ライクロフト氏の書斎にて2018年06月26日 06時32分16秒

ライクロフト氏の件はいったんあれで終わりですが、氏がせっせと植物観察を続けている間、氏が手元に置いていた参考書はどんなものだろうか? …という疑問が浮かんだので、番外編として書いておきます。

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もちろん正確なことは分かりません。
19世紀末に限っても、イギリス国内で流通した一般向け植物図鑑は、相当な数に上るでしょうし、そもそもライクロフト氏は創作上の人物なのですから、無理に「正確」を期しても、さして意味はありません。

でも、作者ジョージ・ギッシング(1855-1903)が手元に置いた植物図鑑は何か?という問いなら、大いに意味があります。ギッシングの蔵書目録が分かれば、あるいは他の著作の中で、具体的な植物図鑑に彼が言及していれば、この点は明らかになるはずです。しかし、これまたネット検索した限りではよく分かりませんでした。

ただ、検索の過程で興味深く思ったのは、彼の父親 Thomas Waller Gissing (1829-1870)は、薬剤師にしてアマチュア植物学者であり、息子であるジョージは、幼時から父トーマスの薫陶を十二分に受けて育ったという事実です。
(父トーマスには、『ウェイクフィールド近郊のシダ類とその近縁種 (The Ferns and Fern Allies of Wakefield and its Neighbourhood)』(1862)や、『ウェイクフィールド近郊の植物誌資料集 (Materials for a Flora of Wakefield and its Neighbourhood)』(1867)といった、本格的な著作もありました。→参照リンク

となると、ギッシングの植物趣味はまさに筋金入りで、ライクロフト氏の人物造形には、そうした下地がしっかり生かされていると推測できます。

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ここまで「図鑑」「図鑑」と気楽に書いて、ふと不安になったので、『私記』の原文を確認しておきます。文中、図鑑らしきものへの言及は、以下の2か所に登場します。

<春 第3章>
「私は植物学者ではない。しかし植物採集には昔から興味を覚えている。未知の植物にぶっつかり、参考書の助けをかりて名前を確かめ、次ぎの機会に道端でひょっこり咲いているのをみつけて名前をあげて呼びかける、などということは嬉しい限りである。」
「I am no botanist, but I have long pleasure in herb-gathering. I love to come upon a plant which is unknown to me, identify it with the help of my book, to greet it by name when next it shines beside my path.」

<春 第9章>
「歩きながら多くの草木を摘んだが、明日にも参考書を買って、その名前を確かめようと考え、独りで悦にいっている私であった。」
「As I walked I gathered a quantity of plants, promising myself to buy a book on the morrow and identify them all.」

邦訳では、いずれも「参考書」となっており、原著では“reference”とか何とか、それらしい表現がされているのかと思ったら、いずれも単に「book」と書かれているだけでした。となると、これが本当に「図鑑」かどうかはっきりしないのですが、常識的に考えて図鑑ということにしておきましょう。

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少年時代のギッシングが、父親の書斎で眺めた可能性のある本として、例えば手元にこんな図鑑があります。


■John E. Sowerby(絵)、C. Pierpoint Johnson(文)
 British Wild Flowers
 John E. Sowerby(London(Lambeth))、1860.

ジョン・E・ソワービー(1825-1870)は、博物学者の家柄に生まれた人で、自身は植物画家であると同時に、植物図鑑の版元でもありました。

(巻頭口絵)

この本は、大部な学術書では全然なくて、一般向けの小型便覧といった性格の本ですが、それだけに散歩のお供にはふさわしい一冊です。19世紀末にリアルタイムで出た図鑑なら、おそらく図版は多色石版のはずですが、1860年に出たこの本は、まだ古風な銅版手彩色。昔気質のライクロフト氏には、その方が似合いの気がしますし、氏は古典を愛したので、やっぱりその書斎には、クロス装よりも、古雅な革装の図鑑があってほしい…というのは、私の勝手な願望です。

ライクロフト氏が一時、熱心に取り組んだヤナギタンポポ属(Hawkweed/Hieracium)については、全部で19種が掲載されています。



(部分拡大。図版655はHieracium sylvacticum、656はHieracium maculatum)

一つひとつの図はごく小さいですが、全図版に彩色を施し、往時の植物趣味の雅味を知るに足ります。

(愛らしいスミレ属)

(目と舌を刺激するキイチゴ属)

英国紳士のひそみに倣って、こんな図鑑(もちろん日本の)を携え、野原をてくてく歩き回りたいですが、どうもイメージ先行の企画倒れで終わっているのが残念。やろうと思えば、今日からでもできることですが、ものぐさな性格は簡単には直らないですね。

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(6)2018年06月22日 21時09分23秒

『ヘンリ・ライクロフトの私記』には、他にも植物に寄せる思いを美しく綴った章がいろいろあるのですが、あんまり引用ばかりでもどうかと思うので、最後に氏の園芸観を述べたくだりを引用して、この項を終えたいと思います。

<夏 第24章>

 わが家の庭の手入れにくる正直ものの男が、私の風変わりなやり口にいささか面くらっている様子である。私をみるその目に、いぶかしげな表情があるのを私は何度も気がついた。それは、私が普通のしきたり通りに花壇を作らせようとせず、家の前の狭い地面をいかにも小じんまりした装飾風な庭にさせないのが原因である。初めは私のしみったれのせいにしたが、今では、それはそうではないということが分かったらしい。田舎家に住む人でも恥ずかしくなるような、貧弱で飾り気のない庭を心から私が好んでいるということを彼は信じようにも信じられないのである。そしてもちろん私もずいぶん前から、自分の意見を説明するのをあきらめてしまっている。この人のいい男は、私があまり本を読みすぎ、独りぼっちでいたため、やや彼のいわゆる「正気」を失ったとでも思っているらしいのである。

 私の好きな唯一の庭園用の草花は、古風かもしれないが昔ながらのバラであり、ヒマワリであり、タチアオイであり、ユリその他である。そして、これらの花かできるだけ野生然として茂っているのをみるのか好きなのだ。きちんとしたシンメトリカルな花壇ほど嫌いなものはない。その中に植えられた花の多くは――グロテスクな名前をもった雑種は―たとえば「ジョウンジア」とか「スヌークシア」といった――みるのも嫌である。しかし他方では、庭はなんといっても庭なのであるから、小道や野原で私の目を慰めてくれる野草の類を庭にもち込もうとは思わない。たとえば「ジギタリス」――この草花が庭に移植されているのをみたら心がいたむ思いであろう。

 なぜ「ジギタリス」のことを思いだしたかというと、今がちょうどその花盛りであるからだ。毎年、今頃になると私がでかけることにしている小道に、昨日もでかけでみた。その小道というのはくぼんだ、車のわだちの跡のついた道で、その左右は「しだ」の大きな葉でおおわれ、上の方には「にれ」「はしばみ」の枝が生い茂っている土堤になっている。その土堤の間をだらだらと降ってゆくと、ひんやりした草一面の一角にでるのだが、そこにこの気高い花がほとんど私くらいの丈の茎をつけて咲いているのである。こんなに美事な「ジギタリス」は他所では見られないと思う。幼い頃の思い出がまつわりついているので、この花がかくも私の心を喜ばせてくれるのかもしれない。子供にとってはこの花が野生の花の中では一番印象に残る花だからである。私が水際に咲いている「えぞみそはぎ」やよどんだ深みに浮かんでいる白いスイレンの光り輝くばかりの花の姿をみるさいはもちろんだが、「ジギタリス」の美しい群生をみるためならいつだってなんマイル歩いても遠しとせずいってみるのである。

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バラ Rose

(野生然と茂ったバラ。「Peggy Martin climbing roses」)
 
ヒマワリ Sunflower

(青空を背景に咲くヒマワリ。「Sunflower (Sunfola variety) against a blue sky. Taken in Victoria, Australia」)

タチアオイ Hollyhock

(Alcea rosea (common hollyhock))

ユリ Lily

(Lilium candidum)

「ジョウンジア」 Jonesia
(注)属名としてのJonesiaは、Saracaの異名(シノニム)。ライクロフト氏の言うように「雑種(hybrid)」ではありません。

(Saraca asoca)

「スヌークシア」 Snooksia 
※検索にかからず未詳

「ジギタリス」 Foxglove

(Digitalis purpurea(Common foxglove))

「しだ」 Polypodium

(Polypodium vulgare(Common Polypody))

「にれ」 Wych-elm

(Ulmus glabra(Wych-elm))

「はしばみ」 Hazel

(Corylus avellana(Common hazel))

「えぞみそはぎ」 Loosestrife

(Lythrum salicaria)

スイレン Lily
(注)「よどんだ深みに浮かんでいる白いスイレン」、原文では「white lilies floating upon the still depth」。ここに出てくる“lily”は、文脈から“water lily”(スイレン)を指していると読めます。

(Nymphaea alba(European white water lily))

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ライクロフト氏の趣味がよく出ている文章です。
そしてまた、大いに共感を覚えます。私もこういう懐かしい「庭の千草」的庭が好きです。
(ただ現実には、さりげない庭をさりげない状態に保つのも、なかなか労力を要することで、ちょっと気を抜くとすぐ「単に乱雑な庭」になってしまいます。その実例がまさに目の前にありますが、これは日英の気象条件の差もあるので、いかんともしがたい面もあります。)

ときに、「フランスでは伝統的にシンメトリカルな整形庭園を好み、イギリスでは野趣あふれる自然な庭を好む」…みたいな、図式的理解が自分の中に何となくありましたが、庭師というのは職業柄、自分の腕の振るいどころを求めるのか、やっぱりイギリスでも装飾的な庭をこしらえたがるもののようですね。

ここで改めて、ウィキペディアの「イギリス式庭園」の項を見たら、上記の「イギリス式庭園 vs.フランス式庭園」の対立は、主に大規模な邸宅についての話で、しかもイギリスにフランス式庭園を代表する名園があるかと思えば、フランスにもイギリス式庭園を代表する名園がある…という具合で、話はそう単純ではないようです。

そしてまた、いわゆる「イングリッシュガーデン」というのは、この「イギリス式庭園」と全く無縁ではないにしろ、ちょっと別の流れにあるもので、英米では「コテージガーデン」と呼ばれ、19世紀以降に流行りだしたものということも分かりました。となると、ライクロフト家に出入りしていた庭師は、19世紀末にあって、いささか古風な庭園観を持った人だったのかもしれません。

(この項おわり)

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(5)2018年06月20日 20時38分53秒

今日は激しい雨。
暑さも一段落ですが、うだるような日々の到来も近いことを予期して、うんざりされている方も多いでしょう。私も暑さにはめっぽう弱い方ですが、でも夏は大好きな季節です。四囲に生命力がみなぎり、草も木も動物たちも、ことのほか勁(つよ)く感じられます。

以下は、ライクロフト氏の夏の思い出。


<夏 第8章>

私はある八月の銀行休日のことを覚えている。ちょうどそのときはなにか用事があってロンドンの町を歩きまわらなければならなかったのだが、ふと気がついてみると思いがけなくも私はネコの子一匹いない大きな通りの不思議な光景に見ほれていた。しかし私のその気持ちは、なんの変哲もない街路樹の見通しやどすんとした建物の中に、今まで気づかなかった独特の美しさ、独特の魅力を感じて、やがて驚きと変わっていった。夏でもごくまれにしかみられないような建物の濃いくっきりした影は、ただそれだけで大変印象的なものだが、人っ子一人いない大通りにそれが射している姿はいっそう印象的なものである。見なれた建物や尖塔や記念碑の形を、なにか目新しいもののように見たことを覚えている。私がそのあとで河岸通りのどこかで腰をおろしたときも、それは休むためというよりゆっくりとあたりを眺めるためであった。というのは、私は少しも疲れていなかったからである。太陽はまだ真昼の光線を頭上にふりそそいでいた。それは私の血管に生命をみたしてくれるかのようであった。

 あの感じを私は二度と味わうことはないだろう。私にとって自然は慰めや喜びではあるが、もはや元気づけてくれる力ではない。太陽は私の命を維持してはくれるが、昔日のように、私の存在そのものに生気を吹きこんではくれない。ものを思うことなく、ひたすらに喜びにひたるすべを習いたいものだと思う。

 真昼時の散歩のさい、私は大きな「とちのき」のところまで行く。その根のところはちょうど木陰で手頃な腰かけとなっている。この休息所には別に広い展望があるわけではないが、私にはただそこから目に入るものだけで充分なのである――つまり、麦畑の端にある、「けし」「チャーロック」の花が一ぱい咲き乱れている荒地の一隅で充分なのだ。そこではあざやかな赤や黄の色が真昼の輝きと美しく調和している。その上すぐ近くには「野生昼顔」の大きな白い花におおわれた生垣もある。私の目はなかなか退屈なぞしないのである。

 私の大好きな小さな植物に「はりもくしゅく」がある。太陽がその上でぎらぎら照りつけると、花はえもいわれぬ馥郁たる香を放つが、それが私にはたまらなく快いのだ。なぜ特にこの香がそうなのか、その原因は私には分かっている。「はりもくしゅく」は海岸のすぐ近くの砂地によく生えているもので、少年時代、しばしばそんなところで赫々たる日の光を浴びて寝そべったものであった。そんなとき自分でも気がつかなかったが、ついその小さな桃色の花が私の顔にふれるたびに、その芳香を私は味わっていたのだ。今では、その芳香をかぐだけで、あの当時のことがよみがえってくるのである。北の方セント・ビーズ岬まで走っているカンバランドの海岸線や水平線上にかすかに浮かぶマン島の姿が私の眼前に浮かんでくる。陸地の方では、当時の私にとって、未知の驚異の国を守るかと思われた山々がそびえている。だが、それも遠い昔のことなのだ。

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「とちのき」 Horse-chestnut

(Aesculus hippocastanum)

「けし」 Poppy

(イギリスの野に咲くポピー。「Poppies near Kelling, North Norfolk, UK, June 2002」のキャプションとともに掲載の図。詳細な種名は不明)

「チャーロック」 Charlock

(Sinapis arvensis)

「野生昼顔」 Bindweed

(Calystegia sepium(Headge bindweed))

「はりもくしゅく」 Restharrow

(Ononis repens(Common restharrow))

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これを読んで、私が夏を好むのも、実は「子供の頃に感じた夏」を懐かしんでいるからに他ならない…と気づきました。でも、あの時感じたようには、もはや感じることができないのを、私もライクロフト氏と共に寂しく思います。

それにしても、根っからの都会人の印象のライクロフト氏ですが、少年時代には、夏ともなれば、こんなふうに自然の中で伸び伸びと過ごしていたのですね。となると――文中にはっきりとは書かれていませんが――他の少年と同様、氏も昆虫や貝や石やその他もろもろの自然物に一通りは親しんだことでしょう。そう思うと、氏の存在がますます近しいものに感じられます。

(この項つづく)

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(4)2018年06月19日 06時48分59秒

ライクロフト氏の植物趣味の実践を活写した章があります。

<秋 第1章>

今年は天気続きの年だった。不愉快な空模様とてもほとんどなく、くる月もくる月もいつのまにかすぎていった。いつ七月が八月になったのか、八月が九月になったのか、ほとんど私には見当もつかなかった。野原の小径が秋の花々で黄色くふち取られているのを見なかったならば、今でもなお夏だと私は思うかもしれない。

 「やなぎたんぽぽ」属のことで私は多忙をきわめている。つまり、できるだけ多くの「やなぎたんぽぼ」の類を区別し、名前を覚えることを勉強中なのだ。科学的な分類ということには、私はあまり関心はない。そんなことは、私のものの考え方と性が合わないのだ。だが、私は散歩の途中出会うすべての花を一つ一つ名ざして呼べるようになりたい。それも特にそのもの固有の名前で呼んでやりたいのだ。「ああ、これは『やなぎたんぽぽ』だ」というような言葉で満足しなければならぬいわれはない。それは、すべての黄色い舌状花の草花を「たんぽぽ」一点張りで片づけてしまうことがひどいのと、ほとんど変わりはなかろう。花もその個性を認めてもらうと喜ぶように私には感じられるのだ。ひとつびとつの花にどれほど多くの恩恵を私が負うているかを考えると、せめて私にできることは、一つ一つの花に挨拶するということである。同じ理由から私は「ヒエラキウム」という学名よりも「やなぎたんぽぼ」という名で呼びたい。平凡な呼び名の方が親しみをより多くもっているものだ。

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「やなぎたんぽぽ」 Hawkweed (そのラテン語の学名が「ヒエラキウム」Hieracium

(Hieracium caespitosum)

「たんぽぽ」 Dandelion
Dandelionは、日本でいうところのタンポポ(キク科タンポポ属)と同じものですが、ここではタンポポ以外のキク科植物もひっくるめて、黄色ければ何でも「タンポポ」と呼んでしまう無神経な態度を非難しているようです。

(多様なキク科植物の花々。https://en.wikipedia.org/wiki/Asteraceae

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前回引用したライクロフト氏の文章もそうですが、これこそ人として真に豊かな生活だ…と一途に思い込んだ私は、さっそく書店に行き、植物図鑑を買い込みました。

(開いているのは、保育社の『原色日本植物図鑑・草本編Ⅱ』(昭和57年・改訂51刷)。この図鑑は草本編2巻と木本編2巻の全5巻から成ります。奮発して『原色野草観察検索図鑑』も買いました。)

当時、私が学んでいた大学は、大きな植物園がキャンパスに隣接しており、伊達政宗の頃から斧が入ったためしがないという深い森へと通じていました。その園内をめぐる小道沿いのベンチに寝そべって、私はライクロフト氏の文章を読み、植物図鑑を開いて、講義にも出ずに、夕暮れまでぼんやりしていたのを覚えています。

…何だか、我ながらおセンチなことを書いていますが、実際、あれは感傷にふけるに足る時代でした。何せ時は昭和、所はみちのく杜の都、大学には教養主義の残り香が漂い、若い私はそんな中でいろいろ薄ら生意気なことを考えて暮らしていたのです。その後の世相の移り変わりを思えば、いっときおセンチにならざるを得ません。そしてまた、実際良き時代には違いなかったのです。

(この項つづく)

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(3)2018年06月16日 06時22分03秒

そもそも、ライクロフト氏と植物の「なれそめ」は何か?
それを物語るエピソードが以下です。(冒頭1字下げになっていないのは、引用者による改段落)

<春 第9章>

 しかし私は初めてロンドンから脱出した年のことを考えていたのだ。自分でもどうしようもない衝動にかられ、私はインクランドのまだ見ぬ一角デヴォンへゆく決意を突如としてきめた。三月の終わりに、私は陰欝な下宿から逃げだした。そして、さてこれからどうしたものかと思案する暇もあらばこそ、気がつけば、現在私が居を構えている所のごく近くに、日光を浴びて坐っていたという次第であった。――私の眼前には河幅が次第に広くなっているエクス河の緑の流域と松林の茂ったホールドンの山陵がひろがっていた。私は生涯において内からこみあげてくる喜びをいくどか味わったが、その瞬間もその一つであった。

私の心理状態は誠に不思議なものであった。若い時分から私は田舎に親しみ、イングランドの美しい光景にも数多く接してきていたのだったが、そのとき、初めて自然の風景の前に立ったような錯覚におそわれたのだった。ロンドンでの長い年月が、若い頃の私の生活のすべてをいつのまにかぼかしてしまっていたのだ。私は都会に生まれ、都会に育ち、街路の眺望のほか、望んどなにも知らない人間のようであった。日光も、空気も、なにか超自然的なものを漂わせているように私には感じられた。そして後年イタリアの雰囲気からうけた衝撃ほどでないにしろほとんどそれにつぐ強烈な衝撃をうけた。

〔…中略…〕

 私は新しい生活へはいっていたのだ。それまでの私と、その生まれ変わった私との間にははっきりした相違があった。わずか一日のうちに、驚くほど私は成熟していた。いわば、知らないうちに徐々に私の内に生長していたカや感受性を、私は突然はっきりと知るにいたったのである。その一例をあげるならば、それまで私は植物や花のことはほとんど気にもとめていなかったが、今やあらゆる花に、あらゆる路傍の草木に、深く心をひかれる私であった。歩きながら多くの草木を摘んだが、明日にも参考書を買って、その名前を確かめようと考え、独りで悦にいっている私であった。事実またそれは一時の気紛れではなかった。そのとき以来、野の草花に対する私の愛情と、それらを皆知りつくしたいという欲望を失ったことはないからである。

当時の私の無知ぶりは今から考えると誠に恥ずかしいものだったが、要するに、都会に住んでいようが田舎に住んでいようが、とにかく当り前の人間のごたぶんにもれなかっただけの話である。春になって、垣根の下から手当たり次第に摘んできた五、六種の草の俗名を、はたして幾人があげることができようか。私にとっては、花は偉大な解放の象徴であり、驚くべき覚醒の象徴であった。私の目が全く突如として開かれたのである。それまで真っ暗闇の中を私は歩いていたのだ、しかもその
ことに気がつかなかったのである。

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話はライクロフト氏がロンドンで売文稼業にあくせく追われていた頃にさかのぼります。ある日、衝動的にロンドンを後にしたライクロフト氏の前に広がっていた田園の光景。それは、『超自然的な自然』と感じられるほど、圧倒的な迫力で、氏の心を揺さぶりました。

イギリスの人にとって、「田園」という存在がいかに大きな意味を持つかは、折々耳にします。平均的日本人にとっては、「都市と田園」の対比よりも、「他郷と故郷」の対比の方が、はるかに重要な意味を帯びている(いた)でしょうが(“せめて骨だけは故郷に埋めてくれ…”というのが、臨終の際の決まり文句だったのは、そう遠い昔のことではありません)、そこから逆に類推すれば、英国における田園の意義もおのずと分かる気がします。

ともあれ、ライクロフト氏は田園にあって突如、路傍の植物に目を見開いたのです。

――でも、本当は突然ではなかったのかもしれません。氏の「植物愛」が、端的に「図鑑を片手にした分類・収集癖」という形をとったことから、そう感じられるのです。逆算すると、ライクロフト氏は1840年代末の生まれで、1850~60年代に少年時代を送ったはずです。当時、英国全土を覆った博物学ブームはすさまじいものでしたから、ライクロフト少年も、きっと植物採集や昆虫採集の洗礼を受けたことでしょう。それが長い潜伏期を経て、成人期に突如よみがえった…というのが、上のシーンのようにも読めます。首都における人間臭い生活の只中にあって、自分と自然のつながりを、天啓のように再認識した…と言い換えてもよいでしょう。

これは私の個人史に重ねても共感できるし、例えば中年期に昔の天文熱が再燃した多くの天文ファンも、その瞬間を覚えているはずです。さらに言えば、これはライクロフト氏の個人的経験を超えて、当時の英国の時代精神が、こうした「回心」を一方で必要としていた…ということかもしれません。(そして、この頃からイギリスの博物趣味は、採集一辺倒から、自然保護熱へと重心を移していくことになります。)

(この項つづく)

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(2)2018年06月15日 06時52分12秒


(1921年に出たアメリカ版 『ヘンリ・ライクロフトの私記』 扉)

(同 「春」の冒頭)

 「このところ一週間以上も私はペンを放りっばなしにしていた。まる七日間というもの、私はなにも、それこそ手紙一本書かなかったのだ。一、二回病気にやられたときはともかく、それ以外にはこんなことは自分の生涯では今までにまだ一度もなかったことである。生涯では、といったが、まさしくそれは汗水垂らして必死に生きてゆかなければならなかった生涯であった。」

…というのが、『ヘンリ・ライクロフトの私記』の書き出しです。これは、資力を得て悠々自適の生活に入ったライクロフト氏の、少なからず余裕のにじむ述懐です。

私の方もブログの更新がちょっと滞っていましたが、こちらは眼鏡が壊れて、いっとき視力を失ったという、いささかわびしい理由によるものです。何せ眼鏡なしには何にもできないのですから、本当に困ります。人間はやはり視覚的動物です。

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さて、本書は「春」「夏」「秋」「冬」の4部構成で、それぞれがさらに多くの章に分かれています。そこには純粋な日録もあれば、社会批判の章もあり、過去の回想録もあり、そして全体として、四季折々のライクロフト氏の心模様を文字にしたものとなっている…というのは前回も書いたとおりです。

その中におりおり登場する植物趣味の片鱗を、岩波文庫版から書き抜いてみます。
(以下、太字は引用者。ルビは原則として省略)。

<春 第3章>

 私は植物学者ではない。しかし植物採集には昔から興味を覚えている。未知の植物にぶっつかり、参考書の助けをかりて名前を確かめ、次ぎの機会に道端でひょっこり咲いているのをみつけて名前をあげて呼びかける、などということは嬉しい限りである。もしもその植物が珍しいものであれば、その発見の喜びは大したものだ。偉大な芸術家である自然は、ありふれた花はありふれた、だれの目にもとまる所で作っている。いわゆる雑草でさえ、そこに示される驚異と美しさはとうてい筆舌のよくなしうるところではない。が、要するにいわば行きずりの人の目の前で作られているのである。珍しい花は、人里離れた奥まった所で、この芸術家の幽玄な気分のまにまに作られている。珍しい花を見つけることは、一段と厳粛な聖域に入るの思いを味わうことを意味する。嬉しさの中にも私は粛然とするものを感じるのである。

 今日は遠くまで散歩した。行ったさきで、小さな白い花をつけた「くるまばそう」を見つけた。それは若い「とねりこ」の林の中に生えていた。その白い花を長い間見ていたが、そのうちに私はそのまわりにたっているきゃしゃな樹木の美しさに心をうたれた。その輝くばかりの滑らかさ、オリーヴ色の肌合いの美しさはたとえようもなかった。すぐその傍には「にれ」の茂みが生い茂っていた。そのかさかさした幹は、まるでどこか聞いたこともないような異国の文字が刻まれているような感じで、若々しい「とねりこ」はそのためいっそう美しく見えた。

 いつまで散歩していようと私は少しも構わないのである。家に戻らなければならない用事もない。どんなに遅くまでぶらついていても、心配したり気をもむ人もいない。春はいたるところの小道や牧場の上に輝いている。道すがら、足もとから岐〔わか〕れてゆくあらゆる曲折した小道に踏みいってゆかなければ申し訳ないような気がする。

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抜き書きだけでは意義が薄いので、文中に登場する植物名について、実物を当てておきます。邦訳の後の英名は、『私記』の原文からとったもので(原文の複数形は単数形で表記)、リンク先は英語版Wikipediaの該当ページ、図版も同じです。

ただ、日本語でも英語でも、植物名というのはややこしくて、それが種名なのか、属名なのか、科名なのか…といった指示対象の広狭の問題もありますし、同名異物も存在するので、以下はあくまでも参考情報です。より正確な情報があれば、ご教示いただければと思います。

「くるまばそう」 Woodruff

(Galium odoratum)

「とねりこ」 Ash

(Fraxinus ornus)

「にれ」 Wych-elm

(Wych-elm)

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ライクロフト氏の伸びやかな描写が、「春」の冒頭近くにさっそく登場しています。
人間社会に対する、氏のうがった見方と対比するとき、この手放しの自然礼賛は、いっそ無邪気であり、微笑ましくもあります。ここで氏の関心が、もっぱら植物に向き、動物やほかの自然物に向かなかったのは、彼の資質も当然あるでしょうが、100年前には植物趣味(ホビーとしてのbotany)が、今よりも世間に認知されていた…という事情もありそうです。

氏は「ありふれた花はありふれた、だれの目にもとまる所で作」られている…と書きますが、現代の日本においては、植物は「ほとんど誰の目にもとまらない存在」であり、「それがありふれているかどうかすら分からない」のが実態ではないでしょうか。

植物はまことに偉大です。都市のど真ん中でも、公園の片隅に、街路樹の根元に、さらにはアスファルト舗装のひび割れにさえ、苔や微細な植物が生い茂り、いかに多様な群落が形成されていることか。それに気付くとき、私はまさに「厳粛な聖域」を前にし、「粛然とするもの」を感じます。そして、それらの名前をぜひ知りたいと思います。


(この項つづく)

「ヘンリ・ライクロフトの植物記」(1)2018年06月12日 05時45分43秒

心に沁みる本というのがあります。
私にとって、例えばジョージ・ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』(初版1903)は、そう呼ぶに足る一冊です。

ヘンリ・ライクロフトは、ギッシングの創作になる人物ですが、半ば彼の分身。この『私記』は、そのライクロフト氏の随想集であり、記事は1897年の春から書き起こされ(記事中にヴィクトリア女王即位60周年の話題が出てきます)、次の年の春の訪れまで、ちょうど一年分の日記の体裁をとっています()。

 【※6月15日付記】 これは私の誤解です。この『私記』は、ライクロフト氏が遺した数年分の雑録を、ギッシングが四季別に再配列したもの…という設定で、年次は1897~8年の前後に及びます。

ライクロフト氏は、ミドルクラスの出と思われ、若い頃から筆一本で食べてきた文筆家という設定です。特に資産のない人間にとって、それがどれだけ大変なことであったか、その艱難辛苦は、作品の中でたびたび言及されています。だからこそ、彼は社会のあらゆる階層の実相に触れ、その人間観察の目は一層細やかになったのでした。

その苦労人のライクロフト氏が、50歳のとき、ある幸運な偶然によって、友人の遺贈に基づく終身年金を受け取ることになり、質素ながらも金銭の不安から解放された生活に入ることになります。そして煤煙で覆われたロンドンを離れ、温暖なデヴォン州に居を構え、散策を楽しみ、思索にふける静かな田園生活が始まったのでした。そこで綴られた自己省察と社会観照の書、それがこの『ヘンリ・ライクロフトの私記』です。


日本では、大正時代に戸川秋骨らによって紹介され、以後、複数の邦訳が出ているそうですが、私の手元にあるのは、昭和36年(1961)に岩波文庫に入った平井正穂氏の訳です。

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この本が、英日両国で深く愛されているのは、もちろんライクロフト氏(すなわちギッシング)の含蓄ある文章のせいですが、中でも“読書人・ライクロフト氏”が語る読書体験に、多くの本好きが惹きつけられたせいもあるでしょう。

さらにまた特筆すべきは、その美しい自然描写です。
そして、ここで『私記』を取り上げるのは、ライクロフト氏の植物愛好趣味が、若い頃の私にも感染して、その影響が今に及んでいるからです。

しばらく梅雨空が続くと思いますが、雨に濡れた草木を眺めながら、『ヘンリ・ライクロフトの私記』から抜き書きしつつ、私自身の追想も書き添えたいと思います。

(この項つづく)

鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(3)2018年02月25日 09時57分20秒

(続き物のはずなのに、1本目はタイトルが「鉱物学のあけぼの」、2本目は「鉱物学の黎明」と不統一でした。改めて「あけぼの」で統一します。)

今日は純粋なおまけです。すなわち本の中身ではなく、印刷の話。
この本を読んでいて、この本はどうやって刷られたのかな…というのが気になりました。


この文字は木版で間違いないですが、線によって西洋風の陰影表現を施した一連の挿絵も木版なのでしょうか?


でも、タイトルページの、この繊細な装飾模様を木版で生み出すなんて、到底不可能に思えます。まあ、浮世絵美人の髪の生え際の極細の彫りを見れば、絶対に不可能とも言えませんが、そんな超絶的な技巧を駆使してまで出版する必然性はないので(これはあくまでも一般向けの本です)、それは考えにくいです。

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次に思ったのは、これは同じ木版でも、旧来の木版本のような柔らかい版木ではなく、緻密で堅い樹種を選び、しかも幹を胴切りにした「木口(こぐち)」に版を彫る、「木口木版」で刷られたのではないか…ということです。(これに対し、旧来のものは「板目木版」と呼ばれます。)

木口木版は18世紀末にイギリスで生まれ、そのため「西洋木版」の称もありますが、銅版と見まごうほどの細密表現が可能なことや、銅版と違って凸版なので、本文活字と一緒に版を組んで、まとめて刷れる便利さから、19世紀の出版物では、挿絵の主流となりました。当時の天文古書でも、本文中に挿入された図は、ほぼすべて木口木版です。(本文とは別に、挿絵だけが独立したページになっている場合は、やっぱり木口木版の場合もありますが、銅版だったり石版だったりのことが多いです。)

(木口木版による挿絵の例。1881年にロンドンで出た、著者不明の『Half Hours in Air and Sky』より)

しかし、よく話を聞いてみると、日本における木口木版のスタートは、明治20年(1887)で、最初は教科書の口絵から始まり、その後一般の出版物にも普及したそうですから、明治17年に出たこの本に、それが登場するのは一寸時代が合いません。(板目木版と木口木版は材の違いだけでなく、使う道具も、彫り方もまるで違うので、その技法は一から学ばねばなりません。洋行してそれを学んだ彫り師が帰国したのが、明治20年の由。 → 参考文献(2) 参照)

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そこで、何かヒントはないかと思い、先ほどの表題ページをさらにじっと見てみます。


すると、この堂々たる隷書体のタイトルは、文字の内部が黒一色ではなくて、細い線をびっしり彫って黒っぽく見せていることが分かります。これは本文中の挿絵にも共通する特徴で、いずれも凹版の線で、広い面積を黒く見せる工夫ですから、結局、これは銅版印刷だと分かります。

もし、これが木版だったら、陽刻した凸版の絵柄や文字に、そのまま墨やインクを載せて刷ればいいので、こんな工夫をする必要はありません。


例えば、この明治4年(1871)出版の『博物新編』の挿絵は、全体の雰囲気は『金石学教授法』と似ていますが、黒い部分は墨のベタ刷りで、さらにそこに木目が見えることから、これが旧来の板目木版を用いていることが明瞭です。

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すると今度は、日本における銅版挿絵の歴史は…という点に関心が向きますが、この点は今後の自分の宿題として残しておきます。

今は 参考文献(3) にある、「司馬江漢や亜欧堂田善が学んだ銅版印刷は、残念ながら日本ではあまり普及しませんでした。眼鏡絵や人体解剖図以外では、観光名所絵、地図、博物書の扉絵などごく限られた分野で利用されたに過ぎません。」という程度の記述で我慢しなければなりません。

ともあれ、この『金石学教授法』は、銅版と木版を二度刷りして仕上げた、なかなか凝った本で、明治前半の出版事情の一端が窺える点でも、興味深く思いました。


【参考文献】

(1)東書文庫:教科書の印刷(1)木版
(2)東書文庫:教科書の印刷(2)木口(こぐち)木版
(3)日本における腐食銅版印刷の曙

鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(2)2018年02月24日 11時19分28秒

前回、本書は松川半山の遺稿を元に、大槻如電が増補改訂したものと記しました。
ただし、如電は一方で、半山が書き残したのは「僅ニ金石ノ色形等ヲ抄記セシノミ」に過ぎず、「余ノ増補スル所ハ十ノ八九ニ居レリ」とも書いています(「例言」)。

如電はドイツ帰りの化学者、熊沢善庵(1845-1906)の力を借りながら、自らの勉強も兼ねて、精力的にこの改訂作業に当たりました。その努力は多とすべきでしょう。

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さて、本の中身ですが、一読して感じるのは、その博物誌的スタイルです。

鉱物学の解説書といえば、まず鉱物をいかに理解するか、鉱物学の基礎概念を述べる総論的な記述があって、その後に個々の鉱物を、その体系に沿って叙述する各論的記述に進むのが常道と思いますが、本書では総論はほんの付けたりで、大半が各論に費やされています。

具体的には、例えばこんな具合です(原文は漢字カナ交じりですが、地の文のカナをかなに改めました。また右ルビはカナ、左ルビはかなで表記)。


 「黄玉石(ワウギョクセキ)は洋名を「トパース」と云ふ 其色は淡黄(タムワウ/うすき)の者多し 故に此名あり 其晶形は斜方柱状なり ○ 此石も古は本邦の産(さん)なかりしが近来始て近江栗本(クリモト)郡より発見(ハッケン/みつけだす)して無色(ムショク)淡緑(タムリョク)茶褐(チャカツ)の三種を出す 其無色透明の者は清水の如し 其品淡緑の者と共に六七分の小顆(セウクワ)のみ 茶褐色の者は其色単純(タンジュン)ならず且不透明なれば寸以上の者を獲ると雖ども亦砕きて磨砂となすべきのみ 黄玉鋼玉は共に装飾(サウショク/かざり)の用に供せり」

あるいは瑪瑙であれば、


 「瑪瑙(メノウ〔原文ママ〕)は通常赤色にして光輝あり 其状は馬(ムマ)の脳髄(ナウズヰ)の如くなりとて此名ありと云ふ 又各種の者あり其斑紋(ハンモン/もやう)の層(ソウ/かさね)を成して渦状(クワジャウ/うづ)を現はす者を縞瑪瑙(シマメナウ)と云ふ 又他石(タセキ/ほかいし)と混交(コンカウ)して雲様(ウンヤウ/くも)葉様(エウヤウ/このは)を含む者を苔瑪瑙(コケメナナ〔原文ママ〕)と云ふ 又白色にして玲瓏(レイロウ/ひかりとほる)」たる者を珂石(カセキ)白瑪瑙(シロメナウ)と称し或は星状(セイヂャウ/ほし)の小粒(セウリフ)を含(フク)みて数種の石質相交(マジハ)る者を血星石(ケッセイセキ)と呼ふ ○ 此水晶瑪瑙は古より服飾(フクショク/きものかざり)其他の器玩(キクワン/うつはもてあそび)に製して世人の常に賞美(シャウビ)する所の者たり」

いずれも名称の由来、色・形、産地や産状、用途等が列記されています。
これは図鑑や図譜の類の解説もそうですし、特に異とするには足りませんけれど、でもこれが図鑑ではなくて、『金石学教授法』を名乗る書物であることを考えれば、やっぱりその博物誌的な(あるいは文学的な、あるいは雑学的な)叙述スタイルが、嫌でも目につきます。(何となく『歳時記』の季語の解説を読んでいるような気分です。)

この本を読んだ人は、石の名称や珍奇なエピソードは記憶に残っても、学問としての<鉱物学>については、おそらく何も知らないままでしょう。何せ「発見」「みつけだす」とルビを振らないと意味が通りにくかった時代ですから、それも止むをえません。それに、ここに書かれた内容こそ、当時の人々の関心の在り処を示すものに他ならないのでしょう。

   ★

他方、本書で「総論」に当たる部分は、冒頭のわずか5ページのみですが、現代の我々の関心を引くのは、むしろこちらです。

そこでは、石には金石(今いうところの「鉱物」)と岩石の区別があること、鉱物には6つの晶系があること、その堅度(同じく「硬度」)は10段階に区分されること、種類に応じてその比重が異なること、鉱物の基準色は、「白・黝(ユウ)・黒・青・緑・黄・赤・褐」の8色であること、そして吹管や薬品による成分分析を経て、鉱物は「石類・鹵(ろ)類・燃鉱・金鉱」の4種に区分されることを略述しています。(最後の四分法については、過去記事を参照)

現代の鉱物趣味に通じる、「理の美しさ」の萌芽がここに見て取れます。


そして、そこに掲げられた晶系図は、国内では最も古いものの1つでしょうし、


鉱物の基準色を示す図は、まさに我が国最初の「彩色鉱物画」だと思います(違っていたらごめんなさい)。


この図は、同時代の海外の鉱物書を参考にしたらしく、手彩色を施した上に、光沢を出すためのゴム引きがされており、なかなか凝っています。

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本書が出版されたのは、明治17年(1884)。
こうして蒔かれた鉱物趣味の種が芽を吹き、12年後には「元祖石っ子」の宮沢賢治が、岩手に生まれることになります。



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▼閑語(ブログ内ブログ)

朝鮮総連銃撃事件を耳にして、ただちに連想したのは、ナチズムに抵抗したマルティン・ニーメラーの有名なメッセージです(※)。

  最初、彼らは共産主義者に矛先を向けた
  だが、私は声を上げなかった
  私は共産主義者ではなかったから

  次いでユダヤ人に矛先が向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私はユダヤ人ではなかったから

  それから労働組合員に矛先が向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私は労働組合員ではなかったから

  さらに矛先はカトリック教徒に向いた
  だが、私は声を上げなかった
  私はプロテスタントだったから

  ついに矛先は私に向いた
  そして、声を上げる者はもはや誰も残っていなかった

排外と全体主義。理性の消失と言論の無化。
最近の閉塞的な状況を前に、声を上げることの重要性を痛感しています。

(※このメッセージは、書かれた詩句として発表されたものではないので、いろいろなバージョンが存在します。上に挙げたのは、ニューイングランド・ホロコースト記念館に掲げられた英語版の私訳です。)

鉱物学のあけぼの…『金石学教授法』を読む(1)2018年02月22日 06時21分57秒

最近のヴンダー回帰の気分に合わせて、脈絡なく話題を続けます。
今日の主役は1冊の明治期に出た和本。


■大槻修二(著)、鈴木道央(画)
 『金石学教授法 全』
 岡島宝玉堂(岡島眞七)、明治17年(1884)(明治16年版権免許)、24丁

おりおり「学者一家」というのがありますね。
本書の著者である、大槻如電(おおつきじょでん、1845-1931。本名は清修。修二は別名)も、まさにそうした一家に生い育った人物です。祖父は蘭学者の大槻玄沢、父は漢学者の大槻磐渓、そして弟は国語学者の大槻文彦と、文字通り和漢洋の学者を輩出した家系で、如電自身はといえば、和漢洋なんでもござれの博識の考証家として鳴らしました。


見開きになったタイトルページと序文冒頭。「王父磐水先生」とあるのは、如電の祖父・大槻玄沢の別号です(「王父」とは亡き祖父の意)。

序文を読むと、そういう博学の人でも、鉱物学はまったくの素人だったのですが、にもかかわらず本書の著者となったいきさつが記されています。素人が専門書を出すというのは、一見して無茶な話ですが、明治初期はそれが許された時代でした。

で、そのいきさつというのはこうです。
本書は、松川半山(1818-1882)の遺稿を元に、それを増補する形で出版されたもので、如電はその増補改訂役を版元から頼まれ、結果的に著者を名乗ったのでした。

半山の本職は絵師ですが、明治の開化期には、絵入りの啓蒙書類も手がけており、明治10年(1877)には、同じ版元(岡島宝玉堂)から、『博物図教授法 全』というのを出しています。出版にあたって、如電は当初『金石小誌』という書名を考えましたが、『博物図教授法』の意外な好評にあやかり、その続編の体裁にしたいという版元の意向を受けて、『金石学教授法』としたのだ…と正直なところも記しています。
(なお、『博物図教授法』については、過去記事でも取り上げました。)

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文章全体に漂う開化期の雰囲気も懐かしく、形ある本として見た場合も、興味深い点がある一冊なので、少し詳細に立ち入って目を通してみます。

(この項つづく)