新暦誕生(後編)2022年12月06日 20時45分30秒

昨日の記事の冒頭で、明治6年(1873)に日本中がいっせいに新暦に切り替わった…と書きました。でもそれはウソです。いや、ウソとは言いませんが、事実はかなり様子が違いました。以下、渡辺敏夫氏『日本の暦』(雄山閣、昭和51)からの引用や孫引きをまじえつつ、状況を確認しておきます(以下、〔 〕内は引用者)。

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改暦の前年、明治5年(1862)の暦は、「大学星学局」という、いかにもアカデミックな名の下に出版されましたが、暦の内容は江戸時代そのままで、その年の方角の吉凶とか、日々の暦注がこまごま入っていました。


それが、明治6年の最初の太陽暦では、すっぱりそういうものが消えて、新時代の面目を施したのは確かです。ただ、昨日も見たように、そこには旧暦の日付や干支、それに二十四節気も併記されていました。まあ、これは制度の切り替えによる混乱を少なくするための当然の配慮でしょう。

ただ、政府としてはこの「激変緩和措置」はあくまでも一時的なもので、明治6年3月に文部省が定めた「頒暦規則」では、「明年ノ暦ヨリ太陰暦合刻可相止事」と明記されていました。要するに旧暦併記は1年限りということです。

しかし、同じ年の10月に、それをひっくり返す通達が文部省宛てに発せられます。来年、明治7年(1874)の暦の体裁も、本年と同様にせよというのです。「これは急に太陽暦だけにすると、人民のまどいもはなはだしく、太陰暦記載廃止は時期尚早ということから太陰暦も合刻ときまったものである。」(渡辺上掲書、p.140)

この措置はずるずるとその翌年も、そのまた次の年も続きました。
文部省としては、このままではいつまでたっても庶民が太陽暦になじまないので、早く太陰暦の合刻をなくしたい、妥協案として「二分二至等人民習慣ノ呼称ヲ以テ比較表ヲ暦末ニ附録」するというのはどうか?という提案を、明治8年(1875)の段階で提出しています。

それを内務省が審議し、さらに政府左院(明治初期の立法議決機関)でも議論が行われました。しかし結論は「〔文部省の〕伺ノ趣ハ詮議ノ次第有之当分難聞届候事」というものでした。政府自身も「まあ当分は無理だね」と考えたわけです。

そう考えたのは、内務省の答議書にあるとおり、「本邦細民」「彼文明各国ノ人民ト日ヲ同シテ論スヘクンヤ」、日本の民衆はまだまだ文明諸国の民とはレベルが違うんだ、だから太陽暦の優れていることも理解できなかろう…という、ずいぶんな認識が背景にあり、その上で「農夫ノ耕耘漁郎ノ潮候其季節時限ヲ探知スル益不便ヲ訴フルニ至ラン歟〔か〕其稼業ノ障碍タル亦尠々ナラサル也」、つまり太陰暦をなくしてしまうと、農民漁民の仕事に実際上の障りがあるし、「仮令〔たとい〕比較表ヲ附記スルモ忽チ暗夜滅灯ノ思ヒヲ生シ」るだろうと慮ったからでした。

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ここで面白いのは、翌明治9年(1876)になると、太陰暦合刻を主張していたはずの内務省が、今度は掌返しで合刻の廃止を訴え出たことです。で、その理由は文部省の言い分とほとんど同じです。渡辺氏がそうはっきり書いているわけではないんですが、これは明治9年2月から暦に関する事務一切が、文部省から内務省に移管されたことによるんじゃないでしょうか。つまり、他人の仕事については岡目八目、気楽にいろいろ言えるけれども、それが自分の仕事になると、途端に面倒なことはやりたくなくなるのが人情で、こういうお役人の心理は今も昔も変わらないでしょう。

それに対して法制局は、「遽〔にわ〕カニ陰暦ヲ禁シ候テハ 却テ下民実際多少ノ不便ヲ生シ 当初陰陽合刻ノ御趣旨ニモ相背キ可申歟」――「急に陰暦を禁じては、かえって民衆にとって実際多少の不便が生じるだろうし、そもそも太陰暦を合刻した御趣旨にも反するだろう」――と応答し、最終的な結論は「伺ノ趣難聞届 猶従前ノ儘据置可申事」――「伺いの趣旨は認めがたい。これまでどおり合刻しなさい」というものでした。

なんだかんだ理屈を述べつつ、何年か合刻を続けていると、今度はそれが前例となって、前例主義が顔を出す…。この辺も、常に変わらぬお役所風景という感じがします。

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結局、太陰暦の合刻が正式に廃止されたのは 明治43年(1910)の暦からです。
太陽暦の開始から実に37年目で、明治もまもなく終わろうという頃合です。

そんなわけで、我が国が明治6年(1863)から太陽暦を公式に採用し、旧暦を廃したのは事実そのとおりですが、旧暦の使用が「禁止」されたわけではなく、むしろ積極的に「公許」されていた時代が長いことを、今回知りました。

新暦誕生(前編)2022年12月05日 17時14分09秒

昨日につづいて明治改暦の話題。
今から150年前――正確には1873年の元旦に――、それまで馴染んでいた旧暦(太陰太陽暦)から、日本中がいっせいに新暦(太陽暦、グレゴリオ暦)に切り替わりました。


その記念すべき最初の暦、「明治六年太陽暦」がこれです。
昨日に続き、妙に煤けた画像が続きますが、これも出た当時はきわめて斬新な、新時代の象徴のような存在だったはずで、表紙に捺された「暦局検査之印」にも、御一新の風が感じられたことでしょう。

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この暦を眺めて、ただちに気づくことが2つあります。


1つは、それまでの迷信的な暦注が一切排除されていることです。
と同時に、迷信を排除した勢いで、今度は過剰なまでに天文学的な記述になっていることです。

(上の画像を一部拡大)

たとえば1月の最初のページを見ると、「上弦 午前6時46分」とか、「小寒 午後2時26分」とか書かれています(以下、引用にあたって原文の漢数字をアラビア数字に改めました)。

月の満ち欠けは、新月から満月までシームレスに進行するので、「ちょうど半月(上弦)」になるのは確かに一瞬のことで、次の瞬間にはもう厳密には半月ではありません。小寒のような二十四節気も、それを地球の公転で定義する限り、地球がその位置に来るのはほんの一瞬です。ですから、それを分単位で表示してもいいのですが、旧来の暦になじんだ人たちは、その厳密な表記に目を白黒させたことでしょう。(現代の多くの人にとっても、同じだと思います。それに明治初めの人は、分単位で正確な時計など持っていなかったはずです。)

さらに他の細部も見てみます。


1月1日の項を見ると、①「日赤緯 南23度00分52秒」、②「1時差 12秒4減」、③「視半圣 16分8秒」の3つの記載があります。この暦には凡例がないので、その意味を全部で自力で読み解かねばなりません。

まず①が太陽の天球上の位置(赤緯)で、③が太陽の視半径であることはすぐ分かります。
問題は②の「時差」です。最初は「均時差」LINK】のことと思ったんですが、数字が全然合いません。ここで渡辺敏夫氏『日本の暦』(雄山閣、昭和51年)を見たら、「〔明治5年〕政府は急遽太陽暦を版行し、一般大衆へ行き渡るように努めた。まず英国航海暦により太陽暦を作り…」云々とあったので(p.139)、実際に英国航海暦を見てみたら、ようやく分かりました。

(1846年用英国航海暦(1842年発行)より1月の太陽に関するデータ表の一部)

ここに太陽の赤緯に付随する値として、「Diff(erence) for 1 hour」というのが載ってます。その訳が「一時差」に違いありません。これは太陽の天球上の位置変化のうち、南北方向の移動量を1時間あたりで示した値です。ですからこの「秒」は角度のそれで、例えば1月1日の太陽は、1時間あたり角度にして12秒ちょっとずつ北ににじり寄っていることを示しているわけです(この時期の太陽は、南回帰線から赤道に接近中なので、南緯の数値は「減」になります)。

もう1つ首をひねったのが、1月2日にある「日最卑 午前5時5分」です。ページをめくっていくと、「月最卑 ○○時」とか、「月最高 ○○時」とかいった記載も頻繁に出てきます。意味的に、「最卑」と「最高」が対になっていることは推測できるのですが、これはいったい何か?


首をひねりつつ検索したら、昔の自分が答えているのを見つけました【LINK】。
9年前の自分は、地球の「近日点」「遠日点」の意味で、中国では「最卑点」「最高点」の語を使っていると述べています(なるほど。昔の自分にありがとう)。月ならば「近地点」「遠地点」の意味ですね。

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まあ、こんなふうに「天文」を名乗るブログを書いている現代人でも手こずるのですから、明治初めの人に、この暦が理解できたとは思えません。仮に理解できたとしても、太陽の視半径や、月の遠地点・近地点が、日々の生活を営む上で必要な情報だとは、とても思えません。

だからこそ…だと思いますが、もう一つ気づくこととして、新暦の下にやっぱり旧暦が刷り込まれていることがあります。


これも渡辺敏夫氏の『日本の暦』に詳しい記述があったので、他人の褌を借りる形になりますが、その辺の事情を見ておきます。

(ちょっと長くなるので、ここで記事を割ります。この項つづく)

明治改暦によせて2022年12月04日 15時11分38秒

私の職場のエレベーターは、乗っている人を退屈させない工夫なのか、「今日は何の日?」というのがパネルに表示されます。それによると、昨12月3日は、明治改暦の日でした。すなわち、明治5年(1872)12月3日を以て太陰暦(いわゆる旧暦)を廃して、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に移行し、この日が明治6年(1873)1月1日となったのです。

「へえ、すると今日で太陽暦に移行して満150周年か。それは大きな節目だな」…と一瞬思いましたけれど、この12月3日は旧暦の日付ですから、そう思ったのは錯覚で、本当の150周年はもうちょっと先です。つまり、旧暦の明治5年12月2日がグレゴリオ暦の1872年12月31日に当り、翌12月3日が1873年1月1日なので、こんどの大晦日がくると旧暦終焉150周年、翌日の元旦が新暦開始150周年です。こんどの正月は、そのことを一緒にお祝いしてもいいですね。

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それで思い出したのですが、明治5年の「改暦の布告」の生資料が手元にあります。

(表紙=p.1)

現在の埼玉県西部にあった「入間県」「第7大区各小区戸長中」あてに送達されたものです。

当時の政府からのお達しは、まず郵便で各府県庁に送られ、受け取った府県知事は、それを当時の「大区小区制」にしたがって大区の「区長」に送り、区長はそれを管内小区の「戸長」に送り、戸長がそれを掲示板に貼り出したり、直接住民に申し聞かせたりして周知を図る…という形でした。「大区小区制」は明治初めのごく短期の制度ですが、小区はほぼ江戸時代の村に相当する単位で、戸長にはたいてい旧来の庄屋・名主が任命されたと聞きます。

(裏表紙=p.6)

文書は2つ折りにした3枚の和紙をこよりで綴じてあります。こよりに割印しているのは、これが正式文書であることを示すものと思います。


ここには改暦の布告(11月9日付布告337号)だけでなく、その前後の「皇霊御追祭御式年」に係る太政官布告(11月7日付布告336号)や、「自今僧侶托鉢被禁候事」という教部省通達も書かれていて、区長は日付の近い文書をまとめて戸長に送っていたようです。

(pp2-3.改暦の布告はp.2から最後のp.6にかけて書かれています。)

改暦の布告は、京都府の例(※)のように独自に版本を作成して情報伝達した地域もあるので、入間県でもあるいはそうしたかもしれませんが、少なくとも小区レベルは、こういう書写本の形で情報が伝わっていました。

(※)改暦の話 http://www.kodokei.com/la_015_1.html

(pp.4-5)

ちなみに、改暦の布告は現在も生きた法令で、公式の法律データベース e-Gov(イーガブ)にも掲載されています【LINK】。

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で、あらためて手元の布告を見ると、いろいろ面白いことに気づきます。


まずは冒頭部分。以下、e-Gov掲載の原文は青字、手元の文書は赤字で表記します。

今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行相成候ニ付来ル十二月( )ヲ明治六年一月二日ト被定候事

細かい文言の違いも気になりますが、何といっても注目すべきは、「一月一日」が「一月二日」になっている点です。その上の「十二月( )」が虫食いで読めませんが、筆勢からすると、やっぱり「三日」のようなので、これは完全な誤記です。

(下に白紙を入れて撮影)

これだと入間県のこの地区は、新暦でも旧暦でも、盛大に祝うべき明治6年の元旦がなかったことになります。(その続きを見ていくと、ちゃんと「一月〔…〕其一日即旧暦壬申十二月三日」とあるので、間違える人はいなかったでしょうが…。)


ほかにも時刻の定めとして、「今後〔…〕昼夜平分二十四時ニ定メ」とあるべきところが、「二十二時ニ定メ」になっていたり、「子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ 午前幾時ト称シ 午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ 午後幾時ト称候事」とある箇所などは、「子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ 午前幾時ト称シ候事」と、後半部分をそっくり写し漏らしています。

この文書は、入間県第七大区の区長役場で作成されたのでしょうが、書写した人は相当な粗忽者か、役場全体が大慌てだったか、たぶんその両方のような気がしますが、当時の情報伝達の精度という点でも興味深いし、慌てふためく世相が彷彿として面白いと思いました。

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150年前というと、さほど遠い昔のこととも思えないんですが、それでも今の自分の身の回りを眺めるとその変化に愕然とします。やっぱり150年は相当な昔です。

クロウフォード・ライブラリーを覗き込む2022年12月02日 20時38分13秒

今年イギリス国王になったチャールズは、皇太子時代に「プリンス・オブ・ウェールズ」を名乗っていました。個人の名前と称号は当然別物で、皇太子が替われば、自動的にプリンス・オブ・ウェールズが次の皇太子に引き継がれる仕組みのようです。

同様に「クロウフォード伯爵」というのも、これ全体がひとつの称号で、第26代クロウフォード伯爵も、爵位を継ぐ前は(そして継いだ後も)ジェームズ・ルードヴィック・リンゼイ(James Ludovic Lindsay、1847-1913)という個人名を持っていました。彼の家名はあくまでもリンゼイで、クロウフォードに改姓したわけではありません。(日本だと「前田侯爵」とか「三井男爵」とか、“家名+爵位”を名乗るので、ちょっと勝手が違います。「クロウフォード伯爵」というのは、むしろ「加賀藩主 前田利家」の「加賀藩主」に近いのかも。)

この人が築いた天文書の一大コレクションが、現在エディンバラ王立天文台に収蔵されている「クロウフォード・ライブラリー」だ…というのを、先日も話題にしました(LINK)。

ただ、上のような理由から、リンゼイ自身は自分の蔵書を「リンゼイ家文庫(ビブリオテカ・リンデジアーナ、Bibliotheca Lindesiana)」と称していました。

(クロウフォード・ライブラリーの貴重書群。

ただし、リンゼイ家文庫は、ジェームズ以前の家蔵書を含み、その内容も天文書以外に小説とか歴史書とか雑多なので、クロウフォード・ライブラリーよりも一層広い指示対象を持ちます。

そしてクロウフォード・ライブラリーに収まった以外のリンゼイ家蔵書は、巷間に流出して、今も古書店の店頭に折々並びます。そこにはリンゼイ家の紋章入りの蔵書票が麗々しく貼られ、おそらくクロウフォード・ライブラリーに並ぶ本も、それは同じでしょう。


クロウフォード・ライブラリーにはなかなか行けそうもないので、とりあえず蔵書票だけ買ってみた…というのが今日の話題です(このあいだの記事を書いたあとで思いつきました)。

世間には蔵書票マニアというのがいて、名のある蔵書票は単品で取引されています。私が買ったのもそれです。いじましいといえばいじましいし、直接クロウフォード・ライブラリーと関係があるような、ないような微妙な感じもするんですが、少なくとも天文書のコレクションが、まだリンゼイ家にあった頃は、手元の蔵書票が貼られていた本(それが何かは神のみぞ知る、です)も、同じ館に――ひょっとしたら同じ部屋に――置かれていたはずです。


それに、自慢じゃありませんが、我が家にはクロウフォード・ライブラリーの蔵書目録(1890、復刊2001)もあるのです。それを開けば、万巻の書籍の背表紙だけは、ありありと目に浮かぶし、そこにこの蔵書票が加われば、もはやエディンバラは遠からず、クロウフォード・ライブラリーの棚の間に身を置いたも同然です。(全然同然ではありませんが、ここではそういうことにしましょう。)

(蔵書目録は著者アルファベット順になっています。上はコペルニクスの項)

(でも、著者名順だけだとピンとこない領域があるので、主題別分類も一部併用されています。「C」のところに「Comet」関連の文献がまとめられているのがその一例)

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例によって形から入って、形だけで終わってしまうのですが、こういう楽しみ方があっても悪くはないでしょう。山の楽しみは登山に限りません。山は遠くから眺めるだけでも楽しいものです。

あおみどりの光2022年11月30日 19時17分32秒

昨夜は本降りの雨でしたが、気まぐれで遠回りをして帰りました。
雨に濡れた路面に映る灯りがきれいに感じられたからです。乾いた町が水の中に沈み、いつもと違う光を放っているのが、夕べの心の波長と合ったのでしょう。

店舗の灯り、道路に尾を曳くヘッドライトとテールランプ、そして黒い路面にぼうっと滲んだ青信号の色。あれは実に美しいものです。
ごく見慣れたものですが、私は青信号の青緑色を美しいもののひとつに数えていて、「でも、あの色って、自然界にはあるかなあ?」と、考えながら夜の道を歩いていました。

南の海、ある種の甲虫、鳥ならばカワセミ、石ならばエメラルド。
どれも似ているけれども、どれもちょっと違うような気がしました。

考えているうちに、ふと思いついたのは「夜光貝」
サザエの仲間であるヤコウガイに限らず、磨いた貝殻の遊色の中に、あの青緑があるような気がしたのです。これは純粋に自然の色といっていいのか、もちろんそこには人為も加わっているのですが、条件によっては自然条件下で遊色を呈することもあるでしょう。

(磨き加工をしたパウア貝。手前はアンモナイトの一種(クレオニセラス)の化石。そこにも似た色合いが、かすかに浮かんでいました)

思いついたのが水に縁のあるもので、そのことがちょっと嬉しかったです。

ゼロの方程式2022年11月29日 20時07分11秒

今日、天文学史のメーリングリストに変わった投稿がありました。

現在、中国各地で習政権による「ゼロ・コロナ政策」への激しい抗議活動が起きていますが、デモの参加者は、何かメッセージを掲げても、報道の際は検閲で削除されてしまうので、最初から白紙を掲げてプロテストしている…と報じられています。しかし、中にはやっぱりメッセージを掲げる学生がいるらしく、件の投稿は、そのメッセージに反応したメンバーからのものでした。

そのメッセージがこちらです。


これは「フリードマン方程式」と呼ばれるもので、一般相対性理論によって導かれる宇宙膨張を表す方程式…だそうですが、その含意が分かりますか? 学生たちには、「どうだ、これが分かるか?」と、政権の無能ぶりを揶揄する気持ちもあるのかもしれませんが、政権の要人と同様、私にもさっぱりです。

リストメンバーの意見に耳を傾けると、眼前の膨張宇宙を認める限り、アインシュタインが忌み嫌った「宇宙項」は必ず存在し、その係数である「宇宙定数」もゼロにはできない。同様に、新型コロナをいくら忌み嫌っても、それをゼロにはできない…という主張がこめられているのでは?というのが一説。もうひとつは、単に Friedmann の名前をFreed man(解き放たれた人間)」に掛けているのだという説。

いずれももっともらしいし、まあ両方の意味がこもっているのかもしれません。
分かりにくいといえば、いかにも分かりにくいですが、落語の「考えオチ」みたいなもので、分かりにくいからこそ面白いともいえます。(さらにリンク先の記事では、「フリードマン方程式は「開かれた」(膨張する) 宇宙を表しているので、“自由で「開かれた」中国”を象徴しているのでは?」という別の意見も紹介しています。)

こういうのは一種のネットミームとして、思わず人に言いたくなりますけれど、理解できないまま触れ回るのも馬鹿っぽいので、フリードマン通の方に、より詳しい解説をお願いできればありがたいです。

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

『星学手簡』2022年11月26日 09時03分24秒

しばらく、ひそかにミモザ(オジギソウ)問題に集中していました。
ミモザが登場するはずのないギリシャ神話に、なぜミモザが出てくるのか?
さらにコメント欄で指摘のあった、「みなみじゅうじ座β星」の固有名である「ミモザ」の由来は何か?
しかし、いろいろ徘徊したものの手がかりは得られず、空しい結果に終わりました。
まあ、こういうときもあります。この辺で気を取り直して、記事を再開します。

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何か心が軽くなる話題はないかな…と思って、先日耳にしたニュースを思い出しました。


国立天文台が所蔵する『星学手簡(せいがくしゅかん)』が、国の重要文化財に指定されることになったというニュースです。これはまことに目出度いことで、こういうものが大切されてこそ、文明国を名乗る資格がある…と、いささか時代がかった感想ですが、そんなことを思いました。

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『星学手簡』は、江戸の天文学者の書簡集です。
そのわりに「星学」というのが明治っぽい語感ですが、上のニュース記事にあるように、本書は、「明治前期に科学思想史研究家の狩野亨吉(かのう こうきち)の手に渡り、その後東京天文台に譲渡され」た…という伝来を持つので、この間に付されたタイトルじゃないかと思います。

江戸の天文学者といっても、その数は多いですが、ここに登場するのは主に二人の学者です。ひとりは大阪定番同心という役宅に生まれた、幕臣の高橋至時(たかはしよしとき、1764-1804)、そしてもう一人は大阪の富商で、「十一屋(といちや)五郎兵衛」を通称とした、間重富(はざましげとみ、1756-1816)です。他の人とのやりとりも多少混じっていますが、大半は両人がやりとりしたもので、言ってみればこれは両者の往復書簡集です。

二人は若年の頃から天文学に傾倒し、師・麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)のもとでその才能を開花させると、武士、町人の身分の違いをこえた同志として、長く共同で研究を続けました。結果として至時は幕府天文方となり、重富も天文方と同格に遇せられましたが、両者の成果として有名なのが、独自の暦法改良にもとづく「寛政暦」の完成です(1798年施行)。

『星学手簡』は、両者が寛政暦を完成する直前の1796年から、至時が没する間際の1803年頃までの間にかわした書状+αを、全部で86通収録しています。編者は至時の次男である渋川景佑(しぶかわかげすけ、1787-1856)と推定されています。したがって、本書に収録された手紙は、差出人もしくは受取人のどちらかが必ず至時になっています。

ここで付言すると、至時の息子が父親あての手紙を編纂するのはいいとしても、父親が差し出した手紙の内容がどうして分かったのか?いちいち相手に聞いて回ったのか?と疑問に思う方がいるかもしれません。でも、昔の人は手紙を出すとき、用心して控えを作っていたので、それがとってあれば、こちらが送った手紙の内容も分かるわけです。

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上のニュース記事でもリンクを張っていますが、この貴重な『星学手簡』は、現在オンラインで全て公開されています。



二人の俊英の学問上のやりとり、日常身辺のあれこれの気遣い、ときに滑稽な、ときに悲しい噂話の数々―。200年余り前の天文学者の肉声をじかに聞くことは嬉しくもあり、背筋の伸びることでもあります。

夜の長い季節に、こういうのをじっくり読んでみたいものだ…と思いますが、筆文字を読むのはなかなか難儀です。重文指定を機に、ぜひ活字化と口語訳をしてもらえればと思います。

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(以下は自分用メモ)
ただ活字化に関していえば、『星学手簡』は過去に何度か翻刻されています。
それは主に日本洋学史の研究者、有坂隆道氏(1921-2004)の業績です。

『星学手簡』は、元々年代を考慮して編纂されているようなのですが、有坂氏はさらに検討を加えて、より厳密な年次を考えて再配列されました。その上で寛政年間――より詳しくは寛政7年~寛政12年(1795~1800)――にやりとりされた書簡20通を、注解とともに以下で活字化しています。これはほぼ原著の上巻収録分に相当します。

■有坂隆道「寛政期における麻田流天文学家の活動をめぐって」
 大阪歴史学会々誌「ヒストリア」第11号、12号、13号に連載。
 それぞれ昭和30年(1955)2月、5月、8月刊。

この続編として、原著のほぼ中~下巻に相当する書簡を活字化したものは、単行本の形で読むことができます。

(今日は地味な画像が続きますね。でも地味な中にも滋味があるのです。)

■同「享和期における麻田流天文学家の活動をめぐって-『星学手簡』の紹介-」
 同(編著)『日本洋学史の研究Ⅰ』、創元社、昭和43(1968)、pp.159-330.

前者の雑誌発表論文は管理人未見ですが、寛政年間の書状4通(第5、13、16、22号書簡)は、以下でも読むことができます。

■広瀬秀雄(校注)「星学手簡 抄(間重富・高橋至時)」
 日本思想大系 『近世科学思想 下』、岩波書店、1971、pp.193-222.
 (pp.422-427に補注、pp.476-480に解題あり)

オジギソウとギリシャ神話2022年11月20日 15時06分58秒


(オジギソウ Mimosa pudica. ウィキペディアより)

オジギソウが葉を閉じるのは、虫の食害を逃れるためだ…という研究成果を、先日ニュースで見ましたが、これに関連して、中日新聞の一面コラム「中日春秋」に、次のような文章が載っていました(11月19日)。

 「オジギソウは学校の教材でおなじみ。触るとお辞儀をするように葉を閉じる▼含羞草とも書くのは、恥じらっているように見えるからか。原産地はブラジル。天保年間に日本に伝わった▼ギリシャ神話にも登場。『花とギリシア神話』(白幡節子著)によると、美しい娘である妖精ケフィサは牧羊などを司る神パンに好かれ追い掛けられるが、その情熱に恐れをなし逃げ続けた。とらえられそうになった時に貞操の女神アルテミスに「助けて」と祈り、オジギソウに姿を変え逃れた。なるほど、恥じらいの草である▼この植物が葉を閉じるのは昆虫に葉を食べられるのを防ぐためであることを、埼玉大と基礎生物学研究所(愛知県)のグループが証明したという〔…中略…〕▼神話はこの植物を「感受性がとても強く、罪を犯した者がそばを通るだけで、まるで自分が触れられ、汚されたかのように葉を閉じる」と描く。現実は近くを通るだけでは閉じないが、触れた虫の脚を封じるとはたくましい。自然界は、恥じらうだけでは生きられぬらしい。」

これを読んで、息子が言いました。
「ブラジル原産なのに、なぜギリシャ神話に登場するのか?」と。これは息子のお手柄で、なるほど、そういわれれば確かに変です。史前帰化植物というのもあるので、最初はそれかと思いましたが、さすがに大西洋を越えるのは難しいでしょう。

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上のコラムに出てくる『花とギリシア神話』(八坂書房、1992)の「あとがき」を見ると、同書の参考書として、ブルフィンチ著『ギリシア・ローマ神話』、オウィディウスの『変身物語』、呉茂一著『ギリシア神話』など5冊が挙がっていますが、オジギソウの逸話は、そこに見つけられませんでした(探し方が悪いだけかもしれませんが)。それに「ケフィサ」という妖精の名が、『ギリシア神話事典』の類を、いくらひっくり返しても出てこないのが不審です。

「うーむ」と腕組みをしつつ、ちょっと表面をなでただけで、以下推測でものを言います。
最初に結論を言っておくと、これはやっぱり変な話で、どこかでアヤシイ話が混入している気配が濃厚です。

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この話の大本は、たぶんですが、Charles M. Skinnnerという人の『Myths and legends of flowers, trees, fruites, and plants in all ages and all climes』(1911)ではないかと思います。この本はさいわい邦訳が出ているので(垂水雄二・福屋正修(訳)『花の神話と伝説』、八坂書房、1985)、そこから該当記述を抜き書きしてみます。

オジギソウ(Mimosa)
 〔…〕ギリシアの伝説では、オジギソウはケフィサという乙女であったが、パンがあまりにも烈しい情熱を傾けたために、恐くなってパンから逃げた。後を追ったパンがケフィサを腕に抱きしめようとしたまさにそのとき、助けを求める願いは他の神々に聞き届けられ、ケフィサはオジギソウに化身した。古い俗信では、この草の感受性はとてつもなく過敏で、罪を犯した乙女がそばを通るだけで、まるで自分が触られたように葉を閉じると言われた。」 
(1999年新装版、p.203)

『花とギリシア神話』との類似は明らかでしょう。

スキナーの原文は、Googleブックスで読めますが、ケフィサのスペルは「Cephisa」で、これと「mimosa」で検索すると、同旨のエピソードを紹介する英文の記述がいくつか出てきます。でも、やっぱり出典を欠くものばかりで、スキナーをさかのぼる文献は見つかりませんでした。これら一連の記述は、スキナーが元ネタになっていると想像します。

では、スキナー自身は、この話をどこから引っ張ってきたのか?
『花の神話と伝説』の「訳者あとがき」には、その辺の事情がこう書かれています(太字は引用者)。

「著者スキナーについて各種の人名辞典などを調べてみたが、みあたらず、わずかにアメリカの“General Catalog of Congress Library”で以下のような情報を知りえただけである。生まれは一八五二年、没年は一九〇七年、ブルックリンあたりで活躍したジャーナリストであったらしく、多数の著作がある。〔…〕

 本書は、欧米の植物の伝説に関する書物には必ずといっていいほど引かれる古典である。〔…〕ただ惜しむらくは、少なからぬ誤植や事実関係の誤りがあることで、この点は、原著に出典及び文献が一切付されていないことと、晦渋な文体とが相まって、翻訳上おおいに悩まされた。聖書やギリシア・ローマ神話に関しては、手近に利用できる資料もあるので何とか見当をつけることができたが、民間伝承のたぐいに関しては検証は困難をきわめ、ついに真偽を確認できないまま原著を信頼するほかなかった個所もいくつかある。」

どうも、かなり注意して利用しないといけない本のようです。
ケフィサとオジギソウの件も、そんなわけで出典は不明です。そもそも、そこに確たる典拠があるのかどうか、何か民間伝承に類するもの ―― それも近世以降に成立した話 ―― を引っ張ってきたのではないかという疑念がぬぐえません。というか、論理的に考えれば、必然的にそのはずです。何せ下に記すように、古代ギリシャにはオジギソウと呼ばれる植物も、その名(Mimosa)もなかったのですから。

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ちなみに、「ケフィサ」という名前で検索するとすぐに出てくるのは、道端で寝ていたキューピッドの弓を奪って恋人を射た女性の逸話で、これも真正の古典というよりは、1725年にモンテスキューが書いた散文詩(彼の創作エピソード?)が典拠らしく、結局、妖精(ニンフ)のケフィサについては、現時点では不明のままです。

■(参考ページ) カナダ・ナショナル・ギャラリー所蔵、
 ピエール=アンリ・ド・ヴァレンシエンヌ作
 「キューピッドの弓を射るケフィサ」(1797)解説

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冒頭のブラジル原産の話に戻って、スキナーの話で最も首をひねるのは、ギリシャ神話にオジギソウ(ミモザ)が登場している点そのものです。

「ミモザ」というと、日本だとあの黄色い花をつけるミモザ(標準和名はフサアカシア。マメ科)のことですが、これは誤用だそうで、本当のミモザは、同じマメ科でも「オジギソウ」のことだそうです。つまり、狭くとれば種としてのオジギソウ(Mimosa pudica)のことだし、広くとればオジギソウを含む「オジギソウ属」のことです(オジギソウ属は約590の種を含む大所帯の由)。

(“ミモザ”=フサアカシア Acacia dealbata. ウィキペディアより)

そして、オジギソウ属の植物は、新大陸ばかりでなく旧大陸の原産種もあるものの、ギリシャ周辺には分布していません。ヨーロッパ全体や小アジアまで範囲を広げても同様です。存在しない植物が、神話に登場するはずがありません

(オジギソウ属の分布域。緑は原産地、紫は人為的伝播による拡大地。出典:英国・王立キュー植物園の「Plants of the World Online」、「オジギソウ属」解説ページ

また下の語源解説を見ると、「ミモザ」という名前は、語根にギリシャ語の「ミモス(道化師)」を含むものの、植物の名前としては18世紀に誕生した新参者で、これまたギリシャ神話やローマ神話に出てくるはずのない言葉です。

■“mimosa”:Online Etymology Dictionary

上記リンク先の内容を、参考訳しておきます。

ミモザ(mimosa)【名詞】
マメ科の低木の属名。ラテン語のmimusに由来する近代ラテン語(1619年)「mime」から1731年に造語された〔※引用者注:属名の考案者はリンネ〕。mime【名詞】参照 +-osa【形容詞接尾辞、-osusの女性形】。通常のオジギソウ(Sensitive Plant)を含むいくつかの種が、触れると葉を折り畳み、動物の行動を模倣しているように見えることから、その名がある。ミモザの花のような黄色の色名としても使われる(初出1909)。その名のアルコール飲料(初出1977)は、その黄色がかった色からそう呼ばれる。

<ミモザを参照している項目>
マイム(mime)【名詞】
「身振りで演じる道化師」(1600年頃)【ジョンソン英語辞典】。フランス語のmime「まねごとをする役者」(16世紀)、および直接ラテン語のmimus(語源不詳のギリシャ語mimos「模倣者、まねごと、役者、パントマイム、道化師」に由来)から。芝居を指す用例としては、1932 年に「パントマイム(a pantomime)」の形で、またそれ以前(1640 年代)は古典に関する文脈で使われた。イタリアに住んだギリシャ人やローマ人による古代のマイムは、実際の出来事や人物の滑稽な模倣からなる、通常下品な、セリフのある戯曲的パフォーマンスだった。

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例によってくだくだしくなりましたが、こんなことでも書いておけば、いつか何かの参考になるかと思って贅言しました。