続々・乙女の星空 ― 2025年08月08日 18時40分07秒
前々回、「星空浪漫」といい、「星菫趣味」ということを述べました。
これに関連して、気になっていることがあります。戦前の「女学生文化」と天文趣味との関連です。そもそも以前、『星の本』(昭和10/1935)という小冊子に注目したときから、この点は気になっていました。
本格的な天文趣味は、戦前は一部の例外を除き、もっぱら男性の領分だった思いますが、往々にして男性の胸底にもひそかな乙女心が隠れているので――だから明治の星菫派も成立したのでしょう――、天文趣味におけるロマンチシズムの伏流水として、またその後の日本の天文趣味に独特の色合いを与えたものとして、「女学生文化」的なものがあったのではないか…と、ぼんやり想像したりもします。
★
ただ、私にとって女学生文化は縁遠い世界なので、視界がすこぶる不良です。
試みに稲垣恭子氏の『女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化』(中公新書、2007)を読んだりして、その輪郭はわかったような気もしますが、天文文化との関係は特に言及がないので、この点はさっぱりです。
そこで、かつての代表的な少女小説である、吉屋信子の『花物語』を紐解いて、そこにある「お星さま」の記述を探してみることにしました。
『花物語』は、当初はまだ栃木高等女学校の生徒だった作者の雑誌投稿が人気を呼んで、結局、大正5年(1916)から大正13年(1924)まで「少女画報」誌上で連載が続いた、全52篇から成る短編小説集です。
私が参照したのは、、まだ連載完結前の大正9年(1920)に春陽堂から出た最初の単行本の第1巻です(ほるぷ出版の名著復刻シリーズに入っているのが、それだけだからです)。それでも大体の雰囲気は分かるでしょう。
★
以下、その具体例です。(旧字体は新字体に置き換え、原文の振り仮名は一部省略。赤字強調は引用者。末尾は作品名)。
「昼は夢のやうに沖に浮いてゐた白帆も夜(よ)となれば影をひそめて、たゞ打ちよせてはあえなく砕ける波ばかり銀糸の乱れるやうにさゆらいで、遠いかなたの水平線に幽愁を漂はせて淡(うす)い新月の出る宵などは、私はもの悲しい思ひにつまされるのでした。」(野菊)
「このあはれ深きローマンスの秘密をこめし指輪はおぼろに冴えゆく暁の明星のやうに閃きました。」(同)
「あの砂丘の後の洋館の前をそゞろ歩きをしました。あたりは、いつとはなしに黄昏(たそがれ)て夕暗(ゆうやみ)は忍び足して近より、遥(はるか)み空には銀の星が輝きました。―マリアの瞳のやうに―。」(名も無き花)
「滋子(しげこ)の居る部屋の窓にも、外面(とのも)の月の光は流れ入った。滋子は、ペンを捨てゝ月の光さしこむ窓辺によった。あゝ何んといふ静かな美しい、それは月の宵だったらう。滋子が、窓によって、恍惚(うっとり)と月光に浸って居る時、何処(いづこ)の空からか〔…〕」(山梔の花)
「その春の夜半を人影さす寮の窓の辺(ほとり)に静に寂しく月光に濡れて咲き匂ふた欝金桜(うこんざくら)の花こそは哀れに」(欝金桜)
「このあはれ深きローマンスの秘密をこめし指輪はおぼろに冴えゆく暁の明星のやうに閃きました。」(同)
「あの砂丘の後の洋館の前をそゞろ歩きをしました。あたりは、いつとはなしに黄昏(たそがれ)て夕暗(ゆうやみ)は忍び足して近より、遥(はるか)み空には銀の星が輝きました。―マリアの瞳のやうに―。」(名も無き花)
「滋子(しげこ)の居る部屋の窓にも、外面(とのも)の月の光は流れ入った。滋子は、ペンを捨てゝ月の光さしこむ窓辺によった。あゝ何んといふ静かな美しい、それは月の宵だったらう。滋子が、窓によって、恍惚(うっとり)と月光に浸って居る時、何処(いづこ)の空からか〔…〕」(山梔の花)
「その春の夜半を人影さす寮の窓の辺(ほとり)に静に寂しく月光に濡れて咲き匂ふた欝金桜(うこんざくら)の花こそは哀れに」(欝金桜)
「月光さす窓の中(うち)には、若き処女(しょじょ)が一心こめて鑿(のみ)を振(ふる)ふて冷たい大理石に暖かい命を生かさうと、細い腕(かいな)に力をこめて槌を振ふ―。〔…〕み空の新月が円(つぶ)らになって、やがてまた三日月の銀(しろがね)の挿櫛(さしぐし)と浮かぶ頃までゝあった。」(同)
★
これを見て気づくのは、勢い込んで探したものの、「お星さま」はあんまり登場していないことで、特に星座名はさっぱりです。主役はむしろ「お月さま」で、夜空に浮かぶ銀の月や、部屋の中を照らす月光なんかが、乙女心を捉えていたように読めます。
これはある意味当然で、1920年の段階では、先に言及した、野尻抱影の『星座巡礼』(1925)も、山本一清の『星座の親しみ』(1921)も、古川龍城の『星のローマンス』(1924)も出る前ですから、いかに本好きの少女でも、星座趣味はまだ視界に入ってなかったし、それを語る語彙もなかったのでしょう。
ではそこから、『星の本』が出る昭和10年(1935)までの15年間の変化を追って、さらに少女小説の森に分け入るか…ということになるのですが、しかし「そこまでするか?」という内なる声もあり、この件は少し寝かせておくか、あるいは斯界に詳しい方の論究を待ちたいと思います。
(この話題、不完全燃焼のまま終わります)
コメント
_ yama ― 2025年09月06日 02時02分40秒
_ 玉青 ― 2025年09月06日 11時11分42秒
ああ、いいですねえ。聖橋の上に浮かぶ月蝕も、寄宿舎の屋根越しに眺めるそれも、本当に深い詩情があります。
「東京女高師」と聞くとお堅いイメージがありますけれど、そこはやはり乙女の学び舎であり、この2枚の写真は、昭和戦前、その乙女ライフに確かに天文趣味が寄り添っていた証と言えるかもしれませんね。2枚の写真の年次が接近しているのは、当時、天文趣味・写真趣味のある先生が在籍していたためでしょうか。きっと生徒たちにも、その思いを熱く語って聞かせていたんだろうなあ…とか、いろいろ想像が膨らみます。
(ちなみに、寄宿舎の方の月食写真をよく見ると、月の傍らに3つの光点が写っています。これが惑星像なら、ものすごい天体ショーだ!と興奮しつつ、この時期に日本で見られた月食をプラネタリウムソフトで逐次再現したんですが、どうもそうした形跡はなく、これは現像ないし焼き付け時のいたずらのようです。なお、月食のパターンからすると、これは1934年7月26日の部分食のときの写真である可能性が高そうです。)
「東京女高師」と聞くとお堅いイメージがありますけれど、そこはやはり乙女の学び舎であり、この2枚の写真は、昭和戦前、その乙女ライフに確かに天文趣味が寄り添っていた証と言えるかもしれませんね。2枚の写真の年次が接近しているのは、当時、天文趣味・写真趣味のある先生が在籍していたためでしょうか。きっと生徒たちにも、その思いを熱く語って聞かせていたんだろうなあ…とか、いろいろ想像が膨らみます。
(ちなみに、寄宿舎の方の月食写真をよく見ると、月の傍らに3つの光点が写っています。これが惑星像なら、ものすごい天体ショーだ!と興奮しつつ、この時期に日本で見られた月食をプラネタリウムソフトで逐次再現したんですが、どうもそうした形跡はなく、これは現像ないし焼き付け時のいたずらのようです。なお、月食のパターンからすると、これは1934年7月26日の部分食のときの写真である可能性が高そうです。)
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。





その中の昭和11年3月、家事科にのものには聖橋にかかる月蝕の写真があります。
昭和12年3月、理科のものには皆既月食の写真があります。
当記事と関係があるかどうかは苦しいですが、どうぞご参考までに