少年採集家(3)…戦時下の昆虫採集2012年03月08日 05時29分00秒


(↑本の置き方の悪い例。)

漫画家・手塚治虫が、旧制中学時代(※)に書いた昆虫随筆等を編んだ、『昆虫つれづれ草』という本があります(小学館、1997)。そのあとがき部分に、手塚とともに中学校で昆虫採集に熱中した、林久男氏へのインタビューが載っています。戦時下の昆虫少年の生態がわかる大変貴重な文章と思いますので、内容を抜粋してご紹介します。

(※)尋常小学校6年を卒業した男子が入学するのが旧制中学校(女子は高等女学校)。一般に「旧制中学は今の高校に相当する」と言われるのは、課程が5年制だったからで(戦時中は4年制に短縮)、今なら中学1年生から高校2年生に相当する年齢の生徒が在籍した教育機関です。(なお、昔は複線教育ですから、中学校以外にも、高等小学校や実業学校等、進路はいろいろありました。)

   ◆

手塚・林の両氏は、開戦の年(昭和16年)に、12歳で旧制北野中学(現大阪府立北野高校)に入学。入学当初はまだ真珠湾の前ですし、少なくとも中学生の身辺には依然のんびりした空気が漂っていたことが、林氏の回想から読み取れます。

まず当時の昆虫採集の位置づけについて。
〔以下、太字はインタビュアー、青字は林氏〕


― 当時、昆虫採集を趣味にしている中学生はあまり多くなかったわけですね。
林★ セミやトンボを追いかけるようなことは、どんな子どもでもしますよね。それでもその虫は何という種で、どんな暮らし方をしている、なんていう本格的な昆虫採集は、ほとんどだれもしていませんでした。
 〔…〕そのころ登山、カメラ、昆虫採集といったら、西洋からやってきた新しい大人の趣味という感じでした。中でも昆虫採集は、ヨーロッパ貴族たちの優雅な遊びみたいな印象がありまして、私などは大いに魅きつけられてしまった。
― それを本格的にやっていた手塚少年は、大人っぽく見えたんですね。道具などもそろえていて、今でいうと中学生がライカのカメラを持っているような感じでしょうか。
林★ まさにそうですね。


「ライカのカメラ」とは、インタビュアーもうまい喩えを思いついたものです。
「昆虫採集」は「虫採り」とは違う、それは精神においても違うし、何よりも装備が違う…という感覚が当時はあったようです。


― そうして林さんたちは、手塚少年が語る昆虫の世界と昆虫採集という西洋の香り高い趣味に引き込まれていったんですね。
林★ ええ。あれは夏休み直前の7月の土曜日の午後だったと思います。私もとうとう昆虫採集をはじめる決心をして、大阪梅田の阪急百貨店の2階にあった昆虫採集道具売り場に行ったんです。手塚くんもいっしょに来てくれ、「あれがいい、これがいい」と世話をやいてくれました。私は当時1円ほどだった捕虫網や三角紙ケース、毒瓶、標本箱など道具一式を買いそろえました。


これが林氏の「昆虫採集」入門でしたが、師匠格である手塚のそれはまた規模が違います。


 そして翌日の日曜日に、手塚くんの宝塚の家に行ったんです。彼の生家は、そのころ「門から玄関まで電車が走っている」と噂されるほど大きな家でした。噂はオーバーでしたが、庭にクスノキの巨木があったのをはっきり覚えています。訪ねると、私は彼の部屋に通されました。するとビックリ。標本箱の多さに圧倒されてしまった。それに、どの箱も私が前日デパートで買ったボール紙製のものとはちがって、木製のドイツ箱と呼ばれる大型のもので、その中に、きちっと種類別に、たくさんの昆虫が入っていました。蝶や甲虫だけでなく、ハチやアブまでありました。詳しく聞くと、彼は小学校5年生のとき、友人だった石原実くんに感化されて昆虫採集をはじめたという。でも標本の量と質は、2年間で集めたものとは、とても思えませんでした。


林氏の回想する昆虫少年ライフは、関西の富裕層や新興中産階級のそれですから、全国一般に敷衍することはできないでしょうが、実に堂々たるものであり、また羨ましくもあります。そして経済的な面についてばかりでなく、土地柄もまた良かったのです。


― 夏休み前にそんなことがあると、さぞや夏休み中は大変でしょうね。
林★ もう昆虫一色でした。当時私の家が吹田で、私が手塚くんの家〔=宝塚〕に行くことが多かったのですが、箕面や能勢で待ち合わせることもありました。箕面は山岳地帯で多くの昆虫学者を育てた昆虫相が豊かな場所。宝塚から電車で、当時は40分くらいかかったでしょうか。自宅周辺には平地の昆虫がいて、山地の昆虫もそう遠くないところで捕れた。こうした環境は私たちにとって大きかったと思います。〔…〕私はほんの4か月間で完全に虫の虜になってしまいました。


さらに、すぐれた指導者にも事欠きませんでした。


― 当時は現在の理科に替わる「博物」という授業があったそうですが、手塚さんや林さんのような少年は、授業のほうはいかがでしたか。
林★ 植物、動物、鉱物などをひっくるめて「博物」と称していましたが、授業で知らされるような内容は、図鑑や昆虫エッセイのはしりだった小山内龍の『昆虫放談』などを読んでましたから、ものたりなかったんですね。私たちが昆虫について学びにいったのは、もっぱら宝塚のファミリーランドの中にあった「宝塚昆虫館」です。北野中学の先輩には当時の昆虫学界を牛耳っていた、九州大学教授の江崎悌三、京都大学教授の上野益三など優秀な昆虫学者がいました。昆虫館の当時館長だった戸沢信義さんも先輩のひとり。手塚くんはここに小学生のときから通っていたそうです。学芸員だった福貴正三さんと彼は仲がよくて、私たちも頻繁にご指導いただきました。


こういうインフォーマルな人の輪が昔はありました。今も一部にはあるのかもしれませんが、世の先生方はなかなか忙しいので、イベントなどの場を除けば、子供たちの好奇心に正面から応える余裕は多くの場合失われているでしょう。

さて、手塚を中心とする昆虫マニアの少年たちは、中学2年に進級すると同時に、「博物班」という部活動を立ち上げ、さらにそれに飽きたらず、「動物同好会」なる非公式組織を結成し、翌年にはそれを「六陵(りくりょう)昆虫研究会」へと発展改組します。手塚が健筆をふるい、大人びた昆虫随筆を会誌に寄稿していたのは、まさにこの時期のことです。


― 今回復刻することになった『昆虫つれづれ草』をはじめ、一連の『昆虫の世界』など、多くの手作り本が生まれてくるのは、そのころからなんですね。
林★ そうですね。彼は本作りに熱中すると1、2週間で1冊を仕上げました。昭和18年に文部省の教科要目が改定されて、博物学が生物学に変わり、それにともなって「博物班」も「生物班」に名称を変えました。そして私たちは「動物同好会」を解散して「六陵(りくりょう)昆虫研究会」を新たに発足し、もっとレベルの高い研究書を目指して『昆虫の世界』を発行したんです。それもやっばり手塚くんが清書、装丁、製本をひとりでやっていました。


ここまでは実に順調。少年たちは存分に昆虫ライフを楽しんでいました。
しかし、昭和18年、彼らが中学3年生になった頃から、戦争の影は急速に濃くなっていきます。

― そのころになると、第二次世界大戦も激化していきますね。
林★ 昭和18年になると生物班の班員も、ひとり疎開していきました。勤労奉仕もその年には組み込まれ、次第に私たちは学校には行けなくなってしまった。私と手塚くんは別々の工場に配置されて離れ離れ。作ったばかりの「六陵昆虫研究会」も空中分解です。それでもまだ登校日がありましたから、そのときにみんなで会って採集の約束をしたりしていました。翌年になるともっと悲惨で、もうまったく学校に行かなくなってしまった。時代も昆虫採集どころではありません。捕虫網を持って歩いているのを見つかれば、学校の先生や近所の人に非国民扱いですよ。警察も厳しくて「誰何(すいか)」といって職務質問をされてこっぴどく叱られる。そうした中でも私たちは昆虫採集をしていましたが(笑)。


これこそが、今回取り上げた『少年採集家』の出版された当時の空気でした。
昆虫少年にとっては(すべての国民にとっても)まさに受難の時代です。
そして戦局は日増しに悪化していきました。


― 手塚さんも『昆虫つれづれ草』で書いているように、そんな時代をみなさんで呪っていたわけですか。
林★ 18年ころは、そんなでもなかった。むしろ軍人や軍医になって南方に飛んで、熱帯産の珍しい昆虫を捕りたい、とよく話していました。19年になると勤労動員も本格化して学校には1日も行かなくなって、敗色が濃くなるのが私たちにもわかりました。もう明日の命もわからない状況ですからね、将来の夢どころではありませんよ。


少年たちの夢や、ときには命さえも呑み込んで、日本は昭和20年(1945)を迎えます。
このあと、焦土の中から、民主教育の掛け声とともに、新世代の理科少年たちが育っていくことになるのです。

   ◆

引用がものすごく長くなりましたが、以上のような事実を念頭におきつつ、本書の内容を見てみようと思います。

(話を本題にもどし、この項つづく)

まばゆい理科少年・少女たちに思ったこと2011年12月24日 14時54分46秒

今朝の新聞を開いたら、朝日新聞社主催の「第9回 高校生科学技術チャレンジ」の入賞発表の大きな記事が目に飛び込んできました。

ネットでは、以下のページで概要が読めます。
http://www.asahi.com/shimbun/jsec/2011/jsec2011/11fin_winner.html

今回、堂々と文部科学大臣賞を受賞したのは、茨城県・清真学園高校2年生の矢野更紗さん。「土壌動物相に関する研究~異なる植生・気候帯・季節を比較して~」という題目で、ササラダニ類(=吸血性のダニとは違って、落ち葉などを分解して暮らしているグループです)の分布と、その環境的要因との関係を丹念に調べた労作です。

朝日本紙を読むと、矢野さんの研究生活がこう紹介されています。

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 中学3年生から3年間、毎日、顕微鏡をのぞき続けている。土の中の小さな土壌動物を観察し、種を同定した数は4万5千個体を超える。〔…〕

 小さい頃から生き物好き。バッタやカブトムシを追いかける少女だった。自然との触れ合いの中で、環境によって生息する生物が異なることに気づいた。そこには、どんな法則性があるのか。それを明らかにしたいと思ってきた。〔…〕

 自宅のある茨城県内の草原やアカマツ林、カシ林で土を採取し、約2万6千個体の土壌動物を分離した。顕微鏡で種を同定したところ、いずれの環境でもダニ目が一番多いことがわかった。さらに、ダニ目の中でも最も多いササラダニ亜目に着目し、暖温帯に位置する茨城県と冷温帯の長野県で個体数の変化などを比較する研究に発展させた。

 助言をした筑波大の町田龍一郎教授は「ササラダニ亜目のダイナミックな生きざまを初めて明らかにした大学の修士論文レベルの研究だ。科学者に不可欠なモチベーションに支えられた忍耐力が生み出した成果だ」と話す。

 学校では弓道部に所属。厳しい練習を終えて帰宅した後、自宅のリビングで午後8時すぎから午前0持過ぎまで顕微鏡に向かう。〔…〕

 将来の夢は生物学者。「ダニ目の生きざまを追究し、深遠なる土壌動物の世界を明らかにしていきたい」

(朝日の紙面より。「孤独に忍耐強く ダニ追う」←この見出し、もうちょっと何とかならんでしょうか。)
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うーん、すごいですね。すごいなあ。
実に頼もしい気がしました。

そしてササラダニと共に「二大土壌動物群」を構成している、トビムシの研究も入賞していました。こちらは福岡県の自由ヶ丘高校3年生の福田奈緒さんと添田晃斉さんがまとめた力作、「種トビムシの総生産量推定について」です。

同じく朝日本紙の記事から。

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 土壌中に生息する節足動物トビムシ。それが摂取し、消費するエネルギー量はどれほどのものなのか。2種、50~60匹のトビムシで、脱皮量や産卵数を計測し、呼吸量なども算出して推定を試みた。

 相手は体長1~2ミリの生物だ。わずかな呼吸量を計測するために、長さ約10センチ、内径4ミリのガラス管を加熱し引き延ばした細管を用いる。手作業でまっすぐ延ばすには「熟練」の技が必要だ。1メートルのガラス管を200本以上使うほど練習を繰り返したという。

 福田奈緒さんは「1年生から3年生まで、毎日、放課後、トビムシと向き合った。授業のない土曜日は一日中、実験していた」。

 実験の結果、呼吸によるエネルギー消費は摂取エネルギーの57~62%を占め、極めて大きいことがわかった。〔…〕
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何を隠そう、私も昔から土壌動物が好きで、好きが高じて日本土壌動物学会にも入れてもらったぐらいです(希望すれば誰でも入れます)。

そんなこともあって、今回この2つの研究が特に目に付きましたが、それにしても土壌動物に熱中する高校生が、こんな風に日本各地にいるとは知りませんでした。そして、いずれも高校生離れした素晴らしい研究です。特に矢野さんは、対象の持つ魅力に惑溺(=玩物喪志)することなく、常に自らの問題意識を維持しながら研究に取り組まれてきたのは、まことに立派だと思いました。


   ★   ★

今日の朝日新聞は、土曜特別版の「be」にも、プラネタリウム・クリエーターの大平貴之さんの特集が載っていて、上の記事と併せて、いろいろ考えさせられました。

(↑今朝の朝日新聞、be on Saturday より。キャプションは「プラネタリウムバーにある自作の「星空」の下でグラスを傾ける=東京都港区」。)

記事によれば、大平さんは、「知りたい』じゃなくて『やってみたい』からやってきた。だから、ぼくは科学者じゃなくて技術者なんです」と自己規定されています。とはいえ、その理科少年ぶりは、かなり徹底したものです。

「基本的な生活習慣ができていない」と先生になじられながらも、8歳のころには植物栽培に熱中して「植物博士」の異名を取り、10歳で自室にプラネタリウムを完成(夜光塗料で5等星までを再現)。

小~中学時代には、プラネタリウムと並行して、ロケット作りに熱中しました。そしてロケットの本で分からない箇所があれば、東大にまで電話をかけて、執筆者の教授をつかまえて直接質問したそうです(小学生がですよ。東大の交換もよくつないでくれたものです)。その結果、中学生のときには1メール近い物を、何キロも上空に打ち上げるまでになっていたそうですから、恐るべき技術力です(高校の卒業式のときも、校門前でロケットを打ち上げて、卒業証書を取り上げられたとか)。

ロケット用の火薬を自室で調合していて爆発したり、あるいは放射性物質を含む鉱物に興味を持って、近所の医院からX線フィルムをもらってきて反応を調べたり、かなりきわどい経験もされていますが、その大平さんが41歳の現在述べられたこと。

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 みんなが、僕みたいなとんがった存在になる道を選ばなくていいと思うんです。〔…〕肩に力を入れず、自然な生き方を探せばいい。
 ただ、社会には「失敗にもっと寛容になれ」と言いたいですね。情報化が進み、リスク管理の思考が強くなっている。新しいことをやりたくても「事故につながる」「何かを失うかもしれない」と、負の面ばかり意識して、潜在的な可能性が否定されてしまう。子どもたちの発見の芽をも摘んでしまう、社会的なリスクだと思います。寛容な世だからこそ、僕のような人間も育ってくるんですよ。
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ここで述べられている内容は、わりとよく言われることだと思いますが、大平さん自身が語ると、また重みが違ってきますね。
まあ、みんながみんな「よしよし、火薬の爆発でも、放射能でも気にするな。興味の赴くままに何でもやってみろ!」とけしかけるのも危なっかしい話で、一方にはブレーキをかける人も必要だとは思います。それに「よし、何をやってもいいぞ。ただし全部自己責任でな!」というのも、ちょっと違う気がします。

たぶん大平さんが真に憂えているのは、「よし、俺が責任を取るから、何でもやってみろ」という度量の広い大人が減ったことではないでしょうか。

今の日本は、極端な責任回避型の社会になっていて、何か行動を起こす際には、予めあらゆる言い訳を考えておく(何かあっても責任を問われないよう退路を確保しておく)のが良いとされるようになっている気がします。実際、自分自身を振り返っても、その傾向がないとは言えません。しかし、これでは大事を成せないのは当然です。

冒頭の高校生の話に戻って、彼らの志にエールを送りつつ、それが今後も闊達に伸びていくためには、(自分も含め)世間の大人たちが、今一度胆力を練る必要があるのではないかと強く思いました。

千年の古都で、博物ヴンダー散歩…益富地学会館(3)2011年10月20日 20時30分05秒




この展示室で私が心底感動したのは、子どもたちの地学研究の成果でした。
これは益富地学会館主催の「益富地学賞」の受賞作品の展示です。


公式サイトによれば、「地球科学(岩石・鉱物・地質・火山・地震・古生物など)、地球および地球環境に関する研究や発見に対する寄与を対象とする科学賞及び科学奨励賞」で、少年少女ばかりでなく、広く一般からも応募を募っているものですが、やはり目に付くのは子どもたちの奮闘ぶりです。
教科としての地学そのものが消滅しようとしている今、現代の「石っ子」たちがこうして頑張っている姿を見るのは、実に頼もしいことです。



がんばれ地学!がんばれ子どもたち!
…と心の中で勝手に盛り上がっていました。


この日も、多くの子どもや親子連れが展示室にやって来て、解説員さんとのやりとりを楽しんでいました。同館は地域でも大いに親しまれる存在のようです。昨日は「チープ」とか、「ヴンダーカンマー」とか、勝手な感想を述べましたが、こうした「活きの良さ」こそ同館の身上かもしれません。

実際、同館のイベント案内のページ(http://www.masutomi.or.jp/event.html)を見ると、ものすごく多彩な行事が、驚くほどの頻度で行われています。同館は「箱物=ハード」よりも、ソフトの充実ぶりが特色で、しかもそれが大変うまく機能しているという、日本ではかなり稀な例だと思います。関係者の情熱と努力に深い敬意を表したいと思います。

   ★

話が脇にそれますが、なぜそれが可能になっているのか?は興味深い点です。

天文趣味に関して言うと、近年趣味人口そのものの減少に加え、これまで情報を得る目的で同好会に参加していた人が、ネット時代になって、ネットから豊富な情報を得ることができるようになったため、同好会活動が急速に衰えたという話を耳にします。
でも同じことは、鉱物趣味に関しても当てはまるはずなので、両者の差がいったい何によるのかは気になるところです。

まあ単純に、夜間に活動する天文趣味は、集うこと自体が最初から難しく、その点でハンデがあるのかもしれませんが、ひょっとして鉱物ファンと天文ファンでは、基本的なメンタリティに差があるとか?(イメージで言うと、天文好きの人は群れることを嫌う傾向があるような気もします。)

   ★

さて、次回は京都市役所のそばの「島津製作所創業記念資料館」へと向かいます。

ルリボシカミキリ2011年06月10日 20時48分12秒

昨日の記事からの連想。

「水色と黒」と聞いて思い出すのが、この洒落た甲虫です。
夏休みの早朝に見た、その濡れたように鮮やかなルリ色を今でもよく覚えています。

死後は無残に褪色してしまうので、この美しさは生命そのものの輝きのように思えます。したがって、写真に写っているのはもちろん本物ではなくて、チョコエッグ・シリーズの動物フィギュアです。

   ★

背景は長野まゆみ氏の小説、『天然理科少年』(角川書店、1996)で、表紙イラストも同氏。長野氏にとっては、ルリボシカミキリこそが理科少年のシンボルなのでしょうか。

理科少年史序説(というか寝言)2011年02月03日 21時02分51秒

今日の通勤電車の中で、半分眠りながら、次のようなことを考えました。

  ★

各時代の理科少年には、それぞれの精神を体現するメディアがある。
たとえば…
○明治の理科少年ならば、「少年世界」とジュール・ベルヌ(の翻案物)。
○昭和戦前の理科少年ならば、「子供の科学」と海野十三。
○70年代の理科少年ならば、「学研の科学」とNHK少年ドラマシリーズ。

まあ、最後はちょっと強引ですが、要は理科少年の心には、時代を超えて、リアル・サイエンス(RS)への夢と、フィクショナル・サイエンス(FS)への夢の両方が漂っていた…というのが「寝言」の第1の論点。

ところがその後、微妙なバランスで拮抗していたRSとFSの力関係が崩れてしまった。それは、戦争と公害問題の影響で、RSの魅力が衰えたせいかもしれませんし、FSの進化の方が早かったせいかもしれません。原因はいろいろ考えられますけれど、均衡が破れた結果として、少年たちは一気にFSへと吸い寄せられた…というのが、第2の論点。

そして、少年たちの夢の新たな受け皿となったのが、TVを始めとする各種映像文化であり、結局、「理科少年文化」は「オタク文化」に回収され、消滅したのだ…というのが、第3の論点にして、今日の「寝言」の眼目です。

どうでしょう。「理科少年はなぜ消えた?」という問いは、これまでも取り上げた気がしますが、ちょっと別の角度から考えてみました。理科少年は単に消えたのではなく、オタクに転化したのだという、いわば「恐竜は鳥になった」的説なんですが…

遠く遥かな世界へ…小林健二氏の「国立科学博物館」を読む2010年10月11日 23時21分11秒

(昨日の続き)


この詩が詠っているのは、前述のとおり、1967年7月のある日の思い出です。
この日、2人の小学生が都電に乗って、上野を目指すところから詩は始まります。


家から歩いて一分。『泉岳寺前』の停留所から乗る都電は一号線。
約一時間で目の前には素敵なドリームランド…


当時の東京は、オリンピック前後の都市改造が続いていて、実際にはかなりガチャガチャした雰囲気だったと思いますが、しかし小林氏の記憶の中の東京は、あくまでも透明で、遠い寂寥感を漂わせています。


≪〔…〕でもさっ、この電車路ぞいの黒い塀の大きな家やレンガの家って、むかしの町の感じだよねー。何かをいろいろ思い出すようで、ぼくはこんな風景がとっても好きなんだ…。≫
その頃の二人はいつだって、過去の街を見ているような奇妙な郷愁感におそわれていた。繁華なところや寂れたガードをくぐったり、幾種類かの並木通りや映画の町、古本の町、それらを過ぎると二人の言う「博物館の町」だった。


都電は郷愁の風景の中をゆっくりと走り、それが子どもたちの「日常」をすっかり洗い去った後に、素敵なドリームランド、「博物館の町」は現われます。


その古めかしくて重厚な外観が見えてくると、うれしくて思わず小走りになってしまう。入口の巨大な鯨の骨をまずはじっくり眺めたあと、恐竜の部屋から探検ははじまる。二人も恐竜たちもいつもニコニコ笑っていた。別館の大きな展示室には旧式の大きなケース一面に、鉱石や貴石を整列させていた。その部屋だけでも一日居ても見飽きない位たくさんの物があったのだ。そして、早朝からの空腹のおなかには、地下の食堂でとる食事がなんと楽しかったことだろう。注文はいつも決まっている。Bランチとサイダーだ。これも食べたいからお小使いを貯めたのだ。


先日も書いたように、恐竜の全身骨格標本が日本で初めて科博に登場したのは、1964年のことです。67年当時も、その強烈なオーラは依然圧倒的な力を持っていたことでしょう。
石への鋭い感受性は、ちょっと小学生離れしていますが、これは鉱物をテーマにした作品も多い、氏ならではのものと感じます。
博物館の地下食堂で食べるランチ、これも懐かしい。まあ、ふつうは家族との思い出のシーンでしょうが、友人と二人でというのが、いささか変わっています。


〔…〕二階三階へと探検はつづいた。目も眩むような色々の蝶、奇妙な軟体動物の透きとおった模型に食い入る。足早に悲しい剥製の部屋は通り過ぎる。
≪ねぇ この人たちいつまでもみんな死んでいるよ…。≫


ランチでお腹を満たした二人の心に、ひたひたと押し寄せたのが「死」の観念です。博物館の匂いとは、畢竟「死の匂い」なのでした(しかし、これは今の博物館から払拭されつつあるかもしれません。この点はよくよく考える必要があると思います)。
そしてその先には、旅の終着点である永劫の宇宙が待っています。


仕上げは何と言っても最上階のプラネタリウム。ぼくはあっちこっちと動いて見るし、きみはいつもぼくの後にぴったりだから、きっと疲れるのだろう。投影機が秋の星座を映す頃には、いつも寝息をたてている。やがてきみを起こす頃、≪ねぇ、ねぇ、もうすぐ終わりだよ…。≫ 囁く耳もとで軽くわずかに唇が触れる。こんな暗がりでのかわいいキスは、時々何か胸騒ぎのような気持ちを運んできた。夕暮れの街をゆく路面電車は、これから待ち受けるたくさんの日々を思い、少しでもここにいつづけようと追い駆けて行く。
一九六七年七月のいつのまにか晴れ渡った宵の残光は、二人の街にぼくらを置き去りにして、遠くの銀河へと旅をつづける。
『ぼくもいっしょに連れていって…』、二人は、心の隅で叫んでいる知らない人をかき消すように、
≪バイバイ、おやすみ。マタ アシタ!≫。

  二人は別々の家に消えてゆく…
 
    暗転
    夜空
    一面の星


   ★

過去の町を通り抜けた向こうに、太古の恐竜が棲んでいる…。二人の少年の経験は、一面、時間をさかのぼる旅でもあります。電車に乗り、時空の旅を続ける二人の少年。旅路の果てには一面の星。そう、これは小林氏が体験した、もう一つの「銀河鉄道の夜」です。

そして、「銀河鉄道の夜」と同じく、小林氏の友人にして可憐な「恋人」も、程なく亡くなってしまいます。氏はこの哀切な体験を折に触れて語っておられますが、氏の創作の一端は、まさに「あの日」に還る試みでもあるのでしょう。

“そういえば、あの日、二人は過去をさかのぼる旅をしていた。だから、先回りしてどこか過去の扉の陰で待っていれば、二人がひょいと扉を開けて入ってくるのに出会えるかもしれない…”。小林氏は、そんな思いをお持ちなのかもしれません。

   ★

この「国立科学博物館」という詩は、なかなか複雑な構造を持っています。
これが「銀河鉄道の夜」とパラレルな作品だというのは、今日この文章を書きながら初めて気が付きました。もちろん、あまりそこに引き付けて過剰解釈してはいけないと思いますが、でも、そういうふうに考えると、この詩にこめられた小林氏の思いがよく分かるような気がするのです。

そしてこの場合、科博の建物が、汽車ならぬ飛行機の形をしているというのが、何だかただならぬ効果を発揮しているようにも思います。
国立科学博物館は、すべての<生と死><夢と魂>を乗せて飛ぶ、一機の巨大な飛行機なのだ…と考えてみるのも、悪くないように思います。

青く透明な <国立科学博物館>2010年10月10日 22時23分14秒

3連休も何だかバタバタしているうちに終わりそうです。
澄んだ秋空に、高く高く雲が浮んでいるというのに。
俗塵にまみれて過ごすのが勿体ないとは思うのですが、なかなか思うに任せません。

  ★

上野の科博といえば思い出すのが、小林健二氏の詩集 『みづいろ』。
ここには、ずばり「国立科学博物館」と題された詩が収められています。

■小林健二(著/装丁) 『みづいろ』、銀河通信社、平成17年
 (http://www.aoiginga.com/book05.html

遠い夏の日に友人とふたりで訪ねた「博物館の町」。
1967年、確かにあの場所に存在しはずの、でもどこか幻じみた科博の姿。
幼い友人に抱いた、淡い、恋とも言えぬほのかな感情。

科博がこれほどまでに繊細なトポスとして描かれたことは、小林氏以前には(そして以後も)ないと思います。
その一節を紹介しつつ、昔の科博の匂いを考えてみようと思います。

(この項続く。写真右は、小林氏が調合した香油 「冬緑松針油」。同じく銀河通信社で販売されています。http://www.aoiginga.com/gingaFrameset-12.html

天文と気象(5)…世界文化社版・『天文と気象』2010年03月23日 18時48分14秒

■天文と気象(カラー図鑑百科6)
 宮地政司・畠山久尚(担当編集員)、世界文化社、昭和43年発行

この図鑑は、あまり本屋の店頭で見た記憶がありません。
何となく児童図書館にありがちなムードを感じます。
あるいは、セット販売のみだったかもしれません。

内容は、既存の本の切り張りの域を出ず、あまり面白くありません。
そもそもこのシリーズは編集委員制度をとっていて、前国立科学博物館館長の岡田要氏や、前東京学芸大学学長の高坂正顕氏などが名を連ねています。そして、この巻の担当編集委員というのが別にいて、それが上のお二人ですが、宮地氏は前東京天文台長、畠山氏は前気象庁長官。
うーむ、何だかやたらに前職の人が多い。これこそ明らかに名義貸しでできた産物に違いない…と私は睨んでいます。

ただ、この表紙を見ると、何か心の中で動くものがあります。
これぞ昭和40年代というか、昭和30年代でも、50年代でもなく、40年代そのものという風に、当時を記憶する者としては感じます。
この図鑑が出た昭和43年(1968)は、ちょうどウルトラセブンがオンエアされた年ですが、それと同じ手触りというか、「3丁目の夕日」的な板塀の世界が駆逐された後の、コンクリートの灰色建築が威張っていた頃を思い出します。

まあ、ここで昭和を論じてもしょうがないので、ついでに望遠鏡に注目してみます。
この表紙で目を引くのは、やはり望遠鏡の存在。
東京天文台の電波望遠鏡をバックに、少年少女が三脚に乗った望遠鏡を覗いています。メーカーや機種はちょっと分かりません(ヴィンテージ望遠鏡好きの人ならば分かるかも)。時代を考えると、アルミ三脚はちょっと珍しい。

1968年当時に、こんなものを小学生が持っていたら、相当自慢できたでしょうが、こういう取り合わせを奇異と思わない程度には、望遠鏡が子供たちに普及しつつあったのも確かで、この後望遠鏡は急速に「消費されるもの」となっていきます。そして、学習用顕微鏡と並んで、学習用望遠鏡というのが売れ、あまり使われることもなく子ども部屋の隅で埃をかぶっている…という状況が、あちこちで見られるようになります。

ただ、一面、そういう広い裾野があったからこそ、情報も機材も豊かに行きわたり、マニアックな天文少年が続々と生れる土壌が作られたのでしょう。

おそらく、現在の天文趣味人の中核は、当時の天文少年のカムバック組と想像しますが、これはいわば当時の遺産を食い潰しているようなもので、そういう人たちが一線から消えた後の天文界はいったいどうなるのか…想像すると、ちょっと心が寒くなります。まあ、元々マイナーな趣味なので、旧に復するだけのことなのかもしれませんが。。。

『天体議会』と神戸・補遺2010年03月02日 10時32分46秒

「やあ、久しぶり。神戸に行ってたんだってね。」
「うん、一昨日、脳内新幹線で帰ってきたところさ。」
「キミのブログ、読ませてもらったよ。面白い記述もあったけど、だいぶ粘着してたね。」
「うん、僕はめったに出歩かないからね。見るもの聞くものがすべて珍しくて…。」
「ははは、キミらしいね。ところで、1つ教えてほしいんだが。『天体議会』云々の話があったろう。舞台のモデルは神戸に違いないという。あれ、キミはどこまで本気で信じてるんだい。」
「あれ?君、あまり真剣にブログを読まなかったな。本気も何も、100%正しいと確信しているよ。」
「こりゃ失礼。でも、キミにしては…というと褒めすぎだけど、少し論が飛躍しているように思えたから。」
「なるほど。確かにそうかもね。実は、あの推理のソースはもう1つあってね。」
「ほう。」

   ★

神戸を発ったばかりで、すぐにまた舞い戻るのは気がとがめたので、会話体でごまかそうと思いましたが、まどろっこしいので、普通に書きます。
この件についてもう1つ補足しておきます。

作者である長野氏には、神戸を冠した本が管見の限り1冊あります。
『都づくし旅物語―京都・大阪・神戸の旅』という本で、1994年に河出書房新社から出ています。私は、最初これは随筆のようなもので、ここに天体議会のモデル地のヒントが書かれていると思ったのですが、実は純然たるフィクション作品で、内容は完全に「長野節」。ですから、『天体議会』の誕生秘話が、直接ここで語られているわけではありません。

ただし、いくつかのヒントはあります。
この掌編集は、1990~93年にJR西日本が出した情報誌『三都物語』と、同社が同じ時期(91~93年)に、雑誌『Hanako』で行ったキャンペーン「三都物語」のシリーズ広告に掲載された文章が元になっています。つまり、これは『天体議会』(91年発表)の執筆と同時並行的に行われた仕事で、作者は当時かなり関西づいていたことがうかがえます。

長野氏のリアルな関西体験がどんなものかは分かりません(氏は東京西郊出身です)。
しかし、この一連の関西モノにおいて、神戸の街は「近代的な硝子とジェラルミンの高層建築に混って、ローマ風の柱や拱門〔アーチ〕のある古めかしい建物が見える」町として描かれ、埠頭では、理科の野外授業を受けている少年たちが、シトロン・プレッセを飲みかわしています。あるいは、大阪の梅田では、地下鉄のプラットフォームが学校帰りの少年たちの社交場と化し、時計草や、蛍石や、新しい切手について盛んに情報交換が行われています。さらに万博記念公園では、少年たちが固形燃料でソオダ壜のロケットを打ち上げたり、ビルの電光掲示板に流れる天気情報を見ながら、「南の島へ行きたくなった」とつぶやく人物が登場したり…。

『天体議会』を読まれた方は、「ははーん」と思われるでしょう。
『都づくし旅物語』には、『天体議会』に登場するエピソードやキーワードが頻繁に顔を出しており、前者は後者のスケッチ的な意味合いがあったんじゃないでしょうか。(単純に時系列でいうと、『天体議会』のほうが先行しているパートも多いので、習作というには当たらないかもしれませんが。)

上のことを考え合わせると、『天体議会』の世界は、神戸をベースにして(これは地形の描写から動かないでしょう)、そこに京阪神の風物を混ぜ込んで生れたのではないか…というのが、現時点における私の推測です。

ですから、神戸の実景とちょっとずれて感じられるイメージ、たとえば古風な「天象儀館」の発想源は、神戸のプラネタリウムではなくて、大阪中之島にある日本最古のプラネタリウム(大阪市立電気科学館、1937年オープン)ではないか…とか、「鉱石倶楽部」は、ひょっとしたら京都の益富地学会館がモデルかもしれないぞ…といった想像も浮かびます。

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というわけで、最後に屋上屋を架す考証を加えてみました。

『天体議会』のモデルの地をたどる…鉱石倶楽部はありやなしや2010年02月28日 16時44分55秒

雨の匂いに言いようもなく春を感じます。今日で2月も終わりですね。

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海洋気象台や、理化学校舎と並んで、いや、それ以上に重要な作品の舞台となっているのが<鉱石倶楽部>です。ここは、鉱石をはじめ博物標本全般を商っている店で、いわば「ヴンダーショップ」の1つ。(作中の鉱石倶楽部とは、たぶん関係ありませんが、長野まゆみさんは、同名の鉱物フォトエッセイも出しているので、この名称に思い入れがあるのでしょう。)

「彼らの行くところといえば、ただひとつにきまっていた。
放課後、必ずといってよいほど足を向ける鉱石倶楽部のことだ。
名前のとおり、鉱石や岩石の標本、結晶、化石、貝類や昆虫の
標本、貝殻、理化硝子などを売る店で品揃えは驚くほど雑多で
豊富だった。この倶楽部で一日じゅう暇をつぶす蒐集家のため、
麺麭〔パン〕や飲みものを注文できる店台〔カウンター〕もあった。」

最後の1文がうらやましいですね。
少年たちは、ここでココア入りの珈琲やら、巴旦杏〔アーモンド〕ののった焼菓子やら、角パンやら、檸檬水〔シトロンプレッセ〕やら、やたらと飲み食いしながら、鉱石標本の品定めをしたり、こまっしゃくれた会話を延々と楽しんでいます。実に旨そうであり、愉しそうでもあります。

店の規模は相当大きいです。店の内外の描写は、以前も載せた記憶がありますが、再度載せておきます(くだくだしいので、特殊な読み方以外はルビ表示を省略しました)。

「少年たちは外壁の黒ずんだ、かなり古い建物〔ビル〕の前で
立ち停まった。砂岩の太い柱が天〔そら〕に高く伸び、頂点で
はほとんど尖塔のようになっているのをひとしきり見上げていた。
鉱石倶楽部はこの建物の内部〔なか〕にある。」

「水蓮は軽く銅貨の肩を叩き、扉の把手を回した。まもなく彼らは
天竺の黄ばんだ窓掛け越しの光で、うっすらと明るい鉱石倶楽部の
床に立った。人気はなく、しんと鎮まっている。天井は伽藍の
ように高く、よく磨かれた太い柱で支えられている。柱は濃い
朱色をしており、見たところでは、石材か木製か判別しにくいが、
手を触れてみれば芯まで冷たく、石でできていることがわかる。」

神戸の旧居留地を歩けば、砂岩づくりの古いビルには事欠きません。こうした断片的イメージから、鉱石倶楽部が入居しているビルのたたずまいを想像することは容易です。





小説では、店舗の内部も、その外観に劣らず重厚です。

「回廊をめぐらした二階があり、欄干は浮彫の唐花〔とうか〕
模様を施した重々しい構造〔つくり〕で、花崗岩〔みかげ〕の
床や天窓のある建物に、妙に合っていた。中央に、これも欄干に
合わせた木製の階段が迫〔せ〕りあがるように急な勾配で二階
までのび、昇りきったところに、幾何学模様の重厚な布が吊るして
ある。或る種、博物館のような黴くさい雰囲気と、ガラン、とした
広さが同時にあった。硝子戸棚や陳列台は互いに重なり合うように
並んでいる。」

「標本やレプリカ、さまざまな模型やホルマリン漬けの甲殻類
などが、硝子戸棚に詰めこまれている。扉を開けた途端、荷崩れ
しそうな具合で、机の脚の下や階段の下には未整理のまま、荷箱に
入れてあるだけの鉱石や貝殻が、数えきれないほど放置してあった。」

しかし残念ながら、鉱石倶楽部の雰囲気を味わえるのは、その外貌までです。
いかに神戸といえども、この夢のような店舗だけは見つかりません。

でも、長野まゆみ氏の幻視能力を信ずるならば、いつかどこかのビルに「鉱石倶楽部」の看板がひっそりと掛かっている…そんなことがあっても良さそうです。
パリのデロールや、世界の名だたるヴンダーショップをも凌駕する、理科趣味の香気ほとばしるこんな店が、いつか身近にできたらいいですね。

(デロールの店内。Flickrより

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神戸の旅のしめくくりとして、元町一番街にあるOLD BOOKS & GALLERY SHIRASA (シラサ)に立ち寄りました。

ここは、先のランスハップブックと共に、yurihaさんの記事で知ったお店です。


ショーウィンドウの中に飾られた「花」は、よく見ると「青い蝶」。
ここもまた「星を売る店」系の、不思議な空気が漂っています。

牧野富太郎の評伝を1冊買ったら、すみれ色の紐のついた栞をくれました。

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現実の旅の後に、1ヵ月間続いた脳内神戸の旅もこれで終わりです。
何となく寂しい気もしますが、他日のリアル再訪を期して、今回はこれで語りおさめとします。

(帰り際、JRのホームから見た阪急三宮駅)