思いは極地へ ― 2011年08月12日 20時20分01秒
夕べは帰路、地下鉄の階段を上がる途中から、太鼓の音が聞こえてきて、「ああ、今夜は盆踊りだったな…」と気付きました。
会場は例年に変わらず、なかなかの賑わいでしたが、今年は特に「魂祭りの踊り」という原義がしみじみと思い出されました。
会場は例年に変わらず、なかなかの賑わいでしたが、今年は特に「魂祭りの踊り」という原義がしみじみと思い出されました。
★
特定の本の、特定の一節が気に入って、そこだけ繰り返し読むことを私はよくします。夏になると決まって開くのが、アン・ファディマンという人の読書エッセイ、『本の愉しみ、書棚の悩み』(相原真理子訳、草思社、2004)の、「趣味の棚」という文章です。
ファディマンさん曰く、「だれの書庫にも、趣味の棚ともいうべきものがあるはずだとかねがね思っている」。なるほど、然り。そして、「わたしの趣味の棚には、極地探検に関する六十四冊の本がならんでいる」。ほほう。
著者は、酷寒の地への思いを、熱く縷々と綴ります。
白一色の世界。寒々しく地味なミニマリズムの光景。
なぜという理由はない。とにかく「記憶にある限り夏より冬、『シンデレラ』よりも『雪の女王』、ギリシャ神話より北欧神話のほうが好きだった」のだと、著者は言い放ちます。
極地への思いとともに、ファディマンさんが愛するのは、「高潔な失敗」にたおれたイギリス人探検家の生き様です。ロス、フランクリン、ネアズ、シャクルトン、そしてアムンゼンとの競争に敗れた、かのスコット大佐。徹底的に紳士で、まじめで、不器用で、同時に楽天的だったヴィクトリア朝の男たち。
「わたしは、捜索隊が見つけたスコットのそりの積荷のことを読むたびに、さらに胸がつまる。それはグロッソプテリス(絶滅したソテツ状シダ)の葉と茎の化石が入った古生代後期の石で、重さは全部で十六キロあった。スコットは身軽に旅をするために、食料をぎりぎりまで切りつめたのに、これらの石は捨てなかった。もし捨てていたら、彼と隊員たちは最後の十二マイルを歩ききることができたかもしれない。」
「自分の趣味の棚のなかで、いちばん愛着のあるものは何かときかれたら、それらの地質学標本について書かれた部分と答えるだろう。〔…〕何かに殉じるなら、自分の命を何にささげるのかを慎重にきめなければいけないという教訓を、わたしはこれらの本から得た。人は祖国や信仰、民族などのために命を投げだすのがふつうだ。それを考えると、十六キロ分の石とそれが象徴する失われた世界のために死ぬのも、そう悪くはないと思えるのだ。」
極地は白く、冷たく、何もない。
何もないゆえにドラマが生まれ、はげしく心惹かれる人が絶えないのでしょう。
しかし、あくまでもそれは少数派です。
多くの人にとって、極地はやっぱり白く、冷たく、何もないところであり、それ以上のものではありません。
「わたしの趣味は孤独なものだ。カクテルパーティーで話題にするわけにはいかない。ときどき、人生の大半をついやして、もはやだれも話すことのできない死語を学んできたような気がする。」
「天文古玩」という死物を相手にする身として、こんな一節にも深い共感を覚えるのでした。
『ケプラーの憂鬱』 の憂鬱 ― 2011年07月10日 19時29分19秒

(↑原著ペーパーバック。アマゾンで見ると、最新のエディションはもっと大人しいデザインになりましたが、以前はこんなオドロオドロシイ表紙だったらしい。果してブックデザイナーは、本の内容を理解していたのか?)
そういえば、『ケプラーの憂鬱』の全体構成には、作者のジョン・バンヴィルが、ある秘密を仕掛けていて、「それはまた次回」と書いたのを忘れていました。
その秘密は、高橋和久氏の「訳者あとがき」で知ったのですが、バンヴィル自身があるインタビューで、次のように種明かしをしているそうです。
「私の最新作『ケプラーの憂鬱』は五部から成っていて、各部の節の数は〔…中略…〕五つの正多面体の数に呼応しており、各部内の節の長さはそれぞれ等しくなっています。また…各部の時間はその部の中ごろのある一点から、もしくはその一点へ向かって、前進したり逆行したりして、一種の時間の軌道を形成します。しかしどの部もきちんとは出発点に戻ってきません。なぜなら、ケプラーが発見したように、惑星は円ではなく楕円を描いて運行しているからです。こんなことを試みるのは狂気じみて見えるかもしれません。無害ではあるが、ばかばかしいと。私としても、その試みを完全に正当化することはできません、合理的には。ただ私には、芸術にとって大切なのはこれ、つまり形式だと思われるのです。」
どういうことかと言うと、ケプラーの多面体宇宙モデルは、惑星軌道に接するように、外側から6面体、4面体、12面体、20面体、8面体がはめ込まれているのですが、『ケプラーの憂鬱』 はこれに対応して、第1部「宇宙の神秘」は全6節、第2部「新天文学」は全4節、第3部「屈折光学」は全12節…という具合に構成されていて、しかも各部における時間経過は単純に過去から未来に流れるのではなく、行きつ戻りつしながら、円環的にストーリーが進むという、非常に複雑な構造になっているのです。
「私の最新作『ケプラーの憂鬱』は五部から成っていて、各部の節の数は〔…中略…〕五つの正多面体の数に呼応しており、各部内の節の長さはそれぞれ等しくなっています。また…各部の時間はその部の中ごろのある一点から、もしくはその一点へ向かって、前進したり逆行したりして、一種の時間の軌道を形成します。しかしどの部もきちんとは出発点に戻ってきません。なぜなら、ケプラーが発見したように、惑星は円ではなく楕円を描いて運行しているからです。こんなことを試みるのは狂気じみて見えるかもしれません。無害ではあるが、ばかばかしいと。私としても、その試みを完全に正当化することはできません、合理的には。ただ私には、芸術にとって大切なのはこれ、つまり形式だと思われるのです。」
どういうことかと言うと、ケプラーの多面体宇宙モデルは、惑星軌道に接するように、外側から6面体、4面体、12面体、20面体、8面体がはめ込まれているのですが、『ケプラーの憂鬱』 はこれに対応して、第1部「宇宙の神秘」は全6節、第2部「新天文学」は全4節、第3部「屈折光学」は全12節…という具合に構成されていて、しかも各部における時間経過は単純に過去から未来に流れるのではなく、行きつ戻りつしながら、円環的にストーリーが進むという、非常に複雑な構造になっているのです。
これはバンヴィルの形式至上主義のなせる業であり、また、各章節の長さに正多面体の面数を反映させるというのは、ケプラー自身がその著 『世界の調和』 で試みたプランなので、『ケプラーの憂鬱』 は、この点でバンヴィルがケプラーに捧げたリスペクト作品になっているというわけです。
しかし、正直なところ「何でそんなご苦労なことを…」と思わなくもありません。こうして書いているだけで、なんだか暑さが増す感じです。それに、時間進行が行ったり来たりというのも、素朴な読者にとっては、はなはだ読みにくい。
こういう緻密な作品は、秋から冬にかけて、精神が内向きになっているときに読むといいのではないかと思いました。(ちょうどストーリーも、冬のシーンで始まり、冬のシーンで終ります。)
『ケプラーの憂鬱』 ― 2011年07月06日 19時38分33秒
腰痛が再発したため、今日は一日安静にしていました。
おかげで、何をするでもなく、ゴロゴロ本を読むだけという「結構なご身分」を満喫したのですが、今日手に取った本は、以前古本屋で買ってそのままになっていた、『ケプラーの憂鬱』 (ジョン・バンヴィル著、高橋和久・小熊玲子訳、工作舎、1991)。原著は1981年に出て、当時かなり評判になった本だそうです。
家庭的不和、宗教的軋轢、宇宙の秘密を解き明かしたいという灼け付くような欲望、師匠であるティコ・ブラーエとの葛藤―。人間ケプラーを生々しく描いた伝記小説…ということのようですが、まだ途中読みなので、きちんとした内容紹介は不能。
小説の中では、ケプラーがすぐに体調を崩す虚弱な男として描かれていて、腰痛持ちの身としては、それだけで容易に感情移入してしまいます。
ともあれ、しばらくは通勤電車の中で退屈せずに済みそうです。
おかげで、何をするでもなく、ゴロゴロ本を読むだけという「結構なご身分」を満喫したのですが、今日手に取った本は、以前古本屋で買ってそのままになっていた、『ケプラーの憂鬱』 (ジョン・バンヴィル著、高橋和久・小熊玲子訳、工作舎、1991)。原著は1981年に出て、当時かなり評判になった本だそうです。
家庭的不和、宗教的軋轢、宇宙の秘密を解き明かしたいという灼け付くような欲望、師匠であるティコ・ブラーエとの葛藤―。人間ケプラーを生々しく描いた伝記小説…ということのようですが、まだ途中読みなので、きちんとした内容紹介は不能。
小説の中では、ケプラーがすぐに体調を崩す虚弱な男として描かれていて、腰痛持ちの身としては、それだけで容易に感情移入してしまいます。
ともあれ、しばらくは通勤電車の中で退屈せずに済みそうです。
『みづいろ』 の世界 ― 2010年10月12日 21時12分19秒
遠く遥かな世界へ…小林健二氏の「国立科学博物館」を読む ― 2010年10月11日 23時21分11秒
(昨日の続き)
この詩が詠っているのは、前述のとおり、1967年7月のある日の思い出です。
この日、2人の小学生が都電に乗って、上野を目指すところから詩は始まります。
家から歩いて一分。『泉岳寺前』の停留所から乗る都電は一号線。
約一時間で目の前には素敵なドリームランド…
当時の東京は、オリンピック前後の都市改造が続いていて、実際にはかなりガチャガチャした雰囲気だったと思いますが、しかし小林氏の記憶の中の東京は、あくまでも透明で、遠い寂寥感を漂わせています。
≪〔…〕でもさっ、この電車路ぞいの黒い塀の大きな家やレンガの家って、むかしの町の感じだよねー。何かをいろいろ思い出すようで、ぼくはこんな風景がとっても好きなんだ…。≫
その頃の二人はいつだって、過去の街を見ているような奇妙な郷愁感におそわれていた。繁華なところや寂れたガードをくぐったり、幾種類かの並木通りや映画の町、古本の町、それらを過ぎると二人の言う「博物館の町」だった。
都電は郷愁の風景の中をゆっくりと走り、それが子どもたちの「日常」をすっかり洗い去った後に、素敵なドリームランド、「博物館の町」は現われます。
その古めかしくて重厚な外観が見えてくると、うれしくて思わず小走りになってしまう。入口の巨大な鯨の骨をまずはじっくり眺めたあと、恐竜の部屋から探検ははじまる。二人も恐竜たちもいつもニコニコ笑っていた。別館の大きな展示室には旧式の大きなケース一面に、鉱石や貴石を整列させていた。その部屋だけでも一日居ても見飽きない位たくさんの物があったのだ。そして、早朝からの空腹のおなかには、地下の食堂でとる食事がなんと楽しかったことだろう。注文はいつも決まっている。Bランチとサイダーだ。これも食べたいからお小使いを貯めたのだ。
先日も書いたように、恐竜の全身骨格標本が日本で初めて科博に登場したのは、1964年のことです。67年当時も、その強烈なオーラは依然圧倒的な力を持っていたことでしょう。
石への鋭い感受性は、ちょっと小学生離れしていますが、これは鉱物をテーマにした作品も多い、氏ならではのものと感じます。
博物館の地下食堂で食べるランチ、これも懐かしい。まあ、ふつうは家族との思い出のシーンでしょうが、友人と二人でというのが、いささか変わっています。
〔…〕二階三階へと探検はつづいた。目も眩むような色々の蝶、奇妙な軟体動物の透きとおった模型に食い入る。足早に悲しい剥製の部屋は通り過ぎる。
≪ねぇ この人たちいつまでもみんな死んでいるよ…。≫
ランチでお腹を満たした二人の心に、ひたひたと押し寄せたのが「死」の観念です。博物館の匂いとは、畢竟「死の匂い」なのでした(しかし、これは今の博物館から払拭されつつあるかもしれません。この点はよくよく考える必要があると思います)。
そしてその先には、旅の終着点である永劫の宇宙が待っています。
仕上げは何と言っても最上階のプラネタリウム。ぼくはあっちこっちと動いて見るし、きみはいつもぼくの後にぴったりだから、きっと疲れるのだろう。投影機が秋の星座を映す頃には、いつも寝息をたてている。やがてきみを起こす頃、≪ねぇ、ねぇ、もうすぐ終わりだよ…。≫ 囁く耳もとで軽くわずかに唇が触れる。こんな暗がりでのかわいいキスは、時々何か胸騒ぎのような気持ちを運んできた。夕暮れの街をゆく路面電車は、これから待ち受けるたくさんの日々を思い、少しでもここにいつづけようと追い駆けて行く。
一九六七年七月のいつのまにか晴れ渡った宵の残光は、二人の街にぼくらを置き去りにして、遠くの銀河へと旅をつづける。
『ぼくもいっしょに連れていって…』、二人は、心の隅で叫んでいる知らない人をかき消すように、
≪バイバイ、おやすみ。マタ アシタ!≫。
二人は別々の家に消えてゆく…
暗転
夜空
一面の星
★
過去の町を通り抜けた向こうに、太古の恐竜が棲んでいる…。二人の少年の経験は、一面、時間をさかのぼる旅でもあります。電車に乗り、時空の旅を続ける二人の少年。旅路の果てには一面の星。そう、これは小林氏が体験した、もう一つの「銀河鉄道の夜」です。
過去の町を通り抜けた向こうに、太古の恐竜が棲んでいる…。二人の少年の経験は、一面、時間をさかのぼる旅でもあります。電車に乗り、時空の旅を続ける二人の少年。旅路の果てには一面の星。そう、これは小林氏が体験した、もう一つの「銀河鉄道の夜」です。
そして、「銀河鉄道の夜」と同じく、小林氏の友人にして可憐な「恋人」も、程なく亡くなってしまいます。氏はこの哀切な体験を折に触れて語っておられますが、氏の創作の一端は、まさに「あの日」に還る試みでもあるのでしょう。
“そういえば、あの日、二人は過去をさかのぼる旅をしていた。だから、先回りしてどこか過去の扉の陰で待っていれば、二人がひょいと扉を開けて入ってくるのに出会えるかもしれない…”。小林氏は、そんな思いをお持ちなのかもしれません。
★
この「国立科学博物館」という詩は、なかなか複雑な構造を持っています。
これが「銀河鉄道の夜」とパラレルな作品だというのは、今日この文章を書きながら初めて気が付きました。もちろん、あまりそこに引き付けて過剰解釈してはいけないと思いますが、でも、そういうふうに考えると、この詩にこめられた小林氏の思いがよく分かるような気がするのです。
そしてこの場合、科博の建物が、汽車ならぬ飛行機の形をしているというのが、何だかただならぬ効果を発揮しているようにも思います。
国立科学博物館は、すべての<生と死><夢と魂>を乗せて飛ぶ、一機の巨大な飛行機なのだ…と考えてみるのも、悪くないように思います。
青く透明な <国立科学博物館> ― 2010年10月10日 22時23分14秒
3連休も何だかバタバタしているうちに終わりそうです。
澄んだ秋空に、高く高く雲が浮んでいるというのに。
俗塵にまみれて過ごすのが勿体ないとは思うのですが、なかなか思うに任せません。
★
上野の科博といえば思い出すのが、小林健二氏の詩集 『みづいろ』。
ここには、ずばり「国立科学博物館」と題された詩が収められています。
■小林健二(著/装丁) 『みづいろ』、銀河通信社、平成17年
(http://www.aoiginga.com/book05.html)
遠い夏の日に友人とふたりで訪ねた「博物館の町」。
1967年、確かにあの場所に存在しはずの、でもどこか幻じみた科博の姿。
幼い友人に抱いた、淡い、恋とも言えぬほのかな感情。
科博がこれほどまでに繊細なトポスとして描かれたことは、小林氏以前には(そして以後も)ないと思います。
その一節を紹介しつつ、昔の科博の匂いを考えてみようと思います。
(この項続く。写真右は、小林氏が調合した香油 「冬緑松針油」。同じく銀河通信社で販売されています。http://www.aoiginga.com/gingaFrameset-12.html)
澄んだ秋空に、高く高く雲が浮んでいるというのに。
俗塵にまみれて過ごすのが勿体ないとは思うのですが、なかなか思うに任せません。
★
上野の科博といえば思い出すのが、小林健二氏の詩集 『みづいろ』。
ここには、ずばり「国立科学博物館」と題された詩が収められています。
■小林健二(著/装丁) 『みづいろ』、銀河通信社、平成17年
(http://www.aoiginga.com/book05.html)
遠い夏の日に友人とふたりで訪ねた「博物館の町」。
1967年、確かにあの場所に存在しはずの、でもどこか幻じみた科博の姿。
幼い友人に抱いた、淡い、恋とも言えぬほのかな感情。
科博がこれほどまでに繊細なトポスとして描かれたことは、小林氏以前には(そして以後も)ないと思います。
その一節を紹介しつつ、昔の科博の匂いを考えてみようと思います。
(この項続く。写真右は、小林氏が調合した香油 「冬緑松針油」。同じく銀河通信社で販売されています。http://www.aoiginga.com/gingaFrameset-12.html)
過去記事フォローシリーズ…アニーを見つけた ― 2010年07月28日 19時59分10秒
太陽観測で名をはせた、おしどり天文家のマウンダー夫妻、特に妻であるアニー・マウンダー(1868-1947)について、5月に集中的に取り上げました。
■太陽のカップル
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/05/10/
■アニー・マウンダー『天界の物語』
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/05/15/
■アニー・マウンダー『天界の物語』(2)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2010/05/18/
上の最後の記事の中で、「ところで、アニーってどんな女性だったんだろう?と、思うんですが、彼女の肖像写真はまだ見つけられません」と書きました。それが、やっと見つかりました。
※出典:Mary Brück, Women in Early British and Irish Astronomy, Springer, 2009, p.222.(原著クレジットはArmagh Observatory)
私は何となくふっくらタイプの女性を想像していたんですが、予想と違って細面の人でした。また上の記事では、彼女がそのユーモラスな人柄で、講演会の聴衆を魅了した…というエピソードについても触れました。なるほど、こういう人が面白いことを言ったら、さぞかし面白いような気がします。
★
ところで、写真をお借りしたBrück博士の遺著―博士は2008年に83歳で逝去されました―について。この本は最近やっと手元に届いて、まだパラパラと見ただけですが、これは時間をかけて味読すべき本だなと思いました。
…と言いつつ、積ン読になっている本も多いのですが、なるべくそうならないように、この夏の課題図書として、これはゆっくり読んでみるつもりです。
卓上キネマハウス ― 2009年11月06日 19時57分23秒
先日の「ピンポイント・プラネタリウム」から連想したものがあります。
★
昭和4年、羽深音吉商会から発売された「卓上キネマハウス」。
卓上に乗る映画館を作りたいという、羽深音吉氏(自称・光学博士)の夢から生まれた玩具。
浅草にあった「電気館」を忠実に模した、この“世界一小さな映画館”は、発売当初、非常な売れ行きを見せましたが、そのうちに「音はするが、スクリーンには何も映し出されていないじゃないか」という抗議が殺到し、当局の摘発を受けた末に市場から姿を消しました。
羽深氏が言う、「私は映画そのものを売りたいわけではなく、映画館の空気をいつでも味わえるようにしたかっただけなのだ」という主張は、結局世間には受け入れられなかったのです。
「卓上に乗るほどの小さな映画館の中へ入れるのは、子供たちの夢だけだ」と考えていた羽深氏ですが、もはや「誰もが大きくなり過ぎた…」と感懐を漏らすほかありませんでした。
★
“イマジネーションの力を借りて、その場の空気を味わう”という点に共感もし、またスピッツ作のプラネタリウムと共通するものを感じます。
私もこのキネマハウスがぜひ欲しいのですが、それは永遠に叶わぬ夢です。
何しろ、上のように詳細に作り込まれたストーリーを含め、この商品は(外箱を除けば)<クラフト・エヴィング商会>という稀有な創作家の脳髄の中にしか存在しないのですから。
空想の映画館の、空想の模型の中で、空想の映画を愉しむ…何だか夢の中で夢を見るような、ものすごく遠い愉悦ですね。
■引用出典■
クラフト・エヴィング商会(著)
『どこかにいってしまったものたち』
筑摩書房、1997
★
昭和4年、羽深音吉商会から発売された「卓上キネマハウス」。
卓上に乗る映画館を作りたいという、羽深音吉氏(自称・光学博士)の夢から生まれた玩具。
浅草にあった「電気館」を忠実に模した、この“世界一小さな映画館”は、発売当初、非常な売れ行きを見せましたが、そのうちに「音はするが、スクリーンには何も映し出されていないじゃないか」という抗議が殺到し、当局の摘発を受けた末に市場から姿を消しました。
羽深氏が言う、「私は映画そのものを売りたいわけではなく、映画館の空気をいつでも味わえるようにしたかっただけなのだ」という主張は、結局世間には受け入れられなかったのです。
「卓上に乗るほどの小さな映画館の中へ入れるのは、子供たちの夢だけだ」と考えていた羽深氏ですが、もはや「誰もが大きくなり過ぎた…」と感懐を漏らすほかありませんでした。
★
“イマジネーションの力を借りて、その場の空気を味わう”という点に共感もし、またスピッツ作のプラネタリウムと共通するものを感じます。
私もこのキネマハウスがぜひ欲しいのですが、それは永遠に叶わぬ夢です。
何しろ、上のように詳細に作り込まれたストーリーを含め、この商品は(外箱を除けば)<クラフト・エヴィング商会>という稀有な創作家の脳髄の中にしか存在しないのですから。
空想の映画館の、空想の模型の中で、空想の映画を愉しむ…何だか夢の中で夢を見るような、ものすごく遠い愉悦ですね。
■引用出典■
クラフト・エヴィング商会(著)
『どこかにいってしまったものたち』
筑摩書房、1997
ハーシェル天体ウォッチング ― 2009年07月31日 22時17分19秒
今週は食べるための仕事がなかなか忙しく、記事が間遠になりました。
今日もそんなわけで、山本一清博士のことは先に延ばし、軽くつぶやきの記事です。
というか、宣伝です。
★
天網恢恢疎にして漏らさず。
かすてんさんに早々とコメントをいただきましたが、つい先日、ハーシェル絡みの本が出ました。
■ジェームズ・マラニー 著、『ハーシェル天体ウォッチング』
地人書館、2009年
(http://www.chijinshokan.co.jp/Books/ISBN978-4-8052-0813-7.htm)
実観測の体験もほとんどないのに、こういうディープな本を訳すというのは、厚顔無恥も甚だしいのですが、これもハーシェルの名前を少しでもポピュラーにしようという、涙ぐましい努力のなせるわざです。
ハーシェル天体というのは、あまり聞き慣れない言葉ですが、シャルル・メシエ(1730‐1817)が目録化した星雲・星団の総称である「メシエ天体」のように、ウィリアム・ハーシェル(1739-1822)が目録化した「ハーシェル天体」という、一連の星雲・星団の類があるのです。
メシエ天体は、M78のように、頭に「M」を付けて呼ばれますが、同様にハーシェル天体の方は頭に「H」が付きます。メシエ天体は全部で110個ですが、ハーシェル天体はざっと2500個余り。要するに、ハーシェル天体は、メシエ天体よりもずっと暗い天体まで含んでいるわけで(ただし、両者はごく一部の例外を除き、天体の重複はありません)、メシエ天体を一通り愛機で眺めた天文マニアに、新たな星見の目標を提示しようというのが、本書の書かれた第一の目的です。
そしてもう一つの目的というのが、このデジタル優勢の時代に、徹底的に眼視にこだわってみようという、実に渋いものなのです。以下、「訳者あとがき」より。
☆ ★ ☆
天文ファンの中には、かつて初めて深宇宙天体に望遠鏡を向けたとき、期待したような「渦巻く大銀河」は影も形もなくて、がっかりした経験をお持ちの方も少なくないと思う。しかし、天体の姿を、たとえかすかな光のしみとしてであれ、自分の目で見ることの意義をマラニー氏は力説してやまない。
近年のアマチュア天文界は、自動導入、デジタル撮像、そして高度な画像処理等、デジタル化の進展が著しい。確かにそうした技術によって、「渦巻く大銀河」が手軽に楽しめるようになったのは、深宇宙ファンにとって大きな福音であることは間違いない。そうしたデジタル技術のメリットも熟知した上で、著者があえて眼視にこだわったのは、1つにはウィリアム・ハーシェルという、現代天文学の偉大な父を追体験する喜びを、そしてまた光子〔フォトン〕を介して何千万光年も離れた遠くの天体と、(比喩的な意味ではなく)じかに触れ合うことの素晴らしさを人々に伝えたいという、「天界の使徒」としての熱い思いからである。全身で宇宙と向き合う喜びを思い起こして、多くの天文ファンに、ぜひ今一度眼視に挑戦していただければと思う。何しろ、見ようと思えば「かすかな光のしみ」以上のものを見ることができる大型機材も、今や十分身近な存在なのだから。
☆ ★ ☆
…とまあ、何か偉そうに書いていますが、そんなこんなで本の帯には「眼視派に贈る、新たな夜空のロードマップ」という文字が躍っています。
これぞディープなディープスカイの本。
ご購読いただければ幸いです。
今日もそんなわけで、山本一清博士のことは先に延ばし、軽くつぶやきの記事です。
というか、宣伝です。
★
天網恢恢疎にして漏らさず。
かすてんさんに早々とコメントをいただきましたが、つい先日、ハーシェル絡みの本が出ました。
■ジェームズ・マラニー 著、『ハーシェル天体ウォッチング』
地人書館、2009年
(http://www.chijinshokan.co.jp/Books/ISBN978-4-8052-0813-7.htm)
実観測の体験もほとんどないのに、こういうディープな本を訳すというのは、厚顔無恥も甚だしいのですが、これもハーシェルの名前を少しでもポピュラーにしようという、涙ぐましい努力のなせるわざです。
ハーシェル天体というのは、あまり聞き慣れない言葉ですが、シャルル・メシエ(1730‐1817)が目録化した星雲・星団の総称である「メシエ天体」のように、ウィリアム・ハーシェル(1739-1822)が目録化した「ハーシェル天体」という、一連の星雲・星団の類があるのです。
メシエ天体は、M78のように、頭に「M」を付けて呼ばれますが、同様にハーシェル天体の方は頭に「H」が付きます。メシエ天体は全部で110個ですが、ハーシェル天体はざっと2500個余り。要するに、ハーシェル天体は、メシエ天体よりもずっと暗い天体まで含んでいるわけで(ただし、両者はごく一部の例外を除き、天体の重複はありません)、メシエ天体を一通り愛機で眺めた天文マニアに、新たな星見の目標を提示しようというのが、本書の書かれた第一の目的です。
そしてもう一つの目的というのが、このデジタル優勢の時代に、徹底的に眼視にこだわってみようという、実に渋いものなのです。以下、「訳者あとがき」より。
☆ ★ ☆
天文ファンの中には、かつて初めて深宇宙天体に望遠鏡を向けたとき、期待したような「渦巻く大銀河」は影も形もなくて、がっかりした経験をお持ちの方も少なくないと思う。しかし、天体の姿を、たとえかすかな光のしみとしてであれ、自分の目で見ることの意義をマラニー氏は力説してやまない。
近年のアマチュア天文界は、自動導入、デジタル撮像、そして高度な画像処理等、デジタル化の進展が著しい。確かにそうした技術によって、「渦巻く大銀河」が手軽に楽しめるようになったのは、深宇宙ファンにとって大きな福音であることは間違いない。そうしたデジタル技術のメリットも熟知した上で、著者があえて眼視にこだわったのは、1つにはウィリアム・ハーシェルという、現代天文学の偉大な父を追体験する喜びを、そしてまた光子〔フォトン〕を介して何千万光年も離れた遠くの天体と、(比喩的な意味ではなく)じかに触れ合うことの素晴らしさを人々に伝えたいという、「天界の使徒」としての熱い思いからである。全身で宇宙と向き合う喜びを思い起こして、多くの天文ファンに、ぜひ今一度眼視に挑戦していただければと思う。何しろ、見ようと思えば「かすかな光のしみ」以上のものを見ることができる大型機材も、今や十分身近な存在なのだから。
☆ ★ ☆
…とまあ、何か偉そうに書いていますが、そんなこんなで本の帯には「眼視派に贈る、新たな夜空のロードマップ」という文字が躍っています。
これぞディープなディープスカイの本。
ご購読いただければ幸いです。











最近のコメント