戦火の抱影2023年08月06日 15時05分25秒

私の職場にも一応空調は入っているのですが、その設備はひどく旧式で、外気温が高い日には、どんなに頑張っても室温が30度を下回ることはありません。そんな中で一日仕事をするのですから、心身の疲労も甚だしく、夜は泥のように眠り、行き帰りの電車の中でも常に眠りこけているような有様です。絵に描いたような夏バテ状態ですね。

そんなわけで、ブログの更新もできず、コメントへもはかばかしくお返事できかねる状態で、当分はこんな感じでしょう。でも、昨日一日寝ていたので、今日は少し元気になりました。

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今日は8月6日。
8月になると、メディアでは先の大戦を回顧して、戦争関連のコンテンツが多くなります。現在も戦争状態にある国や地域が多いことを思えば、こういう年中行事自体、日本が平和であることの証です。もちろん、対外戦争をしていないからといって、国内がすべて太平ともいえませんが、それでも戦火に追われたり、砲弾に怯えたりすることがないのは、ありがたいことに違いありません。

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石田五郎氏の『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』(リブロポート)には、大戦末期の抱影の心模様の一端が綴られています(本書は『星の文人 野尻抱影伝』と改題して、中公文庫に入っています)。

そこには終戦の翌年、昭和21年(1945)8月に出た『星の美と神秘』(恒星社厚生閣)のはしがきが引用されています。同書は抱影の戦後第1作です。たまたま原著が手元にあるので、石田氏による引用の前後も含めて、引き直してみます。


 「久しい間科学は挙げて剣の奴隷だった、且つ多くがそれに殉じた。そのうち比較的に純粋さを保ち得たものに天文学があった。最近復員した或る青年は、部隊長から私の著書を自由思想の有害な読物であるとして没収されたと話して、私を苦笑させた。その私は海軍航空技術本部から、航空兵に星座知識を授ける方法に就いて、度々提案を求められてゐたのだった。」

抱影について、「自由思想の有害な読物」という見方が一部にあったというのは意外です。抱影もそのことに苦笑していますが、今となっては抱影にとって名誉な事実でしょう。

 「しかし星そのものには、同好の人たちもさうだったらうやうに、私も殆ど全く遠ざかってゐた。むしろ、下界の悲劇をよそにする彼等の冷徹な瞳に反感をさへも覚えるに至ってゐた。時にはまた絶望的に、地球がひとつ首を振ってくれれば万事一ぺんにけり〔2字傍点〕がつくのにと思ひ、それを友人にも言ったりした。愛機 LONG TOM の銘をも烙き消さうとしたり、またその献納を思ひ立って周囲から留められたりしたが、空襲が激しくなってからは、三脚と格納函を庭の樹蔭に出しぱなしにして、自然の運命にまかせておいた。五月闇の中で、梅の実が函に落ちるかたい音を、幾たびか聞いたのを憶ひ出す。」

愛機の望遠鏡すら手放そうとしたぐらいですから、にわかには信じがたいことですが、抱影は一時本当に天文と縁切りを考えていたようです。

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抱影がこれほど捨て鉢な気持ちになったのは、彼の身辺の出来事も影響したのでしょう。


上は同書「はしがき」末尾です。
抱影は、亡妻の面影に似た四女みかを掌中の玉と思い、大切にしていました。みかは美しい娘で、絵の才に恵まれ、多摩美術学校を卒業後、本格的に画業に志しましたが、その明るい未来は病魔によって阻まれてしまいます。以下は石田氏の著書からの引用です。

 「黒のベレー帽をかぶり大版のスケッチ帖を小脇にかかえて大道を闊歩していたこの黄金の「画家の卵」が、やがて胸を病み、東村山のサナトリウムに入院する。〔…〕みかの命日は四月六日である。終戦の年、二十七歳の生涯を終えたその深夜は立川、八王子の大空襲で明け方まで南の地平は赤々と業火がもえていた。みかの死は早朝で、抱影は構内の竹林に入り、大地に伏して号泣した。」(石田五郎、『野尻抱影―聞書“星の文人”伝』p.275)

何だかジブリの「風立ちぬ」を思わせるエピソードで、傍目には一種のロマンを感じなくもないのですが、父・抱影にしてみれば、まさに心の折れる一大痛恨事だったでしょう。このときの抱影は、あと半年で還暦という齢です。

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しかし、抱影の心は、戦時中も完全に星から離れたわけではありません。以下は再び『星の美と神秘』「はしがき」から。

 「天文書の多少珍しいものだけは、故松本泰君が海を渡って来た大トランクに詰めておき、もし無事だったら寄贈することに決め、その旁ら、倖ひに生き残れたらそれだけの著述で晩年は送れさうな、多年蒐集の星の和名を全速力で整理したり、また李・杜・韓・白〔李白、杜甫、韓愈、白楽天〕はじめ唐宋の星に関する詩句を、予て作ってあった索引から、夜昼かけて筆写したりしてゐた。」

このときの抱影の心を満たしていたのは、英米の書物を通じて親しんだ星座ロマンではなく、日本の民間に伝わる星座語彙であったり、中国の古典に描かれた星宿美であったりしましたが、これは別に抱影が戦争によって米英を敵視したからではありません。戦争が終わり、世の中が落ち着きを取り戻してからも、彼は東洋美術に描かれた星の研究に熱中するなど、明らかに「東方回帰」の傾向を見せていたので、これもその一環と思います。

世間一般では、抱影イコール星座ロマンの人でしょうが、抱影自身の意識としては、それは何となく借り物の知識という思いがあったんじゃないでしょうか。余生を意識し、本当にオリジナルな世界を追求しよう、あるいは自身の魂のルーツを探そうと思ったとき、そうした東方回帰には、一種内的な必然性があったのだと思います。

(このあとも抱影にちなんで話を続けます)