嵯峨野の月2024年02月12日 17時43分34秒

以前、月の風流を求めて、こんな品を手にしました。



桐箱の中に収まっているのは棗(なつめ)、つまり薄茶用の茶器です。
輪島塗の名工、一后一兆(いちごいっちょう、1898-1991)作「野々宮」
源氏物語の「賢木(さかき)」の巻のエピソードを画題としたもので、ここでのヒロインは六条御息所です。

六条御息所というと、嫉妬に狂った挙句、生霊となって葵上に取り憑いた女性(「葵」の巻のエピソード)のイメージが強いですが、あれは本来貞淑で控えめな六条御息所の心の奥底にも、本人の知らぬ間に鬼が棲んでいた…というのが恐ろしくも哀しいわけで、紫式部の人間観察がいかに透徹していたかを示すものです(きっと彼女の心にも鬼が棲んでいたのでしょう)。

「葵」に続く「賢木」の巻では、息女の斎宮下向にしたがって伊勢に下る決心を固めた六条御息所を、源氏が嵯峨野の野の宮に訪ねるシーンが描かれます。

(清水好子・著『源氏物語五十四帖』、平凡社より)


 「黒木の鳥居(樹皮を剥かない木で作った簡素な仮の鳥居)と小柴垣があれば、野の宮の舞台装置は揃ったことになる。夜空に「はなやかにさし出でたる夕月夜」とある、晩秋九月七日の月がかかっている。」(清水上掲書、p.51)


この棗も小柴垣と露に光る萩を描くことで、野の宮を象徴的に表現しています。
で、肝心の月はどこに行ったかというと、


この蝶の舞い飛ぶ蓋を裏返すと


そこに月が出ているという趣向です。

外から見えないところに、ふと月が顔を出すというのが、心憎い工夫。
蓋表に描かれた蝶は、虫の音も弱々しい晩秋には不似合いですが、これは枯れ色が目立つ野の宮を訪ねた源氏その人の華やぎを蝶に託したのでしょう。

私は茶の湯をまったくやらないので、これは実用の具というよりも、純然たるオブジェに過ぎないのですが、実用性がないからこそ一層風流であるとも言えるわけです。

   ★

能登の地震では、当初は当然のことながら人的被害がクローズアップされていましたが、状況が一段落するにつれて、漁業をはじめ、酒蔵や塩田、そして輪島塗など、地場産業への影響も報道されるようになってきました。いずれも復興には年単位の取り組みが必要とのことです。これらは能登一国にととまらず、他国・他県の暮らしと文化にも直接関わることですから、その復興を強く応援したいです。



【付記】

上の作品を、箱書きにしたがって一后一兆作としましたが、同人作には贋作も出回っているそうなので、「伝・一后一兆作」ということにしておいてください。


頼りはこの落款ですが、仮にこれが本物だとしても、だから中身も本物だとは限らないという、まことに油断のならない世界なので、なかなか風流の道も険しいです。

ついでながら、以下は石川県立図書館のデータベースで見つけた記事。
掲載されているのは見出しだけなので、さらなる詳細は不明ですが、まあかなり組織的に贋作づくりが行われていたのでしょう。

■「北國新聞」1992年6月26日夕刊
 「輪島塗・一兆の贋作出回る 大阪の業者が販売 漆器組合が警告書
■同1992年7月16日朝刊
 「一兆贋作で2人逮捕 輪島署 製造業者(輪島)と販売業者(大阪) 作品、箱に偽造印 漆器、帳簿など100点押収」

コメント

_ S.U ― 2024年02月13日 08時33分57秒

落款がホンモノでも中身がホンモノとは限らないのですね。
今なら、中身の細部のと落款の朱肉のにじみを同時に撮影したデジタル写真付きの保証書なり鑑定書なりをつければいいと思います。
 そういうのはすでにあるかもしれませんが、骨董業界はそういう方向に動いてほしいです。
 例えば、外国の古銭鑑定業界では、スラブというケース(カートリッジ)に入れていますが、こんな鑑賞に邪魔なものに入れずに、真贋だけなら、デジタル写真をいればICチップを埋め込んだカードを1枚つければ済む話なのにと思います。実際、登録番号を手で入れればネットで写真が出るような仕組みになっています。(古銭の場合は、美品云々の格付け鑑定もしているので、キズが増えないようスラブに入れているのでしょうが、これは、鑑賞者の趣味人より、転売業者を優先したけしからんやり方と言えるでしょう)

_ 玉青 ― 2024年02月14日 17時12分26秒

コインの世界にも真贋は常に付きまとうわけですね。
まあ、現行のお金にも偽物が出回るぐらいですから、無理もないですね。

美術工芸品の真贋もすこぶる厄介で、意図的な贋作は論外としても、いわゆる工房作とか、弟子の作品に師匠が自分のサインを入れるとか、古作に後人が手を加えるとか、元々贋作でもなんでもないのに、後世の人が勝手に某氏作と勘違いした作品とか、何を以て真と呼ぶべきか迷う例は結構ありそうです。その意味で、真贋はスペクトルを形成しているのかもしれません。

真贋論争といえば、ゆくりなく下の記事を思い出し、再読して我ながら興味深かったです。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2019/04/23/

ときに業務連絡で恐縮ですが、レポートの最終稿をお送りいただきありがとうございました。ようやくこれで年が越せた気がします(笑)。

_ S.U ― 2024年02月15日 18時41分44秒

真贋鑑定というのは、人文学的にも社会学的にも自然学的にも興味深いです。2019年のご引用を拝見し、今では、自然学的な鑑定で、化学、原子物理、放射線物理の最先端を総動員すれば、有機物、無機物、金属、焼き物、鉱物を問わず、時代鑑定はできるのではないかという確信が持ててきました。本来の鉱物や分子が古びるはずはないのですが、表面状態には何らかの微量成分の変化が生じるはずです。ただ、顔料、金箔といえどもその表面の若干の採取を必要とするかもしれません。でも、これでも、師匠が描いたか弟子が描いたかまではわかりませんね。
 コインの場合は、版画の原版にあたる型というものがあるので、鑑定は真正品と細部を比べれば比較的容易です。原版の型が外部に流出して民間人が作った贋作というのも稀にはあるそうですが、そういうのは贋作というのか何というのか存じません。

 協会の件は、確かにこの年次報告が活動の一つの動機になっているという一種の本末転倒的な側面がありますね。でも、色々な天文の話題がハーシェル家に関係あるかどうか一々考えることは、意外に何にでも付く理屈と膏薬という感じで、天文学史の勉強に資することは間違いないようです。

_ 玉青 ― 2024年02月16日 19時02分16秒

まあ、人的要因によって最後まで迷うケースはあるでしょうが、不埒な贋作者を駆逐できるならば、科学的鑑定の技術の進展に今後も大いに期待したいですね。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック