草下英明と宮沢賢治(3)2024年06月25日 21時21分14秒

昭和22年から23年にかけては、草下にとって変化の多い年でした。
昭和22年(1947)には、前述のとおり賢治についてまとめた文章が初めて活字化されたのをはじめ、野尻抱影に初めて会っています(それまでも手紙のやりとりはありました)。

六月二十一日 東京、上野の国立科学博物館で開催されていた天文学普及講座に野尻抱影先生の講演があるのを知って、聴講に参加。初めて野尻先生に挨拶。「家へいらっしゃい」などというお世辞に甘えて、二十九日、さっそく世田谷桜新町のお宅を訪問しているが、何を話したのか、聞いたのか、あがってしまって覚えがない。ただ、むにゃむにゃいって一時間ほど座っていただけだった。(『星日記』105頁)

(科博の天文ドーム。過去記事より)

抱影との絡みでいうと、8月にはこんな記述もあります。このとき草下は母校・都立六中の生徒を連れて、水泳指導教師という役割で千葉県館山付近に滞在していました。

八月一日 〔…〕この日、管理人のお爺さんから、「入定星」という星があることを訊いた。〔…〕もちろんこれは房総半島の南端一帯で「布良(めら)星」の名で知られる竜骨座のα(アルファ)カノープスの別名だ。しかも、江戸時代の文献にも、僧侶が死んで星になったという伝承が記載されているもので、後日、野尻先生に報告して、いたく喜ばれた。これでかなり先生の信用(?)を得たようである。「農民芸術」の原稿とともに学生生活の最後を飾るいいお土産であった。(同105—6頁)

こうして草下は学生生活を終え、社会人になります。当時の制度がよく分かりませんが、草下の場合、秋卒業だったようです、

十月一日 大学は出たが、就職先などまったくないので、いたしかたなく、大成建設(旧大倉組)に入社。経理課へ配属されてソロバンはじきをさせられた。父が長い間、大成建設の土木課にいて、そのコネでなんとか入れてもらったが、一銭、二銭が合ったとか合わないとか、およそ次元の異なる世界だった。二十五日、初めて給料をもらったが、金一三七五円五〇銭。(同106頁)

生活するために「いたしかたなく」建設会社の経理の仕事に就いてはみたものの、草下にはまるで肌の合わない世界で、1年もしないうちに転職を果たします。以下、昭和23年(1948)の『星日記』より。

七月九日 豊島区椎名町に在住の詩人、大江満雄氏の紹介で誠文堂新光社「子供の科学」編集長、田村栄氏に紹介されて会うことになった。なんとしてでも編集部に入りたく、野尻先生に推薦状を書いてもらったり、別な知人でポプラ社の編集長をしていた水野静雄さんには、誠文堂の重役だった鈴木艮(こん)氏にも口をきいてもらった。十日後、首尾よく入社が決定したが、あとでよく聞いてみると、他にも競争者がいたらしいのだが、私の立ちまわり方、根まわしが抜群だったらしく、その抜け目なさが買われたということだった。私の性格とまったくあべこべの面が認められたというのは、いまだに信じられない。二十日に大成建設に辞表を出し、八月二日には、めでたく「子供の科学」編集部員として初出社した早業である。(同112頁)

まだ一介の新米編集部員とはいえ、これが科学ジャーナリスト・草下英明が誕生した瞬間でした。草下はその立場を活かして、人脈を徐々に広げていきます。

十一~十二月 「子供の科学」編集の仕事は楽しかったが、なにしろたった三人でやっているので、目のまわるほど忙しく、日曜日などほとんど休んでいられなかった。〔…〕
ただ編集にかこつけて、天文関係者に会えるのが嬉しく、国立科学博物館の村山定男小山ひさ子鈴木敬信(海上保安庁水路局、のち学芸大学)、神田茂(日本天文研究会)、アマチュアの中野繁原恵、東京天文台の広瀬秀雄博士といった方々に初めてお目にかかったのも、この頃である。
(同113—4頁)

そればかりではありません。草下はこのブログと切っても切れないもう一人の人物とも、この年に会っています(「遭っています」と書くべきかも)。草下は上の記述に続けてこう記します。

だんぜん印象強烈だったのは、作家イナガキタルホ氏に会った時である。その日の日記から引用すると、次の如し。

十一月二十三日(月)晴 今日も晴れて暖かく、資源科学研究所へ行ってみたが、八巻氏に会えず、仕方なく戸塚をブラブラ。真盛ホテルへ行ってみる(新宿区戸塚一の五六七、今でも建物は残っているそうだ)。なんとイナガキタルホ先生あらわれる。よれよれの兵隊服に五十がらみのおやじ、ききしにまさる怪物なり。部屋には聖書と、二、三の雑誌と、三インチの反射鏡と少しの原稿用紙以外なんにもなし。いやはや、性欲論をひとくさり、美少年趣味は二週間前に転向せり、十八の女性と結婚するとか、何処(どこ)までホントかウソか。へんな喫茶店へ行って別れる。
(同114頁)

なんだか無茶苦茶な感じもしますが、何せ時代の気分は坂口安吾で、畸人型の文士が横行しましたから、足穂も遠慮なく畸人として振る舞えたし、世間もそれをもてはやしたのかもしれません。しかし“作家、畸なるがゆえに貴からず”、足穂の本分というか、真骨頂はまた少し違ったところにあり、だからこそ草下は足穂を終生敬慕したし、謹厳な野尻抱影にしても、後に足穂をひとかどの作家と認めることになったのでしょう。

(所番地が変わったせいで正確な場所がすぐには分かりませんが、図の左寄り「早稲田大学国際会議場 井深大記念ホール」の建つ区画が昔の早大戸塚球場の跡地で、その脇を通る「グランド坂」に真盛ホテルはあった由。名前は立派ですが、ホテルとは名ばかりの安宿です。)

(真盛ホテルの自室に坐す、昭和23年当時の足穂。過去記事より)

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「草下英明と宮沢賢治」というわりに、今日は賢治のことが全然出てきませんでしたが、草下の賢治への入れ込みはまだ続きます。

(この項つづく)

夜空の大四辺形(3)2024年06月04日 18時20分20秒

この連載は長期・間欠的に続けるつもりですが、ひとつだけ先行して書いておきます。オリジナル資料を見ることの大切さについてです。

日頃、我々は文字起こしされた資料を何の疑問も持たずに利用していますが、やっぱり文字起こしの過程で情報の脱落や変形は避けられません。その実例を昨日紹介した野尻抱影の葉書に見てみます。


(文面はアドレス欄の下部に続いています)

これは前述のとおり石田五郎氏が『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用されています(291-2頁)。最初に石田氏の読みを全文掲げておきます(赤字は引用者。後述)。

 「処女著といふものは後に顧みて冷汗をかくやうなものであってはならない。この点で神経がどこまでとどいてゐるか、どこまでアンビシャスか、一読したのでは雑誌的で、読者を承服さすだけの構成力が弱いやうに感じた。特に星のは、天文豆字引の観がある。それに賢治氏の句を引合ひに出したに留まるといふ印象で、君の文学者が殺されてゐる。余計な科学を捨てて原文を初めに引用して、どこまでも鑑賞を主とし、知識は二、三行に留めるといいやうだ。吉田源治郎との連想はいい発見で十分価値がある。吉田氏はバリット・サーヴィス全写しのところもある。アルビレオもそれで、同時に僕も借りてゐる。「鋼青」は“steel blue”の訳だ。僕は「刃金黒(スティールブラック)」を時々使ってゐる。刃金青といひなさい賢治氏も星座趣味を吉田氏から伝へられたが、知識としてはまだ未熟だったやうだ。アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。「琴の足」は星座早見のαから出てゐるβγで、それ以上は知らなかったのだろう。「三目星」も知識が低かった為の誤まり、「プレシオス」は同じく「プレアデス」と近くの「ペルセウス」の混沌(君もペルシオスと言ってゐる)〔※〕「庚申さん」はきっと方言の星名と思ふ。(昭和二十八年六月二十九日)」

   ★

石田氏は同書の別の所で、「抱影の書体は〔…〕独特の文字であるが、馴れてくるとエジプトのヒエログリフの解読よりはずっと易しい」とも書いています(304頁)。しかし、その石田氏にしても、やっぱり判読困難な個所はあったようで、上の読みにはいくつかの誤読が含まれています。


たとえば上の傍線部を、石田氏は「一読」と読んでいます。おそらく「壱(or 壹)読」と読んだ上で、それを「一読」と改めたのでしょう。でも眼光紙背に徹すると、これは「走読」(走り読み)が正解です。そのことは別の葉書に書かれた、文脈上確実に「走」と読む文字と比較して分かりました。

まあ、「走り読み」が「一読」になっても、文意は大して変わりませんが、次の例はどうでしょう。


石田氏の読みは「刃金青といひなさいですが、ごらんの通り、実際には「…といひたいです。「いひなさい」と「いひたい」では意味が全然違うし、抱影の言わんとすることも変わってきます。

それと、これは誤読というのではありませんが、抱影が賢治の名前を「健治」に間違えているところがあって、石田氏はそれに言及していません。


抱影はマナーにうるさい人で、別の葉書では、草下氏が抱影の名前を変な風に崩して書いているのを怒っていますが、その抱影が賢治の名前を平気で間違えているのは、抱影の賢治に対する認識なり評価なりを示すものとして、決して小さなミスとは思えません。

その他、気付いた点として、上で赤字にした箇所は、いずれも修正が必要です。

(誤) → (正)
星の → 星の
吉田源治郎氏との連想 → …との連絡
アルビレオも文字だけで、見てゐるかどうか。→ …見てゐたかどうか。
「ペルセウス」の混沌 → 混淆
〔※〕 → 「角川では「プレアデス」に直してゐる。」の一文が脱落

重箱の隅をつつき回して、石田氏も顔をしかめておられると思いますが、オリジナル資料に当たることの重要性は、この一例からも十分わかります。

   ★

情報の脱落や変形を避けるばかりではありません。
自筆資料を読み解くことには、おそらくそれ以上の意味――文字の書き手に直接会うにも等しい意味――があるかもしれません。

美しい筆跡を見ただけで、相手に会わぬ先から恋焦がれて、妖異な体験をする若者の話が小泉八雲にあります。肉筆の時代には、肉筆なればこそ文字にこもった濃密な思いがありました。若い頃は何でも手書きしていた私にしても、ネットを介したやり取りばかりになって、今ではその記憶がおぼろになっていますが、「書は人なり」と言われたのは、そう遠い昔のことではありません。

草下資料をひもとけば、その向こうに草下氏本人が、抱影が、足穂がすっくと現れ、生き生きと語りかけてくるような気がするのです。

(この項、ぽつりぽつりと続く)

夜空の大四辺形(2)2024年06月03日 18時43分41秒

草下英明氏の回想録『星日記』(草思社、1984)に、草下氏と抱影、それに村山定男の3氏が写っている写真が載っています。あれは元々カラー写真で、「色の着いている抱影」というのは、AIによる自動着色以外珍しいんじゃないでしょうか。


あるいは、石田五郎氏が自著『野尻抱影―聞書“星の文人伝”』(リブロポート、1989)の中で引用された、抱影が草下氏に宛てた葉書。これは抱影が宮沢賢治を評したきわめて興味深い内容ですが、その現物は以下のようなものです。


なぜ私の手元にそれがあるか?もちろん元からあったわけではありません。

これらの品は、ごく最近、藤井常義氏から私に託されたものです。藤井氏は池袋のサンシャイン・プラネタリウムの館長を務められた方ですが、プラネタリアンとしての振り出しは渋谷の五島プラネタリウムでした。そして時期は違えど、草下氏も草創期の五島プラネタリウムに在籍していたことから接点が生まれ、以後、公私にわたって親炙されました。

そうした縁から草下氏の没後、氏の手元に残された星に関する草稿・メモ・書簡類を藤井氏が引き継がれ、さらに今後のことを慮った藤井氏が、私にそれを一括して託された…というのが事の経緯です。

この資料の山に分け入ることは、ブログで駄弁を弄するようなお気楽気分では済まない仕事なので、私にとって一種の決意を要する出来事でした。「浅学菲才」というのは、こういうときのためにある言葉で、本来なら控えるべき場面だったと思いますが、しかし浅学だろうが菲才だろうが、その向こうに広がる世界を覗いてみたいという気持ちが勝ったのです。

いずれにしても、これはすぐに結果が出せるものではないので、ここはじっくり腰を据えて臨むことにします。

(この項、間欠的につづく)

夜空の大四辺形(1)2024年06月02日 10時23分20秒

「星の文学者」を日本で挙げると、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人にまず指を屈することになり、この3人をかつて「夜空の大三角」と呼んだことがあります。

(宮沢賢治(1896-1933)、野尻抱影(1885-1977)、稲垣足穂(1900-1977))

■夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(1)
 (記事の方はこのあと全5回にわたって続きました)

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この3人の中で、立ち位置がちょっと異なるのは賢治です。
彼の文名が上がったのは死後のことで、生前は目立たぬ地方詩人に過ぎなかったからです。言葉を変えると、抱影と足穂が“自らの作家像を自らの手で築いた人たち”であるのに対して、賢治の作家像は、その作品を他の人たちが読み込み、銘々がそこに多様なイメージを投影した結果の集積に他ならず、その意味で「作家・宮沢賢治」という存在は、後世の人たちが共同制作したひとつの“作品”なのだと思います。

もちろん「英雄は英雄を知る」で、繊細な詩心を持った人たちにとって、賢治は独特の魅力を放つ先人たりえたと思いますが、戦中・戦後の賢治評価を虚心に見るとき、賢治が『風の又三郎』的な「ほのぼの系童話作家」や、『雨ニモマケズ』の「通俗道徳の人」として受容され、単にそれだけで終わっていた可能性も十分にあった気がします。

   ★

賢治が天才作家の列に加わったのは、そこに有能なプロモーターが存在したからだ…というと、賢治ファンに怒られるかもしれませんが、でも、賢治の才能に惚れぬいたプロモーターの純な心と、そのプロモーションの才能もまた正しく評価されねばなりません。

そのプロモーターとして外せないのが、草下英明(くさかひであき、1924-1991)氏です。草下氏は「科学ジャーナリスト」や「科学評論家」という肩書で語られることが多く、たしかにそうには違いありませんが、氏はそれだけにとどまらない異能の人です。賢治が「星の文学者」というイメージで語られるようになったのは、明確に草下氏の功績であり、氏がいなかったら、賢治イコール『銀河鉄道の夜』とはなっていなかったでしょう。

(「星の文学者、賢治」のイメージを決定づけた草下氏の『宮沢賢治と星』。初版は1953年に自費出版され、1975年に改稿版が学藝書林の「宮沢賢治研究叢書」に収められました。右は氏の回想録 『星日記―私の昭和天文史[1924~84]』

そして、草下氏は賢治のみならず、抱影や足穂とも密な関係を保っていました。以下、氏を夜空の大三角に輔(そ)え星して、「夜空の大四辺形」と呼びたいと思います。そして、この大四辺形は単に見かけ上の配位ではなく、重力的にも緊密に結びついた四重連星を構成しているのです。

(中央が草下英明氏)

草下氏のことはすでに「夜空の大三角」の連載の折にも触れましたが、なぜその名を今再び持ち出したか? かなりずっしりした話なので、その詳細は次回に回します。

(この項つづく)

戦火の抱影2023年08月06日 15時05分25秒

私の職場にも一応空調は入っているのですが、その設備はひどく旧式で、外気温が高い日には、どんなに頑張っても室温が30度を下回ることはありません。そんな中で一日仕事をするのですから、心身の疲労も甚だしく、夜は泥のように眠り、行き帰りの電車の中でも常に眠りこけているような有様です。絵に描いたような夏バテ状態ですね。

そんなわけで、ブログの更新もできず、コメントへもはかばかしくお返事できかねる状態で、当分はこんな感じでしょう。でも、昨日一日寝ていたので、今日は少し元気になりました。

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今日は8月6日。
8月になると、メディアでは先の大戦を回顧して、戦争関連のコンテンツが多くなります。現在も戦争状態にある国や地域が多いことを思えば、こういう年中行事自体、日本が平和であることの証です。もちろん、対外戦争をしていないからといって、国内がすべて太平ともいえませんが、それでも戦火に追われたり、砲弾に怯えたりすることがないのは、ありがたいことに違いありません。

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石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)には、大戦末期の抱影の心模様の一端が綴られています(本書は『星の文人 野尻抱影伝』と改題して、中公文庫に入っています)。

そこには終戦の翌年、昭和21年(1945)8月に出た『星の美と神秘』(恒星社厚生閣)のはしがきが引用されています。同書は抱影の戦後第1作です。たまたま原著が手元にあるので、石田氏による引用の前後も含めて、引き直してみます。


 「久しい間科学は挙げて剣の奴隷だった、且つ多くがそれに殉じた。そのうち比較的に純粋さを保ち得たものに天文学があった。最近復員した或る青年は、部隊長から私の著書を自由思想の有害な読物であるとして没収されたと話して、私を苦笑させた。その私は海軍航空技術本部から、航空兵に星座知識を授ける方法に就いて、度々提案を求められてゐたのだった。」

抱影について、「自由思想の有害な読物」という見方が一部にあったというのは意外です。抱影もそのことに苦笑していますが、今となっては抱影にとって名誉な事実でしょう。

 「しかし星そのものには、同好の人たちもさうだったらうやうに、私も殆ど全く遠ざかってゐた。むしろ、下界の悲劇をよそにする彼等の冷徹な瞳に反感をさへも覚えるに至ってゐた。時にはまた絶望的に、地球がひとつ首を振ってくれれば万事一ぺんにけり〔2字傍点〕がつくのにと思ひ、それを友人にも言ったりした。愛機 LONG TOM の銘をも烙き消さうとしたり、またその献納を思ひ立って周囲から留められたりしたが、空襲が激しくなってからは、三脚と格納函を庭の樹蔭に出しぱなしにして、自然の運命にまかせておいた。五月闇の中で、梅の実が函に落ちるかたい音を、幾たびか聞いたのを憶ひ出す。」

愛機の望遠鏡すら手放そうとしたぐらいですから、にわかには信じがたいことですが、抱影は一時本当に天文と縁切りを考えていたようです。

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抱影がこれほど捨て鉢な気持ちになったのは、彼の身辺の出来事も影響したのでしょう。


上は同書「はしがき」末尾です。
抱影は、亡妻の面影に似た四女みかを掌中の玉と思い、大切にしていました。みかは美しい娘で、絵の才に恵まれ、多摩美術学校を卒業後、本格的に画業に志しましたが、その明るい未来は病魔によって阻まれてしまいます。以下は石田氏の著書からの引用です。

 「黒のベレー帽をかぶり大版のスケッチ帖を小脇にかかえて大道を闊歩していたこの黄金の「画家の卵」が、やがて胸を病み、東村山のサナトリウムに入院する。〔…〕みかの命日は四月六日である。終戦の年、二十七歳の生涯を終えたその深夜は立川、八王子の大空襲で明け方まで南の地平は赤々と業火がもえていた。みかの死は早朝で、抱影は構内の竹林に入り、大地に伏して号泣した。」(石田五郎、『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』p.275)

何だかジブリの「風立ちぬ」を思わせるエピソードで、傍目には一種のロマンを感じなくもないのですが、父・抱影にしてみれば、まさに心の折れる一大痛恨事だったでしょう。このときの抱影は、あと半年で還暦という齢です。

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しかし、抱影の心は、戦時中も完全に星から離れたわけではありません。以下は再び『星の美と神秘』「はしがき」から。

 「天文書の多少珍しいものだけは、故松本泰君が海を渡って来た大トランクに詰めておき、もし無事だったら寄贈することに決め、その旁ら、倖ひに生き残れたらそれだけの著述で晩年は送れさうな、多年蒐集の星の和名を全速力で整理したり、また李・杜・韓・白〔李白、杜甫、韓愈、白楽天〕はじめ唐宋の星に関する詩句を、予て作ってあった索引から、夜昼かけて筆写したりしてゐた。」

このときの抱影の心を満たしていたのは、英米の書物を通じて親しんだ星座ロマンではなく、日本の民間に伝わる星座語彙であったり、中国の古典に描かれた星宿美であったりしましたが、これは別に抱影が戦争によって米英を敵視したからではありません。戦争が終わり、世の中が落ち着きを取り戻してからも、彼は東洋美術に描かれた星の研究に熱中するなど、明らかに「東方回帰」の傾向を見せていたので、これもその一環と思います。

世間一般では、抱影イコール星座ロマンの人でしょうが、抱影自身の意識としては、それは何となく借り物の知識という思いがあったんじゃないでしょうか。余生を意識し、本当にオリジナルな世界を追求しよう、あるいは自身の魂のルーツを探そうと思ったとき、そうした東方回帰には、一種内的な必然性があったのだと思います。

(このあとも抱影にちなんで話を続けます)

野尻抱影、少年にパロマーを説く2023年05月18日 18時56分03秒

パロマーが巨大な眼を見開き、アメリカ中の人々がそれに歓呼していた頃、日本はどうだったか?
例えば…なのですが、パロマー完成の翌年、1949年に野尻抱影がこんな本を出しています。

(表紙を飾るアンパンマンのような火星)

■野尻抱影(著) 『少年天文学』
 繩書房、昭和24(1949)

この本は、石田五郎さんの『野尻抱影』の巻末年譜にも、ウィキペディアの抱影著作一覧にも出てこないのですが、あの抱影が、『少年天文学』という素敵なタイトルの本を出していると知ったときは、無性に嬉しかったです。

(とはいえ、何しろ本を出せば売れた時代ですから、出版社が抱影の過去の著作を切り貼りして、抱影に名義だけ使わせてもらったんじゃないか…という可能性もちょっぴり疑っています。)

(本書・扉)

(同・奥付)

   ★

そして、この本の口絵を飾っているのが、他ならぬパロマーで撮れたてほやほやの、おおぐま座の系外銀河「M81」の写真です。


右下の説明には「距離約3億光年」とありますが、現在の数値は約1200万光年です。


この本の想定読者である多くの中学生にとっては、当時、こんな古風な小望遠鏡ですら憧れでしかなかったはずで、ましてやパロマーの巨人望遠鏡といったら、想像するのも難しかったでしょう。

何しろ、この本が出たのは戦争が終わってまだ4年目で、日本は連合国(実質的には米国)の占領下にあった時期です。用紙の配給制度が依然続く中、至極粗末な紙に刷られたこの本とパロマーとの距離は、それこそ光年で計りたくなるぐらい懸隔があったのです。

   ★

本文中では、パロマーのことが以下のように紹介されています(pp.127-8。なお、引用にあたり旧字体を新字体に改めました)。

  「先ごろ完成した米国パロマー山の二〇〇インチ大望遠鏡は、一〇億光年も遠い星雲をさつえいするのに成功しましたが、なお、直径四八インチのレンズを持つ世界最大の写真望遠鏡もできて、四年計画で全天の撮影を開始しています。その予定では、約五億の恒星の他に約一〇〇〇万の銀河系外星雲をうつすそうです。

しかも学者の中には、全天の星も、星雲も一〇〇〇億はあるだろうという人さえあります。きものつぶれるような話ではありませんか。そればかりでなく、こういう何千万もある星雲は球状に集まっていて、それぞれ回転しながら外へ外へとひろがっているといわれ、それを膨張宇宙説といいます。あまりとほうもない大きな話で、とても豆つぶのような太陽にくっついている地球のわれわれには想像もできませんが、これがもっとも新しい宇宙観です。」

巨人望遠鏡が見通す宇宙の広大さ、そして膨張宇宙論の衝撃。
まこと「きものつぶれるような」、「あまりとほうもない大きな話」だ…というのは、著者自身の偽らざる感慨でしょう。


ご覧の通り、本書は裏表紙のデザインもなかなか素敵です。
星座神話は、もちろんそれ自体探求する価値のある対象なので、これとパロマーを対比してどうこうということはないのですが、しかし抱影は本書の中でも、例の「カルデアの羊飼いが星座を生み出した」という説を繰り返していて【参考LINK】、そこがいかにも古風であり、パロマーとの距離をじわりと感じさせます。

戦火の星2023年01月08日 12時48分53秒

先月最接近した火星は、まだまだ明るいです。
下は「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌、1909年11月27日号表紙より、「火星」と題されたイラスト(額装用に表紙だけバラして売っていました)。


作者は、画家・版画家のPierre Marie Joseph Lissac(1878-1955)で、こういうカリカチュアを描くときは「Pierlis」を名乗ったので、サインもそのようになっています。


火星を闊歩するのは、古代ローマ風の男性兵士と、それを指揮・督励している女性士官たち。


キャプションには「婦人参政権論者が雲上から地上に降臨させることを夢見るマーシャル文明」とあって、この「マーシャル」は、「戦闘的」と「火星の」のダブルミーニングでしょう。明らかに当時の「新しい女性」を揶揄した絵柄です。「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌は、1863年から1970年まで刊行された老舗総合誌で、誌名から想像されるような、いわゆる「女性誌」ではなかったので、こんなアイロニカルな挿絵も載ったのでしょう。

   ★

火星は軍神マルスの星で、古来戦争と関連付けられてきました。火星の惑星記号♂も、盾と槍を図案化したものと聞けば、なるほどと思います。

野尻抱影は火星について、こんなふうに書いています。

 「何となく不気味で、特に梅雨の降りみ振らずみの夜などに赤い隻眼を据えてゐるのを見ると、不吉な感さへも誘ふ。西洋でこれを血に渇く軍神の星としたのも、支那で熒惑〔けいこく〕と呼び凶星として恐れてゐたのも、この色と、光と、及び軌道が楕円上であるため動きが不規則に見えるのとに由来してゐた。」(野尻抱影『星の美と神秘』、1946)

火星に不穏なものを感じるのは、洋の東西を問いません。
こうして「マーシャル」という形容詞が生まれ、上のようなイラストも描かれたわけです。

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【閑語】

ロシアがウクライナにふっかけた戦争を見ていると、そして過去の戦争を思い起こすと、戦争というのはつくづく損切りが難しいものだと思います。戦争というのは、そもそも構造的にそれができにくい仕組みになっているのでしょう。

なぜなら、自国の兵士が亡くなれば亡くなるほど、「彼らの流した血を無駄にするな!」という声が強まり、「徹底抗戦」へと世論が誘導されていくからです。本当は「これ以上犠牲を増やさないために、戦争を早く終わらせるべきだ」という判断のほうが、はるかに合理的な局面は多いと思うんですが、いつだって白旗を掲げるのは、損益分岐点を<損側>に大きく越えてからです。

この辺はギャンブラーの心理を説明した「プロスペクト理論」とか、現象としては「コンコルド効果」として知られるものと同じですが、戦場における人間の狂気と並んで、為政者(と国民)が下す判断の不合理性も、戦時における特徴として、ぜひ考えておきたいところです。その備えがないと、あまりにも大きなものを失うことになると思います。

「星座」の誕生(後編)2020年06月07日 13時32分05秒

昨日のエピソードに似たことは、抱影の評伝を書いた石田五郎氏も自身の経験として述べています(『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』、リブロポート(1989)、p.186)。

「また東北地方の山奥にこけしを買いに入ったとき老木地師に尋ねても
 「サア、孫たちはオリオンとか北斗七星とかいってますが…」
という返事である。
小学校の天文教育やテレビの科学番組が、古きよき神々を追放したのであろう。」

公教育の普及によって、古い星名が消滅することは、ひとつの文化が消え去ることに等しく、それを惜しむ気持ちはよく分かります。そして消え去る前に、それを記録しておくことは、同時代人の責務だと思います。

とはいえ、民間語彙を駆逐する立場にある、科学のボキャブラリーにしたって、やっぱり消長と盛衰があって、一つの言葉が生まれれば、一つのことばが消えていくのが常でしょう。

   ★

今回のテーマは「星座」という言葉の誕生をめぐってです。

これは、5月31日の記事に対する、S.Uさんのコメントが元になっています。
その中で、S.Uさんは constellation という外国語が「星座」と訳された時期、そして個々の星座を「○○座」と呼ぶようになった時期を問題にされ、明治30年代に画期があったのでは?という仮説を述べられました。

   ★

ここでもう一度抱影に登場してもらって、彼のヒット作、『星座巡礼』(研究社、大正14/1925)を開くと、そこには「北冠座」とか「蛇遣座」とかの項目が並んでいます。

(手元にあるのは昭和6年(1931)の第7版です)

「北冠座」というのは、今でいう「かんむり座」のことで、後者も今は「へびつかい座」とかな書きすることになっているので、古風といえば古風ですが、そう違和感はありません。そして、抱影以後は、誰もがこういう言い方に親しんでいます。「おおぐま座」とか「オリオン座」とか、個別の星座を「○○座」と呼ぶのは、確かに便利な言い方で、コミュニケーションにおいて言葉の節約になります。

でも、昔はそうではありませんでした。

そもそも「コンステレーション」に伝統的な日本語を当てれば「星宿」であり、実際そのように呼ぶ人が、昔は大勢いたのです。そして「星座」の訳語が生まれても、そこからさらに「○○座」の表現が使われるまでには、結構タイムラグがありました。

   ★

さっそく実例を見てみます。

明治時代の天文書における表記の変遷(「星座」vs.「星宿」、および個々の星座の呼び方)をたどってみます。ここでは便宜的に、明治時代を3区分して、「前期」(鹿鳴館の時代まで、1868~1883)、「中期」(日清戦争を経て日英同盟まで、1884~1902)、「後期」(日露戦争と大正改元、1903~1912)とします。

【明治前期】
〇関藤成緒(訳)『星学捷径』(文部省、明治7/1874)
 「星座」(星座例:“「ヘルキュルス」星座”、“「オライオン」星座”)
〇西村茂樹(訳)『百科全書 天文学』(文部省、明治9/1876)
 「星宿 コンステルレーション」
 (星座例:“大熊 ウルサマジョル”、“阿良〔「オリオン」とルビ〕”
〇鈴木義宗(編)『新撰天文学』(耕文舎、明治12/1879)
 「星宿
〇内田正雄・木村一歩(訳)『洛氏天文学』(文部省、明治12/1879)
 「星座」〔「コンステレーション」と左ルビ〕
 (星座例:“ユルサマジョル グレートビール(大熊)”、“リブラ バランス(秤衡)”、“ヘルキュレス ヘルキュレス(神ノ名)”、“オリオン オリオン”)

(『洛氏天文学』より。下も同じ)


【明治中期】
〇渋江保(訳)『初等教育 小天文学』(博文館、明治24/1891)
 「星宿」(星座例:“グレート、ビーア(大熊星)”、“ヅラゴン(龍星)”、“オリオン”)
〇須藤伝治郎『星学』(博文館、明治33/1900)
 「星宿」(星座例:“ウルサメージョル(大熊)”、“シグナス”、“ライラ(織女)”、“ヲライヲン(参宿)”)
〇横山又次郎(著)『天文講話』(早稲田大学、明治35/1902)
 「星座」(星座例:“大熊宮”、“かしおぺや宮”、“獅子宮”、“おりよん宮”)

【明治後期】
〇一戸直蔵(訳)『宇宙研究 星辰天文学』(裳華房、明治39/1906)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“かっせおぺあ星座”)
〇本田親二(著)『最新天文講話』(文昌閣、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“大熊星座”、“獅子座”、“カシオペイア座”)
〇日本天文学会(編)『恒星解説』(三省堂、明治43/1910)
 「星座」(星座例:“琴(こと)”、“琴座のα星”、“双子座β星”)

   ★

こうして見ると、「星座」という言い方は結構古くて、明治の初めにはすでに使われていました。しかし、「星宿」も頑張っていて、最終的に「星座」で統一されたのは、明治も末になってからです。日本天文学会が創設され(明治41/1908)、用語が統一されたことが大きかったのでしょう。

「星座」vs.「星宿」に関しては、最終的に新語が勝ち残った形です。
単に明治人が新し物好きだから…ということなら、「Astronomy」も、古風な「天文学」ではなしに、新語の「星学」が採用されても良かったのですが、結果的に定着しませんでした。この辺はいろいろな力学が作用したのでしょう。

いっぽう「〇〇座」の言い方ですが、これもいろいろ試行錯誤があって、「○○星座」とか、「○○宮」とかを経て、最終的に「○○座」が定着したのは、これも明治の末になってからです。

   ★

ときに先のコメント欄で、S.Uさんが「以下は私論ですが」と断られた上で、
「星座は境界のある「空の区域」を示すものですから、単に星座の絵柄の名前でなく「座」をつけるのが正式とされたのだと思います。」「少なくとも学術的には星座は常に空の区域の名称ですから、星座名としての「オリオン」は間違いではないとしても、正式名称は「オリオン座」でその省略形と見なされるのではないかと思います。」
と述べられたのを伺い、なるほどと思いました。

要は、棍棒を振り上げて、雄牛とにらみ合っているのは、たしかに空の狩人「オリオン」ですけれど、オリオンを含む空の一定エリアを指すときは「オリオン座」と呼ぶのだ…という理解です。たしかに、1930年に国際天文学連合が、星座間の境界を確定して以降は、このように星座のオリジナルキャラと、「○○座」という空域名は、明瞭に区別した方が便利で、実際そのように扱われることが多いのではないでしょうか。

(天界の土地公図。『Délimitation Scientifique des Constellations』(1930)表紙)

とはいえ、改めて考えてみると、東洋天文学で「参」と「参宿」を区別したように、現代の「空域としての星座」は、むしろ「星宿」の考え方に近く、オリオン座も「オリオン宿」と呼んだ方がしっくりするのですが、これはもうどうしようもないですね。

「星座」の誕生(前編)2020年06月06日 14時52分18秒

野尻抱影は、星の民俗を考える上で非常に示唆的な話を、自著『星三百六十五夜』(改装新版1969〔初版1955〕)の中に綴っています。一夜一話形式のこのエッセイ集の5月16日の項に出てくる「マタギの星」というのがそれです。

  「飯豊・朝日の山間、小国郷〔引用者注:山形県小国町〕はマタギ(猟夫)の本場として聞こえている。カモシカの皮の甚平に麻のたっつけ(袴)、村田銃と朱房のついた七尺ヤリを携えたのは、一時代昔のことだろうが、私のおいは、その奥も奥の、戸数八戸という越戸部落の山元、熊狩の統率では神の如く崇められていた、当時八十四才のM老人と親交があった。そして、私のために。その部族に伝わる星の名を問い合わせてくれた。」

(マタギ装束、大正6年。出典:新庄デジタルアーカイブ

抱影が日本古来の星名に関心を持ったのは、大正末年からで、その蒐集活動は昭和20年代いっぱい続きました。これはその時期のエピソードです。文中の「山元」というのは、文脈からすると、山の狩猟権を保有するマタギの棟梁という意味合いのようですが、上の問い合わせに対して、山元のM老人とは別のAという人から返事が来ました(太字は原文傍点)。

 「星さまでは、北極星を当方では北の明星といって、大そう崇めて、この方向には鉄砲を打たないことにしてあります。その星の近くにあるたくさんの星を当方では熊座と崇めて毎夜拝んでいます。山元の家では、この方角に当って不浄をさえしないように気をつけております。熊祭には特にこの熊座に灯明を捧げて一同礼拝します 云々」

マタギの古俗に根差したらしい、いかにも野趣に富んだ話です。

 「私はこの手紙を手にして、一応は首をひねった。何よりも熊座の「座」が気になったからだ。けれど、これは北の明星(北極星)を熊猟でも北のしるべとして崇めるところから、自然その周囲の星々に熊の名をつけたもので、大熊・小熊とは偶然の符号だろうと思い返した。」

昔の囲炉裏を切った民家では、主人が座るのは「横座」、妻は「かか座」、客人は「客座」と、人々の座る位置が厳密に決まっていました。そこから類推すると、北極星のまわりで、神聖な熊が座を占めるべき位置を「熊座」と呼んだのは、さして突飛とも思われません。

でも、やっぱりこの話にはオチがあったのです。
翌年、抱影のおいは直接小国郷を訪ね、その真相を抱影に知らせて寄こしました。

 「Aという人は、この部落で二十年からいる、六十を越した先生だったのは意外でした。字のたっしゃな人が居らぬため返信を頼まれたのだそうで、熊座が果して小学読本からのものだったのにはがっかりしました。」

そう、古俗でも何でもなく、「熊座」の名は小学校の副読本に出てくる「おおぐま座、こぐま座」の引用だったのです。


 「もっとも先生の教育宜しきを得るためか、八十四の山元のMじいさんまで、大熊座と小熊座とは、シチョーノホシとネノホシ〔引用者注:北斗七星と北極星のこと〕附近の古来からの別称と思ってるらしいのです。この二つの名を、黄いろい前歯が一本だけの老人の口から聞い〔原文ママ〕時の感じを御想像下さい。云々

 私も苦笑するほかはなかった。そして、教育もよくもまあ普及したものだと思った。」

   ★

その教育の片棒をかついだのは、他ならぬ抱影自身ですから、彼も苦笑いするばかりでは済まんぞ…と思いますが、まあこういうことは明治以降、各地で絶えず起こったでしょう。

近代に限らず、江戸時代も出版文化は非常に盛んでしたから、地方の知識人が書物から得た知識を元に、その土地の古俗に国学的解釈をまぶして、それがまた地誌に記録されて、いつのまにか確固たる「事実」に転化したり…なんてことは、いくらでもあったと思います。

こういう民俗調査の陥穽には、よくよく注意しなければなりません。

   ★

…ということを実は書きたかったわけではなく、今では当たり前の「○○座」という言い方が、明治以降、どのように普及したかを書こうと思ったのでした。前置きが長くなったので、本題は次回に。

(この項つづく)

レンズの向こうには星があり、夢があった2018年06月18日 11時45分28秒

日本はまさに地震列島。雨の降り注ぐ本州がまた大きく揺れました。
何はさておき地震お見舞い申し上げます。
ヘンリ・ライクロフトの植物記は、1回お休みです。

   ★

この土日は関東に下向し(と、京都中心主義を振りかざす必要もありませんが、東京中心主義も良くないので、バランスを取ってあえてこう書きましょう)、横浜で野尻抱影の愛機「ロングトム」を実見し、さらに「日本望遠鏡史を語る夕べ」といった趣旨の会合に参加してきました。これが何と男性限定、R50の会合で…と、別にそんな制限があったわけではありませんが、趣旨が趣旨なので、どうしてもそういう渋い顔ぶれになるわけです。

ごく私的な会合なので、詳細はぼかしますが、そこでいただいたお土産が下のシールだと申せば、どんな雰囲気だったか、お察しいただけるでしょう。


…と言っても伝わりにくいので、注釈をつけると、「ダウエル」という望遠鏡メーカーがかつてあったのです(「成東商会」という別名義もありました)。かつての天文少年は、その名を科学雑誌の広告欄で目にするたびに、激しく心を揺さぶられました。

それはなぜか? ダウエル望遠鏡は、同スペックの他社製品に比べて、お値段が格段に安かったからです。そして安くて高性能なら万々歳ですが、世の中そう上手くは行かないわけで、ダウエルに手を出した少年たちは、その名に微妙な感じを終生抱き続け、先日の会合でも一同シールを見るなり、破顔一笑したのです。

ダウエル――。それは望遠鏡ではなく、夢を売る会社であった…と、ここでは美しくまとめておきましょう。

   ★

ロングトムのこともここに書いておきます。(「ロング・トム」と中黒を入れることもあります。抱影自身は「ロングトム」、「ロング・トム」両方の書き方をしています。)

ロングトムは、野尻抱影(1885-1977)が愛用した望遠鏡。
昭和3年(1928)、当時の円本ブームに乗って訳出したスチーブンソンの『宝島』が売れに売れ、抱影はその印税で、当時はなはだ高価だった、日本光学(ニコン)製、口径10センチの屈折望遠鏡を買い入れました。

「ロングトム」は、抱影自らが名付けたその愛称です。現在は、抱影の実弟である作家・大仏次郎(おさらぎじろう〔本名・野尻清彦〕、1897-1973)の記念館に保管されています。ロングトムは有名なので、画像では何度も目にしましたが、やはり実物を見るにしくはなしです。


港の見える丘公園から見下ろす曇天の横浜。


その公園の一角、イングリッシュガーデンの向こうに、瀟洒な「大仏次郎記念館」はあります。


2階展示サロンの隅に、ロングトムが立っていました。




丁寧に作られた木箱の表情がいいですね。


蓋の裏に書かれた抱影自筆の覚え書き。


架台に貼られた銘板。ピンぼけですが、「日本光学工業株式会社/第101号/昭和3年」の銘が見えます。


世田谷の自宅で観望会を開く抱影の写真パネル。


この接眼部を、抱影が繰り返し覗いたのか…と思うと、感慨深いです。


その視野を支えた三脚の石突き。


仰ぎ見る雄姿。抱影もこのシルエットをほれぼれと眺めたことでしょう。

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日本光学が入念に仕上げたロングトム。
少年たちがなけなしのお小遣いで手に入れたダウエル望遠鏡。

モノとしての在り様はずいぶん違うし、その見え味にも大きな差があったと思いますが、共通するのは、どちらもレンズの向こうに輝く夢があったということです。そして、夢がなければ、どんな望遠鏡も覗く価値はない…というと言い過ぎかもしれませんが、それも半ば真実じゃないでしょうか。