懐かしい未来 ― 2012年03月24日 19時16分45秒
鹿島茂さんの古書エッセイに、「二十世紀」というのがあります(白水社刊 『それでも古書を買いました』 所収)。ヴェルヌの同時代のSF作家、A.ロビダの未来小説、『二十世紀』(1883)について触れたもので、鹿島氏はこう書いています。
「〔…〕挿絵本の歴史からいうと、この本はある大きな意味をもっている。それは、この『二十世紀』において、別刷の挿絵についに写真製版が導入された点である。
〔…〕これは当時としては画期的なことで、この未来予測の本に大きな付加価値を与えることに貢献したはずである。
ところが、写真製版が当たり前になってしまった現代から見ると、当時においては付加価値となったこの画期的な技法が逆に古本としての価値を大いに減ずる結果になっているのである。すなわち、『二十世紀』の挿絵は、「写真製版にすぎない」というわけだ。これは新しいものが価値をもつ期間はごく短く、それが当たり前のことになれば、むしろマイナスの価値にしかならないという科学史の法則を裏付ける格好になっている。」
(A.ロビダ作・挿絵、『二十世紀』、1883年。東洋書林刊 『ジュール・ヴェルヌの世紀』より)
なるほど、これは鋭い指摘。
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私にも、最近似たような感想を持った本があります。
たむらしげるさんの『標本箱/博物編』(架空社)という本は、フープ博士、標本、博物…という、私の好きなキーワードを並べた本なので、理論的には、この本は私のお気に入りになるはずでした。
しかし、そうはならず、古書店から届いた本を開いた瞬間、
「あ、これは…」と思いました。
(「翼竜」)
(「星を眺めるビル」、部分)
この本が出たのは1991年。週刊「TV Station」の表紙絵をあつめたもので、絵自体は80年代末に描かれたものかなと思います。
この本が出たのは1991年。週刊「TV Station」の表紙絵をあつめたもので、絵自体は80年代末に描かれたものかなと思います。
たむら氏は、早期から作画にPCを使っており、その後一貫してマシンとソフトの更新を続けていらっしゃるので、現在の氏の絵とはまったく感じが違いますが、当時はこれこそが「新しい線」でした。
今、このギザギザの粗い線を見ると、「これなら手で描いた方がよっぽどいいんじゃないか?」と思いますけれど、当時は「機械で描く」こと自体に、新鮮な魅力があった…ような気がします。
(今の目で見ると、単に過渡期の作、あるいはいっそ下手(げて)な作とも見られますが、しかしだからこそ、そこには明瞭な時代の刻印が押されているとも言えるわけで、これがいつか「20世紀の素朴画」として再評価されるときが来ないとも限りません。)
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ときに、天文古玩というのは、これは一体なんなのかなあ…と、ふと思いました。
懐かしの天文趣味とか理科趣味というのは、今だからこそ懐かしく感じるわけで、当時の人は別に「懐かしさ」を楽しんでいたわけではないでしょう。むしろ「現代的なもの」であるがゆえに、価値を感じていた人の方が多かったはずです。
まあ、結局はこちらの一方的な思い込みに過ぎないのでしょうが、できることなら、21世紀にこういう妙な思い込みを抱いている人間がいることを告げて、19世紀の人がどう思うか、その辺の感想を聞いてみたいものです。
少年採集家(4) ― 2012年03月12日 21時40分33秒
一通りこの本に目を通しましたが、やはり文中に戦争の影はまったく登場しません。それがむしろ不思議なほどです。序文の日付は昭和18年7月になっているので、開戦前に準備した原稿を、この時期に上梓したわけでもなく、きな臭い中での執筆だったはずですが、著者は一切そのことに触れようとしません。
著者の松室重行という方については何も存じ上げませんが、ネット情報によれば、戦中から戦後にかけて『ヘッセ小品集』や『ハウフ童話集』を訳したり、『医学ドイツ語小辞典』を編んだりした方です。昭和11年当時は、作家・牧野吉晴とともに、美術雑誌「東陽」編集部に在籍していました(http://10tyuutai.blog58.fc2.com/blog-entry-95.html)。
動植物に関する著作は、この『少年採集家』だけですから、要するに採集・標本については素人の趣味の範囲を出ない人だと思いますが、それだけに一層純な思いが本書にはこめられているのでしょう。
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以下、「はしがき」から抜粋。
「近頃、少年少女の皆さんが、熱心に植物の採集や動物の採集を行ふことは、まことに結構なことだと思ひます。
たゞ、残念なことには、せっかくの採集が永つゞきしないことです。
すべての皆さんが、大きくなってから、植物学者や動物学者になるといふのではありませんから、いつまでもつゞけて欲しいとは申しません。
しかし、国民学校の四五年生ではじめたら、中学校の二年生や三年生ぐらゐまではつゞけて、一通り完成した採集標本をつくり上げていたゞきたいと思ふのです。」
この辺は実にリアリスティックですね。「さあ、みんな大学者たらんことを目指せ!」と尻を叩くようなことはせず、途中でやめてもいいから、意味のある採集を目指しなさいと、現実的な助言をしているわけです。
「少年少女の皆さんがする採集だからといって、それがたゞの、いくらかためになる遊びではないのです。さういふ考へ方は悪いと思います。」「採集することが決して目的ではなく、これはたゞ、動植物の知識を得る手段です。これをよく心得てゐて、そして一定の方針を持って採集をすゝめ、標本の保存と鑑賞とを忘れない人が、よく採集をつゞけられるのだと私は思ひます。」「科学する心といふのは、要するに正しい道をふんで、忍耐づよく、どこまでも、ものごとの奥底まできはめて行くといふ不撓不屈の精神のことなのです。どうか皆さんも、この精神を忘れずに、一つりっぱな採集標本をつくり上げるやうに努力して下さい。」
自分に言い聞かせるような強い調子があります。
この時期(ミッドウェーの敗戦からガダルカナル撤退、そしてアッツ島玉砕が続いた時期です)、お上の統制はいよいよ厳しく、知識人も時局におもねる発言が多かったと思いますが、松室氏はそうした言辞を弄することなく、少年少女に専一に正しい科学する心を説いたのは、立派だと思います。そしてまた少年少女を慈しむ目を感じます。
(すくい網採集法を試みる戦時中の少年)
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イントロダクションにあたる第1章「博物採集とは」には、次のような一節があります。
「採集から我家に帰って来て、包を開いて、眺めたり、調べたり、較べたりするたのしさ。特別に美しい標本、珍しい標本、りっぱに仕上げた標本、かういふものを標本箱に入れるときのたのしさ。
静かな冬の夜ながに、ひとり静かに標本箱をとり出して来て、眺めたり、調べたりして、何度となく新しい発見をして喜ぶたのしさ。」
現実の日本には、すでにこういう喜びが失われていたはずだと思うと、なんだか切ないです。
★
さて、その内容ですが、表紙から受ける印象とは違って、著者がいちばん力点を置いているのは植物採集で、過半のページがそれに当てられています。しかも、通常の押し葉だけでなく、種子の標本や樹皮の標本、あるいはキノコやコケや地衣類や藻類の標本作りにまで記述が及んでいて、松室氏の本領が植物趣味にあったことがうかがえます。
その次に昆虫採集の話題ですが、そこでメインとなるのは蝶と蛾で、それ以外の昆虫はごく簡単にしか触れられていません(そして最後に貝のことがチラッと出てきます)。糖密採集法や叩き網採集法など、おなじみの方法も、主に蝶や蛾を採集する方法として紹介されているのが、ちょっと珍しく感じられました。
(中身は文字ばかりのページが多くて地味めです。)
(これは比較的図が多いページの例)
結局、著者は植物と蝶や蛾の熱心な採集家だったと想像されますが、そういう人には生きにくい時勢であったろうなあ…と、ここでもやっぱり思います。
書かれている内容自体は、私が子どもの頃読んだ採集と標本づくりの本とほとんど変わりません。もちろん、時代の流れを感じる叙述もあって、たとえば蝶の幼虫の乾燥標本を作るのに、私自身は「電熱器と茶筒」を使えと習いましたが、昭和18年当時は「アルコールランプと石油ランプのほや」を使うよう書かれています。あるいは、プリザーブドフラワーを作るのに、今だと強力な乾燥剤や機械の力を借りますが、当時は「熱してよく乾燥させた砂」の中に花を埋める方法が紹介されていて、その辺に時代を感じるのですが、でもやっていることは一緒です。採集と標本作りの基本的テクニックは、たぶんこの1世紀ぐらいほとんど変わってないんじゃないでしょうか。
(『少年採集家』より。ランプのほやが登場するのはさすがに古風。)
(これはこれで懐かしい小学館の『採集と標本の図鑑』。昭和45年・改訂第20版より。しかし口でぷーぷー吹くのは、むしろ昭和18年よりも技術的後退か。)
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変わったなあ…と感じるのは、「中身」よりもむしろ「外皮」、すなわち表現形式の方です。
この『少年採集家』には、ごく少数の挿絵しかなくて、ノウハウはもっぱら文字で説明されています。昭和30年代以降、学習図鑑全盛時代になると、こういうのは全編カラーで図解されるのが普通になるので、そこは大きな違いです。父親世代と自分の世代の差はそこでしょう。
ただ、読んでみると分かりますが、文字だけでも意外によく伝わるものです。
戦後の教育者は、カラフルな図解こそが子どもの興味をひきつけるものと頑なに思い込んでいた節がありますが、下手な図解よりも、子どもの心に沁みる文章のほうが遥かに良くはないでしょうか?…まあ、これは私が年をとったせいでそう思うのかもしれませんが。
少年採集家(3)…戦時下の昆虫採集 ― 2012年03月08日 05時29分00秒
(↑本の置き方の悪い例。)
漫画家・手塚治虫が、旧制中学時代(※)に書いた昆虫随筆等を編んだ、『昆虫つれづれ草』という本があります(小学館、1997)。そのあとがき部分に、手塚とともに中学校で昆虫採集に熱中した、林久男氏へのインタビューが載っています。戦時下の昆虫少年の生態がわかる大変貴重な文章と思いますので、内容を抜粋してご紹介します。
(※)尋常小学校6年を卒業した男子が入学するのが旧制中学校(女子は高等女学校)。一般に「旧制中学は今の高校に相当する」と言われるのは、課程が5年制だったからで(戦時中は4年制に短縮)、今なら中学1年生から高校2年生に相当する年齢の生徒が在籍した教育機関です。(なお、昔は複線教育ですから、中学校以外にも、高等小学校や実業学校等、進路はいろいろありました。)
◆
手塚・林の両氏は、開戦の年(昭和16年)に、12歳で旧制北野中学(現大阪府立北野高校)に入学。入学当初はまだ真珠湾の前ですし、少なくとも中学生の身辺には依然のんびりした空気が漂っていたことが、林氏の回想から読み取れます。
まず当時の昆虫採集の位置づけについて。
〔以下、太字はインタビュアー、青字は林氏〕
― 当時、昆虫採集を趣味にしている中学生はあまり多くなかったわけですね。
林★ セミやトンボを追いかけるようなことは、どんな子どもでもしますよね。それでもその虫は何という種で、どんな暮らし方をしている、なんていう本格的な昆虫採集は、ほとんどだれもしていませんでした。
〔…〕そのころ登山、カメラ、昆虫採集といったら、西洋からやってきた新しい大人の趣味という感じでした。中でも昆虫採集は、ヨーロッパ貴族たちの優雅な遊びみたいな印象がありまして、私などは大いに魅きつけられてしまった。
― それを本格的にやっていた手塚少年は、大人っぽく見えたんですね。道具などもそろえていて、今でいうと中学生がライカのカメラを持っているような感じでしょうか。
林★ まさにそうですね。
「ライカのカメラ」とは、インタビュアーもうまい喩えを思いついたものです。
「昆虫採集」は「虫採り」とは違う、それは精神においても違うし、何よりも装備が違う…という感覚が当時はあったようです。
― そうして林さんたちは、手塚少年が語る昆虫の世界と昆虫採集という西洋の香り高い趣味に引き込まれていったんですね。
林★ ええ。あれは夏休み直前の7月の土曜日の午後だったと思います。私もとうとう昆虫採集をはじめる決心をして、大阪梅田の阪急百貨店の2階にあった昆虫採集道具売り場に行ったんです。手塚くんもいっしょに来てくれ、「あれがいい、これがいい」と世話をやいてくれました。私は当時1円ほどだった捕虫網や三角紙ケース、毒瓶、標本箱など道具一式を買いそろえました。
これが林氏の「昆虫採集」入門でしたが、師匠格である手塚のそれはまた規模が違います。
そして翌日の日曜日に、手塚くんの宝塚の家に行ったんです。彼の生家は、そのころ「門から玄関まで電車が走っている」と噂されるほど大きな家でした。噂はオーバーでしたが、庭にクスノキの巨木があったのをはっきり覚えています。訪ねると、私は彼の部屋に通されました。するとビックリ。標本箱の多さに圧倒されてしまった。それに、どの箱も私が前日デパートで買ったボール紙製のものとはちがって、木製のドイツ箱と呼ばれる大型のもので、その中に、きちっと種類別に、たくさんの昆虫が入っていました。蝶や甲虫だけでなく、ハチやアブまでありました。詳しく聞くと、彼は小学校5年生のとき、友人だった石原実くんに感化されて昆虫採集をはじめたという。でも標本の量と質は、2年間で集めたものとは、とても思えませんでした。
林氏の回想する昆虫少年ライフは、関西の富裕層や新興中産階級のそれですから、全国一般に敷衍することはできないでしょうが、実に堂々たるものであり、また羨ましくもあります。そして経済的な面についてばかりでなく、土地柄もまた良かったのです。
― 夏休み前にそんなことがあると、さぞや夏休み中は大変でしょうね。
林★ もう昆虫一色でした。当時私の家が吹田で、私が手塚くんの家〔=宝塚〕に行くことが多かったのですが、箕面や能勢で待ち合わせることもありました。箕面は山岳地帯で多くの昆虫学者を育てた昆虫相が豊かな場所。宝塚から電車で、当時は40分くらいかかったでしょうか。自宅周辺には平地の昆虫がいて、山地の昆虫もそう遠くないところで捕れた。こうした環境は私たちにとって大きかったと思います。〔…〕私はほんの4か月間で完全に虫の虜になってしまいました。
さらに、すぐれた指導者にも事欠きませんでした。
― 当時は現在の理科に替わる「博物」という授業があったそうですが、手塚さんや林さんのような少年は、授業のほうはいかがでしたか。
林★ 植物、動物、鉱物などをひっくるめて「博物」と称していましたが、授業で知らされるような内容は、図鑑や昆虫エッセイのはしりだった小山内龍の『昆虫放談』などを読んでましたから、ものたりなかったんですね。私たちが昆虫について学びにいったのは、もっぱら宝塚のファミリーランドの中にあった「宝塚昆虫館」です。北野中学の先輩には当時の昆虫学界を牛耳っていた、九州大学教授の江崎悌三、京都大学教授の上野益三など優秀な昆虫学者がいました。昆虫館の当時館長だった戸沢信義さんも先輩のひとり。手塚くんはここに小学生のときから通っていたそうです。学芸員だった福貴正三さんと彼は仲がよくて、私たちも頻繁にご指導いただきました。
こういうインフォーマルな人の輪が昔はありました。今も一部にはあるのかもしれませんが、世の先生方はなかなか忙しいので、イベントなどの場を除けば、子供たちの好奇心に正面から応える余裕は多くの場合失われているでしょう。
さて、手塚を中心とする昆虫マニアの少年たちは、中学2年に進級すると同時に、「博物班」という部活動を立ち上げ、さらにそれに飽きたらず、「動物同好会」なる非公式組織を結成し、翌年にはそれを「六陵(りくりょう)昆虫研究会」へと発展改組します。手塚が健筆をふるい、大人びた昆虫随筆を会誌に寄稿していたのは、まさにこの時期のことです。
― 今回復刻することになった『昆虫つれづれ草』をはじめ、一連の『昆虫の世界』など、多くの手作り本が生まれてくるのは、そのころからなんですね。
林★ そうですね。彼は本作りに熱中すると1、2週間で1冊を仕上げました。昭和18年に文部省の教科要目が改定されて、博物学が生物学に変わり、それにともなって「博物班」も「生物班」に名称を変えました。そして私たちは「動物同好会」を解散して「六陵(りくりょう)昆虫研究会」を新たに発足し、もっとレベルの高い研究書を目指して『昆虫の世界』を発行したんです。それもやっばり手塚くんが清書、装丁、製本をひとりでやっていました。
ここまでは実に順調。少年たちは存分に昆虫ライフを楽しんでいました。
しかし、昭和18年、彼らが中学3年生になった頃から、戦争の影は急速に濃くなっていきます。
― そのころになると、第二次世界大戦も激化していきますね。
林★ 昭和18年になると生物班の班員も、ひとり疎開していきました。勤労奉仕もその年には組み込まれ、次第に私たちは学校には行けなくなってしまった。私と手塚くんは別々の工場に配置されて離れ離れ。作ったばかりの「六陵昆虫研究会」も空中分解です。それでもまだ登校日がありましたから、そのときにみんなで会って採集の約束をしたりしていました。翌年になるともっと悲惨で、もうまったく学校に行かなくなってしまった。時代も昆虫採集どころではありません。捕虫網を持って歩いているのを見つかれば、学校の先生や近所の人に非国民扱いですよ。警察も厳しくて「誰何(すいか)」といって職務質問をされてこっぴどく叱られる。そうした中でも私たちは昆虫採集をしていましたが(笑)。
これこそが、今回取り上げた『少年採集家』の出版された当時の空気でした。
昆虫少年にとっては(すべての国民にとっても)まさに受難の時代です。
そして戦局は日増しに悪化していきました。
― 手塚さんも『昆虫つれづれ草』で書いているように、そんな時代をみなさんで呪っていたわけですか。
林★ 18年ころは、そんなでもなかった。むしろ軍人や軍医になって南方に飛んで、熱帯産の珍しい昆虫を捕りたい、とよく話していました。19年になると勤労動員も本格化して学校には1日も行かなくなって、敗色が濃くなるのが私たちにもわかりました。もう明日の命もわからない状況ですからね、将来の夢どころではありませんよ。
少年たちの夢や、ときには命さえも呑み込んで、日本は昭和20年(1945)を迎えます。
このあと、焦土の中から、民主教育の掛け声とともに、新世代の理科少年たちが育っていくことになるのです。
◆
引用がものすごく長くなりましたが、以上のような事実を念頭におきつつ、本書の内容を見てみようと思います。
(話を本題にもどし、この項つづく)
少年採集家(2) ― 2012年03月06日 21時20分01秒
(昨日のつづき)
裏表紙や扉はこんな感じで、実に愛らしい本です。
裏表紙や扉はこんな感じで、実に愛らしい本です。
この本の装丁は、私らの世代もぎりぎりでお世話になった、童画家・初山滋(はつやましげる 1897-1973)画伯が手掛けたもの。そう言われると、この絵の雰囲気には、なんとなく近しいものがあるような…。
しかし、表紙をめくった瞬間、目に飛び込んでくるのは、次のような見返しです。
やや!これは!!
捕虫網に捕えられた米軍機と、虫ピンに刺された仏軍機!!
著者・松室氏の文章中に、「連合国を殲滅せよ」と怒号するような激しい字句があるわけではありません(むしろ全篇それとは正反対の優しい調子で書かれています)。
それでは、これはいったいどうしたわけか? 初山画伯の趣味なのか? それとも、戦時下にかような本を出すことに気がとがめた出版社の過剰な配慮か?
まあ、いずれにしても虫を追うのも命がけという感じです。
★
話題がどんどん逸れていきますが、先ずは、この本が出た昭和18年(1943)当時の世相と昆虫採集事情について簡単に触れておきます。
(よく分からぬまま、この項つづく)
少年採集家 ― 2012年03月05日 22時21分18秒
ゆったりとした天文趣味の話(2)…ウォード夫人・前編 ― 2012年01月04日 22時50分11秒
三が日も幻のごとく消え去りました。
2012年もすでに1%が経過し、残り99%を切ったわけです。まことに無常迅速。
2012年もすでに1%が経過し、残り99%を切ったわけです。まことに無常迅速。
★
さて、話の続き。
元旦に書いたように、この「天文古玩」も近ごろ天文専一というわけにいかず、博物趣味やヴンダー趣味の台頭が著しいです。それはそれで「有り」だと思いますが、とりあえずこの辺で、そういう様々な領域を綜合し、止揚したい気がします。
そのために、前回はジョン・リーの生活スタイルを例に挙げました。彼の場合は、天文学と人文学―あるいは尚古趣味―の調和がテーマでしたが、今日は天文学と博物学をともに終世追求した人として、アイルランドのメアリー・ウォード(1827-1869)をとりあげます。
彼女は、一般に「ウォード夫人(Mrs. Ward)」の名で知られ、著書もその名で上梓しています。アイルランドのバー城に口径100インチの怪物望遠鏡を建設した、ロス伯爵(1800-1867)の従妹にあたる…と聞けば、その生活背景や、知的環境がただちに想像されます。実際、彼女は少女時代にロス伯の望遠鏡を繰り返し覗いた経験があり、バー城を訪れた高名な天文家にも、その知識と才能は深い感銘を与えました。
(メアリー・ウォード、1860年ごろ。ロス伯爵夫人による撮影。伯爵夫人は夫に負けず進取の気性に富み、女流写真家のはしりでした。出典:D.H.Dvidson, Impressions of an Irish Countess, The Birr Scientific Heritage Foundation, 1989)
「しかしながら、天文学は彼女の唯一の関心ではなかった。いや、その第一の関心ですらなかった。彼女の大のお気に入りは昆虫学だった。彼女は熟練した博物学者となり、また植物学や生物学の標本収集家となった。
彼女は〔デイビッド・〕ブリュースター推奨の一台の顕微鏡を所有し、自らの手で美しいプレパラート標本を作り、そして自然界の繊細なスケッチを描いた。
何人も子供がいる家庭を監督しながら、生物学や昆虫学をテーマにした本を著わす時間を見つけ出し、ついには名著・『顕微鏡指南Microscope Teachings』(1864)(後に『顕微鏡 Microscope』と改題)を出したが、この本は何千部も売れた。天文学をテーマにした類書、『望遠鏡 The Telescope』(最初は『望遠鏡指南 Telescope Teachings』の書名で1859年に刊行された)も、同様の成功をおさめ、これまた何度も版を重ねた。」
(Mary Brück 著、『Women in Early British and Irish Astronomy』(2009, Springer), p.97)
(『顕微鏡指南』(1864)。表紙を飾る顕微鏡は、ウォード夫人の愛機。)
(同書に収められた、彼女の手になるスケッチ。)
(この項つづく)
(この項つづく)
ジョバンニが見た世界「時計屋」編(2)…ネオン灯 ― 2011年11月05日 19時29分34秒
(↑ネオン管の先祖である、ガイスラー管など各種の発光管。19世紀人の心を捉えた精妙な科学の光。天文学書の画期となった『Le Ciel』の著者、アメデ・ギユマンによる、これまたビジュアル的に最美といえる物理学書、『物理学的諸現象 Les Phénomènes de la Physique』、1868より)
★
「ジョバンニは、せわしくいろいろのことを考えながら、
さまざまの灯(あかり)や木の枝で、すっかりきれいに
飾られた街を通って行きました。時計屋の店には明るく
ネオン燈がついて…」
悩みを抱えながら歩くジョバンニの前に、ぱっと明かりが広がり、ジョバンニの心が吸い込まれる瞬間です。
★
ところで、以前から思っていた疑問。
「銀河鉄道の時代設定は一体いつなんだろう?」
もちろん、これはファンタジーですから、我々の住む世界とは違った時間の流れ方をしてもいいのですが、仮に現実世界に比定するとしたらいつでしょうか?
これまでは、銀河を写した天体写真が登場することから、何となく20世紀初頭をイメージしてきましたが、もう少し突っ込んで考えてみます。
「銀河鉄道の夜」には、この現実世界と交錯する具体的事件が少なくとも1つ登場します。それは「銀鉄」ファンなら先刻ご承知のとおり、タイタニック号の沈没事件で、銀河鉄道に途中から乗り込んでくる少年と少女が、その犠牲者であることを示唆する描写が文中にあります。
タイタニック号の沈没は1912年4月。元号でいうと明治45年で、この年の7月に大正と改元されました。このとき賢治は、まだ旧制盛岡中学の4年生で、満16歳の誕生日を迎える前の多感な時期でした。
★
ただ、作中にはっきり「タイタニック号」という固有名詞が出てこないのが、この推測の弱い点ですが、ふと上の「ネオン燈」という語が気になって調べてみました。
ウィキペディアの「ネオン」の項を見ると、ネオンの発見は1898年だとあります。新しく発見された元素だから「ネオン」。なるほど!これで「銀河鉄道の夜」の舞台が20世紀であることが、いよいよはっきりしました。
ウィキペディアには、さらに次のような記述が続きます。
「1910年12月、フランスの技術者ジョルジュ・クロードがネオンガスを封入した管に放電することで、新たな照明器具を発明した。パリの政府庁舎グラン・パレで公開後、1912年には彼は仲間たちとこの放電管をネオン管として販売し始め、理髪店で最初の広告として使用された。1915年に特許を取得し「クロードネオン社」を設立。1923年、彼らがネオン管をアメリカに紹介すると、早速ロサンゼルスのパッカード自動車販売代理店にふたつの大きなネオンサインが備えられた。」
1912年というのは、まさにネオン灯が商業利用された最初の年だったのですね。
ジョバンニたちが住むイタリア(?)の小さな町に、パリから最新のネオン灯が届いていたというのは、この時計屋の主人がとびきりハイカラな人間であることを示すエピソードでしょう。
…もちろん、賢治がこんな重箱の隅をつつくような考証をしていたとは思いませんが、実際うまい具合に整合するので、銀河鉄道の旅は1912年に行われたということにしてはどうでしょうか。(そうすると、今後の考証もいろいろしやすくなりますし。)
★
ちなみに、日本でネオン管が点灯したのは、アメリカよりもさらに遅れて1926年(これまた大正から昭和に改元された年)、日比谷公園の納涼会にお目見えしたのが最初だそうです(家庭総合研究会編、『昭和・平成家庭史年表』、p.6)。
その後、昭和7、8年ともなれば、銀座のカフェーはこぞってネオンで店を飾り立て、ネオンは当時最新の風俗を示す記号となっていました。
賢治はそれを十分意識してあの箇所に書き込んだように思います。ハイカラで官能的という性格を、あの店に持たせたかったのでしょう。
と同時に、賢治はネオン灯がヨーロッパでは以前から使われていたことをよく知っており、タイタニックと同時に登場してもおかしくない…と、冷静に計算していたのかもしれません。
(このシリーズは、こんな調子でクダクダしく続きます)
暑い!!! ― 2011年08月10日 22時14分00秒
ルリボシカミキリ ― 2011年06月10日 20時48分12秒
空と水 ― 2011年06月09日 18時36分03秒
エッシャー物の第2弾は、「空と水(Air and Water)」。
一昨日の品と同じく、彼のオリジナル版画作品(1938年発表)を、Parastone社がレリーフに仕立てた品です。
今の季節にはぴったりのタイトルですね。
青と黒の対比もシャープで涼しげな感じです。
★
エッシャーの名を聞くと、数学基礎論やら、システム論やら、認識論やらを詰め込んだ、ダグラス・ホフスタッターの大著、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(白揚社、1985)を思い出します。この本のあちこちに登場するのが、エッシャーの美術作品とバッハの音楽作品で、読者はそれによって議論の本質を目の前にぬっと突き出されるという趣向でした。
…と知ったかぶりをして書いていますが、実はこの本、いまだに積ン読本の山に埋もれています(要するに未読です)。20年以上も塩漬けになっていて、本には申し訳ないと思いますが、でもこういう風に、読めそうで読めない本ってありますよね。(この場合、読めなさそうで、やっぱり読めない本と言うほうが適切かもしれませんが。)
私の場合は、どうも電車の中で読めない本は、結局読めないことが多いようです。
★
ところで、皆さんは淡い青のことを、「空色」と呼びますか?
それとも「水色」?


























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