今日は3月11日 ― 2012年03月11日 08時56分36秒
『少年採集家』を読了。その話はまた別の記事で。
★
震災から1周年。メディアも震災一色です。
1年を節目とするのは、誕生日も、命日も、あらゆる記念日がそうでしょうが、これは人の生活意識に、いかに太陽の運行が影響を及ぼしているかということの証左ではありますまいか。
季節の巡りは気まぐれですから、春の訪れには遅速があります。
しかし、太陽が天球上を旅する足取りは(実際に旅しているのは地球の方ですが)はるかに正確です。そして太陽は、今や再び空の同じ位置に戻ってきて、あの日と同じように我々を照らしている…というのが、暦でいう1周年の意味。
とはいえ、グレゴリオ暦も妥協の産物には違いないので、厳密に同じ位置に戻ってくるわけではありません。
あの地震が発生したのは、昨年3月11日、14時46分18秒。
このとき太陽は、赤経23時24分22秒、赤緯-3° 50 ′25″の位置にありました。
今年、太陽が同じ位置に戻って来たのは、昨日(3月10日)の、20時42分39秒のことのようです。(おや?1太陽年は365日より長いはずなのに、1日早いのは変だな?…と、一瞬思いましたが、今年はうるう年でした。例年なら、今日はもう3月12日です。)
私が微酔して、ぼんやり音楽を聴いていた頃、地面の下の太陽は、事もなげにその位置をよぎっていったわけです。
自然とは実に冷厳なものだと思いますが、冷厳と思うこと自体、人間の勝手な思い込みなのでしょう。
ともあれ、今日はあの日以来のことを振り返り、思いを新たにする日です。
この小さな星の、小さな国土の中で、我々は生きるための営みを続けねばなりません。
足穂の里へ(3) ― 2011年09月02日 20時08分30秒
夏を吹き飛ばす台風がやってきました。
台風が去った後には、きっと秋の高い空が広がっていることでしょう。
★
経歴にアヤシサのつきまとう利吉ですが、彼が幼い一人娘(足穂の母)を近所に預け、猿を連れて旅回りをしていたのは若いころの話で、足穂が見知った祖父の姿は、あくまでも「入れ歯屋」のそれでした。
台風が去った後には、きっと秋の高い空が広がっていることでしょう。
★
経歴にアヤシサのつきまとう利吉ですが、彼が幼い一人娘(足穂の母)を近所に預け、猿を連れて旅回りをしていたのは若いころの話で、足穂が見知った祖父の姿は、あくまでも「入れ歯屋」のそれでした。
「祖父の旅廻りが止されてからは、三十年以上になっていたろう。〔…〕祖父はともかく天井の低い二階を改造して、一人の書生を助手にして、彼のクレオソート臭い店を開いていた。近在からワラジがけで、また対岸の淡路島から舟に乗ってお客がやってくるような仕組で、つまり「入れ歯屋」である。それらのおとくい連は祖父の許に一泊し、午前中に彼らの歯並を取揃えて家路につくならいであった。町の人々はしかし、この入れ歯屋を未だに「猿屋」と呼びならわしていた。曾て真向かいの浄行寺の土塀ぎわに設けられた止り木に、いつも数匹のエテ公が日向ぼっこをしていたことによるらしい。しかし、おしまいまで居残って玄関に繋がれていた「三吉」も、いまは家人の思い出話に上るにすぎなかった。」 (「雪融け」)
足穂がはじめて天文趣味に目を開かれたのも、この漁師町時代にさかのぼる…というのも注目すべき事実です。
「俺の天文学趣味は、あの羊助〔註:利吉の作中での仮名〕の書生の購読していた講義録の挿絵がきっかけだ。竹筒の台ランプの下で、あの晩初めて見て驚嘆したのは太陽の黒点だった。巴形の襞に囲まれた真黒い孔々は、いずれもお日様の肛門のように受取られたものだ。」 (「地球」)
(↑いずれも横山又二郎著・早稲田大学出版部発行 『天文講話(訂正五版)』、明治41より。足穂が見たのがこれかどうかは分かりません。)
彼の機械趣味のルーツについても同様です。
彼は飛行機狂となる以前は自動車に、さらにその前は船舶に強い興味を向けていました。
「明石へ越してからは、波止崎に立って眺める大船・小船がいかほど私を魅了したことだろう。〔…〕ある日、私が色鉛筆で描いた千島丸のおしりの所へ、新規の友が8の字を書きそえた。その8のまんなかから短い柄をつけて、いうのだった。「蒸気にはみんなスコロクというものが付いとる。スコロクがないと船は走らへん。あとで浜へ行って、巡航船のおしりをよく見てみイ」〔…〕友が帰ってから私は裏口を出た。ペンキとチャン〔註:アスファルトの類〕の匂いがしている所に、お尻を海に向けてならんでいる明社丸・天神丸・琴平丸等々において、私は間違いもなく、これらの船のおしりに付いている真鍮製のスコロク、乃至そのスコロクを差し込む孔をみとめたのだった。」 (「明石」)
太陽黒点にも、スコロク(もちろんスクリューのことです)にも、お尻の穴を見て取るところが足穂らしいですが、私もスコロクを見に、足穂旧居の裏手に回ってみました。
今でも船はずらりと並んでいます。が、残念ながらお尻にささったスコロクは見られませんでした。(足穂のころの海岸は砂浜で、船体は岸に引き上げられていたのでしょう。)
(↑船だまりで見かけた「明石丸」。「明社丸」だとなお良かった。)
(この項つづく)
太陽、燃える ― 2011年06月23日 21時20分28秒
暑いですね…。
気温はまだこれから上がるのでしょうが、身体がまだ暑さに慣れてないせいか、真夏なみの暑さに感じられます。
気温はまだこれから上がるのでしょうが、身体がまだ暑さに慣れてないせいか、真夏なみの暑さに感じられます。
★
さて、昨日書きかけた、「燃え盛る太陽」にちなむ品というのがこれ。
轟然と唸りを上げて磁力線を噴き出し、かつ呑み込んでいる太陽。
この凄まじい太陽像は、2000年10月21日に観測された太陽コロナ像を元に、コンピュータがその時の磁力線ループを再現したものです。
丁寧に面取りされた、6センチ角のガラスキューブの中に浮ぶ、肉眼では窺い知れない、太陽のもう1つの表情。
レーザーがガラスに打ち込んだ、微小な点の集合体は、熱いような、涼しいような、不思議な印象を与えます。
★
明治日本のアマチュア天文家…前原寅吉翁のこと(8) ― 2010年12月28日 18時49分17秒
彗星の尾を通して「太陽面の一部が青く見えた」という記述についてはどうでしょう?
ガス状のものが空を覆えば、届く太陽光は散乱しにくい長波長に偏り、赤味を帯びるんじゃないかとか、いや彗星のガスの成分によっては太陽光によってガスそのものが青みを帯びてもおかしくないとか、いろいろ説を立てることはできます。
しかし一番重要なのは、寅吉は白昼にサングラスを装着した望遠鏡でそれを見たと言っていることです。裸眼では(そして他の望遠鏡でも)どんなに目を凝らしても、何の変化もなかったというのに。果してそんなことがあり得るでしょうか?
★
そこで登場するのが、謎めいた「太陽面直接観望用眼鏡」です。鈴木氏は『野の天文学者』で以下のように書いています(pp.106‐107)。
「男の人が「前原時計店」に入ってきてたずねました。
〔…〕
「いや、わたしは東京の天文学会からきたものです」
「そうですか。それはそれは遠いところ、ご苦労さまでした」
寅吉は、仕事台から立ち上がりました。
「あの、どのようにして、太陽の写真をとったのですかね。ふつうは太陽の写真をとることはむずかしいんですがね。いわんや、黒点など写せません」
「それはですな」
寅吉は、部屋のすみにおいてある、特別な装置を見せました。
「これであんす。これは写真館の高野直太郎さんとわたしの二人で考えて作ったものであんす」
「ほうなるほど、これですか。なるほど、なるほど」
その学者は、ていねいに見ていきます。そして、
「これは、太陽面直接観望用眼鏡ですな」
と、いいました。
「はい、そうです。やっぱり学者の方ほ、いい名前をつけるもんであんすな。その名前いただきます」
現在、寅吉の作った「太陽面直接観望用眼鏡」は残っていませんので、どのような装置かわかりませんが、すぐれた報道写真を数多く写した高野直太郎の技術と、時計の修理をしながら、いろいろと機械をあつかっているうちに気がついた寅吉の考えとが、ひとつになってつくられたものと思われます。
学者が帰って間もなく、寅吉は、
「日本天文学会特別会員」
に推せんされたのでした。」
このシーンもどこまで事実に基づくのか不明ですが(多分にフィクションめいています)、「太陽面直接観望用望遠鏡」というのは、何か特殊な機構を備えた装置としてイメージされています。
しかし、「天文月報」第1巻第6号(明治41年9月)の巻末の広告欄には、寅吉がこれを10個作って、日本天文学会有志に配布を申し出たことが記されています。
「本会特別会員 前原寅吉君(青森県八ノ戸在住)より 太陽面観望用として 直接に又は双眼鏡及び望遠鏡と共に使用し得べき 便利なる眼鏡十個を送付せられ 会員中有志の人に贈与したき旨申越され候に付 希望の人は本月二十五日迄に申込まれ度候 希望者十名以上ある時は 抽籤にて配布可致候」
直接覗いてもよく、また双眼鏡や望遠鏡でも使用可の「便利なる眼鏡」というのは、単純に眼鏡型のサングラスのことではないでしょうか? 例えば、アメリカで1932年に皆既日食があったとき、下のような日食グラスが販売されましたが、似たような形状のものではなかったかと、私には想像されます。
(↑アメリカの日食観測用眼鏡2種、いずれも1932年製)
鈴木氏も、「天文月報」誌上の記述には目を留めておられて、「個人で十個も寄贈するのですから、〔…〕そんなに複雑で高価なものではないと思います」と書かれていますが(p.139)、まったく同感です。いずれにしても、肉眼では捉えられない不思議な光学現象を捕捉する精妙な装置だとはとても思えません。
(この項つづく)
空の青、本の青(3)…19世紀のたそがれ、20世紀のあけぼの ― 2010年09月04日 19時36分58秒
【9月5日付記 画像が暗いので貼り替えました。】
↓奇妙な太陽断面図(左)と、皆既日食の図。
↓奇妙な太陽断面図(左)と、皆既日食の図。
太陽の黒点は、光り輝く大気に開いた「穴」であり、そこから暗黒の核(太陽本体)が見えている…という、19世紀のいわば「標準理論」を説いたものです。
さらに、本体と輝層の間には、少なくとも2層、おそらくはそれ以上の層状構造(殻)があり、それによって黒点の半影(半暗部)の存在は説明できるとされていました。しかも、それらの中間層が上層の熱と光をさえぎることで、太陽本体は、生物が住むのに適した環境になっている…とも考えられたのです。
これと同じ図は以前も出てきました。19世紀前半の天文教科書、『スミスの図解天文学』に載っていたものです。
この説は、ウィリアム・ハーシェルが1795年(※)に唱えたもので、天文学が急激な進歩を遂げた19世紀にあっても、ずいぶんと長いこと信じられていました。(彼は自説に絶対の自信があり、黒点(spots)という、比喩的で誤解を招きやすい古い言い方をやめて、自分は開口部(openings)という語を断固使うぞ!と、1801年の論文中で力説しました。)
(※)【9月5日付記】 1801年と書きましたが、上記の通り修正します。
しかし、本書『大空と宇宙で半時を』が出たのは1881年。さすがにこの奇説も再考が必要ではないか…ということが、子ども向きの本でも示唆されており、この辺に時代を感じるというか、歴史的興味を覚えるところです。
「しかし、太陽の内部で何が生じているかに関する我々の知識は、近年大きな進歩を遂げた。それは、最も遠くまで見通せるはずの天文学者でさえ、以前には想像すらできなかったようなやり方で成し遂げられたものだ。」
著者が言う大きな進歩とは、もちろん写真術と分光学のこと。
この2つの技術によってプロミネンスの正体が判明し、太陽が高温のガス球であること、そしてその表面では日々劇烈な現象が生じていることが、近年になって分かってきた…と著者は述べています。本書の中で、ハーシェル説はまだ辛うじて余命を保っていますが、「太陽人」は明らかに過去のものとなりつつありました。
★
「宇宙の旅」という章にも、20世紀の息吹が感じられます。
この章は太陽系を遊覧しながら、各惑星の様子を物語るという趣向で、そういうアイデアは昔からありそうですが、ここではその方法を真面目に考えているところが驚きです。
「しかし、いったいどんな乗り物が、我々の役に立つのだろう?我々は想像の妖精の翼に頼らねばならないのだろうか?あるいは、もっと現実味のあるものの力を借りることができるのか?〔…〕大気の力を借りないものとして、我々が唯一思い描ける機械は、ロケットの原理を応用したものだ。」
著者は、反作用の力で飛ぶロケットを使えば、大気のない宇宙でも進めることを正しく指摘し、将来の宇宙飛行に望みを託しています。これも20世紀との連続性を強く感じる部分です。(「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーは、1881年にはまだ24歳。「近代ロケットの父」ゴダードに至ってはまだ誕生前ですから、この著者の先進性が分かります。)
ただし、さすがにロケットの具体像を描くことは手に余ったのか、「ロケット装置を考案するために、我々の想像力を拷問にかけるような真似はやめて、いっそ空想飛行の助けになってくれる、天然ロケットに乗りこもうじゃないか」と、読者を誘います。
著者がいう「天然ロケット」とは彗星のことです。彗星に乗って、太陽系を巡回しようというのです。(このアイデアは、1877年にジュール・ヴェルヌが発表した、『彗星飛行』(原題:Hector Servadac)に由来するのかもしれません。)
(この項つづく)
日食絵葉書、解けた謎と残る謎 ― 2010年07月02日 21時31分47秒
いつの間にか7月ですね。
暑中お見舞い申し上げます。
ブログの本格再開は、1週間後を予定していますが、それまで間があるので、リハビリ代わりに、ぼつぼつ記事を書いてみます。
【7月3日付記】
暑中見舞いというのは、梅雨明けから立秋までに出すのがナラワシだそうで、ちょっとフライングでした。それと、本格再開云々とか、煮え切らないことを言わずに、今日から再開することにします。
暑中お見舞い申し上げます。
ブログの本格再開は、1週間後を予定していますが、それまで間があるので、リハビリ代わりに、ぼつぼつ記事を書いてみます。
【7月3日付記】
暑中見舞いというのは、梅雨明けから立秋までに出すのがナラワシだそうで、ちょっとフライングでした。それと、本格再開云々とか、煮え切らないことを言わずに、今日から再開することにします。
★
継続は力なり。下手なブログも続けてみるものです。
最近、4年越しに解けた謎があります。それは上の絵葉書の正体にまつわるもの。
問題の記事は以下。
記事の中で、自分は以下のように推測しています。
「最初は地元のカレッジ関係の品かな…と思いました。いかにも同地の
女子カレッジで天文学を学ぶ女性が投函するのに相応しい品だからです。
しかし、ブリッジトンというのは小さな町なんですが、いくら調べても
それらしい学校が見つかりません。ムムム???と思いつつ、さらに
調べてみると、1932年8月31日にメーン州で皆既日食が見られたことが
分かり、どうやらこれは日食を当て込んだ記念絵葉書らしい、と見当が
付きました(真ん中の「メーン州ブリッジトン」という部分に、他の地名を
入れた別バージョンも作られたのではないでしょうか)。」
そして、今回見つけたのは下の絵葉書。
全く同じデザイン(裏面も同一)でありながら、「ブリッジトン」のところが「デトロイト」に差し替わっています。となると、上の推理はどうやら当りで、我ながら冴えてるなあ…と自画自賛したのでした。
★
ここまではお目出度い話。
しかし、すべての謎が解けたわけではありません。というのも、20世紀前半に北米で見られた日食地図がNASAのサイトにあるのですが、それによると1932年の日食はデトロイトでは観測できず、同地で日食が見られたのは、もっと前の1925年1月24日のことらしいのです。
となると、この必ずしも秀逸とは言いかねるデザインが、7年間―あるいはそれ以上―も使い回されていたわけで、それも何となく解せない話。でも、モノがある以上、事実は多分そうなのでしょう。
いつの日か、第3第4の類例が見つかれば、その辺の事情も明らかになることでしょうが、それまで「天文古玩」が続いているかどうかは、神のみぞ知る、です。
パテェ・ベビーの画面に星がまたたくとき、タルホが来りて… ― 2010年06月03日 18時25分37秒
…雨脚がだんだん強まる中、この奇妙な会に集まった人たちは、陰鬱に押し黙ったまま、これから何が始まるのか、それぞれに思いを凝らしているようでした。
この家の主は、奇妙な光を帯びた目でそれを眺めながら、おもむろに口を開きました。
「お足元の悪い中、皆さんようこそお越しくださいました。全員お集まりのようですね。では、そろそろ始めましょうか。」
主は立ち上がって電燈をパチンと消し、手探りで映写機のスイッチを入れました。
「これから、画面に現れるものによく注目してください。見えるのはほんの一瞬かもしれません。しかし、必ず見えるはずですので、どうぞお見逃しなく。」
この家の主は、奇妙な光を帯びた目でそれを眺めながら、おもむろに口を開きました。
「お足元の悪い中、皆さんようこそお越しくださいました。全員お集まりのようですね。では、そろそろ始めましょうか。」
主は立ち上がって電燈をパチンと消し、手探りで映写機のスイッチを入れました。
「これから、画面に現れるものによく注目してください。見えるのはほんの一瞬かもしれません。しかし、必ず見えるはずですので、どうぞお見逃しなく。」
カタカタ…と機械が動き、フィルムが回り始めました。
まず画面に登場するのは、パテェ社の雄鶏マークです。
どこからかシガレットの匂いがかすかにします。早くもタルホの霊気を感じます。
いよいよ物語が始まります。遠い山並みの上に浮かぶ月、そして星。
地球は丸い惑星です。
巨大で燃え盛るもう一つの球、すなはち太陽に照らされてゐます。
巨大で燃え盛るもう一つの球、すなはち太陽に照らされてゐます。
地球はこんな工合に、一つの方向からのみ照らされてをります。
一方が晝で、反對側は夜です。
一方が晝で、反對側は夜です。
…仮想上映会はこのあとも続きますが、フィルムの紹介はここまでで終りです。
あんまりフィルムを引っぱり出すと、元に戻せなくなりそうなので。
太陽と地球の物語がこの先どう展開するのか。
そして、上映会に降臨したタルホが何を語るのかは、私も知りません。
他の皆さんとともに想像するのみです。
★
百物語は99話で語り納めとするのが、古くからの定法だそうです。
(なお、上の画像はふつうのスキャナーを使い、800dpiで読みました。)
アニー・マウンダー、『天界の物語』(2) ― 2010年05月18日 19時52分30秒
彼女の筆を通じて、それぞれの物語をかたる天界の住人達は、おなじみの太陽、月、惑星、彗星、恒星、星雲、銀河といった面々。
★
たとえば<太陽の黒点が語る物語>の章。
彼女はシンドバットが島と間違えてクジラの背に上陸した話がお気に入りらしく、太陽黒点をクジラにたとえて話を進めます。
“黒点は島のように固定された存在ではなく、クジラのように太陽の表面を遊弋している。時には群れを作る。クジラのように棲む海域が限定されている。そして海域ごとに生息するクジラの種類が異なるように、出現位置によって黒点の振る舞いも異なる。”
太陽黒点は、アニーの本領ですので、その筆も実に生き生きとしています。(ただし、黒点の長期消失現象、すなわちマウンダー・ミニマムの話は本書には出てきません)
★
この本は20世紀の出版物なので、全編を通じて写真が幅を利かせているのが特徴。
そして、彼女の経歴を反映してか、グリニッジで撮影された天体写真が多数収められています。当時の天文書では、アメリカの大望遠鏡で撮影した写真が幅を利かせていたので、これはちょっと珍しい。
↑マウンダー夫妻も操ったであろう、グリニッジの写真撮影用望遠鏡。パリ天文台が首唱した写真天図作成の国際計画に使用されました。
↑上の望遠鏡で撮影されたプレアデス星団の写真(露出時間40分)。
↑アニー自身が撮影した、はくちょう座付近の天の川(露出時間6時間30分)。
周辺星像が少し流れていますが、女性天文家の草分けの面目躍如たる写真。今から110年あまり前、1900年8月の空の光景です。
周辺星像が少し流れていますが、女性天文家の草分けの面目躍如たる写真。今から110年あまり前、1900年8月の空の光景です。
★
ところで、アニーってどんな女性だったんだろう?と、思うんですが、彼女の肖像写真はまだ見つけられません。でも、下のグリニッジ天文台のブログに載った写真には、ちらっと横顔が写っています。1900年5月のアルジェリア皆既日食の際の観測風景。
アニーはやっぱり太陽がいちばん似合う女性ですね。
アニーには、1898年のインド日食で撮った伝説的な写真があります。
「アニー・スコット・ディル・ラッセル・モーンダーが太陽コロナの見事な
写真を撮ったのはインドでのことだった。非常に感度の良い乾板を使
い、また独自の撮影技法を試みることで、彼女は4本のコロナの流線
を捉えた画像を撮影した。そのうちの1つは、かつてないほど長大で、
宇宙空間に向けて太陽半径の13.9倍も伸びていた。」(A.チャップマン、
『ビクトリア時代のアマチュア天文家』、272ページ)
その実物が『天界の物語』に載っています。当時の写真技術からすると、これはやはり相当驚異的な写真なのでしょう。
このインド遠征の話題を、アニーは同年5月にマンチェスターで講演し、その際の様子が上記『ビクトリア時代のアマチュア天文家』に書かれています。
「モーンダー夫人は一般聴衆の注意を惹きつけておく術を明らかに
心得ていた。あらゆる科学的詳細さに加えて、「マンチェスター・ガー
ディアン」紙によれば、彼女は「いく分郷土色のあるユーモラスな人
柄を話に織り込んで、教育的で面白い講演会を一層愉快なものに
した」。」(上掲書、278ページ)
彼女の人となりが、よく分かるエピソードです。少なくとも「お堅い人」では全然なかったようです。
★
最後にもう1枚、彼女が撮影した日食の写真を載せておきます。モーリシャスで撮ったコロナの画像。
撮影日は、1901年5月18日。…おお、109年前のちょうど今日の画像ですね。
(これは狙ったわけではなくて偶然です。)
太陽のカップル ― 2010年05月10日 19時45分37秒
(一昨日の記事のつづき)
グリニッジ上空の満天の星と銀河。深い青色の表紙に金の文字。
このため息の出るほど美しい装丁の本、「The Heavens and Their Story(天界の物語)」を著したのは、イギリスの天文学者、アニーとウォルターのマウンダー夫妻です。
世の中に真に幸福な結婚というのがあるとすれば―世間では、あからさまに不幸でなければ幸福と見なすという美風もあるようですが―マウンダー夫妻の場合がそれでしょう。
夫のウォルター(1858-1928)は、太陽黒点の研究で知られます。そして、妻のアニー(1868-1947)も一流の天文家として活躍しました。マウンダーの名は、「マウンダー・ミニマム(マウンダー極小期)」として知られる天文事象によって、たぶん最も有名。これは17世紀後半から18世紀初めにかけて、約70年間にわたって、太陽黒点が限りなくゼロに近かったという天文学上の事実を指します。
★
二人の仲を取り持ったのも太陽でした。
ウォルターは1873年以来、グリニッジで写真撮影・分光部門を担当し、太陽と黒点の定期観測に力を入れていました(ほかに火星の観測も行い、火星の「運河」は目の錯覚だという説を立てました)。そして最初の妻と死別した後、1890年にアニーと出会ったのです。アニーはケンブリッジのガートン・カレッジで数学を修めた才媛で、この年、グリニッジに計算係として採用されました(コンピュータがない当時は、複雑な天文計算の専従スタッフが必要だったわけです)。そしてウォルターの助手をつとめ、太陽観測にも取り組むようになりました。
上の図は、『天界の物語』からとった、有名なマウンダーの蝶形図(少し歪んでいるのは、スキャン画像ではなく、デジカメ撮影のため)。左下にウォルターのサインが見えます。蝶形図は、太陽面での黒点出現位置をプロットすると、年単位で緯度が徐々に変化することを示したものですが、右側の「蝶」は1890年にはじまり1901年に終っています。これは二人の出会いから新婚時代までにあたるので、何だか蝶というよりもハートのマークのように見えます。(とはいえ、1901年で二人の愛が終わったわけではなく、そこからまた新たなハートが始まっているのが、ちらっと見えます。)
ふたりの結婚は1895年ですが、その前の年はちょうど太陽活動の極大期にあたります。続々と現れる黒点群は二人の距離をぐっと近づけ、そこにはいろいろなロマンスがあったんじゃないでしょうか。まさに「熱い」カップルですね。
当時は「寿退社」が慣例だったので、アニーも結婚を機にグリニッジを退職しましたが、彼女はその後も天文学の研究を続けました。天の川の写真研究や、ウォルターとともに海外への日食遠征(当時は大変なことでした)など。第1次大戦中にはボランティア・スタッフとしてグリニッジに復帰し、英国天文学連盟(BAA)発行の学術誌の編集委員を長くつとめ、さらには王立天文学会初の女性会員にも選ばれました。
★
さて、『天界の物語』の中身を見ようと思ったのですが、前置きが長くなったので(というか、今読んでいます)、それはまた次回。
(この項つづく)
グリニッジ上空の満天の星と銀河。深い青色の表紙に金の文字。
このため息の出るほど美しい装丁の本、「The Heavens and Their Story(天界の物語)」を著したのは、イギリスの天文学者、アニーとウォルターのマウンダー夫妻です。
世の中に真に幸福な結婚というのがあるとすれば―世間では、あからさまに不幸でなければ幸福と見なすという美風もあるようですが―マウンダー夫妻の場合がそれでしょう。
夫のウォルター(1858-1928)は、太陽黒点の研究で知られます。そして、妻のアニー(1868-1947)も一流の天文家として活躍しました。マウンダーの名は、「マウンダー・ミニマム(マウンダー極小期)」として知られる天文事象によって、たぶん最も有名。これは17世紀後半から18世紀初めにかけて、約70年間にわたって、太陽黒点が限りなくゼロに近かったという天文学上の事実を指します。
★
二人の仲を取り持ったのも太陽でした。
ウォルターは1873年以来、グリニッジで写真撮影・分光部門を担当し、太陽と黒点の定期観測に力を入れていました(ほかに火星の観測も行い、火星の「運河」は目の錯覚だという説を立てました)。そして最初の妻と死別した後、1890年にアニーと出会ったのです。アニーはケンブリッジのガートン・カレッジで数学を修めた才媛で、この年、グリニッジに計算係として採用されました(コンピュータがない当時は、複雑な天文計算の専従スタッフが必要だったわけです)。そしてウォルターの助手をつとめ、太陽観測にも取り組むようになりました。
上の図は、『天界の物語』からとった、有名なマウンダーの蝶形図(少し歪んでいるのは、スキャン画像ではなく、デジカメ撮影のため)。左下にウォルターのサインが見えます。蝶形図は、太陽面での黒点出現位置をプロットすると、年単位で緯度が徐々に変化することを示したものですが、右側の「蝶」は1890年にはじまり1901年に終っています。これは二人の出会いから新婚時代までにあたるので、何だか蝶というよりもハートのマークのように見えます。(とはいえ、1901年で二人の愛が終わったわけではなく、そこからまた新たなハートが始まっているのが、ちらっと見えます。)
ふたりの結婚は1895年ですが、その前の年はちょうど太陽活動の極大期にあたります。続々と現れる黒点群は二人の距離をぐっと近づけ、そこにはいろいろなロマンスがあったんじゃないでしょうか。まさに「熱い」カップルですね。
当時は「寿退社」が慣例だったので、アニーも結婚を機にグリニッジを退職しましたが、彼女はその後も天文学の研究を続けました。天の川の写真研究や、ウォルターとともに海外への日食遠征(当時は大変なことでした)など。第1次大戦中にはボランティア・スタッフとしてグリニッジに復帰し、英国天文学連盟(BAA)発行の学術誌の編集委員を長くつとめ、さらには王立天文学会初の女性会員にも選ばれました。
★
さて、『天界の物語』の中身を見ようと思ったのですが、前置きが長くなったので(というか、今読んでいます)、それはまた次回。
(この項つづく)
神戸、悲運の巨人望遠鏡(4) ― 2010年02月25日 19時35分38秒
この文章を書く参考にしているのは、前にも書いたように、神戸市教育委員会が編纂した『ふたたび太陽を追って―よみがえった25cm屈折望遠鏡』という本です。この本は四半世紀前の昭和59年に出ているのですが、当時、すでにこの望遠鏡購入のいきさつは霧の中でした。
そもそも購入費用5万円(今の金で1~2億円)が、国庫から出たのか、それとも建物と同じく海運業者の寄付金で賄ったのか、それすら不明で、たぶん今でも不明のままでしょう。
ただ、25年前には、まだ関口博士と同時期に気象台に在籍した技師の方が存命で、その方の証言が本に載っています。以下は、当時84歳の一木茂氏の話。
「天文台に置くのならいざ知らず、望遠鏡は海洋気象台の業務とは、
あまり関係ない…」
「そのころも天体観測は天文台がやるもの、気象台は気象観測をや
るところ、というふうに考えられていた。だから一般的には気象台
と天体観測、ひいては望遠鏡とは関係ないじゃないかとされていた。」
関係者が断言するのですから、おそらくその通りなのでしょう。
「しかし」と、一木氏は続けます。
「しかし、気象研究のためには、太陽の気象に及ぼす影響を調査、
研究するためには太陽観測が必要だったわけだ。それを岡田武松
や関口鯉吉は先駆的に実践した。そうした先達の行動力、実行力
は高く評価されるべきだと思う。」
この「行動力、実行力」というのが、前の記事で書いた「エイヤッ」の部分ですね。
当時の『海洋気象台要覧』には、同気象台の事業項目が解説されていて、「天気図及ビ磁力偏角図ノ発行」とか「海流、潮流、ソノ他海洋ニ於ケル物理的諸現象ノ観測及ビ調査」などと並んで、「海洋気象及ビ地球磁力ノ観測及ビ調査 並ニ之カ為必要ナル天体現象ノ観測」というのが、確かに挙がってはいます。
で、その「天体観測」の中身はというと、「クロノメートル、時計等ノ検定」のための時刻測定が「当台ノ主ナル仕事」であって、その後に「更ニ五吋及び十吋赤道儀式望遠鏡ニ依リ 其他ノ観測ヲモ開始スル計画デアリマス」と申し訳のように書かれています。
要するに、関口が中心となって進めた太陽研究は、海洋気象台の本務からすれば、副次的業務の中の、さらに「その他」扱いの仕事だったわけで、「エイヤッ」でなければ、とてもできなかったろうという気はします。
★
関口は、この望遠鏡を使って「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」、「太陽大気の気象学」、「太陽黒点、白斑、緬羊斑の運動について」などの論文を次々に発表した後、昭和2年(1927)に、早々と中央気象台に転出してしまいます(更に昭和11年、1936年に東京天文台長就任)。
こうして、望遠鏡運用の中心的存在だった関口がいなくなったことで、この大望遠鏡は、徐々に「日陰者」と化していきました。
「昭和9年までは、一木茂が毎日のように太陽黒点の観測を続け
ていた。その後、数人が担当して管理に当たっていたものの、
一方で気象業務としては天文観測の占める比重が徐々に小さく
なっていった。学問研究の流れの移り変わりもあり、戦時下に
入るに従って研究スタッフも次第にいなくなっていった。こうして
この二十五センチ望遠鏡も使用されなくなっていくのである。」
太平洋戦争に突入し、神戸海洋気象台は白亜の本館を焼失。
ドームも焼夷弾の被害で歪み、全く稼働不能の状態となり、望遠鏡は終戦を迎えました。
★
クック望遠鏡の戦後の歩みを略述するため、次回、もう1回記事にします。
ところで、先年出た、『日本の天文学の百年』(日本天文学会百年史編纂委員会・編、恒星社厚生閣)という本がありますが、ページを繰っても、海洋気象台のことも、クック望遠鏡のことも、見事に何も出てきません。かつては日本一の大望遠鏡だったというのに―。
そぞろうら寂しさを感じます。
そもそも購入費用5万円(今の金で1~2億円)が、国庫から出たのか、それとも建物と同じく海運業者の寄付金で賄ったのか、それすら不明で、たぶん今でも不明のままでしょう。
ただ、25年前には、まだ関口博士と同時期に気象台に在籍した技師の方が存命で、その方の証言が本に載っています。以下は、当時84歳の一木茂氏の話。
「天文台に置くのならいざ知らず、望遠鏡は海洋気象台の業務とは、
あまり関係ない…」
「そのころも天体観測は天文台がやるもの、気象台は気象観測をや
るところ、というふうに考えられていた。だから一般的には気象台
と天体観測、ひいては望遠鏡とは関係ないじゃないかとされていた。」
関係者が断言するのですから、おそらくその通りなのでしょう。
「しかし」と、一木氏は続けます。
「しかし、気象研究のためには、太陽の気象に及ぼす影響を調査、
研究するためには太陽観測が必要だったわけだ。それを岡田武松
や関口鯉吉は先駆的に実践した。そうした先達の行動力、実行力
は高く評価されるべきだと思う。」
この「行動力、実行力」というのが、前の記事で書いた「エイヤッ」の部分ですね。
当時の『海洋気象台要覧』には、同気象台の事業項目が解説されていて、「天気図及ビ磁力偏角図ノ発行」とか「海流、潮流、ソノ他海洋ニ於ケル物理的諸現象ノ観測及ビ調査」などと並んで、「海洋気象及ビ地球磁力ノ観測及ビ調査 並ニ之カ為必要ナル天体現象ノ観測」というのが、確かに挙がってはいます。
で、その「天体観測」の中身はというと、「クロノメートル、時計等ノ検定」のための時刻測定が「当台ノ主ナル仕事」であって、その後に「更ニ五吋及び十吋赤道儀式望遠鏡ニ依リ 其他ノ観測ヲモ開始スル計画デアリマス」と申し訳のように書かれています。
要するに、関口が中心となって進めた太陽研究は、海洋気象台の本務からすれば、副次的業務の中の、さらに「その他」扱いの仕事だったわけで、「エイヤッ」でなければ、とてもできなかったろうという気はします。
★
関口は、この望遠鏡を使って「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」、「太陽大気の気象学」、「太陽黒点、白斑、緬羊斑の運動について」などの論文を次々に発表した後、昭和2年(1927)に、早々と中央気象台に転出してしまいます(更に昭和11年、1936年に東京天文台長就任)。
こうして、望遠鏡運用の中心的存在だった関口がいなくなったことで、この大望遠鏡は、徐々に「日陰者」と化していきました。
「昭和9年までは、一木茂が毎日のように太陽黒点の観測を続け
ていた。その後、数人が担当して管理に当たっていたものの、
一方で気象業務としては天文観測の占める比重が徐々に小さく
なっていった。学問研究の流れの移り変わりもあり、戦時下に
入るに従って研究スタッフも次第にいなくなっていった。こうして
この二十五センチ望遠鏡も使用されなくなっていくのである。」
太平洋戦争に突入し、神戸海洋気象台は白亜の本館を焼失。
ドームも焼夷弾の被害で歪み、全く稼働不能の状態となり、望遠鏡は終戦を迎えました。
★
クック望遠鏡の戦後の歩みを略述するため、次回、もう1回記事にします。
ところで、先年出た、『日本の天文学の百年』(日本天文学会百年史編纂委員会・編、恒星社厚生閣)という本がありますが、ページを繰っても、海洋気象台のことも、クック望遠鏡のことも、見事に何も出てきません。かつては日本一の大望遠鏡だったというのに―。
そぞろうら寂しさを感じます。





























最近のコメント