大きな家、小さな家2019年10月12日 08時03分23秒

すっかり沈黙していますが、以前も書いた自宅の改修は依然続いていて、来週から屋根と外壁の塗装に入ります。台風が迫る中、急いで組んだ足場がもつかどうか、若干心配です。

この間の心模様を書くと、いろいろ荷物を整理する中で、押入れの奥から昔買った皿とか、江戸おもちゃとかを発掘して、それらを見ているうちに、だんだん和の世界に魅かれて、天文趣味は脇に置いて、このところ和骨董ばかり見ていました。そんなわけで「天文古玩」もお休みでしたが、あまり脇道に入っても、“虻蜂取らず”になるので、またこちらの世界に戻ってこなければなりません。

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さて、自宅の改修といえば、今日驚きの話題に接しました。

誰の自宅かといえば、学者一家としてのハーシェル家2代目、ジョン・ハーシェル(Sir John Frederick William Herschel, 1792-1871)のそれです。彼の旧居「コリングウッド・ハウス」が、現在売りに出ていて、その不動産広告を見ると、外部は昔のままですが、内部はだいぶリノベーションされていて、いろいろな意味でスゴイと思ったのでした。

Peter Broughtonさんによる、天文学史のメーリングリストへの投稿文を、そのまま適当訳して転載すると―

 「皆さん、こんにちは。皆さんの中で、ポンと400万ポンド出せる方はいらっしゃいませんか?どうやらジョン・ハーシェル卿の家、「コリングウッド」が、売りに出ているようなのです。以下をご覧ください。
 https://fivestar.ie/luxury-property-sales/collingwood-house/
あるいは、“Collingwood Hawkhurst Kent”でググっていただければ、より詳細がお分かりになるでしょう。まあ、この大邸宅を買うというアイデアを、現実のものと考えるかどうかはともかく、ヴァーチャルツアーだけでもお楽しみください!」

(上記リンク先ページより)

いやあ、繰り返しますがスゴイですね。
400万ポンドというのは、グーグル曰く、今日現在のレートで5億4,839万円なり。
もちろん絶対的には高いですが、モノの価値を考慮した場合、相対的には安いのかもしれません。せめて5億円値引いてくれたら…、さらに4千万円値引いてくれたら、ローンを組んでもいいと思いました。

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しかしですね、この広壮な館とみすぼらしい我が家を比較した場合、私にとっては、やっぱり我が家の方がくつろげるし、愛着が持てるというのが話の味噌です。それは、私がジョン・ハーシェルになりたいか?と聞かれれば、やっぱり今の私のままでいたいと思うのと同じです。たとえみすぼらしくても、我が家も、私という人間も、私自身がこれまでいろいろな選択を重ねて作り上げた、かけがえのない存在だからです。

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なお、コリングウッド・ハウスの来歴については、日本ハーシェル協会のサイトに紹介記事があります。

■ハーシェル関連史料:コリングウッド、むかしといま


蝉の世、人の世2019年08月31日 08時35分50秒

俳句の季語でいう八月尽(はちがつじん)、今日で8月も終わりです。

今年の夏も猛暑続きでしたが、個人的に気になったのは、「今夏はツクツクボウシが聞かれない」という事実。いつもだと、甲子園の決勝が終わる頃から、その盛りになって、晩夏を惜しむ気持ちが募るのですが、今年は今に至るまで至極まばらです。

これは「13年ゼミ」みたいに、ツクツクボウシの発生にも周期性があって、当たり年とそうでない年があるせいかな…と、思ったのですが、下のページを拝見すると、ツクツクボウシの幼虫期間は1~2年と短く、そもそも日本に周期ゼミはいないそうなので、上の考えは当たっていません。ひょっとして、ツクツクボウシの生息数そのものが減っているのかもしれず、これは来年もよく観察せねばなりません。

■村山壮吾氏「蝉雑記帳」:3と4の偶然(「素数ゼミへの反論」)

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さて、陋屋の改修が来週から本格的に始まります。

もちろん意図しての断捨離はしないんですが、この機会に多少物を減らすことを迫られています。そういう目で見ると、たとえば蒐集の初期に手に入れたモノたちは、今の目で見ると選択の基準が甘いので、彼らがまず「首切り」の候補に挙がってきます。でも、彼らこそ草創期から私の周囲を彩ってくれたモノたちであり、付き合いも長いので、そうバッサリ切ることもためらわれます。まあ、「糟糠の妻」みたいなものですね。

そんなこんなで、他人から見ればどうでもよいことに心を悩ませつつ、今年の秋を迎えます。

 法師蝉 不語禅定の 八月尽  玉青


アルカーナ2019年08月24日 18時10分51秒

家の改修やら何やらゴタゴタしているので、ブログの方はしばらく開店休業です。
そうしている間にも、いろいろコメントをいただき、嬉しく楽しく読ませていただいています。どうもありがとうございます。

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しかし、身辺に限らず、世間はどうもゴタついていますね。

私が尊敬する人たちは、人間に決して絶望することがありませんでした。
これは別に、偉人伝中のエライ人だからそうというわけではなくて、どんなに醜悪な世の中にも善き人はいるし、どんなに醜悪な人間の中にも善き部分はある…という、至極当たり前のことを常に忘れなかったからでしょう。(その逆に、どんなに善い世の中、どんなに善い人であっても、醜悪な部分は必ずあると思います。)

私も先人のあとを慕って、絶望はしません。
まあ、絶望はしませんが、でもゲンナリすることはあります。
醜悪なものを、こう立て続けに見せられては、それもやむなしです。
それに、このごろは<悪>の深みもなく、単に醜にして愚という振る舞いも多いので…とか何とか言っていると、徐々に言行不一致になってくるので、この辺で沈黙せねば。

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本棚の隅にいる一人の「賢者」。
彼が本当に賢者なのか、あるいは狂者なのかは分かりません。突き詰めるとあまり差がないとも言えます。今のような時代は、こういう人の横顔を眺めて、いろいろ沈思することが大切ではないか…と思います。

その人は、医師にして化学者、錬金術師でもあったパラケルスス(1493-1541)

写真に写っているのは、オーストリアのフィラッハ市が1941年、パラケルススの没後400年を記念して鋳造した、小さな金属製プラーク(銘鈑)です。フィラッハは、パラケルススが少年時代を過ごした町であり、郷土の偉人をたたえる目的で制作したのでしょう。

上の写真は、プラークを先に見つけて、あとからちょうどいいサイズの額に入れました。どうです、なかなか好いでしょう。

(プラークの裏面。購入時の商品写真の流用)

(仰ぎ見るパラケルスス)

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本棚ではたまたまユングの本と並んでいますが、ユングにはずばり『パラケルスス論』という著作があります。

(榎木真吉・訳、『パラケルスス論』、みすず書房、1992)

原著は1942年に出ており、内容は前年の1941年、すなわち手元のプラークが制作されたのと同年に、やっぱりパラケルススの没後400年を記念して、ユングがスイスで行った2つの講演(「医師としてのパラケルスス」と「精神現象としてのパラケルスス」)を元に書き下ろしたものです。

しかし、本書を通読しても、ユングの言っていることは寸毫も分かりません。
したがって、パラケルススその人のこともさっぱりです。

 「パラケルススは、〈アーレス〉に、≪メルジーネ的≫(melosinicum)という属性を与えています。といことは、このメルジーネは疑いもなく、水の領域に、≪ニンフたちの世界≫(nymphididica natura)に、属しているわけですから、≪メルジーネ的≫という属性に伴って、それ自体が精神的な概念である〈アーレス〉には、水の性格が持ち込まれたことになります。このことが示唆しているのは、その場合、〈アーレス〉とは、下界の密度の高い領域に属するものであり、何らかの形で、身体ときわめて密接な関係にあるということです。その結果として、かかる〈アーレス〉は、〈アクアステル〉と近接させられ、概念の上では、もはや両者は、ほとんど見分けがつかなくなってしまうのです。」
(上掲書 p.132)

私が蒙昧なのは認めるにしても、全編こんな調子では、分れという方が無理でしょう。
しかし、こうして謎めいた言葉の森を経めぐることそれ自体が、濁り多き俗世の解毒剤となるのです。そして、私が安易に世界に対して閉塞感を感じたとしても、実際の世界はそんなに簡単に閉塞するほどちっぽけなものではないことを、過去の賢者は教えてくれるのです。

100年前、8月の空を彗星が飛んだ2019年08月19日 10時33分52秒

ちょっと素敵な品を見つけました。
明治時代に刷られた天文モチーフの絵葉書です。


地上の黒々としたシルエットは、こんもりと茂る木々に火の見梯子と電信柱、大きな屋根は村のお堂でしょうか。これは紛れもなく日本の風景です。そして、その上に広がる紺色の空と白い星、刷毛ではいたように飛ぶ彗星。

19世紀後半以降、ヨーロッパではギユマンの『Le Ciel』をはじめ、星景画の傑作がたくさん生まれましたが、明治の日本でも、こんなに美しい作品が描かれていたのですね。これは嬉しい発見。


キャプションを見ると、「明治40(1907)年8月20日、午前3時の東の空」だと書かれています。

薄明を迎える前のこの時刻、西の地平線では巨大な白鳥がねぐらへと急ぎ、頭上にはアンドロメダが輝き、そして東の空にはオリオンとふたご座がふわりと浮かんでいます。8月の空も、夜明け前ともなれば初冬の装いです。

絵師はK.Oonogi(大野木?)という人ですが、伝未詳。当然、外国書も参照したでしょうが、それを日本に移植して、詩情あふれる一幅の絵にしたのは、相当の絵ごころ、星ごころを持った人だと思います。(「オリオン座」を「オリオン宮」とするのは変だし、英語キャプションの「STER」もスペルミスでしょうが、この際それは些事です。)

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ところで、今から112年前のちょうど今頃見られた天体ショーの主役である、この美しい彗星。


これは、米国のザキアス・ダニエルが、1907年6月9日に発見した「ダニエル彗星 C/1907 L2(Daniel)」です(日本語版ウィキペディアで「ダニエル彗星」を検索すると、彼が1909年に発見した“33P/Daniel”しか出てきませんが、ここに登場するのはその2年前に発見されたもの)。

発見後にぐんぐん光度をあげて、7月中旬には4等級となり、肉眼でも見えるようになりました。さらに8月初めには3等級となり、15度という長大な尾――これは満月を30個並べた長さです――を引いた姿が、夜明け前の東の空に眺められました。そして9月初めには、尾の長さこそ短くなりましたが、最大光度2等級に達したのです。(この件はなぜか英語版Wikipediaには記述がなくて、上記はドイツ語版を参照しました)

数多の大彗星の前では、ちょっと影が薄いですが、それでもここまでいけば大したものです。

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以下、余談。

現代の星景写真は、主に雄大な大自然の中で見上げる星空を取り上げており、「人間生活と星たちの対比」という視点は薄いように思います。でも、かつての星景画を見たとき、最も胸に迫るのは、「転変する人の世と常に変わらぬ星空」という普遍的なテーマです。都会地で星を撮るのは大変だとは思いますが、ぜひ現代のデジタル撮像と画像処理技術を駆使した、現代のギユマン的作品に接してみたいです。

蛍光と蛍石の話(その3)2019年08月18日 08時37分01秒

(昨日のつづき)

論旨を補強するため、もう一冊明治の本を挙げておきます。


こちらは、和田の本のさらに4年前に出た、松本栄三郎『鉱物小学』(錦森閣、明治15年(1882)再版)です。この本には種本があって、スコットランドのJames Nicol(1810-1879)の『Elements of Mineralogy』(初版1858)を編訳したものです。

(上掲書第27丁「蛍石」の項)

この本は、鉱物名が未確立だったことを反映して、石脳油(クサウヅノアブラ)とか、石英(メクラズイセウ)とか、ほかにも雲母(キララ)長石(ボサツイシ)緑泥石(チチブアヲイシ)など、漢字の脇に古めかしいルビを振っています。そして、この本でも「蛍石」はやっぱり「ホタルイシ」ですから、これが日本に昔からあった名前である傍証になります。

注目すべきは、文末に産地として「豊後・美濃等」が挙がっていること。

同書の産地記載は、琥珀は「陸前、陸中等」、辰砂は「大和、紀伊等」、雲母は「岩代、近江、三河其他所々」…などとあって、近時のものではなく、古来の産地のように読めます。少なくとも明治の初めには、蛍石の産地と見なされる鉱床が見つかっていたことは確かです。

蛍石が江戸時代にも産した(天然自然に存在するばかりでなく、人の手で採掘が行われていた)ことをうかがわせるものとして、シーボルト(及び彼の同行者、ハインリッヒ・ビュルガー)が、日本産鉱物種を記載した資料中に、「Flussspath」(蛍石)が出てくることが挙げられます(文献1)。

オランダ商館員のシーボルトらが、各地の山間深く分け入って、自由に鉱物を採集できたはずはないので、これも同時代の日本人が掘ったものが、彼らの手に渡ったのでしょう。

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その後、明治から昭和にかけて、工業化の進展とともに蛍石の需要はますます高まり、あまりにも掘られすぎたせいで、ついに国内鉱山からは枯渇し、姿を消します。

岡野武雄氏の論文(文献2)を読むと、「日本で蛍石は1972年迄採掘され、その最盛期は1963年(2.1万t)であった。日本の蛍石はほぼ掘り尽くされたといってよい。〔…〕国内からは今後も採掘可能な鉱床の発見される可能性は乏しい」とあります(p.30)。

1980年代以降、今に至るまで、蛍石は全量を輸入に頼る状態が続いています。

その使途は、当然のことながら、ほぼすべて工業用で、岡野氏が挙げる1981年現在の状況は、「1981年の蛍石の輸入量は43万tで、中国(60%)、タイ(20%)、南ア(18%)などから輸入されている。輸入蛍石の主要な仕向先は、製鋼用18万t、弗化物用(弗酸など)12万t、アルミ精錬用3万tなど」でした(同)。

最近、韓国ともめた高純度の「フッ化水素」も元は蛍石が原料です。(フッ素の「フッ(弗)」も、大元は「フローライト」の「フ」であり、猛毒の弗素を相手に、かつて多くの科学者が犠牲になったことを、今回知りました。)

(英・ロジャリー鉱山産)

可憐な「ほたる石」も、なかなか可憐の一語では済まないものがあります。

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以上、勢い込んで調べ始めたわりに、さっぱり分からないことばかりですが、でも、「分からないということが分かる」ことも大事ですし、こうやって疑問を形にしておけば、いつか『諸国産物帳』とか、江戸時代の本草書や地誌の中から、蛍石の名がひょいと見つかることもあるでしょう。

(この項おわり)

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文献1) 田賀井篤平 「江戸時代の鉱物認識とシーボルト」
東京大学コレクションXVI「シーボルトの21世紀」所収
※蛍石は「石類」の26に登場。

文献2)  岡野武雄 「日本の工業原料としての非金属鉱物 (2)」
「地学雑誌」92-6(1983)、pp.22-38.

蛍光と蛍石の話(その2)2019年08月17日 08時55分21秒

蛍石の人気は、色・形・透明感の3拍子が揃っていることに加えて、「ほたる石」という名前の可憐さも一役買っているでしょう。その名前をめぐって、さらにメモ書きを続けます。

(様々な蛍石。中央は中国湖南省の黄沙坪鉱山産。八面体は、米・ニューメキシコ州、同イリノイ州産)

そもそも、「蛍石」という名前はいつからあるのか?

この点を考えるのに、一つ重要な資料があります。それは以前、「天河石(アマゾナイト)」の由来を調べたときにも参照した、ヨハンネス・ロイニース(著)、和田維四郎(訳)の『金石学』(文会舎、明治19年<1886>)です。

和田はこの本を訳すにあたって、鉱物の名称について、意訳したり、直訳したり、音訳したり、いろいろ苦労してネーミングしています。そして、それが現在の鉱物和名の基礎となっているので、鉱物名の由来を調べるときには、真っ先に参照すべき本です。

さて、同書で蛍石はどうなっているか?

(国立国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831991
 から第257~258丁(コマ番号141~142)を合成)

結論からいうと、「蛍石」はそうやって明治に生まれた新名称ではありません。昔から日本で使われた「和名」だと、和田は記しています。(彼はそれとは別に「コウ灰石」(コウは「行」の中央に「黄」)という意訳を考えましたが、これは普及しませんでした。文意をたどると、コウは今の弗素のことらしく、今風にいえば「弗灰石」です。)

ということは―。
「蛍石」の称は少なくとも江戸時代にさかのぼるものであり、しかも江戸時代の人は、蛍石という鉱物を知っていたばかりでなく、その発光現象も知っていたことになります(そうでなければ、唐突にホタルを持ち出すことはないでしょう)。

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「へえ」と思う一方、でも、そんなに印象的な名前を持った石なら、江戸時代の書物にもっと出てきてもよさそうなのに、江戸の大百科事典『和漢三才図絵』にも、当時の代表的な鉱物誌である『雲根志』にも、蛍石の名を見つけることができないのが、ちょっとモヤモヤする点。

そんな次第なので、江戸時代の蛍石が、すでに工業的に利用されていたのか、あるいは単なる飾り石としての扱いだったのか、そういう基本的なことも今のところ不明です。

(蛍石。メキシコ産)

(この項さらにつづく)

蛍光と蛍石の話(その1)2019年08月16日 21時09分41秒

ところで、「蛍光」という言葉。

エネルギーの供給を受けて励起状態となった物質が、再び基底状態に戻る際に発する光、それが「蛍光」です。何か言われて頭に血の上った人が、冷静さを取り戻す際、頭蓋から赤外線を放出する…かどうかは知りませんが、まあ、そんなイメージでしょう。

蛍光の学理は私の手に余るので深入りせず、ここでは、「蛍光(フローレッセンス)」や、その元になった「蛍石(フローライト)」という<言葉>にこだわってみます。

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「蛍光」という言葉は、文字通り「ホタルの光」ですから、あのホタルのお尻の光に由来する言葉だろうと、私は何の疑問も抱かずにいました。

(ホタル。ウィキペディア「ホタル」の項より)

でも、改めて考えてみると、「蛍光」は、「フローレッセンス(fluorescence)」を訳したもので、それは「フローライト(fluorite)」に由来する言葉です。

なるほど、たしかに「蛍石」という日本語は、ホタルに由来するのでしょう。
でも、「蛍光」の方は、直接ホタルから来ているわけではありません。「フローライトが発するからフローレッセンス」であり、「蛍石が発するから蛍光」なのです。つまり、「蛍光」という言葉は、本来「蛍石光」とでも書かれるべきところを、はしょって「蛍光」としているわけです。

(紫外線に照らされて蛍光を発する蛍石(下)。上は白色光で見たところ。ウィキペディア「蛍光」の項より)

ちなみに、「フローライト」の方は、英語の「flow (流れる)」と同根のラテン語から来ており、鉱石を加熱精錬する際、フローライトを融剤として加えると、不要成分が“溶けて流れ出る”ことに由来するそうです。要するに、西洋語のフローライトは、ホタルとは縁もゆかりもない言葉です。それを「蛍石」と呼び、そこから「蛍光」という語が生まれたのは、あくまでも日本独自の事情によるものです。

そうなると「蛍石」という日本語が、いつどこで生まれたかに、興味の焦点は移ってきます。

(この項つづく)

ケミカル蛍狩り2019年08月14日 19時03分00秒

蛍狩りの時期はとうに過ぎましたが、棚の隅からこんなものを見つけたので、暑中に涼を求めることにします。


幅14.5センチの箱に書かれた文字は「蛍光物質」

「昭和40年 理振法」のラベルが貼られた、半世紀余り前の理科教材です。
今も甲府盆地の中央に立つ笛南中学校が、開校と同時に購入したもので、さすがに教材としては使用に堪えないので、廃棄されたのでしょう。メーカーは内田洋行科学教材部で、「Kent」はそのブランド名。


ぱかっと開けると、中に管瓶が5本並んでいます。
この赤ん坊の人差し指ほどの、ちっちゃな瓶に紫外線を照射すると、



…といった感じで、涼やかな化学の蛍を楽しめるのですが、でも、今も元気なのは、左の2本の「有機蛍光塗料」だけです。


真ん中の瓶は「石油」で、石油が蛍光物質とは知りませんでしたが、石油は可視光線を受けて暗緑色の蛍光を発するとあります。今では完全に揮発して、石油は影も形もありません。ただコルク栓に塗られた塗料が、鮮やかな蛍光を発するばかりです。

右側の2本は「ハロゲン化物」「炭酸カルシウム」で、紫外線を浴びると、オレンジやら何やらの光を放つはずですが、今はその能力を失い、単なる“白い粉”として、紫外線LEDの光で青っぽく見えているだけです。

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50年もたてば、「蛍雪の功」も、自ずと空しくなるのもやむを得ません。
古い理科教材を前に、わが身を省みつつ、まあそんなことも含めての「涼」ですね、これは。

ガラスの雪2019年08月13日 06時26分37秒

一昨日の写真の端っこに写っていたモノについて。

以前――だいぶ以前です――雪のペーパーウェイトを集めようと思い立ったことがあります。でも、あっさり断念しました。珍重に値する古い品は少ないし、新しいものまで含めると、今度はキリがなくなるからです。それに、ペーパー「ウェイト」の名の通り、重くてかさばるのも、挫折した理由です。


でも、こうして改めて見ると、なんだか懐かしいです。
何せ、あれからもう10年以上も経つのですから。

右側の大きいのはエイボン社の製品。
エイボンというのは、あの化粧品のエイボンのことですが、同社は化粧品ばかりでなく、家庭用品も手掛けているので、これもそうした品のひとつです。eBayで雪のペーパーウェイトを探すと、たぶん真っ先に表示されるのがこれで、今でも大量に流通しているせいで、あまり「有難み」はないんですが、雪のペーパーウェイト好きなら、避けては通れない品。

エイボンの雪模様が型押しなのに対し、あとの二つはエッチング彫刻です。

下のお饅頭型は、石川県加賀市の「中谷宇吉郎 雪の科学館」で購入したもの。このブログでは、わりと頻繁に画面に映りこんでいます(本のページを開いておくのに便利だからです)。でも、記事を書くため、同科学館に確認したところ、この品はもう取り扱ってない由。

そして、左上の薄い円柱型の品は、大阪のガラス工房に発注したものですが、こちらはすでにお店そのものが営業されていないようです。


購入した日の記憶はこんなにも鮮明なのに、すべては雪のようにはかないです。
まあ、こうやってはかながっている私だって、遠からず全ての記憶とともに、はかなくなるわけですが。

トアの話2019年08月12日 06時53分25秒

ハイカラ神戸の象徴である、「トアロード」のことは、これまでも稲垣足穂に関連して、何度か記事にしました。昨日の『雪氷辞典』を見ていて、ゆくりなくトアロードのことを思い出したので、そのことをおまけに書いておきます。

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「トアロード」という地名の語源は、その突き当りに「トアホテル」があったからだ…ということになっています。では「トアホテル」の「トア」とは何か?これも昔からいろいろ言われてきましたが、現時点で最も確からしいのは、以下の説です。

すなわち、「トアホテル」の開業は1908年ですが、それ以前に、この場所には「The Tor」と称するイギリス人の邸宅があり、ホテルはその名称を受け継いで「Tor Hotel」を名乗ったという説です。

(お伽めいたトアホテルと、鳥居マークのラゲージ・ラベル)

そのイギリス人とは、F. J. バーデンズという人で、「Tor」とはケルト由来の古英語で、「高い岩や丘」を意味し、コーンウォールやデヴォン地方の地名に多い由。このことは、水田裕子氏(編著)『TOR ROAD STYLE BOOK』(1999)に教えてもらったのですが、同書はさらにこう述べます。

 「英国人バーデンズ氏が、なぜ「トア」を称したかは何の記録もありませんが、当時外国人の間でこのあたり一帯をThe Hill(丘)と呼んでいたことを考えると、毎夕、居留地のオフィスを出て家路をたどるとき、突き当りの小高い石垣とわが家、その背にある山の岩肌を見るにつけ、故郷のtorとダブッたのではないでしょうか。」(p.13)

(1900年ごろ、神戸市西町の「玉村写真館」で撮影された英国人夫妻の肖像。バーデンズその人ではないにしろ、同国人のよしみで、彼らはバーデンズ氏の顔と名前ぐらいは知っていたでしょう。英国ノリッジの古書業者から購入)

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その「トア」が、『雪氷辞典』にも出てきたので、「ほう」と思いました。

「トア [トール、岩塔] tor」

 風化に対して抵抗性の強い岩石がつくる塔状・塊状の高まりをいう。さまざまな気候下でみられるが、周氷河気候下でみられることが多く、凍結風化によって破砕されやすい部分が除去されたあと、壊されにくい部分だけが残って、まわりの地表面から突出した地形と考えられている。現在形成中のものもあるが、多くは氷期の周氷河環境下でできた周氷河地形である。凍結風化に対して抵抗力の強い、節理間隔の大きな岩石や、空隙率の小さい岩石からなる。

氷河期の酷寒にさらされても、なお凍結破砕を免れた頑丈な岩体、それが塔のようにそびえたものが「トア」です。

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足穂もトアホテルの語源には注目していて、「緑の蔭―英国的断片」というエッセイにそのことを書いています。

足穂は、最初「トア」とは単純に「東亜」のことだと考えました。

次いで、英和辞典を引いて、「 tor 」に「岩山、岡 (特に英国 Dartmoor の)」という意味があるのを見つけ、さらにダートムーア地方と神戸周辺が、ともに花崗岩質であることに何か意味があるのでは?…と推理を働かせます。かつての鉱物少年の面目躍如です。

でも、結局、これは日本語の「Torii 鳥居」に由来し、ホテルの中に鳥居があったからだ…という説に落ち着いています。

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「トア」が鳥居なんぞでなく、やっぱり岩山で、しかもすこぶる地質趣味に富んだ名称だと足穂が知ったら、彼の「神戸もの」に、一層硬質な趣きが加わったかもしれないなあ…と思うと、ちょっぴり残念な気もします。