空の旅(18)…新しい旅のはじまり2017年05月06日 09時22分28秒

時代が19世紀を迎えるころ、市民社会が訪れた…と、先日書きました。
そして20世紀を迎えるころ、今度は「大衆社会」がやってきたのです。

天文趣味にかこつけて言えば、それは天文趣味の面的広がりと、マスマーケットの成立を意味していました。

18世紀の末に、お手製の望遠鏡で熱心に星を眺めていたイギリスの或るアマチュア天文家は、道行く人々に不審と好奇の念を引き起こしました(後の大天文学者、ウィリアム・ハーシェルのことです)。でも、100年後の世界では、もはやそんなことはありません。望遠鏡で星を見上げることは、すでにありふれた行為となっていました。


19世紀末~20世紀はじめに発行された、望遠鏡モチーフの絵葉書類を一瞥しただけで、望遠鏡と天体観測が「大衆化」した様相を、はっきりと見て取ることができます。
それは大人も子供も、男性も女性も、富める者も貧しい者も楽しめるものとなっていましたし、ときに「おちょくり」の対象となるぐらい、日常に溶け込んでいたのです。

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この頃、並行してアカデミックな天文学の世界では、革命的な進展が続いていました。銀河系の正体をめぐる論争は、最終的に「無数の銀河の存在」を結論付けるに至り、宇宙の大きさは、人々の脳内で急速に拡大しました。また、この宇宙を形作っている時間と空間の不思議な性質が、物理学者によって説かれ、人々を大いに眩惑しました。そして、高名な学者たちが厳かに認めた「火星人」の存在。

まあ、最後のは後に否定されてしまいましたが、そうしたイメージは、見上げる夜空を、昔の星座神話とは異なる新たなロマンで彩ったのです。

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宇宙への憧れの高まり、新たな科学の時代に人々が抱いた万能感、そして実際にそれを裏付ける技術的進歩―。その先にあったのは、宇宙を眺めるだけではなく、自ら宇宙に乗り出そうという大望です。


銀色に光るロケットと、「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーの像。
(この像は既出です。http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/08/27/)。

(像の台座部分拡大)

ツィオルコフスキー自身は、自ら「宇宙時代」を目にすることはありませんでしたが、新しい時代の象徴として、これをぜひ会場に並べたいと思いました。

(ふと気づきましたが、今年はツィオルコフスキー生誕160周年であり、スプートニク打ち上げ60周年なんですね。「宇宙時代」もようやく還暦を迎えたわけです。)

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こうして旅人は、現在、我々が立っているところまでたどり着きました。
長い長い空の旅。

ここで、この連載の第1回で書いたことを、再度そのまま引用します。

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1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

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こうして連載の最後に読み返すと、我ながら感慨深いものがあります。

(画像再掲)

会場のあの展示の前に、10秒以上とどまった方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうが、私の単なる自己満足にとどまらず、あのモノたちの向うに広がる旅の光景は、やはりそれなりに大したものだと思います。


ともあれ、ご来場いただいた方々と、冗長な連載にお付き合いいただいた方々に、改めてお礼を申し上げます。

(この項おわり)

空の旅(16)…海を渡った天文書2017年05月05日 10時00分19秒

さて、時代は19世紀の半ばから後半へと向かいます。
そして、場所はヨーロッパから船に乗り、大西洋を越えたアメリカ。


ニューヨークの公立学校の校長先生である、エイサ・スミスが著した『スミスの図解天文学』(第4版、1849)


改めて述べるまでもなく、そのクールな図版で、今や天文古書の中でも一、二を争う人気者ですから、天文アンティークファンならば先刻ご承知でしょう。

スミス先生の頃のアメリカは、まだジャイアント天文台の建造ラッシュ前で、天文学の面ではヨーロッパに大きく遅れをとっていました。でも、教育に関してはひどく熱心でしたから、こうした天文書の傑作が生まれたものと思います。

思えば、この「天文古玩」との関わりもずいぶん古く、今から11年前、このブログが誕生して、まだ生後10日目ぐらいのときに早々と取り上げているので、相当な古なじみです。

しかし、今日のテーマはスミス先生の本ではなく、これがさらに太平洋を越えて、極東で芽を吹いた…という話題です。


明治4年(1871)、神田孟恪(本名・孝平、1830-1898)が訳した『星学図説』
邦訳は本文2冊、図版1冊の3分冊で刊行され、図版編には特に『星学図彙』という別タイトルが付されました。


これによって、長い長い「空の旅」は、ぐるっと地球を一周したことになります。
 The East meets the West.
 The West meets the East.
宇宙についての学問は、こうしてまさに「ユニバーサル」なものとなったのです。


とはいえ、両者に漂う「情緒」の違いといったら―



両者は確かに同じだけれども、やっぱり違う…と感じます。



これはたぶん天文学という学問の受容の仕方もそうでしょう。
そこで説かれる事実・法則・理論は、もちろん世界共通ですし、当然同じものでなければなりません。でも、そこに漂う情緒や「湿り気」は、必ずしもそうではありません。

その違いは、学問的著作には現れないかもしれませんが、一般向けの本や、児童向けの本になると徐々に染み出してきて、各国の「天文趣味」にローカルな色彩を与えているように感じます。

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ところで、スミスの本について、今回の「博物蒐集家の応接間」で新たに知ったことがあるので、オマケに書き添えておきます。

(ちょっと記事が長くなったので、ここで記事を割ります)

空の旅(15)…日食地図2017年05月04日 10時23分20秒

今回の「空の旅」はレプリカも多くて、ちょっと展示に弱さがありました。
それを補う、何かアクセントになるものを入れたいと思って、19世紀初めに出た美しい「日食地図」をラインナップに加えました。

(販売時の商品写真を流用)

■Cassian  Hallaschka(著)
 『Elementa eclipsium, quas patitur tellus, luna eam inter et solem versante
  ab anno 1816 usque ad annum 1860』
 (地球と月、そしてそれらが巡る太陽との間で生じる1816年から1860年までの
 日食概説)


「1816年にプラハで出版された日食地図。1818年から1860年にかけて予測される日食の、食分(欠け具合)と観測可能地点を図示したもの。日食の予報は、天文学の歴史の中でも、最も古く、最も重要なテーマのひとつでした。」


オリジナルは107ページから成る書籍ですが、手元にあるのは、その図版のみ(全22枚ののうちの11枚)を、後からこしらえたポートフォリオ(帙)に収めたものです。
その表に貼られているのは、オリジナルから取ったタイトルページで、図版はすべて美しい手彩色が施されています(各図版のサイズは、約25.5cm×19.5cm)。

(タイトルページに描かれた天文機器)

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ここでネット情報を切り貼りして、補足しておきます。

著者のフランツ・イグナーツ・カシアン・ハラシュカ(Franz Ignatz Cassian Hallaschka、1780-1847)は、チェコ(モラヴィア)の物理学者。
ウィーンで学位を取り、母国のプラハ大学で、物理学教授を長く勤めました。今回登場した『日食概説』も、同大学在職中の仕事になります。

上記のように、日食の予報は洋の東西を問わず、天文学者に古くから求められてきたもので、その精度向上に、歴代の学者たちは大層苦心してきました。

そうした中、ハラシュカが生きた時代は、ドイツのヴィルヘルム・ベッセル(1784-1846)や、カール・ガウス(1777-1855)のような天才が光を放ち、天文計算に大きな画期が訪れた時代です。ハラシュカの代表作『日食概説』も、日食計算の新時代を告げるもので、そうした意味でも、「空の旅」に展示する意味は大いにあったのです。


さらに、この地図の売り手が強調していたのは、当時まだ未踏の北極地方の表現が、地図史の上からも興味深いということで、確かにそう言われてみれば、この極地方のブランクは、科学の進歩における領域間の非対称性を、まざまざと感じさせます。(北極以外も、このハラシュカの地図には、16世紀の地図のような古拙さがあります。)


遠くの天体の位置計算がいかに進歩しようと、足元の大地はやはり生身の人間が目と足で確認するほかないのだ…などと、無理やり教訓チックな方向に話を持って行く必要もないですが、当時はまだ広かった世界のことを思い起こし、そこから逆に今の世界を振り返ると、いろいろな感慨が湧いてきます。


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▼閑語(ブログ内ブログ)

ハラシュカの地図じゃありませんが、生活者たる身として、遠い世界と同時に身近な世界のことも当然気になります。

安倍氏とその周辺は、公然と改憲を叫び、共謀罪の成立を目指しています。
その言い分はすこぶるウロンですが、それを語る目元・口元がまたウロンです。

何せ、スモモの下では進んで冠を正し、瓜の畑を見ればずかずかと足を踏み入れ、そして袂や懐を見れば、何やらこんもり重そうに膨れている…そんな手合いですから、その言うことを信じろと言う方が無理です。

彼らは冠よりもまずもって身を正すべきです。
議論は全てそれからだと私は思います。

空の旅(14)…オペラグラス2017年05月03日 11時41分52秒

世はゴールデンウィーク。

『博物蒐集家の応接間 ~旅の絵日記~』が神保町で行われてから、すでにひと月以上経ちました。でも、ブログ内の時空は、依然としてあの場に固着しています。「旅」の軽やかさとは程遠い鈍重さですが、地球全体を巡る2千年以上に及ぶ旅の日記であってみれば、歩みが遅いのも止むを得ません。(どうか、そういうことにしておいてください。)

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さて、今日のテーマは「オペラグラス」。
例によって、展示当日のプレートの文面を引いておきます。

「19世紀のオペラグラス」
「イギリスのドロンド社製の双眼鏡(19世紀前半)。観劇用に用いられたので、「オペラグラス」の名がありますが、手軽な星見の道具としても重宝されました。時代は下りますが、天文趣味を広めたギャレット・サーヴィスには、『オペラグラスによる天文学(Astronomy with an Opera-Glass)』(1910)という愛らしい本があります。」


当日は、サーヴィスの本も会場に並べて、オペラグラスと天文趣味の結びつきを視覚化しました。


オペラグラスについては贅言無用と思います。
天界散歩の友としては、スパイグラスよりも一層スマートで、観劇帰り、手にしたバッグからひょいと取り出して、今度は星たちのドラマを眺める…なんていう洒落た紳士や淑女もいたことでしょう。

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ところで、サーヴィスの本の中身ですが、こちらは現代の観測ガイドとほとんど変わりません。

(サーヴィスの本の目次)

章立ては季節ごとになっていて、そのときどきの空の見所を図入りで紹介しています。


春は北斗の季節。
今だと、ちょうど夜の9時ごろに高々と空にのぼった姿が眺められます。

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同時にこの前後、大空から天の川の姿がいっとき消えます(条件の良いところならば、地平線に沿って天の川がぐるりと一周しているのが見えるはずですが、それは望みがたいでしょう)。このとき、日本の地平面は、ちょうど銀河面と同一になり、我々はまさに銀河の只中に身を置いて、天頂高く銀河北極を眺める格好になります。そして、そこからは何十億光年も彼方の光が、微かに、しかし確実に我々の元まで降り注いでいるのです。

…ありふれた日常の中でも、そんな壮大なイメージで、世界そのものを感じ取れるのが、天文趣味の妙味。

空の旅(13)…スパイグラス2017年05月02日 09時15分54秒

天文趣味というのは、抽象的に宇宙に憧れるばかりでなしに、多くの場合、自分自身の目で、宇宙の深淵を覗き込みたいという方向に、(たぶん)自ずと向かうものです。

…というか、私がイメージする天文趣味は「天体観測趣味」とニアイコールで、そうした「趣味の天体観測」という行為が成立したのが、たぶん1800年前後だろうと踏んでいます。(最初期の天体観測ガイドブックの登場が、19世紀の第1四半期であることが、その主たる根拠です。)

19世紀の100年間、時を追うごとに、天文趣味はポピュラーなものとなっていきました。そして、当時、本格的な天体望遠鏡に手の届かない人たちが頼ったのが、多段伸縮式のスパイグラス(遠眼鏡)や、手近なオペラグラスでした。(19世紀前半には、天体望遠鏡の量産体制自体なかったので、財力の多寡を問わず、そうせざるを得ない面もありました。)

それらは、天体観測用途のスペックこそ満たしていませんでしたが、月のクレーターや、木星の4大衛星の存在なんかは教えてくれたでしょうし、何よりも肉眼では見えない微かな星を見せてくれることで、人々の「星ごころ」を強く刺激したことでしょう。

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その辺のことを表現したくて、今回の展示では、スパイグラスとオペラグラスを並べました。


木製鏡筒の古い遠眼鏡。

「1800年頃にイギリスで作られた小型望遠鏡。「昼夜兼用(Day or Night)」をうたっていますが、あまり天体観測の役には立たなかったろうと思います。それでも、こうした小さな望遠鏡を空に向けて、熱心に「宇宙の秘密」を覗き込もうとした人も大勢いたことでしょう。」


真鍮の筒をぐっと伸ばして、空をふり仰げば


この小さなレンズを通して、広大な宇宙の神秘が、かすかにその尻尾をひらめかせた…かもしれません。少なくとも、この筒を手にした人は、そう信じたことでしょう。

(この項つづく。次回はオペラグラス)

空の旅(12)…18世紀の天文ゲーム2017年05月01日 22時34分25秒

昨日につづき、今日もアーミラリー・スフィアの姿が見えます。


これが何かというのは、その脇のカードに書かれている通りです。

「1796年、ロンドンで出たカードゲーム、『The Elements of Astronomy & Geography』 。ゲーム形式で天文学と地理学の基礎を学べる品です。時代が19世紀を迎える頃、市民社会の訪れとともに、天文学への関心が急速に高まりを見せました。」

『パリス神父作、精刻美彩の40枚の手札を用いた天文学・地理学入門』

フランス革命後の新しい世界。
それは教育による立身が可能な世界であり、「教育は財産」という観念が普及した時代です。ただし、国民皆教育制度が成立するのは、欧米でも19世紀後半ですから、それまでは家庭教育のウェイトが大きく、そのため教育玩具の需要が高まった時代でもあります。

天文学や地理学は、その恰好のテーマであり、この品もその1つです。


各カードは、表面が図版、その裏が解説になっています。
内容はご覧の通り、かなりお堅い感じで、主に球面幾何学に関する解説が延々と続きます。

果たして、これでどんなゲームを楽しんだのか、ルール解説がないので、ちょっと想像しにくいのですが、お父さんが食後のテーブルで、こういうものを使って親しく語りかけてくれるだけでも、子どもたちにとっては、嬉しく楽しい経験だったかもしれません。




この手の品は、イギリスのみならず、国を越えていろいろ出ています。
上の左側のカードは、昨年夏に池袋のナチュラルヒストリエで開催された「博物蒐集家の応接間――避暑地の休暇 旅の始まり」で展示した、1803年にフランスで出た天文カードゲーム。

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現代に通じる、「ホビーとしての天文趣味」が成立したのは、ちょうど世紀をまたぐ1800年前後のこと…という仮説を私は持っています。

それを生み出した最大の要因は、上に述べたように、フランス革命後の市民社会の到来ですが、フランス革命が天文趣味を生んだ…とまで言うと、ちょっと言い過ぎで、革命前の啓蒙主義の時代から、「アマチュアの科学愛好家」はいましたし、天文趣味もその延長線上にあるのでしょう。

より正確を期して言えば、つまりこういうことです。
啓蒙主義の延長線上に、市民革命があり、教育制度の普及があり、そして天文趣味の誕生もあった―と。

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19世紀以降の天文アイテムは、ことごとく天文趣味の歴史と不即不離の関係にありますが、中でもこの種のゲーム類こそ、その普及の様相を明瞭に物語るものですし、その存在は、通常の「天文学史」の埒外にあって、まさに「天文趣味史」としてしか記述しえないものですから、このブログで取り上げる価値は十分にあります。

天文モチーフのゲーム類については、遠からず、ぜひ独立した話題として取り上げたいと思います。


空の旅(11)…コペルニカン・アーミラリー2017年04月30日 11時43分12秒

下は以前の記事に使った写真の使い回しです。


似たような写真は、これまで何回も登場していて、たいていは人体模型が話題の主でしたが、今日の主役は、その脇にチラッと写っているもの。


1786年に、フランスのデラマルシュ(Charles François Delamarche、1740-1811)が製作したアーミラリー・スフィアのレプリカ。

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「アーミラリー・スフィア」と称する品は、今でも売られていて、きっとアメリカのホームセンターに行くと、たくさん並んでいることでしょう。

(eBayで売られているアーミラリーの例)

それらは、単なるインテリアやエクステリアの飾り物と化して、もはや実用性を失っていますが、本来のアーミラリー・スフィアは、天体の位置変化を視覚化する一種の小型プラネタリムであり、星の位置を知るアナログ計算機として、また人が中から覗けるぐらい大型のものは、天球上での星の位置を見定める観測器具として、古代から使われてきました。


伝統的なアーミラリー・スフィアは、地球を中心に天球の回転を表現していますが、この品では太陽を中心に置き、その周辺を惑星が回転する様を表現しています。

この種のものを、地動説を唱えたコペルニクスにちなみ、「コペルニカン・アーミラリー」と呼びます。(同様に、伝統的なアーミラリーは、プトレマイオスにちなんで、「プトレミック・アーミラリー」と呼んでもいいのですが、あまりそういう言い方はしないようです。)

(太陽の周囲を回る水星、金星、地球、さらに地球の周りを月が回転している様を表現しています)

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「空の旅」も徐々に時代が下って、今日は18世紀のパリ。


バロック科学の精華と風格を感じさせるこの品、レプリカとしてはなかなかよく出来ていて、オリジナルの雰囲気を十分醸し出しています。

フランス南部の町にある工房で作られたもので、工房の主は「これは有名な映画の小道具にも使われたんだぞ」と自慢していました。

その映画とは、2007年に公開された『パフューム』で、私は観てないんですが、18世紀のパリを舞台に、異常な嗅覚を持った調香師を主人公とする、猟奇と耽美の世界を描いた暗いムードの映画だそうです。

で、その主人公が勤める店内の、薬品や香料がずらりと並ぶ一角に、何となく妖しのムードを漂わせるアーミラリーが置かれていて、それと同じものが我が家にもあるというわけです。


昔のパリの調香師の店に、本当にアーミラリーが置かれていたかどうかは分かりません。映画の世界だけのことかもしれませんし、実際に置かれていたとしても、単にムード作りの小道具なのかもしれません。

そうなると、この宇宙の真理を教えてくれる、優れて学理的な品も、アメリカの郊外住宅の庭先に置かれたデコレーションと、その性格において、あまり違いがないことになります。でも、それを言い出したら、私の部屋に置かれているそれだって、ムード作りの小道具の域を出るものではありません。

まあ、所有者の理解の程度はさておき、人間が昔から宇宙に憧れ、宇宙的なイメージを漂わせるものを手元に置いて、常に愛でたいと思ってきたことは、間違いのない真実でしょう。

空の旅(10)…四分儀2017年04月29日 13時57分04秒

世間を見回し、何となく末法世界が到来したような気分です。
詮ずる所、人間とは愚かな存在なのかもしれません。
でも、愚かなばかりでなしに、なかなか大したところもあるのが不思議なところで、つまりは、いろいろ矛盾を抱えた存在なのでしょう。

そんな人間の不思議さを思いつつ、「空の旅」を続けます。

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星を見上げる行為が、精密科学へと飛躍する過程には、数々の観測機器の発明がありました。その最初は、太陽による影の長さと位置を測るための、地面に立てた1本の棒で、おそらくそれに次いで古いのが四分儀


四分儀にもいろいろなタイプがありますが、上は時刻を知るための「測時四分儀(Horary Quadrant)」の一種である、「ガンター式四分儀(Gunter’s Quadrant)」のレプリカ。元はイギリスの数学者・天文学者、Edmund Gunter(1581-1626)が考案したものです。

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そもそも四分儀とは何か。
分度器と糸とおもりがあれば、対象の高度を測ることは簡単です(さらにストローがあればなお便利)。


天体の場合は0度から90度まで測れれば十分なので、ハーフサイズの分度器、すなわち全円の四分の一の扇形を使えばいいことになり、これが「四分儀」の名の由来です。


手元の四分儀も、上の図のストローに相当する、2つの覗き穴が扇の一辺の両端に備わっています。さらに、扇の頂点には覗き穴のすぐ下に、もう1個の小穴が穿たれていて、ここに糸を通して、その先におもりをぶら下げたことが分かります。

太陽暦では、特定の日時の太陽の高度(地平線からの角度)は、一意的に決まります。裏を返せば、日にちと太陽の高度が分かれば、その瞬間の時刻が分かる理屈です。

ガンター式四分儀を使えば、さらに時刻以外にも、いろいろなことが分かるのですが、その前に、四分儀を使って時刻を知る方法について、もうちょっと見ておきます。

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下は一般的な測時日時計の図。


最外周から順に、角度目盛り、カレンダー目盛り、時刻目盛りになっています。
時刻目盛りは、さらに複数のパートから成り、外側の弧には正午~午後8時、内側の弧には午前6時~正午の時刻が刻まれ、2つの弧を結ぶようにたくさん並ぶ曲線は、同一時刻における太陽高度の周年変化(夏至~冬至)を示す時刻線です。

また、おもりをぶら下げた糸の途中に、小さなビーズ玉が見えます。
四分儀を使うときは、事前にカレンダー目盛りの位置に糸を持ってきて、糸が時刻線と交わる位置にビーズ玉をセットしておきます。

あとは太陽の高度を調べ、その時のビーズ玉の位置から時刻を読みとればOK。

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ガンター式四分儀にも、当然、上の図と同様の目盛りが刻まれていますが、それ以外にも付加的な目盛りがいろいろあって、中には黄道十二宮の記号も見えます。

下にリンクしたのは、ガンター式四分儀をシミュレートするアプリを作った人の解説ページです。使い方が今ひとつ分からないのですが、結論だけ言うと、これら複雑な目盛り群は、太陽の詳細な位置データ、すなわち高度、方位、赤経、黄経、日の出・日の入の時刻などを知るためのもので、ガンター式四分儀とは、いわば太陽に特化した一種の簡易アストロラーベというわけです。

Gunter's Quadrant Applet

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さらに裏面を見ると…


中央に何やら回転盤が見えます。


目を凝らすと、円盤には星図が彫り込まれていて、回転の中心はこぐまの尻尾の先になっています。


円盤の外周に刻まれたカレンダー目盛りと、その外側に固定された時刻目盛りを使えば、星座の位置関係から、夜間でも時刻が分かる仕組みで、これは日時計に対して「星時計」と呼ばれるものです。

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手元のは単なるレプリカですし、造りもちょっと雑ですが、こういうのは実際にあれこれ操作して初めて分かることも多いので、これはこれで良しとせねばなりません。

ともあれ、この小さな器具一つからも、天文学の歩みを如実に感じ取ることができます。

空の旅(8)…モンゴルの暦書2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

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ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

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モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

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モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

空の旅(7)…インドの占星スクロール2017年04月22日 13時40分35秒

イスラム世界から、さらに東方に向い、今日はインドです。


このおそらくサンスクリット語で書かれた紙片は何かといえば、

「1844年、インドで書かれた星占いのスクロール(巻物)。個人の依頼に基づいて、占星師が作成したもの。」

という説明文が傍らに見えます。
幅は約15cm、広げると長さは2メートル近くになる長い巻物です(売ってくれたのはムンバイの業者)。


1844年といえば、インドがイギリスの植民地となって久しいですが、まだイギリスの保護国という形で、イスラム系のムガル帝国が辛うじて余命を保っていました。また、北方ではシク教徒のシク王国も頑張っており、そんな古い世界の余香を漂わせる品です。

そして、古いと言えば、インドにおける占星術の歴史そのものが、まことに古いです。
解説プレートは、上の一文に続けて、

 「古代ギリシャやオリエント世界の影響を強く受けて成立したインド占星術は、西洋占星術と共通の要素を持ちながらも独自の発展を遂げ、その一部は仏典とともに日本にも移入され、平安貴族に受け入れられました。」

…と書いていますが、この話題は「宿曜経(すくようきょう、しゅくようきょう)」について取り上げたときに、やや詳しく書きました。

「宿曜経」の話(3)…プトレマイオスがやってきた!

下は、上記の記事中で引用させていただいた、矢野道雄氏の『密教占星術―宿曜道とインド占星術』(東京美術、昭和61)から採った図です。


エジプト、ギリシア、バビロニアの古代文明が融合した「ヘレニズム文化」、それを受け継ぐササン朝や、イスラム世界の文化が、複数次にわたってインドに及び、もちろんインド自体も古代文明発祥の地ですから、独自の古い文化を持ち、その上にインド占星術は開花したことが、この図には描かれています。

   ★

インドにおける占星術の興隆こそ、「空の旅」そのものです。

西暦紀元1世紀、地中海の商人は、紅海経由でインド洋に出ると、あとは貿易風に乗ってインドの西岸まで楽々と到達できることを学び、ここに地中海世界とインドを結ぶ海洋航路の発達を見ました。

以下、矢野道雄氏の『星占いの文化交流史』(勁草書房、2004)から引用させていただきます。

 「当時の海上交通の様子は無名の水先案内人が残した『エリュトゥラー海案内記』にいきいきと描かれている。西インドの重要な港のひとつとして「バリュガザ」(現在のバローチ)があり、その後背地として「オゼーネー」がにぎわっていた。後者はサンスクリット語ではウッジャイニー(現在はウッジャイン)とよばれ、アヴァンティ地方の都であった。のちに発達したインドの数理天文学では標準子午線はこの町を通るとみなす。つまり「インドにおけるグリニッジ」の役割を果たすことになる。」 (矢野上掲書p.64-5)

(画像を調整して再掲。ペルシャ湾をゆく船。14世紀のカタラン・アトラスより)

 「地中海とインド洋の交易がインドにもたらした文物の中にギリシアの天文学と占星術があった。インドでは古くから占いが盛んであり、星占いもそのひとつではあったが、数理的性格には乏しかった。古い星占いの中心は月であり、月が宿る二七または二八の星宿〔(原文ルビ)ナクシャトラ〕と月との位置関係によって占うだけであり、惑星についてはほとんど関心が向けられていなかった。

ところが新たに西方から伝えられたホロスコープ占星術は、誕生時の惑星の位置によって運命を占うという斬新なものであった。惑星の位置を計算するためには数理天文学の知識が必要であった。こうして占星術と共に数理天文学もヘレニズム世界からインドへと伝えられたのである。」 
(同p.65。途中改行は引用者)

(上下反対に撮ってしまいましたが、光の当たり方が不自然になるので、そのまま掲載します。下の写真も同じ。)

この円を組み合わせた曼荼羅のような模様。
ホロスコープとしては、見慣れないデザインですが、外周部(文字を書き込んだ部分)は12の区画から成っており、この区画が「十二宮」や「十二位」を意味し、そこに天体の位置が記してあるのでしょう。

同じデザインの図が、上から2番目の写真に写っていますが、よく見ると、文字(天体名)の配置が異なっており、両者が別々の日時のホロスコープであることを示しています。


これも、12枚の蓮弁模様から成り、ホロスコープの一種であることを示唆しています。

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この古ぼけた紙切れにも、天文学の知識がたどってきた旅の記憶がつまっており、想像力をたくましくすれば、19世紀インドの庶民の暮らしぶりから、さらに2000年さかのぼって、遠い昔の船乗りの威勢の良い掛け声や、波しぶきの音、そして占星師の厳かな託宣の声が聞こえてくるようです。