気球に乗って(中編)2020年08月08日 13時26分37秒

前回、「さっそく見てみましょう」と調子のいいことを言いましたが、ドイツ語がネックになって、気球の旅はいきなり逆風を受けています。まあ、あまり深く考えず、雰囲気だけでもアルプス気分を味わうことにします。

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この本には、全部で48枚の記録写真が収められています。いずれも大判の2LないしKG判相当で、1ページにつき1枚、裏面はブランクという贅沢な造り。ですから、本書は「写真集」と呼んだ方が正確です。

そのうち第1図から34図までが、この1906年6月29日から30日にかけての冒険飛行の記録で、第35図から48図までは、著者グイヤーが別の機会に空撮した、同様の山岳写真になっています。

冒険の記録は時系列に沿って並べられています。

(上の写真を含め、以下周囲に余白がないものは、原図の一部をトリミングしたもの)

第1図「充填開始」
6月29日朝、アイガーの高峰(3974m)を背景に、いよいよ「コニャック号」にガスの充填が始まりました。場所はユングフラウ鉄道のアイガーグレッチャー駅の脇です(現在は延伸されていますが、当時はここが終着駅でした)。


第3図「出発前」
飛行直前の記念撮影です。気球のバスケットに立つのが、船長のド・ボークレア。その手前、腰に手をやった偉丈夫はファルケ。左側の男女二人が、ある意味、今回の主役であるゲプハルト・グイヤーと婚約者のマリーのカップル(マリーは恥ずかしいのか顔を伏せています)。

(使用したインクの違いによって、同じ本の中でも写真によって色合いがずいぶん違います。以下、手元のディスプレイ上で、なるべく原図に近くなるよう調整しました。)

第4図「アイガーグレッチャー駅の鳥瞰」
いよいよ気球は上昇を始めます。

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ここで改めて、今回の旅の航跡を確認しておきます。下がその地図。


といっても、これだけだと画面上では何だか分からないので、航跡を書き入れた図と、グーグルマップを並べてみます。


右側の地図で、青い三角形がユングフラウ。その右上、丸で囲ったのがスタート地点・アイガーグレッチャー。そして右下の丸がゴール地点であるジニェーゼの村。
グーグルマップの方は、両地点を今なら最速4時間で車で移動できることを示していますが、グイヤーたちは、気球に乗ってのんびり1泊2日の空の旅です。でも、結構危なっかしい場面もあって、途中風にあおられたかして、航跡がグニャグニャになっている箇所があります。そして、イタリア国境を越えた後で大きく南に迂回し、いったん地図の外に飛び出してから、再び北上してジニェーゼに到達しています。

この旅の途中で、グイヤーがバスケットの中でパチリパチリと撮ったのが、一連の雄大な山岳写真です。


第6図「ユングフラウ」
気球はスタート直後からすみやかに高度を上げ、高度4000mに達したところで、目の前の乙女の姿を捉えました。大地の峰々と、雲の峰々の壮麗な対照に心が躍ります。

ユングフラウは、アイガー、メンヒと並ぶ「オーバーラント三山」の一つで、その最高峰。高さは4158m。(…というのは知ったかぶりで、私はユングフラウがどこにあるのか、さっきまで知らずにいました。以下の説明も同様です。)


モノとしての本にも言及しておくと、この図はフォトグラビュール(グラビア印刷)で制作されています(全48枚中6枚がフォトグラビュール)。

「グラビア」と聞くと、今の日本では安っぽいイメージがありますけれど、本来の「グラビア印刷」は、それとは全く別物です。その制作は、腐食銅版画を応用した職人の手わざによるもので、そこから生まれる網点のない美しい連続諧調表現は、高級美術印刷や、芸術写真のプリントに用いられました。

ですから版画と同じく、版の周囲に印刷時の圧痕が見えます。


第7図「雲の戦い(Wolkenschlacht)」
高度はさらに4300mに達し、ユングフラウ(画面左端)を足下に見下ろす位置まで来ました。しかし、その上にさらに積み重なる入道雲の群れ。雲は絶えず形を変え、雷光を放ち、自然の恐るべき力を見せつけています。

(後編につづく)

余滴2020年08月06日 21時17分51秒

一昨日の8月4日は九州豪雨1か月で、「鎮魂」の文字が紙面に載っていました。
そして今日は8月6日。今日も鎮魂の二文字を重ねて目にしました。

1か月と75年の差は大きいです。
でも、痛恨の思いを抱く人にとって、そこには何ほどの違いもないでしょう。

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ふと、「では、間の8月5日はどうなんだろう?」と思って、8月5日の出来事をネットに教えてもらうと、「1945年 前橋・高崎空襲」というのが目につきました。さらに、そこからリンクをたどっていくと、1945年8月に限っても、毎日どこかで空襲が続いていたことを知ります。私は毎年8月6日や9日になると、判でついたように戦争の惨禍を思い起こしますが、その連想の陰に隠れている死者の群れにふと出会って、身のすくむ思いでした。

以下、ウィキペディアの「日本本土空襲」の項から、死者数のみ転記します。

8月1日 水戸空襲 死者242人。
8月1日 八王子空襲 死者445人。
8月1日 長岡空襲 死者1486人。
8月2日 富山大空襲 死者2737人。
8月5日 前橋・高崎空襲 死傷者1323人(死者のみの数は不掲載)。
8月5-6日 今治空襲 死者454人。
(8月6日 広島原爆)
8月7日 豊川空襲 死者2477人。
8月8日 福山大空襲 死者354人。
8月8日 八幡大空襲 死者2952人。
(8月9日 長崎原爆)
8月9日 大湊空襲 死者129名。
8月9日 釜石艦砲射撃 少なくとも死者301人。
8月11日 久留米空襲 死者約210人。
8月11日 加治木空襲 死者26人。
8月12日 阿久根空襲 死者14名。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 熊谷空襲 死傷者687人。
8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。
8月14-15日 土崎空襲 死者250人超。

この人たちはいったい何のために亡くなったんだろう…と思います。
すでに戦況は確定していたのに、日本に白旗を下ろさせないために、ただそれだけのために死なざるを得なかったのか? 痛切に不条理な死だと感じます。8月15日が近づくにつれ、その不条理の度はいっそう強まります。その非人道性を、アメリカは決して正当化できないでしょう。

もちろん、アメリカの非人道性を糾弾したとたん、その刃は我が日本にも向くことになります。後知恵と言われるかもしれませんが、終戦の決断を遅らせたことは、やはり蒙昧だったと思います。そして、日本がどれほど国の内外で無茶をし、それを人道の物差しで測ったら、どんな数字が読み取れることか。

とはいえ、被害者だから加害責任を免れるわけでもないし、加害者だから被害を訴えられないわけでもありません。両者は二つながらに追求されるべきことです。

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上にあげた死者の数(一部概数を含む)は、広島と長崎を除き14,875人。
7月以前も空襲は連日のように続き、沖縄では地上戦があり、死者はまさに累々。
その向こうには、戦死、戦病死した兵士たちの群れ。
その脇を埋め尽くす、無残な死を遂げた異国の人々。
さらに死を免れても、心と体に癒えることのない傷を負った人々の顔、顔、顔。

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戦争を避けるために武器をとれと言う人もいるし、武器を捨てろという人もいます。
どちらの主張をなすにしろ、今も続く戦争と紛争で傷つく人々のことを、リアリティをもって想像しないと、すべての議論はウソになると思います。

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何はともあれ、今宵は鎮魂の思いを凝らします。

気球に乗って(前編)2020年08月06日 19時38分19秒

この時期にふさわしい、素敵な本を見つけました。


■Gebhard A. Guyer(写真・解説)
 『Im Ballon über die Jungfrau nach Italien』
 Vereinigte Verlagsanstalten Gustav Braunbeck & Gutenbergdruckerei(Berlin)、1908


何と言っても、タイトルがいいですね。
『気球に乗って。ユングフラウを越えてイタリアへ』―
夢を誘う、涼しげな感じがあります。
本書は、文字通り気球によってアルプス越えをした冒険飛行の記録です。

本の表情も魅力的で、凝った空圧し模様や、


立体感のある「窓」に写真を貼り込んだ、実にぜいたくな造本。


内容は後で見ることにしますが、写真印刷がこれまた見事で、テーマといい、内容といい、当時としてはかなり破格な本だと思います(これは著者グイヤーが、下記のような事情から、相当お金を出したんじゃないでしょうか)。

この冒険に参加したのは、ユングフラウ鉄道支配人で、写真術に長けたゲプハルト・グイヤー(Gebhard A. Guyer、1880-1960)、有名な登山家で気球乗りのビクトール・ド・ボークレア(Victor de Beauclair、1874-1929)、スイスの著述家コンラート・ファルケ(Konrad Falke、1880-1942)、さらにグイヤーの婚約者であるマリー・レーベンベルク嬢(Marie Löbenberg、1878-1959)の総勢4名。

驚くべきは、この冒険がゲプハルトとマリーの婚約旅行を兼ねていたという事実で、なんと破天荒なカップルでしょうか。

(ボークレアとグイヤーの肖像。本書より)

彼らが気球「コニャック号」に乗ってアルプス越えをしたのは、1906年6月29日から30日にかけての2日間です。

彼らが見下ろした、峩々たる山並みと白雲の群れ。
その壮大な光景を、我々もさっそく一緒に見てみましょう。

(この項つづく)

ロシアの寒暑先生2020年08月02日 17時27分18秒

8月の到来。
梅雨が明け、青空が戻り、夏らしい夏がやってきました。
これで開放感がみなぎっていれば、なお良いのですが、なかなか難しいですね。
こういうときは、逼塞感を味わい尽くすしかないのかも。

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逼塞感といえば、最近、自分の手元にあるモノたちを把握しきれなくなって、自分が買ったことすら忘れているものや、あるいは買ったはずなのに、どこにいったか全く分からないものが増えてきました。

実際上すこぶる不便ですが、でも、「自分も結構な物持ちになったんだなあ…」と、そこに一種の感慨がなくもないです。まことに愚かしい感慨ですけれど、ごみごみした集積の中から一種の「発見」をしたときは、一瞬うれしいような、得をしたような気分になります。

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そんな風にして、ふと発見したものを眺めてみます。


題名は、『Der Temperatur-verhältnisse des Russischen Reiches(ロシア帝国における気温の状況)』

幅は37cm、高さは52cmという巨大な判型の本で、そこだけ‘ニョキッ’と飛び出ていたので、存在に気づいたのですが、今となっては自分がなぜこれを買ったかは謎。購入記録を調べると、8年前にエストニアの人から買ったことになっています。

ロシアの帝国科学アカデミーの名で出版されたもので、1881年にサンクトペテルブルグで刊行されました。タイトルばかりでなく、中身もドイツ語で書かれています。編著者はスイス出身で、30年近くをロシアで過ごし、ロシアの近代気象学の発展に尽くした、ハインリッヒ・ヴィルト(Heinrich Wild、1833-1902)

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気象データの中で、気温はいちばん基本的なものの1つです。
それを測るのに、それほど高度な技術や装置を要するわけでもありません。ただし、それは点として見た場合の話です。

ある日、ある時刻、ある場所での気温を測るのは簡単ですが、気温は時々刻々変わり、鹿児島より札幌の方が暑い日だってあります。じゃあ、札幌の方が鹿児島よりも暑いのかといえば、やっぱり鹿児島の方が暑いです。それはデータを集積して、その平均や偏差を比べて、初めて言えることです。

このヴィルトの本は、ロシア全土の気温の経年変化を図示したもので、言ってみれば、ただそれだけの本なんですが、広い広いロシアの国土を俯瞰して、その気温のありようを正確に知ることが、19世紀にあって、どれだけ大変なことだったか。それを実現したヴィルトの奮闘を、ここでは想像してみたいです。(さっき発見したばかりのものから、訳知り顔に歴史と教訓を語るなんて、ずいぶん厚かましいですが、私なりに正直に感じたことです。)

それを可能にした観測所網がこちら。


地図上にパラパラ散っている青丸が各地の測候所です。

(上図拡大)

(同)

東欧~ヨーロッパロシアにかけては、さすがに密ですが、シベリアからアジアにかけても点々と測候所が分布し、北京や天津のデータも参照されています。

報告されたデータを足したり、引いたり、グラフを描いたり、さまざまに整約して、ようやく描き上げたのが、本書に収められた月ごとの等温図というわけです。


上は8月の等温図。ユーラシア大陸を、ほぼ東西平行に等温線が走っているのが分かります。


日本付近の拡大。日本列島は、20度(いちばん上の太い赤線)から28度の間にほぼ収まっています。(この値は最高・最低気温ではなくて、平均気温です。ちなみに気象庁のデータベースを見ると、当時の8月平均気温は、札幌21.4℃(1881年)、鹿児島26.8℃(1883年)でした。)


これが真冬の1月になると、様相がガラリと変わって、単純に「北に行くほど寒くなる」のではないことが分かります。すなわち、寒さの極は北極ではなく、シベリア東部の内陸部にあって、そこから同心円状に等温線が分布しています。(したがって寒極北側では、「北に行くほど暖かい」ことになります。)


寒極付近の拡大。その中心にはマイナス46℃という、信じがたい数字が記されています。これで「平均気温」なのですから、まったくいやはやです。北半球で史上最も低温が記録されたオイミャコン村(記録マイナス71.2℃)や、ベルホヤンスクの町(同マイナス67.8℃)は、まさにこの付近にあります。


日本付近も拡大してみます。太い青線は、北から順にマイナス20℃、マイナス10℃、0℃で、その間の細線は2℃間隔で引かれています。したがって、岩手・秋田から北は氷点下、九州・四国を通るのが6℃の線です。


そして、この寒暑の差をとると「等差線」を描くことができ、ユーラシア東部は非常に寒暑の差が激しい土地であることが分かります。


必然的に寒極は、その差も極大で、夏と冬の気温差は実に66℃。「日本は四季のはっきりした国だ」と言いますが、激烈なまでにはっきりしているのは、むしろこの地域で、日本は「穏やかな変化が楽しめる」ところに良さがあるのでしょう。

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こんな風に2℃刻みで考えた場合は、140年前も、現在も、そこに描かれる等温図自体はあまり変わりません。21世紀の人は、「このところ温暖化で暑いなあ!」としきりに口にし、明治の東京はずいぶん涼しかったように想像しがちです。実際、そうには違いありませんが、それはアスファルトの照り返しとか、エアコンの排熱とか、より局地的な要因によるところが大きいでしょう。

地球温暖化の問題は、それとはまたちょっと違った性質の問題です。
地球大の「面」で考えたとき、平均気温1℃の上昇は、巨大な環境の変化をもたらす…というのが事柄の本質で、それはヒトの皮膚感覚では容易に分からないことが、問題を見えにくくしています。(何せ各個人は、自分の住んでいる「点」でしか、気温を感じ取ることができませんから。)

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暑いときこそ、暑さについて考える好機です。そして、暑さについて考えれば、おのずとシベリアの冬も思い起こされて、この暑さがどこか慕わしく思えてくる…かどうかはわかりませんが、それでも多少の暑気払いにはなります。

小さな町に彗星が降る2020年07月30日 07時17分54秒

もうじき7月も終わり。
今月はネオワイズ彗星の話題で、星好きの人たちは盛り上がっていましたが、いかんせん曇天続きですし、町中から鮮やかに見えるほどではなかったので、私は結局目にすることができませんでした。その代わり、小さな画面にその姿を偲んでみます。


家並みの上に広がる漆黒の空。そこを音もなく飛ぶ彗星。
指輪をする習慣はありませんが、その静かな光景に魅かれるものがありました。


オニキスに人造オパールを象嵌したもので、ナバホ族の人の「インディアン・ジュエリー」から派生した現代の作品と聞きました。したがって、モチーフとなっているのも、アメリカ南西部の伝統集落(プエブロ)らしいのですが、そこまで限定することなく、どこか「心の中にある小さな町」と見ておきたいです。


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それにしても、疫病と長雨続きの中、昔の人なら彗星を凶兆として大いに恐れたでしょう。そこはやっぱり世の中が開けたのかな…と思います。願わくは、そうした難事に処するための方策の方も、十分賢にして明なものであってほしいです。

真空を包むガラス体(後編)2020年07月28日 06時25分40秒

真空管の魅力は多様です。ガラスの涼やかさと科学の涼やかさが同居しているのもいいし、「閉ざされた小世界」をのぞき込む、秘密めいた感覚にも惹かれます。何だか自分が「神」になったかのようです。


その真空の小世界に封じ込められた、不思議な回路たち。



その多様性は、まったく見飽きることがありません。


真空の榴弾と化した巨人チューブ。


電子をついばむ、ガラスのみみずく。

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今日は久しぶりに同窓会のようなにぎやかさです。
あるいは精霊祭りのような。

真空を包むガラス体(前編)2020年07月26日 12時48分29秒

雑談は脇において、本来の記事も書きます。

涼しげなものというと、やっぱりガラスです。
そして「ガラスといえば、あれはどうしたかな…」と思い出したものがあります。
棚の奥にしまいっぱなしになっていた、真空管たちです。


私の子供時代はまだ真空管が現役でしたが、それよりもさらに古い、戦前の「クラシック・バルブ」と呼ばれる真空管たちは、(雑な表現ですけれど)いかにも「味」があって、眺めるだけで楽しいものです。

ただ、真空管にはディープなコレクターがいて、あまり生半可な知識で手を出すのも危険だし、我ながら何となく「こけし集め」っぽい感じになりそうだったので、それは短いマイブームで終わりました。(こけし集めにもいろいろな側面があるとは思いますが、得てして「単に集めて終わり」になりがちな印象があります。趣味としての広がりに、若干欠けるような…。)

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とはいえ、虚心に見るとき、真空管はとても美しいものです。
科学と芸術という大きなテーマを、真空管はその小さな体で完璧に体現しているとさえ思います。


初期のまあるい真空管は愛らしく、


アークチューラスのブルーバルブは涼やかです。


真空管の歴史の最初期、1910年代に遡る、ドイツ・シーメンス社の製品。
そこに漂う古い科學の香り。当時はエジソンもマルコーニもまだ現役でした。


ガラス細工に支えられた不思議なグリッド。
決して比喩ではなしに、まさに繊細な手工芸品です。
ここを電子が奔り、跳んだのです。

あたまの体操 20202020年07月26日 10時52分51秒

以下、雑談。
昔からウソつきのパラドクスというのがあります。

 Aさん「私の言うことはすべてウソです。」
 問題: Aさんの言っていることは本当か?

これはAさんの言っていることが本当であっても、ウソであっても、両方矛盾が生じるので、結局「真偽決定不能」というのが正解です。

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このことをただちに連想しましたが、より手の込んだ問題を、昨日ツイッターで見ました。


どうです、なかなかインパクトのある問題ですよね。
貧すれば鈍すると言いますが、このコロナ禍で、ややもすると鈍しがちなので、ちょっと頭の体操をしてみます。

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この問題には、いくつか論点があると思いますが、まず単純な論点から考えてみます。
問題文をちょっと変えて、以下のような問題だったら、どうでしょう?

「四択式の問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は?」

答は25%?
いいえ、違います。これは当の「四択式の問題」の中身によって違ってくるので、あらかじめ正解はありません。つまり「正解はない」というのが正解です。

25%が正解といえるのは、「その中に必ず正解が1つ含まれており、しかも1つしかない場合」という前提条件が必要です。(たとえば、「東京を首都とする国はどれか? A:ニホン、B:ニッポン、C:ジャパン、D:ジャポン」という問題とか、あるいは「正義と猫はどちらが強いか? A:正義、B:猫、C:両方とも弱い、D:猫は正義である」という問題を考えれば、そのことは直ちにお分かりいただけるでしょう。)

繰り返しますが、「四択だから確率は25%」とはならないのです。

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上の知見(というほど大したものではありませんが)を、本問題に当てはめてみます。

「この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

という問題も(選択肢の奇妙さには、ひとまず目をつぶりましょう)、冒頭の「この問題」の中身によって、その答は変わってきます。アプリオリに正解は決まりません。そして「この問題」というのが、まさに今問うている問題だとするならば、問題文は以下のように書き換えることができます。

「『この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%』という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

そして、ここにも「この問題」が再度出てくるので、これもさらに書き換えると、

「『【この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%】という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%』という問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:0%、C:50%、D:25%」

となります。
こうして無限連鎖が生じて、問題自体がいつまでたっても確定しません。問題が確定しないのですから、それにランダムに答えたときの正解確率も決められない…というのが、この場合正解です。

   ★

ここで、きっと次のように考える人がいると思います。

「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解ということだよね。じゃあ結局、選択肢Bの0%が正解じゃないの?」
「あれ?そうすると、ランダムに答えると25%の確率で正答になるなあ。じゃあ、AとDが正解か?」
「あれあれ?すると、正解確率は50%になって、Cが正解?あれれれれ??」

これが、この問題の巧みなところです。

でも、落ち着いて考えれば、最初の「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解ということだよね」という部分が、そもそも間違っています。「正解が決まらないということは、どれを選んでも不正解かもしれないし、どれを選んでも正解かもしれないし、半々で正解かもしれない。予めどれか分からないから、『決まらない』と言うしかないんだよ」と、上の人には教えてあげる必要があります。

結局、正解は最後まで変わることなく、「この場合、正解確率は決定不能であり、A~Dの中から選ぶことはできない」となるわけです。


   ★   ★

さて、ここまで書いて、すっかり納得した気になりましたが、ふと疑問に思いました。
果たして、以下の問題にはどう答えればいいのか?

「この問題の答をランダムに選んだ場合、それが正解である確率は? A:25%、B:50%、C:100%、D:決められない」

これこそ真のパラドクスであり、これは相当な体操ではありますまいか?

自宅鉱物Bar2020年07月25日 08時36分25秒

梅雨は明けず、コロナは蔓延し、今や国土全体が瘴気に覆われているようで、気分が滅入ります。私もそうですが、何となく逃げ場のない感じで、自宅に逼塞している方も多いでしょう。しかし、何かしらの工夫は必要です。心が涼しくなるような工夫が。

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例年、夏になると夕暮れ時のファントムのように出現する、鉱物アソビさんの「鉱物Bar」。今年は期間限定のイベントではなく、ついに実店舗が吉祥寺にオープンしたとの報に接し、「これは涼やかだなあ…!」と思いました。お店の情景と、冷たい鉱物の世界を思いながら家飲みするのは、今の場合、上々の工夫です。


鉱物のようなお菓子と、鉱物のようなドリンクを楽しめる、このお店を脳内で訪問しながら、机の抽斗から取り出したのは、実際に食べられる鉱物、いやそれどころか、これさえあれば、いくらでもお酒が飲めるという、実にありがたい鉱物です。

すなわち<岩塩>。等軸晶系。硬度は2。
舌で触れれば、鹹味(かんみ)の中にかすかな甘味があり、日本酒によく合います。夏場はことにうれしい味覚。


手元の結晶は蛍光こそ発しませんが、紫外線ランプで青く輝く色合いも涼し気です。
そして、冷酒もよいですが、何か鉱物のようなドリンクはないかな?と思って、家の中を見渡したら、ちゃんと「飲める鉱物」もありました。


H₂Oの固相、<氷>です。氷は多形ですが、通常は六方晶系。氷点付近の硬度は1.5。
これまた夏場には実にありがたい鉱物で、そのまま口に入れても好く、日本酒に浮かべても好いです。(この頃は酒に弱くなったので、ふつうの日本酒をロックで飲んでちょうど良いです。)

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こうして鉱物をせっせっと身中に摂り入れたら、ついには金剛不壊(こんごうふえ)の肉身となって、コロナも怖るるに足らず…とか、そんなことを考えている時点で、すでに壊れかかっている証拠なので、心をクールダウンする工夫がさらに必要です。

星座絵の系譜(6)…鯨と蟹は星図の素性を語る(下)2020年07月24日 10時25分55秒

(前回のつづき。今日は2連投です。)

しかし、16世紀のくじら座が「怪魚型」ばかりで占められていたとすると、バイエルはどこから「海獣型」を持ってきたのか?彼の異才が、オリジナルな像を作り上げたのか?…といえば、やっぱりお手本はありました。

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それは、1600年にオランダのフーゴー・グロティウス(Hugo Grotius、1583-1645)が出版した『アラテア集成(Syntagma Arateorum)』で、これは非常に古い歴史的伝統を負った本です。

題名の「アラテア」とは、紀元前3世紀のギリシャの詩人、アラトスの名に由来します。アラトスが詠んだ『天象詩(ファイノメナ)』は、ローマ時代に入ってたびたびラテン語訳され、そこに注釈が施され、愛読されました。それらの総称が「アラテア」――「アラトスに由来するもの」の意――であり、一連のアラテアをグロティウスがさらに校訂・編纂したのが『アラテア集成』です。(以上は千葉市立郷土博物館発行『グロティウスの星座図帳』所収、伊藤博明氏の「「グロティウスの星座図帳」について」を参照しました。)

注目すべきは、そこに9世紀に遡ると推定される『アラテア』の古写本(現在はライデン大学が所蔵し、「ライデン・アラテア」と呼ばれます)から採った星座絵が、銅版画で翻刻されていることです。『アラテア集成』所収の図と、ライデン・アラテアの原図を以下に挙げます。

(1600年、グロティウス『アラテア集成』より)

(9世紀の写本、「ライデン・アラテア」より)

いかにも奇怪な絵です。そこに添えられた星座名は、かに座は普通に「Cancer」ですが、くじら座のほうは、現行の「Cetus」ではなく「Pistris」となっています。ピストリスとは、本来、鯨ではなくて鮫(サメ)を指すらしいのですが、サメにも全然見えないですね。海獣というより、まさに「怪獣」です。

そして、これがバイエルに衝撃とインスピレーションを与え、3年後に「海獣型」のくじら座が生まれたのだろうと想像します。

(画像再掲。1603年、バイエル『ウラノメトリア』)

さすがに「首の長い狼」的上半身だと、怪魚型との乖離が大きすぎるので、バイエルなりにドラゴン的な造形で、バランスをとろうとしたんじゃないでしょうか。(哺乳類と魚類のキメラ像としては、すでに「やぎ座」があるので、絵的に面白くない…というのもあったかもしれません。)

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こうして俯瞰すると、海獣型のくじら座をポピュラーにしたのはバイエルの功績であり、直接それを模倣したわけではないにしろ、海獣型を採用したフラムスティードは、やっぱりその影響下にあります。そして19世紀の『ウラニアの鏡』からスタートした星座絵のルーツ探しの旅は、一気に中世前半にまで遡り、おそらく古代にまでその根は伸びているでしょう。文化の伝播とは、かくも悠遠なものです。

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最後におまけ。ヘヴェリウスやヨアン・ブラウの「くじら」の鼻先が、マレーバクみたいにとがっているのが気になったのですが、あれにも理由がありそうです。

(左:ヘヴェリウス、右:ヨアン:ブラウ)

下は紀元前1世紀、ローマ時代の著述家ヒュギヌスによる『天文詩(Poeticon Astronomicon)』の刊本に載った挿図です。

(ヒュギヌス『天文詩』、1485年ベネチア版)

(同、1549年バーゼル版)

バーゼル版の方は『アラテア』と同様、「Pistrix(サメ)」となっていて、こちらは確かにサメに見えます。そして、デューラーの「怪魚型」のルーツも、おそらくはこうした刊本や、その元となった古写本でしょうし、この象の鼻のようにとがった口先が、後に海獣型に採り入れられて、あの不思議な鼻になったのだろうと推測します。

(この項おわり)