ギンヤンマの翅に宿る光と影2017年03月23日 06時58分41秒

家人の体調が思わしくなく、いろいろ不安に駆られます。
人の幸せや平安なんて、本当に薄皮1枚の上に成り立っているのだなあ…と痛感させられます。

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先日、奥本大三郎氏の昆虫アンソロジー『百蟲譜』を読みました。
さらにそこから思い出して、同氏の『虫の宇宙誌』を再読していました。

(奥本大三郎 『百蟲譜』、平凡社ライブラリ、1994/同 『虫の宇宙誌』、集英社文庫、1984)

前にも書いた気がしますが、私は後者に収められている「昆虫図鑑の文体について」という文章を、ひどく気に入っています。

「昆虫趣味」から「昆虫図鑑趣味」へ…というのも、趣味のあり方として、かなりの変格ですが、さらに図鑑に盛られた文体を論じるとなれば、これはもうスピットボール並の、超のつく変革です。でも、変格のようでいながら、奥本氏の感じ方は、やっぱり昆虫好きに共通する心根であり、正当な本格派である気もします。

そんな奥本氏が、古い昆虫図鑑の向うに見たイリュージョン。

 「当時〔小学生のころ〕、平山図譜〔平山修次郎(著)『原色千種昆蟲図譜』〕のギンヤンマの図版を見ると、きまって一つの情景が浮かんできた。夏の暑い昼下り、凛々しい丸坊主の少年が、風通しのよい二階の畳の上に腹這いになって、興文社の「小學生全集」の一冊を見ている。すると下から「お母さま」の、「まさをさーん」と呼ぶ声がする。その高い声は、雨ふり映画のサウンド・トラックから出た声のように語尾がふるえて聞こえるのである。」 (文庫版p.65。〔 〕内は引用者)

(ギンヤンマ。平山修次郎 『原色千種昆蟲図譜』、昭和8年(1933)より)

 「そういう、いつかの夢で見たような、フシギな、なつかしい情景が、ギンヤンマの図と結びあって私の頭の中に出来上ってしまっていた。まさか前世の記憶という訳でもあるまい。私が戦前の少年の生活など知っているはずはないのだ。多分うちにあった昔の本や、「少年クラブ」に載った、まだ戟前の余韻を引いている高畠華宵や山口将吾郎それに椛島勝一の挿絵その他のものが頭の中でごっちゃになっていたに違いない。ともあれ私は、平山図譜の、その本の匂いまでが好きになった。何でも戦前のものの方が秀れていて、しつかりしている……本でも、道具でも。そういう固定観念がなんとなくあったような気がする。」 (同pp.65-66)

(同上解説)

奥本氏は昭和19年(1944)生れですから、ご自分で言われるほど、「戦前の少年」と遠い存在でもないように思うのですが、でも、そこには終戦という鮮やかな切断面があって、やっぱり氏にとって「戦前」は遠い世界であり、遠いからこそ憧れも成立したのでしょう。

この思いは、何を隠そう私自身も共有しています。
別に、「戦前のものだからエライ」ということはないんですが、でも「これは戦前の○○なんですよ」と書くとき、私は無意識のうちに「だからスゴイんだぞ!」というニュアンスを込めているときが、たしかにあります。

この辺は、大正時代に流行った「江戸趣味」に近いかもしれません。
大正時代には、江戸の生き残りの老人がまだいましたが、「江戸趣味」にふけったのは、江戸をリアルタイムで知らない若い世代で、知らない世界に憧れるのは、いつの時代にも見られる普遍的現象でしょう。

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と言いつつも、「戦前」を手放しで称賛するわけにはいきません。
やはり「戦前」は、暗い面を持つ、無茶な時代でした。
以下、いつもなら「閑語」と称して、別立てで書くところですが、連続した話題なので、そのまま続けます。

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治安維持法よろしく共謀罪を国民支配の恰好の道具と考え、戦前のこわもて社会の再来を待ち望む人が、見落としていることがあります。

それは、戦前への回帰はもはや不可能だ…という、シンプルかつ冷厳な事実です。
なぜなら、あれほど強権的な政治が行われたのに、戦前の社会が活力を維持できたのは、為政者が潤沢な人的資源の上にあぐらをかき、人的資源の浪費が許された時代なればこそだからです。

端的に言って、明治以降の日本の発展と対外膨張策を支えたのは、近代に生じた人口爆発であり、その担い手は「農村からあふれ出た次男坊、三男坊」たちでした。

しかし、今の日本に、もはや浪費し得る人的資源はありませんし、それを前提にした社会も成り立ちようがありません。農村には次男・三男どころか、長男もおらず、農村そのものが消失してしまいました。

かといって、都市部が新たな人口の供給源になっているかといえば、まったくそんなことはなくて、今や日本中で出生率の低下が続いており、東京なんかは地方の消滅と引き換えに流入する人口によって、一見活況を呈していますけれど、遠からず都市機能の維持が不可能になることは目に見えています。

「じゃあ、それこそ『産めよ増やせよ』か」
…と言われるかもしれませんが、為政者に差し出す「壮丁」を増やすための政策なんて真っ平ごめんです。

それでも、この社会をきちんと次代に引き継ぐつもりなら、もはや「戦前ごっこ」に興じたり、弱い者いじめをして喜んだりしている暇はなくて、子どもの貧困問題にしろ、経済格差の問題にしろ、介護現場の悲鳴にしろ、もっと真面目にやれと、声を大にして言いたいです。

役人は作文が上手なので、各種の白書とかを見ると、いかにも長期的なビジョンがあるように書かれていますが、実態はその場限りのやっつけ仕事が大半で、まったく信が置けません(中には真面目なお役人もいると思いますが、そういう人ほどたくさん仕事を抱えて、じっくり考える余裕がないように見えます)。

「今こそ百年の計を」(ドン!)と机をたたいて然るべき局面だと、私は思います。
これ以上、民を委縮させ、痛めつけるようなことをして、そんな馬鹿が許されるものか(ドン!)と、ここで再度机を叩きたい。

旅人未満2017年03月19日 09時24分42秒

永六輔・作詞、中村八大・作曲でヒットした「遠くへ行きたい」。

 知らない街を 歩いてみたい
  どこか遠くへ行きたい
 知らない海を ながめてみたい
  どこか遠くへ 行きたい 

ウィキペディアによれば、この歌の発売は1962年で、ずいぶん古い歌です。
私の耳に残っているのは、その後1970年に始まった旅番組、「遠くへ行きたい」の主題歌として、頻繁に流れるようになってからのことと思います。

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知らない世界を求めて、「今ここ」から「どこか遠くへ」と向かうのが旅。
その中には、知らないモノを求めてさまよう「蒐集の旅」というのもあります。
世界中を自分の足で歩き、不思議な店の門をくぐり、にぎやかなマーケットを覗き、未知のモノを探し出して、トランクに詰め込む。

できれば私もそんな旅がしたいのですが、己の性格と生活環境のしからしむるところにより、自室のディスプレイの画面を、老いた釣り師の如くじっと眺めて、未知のモノが針にかかるのをひたすら待つ…ぐらいが今は関の山です。

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以前ご紹介した(http://mononoke.asablo.jp/blog/2017/02/25/)、「第5回 博物蒐集家の応接間 “避暑地の休暇 ~旅の絵日記~”」の開催まで、あと一週間を切りました(会期は3月25日(土)~29日(水)まで)。

この旅をテーマにしたイベントに、旅をしない自分が、どう関わればいいのか迷いましたが、考えてみれば、人間は――大きく言えば人類は――世界と自分を知るために、長い長い旅を続けているようなものですし、星の世界とのかかわりも、そんな旅の1ページなのだ…と達観することにしました。

そんなわけで、天文の歴史を旅になぞらえた「空の旅」という小さなコーナーを、会場の隅に作っていただくことになりました。

例によって品数が少ないので、その展示意図が伝わらないといけないと思い、あえて「洒落の解説」のような不粋な真似をしましたが、私のささやかな意図はそういうことです。

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先日、針にかかったミッドセンチュリーのタイピン。


彗星を収めた小さな宇宙空間。
この「星界の旅人」を胸元に覗かせて、三省堂の会場内を、旅人のような顔つきで歩いている人がいたら、それは私です。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

政治というのは利権が絡むものですから、政治家の中には悪に手を染める人もいる…というのは、時代劇を見ても分かる通りで(そういえば、最近時代劇が少なくなりましたね)、そのことに驚く人はいないでしょう。

それにしてもです。
特定秘密保護法とか、安保関連法とか、共謀罪創設とか、働かせ放題法とか、その他何とかかんとか。安倍氏とその取り巻きが、これほどまでに遠慮会釈なく、大っぴらに悪事を重ねるのを見て、怒りも恐怖も通り越して、一種の異界感すら覚えます。

彼らは、なぜこれほどやりたい放題を続けられるのか?
もちろん、議会の多数を占めているという根本原因があるのですが、話を聞いてみると、それ以外にもいろいろカラクリがあるのだそうです。

例えば、政治家と官僚は、癒着もする一方で、互いに強く反目しているわけですが、その抵抗をそぐための手法が、人事(と予算)の掌握です。安倍氏の場合、第2次政権の発足と同時に、以前からあった内閣人事局構想の具体化に向け全力で動き出し、これによって官僚を無力化することに成功したことが、その権力のベースにあるという話。これは、官僚を意のままに操ることのできる、いわば「魔法の杖」です。

そして、この魔法の杖をぶんぶん振って、司法人事にも介入し、検察や裁判所までも骨抜きにしてしまおう…と狙っているのだとか(その完成も間近だそうです)。

さらに、時の権力者が、ダークな力をふるうための便利な財布が、内閣官房機密費で、これは政権の如何によらず、昔からあるのだそうですが、完全に使途不明のお金だけに、やろうと思えば何でもできてしまうという、これまた実に恐ろしい「杖」です。マスコミが急速に無力化した背景には、この後ろ暗いお金の存在があるらしい…と風聞します。実際、鼻薬を嗅がされた人、弱みを握られた人も相当いるのでしょう。

こんなふうに、抵抗勢力を排除する手法を洗練させ(嫌な洗練ですね)、うまく排除に成功したのが安倍氏とその周辺で、実に鮮やかな手並みと言わねばなりません。我々庶民は、「お上」にうまうまとやられぬよう、こういうことを「世間知」として知っておく必要があると思います。

安倍氏に限らず、その手法に学ぶ政治家は、今後も必ず出てくるからです。


日本のグランドアマチュア天文家(5)2017年03月16日 22時57分18秒

萑部氏自身のことは不明ですが、萑部氏が所有していた望遠鏡(あるいは反射鏡)については、前々回も引用したように、戦後、横浜で開催された博覧会に出品された…という情報があります。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤),6吋屈折(赤)などを持ち、〔…〕その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品)を持っており,これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」 (『正編』、p.319)

さらに『続編』には、

 「兵庫県の萑部進は26cm反射を1933年に購入した。架台は西村のドイツ式赤道儀で、後にリンスコットの46cm反射を輸入し換装、15cmのレイの屈折が同架された。この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」 (『続編』、p.282-3)

とも書かれています(筆者は冨田弘一郎氏)。

後者の記述によれば、萑部氏の「六甲星見台」のメイン機材は、木辺氏が手がけた例の26cm反射鏡から、元々手元にあった46cmリンスコット製反射鏡に置き換えられたというのですが、戦況の緊迫する時期にあって、それが出来たとは到底思えないので、これは「後に…輸入し」というのと併せて、誤伝でしょう。46cm鏡は、『正編』の記述のとおり、望遠鏡未満の単品の状態で手元に留め置かれたものと思います。

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その巨大な反射鏡が、戦後、横浜で開催された博覧会(正式名称は「日本貿易博覧会」。会期は、昭和24年(1949)3月15日~6月15日)に出品された…というのも、何だか茫洋とした話ですが、この件については、天文古書の販売で有名な「いるか書房」さんが、詳しく調べて記事にされています。

昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書

ここでも諸説紛々、関係者の証言は互いに矛盾・錯綜しているものの、それらを取捨して、ある程度蓋然性のあるストーリーを組み立てると、横浜の博覧会に展示されたのは、たしかに萑部氏の望遠鏡であり、その前後の事情は以下のように想像されます。

すなわち、

○萑部氏は戦後、自機一式(26cm反射望遠鏡、同架の15cm屈折望遠鏡、西村製架台、そして46cm反射鏡)を、すべて手放すことにした。
○ちょうど博覧会の準備を進めていた横浜市が、それを購入。
○横浜市は、五藤光学に望遠鏡のレストアを依頼。
○五藤光学は46cm用鏡筒を新たに製作し、26cm望遠鏡と換装。
○こうして、旧蔵者の萑部氏が待ち焦がれた46cm望遠鏡がついに完成した。

…という筋書きです。

これは、博覧会の絵葉書に写っている望遠鏡(いるか書房さんの上記ページ参照)と、木辺氏の記事に載っている望遠鏡の架台(ピラー)の形状がよく似ていると同時に、望遠鏡本体は明らかに大型化しているという、至極単純な理由に基づく想像なので、全然違っているかもしれませんが、でも、あり得ないことではないでしょう。

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この望遠鏡と、それを収めた「天文館」は、博覧会終了後も、そのまま公共天文台としてアマチュアにも開放されていたようですが、望遠鏡の方は後に横浜学園(上で引用した冨田氏は「横浜学院」と書いていますが、これは横浜学園が正しい由)に譲られ、今も同校にあるそうです。

上の推測が正しくて、戦前のグランドアマチュアの残り香が、かすかに浜風に乗って漂っているのだとしたら、ちょっと嬉しい気がします。


【付記】

いるか書房さんが引用されている諸々の記事の中には、横浜に伝わった望遠鏡を「英国トムキンス製」とするものがあります。また、萑部氏が輸入した鏡面は、同じ英国の「リンスコット製」だと伝えられます。このトムキンスにしろ、リンスコットにしろ、あまり聞き慣れないメーカーなので、以下にちょっと確認しておきます。

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まず、「英国トムキンス」というのは、誤伝ではないでしょうか。
いるか書房さんも言及されていますが、トムキンスというのは、戦前を代表する大型望遠鏡である、京大の生駒山天文台の60cm反射望遠鏡の製作者として知られ、「大型望遠鏡といえばトムキンス」というイメージから、どこかで話が混線したように思います。そもそもトムキンスはイギリスではなくアメリカの人です。

下の大阪朝日の記事は、「アメリカのアマチュア天文学徒トムキンス氏」と記しており、その伝は未詳ですが、専業メーカーではなく、当時アメリカで熱を帯びていたATM(Amateur Telescope Making)、すなわち熱心な鏡面自作マニアの一人でしょう。なお、この60cm望遠鏡は、1972年、生駒山太陽観測所の閉鎖とともに飛騨天文台に移され、今も現役です。

大阪朝日新聞 1940.5.17 (神戸大学 新聞記事文庫)

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一方、リンスコットというのは、イギリスの有名な鏡面製作者ウィズ(George Henry With、1827-1904)が引退して商売をたたんだ後、その用具一式を買い取って、鏡面製作に励んだ J. Linscott のことだと思います。ドーバー海峡沿いのラムズゲートの町で、鏡面作りを商売にしたリンスコットのことは、「Journal of the British Astronomical Association」に載った下記論文の巻末註9にチラッと出ています。

■Jeremy Shears: The controversial pen of Edwin Holmes.


日本のグランドアマチュア天文家(4)2017年03月15日 07時20分37秒

戦前の神戸で、「おしどり天文家」として活躍された萑部進・守子夫妻。
そのライフスタイルの背景に注目してみます。

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萑部進(ささべすすむ)氏は、明治25年(1892)、島根県松江市の生まれ。

大正5年(1916)に東京高商、今の一橋大学を卒業すると同時に、三井物産に入社し、船舶部に勤務されました。その後、大正8年(1919)にはアメリカ、そして大正9年(1920)にはロンドンと、海外勤務を経験された後、「船舶部遠洋掛主任」となり、さらに昭和11年(1936)には「船舶部長代理」の要職に任じられています。

その自宅に「六甲星見台」を建て、星の観測に熱中していたのは、ちょうど船舶部長代理のポストに就く前後のことになります。もちろん、商社の海上輸送部門の責任者が閑職だったはずはないので、相当な激務の中、余暇の時間を大切にしながら、天体観測に励まれたのでしょう。

昔のイギリスの「グランドアマチュア」には、「働かなくても食べていける人」というニュアンスがあったので、萑部氏の場合、そこだけはちょっと違うかもしれません。

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で、肝心の「六甲星見台」の位置ですが、萑部氏のご自宅は「灘区高羽曽和山」にあった…と資料には出ています。地図を見ると、神戸大学の六甲キャンパスの南麓に、今も高羽町という町名があって、その近くに「曽和山マンション」というのが、グーグルマップだと表示されます。たぶん、その付近に白亜の「六甲星見台」はあったのでしょう。

この間、萑部氏のお名前が人名録に登場するのは、管見の範囲では、昭和3年(1928)発行の交詢社版『日本紳士録』(第32版)が最初で、会社員ながら所得税の高額納税者として、紳士録に名を連ねています。

著名な企業のエリートサラリーマンとはいえ、一介の勤め人が何故?…と、一瞬思いましたが、でも改めて考えたら、この事実こそ当時の「財閥」というものの性格を、はっきり物語るものではないでしょうか。もちろん、三井物産は今も大企業ですが、その社会的意味合いにおいて、戦前の同社は、現在とは少なからず異なっていたように思います。

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一方、守子氏の方も、夫君と同じ島根県の生まれで、生年は明治31年(1898)。

地元の高等女学校を卒業され、その後、進氏と結婚されたわけですが、長女を出産されたのが大正10年(1921)、守子氏23歳のときですから、おそらく学校を出て、あまり間を置かずに萑部家に嫁がれたのではないでしょうか。そして、進氏と共に海外生活も経験されたのでしょう。

ここで、洋装が板につく、細面で活発な、ジブリ的キャラクターを連想するのは、私の無邪気な空想に過ぎませんが、でも、夫妻を取り巻くムードはとにかくハイカラなのです。

(新緑を楽しむハイカラな二人。戦前の神戸のタクシー会社のマッチラベル)

昭和15年(1940)発行の『大衆人事録 近畿篇』を見ると(上に記した内容は、ほぼ同書に拠っています)、進氏の趣味は「声楽と天文学」であり、宗旨はキリスト教だと記されています。

前回、夫妻が変光星観測のデータを、アメリカのAAVSO(アメリカ変光星観測者協会)に報告していたことに触れましたが、そこにおける守子氏のお名前は、「Sasabe, Beatrice M.」となっていました(進氏はふつうに「Sasabe Susumu」)。夫妻は揃って洗礼を受け、ベアトリーチェ(あるいはベアトリス)が、守子氏の洗礼名なのでしょう。

1935年の当時を思い浮かべると、進氏43歳、守子氏37歳。
一男二女に恵まれたお二人は、六甲の高台から毎日海を眺め、星を眺め、音楽を愛し、そして神を賛嘆したのです。

私自身の生活経験とはあまりにかけ離れているので、この館で日々どんな生活が営まれたのかは、ぼんやり想像するほかありませんが、それでも何となく良い香りのする、いかにも戦前の神戸らしい、上質な生活がそこにはあったのでしょう。

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しかし、光あれば影あり。

その生活が光に満ちていればいるほど、その後、お二人が戦中・戦後をどう過ごされたのかが気にかかります。一応、図書館で戦後の人名録にも当ったのですが、そこに萑部氏のお名前は確認できませんでした。

戦時中は、船舶の徴用をめぐって軍との際どい折衝もあったでしょうし、戦争が終れば終わったで、例の財閥解体があり、新円への切り替えがあり、世の中がすっかり変わってしまったので、お二人の暮らしぶりも激変したであろうことは、想像に難くありません。でも、この辺のことは今のところ全く不明です。

ただ、あの巨大な望遠鏡がどうなったかについては、若干の伝聞情報があるので、最後にその点を見ておきます。

(この項さらにつづく)

日本のグランドアマチュア天文家(3)2017年03月14日 07時20分31秒

萑部進・守子両氏のお名前は、『改訂版 日本アマチュア天文史』(日本アマチュア天文史編纂会編、恒星社厚生閣、1995)、および『続 日本アマチュア天文史』(続日本アマチュア天文史編纂会編、同、1994)に、複数回登場します(以下、前者を『正編』、後者を『続編』と記すことにします)。

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まず夫君である進氏の名は、『正編』に9か所、『続編』に1か所出てきます。また、守子氏の名は、『正編』に7か所登場します。これは両氏がアマチュア天文家の中でも、相当熱心な活動家だったことを示す数字です。

その天文家としての活躍ぶりは、前回、木辺氏の文章でも挙げられていたように、惑星面、掩蔽(星食)、微光変光星と多岐にわたっていました。

東亜天文協会(現東亜天文学会)は、観測対象に応じてセクション体制をとっており、昭和9(1934)年には、進氏は「掩蔽課」に、守子氏は「遊星面課」に、それぞれ課員として名を連ね、昭和11(1936)年には、守子氏も掩蔽課員となっています。
(なお、当時の掩蔽はもっぱら月によるものを指し、惑星や小惑星による掩蔽観測は一般的ではありませんでした。)

また、変光星についても、夫婦揃って熱心な観測家で、進氏は438個、守子氏は29個の観測データを、東亜天文協会に報告しており、さらにアメリカのAAVSO(アメリカ変光星観測者協会)にも、進氏は249個、守子氏は14個のデータ報告を行なっています。

変光星の観測報告は、すべて昭和10(1935)年に行われたものですが、萑部氏に限らず、この年は東亜天文協会の内部で、ちょっとした「変光星ブーム」があったらしく、その前後に比べて、報告者も、報告数も、格段に多くなっています。

そのことは、『正編』172ページに所載の「東亜天文協会変光星観測リスト」に明瞭ですが、ここでいっそう注目されるのは、このリストに挙がっている55名の観測者中、女性は萑部守子氏と、京都の成川梅子氏の2名のみであることです。

さらに、『正編』の319ページには、以下の記述も見られます(筆者は重久長生氏)。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤)、6吋屈折(赤)などを持ち、変光星観測をやっていた〔註:吋はインチ、「赤」は赤道儀式の意〕。とくに夫人の方が熱心だったという。その他に18吋・リンスコット反射鏡(末組立品)を持っており、これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」

横浜云々のことは、また後でも触れますが、守子氏の熱心な観測ぶりは、こんなふうに周囲にも広く聞こえていたのでしょう。

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1930年代の神戸。美しい六甲の山裾に瀟洒な山荘風の屋敷を構え、専用の観測室と大型機材を持ち、夫婦そろって熱心に星を観測した人たち。

口径10インチが放つオーラも、女性が星を観測することの社会的意味合いも、当時と今では全く異なることにご留意いただきたいですが、何だか本当にタルホの小説に出てきそうな、いかにも浮世離れした二人です。

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そもそも萑部氏とは、どんな経歴の人物なのか?

興味は自ずとそこに向きますが、ネット上にはきわめて情報が乏しいので、図書館に行って、当時の人名録(いわゆる紳士録の類)を見てきました。さすがにこれだけの資産家ですから、その名前は載っていて、萑部氏の仕事向きのことも分かったので、日本アマチュア天文史の一断章として、簡単に触れておきます。

(この項つづく)

日本のグランドアマチュア天文家(2)2017年03月12日 09時04分08秒

青木氏からお知らせいただいたのは、萑部(ささべ)氏と、その私設天文台の様子を伝える、同時代の雑誌記事の存在でした。

それは、反射望遠鏡の鏡面製作者として有名な、木辺成麿(きべしげまろ、1912-1990)氏がかつて書いた、「六甲星見台の萑部氏の新反射赤道儀」という一文です。
掲載誌は、東亜天文協会(現・東亜天文学会)の機関誌『天界』1935年2月号。

「六甲星見台の萑部氏の新反射赤道儀」

木辺氏の文章は、少し要領を得ないところもありますが、概略は以下の通りです。

〇1934(昭和9)年7月、木辺氏は萑部氏から依頼を受け、翌8月からそのメイン機材の製作に取り掛かった。

〇萑部氏は、同年(1934)春に、イギリスから47cm 径の巨大な反射鏡〔註:他資料によればリンスコット社製〕を取り寄せていたが、それをすぐ望遠鏡に組み上げることは困難だったので、差し当たり、もう少し小型の眼視用機材を木辺氏に作ってもらいたい…というのが、依頼の趣旨。

〇望遠鏡の主な使途は、火星をはじめとする惑星面の観測、掩蔽観測、微光変光星の追跡。

〇依頼を受けて木辺氏が製作したのは、口径31cm の反射赤道儀式望遠鏡(自動追尾の運転時計付き)。ただし、実際に組み込んだのは31cm 鏡ではなく、暫定的に26.5cm 鏡を使用。

〇これに、15cm 径の屈折望遠鏡(レンズは英国レイ製)を同架。

〇光学部以外の一切は、京都の西村製作所が担当。

〇同年(1934)12月に機材完成。

その完成した機材と観測施設の外観が、上掲誌に載っています。

(キャプションは「新設された六甲星見台(萑部氏宅)の望遠鏡」。この上に更にルーフやドームが乗ったのかどうか、おそらく乗ったと思うのですが、その辺がはっきりしません。)

 
(同じく「六甲星見台の外観。白亜六角形の建物が観測室」。何だか、ジブリの「耳をすませば」に出てくる地球屋みたいな風情です。)

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これだけの大仕事を、当時まだ22歳の木辺氏が請け負ったというのも驚きですが、何と言っても目を引くのは、萑部氏というアマチュア天文家の存在です。しかも、その星見の舞台がハイカラ神戸と聞けば、これはもうタルホ世界に向けて一直線で、俄然興味をそそられます。

日本の「グランドアマチュア」と呼ぶにふさわしい萑部氏の事績を、さらに追ってみます。

(この項つづく)

日本のグランドアマチュア天文家(1)2017年03月11日 08時17分30秒

さて、どこまで話を遡らせればよいか…。

これまで何度か言及した、アラン・チャップマン著『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書)には、19世紀のイギリスを生きた、多様なアマチュア天文家が登場します。

彼らは、星に興味がある…という唯一の共通点を除けば、その社会的・経済的地位は実にさまざまで、まさに赤貧洗うがごときだった人もいれば、あきれるほどの富に恵まれ、巨大な機材を備えた私設天文台を作り、飽かず星を眺めた人もいます(チャップマン氏は、後者を「グランドアマチュア」と呼びます。即ち「大アマチュア」の意です)。

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そんな昔の天文マニアの生きざまに関心を持ち、キョロキョロしているうちに、かつての日本にも堂々たる貧窮スターゲイザーがいたことを知って、大いに勇気づけられました。それが、戦前に独学で詳密星図を作った草場修(1900-?)という人物です。

草場氏が活躍したのは昭和ヒトケタ、すなわち1930年前後のことで、英国ビクトリア時代の同輩と並べて論じるのは、いささか無理がありますが、氏の場合も、孤独な日雇い人夫として、さらには聾というハンデを持ちながらの活躍でしたから、まさに貧窮スターゲイザーの名に恥じぬ――というのは褒め言葉にならないかもしれませんが――あっぱれな御仁であったと言い切って差し支えありません。

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草場氏のことは、これまで何度も記事にしているのですが、下のページを足掛かりにして、前後をたどっていただければ、およそお分かりいただけると思います。

貧窮スターゲイザー、草場修(7)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編

私はその一連の記事の中で、山本一清の内弟子のような格好で、京大のスタッフにまでなった草場氏に対して、いく分揶揄するような記事を、雑誌「天界」に投稿した「萑部進・萑部守子」という人物について言及しました。そのときは、「これは草場氏を排撃するための匿名記事であり、萑部云々は仮名だろう」…というようなことを書きました(当時はそういう記事がわりと多かったです)。

貧窮スターゲイザー、草場修(10)…カテゴリー縦覧:天文趣味史編

でも、それは私の完全な間違いでした。
この萑部(ささべ、と読みます)というのは、紛れもなく両氏のご本名だということを、上の記事のコメント欄で、青木茂樹氏にご教示いただきました。

   ★

しかも驚いたことに、この萑部氏夫妻(進氏と守子氏はご夫婦です)は、草場氏とは対照的な、まさに日本における「グランドアマチュア」のような方だったのです。草場氏に注目したことで、期せずして、日本のアマチュア天文家の多様な姿を知ることができたのは、大きな収穫でした。

以下、萑部氏のことについて、今現在分かっていることを心覚えとしてメモ書きしておきます。

(この項つづく)


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▼閑語 (ブログ内ブログ)

安倍氏に対しては、何となく小物感を感じて、軽侮の念を抑えかねていました。でも、それは安倍氏にとって甚だ不本意なことでしょう。

ここはひとつ「平成の妖怪」と尊称すれば、氏としても、敬愛するお祖父さん(昭和の妖怪、岸信介)に大いに面目を施した形になりますし、さらに「平成の巨悪」として「平成の大疑獄事件」の果てに引退した…となれば、相当な大物感が漂いますから、氏にとって悪い気はしないはずです。平成の終わりが近い今、早く決断しないと、永遠にその機会が失われます。ぜひ英断を望みたいです。

…と、皮肉まじりに書くのは、私の信条に反しますけれど、でも安倍さんにはそんな矜持もないのかなあと、つくづく侘しく思います。

壺の中にも天地あり2017年03月08日 07時20分18秒

つくづく思うのですが、このブログの画像は、毎度毎度背景が同じですね。
たぶん見る人もそう感じるでしょうし、私自身苦にしているのですが、これはもうどうしようもないです。


自然光が入って自由になる空間は、とにかくこれだけしかないので、いつもこの赤茶けた机の上、わずか30cm四方のスペースにモノをのっけて、縦にしたり、横にしたり、苦労して写真を撮っているのです。まさに「方寸の地」。

しかし、「goo辞書」によれば、この「方寸」という言葉には、

 胸の中。心。「万事―の中にある」
 《「蜀志」諸葛亮伝から。昔、心臓の大きさは1寸四方と考えられていたことによる》

という意味もあるのだそうです。
となれば、まさに人の心は自由自在な一大天地ですから、この極端な制約の中でも、思いだけは気宇広大、精神を縦横無尽に羽ばたかせて、大地と海と空へ、さらに遠い宇宙へと向かうことにします。

まあ、四字熟語を使って無理に力む必要もないですが、これからも背景は変らねど、懲りずにお付き合いいただければと存じます。

宇宙鉛筆2017年03月07日 07時09分12秒

博物趣味っぽいモチーフを含む、ヴィンテージな絵柄のステーショナリーで知られる、サンフランシスコのカヴァリーニ社。

■Cavallini & Co.  

レターセットとか、付箋とか、紙物が目立つラインナップの中、同社のペンシルセットに目が留まりました。



銀の缶ペンケースに入った「Celestial Pencil Set」。
こういう過去の絵柄をそのままパクっただけの商品は、何となく芸がないと感じますが、普段使いする分には、ちょっといいかなと思いました。


絵柄は2種類、各5本の10本セット。


天球図と日食説明図の2種の天体モチーフが、一本一本に刷り込まれています。


お尻に消しゴムが付いているのもいいし、付属のシャープナーが木製なのも、好感が持てます。

カヴァリーニ社の製品は、日本でも流通しているので、すでに国内でも売られているかもしれませんが、これはeBayで見かけて、そのまま注文しました。
送料のいちばん安いイギリスの業者から送ってもらったのですが、製品自体は台湾で作られているので、エネルギー効率を考えると、ちょっと無駄が多かったです。ここは「地球をぐるっと一周して届いた宇宙鉛筆」という、その微妙な有難さに免じて、地球環境に許しを乞いたいと思います。

神戸の夢(3)2017年03月05日 14時38分06秒

西秋生氏が筆にした夢幻的な神戸。

その世界に入り込むための「鍵」をしきりに探したのですが、ここは足穂つながりで、彼の朋友であり、神戸モダニズムを代表する詩人、竹中郁(1904-1982)に注目してみます。

恥を忍んで告白すると、私は西氏の本を読むまで、竹中郁という人物をまるで知らずにいました。他にもそういう人はいらしゃるかもしれないので、最初に『ハイカラ神戸幻視行―紀行篇 夢の名残』の巻末に記された、その略伝を挙げておきます。

竹中郁
 詩人。明治37年(1904)、兵庫永沢町生れ、昭和57年(1982)歿。
 イナガキ・タルホと並ぶ「神戸モダニズム」のシンボル。特に昭和7年の詩集『象牙海岸』はモダニズム詩の最高峰と高く評価される。生まれ育った神戸を離れなかったため、東京中心の詩壇の評価は高くなかったが、生誕百年を機に、二十世紀を代表する詩人としての再評価が進んでいる。随筆集『私のびっくり箱』(のじぎく文庫、1985年)には主に戦前の美しい神戸の思い出が満載されている。
 全詩集に『竹中郁全詩集』(沖積舎、2004年)がある。



略伝で挙げられた『象牙海岸』(1932)の現物がこれです。
上品なモロッコ革を用いた四分三装幀(総革ではなく、背と角のみを革装としたもの)。


さすがの神戸も、出版に関しては東京に一目置かざるを得なかったのか、刊行は瀟洒な美本出版で知られた、第一書房(東京市麹町区)に任せています。


とびきりのモダニズム詩を向うに控え、静かに佇む扉の表情。



  言葉もなく…

  私は白い帽子をかむつて海の中へ入つてゆく。
  私に親しいのはこの冷たさと緊密さとだけだ。
  私は海の底を匍つてゆく。
  私を発見(みつ)けるのは月だけだ。
  私が私のものになるのは、この月が廻転し遂(おほ)せてからだ。
  私は待つ。小石のやうに。

白い帽子、海、冷たさ、緊密さ、月、小石、私になるのを待つ私。
少しく難解です。しかし、わかるような気もします。でもやっぱり、言葉ではうまく言えません。その言葉にならない思いを言葉にするのが詩なのでしょう。


和紙に捺された、美しい活版の文字。
詩集『象牙海岸』には、並製本のほか、50部限定で和紙に刷られた特製版があり、これがそれに当たります。

   ★

この詩集の表情が、戦前の神戸の空気を伝えていることは間違いありません。
しかし、手元の1冊には、それ以上に直接的な「鍵」が含まれています。
それは見返しに書かれた署名です。


この一冊は、竹中郁本人が知友に贈ったもので、贈られた相手は竹中が創設した「海港詩人倶楽部」の同人として、詩作も行なった、チェロ奏者の一柳信二(いちやなぎしんじ、1902-?)

竹中と一柳の親交については、高橋輝次氏による、以下の古書エッセイでも触れられています。

『高橋輝次の古書往来』
 「27.竹中郁と神戸・海港詩人倶楽部」

外国船がしきりに行き交う港町。
そこに才気渙発な芸術家が集い、詩作し、音楽を奏で、絵を描いた時代。
戦争の闇が訪れるまで、神戸に確かに存在した伸びやかな空気が、この詩集を開けば、さっとあふれ出てくるのです。

   ★

戦争は、竹中の暮らしをすっかり変えてしまい、戦後は人並みの苦労もしました。
しかし、竹中の美意識は単なるポーズではなく、その骨格を形作る信条でしたから、敗戦の前年、昭和19年(1944)の初夏においても、その凛としたたたずまいは、全くぶれることがありませんでした。

 「竹中は一見して舶来とわかる水色の背広をきちんと着こなし、薄茶色のソフト帽子を少し横にかぶっていた。ワイシャツも洗い立てらしく真白だ。ネクタイの色は忘れたが、身のこなしに寸分のゆるみもない。電車のなかは国民服かモンペ姿かである。それだけに竹中は目立ったが、少しも気にしているようすはない。それがとても立派なことのように見えた。」 (足立巻一、『評伝竹中郁』/西秋生『ハイカラ神戸幻視行―コスモポリタンと美少女の都へ』から再引用)

うーむ、カッコいい。
しかし、当時の世相を考えると、このカッコよさは相当の覚悟がなければできません。

   ★

竹中が手に取り、自ら文字を書き付け、友人の音楽家に贈った自著を、85年経った今、わたしがこうして手に取っている…。思えば、夢のようですが、これは夢ではなく、たしかな現実です。それは85年前の神戸が、決して夢ではなく、現実に存在したことをも、はっきりと思い出させてくれます。