1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(9)…枝幸にて2025年07月19日 08時41分49秒

足掛け5日間の船の旅を経て、7月10日に枝幸に到着した一行は、8月9日の日食当日に向けて、忙しい準備作業に入りました。

まずは荷物の陸揚げです。次に観測基地の場所を決めなければなりません。これについては、使われていない学校校舎がおあつらえ向きだと思われました。

 「この校舎には長さ55フィート、幅20フィートほどの広い部屋があり、これは倉庫にも作業場にも使える。加えて部屋はトッド教授のオフィスや寝室,隊員の宿泊所、食堂や調理場にも適当である。そこで近くの海岸に置いていた荷物を、直ちにこの宿舎に運び入れた。」

日食までの約1か月間、ペンバートンの書簡を読むと、メンバーはときに散歩したり、アイヌ集落を訪ねたりするほか、基本的にはトンテンカンテン、毎日観測小屋の建築と機器の設置および調整に余念がありませんでした。

7月20日  今日はまた曇りである。もちろん皆忙しく動いている、アンドリューは観測小屋の切り妻壁を取り付ける作業にかかり、日食観測の際に壁が開いたり移動したりできるようにした。 この作業にかなりの熟練と労力が必要である。 観測小屋のほかの部分は自分たちで作らなければならない。写真乾板箱の用意は私の仕事として残ったようだ。私は既存の小箱にさらに80個ほど追加しなければならないことに気が付いた。
 それでまた仔山羊皮の古い手袋をつけて、ペンキ塗りに従事した。明日はピロードを切り抜いてそれを張り付けることになろう。」

(アマースト隊の観測小屋。連載第3回に既出)

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さらに日食当日の天候がどうなるか、尋常でないプレッシャーが一同を襲い、それかあらぬか、我らがゲリッシュ氏も体調を崩しがちです。

7月31日  昨日は終日にわか雨が多く、雷鳴や稲妻も少しあって、変化のある天気であった。昨夜は気がふさいで、日誌が書けなかった。ティータイムの直前にはまた別の患者を診ることになった。ゲーリッシュ氏がやってきて、何かウイスキーがないかと聞いてきた。悪寒のような状態だと言うのだ。私はニューヨークを出発して以来、ずっとモノグラムのライウイスキーを小瓶に少量入れてもっている。その1日分を渡し、後でキニーネ剤を飲むよう勧めた。また頭痛に効くナンバーワン錠を渡したら、今日は全く元気になった。私はこの遠征観測隊の医官として適切に対応しているのだろうか?」

8月3日  日食まであと5日しか準備日がない。その日は間違いなくコロナが現れるのか、それとも苦い失望の日になるのか、今日は終日ほぼ晴天であった。日食のある3時5分には太陽はいい状態で出ていた。当然のことだが作業は相当きつい。今日はまた覆いを作るために縫い付け作業をした。」

8月7日  今朝は曇り、午後は雨になった。皆忙しく動いているが、多分に神経過敏になって、いらいらしている。私は地元の床屋に行って、散髪をしてもらった。床屋が刈り上げにあまりに長い時間をかけるので、それを止めさせた。」

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そんな合間にアマースト隊は、他の日食観測隊と交流もしています。

他に枝幸に布陣したのは、フランスのデランドル隊(隊長はパリ天文台のアンリ・デランドル Henri Deslandres、1853-1948)と、日本の寺尾隊(同じく東京天文台長・寺尾寿 てらおひさし、1855-1923)で、デランドル隊についてはこんな記述があります。

7月22日  〔…〕日食観測担当の教授(前出のデランドル)をここに招待した。彼は私にこう言った。「われわれ皆が元気なことをお伝えできるのは嬉しいことだ。二、三日前に気分が悪かったときに、あなたがくれた薬を数錠飲んだら全快した。あなたは名医だ。」
 トッド教授は私からカフスボタンを借り、「白ワイシャツ」の正装で、午後にどこかに出かけた。おそらくフランスの軍艦に招待されたのだと思う。」

一方、寺尾隊についてはペンバートンの書簡に出てきませんが、やっぱり交流があったことは、ゲリッシュ資料の中に寺尾の名刺があることから分かります。


その裏面には欧文による自己紹介がペンで書かれており、これは寺尾の自筆でしょう。


寺尾は開成学校(東京大学の前身)で、お雇いフランス人のエミール・レピシエから天文学を学び、その後パリに留学した人なので、こういう場でもフランス語で名乗るのを常としたのでしょう。(パリ天文台にいた寺尾にとっては、デランドル隊との交流の方が気易かったと思います。)

(寺尾寿。ウィキペディアより)

対するゲリッシュも当然名刺を渡したはずですが、下は遠征旅行のあちこちで配ったであろうゲリッシュ本人の名刺。


さらにまたアマースト隊は、多忙な中、地元の人ともこまめに交流しています。

7月12日  〔…〕午後5時に5人の日本人紳士、すなわち町長と観測所用地の地主、他に3人を招待した。双方から表敬の挨拶が交わされ、それをノザワ氏が通訳した。トッド教授が客に紅茶を供するよう指示があったので、私はコックに急いで出すよう伝えた、紅茶とともに何か食べ物を出したいと思ったので、私はひそかに見つけていたプレッツェル(ビスケットの1種)の缶詰を開け、またコックは焼きドーナツのようなのをそれに加えた、客はこのもてなしを喜んでくれ、何度もお辞儀して帰って行った、」

下のメモは、このとき通訳のノザワさんが書いてくれたものか、あるいはもっと以前、横浜あたりで書いてもらったものかもしれませんが、日本人との交流の際には、大いに役立ったんじゃないでしょうか。


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こうして運命の日、8月9日がやってきました。
最初に書いたように、このときの観測は失敗でした。薄雲が太陽を覆い隠したせいで、科学的に有意なデータがほとんど得られなかったからです。

しかし、それは日食そのものが見えなかったことを意味しません。そのときの光景を、トッド隊長夫人であるメイベルは、『コロナとコロネット』の中で、以下のように文学的に表現しています。

「旋回していたカモメたちは奇妙な鳴き声とともに姿を消した。一匹の白い蝶がぼんやりと舞い去った。そして一瞬にして闇が世界を襲い、この世のものとは思えない夜がすべてを包み込んだ。

言葉では言い表せない閃光と同時に、コロナが神秘的な輝きを放った。薄い雲を通してぼんやりと見えたその光は、言葉では言い表せないほど美しく、想像を絶する天空から来た天の炎のようだった。同時に、北西の空全体が、ほぼ天頂まで、鮮烈で驚くほど鮮やかなオレンジ色に染まり、その上を、液体の炎の粒、あるいは巨大な冥府の火山から噴き出した巨大な噴出物のように、わずかに暗い雲が漂っていた。西と南西の空は、輝くレモンイエローに輝いていた。

夕焼けとは程遠く、それはあまりにも陰鬱で恐ろしかった。青白く、途切れ途切れのコロナの光の輪は、今もなお、胸を躍らせるような静寂を湛えながら輝き続け、自然はこの荘厳な光景の次の段階を息を呑んで待っていた。

それは、全世界が萎縮し消滅する前兆だったのかもしれない。奇妙なほどに恐怖に満ち、美しくも悲痛な、天国と地獄が同じ空に浮かんでいる。」

米・仏・日すべての観測隊員にとって、まさにこれは「美しくも悲痛な、天国と地獄が同じ空に浮かんでいる」光景だったことでしょう。

(この項つづく。次回は日食の後日譚)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(8)…さらに北へ2025年07月18日 14時34分47秒

7月3日の夜10時に青森を出た船は翌朝5時に函館着。いよいよ北海道です。

前回ちょっと触れたように、観測資機材は一行よりも1日早く、6月30日に汽船「さくら丸」で出発しており、そこにアマースト大学機械技師のトンプソンが付き添っていました。一行は函館でトンプソンと合流し、さくら丸に乗り換えて、さらに小樽まで行く計画です。

しかし、荒天でさくら丸の到着が遅れたため、一行はいったん荷物を陸揚げし、船着き場近くのホテルで一泊しました。ゲリッシュ資料によれば、その宿は「KITO HOTEL」です。


最初は「鬼頭旅館」かなと思いましたが、よく見ると日本語表記も「キト旅店」。このキト旅店(キト旅館とも)は、ネットで見るといろいろ情報が出てきますが、函館に本店、小樽に支店のある、当時有名な旅館で、著名人も多く泊まったところだそうです。

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翌7月4日の朝、さくら丸が函館に入港し、トンプソンと無事合流。
一行はその日のうちに早くも小樽に到着しています。

隊長のトッド教授とペンバートンは、他の隊員を小樽に残して、その足で札幌に向かい、北海道知事を訪問して、観測隊への協力を取り付け、枝幸村長への橋渡しやテント類の提供についても快諾が得られました。

ペンバートンが小樽に戻ったのは7月6日のことです。

 「小樽に着くと、私たちの家財道具と他の探検隊員は駿河丸に移されていました。〔…〕テントが船に着くとすぐ、午後2時30分頃に出航しました。汽船は小さいながらも、なかなか快適です。食事もまずまずのヨーロッパ風料理ですし、船長と士官たちは親切で、私たちの快適さのためにあらゆる配慮をしてくれます。ベッドは板のように硬いので、「手堅い(solid)」安楽を与えてくれそうです。キャンプではハエや蚊に遭遇するだろうとよく言われます。少なくとも私たちの一人は、それがかなりの不安になっています。帽子の縁から垂らした網のベールに包まれ、ヒマシ油とタールの混合物で顔を塗られるというのは、決して魅力的なものではありません。」


この「ハエや蚊に不安になっている一人」こそ、横浜で蚊帳を買い込んだ(連載第6回参照)ゲリッシュではないか…と想像しますが、どんなものでしょうか。

こうして一行は7月6日に早々と小樽港を出航し、駿河丸で最終目的地、枝幸を目指します。駿河丸については、以下のページに解説がありました。

北の海の航跡をたどる〜『稚泊航路』 #1 稚泊航路開業前

そこに書かれたデータを引用させていただくと、駿河丸はイギリス生まれの貨客船で、進水は1884年、1885年に共同運輸から日本郵船に転籍。全長54.39m、総トン数 721トンで、船室は2等が8名、3等が359名…とあります。後のことになりますが、1906年からは小樽~大泊(現コルサコフ)の冬季航路に就航しています。

この駿河丸で供されたらしいメニューカードが、ゲリッシュ資料にあります。


「まずまずのヨーロッパ風料理」を出していただけあって、こういうカードも備えていたのでしょうが、日付けも献立内容も書かれていないので、実際の食事の際に使われたものかは不明です(普段は使ってないカードを、ゲリッシュが記念に貰っただけかもしれません)。


メニュー以上に興味をそそるのは、裏面に印刷された日本郵船の定期航路図です。


北海道付近拡大。当時は小樽からだと定期運行便は宗谷までで、宗谷岬を廻ってその先に行く便はありませんでした。もちろん今回の駿河丸は、特別に仕立てた船です。

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途中の海は荒れ模様で、ゲリッシュとトッド隊長は船酔いに苦しめられ、せっかくの食事も喉を通らない状態でした(この2人はコロネット号でもひどい船酔いに襲われました。そういう体質なのでしょう)。

再びペンバートンの書簡より(佐藤利男氏の訳文をお借りします)。

 「7月9日〔宗谷岬〕 日食まであとちょうど1か月となった。昨夜は誰も外に出なかった。風はいくらか強くなったようだが、朝10時ごろ枝幸に向けて出発した。日本のホーン岬(宗谷岬)を回る荒れた航海だった。
 「トッドさん」は船室にこもって姿を見せない。ゲーリッシュも朝食をとらなかったようだ。日本の学生(後出のノザワ?)はベッドに倒れ込んでいる。とても寒く、雨が降っている。私はほとんどベッドの中で寒さを避けていた。
 この2日間は朝食は日本食をとってきた。おそらく船内に洋食のストックが乏しくなってきたからであろう。悪天候で今日は何の作業もすることができなかった。」

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こういう苦労を乗り越えて、一行は7月10日に枝幸港に無事到着。
荷物を陸揚げして、観測基地の設営に入ります。

(この項つづく)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(7)…北へ2025年07月16日 05時23分54秒

横浜から北海道の枝幸までどうやって荷物と隊員を運ぶか?

最初に思いつくのは、コロネット号でそのまま枝幸まで行くことですが、この案は不可能ということになりました(その理由が素人には分かりませんが、とにかく航海のプロが不可能と判断したわけです)。

ここで一行は二手に分かれ、”花より団子”の「非科学者チーム」はコロネット号で西に向かい観光三昧、一方「科学者チーム」は、鉄道で青森まで行き、そこから汽船を乗り継いで枝幸に向かうことになりました。観測用機材等は、別途汽船をチャーターして運ぶ計画です。

ここで「科学者チーム」を確認しておくと、

●遠征隊長 アマースト大学教授 デイビッド・P・トッド
●海軍機関長補 ジョン・ペンバートン
●ハーバード大学天文台 ウィラード・P・ゲリッシュ
●アマースト大学機械技師 E・A・トンプソン

の4名が主要メンバーで、これに助手、コック、写真師等が随行します。
このうちトンプソンは、汽船「さくら丸(佐倉丸?)」で機材を函館まで運ぶ役なので途中は別行動、またトッド隊長夫人のメイベルは、最初「非科学者チーム」と一緒に観光を楽しんだ後、途中で観光組と別れて単身北海道にわたり、科学者チームに合流することとなりました。

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資料を見る限り、こうした日本国内の旅の計画は、すべて来日後に決めたもののように読めます。現地に行ってみないと分からないことが、あまりにも多かったので、まあ当然といえば当然です。しかし観測隊にとって幸運だったのは、日本政府がこの遠征計画に全面的に協力し、あらゆる便宜を与えてくれたことです。その結果、鉄道会社と汽船会社は、隊員全員と装備品を目的地まで無料で輸送することを約束してくれました。

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その結果として、鉄道会社から明治29年6月30日付けで交付されたのが、下の「日本鉄道株式会社常乗車券」です。

(「ゲリシ」とは、もちろんゲリッシュのこと)

通用期間は明治29年7月1日から8月31日まで、期間内であれば鉄道全線の上等車に乗り放題という太っ腹な切符です。


切符の裏面は路線図になっています。鉄道全線といっても、それは当時民営だった「日本鉄道株式会社」が所有する区画のみで、現在の東北本線、高崎線に限られるのですが、今回の旅の目的にはそれで十分です。

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このあと枝幸につくまでの出来事は、『コロネット号航海録』に収められた、ペンバートンの書簡(コロネット号船長夫人、ハリエット・ジェイムズに宛てたもの)が唯一の資料なので、以下それを参照しながら旅の流れを追ってみます。

科学者一行は7月1日に上野駅を出発しました。

一等車とはいえ、エアコンもありませんから、車内は夜になるまで非常に暑かったそうです。幸い車両に他の客はいなかったので、一行はベストもネクタイも脱ぎ捨てて、気楽な格好で涼むことができました。ただ困ったのは食べ物です。持参の食料を別の荷物車両に積み込んでしまったため、それを取り出すことが出来なかったからです。ペンバートンは食料調達の苦労を面白おかしく(?)書き残しています。

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一行はそのまま車中泊をして、青森駅に到着したのは、翌7月2日のことです。この日は涼しく快適。

 「ここでは、駅から汽船まで荷物を運ぶための荷馬車やサンパンを探すなど、面倒な仕事が山ほどありました。私たちは皆、前衛か後衛として行動し、何も失われないようにしなければなりませんでした。汽船に乗っていると、どんな食べ物も手に入らないことがわかったので、町に戻って茶屋で夕食をとることにしました。ここではとても楽しい時間を過ごしました。誰もが現地の言葉を話そうとし、給仕の女性たちも社交的でした。アンドリューと彼女たちの一人が、一人はロシア語、もう一人は日本語で会話しているのを見て、とても面白かったです。」

二等航海士のアンドリューは片言の日本語、給仕の女性は片言のロシア語で、頓珍漢なやり取りをしたのでしょう。青森あたりだと、函館経由で来るロシアの船員さんも多かったのかもしれません。

このときの「茶屋」と思えるのが、下のラゲッジラベルに出てくる「中島」です。


HOTELとありますが、まあ普通に旅館でしょう。ネットで探すと下の中島(中嶋)旅館がそれっぽいです。

(出典:青森市民図書館歴史資料室による2024年7月10日付Facebook投稿記事

ここで食事を済ませた一行は、そのまま同日午後10時、函館行きの汽船に乗り込みました。ゲリッシュ資料には中島旅館とは別に、「旅館 鹽谷彦太郎」というのも出てきます。ここは港の桟橋前にあって、函館行きのチケットを取り扱っていたので、おそらくここで切符を入手して、乗船したのでしょう。


(上のカードの裏面)

(この項続く。次回はいよいよ北海道上陸)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(6)…横浜での日々2025年07月14日 19時49分16秒

ハリエットの『コロネット号航海録』には、横浜上陸後、人力車を連ねて銀行等で用を足した後、グランドホテルに向かったことが書かれています。

「必要な用事を済ませた後、グランドホテルへ行き、ヨーロッパ風の美味しい軽食をいただきました。ホテルは大きくて快適で、港を見下ろす外灘に位置し、多くの宿泊客がいるようだが、そのほとんどはイギリス人とアメリカ人でした。」

それに先立ち、横浜に投錨直後のこととして、グランドホテルと書かれた蒸気船が現れ、そのオーナーはトッド教授を旧友と認め、ホテルに招き入れたいと熱望しています。」という記述もあるので、グランドホテル行きはそれを受けてのことでしょう。もちろん宿泊するだけなら、コロネット号の船内でも十分なのでしょうが、それとは別に横浜ではグランドホテルに宿をとったようです。

下はゲリッシュ資料に含まれるグランドホテルのラゲッジタグ。


グランドホテルは明治6年(1873)創業の老舗ホテルですが、その後、関東大震災(1923)で焼失。今の「ニューグランドホテル」(1927開業)は、このグランドホテルとは系譜的には無関係だそうですが、名称を市民から公募して「ニューグランド」に決まったそうなので、そこにはグランドホテルの栄華が残り香として漂っています(この事実は、横浜近代建築アーカイブクラブさんのサイトで知りました)。

下はグランドホテルが客に配っていた横浜市街地図。

(参考として大きいサイズで貼っておきます)


地図の左上に見えるのが、海岸べりに立つグランドホテルの外観。
当時は居留地返還(1899年に実現)前で、地割には細かい「居留地番号」が振られています。グランドホテルは、居留地番号18~20を占めていました。

参考までに、上の地図とほぼ同じ範囲を示すグーグルマップを貼っておきます。


特徴的な形の「イングリッシュ・ハトバ(波止場)」は現在の「象の鼻パーク」、その上の「クリケット場」が「横浜スタジアム」に相当します。あとは推して知るべし。ちなみにグランドホテルがあったのは、「横浜人形の家」の場所になります。

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往路での横浜滞在は6月22日から7月1日までの足掛け10日間、実質的には8日間ですから、北海道遠征に向けてもろもろの準備作業があったことを思うと、そんなにのんびりはできなかったと思うんですが、それでもやっぱり社交は欠かせなかったようです。


ゲリッシュは横浜到着翌日の6月23日に、W・W・キャンベルという人物の紹介を得て、「横浜ユナイテッド・クラブ」【参考LINK】の臨時会員証(10日間有効)を発給されています。どうも当時、社交にクラブは不可欠だったようですね。

下はさらにその翌日の24日付で届いたキャンベル氏の手紙。横浜ユナイテッド・クラブの用箋に書かれています。

(My dear Mr. Gerrish で始まる書簡。友人に対する気遣いと心配りにあふれた文面…と想像するのですが、難読箇所が多いです。文面は裏面にも続きますが割愛)

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ゲリッシュの横浜モノの資料の中で興味深いのは、一連の商店のビジネスカードです。


上に写っているのは、港橋通り相生町1丁目の「ウィスキーボーイ」こと山本卯助商店のカード。ウィスキーといっても、別に洋酒屋ではなくて、水晶・べっ甲・真珠等をあしらった装身具のお店。「卯助」だから「ウィスキー」と覚えてくれ、というわけでしょうが、いかにも明治のヨコハマです。右下には「ウィスキー(卯助)の名をお忘れなく」ともあって、可笑しみを誘います。上部欄外には「このカードを人力車夫にお見せください」とあって、この種のカードの使い道の一端が分かります。

下のカードは弁天通2丁目のシバタ(柴田?)屋のもの。刀剣骨董商として、主に外国人相手に商売をしていた店だと思います。

上記の2枚は、あるいは故郷への土産物を買うため、復路に立ち寄った店かもしれませんが、下の3枚は実用品の店なので、往路っぽい気がします。


左から時計回りに、「西洋上等小間物」を扱う境町の近江屋栄介商店、馬車道の靴屋、森田佐吉商店、弁天通2丁目の薬屋、Z・P・マルヤ(丸屋?丸谷?)商会のビジネスカードです。


近江屋のカードは裏面にも文字があって、西洋小間物とは衣類、傘、敷物、リネンから石鹸まで西洋の日用品全般を指すようですが、欄外にゲリッシュが書いたらしい「mosquito net」のメモがあります。きっと枝幸での宿営用に、この店で蚊帳を購入したのでしょう。

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こうして観光気分は徐々に消え、遠征隊はいよいよ日食(と蚊)が待つ北辺の町・枝幸を目指します。

(この項つづく)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(5)…ホノルルから横浜へ2025年07月13日 10時33分34秒

4月25日にサンフランシスコを出たコロネット号。

東から吹く貿易風に乗れば船足も速いのでしょうが、なかなか風をつかまえられず、速力が上がりません。隊の中でもゲリッシュと隊長のトッド教授は特に船酔いがひどくて、当初は食事も喉を通らない有様でした。

しかし、それも徐々に収まり、一行は船内のサロンで朗読会をしたり、手づくりのチェス盤でチェスを楽しんだり、甲板で「鳥釣り」(豚肉を餌にして、海鳥のくちばしに針をひっかけて捕まえる)に興じたり、時間をつぶしながら、ハワイを目指します。

ようやくホノルルに着いたのは5月11日、2週間余りの船の旅でした。

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ハワイは一行にとってまさに「楽園」で、『コロネット号航海録』を書いたハリエット・ジェイムズも、『コロナとコロネット』の著者メイベル・トッドも、その美しい景観を手放しで称賛しています(もっとも、より鋭い観察者であるメイベルは。ハワイを揺り動かした「不安定な政治的要素」にも言及していますが)。

一行はここに2週間滞在し、ハワイ観光やピクニック、歓迎パーティーに時間を費やし、十分骨休めをしてから、さらに西を目指すことになります。

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ゲリッシュもハワイに上陸早々、5月11日付けでホノルルの「パシフィック・クラブ」(1851年創設の会員制クラブ)の臨時会員証を発行してもらっています。

(パシフィック・クラブの封筒)

(封筒の表書きと30日間有効の臨時会員証)

ホノルルでの一行は、三々五々、それぞれに羽を伸ばしたようですが、ゲリッシュはピクニックよりもクラブでのんびり派だったのかもしれませんね。

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こうして、ハワイで愉しいひと時を過ごした後、コロネット号は再び帆を上げて、5月25日早朝にホノルル港を出発。隊員たちの首には、見送りの人々から贈られた、たくさんのレイがかかっていました。

船は南太平洋を横切り、日本に近づくとともに黒潮に乗って北上し、6月21日に伊豆七島の御蔵島(みくらじま)の島影を視認、さらに夕暮れ時には富士山を望むところまでやってきました。そのまま東京湾に入り、横浜沖で停泊。横浜港に錨を下したのは、翌6月22日のことです。

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横浜上陸後の印象を、ハリエットはこう書いています。

 「上陸すると、すべてが新しく、奇妙で、何もかもが面白く、愉快だった。私たちはすぐに人力車の男たちに囲まれた。彼らは青いジーンズのコートと短いズボンをはき、茶色のむき出しの脚をしていた。その脚は、昔ながらの乳母車を思わせる奇妙な小型車両で走り回っていたため、筋肉質になっていた。頭には、青や白の綿で覆われた、逆さまの籠かキノコの頭のような、幅広の丸い帽子をかぶっていた。しばらくの間、私たちは9人一列に並んで通りを走り回り、まるで行列を作っていた。」

ゲリッシュ資料には人力車夫のビジネスカードが含まれています。
このカードが横浜上陸時のものかどうかは分かりません。そもそも人力車は横浜や東京の市内移動には不可欠でしたから、その後も乗る機会は多かったでしょう。でも、彼がこのカードを保管したのは、それだけ深い印象を受けたからだと思うし、最初に人力車に乗ったとき貰ったものじゃないか…という想像を、ついしたくなります。

(裏面は白紙)

ゲリッシュが乗った俥の車夫は「水島」という男で、外国人が呼びやすいよう、愛称として「シマ」を名乗っていました。「90」とあるのは、車番ないし営業許可番号でしょう。「ジンリキシャマン」が、こういう英語のビジネスカードを携行していたのが、いかにも横浜という感じです。

(この項つづく。以下、さらに横浜モノが登場します)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(4)…出発2025年07月12日 10時51分01秒

7月も中旬に入り、アブラゼミの声がしきりに聞こえます。
下の写真は白飛びして細部が分かりませんが、肉眼ではモコモコした雄大な雲の峰で、まさに夏の盛り。でも夕暮れ時の色合いには、一抹の寂しさもにじみます。


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さて、勢い込んで筆をとったものの、やっぱりもう一度オリジナル資料を確認しておこうと思い、一寸もたつきました。

これからアマースト隊の動向と併せて、隊の天文助手を務めたウィラード・ゲリッシュの資料を紹介しようと思うのですが、ここで注意を要するのは、アマースト隊は横浜やサンフランシスコなど、往路と復路で同じ土地と経由しているので、たとえば横浜関連の資料にしても、それが往路に属するのか復路に属するのか、日付けが明記されていない限り判別不能だということです。でも、ここでは話の便宜上、どちらか不明なものは往路に含めて紹介することにします。

(紙物のエフェメラ類から成るゲリッシュ資料)

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アマースト隊の一行がニューヨーク駅を出発したのは1896年4月6日の朝でした。
4月とはいえ雪が降りしきる中、見送りの人たちの熱烈な声援に送られて、一行はグレート・ノーザン鉄道が用意してくれた特別車「Ai」号に乗り込みました。

途中、シカゴでアマースト大学から届いた資機材を積み込み、セントポールの町を過ぎ、ミズーリ川を渡り、大平原と山岳地帯を越えて、隊員たちは一路西を目指します。目的地・オークランド(サンフランシスコ湾沿いの町)までは、足掛け11日の鉄道の旅でした。

(サンフランシスコとオークランドの位置関係。ちなみに下述のサウサリートはサンフランシスコとサン・ラファエルの中間の町)

日本人だったら、その間せいぜい雑談して過ごすところですが、アメリカの人はひどく社交を好むらしく、夕食後には展望車両に集って、にわか四重唱団を結成し、みんなで歌を唄って楽しんだ…といったことが、『コロネット号航海録』には書かれています。我らがゲリッシュ氏は、そこでボストンの教会で鍛えた魅力的なテノールの声を披露したそうです。

ちなみに、旅のもう一方の主役であるコロネット号はといえば、一行に先立ち、前年の12月にニューヨーク港を発ち、南アメリカの先端(ホーン岬)を回ってサンフランシスコ湾に至る長途の旅に出ており、すでに4月1日には、現地で一行を待ち受けていました(なお、このときコロネット号を操ったのは、船主であるキャプテン・アーサー・カーティス・ジェームズではなく、キャプテン・C・S・クロスビーという別の人です)。

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この大陸横断の旅のお供をしたと思われるのが、アマースト隊の荷札です。

(紐を除いて約3.5×7.2cm)

きちんと印刷された荷札を準備したのは、それだけ大量の荷物があり、そのすべてに荷札を付ける必要があったからでしょう(「over」という注記の意味がはっきりしませんが、既定の上限を超えたエクストラな荷物だったことを意味するのかも)。


荷札の裏面。「ヨット・コロネット/ホールブルック・メリル・アンド・ステットソン商会気付/マーケット通り・ビール通り/カリフォルニア州サンフランシスコ」の文字があります。

ホールブルック商会というのは、金物の商いで財を成した会社で、サンフランシスコの目抜き通りにそびえる社屋は、地元のランドマークだったそうです(1906年のサンフランシスコ大地震で損壊・焼失)。

(ホールブルック・メリル・アンド・ステットソン商会。1880年代。出典はこちら) 

ゲリッシュ資料には、もう1枚、同趣旨の荷札があって、こちらは大型の荷物にぺたりと貼ったものでしょう。裏面は白紙です。

(約16×24cm)

同社のことは『コロネット号航海録』にも『コロナとコロネット』にも記述がないので、この会社宛てに荷物を送った理由は分かりませんが、同社から協力の申し出があったか、とにかく隊にとって何らかの便益があったのでしょう。その後、5トン半に及ぶ物資は、サンフランシスコ北郊のサウサリート駅に運ばれ、そこからボートでコロネット号に積み込まれることになります。

こうして一行は、出航に先立つ最後の準備として、ヨットの船室を改造したり、サンフランシスコで必要なものを買い足したり、その合間に歓迎と壮行の宴に臨んだりして10日間を過ごしました。

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サウサリート港からコロネット号が出航したのは、4月25日朝です。
全長40メートルの大型ヨットで、これから太平洋の波涛を越え、まず中継地であるハワイのホノルルを目指そうというのです。

(この項つづく)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(3)2025年07月06日 15時55分13秒

いつのまにか明日は七夕ですね。
例年なら七夕関連の話題をひとしきりするところですが、今年は1896年の北海道日食の話題にかかりきりなので、七夕の話題は旧暦の七夕の頃にでもできればと思います(今年は8月29日とだいぶ遅いです)。

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さて、メイベル・トッドの『コロナとコロネット』序文には、アマースト隊のメンバーは9人だと書いてあります。既出の人も含めて挙げておくと、

○コロネット号船長 アーサー・カーティス・ジェイムズ(Captain Arthur Curtiss James)
○同夫人〔ハリエット・パーソンズ・ジェイムズ Harriet Parsons James〕
●遠征隊長 アマースト大学教授 デイビッド・P・トッド(Prof. David P.〔Peck〕 Todd)
●同夫人〔メイベル・ルーミス・トッド Mabel Loomis Todd〕
●海軍機関長補 ジョン・ペンバートン(Passed Assistant Engineer John Pemberton)
●ハーバード大学天文台 ウィラード・P・ゲリッシュ(Mr. Willard P. Gerrish)
○コロンビア大学医科カレッジ ヴァンダーポール・エイドリアンス医師(Vanderpoel Adriance, M.D.)
○ニューヨーク在 アーサー・W・フランシス(Mr. Arthur W. Francis of New York)
●アマースト大学機械技師 E・A・トンプソン(Mr. E. A. Thompson)

このうち●印をつけたのが、実際に枝幸に赴いた人、○印は横浜で観測隊と別れて日本観光を楽しんだ人たちなので、言葉の真の意味で「アマースト隊」といえるのは、●印の5人だけです。もちろん、これ以外に助手や下働きとして随行した人もあるので、総勢はもっと多かったはずですが(各種の記事中に、「トンプソン氏の息子フランク」や、「二等航海士アンドリュー」といった名前がしばしば出てきます)、主だった顔ぶれは上記の5人ということになるのでしょう。

(アマースト隊の枝幸観測基地。『コロナとコロネット』より)

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ここで注目してほしいのが、ハーバード大学のウィラード・ゲリッシュ(1866-1951)という人物です。一般にあまり著名な人ではないと思いますが、「ウィラード・P・ゲリッシュ文書」を保管する、アメリカのブラウン大学図書館のサイト【LINK】には、彼の略歴が以下のように紹介されています。

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<略歴> 

 ウィラード・ピーボディ・ゲリッシュは1866年に生まれ、19世紀後半から20世紀初頭にかけてブルーヒル気象台、後にハーバード大学天文台で勤務した。1885年にブルーヒルが開設されると、アボット・ローレンス・ロッチに初代観測員として採用され、気象データを継続的に記録した。1887年にMITを卒業後、ゲリッシュはハーバード大学天文台の天文学助教授となり、エドワード・C・ピカリング、そして後にハーロー・シャプレーの下で働いた。1896年8月9日の皆既日食を見るために横浜を訪れた直後、メアリー・ワイリーと結婚し、マサチューセッツ州ケンブリッジに定住。二人は1911年にマサチューセッツ州アッシュランドにあるサー・ヘンリー・フランクランド・ガーデン・エステートを購入した。

 ハーバード大学天文台での彼の在職期間は、ピカリングが天体写真と分光学の分野を発展させていた時期と重なり、ゲリッシュは自身の機械工学の技術を活かし、天体の動きをより正確に追跡するための望遠鏡駆動装置や、その他の装置の開発に取り組んだ。彼はピカリングと共に、観測者が真北を容易に決定できる望遠鏡のアタッチメント「ピカリング・ポラリス・アタッチメント」を開発した。彼はまた、「ゲリッシュ極軸望遠鏡」として知られる望遠鏡や、天文情報の伝達に使用された「ゲリッシュ方式」と呼ばれる電信暗号も考案した。 

 ゲリッシュはスポーツマンであり、アウトドア愛好家だった。1893年、アウトドアスポーツと自然科学の振興を目的としたキャンプ・オシピー協会を立ち上げた共同設立者でもあった。彼は水先案内人の免許を持ち、遊覧船の所有者でもあった。

 ウィラード・P・ゲリッシュは1951年11月10日に没した。
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彼は19世紀と20世紀をつなぐ人であり、新時代の天文学の発展に寄与した人です。

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私がアマースト大学日食観測隊にこだわる理由は他でもありません。
ゲリッシュが残した日食遠征の一次資料が手元にあるからです。
…といっても、学術的な資料では全然なくて、彼が道中手にし、保管しておいたエフェメラ類(彼はよっぽど物持ちの良い人だったと見えます)が一括して売られているのを見て、天文古玩的興味がいたく刺激されたのです。

(日食後の記念撮影。遠征隊のメンバーと現地で協力した人々。この中にゲリッシュも当然写っているはずですが、どの人かは不明。『コロナとコロネット』より)

そこには名刺やら、切符やら、招待状やら、雑多な紙モノがごちゃまぜになっているのですが、これこそアマースト隊が見た明治の日本を封じ込めたタイムカプセルであり、見様によってはこの上なく貴重な資料に違いありません(果たして「明治の人力車の車夫の名刺」を見た人がどれだけいるでしょう?)。

この資料を紹介するのは、しっかり諸記録を調べた上で…と思っていましたが、それを待っていては、永久に紹介の機会が失われてしまいそうです。枝幸日食観測130周年を来年に控え、ちょうど良い折です。まだ分からないことだらけですが、推測も交えて思い切って紹介することにします。

(この項つづく)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(2)2025年07月04日 05時09分16秒

1936年の日食と同様、このときの皆既帯もオホーツク海沿いに延びていました。

(原図NASA、Wikimediaより)

北海道には2つの「えさし町」があります。すなわち江差町枝幸町です(ちなみに「江刺」は岩手県の地名で、現・奥州市)。

(函館の脇にある江差町とオホーツク海に臨む枝幸町(バルーンの位置)。距離にして500km余り)

アマースト隊が布陣したのは、もちろん北の枝幸町です。
余所の土地の人間には紛らわしいですが、現に明治の頃も枝幸のアマースト隊に宛てた手紙が江差に届けられて、配達が遅れに遅れ…なんていうトラブルがありました(欧文なら両方“Esashi”ですから、区別がつかなくて当然です)。

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アマースト隊の日食観測は雲にたたられて、結局失敗に終わったのですが、彼らの事績はわりとよく知られています。アメリカ人の学者一行が、明治の北海道奥地を尋ねたというだけでも一種の冒険譚として興味をそそりますし、彼らと現地の人々との温かい交流が、そこに良いフレバーを添えています。

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アマースト隊の行動を伝えるソースは、主に以下の2冊の本です。

(とりあえず安価なリプリント版を買いましたが、下記のとおりオンラインでも全文読めます)

■P. Tennyson Neely、『Coronet Memories: Log of Schooner-Yacht Coronet on her Off-Shore Cruises from 1893 to 1899』、P. Tennyson Neely, 1899.

まず一冊目は、アマースト隊をのせて太平洋を横断したスクーナー船(大型ヨット)「コロネット号」の航海録集です。便宜的に著者とされるNeelyは正確には編者・発行者であり、実際に文章を綴ったのはコロネット号に乗り組んだ乗員で、航海ごとに別の人が筆を執っています。

(コロネット号。上掲書より。驚くべきことにコロネット号は現存しており、保存修復作業中とのこと【LINK】

コロネット号は、西インド諸島へ、カナダ北部へ、そしてアメリカ大陸最南端のケープホーンを廻ってニューヨークからサンフランシスコへと、文字通り北へ南へ、東に西に、長距離航海を続けましたが、中でも長大な旅が、<ニューヨーク ― サンフランシスコ ― ホノルル ― 横浜>に至る太平洋横断の旅で、これぞ日食観測隊を運んだ航海に他なりません。この航海は本書の白眉として、372頁の本書中、約150頁の紙幅が割かれています。

(太平洋を横断したコロネット号の航路。南回りが往路、北回りが復路。スエズ運河がまだなかったので(1914年完成)、いずれもさらに南米の南端を廻ってニューヨークと往復する行程が加わります)

この太平洋航海を記録したのは「H.P.J.」こと、コロネット号の船長夫人であるハリエット・パーソンズ・ジェイムズ(Harriet Parsons James)で、夫のアーサー・ジェイムズ(Arthur Curtiss James、1867-1941)は、船長といっても職業船員ではなく、鉄道事業と鉱山投資で財を成した大富豪なので、ヨット操船はいわば趣味です。

ハリエットは日本到着後、日食観測隊とは別行動をとり、西日本を観光していたので、観測隊の動向を直接見聞きしたわけではありませんが、それを補うものとして、本書には「付録:蝦夷・枝幸のアマースト日食観測基地からの書簡」という一文が併載されています。これは「J.P.」こと、観測隊の一員であるジョン・ペンバートン(John Pemberton)がハリエットに宛てた手紙で、いわば非公式な遠征日誌です。

その抄訳を以下で読むことができます。

▼佐藤利男、「ペンバートンによる枝幸日食記」、枝幸研究 4(2013)、pp.11-19.

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■Mabel Loomis Todd、『Corona and Coronet』、Houghton, Mifflin and Co.(Boston)/ Riverside Press(Cambridge [Mass.] )、1898

アマースト隊の行動を伝える2冊目は、「1896年8月9日の太陽の完全掩蔽を観測するため、ジェームズ氏のスクーナーヨット・コロネット号に乗って日本へ向かったアマースト日食遠征隊の物語」という長い副題を持った上記の本です。

著者のメイベル・トッドは、前回の記事でもちらっと触れたように、遠征隊の隊長であるアマースト大学のトッド教授(David Peck Todd、1855-1939)の妻です。メイベルは、詩人のエミリー・ディキンスン(Emily Elizabeth Dickinson、1830- 1886)を世に紹介した編集者であり、自身もエッセイストとして知られた人ですから、遠征記の筆録にはうってつけです。

(Mabel Loomis Todd(1856-1932)。1897年刊『American Women』掲載。出典:wikidata

ただし、メイベルもずっと遠征隊に同行していたわけではなく、最初は上記のハリエットたちと共に西日本観光を楽しみ、途中から観光組と別れて、ひとり(といっても日本人通訳が一緒でしたが)海路北海道にわたり、途中難渋しながら、日食の4日前にかろうじて観測隊と合流…という旅路を経験しています。

なお、メイベルの事績と(失敗に終わった)日食観測の旅については、梅本順子氏の一連の論考の中で詳しく述べられています。

▼梅本順子、「メイベル・L.・トッドの見た日本―「明治三陸大津波」の記事を中心に―」、国際関係研究(日本大学)第37巻2号(平成29年2月)、pp.17-24.

▼梅本順子、「メイベル・L.・トッドの見た「アイヌ」― Corona and Coronet の作品を中心に ―」、日大国際関係学部研究年報 第38集(平成29年2月)、pp.29-37.

▼梅本順子、「メイベル・L.・トッドの日本体験」
成城・経済研究 第235号(2022年2月)、pp.31-47.

(この項つづく)

1896年、アマースト大学日食観測隊の思い出(1)2025年06月29日 14時29分10秒

先に1936年の北海道日食の話題を取り上げ、その40年前、1896年にも北海道で日食があったことに触れました。

1896年というと、来年でちょうど130年。日本はまだ明治の半ばで、「ゴールデンカムイ」の舞台よりも、さらに10年余り先行する時代です。西暦でいっても何せ19世紀のことですから、思えばずいぶん昔の話です。

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そんな昔、手つかずの大自然が広がる北海道を、アメリカの日食観測隊が訪れました。天文学者のデイヴィッド・トッド(David Peck Todd、1855-1939)率いるアマースト大学(マサチューセッツ州)の一行です。

(日食遠征後の1903年に建設されたアマースト大学天文台内部とアルヴァン・クラーク製18インチ(46cm)屈折望遠鏡。1908年、同地で投函された絵葉書)

(葉書の文面によれば、望遠鏡と一緒に写っているのがトッド教授で、隣はおそらく夫人のメイベル(Mabel Loomis Todd、1856-1932)

(同天文台の外観。同じく1900年代初頭の絵葉書)

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このアマースト隊を偲ぶ品が手元にあるので、それを紹介しようと思うのですが、まずはアマースト隊来日の背景と概要を述べておきます。

(この項、ゆっくりと続きます)

北の大地に太陽は黒く輝いた(3)2025年06月28日 11時36分53秒

北海道日食のつづき。

北海道で皆既日食があった1896年と1936年、明治と昭和の間の40年間で大きく変わったものがある…と書きましたが、それは私の創見ではなく、1936年の日食観測報告書にそう書いてあるのを見て、「なるほど」と思ったのでした。

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連載の2回目で書いたように、このときは大学関係をはじめ、気象台や逓信省等、多数の観測隊が北海道入りをしましたが、その中にあって純然たる民間の立場で参加したのが、五藤光学研究所の遠征隊であり、それを率いたのが所長の五藤齊三(ごとうせいぞう、1891-1982)です。

(興部〔おこっぺ〕の観測地に立つ五藤齊三。『北海道日食観測報告書』より。以下同じ)

(五藤隊が見た日食)

(五藤隊が布陣した興部の位置)

五藤隊は、帰京後『北海道日食観測報告書』という冊子を公刊しています(奥付がなく、正確な刊年は不明)。

(まだらになっているのは染みではなく、そういう模様の紙を使っているため)

ただし、これは独立した報告書ではなく、既に公刊済みの以下の3編の報文を一冊にまとめたものです。

■五藤齊三、「北海道興部皆既日食観測に於ける眼視観測と撮影装置」
 「科学知識」昭和11年8月号
■平山清次、「日食後記」
 「改造」昭和11年8月号
■S. GOTO  & M. YAMASAKI, 
 Cinematographic Observations of the Total Solar Eclipse of June 19, 1936.
 Popular Astronomy, vol. XLV, No.5, May, 1937.

2番目の「日食後記」の筆者、平山清次(ひらやまきよつぐ、1874-1943)は、五藤隊に加わっていたわけではありませんが、文中で五藤隊の業績を好意的に取り上げているので、特に載せたものと思います(平山は前年に東京天文台を定年退官しており、自ら隊を率いることはありませんでしたが、東京天文台あるいは東大隊のどれかに随行していたのでしょう)。

平山はこう書きます(引用にあたり旧字体を新字体に改めました。〔 〕内は引用者)。

 「朝日新聞社の援助で五藤、三木〔新興キネマ会社技術部の三木茂〕両氏が興部で日食の活動撮影を試みた。コロナの方は別に珍しいもので無いがフラッシ〔フラッシュ〕の変化を撮ったのは稀で、しかもそれを無電の秒の信号と合せてトーキーで撮ったのは恐らく最初であらう。此の映画は朝日新聞社主催の日食座談会で見せて貰ったが予期以上の好成績である。〔…〕とにかく此観測では玄人連が顔負けをした形で、学術の進歩の為めに誠に喜ばしい事である。」

(左:活動写真トーキーの成果)

五藤隊の面目躍如。そして平山は続けてこうも書きます。

 「是迄の日本の日食観測は殆ど全部、外国から輸入した器械で行ったのであるが、今度の日食には国産品が大部用ひられた。小清水で松隈博士が用ひたコロナ写真器、興部で村上理学士が用ひたコロナ写真器、稚内で鈴木理学士が用ひたフラッシ・スペクトル写真器は其主なるもので何れも相当の成績を挙げて居る。光学工業は言ふ迄もなく精密工業の基礎で、それが出来ないでは一流の工業国たる資格が無い。写真工業に就いても同じ事である。其等が日食観測に使用し得べき程度に運んだのは真に国家の為に喜びに耐えぬ事である。」

そう、これこそ私が「なるほど」と思った大きな変化です。

ニコンの前身、日本光学が設立されたのが大正6年(1917)。その日本光学を飛び出し、五藤齊三が廉価な望遠鏡の製作販売を目指して五藤光学研究所を創設したのが大正15年(1926)。明治と昭和の間にはさまった大正時代に、日本の光学工業は画期を迎え、長足の進歩を遂げたのでした。

(冊子の裏表紙と、冊子に挟まっていた案内文。「弊社製品の型録〔カタログ〕御入用有之候はゞ左記へ御申越被下度候」。時代は進んでも、まだ完全な候文であるのがいかにも戦前)

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ときにまったくの余談ですが、五藤光学のロゴマーク。


同社のサイト【LINK】を拝見すると、現在は下のデザインに変わっていて、「創業者 五藤齊三は富士山がとても好きでした。弊社の社章は、世界中の人がひと目でそれとわかるように、日本を代表する富士山と、光学技術の象徴であるレンズが組み合わされています」との説明があります。


公式がそうアナウンスしている以上、まあその通りなのでしょうけれど、同社はウラノス号、アポロン号、ダイアナ号、エロス号のように、ギリシャ・ローマ神話にちなむ製品名を多用したので、このマークも「ギリシャ神話の主神ゼウスと霊峰オリンポス山を組み合わせたもの」という“裏解釈”が当時なかったかどうか、そこがちょっと気になります。