星の美と神秘(3)…「銀河の魚」のこと ― 2011年06月18日 10時29分44秒
これら2つの話を読み、また「銀海洋洋として異獣神魚その内に泳ぐが如し」という銀河の描写を読めば、たむらしげる氏の名作「銀河の魚」を思い起こさないわけにはいきません。
「銀河の魚」は、最初コミック作品として発表され(初出は「マンガ少年」1980年9月号)、その後アニメーション化され、その一部はYouTubeでも見られたり、見られなかったりします。
(↑すみません、ネットから適当に引っ張ってきたイメージです。以下も同じ)
主人公は天文学者の祖父と暮らす少年、ユーリ。
ユーリは祖父を手伝って星空を観測しているうちに、1つの見慣れない星を見つけます。こぐま座の脇に出現したその星のために、愛らしい小熊の姿は、巨大な怪魚へと変形してしまいます。天上で異変が起きていることを察知した二人は、妖星を討つべく、ボートに乗って川をさかのぼり、やがて光り輝く「星魚」の群れ泳ぐ銀河の中へと…
主人公は天文学者の祖父と暮らす少年、ユーリ。
ユーリは祖父を手伝って星空を観測しているうちに、1つの見慣れない星を見つけます。こぐま座の脇に出現したその星のために、愛らしい小熊の姿は、巨大な怪魚へと変形してしまいます。天上で異変が起きていることを察知した二人は、妖星を討つべく、ボートに乗って川をさかのぼり、やがて光り輝く「星魚」の群れ泳ぐ銀河の中へと…

(「ゆるやかな川の流れをどこまでもさかのぼってゆくと〔…〕ぼくらのボートの下を汽車が通り過ぎ…水の底にもうひとつの海があった」 ‐コミック版より‐)
このストーリーが、中国の故事と同じ構造を持っているのは明らかです。
たむら氏が中国文学から想を得たのかどうかは不明ですが、おそらくは偶然の一致なのでしょう。いや、単なる偶然の一致というよりも、人間のイマジネーションには、時と所を超えた共通性があることを示す例なのかもしれません。
このストーリーが、中国の故事と同じ構造を持っているのは明らかです。
たむら氏が中国文学から想を得たのかどうかは不明ですが、おそらくは偶然の一致なのでしょう。いや、単なる偶然の一致というよりも、人間のイマジネーションには、時と所を超えた共通性があることを示す例なのかもしれません。
★
物語の方は、みごと銛(もり)で妖星を仕留めたユーリと老人が、また川を下って自宅に戻り、それを天上の小熊がやさしく見守るシーンで終ります。
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野尻抱影は1977年に没したので、「銀河の魚」を目にする機会はついにありませんでしたが、もしそれが叶えば、たむら作品にどんな感想を抱いたか、翁に伺ってみたい気がします。
星の美と神秘(2) ― 2011年06月16日 22時31分18秒
本業の方で突発的な出来事があり、ちょっと間隔が空きましたが、話をつづけます。
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この本で「おや」と思ったのは、銀河についての話題です。より詳しく言うと、地上の川をさかのぼると銀河に至るという話。
抱影翁の引く例でいうと、『荊楚歳時記』〔6世紀の成立〕に、前漢の人・張騫(ちょうけん)が、いかだに乗って銀河まで遡ったという話が出ているらしい。
改めて『荊楚歳時記』を見ると、七月の条にこのエピソードは出てきます。
漢の武帝が張騫を中央アジアに派遣したのは歴史的事実ですが、700年も経つとすっかり伝説化して、いかだで黄河をさかのぼった張騫が、旅先で牽牛・織女と出会うという話に転化しています。しかも、同じ頃、地上からは二星のそばに客星の出現が観測された…という、もっともらしい潤色まで施されて。
『星の美と神秘』には、さらに『剪灯新話』〔明代の伝奇集〕に出てくる、次のようなエピソードも紹介されています。
成令言というのは元代・天暦年間の人といいますから、今からざっと700年前のこと。
初秋のある日、小舟を千秋観〔というのは道教寺院の1つでしょう〕の下に泊めた令言は、鮮やかな銀河を仰ぎ見て、宋之問の古詩「明河篇」を吟じているうちに、世を捨てて仙人になりたいという思いを抱きます。すると小舟がするすると動き出し、まるで何かに引っ張られるように、一瞬のうちに千里を進み、ついに見慣れぬ場所にたどり着きます。
抱影翁の訓みによって原文をあげれば、「寒気人を襲ひ、清光目を奪ふ。玉田湛湛として、琪花(たまのはな)瑶草(たまのくさ)その中に生ずるが如く、銀海洋洋として異獣神魚その内に泳ぐが如し」。
令言はそこで織女と言葉を交わして…と話は続くのですが、翁の引用は途中で終っているので結末は不明です。
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いずれも、地上の川をさかのぼれば、人はいつか銀河に行くことができるという、切なくも美しいイメージが基本にあります。「銀河鉄道の夜」のように、突然、場面が転換するのではなく、地上と天上は切れ目なく連続しているのだ…という観念が、今の私には一層好ましく感じられます。
(この項つづく)
星の美と神秘 ― 2011年06月13日 21時31分53秒
『星恋』、ふたたび(2) ― 2011年01月03日 20時45分15秒
改めて本の帯を見たら、興味深い文章なので、やっぱりこちらも書き写しておきます。
<星戀のまたひととせのはじめの夜>―凍える静寂(しじま)の中に煌く星座。星の光りは無窮の彼方から地上の孤独な魂たちに語りかける無償の私信であろう。該博な学殖と透徹した詩人の直観力をもつ著者たちが、変らぬ星への恋慕の念にも似た若々しい情熱で捉えたロマン溢れる星のコスモロジー。野尻抱影生誕百年、ハレー彗星・火星大接近、「天狼」四十周年を記念して、深夜叢書が星を愛するすべてのひとと、俳句を愛するすべてのひとの“掌の宇宙”に贈る綺羅星の名著。
なるほど、抱影生誕100年とハレー彗星接近のほかにも、火星大接近と「天狼」(てんろう;山口誓子が主宰していた句誌)の40周年も、かけていたのですね。
それにしても、「地上の孤独な魂たちに語りかける無償の私信」とか、「掌の宇宙に贈る綺羅星の名著」とか、いちいち煽りが効いてますね。書いたのは編集担当の方でしょうか。
★
さて、本書の内容ですが、基本的に中央公論版をそのまま復刻したもので、特に文章の変更はありません。ただ、口絵として、誓子の自筆句と著者2人の写真が掲げられている点と、巻末に「『星戀』以後」と題した誓子の新作16句が追補されている点が異なります。(…と思ってよく見たら、「海を出し寒オリオンの滴れり」の一句は既出なので、本当の新作は15句のようです。)
↑野尻抱影と山口誓子のツーショット。左が誓子、右が抱影。
彼らは『星恋』以前から、互に深く認め合っており、だからこそこの『星恋』も日の目を見たわけですが、二人が実際に顔を合わせたのは、この写真を撮ったとき、すなわち昭和40年が初めてでした。考えてみればすごいことですね。
星に恋した者同士は、それだけで既に十分心が通い合っており、対面する必要を感じなかったということかもしれませんが、互いの肉声を初めて聞いたときには、すこぶる感慨深いものがあったことでしょう。
★
せっかくですから、内容見本として、抱影と誓子の「星恋」の文と句を載せておきます。
写真では分かりにくいかもしれませんが、活字が藍色のインクで刷られているのも、星をテーマにした本として気が利いています。
『星恋』、ふたたび ― 2011年01月01日 21時09分58秒
新年あけましておめでとうございます。
かすてん様、S.U様、日文昆様におかれましては、年末のご挨拶をいただき有難う存じます。またお三方を含め、早々と新年のご祝詞を頂戴した方々に、この場を借りて篤く御礼申し上げると共に、「天文古玩」にご縁のある皆々様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。 本年も何とぞよろしくお願いいたします。
かすてん様、S.U様、日文昆様におかれましては、年末のご挨拶をいただき有難う存じます。またお三方を含め、早々と新年のご祝詞を頂戴した方々に、この場を借りて篤く御礼申し上げると共に、「天文古玩」にご縁のある皆々様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。 本年も何とぞよろしくお願いいたします。
★
2011年のスタートです。
「天文古玩」もまもなく5周年を迎えます。
最近は、過去の記事の繰り返しが多くて、なんとなくブログの命数も尽きかけているのかなと、私自身、おそれを抱くこともあります。ここで何か新機軸を打ち出すべきなのか、それとも偉大なるマンネリに徹するべきなのか―。
おそらく後者でしょう。何となれば、星空こそが偉大なるマンネリズムなのですから。
(でも、このページにも、たまには新星や彗星のような奇現象が現われるかもしれません。)
★
さて、繰り返しといえば、去年の正月に野尻抱影と山口誓子共著の句文集『星恋』を取り上げました。(去年の1月にタイムワープして、1月2日、4日の記事を参照してください。→ http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/01/ )
その際は、この本の初版である鎌倉書房版(昭和21年)、それから昭和29年に再版された中央公論版を取り上げました。ついでなので、さらに昭和61年に深夜叢書社から出た『定本・星恋』も見てみます。
この深夜叢書版は、昨年暮れにコメント欄を通じて『星恋』についてお問い合わせをいただいたことがきっかけで入手しました(ご縁をいただいたmicaさん、ありがとうございました)。
貼り箱入り、変形四六版・布装・書名空押しのカッチリした造本で、たしかに定本の名にふさわしい表情です。プレアデスの写真が箱を彩るのは、俳句の本として異例とはいえ、いかにもというデザインです。
昭和52年(1977)に抱影が死去してから9年後に『定本』が出たわけは、本の帯にも書かれていますが、ここでは誓子が定本に寄せた「あとがき」を書き写してみます。
「私が伊勢の海岸で静養してゐたとき、昼は伊勢の自然を見て歩き、夜は伊勢湾の天にかがやく星を仰いで、星の俳句を作ってゐた。
星のことは野尻抱影先生の著書を読んでゐたから、野尻先生は、私の星の先生だった。その野尻先生からお手紙を頂いた。いま星の随筆を書いてゐるが、それにあなたの星の俳句を借りたい、と云って来られたのだ。星の先生の随筆に私の星の俳句を取り上げて頂くことを、私は無上の光栄とし、先生に見て頂くために星の俳句を作り続けた。
野尻先生の随筆に私の俳句を添へて『星戀』が出版された。『星戀』を読んで、私の星の俳句が先生に支持されてゐることを知り、私は喜びに堪へなかった。
『星戀』は、昭和二十一年、鎌倉書房から出版され、昭和二十九年、中央公論新書として出版された。
今年は、野尻先生御生誕百年に当り、ハレー彗星接近の年である。この年に『定本・星戀』が出版されたのである。
昭和六十一年四月
西宮市苦楽園にて
山口誓子」
昭和61年といえば1986年。すなわち1910年以来76年ぶりのハレー彗星接近の年で、その余波がここにも及んでいたわけです。(なお、抱影生誕100年は、正確には前年の1985年11月ですが、まだ「生誕101年」には間があるので、生誕100年を記念する出版物という意味合いで、こう称したのでしょう。)
今年は2011年。考えてみれば、あれからさらに四半世紀が過ぎ経ったわけです。
時の歩みは容赦がないですね。
(この項つづく)
「抱影」の誕生 ― 2010年10月05日 20時02分13秒
科博の話題からそれますが、一昨日の日曜、家でゴソゴソ調べていたことは、「飛行機の形をした科博の謎」の他に、実はもう1つあって(←つくづくヒマですね)、そちらもついでにメモしておきます。
★
日曜の朝、新聞を開いたら、でかでかと「抱影」の文字があって、反射的に目が引き付けられました。
残念ながら、それは野尻抱影翁とは関係なくて、北方謙三の小説の広告でしたが、「そういえば、抱影はいつから抱影と号するようになったのかな?」という疑問が浮んだというのが、もう1つの話題です。これについては、石田五郎氏の『野尻抱影』(リブロポート)を開いたら、そこにアッサリ答が書かれていました。
★
野尻抱影(本名・正英 まさふさ;1885-1977)が、「抱影」の号を使うようになったのは、明治37年(1904)、彼が19歳のときです。
明治36年(1903)の11月に、『明星』から分かれて文芸誌『白百合』が創刊されたとき、その中心にいたのが抱影の親友・相馬御風(1883-1950)で、その関係から、抱影も『白百合』創刊時からの同人でした。抱影はここで、バイロン、アンデルセン、モーパッサンなどの小品の翻訳を発表しています。
「はじめは「野尻陽炎」というペンネームを使ったが、
〔前田〕林外たちにすすめられ第七号からは「抱影」を
使うようになった。金剛経の「夢幻泡影」からとった
ものであるという。」(『野尻抱影』41頁)
「‘泡’影」がなぜ「‘抱’影」になったかは、石田氏も書いていないので分かりません。先輩同人に岩野泡鳴(1871-1920)がいたので、「泡」の字を遠慮したのかもしれません。
このとき抱影は、自分が将来「星の文人」になるとは予想もしなかったでしょうが、‘星影を抱く者’という美しいイメージを喚起する「抱影」と号したのは、彼にとっても、また彼を慕う天文ファンにとっても、至極幸いなことでした。(野尻抱影が「野尻泡影」や、ましてや「野尻陽炎」でなくて、本当に良かった!)
★
『白百合』という雑誌は、その出自からも分かるように、明治浪漫主義の色濃い内容の雑誌です。山本一清も、野尻抱影も、青年期に浪漫主義思潮の洗礼を受けた人で、彼らの天文趣味には、その影響が終生付いて回った…ということを、以前書いた気がします。
彼らの末流である現代の天文ファンにも、その影響は及んでおり、天文趣味の追求が、「科学的営為」のみならず「文学的営為」の色彩をも帯びるのは、そのせいではないでしょうか(天文入門書の中で、星座の神話と伝説に多くのスペースが割かれていても、特に奇異と感じないのは、「刷り込み」が余程強固なのでしょう。)
まあ、天文ファンも千差万別なので、一括りに語ることはできませんけれど、少なくとも一部においては、そうしたウェットな星菫趣味に、賢治や足穂の硬質な抒情が加わったことにより、非常に奥行が生まれたのは確かで、それこそが日本の天文趣味の一大特徴ではないかと、ちょっと我田引水気味ですが、そう思います(このことも以前書いたかもしれません)。
★
日曜の朝、新聞を開いたら、でかでかと「抱影」の文字があって、反射的に目が引き付けられました。
残念ながら、それは野尻抱影翁とは関係なくて、北方謙三の小説の広告でしたが、「そういえば、抱影はいつから抱影と号するようになったのかな?」という疑問が浮んだというのが、もう1つの話題です。これについては、石田五郎氏の『野尻抱影』(リブロポート)を開いたら、そこにアッサリ答が書かれていました。
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野尻抱影(本名・正英 まさふさ;1885-1977)が、「抱影」の号を使うようになったのは、明治37年(1904)、彼が19歳のときです。
明治36年(1903)の11月に、『明星』から分かれて文芸誌『白百合』が創刊されたとき、その中心にいたのが抱影の親友・相馬御風(1883-1950)で、その関係から、抱影も『白百合』創刊時からの同人でした。抱影はここで、バイロン、アンデルセン、モーパッサンなどの小品の翻訳を発表しています。
「はじめは「野尻陽炎」というペンネームを使ったが、
〔前田〕林外たちにすすめられ第七号からは「抱影」を
使うようになった。金剛経の「夢幻泡影」からとった
ものであるという。」(『野尻抱影』41頁)
「‘泡’影」がなぜ「‘抱’影」になったかは、石田氏も書いていないので分かりません。先輩同人に岩野泡鳴(1871-1920)がいたので、「泡」の字を遠慮したのかもしれません。
このとき抱影は、自分が将来「星の文人」になるとは予想もしなかったでしょうが、‘星影を抱く者’という美しいイメージを喚起する「抱影」と号したのは、彼にとっても、また彼を慕う天文ファンにとっても、至極幸いなことでした。(野尻抱影が「野尻泡影」や、ましてや「野尻陽炎」でなくて、本当に良かった!)
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『白百合』という雑誌は、その出自からも分かるように、明治浪漫主義の色濃い内容の雑誌です。山本一清も、野尻抱影も、青年期に浪漫主義思潮の洗礼を受けた人で、彼らの天文趣味には、その影響が終生付いて回った…ということを、以前書いた気がします。
彼らの末流である現代の天文ファンにも、その影響は及んでおり、天文趣味の追求が、「科学的営為」のみならず「文学的営為」の色彩をも帯びるのは、そのせいではないでしょうか(天文入門書の中で、星座の神話と伝説に多くのスペースが割かれていても、特に奇異と感じないのは、「刷り込み」が余程強固なのでしょう。)
まあ、天文ファンも千差万別なので、一括りに語ることはできませんけれど、少なくとも一部においては、そうしたウェットな星菫趣味に、賢治や足穂の硬質な抒情が加わったことにより、非常に奥行が生まれたのは確かで、それこそが日本の天文趣味の一大特徴ではないかと、ちょっと我田引水気味ですが、そう思います(このことも以前書いたかもしれません)。
特報!! 稲垣足穂は昭和11年7月6日、「星の文学」と題してラジオ出演を果たしていた! ― 2010年04月28日 20時15分56秒
S.U氏の直前のコメント(http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/04/26/5043767#c5048739)に注目。そこからリンクされているのが下記のページ。
■稲垣足穂のラジオ出演
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/others/taruhoradio.htm
ひえー!!!!!!
S.U氏の執念の探索の成果。
これって足穂研究者の方には既知のことでしょうか?それとも新知見?
筑摩の「稲垣足穂全集」所収の最新の年譜は未見ですが、少なくとも『タルホ事典』(潮出版)の高橋康雄氏編の年譜には出ていない情報です。
S.U氏のコメントは、私が以下のようなレス(下書き)を打っている間にいただいたものですが、100%己の不明を愧じます。全面訂正いたします。
しかし、以下に記した内容を考え合わせると、足穂の逼塞時代のイメージは大いに再考を要するものと思います。
■□ 以下、死せるコメント □■
私は、忠郷きょうだいの人物造形が、いかにもフィクション臭いので、会話に出てくるラジオの件もそうにちがいない…と単純に決めつけてしまったのですが、しかし、この2つの話題をごっちゃにすることはできませんね。現に、作品の舞台や設定は、部分的にせよ、足穂のリアルライフと重なっているわけですから、ラジオの件もそうであっていけない理由はありません。
とはいえ、抱影が昭和初年にラジオ出演した頃の状況(↓)を読むと、「明石でぶらぶらしているだけのアル中の人」だった足穂には、ちょっとそぐわない感がなくもありません。
「抱影の講演は話題が豊富多彩で評判がよくその後二百回も続けた。当時のラジオ出演といえば今日のテレビ出演よりも大変なことで世間的な知名度は一挙に上昇した。この頃の番組のPRは寄席のビラのように巷にはり出され、野尻抱影の名が錦城斎典山や歌沢×××や常磐津○○大夫の間に英語の岡倉由三郎と並んで印刷されていた。」(石田五郎、『野尻抱影』、p.169)
当時のプログラムを詳細に調べる手だてがあればいいのですが、どこから手を付ければいいのか、ちょっとツールが思い浮かびません。(NHKに直接聞くのが早い?)
** 以下、蛇足と考え削除 **
■稲垣足穂のラジオ出演
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/others/taruhoradio.htm
ひえー!!!!!!
S.U氏の執念の探索の成果。
これって足穂研究者の方には既知のことでしょうか?それとも新知見?
筑摩の「稲垣足穂全集」所収の最新の年譜は未見ですが、少なくとも『タルホ事典』(潮出版)の高橋康雄氏編の年譜には出ていない情報です。
S.U氏のコメントは、私が以下のようなレス(下書き)を打っている間にいただいたものですが、100%己の不明を愧じます。全面訂正いたします。
しかし、以下に記した内容を考え合わせると、足穂の逼塞時代のイメージは大いに再考を要するものと思います。
■□ 以下、死せるコメント □■
私は、忠郷きょうだいの人物造形が、いかにもフィクション臭いので、会話に出てくるラジオの件もそうにちがいない…と単純に決めつけてしまったのですが、しかし、この2つの話題をごっちゃにすることはできませんね。現に、作品の舞台や設定は、部分的にせよ、足穂のリアルライフと重なっているわけですから、ラジオの件もそうであっていけない理由はありません。
とはいえ、抱影が昭和初年にラジオ出演した頃の状況(↓)を読むと、「明石でぶらぶらしているだけのアル中の人」だった足穂には、ちょっとそぐわない感がなくもありません。
「抱影の講演は話題が豊富多彩で評判がよくその後二百回も続けた。当時のラジオ出演といえば今日のテレビ出演よりも大変なことで世間的な知名度は一挙に上昇した。この頃の番組のPRは寄席のビラのように巷にはり出され、野尻抱影の名が錦城斎典山や歌沢×××や常磐津○○大夫の間に英語の岡倉由三郎と並んで印刷されていた。」(石田五郎、『野尻抱影』、p.169)
当時のプログラムを詳細に調べる手だてがあればいいのですが、どこから手を付ければいいのか、ちょっとツールが思い浮かびません。(NHKに直接聞くのが早い?)
** 以下、蛇足と考え削除 **
タルホ・テレスコープ(2) ― 2010年03月26日 20時49分02秒
上の写真は、『子供の科学』に載った広告です。
以前、このブログに似たような広告を載せましたが、上はまた別の号です(昭和9年3月号)。写っているのは同じ商品。
これは2インチ(5センチ)径の製品で、定価は1台22円となっていますが、別のページの広告を見ると、さらに大型の製品もあって、3インチは40円、4インチは120円、5インチは160円、6インチは200円となっています。
足穂が昭和9年頃に買った「直径三吋ばかしの」「ニュートン=ハーシェル式反射鏡」というのは、時期的に見ても、名称から言っても、ここにある3インチの望遠鏡に間違いないと思います。
で、これを使って足穂はどんな天文ライフを楽しんだのか?
昨日の引用文(「愚かなる母の記」)によれば、まずこれで月世界の驚異を覗き、また周囲の人にも見せたようです。また、最近、草下英明氏の『星の文学・美術』(れんが書房新社)を読んだら、次のような引用がありました。足穂が昭和15年(1940)頃に書いた「山風蠱(さんぷうこ)」の一節です。
■ □
私は物干場へ反射鏡を持出して、毎晩狙ってみたが、
的は掴まれ相になかった。私にはアルコホル分が入って
ゐた所為もあらうが、此仕事は恐ろしく陰気なものに考へ
られた。一つの光点さへも認められない。常に視界は
真暗であった。どうかした拍子に微かな光の條が、上下
左右に飛交ふばかりであった。
私はこれでは腰を据えねばならんと考へ直した。そして
一週間目にやっとオリオン三星中の一つが捉へられた。
こんな仕事には手摺や竹竿を利用して位置を支へさせて
あるが、そんなにしてさへ静止してはゐない。絶えずに
ゆらめいてゐる。こんな時表を貨物自動車が通ったり
すると、忽ち何処かへけし飛んで了って、再びそれを
捉へる為には五分間を要した。
三つの星を順次に辿って行って、私は遂に青い毛虫
みたいに毳立っている星雲を掴えた。西の涯に黄いろく、
遠い電灯の傘みたいな土星を見付けた。横倒しになって
大きく落ち懸った白鳥の嘴の所で、互に顫へてゐる
橙色と緑玉色、そのジュリエットとロメオの姿を垣間見した。
■ □
何だか、対象を視野に入れるのに、ものすごく苦労していますね。
3インチ望遠鏡はどうだったのか不明ですが、少なくとも2インチ望遠鏡は写真で見るかぎり、ファインダーらしきものがなくて、これで目標を導入するのはかなり大変そうです。
(それにしても、オリオンの三つ星を捉えるのに1週間を要したとは、望遠鏡の設計か、足穂の技量か、あるいは彼のアルコール摂取量か、いずれかに重大な問題のあったことを窺わせます。)
さて、月につづいて眺めたのは、オリオン座の大星雲、土星、そして白鳥座の二重星・アルビレオでした。この辺の選択は極々まっとうです。加えて、その叙述が<怪人>の筆にしてはウブウブしい。
これは草下氏の本にはっきり書いてあることですが、アルビレオをロミオとジュリエットに喩えたのは野尻抱影が先だそうです。足穂は元より抱影の熱心なファンであり、上の文章には抱影節が影響しているらしい。(年齢でいうと抱影の方が15歳年長。ただし、抱影は遅蒔きの人で、初の主著『星座巡礼』の刊行が大正14年、40歳のときですから、一般読書界へのデビューは足穂の方がわずかに先行しています。)
(この項さらにつづく)
【3月27日付記】
あ、広告をよく見ると、ファインダーは3円とちゃんと書いてありますね。別売だったわけです。で、昨日の記事によると、足穂は本体とサングラス、それに別売らしい接眼レンズを買ったことは書いていますが、ファインダーについては触れていません。その必要性を理解せず、買わずに済ませてしまったんでしょうか。
『星恋』(3) ― 2010年01月04日 21時09分03秒
この際なので、昭和21年の旧版も見てみようと思い立ちました。
古書検索サイトに当たると、運よく近くの古本屋で売っていることが分かったので、正月早々さっそく買いに走りました。
昭和21年といえば、食糧事情が戦時中よりもむしろ悪化した頃ですから、物資は極端に乏しく、この本も至極粗悪な紙に刷られています。そのため、六十年以上たった今では、全体がすっかり褐変し、遠からず紙自体が崩壊するかもしれません。奥付を見ると、まだ統制経済下のため、出版元とは別に「日本出版配給会社」が配給元となっています。
★
抱影の跋文は昭和21年2月付け(新版の後書きは昭和29年に書き下ろしたもの)。これを読むと、そんな時代に星の本を著そうと奮い立った彼の心模様がよくわかります。
「八月十五日の感動の余波は幾日もつづいた。」
ここでいう「感動」はプラスの意味ではありません。
「その悶々に悩みきった末に、私は漸く随筆『星三百六十五夜』
の執筆に没頭することを決心して、荒みゆく世相に一切耳目を
蔽ひ、日夜ペンを呵して、大晦日までに二百余枚を書き上げた。
〔…〕星を恋ふる私たちの熱意だけは、同じく星を恋ふる人々に
喜んでいただけることと信じ、さらずとも現世の地獄変相図から
天上へ眼を向けるよすがにもと、茲に本書を献げるのである。」
終戦直後というのは、私から見ると、窮乏と混乱のいっぽうでカラリと明るい印象があるのですが、抱影にとってはひたすら退化しゆく時代と感じられたのでしょう。かといって、彼は悲惨な戦争の世を懐古する気には毛頭なれません。本書収録の「空の祝祭」という一文では、彼は戦時中、星を憎みさえしたと告白しています。
「星にさへ私は、彼等が戦禍の後の下界へ冷厳な目を投げ、時に
は照明弾の吊り星や、焼夷弾の火の雨にまざり、敵機編隊までも
模倣し劫〔おびや〕かすことに憤りを感じ、果ては憎悪をまでも
抱くやうになった。」
戦争の峻烈さは、「星の翁」の心をも大きく捻じ曲げてしまったのです。
「それが終戦の後漸く自分を取りもどし、苦笑し、再び以前のや
うな眼でしみじみと彼等を見上げられたのは、考へれば明治節の
明け方のこの空の祝祭が初めてだった。」
明治節、すなわち今の文化の日の明け方、空を彩る冬の輝星と居並ぶ惑星や月の姿に、彼は昔と変わらぬ天上の美をふたたび感得したのです。それが明治節の明け方だったことを強調するのは、明治人・抱影のアイデンティティ確認宣言に他なりませんが、彼の内面を理解する上で、この側面はかなり重要な気がします。
彼の文章の呼吸は、結局明治の人のそれであり、現代の天文ファンの一部にもそれが受け継がれている(らしい)のは、「賢治趣味」と並んで、日本の天文趣味の際立った特徴だと思います。
「但し明けはなれたのは、ここでさへ国旗のまばらな明治節だった。」
二度と帰らぬあの世界。抱影は深い寂寥をたたえて、この一文を結んでいます。
古書検索サイトに当たると、運よく近くの古本屋で売っていることが分かったので、正月早々さっそく買いに走りました。
昭和21年といえば、食糧事情が戦時中よりもむしろ悪化した頃ですから、物資は極端に乏しく、この本も至極粗悪な紙に刷られています。そのため、六十年以上たった今では、全体がすっかり褐変し、遠からず紙自体が崩壊するかもしれません。奥付を見ると、まだ統制経済下のため、出版元とは別に「日本出版配給会社」が配給元となっています。
★
抱影の跋文は昭和21年2月付け(新版の後書きは昭和29年に書き下ろしたもの)。これを読むと、そんな時代に星の本を著そうと奮い立った彼の心模様がよくわかります。
「八月十五日の感動の余波は幾日もつづいた。」
ここでいう「感動」はプラスの意味ではありません。
「その悶々に悩みきった末に、私は漸く随筆『星三百六十五夜』
の執筆に没頭することを決心して、荒みゆく世相に一切耳目を
蔽ひ、日夜ペンを呵して、大晦日までに二百余枚を書き上げた。
〔…〕星を恋ふる私たちの熱意だけは、同じく星を恋ふる人々に
喜んでいただけることと信じ、さらずとも現世の地獄変相図から
天上へ眼を向けるよすがにもと、茲に本書を献げるのである。」
終戦直後というのは、私から見ると、窮乏と混乱のいっぽうでカラリと明るい印象があるのですが、抱影にとってはひたすら退化しゆく時代と感じられたのでしょう。かといって、彼は悲惨な戦争の世を懐古する気には毛頭なれません。本書収録の「空の祝祭」という一文では、彼は戦時中、星を憎みさえしたと告白しています。
「星にさへ私は、彼等が戦禍の後の下界へ冷厳な目を投げ、時に
は照明弾の吊り星や、焼夷弾の火の雨にまざり、敵機編隊までも
模倣し劫〔おびや〕かすことに憤りを感じ、果ては憎悪をまでも
抱くやうになった。」
戦争の峻烈さは、「星の翁」の心をも大きく捻じ曲げてしまったのです。
「それが終戦の後漸く自分を取りもどし、苦笑し、再び以前のや
うな眼でしみじみと彼等を見上げられたのは、考へれば明治節の
明け方のこの空の祝祭が初めてだった。」
明治節、すなわち今の文化の日の明け方、空を彩る冬の輝星と居並ぶ惑星や月の姿に、彼は昔と変わらぬ天上の美をふたたび感得したのです。それが明治節の明け方だったことを強調するのは、明治人・抱影のアイデンティティ確認宣言に他なりませんが、彼の内面を理解する上で、この側面はかなり重要な気がします。
彼の文章の呼吸は、結局明治の人のそれであり、現代の天文ファンの一部にもそれが受け継がれている(らしい)のは、「賢治趣味」と並んで、日本の天文趣味の際立った特徴だと思います。
「但し明けはなれたのは、ここでさへ国旗のまばらな明治節だった。」
二度と帰らぬあの世界。抱影は深い寂寥をたたえて、この一文を結んでいます。
『星恋』 (2) ― 2010年01月02日 15時16分09秒
(本の第一頁をかざる誓子の自筆句)
「星恋」の書名は、本書に収録された同名の随筆に由来するようです。
ここで抱影が恋慕している星は<カノープス>。
今でも天文イベントで、「カノープスを見る会」などが開かれますが、その火付け役は抱影でしょう。
「北へ緯度の高い土地から南の星を恋ふる気持にも、
この山へのあこがれに通じたものがある。〔…〕更に
南の果てに低く輝き出て程なく沈んでしまふ星とな
ると、なまじ見えるだけに、喜びと共に遣るせない
思ひをも誘はれるのである。
〔…〕日本の緯度では、アルゴー座の主星カノープ
ス、南極老人星がこれを代表する。しかも東京では
高度漸く二度、一月下旬からきさらぎ寒の頃、南の
地平のそれも町明りがなく、また朦気の少い夜でな
い限りは見ることはできない。南方では青白い爛々
たる超一等星だが、ここでは火星のやうに赤茶けて
ゐる。」
抱影はこれに続けて、信州更科の某夫人から送られた手記を引用します。
彼女は家の大屋根に梯子をかけて、カノープスを一目見ようと何度も試みるのですが、ある晩はるか南の地を這うように、見慣れぬ赤い星がちらちらするのを見ます。果たしてカノープスか?それともまだ誰も見ぬ新星か…?
「あこがれの星影と見たのは、遠くから自分の家へ風呂を貰いに来る提灯の灯だった。これだけでも句になると私は思ったが、更に提灯の主が炭焼の親子連れなのは、いかにも信濃の山村の寒夜情景らしくて、しばらくは私を陶然とさせてくれた。」
1月の章に収められている文章です。こういうのを抱影節というのでしょうね。
誓子も抱影に唱和して曰く、
星恋の またひととせの はじめの夜
まさに新年を飾るにふさわしい句。
この本を思い出させてくれた、かすてんさんに改めてお礼申し上げます。
「星恋」の書名は、本書に収録された同名の随筆に由来するようです。
ここで抱影が恋慕している星は<カノープス>。
今でも天文イベントで、「カノープスを見る会」などが開かれますが、その火付け役は抱影でしょう。
「北へ緯度の高い土地から南の星を恋ふる気持にも、
この山へのあこがれに通じたものがある。〔…〕更に
南の果てに低く輝き出て程なく沈んでしまふ星とな
ると、なまじ見えるだけに、喜びと共に遣るせない
思ひをも誘はれるのである。
〔…〕日本の緯度では、アルゴー座の主星カノープ
ス、南極老人星がこれを代表する。しかも東京では
高度漸く二度、一月下旬からきさらぎ寒の頃、南の
地平のそれも町明りがなく、また朦気の少い夜でな
い限りは見ることはできない。南方では青白い爛々
たる超一等星だが、ここでは火星のやうに赤茶けて
ゐる。」
抱影はこれに続けて、信州更科の某夫人から送られた手記を引用します。
彼女は家の大屋根に梯子をかけて、カノープスを一目見ようと何度も試みるのですが、ある晩はるか南の地を這うように、見慣れぬ赤い星がちらちらするのを見ます。果たしてカノープスか?それともまだ誰も見ぬ新星か…?
「あこがれの星影と見たのは、遠くから自分の家へ風呂を貰いに来る提灯の灯だった。これだけでも句になると私は思ったが、更に提灯の主が炭焼の親子連れなのは、いかにも信濃の山村の寒夜情景らしくて、しばらくは私を陶然とさせてくれた。」
1月の章に収められている文章です。こういうのを抱影節というのでしょうね。
誓子も抱影に唱和して曰く、
星恋の またひととせの はじめの夜
まさに新年を飾るにふさわしい句。
この本を思い出させてくれた、かすてんさんに改めてお礼申し上げます。












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