フラマリオンの部屋を訪ねる(後編)2021年10月16日 17時24分57秒

フラマリオンの観測所にして居館でもあったジュヴィシー天文台は、これまで何度か古絵葉書を頼りに訪ねたことがあります。まあ、そんな回りくどいことをしなくても、グーグルマップに「カミーユ・フラマリオン天文台」と入力しさえすれば、その様子をただちに眺めることもできるんですが、そこにはフラマリオンの体温と時代の空気感が欠けています。絵葉書の良さはそこですね。


館に灯が入る頃、ジュヴィシーは最もジュヴィシーらしい表情を見せます。
フラマリオンはここで毎日「星の夜会」を繰り広げました。


少女がたたずむ昼間のジュヴィシー。人も建物も静かに眠っているように見えます。

(同上)

そして屋上にそびえるドームで星を見つめる‘城主’フラマリオン。
フラマリオンが、1730年に建ったこの屋敷を譲られて入居したのは1883年、41歳のときです。彼はそれを天文台に改装して、1925年に83歳で亡くなるまで、ここで執筆と研究を続けました。上の写真はまだ黒髪の壮年期の姿です。


門をくぐり、庭の方から眺めたジュヴィシー。
外向きのいかつい表情とは対照的な、穏やかな面持ちです。木々が葉を落とす季節でも、庭の温室では花が咲き、果実が実ったことでしょう。フラマリオンは天文学と並行して農業も研究していたので、庭はそのための場でもありました。

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今日はさらに館の奥深く、フラマリオンの書斎に入ってみます。


この絵葉書は、いかにも1910年前後の石版絵葉書に見えますが、後に作られた復刻絵葉書です(そのためルーペで拡大すると網点が見えます)。


おそらく1956年にフラマリオンの記念切手が発行された際、そのマキシムカード【参考リンク】として制作されたのでしょう。


葉書の裏面。ここにもフラマリオンの横顔をかたどった記念の消印が押されています。パリ南郊、ジュヴィシーの町は「ジュヴィシー=シュロルジュ」が正式名称で、消印の局名もそのようになっています。
(さっきからジュヴィシー、ジュヴィシーと連呼していますが、天文台の正式名称は「カミーユ・フラマリオン天文台」で、ジュヴィシーはそれが立つ町の名です。)


書斎で過ごすフラマリオン夫妻。
夫であるフラマリオンはすっかり白髪となった晩年の姿です。フラマリオンは生涯に2度結婚しており、最初の妻シルヴィー(Sylvie Petiaux-Hugo Flammarion、1836-1919)と死別した後、天文学者としてジュヴィシーで働いていた才女、ガブリエル(Gabrielle Renaudot Flammarion、1877-1962)と再婚しました。上の写真に写っているのはガブリエルです。前妻シルヴィーは6歳年上の姉さん女房でしたが、新妻は一転して35歳年下です。男女の機微は傍からは窺い知れませんけれど、おそらく両者の間には男女の愛にとどまらない、人間的思慕の情と学問的友愛があったと想像します。


あのフラマリオンの書斎ですから、もっと天文天文しているかと思いきや、こうして眺めると、意外に普通の書斎ですね。できれば書棚に並ぶ本の背表紙を、1冊1冊眺めたいところですが、この写真では無理のようです。フラマリオンは関心の幅が広い人でしたから、きっと天文学書以外にも、いろいろな本が並んでいたことでしょう。


暖炉の上に置かれた鏡に映った景色。この部屋は四方を本で囲まれているようです。


雑然と積まれた紙束は、新聞、雑誌、論文抜き刷りの類でしょうか。

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こういう環境で営まれた天文家の生活が、かつて確かに存在しました。
生活と趣味が混然となったライフタイル、そしてそれを思いのままに展開できる物理的・経済的環境はうらやましい限りです。フラマリオンは天文学の普及と組織のオーガナイズに才を発揮しましたが、客観的に見て天文学の進展に何か重要な貢献をしたかといえば疑問です。それでも彼の人生は並外れて幸福なものだったと思います。

なお、このフラマリオンの夢の城は、夫人のガブリエルが1962年に亡くなった際、彼女の遺志によってフランス天文学協会に遺贈され、現在は同協会の所有となっています。

謎の学校天文台2021年08月29日 08時34分00秒

1枚の絵葉書を買いました。謎の多い絵葉書です。


そこに写った2枚の写真には、それぞれ「天文台」、「屋上観望台 望遠鏡」とキャプションがあります。一見してどこかの学校の竣工記念絵葉書と見受けられます。しかし、どこを写したものか、まったく手がかりがなくて、それが第1の謎です。

(裏面にも情報なし)

(右側拡大)

背景に目をやると、ここは人家の立て込んだ町の真ん中で、遠近に煙突が見えます。戦前に煙突が櫛比(しっぴ)した都市といえば、真っ先に思い浮かぶのは大阪ですが、まあ煙突ぐらいどこにでもあったでしょうから、決め手にはなりません。

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この天文台の載った建物は、隣接する木造校舎に接ぎ木する形で立っていて、この真新しい鉄筋校舎の竣工記念絵葉書だろうとは容易に想像がつきます。

1つ不思議に思うのは、この天文台が計画的に作られたものなら、当然新校舎内の階段を通って屋上に出ると思うのですが、実際には旧校舎の「窓」から、急ごしらえの階段をつたって屋上に至ることです。なんだか危なっかしい作りです。となると、この天文台は計画の途中で、無理やり継ぎ足されたのかなあと思ってみたり。でも、そのわりにこの天文台は立派すぎるなあ…というのが第2の謎です。

【8月29日付記】 
記事を上げてから思いつきましたが、この新校舎の各教室に行くには、旧校舎から水平移動するしかなくて(壁の一部を抜いたのでしょう)、新校舎内部には一切階段スペースがなかったんじゃないでしょうか。だとすれば、第2の謎は謎でなくなります。

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実際、この天文台はひどく立派です。
この絵葉書は大正年間のものと思いますが、当時の小学校――写真に写っている風力計や風向計は、高等小学校レベルのものでしょう――にこれほどの施設があったというのは本当に驚きです。

以前紹介した例だと、大正12年竣工の大阪の船場小学校にドームを備えた天文台がありました。


船場小は地元財界の協力もあって、特に立派だったと思うんですが、しかし今日のはそれよりもさらに立派に見えます。

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そして、左の写真に写っている望遠鏡も実に本格的です。

(左側拡大)

メーカー名が不明ですが、乏しい知識に照らすと、野尻抱影の愛機「ロングトム」↓に外見がよく似ています。


口径4インチのロングトムよりも若干小ぶりに見えますが、架台を昇降させる特徴的なエレベーターハンドルがそっくりです。日本光学製のロングトム――というのはあくまでも抱影がネーミングした愛称ですが――は、昭和3年(1928)の発売。ただし同社はそれに先行して、大正9年(1920)に2インチと3インチの望遠鏡を売り出しており、ひょっとしたらそれかな?と思います。この辺はその道の方にぜひ伺ってみたいところ。

参考リンク:March 2006, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report

上記ページによれば、日本光学製の3インチ望遠鏡(木製三脚付)のお値段は、大正14年(1925)当時で500円。小学校の先生の初任給が50円の時代です。
しかも、この屈折望遠鏡のほかに、ドーム内にはもっと本格的な望遠鏡(反射赤道儀か?)があったとすれば、破格な上にも破格な恵まれた学校ですね。

ちなみに、望遠鏡の脇のロビンソン風力計の真下は、自記式記録計が置かれた観測室だったはずで、それと隣接して理科教室があったと想像します。そこで果たしてどんな理科の授業が行われたのか、そのこともすこぶる気になります。

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こんなすごい学校と天文台のことが、今となってはまるで正体不明とは、本当に狐につままれたようです。

(※最後に付言すると、上の文章には、「これが小学校だったらいいな…」という私の夢と願いが、強いバイアスとしてかかっています。実際には旧制の中学や高校、あるいは女学校なのかもしれません。)

天文台と時刻決定2021年02月20日 16時21分40秒

口に糊する仕事に忙殺されていましたが、ぼちぼち再開です。
このところ時計と天文の関係について、いくつか話題にしましたが、最近こんな絵葉書を見つけました。


時計メーカーのL. Leroy & Cie(1785年創業)が、1910年に出した記念絵葉書です。


何を記念しているかといえば、同社の天文用振り子時計が、フランスの報時業務に使われるため、パリ天文台に納入されたことを記念するもので、当然そこには自社の技術力の高さを誇示する意味合いがあったのでしょう。


この年、パリ天文台発のフランス標準時は、ただちにエッフェル塔から無線電信によって、遥か5000キロ彼方の船舶にまで伝えられるシステムが完成しました。正確を期すと、1910年3月23日のことです。

エッフェル塔というのは、そもそも高層建築の技術的デモンストレーションのために作られたもので、当初はこれといった用途がなかったそうですが、このとき初めて「電波塔」という性格が付与されたのです。

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昔は天体の南中を観測して時刻を求めるのが最も正確でしたから、標準時の決定も天文台の管掌でした。これは地球の回転を、時計として用いることに他なりませんが、19世紀半ばに、地球の自転速度は一定ではないことが分かり、さらに20世紀に入ると、地球の回転よりも正確な時計が人の手で作られるようになって、時刻の決定は天文台の専売特許ではなくなりました。

それでも、歴史的経緯によって、たとえば日本の国立天文台は、「中央標準時の決定及び現示並びに時計の検定に関する事務」という役目を、現在も法律(省令)で負わされています。肝心のフランスでは現在どうなのか不明ですが、上の絵葉書は、かつてあった天文台と時刻決定の強固な結びつきを、明瞭に教えてくれます。

さらに、H. Benckerという人の論文(LINK)を参照すると、フランスは自主の気風が強いのか、他国がグリニッジを基準とする時刻体系を導入した後も、時刻の基準地点をパリと定めて、これが1891年から1911年まで続いたそうです。エッフェル塔からの報時自体も、結局、1910年3月23日から1911年3月9日までの1年弱で終わったので、この絵葉書はその意味でも貴重な歴史の証人です。

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絵葉書の裏面は、こんな↓感じです。


流麗な筆記体を凝視すると、宛名(受取人)は、当時、パリ物理化学高等専門学校(l'École de physique et chimie de Paris)の教授をつとめた、シャルル・フェリー(Charles Fery、1866-1935)と読み取れます。絵葉書の絵柄も、宛名も渋い顔触れなので、差出人と葉書の文面も気になりますが、こちらは凝視不足で、今のところ判読不能です。

ヤーキスの夜明け2020年05月02日 14時22分33秒

この連休は、草を植えたり、木を切ったり、網戸を張り替えたりして過ごしています。その合間にお茶を飲み、酒を飲み、本を読み…と、こう書くと、我ながら至極結構なご身分だねと思いますけれど、もちろんこれは強いて悠然としているからそうなので、心の底から寛いでいるわけではありません。

多くの人が感じているであろう、このヒリヒリする不安な思い―。
コロナのことも、コロナ後のことも、10年先のことも、いったん不安に思えば、不安ならざるはなしという今の有様です。

ただ、日本のことはさておき(こんな按配ですから、きっぱりとさておきましょう)、海の外に目を向ければ、理性と才覚で困難を乗り越えつつある地域も多いし、人間の営みの力強さを証する例には事欠きません。そのことは大きな希望です。ヒトというレベルで考えれば、ヒトはてんでダメなところもありますけれど、なかなか大したところもあるなあ…と、そんな当たり前のことを考えながら、今は珈琲を飲んでいます。

桜の話も結局尻切れトンボですが、無事来年の春を迎えることができたら、再び「自宅で桜を見る会」を開催することにします。

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ときに、今年の2月にシカゴのヤーキス天文台の話題がありました。

■ヤーキス天文台の聖骸布

その存続をめぐって長いこともめていた同天文台ですが、ついさっき決着が着いたというニュースを耳にしました。


 
 「人だかりも、テープカットも、シャンパンボトルのはじける音もなかったが、本日、ある祝典がヤーキス天文台前の階段で行われた。科学的探求と教育にかかる、この愛すべきランドマークを保存するための2年間にわたる努力の集大成として、私立ヤーキス未来財団が、シカゴ大学から土地建物の所有権を正式に引き継いだ。」

…という書き出しで始まる記事によれば、今後、同財団が建物の整備を行い、今秋には2018年の閉鎖以来、2年ぶりにヤーキスを再公開するとのこと(本当はもうちょっと早めの公開を予定していたらしいですが、コロナの影響でずれこんだそうです)。

何にせよめでたいです。私もヤーキス天文台のオーナーのひとりとして― タイル1枚のオーナーにすぎませんが ―、本当に喜ばしいニュースです。

明けない夜はなく、止まない雨もないのです。
もちろんコロナだって…と続けてもいいのですが、場合によっては「ヤーキスの存続交渉が決裂し、建物の取り壊しが決まった」というニュースだってあり得たわけですから、強引な我田引水は控えます。

雪のヤーキス天文台2020年02月18日 20時44分28秒

今日はあちこちで雪が降ったそうですが、私の町は蚊帳の外でした。
そうなると、ちょっぴり残念な気持ちがします。


雪のヤーキス天文台。
一面の銀世界の中にそびえる大ドーム。
まだ完成間もない1900年代初頭の光景です。

石版手彩色の色も爽やかだし、なかなか絵になる光景ですね。そして、絵になるばかりでなく、実にすがすがしい。「雪ぐ」と書いて「すすぐ」と読むように、真っ白な雪は、濁世の汚れを洗い清めてくれるような気がします。


雪の林野は、静かなようでいて、にぎやかにも感じられます。
その奥に動・植物の息遣いを感じるし、雪を目にした幼い日の心の弾みが、なにがしか甦るからでしょう。

ヤーキス天文台の聖骸布2020年02月17日 06時37分26秒

(昨日のつづき)

シカゴ郊外に聳え立つシカゴ大学・ヤーキス天文台


史上最大の屈折望遠鏡を備えた巨大な建物は、まさに近代を制覇したアメリカ帝国が、ウラニア女神にささげた壮麗な宮殿の趣があります。小さい天文台に憧れると言ったそばから何ですが、茶室の美を良しとする人が、同時に姫路城に感嘆してもいいわけで、ヤーキス天文台の偉容は、文句なしにすごいです。

しかし、この宮殿も老いは免れがたく、近年は閉鎖と存続の間を絶えず揺れ動き、それに関連したニュースを耳にすることが多いです。結局のところ、現在どうなっているのか、英語版Wikipediaをざっと見たんですが、やっぱりよく分かりませんでした。所有者であるシカゴ大学と、創設時に大枚を出資したヤーキス家、そしてヤーキス未来財団とが、存続に向けてややこしい交渉を今も続けているようです。

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1897年に献堂式を執り行ってから、ちょうど100年後―。
1997年の夏に、同天文台の大規模な改修が行われ、外壁のテラコッタ製タイルの交換が行われました。その際、古タイルの大半は捨てられてしまいましたが、完品のまま取り外された一部のタイルは、修理費用を寄付した人に、記念品として贈られました。(日本の大寺院の修復でも、似たようなことをやりますね。)

手元のタイルはその時のもので、これを譲ってくれたのは、同天文台のスタッフである Richard Dreiser 氏です(と言って、別に氏とは知り合いでも何でもなくて、氏がたまたまeBayに出品していたのです)。


タイルの長辺は20cm、短辺は14.5cmほどあります。肉厚の煉瓦質のタイルです。


上の写真だと、金属製ドームの直下にぐるっと手すりを巡らせ、壁に3つの正方形の窓が見えます。このタイルが取り付けられていたのは、この窓の上部、ちょうどドームと接する部分だ…というのが、ドレイサー氏の説明です。


裏面と側面には、製造時に押された数字と記号がくっきりと残っています。


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2018年、これがひょっとしたら、ヤーキス天文台を見学する最後のツアーになるのでは?…と、急ぎ記録されたのが以下のページです(実際、今もツアー中止状態が続いています)。ここでツアーの案内役をつとめているのが、ドレイサー氏本人。

■Yerkes Observatory in William’s Bay-Our Last Tour

ヤーキス天文台に行ったことはありませんが、リンク先の動画を見ると、まるでその場にいるような気分になります(ドームで音声が反響して、エコーがかかっているのがリアルに感じられます)。いえ、気分だけじゃありません。何せ「本物のヤーキス天文台」(の一部)が、今こうして手元にあるのですから、これはもう行かずして行ったようなものです。

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巨人望遠鏡は天文台をしろしめす聖なる主であり、建物はそれを包む布。
まあ、この場合、聖骸布の一部を無意味に有難がるよりも、巨人望遠鏡とその住居が、これからも長く地上に聳え続けることの方が大事なので、ぜひ交渉が円満にまとまってほしいです。

天文聖遺物2020年02月16日 12時21分29秒

一昨日の「カンツェルヘーヘ太陽観測所」でいちばん目立つ存在である「塔」。
あそこが太陽観測所ということは、これは要するに「太陽塔望遠鏡」なのかもしれません。太陽塔望遠鏡とは、塔自体が鏡筒の役割を果たし、複数のミラーによって塔の頂部から底部まで太陽光を導いて、そこで詳細な観測を行うというものです。

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東京天文台(現在は「国立天文台三鷹キャンパス」が正式名称)にも、昭和初期に完成した、立派な太陽塔望遠鏡がありました。「ありました」と過去形で書くのは、すでに望遠鏡としては運用を終えているからです。


■国立天文台:太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔)
 (動画のナレーションは三石琴乃さんで、妙に金がかかっています。)

濃い緑の中に経つレンガ色の建物は、実に風情があるものです。
当初は相対性理論の検証を目指して建てられたこの観測施設も、戦後は太陽磁場や太陽フレアの観測をもっぱら行っていたそうなので、カンツェルヘーヘとその役割は一緒です。


そこでかつて使われた碍子とタイルが、私の机辺にあります。
そこに往時の観測家の奮闘や、先賢の理知の営みを想像して随喜する…。

これらは文字通りの瓦礫ですから、それ自体美しいとも言いかねるし、モノ自体に星ごころがみなぎっているわけでもないんですが、こういうのは、キリスト磔刑の十字架の破片や、キリストの遺骸を包んだ布のきれっぱしなんかを、無暗に有難がる「聖遺物信仰」と同じです。

まあ、あまり意味のある行為ではないですが、私はこういうのが結構好きで、これぞ聖遺物という逸品が他にもあります。

(この項つづく)

塔のある小さな天文台2020年02月14日 06時35分06秒

昨日の今日ですが、どうも安倍氏の言動に「狂壊」の二文字を感じる…とごちつつ、本文に取り掛かります。

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小さな天文台への憧れが、自分に中にあります。

それは、自分がその天文台の主となって、現代の隠修士のように夜ごと空を眺めて、思索にふける…みたいな、何となく「中二病」的夢想が依然としてあるからです。一時は、それを実現可能の如く考えて、ドームメーカーの販促ビデオを取り寄せて、飽かず眺めるほど脳が沸き立っていました(ゼロ年代初頭の話です)。

冷静に考えれば、資金面ばかりでなく、それが不可能なことはよく分かります。ですから、憧れは憧れのままにして、今は「天文古玩」の看板を掲げて、星ごころを満足させる品をせっせと集めて、せいぜい思索だけは存分にふけることにしているわけです。思索はタダだし、どんなに珍妙な思索でも、一人でふける分には罪がありませんから。

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そんなわけで、天文台の絵葉書でも心を惹かれるのは、やっぱり小さな天文台です。


この天文台もいいですね。山荘風というか、山塞風というか、石造の塔のてっぺんに乗ったちょこんとしたドームもいいし、小窓をうがった大屋根もいいです。本当にこんなところで星を眺めたり、炉辺で本を読んだりできたらなあ…と思います。

ところで、この天文台の正体は、ついさっきまで知らずにいました(絵葉書の表面にも、裏面にも、それを示す文字はありません)。こうして記事を書くために、初めて調べる気になったので、これもブログの功徳のひとつです。

調べる前は、それこそディープな天文マニアか、地元の天文クラブが運営しているような施設かな?と思ったのですが、実際は違いました。


オーストリアの切手が貼られているのを唯一の手掛かりに検索したら、その正体はじきに知れました。すなわち、オーストリアの南部、イタリアやスロベニアとの国境に近いトレフェンの町にある、「カンツェルヘーヘ太陽観測所」。グラーツ大学に付属する施設です。


■Observatorium Kanzelhöhe公式サイト

ここはその名の通り、もっぱら太陽を観測対象としており、地球にまで影響が及ぶ太陽活動の変化を24時間体制で監視し、「宇宙天気予報(space weather forecasts)」を行っている施設だそうです。

上の切手の消印は、戦後の1947年7月付ですから、絵葉書の方もそんなに古いはずはありませんが、施設のたたずまいからして、その創設は19世紀に遡るんじゃないか…と漠然と想像していましたが、実際にオープンしたのは1943年で、割と新しい天文台。したがって、上の絵葉書はまだオープンして4年目に投函されたものです。

現在も、その愛らしい姿は変わりません。


まあ、当初夢想したような呑気な場所ではなくて、ここは非常に実際的な任務をこなす施設だったわけですが、私は気象観測に対する憧れも強いので、この「宇宙測候所」は二重の意味で素敵に感じられます。


【付記】

無邪気に「愛らしい」と言っても、創設された1943年は第二次大戦の真っ最中、そしてオーストリアはナチスの支配下にありましたから、ここにも何か戦争の影が差しているんじゃないか…と思って検索したら、果たして以下の記述に行き当たりました(適当訳)。

 「カンツェルヘーヘ天文台(KSO)は、第二次世界大戦中、ドイツ空軍によって観測所網を構成する一施設として設立され、電波伝搬に関連して、地球の電離層のリアルな状況をより的確に評価するため、太陽活動に関する情報を提供するものと期待された。」  (出典: https://arxiv.org/abs/1512.00270 )

呑気とはいよいよ遠ざかっていきますが、ここを積極的に呑気な(あるいはキナ臭さの感じられない)場所として維持することは、太陽観測と並び立つ重要な仕事だと思います。

いずこも同じ秋の夕暮れ、とは言え2019年05月03日 10時53分43秒

何となく他人のふんどし的話題が続いていますが、今日もふんどしの続きです(幼い日に聞いた“長い長いふんどしの話”って覚えてますか?)

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話題の主はふんどしじゃありません。もっと美しいものです。
さっきまで1枚の写真を前に、しばし物思いにふけっていました。

(Wikipedia「Lund Observatory」の項より)

スカンジナビア半島の先端、エーレ海峡を越えればすぐコペンハーゲンの町というロケーションに、スウェーデンのルンド天文台はあります。上の写真は美しくも愛らしい、その外観(1867年完成)。したたる緑に囲まれて、まるでお伽の国の天文台です。

今このタイミングで、この写真を見に行ったのは、今朝がたいつもの天文学史のメーリングリストで、何とも言い難い投稿を読んだからです。
すなわち、同地のGöran Johansson氏はこう述べています(適当訳)。

 「皆さん、こんにちは。

 スウェーデンのルンド大学の天文学部門は、2001年に新住所に移転しました。市民公園の隅にあった少しばかりの小さな建物から引っ越したのです。

 元の建物の一つは、1860年代に溯るものですが、そこは今も空き家のままです。金を払ってそこを借りようとする者が誰もいないからです。建物は今や徐々に朽ち果てつつあります。地元の政治家たちは、ここをレストランか、科学普及のための施設にしたいと考えていますが、その資金がないので何もできません。
 一体どうしたらいいのか、2018年に彼らが意見を求めたところ、2、30個の提案がありました。さて、それを受けて政治家たちはどうしたか?以前と状況は何も変わりません。誰も金を持ってないので、どうしようもないのです。

 こうした事態が馬鹿げているのはもちろんです。いったいどうしたらいのか、何か妙案はないでしょうか?おそらく、同じようなことは他の土地でもあったことでしょう。だから、こうした場合にどんな手が打たれたのか、知りたいと思います。」

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スウェーデンといえばノーベル賞の国だよ、高負担高福祉の国だよ、日本とは文化にかけるお金が違うんだよ…という、漠然としたイメージがありましたが、それでもやっぱりこういうことは起こり得るのですね。

「いずこも同じ…」の感が深いです。しかし、この愛すべき建物が腐朽に任せるのは、まことに忍びないです。と言って、やっぱり金のない極東の住民は、こうやって心の中で応援するぐらいしかできません。その思いが建物に伝わって、「よし、俺ももうちょっと頑張ってみるか」と思ってくれると良いのですが。

ケンブリッジ春秋2018年03月20日 22時36分08秒



前回の写真は、もちろんあれ1枚ではなくて、他にも7枚の写真とセットで売られていました。ついでなので、そちらも見ておきます。

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手回し式計算機と、紙束が無造作に置かれた研究者のデスク。
光が斜めに差しているのが、画面に静謐な印象を与えています。
写真の裏面には「ケンブリッジ、1959年」としか書かれていないので、このデスクの主は不明ですが、こうしてわざわざ写真に撮るということは、やっぱり主は傑物なのでしょう。これもホイルかもしれません。

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裏面のメモには「太陽トンネル(Solar Tunnel)、ケンブリッジ天文台、1957年」とあります。写っているのは、太陽観測装置の一部を構成するヘリオスタット(太陽を追尾して、常に一定方向に光を反射する装置)で、同じ機材を写した写真がケンブリッジのサイトにも掲載されていました。

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「はて、この木箱は何だろう?」と思って裏面を見ると、


「1959年の日食のため、(Atafu?)への発送準備が整った(Van Klüber?)の装置」と書かれています。でも、( )内はちょっと難読で、読みが間違っているかもしれません。そこで、もういっぺん表の写真に目を凝らすと、


「Dehesa de Jandia」とか「Fuerteventura」という文字が見えます。検索すると、これはアフリカ大陸の左肩、大西洋に浮かぶカナリア諸島の地名で、ここでは確かに1959年10月2日に、皆既日食が観測されており、そのための遠征機材だと分かります。でも、「Van Klüber」は依然として謎。

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雪のケンブリッジ天文台(1957年)。白いドームに白い雪がよく映えています。
こんな風に嬉々として雪景色を撮影して回ったのは、おそらくイングランド南部では総じて積雪が稀だからでしょう。


そしていつか雪も消え、大地に緑が戻り、ケンブリッジに新しい春がめぐってきます。

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あれから60年経った日本の片隅にも、春は忘れずにやってきます。
地球の公転と自転が、いささかもぶれてない証拠でしょう。

今日は桜が開花しました。