科学の目…科学写真帳(中編)2020年12月17日 06時56分42秒

(昨日のつづき)

こんな写真集を見つけました。


■Franklyn M. Branley(編)
 『Scientists' Choice: A Portfolio of Photographs in Science.』
 Basic Books(NY)、1958

編者のブランリーは、ニューヨークのヘイデン・プラネタリウムに在籍した人です。
表題は『科学者が選んだこの1枚』といったニュアンスでしょう。各分野の専門家が選んだ「この1枚」を全部で12枚、それをバラの状態でポートフォリオにはさみ込んだ写真集です。さらに付録として、『Using Your Camera in Science(手持ちのカメラで科学写真を撮ろう)』という冊子が付属します。


裏面の解説を読んでみます。

 「ここに収めた写真は、その1枚1枚が芸術と科学の比類なき組み合わせである。いずれも、一流の科学者が自分の専門分野の何千枚という写真の中からお気に入りの1枚を選んだものばかりだからだ。電子やウイルスから、飛行機翼や星雲に至るまで、幅広いテーマを扱ったこれら一連の写真は、多様な科学の最前線、すなわち風洞、電子顕微鏡、パロマー望遠鏡、検査室等々におけるカメラの活躍ぶりを示している。どの写真も、科学者であれ素人であれ、それを見る者すべてに、自然と物質のふるまいに関する新しい洞察をもたらし、その美しさの新たな味わい方を教えてくれる。」


1950年代に出た科学写真を見ていると、当時の科学の匂いが鼻をうちます。


表紙を飾った酸化亜鉛の電子回折像
酸化亜鉛の結晶を電子ビームが通過するとき、電子が「粒子」ではなく「波」として振る舞うことで、その向こうの写真乾板に干渉縞が生じ、ここではそれが同心円模様として現れています(形がゆがんでいるのは、電子線が途中で磁石の力で曲げられているためです)。奇妙な量子力学的世界が、写真という身近な存在を通して、その正当性をあらわに主張している…というところに、大きなインパクトがあったのでしょう。


美しい放射相称の光の矢。
これも回折像写真で、氷の単結晶のX線像です。(撮像もさることながら、単結晶の氷を作るのが大変な苦労だったと…と解説にはあります。)


科学写真が扱うのは、硬質な物理学の世界にとどまりません。こちらはショウジョウバエの染色体写真。2000倍に拡大した像です。
本書の刊行は1958年ですが、当時すでに染色体の特定の部位に、特定の形質(翅の形、目の色・大きさ等)の遺伝情報が載っていることは分かっていました。そして1953年には、あのワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見があり、生命の秘密の扉が、分子生物学の発展によって、大きくこじ開けられた時代です。

   ★

ときに、「当時の科学の匂い」と無造作に書きましたが、それは一体どんな匂いなのでしょう?個人的には「理科室の匂い」です。薬品の匂いと、標本の匂いと、暗幕の匂いが混ざった不思議な匂い。

でも、それだけではありません。そこには「威信の匂い」や「偉さの匂い」も同時に濃く漂っています。この“科学の偉さ”という話題は、おそらく「科学の社会学」で取り扱われるべきテーマでしょうけれど、何にせよ当時の科学(と科学者)は、今よりも格段に偉い存在でした。本当に偉いかどうかはともかく、少なくとも世間は偉いと信じていた…という点が重要です。

「偉い」というと、何だかふんぞり返ったイメージですが、むしろ光り輝いていたというか、憧れを誘う存在でした。その憧れこそ、多くの理科少年を生む誘因となったので、当時の少年がこの写真集を手にすると、一種の「望郷の念」を覚えると思います。いわば魂の故郷ですね。そう、これはある種の人にとって、「懐かしいふるさとの写真集」なのでした(…と思っていただける方がいれば、その方は同志です)。

(この項つづく)

科学の目…科学写真帳(前編)2020年12月16日 18時36分04秒

なかなか寒いですね。昨日は初雪。

年内に雪が降るのは久しぶりな気がします。でも、今調べてみたら、この20年間で12月に初雪が降らなかったのは3回だけで(名古屋の話です)、昨シーズンが2月10日と飛び切り遅かったので、何となく早く感じただけのことです。前回の末尾で「人間の目と心は案外いい加減」と書きましたが、記憶もかなりいい加減ですね。

   ★

昔、NHKの科学番組で「レンズはさぐる」(1972-78)というのがありました。
さまざまな事象を科学的に検証し、それをビジュアルに見せる番組で、子供の頃に見て大層おもしろかった記憶があります。


早野凡平さんが体を張って「雨の降り方が一定なら、走っても歩いても濡れ方は同じだ」と喝破した回などは、今でも知識として大いに役立っています(走れば濡れる時間は短い代わりに、前面から雨を浴びやすくなるためです)。

さらにそれ以前は、「四つの目」(1966-72)という子供番組があって、こちらは記憶が曖昧ですが、狙いは同じものでした。(4つの目とは、「拡大の目、透視の目、時間の目、肉眼の目」で、テーマに応じて、いろいろ撮影の工夫を凝らしていました)。

   ★

この手の番組は、テレビが普及する前からあって、岩波映画製作所が老舗です(1950年設立)。ここは“雪の博士”中谷宇吉郎が中心になって設立された…というのは、さっき知ったんですが、紙媒体の「岩波写真文庫」と並んで、多くの良質の映像作品を生み出し、そのうちの1つである「たのしい科学」というシリーズは、半ば伝説化しています。

(岩波写真文庫7 『雪』、1950)

戦後の一時期、科学映画と呼ばれる一群の作品が確かにありました。
そして、風景写真や人物写真と並んで「科学写真」というジャンルもまたあったのです。これは日本だけのことではありません。

(この項つづく)

フェルスマンに会う2019年06月06日 07時02分37秒

フェルスマンに会うために私がしたこと。それは、彼の生前に出た、彼の本を手にすることです。「なあんだ」と思われるかもしれませんが、私はそうすることで、彼の肉声に触れ、その体温をじかに感じられるような気がしたのです。

そこで見つけたのが、Занимательная Минералогия(おもしろい鉱物学)』という大判の本です(1937、モスクワ)。


…といって、体温はともかく、肉声の方はなかなか難しいです。
題名からして、このキリル文字をラテン文字に置き換えると、「Zanimatel'naya Mineralogiya」となると、Googleは教えてくれますが、「ミネラロギヤ」はともかく、最初の単語は何度読み上げてもらっても聞き取れないし、ましてや発音できません。


そんな次第なので、せっかくのフェルスマン博士の本も、ときどき挟まっているカラー図版を楽しみに「めくる」ことしかできず、きっと滋味あふれることが書かれているのだろうなあ…と想像するばかりです。でも、これはたとえ本物のフェルスマンに会うことができても、彼の母国語を理解できないので、同じことでしょう。


   ★

この本のことは、『石の思い出』にも出てきます。

その最終章(「第19章 石にたずさわる人々」)で、フェルスマンは自著に対する少年少女の感想を並べ、これからも多くの素晴らしい人々が、鉱物学の発展に力を尽くしてくれるだろうと期待しつつ、筆をおいています。(以下、〔…〕は引用者による略。引用にあたって漢数字をアラビア数字に改めました。)

 「私の書いた『おもしろい鉱物学』に応えて、大勢の若い方々から手紙をいただいた。たくさんの若い鉱物ファンが我が国に生まれているのである。それらの手紙は純真率直で、自然と国に対する深い信頼をもって書かれている。〔…〕

 「ぼくは小さいときから石が好きでした。いつも石を家へ運び込むので怒られたことが何回もありました。」(12歳の少年が大きな文字で書いたもの、1934年)
〔…〕
 「ぼくは化学と鉱物が前から好きでした。もう64個の鉱物標本を集めました。ぼくはもう13歳です。自分の実験室を持っています。結晶をつくることもできます。学校(7年制)を終えて、すぐ科学アカデミーへ入ることはできますか」(1931年)
 「本をありがとうございました。私たちはお父さんの部屋から持ってきて、自分たちの部屋へ置きました」(8歳と10歳の女生徒)
〔…〕
 「ぼくは小さいときからよく家から外に出て、小鳥や動物や植物を観察していました。コレクション用に標本を集めました。そのころから6年たちました。ぼくは少年サークルを2つつくりました。そして天山山脈に登山し、岩の中から野生のネギや有用植物を採集しました。その山の中で、ぼくは石に興味をもつようになりました。大地の秘密を解き、大地の富を開拓しようと決心しました」(7年生)
〔…〕
 「私は19歳の娘です。鉱山大学の地質・探鉱学部へ入学することが以前からの念願でした。ところが、女はこの仕事に向かないし、仕事のじゃまになると男の人たちはいいます。これはほんとうでしょうか、どうぞ教えてください。現場の職員になることを希望しています」(1929年)

 このような手紙がまだたくさんきている。私は一言も付け加えていないし、間違いを直してもいない。飾り気のない文章と若い魂の息吹を保とうと思ったからだ。」
(邦訳pp.193-195)

   ★

まぶしい感想が続きますが、ここまで書いたところで、その差し出しが1937年以前であることに気づきました。

「あれ?」と思って、英語版やロシア語版のウィキペディアで、フェルスマンの項目を見たら、『おもしろい鉱物学』は1928年に初版が出て、1935年に改訂版が出ていること、さらに30か国以上で翻訳・出版されていると書かれていました。したがって、手元にあるのは、改訂版の、さらに後に出た版になります。改めて本書が評判を呼んだベストセラーであることが分かります。


手元の本は、扉にべたべたスタンプが押されていて、図書館除籍本のようですが、この本をかつて多くの少年少女が手にしたのか…と思うと、フェルスマンの引用した彼らの声が、いっそう生き生きと感じられます。

   ★

ここでさらに、「30か国以上で翻訳・出版」と聞いて、「もしや…」と思い調べたら、果たして『おもしろい鉱物学』は、邦訳も出ていることが分かりました。

訳者は同じく堀秀道氏です。1956年に出た『石の思いで』(初訳時は『…思い』ではなく『…思い』)から11年後の1967年に、同じ版元(理論社)から出ています。これで「体温」ばかりでなく、「肉声」の方も、その内容を無事聞き取れることになり、めでたしめでたし。

ただ、この邦訳『おもしろい鉱物学』は、絶版久しい相当な稀書らしく、古書検索サイトでも見つかりませんでした。やむなく近くの図書館で借りてきましたが、ついでに『石の思いで』の旧版も借りることができたので、これはこれでラッキーな経験です。

(邦訳『おもしろい鉱物学』の底本は1959年版。この本がフェルスマンの死後も盛んに版を重ねていたことが分かります。)

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こんな風に話を広げていくと、なかなか読書の楽しみは尽きません。
これもブログの記事を一本書こうと思ったからこそなので、やっぱり書くことは大事です。

理科室少年の面差し2017年01月12日 21時14分31秒

前回登場した「理科室少年」という言葉。
この言葉は、いろいろな思いを誘いますが、彼はきっと下のような面持で教場に座っているに違いありません。


彼は普段は「ふーん」と、先生の話を聞いています。
彼は実に頭の回転が速いので、「ふーん」レベルでも、そこそこ理解できてしまうのですが、彼が本領を発揮するのは、何か心の琴線に触れる話題に出会ったときです。


そのときの彼は、まさに全身を耳にして先生の話に集中する…ということはおそらくなくて、むしろ「ふーん」レベルよりも、外界への注意力は低下するはずです。


新たな観念との出会いに興奮した彼の耳に、もはや先生の話は断片的にしか入って来ず、彼の思考は急速に内界へと沈潜し、忙しく自問自答を繰り返しながら、その新たな真理に瞳を凝らす…というような仕儀と相成るのです。

その顔は一見無表情のように見えて、目には何か不思議な光を宿しているはずです。


そんな彼らが大きくなると、その一部はこんな理科の先生になって、また次代の理科室少年を育むわけです。

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この絵葉書、キャプションがないので、具体的なことは不明ですが、おそらく時は1920年代、所はイギリスの寄宿制学校に設けられた物理実験室の光景じゃないでしょうか。


右手前に写っている筒先は、物質のスペクトルを観測する分光器のように見えます。
とすると、この少年たちはかなり高度なことを学んでいることになりますが、彼らはそれを「ふーん」で済ますのか、それとも目に不思議な光を宿すのか…?

理科室少年の部屋2017年01月10日 22時59分23秒

仮想現実がいくら進化しても、自らが身を置くリアルな物理環境を、思いのままに作り上げたいと願うのは、人間として自然な感情でしょう。

そういうわけで、昔も今もインテリアに凝る人は少なくありませんし、私も素敵な部屋の写真を眺めるのは結構好きです。まあ、見ても自室が整うわけではないのですが、彼我の懸隔が大きいところにこそ、憧れも生まれるのでしょう。

   ★

別件で画像検索していたら、「RoomClip」(http://roomclip.jp/)という、インテリア好きの人たちが写真を共有するサイトに行き会いました。そして、そこで「理科室少年のインテリア実例」とタグ付けされた写真が並んでいるのを発見し、「あ、これはいいな」と思いました。


理科室少年のインテリア実例 http://roomclip.jp/tag/415076

驚いたのは、これが全てR-TYPEさんという、ただお一人の方が投稿されたものであることです。R-TYPEさんは、さまざまなアンティークや標本を蒐集され、それを魅力的にディスプレイして、博物館的なお宅を目指されているという、僭越ながらまことに共感できる趣味嗜好の方です。

もちろん、R-TYPEさんと私とでは、「快と感じる散らかり具合」や、色彩感覚も多少異なるので(私はどちらかといえば混沌とした空間を好みますし、いく分暗い感じの方が落ち着きます)、R-TYPEさんのお部屋をダイレクトに目指すことにはならないのですが、それでもこういう方の存在を知って、とても心強く思いました。

   ★

最近は、以前ほど「理科室風書斎」の話題を語っていませんが、久方ぶりにそっち方面の話題も出してみようかな…と思いました。

旧制高校の青春…カテゴリー縦覧:理科少年編2015年04月22日 21時56分17秒

初夏の日差しを感じる、爽やかな日が続きます。

   ★

さて、今日は理科少年…というか理科青年の話題です。

しばらく前、古い旧制高校のアルバムを見つけました。
蔵王の山ふところに立つ、山形高等学校・理科乙類の昭和2年(1927)の卒業アルバムです。


旧制山形高校は、現在の山形大学の前身の1つ。
同校は大正9年(1920年)の創設ですから、アルバム当時はまだ開学7年目の、依然草創の気分が漂う頃です。

理科乙類というのは、第1外国語にドイツ語を選択したクラスで、英語を第1外国語にした理科甲類に対するものです。アルバムタイトルが「ALUBUM der O.B.」とドイツ語風なのは、そのせいでしょう。


表紙を開くと、校門の向うには雄大な蔵王の山。


若者たちが頭脳を鍛え、笑い、語った学び舎。
山形大学理学部のいにしえの姿です。


大仰な大礼服に身を包んだ校長先生。
左側は、1927年当時の二代校長・葉山萬次郎先生で、右側は、1926年まで初代校長を務めた三輪田輪三先生だと思います(三輪田先生の名をウィキペディアで見たとき、思わず笑ってしまいましたが、もちろんこれはご本人の責任ではありません)。


嗚呼、マントに学帽。絵にかいたような旧制高校風俗。


そしてこのポーズ、いいですね。


何せ、彼らはスキーをするときも、マントに帽子だったのです。


ちょっと不思議な光景ですが、楽しそうですね。


そして彼らは本を読み、


顕微鏡をのぞき、


試験管を手にし、


物理法則を学び、


一夜のうたげの後に、


1枚の寄せ書きを残し、各地に散っていきました。


彼らはその後、どんな人生を送ったのか?
かつて確かにあった青春の1ページ。
それを眺め、人生なるものを思うとき、何だかわけもなく涙ぐましい気分になります。


アルバムの最後の方には、彼らバンカラ学生のロマンチシズムをしのばせる、一輪の花の写真が挿入されています。同校の校章デザインの元になった、高山植物のチョウカイフスマ。

かつての若人の姿は夢のように消え、可憐な花だけが今も変らず鳥海山に咲いている…と想像するのは、何を隠そう私自身のロマンチシズムの表れに他なりません。

幻想少年のつどい2014年06月01日 11時53分28秒

まったく暑いですね。
ついひと月前まで、最高気温が20度を切る日もあったぐらいですから、身体もまだ暑さへの備えができておらず、何だかおかしくなりそうです。
そんな中、先週から始まった涼しげなイベント。

(DMより)

第6回 ナツメヒロ 企画展:
 『幻想少年展 -おいしい鉱石のラボラトリエ-』

 ○会期: 2014年5月29日(木) ~ 6月22日(日)
        12:00~19:00 (定休日:火・水・祝)
 ○会場: ハイカラ雑貨店 ナツメヒロ
        神奈川県相模原市南区東林間5-16-20
        最寄り駅:小田急江ノ島線 東林間駅(MAP
 〇出品作家(敬称略):
   あらいあさみ、Artisan、お拾いもの、くうそうせかい、コヤヒロカ、siesta、
   スパン社、トリア商會、8号室、MYSTIC、Radiostar、朱々、少年鉱堂、
   Story Factory、地下室サーカス、流音
 ○HP: http://fude-bako.natsumehiro.com/?eid=812834

   ★

以下、イベント告知文より

 初夏の頃・草葉の緑と眩しさを増す日差し、時に降り続く雨…
 晴れならば清々しく、雨が降れば気怠く幻想的に。
 退屈な雨の日に密かに始まる少年たちのラボラトリエ。
 本や鉱石、植物や虫達、箱の中の宇宙…
 それぞれのコレクションを片手に、少年たちの不思議な実験が始まります…★

会場の相模原は、何かのついでというわけにいかず、多くの方にとっては、意識しないと行けない場所でしょう。かく言う私も伺える予定は全くないのですが、上の告知文はいたく心に沁みました。「ああ、いいなあ…」と。

ここでいう「幻想少年」とは、現実の少年ではなく、男性の心にも女性の心にも等しく存在する「少年的なるもの」の謂いでしょう。

少年のイメージといえば、何といっても大きな自由と可能性、そして純粋無垢。「彼」は己の内に強さと弱さ、聡明な智慧と大いなる無知を同時に抱えた、矛盾した存在でもあります(だからこそ、「彼」は可能性に富んでいるのです)。
もちろん、現実の少年はそんなものじゃないよ…ということは、誰もが知っていますけれど、人はついそういうイメージを少年に投影したくなりますね。まあ、無垢かどうかはさておき、少なくとも可能性だけは、現実の少年もたっぷり持っていますから。

   ★

幻想少年たちが息づく透明な世界。
永遠の初夏と永遠の学校生活が続くその世界で、少年たちは今日も四囲の探求を続け、驚異で心をいっぱいにしています。そのうちの一人は私の心の内に住む「彼」であり、また別の一人は皆さんの心の内に住む「彼」です。

今日もまたあの世界で会いましょう。

2つの理科嗜好2014年05月21日 21時28分24秒

昨日の続き。

ここで、理科用語のカッコよさと、理科趣味アイテムのカッコよさを比べてみます。
と言いますか、カッコいい理科用語に惹かれる人と、カッコいい理科趣味アイテムに惹かれる人の共通点と差異に注目してみます。

   ★

両者は「理科」を仲立ちに、当然重なる部分があります。
たとえば、両者は等しく理科室が好きでしょう。
キラキラ光るフラスコや試験管の列、不思議な形状の化学実験装置、アルコールランプの焔、硫酸銅の青、白衣の思い出… こうしたモノは、両者が等しく愛好するものだと思います。


「フレミング左手の法則」とか、「オングストローム」とか、「酢酸カーミン」とかは、いわばそんな理科室の空気を漂わせた用語ですね。ちょっと個人的懐かしさがまじっている感じです。

しかし、これがたとえば、「カイラル超場」とか「ホーキング輻射」とかになってくると、モノに喩えるなら、圧倒的スケールを誇る巨大加速器とか、多彩な眼で世界の果てを覗く宇宙望遠鏡、はたまたウネウネしたサイバーコンプレックスみたいなイメージで、懐かしさよりは科学の先端性、未来志向が前面に出てきます。そして、理科用語に惹かれる人の軸足は、どちらかといえば、こちらに置かれているのではないでしょうか。

   ★

他方、理科趣味アイテムといえば、現在の趨勢として、その多くが「理系アンティーク」に属するものです。そこにははっきりと古物趣味が混入していますし、中にはヴンダー趣味に接近するものもあります(一部の生物標本など)。

古びた真鍮製の顕微鏡とか、19世紀チックな星図や博物画の魅力は、まばゆく光り輝くビッグ・サイエンスの魅力とは、少なからず色合いが違います。むしろそこには科学が素朴だった時代への憧れがあり、両者の「好ましさのベクトル」は逆向きのような気もします。

要するに、サイエンス用語に惹かれる人と、理科趣味アイテムに惹かれる人は、「理科室愛」を共有しつつも、それぞれ視線が前(未来)に向くか、後(過去)に向くかという点に違いがある…というのが、この場での一応の結論です。

もちろん、2つの嗜好を併せ持つ人も多いでしょうが、その場合、全体が1つの趣味というよりは、2つの趣味を同時並行でやっている、いわば将棋も指せば、囲碁も打つという感じじゃないでしょうか。
(うーん、違うかな…違うような気もしますが、作業仮説として、一応そういうことにしておきましょう。)

   ★

ともあれ、昨日の古い験電瓶がまとう魅力を考える際、上の仮説はある程度有効だと思います。

カッコいい理科用語2014年05月18日 10時55分53秒

知恵袋でこんな質問を見かけました。今から3年前の投稿です。

一番カッコいい理科用語を教えてください。(rurisato7さん)
http://tinyurl.com/nxhcprq

一番カッコいい理科用語を教えてください。
私は 昇華 と ニュートンリング がかっこいいと思います。
みなさんのカッコいいと思う理科用語、教えてください。

■補足 今のところ【ルシャトリエの化学平衡】が一番カッコいいです!
さっき、トリチェリーの真空もクールと思いました。
さて!もっとカッコいいと思う理科用語を!!

それに対する何人かの回答は…(回答者のHNは省略)

ベルヌーイの定理
フレミング左手の法則
(化学物質の名前ですが)パラジクロロベンゼン
 がかっこいいと思いますね。
   *
生物の用語で「セントラルドグマ」
   *
マクスウェル方程式
シュレディンガー方程式
ディラック方程式
ラプラス方程式
ポアソン方程式
ベルヌーイの定理
コリオリ力
オングストローム(単位)
   *
チャネリング・ブロッキング
スフェロマック合体
弾性表面波コンボルバー
カイラル超場
アンダーソン局在
アンドレーエフ反射
ホーキング輻射
量子テレポーテーション
   *
サクサンカーミンと
サクサンオルセリン
   *
理科用語なのか分かりませんが、「ルシャトリエの平衡移動の法則」がカッコいいと思っていました。
あと単位でmol ややこしくて苦手でしたが…

   ★

なるほど、たしかにどれもカッコいい感じがします。
そして、こういうふうに並べていくと、サイエンス用語は何でもカッコよく思えてきます。
天文関係でも、辞典を開けば、私の好きなフォーマルハウトの後には
不規則変光星、浮遊天頂儀、フラウンホーファー線、プラズマ圏…
と並んでいて、それぞれにカッコよさが漂っている気がします。

   ★

それにしても、こういうカッコよさの正体って何なんでしょう?
そのカッコよさはどこから生まれるのでしょうか?

一つには、科学そのものがカッコいいから、ということがあるでしょう。
科学は人類の視野を広げ、世界を改変し、そこに新しい世界を創出しました。
端的に言って科学は力であり、力あるものに憧れるのは、人の素朴な感情として太古から受け継がれているものだと思います。

そして、科学の世界は理知の世界であり、そこには感情を没却した精緻なロジックが展開すると同時に、感情を超えた洞察の火花が散っています。
科学への憧れは、単純な力への憧れに加え、そういうハイパーな知の世界への憧れも大きいのでしょう。理科用語の端々には、高峰のように聳え立つ巨大な世界の片鱗がうかがわれ、それもカッコよさの源だと思います。

さらにまた、こういう言葉は「手触り」がいいですね。
何となく意味ありげだけれども、その正確な意味を捉えがたい言葉というのは、呪文や聖句もそうですが、言霊感を宿しやすいです。口にするだけで何となく有り難い感じがするという意味では、般若心経と近いかもしれません。

他にもカッコよさの理由はあると思います。
皆さんにとってカッコいい言葉とは何でしょう?
なぜそれはカッコいいのでしょう?

図鑑史逍遥(3)2013年10月07日 19時02分12秒

俵浩三氏の『牧野植物図鑑の謎』は、図鑑史を考える上で非常に示唆に富んだ本なので、自分なりにその知見を要約しておきます。

1)村越三千男という人について
 村越は埼玉の師範学校を卒業し、県内の高等女学校や旧制中学校の教諭(植物学、絵画担当)を務めたあと、東京に出て「東京博物学研究会」という団体を設立し、植物関連本の出版を企てた人物。
 明治39年(1906)に同研究会名義で『普通植物図譜』を刊行したのを皮切りに、以後、村越の個人名で出したものも含め、数多くの植物図鑑を世に送り出したものの、現在はほぼ完全に忘却されている人でもあります。

(『普通植物図譜』第1巻第12集表紙。同書は5年間に全60集が刊行されました)

2)村越と牧野富太郎の協働と離反
 村越と牧野は、当初、協力関係にありました。それは村越の処女出版『普通植物図譜』の校訂を牧野(当時は東大の助手)に依頼したことに始まり、明治41年(1908)に牧野富太郎校訂・東京博物学研究会編の『植物図鑑』(参文舎、後に北隆館)が刊行された辺りまで続きましたが、その後両者は距離を置くようになりました(その原因は不明)。

3)村越と牧野の図鑑競争勃発
 以後、別個に植物学の世界を歩んでいた二人ですが、大正14年(1925)9月に、牧野が『日本植物図鑑』(北隆館)を、村越の方は『大植物図鑑』(大植物図鑑刊行会)を、同時に上梓。このとき村越の図鑑を応援して、序文を寄せた1人に、牧野の仇敵である東大名誉教授の松村任三がいたため、牧野と村越の関係も、以後、明らかに敵対的なものとなりました。(松村と牧野は、東大では教授と助手という関係にありましたが、学問的にも人間的にも激しく反目し合っていました。)

4)「図鑑の元祖は牧野植物図鑑」という<伝説>
 2)に記したように、明治41年発行の『植物図鑑』は、実質的には村越の著作ですが、後に校訂者である牧野の名が高まり、この『植物図鑑』は牧野の著作であるという誤った言説が広まりました。そして、タイトルに「図鑑」と付く著作はこの本を最初とするという(これまた誤った)言説と合体して、「図鑑の元祖は牧野植物図鑑だ」という<伝説>が生まれました。

5)明治40年代の図鑑ブーム
 村越の初期の出版物を含め、明治40年頃は植物図鑑(たとえ「図鑑」と銘打っていないにしろ)の出版が盛んでしたが、大正時代に入ると、その勢いは失われてしまいます。これは植物学以外に博物学全般がそうでした。
 その背景にあったのは、理科教育の変化です。明治37年(1904)、文部省は小学校における理科の教科書の使用を禁止し、理科の学習は身近な自然観察によるべしと通達しました。これによって、教える側の教師を中心に、身近な植物名を知りたいというニーズが高まり、また同じ時期に西洋植物の園芸熱の高まりもあって(小学校における学校園の普及はその余波)、植物図鑑は大いにもてはやされました。しかし、明治44年(1911)に、改めて理科の国定教科書が作られると、植物図鑑の出版ブームは沈静化していきました。

6)再度の図鑑ブームと村越と牧野の到達点
 その後、牧野と村越による「図鑑競争」が始まった大正14年以降、再び植物図鑑の新刊が続きました。その最高峰が、昭和15年(1940)に出た『牧野日本植物図鑑』(北隆館)であり、他方、村越も昭和8年(1933)から3年かけて、「印刷、装丁ともに昭和戦前のよき時代を反映した豪華版」(俵氏)である『内外植物原色大図鑑』(全13巻、植物原色大図鑑刊行会)を完成させました。


引用めいた内容が長くなりましたが、ここには図鑑史を考える上でカギとなる指摘がいくつもなされています。特に(2)の<伝説>の真相解明と、(5)の図鑑ブームの時代的限定は重要でしょう。

   ★

日露戦争の後、日本の社会は本格的な工業化社会に突入し、社会のあり様がかなり変わった気がします。この後さらに第1次大戦期から昭和戦前にかけて、列島の重化学工業化は着実に進展していきますが、そうした「ホップ・ステップ・ジャンプ」の、いわば「ホップ」の時期に際して、時代の変化に応えるかのようにして、新たな図鑑文化が誕生した…というのが、ここではポイントでしょう。

前回、昔の本草学の本が自然に進化発展して図鑑文化を生み出したわけではなく、両者の間には断絶がある…と書きましたが、上のことを考えると、その断絶には二重の意味があるわけです(江戸と明治の断絶、および日露戦争の前と後の断絶)。

当時、産業発展の礎として「科学立国」を呼号する声はいよいよ喧しく、私はその流れの中に「理科少年」の誕生と発展を位置付けたいと考えているのですが、それと図鑑ブームの発生が軌を一にしているのは、もちろん偶然ではなく、必然であると思います。

   ★

さて、抽象的な話はひとまずおいて、日本における近代の図鑑文化のスタートラインともいえる、村越・牧野合作の『普通植物図譜』の実物を見てみます。

(この項つづく)