物図譜が編まれた。そこで蓄積された知識は、さらに伊藤圭介(1803-1901)らを通して、近代へバトンタッチされ、新時代の動・植学発展の礎ともなった。

…というような図式的理解をしていたわけです。

ウィキペディアの「博物学」の項も、似たような構図で記述していますから、まあ常識的な理解でもあるのでしょう。しかし、上の理解は間違いではないにしろ、事柄の半面に過ぎないことを最近知りました。

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それは、中国文学者の青木正児(あおきまさる、1887-1964)氏の著書に教えられたことです。先日、氏の『中華名物考』(平凡社・東洋文庫、1988/初版は春秋社、1959)を開いたら、その巻頭に以下の記述がありました(強調は引用者)。

 かつて白井光太郎博士の『本草学論考』を読むに、大正二年四月、貝原益軒先生二百年紀念祭における講演「博物学者としての貝原益軒」の速記がある。中にいう、「今日の博物学と先生の時代の博物学とは違つてゐる。其の代りに本草学・名物学・物産学と云ふ此の三つの科目が有つた。この三つを合したものを先づ博物学と云うたのである。…名物学と云ふのは物の名と実物とを対照して調べる、歴史とかいろいろの書物に出て居る所の禽獣草木其外物品の名実を弁明する、此の学問が矢張必要であります。書物などにいろいろの品物が書いてあつても、実物が何う云ふものであると云ふことが分らなくては、真に書物が分つたのではない。名物学と云ふのは昔も必要であつたが、今も必要であると思ふ」云々と。


白井光太郎(しらいみつたろう、1863-1932)は、やっぱり本草学の流れを汲む植物学者で、白井博士曰く、博物学のルーツは本草学ばかりでなく、名物学と物産学もそうなのだ…という指摘です。

このうち「物産学」は、本草学の弟分のようなもので、動植物の分布や天然資源の産出状況など、各種自然物の地理的分布に係る学問です。

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それに対して「名物学」とは、「物の名と実物とを対照して調べる学問」のこと。
つまり、ここでいう「名物」とは、「名物に旨い物なし」というときの「名物」ではなくて、「名と物」の意です。

そして、その名物学に、中国文学者の青木氏が注目したのは、中国伝来の名物学は、自然を研究する学問ではなく、古典のテクスト研究の一分科として、訓詁学と並ぶ存在だったからです。

中国の人々はなべて古典を重んじましたが、時と所を隔てると、古典に登場する動植物や器物の名が、中国の人にもだんだんはっきりしなくなってきます。それを研究して、果たしてその正体が何であるのか、それは今言う所の何に当るのか、それを明らかにするのが名物学です。日本だと、有職故実の「故実」に押し込められていた知識が、漢土では本格的な学問として重んぜられたのでしょう。

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今では全く流行らない名物学(の日本的展開)が、確かに博物学のルーツであったことを理解するために、その具体例を見てみます。

(この項つづく)

明治の動・植物実習図を眺める(前編)2017年10月07日 10時58分29秒

ふくべ書房さんのことを話題にしたので、以前宿題にしていたことを書きます。
それは今年6月にカエルの解剖について触れたときのことです。

本邦解剖授業史(2)

上のリンク先を含む前後の記事は、日本における解剖(特にカエル)の授業についてまとめたもので、その中にこんな記述が挟まっていました(画像も含めて再掲)。



 上の画像は、おそらく大学における動物学実習のために準備された講義ノートの一部で、明治30年代のものです(この美しい彩色手稿については、描き手のことも含めて、いずれじっくり書きます)。

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問題の明治時代の講義ノートは、やはり帙にくるまれて、ふくべ書房さんから届きました。


中身は『動植物実習図』と題された、手製の図画集で、大きさは37×28cmと、B4よりもさらに大きいサイズです。中には30枚の図版が綴じられており(各葉とも裏面は空白)、そのうち26枚に手彩色が施されています。

(以下、雨模様で光量が乏しいため、暗い写真になりました)

冒頭の第一図。図には講義用のアンチョコらしい説明文が貼付されており、それをめくると…


下から可憐なツユクサの図が現れます。

リアルな全体図と部分図、花の細部スケッチと花式図、さらに顕微鏡で観察した花粉や蕊の細胞(これは別種であるムラサキツユクサの雄蕊の毛の細胞をスケッチしたもの)等が、きっちり1枚の図に収まっています。



それにしても、これは相当巧い絵ですね。職業画家の巧さとはまた違うのでしょうが、繊細さと科学的正確さを兼ね備えた、真面目な絵だと感じます。


ペンで書かれた「アンチョコ」の文字も、描き手の几帳面さを感じさせます。

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この勢いで他の図も見てみたいのですが、その前に本図譜の素性を考えてみます。

この図譜は、もちろん「動植物実習」のために作成されたものです。用いられたのは、明治33年(1900)の9月から、明治34年(1901)の6月まで。当時の大学は9月に始まり、翌年6月までを学校年度とし、これを3学期に分けて授業を行ったので、ちょうどそれに対応しています。

担当教員は「上野」先生だと、表紙の文字は教えてくれます。
これが仮に東京帝大に関係したものとすれば、当時の教員は以下の資料で確認できますから、それが誰かは簡単に分かります。

■東京帝国大学一覧. 明治33-34年

当時の帝大理学部や農学部(正確には理科大学、農科大学)に、上野姓の教員はただ一人です。すなわち、農科大学に在籍した、上野英三郎(うえの ひでさぶろう、1872-1935)。上野博士は、たぶん御本人よりもペットの方が有名で、あの忠犬ハチ公の飼い主だった人です(当時はまだ博士ではなく、ハチ公も飼っていませんでしたが)。

(左から5人目に上野の名が見える)

もちろん、これが東京帝大以外の、たとえば京都帝大や旧制高校、あるいは師範学校に所属する、別の上野先生のものだった可能性もあるので、うっかり断定はできませんが、この点は、おそらく上野博士の筆跡が分かればはっきりするでしょう。

以下、これが上野博士のものとして、話を進めます。

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上野博士は農業土木の大家で、もちろん動・植物の解剖学が専門ではありません。
しかし、彼が「大家」になるのは、しばらく後の話で、彼はちょうどこの年(明治33年)の7月に大学院を終えて、同年8月に農科大学講師に任じられたばかりでした。

彼が所属したのは、田中節三郎助教授率いる「農学第二講座」で、彼は田中助教授の下で、「農学第二講座に属する職務分担」を担当していました。何のこっちゃ…という感じですが、他の先輩教師のように、「家畜生理学」とか「農芸化学」といった具体的な担当科目が記されていないので、要は何でもやらされたのでしょう。

当時の農科大学は3年制です。そのうち農学科では、第1学年と第2学年で、「植物学実験」と「動物学実験」が必修でした。また農科大学には、そうした本科の他に、旧制中学卒業生等を対象とした、「実科」というのがあって、こちらは農業実務者養成を目的としたコースのようです(実科の入学者の半数は、「田畠五町歩若クハ未墾地十五町歩以上ヲ所有スル者又ハ其子弟ヨリ選抜ス」と規則で定められていました)。そして、そちらにも当然、動・植物学の講義はありましたから、そういう基礎クラス向けの手間のかかる実習を、新米講師が担当させられた…というのは、何となくありがちなことという気がします。

(以下、図譜の続きを眺めます。この項つづく)

『鳥類写生図譜』の世界(4)2016年04月05日 06時48分55秒

本書は、大野麥風の『大日本魚類画集』のような木版画ではなく、印刷によるものです。だから古書価もリーズナブルで、私にも買えたのです。とはいえ、その印刷の質の高さは驚くべきもので、これまで掲載した少数の図版からも、それは十分伝わると思います。

昨日登場した「案内パンフレット」には、第1~4期の「体裁」が書かれているので、それを挙げておきます。

■第1期
「小鳥二十五種、配合植物二十五種、本附図各二十五枚、全五十枚並解説、大さは縦一尺四寸五分、横一尺五分、紙は最上の画学紙、印刷は本図十三色以上二十色に及び、附図は画学紙に七色以上の精巧なオフセット刷。」

■第2期
「小鳥中鳥二十五種、配合植物二十五種、本附図各二十五枚、全五十枚並解説、大さは縦一尺四寸五分、横一尺五分、紙は英国製極厚アート紙、印刷は原色版五六度刷、附図は最上画学紙に九色以上の精巧なるオフセット刷。」

■第3期
「中鳥大鳥二十五種、配合植物二十五種、本附図各二十五枚、全五十枚並解説、大さは縦一尺三寸二分、横一尺五寸二分、本図紙は越前手漉鳥の子透し込み文字入極厚、印刷は原色版七度刷、附図は最上画学紙に八九色以上の精巧なるオフセット刷。」

■第4期
「本図附図ともに縦一尺三寸二分、横一尺五寸二分 本図は越前手漉鳥の子極上極厚に原色版七度刷 附図は最上の画学紙に八九色以上のオフセット刷」

時期によって微妙に紙質や印刷の精度が異なりますが、要はその時々で最上の選択をして印刷したということでしょう。

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ここに出てくる「原色版」とは、デジタル大辞泉で次のように解説されています。

「黄・シアン・マゼンタの三原色インキ、またはこれに墨を加えて、原画と同じ色彩を出す網目凸版印刷。また、その印刷物。3枚または4枚の版を作り、3回または4回刷り重ねる。細密な色彩効果が得られ、美術複製に適する。」

普通なら3~4回刷りで済むところを、5回も6回も7回も重ねて刷ったというのですから、これが当時最高の印刷水準であったことは容易に想像されます。(三原色と墨版以外の版は「特色」といって、三原色の混色ではきれいに再現できない色を、別版に起こして刷り重ねるものです。七度刷りの場合、その「特色」を3枚余分に用いたことを意味します。)

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ここで、改めて印刷の細部を見ておきます。


まず原色七度刷りの第3期に含まれるオナガの本図です(紙は「鳥の子」と称する手漉き和紙)。


拡大すると網点が見えてきますが、普通に見る分には全くそれを意識させない、美しい図版です。


これも第3期のハヤブサ。こちらは附図なので、オフセット印刷です。


同図の拡大。ハヤブサ細部の名称が目を惹きます。
これでも十分美しい図に見えますが、美術印刷としては原色版のほうが「格上」で、仔細に見比べると、附図よりも本図のほうが一段と生彩に富んでいる気がします。


こちらは五六度刷りの第2期に含まれるイソヒヨドリ(単にイソヒヨとも。周辺部をトリミング)。羽毛はもちろん、若葉の微妙な色合いも見事に再現しています。


こちらは平滑なアート紙に刷られているので、斜めから写すと、光が反射しているのが分かります。

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こんなふうに一点一点見ていくと本当にキリがありません。
春郊は日本画家であると同時に、美校卒業後は、百貨店の宣伝部に籍を置く商業デザイナーとしても活躍した人で、そのせいか、この図譜にはデザインの巧みさを強く感じます。構図もうまいし、線もきれいだし、何より色彩に冴えがあります。

リアルな生態描写とアーティスティックな表現が融合した、精妙無比の鳥類図譜として、江湖諸賢に広くお勧めする次第です。

『鳥類写生図譜』の世界(3)2016年04月04日 06時09分30秒

博物図譜の出来映えを左右するのは、絵師の腕前であり、印刷の仕上がりです。

(大鳥篇よりイソシギ)

絵師については、前述のespritlibreさんの記事中に、共著者である小泉勝爾(こいずみかつじ、1883-1945)と、土岡春郊 (つちおかしゅんこう、1891-1958)の伝が引かれているので、ご参照ください。

■『鳥類写生図譜』の著者について
 http://furukawa.exblog.jp/6827999/

それによると、二人はともに東京美術学校(東京芸大の前身)で、本書の監修者である結城素明(ゆうきそめい、1875-1957)に師事しています。そして春郊は、兄弟子である小泉にもついて学んでいるので、結局、本書は師弟関係で結ばれた彼ら3人の合作ということになるのですが、実態としては春郊の単著だったようです(鳥類写生図譜』の著者とその周辺 http://furukawa.exblog.jp/7247494/)。

春郊の伝のうち、鳥に関わる箇所を、espritlibreさんの記事から孫引きさせていただきます。

 「大正5年、同校〔東京美術学校〕卒業後、花鳥画家を志し、多くの鳥類を自ら飼育し、つぶさに観察、写生を続けるとともに広く愛鳥家とも交友、約10年鳥類の研究と花鳥画の制作を続けた。昭和2年、恩師結城画伯、当時の日本鳥の会の会長鷹司信輔氏らの推奨もあり、『鳥類写生図譜』の刊行に着手、昭和6年には鳥の会主催の展覧会で名誉賞を受賞、関係各会からの資金援助もあり昭和13年に完成。」

彼は画家であると同時に、根っからの鳥好きだったのですね。
春郊の名は、今ではほぼこの『鳥類写生図譜』によってのみ知られると思いますが、このMagnum opus (代表作、金字塔)の存在によって、「鳥の画家・春郊」の名は、いっそう人々の心に深く刻まれるのではないでしょうか。

(小鳥篇よりヨシキリ(オオヨシキリ)。周辺をトリミング)

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今、手元にこの図譜を紹介するパンフレットがあります。


最後の第4期刊行に先立ち、予約購読者を募る目的で、昭和8年6月に作られたものです。これを読むと、本図譜の出版にかける春郊の思いが、いっそうよく伝わるので、その一部を引いておきます(太字は原文における強調箇所)。


本写生図譜の特色 〔…〕写生の厳密  画家が自ら二十年に亘り鳥類の飼育上から得た経験と知識とを以て、厳密に生鳥より直接写生せる図譜であって、かの粉本剥製から来た標本図、又在来の絵画化された画帖の類とは全く質を異にしてゐます。」

既存の図譜に対する、強烈なプロテストと自負ですね。

実大と実色  本図譜の最大特色として誇るべきは、鳥類植物昆虫が凡て実物色で、特殊大鳥を除く外は実物大なる点で、淡彩略図に非ざることは勿論、更に雌雄羽毛の異なるものや幼鳥も亦精到に描写してゐます。 本図と附図  各鳥毎に本図附図に分ち本図は各鳥の最も自然な姿態を美術的に描き、これに其鳥と密接の関係ある花卉草木虫類を配せる高雅優美な花鳥図譜であります。附図は一チ一チ羽毛、翼、脚等を部分的に描写し、姿態の種々なる変化を、叮嚀親切に写してゐます。」

(大鳥篇よりオナガ附図)

(同部分。この訂正文に春郊の精確描写への意気込みが現れています)

春郊はさらに上の引用箇所に続けて、

「これは本図譜の尤も特色とするところで、美術、工芸、図案家又は刺繍編物等には、絶好の参考資料となり、別に添付せる鳥、植物、虫の解説は学術上の説明、飼養の経験は勿論、更には文学上のあらゆる伝説、詩歌、俳句を蒐めて興味多い読物であります。」

と書いています。
espritlibreさんは、本図譜の想定読者には鳥類愛好者以外に、着物デザインに関わる染色関係者がいたのではないか…と推測されていますが(鳥類写生図譜』の精緻・巧妙・優雅(2) http://furukawa.exblog.jp/6824437/)、その推測を裏付ける記述です。

なお、大鳥・小鳥篇の出版にあたり、図譜以外に別冊で解説篇も作られたはずですが、今手元にはありません。案内パンフレットにその見本が載っているので、参考として下に掲げておきます。



(この項さらにつづく。次回は本書の印刷について)

『鳥類写生図譜』の世界(2)2016年04月03日 09時57分38秒

まずespritlibreさんにならって、本書の書誌を記しておきます。

『鳥類写生図譜』の第1期・第1輯(昨日は「集」と表記しましたが、正確には「輯」です)が出たのは、昭和2年(1927)7月のことです。そして、翌年の昭和3年(1928)9月に第12輯が出て、第1期は完結しています。各輯には、それぞれ2種類(12輯のみは3種)の鳥が含まれ、第1期の収録数は全部で25種類になります。

(第1期収録の25種)

そして、それぞれの種類は、花鳥画の描法に則って描かれた「本図」と、鳥の細部を詳細に描いた「附図」の2枚から成り、第1期は都合25×2=50枚の図版を含んでいます(さらに解説のリーフが、各種に1枚付属します)。

(第1期第11輯よりジョウビタキの本図。花はマンサク)

(同拡大)

(ジョウビタキの附図)

(同拡大)

第1期が完結後、版元の鳥類写生図譜刊行会は、『鳥類写生図譜 第一集』と称して、全図版を帙入りのセットとして、あるいは大和綴じに製本した豪華版として、セット販売を行いました。これは各期についても同様です。

同様に、第2期は昭和4年~5年(1929~1930)、第3期は昭和5年~7年(1930~1932)、そして第4期は昭和8年~13年(1933~1938)と、配本間隔が次第に間延びしたものの、足掛け12年かけて『鳥類写生図譜』全100種200枚は、無事完結しました。

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…と、これだけでもかなり複雑な出版事情ですが、さらにややこしいのは、私の手元にある「大鳥篇」「小鳥篇」の成り立ちです。

(大鳥篇の扉。角印は「賜天覧台覧」。推薦・賛助者には、日本画家の川合玉堂や、「殿様鳥類学者」である鷹司信輔、黒田長礼らが名を連ねています)

この「大鳥篇」「小鳥篇」は、図版自体はオリジナル版(第1期~第4期)と同一で、各種類が本図と附図の2枚から成る点も共通ですが、オリジナル版が全100種であるのに対し、収録数は70種(大鳥・小鳥篇 各35種)と、若干切り詰められています。また、単に切り詰めただけではなく、オリジナル版にはない3種の鳥が加わっています。

結局のところ、大鳥・小鳥篇は、オリジナル版を再編集したコンサイス版で、それにちょっとオマケをつけたもの…というわけです。

(小鳥篇表紙)

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ここで煩をいとわず、収録の全種類を掲げます。
まずオリジナル版と大鳥・小鳥篇に共通するのは、全部で67種です。
(以下、50音順。種名は原本の表記にしたがいます)。

 あおげら、あおばと、あかげら、あかはら、いかる、いかるちどり、
いすか、いそしぎ、いそひよ、う、えつさい(雄。雌は「つみ」)、えなが、
おおよしごい、おしどり、おなが、おなががも、かいつぶり、かささぎ、
かしどり、かっこう、かわがらす、かわせみ、かわらひわ、きじ、きじばと、
きせきれい、ごいさぎ、こうらいうぐいす、こがも、さんこうちょう、
さんしょうくい、しゃも、じゅずかけばと、じょうびたき、しらさぎ、しろちどり、
せぐろせきれい、たげり、つぐみ、とび、とらつぐみ、なんようせいこう、
のごま、はいたか(雌。雄は「このり」)、はしぶとがらす、はっかちょう、
はっかん、はやぶさ、ばん、ひくいな、ひよどり、ひれんじゃく、ふくろう、
ぶっぽうそう、ほおじろ、ほととぎす、まがも、まみじろ、みそさざい、
みみずく、みやまほおじろ、むくどり、もず、やまどり、ゆりかもめ、
よしきり、らいちょう

次いでオリジナル版のみに含まれるのが、以下の33種。

 あおさぎ、あおばずく、うぐいす、うずら、うそ、おおたか、おおばん、
おおるり、かもめ、きびたき、きゅうかん、きんけいちょう、ぎんけいちょう、
こうらいきじ、こげら、こまどり、ささごい、さんじゃく、しじゅうから、
しちめんちょう、しまひよどり、すずめ、ちゅうさぎ、つばめ、ともえがも、
ひばり、ぶんちょう、べにましこ、まがん、めじろ、やまがら、やましぎ、
るりかけす

そして大鳥・小鳥篇のみに含まれるのが、次の3種です。

 うみねこ、おかめいんこ、きれんじゃく

   ★

話が大分くだくだしくなったので、ここで記事を割ります。

(この項つづく)

『鳥類写生図譜』の世界(1)2016年04月02日 09時48分39秒

ちょっと話がとん挫しましたが、気を取り直して続けます。

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「花鳥画」の名の通り、花と鳥は好一対。

花と鳥の取り合わせは、中国伝来の美意識で、さらに遡るとササン朝とか西域の影響もあるかもしれませんが、いずれにしても、すぐれて東洋的な感覚と思います。日本画の世界でも、花鳥画は歴史の中で独自の発展を遂げ、今に至っているようです。

他方、西洋では美しい鳥譜、花譜はたくさん編まれたものの、花鳥画が独立したジャンルとして存在しなかったので、両者の配合を狙った博物図譜も生まれようがありませんでした(「花の蜜を吸うハチドリ」のような、「花鳥画作品」はあったにしても)。

   ★

そういう意味で、下の画集は、花鳥画の太い水脈を受け継ぐ「日本的博物図譜」として、特筆する価値があります。


■結城素明(監修)、小泉勝爾・土岡泉(共著)
  『鳥類写生図譜』、鳥類写生図譜刊行会(蔵版)

上の写真に写っているのは、「大鳥篇」と銘打たれた、縦37cm×横47cmの大判横長の画集です。さらにこれと対になる「小鳥篇」があって、そちらは縦42.5cm×横34cmの縦長の、これまた大きな画集です。


奥付がないので正確な刊年は不明ですが、本図譜の元は、昭和2年から13年(1927~38)まで、全4期・各12集にわたって、プレート(単独図版)形式で、予約購読者に頒布されたもので、おそらく昭和14年頃(1939年頃)に、今見るような形に製本されたものでしょう。

(桐に青鳩。「大鳥篇」所収)

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この図譜については、すでにespritlibreさんによる優れた論考があるので、関心を持たれた方は、まず以下をお読みいただくことをお勧めします。

■『鳥類写生図譜』の精緻・巧妙・優雅(1):玉乗りする猫の秘かな愉しみ
 http://furukawa.exblog.jp/6820935/

espritlibreさんは、上記の記事につづき、都合4回にわたって『鳥類写生図譜』と、その主著者である土岡泉(号・春郊)の伝についてまとめておられます(全4編は以下のページで一括表示されます)。

■カテゴリ:鳥類写生図譜  http://furukawa.exblog.jp/i24

以下、espritlibreさんに依拠しつつ、さらに若干の情報を付加しながら、この美しい図譜を紐解くことにします。

(この項つづく)

春は花2016年03月30日 06時29分49秒

世の憂い、季節の愁い、さまざまあれど、春は花。
桜も雪柳もいっせいにほころび、その盛りを見せつけています。

「桜」「咲く」「盛り」「栄え」…これらはみな同じ語源に発する言葉だそうですが、春の陽を浴びて咲く花に、命のほとばしり、みなぎるような力を感じるのは、昔も今も変わらぬ感性でしょう。


山桜を描いた手刷り木版の絵葉書。
おそらく昭和40年代(1970年前後)に、京都の美術工芸出版社「芸艸堂(うんそうどう)」から出たものです。


作者の河原崎奨堂(かわらざきしょうどう、明治32年~昭和48年(1899~1973))は、京都に生まれ育った日本画家・友禅画家。戦後は上記「芸艸堂」の経営に関わるとともに、草花をモチーフにした細密な木版画の原画も手がけ、この絵葉書もそうした一連の作品のひとつとして版行されたもののようです。


この絵葉書は、「日本の花暦」と題する24枚から成る連作のうちの1枚。
24枚というのは、1月から12月まで、各月を代表する花をそれぞれ2種類選んで描いたもので、そのセレクションは以下のとおりです。(下は1月~4月の花を並べたところ。)


 1月(梅、福寿草)、2月(椿、水仙)、3月(桃、菜の花)、
 4月(桜、チューリップ)、5月(藤、カーネーション)、6月(紫陽花、花菖蒲
 7月(くちなし、山百合)、8月(百日紅、朝顔)、9月(萩、彼岸花
 10月(木犀、コスモス)、11月(山茶花、菊)、12月(枇杷、ツワブキ

(水仙)

(椿)

奨堂には、まったく同じ24種の花を、大判の多色木版で仕上げた「日本の花こよみ」(昭和47、1972)という、ほぼ同名の作品もあって、その全容は神保町の山田書店さんのサイトで見ることができます。
http://www.yamada-shoten.com/onlinestore/detail.php?item_id=41024

比べると分かりますが、この「日本の花暦」は「日本の花こよみ」を単純に縮小したものではなく、絵葉書という小画面に映えるよう、別のデザインで描き下ろしたものです。

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ここで奨堂の作品を紹介したのは、日本画の筆法による絵図に博物学的解説を付した、この種の図譜が、大正から昭和にかけて流行った時期があり、(絵葉書はともかくとして)『日本の花こよみ』は、まさにその末流に位置づけられると思うからです。

かつて荒俣宏さんが激賞した、大野麥風(おおのばくふう、1888~1976)の『大日本魚類画集』(昭和12~19年=1937~44)はその代表で、それ以外にも、動物・植物を問わず、いろいろなジャンルで優美な作品が作られたのでした。

(大野麥風展図録より、2013)

そこには、花鳥画の長い伝統、江戸期以来の「画帖」という出版ジャンルの存在、錦絵の衰退と前後して興った新版画運動のうねり、明治の消費拡大(さらに輸出の増大)に伴う染色工芸図案集へのニーズ、そして美しいものを欲する都市受容層の拡大…etc.、純然たる博物趣味とは別の要因もいろいろあったと思います。

それだけにこうした作品群は、いわば「博物図譜の日本的展開」として、大いに注目されるところです。

(この話題、ゆるゆる続きます)

『近世博物教科書』に見る明治の授業風景2015年05月06日 09時57分39秒

(前回のつづき)

(愛らしいカラー口絵。残念ながら多色刷りはこのページだけです。)

明治30年代の理科のテキスト『近世博物教科書』。
その内容を見ていて、面白いなと思ったのは、教科書の欄外に赤インクで細かくメモがとってあることです。


たとえば「牛」のページ。
教科書本文は「牛ハ古ヨリ六畜中ノ一ニ数ヘラレタル、最モ有用ノモノナリ…」云々から始まって、その身体的特徴や、習性、反芻のこと、家畜としての歴史などが淡々と書かれています。

それに対してメモの方は、その要点を抜き出して箇条書きしてあるので、最初見たときは、元の持ち主(この几帳面さは女学生っぽい気がします)が、自学自習のために書き付けたのかと思いました。


でも、よく読むと、上のように本文には全く出てこない記述もあるので、これは授業中に、先生が言ったことを口述筆記したものに相違ありません。(日本語として「てにをは」がおかしいのも、その場で忙しく書き付けたものであることを窺わせます。)

(文字が古めかしくてちょっと読みにくいので、以下に転記しておきます。家畜に付ての説/牛は古来六畜の一として有用なりしも 発達繁殖せざるは 仏教の影響をうけて肉食を避けしに依り 従ひて之を農業に応用することなし 又之を愛する情念に乏しくなりき故 獣類に対する智識等は全く絶無の姿となりしのみならず 根跡ありしを以て東京附近には動物虐待防止会なるものをも起れり。

先生が教科書に沿って説明するのを聞きながら、生徒たちが必死でメモをとっている授業の光景が思い浮かびます。きっとところどころ、「これは大切なことだから、ちゃんと書き取っておくように」という指示があったのでしょう。


そう思うと、このとぼけた蛙の絵を見ながら、真面目にメモを取っている姿も微笑ましいですし、


これはたぶん先生が板書したのを写したのでしょうが、果たして先生/生徒いずれの技量に問題ありや、あんまりサソリに見えません。



教科書本文にもちょっとした発見があって、上は「アゲハチョウ」についての解説ですが、その中に「ゆずぼう」、「おきくむし」というのが出てきます。


アゲハの幼虫をユズボウ、蛹をオキクムシというのですが、オキクムシは即ち「お菊虫」で、例の皿屋敷のお菊が、後ろ手に縛られている姿になぞらえた呼び方、ユズボウは耳慣れぬ称ですが、柚子をはじめとする柑橘樹に付く「柚子坊」の意でしょう(ウリ坊みたいで、ちょっとかわいいですね)。ともあれ、こういう民俗語彙が、他の科学的記述に混じって突如出てくるのが、面白いと思いました。

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果たして明治の女学生は、動物虐待について、「長舌ニシテ昆虫ヲ得ル」とのさまがえるについて、はたまたお菊虫や柚子坊について、どんな印象を持っていたのか、その辺も大いに気になるところです。

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【付記】
オマケですが、文中に出てくる「動物虐待防止会」というのは、明治35年(1902)に発足した組織で、当時の日本の動物愛護運動については、以下に詳しい記述があります。文化史的にも興味をそそられる内容です。

■近森高明、「動物<愛護>の起源―明治三〇年代における苦痛への配慮と動物愛護運動―」、京都社会学年報第8号(2000)、pp.81-96.
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/192592/1/kjs_008_081.pdf

博物学の「目的」とは?…カテゴリー縦覧:博物学編2015年05月04日 19時38分37秒

博物学の目的とは何でしょうか?
博物学というのは、人間の純粋な好奇心の発露ですから、強いていえば「知ること」それ自体が目的だということになります。

ところが「教育」というのは、どうもそれだけでは済まなくて、何か立派な目的がいるわけですね。先日、明治時代の教科書を開いたら、そのことが冒頭に出ていて、驚くと同時に、面白いと思いました。


上は明治30年代に、旧制中学校(すべて男子校です)や高等女学校で用いられた「博物」の教科書。


戦前は「博物」という授業がありました。当時の教育者の中には「博物」と「博物学」は違うと主張した人もいますが、上の表紙には「Natural History」と明記してあるので、まあ一般的には同じと解していいでしょう。

「博物」は、動物学・植物学・鉱物学の基礎を学ぶ科目で、これは自然界に存在するものを、これら3つの「界」(動物界、植物界、鉱物界)に区分して把握するという、古い古い三界説の伝統を引くものです。

そして、戦前の中等教育における理科のカリキュラムは、「物理・化学」とこの「博物」のペアから構成されており、それぞれが今の「第1分野」「第2分野」の淵源になっています。

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さて、その博物の教科書を編むにあたり、ドイツ留学中の気鋭の理学士・藤井健次郎(後に東京帝大教授)は、博物学の目的を以下のように宣言しました(平仮名表記に直し、適宜句読点を補いました)。


第一 動植鉱物学を修むるの階梯〔基礎〕を与ふること
第二 理学的思想を与へ、迷信を去ること
第三 観察力を養成し、五官の機能を完全ならしむること
第四 他の諸学科と相待ちて、思想発達上に於て偏頗〔偏り〕なからしむること
第五 親しく自然界を観察して、其完全なる理会〔理解〕を為さしめ、天然物を愛するの心情を喚起し、自然の美を認識し、優美高尚の性を得しむること
第六 実験によりて道理に基ける確信の道を開き、徳性を涵養すること
第七 天然物に就きて利用厚生の道を覚(さと)らしむること

何だか分かったような分からないような話ですが、博物の授業は、立派な人格を形成するためにあるという、道徳教育的な目的がそこに大きくかぶさっているのは、今の目から見ると一寸不思議な気がします。


さらにこれに続けて、この目的を敷衍し、より理解を全きものにするため、このような道歌めいた詩句が書かれています。

  完全無欠不足なき 天然界のさま見れば
  胡蝶も花も塊(つちくれ)も 天地万物それぞれに
  互に依りつ助けつつ おのがむきむき様々に
  所得ぬものなかりけり。

  動植鉱物さまざまに 優り劣りの差(しな)あれど
  同じ天地の物なれや 中にすぐれて霊長と
  世にもいはるる人々よ 天地の広き心もて
  天然物を愛すべし。

  少しの草木むしけらも みだりに折らず捕へずに
  おのもおのもに所得て 皆それぞれに其生(しょう)を
  全からしめ遂げしめよ これ万物の霊長の
  人の人たる徳ならん。

万物の霊長の責務として、自然界のすべてを愛し、慈しみ、いたずらにその生を奪ってはならない…。人間を「高貴な存在」と見て、一種のノブレス・オブリージュ(高貴なる者が負わねばならない義務)を課す考えです。これは今でも一部に共感を誘う考え方でしょう(賛否はあると思います)。

さらに興味深いのは、第一段にうたわれている「相互依存」の考え方です。
これは、19世紀ドイツの理科教育者ユンゲが唱えた「生活共存体」説に由来し、それが明治半ばの日本にも輸入されて、一時はだいぶ流行ったものらしいです。

地球上のすべての生命(さらに鉱物)は互いに依存し合い、有機的な全体を構成している…というのは、今でも「ガイア説」などに生き残っていて、いわゆるエコ・ムーブメントの根本教義の1つだと思います。それをあながちに否定する根拠もありませんが、上記のような歴史的外延を知っておくことは、議論に一層広がりを生むものと思います。

   ★

博物の教科書1冊からも、いろいろなことに連想が及びます。
人間と自然の関係、その関わりの歴史、さらに人間と自然の関係をある時点でどう概括するか、まあ、あまり大きなことをこのブログで論じてもしょうがありませんが、興味深い題目であることは間違いありません。

この教科書をめくっていると、他にもいろいろ面白い点が目につくので、もう少し内容を見てみます。

(この項つづく)