甲府の抱影(後編)2017年09月21日 05時48分22秒

(昨日のつづき)

抱影が、甲府中学校の理科室に備えられた2インチ径の望遠鏡を使って、夜ごと星を眺めていたことは、彼の随筆『星三百六十五夜』から、以前一文を引いたことがあります(http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/10/16/)。

同旨の文章になりますが、ここでは抱影が別のところに書いた一文を、石田五郎氏の上掲書から孫引きしてみます。(原典は甲府中校友会誌第35号。原題は「星を見るまで」。引用中、「……」は石田氏による挿入。改行は管理人による。)

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 白根の頂に雲の浮ばなかった日は風のない静かな昼が静かな夜と暮れる。こういう夜僕はよく中学校へ望遠鏡で星を覗きに行ったものだ。県庁横のあの灯火の少い通りを歩きながら瑞々しくかがやいている星の中をあれかこれかと予め選んでゆくその心持は察してくれる人が少い。

……理科の機械室の戸口に立止って、錠にガチリと音をさせて戸を開けるとその途端に一種の冷い匂いが顔を打った。提灯のそぼめく光にまわりの硝子戸棚の滑かな面とその中にある多くは黄銅製の種々の器械とがぼんやりと光って、硝子戸は足音でぴりりとかすかな音を立てた。窓ぎわにほの白いカーテンの前には望遠鏡が長い三脚をふんばって突立っている。白いさらしの布で巻かれている黄銅の筒はいくど僕の手でなでられた事だろう。

……望遠鏡を抱え上げると、何かに追われるようにその部屋を出、いそいで後ろに戸をたてて提灯を吹き消し、そして太い三脚をちぢめて肩に担いだ。黄銅の筒はぐたりと縦に背にもたれかかって、町の辻に立ってチャルメラを吹く飴売りの首をぐたりと垂れたひょろ長い人形を思わせた。

……昼はテニスコートに使われる真暗な庭へ出て、柔い土へ三脚を拡げて立てた。円筒のくびをするすると伸し、その口をひき出し、口許のレンズの小さい鋼鉄の蓋を爪先で探って開けた。これまでの一切の処置が何のこだわりもなく躊躇なく進行する事にいつも満足を感じた。背を屈めて望遠鏡の口を覗くと両手の親指と人差指とで作った程の円い平たいレンズの面が筒の内部の暗黒とやや見分けのつく位の仄明るさに夜の空を映していた。そこで何時も度を合す標準に使う北斗の第二星(二重星)へ筒口をぐーっと向けて覗くとそれがぽっと大きく拡がつて見えた。右手でネジを小心に回しはじめると、筒の胴はそれに連れて伸びたり縮んだりした。その中に当の星は形を小さくまとめて強い堅い光を放った。そのすぐ側に、真黒な空間を隔てて、それに付属の星が永劫近付き難い淋しさをあきらめている様に幽かに光っていた。

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ちっぽけな望遠鏡とはいえ、明治の末、まだ日本では趣味の天体観測がほとんど行われていない時期のことですから、その経験はすこぶる貴重です。

抱影がそれを存分に楽しんだのは、一種の「役得」に他なりませんが、同じ教師仲間でそのアドバンテージを生かしたのは、ひとり抱影のみですから、これは抱影の才覚と内証の良さを褒めるべきでしょう。

ともあれ、「星の文学者」としての抱影の下地が、紙の上の知識のみならず、リアルな観測経験によっても練られたことは、その後、抱影に導かれた日本の天文趣味にとって、大いに幸いなことだったと思います。

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さて、その抱影が見た星空を、この目で見ようというのが、今回の旅の大きな楽しみのひとつで、幸い天候にも恵まれましたが、結論から言うと、星そのものは見られず、夕暮れの甲府城(舞鶴城)を散策するだけで終わりました。

以下は舞鶴城公園からの景観です。


陰々たる古城の黄昏。
甲府中学校の寄宿舎裏には、昔、小姓か腰元を切りこんで埋めたという石の六角井戸があり、抱影は生徒たちを集めて、肝試しをやったそうです。


盆地に位置する甲府は、当然ながら東西南北すべて山。
秋分間近のこの日、太陽は真西にあたる千頭星山(せんとうぼしやま)へと沈み、町は急速に暮色を深めます。(ちなみに、中央の巨大なオベリスクは、明治天皇を奉賛する城内の謝恩碑。抱影時代の甲府にはまだありませんでした。)


対する東に目を向ければ、連山の頂にうかぶ白雲が、美しい茜色に染まっています(右端は富士山)。きっと100年前も、あの雲の遠い祖先が、あそこであんなふうに浮かんでいたことでしょう。それが灰白になり、暗い闇に溶け込むとき、抱影はお城の脇を速足で歩きながら、これから始まる天体ショーに、胸を高鳴らせたのです。


北の空を見上げたところ。
抱影の天体観測は、北極星とおおぐま座からスタートするのが常でした。
地平から35.7度の位置に北極星が光り、その周囲に大熊が姿を見せるのも、もうじきです。

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さんざん煽っておきながら、いったいキミは夜は何をしていたのかね?

…と思われるかもしれませんが、夜は夜で甲州ワインを飲んだり、地鶏を食べたりで忙しかったのです。まあ、連れもいたので、全てが自分の自由にはならなかったというのもありますが、山梨の魅力はそれだけ多彩である、ということです。

甲府の抱影(前編)2017年09月20日 13時21分53秒

この連休に、老いた両親を見舞ってきました。
その帰り途、いつもとコースを変えて、ちょっと甲府に足を延ばしました。

(昇仙峡から望む甲府盆地と富士)

昇仙峡見物や、信玄の館跡である武田神社詣でなど、普通の観光もしつつ、初めて訪れる甲府で楽しみにしていたのが、一時甲府で暮らした、野尻抱影(1885-1977)の面影を偲ぶことでした。

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抱影の甲府生活は、明治40年(1907)5月に始まりました。
前年に早稲田の英文科を卒業した青年英語教師として、旧制甲府中学校(現・甲府第一高校)に赴任するためです。その甲府生活は、明治45年(1912)に、東京の麻布中学校へ転任するまで、満5年間続きました。

(甲府中時代の抱影。石田五郎(著) 『野尻抱影 ― 聞書“星の文人”伝』 より)

前回の記事でも触れた、1899年のしし座流星群は、日本の新聞でも盛んに取り上げられ、それに触発されて、抱影少年は初めて天文趣味に目覚めた…ということが、石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート、1989)には書かれています。

その天文趣味は、この山国の満天の星の下、さらに進歩を遂げ、都会育ちの彼が山岳や自然一切の魅力に開眼したのも、この甲府での生活があったればこそです。甲府暮しがなければ、おそらく後の抱影はなかったでしょう。

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抱影が赴任した甲府中学校は、今の山梨県庁のところにありました。

(甲府駅周辺地図)

上の地図だと、甲府駅のすぐ南が甲府城(舞鶴城)跡で、その西側に山梨県庁があります。今は甲府城の城地が大幅に狭まっていますが、旧幕時代は県庁一帯もお城の内で、二の丸の一部を構成していました。

(城の南側から甲府駅方面を見たところ。道路を挟んで左が山梨県庁、右が舞鶴城公園)

明治13年(1880)創設の甲府中学校が、この場所に新築・移転したのは、明治33年(1900)です。その後、昭和3年(1928)に、現在の甲府一高の地に移転し、その跡地に県庁が引っ越してきました。

上の地図で、「山梨・近代人物館」と表示された建物が、昭和5年(1930)に竣工した県庁旧庁舎です。さらに、その北隣の建物が、旧庁舎と同時にできた県会議事堂で、このあたりが甲府中学校の跡地になります。

(山梨県庁旧庁舎(現・県庁別館))

抱影は、学校近くの下宿屋から、当時はまだあった内堀(今は埋め立てられて県庁西側の大通りになっています)にかかった太鼓橋を渡って、毎日学校に通いました。

(大正~昭和初期の甲府城跡。奥に見えるのが中学の校門。甲府市のサイト掲載の白黒写真を、試みにAIで着色してみました。)

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。以下次回につづく)


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▼閑語(ブログ内ブログ)

しばらく政治向きのことは静観していましたが、ここにきて、「大義なき解散」の話が持ち上がり、これについては大義どころか小義もないし、安倍晋三という人は、つくづく姑息な人だなあ…と改めて歎息しています。

で、歎息ついでに、ふと「姑息」というのは、なんで「しゅうとめの息」なんだろうと思いました。「姑の息」は、そんなに邪悪なものなんでしょうか?

調べてみると、「姑息」とは「一時しのぎ」の意味で、これを「卑怯」の意味に使うのは誤用である…と多くの人が指摘しています。これは、「(歌の)さわり」とか、「情けは人の為ならず」と同様、今や誤用の方が主流に転じた例でしょう。

何でも「姑」という字には、「しゅうとめ」の意味の他に、もともと「一時的」の意味があって(たぶん同音他字の意味を借りたのでしょう)、そこから「姑息」イコール「一時的に息(やす)むこと」、すなわち「一時しのぎ」の意味になったんだそうです。

でも、この「姑息」という字句は、一時的どころか、ずいぶん長い歴史のある言葉です。出典は四書五経のひとつ『礼記』で、孔子の弟子に当る曽子が、臨終の間際、曽子の身を気遣う息子を叱って、「お前の言い分は君子のそれではない」と言ったことに由来する(「君子の人を愛するや徳を以てす。細人の人を愛するや姑息を以てす。」 君子たる者は大義を損なわないように人を愛するが,度量の狭い者はその場をしのぐだけのやり方で人を愛するのだ。)…ということが、文化庁のサイトで解説されていました。

こうして、日本では「一時しのぎは卑怯なり」と受け止められて、「姑息」の意味が変容しましたが、一方現代中国語にも「姑息」という語は生きており、そちらはもっぱら「甘い態度をとること、無原則に許すこと」の意味に使われるそうです。文化の違いというのは、なかなか面白いものです。(ちなみに今の中国語だと、「姑」は主に「夫の姉妹」、すなわち「こじゅうと」の意味で使われることも、さっき辞書で知りました。)

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さて、話が一周して、安倍晋三という人がやることは、一時しのぎだし、卑怯だし、身内に大甘で、あらゆる意味において「姑息」だなあ…と改めて思います。かの宰相は、まこと君子に遠き細人なるかな。

天と地にアークトゥルスが輝く夜2017年05月23日 06時43分33秒

春は北斗の季節。

北斗の柄杓の柄が描くゆるいカーブを、そのままぐっと延長すると、ちょうど北斗と同じぐらいの間を置いて、うしかい座のアークトゥルスに到達し、さらにその先にはおとめ座のスピカが明るく輝いています。この空を横切る雄大なカーブが、いわゆる「春の大曲線」

アークトゥルスは、日本では「麦星(むぎぼし)」の名でも知られます。
これは野尻抱影が、一時熱心に取り組んだ星の和名採集の成果で、当の抱影も、知人に教えてもらうまで、「麦星」のことはまるで知らずにいましたが、彼はこの名を耳にするや、いたく感動したようです。

 「わたしはこれを季節感の濃やかないい名だと思った。麦生の岡に夕ひばりが鳴き、農夫が家路につくころ、東北の中空で華やかな金じきに輝き出るこの星を表わして、遺憾がないし、麦の赤らんだ色にも通じていると思った。」 (野尻抱影、『日本の星』、中公文庫p.51)

たしかに、農事の土の匂いとともに、可憐な美しさをたたえた良い名前で、スピカの「真珠星」とともに、これぞ抱影のGJ(グッジョブ)。

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ところで、「アークトゥルス」の名を負ったモノで、土の匂いとはおよそ対照的な、硬質なカッコよさを感じさせる逸品があります。

それがアメリカで、1920年代後半~40年代初頭まで操業していた真空管メーカー「アークトゥルス」と、その製品群です。(ただし、真空管ファンは「アークチューラス」の呼び名を好むようなので、真空管を指すときは、ここでも「アークチューラス」と呼ぶことにします。)


単に真空管というだけでも十分カッコいいのに、この天文ドームと星々のイメージデザインは、何だかカッコよすぎる気がします。


しかも、上のアークチューラスは「ふつうの真空管」ですが、同社が真空管ファンの間で有名なのは、青いガラスを使った「ブルーバルブ」(バルブとは真空管のこと)の製造を手がけていたことです。

こうなるとカッコよすぎる上にもカッコよすぎる話で、いい歳をした大人が「カッコイイ」を連発するのは、あまりカッコよくないと思いますが、そんな反省をする暇もないほどです。

もちろん手元にはブルーバルブもしっかりホールドしていますが、それはまた別の機会に登場させます。

『星恋』のこと2017年01月02日 14時54分59秒

星の文学者・野尻抱影(1885-1977)と、星を愛した俳人・山口誓子(1901-1994)が著した句文集、『星恋』(初版1946)。その冒頭に置かれたのが、誓子の「星恋のまたひととせのはじめの夜」という一句です。

「星恋」というフレーズが何とも良いし、明るい星々がきらきら輝く今の時期の空を見上げて、冷たく澄んだ空気を胸に吸い込んだときの清新な気分は、星好きの人にとって言わずもがなの情趣でしょう。

敬愛する霞ヶ浦天体観測隊http://kasuten.blog81.fc2.com/)のかすてんさんは、毎年この句でブログ開きをされるのを嘉例としていて、私もそのマネをしてみたいと思います。

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といって、私の方は地上の話題に終始するのですが、私の手元には『星恋』が5冊あります。なんでそんなにあるかといえば、『星恋』には終戦直後の昭和21年(1946)に鎌倉書房から出た初版と、昭和29年(1954)に中央公論社から出た版とがあり(この2つは内容が多少異なります)、さらに昭和61年(1986)に深夜叢書社から出た『定本 星恋』と合せて、全部で3種類の異版があるからです。このことは既に5年前に取り上げました。

■『星恋』ふたたび

でも、それだけでは5冊にまだ2冊足りません。
実は鎌倉書房版と中公版は、それぞれ後からもう1冊ずつ買い足しました。

(左・鎌倉書房版、右・中央公論社版)

なぜかといえば、それぞれに抱影と誓子の署名が入っているという、関心の無い人にはどうでも良いことでしょうが、『星恋』に恋する者には無視できない要素が含まれていたからです。


中公版は抱影の署名入り。ミミズの這ったような…というと叱られますが、抱影の独特の筆跡で、仏文学者の高橋邦太郎(1898-1984)に献じられています。


対する鎌倉書房版には、誓子の几帳面な署名と落款が印されています。

古書を手にすると、昔の人の体温がじかに伝わってくる気がしますが、この2冊は確実に二人の作者が手に取って、ペンを走らせた本ですから、両者の存在がなおのことしみじみと身近に感じられます。何だか今もすぐそばに座っているような気すらします。



  星恋のまたひととせのはじめの夜
  初春といひていつもの天の星

変るものと変わらぬもの。
世の転変を横目に、今宵も星と向き合い、そして自分の心と向き合いたいと思います。

「野尻抱影の本」…カテゴリー縦覧:野尻抱影編2015年04月12日 16時03分18秒

ブログのカテゴリーの順番に沿って話題を出し続ける「カテゴリー縦覧」。
天文プロパーの話題が終って、以下、しばらくは天文以外の話題が続きますが、抱影や賢治は、まだまだ天文気分の濃い領域です。

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野尻抱影(1885-1977)という人は、ずいぶん多作な人で、ウィキペディアに載っている著作を数えたら、大正13年の『三つ星の頃』から、昭和52年の『星・古典好日』に至るまで、生前に出た単著の数は60冊を超えていました。中には旧著を再編集しただけの本もあると思いますが、それにしても大した量です。

「星の文学者」として隠れもなく、熱心なファンも多いはずなのに、しかし、その全集が編まれたことはついぞありません。抱影、賢治、足穂という、ペンを手にした夜空の大三角のうち、全集を持たないのは抱影だけです。ちょっと不思議な気もしますが、その主要テーマが「天文」とピンポイントなので、やはり絶対的な需要は限られるのでしょう。

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とはいえ、その筆業を概観するのに便利な本があります。
以前、筑摩から出た「野尻抱影の本」という4巻本選集です。


1989年1月7日、昭和天皇没。
その直後の1月25日が、第1回配本の『星空のロマンス』(石田五郎編)の発行日になっています。その後、月を追って1冊ずつ配本があり、2月『山で見た星(宮下啓三編)、3月『ロンドン怪盗伝(池内紀編)、4月『星の文学誌(原恵編)が出て完結。

抱影が生き、慣れ親しんだ明治・大正・昭和の三代が遠い世界になりつつあったときに、その選集が出たことに、少なからず感慨を覚えます。

(安野光雅さんの装幀が洒落ています。)

この選集は、抱影のことを知る上で、とても目配りの利いた構成になっています。

第1巻『星空のロマンス』は、「抱影節」の効いた天文エッセイ集で、いわば抱影のスタンダードナンバー。続く『星の文学誌』は、本業の知識(彼はもともと英語の先生でした)を生かした、星座神話や天文英詩についての評論集。第3巻『山で見た星』は、必ずしも天文に限らない、自伝的エッセイや小品、少年小説、山行記などが収められており、若い頃関心を示した、心霊の話題なども顔を出します。

そして第4巻は『ロンドン怪盗伝。ちょっと意外に思われるかもしれませんが、抱影が星と並んで興味を抱いたのが「乞食と泥棒」で、抱影のその方面の仕事も取り上げているところが、この選集の優れている点です。抱影は頭上の星ばかりでなく、生身の人間にも深い関心を寄せていました。

(『ロンドン怪盗伝』の帯。池内紀氏の解説文からの引用)

かつて松岡正剛さんは、生前の抱影に、その関心の由来を尋ねたことがあるそうです。

 なぜ星の専門家が乞食と泥棒に関心をもつのかというと、
これはぼくが直接に聞いたことだが、
あなたねえ、天には星でしょ、地には泥棒、人は乞食じゃなくちゃねえ」
というのである。
(松岡正剛の千夜千冊:野尻抱影『日本の星』 http://1000ya.isis.ne.jp/0348.html

洒脱といえば実に洒脱。
金持ちや権力者なぞ屁でもないという、抱影の反骨精神が頼もしいです。

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洒脱といえば、第3巻の帯に出てくるエピソードはどうでしょうか?


思わずクスリとする、胸のすくような話ではありませんか。
ちょっとへそは曲がっていますが、なかなか面白い老人ですね。
この老人が逝って、今年で38年。日本の世相もずいぶん変わりました。

古川龍城を知っていますか2014年07月13日 11時36分28秒

日本の天文趣味をたどるために、明治大正の本を何冊か手元に置いています。


その中に古川龍城(ふるかわりゅうじょう)という人の本が何冊かあります。
画像は左から、

  『天文界之智嚢』 (中興館、改訂11版、1933/初版1923)
  『星のローマンス』 (新光社、1924)
  『星夜の巡礼』 (表現社、1924)


の3冊。出版年をご覧いただければお分かりのように、大正12~13年のごく短い期間に、立て続けに出た本です。

「日本の天文趣味をたどる」と云うわりに、私は著者である古川その人について何も知らずにいたのですが、たまたま以下の報告に接し、「へええ、そうだったんだ」と思ったので、ここに挙げておきます。

冨田良雄、「古川龍城と山本一清」
 第3回天文台アーカイブプロジェクト報告会集録 (2012), pp.24-27.

 http://hdl.handle.net/2433/164305 (←リンク先ページからダウンロードをクリック)

冨田氏の報告によれば、古川は山本一清の弟子に当たり、山本が京大で助教授だった頃、彼はその下で助手を務めた、本職の天文学徒だった由。私はてっきり彼を在野の文筆家と思っていたので、そのことがまず「へええ」でした。そして東亜天文学会(当時の天文同好会)の会誌「天界」のネーミングも古川の発案だそうで、不肖の会員である私は、そのことも知らずにいました。これまた「へええ」です。

とはいえ、彼の学究生活は長く続かず、大正11年(1922)に、京大から東京麻布の天文台(三鷹の旧東京天文台の前身)に転じたあと、翌年の関東大震災を機にそこも辞し、純粋な小説家として立とうとしたり、地震学に興味を示して、東大地震学教室に一時籍を置いたり、かと思うと鳥類学に手を伸ばして、昭和に入ると「国民新聞」の記者をしながら、その方面の文章を書いたり、冨田氏によれば、「鳥の研究者からは天文学出身の謎の人物とされており、かたや天文学分野からみても謎の多い人物」という存在になっていました。

その最期もはっきりせず、晩年は郷里の岐阜に帰り、昭和30年(1955)頃に亡くなったそうです。

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何だか不思議な人ですね。

古川と入れ替わりに日本の天文シーンに登場し、戦後も永く君臨しつづけたのが野尻抱影であり、古川は謂わばその露払いの役を務めたと言えます。
日本の天文趣味史において、その果たした役割は決して小さくないはずですが、そのわりに知名度が今ひとつですので、ここにその名を記しました。

星と花2014年07月12日 13時55分46秒


(賢治が昭和3年(1928)に、花の名前を書き付けた「メモ・フローラ手帳」の紹介記事。雑誌「アルビレオ」創刊号、1994より)

7月8日の記事で、ガラスの天球儀を取り上げた際、「地上の星を花といゝ、みそらの花を星といふ」という文句が、島崎藤村のものとして引用されている文章を紹介しました (http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/07/08/7382844#c)。

すかさずS.Uさんに教えていただいたのは、これは藤村ではなく、室生犀星が出典ではないか、ネット上では犀星のものとして引用されている例が多いようだが…ということで、併せて土井晩翠の「天地有情」(1899)や、宮沢賢治の「ひのきとひなげし」にも似たような言い回しが出てくることをご教示いただきました。(前者は「み空の花を星といひ/わが世の星を花といふ。」というもので、後者は「あめなる花をほしと云い/この世の星を花という。」というものです。)

(リンドウの1品種「アルビレオ」。出典同上)

ここまで来ると、これは当時流行の言い回しで、明治の新体詩ブームの中で紹介された外国の詩が原典ではないか…と私なりに想像し、検索して見つけたのがYahoo知恵袋に挙がっていた下の詩。(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1086988725

If stars dropped out of heaven,
And if flowers took their place,
The sky would still look very fair,
And fair earth's face.
Winged angels might fly down to us
To pluck the stars,
Be we could only long for flowers
Beyond the cloudy bars.


イギリスのクリスティーナ・ロセッティ(Christina Georgina Rossetti、1830-1894)の作で、ベストアンサーで示された訳は以下のとおり。

星が天から降ってきて、
(その星があった場所に) 花がとって代わったとしても、
空は依然として(花で)とてもきれいだし
地表も(星で)とてもきれいだろう。
羽のついた天使が私たちのもとに降りてきて
星をつまんでもっていくかもしれない。
同じように、わたしたちも
曇の向こう側にある花に思いこがれるだろう

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思うに、星を天上の花に喩えるのはステロタイプな表現として、昔から類例は多い気がします(美しいものイコール花という、単純な発想ですね)。

たとえば、パパっと検索したところ、フランスの詩人、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ(Alphonse de Lamartine, 1790-1869)の「Les étoiles(星々)」と題した詩にも、下のような句があって、意味はよく分かりませんが、星の美を天上の花に喩えているようです。

Beaux astres! fleurs du ciel dont le lis est jaloux,
J'ai murmuré tout bas : Que ne suis-je un de vous?

いっぽう、花を地上の星に喩えるのは、当初こそ機知に富んだ新趣向だったかもしれませんが、こういうのは「白扇さかしまに懸く富士の山」の類で、模倣によってすぐ陳腐化するのは避けがたいところです。

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結局「地上の星、天上の花」の原典は今ひとつよく分かりませんが、ひょっとして、英文学徒だった野尻抱影が、これについて何か言ってないだろうか?と思い付いて、手元の本をパラパラめくってみました。

果たして、彼の天文随筆『星三百六十五夜』(初版1955)には、「星と花」という一文があり、これだ!と思ったのですが、案に相違して、その内容は「星に花の香りを当てるとすれば…」という、一種の見立ての文章でした。まあ、目論見は外れたものの、抱影先生も実に艶なことをすると思い、ごく短い文章ですので、下に全文を引用しておきます。

「星と花」
 
 

 アンリ・ド・レニエは、『ドンク』(さて)の中に

 ― 宝石には匂いがあって欲しいものだ。私はダイヤモンドの鋭い凍った匂い、エメラルドのすっぱい新鮮な匂い、ルビーの重い、荒荒しい匂い、オパールのそこはかとなき、ほのかな、名酒の薫り、真珠の女性的な、底光りのする香気を想像する。(河盛好蔵氏訳)

と書いている。これを読んで、私は、もし星に花の香を持たせたらと空想して、星好きの若い女牲たちにそれを考えてもらった。優秀なものも多いが、匂いは附け足りで色の似寄りだけのがあるのも仕方がない。また、冬ほど大きな星が多いのだが、反対に花は乏しいので、取り合わせに困難である。

  三つ星  フリージア        ベテルギュース  紅つばき
  リゲル  白つばき         カペルラ  君子蘭
  シリウス  沈丁花         プロキオーン  春蘭
  カストール  白水仙       ポルックス  黄水仙
  アルデバラーン  紅ばら    すばる  鈴蘭
  レーグルス  デイジー      スピーカ  マーガレット
  アルクトゥールス  花びし草  アンタレース  のうぜんかつら
  ヴェーガ  あじさい        アルタイル  待宵草
  北極星  黄菊           フォーマルハウト  もくせい
  金星  よるがほ          火星  ガーベラ
  木星  ひまわり          土星  やぐるま

 特に三星のフリージア、それをはさむα・βの紅つばき、白つばき、双子座のα・βの白水仙、黄水仙の対照や、シリウスの沈丁花とアンタレースののうぜんかつらに季節感と強烈な色を表わしたのがいい。すばるの鈴蘭も可憐である。

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うむ、可憐ですね。

星と花―。
両者は単に綺麗というばかりでなく、「年々歳々相似たる」ところも共通します。
そして、それを前にして、人は変わりゆく自分と世の中に深いため息をつくわけです。

リンゴの唄を聞いた早見盤2014年05月15日 07時04分59秒

前回の星座早見がアメリカで出たのは1943年。
2年後の1945年8月15日、太平洋戦争終結。

敗戦後の日本は、戦時下にもまして物資の窮乏著しく、餓死者が絶えませんでしたし、死には至らずとも、国民全体が―特に都市部では―栄養不良でふらふらしていた…と聞きます。

そんな時代の一隅を照らしたのが、並木路子の「リンゴの唄」で、当時の映像やドラマには必ずかぶさって流れるので、現今の人の耳にも親しいことでしょう。

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そんな時代にあって、リンゴばかりでなく、星をいつくしむ思いが、人々の心の内には甦り始めました。


粗悪な紙に刷られた粗末な星座早見。
前回の早見盤と比べると、アメリカと日本の置かれた立場の違いがくっきり浮かび上がりますが、しかし、これこそ日本の天文趣味復活ののろしとも云うべき品。

野尻抱影(編) 『星座めぐり盤』、 研究社、昭和21年(1946)
  約 18cm × 18cm

 
 

印刷されたのはちょうど敗戦から1年経った、昭和21年8月15日。
「配給元 日本出版配給統制株式会社」とあって、当時はまだ統制経済下ですから、出版人もいろいろ苦労があったことでしょう。定価は3円50銭。


窓枠カバーを開けたところ。星図盤はすっかり日に焼けていて、窓からのぞいていたところは濃い茶色になっています。


ザラッとした紙の表情。
口腹を満たすべき金で星座早見をあがない、すきっ腹を抱えて空を見上げたかつてのスターゲイザーに深い愛情を感じます。

夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(5)2013年02月27日 21時32分16秒

賢治と抱影のかかわりは、実は戦前ないし戦中に遡りそうだ…ということを、コメント欄でS.Uさんにお教えいただきました(どうもありがとうございました)。

昭和28年に草下英明氏の『宮沢賢治と星』が出た際、抱影がその感想を、自分の弟子でもある草下氏に葉書で知らせて寄こした…ということを、先日記事に書きました。のみならず、実は抱影はこの本の序文も書いており、その中で「自分は以前賢治全集のために天文関係の言葉に註を付けたことがある」旨を書いているというのですが、この抱影の序文自体、学藝書林から出ている再版本からは割愛されているので、一般の目に触れることはごくまれだと思います。もちろん私にとっても初耳の情報でした。

抱影と賢治のかかわりを考える上で、これはきわめて貴重な資料と思いますので、S.Uさんからお送りいただいた問題の序文を、以下に掲げます。

 「宮沢賢治氏の詩や童話に、星座と星が実に自由に、時には奔放に採り入れられていることは、私たち天文ファンを常に驚嘆させる。而も日本に於けるこの趣味の萌芽期に、「銀河鉄道の夜」「よだかの星」などの名作を書いた博識とファンタジーとは永く記憶さるべきだろう。私は曾って藤原嘉藤治氏から依頼されて、全集のために天文関係の言葉を註解した。しかし屡々迷路を引き廻されたり、氏の創作らしい星座や星にもぶつかって、疑問に残ったものも少〔すくな〕くなかった。

 ところで草下英明君は、学生時代から賢治氏の文学に傾倒して、特にその天文知識から、年来全作品に現れている星座と星とを熱心に探り、その典拠をも考証し、進んでは氏の旧居を訪ねて遺稿から新事実さえ発見している。こうして様々の面よりする解釈と鑑賞とを収めたのが本書である。これが賢治研究の上に、従来の遺漏を充たしながら新たに読者を啓発するのは勿論、独立した読物としても楽しく清新であると私は信じている。」

抱影は私信の中でもかなりキツイことを言っていましたが、ここでも「迷路を引き廻されたり」とか、「疑問に残ったものも少」なからずあったとか、賢治の天文知識に厳しい注文を付けています。

なお、ここで藤原嘉藤治から依頼があった全集というのは、同氏が編集にかかわった文圃堂版(昭和9~10、全3巻)、十字屋版(昭和14~19、全6巻)のいずれかを指しますが、終戦前に出た賢治全集はこの2種類だけです。そして、十字屋版は文圃堂版から譲られた紙型を流用しているそうなので、要は十字屋版を見れば、抱影の註解の内容も分かるのではないかと思います。

私なりに、現在、自助努力中ですが、もし十字屋版全集をお持ちの方、あるいはこの件について既にご存じ寄りの方がいらっしゃいましたら、抱影による註解の実際をお教えいただければまことに幸いです。

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さて、以下は純然たるおまけ。
「はたして賢治と足穂はどこかで行き会ったことがあるのかどうか?」

両者の行動範囲を考えると、両者が出会う可能性があるのは東京以外にありません。
大正~昭和にかけて、二人は何度か東京で過ごしているので、偶然街路で行き会ったとしても決して不思議ではないはずですが、しかし両者の年譜を突き合わせると、奇妙なほどすれ違っていることに気づきます。

足穂の初上京は大正8年の3月です。彼は関西学院卒業と同時に、東京羽田の自動車学校に通って車の免許を取るというハイカラぶりを見せました。
賢治の方も前年の暮れから、病気療養中の妹トシに付き添って滞京していましたが、ちょうど足穂と入れちがいに花巻に帰ったので、このとき両者が出会う可能性はありません。

賢治が再度上京したのは大正10年のことで、このときは日蓮宗系の国柱会に出入りしながら、1月から8月まで東京で過ごしました。しかし、足穂はこの時期、ちょうど地元に戻っていて、再度上京するのは同年9月ですから、これまた出会う可能性はありません。

残された可能性は、賢治がそれぞれ1か月足らず滞京した、大正15年(=昭和元年)と昭和3年に限られます。
大正15年の12月、賢治はタイピスト学校に通ったり、オルガン・チェロ・エスペラントを習ったり、はたまた築地小劇場や歌舞伎座に出かけて観劇を楽しんだり、東京中を忙しく歩き回っていました。昭和3年も似たような感じで、文字通り寝食を忘れて、文化的刺激の吸収に余念がありませんでした。
いっぽうの足穂は、『星を売る店』(大正15)、『第三半球物語』(昭和2)、『天体嗜好症』(昭和3)と、珠玉の作品集を立て続けに刊行し、まさに若き日の絶頂期にあった時期にあたります。
賢治もことさら先鋭的なものに目が向いていた頃ですから、あるいは足穂の名前を耳にしたことがあったかもしれませんし、街ですれ違ったことだって、ないとはいえません。

二つの巨星のコンジャンクションが現実にあったかどうかは永遠の謎ですが、「あった」と想像するのは楽しいことです。そして、少なくとも二人が同じ街の空気を吸ったことがあるのは確かな事実です。

夜空の大三角…抱影、賢治、足穂(4)2013年02月25日 20時55分37秒

足穂は「銀河鉄道の夜」を一読するなり、それを映像化したいと思いました。それもフルカラー作品で。

 「草下自身もそのことを主張していた。彼の手紙から引用して、私が彼の意見に異議をもっていない証拠にしたい―

 まず最初にカムパネルラ少年が溺れる場面は、その川下の地平線上に白鳥座が大きく落ちかかっているように仕組むべきで、川遊びの小舟から落ちて魚になり、ついで天上の星と化した酔李白の場合のように、押し流されて行く友だちを追うて、ジョバンニ少年はいつのまにやら銀河の中へ泳ぎ入ってしまう…深味を帯びた濃藍のバックには一面に星がきらめき、天ノ河は五彩の光の流れで、そのあいだを縫って、透明単色の「銀河列車」が駛って行く…。
 
 私は子供の頃、ジュール=ヴュルヌの挿絵に見た「コロンビアット」即ち、星間をポッポッと煙を吐いて進んでいる車輪のない移民列車を、思い合わさないでおられなかった。」

(月へ向かう砲弾列車。ヴェルヌの『地球から月へ(月世界旅行)』英語版表紙。
ウィキペディアより)

足穂はどういうつもりで草下氏の文章をそのまま引いたのか?
足穂はものぐさから他人の文章を借りるような人ではないはずなので、これはよほど草下氏の文章が彼の心に響いたのでしょう。足穂も釈明の必要を感じたのか、草下氏と自分の感じ方が近いことをしきりに強調しています。

 「渋谷のプラネタリウムについて、草下は云った。「内側の星ぞらよりも外側の真白いドームの方がよっぽど宇宙的に見える」と。彼はマラルメの朗吟家であり、又、宮沢賢治の随所に出てくるカエル、魚、小鳥、虫の奇妙な発音を自ら真似るのが実にうまい。只「深淵」からの語り手、ホウキ星の啼声をそこに差し加えないのが、いささか残念なくらいのものである。草下はいまアメリカの宇宙基地を大いそぎで見て廻っている。帰途にはカリフォルニアの大天文台をたずねるつもりだ。天文学着たちは昼間は寝ているそうです、と先日の手紙に書いてよこした。」

そして足穂はこの一文を次のように締めくくっています。

 「「俺はひとりの修羅なのだ」これもよいが、私は何よりも「銀河鉄道の夜」を推す者である。これはひょっとして、サン=テグジュペリの「星の王子様」よりも文学的かも知れない。その次は「風の又三郎」である。「雨ニモマケズ」なんて云うしみったれた愚痴は、私は買わない。」

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足穂は、賢治と「銀河鉄道の夜」を高く評価していました。
ひょっとしたら、「これは自分が書くべき作品だった」とすら思ったかもしれません。

足穂はこの「銀河鉄道頌」を公にした直後、絵画展の開催を持ちかけられます。それは翌1971年に「イナガキタルホ・ピクチュア展」と題して、大阪、京都、東京を巡回しましたが、この絵画展のために、足穂は新作パステル画を10枚ほど描いています。
その中の1枚が「「不可能」への出発」という作品です。

(「不可能」への出発/出典:『稲垣足穂の世界―タルホスコープ』(平凡社))

この汽車は、本来鉄橋を渡ってトンネルへと滑りこむはずだったのでしょう。しかし、鉄橋は崩落し、汽車は奈落の底へ…と思いきや、汽車はそこから「不可能」に向けて出立します。平凡な日常、それを切断する死、そして死をも易々と超えて翔ぶ蒸気機関車。

この絵と「銀河鉄道の夜」のつながりは分かりません(もしどこかに自作解題が載っていたらお教えください)。しかし、私の目には、明らかに賢治と「銀河鉄道の夜」へのオマージュ作品と映ります。

2月26日付記

…と書いたものの、どうやらこれは私の勇み足で、実はこの絵は賢治ではなく、ジョルジュ・メリエスの映像作品に触発されたものではないか?ということを、コメント欄で黒内さんにお教えいただきました。黒内さんによると、メリエスにはずばり「Voyage a travers l'impossible(不可能を通る旅)」(1904)という作品があって、その中に、この絵と酷似したシーンがあるとのこと(黒内さんのコメントには、該当作品へのリンクが張られているので、ぜひご覧ください)。

強いてこの絵と賢治を結びつけて何か言うとすれば、ひょっとしたら足穂の賢治受容には、ヴェルヌと同時にメリエスの影響もあるのでは?という観点ですが、まあ、これは足穂氏ご本人に伺わないと分からないでしょう。

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以下、ちょっと考証めいたことを加えます。

「銀河鉄道の夜」には完成原稿がないため、各時代の校訂者の判断によって、いろいろな“異版”の存在することが知られていますが、足穂が読んだのは、どのバージョンだったのでしょうか?

草下氏の『宮沢賢治と星』(学藝書林、1975)の「あとがき」を読むと、「原本〔=昭和28年に出た初版〕は、すべて昭和21~23年刊行の十字屋版全集に頼っている」とあるので、草下氏が足穂に貸し与えたのも、おそらくそれでしょう。

青空文庫には、現行のバージョン(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/456_15050.html)のほか、この十字屋版に準拠した、岩波文庫旧版に収められたバージョン(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/46322_24347.html)もアップされているので、ぜひ読み比べてみてください。

十字屋版「銀河鉄道の夜」は、現行のものとは、かなり構成が違います。
謎のブルカニロ博士が登場するのはもちろん、現行版とはちがって、ジョバンニは銀河鉄道に乗り込む「」に、親友が水死したことを聞かされます。上の引用中、足穂および草下氏が、「まず最初にカムパネルラ少年が溺れる場面は」云々と書いたのは、これを下敷きにしています。

作品としての巧拙は正直よく分かりません。しかし、純粋な夢オチの現行版よりも、十字屋版の方がある意味説得力があるし、救いがあると思います。(少なくとも、ジョバンニは2枚の金貨でおっ母さんを喜ばせてあげられるのですから…)。銀河の描写も、コールサック(石炭袋)で終わる現行版は、あまりに重苦しいので、マジェラン星雲で終わる十字屋版に軍配を上げたいと思います。

ともあれ、足穂が感動したのはこのバージョンなので、足穂の追体験をするには、十字屋版に目を通す必要がありそうです。

(次回はおまけ編)