暦道の傑人、大春日真野麻呂2024年05月25日 10時57分49秒

大春日真野麻呂(おおかすがのまのまろ)という人がいます。
生没年は未詳ですが、平安時代の前期、9世紀の半ばから後半にかけて活躍した人で、安倍晴明なんかよりも100年以上昔を生きた人です。

前にも書いたように、平安時代後期以降、暦道は加茂氏が独占するようになりましたが、もっと昔はこの大春日氏が暦道を司っていた時期がありました。真野麻呂は歴代の中でもことに学識に優れ、暦博士と陰陽頭を兼任した史上最初の人でもあります。そして、暦法の精度を実証的に比較した上で「宣明暦」の導入を建議し、862年にそれが実現することになった立役者こそ、この大春日真野麻呂です。

この宣明暦が、日本では江戸時代の貞享元年(1684年)まで823年間使われ続けましたが、さすがに長年月のうちに現実との齟齬を生じたため、渋川春海(1639-1715)が建議して、新たに「貞享暦」が採用されたのは、広く知られた事実と思います。

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…と、何となくもっともらしく書きましたが、私が真野麻呂の名を知ったのは、つい昨日のことです。そして上に書いたことは、すべてウィキペディアの受け売りです【LINK】。 

真野麻呂の名は、S.Uさんにコメント欄【LINK】で教えていただいたのですが、暦道史における傑人・大春日真野麻呂の名を知らなかったことを深く恥じ入るとともに、彼の名は渋川春海に比べてあまりにも知られてないよね…ということで、S.Uさんと意見が一致したので、こうしてブログの隅に書き付けることで、顕彰の一助にしたいと思います。

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歴史上の人物を記憶にとどめる上で、肖像画の存在は大きいと思います(聖徳太子も、源頼朝も、足利尊氏も、学問的には疑問符が付いても、依然として「あの顔」とともに想起されることが多いでしょう)。

大春日真野麻呂については、画家の菊池容斎が古人の肖像画と略伝をまとめた『前賢故実』 巻四(明治元年、1868)に載っていることを、これまた先ほど知りました。同書は国会図書館のデジタルコレクションで公開されているので、手っ取り早く下に画像を貼っておきます。

(大春日真野麻呂、菊池容斎『前賢故実』 巻四より)

はるか後代に想像で描かれた肖像画ですが、在ると無いとでは訴求力が違いますから、この後ろ姿とともに、今後真野麻呂の名を思い出したいと思います。

コメント

_ S.U ― 2024年05月25日 14時17分42秒

これは、お取り上げとご追求ありがとうございます。
貴重な肖像画。といっても後ろ姿だけですね(笑)。掛け軸の日月星図と脇息にゆったり寄りかかっている姿がより雄弁なように思います。

 暦法の客観記述以上のことがテキスト部分に書いてないか読もうとしましたが、漢文の文法がわからず、どれが大唐国の話でどれが本朝の話か区別できません。「暦議曰。陰陽運。随動而差。差而不已。遂與暦錯」と最後から3行目に読み取れるのが、唐の説か真野麻呂の説か私にはわかりませんが、何か哲学めいたものかと思います。意味はよくわかりません。改暦を重ねたことへの注釈だとすれば、陰陽の運びによって正しい暦も誤りとなり変わっていくという意味でしょうか。間違っていたらすみません。

_ 玉青 ― 2024年05月25日 17時09分29秒

どうせ想像画なのですから、思い切り想像で描けばよかったのに、菊池容斎もちと思い切りが悪かったですね(笑)。それとも奥ゆかしいというべきでしょうか。

ときにこの文章は、最初の方の「貞観三年奏していわく、『臣謹んで按ずるに…』」以下、最後の1行を除いてすべて真野麻呂の奏上内容ですね。
その中で「唐がたびたび改暦を行うにあたり、暦議の場でこんな意見があった」というのが、「暦議に曰く」の部分なので、結局これは唐説の引用でしょう。あまり自信はありませんが、仮に読み下すとこんな感じじゃないでしょうか。

「暦議に曰く『陰陽の運は動ずるに随ひて差あり。差已まずして、遂に暦と錯す』と。それ唐国は開元以来三たび暦術を改む。本朝は天平以降なほ一経を用ふ。事理しかるは宜しからず。請ふ旧を停止し、新を用ふことを。天歩に欽若し、詔してこれに従はしむ。」

現実の天の運行、すなわち「陰陽の運」は、時とともに誤差が蓄積して暦術の計算結果と一致しなくなる(正確にいえば誤差が蓄積するのは、暦術の計算結果のほうですが)、それゆえ唐は3回も改暦を行ったのだ。だから日本でも…というのが真野麻呂の奏上趣旨なのでしょう。

朝廷もその言葉に理ありとして、「天歩(天の運行)につつしみ従い、詔勅を発してその言葉に従うこととなった」というのが結論部でしょう(翌貞観4年より宣明暦施行)。

※記事中「宣明暦」が「宣命暦」になっていたので修正しました。

_ 玉青 ― 2024年05月26日 06時16分55秒

(追記)
「陰陽の運」は、陰陽二気云々というよりも、単純に「日・月の運行」の意味かもしれません。そう解釈すると文意がすっきりしますね。

_ S.U ― 2024年05月26日 06時53分28秒

これは、ありがとうございます。おかげさまで漢文を教示いただけるのは本当にありがたいことです。最初の闕字部分以降は引用文とみるわけですね。道理で本朝と唐国の話が両方あるのも理解できました。いずれにしても、大春日真野麻呂の書いた物が短いながらも読めてよかったです。

 ここでは、「陰陽の運」は「日・月の運」なのでしょうね。そうすると、この「唐説」?は、結果の現象だけを述べているのか哲学を述べているのかこれだけでは不明ですが、このような理屈によって天の原理を表すはずの暦が繰り返し改訂されることを弁明できたのでしょう。暦職の本音の見解も知りたいですが、両国ともにこの時代で本音を書いてくれている人がいるかどうか、なかなかわからないかもしれません。

_ 玉青 ― 2024年05月26日 10時38分32秒

考えてみると、この真野麻呂の言葉(および唐説)は、「天の原理は至妙ではかりがたく、人の考案する暦はあくまでもその近似に過ぎない。天の理に近づくために、我々人間は絶えず理論(暦)を修正し続けなければいけない」というテーゼと捉えることができるかもしれません。となるとこれは暦学者の弁解にとどまらず、彼らが近代以降の科学観に通ずるものを持っていたことを示すものとも思えてきます。それも何だかすごい話です。

_ S.U ― 2024年05月26日 15時13分52秒

>近代以降の科学観に通ずるもの

本当にそう思います。近世から近代の東洋の合理的な自然哲学に対しては、宋学と元代・ルネサンス以降の汎世界な流れを前提にするのが通常と思いますが、この時代は、文句なしにそれ以前ですからね。
 日本の近世の思想家からすると、唐代はこの手の文化的にはあまり得るものがないと思われていたくらいだと思います。何事も一通りは探してみないとということかもしれません。

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