酷暑、熱死 ― 2026年07月23日 08時39分50秒
今週いっぱい、ことによると来週も、恐ろしい暑さが続きます。
地元名古屋では、今日も最高気温40度の予想。今年は「酷暑日」という気象用語が生まれ、ニュースでは嬉々として使われていますが、まったくいやはやです。
見苦しいごみ袋の写真で恐縮です。
昨日切ったシラカシの枝が、今朝見たら褐変していて驚きました。
別に枯れ枝を切ったわけではありません。昨日まで青々していた葉っぱが、一晩で茶色くなっていたのです。冬場だと剪定した枝も長期にわたって緑を保つのですが、酷暑のせいか「あっという間におじいさん」です。
意外の感に打たれた私は、性懲りもなくまたAIに聞いてみました。
AIの答を自分なりに咀嚼して書くと、こういうことだそうです。
まず、外気温の高さばかりでなく、葉っぱ自身の呼吸作用も加わることで、ビニール袋の中は非常な高温となり、これによって頑丈なシラカシの葉も一気に熱死。そして熱で細胞膜が壊れたことにより、細胞内のポリフェノールと酸化酵素が混ざり合い、空気中の酸素と反応して、リンゴの切り口が茶色くなるのと同じ仕組みで、全体が一気に褐変したわけです。
ビニール袋を側面から観察すると、褐変は主に袋の口近くで生じており、下の方は緑を保っています。高温状態と褐変との間には、ほかにも葉緑素と結びついたタンパク質の熱変性という要因も介在するのですが、青菜のおひたしが青々としているように、植物体の熱死は、それだけでは褐変の十分条件とはいえず、そこに酸化作用の伴なうことが重要なファクターであることが分かります。たぶん袋の下の方は低酸素状態になっていたのでしょう。
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まことに樫の葉にとっては災難でしたが、これと同じことが人間の身に降りかかると、大きな悲劇を生み、狭い空間に大勢の捕虜を押し込めたことによる大量死は、これまで何度も繰り返されています(たとえば1756年のベンガルで起こった悲劇や、1956年のアフリカ・コスチの悲劇など)。
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ところで、「酷」の部首は「酉」で、一般に「とりへん」と呼ばれますが、これは十二支の「酉」の読み方から借りたもので、本来は“酒壺”のかたちを表し、「酒」とか「酔」とか「酌」とか、お酒に関係した字に使われます。
では「酷」は?…と字書を引いたら、「形声。酉と、音符告コク(ひきしめる意→梏コク)とから成り、きゅっと口をひきしめさせるような味のこい酒の意を表わす。転じて「きびしい」の意に用いる。」とありました(小川環樹ほか偏『角川新字源』)。ですから、もともと「酷」自体に悪い意味はなくて、むしろ酒徒としては大いに慶ばしい字です。
熱死は御免こうむって、結句、この辺が酷暑との好ましい付き合い方ではないでしょうか。
月の歌 ― 2026年07月20日 17時51分17秒
3連休。徒長した枝を整理するために、昨日もおとといも庭木をちょきちょき伐っていました。もちろん熱中症対策をした上でのことです。でも、対策をしたからといって、暑くてしんどいことに変わりはありません。ますます暑くなりゆく世界と、衰えゆく自分。この先、いつまで庭仕事ができるかなあ…と不安な気持ちを抑えることはできません。
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さて、こんな絵葉書を見つけました。
三日月に乗った子供たち。
写真の上に手描きで絵を補ったもののようです。張りぼての月に乗った、よくある「ペーパームーン」の絵葉書ともちょっと違った雰囲気です。
左上の文章はオランダ語で、オランダの古いわらべ歌の一節だそうです。
Kleine Nellie en kleine Koos, 小さなネリーと小さなコースは、
zaten heerlijk op de maan. 月の上で楽しく座っていました。
Maar na een heele korte poos, しかし、ちょっとしたら、
wilde het nu regenen gaan. 雨がぽつぽつ降りだしました。
そして、この後には次のような歌詞が続きます。
Nellie had geen paraplu, ネリーは傘を持っていません。
Koosje riep: "Wat moeten we nu?" 「ああ、どうしよう?」とコースちゃん。
Toen gleden zij langs een zonnestraal, すると彼らは、太陽の光に乗って、
Vlug weer naar beneden, allemaal! 急いで下まで滑り降りました!
いわばオランダ版「マザーグースの歌」です。
写真では2人とも女の子のように見えますが、ネリーとコースは、英語ならJackとJill、日本語なら太郎と花子に相当し、昔風の男の子と女の子を代表する名前。
洋の東西を問わず、わらべ歌の常として、この歌も何となく謎めいた歌詞で、そこには古い民俗的背景があるのではないか…と想像されるのですが、果たしてAIは次のように返してきました(回答を一部改変して抜粋)。
農耕民族であったヨーロッパの人々にとって、「月と雨(天気)」は切っても切り離せない関係でした。民俗学的な迷信として、「三日月が横を向いて、お椀のように水をためられる形の時は雨が降らない(またはその逆で雨が漏れ出す)」といった、月の傾きで天気を占う伝統が各地にありました。「月の上に座っていたら雨が降ってきた」というシチュエーションは、こうした「天候を支配する月」という古くからの自然信仰の記憶が、子どもの遊びの歌の中に形を変えて残ったものと解釈できます。
「ネリーとコース」「ジャックとジル(マザーグース)」のように、男の子と女の子のペアが天界や高い場所(月や丘)に登り、そこでアクシデント(雨、転倒)に遭って降りてくる、という構造はヨーロッパの児童歌に非常によく見られるパターンです。これは、古代の「双子神」や「一対の精霊(太陽と月、あるいは昼と夜の擬人化)」の物語が、長い年月をかけて口承されるうちに、親しみやすい人間の子供の名前に置き換わった名残であるという説もあります。
そして、ネリーとコースが「太陽の光を滑り台にして降りてくる」という展開は、北欧神話やヨーロッパ伝承における「虹の橋(ビフレスト)」や「光の階段」を使って天界と地上を行き来する神や妖精のモチーフの変形です。かつては神々が通った光の道を、後代の子どもたちは「雨が降ってきたから」という日常的な理由で滑り降りてくるわけです。
「ネリーとコース」「ジャックとジル(マザーグース)」のように、男の子と女の子のペアが天界や高い場所(月や丘)に登り、そこでアクシデント(雨、転倒)に遭って降りてくる、という構造はヨーロッパの児童歌に非常によく見られるパターンです。これは、古代の「双子神」や「一対の精霊(太陽と月、あるいは昼と夜の擬人化)」の物語が、長い年月をかけて口承されるうちに、親しみやすい人間の子供の名前に置き換わった名残であるという説もあります。
そして、ネリーとコースが「太陽の光を滑り台にして降りてくる」という展開は、北欧神話やヨーロッパ伝承における「虹の橋(ビフレスト)」や「光の階段」を使って天界と地上を行き来する神や妖精のモチーフの変形です。かつては神々が通った光の道を、後代の子どもたちは「雨が降ってきたから」という日常的な理由で滑り降りてくるわけです。
AIの言うことですから、ハルシネーションに基づく勇み足が混じっているかもしれませんが、説明を聞くとなるほどなあ…と思います。
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こんなふうにAIの言うことを鵜呑みにして、「こたつ記事」を書くのもつまらない話で、ほとんど頭を使ってないという意味では、昔の「ウィキペディアの丸写し」と何ら変わりません。でも、世の中はだんだんそういう方向に向かいつつありますね。現時点では、いかにプロンプトをうまく与えるかがコツと言われますが、AIは日進月歩ですから、これもすぐ昔語りになるはずです。それが良いことか悪いことか、少なくとも文章を書くという行為の意味合いは、ずいぶん変わることでしょう。
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今宵は六日月。
なにごとも かはりのみゆく 世の中に
おなじかげにて すめる月かな 西行法師
おなじかげにて すめる月かな 西行法師
世の中は変わっても、月の光は昔と変わらない―。
この古歌もうろ覚えだったのを、AIが教えてくれました。でも、だからといって歌の位が下がるわけでもないでしょう。独酌しながら、静かに口ずさみたいと思います。
コマチアイト ― 2026年07月12日 18時40分54秒
(昨日のつづき)
「コマチアイト」という名称は、南アフリカのコマチ川で発見されたことから付けられたもので、小野小町とはもとより何の関係もありません。
私にコマチアイトの存在を教えてくれたのは、天文界の大先達である藤井常義氏で、氏の化石コレクションをまとめた冊子、『EVIDENCE OF LIFE 生命の証拠 ― Fossil collection(PartⅢ)』(私家版、2024)で、最初にその名を知りました。以下、同冊子から一部を引かせていただきます(太字は引用者)。
「コマチアイトは火成岩で表面に板状に細長く伸びた結晶の橄欖石が放射状に見えるのが特徴。この模様はスピニフェックス構造(spinifex texture)と呼ばれる。オーストラリア砂漠に生えるスピニフェックス草に似ることからその名が付く。
このような模様はマグマの融点温度が 1600 度をこしたもので急激に冷却しないと形成されない。現在の地球ではマグマの融点が 1200 度をこすことはないこととコマチアイトの産出が太古代の岩石が分布する地域に限定されることから地球誕生のまもない 25~35 億年前のマグマ温度が高かったマグマオーシャンの海で急激に冷えて固まった地球で最初の岩石と考えられている。」
このような模様はマグマの融点温度が 1600 度をこしたもので急激に冷却しないと形成されない。現在の地球ではマグマの融点が 1200 度をこすことはないこととコマチアイトの産出が太古代の岩石が分布する地域に限定されることから地球誕生のまもない 25~35 億年前のマグマ温度が高かったマグマオーシャンの海で急激に冷えて固まった地球で最初の岩石と考えられている。」
「地球で最初の岩石」。
何と魅力的な響きでしょう。ざっと30億年前に生まれ、以来ふたたび溶けたり砕けたりすることなく、岩石として在り続けた存在。今はなき太古のマグマの忘れ形見。
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もちろん私がコマチアイトを手にしても、何か研究の対象にするわけではないし、単なる物好き以上の意味はないのですが、30億年の歳月を手にする機会はそう多くはありません。
私が見つけたのは、ご覧のようにコマチアイトの薄片標本です。
詳細な産地は不明ですが、藤井氏が入手されたものと同じくオーストラリア産です。
この薄く透明な岩石薄片が秘めた30億年の記憶。
私にサイコメトリーの能力はないにしても、偏光顕微鏡の視野に広がる光景を見れば、この惑星の30億年の歴史がたしかに感じられるのです。
鮮麗で鋭角的な光は、老残とはおよそ無縁。
熱いマグマが急速に冷却固化する際に析出する構造体。
どんな宝玉にも勝る光、光、光。
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花のような容貌が輝くばかりであった小野小町も、百歳(ももとせ)に一歳(ひととせ)足らぬ九十九髪(つくもがみ)、老いて頭は霜の如く、下賤の女からも汚いものを見るような目で見られ、諸人に恥をさらす女乞食になった…と謡曲「卒塔婆小町」には謡われます。
でも、だから人間はダメで、鉱物はエライ…とも限りません。
この移ろいやすい人間の肉体こそ、地水火風空の「五大」をかたどった五輪の似姿に他ならず、その移ろいやすさの向こうに仏の三昧耶形(さんまやぎょう)を観じ、菩提心を発する機縁とすべきだ…ということを、おそらく「卒塔婆小町」の作者は言いたかったのだと思います。
平たく言えば、物質的存在を超えたところに、人の存在する価値なり意味はあるのでしょう。コマチアイトが30億年の時を超えて輝くのも、それを目にする人間の精神が輝くからだと、言って言えないことはありません。
30億年前のあの日、あの時、私が将来コマチアイトと対話することは既に決まっていたのかもしれません。そう思うと、弥勒仏信仰もそう荒唐無稽な話とは思えなくなります。
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ちなみにアフリカのコマチ川のさらなる語源をたずねると、スワジ語の「インコマチ(牝牛)」に由来し、乾季にあっても豊かに流れる川を、常に乳を出す牝牛になぞらえたのだそうです。まさに地上のミルキーウェイ。宵闇の中、コマチ川のほとりに立てば、天上と地上の2つのミルキーウェイが照応して、きっと素敵な眺めが見られることでしょう。
小町石 ― 2026年07月11日 13時57分07秒
老残のこと伝はらず業平忌 登史郎
平安時代を代表する美男子・在原業平は、若年の艶っぽいエピソードこそ有名ですが、老いてから後のエピソードは伝わらないことを詠んだ句です。
業平忌は旧暦5月28日で、新暦に直すと今年は7月12日がそれに当ります。彼はちょうど今時分、梅雨が明けるか明けないかの頃合いに亡くなりました。
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この句の裏には、平安美女の代表である小野小町の方は、能「卒塔婆小町」に描かれるように、“老残”の姿がむしろ有名であることが伏在するようです。
美女もいつしか老い、そして白骨と化す。
女性の死体が腐朽する過程を描いた「九相図」が、特に小町と結びついて作成された例もあります。別に美女でなくても、すべての男女が同じ道をたどるわけですが、男性優位の社会では、女性の美貌に高い価値が置かれたので、いきおい美女の例が強調されたのでしょう。
(伝・英一蝶作。ウィキペディア「九相図」の項より)
小野小町は女乞食として晩年を迎えた…という文芸上の観念を受けて、小町の墓の伝承地は全国に点在します。ほかにも様々な小町伝説が各地に伝わるのは、大師信仰と同様、遊行する宗教者(この場合は「歩き巫女」)の影響だと言われます。
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そんな伝承のひとつに「小町石」、あるいは「小町の腰掛石」というのが、あちこちにあります。旅の途中で小町が腰をかけて休んだ石だというのですが、もちろん後世の付会でしょう。あるいは、今回検索して「小町しぐれ」という石材があることを知りました【LINK】。小町生誕伝説がある福島県小野町で産する花崗岩で、主に墓石に加工される…というのは「卒塔婆小町」との縁を感じて興味深く思いました。
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…と縷々書いたものの、以上のことはまったく無駄な前書きです。
本当は火山岩の一種である「Komatiite(コマチアイト)」のことを書こうと思ったのですが、日本人としてはどうしてもこれを「小町石」と呼びたくなるので、前置きとして現実に存在する小町石に言及しました。
(本題に戻してこの項つづく)
光学の授業 ― 2026年07月10日 16時40分09秒
この「天文古玩」も、すでに20年以上の星霜を経ています。
この間、いろいろな話題を取り上げ、多くの品を登場させました。でも、この狭い部屋の中に限っても、ここに登場してない品はまだまだたくさんあります。しかし、それは登場する価値が無いからではありません。
たとえば、この品はどうでしょう?
今から12年前に購入して、以来ずっと棚の上に鎮座しています。
これは木製台座の上でレンズを動かし、対象の見え方を観察させる「望遠鏡原理説明器」です。上の写真だと背景が暗くゴチャついているので、購入時の商品写真も載せておきます。
光学の理を説く理科教材の一種で、類似の品は日本でも、そしてたぶん今でも作られていると思いますが、これは19世紀のイタリア製で、フィレンツェの業者から送ってもらいました。
この場合、イタリア製というのが個人的に大きな意味を持ちます。
当然ガリレオの横顔も思い浮かぶし、ジョバンニとカムパネルラの教室にもこんな教具が置かれていたのではないか…と想像すると、これぞ天文古玩の保守本流という気が俄然してきます。
ここが定位置。これまた暗い写真で、何だかよく分らないと思いますが、20年間こういう風情に惹かれ続けて現在(いま)に至り、依然として変化と成長を続けているわけですから、我ながらなかなか根気強いというか、執念深いです。
彗星の思い出 ― 2026年07月09日 16時11分08秒
いつの間にか七夕も終わってしまいました。
この間、ボンヤリ過ごしていたわけではなく、むしろバタバタしていたのですが、バタバタ続きだと、空白の時間には一層ボンヤリしてしまって、なかなか記事が書けませんでした。でもそういうのは精神によくないので、少しずつ記事を書きます。
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最近の買い物から。
彗星のカリカチュア絵葉書です。
キャプションは、「モンリュソン、1910年の夜」。
モンリュソン(Montluçon)はフランスのほぼ中央部、パリからは南に約300kmのところにある町です。例によって昼間の写真を加工して夜景に作り替えてありますが、右手の塔の目立つ建物がこの町のシンボルで、14世紀にブルボン家が建てた城だそうです。
消印は1910年4月25日付け。
日付からすれば、この年の4月20日に近日点を通過したハレー彗星を当て込んだ絵葉書だろうと推測されますが、その壮大な尾は、同じ年の1月に出現した、これまた巨大な彗星「C/1910 A1」【LINK】の姿に一層似て見えます。
まあ、後者も描き手の発想源のひとつではあったでしょう。
「C/1910 A1」は一時期、日中でも視認できるほど明るく、夕暮れ時にはそれこそ目を見張るような光景を見せてくれたと伝わります。
ところでこの絵葉書、微妙な表情のお月様はいいとして、よく見ると彗星自体も擬人化されています。
その姿は、冠をかぶり、何かを指さして微笑む女性のようです。
そして長大な彗星の尾は、女性の純白の裳裾であり、婚儀を象徴しているのかもしれません。
実は絵葉書の現物が届くまで、私はこの女性に気づかなかったのですが、女性の姿と彗星の尾の比率がおかしいせいで、滑稽なような、あるいはいっそ不気味なような、奇妙な味わいを生んでいます。
版元はモンリュソンの G. Chaumont 商店で、あて先も同地に住む Marie Haymond 嬢と、徹底的に地元志向の絵葉書ですが、文面が「Souvenirs(思い出に)」の一語だけなのは、いろいろ人間ドラマを想像させます。
エフゲニディス・プラネタリウム ― 2026年07月01日 16時09分42秒
このドームをいただいた建物は、1966年6月7日にアテネにオープンした「エフゲニディス・プラネタリウム」。
なんでもギリシャの海運王に、エウゲニオス・エフゲニディス(Eugenios Eugenidis、1882-1954)という人がいて、この人はギリシャの近代化と科学教育に多大な貢献をしたそうですが、ここはその遺贈によって設立された「エフゲニディス財団」が手掛けたプラネタリウムです。
カール・ツァイスのモデルⅣ型機を備えたエフゲニディス・プラネタリウムは、ギリシャはもちろん、南東ヨーロッパ全体を見渡しても、最初の本格的プラネタリウムで、開館当時は大変な話題になった由。初日カバーには民間発行のものも多いですが、これはギリシャ郵便が公式に発行したもので、同プラネタリウムの開館が国家的慶事だったことを物語ります。
今年はちょうど同プラネタリウムの開館60周年。
プラネタリウムのオープンと記念切手の発行が半年ばかりずれているのは、建物の竣工とプラネタリウムの本格オープンにタイムラグがあったせいでしょう。
額面2.5ドラクマの切手に描かれているのは、古代の天文学者・ヒッパルコス(紀元前2世紀)と、彼の発明品とされるアーミラリー・スフィアで、そこに天文学揺籃の地としてのギリシャの強い自負を感じますが、他国者の目から見ても、ヒッパルコスとツァイス投影機の対比は、天文学2000年の歴史をただちに思い起こさせるものがあり、なかなか味わい深いです。
(裏面は白一色)
ちなみに、同プラネタリウムは2003年に全面リニューアルし、最先端のデジタル投影システムを備えた今風のプラネタリウムに生まれ変わったそうです。
ちょっぴり残念な気もしますが、この辺は世の流れで、いかんともしがたいです。
蒐集無慙 ― 2026年06月28日 09時53分35秒
このところ収集欲が比較的おとなしかったです。
まあ恒常的にモノは買っているのですが、「あ、いいな」と、軽い気持ちで買うものが大半で、眼球がひっくり返って、目が血走るような買い物とは少し距離がありました。当然、その方が精神衛生にとっては好く、財布にもやさしいわけで、大いに喜ぶべきことです。
そうした境地に達したのは、やはりこれまでずいぶんモノを買って、欲しいと思えるモノは一通り手にしたから…という理由がいちばん大きいです。大コレクターの方からすれば、「貧乏コレクターが何を偉そうに…」と思われるでしょうが、こういうのは“鴻鵠いずくんぞ燕雀の志を知らんや”で、貧乏は貧乏なりに、大コレクターには窺い知れない蒐集の道がまたあるのです。
それに、これは単なる私の強がりではありません。いや、やっぱり強がりかもしれませんが、たとえば以前言及した「Vintage Astronomy Books」というFacebook上の公開グループがあります。
天文古書愛好家という、非常にニッチな趣味のグループにしては、今日現在でメンバーは3,512人という結構な大所帯。
このグループの過去の投稿をさかのぼって眺めても、私の手元にある資料(本や紙モノ)が、海外の平均的愛好家に劣るとは思えないし、彼らの視野に入っていない日本の資料も多いわけですから、ここはちょっと大きく出ても許されるでしょう。それに「自惚れをやめれば他に惚れ手なし」という古川柳じゃありませんが、こんな些末な自慢は、およそ世間一般に通用しませんから、ここはせっせと自画自賛するに限るのです。
★
さて、そんな平和な日々を過ごしているとき、これまで一度も見たことのない天文古書の存在をネット上で知りました。つい一昨日のことです。
格別古い本ではなくて、19世紀後半の初学者用天文教科書ですが、その挿絵が実に好くて、一目見るなり、私はアブサンをあおったように、カッと全身が熱くなるのを感じました。こんな経験は久しぶりのことです。
もちろん所有欲に突き動かされた私は、ただちに探書を開始しましたが、古書検索サイトは全滅、オークションサイトもダメ。こうなると、いよいよ眼球がひっくり返って、目が血走ってきます。さらに探索の手を緩めることなく、結局その日のうちに1冊だけ出物を見つけたのは、運もありましたが、我ながら上出来です(この際、保存状態の悪さには目をつむりました)。
しばらく忘れていた、平穏とはおよそ対極にある感覚。
注意を要するのは、これが(一見そうであるように)本そのものを求めているのであればまだしも、実はそれに伴う興奮やスリルを欲しているのだとしたら、甚だ好くないということです。でも、両者は頭で思うほど、常にはっきり分離できるわけではありません。
★
コレクターにとって、「ほんたうのさいはひは一体何だらう」と考えます。
(肝心の本については、手元に届いてから改めて紹介しようと思います。)
賢治の心象、心象の賢治 ― 2026年06月27日 15時05分02秒
書店に寄ったら、パッと目に付いた本。
■別冊太陽 日本のこころ333
『宮沢賢治 詩の世界 ― 心象スケッチを旅する』
平凡社、2026
『宮沢賢治 詩の世界 ― 心象スケッチを旅する』
平凡社、2026
「そうか、今年は賢治の生誕130年か…」と思いました。
彼は1896年に生まれ、1933年に没しました。7年後の没後100年の折には、きっと今回以上に盛り上がりを見せるでしょう。
賢治も今や立派な国民作家。
しかし、賢治の詩は難解です。「一読平明にして、人の心を打つ」というよりは、「一読晦渋にして、人の首をひねらせる」ところがあります。
まあ、これは私が詩を「コトバ」寄りに捉えがちだからそう思うのかもしれません。
コトバはメッセージを伝える道具であり、詩を理解するとは、記号列に encode された作者の意図を、その逆の順序で decode することだ…みたいに思い込んでいるから、首をひねることになるのでしょう。
でも、詩とはメッセージではなく、イメージないし体験を伝えるものだ…と、これを書きながら思いました。その意味で、詩は小説よりも音楽に似ています。極端な話、音楽はコトバを一切使わなくても、イメージや体験を伝えることができるし、人はそこに感動を覚えます。(ただし、詩は原理的にコトバを離れて存在することはできないし、演奏家と聴き手がたいてい同じ人間である点が、ちょっと音楽とは違います。)
賢治の詩も、そのコトバの連なりが運ぶのはメッセージではなく、コトバ以前のイメージであり、ある種の体験です。すなわち「心象」。賢治が第一詩集『春と修羅』(1924)の副題として「心象スケッチ」を選んだのは示唆的です。
もちろん後付けで心象を解釈し、改めて言語化することはできるにしても、詩と向き合うとき、それは必須の作業ではないでしょう。
★
なんだか浅薄なエセ文学論みたいなことを書きましたが、今回自分なりに思いついたこととしてメモ書きしておきます。
クラウド・コレクターの肖像 ― 2026年06月23日 05時46分06秒
『雲の「発明」』(扶桑社、2007)は、だいぶ前に買ったのが、そのまま積ん読本の山の中に置かれていました。そもそもこの本を買ったのは、当時ルーク・ハワードに関心が向いていたからですが、しかし関心があっても、本というのはタイミングが合わないと、なかなか読めないものです。今回はちょうどよいタイミングでした。
★
やっぱりその頃買ったのが、一昨日の「黒いもの」の正体です。
といって、別に奇をてらったものではなくて、中身はハワードの肖像を鋳込んだメダルです。ルーク・ハワードを身近に感じたくて、彼にちなむものを探していて見つけました。
このメダルは、1850年創設の英国王立気象学会が、創立50周年を記念して公式に発行したものです。
1864年没のハワードは、当時すでに鬼籍に入っていましたが、学会創設の折にはまだまだ達者でしたから、そこに彼の体温をほのかに感じます。そして、創立50年という節目に顕彰されるだけの価値を有する人物と見なされていたという点に、彼の功績の大きさを改めて実感します。
本の表紙と比べると、メダルの方が年齢を重ねた肖像のように見えます。
彼が雲の分類を最初に公にしたのは1802年、ちょうど30歳のときで、その後九十過ぎまで長寿を保ったので、容貌にもいろいろ変化があったことでしょう。
このメダルを鋳造したのは、英国王室御用達をつとめたワイオン工房で、別に御用達だからエライというわけではないにしろ、それだけ力こぶの入ったメダルですから、やっぱり貴重なものと言ってよいでしょう。
稀代のクラウド・コレクター、ルーク・ハワード。
思うに彼は、イギリスの王様以上に「雲上人」と呼ばれる資格があるんじゃないでしょうか。





































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