空の旅(9)2017年04月26日 22時52分50秒

いつでも、どこでも、そこに人がいる限り、星との関わりが生まれ、星をめぐる物語が生まれ、そしてまた「物語をものがたるモノ」も生まれます。そんなモノを眺めながら、時代と国を越えて歩き続ける「空の旅」――。

何だか、ひどく大層なことにも聞こえます。
これが金満的な大規模展、例えば、今年の正月まで六本木の森美術館でやっていた、宇宙と芸術展とかなら分かるのですが、わびし気な天文古玩の管理人がチマチマとやれることなのかどうか…?

まあ、侘しかろうが何だろうが、多少の土地勘と想像力さえあれば、どんなに遠い旅だって、できないことはないぞ…と、幾分強がりまじりに思います。
それはちょうど、小口径の望遠鏡しか持たない人や、都会のひどく貧弱な星空の下で暮らす人でも、想像力でそれを補えば、いくらでも星の世界に分け入ることができるのと同じでしょう。

   ★

…と、言い訳をしたところで、旅を続けます。
これまで古代オリエントから出発して、イスラム世界、インド亜大陸、モンゴルの大地をたどってきましたが、ここで踵(きびす)を返して、西洋の天文学に話題を戻します。

イスラム世界からバトンタッチを受けて、試行錯誤をしながらも、天文学を大きく前進させたのは、ルネサンス以降のヨーロッパの人々であることは間違いありません。そんな時代の記憶を伝える紙物2点。


 「いずれも、ゼバスチアン・ミュンスター(Sebastian Münster, 1488?-1552)の『一般宇宙誌(Cosmographia Universalis)』から取った一頁(元は1552年のバーゼル版か)。古代のプトレマイオスや、アラブ世界の天文学者について記す章の挿絵ですが、おそらく同時代の天文学者や占星術師の姿を反映した絵柄。手にしているのは四分儀です。」


ラテン語の説明文はさっぱりながら、「In parallelo qui transit per 72. dies maior est trium…」で始まる頁冒頭からボンヤリ眺めていると、「sphaerae mundi」とか、「parallelus conplectitur 24 horas diei et noctis」とか、何となく天文学や地理学の話題を語っているのだろうなあ…と感じられるものがあります。


まだ望遠鏡登場以前のこの時代、天体観測を表わすイコンは四分儀でした。
…というわけで、次回は四分儀です。

(この項つづく)

空の旅(8)2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

   ★

ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

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モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

   ★

モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

星を見上げる夢のおうち2017年04月23日 11時16分20秒

「空の旅」の途中ですが、この辺で箸休めです。

   ★

今日の朝刊を開いたら、紙面の隅にこんな広告が載っていました。


昨日から、愛知県の刈谷市美術館で始まった、「描かれた大正モダン・キッズ 婦人之友社 『子供之友』 原画展」の案内です。(会期は4月22日~6月4日。詳細はこちら
 
これまで東京や兵庫を回って来た巡回展で、6月以降は、山形県の天童市美術館が会場になるそうです。

で、この広告に目が留まったのは、そこに使われた村山知義(1901-1977)の表紙絵が、あまりにも印象的だったからです。

(上記刈谷市美術館のサイトより寸借)

チラシ掲載の画像だと、元はこんな色合いで、1924年(大正13年)という発表年を考えると、これはもうモダンの一語に尽きます。


震災の翌年、当時まだ20代前半の新進モダニスト・村山がイメージしたところの、「一人の少女の目を通して見た理想の家」の姿がこれです。

家の中には犬がいて、ネコがいて、人形芝居が演じられるかと思えば、みんなで楽器を演奏し、気が向けば油絵を描き、そして天窓から望遠鏡で星を眺める…

旧来の家族制度を脱した、友愛に基づく人のつながり。
芸術と科学が日常に溶け込んだ生活。

これぞ大正モダニズムに裏打ちされた理想主義で、付言すれば、そこにトルストイ的な土の匂いを混ぜ込んだのが、やはり大正末期に、宮沢賢治が羅須地人協会で目指したライフスタイルなのでしょう。

   ★

この絵では、星を眺めることが、絵画や音楽と並立する活動としてイメージされており、当時は金色に光る望遠鏡が、キャンバスやギターやピアノと同様の色合いを持っていた…というのが、天文趣味史的には興味深い点です。

要は、天体望遠鏡はハイカルチャーの象徴であったわけですが、でも同時に、それは天体観測がホビーとして人々の間に根付きつつあったこと、そして天文学が象牙の塔や一部の富者の元から、市井の人々の手の届くところまでやってきたことを意味しています。

まあ、大正時代の日本の現実はともかく、イメージとしては確かにそうで、震災の前後から一般向け天文書の出版点数は急速に増え、このあと野尻抱影は「時の人」となっていきました。

   ★

望遠鏡イメージのポピュラライズについては、「空の旅」の最後の方で、もう一度言及します。

空の旅(7)2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

   ★

インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。

空の旅(6)2017年04月20日 06時57分55秒

前回の暦術書は、わずか一ページの断片でしたが、今日は完全な一冊の本です。
時代はさらに下って、イスラム世界最後の大帝国、オスマン朝末期に出版されたもの。いわばイスラム天文学の末流の、そのまた掉尾を飾るもの…と言える品です。


例によって、プレートの文字を転記しておきます(例によって信頼性は怪しいです)。

「オスマントルコ時代の天文書」 「1894年、オスマントルコで出版された天文書。西洋から摂取した近代天文学と、伝統的なイスラム天文学の知識が混淆しています。石版印刷。」


表紙はあずき色の革装丁で、そこに凝った空押し模様が施されています。
この本は、「博物蒐集家の応接間」のイベントの際は、表紙を閉じたままガラスケースに入っていたので、来場された方も、中身をご覧いただくことはできませんでした。
ちょっと勿体ぶりつつ、改めてその表紙を開くと…

(本文は薄黄色の紙に、石版で刷られています)

冒頭からイスラム情緒全開です。

これがアラビア語なのか、ペルシア語なのか、あるいは更に別の言語なのか、その判別もできないぐらい、私はイスラム文化にうといのですが、でも遠い存在だからこそ、憧れが生まれる余地もある…とは、前にも書いた通りです。(にわか仕込みの知識で見直すと、文中にペルシア語だけで使う文字が見て取れるので、ペルシア語なのかな?と想像しますが、ぜんぜん違うかもしれません。)


いちばん下の図は、おそらく月の満ち欠けを示す月相図
イスラム暦(ヒジュラ暦)は太陰暦の一種なので、毎月の日にちと月相が一致します。この図は、円の全周を29の区画に分かち、一番右側の、時計でいえば3時の箇所だけ、他よりもちょっと大きくなっています。イスラム暦は、29日の「小の月」と、30日の「大の月」の繰り返しから成り、ひと月は平均29.5日ですから、この箇所に1.5日分を配当しているのでしょう。

となると、真ん中の図は月の満ち欠けの説明図であり、似たような図は中世の書物にも載っています。

(英語版wikipedia「Astronomy in the medieval Islamic world」の項より。

では、いちばん上の図は何か?…と思ってじっと凝視すると、プトレマイオス的天動説の説明図のように見えます。すなわち、地球を中心に置いて、いわゆる周転円の概念を用いて天体の運行を解いた図。これまた中世のイスラム黄金時代を経由して、古代の知識が近代まで持ち伝えられた例と言えるかもしれません。

(出典同上)


こちらは天動説的な太陽系図のようでもありますが、やっぱり地動説的な多殻天球図かも。

とはいえ、こうした図がどこまで19世紀末のオスマン朝で、真面目に受け止められていたのか?あるいは、天文学史を説明する項目において、過去の学説として紹介されているだけなのかもしれず、その辺がボンヤリしています。

そもそも、「イスラム黄金時代」というような言葉を使って、自分は何かを分かった気になっていますが、そこからして相当あやふやで、ましてや近世以降のイスラム世界における科学の概況なんかは、完全に知識のブランクになっています。


そんな次第にもかかわらず、この異国の天文教科書に手が伸びたのは、まさに私自身の憧れのしからしむるところで、遠い世界への憧れなしには、そもそもこのブログ自体成り立ちませんから、それはそれでよいのです。


(…と開き直りつつ、さらにこの項つづく)

空の旅(5)2017年04月18日 23時02分49秒

さて、これまでのところは、カタラン・アトラスから始まって、天文石板、アストロラーベと、みんな複製品でした。天文アンティークも、時代をさかのぼるとなかなか本物を手にすることは困難です。

簡単に手に入るのは、ここでもやっぱり紙物で、今回はこんなものも並べました。

(紙片のサイズは約22.5×18cm)

傍らのプレートの説明は、以下の通り。

 「イスラム暦術書の零葉 「1725年、北アフリカのイスラム世界で編纂された暦書の一頁。太陽・月・惑星の位置を計算するためのパラメーターをまとめたもの。こうした天文表の歴史は非常に長く、イスラム以前のササン朝ペルシアの頃から、各種作られてきました。」

何となくもっともらしく書いていますが、これは売り手(フロリダの写本専門業者)の説明と、ネット情報を切り貼りした、完全な知ったかぶりに過ぎません。
私にその当否を知る術はなく、そもそも写真の上下の向きがこれで合っているのか、それすらも自信がありません。それでも、これが天文表の一部であることは、その体裁から明らかでしょう。

(裏面も同様の表が続きます)

この種の天文表を、イスラム世界では「Zij」――この名称は織物の「縦糸と横糸」に由来する由――と称し、説明プレートにも書いたように、これまで多くのZijが作られてきました…というのも、さっき英語版wikipediaの「Zij」の項を見て知ったことです(https://en.wikipedia.org/wiki/Zij)。

(インクには膠(にかわ)質の成分がまざっているのか、角度によりポッテリと光って見えます)

18世紀といえば、すでに西洋の天文学が、近代科学として確立した後の時代ですから、今さらイスラム天文学の出番でもなかろうとも思うのですが、ちょっと想像力を働かせれば、この1枚の紙片の向うに、古のイスラム科学の黄金時代が鮮やかに浮かび上がる…ような気がしなくもありません。

(ページの隅に圧された刻印が、いかにもイスラム風)


(この項つづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ふと、今は幕末の世なのか…と思うことがあります。
その独断的な強権姿勢が、井伊直弼の姿を彷彿とさせるからです。
でも、眼前に見る奢り高ぶりや、浅ましい腐敗の横行を見ると、むしろ古の平清盛や、鎌倉を滅亡に導いた北条高時に、一層近いものを感じることもあります。

いずれにしても、勝手専横な振舞いや、強権腐敗は道義の退廃を招き、阿諛追従のみの愚かな取り巻き連中は、その主を守る力や気概を急速に失い、そうなると政権が自壊するのも時間の問題だ…というのが、歴史の教えるところです。

安倍氏も、せめて晩節だけは汚さぬよう、そして過去の権力者たちのような悲惨な最期を遂げぬよう(清盛は異常な高熱に斃れ、高時は自刃し、直弼は桜田門外の雪を朱に染めました)、よろしく身を処していただきたいと切に思います。

空の旅(4)2017年04月16日 17時56分05秒

天文アンティークというと、何となく西洋の品に目が向きがちですが、天文学が生まれ育った土地は、いわゆる西洋の外側です。

昔々、天文学が発達したのは、四大文明発祥の地ですし、栄えあるギリシャ科学を受け継ぎ、発展させたのは、東方のヘレニズム文化と、その後のサラセン文化でした。

まあ、わが家にそんな歴史遺産があるわけはありませんが、それでもそうした事実をイメージさせる品を並べて、天文アンティークの枠を少し広げたい気がしました。

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(説明プレートはantique Salonさんに作っていただきました)

たとえば、以前も載せた紀元前の天文石板(正確には粘土板)と、はるか後代のアストロラーベ


残念ながらいずれも複製品ですが、本来の絶対時間でいうと、ここには2千年近くの時間差があります。

しかし――あるいはだからこそ――両者を並べて見る時、西アジアで星座が生まれた遠い昔のことや、精巧な儀器を生み出した工人の黒い指先、星の運行の秘密を解き明かした学者先生の長いあごひげ、そして彼の地の人々が星を見上げて過ごした幾十万もの夜の光景などが、いちどきに思い起こされて、何だか西域ロマンにむせかえるようです。

今、安易に「ロマン」という言葉を使いましたが、ナツメヤシの葉擦れ、乾いた透明な空に輝く満天の星、研ぎ上げた鎌のような新月…こうした状景は、暗い北ヨーロッパの人にとっては、実際ロマンに違いありません。

その心情を、欧州の人が心置きなく吐露できるようになったのは、ヨーロッパがイスラム世界を軍事的・文化的に圧倒した、近代以降のことですが、中世の十字軍などというのも、あれは一種の東方コンプレックスに基づく振舞いだったのでしょう。

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ここで、解説プレートの文字を転写しておきます。

石板の方は、「紀元前200年頃、古代オリエントのセレウコス朝期の天文暦の一部(複製)。有翼の蛇に乗る獅子と、その先に輝く木星が粘土板に刻まれています。獅子は今の「しし座」、蛇は「うみへび座」に当たると言われます。」

そして、アストロラーベの方は、「17世紀、アラビア海周縁のインド-ペルシャ世界で使われた両面アストロラーベ(複製)。表面と裏面が、それぞれ南北両天に対応しています。円盤の中心は天の北極・南極を、唐草模様の葉の尖端は主要な恒星の位置を示しています。アストロラーベは、天体の位置を簡単に知ることができる道具として、イスラム世界で特に発達し、中世後期以降はヨーロッパでも作られるようになりました。」

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石板の方は既出なので、以下、アストロラーベの細部を見ておきます。


アストロラーベのレプリカは、今もインドで大量に作られていて、その大半は土産物的な粗悪な品です。時代付けして、「アンティーク」と称して売っているものもありますが、そうなると完全なフェイク(偽物)です。

上の品は同じレプリカでも、ごく上手(じょうて)の部類に属するもので、かなり真に迫っています。最初からレプリカとして販売されていたので、フェイクではありませんが、黙って見せられたら、一寸危ないかもしれません。(そもそもアストロラーベのフェイクは、昔からさまざまあって、グリニッジのコレクションにもフェイクが混じっていることを、グリニッジ自身が認めています。)


このアストロラーベは、上記のように、両面使えるところが特徴で、後の南北両天用の星座早見盤の元祖のような品です。


安易な鋳造ではなく、彫りの技によって正確に線を刻んでいる点に、作り手の本気具合を感じます。



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どうでしょうか。ともあれ、ヨーロッパだけを見ていては、「空の旅」もロマンに欠けますし、旅の全行程のごく一部しかたどることはできません。

空を見上げながら、さらに遥かな旅を続けることにします。

(この項つづく)

空の旅(3)2017年04月15日 16時41分13秒

「空の旅」のアイデアを考えたとき、最初に思いついたのは、「カタラン・アトラス(カタロニア地図)」と呼ばれる、中世の世界地図を背景に、天文学の歴史を物語ることでした。

カタラン・アトラスは、1375年にカタロニア(カタルーニャ)で製作されました。
当時知られた「全世界」を詳細に図示したもので、その範囲はヨーロッパを超え、アジア世界を横断し、極東の島々にまで及びます。地図上には多くの城が聳え、偉大な王の姿が描かれ、海には船が浮かび、ラクダに乗った隊商が陸地を横切っています。

これこそ「旅」をテーマにした展示に相応しい品。

(カタラン・アトラスに描かれたペルシャ湾をゆく帆船)

さらに、その絵筆は地上世界を超えて、巨大な天球までも描破しており、これは通常の「世界地図」の枠に収まらない「宇宙地図」と呼ぶべきものですから、ぜひ「空の旅」の背景に据えたいと思いました。

   ★

カタラン・アトラスは、高さ65cm、幅300cm もある巨大な横長の地図です。
元は50cm 幅×6枚、現況はさらに半幅の25cm 幅×12枚に切断されて、木製パネルに貼り付けた屏風状の形態で、フランス国立図書館に所蔵されています。

有名な地図なので、これまで何度も複製が作られており、私が今回並べたのも、2000年にバルセロナで出版された、そうした原寸大複製の1つです。


オリジナルと同じように、25センチ幅の縦長の地図が2枚見開きで装丁され、全部で6分冊になっています。


第1分冊は、地図の左端に当る部分。カタロニア語によって、当時の天文学や占星術の知識が記されています。まさに、この図が「宇宙地図」であるゆえんです。


そして第2分冊の天球図を経て、第3分冊以降の世界地図へと画面は続いていきます。

(この図は、地球から恒星天に至る同心球状の宇宙構造と、黄道十二宮、そして1年間の暦を表現していると思うのですが、詳細は不明。オリジナルの金彩が、金の特色刷りで美しく再現されています。)


ヨーロッパと北アフリカの地中海世界から、ロシア、中央アジアを経て、さらに東へ。


西のカタロニアから見れば東の果て、ロシアとブルガリアの国名が見えます(右下は黒海)。


右側に舌のように伸びるのは「紅海」。
この呼称はギリシャ語に由来するそうですが、地図の製作者は文字通り「赤い海」を想像したのでしょう。これまたカタロニアから見れば、遠い異世界です。

そして、画面は東アジアへ。




右下に見える「CATAYO」は、英語で言う「Cathay」で、本当は北方の契丹(きったん)に由来するそうですが、ヨーロッパでは古く中国のことを、この名で呼びました。

中国東方に散在する島々は、中国南部から東南アジアにかけての島しょ群を漠然と描いているのでしょうが、この中にはきっとジパングも含まれているはず。

   ★

今回、「空の旅」をテーマに表現したかったものこそ、まさにこのエリアで3千年の長きにわたって続けられた「旅」の風景でした。

会場のレイアウトの都合で、カタラン・アトラスを背景に…とはいきませんでしたが、カタラン・アトラスを立て並べた脇に、サブテーマである「古今東西」をイメージした品を並べることができました。

(カタラン・アトラスの地図部分の全容)

(この項つづく)

空の旅(2)2017年04月13日 22時06分35秒

今回学んだのは、「ディスプレイの道は奥が深いなあ」ということです。

例えば本を展示するというのも、これがなかなか難しい作業。
ここに印象的な天文古書があるとして、私としては一冊の本を前に、あのページ、このページ、いろいろな構図がいっせいに脳裏に浮かんで、「これなら展示に堪えるんじゃないか」と思うのですが、実際に並べるときは、どれか1ページしか開けないわけで、知らない人が見たら、汚れた古本がポンと置かれているだけ…ということにならざるを得ません。


ネット上でヴァーチャル展示する場合は、そういう制約がないので、中身を存分に紹介できるのですが、リアルな展示というのは、その辺の縛りがきつく、なかなか本一冊を並べるのでも、その「見せ方」は難しいです。

幸いなことに、今回はantique Salon さんら、ディスプレイに関してはプロの方が展示を手がけられ、さらに展示意図を補強するためのキャプションも添えていただいたので、望みうる最高の展示となりましたが、それでもご覧になった方は、ちょっと地味な印象を受けたのではないかと思います。

   ★

もっとも、これはディスプレイの問題にとどまらず、「天文古玩的世界」(と仮に呼びますが)の本来的な性格に因るのかもしれません。

たしかに、豪奢なオーラリーとか、極彩色の天球図とか、精巧な天文時計とか、そういう艶やかなものをずらりと並べれば、ビジュアル的には人目を引くでしょうが、そういう品が手元にないという、自明な前提は脇に置くとして、基本的に天文古玩的世界は、半ば思念の力に支えられた、イマジナリーな世界です。

例えるなら、『宮沢賢治の世界展』を開くとして、そこに賢治の初版本や、ゆかりの品々をずらり並べても、それを見ただけで賢治の世界を理解できることは、おそらくないでしょう。賢治世界というのは、やはり作品を通して成立する、モノを超えたイマジナリーな世界です。

モノというのは、ときに興味深く、ときに美しく、ときには聖性すら帯びますが、神像を拝む人が、本当は神像ではなく、その向うの神様を拝んでいるように、天文古玩的世界も、モノは一種の触媒に過ぎず、本当はモノによって賦活される「理」や「情」の世界こそが肝だと思います。

以前の話を蒸し返しますが、『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが時計屋の店先で、星図や星座早見盤にじっと見入るシーン。あれも、ジョバンニが学校で銀河についての授業を受けていなかったら、あるいは友人カンパネルラの家で銀河の本を読んでいなかったら、あれほどジョバンニの心を惹きつけたかは疑問です。

天文アンティークというのは、背景となる知識があればこそ、その魅力が光を放つものであり、それがなければ、単に「薄汚れたガラクタ」と思われても仕方ありません。

   ★

…と、単体では自立しがたいモノを並べたことに対する言い訳めいた感じがなくもないですが、当日展示したモノについて、ここで再度思いの丈を語りながら、紙上ならぬ画面上展示を試みることにします。(それでも、なおモノが光を放たなかったとしたら、それは私の語り口が不味いせいです。)

(この項つづく)


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閑語(ブログ内ブログ)

「深い淵は決して音を立てない。
 浅い川ほど大きな音を立てる。」

という金言があります。
もちろん、ここで浅い・深いというのは、人間の度量の大きさといったようなことで、やかましく騒ぎ立てるのは大抵浅い人間だと、昔から相場が決まっています。

しかし、ここに来てどうでしょう。
やかましく騒ぎ立てているのは、他ならぬ私自身であり、淵の如く静まり返っているのは世間一般です。まあ、私の底が浅いのは進んで認めますが、それにしても…。

狂った政体というのは、昔からたくさんあるので、今の日本の政権もそのワン・オブ・ゼムに過ぎないし、そういうものとして彼らは存在しているのだ…というのは、(不愉快な事実ですが)理解はできるのです。

しかし、それを前にして、この静けさはいったいどういうわけでしょうか。
警察国家のように、何か言えば即しょっぴかれる、というなら沈黙を強いられるのも分かります。しかし、現政権はそうした国家を目指しながら、実際にはまだ道半ばであり、今はまだ何でもものが言える世の中です。それなのになぜ? わが同胞は、私の浅い理解を超えて、途方もなく度量が大きいのか?

これまで、自分なりにいろいろ人間を観察してきましたが、この疑問はそれこそ淵の如く、なかなか深いです。


空の旅(1)2017年04月11日 22時18分38秒

先月下旬、神保町の三省堂で開催された「第5回 博物蒐集家の応接間」は無事に終わりました。

既報のように、私も antique Salon さんに誘っていただいて、お味噌参加したのですが、なかなか時間も乏しく、十分な準備ができませんでした。かと言って十分時間があれば、あれ以上のものができたかと言えば大いに疑問で、やっぱりあれが私の限界なのでしょう。

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会期中の場内の雰囲気は、主催者である antique Salon  さんによる以下のページでご想像いただけると思います。

■第5回 博物蒐集家の応接間 旅の絵日記 を終えて
こういう耽美な会場の隅に、ちょっと地味な一角があって、それが「天文古玩的旅イメージ」のコーナーなのでした。


これのどこが「旅」なのか?
ここで「旅人」になぞらえられているのは、「人類」ないし「天文学という知の営み」です。


「彼/彼ら」は、遠い昔、ユーラシアの一角で旅ごしらえをし、古代ギリシャでその足を鍛えると、イスラム諸王朝、インド亜大陸、中央アジア、東アジアをくまなく歩きまわり、ヨーロッパ世界でその旅装束を一新しました。(本当は南北アメリカにも、彼の兄弟がいるのですが、そちらには目配りできませんでした。)


その長い旅の果てに、再びギリシャの地に立ち寄った彼は、こんな記念の品を残しています。


1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

(もう少し展示の話を続けます。この項つづく)