アメリカン・ヒーローとしてのパロマー2023年05月16日 19時58分57秒

パロマーといえば、昔こんな紙ものを買ったのを思い出しました。


1960年の「トレジャー・チェスト」誌(Treasure Chest;1946-72刊)から採ったページですが、これ1枚だけ売っていたので、掲載号は不明。



うーむ、この色と線が、いかにもアメコミですね。
この一種能天気なオプティミズムこそが「時代の空気」というやつで、アメリカン・ホームドラマの世界とも地続きだと思いますが、その裏には核戦争の恐怖におびえ続けた冷戦期の過酷な現実もあり、なかなか微笑ましいとばかり言ってもおられません。



それでも、パロマーが――ひいてはミッドセンチュリーのアメリカ文化が――まとっていた一種の光輝をそこに強く感じます。

   ★

さっき調べたら、「トレジャー・チェスト」はカトリック系の雑誌で、カトリックの教区立学校で配布されていた…とWikipediaは教えてくれました。まあ、アメコミ誌の中でも、ごく「良い子」向けの雑誌だったのでしょう。なお、作者の Ed Hunter こと Edwin Hunter は同誌の常連作家らしいですが、伝未詳。


ちなみに、裏面はこんな感じで、「魔法のフリバー」という空飛ぶ車の物語が掲載されています。フリバーというのはT型フォードの愛称で、1960年当時、すでに過去のオンボロ車だったT型フォードが大活躍するお話のようです。

コメント

_ S.U ― 2023年05月18日 08時08分44秒

興味深く拝見しました。多少の宗教色はあるようですが、宇宙科学の最先端とカトリックの整合性はよさそうですね。光が到達するのに10億年かかっているとしても、とくに教義上の問題はないようです。
 
 かつて、私の職場の加速器実験施設で、ある著名な仏教系?の新興宗教の機関誌の取材を受けたことがあったのを思い出しました。その時は、実験の目的や施設について取材を受け、あとで、校正稿を受け取りましたが、やはり素粒子物理と新興宗教では物質の究極の解釈に違う点があるようで、「わたしたちの教えではこの部分はこれこれと考えられている」というような記述があり、それでも科学と宗教の立場からバランスをとってまとめられているようで、感心したことを憶えています。

_ 玉青 ― 2023年05月18日 19時10分24秒

いやあ、S.Uさんも八面六臂のご活躍ですね。どうもお疲れ様です。
まあ、宗教と科学は、両者を並置して語りうるのだろうか?…というのは、昔から疑問に思っている点で、両者は「巨人と中日」の関係ではなしに、「野球とテニス」とか、いっそ「野球と俳句」ぐらい違うんじゃないかという気がしています。
野球は五七五を守らなくていいし、俳句にフォアボールはないわけで、両者は基本的に整合しないし、整合させる必要もないのではないかと、ひょっとして以前は全く違うことを書いたかも知れませんが(笑)、今日現在はそんな思いでいます。

_ S.U ― 2023年05月19日 08時58分35秒

主として科学を業としている者においては、宗教が科学と共通点を持っても持たなくても、それは相対的な問題として片づけられそうですが、宗教界の人にしたら、少なくとも聖典に書かれていることが科学とどこまで整合しているかというのは気になるところかもしれません。まあ、整合が少ないことがわかっても、毫も信仰が揺らぐことはないでしょうが、整合の有無について情報があれば布教の資料にしたいと思うでしょう。また、科学者側も科学研究が人間の哲学にも影響を与えてきたと以前から自慢しているところもありますので、宗教側の見解に不用意に口をはさむこともできないのではないかと思います。
 宗教と科学のディベートのようなことは、現代ではもう流行らないでしょうし、アマチュア新興宗教+トンデモ科学の分野の人の整合に関する個人的研究はネット上に散見しますが、本当に個人的なもので、とても他人が議論に乗れるようなものではないようです。

_ 玉青 ― 2023年05月20日 19時12分07秒

科学と宗教の関係は、昨日はあっさり「最初からまるっきり別物」ということで片付けましたが、まあ歴史的経緯を考えれば、そう単純な話でもないですよね。
たぶん科学と宗教のディベートが今でも意味を持つのは、たとえば「トロッコ問題」のような場面かもしれませんね。素粒子論や宇宙論のような領域では、宗教はもはや無力でしょうが、“人は「価値判断のメートル原器」として何を用いるべきか”という問いならば、今でも雄弁に語れそうな気がします。(科学界と宗教界の大立者たちに、それぞれトロッコ問題の答を聞いてみたいです。)

_ S.U ― 2023年05月21日 06時53分51秒

ご考察ありがとうございます。
「トロッコ問題」は、自然科学者は「社会科学」の分野の問題であるとして逃げるかもしれないと思います。自然科学者にとって、社会科学の距離は微妙であり、かつ、人によって両極端な場合があると思います。そういう片付け方は、卑怯な逃げといえば、その通りかもしれません。自然科学と社会科学の違いは、(ノーベル経済学賞に自然科学分野と同等の価値が見いだせるかという問題を含め)一通りは考えられないといけないと思います。

 私は長年、仏教の宗教者の方々と、物質のミクロの構造について考えをうかがってみたいと思っていますが果たせていません。易学に代表される東洋哲学と相性がよいことは湯川秀樹氏らによって指摘されていますし、禅宗や朱子学とは理屈の面でも共通することがあることはわかっていますが、生命を見つめる宗教として物質の根源をどう考えているのか興味があります。電子やクォークの一粒一粒に仏様がいるとして、その仏様はどんなことを与えてくれる仏様なのか、それは、電子やクォークのフェルミ粒子としての特性とどういう関係にあるのか、そういうことを一通りは考えてみたいと思っています。

_ 玉青 ― 2023年05月21日 17時14分00秒

戦線が拡大して補給路も伸び切ったので、とりあえず、いちばんズシッとくるこの話題に絞ってお返事させてください(と言っても、例によってS.Uさんの立論に正面から向き合った回答ではなくて、それに触発された独り言です)。

宇宙や物質の根源みたいな話になると、たぶん結構早い段階で「仏性の偏在」とか、「この宇宙はそのまま仏の真理の世界であり、山川草木、ことごとく仏の教えならざるはなし」みたいな論に収束していくと思います。「法身の仏」とか、「一即多」とか、「一即一切、一切一即」とかいう用語で語られる考え方です。「物理法則もこれ全て仏なり」と換言してもいいかもしれません。たぶんこういう思想は、仏教だけでなく、キリスト教でも、イスラム教でも、日本の神道でも、ある程度突き詰めると必然的に登場する考え方でしょう。

ただ、そういう教えって、何となく奥深そうだけれども、意外にそうでもないんじゃないか…という気が昔からしています。私がそう思うのは、その考えは正しいのかもしれないけれど、何の説明にもなってない…というのがひとつ。そして、たぶんこういう思想は、真理の階梯からいうと、単なる序章に過ぎず、その先がずっと続いているだろうという予感があるからです。そして、そこから先はおそらく言葉というツールが無力な世界であり、言葉による議論は意味をなさないという直感があって、それこそが科学とは異質の宗教独自の世界なのでしょう。まさに不立文字ですね。

ひょっとして達人クラスになると、例の観測問題なんかも、問題でも何でもない自明のことだ…みたいに見えているかもしれませんね。

_ S.U ― 2023年05月22日 07時57分37秒

>そういう教えって、何となく奥深そうだけれども、意外にそうでもないんじゃないか… 何の説明にもなってない…

 うーん。深そうで深くない、というのは、やはり宗教は深いですね(笑)。

「何の説明にもなっていない」というのについて、宗教のことはよくわからないので、巷の科学界で言われていることを申しますと、依然として「観測問題」の元となる「実在論」「認識論」が不明瞭な問題のようです。いわく、「人間は自然法則を切り取り、把握し、理解し、記述で説明することができるか」。最近の研究で、自然は対称性の破れが本質で、素直な根本法則で書けないことがわかってきていますの。いっぽうで、要は、医者は病気を治し、天文学者、物理学者は自然物の運動をできる限り正確に計算できれば、それで人間活動としての目的は果たせたことになるという考えもあります。
 最近私が思うに、AIの作る計算プログラムによって、自然現象の主たるものが何でも(シミュレーションであってもそれなりに)再現できるなら、計算プログラムは、チューリング・ノイマン流に言えばおよそ人間の造りうる一般的な道具・言語と等価のものと言えるでしょうから、それで、自然は言葉で説明されたことになり、自然科学の根源的な追求とプラグマティックな追求の2つの流れは近い将来統一できるのではないかと思います。

 してみれば、宗教については、この二面性がさらに激しく、すでにそれが統一されているのではないか愚考しますがいかがでしょうか。宗教は、極言すれば、広義のロゴス(言語、論理、哲学)によって、聖人が宇宙の原理を説明することによって凡人が心の平安を得るためのものと思います。現代科学と宗教は、よく似ているというのが、私のより強い側の印象です。

_ 玉青 ― 2023年05月23日 08時00分02秒

AIの進化の結果として、早晩人間がこれまで知らなかった真理が導出されるでしょうし、AIは当然それを言語(記号列)で記述できるのでしょうけれど、それはもはや人間には理解できないものかもしれませんね。つまり「記述/説明」と「理解」の乖離が(それは現に私の身に起きていますが)、今後はより広範に、より加速度的に進むんじゃないでしょうか。

世界で最もすぐれた知性にも、理解不能な「真理」の誕生―。
こうなると、科学と宗教の境はふたたびぼやけてきますね。

_ S.U ― 2023年05月23日 09時30分30秒

>「記述/説明」と「理解」の乖離

 考えてみたら恐ろしいことだと思います。
 
 私はNHKのプロ棋士の囲碁対局番組が好きで毎週見ていますが、AI が勝負途中で勝率と予想手を出すようになってからは、人間の棋士による大盤解説が面白くなってきました。プロの解説者でもAIの示す手が理解できる時と理解できない時があるようなのです。でも、NHKでは、AI+人間で、囲碁対局の解説をしているというのがさりげない現実になっています。たぶん、プロの道場でもそうなのでしょう。でも、それが、解説とか指導と言えるものか、やはり問題です。

 物理学実験の解析にAI的手法(機械学習選別)が持ち込まれたのは、1980年頃のことだったと思います。それから20年くらいは、AI的手法は信頼性の評価が困難で、それを他の研究者(ライバル研究者)に説明できないのはよくないとされてきました。ところが、もう10年以上以前からは、それは誰も問題にしていないようで、このように機械学習させましたと報告すれば、誰もそれ以上の説明を求めることもなくなりました。AIはそういうものだ、と思ってしまえば、得るところのない疑問を問題にしたり、得られるはずのない(得られても理解不可能であろう)説明を求めたりはしなくなるようです。それは現状でいいとしても、1980年代に指摘された問題は、私は何ら解決していないように思います。

 こういうのが、一般社会の政策や法律にまで広がったり、宗教者の説教にまで広がるとしたら、まあ、控えめにいっても恐ろしいことだと思います。

_ 玉青 ― 2023年05月25日 06時43分32秒

我々の置かれた状況は、相当危ういものですね。この困難な状況の解決策を求めて、さらにAIに尋ねるのか、それとも神にすがるか、あるいは人間自身がそれを引き受ける覚悟を決めるか、いずれにしても、我々はどこかで選択を迫られることになるのでしょう。

思うに、AIの進化の先にあるものを考えると、ひょっとして逆説的に「無知の知」こそが人間の最後の牙城であり、希望の星である…そんな時代がやって来るのかもしれません。お釈迦様は「無明」(根本的無知)が人間の苦の根源であると喝破しましたが、実は無明こそが人間を人間たらしめているバックボーンであり、それを自己覚知しうる人間は、やっぱり不思議な存在であり、AIとの差異が際立つ点かもしれません。

_ S.U ― 2023年05月25日 09時04分29秒

それでは、宗教は、今後は、生命倫理とか死への恐れのみならず、知的生産の判断にも復活してくるかもしれませんね。宗教者の方々の洞察に期待したいと思います。

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