海洋気象台、地震に立ち向かう(その3)2017年09月03日 07時32分27秒

くだくだしいことは省き、以下、報告書に付属する多数の図表のうちのいくつかを転載し、彼らの熱気の一端を味わってみます。


いろいろな考察の出発点となる、関東周辺の地質概略図
時代の古いものから並べると、茶色は安山岩層、黄色は第三紀層、黄緑は洪積層、そして白は沖積層です。大雑把に言えば、古いものほどガッシリした地盤ということになります。


そこに被災状況を重ねてみます。
赤い矢印は、最大震動時の揺れの方向、赤く囲まれた地域は、家屋の倒壊が全体の半数以上に及んだ地域です。


震度の詳細分布。色の濃いところほど揺れが大きかった地域です。
相模湾に描かれた赤い楕円は、本震の震源域を示し、灰青のドットは余震の震源地です。

現代と同様、大正時代の地震学者も、こんなふうに得られる限りのデータを縦にしたり、横にしたり、その分析に心血を注いだのでした。

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著者の須田は、さらに地震の成因論についても筆を進め、それを主要な(principal)要因と、副次的・偶発的な(occasional)要因に分けて論じています。

前者については、地下での歪みの段階的蓄積と、それが相対的に弱い部位で解放されるという、地震の基礎的な理解に関わるもので、最初に掲げた地質図を議論の足掛かりとしています。

後者は、地震の直接的な「引き金」となる要因に関する所論で、地磁気や他の天体の影響、あるいは潮位や気圧の変化に言及していますが、いかにも気象台らしく、特に最後の2つ、すなわち潮位変化気圧変化については、データを元に詳しい検討を加えています。(天体の影響が気になりますが、それについては、同時代の寺田寅彦が太陽活動と地震の関係について論じている事実に触れている程度です。)

(地震発生前後の気圧変化の詳細。8月31日~9月2日)

(地震発生後の気圧推移。9月1日~9月30日)

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前回も述べたように、気象台員の活動は机上の作業にとどまらず、本報告の筆者・須田皖次ら3名の台員は、直接被災地入りして、データの収集に努めました。この報告には、そのときの写真も多く収められています。これまた一例にすぎませんが、そのいくつかを挙げてみます。

彼らは悲惨な状況に驚きつつ、冷静に観察を続けました。


その視線は、碑石の倒壊方向や、巨大な地割れの走向、


線路の屈曲に向けられ、さらには鉄橋橋脚の破断面のような微妙な点も見逃しませんでした。


そして、いかにも専門家だな…と頷かれるのは、「何もなかったもの」に注目していることです。すなわち、甚大な被害の出た地域にあって被害を免れた建物は、なぜ被害を免れたのか?という視点です。上の写真は、頑丈な砂岩の上に直接建てられた民家や、伝統的な多宝塔建築が、ほとんど無傷であることに注意を向けています。

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陸の都・東京の危機に駆けつけた、海の都・神戸の研究者たち。
関東大震災については、既に多くのことが語られていると思いますが、それらに付け加えるべく、彼らの活躍の一端を見てみました。



【付記】

関連する話題として、かつて3.11直後に、以下のような記事を書きました。
震災復興の一環として、東京・横浜全域の地質調査を徹底的に行った、地質学者集団の活躍を紹介する内容です。

■帝都復興土竜隊(ていとふっこうどりゅうたい)

海洋気象台、地震に立ち向かう(その2)2017年09月02日 15時19分55秒

(昨日のつづき)


手元にある論文集は、

■ 『海洋気象台欧文報告(The Memoirs of the Imperial Marine Observatory, Kobe, Japan)』 第1巻第1号(1922年6月)~第4号(1924年8月)

をまとめて製本したものです。元はアメリカのスミソニアン協会の蔵書でしたが、除籍されて市場に出たものが、回り回ってこうして日本に里帰りしました。

問題の関東大震災に関する報告は、第1巻第4号をまるまる当てており、これだけで第1号~第3号を合わせたよりも分厚くなっています。(第1巻の約3分の2近くを、第4号が占める格好です。)

その報告の正式な題名は以下のとおり。

■K. Suda:  On the Great Japansese Earthquake of September 1st, 1923.
 (須田皖次、『1923年9月1日の日本大震災について』)

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さて、東京では昨日の記事のような塩梅でしたが、神戸では「その時」どうであったか。
須田の報文には、以下のように書かれています(拙訳)。

 「神戸では、弱い衝撃が1923年9月1日のほぼ正午に感じられた。上から吊り下った電灯がゆっくり揺れ、地震計は大きな、だがゆっくりとした大地のうねりを記録した。大森式水平振子の目盛りは、地震発生後2、3秒のうちに振り切れたため、その震動記録からは、発震の事実と、当気象台が最初に動いた方向を読み取ることができるのみだった。これは、これらの振子に制動装置がなかったことに起因している。磁気式制度装置を備えた大森式震動計およびヴィーヘルト式地震計は、大地の震動を忠実に記録したものの、限界を超える震動の端末において、やはり装置の描針が振り切れてしまった。」

東日本大震災のとき、震源から遠い地方の人も、何か尋常でない「ゆっくりとした大地のうねり」を感じて、たいへんなことが起きたのを直感した人が少なくないと思います。きっと94年前も同じような感じだったのでしょう。その際の地震計の記録が、昨日の記事に載せた図です。

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この後、まずやらねばならないのは、正確なデータの集積です。


報文には、台北、那覇、名瀬、鹿児島…から始まって、帯広、根室、大泊、釜山、仁川、大連に至るまで、当時、日本の版図だった内外56か所の観測拠点のデータが集約されて、一覧表になっています。(肝心の東京や横浜のデータが欠けているのが、被害の大きさを感じさせます。)

明治~大正の60年間弱で、とにもかくにも、これだけの観測網を築いた…というのはすごいことです。

表には地震の相(phase、地震の波形分類)と、到達時刻(世界標準時)が書かれており、相についてはP、L、Mというのが書かれています。

地震といえば、P波とS波を連想しますが、表中のPはP波に同じもの。いっぽうS波は、P波とともに「前走波」に分類されるので、ここでは特に区別されていないのでしょう。そして、L波「主要動の長波」M波「主要動の極大動」を意味します。「カタカタカタ…」の前走波に続く、「ガタガタガタ」「グラグラグラ」の部分です。

(下関や大分のようにP波とS波を、分けて読み取っている地点もあります)

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これらのデータを集約して、1枚の図にすると、震源と第一波の進行状況が、明瞭に浮かび上がります。


黒い矢印は、各地点における地面の初動方向、赤い曲線は、地震波が到達した等時線、そして各地のデータに基づく推定震源域のライン(黒線)が最も濃密に交わる相模湾こそ、真の震源であることを、結果は示しています。
この海底で発生した地震波は、片や北東へ、片や南西へと進み、2分あまりで列島全体に到達したのでした。


こちらは、全国の震度分布図
I(無感覚)~V(烈震)の5段階で表示されています。伊豆半島までがすっぽり最大のV、さらにⅣの範囲が広く名古屋、福井まで伸びているのが目を引きます。

なお、この5段階法ですが、和達清夫の『地震学』(昭和4、1929)では、我が国独自の「気象台震度」として、「0(無感覚)、Ⅰ(微震)…Ⅴ(強震)、Ⅵ(烈震)」の7段階法を挙げており、当時はまだ震度階級が浮動的かつ暫定的だったように思います。

ちなみに地震そのものの大きさをエネルギー量で示す「マグニチュード」の考え方は、1935年にチャールズ・リヒターという人が考案したそうで、こちらも当時はまだ未確立でした。

(記事が長くなるので、ここで記事を割ります。次回につづく)

海洋気象台、地震に立ち向かう2017年09月01日 16時29分38秒

大正12年(1923)9月1日、午前11時58分。
94年前の今日、相模湾を震源とする巨大地震の発生で、東京と横浜を中心に甚大な被害が出ました。いわゆる関東大震災です。

あの地震を経験したのは、私の身内でいうと祖父と曾祖父の世代の人たちで、私は幼いころに祖父から、「あのときはまるでコンニャクの上を歩いているようだった」と、事あるごとに聞かされたため、今でもコンニャクを見ると地震を連想します。

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ときに、地震を科学する立場の中央気象台(現・気象庁)は、その瞬間どんな有り様だったか?当時その場で執務していた、地震学者・中村左衛門太郎(1891-1974)の証言があります。

(震災後の中央気象台。ウィキメディアコモンズより)

■『関東大震災調査報告 地震篇1』
 中央気象台編、大正13年(1924)発行
 国会図書館デジタルコレクション所収 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/984966

彼は当日、皇居の東側にあった中央気象台本館の階上にいました。
最初、南北方向の急激な振動が数秒続き、北向きに並べた戸棚が転倒。中村はあまりの揺れに歩くこともままならず、机に両手をついて立っているのがやっとでした。そして、いったん揺れが収まったものの、直後に東西方向の激しい揺れが襲ってきて、東向きの戸棚も次々に転倒。

この間、中村は外の様子を確認しようと窓に目をやりましたが、とにかく自分の身を守ることに精一杯で、「僅かに神保町附近に砂塵の立昇るを目撃したるに過ぎず、錦町河岸附近には目立ちたる家屋の倒壊するを見ざりき」。

たしかに揺れは凄かったのですが、窓外の町並は意外に持ちこたえていました。
中央気象台においても、「本館其他主要庁舎並に附属庁舎の被害は極めて軽微」でした。しかし、この震災の恐ろしさは、周知のごとくその後に続いた大火災で、「斯くの如く地震に因る被害は比較的軽微なりしが 次いで起れる火災にかゝりて 大部分焼失の悲運に陥りたるなり」…という結果になったのです。

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貴重な測器類も被害甚大でした。

当時の中央気象台あった、大森式微動計、普通地震計、ウィーヘルト地震計はいずも重錘の落下や転倒により大破。中村式簡単微動計や、最新式のガリッチン地震計は、大破を免れたものの、「何れも今回の地震に依って破損せられ 一時観測を中止するの止むを得ざるに至」ったのでした。

こうした状況の下、震災直後の東京で、中央気象台員たちがどんな苦労を重ね、地震のデータ解析に取り組んだかは、上の報告書に記載がないので分かりませんが、当然のことながら、かなり右往左往したことでしょう。

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そんな中、頼もしい助っ人が、地震発生直後から活動を始めていました。
震災の3年前、大正9年(1920)に業務を開始したばかりの神戸海洋気象台」(現・神戸地方気象台)の台員たちです。

(9月1日、午前11時59分27秒、東京に遅れること41秒後に神戸で感知した地震動。Wiechert地震計が記録した南北・東西方向の揺れは、神戸でもあっさりスケールアウトしており、その揺れの大きさを物語っています。)

神戸のスタッフは、全国の気象台・測候所の観測データを整約し、地震の全貌を明らかにするとともに、須田皖次(すだ かんじ、1892-1976)ほか2名の台員が現地入りして、地震の影響を実地に確認しました。

9月10日に沼津入りした彼らは、以後10月12日までのほぼ1ヶ月にわたって、御殿場、三島、熱海、小田原、箱根、厚木、藤沢、鎌倉、横浜、東京、大宮、熊谷、千葉、木更津、館山、鴨川、銚子…と、静岡、神奈川、東京、埼玉、千葉の各所を踏査しましたが、鉄道が寸断されていたため、その行程の多くは徒歩でした。未曽有の惨事を前に、いつも以上に奮い立った面はあるにせよ、その研究者としての熱意と執念に打たれます。


その須田が、震災の翌年、海洋気象台報として英文でまとめた論文が手元にあるので、その中身を少し見てみます。


(この項つづく)


本邦解剖授業史(5)2017年06月17日 11時56分44秒

さて、余儀なく授業が中断していましたが、この辺で再開します。

いよいよカエルの身体にメスが入ります。
でも、いきなりお腹にブスリ…ということはしません。
内臓を観察するだけなら、それでも良いのですが、カエルの身体構造をつぶさに観察するには、まず後肢から手術を始めます。


後肢では、主に筋肉と骨格、それに神経を観察します。
あまり文字に書き起こすのもどうか…と思いますが、その描写がかなり具体的なので、記してみます。


 「蛙を蛙板に腹位に固定し、薬品にて麻酔せしめたる後、次の手術をする左手にピンセット、右に鋏を持ち、蛙の右後肢の大腿の中央部の皮膚をピンセットで撮〔つま〕み上げ、右の鋏でパチンと縦に切る。切れ目に鋏をいれて腿から足の尖端へ向って縦に長く皮膚を切る。膝関節のところでは皮膚が下の組織とくっついてゐるから少し注意して鋏で切るがよい。」(p.55)

そして、胴体に収まった内臓諸器官の観察。


これもまた描写がなかなか細かいです。

 「蛙を今度は仰臥位(背位)に固定する。
 胸を指で撫ると胸骨にふれる。骨に沿ふて下ると、その終り剣状突起に触れる。〔…〕で、これより少し下と思ふ所の皮膚をピンセットで摘みあげて、鋏でその下の筋肉も諸共に切断して、腹壁に小さい穴を開ける。茲〔ここ〕に鋏をいれて、腹壁を左と右の両側に切り開き、両側に達したら側腹を真直ぐ下方へ切り進んで、股まで行って止める。」
(p.101)

もちろん解剖の実技はこれにとどまるものではなく、他のページには、いっそう刺激的な記述が並んでいますが、それらは割愛します。

そもそも解剖はひとつの手段であって、その先にある目的は、生体構造を観察し、その働きを実験的に確かめることです。当然、この本でもその部分に多くのページを割いて、筋肉の疲労実験、神経の電気刺激実験、心拍動の実験、消化実験…等を紹介しています。

(本書口絵。「蛙心臓迷走神経並に後肢諸筋」。右側に見えるのは、先端にプラスマイナスの電極を仕込んだ「白金電導子」)

いずれにしても、先に紹介した小野田伊久馬(著)『小学校六箇年 理科教材解説』(明治40年=1907)の解説にあった、「蛙を解剖せんには〔…〕腹部の中央より、縦に切開すべし。」というような、単純素朴なものではないことは確かで、解剖実習をしっかり行うことは、相当の知識と経験を要することですから、そうしたものを小学校の先生が身に着けるようになった――少なくとも身に着けられる環境が整った――のは、やはり大正時代以降なのだと思います。


(そして時代は戦後へ。この項さらにつづく)

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▼閑語(ブログ内ブログ)

昨日の記事は、いささか感傷的に過ぎたようです。
国会が死んだままで良いはずはないので、おーいおーい!と声を限りに魂呼ばいし、それでも蘇生が叶わなければ、反魂の術を用いてでも…。

でも、原子の炎で焼かれた広島や長崎に緑が甦り、人々の暮らしが甦ったように、そこにまともな人がいて、まともな声を挙げ続ける限り、特に暗黒の秘術に頼らなくても、国会は自ずと甦るのではないかという気もします。

まずはまともな声を絶やさぬこと、それが大切だと思います。

本邦解剖授業史(4)2017年06月13日 21時09分38秒

前回に続き、宮崎三郎(著)『蛙を教材としたる人体生理解剖実験室』(1923)の中身を見てみます。

(本書口絵。「蛙と人の脳の比較」および「蛙血液循環」の説明図)

当然の話ですが、その説明は相当具体的です。

まずは、「第二章 実験動物」の項にあるように、「等しく蛙といっても種類が多い」ので、解剖の対象とするカエルの種類を決めねばなりません。

 「私たちの実験に都合のよいものは、形のなるたけ大きなものである。〔…〕この目的に叶ってゐるものは、まづ蝦蟇〔ひきがえる、がま〕が一等だ。」(p.12)

とあって、「あれ?ウシガエル(食用ガエル)は?」と思いますが、ウシガエルがアメリカから試験的に輸入されたのは1918年(大正7年)のことで、本書執筆の段階では、まだ全国に広まっていなかったのでしょう。

しかし、著者はいったん候補に挙げたヒキガエルをすぐに退けます。

 「蝦蟇といふ奴はどうも私たち人間には気味の悪い動物である。両棲類や爬虫類の跋扈した前世紀、私たちの祖先がこの動物のため随分と苦しめられたので、その頃の恐怖感が今尚私たちのうちに潜在意識として存するからだそうな。芝居の天竺徳兵衛、児雷也、さては蝦蟇仙など、大きな奴の背に乗って現れる。のそりのそりと動き出し、口から火焔を吐いたりするのを見ては、子供の頃に恐ろしがったものだ。蝦蟇は悪気を吐くとか、背の疣にじゃ毒物があるとか(尤もこれは噂だけでなく、事実がま毒なるアルカロイドがあるそうだ。)兎に角よくない評判を立てられてゐる。」(同上)

アルカロイドを除けば、およそ科学の徒らしからぬ理由づけです。
別に天竺徳兵衛や児雷也を持ち出さんでも…とは思いますが、まあこれも時代でしょう。それに「子供たちを怖がらせてはいけない」という、一種の教育的配慮が働いているのかもしれません。

こうして、著者はトノサマガエルを第一候補に挙げ、「以下特に断り書きのなちところでは、蛙といへば常に殿さま蛙のことゝ思って頂きたい。」と宣言します(p.13)。

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さて、ここからいよいよ解剖の実技に入っていきます。

解剖作業の最初は、カエルの固定です。
「実験動物の生きたまゝに手術を施さうといふのだから、荒れくるふのは想像に難くない。で手術を容易にするため、之を一定の板上に固定するのである。」(p.15)


…というわけで、カエルの四肢を上のような「蛙板」に糸で縛り付けるか、あるいはコルク板に直接ピンで打ち付けてしまうという、かなり荒っぽいことも可としています。

なお、著者は、「実験に差し支へを来さない限りは、動物を麻酔せしめて、然る後に手術を施すべきである」(p.29)という意見なので、麻酔をかけてから蛙板に固定するか、あるいは先に固定してから、鼻先にエーテルを嗅がせて麻酔することを勧めています。ただし、これは作業の便というよりも、もっぱら人道的な理由によるものです。

 「私たち人間は他を殺さないでは生きて行かれない様に運命づけられてゐる、悲しき神の摂理である。私は故に、学問のためとか、人類の幸福のためとか、所謂「大の虫」を担ぎ出すことは避け難い。逃れ難きある宿命によって私たちは動物を殺すのである。決してよい事ではない。で、その際に当って、切〔ママ〕めても私たちの心の慰めは、その動物が割合に苦痛なく死んでくれることである。」(pp.28-29)

「だから麻酔が必要なのだ」…というのですが、この辺は現代の目で見ると、手前勝手な人間中心主義として退けられるべきところでしょう。でも、これが当時の意識でした。


(何だか書き出すと長くなりますね。この項、もう少しだけつづく)

本邦解剖授業史(3)2017年06月11日 12時39分26秒

大正時代、特に第1次大戦後は、「児童実験」が盛んに言われた時期です。
すなわち、明治時代のように、単に絵図を見せたり、あるいは教卓上で先生が実験して見せたりするだけではなく、生徒自らが実験することの重要性が叫ばれた時代。

これが理科室の基本構造にも影響を及ぼし、4~5人で1つの机を囲み、グループ単位で先生の説明を聞きながら実験するという、現代に通じる理科室風景が誕生したのも大正時代のことです。

カエルの解剖が一般化したのも、やっぱりルーツは大正期だと思います。
この連載の1回目で、串間努氏の『まぼろし小学校』を引いて、大正4年(1915)に、「博物用解剖器」が実用新案として出願されたと書きましたが、それも1つの傍証になります。

もちろん、解剖実習はそれ以前から方々で行われていましたから、解剖器が大正4年に突如登場したわけではないでしょうけれど、「博物用」と銘打って、小・中学校用の教材として商品化されたのが、この前後だろうと思います(この「博物」は「物理・化学」と対になる語で、動・植・鉱物について学ぶ科目を指します)。

下は昭和に入ってからの例ですが、島津と並ぶ代表的理科教材メーカー、前川合名会社(後に「前川科学」→「マリス」と社名変更)が出した、昭和13年(1938)のカタログの一ページ。これを見ると、当時、さまざまなタイプの解剖器が作られ、学校に売り込みが図られていたことが分かります。まさに“需要のあるところに供給あり”というわけでしょう。

(昭和13(1938)、前川合名会社発行『理化学器械 博物学標本目録』より。5点セット・レザーサック入りの80銭から、17点セット木箱入りの最高級品20円まで、多様なラインナップ)

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さらに、いっそう直接的な証拠としては、大正時代の後半になって、ずばりカエルの解剖をテーマにした理科教育書が出版されていることを挙げることができます。


■宮崎三郎(著)
 『蛙を教材としたる人体生理解剖実験室』
 中文館書店、大正12年(1923)

この本は、序文に説くように、「小学並に中学に於ける人体生理解剖学教授上の一参考」として書かれたものです。そして、この本を書くに至った著者の思いが、序に続く「緒言」(pp.4-10)に、こう記されています(引用にあたって、一部読点を補いました)。

 「世界大戦争の勃発後は、四囲の情況に影響されて、我国にては在来余り顧みらるゝこと少かった理科教育が、盛に奨励さるゝに至った。かゝる機運に促されて、中学、小学に於ける物理、化学の設備は其面目を一新し、実験といふことが大に重ぜらるゝ様になった。然しながら、之を動植物学の方面に見るに、如何なる状態であらうか。更に之を医学(人体生理、解剖、衛生)の方面に見るに如何?尚従来の教科書と掛図による説明の域を脱しないではないか。」

著者である宮崎の見る所、理科における「児童実験」ブームは、物理・化学に限られ、生物分野には依然として及んでいなかったというのです。「これではいかん」というのが、宮崎の問題意識であり、その主な原因は「その教材を得ること難きと、之が実験方法の困難なるべしと思惟さるゝ為」だというのが、彼の意見でした。

たとえば心臓の動きについて学ぶのでも、「生体解剖を人体に行ふわけにも行くまい」し、「模型といふものはどんなに上手に出来てゐてもやはり『模型』だ」。そこで、比較解剖学や比較生理学の考えを援用して、「私は蛙及蝦蟇〔がま〕を採らるゝことを御奨めしたいのである」と、宮崎は主張します。

 「蛙ならば材料を得るにも容易である。田舎ならば裏の泥田に鳴いてゐる。都会ならば実験用の蛙を売る商人がゐて、頼めば幾十匹でも揃へる。
 更に蛙は小さい故に、他試験動物に比してその取扱ひ極て簡単であり、〔…〕所謂生体解剖をやったとて、流血の惨を見ること少く、蛙ならば惨酷なといふ感じも起すこと少いであらう。」

当時でも、「惨(残)酷」という観点を、まったく顧慮しなかったわけではありませんが、相対的に罪が軽いと思われたようです。さらに続けて、宮崎は下のように書くのですが、これも当時の意識のありようを伺わせる内容で、興味深いです。

 「動物愛護の声の高い英国では、学者の研究室での実験にも、試験動物は必ず麻酔をかけることに規定されてゐる。時々其筋の役人が見廻りに来るとの事である。その英国ですら蛙の実験には麻酔を用ひないでよいことになってゐる。これは蛙は大脳の発達幼稚にして、疼痛を感じないからとの理由であるそうな。」

   ★

カエルの解剖は、その終焉がぼやけているのと同様、その始まりの時期も一寸はっきりしないところがあります。少なくとも、ある年を境に、全国でパッと行われるようになったわけではなく、大正時代いっぱいを通じて、各地の理科教師が研鑚を重ねる中、徐々に普及していったのが実態だろうと思います。


(次回、宮崎の本の中身をもう少し見てみます。この項つづく)

ギンヤンマの翅に宿る光と影2017年03月23日 06時58分41秒

家人の体調が思わしくなく、いろいろ不安に駆られます。
人の幸せや平安なんて、本当に薄皮1枚の上に成り立っているのだなあ…と痛感させられます。

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先日、奥本大三郎氏の昆虫アンソロジー『百蟲譜』を読みました。
さらにそこから思い出して、同氏の『虫の宇宙誌』を再読していました。

(奥本大三郎 『百蟲譜』、平凡社ライブラリ、1994/同 『虫の宇宙誌』、集英社文庫、1984)

前にも書いた気がしますが、私は後者に収められている「昆虫図鑑の文体について」という文章を、ひどく気に入っています。

「昆虫趣味」から「昆虫図鑑趣味」へ…というのも、趣味のあり方として、かなりの変格ですが、さらに図鑑に盛られた文体を論じるとなれば、これはもうスピットボール並の、超のつく変革です。でも、変格のようでいながら、奥本氏の感じ方は、やっぱり昆虫好きに共通する心根であり、正当な本格派である気もします。

そんな奥本氏が、古い昆虫図鑑の向うに見たイリュージョン。

 「当時〔小学生のころ〕、平山図譜〔平山修次郎(著)『原色千種昆蟲図譜』〕のギンヤンマの図版を見ると、きまって一つの情景が浮かんできた。夏の暑い昼下り、凛々しい丸坊主の少年が、風通しのよい二階の畳の上に腹這いになって、興文社の「小學生全集」の一冊を見ている。すると下から「お母さま」の、「まさをさーん」と呼ぶ声がする。その高い声は、雨ふり映画のサウンド・トラックから出た声のように語尾がふるえて聞こえるのである。」 (文庫版p.65。〔 〕内は引用者)

(ギンヤンマ。平山修次郎 『原色千種昆蟲図譜』、昭和8年(1933)より)

 「そういう、いつかの夢で見たような、フシギな、なつかしい情景が、ギンヤンマの図と結びあって私の頭の中に出来上ってしまっていた。まさか前世の記憶という訳でもあるまい。私が戦前の少年の生活など知っているはずはないのだ。多分うちにあった昔の本や、「少年クラブ」に載った、まだ戟前の余韻を引いている高畠華宵や山口将吾郎それに椛島勝一の挿絵その他のものが頭の中でごっちゃになっていたに違いない。ともあれ私は、平山図譜の、その本の匂いまでが好きになった。何でも戦前のものの方が秀れていて、しつかりしている……本でも、道具でも。そういう固定観念がなんとなくあったような気がする。」 (同pp.65-66)

(同上解説)

奥本氏は昭和19年(1944)生れですから、ご自分で言われるほど、「戦前の少年」と遠い存在でもないように思うのですが、でも、そこには終戦という鮮やかな切断面があって、やっぱり氏にとって「戦前」は遠い世界であり、遠いからこそ憧れも成立したのでしょう。

この思いは、何を隠そう私自身も共有しています。
別に、「戦前のものだからエライ」ということはないんですが、でも「これは戦前の○○なんですよ」と書くとき、私は無意識のうちに「だからスゴイんだぞ!」というニュアンスを込めているときが、たしかにあります。

この辺は、大正時代に流行った「江戸趣味」に近いかもしれません。
大正時代には、江戸の生き残りの老人がまだいましたが、「江戸趣味」にふけったのは、江戸をリアルタイムで知らない若い世代で、知らない世界に憧れるのは、いつの時代にも見られる普遍的現象でしょう。

   ★

と言いつつも、「戦前」を手放しで称賛するわけにはいきません。
やはり「戦前」は、暗い面を持つ、無茶な時代でした。
以下、いつもなら「閑語」と称して、別立てで書くところですが、連続した話題なので、そのまま続けます。

   ★

治安維持法よろしく共謀罪を国民支配の恰好の道具と考え、戦前のこわもて社会の再来を待ち望む人が、見落としていることがあります。

それは、戦前への回帰はもはや不可能だ…という、シンプルかつ冷厳な事実です。
なぜなら、あれほど強権的な政治が行われたのに、戦前の社会が活力を維持できたのは、為政者が潤沢な人的資源の上にあぐらをかき、人的資源の浪費が許された時代なればこそだからです。

端的に言って、明治以降の日本の発展と対外膨張策を支えたのは、近代に生じた人口爆発であり、その担い手は「農村からあふれ出た次男坊、三男坊」たちでした。

しかし、今の日本に、もはや浪費し得る人的資源はありませんし、それを前提にした社会も成り立ちようがありません。農村には次男・三男どころか、長男もおらず、農村そのものが消失してしまいました。

かといって、都市部が新たな人口の供給源になっているかといえば、まったくそんなことはなくて、今や日本中で出生率の低下が続いており、東京なんかは地方の消滅と引き換えに流入する人口によって、一見活況を呈していますけれど、遠からず都市機能の維持が不可能になることは目に見えています。

「じゃあ、それこそ『産めよ増やせよ』か」
…と言われるかもしれませんが、為政者に差し出す「壮丁」を増やすための政策なんて真っ平ごめんです。

それでも、この社会をきちんと次代に引き継ぐつもりなら、もはや「戦前ごっこ」に興じたり、弱い者いじめをして喜んだりしている暇はなくて、子どもの貧困問題にしろ、経済格差の問題にしろ、介護現場の悲鳴にしろ、もっと真面目にやれと、声を大にして言いたいです。

役人は作文が上手なので、各種の白書とかを見ると、いかにも長期的なビジョンがあるように書かれていますが、実態はその場限りのやっつけ仕事が大半で、まったく信が置けません(中には真面目なお役人もいると思いますが、そういう人ほどたくさん仕事を抱えて、じっくり考える余裕がないように見えます)。

「今こそ百年の計を」(ドン!)と机をたたいて然るべき局面だと、私は思います。
これ以上、民を委縮させ、痛めつけるようなことをして、そんな馬鹿が許されるものか(ドン!)と、ここで再度机を叩きたい。

雪の絵本2017年01月14日 12時10分27秒

夕べは空を一面雲が流れ、星はろくに見えませんでした。
でも雲を透かして、一つだけ星がやけに明るく輝いていました。
東方最大離角を過ぎたばかりの金星です。

ふだんは瞬かない金星がちらちらするのを見て、「これは来るぞ…」と思ったら、やはり夜半からしきりに白いものが降り始めました。

今日は一日雪。
こういう日には、どうしても読みたい本があります。


児童文学者・神沢利子さん(1924~)の筆になる、雪にちなんだ美しい文集、雪の絵本』(昭和46、三笠書房

(目次の一部)


「雪うさぎ」の一節。
子供が雪でこしらえる、あの雪うさぎではなく、冬になると白毛に替わる野うさぎの生態についてのエッセイ。

雪明かりに照らされた紙の色。
江戸時代の『雪華図説』からとった雪の絵が文章を彩ります。


清少納言と「香炉峰の雪」のエピソード。

日本の古典、おとぎ話、近代の詩人の作品などを引きながら、文章は静かに綴られていきます。そしてまた、自身のあふれるような思い出も。

南樺太のそのまた外れの村で過ごした、少女時代の明るく楽しい雪遊びの思い出(著者のお父さんは、炭鉱会社の事務員として、一家を連れてこの辺境の地に赴任していました)。その後、東京から信州へと移り住んだ、戦時下の青春時代の哀切な記憶。

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窓の外にも、本の中でも、雪はまだ降り続いています。

冬の幽霊2017年01月09日 15時44分43秒

強い風がコツコツと窓を叩く晩。
雪の降り積もった丘を越え、白い衣に身を包んだ「彼ら」は無言でやってくる。
西洋の、それも北の国のお化けは、夏よりも冬が似合うような気がします。

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こんな本を手にしました。


(タイトルページ)

International Geodedic and Geophysical Union
 『Photographic Atlas of Auroral Forms』
  A.W. Brøggers Boktrykkeri(Oslo)、1951

「国際測地学及び地球物理学連合」が、オスロの出版社から刊行した『オーロラの形態写真アトラス』という、22ページの薄手の本です。判型はほぼA4サイズ。

この「国際測地学及び地球物理学連合」という学術組織は、1930年に英語名を「International Union of Geodesy and Geophysics」と改称していますが、依然旧称のままなのは、本書が1930年に出た本の再版だからです。

序文を見ると、同連合の地磁気・地球電気部門(the Section of Terrestrial Magnetism and Electricity)が、1927年にプラハで会合を開き、オーロラの眼視観測の標準化を図るとともに、オーロラの形態に関する写真図鑑を編纂することを決め、ノルウェーのStørmer教授をリーダーに、カナダ、デンマーク、フィンランド、イギリス、スウェーデン、アメリカの研究者から成る委員会を結成し、その成果としてまとめられたのが本書だそうです。


例えば、「HB」と「PA」に分類されるオーロラのページ。
見開きの左側が解説、薄紙をはさんで右側が図版になっています。


こちらが写真図版。


頁を傾けると、そのツルツルした質感が分かりますが、この図版は6枚の写真を1枚の印画紙に焼付けた「紙焼き」で出来ています。当時のオフセット印刷では、オーロラの微妙な明暗を表現できないため、このような手間のかかる方法を採ったのだと思いますが、これは少部数の学術出版物だからこそ出来たことでしょう。本書にはこうした図版が8ページ、都合48枚のオーロラ写真が収録されています。

なお、HBとは「Homogenous bands」の略で、均質な帯がときにまっすぐ、ときに曲がりくねって見られるもの。図版でいうと、上の4枚がそれに当たります。いっぽうPAとは「Pulsating arcs」の略で、弧状に天にかかったオーロラの一部が、数秒ごとに輝いたり薄れたり脈動するもので、いちばん左下のオーロラがそれです。(右下のボーっとした1枚は、「DS(Diffuse luminous Surfaces)」に分類されるもので、空の一部が紗のような光を帯びるオーロラ。)


各写真には、それぞれこんなデータが付されています。写真番号、撮影地、日付、年次、そして写真中央部の位置が、地上座標(地平からの「高度」および真南を基線とし、西回りに360度で表示した「方位」)で示されています。

年次を見ると、各写真は1910~27年に撮影されたもので、写野は約40度四方に統一されているため、それぞれのオーロラの見た目の大きさを比較することができます。


頭上からスルスルと理由もなく下りてくる垂れ幕。


奇怪な生物のように身をくねらせる不整形な光の塊。

ここには最近のオーロラ写真集のように美しい色彩は皆無ですが、それだけにいっそうその存在が、幽霊じみて感じられます。

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北極圏の人は、オーロラを見慣れていて、特に何の感興もないようなことを聞きますが、昔の人はオーロラを見て、やっぱり怖さを――あるいは怖いような美しさを――感じたんじゃないでしょうか。


キノコ本(5)2016年11月14日 06時19分44秒

それぞれに趣のあるキノコ本ですが、虚心に振り返ると、個人的にいちばん心にしっくりくるのは、子供の頃から親しんでいる、いかにも「図鑑っぽい」本です。


たとえば、1966年に出た『オックスフォード隠花植物図鑑(The Oxford Book of Flowerless Plants)』(F. H. Brightman・文、B. E. Nicholson・絵)。

(牧草地や野原で見られるキノコ)

この図鑑は、分類学的記載に拠らず、その生育する環境別にキノコや苔やシダの仲間を図示した、一種のフィールドガイドです。半世紀前のイギリスのナチュラリストが、身近な自然観察の際に参照したのでしょう。

(混合林中の倒木に見られるキノコ)

(同じく混合林中のチャワンタケ類)

19世紀の博物学書は、自ずと審美的見地から眺めることが多くなりますが、この辺まで時代が下ってくると――何せ私の方がこの本よりも年長なのです――、もっと直接的な記憶や経験を刺激されて、もろに郷愁という要素が入り込んできます。

(高地の荒れ地に育つ苔類。本書はキノコ以外に、コケやシダ、藻類など「花の咲かない植物」は何でも載っています。)

幼いながらも真剣だった自然観察の経験。
あの日、あの場所で感じた光や匂いが、ページの向うに浮かび上がります。

もちろん昔の私の生活環境に、こんな洒落た本があるはずはなく、実際に読んでいたのは、小学館の学習図鑑とか、ちょっと背伸びして保育社の原色図鑑ぐらいでしたけれど、「図鑑画」の匂いには東西共通のものがあります。

(高地の湿生植物。赤い帽子をかぶって並んでいるのは、ハナゴケ(地衣類)の子実体)

そして、ここに描かれた自然は、やっぱり美しいと思います。
それは描き手の画力はもちろんですが、やっぱり画いた人自身が、自然をこよなく愛していたからでしょう。

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キノコの話題もひとまずこの辺で収束します。
何だかキノコそのものを語らず、余談ばかりでしたが、キノコを手がかりに、懐かしく新鮮な気分を味わえたので、ここでは良しとしましょう。
「あの日」が戻ってくることは二度とないにしろ、こうして本を開けば、一瞬あの日に還ることができることを確認できたのは、何にせよ良かったです。