教養を弁ず2019年05月26日 10時36分46秒

しばらく風邪で臥せっていたので、記事を書けずにいました。その後、身体は復調しましたが、どうもなかなかノンビリ記事を書く気になれない世の有様です。

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日米首脳の顔を思い浮かべ、つくづく思うのですが、為政者がこれほどまでに学問や教養を蔑ろにし、むしろ、それを公然と嘲弄するなどということは、かつてなかったのではありますまいか。まあ、歴史は多様ですから、本当はあったかもしれませんが、現状はそれに伍すると思います。

他国のことはさておき、今の日本は「忖度」流行りだそうで、要は国を挙げて幇間曲学阿世の徒ばかりになってしまっています。そして、学を曲げて世におもねる男女が、かほどに横行するのは、為政者が学界と学者を目の敵にして、苛めまくっていることと、まさにオモテ・ウラの関係です。学問を軽視して国が栄えたためしはありませんから、為政者からすれば、これは自分の首を絞める行為のはずですが、そんなことは気にしないのが、無学の無学たる所以なのでしょう。

…とエラそうに言う資格はなくて、私もすこぶる無教養な人間ですけれど、少なくとも教養を重んじようという構えがある分、そこに少なからず違いがあるわけです。

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新潮選書に入っている、福原麟太郎氏『読書と或る人生』(1967)を読み返していたら、

 「〔…〕必ずしも、たのしみまたはくつろぎのためではなく、教養として読書をするということがあるはずである。たしなみのためと言ってよい。〔…〕そしてたしなみとして読んでおくというつもりで、読んでいるうちに面白くなって、たのしみに読む本と区別がつかなくなるなら、その人はすぐれた読書家である。」 (p.14、太字は原文傍点)

という一文があって、「たしなみ」という語に、虚を衝かれた思いでした。そして、これまた最近失われてしまった心組みだなあ…と感じました。

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「教養」という語には、ややもすると皮相な響きがあります。
人によっては、対社会的なアクセサリーのように受け取っている向きもあるかもしれません。でも、本来の教養は「たしなみ」であり、自分を支える根となるものでしょう。

教養がなくても、ちっとも困らない…という人もいます。それも真実かもしれませんが、でも教養がないと困るような生き方こそ「本物」じゃないかなあ…という気もするのです。真実を求める探求心とか、善く生きようとする倫理心とか、人が生きる上で、その根っこになるものはいろいろあるでしょうが、教養というのも、確かにその一つだと思います。


ちょっと眼を休めるものが欲しいと思って、庭に生えている植物を壜に活ける際、枝だけ切ってくるのと、根っこから抜いてくるのでは、結果がまるで違います。根のある植物は非常に強くて、何週間でも何か月でも、生き生きとしています。

根っこあるものは強い―。
教養もまたそうしたものでしょう。

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柄にもなくお説教口調になっているのは、福原博士の本を再読し、自省するところ甚だ大だったからです。

この本は、さっきアマゾンのマーケットプレイスを見たら、1円から出品されていて、ちょっとしょっぱい心持になりましたが、その気になれば、誰でも簡単に読めるのは良いことです。

福原博士は明治27年(1894)の生まれ。大正初年に東京高等師範学校に進み、戦前から戦後にかけて長く英文学者として、大学で教鞭をとられた方です。東京高師での師匠は、岡倉天心の弟である、岡倉由三郎(1868-1936)で、『読書と或る人生』には、そのことが再三出てきます。博士が亡くなられたのは昭和56年(1981)ですから、私がこの本を読んだ高校生の頃は、まだご存命だったわけで、そんな明治・大正の風が、私のところにまで細く、でも確実に吹いていたことを、ちょっと誇りに思います。

かつての大正教養主義の最良の部分が、この本には静かに満ちて感じられます。

豚供養2019年05月21日 18時09分53秒

豚コレラの終息が見込めません。

そもそも感染経路もまだ不明であり、考えられる対策をすべて施してもなお、新たな感染が発生している状況なので、あとは神頼みに近い感じもあります。巷間言われるように、感染の拡大に小動物が介在しているならば、それを完全に断つことは、確かに神業に近いかもしれません。

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豚コレラの防疫措置、すなわち殺処分の現場は、当然のことながら酸鼻を極めたものです。仔ブタたちは、密閉空間内で二酸化炭素を放出することによって、一度に多数が死に至ります。親ブタたちは、大型の枝切りばさみのような、両側から体を挟み込む形の通電器によって、電撃を3回ないし4回与えられて、最後に薬液注射によって、一頭ずつ絶命させられます。

電撃の際、全身がピンと筋強剛する様も恐ろしいし、通電がうまくいかず、その都度ブタが挙げる悲鳴(それは確かに悲鳴であり、絶叫と呼ぶに足ります)を聞いて、まったく平気でいられる人は少ないでしょう。そして、苦悶の色を目に残して、ずるずると袋に落とし込まれるブタたちの顔、顔、顔…。

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こう言うと必ず、

「じゃあ、お前さんが食ってる豚肉、あれはどうやって作られてるんだね?」
「どうせ豚コレラがなくたって、彼らはいずれ食われちまうんだ。今さら変に善人ぶってどうする。」

という声が出るでしょう。私の心の内からもそういう声が聞こえるし、それはロジックとして正しい気がするので、答に窮します。

「だから、そんな罪深い殺生はやめた方がいいんだよ。」

という肉食廃止論者の人もいます。
それもまた正しいような気がするのですが、でも私が仮に、野に生きる狩人か何かで、野生のイノシシを仕留めて、その場で屠って、肉を食べる場面を想像すると、そこに「むごい」という感情はあまり生じません。それが自然な生の営みの一部として納得されるからです。

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結局、私の感じる「むごさ」の奥には、生類憐み的な感情のみならず、食べるためだけに肥育し、増殖するシステムと、その効率の最大化を進める「巧緻な非情さ」への、素朴な反発があるのだと思います。

近代牧畜業に限らず、古来、牧畜(あるいは広く農耕)というシステムには、やっぱり素の自然からは遠い、不自然なところがあります。もちろん、ヒトが人となり、社会を築いたのはそのシステムのおかげですから、私もそれを否定はしません。否定はしませんが、でも、そこにこそ人の「業」があり、我々は、今後も永く「楽園を追われた存在」として生きていかねばならないことは、繰り返し反芻せねばならないと思います。

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ところで、殺処分の実際を見聞して、一つ奇妙な事実に気づきました。

ブタは、目の前で仲間が殺されても、またその悲痛な声を聞いても、ピクリとも反応しないのです。殺処分が行われているすぐそばの豚房で、何事もないように、ブタたちは餌をあさり、互いにつつき合い、眠っています。子供のころから、屠殺前の動物が、死の予感におびえて恐怖する…という話を耳にしていたので、ブタたちがそうした素振りを露ほども見せないことに、違和感を覚えました。

ただし、そんなブタたちが、唯一恐怖を示すことがありました。
他のブタの群れから引き離されることです。

上記のとおり、ブタたちは一頭ずつ「処分」されるのですが、その際、同房のブタたちから引き離されることを、彼らはひどく恐れ、激しく逃げまどいます。でも、一頭だけ別区画に追い込まれてしまえば、さっきまでの恐慌が何だったのか、何事もなかったように、また餌をあさり始めます。

そんなブタたちの姿に、今の日本人を重ねて、別の意味で恐怖を感じた…と書くと、シニカルに過ぎるかもしれませんが、でも、正直その思いを抑えかねました。

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まあ、私の余分な感想はともかく、その後、鹿児島県立博物館で見た説明文(家畜化に伴うブタの知能低下)を思い出して、ブタたちの振る舞いも大いに頷かれました。


確かに野生の状態でああだったら、とても生き延びることはできないでしょう。しかし、これまた人間の業の深さを物語る事実だと思います。

二つの『フラムスチード天球図譜』2019年05月18日 08時54分54秒

知っている人は知っているのでしょうが、私は今回初めて知った事実。

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ジョン・フラムスティード(John Flamsteed、1646-1719)の有名な星図帳、『Atlas Coelestis』(1729)は、日本でも翻刻され、『フラムスチード天球図譜』のタイトルで、現在も流通しています(恒星社厚生閣)。古風な星座絵に惹かれる風雅な人は、今も多いようです。

ただし、恒星社版『天球図譜』のオリジナルは、フラムスティードが手掛けた原本ではありません。1776年に、フランスのジャン・フォルタン(Jean Nicolas Fortin、1750-1831)が、新たに版を起こした縮刷版、いわゆる「フォルタン版」が元になっています。フォルタン自身はこれを「第2版」と称しました。フォルタン版は、原本の約3分の1のサイズで、絵柄も微妙に違うし、星座名の表記もフランス語になっているので、違いに目を向ければ、かなり違う本です。

(2つの『天球図譜』。左がフォルタン版、右がロンドンで出た原本。(C)G.M. Caglieris、2002。出典:On-line Flamsteed‐Fortin Atlas Celeste‐1776

…というのは、日本語版『天球図譜』にも解説があるので、よく知られた事実でしょう。ただ、私が知らなかったのは、その日本語版にも、2種類の判型があったことです。

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手元の本は、2000年発行の第3版ですが、その冒頭に1968年に記された「復刻版の辞」というのが載っていて、そこにこういう記述があります。

 「フラムスチード天球図譜は彼の歿後、1729年初版がロンドンで刊行され、1776年に第2版として、1/3に縮小してパリーで刊行された。この東京版はパリー版を原著としたものであるが、図面の大きさはほぼ初版の3/7とした。」

「パリー版」というのは、もちろんフォルタン版のことで、「東京版」とは恒星社版のことです。縮めたり大きくしたり、何だか分かりにくいですが、原本を基準にして分母を揃えると、フォルタン版は1/3=7/21、恒星社版は3/7=9/21のサイズですから、結局、恒星社版は元となったフォルタン版を9/7倍(約1.3倍)に拡大したものだと分かります。

ただし―、です。
このことは、1968年に復刻された現行の版にしか当てはまりません。「復刻版の辞」が言う「東京版」というのは、あくまでもこの復刻版を指していて、それ以前の旧版には当てはまらないのです。そのことは、上の記載からは読み取りがたく、私は旧版を手にして、初めて「ああ、そうだったのか」と思ったのでした。

(左・旧版、右・復刻第3版。旧版も本来カバーがかかっていたはずですが、手元のは裸本です。)

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日本語版『天球図譜』の書誌を、ここで整理しておきます。
大学図書館蔵書検索サービスCiNiiのデータを並べると、以下のようになります。

『フラムスチード天球圖譜』
○初 版 1943.7 恒星社刊
○再 版 1950.4 恒星社厚生閣刊 (以下同)
●復刻版 1968.8
●新装版 1980.8 (以下、『フラムスチード天球図譜』の表記に変更)
●新装版 1989.2
●第3版 2000.10

○印が旧版で、表紙サイズは高さ22cm(221p)、●印が新版で、同じく27cm(231p)と、サイズも頁数も拡大しています。以後、この1968年の復刻版が、カバーデザインを変えつつ、今も販売されているのです。

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すでに一部を引用した「復刻版の辞」には、こうも書かれています。

 「わが国において初めてこのフラムスチード天球図譜の翻刻版が刊行されてより25年を経過した。当時は諸般の状勢により、小社の意図を十分には満たすことができなかったし、以来久しく絶版状態で今日まで至った。然し現今のような時代こそ、グリニッジ初期の天文台を顧みることが好ましく、この図譜の復刻を求める声が、天文以外からも多い。因って小社はその要望に応え、かつ企画を新たにして本書を刊行した。」

要は、旧版はいろいろな制約から(戦時中の物資不足と出版統制のことでしょう)、思い通りの本に仕上げられなかった、戦後の復刻版こそ、我々が本来思い描いていたものなんだ…という力強い宣言です。

しかし、虚心に見た場合、私には旧版の方が好ましく感じられます。
それは単純な古物好きというのもありますが、何よりも旧版こそ、フォルタン版のより正確な翻刻になっているからです。

(旧版と現行版)

(旧版細部拡大)

旧版のサイズは、ほぼフォルタン版のままです。
かつて多くの人が手にし、星座への憧れをはぐくんだフォルタン版は、こんなにも可愛らしいサイズだったんだ…ということを実感するには、旧版を手にするのが早道です。それに、現行版は紙がツルツルだし、色も白すぎます。あまりにも古書の表情とはかけ離れているので、この点でも旧版に軍配が上がります。

(両者の紙の表情の比較)

(旧版は、星図の裏面がブランクになっています。現行版もそれは同じですが、ブランク面が糊付けされて袋綴じになっているため、ブランク面を目にすることはありません。)

そして、戦時下に1500部刷り上げた初版を手にすると、当時の出版人や天文人の苦労(それは実に大変な苦労だったはずです)がしのばれて、ひたすら「有り難い」気持ちになるのです。

(初版奥付)

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本が単なる資料にすぎないなら、こんなことを気にする必要もないのでしょうが、古書に求めるのは情報だけではありません。

人間は自身モノであり、限られた生しか持たないがゆえに、やはりモノとしての表情と歴史性を備えた古書に自分の「似姿」を見出し、強く惹かれるのでしょう。そして、そういう存在とでなければ、人間は良き友人関係を結べないんじゃないか…という気もします。

聖ドミニコの理科室2019年05月14日 06時15分08秒

奇瑞を得たので、さらに聖ドミニコにちなんだ絵葉書を載せます。

フランス東部・ブルゴーニュ地方に位置するディジョンの町に、かつてエコール・サン=ドミニクという学校がありました。ドミニコ会によって創設された女学校です。
下は、その理科室を写した絵葉書。時代は1900年代初頭でしょう。


何だか、やけに生徒が少ないですが、末尾に挙げた参照ページによれば、ここは大きな建物に生徒がわずか100人という少人数教育の学校だったので、これは演出ではなく、実景でしょう。


授業の方は、何やら化学の実験のようです。物質Aと物質Bを反応させて気体を取り出し、反応の前後で重さを比べて…とか何とか、そんな実験かもしれません。生徒たちの表情は、真剣なような、退屈なような、ちょっと微妙な感じです。

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ときに、英仏の理科室は早い段階から、物理・化学系の実験室と、博物(生物)系の実習室が分離している例が多いですが、ここは「Musée et Laboratoire(博物室 兼 実験室)」を名乗っているだけあって、日本風理科室のイメージに近くて、親しみが持てます。


ガラス棚には剥製と実験器具が混然と並び、まさに「ザ・理科室」の趣。


壁際の蝶の標本ケースも洒落ています。


【注】 エコール・サン=ドミニクについては、以下を参照しました。
 ■Saint-Dominique:Dijon en 1900

聖ドミニコの奇跡2019年05月13日 13時22分16秒



今日の主役はペガススではなくて、その下に見えるペン先ほどのメダイ

ちょっと毛色の変わったものはないかな?と棚を見ていて、昔買った小さなメダイを見つけました。メダイというのは、言葉としては「メダル」と同じものです。カトリックの信徒は一種のお守り感覚で、こういうのをロザリオなんかに付けて、そういうのを日本では「メダイ」と呼び分けるんだそうです。

畑違いのメダイを買ったのは、そこに鋳込まれた人物がちょっと天文と関係するからです。


このお坊さんは、ドミニコ会を作った聖ドミニコ(1170-1221)
彼は相当偉いお坊さんですが、なぜか天文家(astronomer)の守護聖人ともされており、天文趣味人として、ちょっとあやかろうと思ったわけです。

彼が天文家の守護聖人となった理由は、これを買った8年前には、ネットで調べても分かりませんでした。もちろん、当時も複数の人が話題にしていましたが、結論として「分からない」ということになっていたのです。

でも、さっき調べたら、海の向こうの「知恵袋」みたいなサイトに、その答を書き込んでいる人がいました(→リンク)。2017年7月の回答なので、やっぱりその後ネットに上がった情報なのでしょう。

(質問) なぜ聖ドミニコは天文家の守護聖人なの?
(回答) ドミニコが洗礼を受けたとき、彼の母親が霊夢(vision)を見て、1つの星が彼の胸に輝くのを見たらしいと言われています。

まあ、この回答もどこまで本当かは分かりませんが、そもそも守護聖人というのは、日本の様々な「守護神」と同様、その由来が曖昧なことも少なくないので、今はそういうことにしておきましょう。

「astronomer」を「天文学者」と訳すと、専門家だけのことになってしまいますが、これは広くアマチュアも含む「天文家」の意味ですから、星好きの人は、等しく聖ドミニコのたもとにすがってよろしい(はず)。


ちなみにメダイの反対側には、20世紀の奇跡「ファティマの聖母」が鋳込まれています。

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…という所で、記事を終えても良かったのですが、何か色を添えようと思って、上の「ファティマの聖母」の記事をしげしげ見ていたら、ファティマの町(ポルトガル)の3人の子供の前に聖母マリアが顕現した日こそ、他でもない5月13日でした。

もちろん、これは狙ったわけではなくて、単なる偶然です。
でも、偶然にも「意味のある偶然」というのがありますから、こういうことを経験すると、キリスト教信仰とは無縁の私にしても、何かギクッとするような、妙な心持ちがします。

月は球体なり2019年05月12日 09時28分37秒

一昨日につづき、今日も月のステレオ写真です。
ただし、その表情というか、意図するものはだいぶ違います。


前回の写真に漂うのは、ミスティックな月光と夜空の詩情でした。
今回の写真にみなぎるのは、望遠鏡が捉えた犀利な科学のロマンです。
しかし、意図こそ違え、そこにロマンのベールがかかっている点で、両者はともに天文趣味史を彩る品です。


月のステレオ写真もいろいろですが、自分としては今日の1枚がベスト。


写真も実にくっきりとしているし、何といっても地紙の鳶色と金文字のコントラストが、奥ゆかしくも鮮やかです。

発行元は、バーモント州ノースベニントンに本拠を置いた、ステレオ写真の老舗 H.C. White社。(余談ですが、こちらのページによると、1915年にホワイト社が廃業した際、同社保有のネガを買い取ったのが、ステレオ写真最大手のキーストーン社で、キーストーン社の製品のうち、品番がWで始まるものは、ホワイト社由来のものの由。)


この下弦の月を撮ったのが誰かは説明がありませんが、1905年、あるいはそのちょっと前に、1か月のインターバルを置いて、ほぼ同じ月相の月を撮影して並べたものです。


周縁部に注目すると、月の秤動(首振り運動)によって、嵐の大洋やグリマルディ・クレーターの位置が、明瞭に動いていることが分かります。これをビュワーで見ると、はっきりと球状に見えるのが面白く、そこに100年前の科学のロマンがほとばしるのです。

天文の世界史2019年05月11日 07時23分14秒

このブログで綴っているのは「天文趣味史」であって、「天文学史」ではないんだ…ということを、これまで折に触れて書いてきました。天文趣味史というのは、過去から現在に至るまで、人々が抱いてきた星への思いや憧れ、いわゆる“星ごころ”をたどる試みであり、学問としての天文学史とは少しく異なるものです。

でも、両者は当然からみあっています。

天文学に新たな展開があれば、人々の星ごころも変化するし、人々の星ごころは同時代の天文学をドライブする役割を果たしたように思います。…と理屈をこねるまでもなく、天文趣味に関心を示す者は、天文学そのものにも関心を示すのが普通なので、私の中でも、両者がサクッときれいに分かれているわけではありません。

そんなわけで、今日は「本当の天文学史」の話題です。

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先日、一冊の天文学史に関する本を手に取りました。
そして大きな驚きを以て読み終えました。


■廣瀬 匠(ひろせ・しょう)著
 『天文の世界史』
 集英社(インターナショナル新書)、2017. 

いったい何に驚いたか?
ここで敢えて問いたいですが、新書1冊で天文学の通史を書けると思いますか?
それも洋の東西を合わせた世界の天文学の通史を、ですよ?
それができるというのは、まったく想像のほかでした。

ネタバレになりますが、そこにはある巧妙な仕掛けがあります。

天文学の通史というと、国や地域別に天文学の発展を述べるとか、古代・中世・ルネサンス等の時代別に輪切りにして語るのが普通でしょう。でも、廣瀬さんの本は、そういう構成になっていません。

この本は、

 第1章 太陽、月、地球
 第2章 惑星
 第3章 星座と恒星
 第4章 流星、彗星、そして超新星
 第5章 天の川、星雲星団、銀河
 第6章 時空を超える宇宙観
 終章 「天文学」と「歴史」

…といった天体別の章立てになっていて、それぞれの対象の捉え方が、いかに時代を追って精緻になってきたかを記しています。と同時に、この章立てそのものが、実は人類の視野の拡大と、天文学の発展の骨格を示しています。上で言う「仕掛け」とは、このことです。

(同書目次より)

つまり、この本は最初に明快な見取り図を示した上で、そこから倒叙的に事態を記しているのです。従来の通史は、この見取り図が完成するまでの曲折を描こうとして、ボリュームが大きくなりがちでした(それもまた意味のある作業でしょう)。でも、廣瀬さんは、そこを大胆にそぎ落とすことで、大幅なコンパクト化に成功したのでした。

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この本が読みやすいのは、もちろんコンパクトだからというのもあります。

でも、それだけではない、生き生きとしたものが文章にあふれていて、読む者を引き付けます。それは廣瀬さんが、現在、スイスで研究と教育に携わる少壮天文学史家であると同時に、一人の天文愛好家でもあって、本書全体のベースに、これまでご自分で空を見上げ、ご自分なりに感じ、そして思索されてきたことの集積があるからでしょう。つまり、文章によく血が通っているのです。

さらに、「天文ソムリエ」としての経験も、込み入った知識を分かりやすく伝える上では、大いに役立っているのだろうと、私なんかが言うのは甚だ僭越ですが、そんな風に思います。

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廣瀬さんとは、以前、ラガード研究所の淡嶋さんと一緒に食卓を囲んだことがあります。のみならず、我が家においでいただき、いろいろなことを教えていただきました。だからといって、私には提灯記事を書く理由も意思もないので、上に記したことは、全て私がそのまま感じたことです。

星に興味がある方、その背後に刻まれた人間精神の旅路に興味がある方に、広くお勧めしたい一冊です。

湖上の月2019年05月10日 21時53分26秒

連休明けのウィークデイ。
身体はしんどかったですが、仕事を終えて夕暮れの町を歩いていると、うっすらとした新月が徐々に光を増していく様が、美しく眺められた一週間でもありました。

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意識的に集めているわけではありませんが、月光を感じさせる絵葉書や幻燈スライドを、つい買ってしまいます。これもそんな流れで手にした、月光派のステレオ写真。米イリノイ州の人から買いました。

メーカー名の記載がどこにもないので、たぶん当時(1900年頃)の写真マニアが手作りした品でしょう。右下にペン書きされた文字は、「Moonlight on the Lake」


それにしても、いかにも謎めいた光景です。

オールを手にした白衣の女性と、黒い影法師のような男性を乗せて、ボートは静かに進みます。辺りには幽かな水音と、オールのきしむ音だけが響き、空には透明な光を放つ満月と星たち―。

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この写真をビュワーで覗いたらどう見えるかですが、ステレオカメラで撮ったと思しい湖上の景色は、さすがに立体的に見えます。でも、手描きの星や月は左右が融合せず、ダブって見えます。まあ手作りですから仕方ありません。

(裏面に押された“E. R. DAVIS/BIRD PHOTOGRAPHE[R?]”のスタンプ)

これを作ったのは、「鳥の写真家」を名乗る心優しいデービス氏。
…と言って、デービス氏が何者なのか、彼が本当に心優しいかどうかは、私にも分かりません。でも、彼が堂々たる月光派であることは間違いないでしょう。

彗星のメロディ2019年05月08日 21時36分52秒

彗星のアイテムを漫然と探していて、こんな品を見つけました。


「コメット・ラグ」。1910年にボストンで出版された楽譜です。作者はEd. C. Mahony。
探してみたら、ずばり「ハレー彗星ラグ」というのもあって、いずれもハレー彗星の接近を当て込んで作られた曲のようです。

(こちらは未入手)

「ラグ」というのは、「ラグタイム」の略。
19世紀末から20世紀初頭にアメリカで流行った、陽気で明るいアップテンポなピアノ曲がラグタイムで、時代的にはジャズに先行し、その淵源の一つになったと言われます。スコット・ジョプリンの「ザ・エンターテナー」というのが、たぶん一番有名な曲で、聞けば誰でも「ああ、あれね」と思うはず。(YouTubeだと、例えばこちら


それにしても、この彗星のラグたち、いったいどんな曲なのか?
いかんせん楽譜が読めないので、さっぱりです。

…ここで、ふと思いついて検索したら、果たして「コメット・ラグ」も「ハレー彗星ラグ」も両方ともYouTubeにアップされていました。便利な世の中です。

■Comet Rag by Ed Mahony (1910, Ragtime piano)

■Halley's Comet Rag by Harry J. Lincoln (1910, Ragtime piano)

この陽気さも、ハレー彗星騒動の一側面ですね。
個人は知らず、世界に目を向ければ、そこにパニックなどなかったということは、重ねて強調しておく必要があります。

白瀬詣で(後編)2019年05月05日 14時27分31秒

(2連投のつづき)



白瀬中尉の墓碑。「南極探検隊長/大和雪原開拓者之墓」と刻まれています。揮毫したのは元侍従長の藤田尚徳氏。



側面に彫られた戒名は「南極院釈矗徃(なんきょくいんしゃくちくおう)」

「矗徃」とは「まっすぐにゆく」という意味のようです。なお、隣に並ぶのは、昭和26年(1951)に亡くなった安(やす)夫人の戒名。反対側の側面には、「昭和三十三年九月四日/吉良町史跡保存会建之」の文字があります。

 

今の豊田市で亡くなった白瀬中尉が、この地に葬られたのは、中尉が亡くなった翌年、次女である武子氏がこの地の中学校に勤務することになり、安夫人も遺骨を携えてここに転居したからです。その後、安夫人も亡くなったため、武子氏はここに遺骨を仮埋葬して東京に転居した…ということが、傍らの説明文には書かれています。




墓碑の向って左手に立つ「白瀬南極探検隊長墓碑建立の由来」碑と、その銘文。


これを読むと、昭和32年(1957)に郷里から親戚が訪ねてくるまで、ここが白瀬中尉の墓だとは、本当に誰も知らなかったみたいで、やっぱり不遇な晩年だったと言わざるを得ません。(今のように墓域が立派に整備されたのは、「ふるさと創生事業」の余得で、あの悪名高いばらまき事業も、ちょっとは世の役に立ったみたいですね。)

 

参考資料として、境内にある他の案内板の文面も掲げておきます。


(白瀬矗隊長略歴)


(南極観測船「しらせ」スクリューの解説)


(オーストラリア・ウラーラ市にある記念銘板の紹介)


なお、瀬門神社は「西林寺」という小さなお寺と隣接しており、最初の埋葬地は、上の説明文にあるようにお寺側だったようですが、現在はそれが神社側に移っているように読めます。


(西林寺山門)

 

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白瀬中尉は南極点に立つことはなかったし、その足跡も大陸の端っこをかすめただけかもしれません。でも、彼はたしかに英雄と呼ぶに足る人物です。

 

そのことは、もしアムンゼンやスコットが、白瀬中尉と同じ装備・同じ陣容で南極に挑んだら、どこまでやれたろうか…と考えるとはっきりするのではないでしょうか。

 

試みにその旗艦を比べても、スコット隊の「テラ・ノヴァ号」は、全長57m、総排水量764トン、エンジン出力140馬力。アムンゼン隊の「フラム号」は、同38.9m、402トン、220馬力。対する白瀬隊の「開南丸」は、同33.48m、199トン、18馬力に過ぎません(数値の細部は異説もあります)。

 

一事が万事で、スタートラインがはなから違うので、彼らと比較して云々するのは、中尉にとっていささか酷です。

 

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5月の木漏れ日はあくまでも明るく、緑の風がさわやかに吹いていました。

その中で、中尉が心穏やかに憩っているように感じられたのは、これまた感傷の一種には違いないでしょうが、陰々滅々としているよりは何層倍もいいです。