博物画の魅力2023年12月18日 11時14分08秒



山田英春氏の近著、『美しいアンティーク鉱物画の本(増補愛蔵版)』(創元社、2023)を書店で見かけ、さっそく購入しました。出版前から一部では話題になっていたので、すでに購入済みの方も多いことでしょう。


2016年に出た初版とくらべると、判型も大きくなり、内容もボリュームアップして、見ごたえ十分です。

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この本を見ながら、博物画の魅力とは何だろう?と、改めて考えていました。

博物画というと、昨日の『雑草のくらし』のような科学絵本にも、明らかにその影響が及んでいる気がします。科学絵本には童画風のソフトな絵柄の作品もあるし、対象を緻密に描き込んだハードな作品もありますが、後者を突き詰めていくと、現代の博物画家によるスーパーリアリズムの世界に至るのでしょう。その超絶技巧には思わず息を呑みます。

博物画の魅力は、絵そのものの魅力によるところがもちろん大きいです。
でも、個人的には「絵の向こうに広がっている世界」の魅力も、それに劣らず大きいように感じています。

たとえば現代の博物画であれば、各地で活躍するナチュラリストと自然とのみずみずしい交歓や、彼らの弾むような好奇心、そして環境への目配り・気配り、そうしたものが見る側に自ずと伝わってくるから、見ていても気持ちが良いし、小さなものを描いても、何かそこに大きなものを感じます。


これが18世紀~19世紀の博物画となれば、まさに「大博物学時代」の香気や、「博物学の黄金時代」の栄光を物語る生き証人ですから、絵の向こうに当時の博物学者の重厚な書斎の光景がただちに浮かんできます。それはダーウィンやファーブル先生が生きた世界への扉であり、学問の佳趣への憧れや、科学がヒューマンスケールだった時代への郷愁をはげしく掻き立てる存在です。

結局、私にとっての博物画は一種の象徴であり、宗教的な「イコン」に近いものなのでしょう。

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ところで、山田氏の本の帯には、「写真では味わえない、レトロで温かみのある、多色石版印刷(クロモリトグラフ)の玉手箱」という惹句があります。

鉱物画は博物画の下位分類なので、鉱物画の魅力というのも、当然博物画の魅力と重なる部分が大きいはずです。そして、一枚の絵として見た場合、この「写真にはない手わざの温もり」が魅力であるということも、博物画の魅力としてしばしば言及されることです。

ただ鉱物画の場合、他の博物画とはちょっと違う点もあります。
それはほかでもない「温かみ/温もり」についてです。というのも、昔の鉱物画家はひたすら鉱物らしい、冷たく硬質な質感を目指して努力していたはずで、画家自身そこに「温かみ」を求めてはいなかっただろうし、むしろそれを排除しようとしていたのでは?と思えるからです。動物画や植物画の場合は、描き手もアプリオリに「温かみ」を排除していたとは思えないので、そこが鉱物画の特異な点です。


それでも現代の我々の目には、これらの鉱物画は十分「温かみのある絵」として目に映ります。これはたぶん基準点の置き方の違いで、昔の画家は当時の平均的な具象画を念頭に、それを超えたリアリズムを追求したのに対し、現代の我々は「実物以上に美しい鉱物写真」を見慣れているので、「それに比べれば、昔の鉱物画は素朴で、温かみに富んでいるよね」と思い、それこそが魅力だと感じるのでしょう。

この点で、往時の描き手と、現代の鑑賞者との間で、鉱物画の捉え方をめぐって不一致が生じているのように思いましたが、まあこういうすれ違いは、レトロ趣味全般でしょっちゅう起きていることですから、事新しく言うには及ばないかもしれません。

(鉱物と鉱物画。それらを写した写真を掲載した本。そのまた全体を収めた写真。虚実皮膜とはこういうことを言うんでしょうかね。なかなか世界は複雑です)

コメント

_ S.U ― 2023年12月18日 17時55分41秒

「温かみのある鉱物画」について、ふと思いついたのですが、日本や中国では、以前はこれは本草学の一分野であって、つまり、薬石なのですよね。薬石は、内臓のために煎じて服用するのがおもな用途であったので、昔の絵師においてはついつい温かい目線が生じたということはないでしょうか。

_ 玉青 ― 2023年12月21日 18時23分52秒

いくぶん論旨がずれますが、東アジアにも水石趣味や弄石趣味はあったので、石を美しいものと感じる感性はあったはずですが、なぜ鉱物画的な表現(硬質な鉱物描写)を持ちえなかったのか、これは興味深い問題ですね。

もちろん私にも答は分かりませんが、ひとつ思うのは、東アジアの先人は西洋画と出会うまで光と影の描写を知らなかった、引いては硬質な鉱物描写に欠かせない光沢や透明感の表現技法も持っていなかったことが影響していると想像します。

それは技術の巧拙というよりも、いわば「表現哲学」の違いであり、東洋における絵画とは「対象そのもの」「対象の真の姿」を描くわざであり、対象にまつろう光や影は「かりそめのもの」であるがゆえに、描画の際はむしろ積極的に捨象されたのだ…という説を耳にしたことがあります(当否は不明です)。

_ S.U ― 2023年12月22日 06時05分37秒

>弄石趣味
>光と影の描写
この2つは「温かい鉱物」に関係していそうに思います。
 ここで、稲垣足穂の「水晶物語」を思い出しました。タルホ少年は、弄石趣味の年寄り向けらしき、手垢とツヤと丸みのある石を譲りに訪れた人を馬鹿にしていましたね。その感性は私にもわかる気がします。彼は、日本の伝統に排除すべきものを見つけていたのでしょう。
 ただ、伝統にも意味があって、樹木に満ちた日本式庭園、檜や白木で満ちた床の間には、全体を鑑賞するにふさわしい光と影の関係上、自身が「温かい」岩石があってほしいのだと思います。庭や床の間にあるものが自然美の象徴であることは足穂も理解していたと思いますが、そこには本当の自然と比べて当然欠けている精神があり、それに我慢できなかったのだと思います。

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