天上の三目ならべ2024年02月11日 13時42分30秒

1月19日の記事【LINK】で、ドイツのマックス・エッサーがデザインした天体モチーフのチェスセットを紹介しました。



その記事の末尾で、「これを見て思案をめぐらせていることがある…」と、ちょっと思わせぶりなことを書きましたが、それはエッサーのチェス駒に似た、Tic-Tac-Toe、つまり日本でいうところの「マルバツゲーム」や「三目ならべ」の駒を見つけたからです。


(元はMetzkeというメーカーが1993年に発売した製品です。同社は玩具メーカーというよりも、ピューターを素材にしたアクセサリーメーカーの由。→参考リンク

まあ、似ていると言っても当然限界はあるんですが、このピューター製の太陽と月には、重厚かつ古風な味わいがあって、それ自体悪くない風情です。


このセットには上のような鏡面仕上げのガラス盤が付属しますが、せっかくなのでエッサー風の盤を自作することにしました。


この配色を参考に、出来合いのタイルと額縁を組み合わせてみます。



お手軽なわりには、なかなか良くできたと自画自賛。
このブルーとグレーの交錯する盤を天空に見立て、その上で太陽と月が無言の戦いを繰り広げるわけです。


これがエッサーのチェスセットよりも、明らかに優っている点がひとつあります。
それはチェスを知らない私でも、そしておそらく誰でも、これならゲームを存分に楽しめることです。

ドラゴンヘッドとドラゴンテール2024年01月24日 05時05分29秒

さらに前回のおまけで話を続けます。
数年前に、アメリカの人からこんなハットピン(ラペルピン)を買いました。

(ピンを含む全長は約8cm)

口を開けて、今まさにアメシストの珠を呑まんとするドラゴン。

(照明の加減で色が鈍いですが、実際にはもうちょっと真鍮光沢があります)

これを買った当時、ドラゴンヘッドとドラゴンテールの話は聞いたことがあるような無いような、あやふやな状態でしたけれど、それでも直感的に「これって何か日食と関係あるモチーフかな?」と思った記憶があります(だからこそ買う気になったわけです)。

今あらためて見ると、アメシストの対蹠点にドラゴンの丸まった尻尾が造形されているのも意味ありげだし、仮にそれが作り手の意図を超えた、私の過剰解釈だとしても、もっともらしい顔つきでそんなふうに説明すれば、たぶん大抵の人は「へえ」とか「ふーん」とか言ってくれるでしょう。

(裏面にもメーカー名や刻印は特にありません)

ここは言ったもん勝ちで、以後、そういう説で押し通すことにします。
そうなれば、この小さなハットピンの向こうには、突如日食とドラゴンをめぐる壮大な歴史と天空のドラマが渦巻くことになるし、私が話を盛らずとも、それは元から渦巻いていた可能性だってもちろんあるわけです。


【付記】

竜(ドラゴン)と日食の件。昨日の記事の末尾で、「識者のご教示を…」とお願いしたら、早速S.Uさんからご教示をいただきました。そして、S.Uさんが引用された、m-toroia氏による下記サイトが、まさにこの問題を論じ切っていたので、関心のある方はぜひご一読ください。


私自身、まだすべてを読み切れてませんが、時代を超え、地域を超えて垣間見られる「天空の竜」の諸相が、豊富な資料に基づき論じられています。

竜と蛇とドラゴンと日食のはなし2024年01月22日 18時42分18秒

昨日書いたことに触発されて、思いついたことを書きます。
昔の中国人は竜が太陽をかじると日食になると考えた…という話のおまけ。

日食というのは、当然のことながら、天球をぐるっと一周する太陽の通り道黄道)と月の通り道白道)が交わるところで生じます(太陽と月がピタッと重なれば皆既食や金環食だし、微妙にずれれば部分食になります。もちろん軌道が交わったからといって、そこに本物の天体がなければどうしようもないので、日食というのはやっぱりレアな現象です)。

黄道と白道は、いずれも天球上の大円ですから、両者は必ず2箇所で交わります。

(角度にして5度ずれて交わる黄道と白道。両者の交点が昇交点(Ascending node)と降交点(Descending node)。ウィキペディアより)

上図のように、これを現代では「昇交点」「降交点」と呼び、また古代インドの人はそこに日食を引き起こす魔物が住んでいると考え、「ラーフ」「ケートゥ」とネーミングしました。この名は漢訳仏典とともに日本にも伝わり、それぞれ「羅睺(らごう)」「計都(けいと)」と呼ばれます。インドのラーフとケートゥはもともと蛇身の神らしく、それを引き継いでいるのか、日本の羅睺と計都も頭部に蛇が生えた姿で描かれます。

(羅睺と計都。同上)

一方、西洋の占星術では、古くから昇交点と降交点をドラゴンヘッドドラゴンテールと呼ぶと聞きます。


…となると、日食をめぐる中国の竜と、インドの蛇と、西洋のドラゴンとの間に、何かつながりがあるのかどうかが気になります。つながりがないとするのは、かえって不自然な気がするんですが、この間の事情にうといので、いまだ真相は不明のままです。詳しい方のご教示をいただければと思います。


太陽を射る2023年09月30日 13時25分13秒

昨晩は月が美しく眺められました。
盗っ人と天文マニアを除いて、月明かりが一般に歓迎されるのは、それが涼やかな光だから…という理由も大きいでしょう。彼岸を過ぎてなおも灼けつく太陽を見ていると、一層その感を強くします。

平安末期に編まれた漢詩アンソロジーに『本朝無題詩』というのがあります。
無題詩というぐらいですから、すべて題名のない詩ばかりですが、便宜上テーマ別に類纂されていて、その卷三には「八月十五夜翫月(はちがつじゅうごやに つきをめづ)」の詩が集められています。そこに、「一千餘里冷光幽(いっせんより れいこうかすかなり)」の一句を見出して、はたと膝を打ちました。作者は不明ですが、青みを帯びた月の光が、どこまでも海のように広がっている様を詠んだものとして、実に美しい一句です。

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さて、中国の古代神話に、羿(げい)という弓の名人が登場します。

羿は太陽を射落としたことで有名です。伝説によれば、かつて天には10個の太陽が存在し、最初は1個ずつ順番に世界を照らしていたのが、あるとき秩序に乱れを生じ、10個の太陽が同時に空に輝くようになりました。途端に地上は灼熱の世界と化し、耐え難い状況となったため、皇帝の命を受けた羿が10個の太陽のうち9つを射落とし、世界は事なきを得た…という話です。

今年の猛暑の最中、空を見上げては「今の世に羿はおらぬものか…」と思ったりもしました。でも、残り1個のかけがえのない太陽ですから、迂闊にそんなわけにもいきません。せいぜいおもちゃで、太陽を射る羿の気分でも味わうか…と思い出したのが、下のドイツ製の玩具です。これは以前も登場済みですが【LINK】、そのときは購入時の商品写真でお茶を濁したので、今回は撮り下ろしの写真で再度紹介します。


戸棚から出してきたら思いのほか大きくて、箱の横幅は約43.5cmあります。


箱の中には、射的の的と的を机に固定する金具、それに弓矢のセットが入っています。


ゴム製の吸盤がついた矢をつがえ、竹製の弓をきりきりと引き絞り…


見事太陽(左)に当たると、的がくるっと上下に回転して、裏面に隠れていた月が顔を出す(右)という仕組み。まあ、他愛ないといえば他愛ないし、ちゃちいといえばちゃちいゲームですが、それが表現するものはなかなか気宇壮大です。

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なお、以前の記事では、この品を大雑把に1950~60年代のものと書きましたが、今回改めて箱を見たら、下のようなラベルが貼られているのを見つけました。


製造元は東ドイツの「BEKA」で、「EVP 7.90 MDM」というのは、「小売販売価格7.90ドイツ中央銀行マルク」の意味だそうです。この「MDM」という通貨単位が使われたのは、1964~67年のごく短い時期なので、この品も1960年代半ばのものということになります。

夜の太陽2023年06月21日 05時52分22秒

今日は夏至。
夏至の前後は北極圏で白夜となり、真夜中でも沈まぬ太陽が、昔から絵葉書の好画題となっています。

(アラスカにて。1910~20年代の絵葉書)

一種の定番ネタとして、同種の絵葉書は大量にあるんですが、その中でも特色あるものとして、こんな品を見つけました。

「真夜中の太陽の国、ノルウェー」

太陽の日周運動を写し込んだ円形絵葉書です(直径は16cm)。
もちろん古いものではなくて、今から30年ぐらい前のものですが、まあ奇抜は奇抜ですよね。


裏面の住所欄は、まだ関係者が住んでいるとご迷惑でしょうから隠しますが、イギリスに住む両親にあてて、息子さんか娘さんが差し出したもののようです。
「御一同様。北極圏の内側200マイルの地からお便りします。とっても寒いですが、景色は最高です。昨日はトナカイの肉を食べましたよ!ではまた。」…みたいな文章が綴られていて、お父さんお母さんの気持ちになると、ほんわかします。

(絵葉書の撮影データ)

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で、これを見て当たり前のことに気づきました。
白夜というのは、太陽が大地をぐるっと360°一周し、真夜中の太陽はちょうど真北にあるんですね(※)。何を今さら…という話ですが、「真北の太陽」というのがこれまでピンと来てませんでした。

裏返すと、白夜の土地では太陽の方位さえ見れば、即座に時刻が分かるわけです。つまり、土地の人からすると、太陽の位置そのものが時針であり、彼らは巨大な文字盤の中心に立っていることになります。以前、時針のみの24時間時計というのを載せましたが、ちょうどあんな具合です。


時計は太陽の申し子であることを、改めて実感しました。


(※)太陽の南中/北中の時刻は12時かっきりではなく、1年を通じて絶えず変動しており(均時差というやつです)、今の時期だと5分ぐらい後ろにズレますが、ここでは不問にします。

太陽黒点に関する授業2023年05月21日 11時13分38秒

昨日不景気な話をしたので、今日は験直しです。


天文学をテーマにした、こんなコミカルな絵葉書を見つけました。

先生が黒点とは何か尋ねていた。
「僕は見たことありますよ」とフレッドが言った。「それもこの近所でね。黒点の問題は、すごそこの通りでも起きてますよ。女の子はそばかすが出来たと言っちゃあ、カッカしてますからね。」


黒点を「そばかす」にたとえるのは、万国共通のようですね。
それにしても、この少年たちのこまっしゃくれた表情ときたらどうでしょう。皆なかなか芸達者で、ひょっとしたら「地」のまま演じてるんじゃないかと思えるほどです。


唇を噛み締めて、「むぐぐぐぐ…」という先生の表情もいいですね。


絵葉書の裏面。この「英国の生活シリーズ(Anglo Life Series)」という一連の絵葉書は、1910年前後、いろいろ面白おかしいテーマで人気を博したらしく、今でもこの名で検索すると、いろいろな作例を見ることができます。

一陽来復2021年12月19日 10時59分09秒

今年の冬至は今度の水曜日、22日です。
この日、昼間の長さがいちばん短くなるわけですが、これは冬至の日がいちばん日の出が遅く、日没が早いことを意味しません。

東京を基準に暦を繰ってみると、

○今シーズン、日の出がいちばん遅いのは 
 来年1月1日から1月13日までの、6:51
●同じく日没がいちばん早いのは、
 11月28日から12月13日までの、16:28

となっています。約1か月のずれがありますね。そして両者の差引勘定の結果、12月22日が、昼間の時間が最も短い日となるわけです。日の出は今も遅くなる一方ですが、日没の方は、先週からわずかに遅くなり始めて――つまり日脚が伸び始めており、冬至に先行して一陽来復の気分。

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最近、あまり自覚はしてなかったですが、ブログの更新頻度を見ると、精神の活動性が低下している…というか、やっぱりちょっと抑うつ気味なのかもしれません。
今年は両親を立て続けに亡くしましたし、季節性のうつ病とまでは言わなくても、冬場に気分がダウナーになる人は多いので、そうした影響も多分あるのでしょう。こういうときは、無理をせず自然体で過ごすのが黄金則なので、それに従うことにします。

遠からず、心にも一陽来復が訪れることでしょう。

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(冬至のストーンヘンジ。Antony Miles撮影。1986年消印のイギリスの絵葉書より)

ストーンヘンジは、夏至と冬至の日を見定めるための古代の天文観測施設だという説が昔から人気で、この両日は古代史ロマンを求めて、大勢の人が押しかけると聞きます。でも、コロナ禍の今年は、できるだけオンライン中継で我慢してほしい…とのお達しだとか。関連記事は以下。

How to watch the Winter Solstice at Stonehenge 2021

冬至2020年12月21日 06時51分31秒


(地球の年周運動と四季の図。A. Keith Johnston(著)『School Atlas of Astronomy』1855より)

今日は冬至
24時間太陽の姿が見えない「黒夜」エリアが極大となり、北極圏全体を覆う日です。


上は既出かもしれませんが、アラスカ中部の町・フェアバンクスを写した1940年代頃の絵葉書。撮影日はちょうど12月21日です。フェアバンクスは北緯65度で、北極圏からちょっと外れているおかげで、冬至でもわずかに太陽が顔をのぞかせています。とはいえ、何とはかなげな太陽でしょうか。

上の写真は、20分ごとにシャッターを開けて、太陽の位置を記録しています。左端が午前10時45分で日の出の直後、右端が午後1時15分で日没直前の太陽です。昼間はこれで全部。あとの20時間以上、同地の人は長い夜を過ごすことになります。

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程度の差こそあれ、日本でも事情は同じです。
冬至の日は太陽高度が最も低く、日の出から日没まで、太陽が地平線にいちばん近いカーブを描く日です。

言い換えれば、真昼の影がいちばん長い日でもあります。
冬至の正午、身長160cmの人は背丈よりずっと長い256cmの影を引きずっている計算で、太陽の低さが実感されます(他方、夏至ともなれば頭上からぎらつく太陽で、その影はわずかに34cmです)。

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この事実は昔の人も注目していて、基準となる棒を地面に立てて、その影の長さを測ることで季節の変化を知り、時の推移を知った…というところから、日時計も生まれたと言います。この棒を古来「表(ひょう)」または「土圭(とけい)」と呼びました。

考えてみると、「時計」という言葉は、音読みすれば「じけい」となるはずで、「とけい」だと「重箱よみ」になってしまいます(正確には「湯桶(ゆとう)よみ」かも)。でも、「時計」という字は、もともと「土圭」の当て字らしく、身近なところにも、いろいろ古代の天文学の名残はあるものです。

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ちょっと視点を変えれば、南半球では今日が夏至。
そして南極圏では、太陽の沈まぬ白夜が広がっています。

(上図拡大)

太陽の王冠(後編)2020年05月11日 06時43分03秒

今回は、結論が見えぬまま、調べるのと書くのとを同時並行で進めているので、どうしてもくだくだしくなります。でも、ようやく出口が見えてきました。
前回を受けて、1840年代に目星をつけて、さらに深掘りしていきます。

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自分で1840年代と書いて、ピンと来た本があります。
それは、ウィリアム・ハーシェルの息子で、当代随一の碩学と言われたジョン・ハーシェル(1792-1871)が出した天文学の教科書です。

ジョン・ハーシェル(以下ハーシェル)は、1833年に『天文学要論(Treatise on Astronomy)』という本を出しています。手元には1845年に出た、その「新版(New Edition)」というのがあります。しかし、彼は天文学の発展をカバーするのに、これでは全然不十分と思ったらしく、1849年にはこれを大幅に増補し、『天文学概論(Outlines of Astronomy)』と改題した<全改訂新版>を出しました。この本は、大いに歓迎され、1873年まで12回も版を重ねています。


それらを見ると、1845年の『天文学要論(新版)』には、コロナが全く登場しませんが、1849年の『天文学概論』には、「bright ring or corona of light is seen(…).This corona was beautifully seen in the eclipse of July 7. 1842」という風に出てきます(p.235)。

(ジョン・ハーシェル『天文学概論』(1849)より)

さらに、新たな挿図として、この1842年7月の皆既日食を口絵に加えています。

(同上)

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1840年代は、やっぱり1つのターニング・ポイントだったと思います。
ここでさらに大胆に推論すると、ハーシェルをコロナづかせた(?)、この「1842年7月の皆既日食」の観測記録こそが、コロナ普及にあずかって大いに力があったのではないか…という想像も浮かびます。

天文学界への影響力、そしてハーシェル個人への影響力を考えると、その最有力候補はフランシス・ベイリー(Francis Baily、1774-1844)で、彼はハーシェルとともに王立天文学会を創設した古参メンバーです。

ベイリーの名は、日食の際、月面の凸凹(山谷)が背後の太陽の光をきれぎれに洩らし、あたかも光点の数珠のように見える現象、いわゆる「ベイリー・ビーズ」を記載した人として、天文ファンにはおなじみです。それは1836年5月15日の金環食の報告(LINK)に出てくるのですが、そこにはコロナに関する言及はありません。

ベイリーがコロナについて明確に述べているのは、彼の最晩年にあたる1842年の日食報告の中においてで、このとき彼はイタリア・ミラノの近郊、パヴィアの町に陣取って、当日を迎えました。

■Francis Baily, Esq.
 Some Remarks on the Total Eclipse of the Sun, on July 8th, 1842 
 Monthly Notices of the Royal Astronomical Society, Volume 5, Issue 25, November 1842, Pages 208–220

報告の中で、ベイリーは例の1806年のデ・フェレールの業績にも言及しつつ、自らが見た日食をヴィヴィッドに叙述しています。

彼が前回(1836年)見たのは金環食で、皆既日食を見たのは初めてです。
彼はそれまで先人のコロナ記録を読んで、漠然と「太陽や月の暈のようなもの」を想像していましたが、実際目にしたのはまったく別物でした。「そのため、私は突如視界に広がった、その壮麗な光景に少なからず吃驚仰天してしまった」(I was therefore somewhat surprised and astonished at the splendid scene which now so suddenly burst upon my view.)と、彼は告白しています(p.211)。その上で、彼はコロナの色、広がり、形状等について、できるだけ正確に記載しようと言葉を尽くしています。

ここで注意すべきことは、彼はコロナを指すのに、すべて斜字体の「corona」――日本風に言えばカギかっこ付きの「コロナ」――を、文中一貫して用いていることで、ベイリーが「コロナ」という語に、一定の意味的負荷――「日食特有の光」というような――をかけて用いていることが明瞭です。

ハーシェルが、この論文を見たことは確実なので(『天文学概論』は、観測地にパヴィアを挙げています)、『天文学概論』に登場した「コロナ」の語も、おそらくベイリーに感化されて使用したものと想像します。

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以上はラフ・デッサンで、この「太陽の王冠」をめぐる歴史物語には、当然もっと多くの人が絡むはずです。しかし、あのベイリーが使い、ジョン・ハーシェルが教科書に記したとなれば、「コロナ」が学術用語として公認されたも同然ですし、この辺から一気に用例が増えたのも事実ですから、物語の絶対年代はあまり動かない気がします。

確かにクダクダしいと言えばクダクダしい―。
でも、「コロナ」という言葉が生まれたことで、人々の注意がコロナに向き、世紀の後半には多くの分光観測がなされ、太陽の層状構造論が進歩していったわけですから、言葉というのはやっぱり大事です。

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さて、閑な人間(私のことです)が、天上のコロナを見上げている間も、地上のコロナの形勢は、刻一刻と変化しています。こちらは果たしてどんな歴史をたどるのでしょう?

(この項おわり)


(注) 19世紀の日食リスト【LINK】を見ると、デ・フェレールの1806年以降、ベイリーの1842年までに限っても、22回もの皆既日食が、地球上のどこかで起こっています。それらの観測記録の中で「コロナ」の語を用いた例は多いでしょうし、またそれを引用して論じた人はさらに多いでしょう。

太陽の王冠(中編)2020年05月10日 11時32分11秒

(今日は2連投です。)

デ・フェレールの言う「luminous corona(光の王冠)」が、同時代人にとっては単なる修辞に過ぎず、学術用語と感じられなかったであろうことは、以下の本からも読み取れます。

■Duncan Bradford,
 The Wonders of the Heavens.
 Amwrican Stationers Company (Boston), 1837

ブラッドフォードのこの本は、一般向けの天文書としては、ごく早期に属するものですが、その中にデ・フェレールの文章をそっくり引用している箇所があります(p.233)。でも、その言い回しは微妙に変わっていて、原文の「The lunar disk was ill defined, very dark, forming a contrast with the luminous coronaは、「(…)forming a contrast with the luminous ringに改まっています。また、その前後を見ても、「コロナ」という語は一切登場しません。

明らかに、ブラッドフォードは「コロナ」の語に特別な意味を認めず、「リング」と置換可能と捉えていた証拠です。

(ブラッドフォード、上掲書より)

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では、「コロナ」が、明瞭に天文学上の用語となったのはいつか?
これまた余りはっきりしないんですが、例えば A. Keith Johnston『School Atlas of Astronomy』(1855)を見ると、以下の挿図に寄せて、こう解説しています(p.7)。


 「図3〔上図の中央〕は、あるドイツ人天文家のスケッチから写したものである。本図は1851年6月28日の皆既日食中に、月の暗い本体の周囲に見られたものを示している。〔…〕月は空に浮かんだ黒い球ないし円板として見えている。その周りには、あらゆる方向に向かう光の線が、輝く暈(ハロー)を形作り、これは『コロナ』と呼ばれる。」

原文だと、末尾の『コロナ』は、斜体字の corona で表示されており、1855年の時点では、「コロナ」が「王冠」の意を離れて、天文学上の用語として熟していたことが窺えます。

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さらに下って、アグネス・ギバーン(Agnes Giberne)『Sun, Moon, and Stars』(1882)を開けば、「太陽のコロナとプロミネンス」と題する見慣れた感じの図が載っていて、もう「コロナ」といえば、断然あのコロナのことなんだ…という風に、時代は変わったことが知れます。

(ギバーン、上掲書より)

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だいぶゴチャゴチャしてきたので、話を整理します。

まず、皆既日食中に見られる光の暈を、最初に「王冠」に喩えたのは、おそらく定説通り、1806年(ないし1809年)のデ・フェレールなのでしょう。人類は皆既日食を目にするたび、コロナの光を見てきたはずですが、それに「王冠」を当てたのは、なかなか上手い見立てで、だからこそ後の人もこぞって採用したのでしょう。

でも、その呼び方がしっかり天文学の世界に定着するには、かなり長い時間が必要で、1830年代になっても、天文学入門書に登場するほどの普及ぶりには達していませんでした。その後、1850年代には、用語として明瞭な輪郭を備えるに至ったので、まあ間をとって、1840年代ころ天文学の世界に定着したんじゃないかなあ…というのが、現時点における大ざっぱな推測です。

もちろん、これはごくわずかな、しかも英語圏のみの資料に基づく想像なので、あまり自信はありません。でも、これぐらい目星をつければ、作業仮説としては十分です。

(この項さらに続く。次回完結編)