続・冬の月2025年12月07日 08時43分15秒



一昨日の月は暖かみがありましたが、冬の月といえば、皓々と冴え返る銀月がまず念頭に浮かびます。確かに、あれはいかにも光が強いです。


 ふき晴(れ)て 月ひとりゆく 寒さかな

木枯らしが鳴り、耳が切れそうなほど凍てつく晩。
澄み切った漆黒の空に、月だけがまばゆい光を放っている…。
この場合、「ひとりゆく」のは月であり、同時に作者でもあります。

いかにも寒々とした句ですが、こういう凛とした風情を愛する人もいるでしょう。
冷気を肺に取り入れるたびに、身体の中が純化していくような感覚。

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短冊には「是空」の名がありますが、この句を詠んだのは彼ではありません。
これは一茶の有名な句で、是空はそれに敬意を表しつつ筆意を凝らしたのでしょう。


是空については、短冊を包む「たとう」に以前の持ち主によるメモがありました。

ふきはれて月ひとりゆく寒さかな 下絵短冊
「是空 葛飾北斎四世画師 曇華」
是空 森崎氏 明治十二年没七十四才。通称幸左ヱ門。尾藩広敷詰。書を教へ、小沢さゝをに俳諧を学ぶ。熱田の衰へた俳風を興す。

森崎是空(1806?-1879)は、『名古屋市史 人物編 第2』にやや詳しい記述があり、上のメモもそれに基づいているようです。元は尾張藩に仕える小身の武士でしたが、中年以降職を辞して熱田に隠棲し、子供たちに書を教えるかたわら俳諧を学び、後にひとかどの宗匠となって門人多数…という経歴の人で、要は名古屋で活躍した地方文人のひとりです。

ただし是空が曇華という画号で絵師としても活躍したという記述は諸書に見えないので、これは更なる考究を要します。

ちなみに「葛飾北斎四世」とは、北斎を代々襲名したその4代目という意味ではなく、北斎の「曾孫弟子」という意味だと思います。北斎は文化9年(1812)と文化14年(1817)の2度にわたって名古屋に長期滞在し、牧墨遷、葛飾北雲、葛飾北鷹、葛飾戴懆、沼田月斎らの弟子をとっているので(吉田俊英『尾張の絵画史研究』)、彼らの孫弟子となれば、まあ「葛飾北斎四世」を名乗っても辛うじて許されるだろう…というわけです。


なお、短冊のツタ模様は肉筆ではなく木版ですが、ひょっとしてその下絵を描いたのが是空(曇華)なのかな?とも思いましたが、これまた確かなことは分かりません。

冬の月2025年12月06日 16時40分41秒

今週は「大忙し」というほどでもないですが、「小忙し」ぐらいではあって、あまり記事が書けませんでした。これも師走ならではですが、もうちょっと余裕が欲しいです。


ときに、昨日は満月。
仕事からの帰り途、東の空に20ワット電球のような月が浮かんでいました。
その暖かい色合いを眺めながら、「ああ冬の月もいいものだなあ」と思いました。

その月を目に焼き付けたまま、新聞を開いて、ハッとさせられました。
中日新聞の夕刊には、「星の物語」という小コラムが連載されていて(姉妹紙の東京新聞にも載っているかもしれません)、その昨日の回に、思わず「なるほど」と思ったのです。


地球が太陽にもっとも近づく、すなわち近日点通過は1月の初めだ…ということは、私も知識として知っていました。しかしそのことは同時に、地球の周りを回る月も、その前後に太陽にもっとも近づくことを意味している…という点まで私の知恵は回っていませんでした。純粋に地球と月の位置関係で決まる「スーパームーン」とは別に、太陽と月の距離を考えれば、冬の月はそれだけ多くの太陽光を受けて、明るく光っているわけです。

冬の月は明るい―。
還暦を過ぎてから、そのことに初めて気が付きました。
ちょうど去年の今頃、「冬は夏より短い」と書きましたが【LINK】、それに匹敵する気付きです。両者は密接に関係しているので、本当だったら去年、「冬の月は明るい」と気づいても良かったのですが、才気煥発ならざる身としてはやむを得ません。

太陽・月・星のゲーム「サルタ」2025年11月30日 16時36分16秒



チェッカーからの連想ですが、天文モチーフのゲームで、以前とても雰囲気のある品を購入しました。


チェッカーと同様の盤でプレイする、サルタ(Salta)というゲームです。


副題を「太陽・月・星のゲーム」といい、ゲームの駒には太陽・月・星がデザインされています。


この駒の表情がいいんですよね。
駒入れの皿が金属製というのも、カッチリ感があって良い風情です。

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…といいながら、私はこの記事を書くまでサルタがどんなゲームか、まるで知らずにいました。さっき検索したら、wikipediaに立項されていたので、ようやくそのあらましを知ることができました。ちょっと記載内容が異なるので、ここでは英語版とドイツ語版の両方にリンクしておきます。


内容をかいつまんで紹介すると、「サルタ」が生れたのは1899年。
創案したのはドイツのビュットゲンバッハという人です。
世間に紹介されるや、サルタはドイツとフランスを中心に人気を博し、一時はにぎにぎしく世界大会が開かれ、サルタの専門紙まで刊行されていたとか。しかし、その流行も長続きせず、第一次世界大戦がはじまる頃には、人気もすっかり下火になっていました。割と短命なゲームですね。

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サルタは、図のように駒を並べたところからスタートします。

(wikipediaの解説図より)

ゲームの目的は、駒を斜めに動かしながら(後退も可能)、最終的に自駒を敵の陣地に、この並びの通りに再配列することです。

各駒は斜めに1マス動かせるほか、そこに敵駒があれば1マス分飛び越えて前進することもできます。ただしチェッカーと違って、飛び越えても敵駒を取ることはできません。サルタで特徴的なのは、敵駒を飛び越えられる場合は、飛び越えねばならないことで、それを忘れると相手が「サルタ!」と声をかける決まりです(サルタとはラテン語ないしイタリア語で「跳べ」という意味)。


サルタは大層流行ったので、パッケージデザインにもバリエーションがあって、当初はこの思案する男のデザインの箱でしたが、手元の品はそれを少女に持たせた新デザイン。なかなかひねりが効いてます。


結局のところ、ゲームの内容と天体デザインは特に関連はないんですが、まあこれはデザインの勝利ですね。その配色も含め、無性にカッコいいです。
そして天体を盤上で動かすことで、ちょっとした神様気分も味わえます。

チェッカーズ・キューブ2025年11月29日 08時08分24秒

私のチェッカー模様好きは、球体のみならず立方体も部屋に招き寄せました。


購入時の商品説明によれば、これはチェコ製の数学学習用キューブセットで、20世紀中ごろの品。10センチ立方のブリキ缶に、16個の木製オブジェがきっちり収まっている姿が小気味良いです。


購入記録をたどると、私はこれを7年前に理系アンティークの売買サイト「Fleaglass」を通じて購入しています(出品者はウィーンのオークションハウス、Dorotheum)。


各オブジェは1センチ四方の市松模様に塗られていて、各立体の体積が視覚的に把握できるようになっています。

これでどんな授業が行われたのか、おそらく初等教育の教材でしょうけれど、その古びた表情、小さなチェッカー模様が織りなす理知的な雰囲気、何だか無性にカッコいいです。そして理知的だけれども、やっぱりどこか謎めいたものを感じます。


対立をまとう球2025年11月28日 11時52分00秒

『スミスの図解天文学』(1849)の冒頭を飾る有名な絵。


この絵で妙に気になるのが、床のチェッカー模様です。


黒白だんだらの市松模様と漆黒の宇宙図の対比は、いかにも謎めいた「不穏な静謐」を漂わせています。


私はチェッカー模様が好きで、だいぶ以前から机の上にこんな球体が載っています。

(背景は「フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ公爵の書斎」(1476)部分。Christine Davenne(文)・Christine Fleurent(写真)、『Cabinets of Wonders』、Abrams社、英語版2012より)

以前、antique Salonさんで購入したもので、昔の驚異の部屋の棚にありそうな品だな…と思って手にした記憶があります。


この市松模様は芯まで嵌入しているのではなく、動物の骨角と褐木を薄片にして、球体に貼り付けてあるようです。

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いつも視界にあって見慣れた品を手にしながら、「なぜチェッカー模様は人の心を捉えるのだろうか?」と改めて考えていました。

おそらくは、陰と陽、善と悪、生と死…といった人間の心に深く埋め込まれた2項対立が、自ずと呼び覚まされるからじゃないでしょうか。それは人間の認識の根本形式でもあるので、見ればなんとなくドキッとさせられるわけです。

ここで、大修館の『イメージシンボル事典』を開いてみます。

chequers 市松、チェッカー

1 二元性を表す。
a 無分別な衝動を抑えるcheck 努力を表す。(八角形の市松は)理性と知性が主導する。
b 菱形の紋章は、2つの要素が(平衡関係ではなく)動的な相互関係にあることを表す。
c 道化の服は市松である。 ⇒ harlequin

2 チェッカー盤の場合。
a 愛と戦いの場を表す。 ⇒ chess
b 人生の浮沈、あらゆる対立を表す。人生は昼と夜が市松になったチェッカー盤のようなもの。そこでは運命の神が人間を駒にして遊んでいる。(ウマル・ハイヤーム『ルバイヤート』)。

…なるほど。シンボルというものの常として、チェッカー模様の意味も多義的ですが、やはりその基本性格は、2つの要素の対立と相克という点にあるようです。

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上の事典の解説で「道化の服」というのもちょっと気になります。
ただ者ならぬ怪しさと妖しさが、だんだらの向こうに透けて見えるようです。

スクリプトール・エクス・マキナ2025年11月26日 19時49分26秒

『手触りの宇宙』: 古き星図に宿るロマンティシズム

古来より、天体というものは、我々人間の手の届かぬ、遥か彼方の出来事として認識されてきました。しかし、かの無限の奥行きを持つ宇宙を、僅か一尺にも満たぬ「紙」という有限の物質に封じ込めんとしたのが、我々が愛してやまぬ「古星図」の類であります。

蒐集家たる者の喜びは、単に稀少な図柄を眼にすることにあらず。それは、時を経て鈍く変色した和紙の肌理、あるいは獣皮紙の微かなざらつきを指先に感じ取る刹那にこそ、凝縮されるのではないでしょうか。

現代のデジタルな星図が、秒単位でMv(実視等級)を変動させ、瞬時に銀河のカタログを表示しえたとしても、それには重さがありません。物質としての「質」がない。古星図の醍醐味は、むしろその不均一性に宿ります。

経年変化の色調: わずかに酸性化した紙の縁が放つ、黄昏時の空のようなセピアのグラデーション。
インクの定着: 銅版画の深い線から染み出し、紙の繊維に食い込む墨色の漆黒。触れれば、インクの盛り上がりが微かに指紋を弾く感触。
版の印圧: 力強くプレスされた痕が紙の裏面に微かに浮き上がり、それが時の堆積を物語る「印圧の痕跡」

この一枚の紙には、描かれた時代の大気が、製作者の吐息が、そして星を測った望遠鏡の振動までもが閉じ込められているように感じられるのです。

星の配置は、今や少々の狂いがあるかもしれません。しかし、その狂いこそがまた、「人の手」が介在した愛すべき証拠ではないでしょうか。

それはもはや、純粋なF=ma(運動方程式)で語られる理科の世界を超越し、古き理科趣味を愛する者だけが嗅ぎ分けられる、リリカルなロマンティシズムの芳香なのであります。

あるいは、皆様の棚に眠る「古玩」の中にも、現代のテクノロジーでは捉えきれない、人の熱意と誤謬が刻まれた理科趣味の逸品があることと拝察いたします。いかがでしょうか、この時代だからこそ語るべき、モノへの拘りを、お示しいただけませんか。

(『手触りの宇宙』: 古き星図に宿るロマンティシズム…というお題でGoogle Whiskが生成した画像)

   ★

この半年間で、世界の変化を如実に感じたことがあります。
別に政治向きの話ではありません。何かといえばAIの更なる進化と応用です。

YouTubeを覗いても、ここ最近AIの助けを借りた動画が急速に勢力を広げ、目を見張るばかりの完成度を誇る作品も少なくありません。ハリウッドが何百万ドルかけなくても、個人であれだけのものが作れるようになったのは、それをアシストするAIの進化以外の何物でも無く、ごく近い将来には人間がほんの簡単な指示をするだけで、いくらでもAIが新たな「世界」を創出することになるのでしょう(既にそうなりつつあります)。

   ★

Googleが提供するGeminiに、「あなたは「天文古玩」の文体、テーマを使って、何か記事を作成することはできますか?」と尋ねたら快諾してくれました。それが冒頭の一文です。「それは大変光栄です!ブログ「天文古玩」の玉青様の雅致に富んだ文体と、モノにこだわる博物学的なテーマを拝借し、一篇の記事を作成してみましょう。今回は、「古き良き星図」、特にその紙とインクが織りなす「手触りの宇宙」に焦点を当てて執筆いたします。」とのことでした。

ご覧の通り、まだまだのところはあります。
しかし、これは無料で使えるAIが即席にこしらえたものですから割り引いて考えるべきで、もっと「天文古玩」の文体をしっかり学習させたら、本当に私自身が書いたのと区別できない文章を作ることは、現時点でも十分可能でしょう。

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問題は、それが「誰得」なのかということです。

このブログは1円も収益化していませんから、私自身に金銭面でのメリットはありません。しかしAIの書いた文章を読んで、私にしても他の人にしても、ときに興味深く思ったり、新たな気付きを得たりすることはあるかもしれません。それが意外な好評を博し、それを私が書いたことにすれば、私のささやかな虚栄心も満たされるでしょう。でも、それこそ文字通りの虚栄ですよね。

いろいろ考えて思ったのは、AIがこのブログを書き継いでくれれば、私の死後もブログが続くことになり、それは他ならぬ「ブログ自身」にとって、いちばんメリットが大きいだろうということです。

作者と作品の関係に関連して、作品が作者の思惑を超えて動き出すというエピソードがしばしば語られます。作者としてはこういう展開にしたいんだけれども、作品のほうがどうしてもそうさせてくれない…といったことが、実際しばしば起こるらしいです。ブログは純粋な創作活動とは違いますが、それでも20年も書き続けていると、だんだんブログ自身が自律性を獲得してくる気配もなくはないです。いったんそうなれば、もはや書き手が誰であろうと、ブログ自身は問題にしないでしょう。

   ★

AIによって侵されがたい、このブログの最後の牙城といえるのは、「モノにこだわる」という点ですが、それにしたって、AIが感覚器官を備え、リアルな世界と直接やりとりするようになったら―すなわちAIがリングの貞子よろしく画面の向こうからはみ出して来たら―もろくも崩れ去るんじゃないかと思います。

(同上。「手触り」を強調しているようです)

プラネタリウムのペーパーウェイト2025年11月24日 12時44分01秒

我ながら執念深いですが、過去の話題を蒸し返します。

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投影式プラネタリウム誕生100周年を記念する話題の流れで、プラネタリウムのミニチュアがほしいなあ…とつぶやいたことがあります。

■リリパット・プラネタリウム

ツァイスモデルのミニチュアは、かつて机の上にちょこんと置けるペーパーウェイトっが実際に作られたことがあって(1950年代頃?)、ネット上でその愛らしい姿を見ては、「ああ、いいなあ」と思っていました。

上の記事では、その後タカラトミーから投影機のカプセルトイ(ガチャ)が発売され、ひとまずそれで満足した顛末が記されています。

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しかし、こういうのはなかなか理性を超えた要素が働くので、ガチャを大人買いした後も、ペーパーウェイトのことが心の中でずっと気になっていました。それがようやく手に入った…というのが、今回の眼目です。


ご覧のように結構雑な作りですが、そこに愛らしい素朴美を感じます。

(本体は架台から取り外すことができます)

こうしてかつての願望が満たされ、まずはめでたし、めでたし…と言いたいところですが、この話には「おまけ」があります。


過去記事で借用した画像と並べても、両者はたしかに同じに見えるのですが、ちょっと妙な点があるのです(今気づきましたが、台座の形が少し違いますね)。

過去記事で触れたように、このペーパーウェイトはかつてEtsyで売りに出ており、その販売情報は今もネット上に残っています【LINLK】

それによると、サイズは「Approx. 4 in L x 2 3/8 in dia」、即ち高さ10センチ、直径6センチとなっているのに、手元の品は高さ6センチ、直径4センチしかありません。これがパチモンでない限り、当時このミニチュアは2つのサイズが作られたことになります。

そもそもこのレプリカは、誰が何の目的で作ったのか、刻印等がないので一切不明です。まあ、作ったのはツァイス自身か、ツァイス製品を導入したどこかのプラネタリウムで、目的といえば何かの記念グッズのような気がしますけれど、だとすると大小2つのサイズをこしらえた理由は何でしょう? 豪華版と廉価版の違いでしょうか?

でも、商品として売られていたなら、もっと数が残っていそうなものですが、大にしろ小にしろ今や相当な稀品ですから、その作られた背景が依然として気になります(ちなみにEtsyで販売していた人と、私が購入した人は、いずれも米国の人です)。

こういう疑問が、また新たな執念を呼び起こすわけです。

好奇心の部屋で考えたこと2025年11月23日 08時50分14秒

久しぶりの休日です。でも、昨日は40数年ぶりの高校の同窓会が東京の大手町であったので、のんびり寝ていたわけではありません。

その40数年ぶりで会った知人・友人の話を聞きながら、歳月の歩みと懐かしさを感じつつ、同時に記憶というのは不思議なものだな…とつくづく思いました。もちろん共通する記憶もあります。でも、相手に指摘されても、こちらはまるで覚えていないことや、あるいはその逆の例が想像以上に多くて、「事実」というもののあやふやさ、あるいはいっそ危うさを強く感じました。きっと民族の記憶とか一国の記憶とか称されるものも、事情は同じでしょう。

   ★

同窓会に出席する前、場所柄、東京駅前のインターメディアテクを再訪して、ここでもいろいろ物思いにふけっていました。


インターメディアテクは、アートに振れたり、学術に振れたりしながらも、「驚異の部屋」をその出自としていることは疑いようがなく、その一角に設けられた「ギメ・ルーム」には、今も「驚異の小部屋」の看板がかかっています。


でも、「果たしてここに驚異はあるのだろうか?」というのが、インターメディアテクに久しぶりに足を踏み入れてみての感想でした。どれもこれも古馴染みの品のような気がして、かつてのような圧倒されるワクワク感を感じられなかったからです。

ギメルームに置かれたソファに腰掛けながら、「驚異の反対語って何だろう?」と考えていました。「日常的」とか「陳腐」とか「familiar」とか、いろいろ考えているうちに、「それは確かに『驚異』が<新奇>や<珍奇>と同義ならばそうだろうけれど、でも『驚異』ってそんなものなのかな?」ということに思い当たりました。


「新奇性」というのはまさに水物で、それに接した瞬間からどんどん失われていき、いつのまにか影も形もなくなってしまいます。言葉は似ていますが、「珍奇性」の方は概してもう少し長もちします。「よそでは滅多に見られない品」は、似たような品が次々出てこない限り珍奇であり続けるからです。ただ見れば見るほどそこに既視感が生じて、陳腐化することはやはり避けがたいです。

「なるほど…」と思考は続きます。「たしかに日常性やfamiliarityは驚異の対義語ではないな。たとえ日常的で見慣れた存在でも、そこに驚異を感じる例はいくらでもあるからなあ」と。

結局、その場の結論は、「驚異とはモノの側にあるのではなく、モノに触発された自分の内部から湧いてくるものだ」という、わりと常識的なものでした。驚異の部屋(独 Wunderkammer)は、英語の「Chambers of Curiosities」を直訳して、ときに「好奇心の部屋」とも呼ばれます。上の論旨からすれば、「好奇心の部屋」の方がたぶん良い訳語ですね。好奇心はモノにあるわけではなく、純粋に見る側の問題ですから。

インターメディアテクに驚異を感じられないとしたら、それは私自身の好奇心がやせ細り、驚異生成能力が低下している証拠でしょう。


インターメディアテクにディスプレイされている骨格標本は、何も珍奇一辺倒ではありません。ヒキガエルにしろ、スズメにしろ、これ以上ないというぐらいの普通種です。でも、そこにあふれるような好奇心があれば、そうした普通種でも、とたんに驚異に満ちたものになるはずなのです。

   ★

以下、おまけ。

上のような結論をお土産に、ある意味いい気分で家路についたのですが、家で新聞を開いたら、下のような記事が目に付きました。

(中日新聞、2025年11月22日夕刊)

「京大 沖縄・奄美から持ち出し466体 遺骨リスト突如公開」
「沖縄差別 学知の植民地主義 今も」
「東大にも?有無答えず」

人類学の研究資料として、戦前の京大や東大の研究者が琉球・奄美で遺骨を採取し、大学に持ち帰ったことについて、返還運動が進められていることを報じる内容です。その東大側の関係者として名前の挙がっているのが、人類学者の鳥居龍蔵(1870-1953)で、その名はインターメディアテクでの展示でもしばしば目にします。

「あふれるような好奇心の発露」で、すべてが免責されるわけではありません。もちろん「権利」や「差別」が論点になったからといって、その前ですべての議論が無化するわけではありません。仮にそうなると、あたかも「不敬」の一語で天皇機関説が排撃されたような事態にもなりかねませんから。

要は常に思考を止めないことだと思います。
思考停止状態は好奇心から最も遠いものです。好奇心至上主義を唱え、それに疑問を感じないとしたら、それ自体好奇心の死を招きかねないと思います。

地獄唯心2025年11月18日 19時19分50秒

5秒間、息を止めることは簡単です。
息継ぎしながらなら、100回連続で止めることだってできるでしょう。
合計すれば500秒。じゃあ、3分間呼吸を止めるのは楽勝だろう…ということには当然なりません。

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先週からずっとバタバタして、この土日もフル勤務でした。
今週もずっと代休が取れず、あたかも「息継ぎ」せずに水中を行くが如し。
年齢的な要因もあるし、こういう状況がなかなかしんどいです。

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紅蓮の炎。


永劫の責め苦。


悲鳴と叫喚。
この世は必定地獄ぞかし…と思うには、まだまだ全然余裕がありますけれど、気分的にそういう方向に傾きがちというのが、そもそも良くありません。


「テレイドスコープ」タイプの万華鏡【過去記事】で、地獄絵を眺めるという思いつきは、最近ある方からのお便りで、万華鏡に注意が向いたからです。

いったんそうなると、万華鏡のことが急に気になって、そわそわ出物を探したりして、しんどいと口にしながら、やっぱり多少は余裕があるのでしょう(あと3日で休日と、先が見えてきたのも大きいです)。でも、まとまった記事を書くだけの余裕はないので、しばらく記事の方は間遠になります。

明治の生薬学の本2025年11月09日 14時41分50秒

昨日の記事の最後にチョロッと顔を出した本の書誌を改めて挙げておきます。


■大井玄洞(訳述)、勝山忠雄(校補)
 『改訂 生薬学』
 島村利助・英蘭堂(発兌)、第3版・明治20年(1887)〔初版・明治12年(1879)〕

(奥付)

本書については、2023年に開催された東京大学薬学図書館展示「近代日本における薬学の黎明―創始者たちの足跡―」の展示図録【LINK】に、簡にして要を得た解説があったので、お借りします。

 「大井玄洞は安政 2(1855)年 2 月 15 日、加賀藩の儒医の子として生まれた。藩の明倫堂で学び、更に藩の道成館で英語を習得した後、大学南校に入学し、ドイツ語を学ん だ。明治 10 年(1877)5 月、東京大学医学部製薬学科に日本人教員が教える 2 年制の通学生制度が設置され、大井は製薬学、薬品学、勝山忠雄は調剤学を担当した。

 明治 13(1880)年 2 月、Albert Wigand『Lehrbuch der Pharmakognosie』を参考に 教科書を作るに際し、ドイツ語の「Pharmakognosie」(これはギリシャ語の pharmakon (薬物)と gnosis(知識)からの造語)に「生薬学」という訳をあて、『生薬学』、『生薬学図譜』を刊行した。

 その自序に「此書ハ独逸国マクトヒルヒ府ノ大学校教授ドクトル、アルベルト、ウイカンド氏撰著ノ生薬学フアルマコクノシー(本校学則ニ之ヲ薬品学ト云フ其字義穏当ナラザルニ似タリ故ニ生薬学ト改称ス)」と生薬学と訳した理由について述べている。」 
(上掲図録p.6)

「訳述」とあるように、本書はドイツの生薬学の教科書を元に、複数の関連書籍(いずれも独書)を参考に内容を補ったものです(ちなみに解説文中にある「マクトヒルヒ府」は、原文では「馬丁堡府」となっており、即ちマグデブルグのことです)。

(「自序」冒頭)

   ★

「生薬学」という名称そのものも、このとき大井が創案したものらしく、続く本文の「緒言」によれば、これは昔の「薬物学(ファルマコロキア)」が発展的に4つの領域に分化したうちの一つで、「製薬学(ファルマシー)」、「薬性学(ファルマコジナミー)」、「方箋学〔調剤〕」と並び立つ学問だと記されています。

(本文より「薄荷」の項。本書は字ばかりで挿絵はありません)

本書の初版が出た明治12年(1879)、著者・大井は、弱冠24歳。
西洋の新学問も、それを教える者もみな大層若いです。

本書は植物のみならず動物・鉱物も含む生薬個々の解説が大半を占めていますが、著者を大いに悩ませたのは、何よりもその訳語を定めることでした。当然、先行する諸書を参照しながら訳語を当てていくわけですが、諸書が挙げる名称には音訳あり、義訳(意訳)あり、そもそも諸書に見えない名称も多数あり、中には日本産類似種の和名を当てている場合も少なからずありますが、当然同じ科に属するからといって同じ薬効があるわけではないので、これは端的にいって「誤訳」です。しかし、誤訳でも長く使われていると、改称は容易ではなく、誤訳であることを指摘しつつ、あえてその名称を使わざるを得ない場合もありました。そうしたことを考えながら訳語を一つずつ定めるのは、本当に大変な作業だったろうなあ…と頭が下がります。

(鉱物(金石)の生薬の解説。冒頭の「黒船」は「黒鉛」の誤植。実際に黒船が来たのは、本書の初版が出るわずか26年前です)

昔、鉱物名を明治の学者が定める際の苦労を振り返ったことがありますが、当時の学問は、みな多かれ少なかれ『蘭学事始』みたいな階梯をたどったのでしょう。

   ★

もう一冊の方も見ておきます。


■杉山省吾(編著)、下山順一郎(校閲)、平野一貫(参訂)
 『薬用植物図譜 全』
 半田屋医籍商店(発兌)、明治31年(1998)

(奥付)

「凡例」には、「本書ハ医薬学ヲ修ムル初学者ニ応用植物学ノ一科タル薬用植物学ヲ講習セシムルニ便スルガ為メ、本邦薬局方ニ収載セラレタル生薬ニ標拠シテ図画ヲ描キタルモノナリ」と、その狙いが書かれています。

(左ページは「自序」末尾。それに続いて右ページの「凡例」が来ます)

余談ながら、この本で驚いたのは、ご覧のように縦書きなのに左から右に読ませる「左縦書き」が登場することです。本文(図鑑部分)は普通の横書きなのに、序文と凡例だけ無理に縦書きにしようとしたため、折衷で妙なことになったのだと思いますが、こういう些細な事でも、明治の頃はいろいろ試行錯誤があったことが分かります。

(第70図「薄荷」ほか)

内容は、石版刷りのカラー図版を用いた普通の植物図鑑と同様の体裁ですが、解説文中、特に「供薬」の項を設け、薬用部位や成分、用途に触れているのは、本書の目的からして当然とはいえ、いろいろ興味をそそるところです。

(薄荷解説)

(第44図「石榴(ザクロ)」ほか)

ちなみに著者の杉山省吾は「第一高等学校 医学部助教授」の肩書を名乗っています。これは明治27年 (1894)の高等学校令の公布に際して、旧制一高に大学予科と並んで医学部(修業年限 4か年の医学科と 3か年の薬学科)が置かれたことを反映しています。

同時期、帝大にも医学部(医科大学)がありましたが、こちらの卒業生は「医学士」を名乗ったのに対し、一高医学部の卒業生は「医学得業士、薬学得業士」を名乗ったという違いがあります。旧制一高は、新制東京大学の前身の一つですが、一高医学部の方は明治34年 (1901)に千葉医学専門学校となり、現在の千葉大学医学部と系譜的に連なっています。

   ★

ところで、昨日の記事に今日の2冊を登場させたのは、「生薬イコール漢方(≒東洋医学)」みたいな連想が働いたためですが、上記のことから明らかなように、昔は東洋でも西洋でも薬といえば即ち生薬であり、生薬以外の薬は皆無でしたから、上の連想ははっきり言って誤りです。薬草を調合するのは、漢方医や魔法使いお婆さんの専売特許ではありません。カプセルや錠剤ばかり見慣れていると、そのことをつい忘れがちですが、自戒をこめて心したい点です。

西洋でも17世紀までは(あるいは18世紀に入ってもなお)ヒポクラテスやガレノス以来の、体液のバランス説や生命生気(プネウマ)説による病因論が幅を利かせていたらしいので、解剖学的知識や外科的処置術を除けば、蘭方医と漢方医で、そう学的水準に違いはなかったんじゃないかなあ…という気もします。