アメリカン・ヒーローとしてのパロマー2023年05月16日 19時58分57秒

パロマーといえば、昔こんな紙ものを買ったのを思い出しました。


1960年の「トレジャー・チェスト」誌(Treasure Chest;1946-72刊)から採ったページですが、これ1枚だけ売っていたので、掲載号は不明。



うーむ、この色と線が、いかにもアメコミですね。
この一種能天気なオプティミズムこそが「時代の空気」というやつで、アメリカン・ホームドラマの世界とも地続きだと思いますが、その裏には核戦争の恐怖におびえ続けた冷戦期の過酷な現実もあり、なかなか微笑ましいとばかり言ってもおられません。



それでも、パロマーが――ひいてはミッドセンチュリーのアメリカ文化が――まとっていた一種の光輝をそこに強く感じます。

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さっき調べたら、「トレジャー・チェスト」はカトリック系の雑誌で、カトリックの教区立学校で配布されていた…とWikipediaは教えてくれました。まあ、アメコミ誌の中でも、ごく「良い子」向けの雑誌だったのでしょう。なお、作者の Ed Hunter こと Edwin Hunter は同誌の常連作家らしいですが、伝未詳。


ちなみに、裏面はこんな感じで、「魔法のフリバー」という空飛ぶ車の物語が掲載されています。フリバーというのはT型フォードの愛称で、1960年当時、すでに過去のオンボロ車だったT型フォードが大活躍するお話のようです。

続・パロマー物語2023年05月13日 17時03分49秒

しばらくぼーっとしていました。
本を読むぞと宣言したわりに大して読めなかったし、というよりも本を読むと眠くなることに気が付きました。昔、年長の人がそう話すのを聞いて、そんなものかなあ…と思っていましたが、自分がその齢になってみると、これは一大真理ですね。もちろん興味のない本を読んでいるうちに、退屈して眠くなるのは分かるんですが、興味のある本でも眠くなるというのは意外な落とし穴で、残りの人生、もうあんまり本も読めないなあと思うと、ちょっぴり寂しいです。

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さて、ブログもぼちぼち再開です。

先日、プラネタリウム100周年の話題を書きましたが、今年は他に75周年の話題もあることを耳にしました。すなわち、パロマー山天文台の200インチ(5.1m)望遠鏡が、1948年にお披露目されて以来、今年で75歳を迎えるという話題です。


上は先日購入した、パロマ―山天文台を描いたおまけカード。
左はイギリスのリージェント石油の「Do You Know?」シリーズ(1965)、右はオーストラリアのサニタリウム・ヘルス・フード・カンパニーの「Wonder Book of General Knowledge」シリーズ(1950-51)に含まれるカードです。

200インチ望遠鏡(ヘール望遠鏡)は、アメリカ一国にとどまらず、文字通り世界のヒーローでしたから、あちこちでこういう「パロマーもの」が作られたわけです。


上は1948年8月30日に発行された記念切手を貼った初日カバー。
この日、まさに望遠鏡の鎮座するパロマー山で投函され、その日の消印が押された記念すべき品です。
ただ、望遠鏡自体の完成記念式典は、それよりもちょっと前の6月1日から行われたので、望遠鏡はあと20日足らずで75歳の誕生日を迎えることになります。

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「大宇宙を見通す目」というと、今ではジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がその象徴でしょうが、かつてその地位を占めたのがパロマー山のヘール望遠鏡です。しかもその地位は、1976年にソ連のBTA-6望遠鏡が口径世界一の記録を塗り替えるまで、30年近く盤石でしたから、パロマーに思い入れのある天文ファンは、複数世代にまたがっているはずで、もちろん私もその中に含まれます。

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自分が書いた記事に感動するというのも妙なものですが、私はパロマーと聞くと即座に16年前の記事を思い出し、読み返しては思いを新たにします。

■パロマー物語…クリスマス・イヴに寄せて

まあ、これは私が書いたといっても、地元に住むあるアメリカ人女性の文章の引用であり、彼女の記憶の中のパロマーが美しいからこそ感動するわけですが、それに感動できるということ――つまり私の中のパロマー像が彼女の記憶と共鳴するということ――それ自体、私にとっては嬉しいことです。

ウラニア劇場へ2023年04月21日 17時02分43秒

今日も「ウラニア」の絵葉書の話題です。
ただし、ところは変わって、舞台は1898年の世紀末ウィーン。

この年、時の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は在位50周年を迎え、ウィーンではこの慶事を祝う大規模な博覧会が催されていました。この催しの基調は、過去半世紀に成し遂げられた産業・貿易・技術の発展を謳歌するというものでしたが、中でも特に科学の進歩に焦点を当てたパビリオンが、「ウラニア劇場(Urania-Theater)」です。


それをモチーフにしたのが、このユーゲントシュティール然とした絵葉書。



昨日の絵葉書と違って、今回のは本物オリジナルで、その消印も博覧会場で押された特製スタンプらしく、インクの残り香に1898年ウィーンの空気を感じます。

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ウラニア劇場はこの博覧会のためだけに、急拵えしたものではありません。

1888年にベルリンで、科学知識の普及を旨とした市民教育のための組織「ベルリン・ウラニア協会(Die Berliner Gesellschaft Urania)」が設立され、これに刺激されて、1897年にウィーンでも「ウィーン・ウラニア組合(Das Syndikat Wiener Urania)」が結成されました。その活動拠点として作られたのが、この「ウラニア劇場」であり、博覧会側とウラニア組合側は、お互い渡りに船、ちょうどタイミングが良かったわけです。


三々五々、「星の劇場」につどう人々。


その先にそびえる科学の殿堂と、それを見下ろす星たち。

新古典様式とユーゲントシュティール(アールヌーボー)様式をミックスした建物は、800 人収容のホールを持ち、さらに200人が入れる講堂や、科学実験の実演部屋、さらに口径8 インチ(20cm)を始めとする一連の望遠鏡を備えた天文台、水族館等を擁していました。ここで日夜、幻灯講演会、科学実験、気球による気象観測等々が行われたのです。

しかし、ここはあくまでも仮設の建物に過ぎず、また経費も嵩んだことから、博覧会の終了後まもなくして閉鎖・取り壊しとなり、ウィーンのウラニア組合は、この後しばらく市内の貸会場を転々としながら、活動を続けました。

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最終的にウラニア組合の落ち着いた先が、今も活動を続けているウィーンのウラニア天文台(1910年オープン)です。


同天文台については、13年前に紹介済みですが、そのときは天文台の前史であるウラニア劇場のことが、分かっていませんでした。

■妄想酒舗、ウラニア
■妄想ではなかった酒舗ウラニア

今回13年ぶりに、その経緯を知ることができたわけで、ささやかながら、これも「継続は力なり」の実例だと思います。

山峡に聳え立つドーム2023年04月20日 20時39分11秒

こんなカッコいい絵葉書を見つけました。
ただし、オリジナルではありません。1905年に制作された「ウラニア天文台」のポスターを、お土産用に絵葉書化したものです(原版はチューリッヒ・デザインミュージアム所蔵)。


ここはチューリッヒにある公共天文台で、研究成果を上げるよりも、市民に星に親しんでもらうことを目的とした施設です。

この天文台は以前も登場済み。

■そびえ立つウラニア
■チューリッヒのウラニア天文台(補遺)

ちなみに、以前の記事ではここを1907年のオープンと書きましたが、建物自体は1899年にできており、1907年は運用開始の年の由。


遠くにはアルプスの山並み、眼下には冷涼な湖と瀟洒な街並み、そのすべてを覆う満天の星。


ドームの中では望遠鏡の周りに紳士淑女や少年たちが集まり、階下のレストランでは美味しい料理が湯気を立て、人々が美酒を酌み交わしたのです。何ともうらやましい環境です。

それにしてもこのポスター。山峡に舞い降りた星の女神をたたえるに相応しい、実に美しいデザインです。

バチカンに天文学の風は吹く2023年03月29日 05時53分47秒



1891年にバチカン天文台再興の勅命を発した、教皇レオ13世の肖像を鋳込んだ銀メダル。


裏面には、その事績を記念して、天文学の女神ウラニアと、遠景にドームを頂く塔が見えます。発行年は再建と同じ1891年。

メダルの周囲に刻まれた銘文は、「Rei astronom honor in vat instauratus et auctus.」で、これをGoogleに訳してもらうと、「The honor of the astronomer was restored and increased.(天文学者の栄誉は回復され、弥増した)」といった意味らしいです。

バチカン天文台とレオ13世の関係や、この塔がいったいどの塔を指しているのか、その辺の事情は、前回独立した記事にまとめました。

そこでも触れたように、この塔は現在も残る「聖ヨハネ塔」で間違いないのですが、ウィキペディアの該当項目【LINK】には、天文台との関係を窺わせる記述がありません。この塔から望遠鏡がカステル・ガンドルフォに移されてから、まだ100年も経っていませんが、どうも歴史としては埋没しつつあるようです。

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それにしても―。
ちょっとあざとい写真ですが、こんなふうに並べると一抹の感慨なきにしもあらず。

(ガリレオのメダルはこちら【LINK】に既出)

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ときに、ウラニアは古代の異教の神ですから、それがバチカンに堂々と立っているのは、考えてみると不思議な気がしますが、この辺は古来の伝統ということで不問に付されているのでしょう。先ほど検索したら、バチカン美術館には今もウラニアの像が立っていることを知りました。


バチカン天文台簡史2023年03月28日 06時34分48秒

こだわるようですが、再びバチカンの話題。
その名をしばしば出しているので、バチカン天文台といえばカステル・ガンドルフォ…というイメージですが、1935年に同地に移転するまで、バチカン天文台は文字通りバチカン市国(ローマ教皇庁)の敷地内にありました。

まずバチカンとカステル・ガンドルフォの位置関係をGoogleマップで確認しておくと、こんな感じです。

(青いルートの道のりは29.1km、自動車で52分と表示されています)

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ウィキペディアの「バチカン天文台」の項【LINK】には、その歴史が書かれていますが、ちょっと記述がゴチャゴチャして分かりにくいので、他のソースも交えて、自分なりに整理しておきます。

まず、バチカン天文台の前史として、16世紀の暦法改革(=グレゴリオ暦の導入)のために、太陽の南中高度を観測する作業が、「トッレ・グレゴリアーナ」、通称「風の塔」で行われた…ということがウィキには書かれています。

「風の塔」とはまた素敵な名前ですが、この「トッレ・グレゴリアーナ」、英語でいえば「グレゴリアン・タワー」【LINK】の位置は下のような感じで、サン・ピエトロの北側になります。

(バチカン全景。中央がサン・ピエトロ。北が上)

(北が右になるよう回転。サン・ピエトロ(左)と風の塔(矢印)。四角く飛び出ているのが風の塔)

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このあと、18世紀後半になると、バチカンの天文研究が俄然熱を帯び、イエズス会立の教育機関である「コッレージョ・ロマーノ」に「ローマ教皇庁天文台」が設けられ(1774)、ここで本格的な望遠鏡観測が行われることになりました。場所は、教皇庁から見るとテベレ川を越えた川向うになります(上のバチカン全景図だと、写真の右側に大きくはみ出します)。恒星の分光観測で有名なセッキ神父(1818-1878)が研究を行ったのもここです。

ではこの時期、「風の塔」は完全に打ち捨てられていたかというと、そうでもなくて、1780年頃、フランチェスコ・サヴェリオ・ゼラーダ枢機卿(1717-1801)の意向で、「風の塔」は再び天文台として使用されることになり、ここを「スペコラ・バティカーナ(バチカン天文台)」とネーミングしました(以下、「旧バチカン天文台」と呼ぶことにしましょう)。ここで指揮を執ったのは、植物学や気象学も修めたジリーイ司祭(Filippo Luigi Gilii 、1756–1821)LINK】という人で、1821年に司祭が亡くなるまで同天文台は存続しました。

ですから、1800年前後の約40年間について見ると、バチカンの天文活動はバチカン市外にあった「ローマ教皇庁天文台」と、バチカン内部の「風の塔」にあった「旧バチカン天文台」の2つが並行していたことになります。名称はともかく、そのいずれもがバチカン天文台の前身と見ることができます。

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しかし、天文観測にふさわしい平穏な時期も長くは続かず、19世紀の到来とともに、長く小国分立状態にあったイタリアを統一する「イタリア統一運動」が起こり、新たに成立したイタリア王国がローマ教皇領を併合すると、コッレージョ・ロマーノも接収され、1878年にセッキ神父が亡くなると同時に、かつての「ローマ教皇庁天文台」は「ローマ大学王立天文台」に改称され、バチカンの天文研究は一時中絶の憂き目を見たのでした。

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このあと、バチカン天文台再興を献策する人がいて、1891年に教皇レオ13世が勅令を発し、荒廃していた「風の塔」を再整備するとともに、「写真天図計画(Carte du Ciel/全天をくまなく撮影して写真星図を作る国際的プロジェクト)」に参加するため、新たに大型機材を現在の「聖ヨハネ塔」LINK】の最上部に設置しました。

(サン・ピエトロ(右)と聖ヨハネ塔(矢印)。北が上。)

その前後の事情は、バチカン天文台の副台長を務めたジュゼッペ・ライス神父(Giuseppe Lais、1845-1921)の評伝に書かれています。ちなみにライス神父はセッキ神父の愛弟子です。

■Father Giuseppe Lais  (1845-1921) : On the Centenary of his Death 
 from the Roman College Observatory to the Vatican Observatory.
 Vatican Observatory Annual Report 2021, pp. 44-47.

16年前の記事に登場した以下の絵葉書が、その聖ヨハネ塔のドーム内部の様子で、写っているのがライス神父です(以前の記事には不正確な記述がまじっていますが、参考にリンクしておきます。LINK①LINK②)。


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この後、ローマ市内の観測環境の悪化(主に光害)に伴い、1935年にバチカン天文台はカステル・ガンドルフォに移転し、さらに1980年代に入ってから、さらなる観測適地を求めて米アリゾナ州に観測拠点を移し、現在に至っている…というのは、これまでも書いたとおりです。なお、カステル・ガンドルフォには今も事務部門が残っており、バチカン天文台本部として機能しているとのことです。

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以上、若干くだくだしい記述になりましたが、あるモノを紹介するのに前置きが必要と思って、その前置きとして書きました。肝心のモノについては次回登場させます。

(この項つづく)

絵葉書探偵2023年03月25日 11時41分37秒

天文台の絵葉書を整理していて、以下の1枚が目に留まりました。



これはいったいどこの天文台か?
表にも裏にも、何のキャプションもないので、こういうのが一番難しいのですが、じっと見ているうちに、この「S. Fayet」という差出人の名前に、何となく見覚えがある気がしました。


検索すると、果たしてその名はすぐに見つかりました【LINK】。

すなわち、ガストン・ファイエ(Gaston Fayet 、1874-1967)。1917年から62年まで、フランスのニース天文台長を長く務めた人です。(ファーストネームのイニシャルが「S」に見えましたが、これはフランス語の筆記体で「G」ですね。)

ならば当然、被写体はニース天文台のはず。
調べてみると、確かにこれは1883年から運用を開始した同天文台の「小赤道儀棟(Petit Équatorial)」の写真です【LINK】。

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では…と、宛先にも目を凝らすと、そこにも「observatoire」の文字が見えます。


なるほど、よく見るとこの葉書は「ブザンソン天文台 ルブフ台長御夫妻」宛てなのでした。

■Observatoire de Besançon

(ブザンソン天文台。上記ページより)

■Auguste Victor Lebeuf(1859-1929)

結局、これはある天文台長が別の天文台長に送った挨拶状という、なかなか天文趣味に富んだ1枚で、買ったときはそうした事情を一切知らずにいましたから、これはちょっと得をした気分。

(消印は1914年3月1日(1月3日?)付け)

まあ後知恵で考えると、切手の消印がニースですから、それに気づけばすぐニース天文台にたどり着けたはずですが、そうするとたぶん差出人と受取人の探索はせずに終わったでしょうから、これは回り道をして正解です。


なお、写真に写っている人物がファイエだと一層興味深いのですが、この写真だけでは何とも言い難いです。ちなみにファイエは下のような面差しの人だそうです。

(前列左がファイエ。1932年の国際天文連合総会にて。© IAU/Observatoire de Paris。出典:https://www.iau.org/public/images/detail/iauga1932-ship/

ハロー、CQ、CQ、こちらはバチカン天文台2023年03月19日 10時54分14秒

これも紙モノと言っていいのでしょうが、こんなものを見つけました。


「スペコラ・ヴァティカーナ」、すなわちバチカン天文台に設けられたアマチュア無線局「HV2VO」から送られたQSLカード(交信証明書)です。バチカンにハム(アマチュア無線)マニアがいたと知って、「へえ」と思いました。

珍しさついでに、細部に注目してみます。


右肩のスタンプは、カトリック・プロテスタント・正教会を包摂する「世界教会協議会」のロゴマークで、十字架のマストを立てて海に浮かぶ船は、キリスト教会のシンボルだそうです。


裏面を見ると、問題のバチカンのハムマニアは、エドムンド・J・ベネデッティという人です(最後の「S.J.」はイエズス会士を意味する、一種の称号)。


交信日は1985年2月16日、交信相手はW2NCG(ニューヨークに開設された無線局で、その主は戦中から無線趣味にはまっていた、Ralph Gozen(Golyzniak)というベテランの由)。使用周波数は7メガヘルツ帯で、交信はCW(電信)、すなわちトン・ツーのモールス信号で行われました。通信状況を示すRSTコードは最高度の「599」、すなわち「完全に了解可能で、電波も非常に強く、モールス信号の音調も問題なし」。QSLカードは、先にRalphさんの方から届いたので、「TNX(Thanks)」にチェックが入っており、末尾の「73」は、アマチュア無線家が交信を締めくくるときの符牒で「Best regards」の意味です。

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ハムには小学生の頃憧れたので、こういうのを見ると心にチカっと来るものがあります。それに何と言っても舞台がバチカン天文台ですから、二重三重に興味を惹かれます。

探してみるとこのバチカンのQSLカードはいろいろあって、もう1枚見つけたのがこれです。


ローマ教皇の離宮である、ローマ南郊のカステル・ガンドルフォ(ガンドルフォ城)と、そこに併設されたバチカン天文台の航空写真をデザインしたものですが、バチカン天文台は1980年代に入ってから、アメリカのアリゾナ州に観測拠点の移転を進めたので、これはバチカン天文台が、文字通りバチカンと結びついていた末期の姿ということになります。

こちらも裏面を見てみます。


こちらの交信日は1984年12月7日。交信相手はこれもアメリカにあったW2FP局です(主はニュージャージーのWalter Bernadynさんで、2015年に亡くなられた由)。このときも電信でのやり取りで、RSTは「599」でした。


このカードを見ると、バチカンのアマチュア無線局はHV2VOだけではなく、ベネデッティさんを含む5人が、それぞれ独自のコールサインを持って交信を行っていたことが分かります。こうなると、「よし、この5人のカードを全部集めるか!」と思ったりもしますが、そこまでいくと一寸やり過ぎなので、QSLカードはこれで打ち止めにします。

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バチカンのハムマニア、ベネデッティさんの事績は、『ヴァチカン天文台年報2016』【LINK】に、その訃報とともに載っていました(pp.51-2、以下改行と太字は引用者)。

「エドムンド・ベネデッティ・カリトウスキー神父(イエズス会士)が、〔2016年〕12月13日にバルセロナで死去した。

ベネデッティ神父は1920年にロンドンで生まれ、1935年にイタリアのトリノでイエズス会に入り、1950年にインドのダージリンで叙階され、80年間をイエズス会士として、また66年間を司祭として活躍した。彼は、その長く魅力的な人生の中で、南米でも幅広く活躍した。1950年代にロンドンでエンジニアとしての訓練を受け、1978年にバチカン天文台に入り、望遠鏡のエンジニアとして働き、趣味のアマチュア無線「ハム」に熱心なことでも有名だった

観測陣がアリゾナに移転するのに伴い、1988年にはツーソンに着任し、1992年までVATT(Vatican Advanced Technology Telescope、バチカン新技術望遠鏡)の機器開発に参加した。彼の特筆すべき業績は、アリゾナとアルゼンチンの望遠鏡で広く使用された偏光計VATTPolの開発に携わったことである。

天文台での仕事を終えた後も、VATTの所在地からほど近いウィルコックスの教区司祭としてツーソンに留まり、天文台のコミュニティと関わりを持ち続けた。1998年には、テキサス州コーパスクリスティに移り、80代半ばまで教区の仕事を続けた。2004年、引退してスペインに移住(ブラジルへも何度か旅行した)。」

Edmund Benedetti Kalitowski(1920-2016)。ほぼ御当人で間違いなかろうと思いますが、画像検索の結果からリンク先にうまく入れず、出典は不詳)


【参考記事】

■ヴァチカン天文台廃絶?

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)