パドヴァ天文台2017年02月19日 11時46分25秒

長靴型のイタリア半島の付け根、東のアドリア海に面する町がベネチアで、ベネチアの西隣に位置するのがパドヴァの町です。

ガリレオは1592年にパドヴァ大学に赴任し、1610年にフィレンツェに移るまで、この町で研究に励みました。彼の最大の功績である望遠鏡による星の観測や、『星界の報告』の公刊も、パドヴァ時代のことです。


上は、そのパドヴァの町にそびえる天文台。
1910年前後の石版刷りの絵葉書。緑のインキで刷られているところがちょっと珍しい。
左側にミシン目が入っていて、使うときは切り取って使ったものらしいです。

(一部拡大)

この塔こそ、ガリレオが星の観測に励んだ場所だ…というのは、ずいぶん昔からある伝承で、「そりゃ嘘だ。第一、時代が合わない」という声を尻目に、そう信じている地元の人も少なくないそうです。

その辺の事情を、INAF(Istituto Nazionale di Astrofisica、イタリア国立天体物理学研究所)のサイトでは、こう説明しています(以下、適当訳)。

パドヴァ天文台博物館 「ラ・スぺコラ」
 パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史

 多くのパドヴァ市民(や市外の人)に伝わる誤った伝承によれば、この天文台の塔こそガリレオの塔であり、高名な科学者は、この場所から素晴らしい天文学の発見の数々を成し遂げ、人類史上初めて、天空の裡に隠された星々の特異な性質を解き明かしたとされる。これらの発見によって、彼は天文学のみならず、科学全体に革命を起こしたのだ。

 このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。

 ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。

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その「スぺコラ博物館」の内部の様子は、同じINAFの以下のページで少し覗き見ることができます。

■SPECOLA, THE ASTRONOMICAL OBSERVATORY OF PADUA

展示の主力は18世紀後半~19世紀の天文機材で、ガリレオ時代のものは仮にあったとしても、他所から持ってきたものでしょう。それでも、13世紀にさかのぼる中世の塔に、古い天文機材が鈍く光っているのは、なかなか心を揺さぶられる光景です。

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以下、おまけ。ちょっと角度を変えて撮った絵葉書も載せておきます。


こちらはリアルフォトタイプなので、1920年代ぐらいの光景だと思います。




天文台とは関係ないですが、添景として写っている少年たちの姿がいいですね。
こんな塔のある古い町で子供時代を送ってみたかったな…と、ちょっと思います。



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閑語(ブログ内ブログ)

沖縄のこと、福島のこと。
そしてまた南スーダン、共謀罪、森友学園の土地取得疑惑…と、政権周辺波高し。
にもかかわらず、またぞろ強行採決をもくろむとすれば、やっぱり現政権は●っているとしか思えません。でも、今日はちょっと違うことを書きます。

今朝、ふと菅元総理の「最小不幸社会」というスローガンを思い出しました。
あれは2010年のことで、その言葉がニュースで報じられるや、「なんで『最大幸福社会』と言わないんだ」と大ブーイングでした。

当時の言説をネットで読み返すと、「考えが後ろ向きだ」、「希望がない」、「覇気がない」、「敗北主義だ」とか、あまりにも感情的な言葉が並んでいるのに、ちょっと驚かされます。菅さんへの個人的好悪をさておき、私自身は、当時も今も「最小不幸社会」の実現は、政治家として至極真っ当な主張だと思っています。

金持ちがいっそう金持ちになるべく、欲望をぎらつかせることは勝手ですが、何も政府がその後押しをする必要はありません。お上は、もっと弱い立場の人に目配りしてほしい。幸福の総量が増すことと、その分配が真っ当に行われるかは別の問題ですし、仮に一部の者の幸福が、他の者の不幸の上に築かれるとしたら、それは不道徳というものです。

小さな大天文台 (附・ポスタースタンプの話)2017年02月12日 12時24分57秒

切手のようで切手でない「切手風シール」。
その実例として、以前、ドイツの地方都市の市章を刷り込んだシールを眺めました(http://mononoke.asablo.jp/blog/2016/09/30/8205443)。

あの手のものを、そもそも何と呼べばいいのか迷ったのですが、何でも英語だと「ポスタースタンプ」と呼ぶそうで、英語版Wikipediaに、その解説がありました。


冒頭の概要と「定義」の項を、適当訳してみます。

【概要】
 ポスタースタンプとは、普通の郵便切手よりもいくぶん小型の宣伝用ラベルで、19世紀半ばに登場すると、ただちに一大収集ブームを巻き起こし、第1次世界大戦まで大いに人気を博したが、第2次世界大戦がはじまる頃には、その人気も衰え、今や「シンデレラスタンプ」(※)のコレクターを除けば、ほぼ忘れ去られた存在となっている。

【定義】

 ポスタースタンプは公的存在ではないため、正確に何がポスタースタンプであり、何がそうでないかという点について議論がなされてきた。1つの定義は、「切手としての額面表示を欠き、郵便に使用できないラベル。宣伝用ラベルまたはチャリティラベルのこと」というものである。

〔※引用者注: シンデレラスタンプというのは、主に郵趣家サイドからの呼び方で、歴史的存在としてのポスタースタンプに加えて、現在も発行されているクリスマスシールなども全てひっくるめて呼ぶ言い方のようです〕

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アメリカで発行された、そのカッコイイ実例。


1888年に運用を開始した、カリフォルニア州ハミルトン山頂に立つ、リック天文台のポスタースタンプです。

アソシエイテッド石油(Associated Oil Company、本社・サンフランシスコ)が、1938年~39年に発行したもので、主に西海岸の風物に取材した総計100枚以上に及ぶシリーズ中、このリック天文台の絵柄は、通番46に当ります。


星月夜の天文台。
月の観測をする場合を除き、天文台にとって明月はあまり歓迎されない存在でしょうが、こうして眺める分には、実に美しいイメージです。
まさに絵のような、詩のような…。

小さな画面の向うに、無限の宇宙が広がっているという、その不思議なコントラストにも惹かれるものがあります。

(なお、下のスタンプはミシン目の位置がずれていて、普通の切手だと「エラー切手」として珍重されますが、ポスタースタンプの場合は単なるエラーです。)


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閑語(ブログ内ブログ)

サディスティックな「支配欲」はあっても、統治能力を欠いた為政者の下、人々の知的・道義的な退廃は急速に進み、外敵の侵攻を待つまでもなく、かつての大国は自ら衰亡の道をたどり、内部から崩壊した…

あのローマ帝国だって、そんな風にして滅んだのですから、我がニッポンが同じように滅んだって、全く驚くには当たりません。真顔で中国脅威論を振り回す人に対して、衷心から申し上げますが、日本は中国が(あるいはアメリカが)原因で滅ぶのではなく、我々自身の手で滅びの道を築きつつあるのです。

それを思うと、何だかひどく空虚な気持ちになりますが、しかし、国が滅んだって――まあ、為政者はしばり首になるかもしれませんが――別に民が滅ぶわけではありませんし、民は民の流儀で、しぶとく生き延びる算段をするまでです。

Day and Night2016年10月15日 09時18分48秒

天文台の絵葉書は、一時期けっこう集めました。
今でもときどき買います。

でも、整理不十分でゴチャゴチャなので、ちょっと頓珍漢なこと――「発見」と言ってもいいです――が、まま起こります。

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アルバムを見ていたら、昨日のウィーン天文台の絵葉書と同じものがありました。
片方は手描きの月を加えた「夜景」、他方は明るい日差しを浴びた「昼景」という違いはありますが、元画像はまったく同じです。(版元もウィーンの「Ledermann Jr.商会」で一緒です。)


それに気づかず買い足したのは、ちょっと注意力散漫。でも、「夜の天文台」は、天文台絵葉書を集める中でも、1つのサブテーマになっているので、これはたとえ同じと知っていても買ったでしょう。

(昼間の絵葉書に合せて色味を調整したら、夜景の方は濃い水色に。昨日の画像とかなり違って見えますが、この辺が人間の眼の不思議なところです。)

月夜のほうは、1898年の9月17日付けの投函でしたが、昼間のほうは同年10月14日付け、すなわち昨日の投函で、帝国領内のアグラム(…というのは今のクロアチアの首都・ザグレブのこと)に住む、 Adéle Laný 嬢の元に届いたのは、118年前の今日でした。これまたちょっとした偶然であり、発見です。

月下の天文台2016年10月14日 21時39分46秒

今宵は丸い月が明るく眺められます。

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月に照らされた天文ドーム。


1879年に完成した、壮麗なウィーン天文台の雄姿です。
まるでいにしえの宮殿のようですが、これぞモダニズム建築が開花する以前、歴史主義全盛期に生まれた建築様式なのでしょう。

中央の大ドームに据付けられた、英国グラブ社製68cm径屈折望遠鏡は、当時、屈折式としては世界最大を誇りました。


1898年の消印が押された切手の主は、ウィーン天文台の開所式を自ら執り行った、時のオーストリア皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世です。

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ちなみに、当時の台長はエドムント・ヴァイスで、彼は天文古書ファンにはおなじみの、あの『星界の絵地図』(1892)の著者であり、その表紙を飾ったのが、ウィーン天文台とその巨大望遠鏡です。


天文古書に時は流れる(1)…天文台と機材2016年09月06日 06時09分15秒

(前回のつづき)

一口に「天文古書」といいますが、その古さもいろいろです。
例えば200年前の本と100年前の本では、そこに100年の時代差があるので、同じ「昔」といっても、その「昔」の指し示すものはずいぶん違います。

ここでウーレの『星界の驚異』を素材に、天文古書に刻まれた時代について、ちょっと考えてみます。

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前回登場した、4種の『星界の驚異』。

いちばん上の1860年版から、その下の1923年版まで、経過した時の流れは63年間。普通に考えても、結構長い時間ですが、さらに科学技術の進歩という点から考えると、この60年余りは、とても大きな変化のあった時代です。


これが1860年版のタイトルページ。
天文学を象徴するイコンを並べたのでしょうが、いかにも古風な感じがします。


こうした図像は、1883年版の表紙↑にも登場しており、そこに連続性も感じますが、イメージはともかく、両者を隔てる23年間に、天文学のハード面はずいぶん変わりました。

例えば、その最先端の現場である天文台と機材の図を見比べてみます。
以下3枚は、1860年版に描かれた天文台と“大型”機材のイメージ。




その後、1883年版になると、天文台のイメージは下のように変わります。



端的にいって、19世紀の後半は機材の大型化が目覚ましく進んだ時代で、それとともに天文学はきっちり組織化されたビッグサイエンスとなり、アマチュアとプロの差も歴然となったのでした。

すぐ上の図はウィーン天文台の内部を描いたものですが、これは1900年版にもそのまま登場します。そして1923年版になると、天文台のイメージはさらにこう変わります。


カリフォルニアのウィルソン山天文台の150cm径反射望遠鏡の雄姿。
この一枚の写真こそ、天文学の変化を雄弁に物語るものです。

即ちこの23年間に、
 天文学研究の中心は、ヨーロッパからアメリカと移り、
  大望遠鏡の主流は、屈折式から反射式になり、
   第一線の天文台は街を離れ、高山の頂に移動したのです。

(画像再掲)

雪山の上に輝く満天の星と、それを眺める孤独な男という1923年版の表紙絵も、そうした時代の変化を反映したものと思います。

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そして、時代の変化は、描かれた機材に読み取れるばかりではありません。

(この項つづく)

飛行機乗りと天文台2016年08月20日 17時56分29秒

1枚の絵葉書から、またぞろいろいろ思いを馳せることにします。


石版刷りの古ぼけた絵葉書です。おそらくは1930~40年代のものでしょう。


居館風の建物の屋上に設けられた小さなドームと、そのスリットから覗く、小型の機材。

その「程のよい小ささ」が、いかにも居心地が良さそうで、「アマチュア天文家の夢の城」の印象を生んでいます。ドーム脇の屋上を飾るチェッカーボード模様も洒落ているし、周囲の緑の丘も、のどかで気落ちの良い風景を作っています。

こんなところに住んで、のんびり望遠鏡を覗いて暮らせたら…ということを考えて、この絵葉書を手にしました。

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では、この素敵な天文台はいったいどこにあるのか?


その手がかりは、言うまでもなくキャプションで、ググってみれば、これが「短焦点の彗星捜索用望遠鏡を覆う東側ドームの光景」を意味する、チェコ語ないしスロバキア語であることが分かります。


さらに裏面を見れば、これはプラハに現存する「シュテファーニク天文台(チェコ語:Štefánikova hvězdárna)」の絵葉書なのでした。

シュテファーニク天文台 (公式サイト英語ページ)
 http://www.observatory.cz/english.html

場所はプラハの中心部、以前取り上げたプラハの天文時計とは、ブルタバ(モルダウ)川をはさんで反対側になりますが、そこに広がる広大なペトシーン公園の丘の上に、シュテファーニク天文台はあります。

(ウィキペディア掲載の現在のシュテファーニク天文台の姿。右手の緑青色のドームが、絵葉書に写っている「東側ドーム」。1970年代に改装されたせいで、屋上回りの様子が、絵葉書とはちょっと違います。)

この天文台が開設されたのは1928年だそうですから、そう古い施設ではありません。
そして、専門的な研究施設というよりは、教育プログラム主体の、市民向け公開天文台です。

しかし、その中央メインドームに据付けた機材は、ウィーンの熱心なアマチュア天文家にして、有名な月面観測者だった、ルドルフ・ケーニヒ(1865-1927)の巨大な愛機を移設したものであり、現在、西側ドームには37cm径マクストフ=カセグレンが、そして東側ドームには40cm径のミード製反射望遠鏡が設置されていて、公共天文台としては十分すぎる設備を有しています。

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この天文台で見るべきものは、その機材ばかりではありません。
それが秘めている物語は、何よりもそのネーミングにあります。
「シュテファーニク」とは人の名前です。といって、この天文台を作った人ではありません。

(天文台の正面に立つ、ミラン・シュテファーニクの像。ウィキペディアより)

何でこんな飛行機乗りの格好をした人が、天文台と関係あるのかといえば、この人は飛行機乗りであると同時に、天文学者であり、そしてチェコスロバキア独立のヒーローだからです。そういう傑物を偲んで、この天文台は作られました。

さして長文ではないので、以下、ウィキペディアからそっくり引用します。

 「ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(Milan Rastislav Štefánik、1880年7月21日―1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。

 オーストリア・ハンガリー帝国領内(現在のスロバキア北西部)のコシャリスカーで生まれる。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。主に太陽(とくにコロナ)の観測・研究に従事した。1912年フランス市民権を取得。

 第一次世界大戦が始まると、フランス軍のパイロットとして参加するとともに、パリを拠点にマサリクやベネシュとともにチェコスロバキア国民委員会を設立して、独立に向けた外交活動を展開した。またチェコスロバキア軍団を組織し、その指導に当たった。このような外交努力によって、協商国側からチェコスロバキアの独立に対する支持を取り付けることに成功した。

 1919年、イタリアからスロバキアへ飛行機で帰国する途中、墜落事故のため死去。」

(軍服姿のシュテファーニク。出典:http://www.tfsimon.com/stefanik-note.htm

こういうのを、単純に「カッコイイ」と形容するのは軽薄でしょう。
しかし、学問を愛し、空を愛し、そして歴史の壮図に自分を賭けた、一人の人間の生き様は、心に強く響きます。少なくとも、安逸な生活に憧れ、静かな場所で望遠鏡をのんびり眺めて過ごしたい…と願うような男(私)に、彼の生き方は強く省察を迫るものがあります。

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私はシュテファーニクのことも、チェコスロバキアの独立運動のことも、ついさっきまで知らずにいました。私だけでなく、東欧の近代史に関心のある人を除けば、この辺は知識の空白になっている方が多いのではないでしょうか。

世界は有名無名のドラマに満ちています。
まあ、ちっともドラマチックではない、平凡な日常こそ貴いというのも真実でしょうが、ときにはドラマに触れることも、日常を振り返る上で大切なことと思います。

(シュテファーニクが勤務したパリ天文台ムードン観測所の上を飛ぶ複葉機。この絵葉書は、かつてタルホ氏に捧げましたが、今一度シュテファーニク氏にも捧げます。)

夏の日の天文台2016年07月18日 12時07分19秒

博物蒐集家の夏休みに相応しい気分を整えるため、夏向きの品に目を向けます。


中世の城塞のような天文台。


その前をコツコツと歩く女性。
白い雲と濃い緑に、夏の匂いを感じます。


キャプションには、Erfurt. Sternwarte im Kulturpark(エアフルト。文化公園内の天文台)」とあります。
エアフルトはドイツ・チューリンゲンの古都。
同地の市民公園の中に置かれた公共天文台の外観を写した絵葉書です。

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この絵葉書でちょっと驚いたのは、その発行時期。


この絵葉書は、オフセットの網点印刷ではなく、石版刷りなので、黙って見せられたら1910年頃の絵葉書か…と思ってしまいそうです。

(切手は旧・東ドイツのもの)

でも、裏面の消印は「1964年8月31日」付けで、戦後も戦後、戦争が終わって20年近く経ってからのものです。石版がこの頃まで絵葉書に使われていたのは意外でした。

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(現在の天文台。出典:Wikipedia「Zitadelle Cyriaksburg」の項より)

ときに、「城塞のような」と書きましたが、これは1528年に建てられた、本物の城塞建築の遺構であり、この地には12世紀以来、都市防備の城壁が築かれていたのだそうです。

その支配者は時と共に変わりましたが、1919年に周辺緑地を含めて、市民のための公園として開放され、戦後は東独政権下で、さまざまなイベントを催す場となりました。
この絵葉書当時は、「文化公園(Kulturparkクルトゥルパーク)」と呼ばれましたが、現在は「エガパーク(Egapark)」の名で親しまれています。

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さて、気になる天文台の詳細ですが、この塔が天文台に改装されたのは、やはり戦後の1950年のことで、大規模なガーデン・ショーが開かれたのに合わせてオープンしました。

ドームはカール・ツァイス・イエナ製、そしてメイン機材は、口径130ミリ、焦点距離1950ミリの屈折望遠鏡…と聞くと、天文台にしてはずいぶん小さいと思われるかもしれませんが、これは元々同地の中等学校にあった古い望遠鏡を譲り受けたもので、その歴史性が尊重されたのでしょう。

ドイツ語版ウィキペディアの記事(egaparkの項)には、「この天文台は、偉大な天文学者ヨハン・ヒエロニムス・シュレーターの生誕地における、最初の、そして今日に至るまで唯一の公共天文台である」と記されていて、なるほどと思いました。

ヨハン・シュレーター(1745-1816)は熟練の観測家で、月や惑星の観測で名を残しましたが、たしかに彼が用いた機材も、これと大同小異のものでしたから、シュレーターを偲ぶには恰好の場かもしれません。

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…というようなことを調べながら書いていると、1枚の絵葉書からでも、いろいろ学ぶことは多いです。まあ、低徊趣味といえば低徊趣味で、そこから何か新しいものが生まれるとは思えませんが、博物蒐集家の休暇には、こういうのんびりした、ちょっと物憂い時の過ごし方こそあらまほしいものです。


【参考ページ】
■egapark (Wikipedia)
 https://de.wikipedia.org/wiki/Egapark
■Zitadelle Cyriaksburg (同)
 https://de.wikipedia.org/wiki/Zitadelle_Cyriaksburg

京都へ(1)…同志社大学にて2016年05月18日 06時37分14秒

5月の京都へ行ってきました。
同志社大学で、6月25日まで開催されている新島襄の見た宇宙」展を見学し、併せて記念講演会を聞きに出かけるためです。このイベントについては、先日もご紹介しましたが、会場は同大学のクラーク記念館です。


この瀟洒な明治建築の中の静かなチャペルで、日本の天文学史の意外なエピソードに耳を傾けたのでした。


元洛東高校教諭の西村昌能氏による講演は、同志社の創設者・新島襄と、「少年よ大志を抱け」でおなじみのクラーク博士の、天文学を介した結びつきを解き明かす内容で、それだけでも興味深いものですが、さらに両者の接点が「隕石」だったと聞けば、これは大いに好奇心をそそられます。

なぜ隕石か。
クラーク博士は札幌農学校の礎を作り、マサチューセッツ農科大学の学長も務めた人ですから、専門は農学と思いきや、そもそもドイツで学位を取った際の研究は、隕石の化学分析であり、新島襄に対しても、日本で発見された隕石の資料提供を求める手紙を書き送っていた…というのが、講演会のひとつの聞きどころでした。

地球外生命探査というと、何となく最先端の研究テーマのように聞こえますが、地球外生命の存在は、これまで肯定と否定の歴史を繰り返しており、クラーク博士の頃は、肯定的意見が強い時期で、博士の研究も、隕石中の有機物を定量分析することに主眼があったそうです(クラーク博士の場合、生命の遍在に対する信念は、キリスト教的背景があったのかもしれません)。

さらに西村氏の講演は、新島襄の天文学の研鑚の跡をたどり、アメリカ留学時代のエピソードを紹介し、隕石学の歴史へと説き及び、明治天文学の多様な側面が、そこでは語られました。

(チャペルの天井)

西村氏に続き、講演会の後半は、元同志社大学教授の宮島一彦氏による、新島襄旧蔵の天球儀の話題を中心とした、東西の天球儀に関する講演でした。

新島の天球儀というのは、元禄14年(1701)、おそらく渋川春海の星図を元にして作られたもので、元の作者は不明ですが、新島が岡山の骨董店で見つけて買い入れたという由緒を持つ品です。

日本製天球儀といっても、当時の星座名は、中国のそれをそっくり踏襲しており、赤・黒・金に塗り分けられた星々の間を、金箔散らしの銀河が流れ、その現物は講演会後に実見しましたが、作行きも保存状態も良い、実に美しい紙張子製の品です。

ここで「赤・黒・金」というのは、中国星座には古来三系統あることに対応するもので、それぞれ魏の石申、斉の甘徳、殷(商)の巫咸が設定したものとされます。
渋川春海は、そうした伝統的な中国星座に加えて、オリジナルの星座も設定しており、通常それは「青」で図示されるのですが、この天球儀にはそれが表現されていないことから、この天球儀の成立事情がうかがえる…ようなのですが、詳細は今もって不明のようでした。

新島がこの天球儀を、いつ、何の目的で購入したかも、今となっては不明ですが、彼が西洋の天文学だけでなく、東洋天文学にも関心を向けていたことは、大いに注目されます。

なお、新島の天球儀は固く撮影禁止で、ネット上でも画像が見当たりません。
唯一、同志社大学図書館のトップページ(↓)にその部分図が、今日現在載っていますが、これは定期的に差し替えられているかもしれないので、詳細を知るには現物を見るしかありません。お近くの方はぜひ。(繰り返しますが、展示は6月25日までです。)
http://library.doshisha.ac.jp/img/index/main.jpg

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上記の天球儀を含め、「新島襄の見た宇宙」展の会場は、クラーク記念館の隣のハリス理化学館です。


同志社では創立当初から天文学の講義が行われ、この明治23年(1890)竣工の建物にも屋上に天文台が設置されていた…というのは、たいへん興味深い点で、これは新島が学んだアメリカ流リベラルアーツの伝統を継ぐもの、すなわち「教養」として、天文の知識を重視したことを示すものでしょう。

(ハリス理化学館同志社ギャラリーのリーフレットより。創建当時のハリス理化学校。屋上の八角形の構造物が天文台)

日本の天文学史というと、東大があって、京大があって、官製の天文台があって…というところに記述が集中しがちですが、それとは別に、こういう流れもあったことは、特筆すべきことと思います。

ただし、たいへん残念なことに、この同志社の天文台は、明治24年(1891)に起きた濃尾地震によってその安全性を危惧され、早くも明治26年(1893)に撤去されてしまいました。今は天文台へと通じる、らせん階段がのこされているのみです。

(この上は屋根裏部屋に通じ、今は物置のようになっているそうです)

(外から見た階段室)

こうした教育が日本でも根付いていたら、その後の歴史はどうなっていたろう…と思いますが、でも当時の諸条件を考えると、やっぱり難しかったのかなあ…とも思います。

(ハリス理化学館正面。1889の年号と「SCIENCE」の文字。)


(「タルホ的なるもの」は小休止して、京都の話題を続けます。次回は再びLagado研究所へ)

新島襄とアマーストの話2016年04月30日 09時52分15秒

昨日、アマースト・カレッジの名前が出たので、そこから話題を続けます。
アマーストには古い天文台があって、「ワイルダー天文台」という固有名を持っています。

(1900年代初頭の石版絵葉書。当時はドイツが絵葉書の本場で、これもアメリカ向けにドイツで作られたもの)

といっても、天文台が完成したのは1903年ですから、新島襄が留学していた1870年頃には影も形もなかったのですが、この天文台の主力機材が、アルヴァン・クラーク製46センチ屈折だと聞いて大いに驚きました(現存)。

(大ドーム拡大)

この巨大な望遠鏡は、現在一般にも開放されており、週末観望会に参加すれば、誰でも覗くことができるそうです。

ワイルダー天文台 公式サイト
 https://www.amherst.edu/museums/wilder

アマースト・カレッジは、名門大学とは言っても、いわゆるリベラルアーツ・カレッジ(教養学部大学)ですから、プロの天文学者を養成しているわけではありません。それは新島が留学していた頃も同様ですが、その教育プログラムにおいて、科学教育にも十全の配慮をしていたことは、上の一事から明らかです。

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アマーストが現在開設している専攻分野には、「物理・天文部門」があり、その淵源は1821年にさかのぼります。

アマースト・カレッジ「物理・天文部門」公式サイト
 https://www.amherst.edu/academiclife/departments/physics

おそらく、新島も留学中にその関連講義を聴く機会があったと想像します。
当時の物理部門で教鞭をとっていたのは、Ebenezer Strong Snell(1801-1876)という老先生(教授在職は、1834-1876)。スネル先生は、主に自然哲学(=物理科学)と数学を教えており、学生向けに天文学入門書なども編纂していましたが、専門の天文学者とは言い難い人物です。

(Ebenezer Strong Snell, 1801-1876。スネル先生の伝も含めて出典は以下。
 http://www3.amherst.edu/~rjyanco94/genealogy/acbiorecord/1822.html#snell-es

1870年前後、天文学の主流は、既に「New Astronomy」、すなわち分光学や写真術を応用した天体物理学の時代へと移りつつありましたが、アマーストでは19世紀前半と変わらぬ内容が、ノンビリ教えられていたのかなあ…と想像します。(新島はアマーストに入学する前から、航海天文学に接していたようですが、そちらはもとより天体物理学の興隆とは無縁でした。)

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上の想像にはウラがあって、新島が留学時代に使った天文学の教科書が、現在も同志社大学に保存されています。欄外余白に「1868年8月27日」の書き込みがあり、彼が修学2年目を前に手にした本です。
http://joseph.doshisha.ac.jp/ihinko/html/n01/n01010/N0101001G.html から「天文」で検索)。

画像サイズが小さくて読みにくいのですが、Denison Olmsted(1791-1859)が著した『An Introduction to Astronomy:Designed As a Text-Book for the Use of Students in College』という本で、おそらくその第3版(1866)でしょう。
そして、この故オームステッド先生の古風な教科書を改訂したのが、他ならぬ老スネル先生ですから、要するにこの本は、スネル先生の授業における「指定教科書」だったんじゃないでしょうか。

…というところからも、新島が身近に感じた天文学の匂いや肌触りは、19世紀半ばの一般向け天文学書に漂っていた風情と、そう遠いものではなかったと思えるのです。

(19世紀にアメリカで出版された、天文学の児童書・一般書)

天文学がビッグサイエンスとなる前、星たちが今よりもある意味で近く、またある意味で遠かった時代の空気を、新島は呼吸していたように思います。