鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(3)2018年02月25日 09時57分20秒

(続き物のはずなのに、1本目はタイトルが「鉱物学のあけぼの」、2本目は「鉱物学の黎明」と不統一でした。改めて「あけぼの」で統一します。)

今日は純粋なおまけです。すなわち本の中身ではなく、印刷の話。
この本を読んでいて、この本はどうやって刷られたのかな…というのが気になりました。


この文字は木版で間違いないですが、線によって西洋風の陰影表現を施した一連の挿絵も木版なのでしょうか?


でも、タイトルページの、この繊細な装飾模様を木版で生み出すなんて、到底不可能に思えます。まあ、浮世絵美人の髪の生え際の極細の彫りを見れば、絶対に不可能とも言えませんが、そんな超絶的な技巧を駆使してまで出版する必然性はないので(これはあくまでも一般向けの本です)、それは考えにくいです。

   ★

次に思ったのは、これは同じ木版でも、旧来の木版本のような柔らかい版木ではなく、緻密で堅い樹種を選び、しかも幹を胴切りにした「木口(こぐち)」に版を彫る、「木口木版」で刷られたのではないか…ということです。(これに対し、旧来のものは「板目木版」と呼ばれます。)

木口木版は18世紀末にイギリスで生まれ、そのため「西洋木版」の称もありますが、銅板と見まごうほどの細密表現が可能なことや、銅板と違って凸版なので、本文活字と一緒に版を組んで、まとめて刷れる便利さから、19世紀の出版物では、挿絵の主流となりました。当時の天文古書でも、本文中に挿入された図は、ほぼすべて木口木版です。(本文とは別に、挿絵だけが独立したページになっている場合は、やっぱり木口木版の場合もありますが、銅板だったり石版だったりのことが多いです。)

(木口木版による挿絵の例。1881年にロンドンで出た、著者不明の『Half Hours in Air and Sky』より)

しかし、よく話を聞いてみると、日本における木口木版のスタートは、明治20年(1887)で、最初は教科書の口絵から始まり、その後一般の出版物にも普及したそうですから、明治17年に出たこの本に、それが登場するのは一寸時代が合いません。(板目木版と木口木版は材の違いだけでなく、使う道具も、彫り方もまるで違うので、その技法は一から学ばねばなりません。洋行してそれを学んだ彫り師が帰国したのが、明治20年の由。 → 参考文献(2) 参照)

   ★

そこで、何かヒントはないかと思い、先ほどの表題ページをさらにじっと見てみます。


すると、この堂々たる隷書体のタイトルは、文字の内部が黒一色ではなくて、細い線をびっしり彫って黒っぽく見せていることが分かります。これは本文中の挿絵にも共通する特徴で、いずれも凹版の線で、広い面積を黒く見せる工夫ですから、結局、これは銅版印刷だと分かります。

もし、これが木版だったら、陽刻した凸版の絵柄や文字に、そのまま墨やインクを載せて刷ればいいので、こんな工夫をする必要はありません。


例えば、この明治4年(1871)出版の『博物新編』の挿絵は、全体の雰囲気は『金石学教授法』と似ていますが、黒い部分は墨のベタ刷りで、さらにそこに木目が見えることから、これが旧来の板目木版を用いていることが明瞭です。

   ★

すると今度は、日本における銅版挿絵の歴史は…という点に関心が向きますが、この点は今後の自分の宿題として残しておきます。

今は 参考文献(3) にある、「司馬江漢や亜欧堂田善が学んだ銅版印刷は、残念ながら日本ではあまり普及しませんでした。眼鏡絵や人体解剖図以外では、観光名所絵、地図、博物書の扉絵などごく限られた分野で利用されたに過ぎません。」という程度の記述で我慢しなければなりません。

ともあれ、この『金石学教授法』は、銅版と木版を二度刷りして仕上げた、なかなか凝った本で、明治前半の出版事情の一端が窺える点でも、興味深く思いました。


【参考文献】

(1)東書文庫:教科書の印刷(1)木版
(2)東書文庫:教科書の印刷(2)木口(こぐち)木版
(3)日本における腐食銅版印刷の曙

鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(2)2018年02月24日 11時19分28秒

前回、本書は松川半山の遺稿を元に、大槻如電が増補改訂したものと記しました。
ただし、如電は一方で、半山が書き残したのは「僅ニ金石ノ色形等ヲ抄記セシノミ」に過ぎず、「余ノ増補スル所ハ十ノ八九ニ居レリ」とも書いています(「例言」)。

如電はドイツ帰りの化学者、熊沢善庵(1845-1906)の力を借りながら、自らの勉強も兼ねて、精力的にこの改訂作業に当たりました。その努力は多とすべきでしょう。

   ★

さて、本の中身ですが、一読して感じるのは、その博物誌的スタイルです。

鉱物学の解説書といえば、まず鉱物をいかに理解するか、鉱物学の基礎概念を述べる総論的な記述があって、その後に個々の鉱物を、その体系に沿って叙述する各論的記述に進むのが常道と思いますが、本書では総論はほんの付けたりで、大半が各論に費やされています。

具体的には、例えばこんな具合です(原文は漢字カナ交じりですが、地の文のカナをかなに改めました。また右ルビはカナ、左ルビはかなで表記)。


 「黄玉石(ワウギョクセキ)は洋名を「トパース」と云ふ 其色は淡黄(タムワウ/うすき)の者多し 故に此名あり 其晶形は斜方柱状なり ○ 此石も古は本邦の産(さん)なかりしが近来始て近江栗本(クリモト)郡より発見(ハッケン/みつけだす)して無色(ムショク)淡緑(タムリョク)茶褐(チャカツ)の三種を出す 其無色透明の者は清水の如し 其品淡緑の者と共に六七分の小顆(セウクワ)のみ 茶褐色の者は其色単純(タンジュン)ならず且不透明なれば寸以上の者を獲ると雖ども亦砕きて磨砂となすべきのみ 黄玉鋼玉は共に装飾(サウショク/かざり)の用に供せり」

あるいは瑪瑙であれば、


 「瑪瑙(メノウ〔原文ママ〕)は通常赤色にして光輝あり 其状は馬(ムマ)の脳髄(ナウズヰ)の如くなりとて此名ありと云ふ 又各種の者あり其斑紋(ハンモン/もやう)の層(ソウ/かさね)を成して渦状(クワジャウ/うづ)を現はす者を縞瑪瑙(シマメナウ)と云ふ 又他石(タセキ/ほかいし)と混交(コンカウ)して雲様(ウンヤウ/くも)葉様(エウヤウ/このは)を含む者を苔瑪瑙(コケメナナ〔原文ママ〕)と云ふ 又白色にして玲瓏(レイロウ/ひかりとほる)」たる者を珂石(カセキ)白瑪瑙(シロメナウ)と称し或は星状(セイヂャウ/ほし)の小粒(セウリフ)を含(フク)みて数種の石質相交(マジハ)る者を血星石(ケッセイセキ)と呼ふ ○ 此水晶瑪瑙は古より服飾(フクショク/きものかざり)其他の器玩(キクワン/うつはもてあそび)に製して世人の常に賞美(シャウビ)する所の者たり」

いずれも名称の由来、色・形、産地や産状、用途等が列記されています。
これは図鑑や図譜の類の解説もそうですし、特に異とするには足りませんけれど、でもこれが図鑑ではなくて、『金石学教授法』を名乗る書物であることを考えれば、やっぱりその博物誌的な(あるいは文学的な、あるいは雑学的な)叙述スタイルが、嫌でも目につきます。(何となく『歳時記』の季語の解説を読んでいるような気分です。)

この本を読んだ人は、石の名称や珍奇なエピソードは記憶に残っても、学問としての<鉱物学>については、おそらく何も知らないままでしょう。何せ「発見」「みつけだす」とルビを振らないと意味が通りにくかった時代ですから、それも止むをえません。それに、ここに書かれた内容こそ、当時の人々の関心の在り処を示すものに他ならないのでしょう。

   ★

他方、本書で「総論」に当たる部分は、冒頭のわずか5ページのみですが、現代の我々の関心を引くのは、むしろこちらです。

そこでは、石には金石(今いうところの「鉱物」)と岩石の区別があること、鉱物には6つの晶系があること、その堅度(同じく「硬度」)は10段階に区分されること、種類に応じてその比重が異なること、鉱物の基準色は、「白・黝(ユウ)・黒・青・緑・黄・赤・褐」の8色であること、そして吹管や薬品による成分分析を経て、鉱物は「石類・鹵(ろ)類・燃鉱・金鉱」の4種に区分されることを略述しています。(最後の四分法については、過去記事を参照)

現代の鉱物趣味に通じる、「理の美しさ」の萌芽がここに見て取れます。


そして、そこに掲げられた晶系図は、国内では最も古いものの1つでしょうし、


鉱物の基準色を示す図は、まさに我が国最初の「彩色鉱物画」だと思います(違っていたらごめんなさい)。


この図は、同時代の海外の鉱物書を参考にしたらしく、手彩色を施した上に、光沢を出すためのゴム引きがされており、なかなか凝っています。

   ★

本書が出版されたのは、明治17年(1884)。
こうした蒔かれた鉱物趣味の種が芽を吹き、12年後には「元祖石っ子」の宮沢賢治が、岩手に生まれることになります。



------------------------------------------------------------
▼閑語(ブログ内ブログ)

朝鮮総連銃撃事件を耳にして、ただちに連想したのは、ナチズムに抵抗したマルティン・ニーメラーの有名なメッセージです(※)。

  最初、彼らは共産主義者に矛先を向けた
  だが、私は声を上げなかった
  私は共産主義者ではなかったから

  次いでユダヤ人に矛先が向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私はユダヤ人ではなかったから

  それから労働組合員に矛先が向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私は労働組合員ではなかったから

  さらに矛先はカトリック教徒に向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私はプロテスタントだったから

  ついに矛先は私に向いた
  そして、声を上げる者はもはや誰も残っていなかった

排外と全体主義。理性の消失と言論の無化。
最近の閉塞的な状況を前に、声を上げることの重要性を痛感しています。

(※このメッセージは、書かれた詩句として発表されたものではないので、いろいろなバージョンが存在します。上に挙げたのは、ニューイングランド・ホロコースト記念館に掲げられた英語版の私訳です。)

鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(1)2018年02月22日 06時21分57秒

最近のヴンダー回帰の気分に合わせて、脈絡なく話題を続けます。
今日の主役は1冊の明治期に出た和本。


■大槻修二(著)、鈴木道央(画)
 『金石学教授法 全』
 岡島宝玉堂(岡島眞七)、明治17年(1884)(明治16年版権免許)、24丁

おりおり「学者一家」というのがありますね。
本書の著者である、大槻如電(おおつきじょでん、1845-1931。本名は清修。修二は別名)も、まさにそうした一家に生い育った人物です。祖父は蘭学者の大槻玄沢、父は漢学者の大槻磐渓、そして弟は国語学者の大槻文彦と、文字通り和漢洋の学者を輩出した家系で、如電自身はといえば、和漢洋なんでもござれの博識の考証家として鳴らしました。


見開きになったタイトルページと序文冒頭。「王父磐水先生」とあるのは、如電の祖父・大槻玄沢の別号です(「王父」とは亡き祖父の意)。

序文を読むと、そういう博学の人でも、鉱物学はまったくの素人だったのですが、にもかかわらず本書の著者となったいきさつが記されています。素人が専門書を出すというのは、一見して無茶な話ですが、明治初期はそれが許された時代でした。

で、そのいきさつというのはこうです。
本書は、松川半山(1818-1882)の遺稿を元に、それを増補する形で出版されたもので、如電はその増補改訂役を版元から頼まれ、結果的に著者を名乗ったのでした。

半山の本職は絵師ですが、明治の開化期には、絵入りの啓蒙書類も手がけており、明治10年(1877)には、同じ版元(岡島宝玉堂)から、『博物図教授法 全』というのを出しています。出版にあたって、如電は当初『金石小誌』という書名を考えましたが、『博物図教授法』の意外な好評にあやかり、その続編の体裁にしたいという版元の意向を受けて、『金石学教授法』としたのだ…と正直なところも記しています。
(なお、『博物図教授法』については、過去記事でも取り上げました。)

   ★

文章全体に漂う開化期の雰囲気も懐かしく、形ある本として見た場合も、興味深い点がある一冊なので、少し詳細に立ち入って目を通してみます。

(この項つづく)

ハンミョウの教え2018年02月19日 20時14分15秒

ほぼ半月ごとにやってくる「二十四節気」。
節分後の立春に続いて、今日は「雨水(うすい)」。このあとは「啓蟄」、「春分」…と続きます。そう聞けば、春寒のうちにも真の春が近づいたことを知ります。

   ★

ふと思いついて、今日は昆虫の話題です。



ハンミョウは、「キキンデラ・ヤポニカ」の学名どおり、日本の固有種で、ハンミョウ科の中では日本最大の種でもあります。「ハンミョウ」という語は、ハンミョウ類の総称としても使われるので、特にこの種を指すときは、「ナミハンミョウ」という言い方もします(「アゲハ」と「ナミアゲハ」の関係と同じです)。


生きているときは、妖しいほどに美しい甲虫ですが、死後はすみやかに色が褪せてしまいます。この標本も、これだけ見ると美麗な感じですが、宝石のような生体とは比ぶべくもありません。何となく「落魄(らくはく)」という言葉を思い浮かべます。

(ウィキペディアより)

ハンミョウの美しい色彩は、命の輝きそのものです。
そして、ハンミョウのような目に見える華麗さはないにしろ、人間だって、他の生物だって、生きている限りはこんな輝きを放っているに違いないと思うのです。

ここで私の心には、さらに二つの思いが去来します。
「どんなに立派な輝きを放っても、死んでしまえば終わりじゃないか」という思いと、「だからこそ、その輝きが大切なんだよ」という思い。もちろん、どちらが本当で、どちらが嘘ということはなくて、いずれも真実です。

個人的な実感を述べると、人生が長く感じられた若い頃には、前者の思いが強く、余生が乏しくなった現在は、後者の思いに、よりリアリティを感じます(若い頃は、何となく後者を建前のように感じていました)。身近な人のことを考えるとき、一層その思いは強く、今を精いっぱい輝いて欲しいと願うばかりです。

ハンミョウの命の輝きを奪った当の本人に、果たしてこんな述懐が許されるのか、疑問なしとしません。でも、死せるハンミョウは、蓮如上人の「白骨の御文」よりも、腐朽する屍に生の無常を観ずる「九相図」よりも、さらに鮮やかに生と死の意味合いを、私に告げてくれている気がします。

ネットの穴を覗く2018年02月18日 12時31分55秒

インターネットには実に多くの情報が堆積しています。

でも、仮にその情報量が無限だとしても、「すべての」情報がそこに乗っかるわけではありません。ちょうど無限にあるはずの有理数だけでは、数直線は埋まらず、漏れ落ちる情報も、また無限であるようなものです。(これは先日コメントをいただいたzam20さんの「ミクロ・マクロ・時々風景」で拝読し、思わず膝を打った比喩。)

   ★

先日、飛行機乗りのための星座早見盤の話題を書きました。
それを受けて、今度は船乗りのための星図を探しました。探してみると、実際そういう航海用星図はたくさんあって、船乗りは海図片手に水平線を眺めるばかりでなく、星空にも親しんでいることが、改めてよく分かりました。

船乗りが眺めた星空の件は、また別に記事にしたいと思いますが、その手の星図を買ったら、売り手の人がオマケとして、マップ・ディバイダを付けてくれました。


マップ・ディバイダは、2本の脚を開閉して、地図上の任意の2点間の距離を拾い上げる器具です。コンパスタイプの品もありますが、これは上部の丸い部分を握ると脚が開くタイプ。これだと片手で操作できるので、すこぶる作業効率が良いです。


本命の星図は1947年刊行だったので、このディバイダも同年代のものかなと思いますが、最後まで分からなかったのは、その素性です。


ディバイダの最上部、両足の回転軸を留めるビスには、「W & HC」というメーカーの記載があります。また裏側には「BRITISH MADE」の刻印もありました。検索すると、この「W & HC」ブランドのディバイダは、新品・中古を含めて大量に売られており、時代も1930年代と称する品から、ごく最近の物にまで及びます。まあ、おまけに付けてくれるぐらいですから、品物の価値は最初から知れており、そう古いものでないことは確かですが、それでも、この「W & HC」とは何のイニシャルなのか、それだけでも知りたいと思いました。

で、早速調べたのですが、これだけ流通している「W & HC」の正体が杳として知れないのです。「まさか、そんなはずはない」と思って、いろいろ検索したのですが、まったく分かりませんでした(唯一このイニシャルで見つかったのは、Wallsend & Hebburn Coal Company という、50年前に廃業したスコットランドの石炭商だけした)。

   ★

ディバイダの正体はさておき、ことほど左様に、ネット情報には意外な穴がポコポコ開いています。裏返せば、ユニークな情報は意外と身近なところにゴロゴロしていて、今日も誰かに発見されるのをひそかに待っているのでしょう。


-----------------------------------------------------------
▼閑語(ブログ内ブログ)

昨日の記事を書いた後で、古武道の士にして、フリーランスの記者でもある瀬沼翠雨氏のブログ、「新・流れ武芸者のつぶやき」を拝読しました。その2月16日の記事、「メメント・モリ」に接し、深く歎息するとともに、大いに頷いたことがあります。

昨日の私は、ジャーナリズム退潮の背後に、権力者が使嗾(しそう)する後ろ暗い力の存在を憂慮しましたが、実はそこにはもっと即物的で、もっと暴力的な力が作用していたのです。

それはお金です。

今は活字商売がひどく左前だ…ということは承知していましたが、これほどの窮状にあるとは、瀬沼氏の文章を読むまで、実感していませんでした。かくて、その影響は業界の隅々にまで及び、今や老舗出版社であれ、大新聞社であれ、とにかく金になる仕事が先だ…というわけで、きわめて良識的な出版社であったはずの某社ですら、最近は“ネトウヨ本”に手を染めたりしているわけです。

もちろん、それが媒体の変化だけのことで、知性と人間主義に基づく言論空間が、新たにネット上に形作られているのならば、これほどの不安感は覚えないでしょうが、それもすこぶる怪しい気がしています。


【閑語のおまけ】
 ときに昨日の「閑語」の末尾。唄を忘れたカナリアが棄てられるのは「後の山」でしたね。そして「裏の畑」で鳴くのはポチです。威勢よくジャーナリズム批判を展開したわりには、どうも知性と教養に欠ける記述でした。

金色のちひさき月のかたちして2018年02月15日 07時20分09秒

最近、1枚の幻灯スライドを見つけました。
金星の満ち欠けと、見かけの大きさの変化を、1枚の写真に合成したものです。


それにしてもどうでしょう、このスライドの表情ときたら!
ガラス板を包む紺の色紙。
写真を囲む黒地に金の装飾模様。


丸窓に並んで輝く金星3態。
天文モチーフの幻灯スライドは、それこそ星の数ほどあります。でも、これほど完璧なデザイン、完璧なフレーミングのものは少ないでしょう。それ自体が、一個のアート作品のようです。


メーカーは、アメリカのベセラー社(Beseler Lantern Slide Co.)で、時代は19世紀終わり頃。左肩の星マークも洒落ているし、この鋭角的な味わいは、パリでもロンドンでもなく、まさにニューヨークであってほしく、その所在地がマンハッタンのど真ん中、東23丁目131だというのも高ポイントです。(ベセラー社は、今も工業機器メーカーとして存続していますが、会社はペンシルバニアに移転してしまいました。)


このスライド、写真自体は普通のモノクロですが、販売時の商品写真では、背景が灰色がかった青緑に写っていて、それもまたすこぶるカッコよく感じました。

モノクロのスライドも、背景光の選択など、投影の仕方の工夫次第で、その表現の可能性はさらに広がる気がします。

星見の塔を訪ねる2018年02月13日 22時16分00秒

この機会に、韓国慶州の瞻星台(せんせいだい)に会いたいと思いました。


でも、そうすぐに会いに行くこともできないので、レジン製の模型を買いました。


これさえあれば、塔をそっと見下ろして、古の天文学者が忙しく立ち働く姿を想像することもできるし、


塔を間近で見上げて、いつでも彼の声なき声に耳を澄ますことができます。
さらに、こんなふうに↓グリニッジの大ドームと並べて、東西天文遺産のツーショットをお願いすることだって簡単です。


うむ、なかなか麗しい眺めですね。


【おまけ】

ただし、屋上部がこの模型の通りだとすると、塔内から屋上に上がることができないので、観測には甚だ不便です。これは模型作者の勘違いで、実際には、昨日リンクした和田の調査報告書に「頭部の一半は開放しありて、井桁を透して天空を窺ふべし」とあるように、頂部には屋上に出る開口部があります。
ユネスコの天文遺産の紹介ページに掲載されている平面図を見ると、その様が明瞭です。

古塔は知る、天地の転変を。2018年02月12日 10時45分25秒

すっかり記事の間隔が開きました。
身辺がバタバタしているのは相変わらずですが、昨日は一日中ネットを眺めて、何か目ぼしいものはないか物色していました。我ながら浅ましい話で、何かもっと“高尚な”過ごし方はないものかね?…と思いますが、人生、時には無駄も必要です。

そんな呑気な日常と隣り合わせで、内外情勢は激しく動いています。
そして、それと連動して平昌では冬のオリンピックが始まりました。「天文古玩」に韓国の話題が登場することは、これまであまりありませんでしたが、時流に投じて、今日は韓国の話題です。

   ★

東アジア最古の天文遺跡と言われる、韓国南東部・慶尚北道にある「慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)」。その古い絵葉書が手元にあります。


おそらく1910年代のものでしょう。
画面の青さはサイアノタイプ(Cyanotype)印刷――原理は日光写真と同じ――に独特のもので、この絵葉書では、それと石版転写法と組み合わせているようですが、技術的な詳細は不明です。その青の色合いは、セピアとはまた違う、不思議な情緒をたたえています。

(ローマ字表記が“TANSEIDAI”となっているのは誤読ないし誤記)

キャプションには、「(慶州名所)東洋最古の天象観測所瞻星台」とあり、その建造は7世紀、新羅の時代に遡ると言われます。


広々とした田野の中に立つ古塔。
その脇を牛を牽いてのんびり歩む農夫の姿が、周囲ののどかさを強調しています。

   ★

とはいえ、この写真の背後にある現実世界は、のどか一辺倒とは言えません。
この絵葉書は、明治43年(1910)8月のいわゆる「韓国併合」から、あまり間を置かずに作られたと思しく、この絵葉書に写っているのは、当時の日本人に言わせれば「日本の風景」に他ならず、同時に「外地」と呼ばれる異郷でもあった…という点に、いわく言い難い陰影が伴います。

日本語版ウィキペディア「瞻星台」の項は、「科学史的評価」の節で、瞻星台の調査研究を実地に行い、学界にその存在を知らしめた人として、特に和田雄治(1859-1918)の名を挙げています。


和田は気象学者・海洋学者として、後に朝鮮総督府観測所所長を務めた人です。さらに、このときの和田の慶州訪問が、伊藤博文の暗殺後に第2代韓国統監に任ぜられ、韓国併合を進めた当の本人、曾禰荒助(そねあらすけ、1849-1910)に同行するものだったと知れば、この一事もずいぶんキナ臭いものに感じられます。

和田雄治「慶州瞻星台の記」
 (「天文月報」第2巻第11号(明治43年2月)、pp.121-4.)
とはいえ、和田の事績をくさすことが私の趣意ではありません。
彼は専門の理学の知識に加えて、古文献を博捜し、それを読み解く素養がありましたし、半島の歴史と文化に対する敬意もあったでしょう。それでも自ずと抑圧者の立場に身を置かざるを得なかった…というのが歴史の教えるところであり、我々はそれを丸ごと受け止めるほかありません。

   ★

瞻星台の本来の用途が、暦学に奉仕する常設観測施設だったのか、あるは宗教的な祭儀の場だったのかは議論があるようですが、その字義どおり「星見の台」であったのは確かなようです(「瞻」は「見る、目を見開いて注視する」の意)。

かつて瞻星台で星を見上げた人は、そこに天意を読み取り、国家の運命を知ろうと熱心に努めたことでしょう。そして、瞻星台そのものは、新羅の興亡とそれに続く長い歴史を眺め続け、最後の王朝・李氏朝鮮の終焉にも立ち会い、さらに今も変わらずそこにあります。

そのことを思うと、何だか「瞻星台」という名称も、「人が瞻星するための台」というより、「自ら瞻星する台」、すなわち塔自らがひたすら星を見上げてきたことに由来する名前のような気もしてきます。

瞻星台の胸裏にある歴史所感とは、果たしてどんなものか?
思わずそう問いかけたくなるところが古跡の魅力でしょう。
そして、彼は無言のようでいて、やっぱり多くのことを語ってくれていると思います。



このブログのこと2018年02月04日 07時21分52秒

13年目に踏み込んだ今思うのは、このブログの行く末です。

「最近はどうもくたびれた」と言うと、「そんなにくたびれるなら、サッサとやめればいいじゃないの」と思われるかもしれません。実際、アクセス数も低落傾向にあるので、この辺が止め時かな…と自分でも思います。(読む人が少ないのは、端的に言って内容がつまらないからでしょう。)

とはいえ、そうあっさり止められない理由が、いくつかあります。

   ★

1つには、この「天文古玩」は、自分用の備忘を兼ねている部分があります。いろいろ手にした品の素性をネットに上げておけば、いつでも参照できて便利だし、仮に私が頓死しても、残された家族が「訳の分からないガラクタ」を前に途方に暮れる苦労が、少しは軽減されると思うのです。つまり、コレクションのアーカイヴ化を狙っているわけです。

2つ目は、ブログそのものは万人に開かれているにせよ、文章を綴る時、私の場合、特定の人の顔を思い浮かべて書いているときが、少なからずあります。いわばブログの形をとった隠されたメッセージですね。その人たちが今どうされているのか、そもそも存命されているのか、それすらも不明ですが、いつか彼ら/彼女らの目に触れる可能性があるうちは、書くのを止めたくはないのです。他人から見ればどうでもよいことでしょうが、個人的には決して小さくない理由です。

   ★

あるいは、ブログという古い革袋を脱ぎ捨てて、他のネット媒体に移行する手もあるのかもしれません。でも、いろいろ考えると、私の書くものは、やっぱりブログという形式しか採り得ないと思います。

ツイッターやインスタグラムでは、もちろん無理です。

昔ながらの文字文化に親しんでいる人は、Facebookを利用することが多いのかもしれませんが、両者は書き手の心持ちにおいて、ちょっと違う気がします。Facebookは、人とつながることに主眼があって、文章を書くことは、それに従属している印象があります。したがって、そこで綴られる文章は、常に人の目を意識した文章です。

それに対して、ブログは自他を突き放したところがあります。
実際、ブログはSNSと違って、読み手が自発的に訪れない限り、他者の目に触れることはありませんから、書きたいように書き、読みたい人が読めばよいという、ある種の潔さがあります。そこでは、文章を書くこと自体が目的であり、人とのつながりは副次的な要素です。少なくとも、2018年現在のブログは、そういうものになっています(ここでは、「アフィリエイトで小遣い稼ぎ」のような行為は、切り離して考えてください)。

   ★

畢竟、ブログとは自分のために書くものでしょう。
では、それをわざわざネットに上げる意味は?と言えば、ちょうど家で勉強するよりも図書館で勉強するほうがはかどるように、他者の<存在>を意識するだけでも、ちょっと背筋が伸びて、文章も締まるからだ…と自分では思います。

なんだかんだ言って、身辺のごたごたを整理するため、私はブログを書くという行為を必要としているのです。ですから、くたびれつつも、もう少し「天文古玩」は続きます。