庚申信仰2020年09月21日 07時16分17秒

(今日は2連投です。前の記事のつづき)

その干支のひとつに「庚申(こうしん/かのえさる)」があります。
西暦でいうと、直近は1980年で、次は2040年。

ただし、干支というのは「年」を指すだけでなく、「日」を指すのにも使います。だから旧暦を載せたカレンダーを見ると、今日、9月21日は「丁卯」で、明日は「戊申」、あさっては「己巳」だ…というようなことが書かれています。

そういうわけで、庚申の日も60日にいっぺん回ってきます。近いところだと先週の月曜、9月14日が庚申の日でした。次は11月13日です。庚申塚とか、庚申講とか、いわゆる「庚申信仰」というのは、この庚申の日に関わるものです。

   ★

庚申信仰について、ウィキペディアばかりでは味気ないので、紙の本から引用します。

 「〔…〕庚申(かのえさる)にあたる日には、特殊な禁忌や行事が伝えられている。とくに庚申の日に、眠らないで夜をあかすという習俗は、もともと道教の説からおこったものである。人の体に潜む三尸(さんし)という虫が、庚申の日ごとに天にのぼり、その人の罪を天帝に告げるという。そこで、その夜には、守庚申といって、眠らないで身を慎むのである。

〔…〕庚申待ちの礼拝の対象は、一般に庚申様と呼ばれている。しかし、もともと庚申の夜には、特定の神仏を拝んだわけではなかった。初期の庚申塔には、山王二十一社や阿弥陀三尊などがあらわれ、江戸時代になって、青面金剛(しょうめんこんごう)が有力になってくる。さらに神道家の説によって、庚申が猿田彦に付会され、道祖神の信仰にも接近した。

〔…〕庚申信仰の中核となるのは、それらの礼拝の対象とかかわりなく、夜こもりの慎みであったと考えられる。そのような夜こもりは、日待ちや月待ちと共通する地盤でおこなわれていたといえよう。」
 (大間知篤三・他(編)、『民俗の事典』、岩崎美術社、1972)

   ★

引用文中に出てくる「青面金剛」の像を描いた掛け軸が手元にあります。(元は文字通り掛け軸でしたが、表装が傷んでいたので、切断して額に入れました。)


憤怒相の青面金剛を中心に、日月、二童子、三猿、それに二鶏を配置しています。
庚申の晩は、これを座敷に掛けて、近隣の者がその前で夜通し過ごしたのでしょう。といって、別に難行苦行というわけではなくて、ちょっとしたご馳走を前に、四方山の噂をしたり、村政に関わる意見を交わしたり、村人にとっては楽しみ半分の行事だったと思います。


線は木版墨摺り、それを手彩色で仕上げた量産型で、おそらく江戸後期のもの。
改めて庚申信仰を振り返ってみると、

○それが暦のシステムと結びついた行事であること、
○道教的宇宙観をベースに、人間と天界の交流を背景にしていること、
○日待ち・月待ちの習俗と混交して、日月信仰と一体化していること、
○夜を徹して営まれる祭りであること

…等々の点から、これを天文民俗に位置づけることは十分可能です。まあ、この品を「天文アンティーク」と呼べるかどうかは微妙ですが、このブログで紹介する意味は、十分にあります。

   ★

ところで、手元の品を見て、ひとつ面白いことに気づきました。


この掛け軸は、絵そのもの(いわゆる本紙)は、割と保存状態が良かったのですが、一か所だけ、三猿の部分が著しく傷んでいます。特に「言わざる」の口、「聞かざる」の耳、そして「見ざる」に至っては顔全体が激しく摩耗しています。

おそらくこれを飾った村では、見てはいけないものを見た人、聞いてはいけないことを聞いた人、言ってはいけないことを言った人は、庚申の晩に、対応する三猿の顔を撫でて、己の非を悔いる風習があったのではないでしょうか。そうした例はすでに報告されているかもしれませんが、私は未見なので、ここに記しておきます。

(上の想像が当たっているなら、その摩耗の程度は、当時の「三悪」の相対頻度を示すことになります。昔は見ちゃいけないものが、やたら多かったのでしょう。)

10×12=602020年09月21日 06時51分16秒

突然ですが、あれ?と思ったことがあります。
先日、コメント欄で「天文民俗」というワードが出て、それについていろいろ考えていたときのことです。

   ★

暦の「えと」ってありますよね。
例えば、今年の「えと」はネズミ(子)だし、来年はウシ(丑)です。順番に並べれば、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二個。いわゆる「十二支」というやつです。

でも、「えと」は漢字で「干支」と書くように、正式にはこれら「十二支」と「十干」の組み合わせから成ります。十干の方は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の十個あって、両者を組み合わせた「甲子(コウシ/きのえね)」とか「乙丑(イッチュウ/きのとうし)」とかが正式な干支です。そういう意味でいうと、今年は「庚子(コウシ/かのえね)」の年で、来年は「辛丑(シンチュウ/かのとうし)」の年です。


正式な干支は、全部で60種類あって、60歳の誕生日を迎えると――より正確には、数えで61歳になると――生年と同じ干支に戻るので、「還暦」のお祝いをするのだ…というのは、ご承知のとおりです。

   ★

あれ?と思ったのは、十干と十二支を組み合わせたら、全部で120個の干支ができるはずだと一瞬思ったからです。実際には半分の60個しかないのは何故? 残りの60個はどこに消えたのか?

少し考えれば当たり前で、これは別に謎でも何でもありません。
十干と十二支を、順番に一つずつずらしながら組み合わせるとき、できるペアには或る制限があります。すなわち、十干より十二支の方が2個多いため、十干が一巡するたびに、ペアを組む相手の十二支は2個ずれる(=1つ飛ばしでペアを組む)ことになり、それが6巡すると元に戻って、その先はエンドレスだからです。

結果として、「甲、丙、戊、庚、壬」「子、寅、辰、午、申、戌」としかペアにならないし、「乙、丁、己、辛、癸」「丑、卯、巳、未、酉、亥」としかペアになりません。
全体の半分は永遠に結ばれぬペアだ――これが「消えた60個」の正体です。

   ★

…というのは長すぎる前置きで、以下本題につづきます。

(年寄りは話がくどい、というのは事実です。いやだなあ…と思いますが、しょうがないですね。何せ事実なんですから。私は事実を尊びます。)

暦は移り行く2020年09月05日 16時31分47秒

昨日は豪雨、今日は晴天。
しかし、南方の台風の影響で天気は変わりやすいとの予報です。

世の中も、私の気分も、現下の空のように動揺が激しいですが、こういうときこそ人間の真価が問われるのでしょう。とはいえ肝心の真価が覚束ないので、あまり問われたくはないなあ…というのが正直なところ。いずれにしても、泰然と記事を書く気分には遠いです。

   ★

記事の方は、慌てずそういう気分になるのを待つとして、ここで不思議なのは、記事を書く気にはならなくても、モノを買う気の方はあまり衰えないことで、やっぱり気になるものを眼にすれば、何とか手元に引き寄せたいと、無理な算段をしたくなります。

結局のところ、モノを買うのは気散じになるけれど、文章を書くのはそうではないのでしょう。たしかに買い物依存症の話はよく聞きますが、執筆依存症というのはあまり聞きません。(いや、そうでもないかな。世に言う「ツイ廃(ツイッター廃人)」なんかは、執筆依存症に近いのかも。)

   ★

…というようなことをボンヤリ考えるのがせいぜいの日々ですが、それだけだと内容に乏しいので、今日たまたま目にしたニュースを貼っておきます。

(キャプチャー画像。リンクは下から)


静岡県の三島市に立つ御社は「三嶋大社」と書きます。遠く平安の初め、同社を勧請した河合家は暦師の家であり、同家が発行した暦を「三嶋暦(三島暦)」といいます。
暦の歴史は周期的に気なるテーマで、最近も暦の本をパラパラ読んでいたので、このニュースもパッと目につきました。伊豆に行く用事があれば、ここはぜひ訪ねたいです。

 

カテゴリー新設…星のめぐりに「時」を知る2020年08月19日 09時33分05秒

夏休みを利用して、ブログでこれまで不便を感じてきた点に、修正を加えることにしました。いわば、自らに課した夏休みの宿題です。

   ★

不便というのは、天文学と不可分である「暦」の話題が、独立のカテゴリーとして存在しなかったことです。現状でもカテゴリーが多すぎて、自分以外の人には(自分にとっても)何だか訳が分からないと思うんですが、これはどうしても欲しかったので作りました。

新カテゴリー「暦・編暦・改暦」がそれです。
時代や国を問わず、暦に関する話題はすべてここに入れることにします。

   ★

そしてもう一つ、これも今まで無かったのが不思議ですが、「暦」と縁の深い「時計」のカテゴリーを新設しました。ロングスパンの時を知る「暦」と、ショートスパンの時を知る「時計」は表裏一体だからです。

図式的にいえば、天体の年周運動と月の満ち欠け(=地球と月の公転)の定式化が「暦」であり、天体の日周運動(=地球の自転)のそれが「時計」です。それらを目指して古代の天文学は発展した…と、天文学史の本を開けば、一様に書かれています。


実は、これまでは「アクセサリ・ウォッチ」として、腕時計だけはアクセサリと抱き合わせでカテゴライズされてたんですが、私が持っている腕時計は、どれも宝飾品とは程遠い品なので、この際、置時計や掛け時計、それに天文時計や日時計とひっくるめて、シンプルに「時計」と呼ぶことにします。(アクセサリの方も、単に「アクセサリ」と純化しました。)

   ★

昨日の天文スライドも、もうちょっと工夫すると、立派な「星時計」になりますね。実際、既存の星時計(ノクターナル)は、1日に空を1回転する北斗七星の動きを見て、時刻を知る仕組みのものが大半です。

   ★

来月の予定を書き込むカレンダーや、会議の終了を気にして目をやる腕時計。
それらと天体運行の関係は、ややもすると意識の表面から遠のきがちですが、一皮めくれば「ズブズブの関係」と言ってもよいです。

時を我らの手に2019年02月17日 15時56分07秒

手元に一枚刷りの古い暦があります。

(紙面サイズは約30.5×14cm)

幕末の元治2年(1865)のもので、「禁売買」とあるのは、これが官許の暦ではなく、私的に作成されたものだからでしょう。


江戸時代の暦の頒布は、なかなか込み入っています。

まず、幕府の天文方が天体の運行を計算して、それを暦に落とし込む作業(編暦)を行い、それを京都に送って、陰陽道の“家元”たる土御門家や幸徳井家に暦注を付けてもらい、さらに天文方が再度校閲を行った上で原本を作成し、それを各地の暦屋に下げ渡して、最終的に版木で刷った暦が一般に流通する…というのが、大雑把な流れ。そして、暦屋は公の免許を得た者に限定されていたので、要するに当時の暦は、専売制が敷かれていたわけです。

その一方で、海賊版が横行したのも事実で、その取り締まりがたびたび行われました。手元の暦は、たぶん「禁売買」と刷り込むことで、「私は法に触れる暦の売買はしておりません。これは手控えとして作っただけです」という、言い逃れの余地を残したのでしょう。

(作ったのは越後の佐藤幹起という人。「北越高 左産」は「越後高田在住、佐渡出身」の意?「推歩」とは天文計算のことで、この人物は暦学の素養に基づき、自力でこれを作成したらしい)

   ★

暦作りの基礎たる「暦法」はもとより、幕府が年々のカレンダー作りまで独占しようとしたのは、「時を支配するのは為政者の特権である」という意識が強固にあったからでしょう。

近世は出版業の盛行により、科学的知識が身分差を越えて広く行き渡りましたが、暦法書は依然マル秘文書扱いで、公刊自体禁じられており、誓詞を出した門人のみが辛うじて閲覧を許され、細々と写本の形で流布するという状態が、明治になるまで長く続きました。

   ★

いかにも封建的だなあ…と思います。でも、それと似たことは今でもあります。
昨日の朝日新聞を開いたら、元号の話題がトップ記事になっていました。


記事は30年前の新元号制定にかかわった学者の一人である、目加田誠・九大名誉教授(故人)が考案した、複数の元号案のメモが見つかった…というもので、これは「「平成」以外にどんな新元号候補があったのかを示す初めての史料」であり、「平成改元の内幕に迫れる第一級の発見」だと、記事は伝えています。そもそも「政府は依頼した学者、新元号案の内容や数、3案〔引用者注:平成、修文、正化の3案〕に絞った過程などについて、現在も公表していない」のだそうです。

いったいなぜ秘密にする必要があるのか?
新しいダライラマを選ぶような、宗教的な「秘儀」ならばともかく、暦年を区切る記号に過ぎない元号の制定過程を、なぜそれほど秘匿する必要があるのか?

これは、やっぱり「秘儀」にしておきたい人がいる証拠でしょう。
何となく神秘のベールに包んで、いたずらに神格化したい人が。
その秘密に触れることのできる「内側」の人間と、それ以外の「外側」の人間を分断し、前者が妙な特権意識を振りかざすなんていうのは、はなはだ良くない振る舞いだと思います。

元号はパブリックなものなんですから、妙なもったいを付けずに、みんなでオープンに決めればいいんじゃないでしょうか。

空の旅(8)…モンゴルの暦書2017年04月24日 21時33分38秒

「空の旅」を続けます。
インドからさらに東へ、そして北へと向かい、今日はモンゴルです。

   ★

ところで、モンゴルとインドの地理関係がぱっと思い描けますか?

インドはヒマラヤとカラコルムの大山脈で、アジアの中央と隔てられており、この「世界の屋根」を越えたところがチベットです。今は大部分が中国領チベット自治区。
そこから道を西北にとれば、タクラマカン砂漠を越え、新疆ウイグル自治区を経て、モンゴルへ。あるいはチベットから道を東北にとれば、青海省を抜け、ゴビの砂漠を越え、内モンゴル自治区を経て、やっぱりモンゴルへ―。

今もさまざまな民族が住み、かつてはさらに多くの民族が往還した、この山岳と高原と砂漠の果てしない広がり。中世にはそれを精強な蒙古軍が呑み込み、広大なモンゴル帝国が築かれました。

そんなわけで、インドから見れば遠いようで近い、でもやっぱり遥かなのがモンゴル。

   ★

モンゴルは、今もチベット仏教との結びつきが濃いそうです。
天文学とどこまで結びつくのか、若干疑問なしとしませんが、そんなモンゴルの「星事情」の一端を示すのが下の品。例によって解説文も書き起こしておきます。


モンゴルの暦書」 「チベット仏教の影響が強いモンゴルで作られた木版の暦書。モンゴルで宗教弾圧が激化した1930年代以前のものと思われます。日の吉凶や運勢が細かく記された十二支図や暦の背後に、インドや中国の暦学・天文学の影響を窺うことができます。」

何だかもっともらしいですが、上の解説文はほとんど何も語ってないに等しいです。
そもそも、「インドや中国の暦学・天文学の影響」とは何を指すのか、漠然とし過ぎて、書いている方もよく分からず書いていることが明瞭です。まあ、「さっぱり分からないけど、きっと影響があるのだろうなあ」…というぐらいに思ってください。


「暦書」と書きましたが、これは綴じられた本の形態はとらず、横長の紙片の束になっています。冒頭の十二支占いの絵柄が愛らしい。

(撮影の向きが上下反対ですが、そのまま表示)

この辺が吉凶を示す暦らしく、カラフルな赤・黄・紫・緑のマス目は、きっと運勢の良し悪しを塗り分けてあるのでしょう。


こちらはさらに細かいマス目。上は7段12列を基本に、12列をさらに二分し(前半と後半?)、都合24列になっています。この数字は、七曜と12カ月(あるいは十二支または十二宮)と対応していることを想像させますが、詳細は不明。


文脈を考えれば、おそらく医占星術的な図でしょうか。
身体各部と十二宮を対応させて、星回りによって身体の健康を占う術は、これまたヘレニズム経由でインドに到達したものです。

(最後の頁に捺された朱印)

   ★

モンゴルの平原では、いかにも星がきれいに見えそうです。
でも、星にまつわる物語は意外に少なくて、いつもお世話になる出雲晶子さんの『星の文化史事典』に採録されているのは、わずかに2つだけ。その1つが「テングリ」の伝説です。

テングリ/モンゴルの天の神で創造神。運命を決める神で、モンゴルでは流星は天の裂け目から来て、その瞬間は天に願いごとをすることができるとされた。」 (出雲上掲書p.268)。

「流れ星に願い事をする」のは、汎世界的な民俗でしょうが、考えてみればずいぶん不思議な共通性です。ともあれ、モンゴルの星物語が、広い世界の中で他と関連しながら存在していることは確かで、その一部は仏教よりもさらに古い、人類の遠い記憶に由来するものかもしれません。


(ここでいったん西洋に話を戻し、この項もう少し続く)

空の旅(5)…イスラムの暦術書2017年04月18日 23時02分49秒

さて、これまでのところは、カタラン・アトラスから始まって、天文石板、アストロラーベと、みんな複製品でした。天文アンティークも、時代をさかのぼるとなかなか本物を手にすることは困難です。

簡単に手に入るのは、ここでもやっぱり紙物で、今回はこんなものも並べました。

(紙片のサイズは約22.5×18cm)

傍らのプレートの説明は、以下の通り。

 「イスラム暦術書の零葉 「1725年、北アフリカのイスラム世界で編纂された暦書の一頁。太陽・月・惑星の位置を計算するためのパラメーターをまとめたもの。こうした天文表の歴史は非常に長く、イスラム以前のササン朝ペルシアの頃から、各種作られてきました。」

何となくもっともらしく書いていますが、これは売り手(フロリダの写本専門業者)の説明と、ネット情報を切り貼りした、完全な知ったかぶりに過ぎません。
私にその当否を知る術はなく、そもそも写真の上下の向きがこれで合っているのか、それすらも自信がありません。それでも、これが天文表の一部であることは、その体裁から明らかでしょう。

(裏面も同様の表が続きます)

この種の天文表を、イスラム世界では「Zij」――この名称は織物の「縦糸と横糸」に由来する由――と称し、説明プレートにも書いたように、これまで多くのZijが作られてきました…というのも、さっき英語版wikipediaの「Zij」の項を見て知ったことです(https://en.wikipedia.org/wiki/Zij)。

(インクには膠(にかわ)質の成分がまざっているのか、角度によりポッテリと光って見えます)

18世紀といえば、すでに西洋の天文学が、近代科学として確立した後の時代ですから、今さらイスラム天文学の出番でもなかろうとも思うのですが、ちょっと想像力を働かせれば、この1枚の紙片の向うに、古のイスラム科学の黄金時代が鮮やかに浮かび上がる…ような気がしなくもありません。

(ページの隅に圧された刻印が、いかにもイスラム風)


(この項つづく)


-----------------------------------------------------------
▼閑語(ブログ内ブログ)

ふと、今は幕末の世なのか…と思うことがあります。
その独断的な強権姿勢が、井伊直弼の姿を彷彿とさせるからです。
でも、眼前に見る奢り高ぶりや、浅ましい腐敗の横行を見ると、むしろ古の平清盛や、鎌倉を滅亡に導いた北条高時に、一層近いものを感じることもあります。

いずれにしても、勝手専横な振舞いや、強権腐敗は道義の退廃を招き、阿諛追従のみの愚かな取り巻き連中は、その主を守る力や気概を急速に失い、そうなると政権が自壊するのも時間の問題だ…というのが、歴史の教えるところです。

安倍氏も、せめて晩節だけは汚さぬよう、そして過去の権力者たちのような悲惨な最期を遂げぬよう(清盛は異常な高熱に斃れ、高時は自刃し、直弼は桜田門外の雪を朱に染めました)、よろしく身を処していただきたいと切に思います。

古暦2016年12月31日 19時43分54秒

年賀状も書き、大掃除も済ませ、さてカレンダーを掛け替えようと思ったら、「そういえば、まだカレンダーを買ってなかったな」と気づき、買いに行ってきました。

何となく買い置きがあったような気がしたのですが、よく考えたら、それは一昨年の年末のことで、自分の頭の中では2年前と今の記憶がごっちゃになっていて、そんなことがあると、自分もいよいよか…と思います。

用済みの暦はそのまま捨ててしまいましたが、一年間世話になった古暦というのは、何となく人間臭さが伴うものです。俳句では歳末・冬の季語。

  引き裂いて鰯包むや古暦   高井几董
  古暦水はくらきを流れけり  久保田万太郎

古暦は過去の象徴として、懐かしくもあり、同時に振り捨ててしまいたいものでもあり、それはちょうど新しい暦が、期待と不安を感じさせるのと対になるものでしょう。

   ★

気前よく鰯を包むのに使われたりする一方で、暦はお上から特に許しを得た版元しか発行できない時代が長かったので、貴重なもの、有難いものという観念も伴っており、昔は古暦を大事にとっておく人が少なからずいました。今でも昔の暦がたくさん残っているのは、そのせいでしょう(和紙が貴重だったということもあるかもしれません)。


上は嘉永二年(1849)の会津暦。
会津暦は会津地方で印刷された地方暦の一種ですが、暦の日付けそのものは、江戸の幕府天文方の暦算に拠っています。(脇に書かれた「江戸暦 鈴木より至〔到〕来」というのは、その辺の事情を何か伝えているのかもしれません。)

この年は酉年で、干支でいうと己酉(きゆう、つちのととり)。
干支は周知のように60年で一回りするので、1849年の次は、1909年、1969年…と来て、来年の次の酉年、すなわち2029年は再び己酉の年になります。前回の酉年のことを思うと、2029年の酉年も、きっとあっという間に訪れることでしょう、

「明治百年」の祝賀行事を記憶する者として、黒船の時代からもう180年か…というのも感慨深いですが、アポロの月着陸から数えてもう60年か…というのは、いっそう驚きです(いずれも12年後の話です)。そして、蒸気船から月ロケットまで、わずか120年で走り抜けた人類の速力にも改めてビックリです。


まあ、何にしてもそれほど遠い昔のことではないのですが、江戸の人はマゲを結って、こんな暦を使って、煤けた家に暮らしていたわけです。

   ★


ときに、暦をめくっていたら、日食の記事があって「おや?」と思いました。
すなわち二月一日の項には、「日そく〔蝕〕九分半 五時三分右の上より欠けはじめ四時甚だしく四時八分左の上におはる」とあります。

Wikipediaを見たら、果たして「1849年2月23日(嘉永2年2月1日)江戸をわずかに外れて金環食が通った」とあって、煤けた家でマゲを結っていても、やっぱり幕末の人は、かなり正確な時の流れの中で生きていたのだなあ…と再び思い直しました。

   ★

…と古暦を見ながら、いろいろ思いにふけっているうちに、いよいよ今年も終わりが近づいてきました。
今年一年、「天文古玩」にお付き合いいただき、ありがとうございました。
来たる年が、どうか皆さんにとって良い年でありますように!


【付記】

なお、上の暦に押された「禁出門 治三郎文庫」の朱印は、印刷業界人にして日本印刷史の研究家でもあった、故・牧治三郎氏(1900-2003)の旧蔵品であることを示し、虫喰い跡のある古暦を丁寧に補修したのも、おそらく同氏の仕事でしょう。

時の鏡2016年02月01日 20時07分05秒

今日から2月。
2月といえば、今年はうるうです。

現在使われているグレゴリオ暦は便利なもので、うるう年が入るルールさえ心得ていれば、誰でも簡単にカレンダーが作れます。

すなわち、西暦年が4で割り切れる年(たとえば2016年)はうるう年ですが、例外として100で割り切れる年(つまり1800年とか1900年とか世紀末の年)は平年になり、さらに例外の例外として400で割り切れる年(直近は2000年)は、やっぱりうるう年になる…という、ちょっとややこしいものですが、慣れれば子供でも使いこなせます。

うるう年にしろ、平年にしろ、1月1日が何曜日か決まれば、あとは12月31日まで全ての曜日が自動的に決まるのですから、至極シンプルな仕組みです。(このシンプルな仕組みを考案するまでに、人類はずいぶん長い時を費やしました。)

   ★

で、年次と月を合わせると、その月の暦(日付と曜日の組合せ)が読めるような道具を作った知恵者がいて、それがこういう円盤タイプの万年暦です。


ちょっと金満的な香りのする「銀の万年暦」。


銀器の老舗、パリのクリストフルが2010年に発売したもので、直径は約13cm。


仕組み自体はボール紙でも簡単に作れるので、別に銀だからどうということはないですが、この硬質の輝きは、2月の凍てついた空気に何となくふさわしい気がします。


日本では、昔から歴史書を鏡にたとえ、「大鏡」「水鏡」などの「鏡もの」が成立しました。この万年暦も、これからの時代の移ろいを、その表にくっきりと映してゆくことでしょう。