つるまき町 夏時間2017年07月22日 14時50分08秒

蝉が鳴き、青い空をバックに百日紅が濃いピンクを見せる夏。
そんな季節に読もうと思って手にした本。

コマツシンヤ著、『つるまき町 夏時間』、新潮社、2015)。

以前ご紹介した『8月のソーダ水』http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/08/03/)に近い感じの作品ですが、こちらの主人公は小学4年生の男の子・三久里みつる、そして作品のテーマは<植物の世界>です。


物語は「つるまき小学校」の1学期の終業式の日に始まり、


夏休み最後の8月31日に終わります。

友人たちと過ごす他愛ない夏の日々。
植物園に勤務するお父さんや、その上司である植物園長との触れ合い。


しかし、そんなのんびりした日々に、突如起こった大事件。
町中が巨大な植物によって呑み込まれようとするとき、みつるの取った行動は?


…というような、ひと夏の冒険を描いた作品です。
元は「月間コミック@バンチ」で、2014年9月号から1年かけて連載されたもの。
画面に漂う明るいのびやかな空気に、夏休みの懐かしい匂いを感じます。

   ★

そして、この本を懐かしく感じるのは、私自身が「つるまき町」に住み、「つるまき小学校」に通っていたからです。せっせと植物の押し葉作りに励んだのも、ちょうど主人公のみつると同じ年頃のことでしょう。

現実の「つるまき町」は、早稲田大学の門前町で「鶴巻町」と書きます(正式には早稲田鶴巻町)。そして、小学校は「鶴巻小学校」。
確かに「つるまき」という地名は、世田谷の「弦巻」をはじめ、全国に多いでしょうが、私にとっての「つるまき町」は、何と言っても早稲田の鶴巻町です。

そして、この「つるまき町」も、やっぱり植物と縁がありました(たぶん今もあるでしょう)。すなわち植物の身体を形作るパルプとの縁です。

牛込から市ヶ谷、小石川にかけての一帯は、出版・印刷業の盛んな土地柄で、たとえば本書の版元である新潮社は牛込の矢来町ですし、バンチの編集部も近くの神楽坂です。そして、その外縁に当る鶴巻町は、中小の製本業者が軒を連ねる町で、私が子供の頃は、町のあちこちに紙束が山積みにされ、同級生にも製本関係の家の子がずいぶんいました。

   ★

まあ、こんな個人的な思い出を熱く語る必要もないですが、この季節、遠くに蝉の声を聞き、窓から白い雲を見上げれば、コマツシンヤさんの作品世界と、私自身の「つるまき町の夏時間」を重ねてしまうことは、どうにも避けがたいことです。



【7月22日付記】
 コマツシンヤさんの作品名を、『つるまき町夏時間』 とご紹介しましたが、正確には『つるまき町 夏時間』ですので、タイトルとともに訂正しました。

彗星酒場に夜はふけて2017年07月21日 21時00分41秒

うん、こいつはいけるね。キリッと冷えてて…第一飲み口がいいよ。

ノドにもガツンと来るしな。

狭い了見かもしれないけど、こういうのを飲むと、やっぱり枝豆に合うビールこそビールだなあ…としみじみ思うね。でも、バルセロナにも枝豆はあるのかしら?

ふん、なければ輸出するまでさ。まあ枝豆も悪かないが、そろそろグラスの中身を替えないか?

いいね。

お前さん、ウィスキーはいける口だっけ?

うん、好きだよ。

よし、それならこれでいこう。


おや、これは?

「コメット・ウィスキー」。本場ケンタッキーのバーボンさ。しかも、こいつはただのバーボンじゃないぜ。

何だか気を持たせるね。

こないだ、こんな本を買ったのさ。

(Martin Beech, 『The Wayward Comet: A Descriptive History of Cometary Orbits, Kepler's Problem and the Cometarium (気まぐれな彗星 ― 彗星軌道・ケプラー問題・コメタリウム全史)』、2016)

へえ、なんか面白そうじゃない。

そのイントロダクションに、このウィスキーのことが出てくる。

え、じゃあ、これって何か現実の彗星と関係してるの?


そうらしい。そもそも、この「バーンハイム・ブラザース」っていうのは、1889年から1919年までバーボンを作ってたんだが、その後、禁酒法の時代になっても、医療用として特別にアルコール製造を認められていた数少ないメーカーの1つでね。そこらへんも、ちょっと一筋縄でいかない感じだろう?

へえ。

で、この1889年から1919年という年代で彗星といえば…

あ、1910年のハレー彗星か。

その通り。で、1910年のハレーといえば、例の彗星騒動で「世界最後の日」に便乗した悪乗り商品がいろいろ出た時期でね。最期の時を陽気に過ごそうと、呑み助は酒場に集って、「俺はハレー・ハイボール」、「僕は青酸フリップ」、「こっちはコメット・ウィスキーを頼む」と、大いに気炎を上げたのさ。


なるほどなあ、末期の酒ってわけか…。まあ、連中は理由を見つけちゃ呑むからね。

ははは、お前さんも他人のことは言えないよ。

確かに。じゃ、僕たちも大いに気炎を上げようか。でも、何に対して?

世界の復活のために―でいいさ。

よし、じゃあ世界の復活のために、乾杯!

乾杯。

   ★

こうして上の2人は勝手なことをしゃべりながら、バーボンを痛飲し、翌日は再びお酢ドリンクの世話になるのですが、まあ酔っぱらいは放っといて、ちょっと補足します。

文中に出てきたマーティン・ビーチの本は、コメット・ウィスキーを検索していたら、たまたまヒットしました(「The Wayward Comet」で検索すれば、Google ブックスでも読めます)。

上の青い人は多少話を盛っていますが、コメット・ウィスキーが彗星騒動の渦中で愛飲されたことは、たしかに事実らしいです。ただ、メーカーがそれを当て込んで、わざわざコメット・ウィスキーを売り出したのか、たまたまこのブランド名が同時代の酒徒に受けたのかは、イントロダクションを読んだだけでは、よく分かりませんでした。

なお、メーカーのバーンハイム・ブラザースについては、創業者「Isaac Wolfe Bernheim」の名前が、英語版Wikipediaの項目になっています。何でも、有名な「I. W. ハーパー」を作ったのも元は同じ人で、「I. W.」とは、バーンハイムのイニシャルから採ったのだそうです。(参照:https://en.wikipedia.org/wiki/Isaac_Wolfe_Bernheim

彗星酒場2017年07月20日 07時07分56秒

世間を見回すと、彗星を名乗るお酒はそこここにあるらしく、それだけで酒舗が開けそうです。手元にもそれらしいラベルがあるので、昨日からの勢いで話を続けます。

(右に並べたのはスコレス沸石)

今回はスペイン・バルセロナ生まれの「コメット」です。

醸造元のS.A. Damm (Sociedad Anónima Damm)は、1876年創業の老舗。
最近では「Estrella Damm (エストレージャ・ダム)」という銘柄で知られ、エストレージャとはスペイン語で「星」の意味ですから、昔も今も星とは縁のある蔵元です。


多色石版刷りの愛らしい「小芸術」。
時代的には、1900年前後のものと思います。

尾を曳く金色の星は、通俗的な彗星イメージですが、尾の表現はなかなか繊細でリアル。それによく見ると、背景の夜空の色が、下から上にかけて深みを増しており、この青のグラデーションだけでも、大いに賞賛に値します。

   ★

さて、気になる彗星ビールの味わいは?
ラベルの「PILS」は、ピルスナー(ラガービールの一種)のことで、さらに「DOBLE」とありますから、ホップとモルトを増量し、度数も高めに仕上げた「ガツンと来る」タイプのビールなんじゃないかと思います。

   ★

…と、知ったかぶりして書いていますが、上に記したことは、すべてネット情報を切り貼りした俄か仕込みの知識なので、明日になればビールの泡のごとく、記憶から消えてしまうでしょう。

でも、それを言い出したら、思い出も、人生も、全てうたかたのようなものですし、うたかただからこそ良いことだって、たくさんあるわけです。ここはひとつ、梅雨明け空を翔ぶ彗星のまぼろしを思い浮かべて、うたかたをガツンと干そうじゃありませんか。
(すみませーん、これと同じ奴をもう一杯、いや、二杯ください。)

彗星に乾杯2017年07月19日 06時59分40秒

一昨日の記事の結びは、自戒を込めて書きました。
しかし、いかに健康に気を遣っても、毎日お酢ドリンクだけ飲んで過ごすわけにもいきませんし(ええ、いかないんですよ)、時にはゴクリとジョッキを干したいのが人情。

…というわけで、今日は彗星のビールです。
下はパリの東方、マルヌ県シャロン・アン・シャンパーニュの町にあった、コメット酒造の「ラ・コメット」のラベル(1920年代か)。


コメット酒造については、ちょっと前に「スラヴィア」という銘柄のビールを取り上げたことがあります。

彗星酒造の青い灰皿

上のラベルは、単に「La Comète」とあるだけで、「スラヴィア」のような特定の銘柄を記していませんが、この場合は、会社名が即ち銘柄でもあるのでしょう。いわば「キリンビール」と「一番搾り」の関係みたいなものです(…と思うのですが、違うかもしれません)。

コメット酒造の創業は1882年。
シャンパン作りのシャトーだった建物を買い取り、そこに近代的な工場を建て増ししてビール製造に乗り出し、第1次大戦後のビール需要の伸びを追い風に(産業化が進むと、労働者が渇を癒やすためにビールが大いに売れるわけです)、一時はずいぶん栄えたものだそうですが、その後、より大資本のビールメーカーに押され、結局1980年代に入って商売をたたんだことは、以前の記事でも触れました(注)。


ビール党を導く、頼もしい女神。
これはもちろん、尾を曳いて飛ぶ彗星の形を、長い髪をなびかせた女性の姿になぞらえたものでしょう。

コメット酒造はなくなっても、麦酒信徒はまだまだ健在です。
さあ、今宵も女神の下に集って、乾杯!乾杯!

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(注) その在りし日の工場の様子は、以下のページで見ることができます。
■CHÂLONS-sur-MARNE - Brasserie de la Comète

彗星とぶどう2017年07月17日 11時22分07秒

昨日の記事を読み直していて、ふと気づきましたが、1811年に「ラ・コメット」という芝居が上演されたのは偶然ではなく、これはいわゆる「1811年の大彗星 (Great Comet of 1811; C/1811 F1)」の出現に触発されたものに違いありません。

(左側中央に見えるのが、1811年の大彗星のスケッチ。
William Peck(著)『A Popular Handbook and Atlas of Astronomy』(1890)より)

1811年の大彗星は、肉眼でも約260日間にわたって見え続けた明るい彗星で、最初は高度が低く見づらかったのですが、秋口からは高度も上がり、芝居が上演された10月には恰好の天体ショーとして、人々の口の端に上ったことでしょう。
(英語版Wikipedia、「Great Comet of 1811」の項参照。)

   ★

ときに、この大彗星の出現は、ワイン市場にも影響を及ぼしました。
何でも1811年産のワインはことのほか出来が良く、まったくの偶然でしょうが、その後も1826年、1839年、1845年…と、大きな彗星が飛来した年はワインの出来が良かったせいで、後の人はこれを「コメット・ヴィンテージ」と称して、大いに珍重したものだそうです。

その話を聞きつけて、手にしたのが下の紙片。


彗星とブドウの絵柄、それに「VIN(ワイン)」の文字に注目し、これぞ「コメット・ヴィンテージ」のボトルラベルに違いない…と思ったのですが、でも改めて辞書を引いたら、これは彗星ブランドの「お酢(vinaigre)」のラベルでした。

「そうか、ヴィネガーというのはワイン(vin)から作るから、その名があるのか…」と遅まきながら気づいた次第です。

日本でも、お酒の醸造に失敗すると、酢酸ができて酸っぱくなってしまうので、同じ醸造業でも、昔の造り酒屋は酢屋を敵視したものだ…という話を聞いたことがあります。

洋の東西を問わず、お酢はお酒の弟分。
まあ、この兄は弟をいささか敬遠気味かもしれませんが、お酢の方が健康にはよろしく、真夏の宵など、酒臭い息を吐いて蚊にあちこち刺されるより、一杯のお酢ドリンクでしゃっきりする方が、なんぼ良いかしれません。

テレスコープ氏2017年07月16日 17時02分47秒



今日もフランスの紙物です。
「18世紀後期の銅版画」と称して売られていた、何かの本の1ページらしい紙片(裏面は白紙)。


タイトルは、「Potier rôle de Télescope dans la Comète」とあって、フランス語を眺めても、Googleに英訳してもらっても、「彗星における望遠鏡のポティエの役割」という、何だかよく分からぬ意味にしかとれません。


オレンジに星模様の派手な服と、彗星柄のストッキング。
手には地球儀を持ち、ポケットに望遠鏡を入れた怪しげな人物。

「うーむ…これは18世紀のカリカチュアライズされた天文家の姿で、ひょっとしたら実在のポティエという天文学者を描いたものかもしれないぞ…」と、最初は思いました。
だとすれば、天文趣味史的になかなか興味深い品です。

   ★

事の真相を解く手がかりは、フランス国立図書館のデータベースにありました。
そこには、これと全く同じ図が載っていて(http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6400501s)、それを足掛かりに調べていくと、この絵の正体が判明しました。

結論から言うと、これは一種の「役者絵」だったのです。

時は1811年10月、所はパリのヴァリエテ劇場(Théâtre des Variétés)。
そこで、『ラ・コメット(彗星)』という一幕物の寸劇が上演され、その中で「ムッシュ・テレスコープ」という役を、シャルル・ポティエ(Charles Potier、1774-1838)という役者が演じ、この絵はその舞台衣装を描いたものなのでした。

当初の推測は外れたものの、これがカリカチュアライズされた天文家の姿だ…というのは、まんざら間違いでもないでしょう。ただ、時代はちょっとずれていて、このいかにも18世紀っぽい装束は、19世紀初めのフランス人がイメージしたところの、幾分マンガチックな擬古的デザインの衣裳なのだと思います。


ムッシュ・テレスコープのセリフ回し。
意味はよく分かりませんが、「こりゃ大変!俺は大地をこの腕に抱き、大空を懐に入れちまったぞ!」とか何とか、おどけたことを言っているのでしょう。

   ★

天文学者(あるいは占星術師)は、歴史の中でしばしば「おちょくり」の対象になりましたが、これも19世紀初頭における実例と言えそうです。

或るパリの博物館2017年07月15日 14時31分50秒

真実とは純粋で単純なものだ…と、私なんかは単純に思ってしまいます。

でも、さっき古書を探していたら、ふと「真実が純粋であることは滅多になく、単純であることは決してない(The truth is rarely pure and never simple.)」という、文学者オスカー・ワイルドの警句が画面に表示されました。

たぶん、これは「真実」と、どれだけの距離で向き合うかにも拠るのでしょう。
すなわち、たいていの真実は遠くから見れば単純だし、近くから見れば複雑なものです。いずれにしても、ワイルドの言葉は半面の真理を含んでいます。

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さて、机上のモノがゴチャゴチャになってきたので、少しずつ片付けなければなりません。そのためには、記事を書くのがいちばんです。記事にすれば、自分の中で区切りがついて、安心して本来あるべき場所にしまえるからです。

そんなわけで、少しずつ記事を書いてみます。


「パリ天文台」で検索していたら、上のような絵葉書が売られているのを見つけました。
さすがにこれは天文台の光景ではないだろう…とは思いましたが、細かい説明が何もないので、謎のような気分を引きずりながら購入しました。


この空間の正体は、絵葉書の裏面を見て、ようやく判明しました。
(販売ページには裏面の写真がありませんでした。)

これは、パリ天文台からリュクサンブール公園へと抜ける「オブセルヴァトワール(天文台)通り」沿いにある、「パリ大学薬学部 生薬博物館」の内部の光景だったのです。

そうと分かってみれば、この謎めいた空間も何ら謎ではありません。


机上の古風な顕微鏡。
棚に収められた無数のガラス壜。


天井近くに掲げられた掛図や版画。


窓から差し込む弱い光に照らされて森閑とした室内。
――確かに謎ではないですが、でもやっぱり謎めいたものが残ります。

  ★

ところで、絵葉書の裏面を見て、ちょっと思い出したことがあります。


説明書きの一部がインクで消されていますが、よく見ると「エミール・ペロー」の名前が見えます。この名は「天文古玩」でも過去に1回登場しています。

博物学の相貌

2年前の自分は、パリ自然史博物館を写した絵葉書の宛先に注目して、
「宛名の方は、当時パリ大学薬学部(Faculté de Pharmacie)で教鞭をとっていたエミール・ペロー教授(Emile Perrot、1867-1951)で間違いなかろうと思います」
と書きました。

そして、ペロー教授の名前の脇にある、「PARIS」というのは、地名のパリではなく、彼の後任にあたる、ルネ・パリ教授(René Paris、1907-1988)を指しています。

想像するに、この絵葉書はペロー教授の在任中に作られ(いかにも石版絵葉書っぽいですが、実際は網点印刷なので、製作は1930年頃と思います)、教授が退官後もそのデッドストックが教室に残されており、後任のパリ教授が、代わりに自分の名前をスタンプで押して、書簡用に使っていたのじゃないかと思います。

   ★

パリ教授は、1975年、この博物館の歴史についてまとめた文章を書いています。

■Le Musée de matière médicale de la Faculté de Pharmacie de Paris

フランス語なので読み難いですが、最後に英文の要約が付いているので、そこだけ訳してみます。

「パリ大学薬学部 附属薬品博物館」

 パリ大学薬学部 附属博物館の起源は、ラルバレート街(rue de l’Arbalète)にあった薬学校(School of Pharmacy)のコレクションに由来し、それはさらに薬学カレッジ(College of Pharmacy)(1777)や、同じ街路にあった博物収蔵室(Cabinet of Natural History)(1763)から受け継いだものである。
 
 1882年以降、これらのコレクションは、G. プランション教授(G. Planchon、1866-1900 〔※年代は教授在任期間〕)の手で、現在の建物に収められたが、その中にはプランション教授の前任である、N. J. B. ギブール教授(N.-J.-B.〔Nicolas Jean Baptiste〕Guibourt、1832-1866)が収集した標本類も多い。

 この作業は、その後もE.ペロー教授(E. Perrot、1900-1937)や、M. マスクレ教授(M. Mascré、1937-1947)、そして1947年以降はR. パリ教授によって続けられてきた。

 現在、同博物館が所蔵する生薬標本は2万2千種類に及び、その多くが植物由来のものである。  〔※以下、コレクションの概説がありますが省略〕

これを読むと、パリ教授がペローら歴代の教授に深い敬意を払い、王朝期から続くそのコレクションをめぐる歴史に、自分も名を刻んだことを、とても誇りに思っていたことが感じられます。

学芸は一朝一夕に成らず。
学問とはこうあらねばならない…と、改めて思います。

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1枚の絵葉書でも、仔細に見れば、いろいろな物語が見えてきます。
まさに「The truth is never simple.」なのですが、しかしこんなふうにこだわっていては、机の上は一向に片付かないので、もう少しサラサラと行くことにします。

市松結晶模型2017年07月09日 16時42分16秒

天文古玩は早めのバカンスを満喫しています。

ブログを更新しないと「あいつは死んだのかな?」と思われるかもしれませんが、ちゃんとこうして生きています。逆に言うと、別にブログを書かなくても死ぬわけじゃないし、ブログというのは、たまさか気の向いた時に書けばよい…というのが、正常な在り方で、これまで何となく義務感というか、妙な勤勉精神に囚われていた方が、むしろ異常なのです。

で、そのバカンスとやらの間に何をしてるんだい?」と問われれば、「いや、バカンスとは、何もしない空っぽの時間を言うのさ」と、しれっと言うのがこの場合無難でしょうが、もちろん実際はそんなことはなくて、本も読めば、買い物もするし、まあ記事を書かないだけで、やっていることは以前と変わりません。

   ★

で、今日がその「たまさか気の向いた時」。
たまたま昨日気になったことがあるので、そのことについて書きます。


手元に差し渡し4~5センチの、積み木のようなものがあります。
全体が白木と黒塗りのツートンという、なかなか伊達な姿。


鉱物趣味の方ならご存知のとおり、これは鉱物結晶模型の一種です。
そう聞かされて、「ふーん」と思い、そのまま長いこと棚のオブジェになっていたのですが、ふと、このツートンの意味が気になりました。


ものの本を見ると、確かにそれらしい説明図が書かれています。


これは、鉱物図鑑の「等軸完面晶族」から「三斜半面晶族」まで全部で32種類ある「32晶族」についての解説ページで、そこにはいくつかの面によって囲まれた多様な結晶の姿を、その対称面、対称軸、対称心によって分類記述してあります。


…といって、同形同大の2個の六角柱をこのように塗り分ける意味は何なのか、私にはいまだによく分かりません。件の解説を凝視しても、文字列は双の眼から虚空へと抜けていくばかりで、脳内には何の像も結びません。

結局、一日かけても何も得るものは無く、ボンヤリ物思いにふけるだけで終わりました。これこそ優雅なバカンスであり、人間として好ましい生き方なのだ…と強弁してもいいのですが、意味が分かるに越したことはなく、簡便にご教示願えるものなら、ぜひお願いしたく思います。

(よく見ると、個々の模型には数字が刻印されており、左から順に、116、230、213と読めます。結晶の多様性に応じて、塗り分けなしの白木の結晶模型も、おそろしくたくさん作られましたが、ツートンの模型もそれに劣らずたくさんあるのでしょう。)

本邦解剖授業史(補遺2)2017年06月21日 07時13分08秒

今年は空梅雨の気配がありましたが、今朝は窓を叩く雨の音に起こされました。

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しつこいようですが、最後にもう1回だけカエルのことを書きます。
この連載の第2回で、「理科教育関係者は、ぜひカエル供養やフナ供養をせねばならんところです」…と書きました。

ところが、その後、荒俣宏さんの『世界大博物図鑑3(両生・爬虫類)』(平凡社、1990)を見たら、ちゃんと「蛙の供養塚」というものがあることを知りました。

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蛙の供養塚」

カエルは生物学、とくに発生、生理、遺伝の分野には欠かすことのできない教材や実験動物となっている。日本でも明治以降の近代科学の発達にともなって、多くのカエルが犠牲になった。そこで各地の大学や研究所で、供養のための慰霊祭が行なわれた。

鹿児島に残る蟇塚(がまづか)は、旧制第七高等学校の池田作太郎が創建した供養塔である。ヒキガエルだけを特別に祀り、犠牲1000匹ごとに供養が行なわれた。1910年(明治43)の第7回目の供養以来、3~4年に1度は供養されたことが記録に残る。なお、この供養塔は戦時中の空襲のために上半分が欠けている。

また慶応大学の生理学教室では、神経生理学の研究にガマを使用したので、1937年(昭和12)新宿塩町禅宗笹寺に蟇塚を建立した。

また東邦大学にも戦前は正門脇に高さ40cmほどの小さな蛙塚があったが、戦後の混乱で所在が行方不明になってしまったという。
 (上掲書p.58、改行は引用者)
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さすがに、小中学校でそういう例はないのかもしれませんが、やっぱり気持ちの上では手を合わせてほしいです。

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なお荒俣氏といえば、以前、氏がカエルの解剖について、下のような発言をされたのが気になっています。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 目眩く愛書家の世界

荒俣   このカエルの解剖図も、ものすごい。なにしろ「ピン」まで描かれている。ここまでのものは、なかなか出ない。〔…〕しかも、この「カエルの解剖図」はキリストの磔を寓意してもいるんです。「科学の犠牲となった聖なるカエル様」、そのような意味が含まれている。」

上の発言は、ドイツのレーゼル・フォン・ローゼンホフという人が書いた、『Historia Natvralis Ranarvm Nostrativm(カエルの自然誌)』という、18世紀半ばの博物学書について触れたものです。(リンク先には、問題の図も掲載されています。)

カエルが大の字になってる解剖図が、キリスト磔刑図の寓意になっている…というのですが、これは何か典拠(ウラ)のあることなのかどうか?あるいはカイヨワあたりの引用なのか、それとも荒俣氏の創見なのか?いずれにしても、一匹のカエルといえど、こうなると、なかなか大したことになってきます。

その辺に含みを持たせつつ、そろそろ話題が解剖授業から遠くなってきたので、宴たけなわではありますが、この辺でいったんお開きにしましょう。


(この項終わり)

本邦解剖授業史(補遺)2017年06月19日 21時50分56秒

解剖授業の盛衰について、その輪郭を絶対年代に位置づけることができたので、今回はとりあえず良しとし、新事実が分かればまた付け加えることにします。

   ★

ところで、日本では上のような次第として、海外ではどうなんでしょう?
海外と言っても広いですが、たとえばアメリカ。

アメリカでは日本以上に動物愛護の声が強いのかな…と思ったら、どうもアメリカの人の慈悲も、カエルにまでは届かないのか、今でもカエルの解剖は、全米の中学校でバンバン行われていることを、下の記事で知りました。


■Dissecting A Frog: A Middle School Rite Of Passage
 (カエルの解剖―中学校における通過儀礼)

そう長い記事でもないので、全文を訳出してみます(意味が通らないところがあるので、例によって適当訳です)。

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「カエルの解剖―中学校における通過儀礼」

<前書: このシリーズでは、私たちが小・中学校時代に―たとえごく短期間にせよ―慣れ親しんだ象徴的なツール、例えば計算尺と分度器とか、全国体力テストとか、積み木等について、集中的に取り上げる。>

<以下、本文>

ロブ・グロットフェルティの生物実験室には、ブンゼンバーナーやシャーレと並んで、奇妙なパッケージが積まれている。中身は死んだカエルだ。真空包装され、5個積みになっている。

袋を破ると、ヒョウガエル〔=トノサマガエルの近縁種〕からは、すぐに刺激的な臭いが漂いだし、もう死んでいるはずなのに、やけにヌルヌルしている。

ボルチモアにある、パターソン・パーク・パブリック・チャーター・スクールの7年生〔=中学1年生〕の中に、ゲンナリしている生徒がいる理由はそれだ。

「死んでる動物のお腹を切り割くなんて!」と、テイラー・スミス。彼女は黒いスモックにすっぽり身を包み、プラスチック製のゴーグルとゴム手袋を装着している。「こんなもの放り出したいわ」。

多くのクラスメートと同様、テイラーも、このホルマリン漬けのカエルに触るのは嫌だし、ましてやそれを解剖して、黒っぽいねばねばした内臓を取り出すなんて、真っ平ごめんだと思っている。

グロットフェルティ先生の目的は、生徒たちに嫌悪感を乗りこえさせることだ。

「でも、僕たちが真に関心を持っているのは、カエルの身体の仕組みなのかな?」と、先生はクラスのみんなに問いかける。「僕たちはカエルについて学んできたのだろうか?いや、違うよね。じゃあ、僕たちは何を学んできたんだろう?」

答は「人間について」だ。

カエルはそのためのステップに過ぎない。最初、クラスの生徒たちは、ミミズを解剖した。次はニワトリの羽だ。ハイスクールになれば、扱う動物はもっと大きくなる。ネズミ、ネコ、ブタの胎児。いずれも我々自身の身体の仕組みについて教えてくれる。

「リアルな対象には、腹にずしんと来るような、大切な何かがありますよ。」と、全米理科教師連盟の常任理事、デイビッド・エヴァンスは語る。「この特定の器官の手触りは?どれぐらい硬いのかな?押せばへこむかな?とか。」

好むと好まざるとにかかわらず、こうした仕組みを学ぶには、以前は死んだ動物を使うことが、生徒たちにとって唯一の選択肢だった。しかし、1987年に状況が変わった。この年、カリフォルニアのビクターヴィルに住む15歳のジェニファー・グレアムが、生物の授業でカエルの解剖をすることを、断固拒否したのだ。

グレアムの話題は、当時大きなニュースになった。彼女はそれを法廷に訴え、最終的に「生徒には生身の生物以外の選択肢も与えるべし」という州法が成立した。現在までに、少なくとも他に9つの州で、同様の州法が制定されている。

それ以来、コンピュータによるモデルが教室に進出を続けている。全米理科教師連盟は、教育手段としての解剖の重要性を依然として主張しているものの、現在では教員に対して、生徒に選択の機会を与えることを求めている。

グロットフェルティは、両方を併用している。彼によれば、コンピュータ・モデルは、生徒が解剖学の理論を理解するのに役立ついっぽう、実際の解剖は、めったにないやり方で生徒を引き付ける。

「生徒たちは解剖の授業をずっと楽しみにしてきたんですよ。これこそ生徒たちがやってみたいことなんです。」とグロットフェルティは言う。

たしかに、気の弱い生徒ですら、今や解剖トレイの周りでそわそわしながら、事が始まるのを待ち望んでいるようだ。

理科は好きじゃないと言っていたテイラーはどうだろう。彼女は今まさに小さなはさみを使って、カエルの鎖骨を切断しようとしている。

「もうちょっと力を入れて」とグロットフェルティが声をかける。「何かはじける音や割れる音が聞こえないかい。」

テイラーと彼女の班は、一つずつ、内臓をラミネートされた紙の上に並べていく。

「私はもう弱虫なんかじゃないわ」と、テイラーは言う。「解剖って面白い。」

解剖は、一部の人にとっては依然として議論のある実習だが、グロットフェルティ曰く、テイラーの豹変こそ、解剖が持つ力の例証なのだ。すなわち、いつもなら理科嫌いの生徒ですら、カエルの消化管には、大いに夢中になれるのだ。

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アメリカの解剖授業は、基本的に生体ではなく、死体の解剖のようです。
作業手順は似ていても、結局のところ死体は「もの」に過ぎませんから、その抵抗感において両者には大きな違いがあります。
そして、科学の名において生物を殺すことの倫理的問題(あるいは、素朴に命に手をかけることの怖さ)も、後者は生じにくいでしょう。

また、少なくとも一部の州で、リアルとバーチャルの2種類の解剖授業を選べるのは、なかなか良い工夫だと思います。でも、その主眼は、生命倫理の問題よりも、授業方法をめぐる生徒の自己決定権をどう保障するか…という点にあるようです。

本当に理想的な授業はどうあるべきなのか?
教育学畑の人や、現場の先生なら、ここで理科授業論を活発に展開できるでしょうし、そうでない人も、解剖授業を素材にした日米比較文化論には興味を持たれるかもしれません。

私自身、特に結論を持ち合わせているわけではありませんが、でも、素朴な感想として、アメリカのやり方は巧妙であり、対する日本は直にしてナイーブな感じがします。(もちろん直でナイーブだからダメと言うことはできません。)