タルホ的なるもの…黒猫の煙草2016年05月24日 06時25分33秒

そういえば、京都に行く前、足穂でひとしきり盛り上がっていました。
いつもの理科趣味や天文趣味の話題に戻る前に、もうちょっとタルホ界を徘徊してみます。

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足穂の『一千一秒物語』には、「黒猫のしっぽを切った話」というのと、「黒猫を射ち落した話」というのが載っています。

前者は、黒猫をつかまえて尻尾を切ったら、キャッという声とともに、尾の無いホーキ星が逃げていくのが見えた…という話。後者は、何か頭上を逃げるものがあるので、ピストルで撃ったら、ひらひらとボール紙製の黒猫が落ちて来た…というもので、足穂氏は黒猫をずいぶん虐待しています。そして、虐待しつつも、やっぱり愛していたようです。

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下は、鴨沢祐二さんの「流れ星整備工場」の1ページ。
連れだって歩くのは、例によってクシー君と親友のイオタ君。

(初出は「ガロ」1976、『クシー君の発明』1998所収)

「そういえば、煙草がほしいね。」
「うん、一箱買おう。」

「≪黒猫≫なんて聞いたことないね」
「でもリボンがしゃれてる」

二人が愛煙家になったわけは、シガレットのボール紙製パッケージが、チョコレートのそれよりもずっと素敵で謎めいているから。

二人はこのあと、黒猫の導きで、謎の「アナナイ天文台」を訪ね、キセノン博士から同じ煙草を勧められます。


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この黒猫の煙草は、実在のブランドです。


スペイン貴族のドン・ホセ・カレーラス・フェレールが、19世紀にロンドンで興した「カレーラス煙草会社」が売り出したもので、その物語はWikipediaの「カレーラス社」の項に詳しく書かれています。


その冒頭部の適当訳。

「ブラックキャット」は、今や世界中で売られている煙草の銘柄だが、この名前はささいなことから広まった。その元となった黒猫は、ごくふつうの飼い猫で、ドン・ホセのウォーダー・ストリートの店の窓辺で、いつも何時間も丸くなって眠っていた。まだ20世紀になるずっと前の話である。

この猫が通行人にすっかり馴染んだおかげで、ドン・ホセの店はやがて「黒猫の店(black cat shop)」として知られるようになった。ドン・ホセは、この猫を会社のシンボルにしようと思いたち、1886年、黒猫はカレーラス社の最初の商標として登録された。

その後、この猫は「ブラックキャット」の包装デザインの一部となり、「JJC(Don José Joaquin Carreras)」のイニシャル上に、黒枠付きの白丸の中に描かれるようになった。
そして1904年、「ブラックキャット」は、イギリス最初の機械製造式タバコの1つとして発売された。



…というところから、黒猫の物語は始まり、その後、カレーラス社の巧みな商策もあって、20世紀はじめには一大黒猫ブームが起こり、ファッションにまで影響を及ぼした…というようなことが、上の記事には書かれています。

(パッケージの裏)

煙草のパッケージ・デザインは何回か変わっていますが、クシー君愛用の上の品は、1930年代頃のもの。

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冒頭に載せた足穂氏の2作品では、黒猫はいずれもパッと煙を上げて姿を変えることになっていて、現実世界でも、タルホ界でも、黒猫には煙がお似合いのようです。

Q堂にて…金銅片喰蠍虫法具(こんどうかたばみかっちゅうほうぐ)2016年05月22日 11時34分12秒

今日は東京赤坂蚤の市で、「博物蒐集家の応接間」が開催される日です。
 奇にして怪、妖にして美夢にして幻
そんな博物蒐集家秘蔵の品々が、赤坂のアークヒルズに並び、今まさに人々の驚きを誘っていることでしょう(時間は午前11時から午後5時までです)。

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あれ、Qさんは赤坂には行かないの?

やあ、いらっしゃい。どうも、このところ仕入れに忙しくてね、赤坂の話もずいぶん迷ったけど、今回は見送った。ところでTさんのブログ、ちょっと抹香臭い話が続いたね。

うん、やっぱり京都に行くと、どうしてもね。まあ、曼荼羅だ何だの話は、Qさんには縁遠いだろうけど。

いや、そうでもないよ。実は、こないだ妙な品を見つけてね。Tさん、抹香臭いの好きだから、こういうの詳しいんじゃない?


何、これ?これはこのままでいいの?ひょっとして、壁に掛けて使うとか?


いや、ちゃんと下に脚が付いてるから、こうやって置いて使うものだと思う。

全体の雰囲気は仏具っぽいね。

だろ? 僕も最初は密教法具の類とアタリを付けたんだけど、いくら本を調べても、出てこないんだ。

へえ、何となくありそうだけどね…。あ、そうだ!ヒーリングの店とか行くと、今出来のチベット密教の法具とか売ってるじゃない。存外、ああいうのに時代付けしたものとか?

はは、僕だって商売柄、抜かりはないさ。そっち方面もさりげなく調べたけど、やっぱり手がかりはゼロなんだ。正体不明のものを売るのも嫌だから、結局そのままにしてある。


何だか謎めいてるね。でも、この蓮弁ぽいのは、明らかに灯火具だよね。


で、この蕪型のは水瓶(すいびょう)っぽいし、


左右の筒に小穴が開いてるのは、ここに香具や供花具を取り付けたんじゃないの?
…となれば、やっぱり仏教関係か。

Tさんの見立ても同じか。で、ほら、こうして並べると、蓮弁の両腕と、左右の筒の小穴の幅がほぼ一致するんだ。ここにも何か意味がありそうで。


なるほどねえ。…ところで、これ、材質は何なの?

金銅…と言いたいとこだけど、真鍮かもしれない。ほら、裏返すと、まだ金味が新しいだろう?

(ハート形の最大幅は 10.5cm、前後長は約11.2cm)

あれ、これネジが切ってあるね。



うん。そこが時代判定のポイント。この品が日本製としての話だけど、日本でネジ切りが始まったのは、火縄銃なんかを除けば、江戸も後期からだから、これもそんなに古い品のはずがないんだ。明治以降かもしれない。


こうやって回してやれば、簡単に外れるよ。サソリの方も、ほら。

(長さは約5.5cm)

(裏面。半身に緑青が出ています)

サソリはネジ式じゃないんだ。

いや、それは僕の仕業。このサソリだけでも売り物にならないかと思って、取り外すとき、ネジの先を切っちゃったんだ。ちょっと早まったかな。

Qさんも、案外「文化の破壊者」だね(笑)。


それにしても、サソリかあ…。サソリの存在が、この品の最大のポイントだろうけど、サソリと仏教というとどうなんだろう、天蝎宮を祀る星宿信仰に関わる品とかかなあ…

だったら、よっぽど珍しいものだし、Tさんが「天文古玩」の棚に並べてもいいじゃない。それにほら、『銀河鉄道の夜』で、自分の罪を悔いたサソリが、天に昇って真っ赤な炎で周囲を照らす存在になった…っていうくだりがあったよね。

Qさん、いつもながら商売が上手いね。そんなこと言われたら、買わないわけにいかないじゃない。うん、天から届いたサソリの形見としてもらっておくよ。でも、本当に正体が分かったら教えてよ。金を返せとは言わないから。

(笑)了解。毎度おおきに。

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というわけで、上の二人は納得づくの取り引きをして、めでたしメデタシ。
でも、現実世界で私がこれを買ったのは、もう20年以上前ですが、正体はまったく不明のままです。ぜひ博物蒐集家の皆さんの知識と知恵で、その正体を明らかにしていただき、私の迷妄を晴らしていただけないでしょうか。

天台の星曼荼羅2016年05月21日 15時43分40秒

そういえば以前の記事で、星曼荼羅には2つの類型があることに触れました。

■星曼荼羅 (その3)
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/29/6525631

(上の記事より画像再掲)

それは、上の画像に写っているように、諸天・諸仏を円形に配置しているか、方形に配置しているかの違いで、大雑把に言うと円形のものが天台宗、方形のものが真言宗で用いられる星曼荼羅です。

上の画像で、左側のは天台宗・延暦寺旧蔵の品で、「方形は真言宗」という説明と食い違いますが、これはたまたまです。また右側のは法隆寺の蔵品で、法隆寺というと真言宗とも天台宗とも関係なさそうですが、法隆寺ぐらい歴史の長い寺になると、後世いろいろな要素を採り入れて、中世には密教もなかなか盛んでしたから、こういう品も必要とされたわけです。

今に残る星曼荼羅の遺品は、方形のものが明らかに多く、これは真言宗では各地の寺々で星供養の祭儀を行なったため需要が高く、当然制作数も多かったためでしょう。

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そんなわけで、円形星曼荼羅の古物を手元に置くことはハードルが高いです。


これは取りあえず参考として見つけた品。
上の法隆寺の曼荼羅を手本にした、現代における写しで、仏画を扱っている店では今も売られていると思います。


色彩が鮮やかすぎて落ち着きませんが(むしろサイケデリックです)、法隆寺の曼荼羅も12世紀後半に制作された当初は、きっとこんな風だったのでしょう。あるいは、この品だって、これから100年も煙に燻されたら、落ち着いた趣が出るかもしれません。


一応肉筆ですが、絵の巧拙でいうと、素人目にもちょっときびしい気はします。
しかし、いずれにしても私にはこれを掛けてどうする当てもありませんし、改めて思うと何のために買ったのか、ものが仏画だけに罰当たりな気もします。

それでも、この絵のおぼろな記憶が、私を今回叡山に導いてくれたのかもしれず、これもまた仏縁であり、大師の御旨と申すべきやもしれません。

京都へ(3)…比叡山詣で2016年05月20日 20時47分46秒

昨日書いた、「これまで行ったことのない場所」とは、比叡山延暦寺のことです。
お寺の話題は、このブログと関係ないように見えますが、以前、密教の星曼荼羅の話題もあったし(http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/07/27/6523362)、しばらくお付き合いください。

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比叡山は、近江と山城の国境にあり、山頂の手前では京都市街を一望でき、山頂を超えると、こんどは琵琶湖を一望できます。京都と琵琶湖って、意外に近いんだな…という発見がありましたが、まずは京都から順を追って叡山に向うことにしましょう。

京都側から叡山に入るには、バス利用の手もありますが、今回は電車を使いました。
出町柳は叡山電鉄の始発駅で、ここから終点「八瀬比叡山口」の駅に向かいます。


この大正チックな駅舎がとても良くて、駅舎内の天井の構造が実に洒落ていると、天井好きとして嬉しく思いました。


しかし、ここは文字通りとば口で、ここからケーブルカーに乗り替え…

(帰途に撮影したので、これは下りの光景です)

さらにロープウェーに乗り替え…

(京都の街を振り返ったところ)

やっとのことで山頂に着いたところで、さらにバスに数分揺られて、ようやく天台宗の総本山、比叡山延暦寺にたどり着きます。

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この日の境内は山霧が横走りし、月曜日で参拝客も少なかったせいで、いやが上にも霊峰ムードが漂いました。


これが国宝「根本中堂」。
建物自体は江戸初期の再建だそうですが、その仏前に掲げられた灯火は、宗祖最澄の時代から不断に燃え続ける「不滅の法灯」で、その前で延々と護摩を焚き、陀羅尼を念誦する僧侶を目の当たりにすると、何やら山霊の気に感応し、見えないものが見えてくるような気になります。

そして、根本中堂を出たところで見たのが、このブログに縁浅からぬ賢治の歌碑。



「根本中堂」と頭書して、賢治はこの地で以下の歌を詠んでいます。
  
  ねがはくは 妙法如来 正徧知
  大師のみ旨 成らしめたまへ

(歌碑の手前に立つ銘文)

平成8年に歌碑が建立された際、賢治の弟である宮澤清六氏が、その由来を記していますが、それを読むと、賢治が父親に誘われて叡山を詣でたのは、大正10年(1921)4月のことです。

清六氏の文章は、抑えた筆致で当時の状況を記していますが、その頃の賢治は「日蓮かぶれ」が著しく、どう贔屓目に見ても、親泣かせのそしりを免れない時期でした。いっぽう父・政次郎の賢治への接し方は立派だったと思います。この父子の叡山詣での道行きを思うとき、私はむしろ政次郎に感情移入して、ちょっと涙ぐましい思いに駆られます。

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そして、賢治の歌碑の脇には、偶然にも「星峰稲荷」がありました。
鳥居をくぐり、ちょっと上がったところに、ひっそりとその社殿があります。



これまた星に関係ある話で、少なからず奇縁を感じました。

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そして、星といえば、「天台って、ちょっと天文台に似てるな。でも“天台”って、そもそもどういう意味だろう?」という疑問が、ふと頭をよぎりました。
以下、例によってパパッと調べたことを記します。

天台宗とは、いうまでもなく最澄(767-822)を開祖とする日本仏教の宗派ですが、元は中国の天台宗(天台教学)を移入したもので、「天台」の名は中国に由来するものです。

その中国の天台宗は、天台大師・智顗(ちぎ、538-597)を実質的開祖とし、最澄はその法統の末に連なる者。そして、智顗が「天台大師」と称されるわけは、中国浙江省にある霊山「天台山」で活動を展開したからで、天台山でその教義を確立したゆえに「天台宗」と称するわけです。

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結局、「天台」とは地名であり、山の名です。

で、「天を望む高台」だから「天台」と名付けられたのだろう…と、最初は単純に思いましたが、そこにはさらに奥があって、もし仮にそういう意味だったら、旧字では「天臺宗、天臺山」と書いたはずですが、事実は最初から「天台宗、天台山」であり、「天台」とは実は「天を望む高台」という意味ではありませんでした。

事の真相は、天台宗の若手僧侶の団体である「天台仏教青年連盟」のWEBページに、分かりやすく書かれていたので、その一部を引用させていただきます。

■「天台宗」という名前の意味:天台仏教青年連盟
 http://tinyurl.com/zqrvfqk

 漢和辞典を開いてみると、「台」にはもともと「臺」と「台」の2字があったと記されています。台地や縁台・台所などの「台」の本字は「臺」なのです。そして、「臺」ではない「台」とは星のこと、上台・中台・下台の三台星(さんたいせい)、三ツ星のことなのです。今は「台」も「臺」もどちらも「台」と書くので混乱してしまいますが、天台の「台」は星の名前、天(そら)に輝く星というちょっとロマンチックな名前を持つ天台宗なのです。

 天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説がありました。地上で最も神聖な場所だということです。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星は大熊座の一部と推測されています。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるというのです。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものです。そして、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教え、すなわち天台宗なのです。

----------------(引用ここまで)-----------------

要するに、天台とは星の名に由来し、その真下にある山だから「天台山」というわけです。

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ここで、連想は再び「星峰稲荷」に戻ります。
まだ「天台」の原義が人々の脳裏にあった頃、この霊山を「星の峰」という美称で呼んだ時期があったのではないでしょうか。


星峰稲荷の由来書きには、そこまで書かれてはいませんでしたが、地名は土地の記憶を伝える、最も確かなものですから、ひょっとして…と思います。
この件は、もう既に書かれたものがあるかもしれませんが、私なりに思いついたこととして、ここに記しておきます。

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さらにまた、中国の天台山のことをウィキペディアで読んでいたら、宗祖・智顗(ちぎ)が天台山に開いた「天台山国清寺」(旧名は天台寺)の項に、「天文学者としても有名な僧一行がこの寺で活動したため、境内に一行法師の碑や塔がある」という一文があるのを目にしました(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%B1%B1%E5%9B%BD%E6%B8%85%E5%AF%BA)。

一行という人のことも不案内だったので、そのままリンク先(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%A1%8C)を読みに行くと、

 一行(いちぎょう、いっこう、諡号:大慧禅師、683年‐727年)は、中国の唐代の僧であり、天文学者でもある。俗名は張遂則で、大衍暦を編纂した。〔…〕それまで使用されていた麟徳暦が日食予報に不備があるため、梁令瓚と共に黄道游儀や水運渾象(水力式天球儀)を作成して天体観測を行い、更に南宮説と共に北は鉄勒から南は交州に至る大規模な子午線測量を行って、緯度差1度に相当する子午線弧長が351里80歩(約123.7km)という結果を算出し、それらの観測結果に基づいて『開元大衍暦』52巻を作成した。

要は、中国の渋川春海みたいな人で、その千年前の大先輩というわけです。

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そんなこんなで、「天台」と「天文台」は直接関係ないにしても、この地は確かに星とかかわりがあり、今回の比叡山詣では、このブログの趣旨からそう外れるわけでもないようです。

星に導かれ、古い天球儀に惹かれて京都を訪ね、その足で叡山に登ったことは、何か偶然以上のものが作用したのかもしれません(作用しなかったかもしれません)。

(僧侶が受戒する戒壇院)

京都へ(2)…Lagado研究所のこと2016年05月19日 20時40分31秒

京都に行けば、どうしてもLagado研究所に行きたくなります。
そして店主の淡嶋さんの顔を見れば、心底ホッとします。

Lagado研究所には、いつだって不思議なものがあふれています。
ひしめく天球儀や地球儀。ひび割れた古いボール。
昭和なカップアイスの容器。草木の種子。毀れた小像。

民芸関係の人は、機能美や「用の美」ということを盛んに言いますが、ここにあるのは「モノから機能が消えてゆく過程の美しさ」であり、いわば「無用の美」です。

淡嶋さんは、そうした世界の断片を研究所の棚に並べ、その由来を問われれば、一つひとついかにも嬉しそうに話して聞かせてくれます。でも、そこには私が上で述べたような小理屈がさしはさまる余地はなく、やっぱりこの店でいちばん不思議な存在は、淡嶋さん自身だなあ…と、いつも思います。

自己が確立している。 と同時に無私である。
これはなかなか達しがたい境地で、淡嶋さんの周囲に、自然と人が集まる理由もよく分かります。

先日の訪問の際も、思わぬ先客がいました。
スチームパンカーを名乗るRudgerさんで、Lagado研究所では、すっかり馴染み客のようでした。世俗の物差しでいえば、彼はまだ中学生の少年なのですが、その豊かな好奇心とエネルギーは、本当に羨ましいと思いました。

Rudgerさんは、これからスチームパンクという窓を通して、あるいは更にそれを超えて、この世界の不思議を我が物とされていくのでしょう。ぜひその旅路が平安で、豊かな発見を伴うものでありますように…。

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この日は、淡嶋さんの本業であるゲストハウス(淡嶋さんが京都で旅客相手の宿を始められたのは、Lagado研究所をオープンされる前のことです)に初めて泊めていただきました。

素泊まりいくらという、気のおけない宿ですが、その玄関に入った瞬間からこう↓ですから、何というか、こちらもLagado的な息吹には事欠きません。

(ゲストハウス・トンボ http://ton-bo.boo.jp/

この巨大な星座早見盤は、おそらく昭和30年代、小学校の理科の授業で使われたらしい大珍品で、私自身も物欲がうずきましたが、でもこれはここにこうしてあるから良いのでしょう。


宿の中もこんな具合です。
ここは間違いなく天球儀と地球儀が日本一多い宿屋だと思います。
(下段に並んでいる建築模型は、以前宿泊した(たしか)フランスの人が作って置き土産にしたものだとか。)

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この日の夜は、以前から行きたかった島津の旧本社ビル、現在の「フォーチュンガーデン京都」に行き、食事を済ませました。


食事の友はブルームーン。

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(左下の地図は、左が北に描かれています)

淡嶋さんのゲストハウスは、出町柳の駅近く、ちょうど鴨川と高野川が合流する、いわゆる「鴨川デルタ」のそばにあります。


翌朝散歩した川べりの景色は、まさに山紫水明。


鴨川の鴨。
…と言いたいところですが、この鴨は高野川の方に憩っていました。

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この日は月曜日なので、博物館や美術館は軒並み休みで、どこに足を向けるか思案に暮れましたが、せっかくの機会なので、これまで行ったことのない場所を訪ねることにしました。

(この項つづく)

京都へ(1)…同志社大学にて2016年05月18日 06時37分14秒

5月の京都へ行ってきました。
同志社大学で、6月25日まで開催されている新島襄の見た宇宙」展を見学し、併せて記念講演会を聞きに出かけるためです。このイベントについては、先日もご紹介しましたが、会場は同大学のクラーク記念館です。


この瀟洒な明治建築の中の静かなチャペルで、日本の天文学史の意外なエピソードに耳を傾けたのでした。


元洛東高校教諭の西村昌能氏による講演は、同志社の創設者・新島襄と、「少年よ大志を抱け」でおなじみのクラーク博士の、天文学を介した結びつきを解き明かす内容で、それだけでも興味深いものですが、さらに両者の接点が「隕石」だったと聞けば、これは大いに好奇心をそそられます。

なぜ隕石か。
クラーク博士は札幌農学校の礎を作り、マサチューセッツ農科大学の学長も務めた人ですから、専門は農学と思いきや、そもそもドイツで学位を取った際の研究は、隕石の化学分析であり、新島襄に対しても、日本で発見された隕石の資料提供を求める手紙を書き送っていた…というのが、講演会のひとつの聞きどころでした。

地球外生命探査というと、何となく最先端の研究テーマのように聞こえますが、地球外生命の存在は、これまで肯定と否定の歴史を繰り返しており、クラーク博士の頃は、肯定的意見が強い時期で、博士の研究も、隕石中の有機物を定量分析することに主眼があったそうです(クラーク博士の場合、生命の遍在に対する信念は、キリスト教的背景があったのかもしれません)。

さらに西村氏の講演は、新島襄の天文学の研鑚の跡をたどり、アメリカ留学時代のエピソードを紹介し、隕石学の歴史へと説き及び、明治天文学の多様な側面が、そこでは語られました。

(チャペルの天井)

西村氏に続き、講演会の後半は、元同志社大学教授の宮島一彦氏による、新島襄旧蔵の天球儀の話題を中心とした、東西の天球儀に関する講演でした。

新島の天球儀というのは、元禄14年(1701)、おそらく渋川春海の星図を元にして作られたもので、元の作者は不明ですが、新島が岡山の骨董店で見つけて買い入れたという由緒を持つ品です。

日本製天球儀といっても、当時の星座名は、中国のそれをそっくり踏襲しており、赤・黒・金に塗り分けられた星々の間を、金箔散らしの銀河が流れ、その現物は講演会後に実見しましたが、作行きも保存状態も良い、実に美しい紙張子製の品です。

ここで「赤・黒・金」というのは、中国星座には古来三系統あることに対応するもので、それぞれ魏の石申、斉の甘徳、殷(商)の巫咸が設定したものとされます。
渋川春海は、そうした伝統的な中国星座に加えて、オリジナルの星座も設定しており、通常それは「青」で図示されるのですが、この天球儀にはそれが表現されていないことから、この天球儀の成立事情がうかがえる…ようなのですが、詳細は今もって不明のようでした。

新島がこの天球儀を、いつ、何の目的で購入したかも、今となっては不明ですが、彼が西洋の天文学だけでなく、東洋天文学にも関心を向けていたことは、大いに注目されます。

なお、新島の天球儀は固く撮影禁止で、ネット上でも画像が見当たりません。
唯一、同志社大学図書館のトップページ(↓)にその部分図が、今日現在載っていますが、これは定期的に差し替えられているかもしれないので、詳細を知るには現物を見るしかありません。お近くの方はぜひ。(繰り返しますが、展示は6月25日までです。)
http://library.doshisha.ac.jp/img/index/main.jpg

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上記の天球儀を含め、「新島襄の見た宇宙」展の会場は、クラーク記念館の隣のハリス理化学館です。


同志社では創立当初から天文学の講義が行われ、この明治23年(1890)竣工の建物にも屋上に天文台が設置されていた…というのは、たいへん興味深い点で、これは新島が学んだアメリカ流リベラルアーツの伝統を継ぐもの、すなわち「教養」として、天文の知識を重視したことを示すものでしょう。

(ハリス理化学館同志社ギャラリーのリーフレットより。創建当時のハリス理化学校。屋上の八角形の構造物が天文台)

日本の天文学史というと、東大があって、京大があって、官製の天文台があって…というところに記述が集中しがちですが、それとは別に、こういう流れもあったことは、特筆すべきことと思います。

ただし、たいへん残念なことに、この同志社の天文台は、明治24年(1891)に起きた濃尾地震によってその安全性を危惧され、早くも明治26年(1893)に撤去されてしまいました。今は天文台へと通じる、らせん階段がのこされているのみです。

(この上は屋根裏部屋に通じ、今は物置のようになっているそうです)

(外から見た階段室)

こうした教育が日本でも根付いていたら、その後の歴史はどうなっていたろう…と思いますが、でも当時の諸条件を考えると、やっぱり難しかったのかなあ…とも思います。

(ハリス理化学館正面。1889の年号と「SCIENCE」の文字。)


(「タルホ的なるもの」は小休止して、京都の話題を続けます。次回は再びLagado研究所へ)

タルホ的なるもの…星に煙を2016年05月14日 19時54分40秒

タルホ界を徘徊し、ちょっと草臥れたので、この辺で一服つけましょう。

(画像再掲)

これまで何度か顔を出している「STAR」シガレット。
これをふかそうと思うのですが、ちょうどいい相棒を見つけました。


「STAR」マッチ。


こういうのを何て言うんですか、似た者夫婦、好伴侶、ベターハーフ…
箱だけのシガレットに、ラベルだけのマッチは、確かに好一対です。

見えないマッチで、見えない焔をともし、
見えない煙草をくわえて、見えない煙を吹く…
タルホ界では、さして珍しいことではありません。

(明日・明後日は小旅行に出るので記事はお休みです。)

タルホ的なるもの…続・都会の月2016年05月13日 21時40分58秒



米イリノイ州・ロックフォードの夜。
1920年代の絵葉書です。

これぐらいの町並だったら、足穂氏も現実の神戸や東京で親しんでいたでしょう。
そして、月は摩天楼ばかりでなく、こういう小づくりな都会にもよく似合います。


海底のように暗い街路。
鮮やかなスパークを飛ばして揺れるボギー車。
ヘッドライトの光錐とともに走り抜ける自動車。
黒く謎めいたシルエット。

こういう場面は、いかにもタルホ的だなあと思います。


この絵葉書、よく見ると、網版のモノクロ写真に雑な手彩色をほどこして、無理やり夜景に仕立てたものと分かります。
画面全体に漂う「書き割り」めいた雰囲気もそのせいですが、その人工性やウソ臭さが、またタルホ的です。


虚構の夜を照らすニセモノの月。
ここから油断のならないドラマが、ゆっくりと幕を開けるのです。

タルホ的なるもの…都会の月2016年05月12日 22時12分54秒

時は、
ところは、都会(まち)
登場人物は、月、彗星、土星
あるいは飛行機乗り、オートバイ乗り、マジシャン、それに黒猫―

彼らがバーでグラスを傾け、闇を徘徊し、シガレットを口にすれば、私のイメージするタルホ界は、容易に成立します。

まあ、これはベタな『一千一秒物語』的世界というか、ステロタイプな足穂理解だと思いますが、それだけに強固なものがあって、足穂氏が見せるさまざまな顔の中でも、今に至るまでいちばん人気のある顔でしょう。そして、やっぱり「カッコイイ」です。

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そんなわけで、今や摩天楼に浮かぶ月を見ただけで、反射的にタルホ的ストーリーが思い浮かびます。


月のニューヨーク2景。
手前のモノクロは1900年代初頭、奥のカラーは1920年代の絵葉書です。


20年間で、街のスカイラインはかなり変わりましたが、いずれも同時代の日本では考えられない景観で、さしもの足穂氏にとっても、幻の都のように思えたかもしれません。

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例の『一千一秒物語』には、「ニューヨークから帰って来た人の話」というのがあって、下がその全文。


「このへんな話も ほんとうにあったことか? それともうそであるか? それは何ともわからないのである――」

たしかにさっぱり分からない話です。
あるいは、ニューヨークの高楼で火星の写真を撮ろうとすること自体、日常に亀裂を入れかねない、剣呑な振る舞いである…と、足穂氏は言いたかったのかもしれません。

まあ、真っ赤な火星も剣呑ですが、一見おだやかな月も、その実大いに剣呑であることを、タルホ愛読者はよく知っています。



タルホ的なるもの…ポーカーダイス2016年05月11日 20時26分22秒



イタリア製の革ケース。
差し渡しは9cmと小さなものですが、丁寧な細工で、蓋の四隅の模様も洒落ています。


蓋を開けると、中にきっちりと小気味良く収まった5個のダイス。

(ダイスの一辺は15mm)

普通のサイコロと違って、その「目」はトランプ柄です。
この5個のサイコロをいっせいに振って、出た目でポーカーのように役を作って遊ぶ、いわゆる「ポーカーダイス」です。


売り手は「アンティーク」と称していましたが、それほど古くも見えないので、「ヴィンテージ」と呼ぶのが適当な品でしょう。

ちなみに、ポーカーダイスは1880年代に考案されたゲームだそうで、最初のパテント取得は1881年、さらに1888年には「役」を増やすために、8面体のポーカーダイスが発明された…という情報をネット上で見かけました。

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これも何となくタルホ界の住人に持たせたい品で、こういうのをおもむろに相手の前に置き、目で無言の相図をする…というような所作にあこがれますが、まあ実際にやると、きっとトンチンカンな結果になるでしょう。

ダンディズムの道はなかなか険しいものです。