名月の記 ― 2024年09月18日 08時06分10秒
昨日の記事を読み返すと、冒頭で「今宵は旧暦の八月十五夜、中秋の明月です」と自分は書いています。「中秋の明月」は、たぶん新聞の校閲なんかだと「中秋の名月」に書き換えられる表現でしょう。
(1903年の消印が押されたドイツの古絵葉書)
「名月」と「明月」、「中秋」と「仲秋」の異同は昔から言われるところで、これらを組み合わせると、「中秋の名月」、「中秋の明月」、「仲秋の名月」、「仲秋の明月」の4通りできますが、この中のどれが正解で、どれが間違っているのか?
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まず「仲秋」は秋半ばの意で、旧暦8月の異称。
それに対して、「中秋」は旧暦8月の中でも特に「8月15日」を限定的に指す言葉です。この日を祝うのが「中秋節」で、お月見習俗もその一環。ですから「中秋の名月」と書くほうが、意味的により的確なのは確かです。
でも、旧暦は月の満ち欠けを基準に日にちを決めていて、新月の日が1日(ついたち=月立ち)、そして満月は必ず15日になります。つまり「仲秋の名月」と書けば、それは自動的に旧暦8月15日の月を意味しますから、そう書いても間違いではない…という人もいます。
次に「名月」というのは、旧暦8月以外でも、また満月以外でも、美しい月であれば「今宵は名月だなあ…」といって差し支えない気もするんですが、詩歌の世界の約束事として、「名月」といえば「旧暦8月15日の月」を指すことになっています。そして「明月」は「名月」と互換可能で、歳時記を開くと、
明月や 一声くもる 天津雁 森川許六
明月や 遮る庇 面白し 高浜虚子
明月や 舟を放てば 空に入る 幸田露伴
明月や 遮る庇 面白し 高浜虚子
明月や 舟を放てば 空に入る 幸田露伴
といった例句が挙がっていて、いずれも旧暦8月15日の月を詠んだ句です。
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ということは即ち、「中秋の名月」、「中秋の明月」、「仲秋の名月」、「仲秋の明月」のいずれも間違いとはいえない…というのが、上の疑問の答になります。
その中で「中秋の名月」が多用されるのは、多分に習慣的な要素が強いといえますが、言葉というのは意思疎通の手段ですから、他者とコミュニケーションをスムーズに行うために、慣用や通例に従うことも大切です、(でも、改めて考えると、「中秋が8月15日で、名月が8月15日の月の意味だったら、『中秋の名月』は冗長じゃないか。『中秋の月』とか、単に『名月』でいいじゃないか」という気がしなくもありません。)
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秋の夜は、満月を過ぎても月を愛でる気分が続くので、今日からは「十六夜(いざよい、旧暦8月16日)」、「立待月(たちまちづき、同17日)、「居待月(いまちづき、同18日)」、「臥待月(ふしまちづき、同19日)」、「更待月(ふけまちづき、同20日)」…と続きます。日を追うごとに月の出が遅くなることに対応した名称ですが、いかにも優しい心根と感じます。
(同じ版元から出た絵葉書。こちらも1903年の投函)
松橘月図硯箱 ― 2024年09月17日 20時19分27秒
今宵は旧暦の八月十五夜、中秋の明月です。
今さらですが、満月は太陽と正反対の位置にあるので、太陽が西に沈むのと、満月が東から顔を出すのは、ほぼ同時になります。今宵もちょうどそれで、今日の夕日は美しい茜色でしたが、お月様も負けじと薄桃色にお化粧をして、しかも建物の隙間に浮かぶ姿があまりにも巨大だったので、びっくりしました。まずは見事な名月といってよいでしょう。
★
今日はお月見にふさわしく、風流な品を載せます。
古い蒔絵の硯箱。
先日も蟹と琴の硯箱を話題にしましたが、こちらは家蔵の品なので、モノの良し悪しはともかく、私にとっては一層愛着が深いです。
こんな風にコントラストをつけると、いかにも趣があるように見えますが、図柄を検討するには不向きなので、以下、購入時の商品写真を流用させていただきます(漆器は反射がきつくて、うまく写真に撮れませんでした)。
こちらが蓋の表で、
こちらが蓋の裏のデザインです。
ご覧のようにモチーフは表裏とも共通で、「松に橘」図です。
問題は、そこに描き加えられた天体で、裏はもちろん月ですが、
表は太陽なのか、月なのか判然としません。
太陽ならば「日輪と月輪」が、月ならば「満月と半月」が対で描かれた絵柄ということになりますが、これはどちらもあり得るので、にわかに判断が難しいです。でも、ここでは後者を推しておきます。なぜか?といえば、この絵柄全体の意味を考えると、その方が理解しやすいからです。
★
「松竹梅」の松はいうまでもなく嘉樹の筆頭として長寿のシンボルであり、橘もまた常世の国に生える「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」として、古来、不老不死のイメージで語られてきました。
そこに月です。月は永遠に満ち欠けを繰り返すがゆえに、これまた再生と不死のシンボルであり、不老不死の仙薬を持って月に逃れた嫦娥(じょうが)伝説や、切られてもすぐに再生する月桂のエピソードもそこに重ねて観念されてきました。
要するに、松・橘・月は不老不死のイメージでつながっており、これは全体として長寿を願う吉祥図になっています。そのイメージを貫徹するために、蒔絵師は月の満ち欠けを満月と半月で描き分けたのではないか…というのが、私の推測です。(これが日輪と月輪だと、その点でちょっと不完全な描写になる気がします。)
★
先日の「蟹と琴と月」はひどく難解でしたが、この「松と橘と月」のシンボリズムはごくシンプルで、心安く眺めることができます。いささか親馬鹿めきますが、月を眺める気分は、すべからくこうあってほしいものです。
蟹と月と琴(後編) ― 2024年09月08日 13時35分09秒
(今日は2連投です)
もう一つの万葉集云々ですが、これは『万葉集』巻十六に収められた「乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首」のうちの一首を指します。
新潮日本古典集成(青木生子他校注)の注釈によれば、「乞食者(ほかひひと)」とは、いわゆる路傍で物乞いする人ではなく、「家々の門口を廻って寿歌(ほぎうた)などを歌って祝い、施しを受けた門付け芸人」とあります。
万葉集は、その寿歌を2首採録していて、1首目は鹿の歌、2首目が蟹の歌です。
いずれも捕らえられた鹿と蟹が、やがて我が身が大君のお役に立つであろうと、彼ら自身が述べる体裁になっています。まあ、鹿や蟹にとっては災難ですが、人間側から見れば、豊猟や豊漁を予祝する歌といったところでしょうか。
煩をいとわず、蟹の歌を全文掲げれば以下の通りです(新潮日本古典集成による。太字・改行は引用者)。
おしてるや 難波の小江(をえ)に
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに 我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも
廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る
葦蟹(あしがに)を 大君召すと
何せむに 我を召すらめや
明(あきら)けく 我が知ることを
歌人(うたびと)と 我を召すらめや
笛吹きと 我を召すらめや
琴弾きと 我を召すらめや
かもかくも 命(みこと)受けむと
今日今日(けふけふ)と 飛鳥に至り
置くとも 置勿(おくな)に至り
つかねども 都久野(つくの)に至り
東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ
参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば
馬にこそ ふもだしかくもの
牛にこそ 鼻縄(はななは)はくれ
あしひきの この片山(かたやま)の もむ楡を
五百枝(いほえ)剥き垂れ
天照るや 日の異(け)に干し
さひづるや 韓臼(からうす)に搗き
庭に立つ 手臼(てうす)に搗き
おしてるや 難波の小江の 初垂(はつたり)を からく垂れ来て
陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を
今日行きて 明日取り持ち来(き)
我が目らに 塩塗りたまひ
腊(きた)ひはやすも 腊(きた)ひはやすも
以下、同じく現代語訳。
難波入江の葦原に廬りを作って、潜んでいるこの葦蟹めなのに、大君がお召しとのこと、どうして私などお召しなのか、私にははっきりわかっていることなんだけど、歌人にとお召しになるものか、笛吹にとお召しになるものか、琴弾きにとお召しになるものか、でもまあ、お召しは受けましょうと、今日か明日かの飛鳥に着き、置いても置勿(おくな)に辿り着き、杖も突かぬに都久野(つくの)に着き。さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、馬にならほだしを懸けて当りまえ、牛になら鼻緒をつけて当りまえ、なのに蟹の私を紐で縛りつけてから、傍(そば)の端山(はやま)の楡の皮を五百枚も剥いで吊し、お天道様でこってり干し上げ、韓臼で荒搗きし、手臼で搗き上げ、故郷(ふるさと)難波江の塩の初垂り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶(すえ)の人が焼いた瓶を今日一走りして明日には持ち帰り、そいつに入れた塩を私の目にまで塗りつけて、乾物にし上げて舌鼓なさるよ、乾物にし上げて舌鼓なさるよ。
この歌に関連して、国文学者の吉田修作氏は、
「三八八六番歌には「琴弾き」の前に「歌人」「笛吹き」とあり、それらの歌舞音曲の担い手として「吾を召すらめや」という文脈の中に位置付けられている。これらに対し、代匠記〔※引用者注:江戸時代の国学者・契沖による『万葉集』の注釈書、『万葉代匠記』のこと〕は蟹が白い沫を吹く動作や「手ノ数モ多ク爪アリテ琴ヲモ引ツベク見ユル故ナリ」との解答を与えている。蟹の動作を擬人化、戯画化したということだが〔…〕」
と述べられています(吉田修作『古代文学表現論―古事記・日本書紀を中心にして』(おうふう、 2013)、25頁)。
★
結局、万葉集の蟹は琴を弾くこともなく、干物にして食べられて終わりで、あんまり風流な結末ではないんですが、蟹と琴の関係を古典に求めると、確かにこういう細い糸があります。
しかし、この糸はいかにも細く、頼りなげです。
そしてあまり風雅・富貴な歌ともいえません。
それにこれだけだと、蟹と琴はいいとしても、月の存在が宙に浮いてしまいます。
ここまで追ってきても、依然この硯箱の謎は深いです。
★
うーむ…と腕組みしながら、しばし考えました。
ひょっとしたら、この硯箱は万人向けの、いわば普遍的な風雅や吉祥をテーマにしたものではなく、注文主(最初の持ち主)の属人的な記念品として制作されたのではあるまいか?
なんだか最後の最後で、ちゃぶ台返しのような結論になりますが、そうでも考えないと、この硯箱が存在する意味が分かりません。
(画像再掲)
たとえば、これは可児氏ゆかりの女性が、亡夫追善のため「想夫恋」を下敷きに作らせた硯箱であり、蟹は仏を象徴する「真如の月」を拝んでいるのだ…といったようなストーリーです。まあ出まかせでよければ、ほかにいくらでもストーリーは作れますけれど、そうなると、この絵柄の意味は注文主だけに分かる「暗号」であり、その謎は永遠に解けないことになります。
(関ケ原合戦図屏風に描かれた戦国武将・可児吉長(才蔵))
ここまで頑張ってきて残念ですが、今のところはこれが限界のようです。
(不全感を残しつつ、この項いったん終わり)
蟹と月と琴(中編) ― 2024年09月08日 13時29分00秒
蟹と月と琴の三題噺の続き。
★
「月と琴」だけなら、昔から風雅な取り合わせとして、その典拠には事欠きません。
たとえば、唐の詩人・王維の古来有名な五言絶句「竹里館」。
獨坐幽篁裏 独り坐す 幽篁の裏(うち)
彈琴復長嘯 琴を弾じて復た長嘯す
深林人不知 深林 人知らず
明月來相照 明月 来りて相照らす
彈琴復長嘯 琴を弾じて復た長嘯す
深林人不知 深林 人知らず
明月來相照 明月 来りて相照らす
日本の古典だと、『源氏物語』「横笛」巻で、源氏の嫡男・夕霧が「月さし出でて曇りなき空」の下、女二宮(落葉の宮)の邸を訪問し、琵琶と琴で「想夫恋(そうぶれん)」の曲を合奏するシーンだとか、『平家物語』巻六で、嵯峨に隠れ住む高倉帝の寵姫・小督局(こごうのつぼね)を、源仲国が「明月に鞭をあげ」て訪ね、これまた「想夫恋」を琴と笛で合奏するシーン。後者は能「小督」の題材ともなり、広く人口に膾炙しました。
(作者不明の小督仲国図。以前、オークションで売られていた商品写真を寸借)
★
問題は「琴と蟹」で、蟹が出てくると途端にわけが分からなくなります。
なぜここで蟹なのか?
前回の記事の末尾に掲げた、「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録に書かれた解説文を再掲します。
「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」
★
話の順序として、まず「琴弾浜」由来説から先に検討しておきます。
琴弾浜(琴引浜)は京都府の日本海側、現在の京丹後市にある観光名所で、摩擦係数の大きな石英砂を主体とする浜であるため、ここを歩くとキュッキュッと音がすることから、その名を得たそうです(いわゆる「鳴き砂」)。
(ウィキペディアより)
で、ここが古来歌枕として名高く、万葉歌人がここで蟹と月を詠み込んだ歌を作っていたりすれば、すぐに問題は解決するのですが、もちろんそんな都合のいい話はありません。
そもそも、琴引浜の名が文献に登場するのは、江戸時代もだいぶ経ってからのことで、そうなると例の硯箱の方が地名より古いことになり、話の辻褄が合いません。どうもこの説は成り立ちがたいようです。
(長くなるので、ここでいったん記事を割ります。この項つづく)
蟹と月と琴(前編) ― 2024年09月07日 08時14分22秒
昨日書いた「あるもの」とは琴です。
最初それに出会ったのは、「日輪と月輪―太陽と月をめぐる美術」展(サントリー美術館、1998)の図録上でしたが、そちらの図版はモノクロなので、所蔵者である東京国立博物館のサイトから画像を一部トリミングして転載します。
以下、同ページの作品解説より。
「蟹琴蒔絵硯箱(かにことまきえすずりばこ)
黒漆塗の地に金の高(たか)蒔絵で蟹と琴を描いた硯箱。蟹の目には金鋲(びょう)をうち、雲に金銀の切金(きりかね)を置き、月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わすなど、大胆な図柄でありながら、様々な技巧が凝らされている。桃山文化期にも、伝統様式の蒔絵が存続していたことを示す一例である。」
黒漆塗の地に金の高(たか)蒔絵で蟹と琴を描いた硯箱。蟹の目には金鋲(びょう)をうち、雲に金銀の切金(きりかね)を置き、月は銀の板を切り抜いた平文(ひょうもん)で表わすなど、大胆な図柄でありながら、様々な技巧が凝らされている。桃山文化期にも、伝統様式の蒔絵が存続していたことを示す一例である。」
時代は「江戸時代・17世紀」となっていますが、解説には「桃山文化期」ともあるので、まあ江戸の最初期の作品なのでしょう。
何だかシュールな、いかにもいわくありげな図柄ですが、これは一体何を表現しているのか? まあ「何を」といえば、もちろん蟹と月と琴なんですが、この取り合わせの背後にあるストーリーなり、典拠なりを知りたいと思いました。
当たり前の話ですが、昔の人は筆で文字を書いたので、硯箱は必需品でした。当然、膨大な数が作られたと思いますが、大半の実用品は古くなれば廃棄され、今も残る品は調度品を兼ねた、いわば「高級品」です。
そういう品の常として、そこに施される蒔絵は、もっぱら「吉祥」や「風雅」の意をこめたものであり、古典に取材した画題を採用していますから、この「蟹・月・琴」の場合も、そこには何か典拠があるはずだと思いました。
しかし、国立博物館の解説は、技法について言及しているだけだし、『日輪と月輪』展の図録に至っては、サイズ・時代・所蔵者がそっけなく書かれているだけで、解説めいたものは皆無です。
★
この件については、ネットもあまり役に立たなくて、何となくポカーンとしていましたが、別の展覧会の図録に、そのヒントが書かれていました。それは2004年に仙台市博物館で開かれた「特別展 日・月・星(ひ・つき・ほし)―天文への祈りと武将のよそおい」の図録です。
この展覧会でも、同じ「蟹琴蒔絵硯箱」(ただし図録では「琴蟹蒔絵硯箱」になっています)が出品されたのですが、その解説にはこうあります。
「満月のもと、琴と蟹を蒔絵で表す。主題の意味ははっきりしないが、万葉集に、葦蟹(あしがに)を大君が召すのは琴弾きとしてか、と詠んだ歌がある。あるいはまた琴弾浜を表すとも考えられる。」(図録p.122)
なるほど、これは脈ありかも…ということで、さらに謎を追ってみます。
(この項つづく)
蟹と月 ― 2024年09月06日 18時14分29秒
以前、こんな星座絵を載せたことがあります。
■星座絵のトランプ
この絵を見て、「かに座と月がペアで描かれているのはなぜだろう?」と疑問に思いましたが、西洋占星術の世界では、月はかに座の「支配星(Ruling Planet)」と考えられているからだ…と、そのときは自分なりに答を出しました。
この蟹と月の関係を、別の角度から考えてみます。
★
蟹の産卵行動と月の関係はよく知られています。
陸棲や半陸棲のカニ類(アカテガニ、ベンケイガニ、オカガニ等)が、満月の晩に群れをなして海岸に押し寄せ、波打ち際で産卵する光景は、夏の風物詩としてニュースになったりもします。
これほど顕著でもなく、また事実かどうかはっきりしませんが、蟹と月の関係については、昔からいろいろなことが言われています。
「ガザミは、月夜に群れをなして泳ぐことから月夜カニとも呼ばれます。ところで、“月夜の蟹”ということわざをご存じでしょうか?このことわざは、月夜の蟹が月光を恐れて餌をとらないために痩せて身がないことから、中身がないことを意味します。」(「みやぎ水産の日だより 2018年6月号」より)
(ガザミ(ワタリガニ)。ウィキペディアより)
上の一文は、宮城県の発行物から引用させていただきました。
さらに、お隣の山形県が発行している水産情報紙にも、面白いことが書かれていました。「蟹は満月の夜に脱皮する」という説を耳にした水産試験場の研究員さんが、職場で飼育しているガザミとヒラツメガ二で、実際に調べてみた結果です。
「満月」、「新月」、「その他」の3区分で、脱皮個体数を調べてみると、いずれも「その他」に脱皮する個体がいちばん多くて、蟹は満月(あるいは新月)の日にだけ脱皮するということはないのですが、しかし1日あたりで比較すると、ガザミは新月の日に、ヒラツメガニは満月の日に脱皮する個体が確かに多く(前者は2倍以上、後者は6倍以上)、やはり月相と脱皮には何か関係がありそうだ…という結果が得られました。
(出典:「すいさん山形 平成23年3月号」)
(出典:同上)
幼生期も含め、浅海で暮らす蟹の仲間は、干満の影響を強く受けるので、その生態が間接的に月相と関連していることは大いにあり得ることです。蟹と月をめぐる古俗や伝承も、あるいはそんなところに端を発しているのかもしれません。
★
さて、ここまでは話の前振り。
蟹と月にプラスして、さらにもう一つの「あるもの」の関係について考えてみよう…というのが、今回の話の中心です。
(この項つづく)
青い月の物語 ― 2024年06月30日 15時10分33秒
じめじめ、じとじと、むしむし。
雨は雨で風情もありますけれど、当分すっきりした星空は望めそうにありません。
何かさわやかなものはないかな?と思って、一冊の小さな画集を手に取りました。
■小浦 昇 『青い月の物語 BLUE MOON』
ダイヤモンド社、1998
ダイヤモンド社、1998
巻末の紹介によると、小浦さんは1949年埼玉県の生まれ。多摩美大を出られたあと、1979年までは黒インクのみの版画制作をされていたそうですが、以後は一転して黒インクを使わない作品づくりをされるようになったとのこと。「あとがき」には、「実は個展のたびに画集を要望されていました。今回幸いにも、ダイヤモンド社から上梓する機会に恵まれ、ご期待にそえたのではないかと思います。」とあって、本書は小浦さんの第一作品集です。
実は最初拝見したとき、若い作家さんが最近出された本なのかな?と思ったんですが、小浦さんの経歴と本の出版年を見て、軽い驚きをおぼえました。それだけ作品すべてが、みずみずしい清新さにあふれていたからです。
それにしても、この作品世界、
いかにもタルホチックだなあ…と思いましたが、それも道理で、新潮文庫の『一千一秒物語』のカバー装画を担当されたのも小浦さんなのでした。
「あとがき」には、「人工の光が全くない月明かりだけの世界にいると、科学的物理的に疑いようのない存在でありながら、喜びや恐れなどの不可解な意識をもった自分を自覚するのです。私はそれをテーマに作品を制作してきました。」ともあります。
自分自身の存在の不確かさ。
現実世界の裂け目から顔をのぞかせる異界の気配。
現実世界の裂け目から顔をのぞかせる異界の気配。
月明かりは、それらを必然的にたぐり寄せてしまいます。
小浦さんの作品はモダンなファンタジーのようでいながら、そうしたヒトの記憶の古層に働きかける部分があって、そこに一種ただならぬ魅力があるのでしょう。
本書は小浦さんの作品に青居心さんが詩を添えた画文集にもなっています。
この時期におすすめしたい一冊。
土御門、月食を予見す(後編) ― 2024年06月10日 17時59分43秒
(昨日のつづき)
(画像再掲)
さて、改めてこの明和3年の月食予測の詳細を見ると、「月食五分。寅の一刻東北の方より欠け始め、寅の八刻甚だしく、卯の六刻西北の方終わり」と書かれています。
ここに出てくる「寅の一刻」とか「寅の八刻」の意味が最初分からなかったんですが、ものの本(※)を見て、ようやく合点がいきました。
★
よく知られるように、江戸時代の時刻表示は、日の出と日の入りを基準にした「不定時法」が一般的です。そのため、「子の刻」「丑の刻」「寅の刻」…等、1日を12区分した「辰刻」の長さは季節によって伸び縮みがあり、たとえば真夜中の「子の刻」は、短夜の夏場は短く、冬の夜長には長くなりました。真昼の「午の刻」ならばその逆です。
しかし、暦に記される時刻は、これとは違って(最後の天保暦を除いて)「定時法」を使っていたんだそうです。つまり、季節に関係なく子の刻なら23時~1時だし、丑の刻は1時~3時…という具合に固定されていました。これは現代の時間感覚と同じです。したがって同じ「子の刻」「丑の刻」といっても、日常生活と暦本ではその用法が微妙に違った…というのが、ややこしい点です。
暦ではそれをさらに「寅の一刻」とか。「卯の六刻」とか、細かく言い分けているわけですが、この辺は一層ややこしくて、当時の定時法では、1日を12等分した「辰刻」と、1日を100等分した「刻」という単位(1日=100刻)を併用していました。
「辰刻」と「刻」の関係は、
1辰刻 = 100÷12 ≒ 8.33刻 (8と3分の1刻)
であり、1刻を現在の時間に直せば
1刻 = 120分÷8.33 ≒ 約14分24秒
になります。何だかひどく中途半端ですが、実際そうだったのでやむを得ません。
そして、たとえば「寅の刻」だったら、以下のように呼び分けられることになります(時刻はすべて概数で示しました。「八刻」だけ他の刻より短いことに注意)。
寅の初刻 午前3:00~3:14
寅の一刻 3:14~3:29
寅の二刻 3:29~3:43
寅の三刻 3:43~3:58
寅の四刻 3:58~4;12
寅の五刻 4:12~4:26
寅の六刻 4:26~4:40
寅の七刻 4:40~4:55
寅の八刻 4:55~5:00
★
こうしてようやく、上記の月食記載の意味が理解できます。
すなわち、「月食五分〔食分0.5〕。寅の一刻〔3:14~3:29〕東北の方より欠け始め、寅の八刻〔4:55~5:00〕甚だしく、卯の六刻〔6:26~6:40〕西北の方終わり」です。
これがどの程度実際を反映しているか?
国立天文台の日月食等データベースに当たると、このときの月食(部分食)は、以下の通り3:45に始まり、4:52に最大食となり(食分は0.336)、5:59に終わっています。
比較してどうでしょう? 食甚の時刻および食の開始と終了の方位はほぼ正解ですが、食分を実際よりも多く見積もった関係で(つまり、月がもっと地球の影の中心に近い位置を横切ると予想したため)、食の始まりと終わりが前後に30分ほど間延びしています。この予測を以て、「それでも、それなりに当てたんだからいいじゃないか」と言えるかどうか?
★
西洋天文学を採り入れて宝暦暦を改良した「寛政暦」の場合と比較してみます。
手元に天保8年(1837)の暦があります。
年号は天保でも、当時はまだ寛政暦を使っていました(さらに改良を加えた「天保暦」は、天保15年=1844から施行)。
(「月帯食(げったいしょく/がったいしょく)」とは、月が月食の状態で昇ったり沈んだりすること)
この年は3月17日(グレゴリオ暦では4月21日)に皆既月食がありました。
暦には、「寅の三刻【3:43~3:58】左の上より欠け始め、卯の二刻【5:29~5:43】皆既〔みなつき〕て入【=そのまま沈む】」と書かれています。
上と同じように、国立天文台のデータベースを参照すると、「3:49に欠け始め、4:50に皆既となり、5:40が食の最大、そして6:31に皆既が終わる」となっています。上記の「卯の二刻」は皆既の開始時刻とずれていますが、これが「食の最大時刻」の意味だとすれば、まさにどんぴしゃりです。
★
まあ、それぞれ1つの例だけを取り出して、逸話的に比較しても意味は薄いでしょうが、「やっぱり宝暦暦はゆるいなあ…」と感覚レベルで分かれば拙ブログ的には十分で、当初の目的は果たせたことになります。
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(※)本項の記述にあたっては、橋本万平(著)『日本の時刻制度 増補版』(塙書房、昭和56年第2版)を参照しました(特にpp.125-8「暦に見られる定時法」の節)。
(同書127頁より参考図を掲げます(第15図)。当時は仮名暦(右)と七曜暦(左)の間でも――両者ともに定時法ですが――時刻の表示法が異なり、ややこしいことこの上ないです。本項で採り上げたのは、もちろん仮名暦の方です)
土御門、月食を予見す(前編) ― 2024年06月09日 08時41分38秒
日食の予測といえば、先日の宝暦暦(ほうりゃくれき)を思い出します【LINK】。
蘭学流入とともに、新しい天文学の風が吹き始めた18世紀半ばの日本で、過去の亡霊のような存在、陰陽頭・土御門泰邦が作った宝暦暦。
この暦にはいろいろ芳しくない評判がつきまといますが、施行9年目の宝暦13年(1763)、日食の予測に失敗し、暦に書き漏らしたことは、その最たるものです(日食・月食に関する情報は、毎年の暦に必ず書かれていました)。しかも、民間学者の麻田剛立(あさだごうりゅう、1734-1799)らは、独自にその予測に成功していたので、お上の面目丸つぶれです。
これに懲りた幕府は、麻田の弟子である高橋至時(たかはしよしとき、1764—1804)を天文方に取り立て、新たに寛政暦(寛政10年=1798年施行)を完成させますが、それはまだ少し先の話。
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(明和3年宝暦暦、末尾)
宝暦暦のことを思い出したついでに、手元にある明和3年(1766)の宝暦暦(出版されたのは前年の明和2年)を素材に、これがどの程度の精度を持っているのか、裏返せばどの程度「ダメな」暦なのかを知りたいと思いました(意地悪な興味ですね)。
(「月そく(月食)」の文字)
この年は、ちょうど1月17日――グレゴリオ暦に直すと1766年2月25日――に月食が予測されているので、これが当たっているかを確認してみます。
結論からいえば、確かにこの日は月食が発生しているのですが、果たしてその生起・継続時間の予測精度はどうか?
(この項つづく)
月の賭場 ― 2024年02月24日 10時53分43秒
青年の面立ちをした上弦の月というと、こっちの方がそれっぽいですね。
1920年頃にイタリアのミラノで売り出された、月をデザインしたゲームボード。
49×33cmの多色石版刷りで、裏打ち布で補強してあります。…と言っても、現物がどこかに入り込んで出てこないので、ここに記すことは、画像も含め購入時の商品説明の流用です。
タイトルの「Il dilettevole giuoco della Luna」は「イル・ディレッテーヴォレ・ジュオッコ・デラ・ルーナ」と読むらしく、音楽的な響きが心地よいですが、意味の方は「月の面白いゲーム」という、あまりひねりのないものです。
ゲームは2個のサイコロを使って、2人以上で遊びます。
一人がサイコロを振り、出た目の合計と等しい数字のところにコインを置きます(このゲームは現金を賭けて遊びます)。もし既にコインの置かれた数字が出たら、次の人に交代。ただし赤い旗の「7」のマスは例外で、ここにはいくらでもコインを置くことができます。ボードに数字のない「2」と「12」はラッキーナンバーで、2が出たら月面上のコインを、12が出たら月面プラス赤い旗のコインを総取りできるというルール。
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というわけで、ゲームの内容自体は月とは全然関係がなくて、これは以前も書いた「デザインとしてだけ天文モチーフを採り入れたゲーム」の一例です。
でも、「今日はツイている」というときの「ツキ」は「憑き」の意で、「月」も同じ語源だそうですし、イタリアの人にしたって、月面に賭場を開帳して、「さあ張った、張った!」なんていうのは、だいぶ正気を失ったルナティックな振る舞いと言うべきでしょう。
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