『日本産有尾類総説』の作画者、吉岡一氏のこと2024年08月01日 18時31分41秒

世の中には検索の達人がいらっしゃるものです。
佐藤井岐雄博士の『日本産有尾類総説』の彩色図版を担当した、吉岡一画伯について、その後、ある方(Y氏とお呼びします)からメールでご教示いただきました。

(『日本産有尾類総説』 第1図版、チョウセンサンショウウオ)

当時、広島に吉岡一という洋画家がいて、動・植物の挿絵も手掛けていた…という情報で、これまた同名異人の可能性が皆無とはいえませんが、まあ普通に考えてご当人でしょう。

以下、国立国会図書館のデジタルコレクションからの情報(by Y氏)です。

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まず、吉岡氏の名前は、小林順一郎著 『普通動物学』(中文館書店、昭11/1936)に挿絵画家として登場します。同書冒頭の「序」に、「…尚此書に挿入した図版は写真版以外は殆どすべて新しく描写したので、その過半は広島の洋画家吉岡一氏の手により…」云々の記載があるのがそれです。

次いで、戦後間もない頃ですが、広島図書(本社・広島市)が発行していた子供向け科学雑誌「新科学」の昭和23年(1948)6月号で、吉岡氏は高山植物のカットを描いています。要するに吉岡氏は動・植物画をよくする職業画人で、その方面の代表作が『日本産有尾類総説』というわけです。

(「新科学」昭和23年6月号の表紙)

(同上目次と高山植物図・部分。傍線は引用者)

さらに吉岡氏の名前はちょっと変わったところにも見出されます。
広島出身の歌人・平和運動家の正田篠枝(しょうだ しのえ、1910-1965)氏の『耳鳴り : 原爆歌人の手記』(平凡社、1962)がそれです。


そこには、正田氏がGHQの検閲をくぐり抜けて秘密出版した歌集『さんげ』(奥付には昭和22年(1943)とありますが、実際は昭和21年発行の由)に掲載された、原爆ドームのカットと、絵の作者である吉岡氏の思い出が書かれています。それによると、吉岡氏は当時、広島郊外の高須(現広島市西区)に住み、妻を原爆で亡くしたため、乳飲み子を含む6人の子供を抱えて大変苦労していたこと、その後再婚したものの、間もなく亡くなられたことが記されていました。

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さて、ここまでたどってきても、吉岡氏の経歴は依然ぼんやりしています。
しかし、Y氏からもたらされた、もう一つ別の情報を追っているうちに、広島市現代美術館が1991年に開催した展覧会「広島の美術の系譜―戦前の作品を中心に」の図録中に吉岡氏の名があることを知りました。

早速、問題の図録を取り寄せたら、これが正解で、そこには氏の風貌を伝える写真とともに、その略歴がしっかり書かれていました。

吉岡 一(よしおか・はじめ) 1898-1954
 広島市に生まれる。1916年の第1回展より県美展〔※引用者注:広島県美術展覧会〕に出品。独学の後上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。23年二科展に初入選。25年、26年、28年、29年帝展に入選。広島美術院展には26年の第1回展より出品。31年青実洋画研究所開設。32年広島洋画協会結成に参加。36年二紀会結成に参加。54年死去。

(二紀会結成。前列左から、辻潔、吉岡満助〔※引用者注:同じく画家だった吉岡一の実兄〕、田中万吉、吉岡一、後列左から、福井芳郎、實本仙、山路商)

正田篠枝氏の回想記は、吉岡氏が戦争終結後あまり間を置かずに亡くなったように読めますが、実際には戦後9年目の1954年まで存命されていたとのことです。

さらに図録には、氏の作品が2点掲載されています。

(吉岡一 燻製 1929年 油彩・キャンバス 100.0×73.0 広島市蔵)

(吉岡一 石切場 制作年不祥 油彩・キャンバス 38.0×46.0 個人蔵)

実はこの図録を手にするまで、私は何となく「洋画家」とか「画伯」というのは一種の儀礼的尊称であって、氏の実相は「挿絵をもっぱらとする画工」に近い存在ではなかろうか…と勝手に想像していました。しかし、上のような経歴を知り、その作品を眺めてみれば、吉岡氏は確かに「洋画家」であり、「画伯」と呼ばれるべき人でした。

ただ、逆にこの図録は吉岡氏の挿絵画家としての顔を伝えていません。
『日本産有尾類総説』の作画者と、帝展入選画家・吉岡一を結びつけて考える人は、同時代人を除けば少ないでしょうから、ごくトリビアルな話題とはいえ、この拙文にも多少の意味はあると思います。

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吉岡氏は、大正5年(1916)に始まった県美展の常連出品者でした。その後、昭和11年(1936)に、運営方針をめぐって脱退したものの、吉岡氏がその青年期から少壮期を托した県美展の会場こそ、広島県物産陳列館――今の原爆ドームです。

今年の8月6日も、あの鉄骨のシルエットをテレビで目にするでしょう。
そして、今年は新たな感慨がそこに付け加わるはずです。

『日本産有尾類総説』を読む(5)2024年07月28日 06時33分29秒

序文に出てくる問題の箇所は以下です(改行は引用者。引用にあたって新仮名遣いに改めました)。


 「本書は最初の予定では欧文を以て書き綴られるように運ばれていた。そして出来ることならそうした形で出したいものと思い続けて来た。それはかような日本特有の動物群の研究は広く世界の学界に発表されて然るべきものと考えたからである。

併〔しか〕し其の後の研究に、また思考と推敲に月日を過すうち、この記念すべき年を迎えた。そこで稿を書き改めて八紘に洽〔あまね〕きわが国の言葉を以て茲〔ここ〕に上梓するに到ったことは、特にこの際書き留めて慶びとしたいと思う。」

どうでしょう、「記念すべき年」にしろ、「慶び」にしろ、この後段の内容を文字通りに受け取る人はいないでしょう。佐藤は出版が目前に迫り、序文を草する段階でも、依然として前段の思いを強く抱いていたことが、言葉の端々ににじみ出ています。

前回書いたように、本書の印刷作業は、太平洋戦争勃発前から進んでおり、当然その段階では、欧文(英語か)原稿を用意していたはずです。しかし、「記念すべき年」、すなわち昭和16年(1941)12月の日米開戦により、にわかに方針転換を迫られたのでしょう。そうしなければ、印刷そのものが許可されないとなれば、否応なくそうするしかないわけですが、自らの成果を世界に問う覚悟だった佐藤としては、内心忸怩たるものがあったはずです。

本書の印刷作業が3年に及んだのは、この余分な作業が加わったのも大きな理由だと思います。もっとも、欧文で直接書き下ろしたのでなけば、先に邦文草稿を作成していたでしょうから、原稿自体は意外に早くできたかもしれませんが、それでも版を組みなおし、一から校正をやり直すのは大変な手間だったでしょう。

(本書扉。下に見える数字は皇紀2603年の意味。時代の空気がうかがわれます)

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昭和20年8月6日、広島に投下された原爆の炎に焼かれ、佐藤夫妻はまもなく非業の死を遂げ、彼の貴重な草稿や標本もすべて失われました。

仮に2発の原爆がなくても、当時、日本の降伏は時間の問題だったことを思うと、広島や長崎の人々はなぜ死ななければならなかったのか、その死はまったく不条理な死であり、民間人を大量虐殺したアメリカ政府の判断は断じて許されないと、私は思います。(もちろん日本人が各地で犯した非違無道も、同様に断罪されなければなりません。)

これら多くの悲劇をはらみつつ、時の歯車は廻転を続け、刀折れ矢尽きた日本は、ついに8月15日を迎えたのです。

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手元の『日本産有尾類創設』は、かつて某「E. Sawada」氏が所蔵していたものです。本の扉に押された蔵書印から判断すると、きっと栄太郎とか栄治とか、「栄」のつく名前でしょう。


彼は終戦の3か月後、こんな決意を巻末余白に書き記しています。


「昭和二十年十一月十九日
 古き殻を去り 新しき道への道標として」

佐藤の仕事は、新時代の学徒を鼓舞し、その確かな道標となったのです。
佐藤の悲劇的な死を顧みるとき、これは少なからず勇気づけられ、また心慰められる言葉ではないでしょうか。

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そして時はさらに流れ、2023年。
米国に本部を置く両生・爬虫類学会(Society for the Study of Amphibians and Reptiles ;SSAR)から、本書の英訳本が出るという慶事がありました。佐藤の宿願は、こうして80年を経てついに果たされたわけです。


■New book from SSAR: Ikio Sato’s Japanese Tailed Amphibians

翻訳を手掛けたのは、1950年にアメリカから来日し、長く日本で研究生活を送った生物学者のリチャード・ゴリス氏(Richard C. Goris、1931-2017)で、この英訳本は、ゴリス氏にとって遺作ということになります。

日米の恩讐の彼方に、学問の花は枯れることなく咲き続ける…
是非これからもそうあり続けて欲しいと願います。

(この項おわり)

『日本産有尾類総説』を読む(4)2024年07月27日 06時35分46秒

本書のいちばんの見どころが、31葉のカラー図版で、これらはすべて本文の後にまとめて綴じられています。

(第2図版。チョウセンサンショウウオ)

「31葉」という言い方は、「31頁」だとしっくりこないからで、実際どうなっているかというと、上のように厚手のアート紙に刷られた図版が向かって右、その対向頁(向かって左)に薄手の紙に刷られた説明文が並んでおり、それが都合31組あるわけです(図版の裏面は白紙になっています)。

これらの図について、凡例ページには、「本書の原色図版は総て画伯吉岡一氏の筆になるものである。十余年にわたって終始一貫、予が各地から活きたまま齎〔もたら〕したものを写生された御厚意御努力に対して深謝の意を表する」と書かれています。吉岡一画伯については未詳。検索すると、1930年生まれの同名の洋画家がすぐにヒットしますが、もちろん別人でしょう。(たぶん地元・広島の画人だと思います。)

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その印刷の精度を見るため、上の図版を拡大してみます。


さらに拡大。


さらに拡大鏡で覗くと網点が見えてきます。


技法としては、現在も広く使われる青(シアン)・赤(マゼンダ)・黄・黒の4色分解で、そこに何か特別な技があるわけではありません。しかし、太平洋戦争の真っ只中、印刷用紙の入手すら困難だった時代に、これだけ上質の紙を揃え、インクが匂い立つような原色図版を刷り上げることが、どれほど大変だったか、そのことに思いをはせる必要があります。

そして、この図版には原色版という以外に、ある贅沢な細工が施されています。


各図版は全体を囲む圧痕が見られるのですが、この図版はおそらく平版ですから、印刷のために圧をかける必要はなく、これは図を引き立てる装飾的なフレームとして、エンボス加工を施したのだと思います。


よく見ると、図版右肩の図版番号も空押しになっていて、ものすごく凝っています。著者と関係者が、いかにこの図版に愛情と熱意を注いだか分かります。

同じく凡例には、「本書は日本出版社社長脇阪要太郎氏の義侠的厚意により茲〔ここ〕にその形を見るに至った。初めて印刷に着手されてから三年目を迎えて漸く世に出るここととなった」ともあります。

ということは、本書の刊行は昭和18年(1943)3月なので、印刷にとりかかったのは、昭和15~6年(1940~41)にかけて、すなわち太平洋戦争が始まる直前です。その後、世相は窮迫の一途をたどりましたから、まさに出版社の「義侠的厚意」がそこにはあったと想像します。

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サンショウウオ類は色彩がおしなべて地味なので、ちょっとカラフルな図として、普通種であるイモリ(アカハラ)の図も掲出しておきます。

(第30図版。イモリおよびシリケンイモリ)

(同拡大)

また変わったところでは、こんな図もあります。

(第13図版。サドサンショウウオの卵塊)

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この連載の1回目で、国会図書館による本書の紹介文を引用しました。
そこに「美しい彩色の図版が豊富に入った本書は、戦況厳しい折の出版とは思われないほどであるが」云々とあった意味が、これでお分かりになると思います。

上記の紹介文は、さらに続けて「序文には、当初欧文で出版の予定であったところ、時局をはばかり邦文での上梓となった経緯が記されている。」と書いていましたが、次回はその「経緯」を見てみます。

(この項、次回完結予定)

『日本産有尾類総説』を読む(3)2024年07月26日 11時10分32秒

前々回も書いたとおり、この本は本文520頁、カラー図版31葉、さらに序・凡例・目次が21頁、巻末の索引が7頁という堂々たる本です。さっき目方を量ったら2.4kgありました。

(カバーを取った本の表情。題字は佐藤の父親、與之助(号・翠園)が揮毫したもの)

(本書奥付)

(著者検印。この小紙片はおそらく佐藤自身が手に触れ、自ら押印したものでしょう。手元の一冊は限定1000部発行のうち717の番号が入っています)

私のような門外漢にとって、本書のハイライトは一連の美麗なカラー図版ということになりますが、もちろん本書の価値はそれにとどまりません。手間のかかる調査と観察から得られた精緻で膨大なデータ、そしてそれを整約した末に見えてくる日本産有尾類の見通しの良い全体像――それこそが研究者にとって得難い宝物だと思います。


それを補強するのが各種の図版で、本書には別刷りのカラー図版以外にも、本文中に149点のモノクロ挿図と87点の表が含まれています。

(オオダイガハラサンショウウオ(大台ケ原山椒魚)の発生図。著者自身による作画)

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本書の目次から細目を割愛し、その章題のみ掲げれば、


 日本産有尾類研究の歴史
 日本産有尾類の分類
 日本産有尾類分類表
 日本産有尾類の生態
 日本有尾類の分布〔ママ。本章のみ‘産’の字なし〕
 日本産有尾類の核型
 日本産有尾類の類縁系統
 文献
 学名索引
 和名索引

…という構成になっており、その記載の徹底ぶりが知れます。

本文末尾近くには「日本産有尾類の核型」という章があって、ここに佐藤の尖端的な志向がよく表れているように思います。佐藤は生物個体の外形的特徴のみならず、その細胞に含まれる染色体構成(染色体の数や形態)を調べる「核形態学」によって、有尾類の進化と類縁関係を明らかにしようとしました。これはゲノム解析によって塩基配列を決定し、それに基づいて生物の種間距離を決定する現代的な手法の前駆的アプローチでしょう。

佐藤がその生を全うし、戦後の分子生物学の発展を目にしたら、そこからさらにどんな成果をつかみ取ったろう…と思わずにおれません。歴史に“if”を持ち込みたくなるのは、こういうときです。

(次回は本書の白眉、カラー図版を見に行きます。この項つづく)

『日本産有尾類総説』を読む(2)2024年07月25日 21時49分57秒

私は『日本産有尾類総説』という本を偶然知ったので、著者・佐藤井岐雄についても、恥ずかしながら何も知りませんでした。そこで『総説』を読む前に、佐藤のことを予備知識として知っておこうと思い、ウィキペディアの該当項目に立ち寄り、その記述を読んだ瞬間、しばし言葉を失いました。

そこには、佐藤が両生類研究の分野で非常に高名な人であり、42歳の若さで亡くなったことが書かれていました。彼はいったん中学校の教師になったあと、再度学問の道に志し、旧制広島文理科大学(現在の広島大学)に入学後、1941年に博士号を取得。『総説』を上梓した1943年には、同大学の助教授に昇進し、戦時下にあっても研究に余念がありませんでした。しかし、その未来は突如断たれてしまいます。以下、ウィキペディアからの引用。

 「佐藤は妻・清子との結婚後、広島市錦町(現在の広島市中区広瀬町)の妻の実家に妻の両親と同居していたが、戦争が激化すると家族を広島県世羅郡広定村(現三次市)に疎開させた。1945年8月には大学の重要書類が疎開先に送り出されるのに立ち会うため、妻とともに錦町の実家に戻り、教授への昇進を2日後に控えた8月6日朝も、大学に向かうため広電十日市町電停(爆心地から約800m)で電車を待っていたため原爆に被爆、全身火傷を負った。その後自宅で被爆した妻とともに、広島市古江(現・西区)にあった同僚の土井忠生教授宅に避難、妻たちによる看護を受けながら5日間苦しんだのち死去した。」

(十日市町電停付近(1946) Wikimedia Commonsより)

その妻も「佐藤が亡くなって間もない1945年8月26日、被爆時の傷が急に悪化して死去」。さらに「佐藤はオオサンショウウオの生態に関する研究を進めていたが、その研究は原爆死により中断した。さらに自筆原稿・標本の多くが焼失したため、オオサンショウウオの生態解明が遅れたといわれる」ともあります。

嗚呼、なんということでしょうか。
この佐藤の最期を知った上で『総説』の序文を読むとき、深い悲しみを覚えます(以下、改段落は引用者。引用にあたって新仮名遣いに改めました。)。


 「もうかれこれ十数年も前のことである。後を見返りながら鎗の大雪渓を下ったのは昼を少し過ぎた頃であったろうか。今しがたまでくっきりと聳えていた鎗の尖峰が濃霧の帷帳〔とばり〕にとざされて、追っかけるように雨霧の流れが雪渓へも匐い降りて来た。物凄い唸りをたてて断崖が崩れ落ちるのは穂高側である。しばしは立ちすくんだが、それから点々とする落石の間を一目散にすべり下りて、鎗沢に着いてはじめてほっと一息ついた――その頃のことが想い出される。

そういう想い出の中から殊にも強く予の網膜に印されていることがある。ちょうど雪渓が渓谷に消えうつろうとする辺りであったが、雪の一塊に渇を医〔いや〕そうと足下に手をおろした時のことである。従容として迫らずというか、いとも泰然と雪の上に佇む一匹の動物を見出したのであった。嵐の中からでも生れ出たようなこの動物が予の出逢った最初の日本の名宝、山椒魚だったのである。」

この涼やかな経験と、原爆の業火との無限の距離感。
平和な世であったならば、佐藤の学問はその後どれほど花開いたことか。
ただただ無惨であり、佐藤その人も無念だったことでしょう。

   ★

『日本産有尾類総説』は佐藤の主著であり、事実上の遺著でもあります。
この畢生の大著が残されたことは、佐藤にとっても我々にとっても、「不幸中の幸い」と言うべきですが、でもその「不幸」はあまりにも大きなものでした。

ともあれ『総説』は、今の時期こそ読むのにふさわしいことが分かりました。
この小文を佐藤博士へのささやかな手向けとします。

佐藤井岐雄(1902-1945)。佐藤の肖像は、X(ツイッター)で「超イケメン」として紹介されているこちらの写真が、おそらくネット上で唯一のものではないでしょうか)

(この項、心して続きます)

『日本産有尾類総説』を読む(1)2024年07月23日 17時46分20秒

学校が夏休みに入りました。今や長期の夏休みとは無縁ですが、それでもこの時期は電車も空いているし、通勤の道々、蝉時雨を聞きながら歩いていると、やっぱり夏休み気分を感じます。

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季節柄、水に関係のある話題です。

以前、戦時下の日本の出版事情を調べていて、平成17年に国会図書館で行われた「第135回 常設展示<戦時下の出版>」の解説パンフレットを目にしました。

そこに書かれた往時の出版事情は、もちろんそれ自体興味深かったですが、そこに挙がっている書物の中で『日本産有尾類総説』というのが、ぱっと目に飛び込んできました(「有尾類」とは両生類の下位区分で、イモリやサンショウウオの仲間をいいます。もう一群がカエルの仲間である「無尾類」)。

15. 『日本産有尾類総説』
佐藤井岐雄著 日本出版社 昭和18年3月 <487.8-Sa85ウ>
 日本出版会第 1 回表彰図書(昭和 19 年 4 月発表)。美しい彩色の図版が豊富に入った本書は、戦況厳しい折の出版とは思われないほどであるが、序文には、当初欧文で出版の予定であったところ、時局をはばかり邦文での上梓となった経緯が記されている。」 (上掲資料p.8)

文中の「日本出版会」とは、昭和 18 年に設立された特殊法人で、要は出版統制のための国策団体です。出版企画の事前審査や印刷用紙の割当査定を行い、その背後では内閣情報局が目を光らせていました。…というと、非常にまがまがしい印象を受けますが、同会の推薦図書は、「必ずしも軍や政府の御用向の図書のみが候補にのぼるということはなかった」ともパンフレットには書かれているので、まあ一定の許容度はあったのでしょう。

とはいえ暗く重苦しい時代であったことは間違いなく、そんな時代に有尾類についての充実したモノグラフが出版され、国もそれを是としたということ、そしてその本が「美しい彩色の図版が豊富に入った」「戦況厳しい折の出版とは思われないほど」のものであったというのですから、これは強い興味をそそられます。さらに「時局をはばかり邦文での上梓となった経緯」とは、どんなものであったのか…?

さっそく調べてみると、この本は昭和18年(1943)に出たオリジナルと、昭和52年(1977)に第一書房から出た復刻版があって、いずれも古書市場に流通していることが分かりました。ただ、オリジナルはもちろん、復刻版もずいぶん高価な本で、普通だったらあきらめるところですが、運良く手の届く範囲に1冊の出物を見つけました。しかもオリジナルです。こうなると辛抱することは難しく、また辛抱する理由もないので、早速注文することにしました。

(古書店がパラフィン紙のカバーをかけてくれました)

(B5判、本文520頁+カラー図版31葉+索引7頁の堂々たる本です)

(次回その中身を見にいきます。この項つづく)

気象学の夜明け2024年02月17日 16時26分15秒

(昨日のつづき)

明治16年(1883)の天気図は残念ながらありませんが、その翌年に作られた天気図なら手元にあります。


■明治十七年気象略報/月別平均/四十一図
 日本東京/内務省地理局気象台

正確に言うと、これはいわゆる天気図(=ある特定時点における気圧・天候・風速のチャート図)ではなくて、明治17年の気象データを、主に1月から12月までの月別に、41枚の図を使って表現したものです。本書には奥付ページがないので、詳しい書誌は不明ですが、出版されたのは翌・明治18年(1885年)のことでしょう。

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具体的にどんな図が載っているかというと、たとえば第1図はこんな感じです。



表題は「天気図/明治十七年一月中低気圧部位ノ中心線路」
これは1884年1月中に観測された低気圧の中心部がどのように移動したか、その経路を図示したものです。

(日本の気象観測はドイツ人学者の手引きで始まったそうですが、本書はすべて英語併記になっています)

右側の説明を読むと、この月には計8個の低気圧が日本列島を移動しています。
その最初のものが、「四日九州ノ西ニ発生シテ日本南部ヲ経過シ五日ニ太平洋ニテ消失ス 晴雨計最低度七百六十五ミリメートル」というもので、ローマ数字の「Ⅰ」とナンバリングされています。(なお、当時の気圧の単位は「水銀柱ミリメートル(mmHg)」で、これに1.333を掛けると現在の「ヘクトパスカル(hPa)」になります。すなわち765mmHg=1019hPaです。) 

こうしてⅠ~Ⅷの符号がついた低気圧の経路を、日本地図に重ねたものが左側の図です。

(左側の図を一部拡大)

小円の中の数字は気圧(mmHg)で、その脇の数字は日付、さらにその下の「1~3」の数字は、それぞれ6時、14時、22時に観測された値であることを示します。

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この調子で、本書には以下の計41図が収録されています。

(1)「天気図/明治十七年○月中低気圧部位ノ中心線路」

明治17年の各月の低気圧中心の移動経路図です。1月、2月、3月…の計12図。
上に示したのが、その1月の図でしたが、9月の図はこんな感じです。


九州から関東を通過した低気圧「Ⅲ」は、最低気圧737mmHg(982hPa)を記録しており、速度を上げながら本州を横切る様子からも、明らかに台風ですね。

(2)「天気図/明治十七年○月中高気圧部位ノ中心線路」

同じく高気圧中心の移動経路図で、1月、2月、3月…の計12図。

(3)「天気図/明治十七年○月」

凡例には「同圧線、同温線、及ヒ例風」とあって、今風にいえば各月の平均等圧線、平均等温線、各地の卓越風の風向を1枚の図に落とし込んだものです。1月、2月、3月…の計12図。

(5月の図。実線が等圧線、破線が等温線です)

なお、平均気圧を求めるため、各測候所では1日3回、6時と14時と21時(5月以前は22時)に計測を行い、それを1か月分積み上げて平均を出しています。また各地のデータを相互に比較可能とするため、実測値をウイルド(Wild)氏の表をもとに気温0度・海抜0mの値に変換しています。

(4)「天気図/明治十七年同圧線及同温線」

上記(3)のデータを1年分積み上げた年間の平均等圧線・等温線図です。全1図。なお本図には卓越風の記載がありません。風向は季節によってガラッと変わるので、平均する意味がないからでしょう。

(5)「明治十七年/雨量」

各月の総雨量の分布図です。1枚の図版に月別の小図が4点印刷されているので、図版数としては「1~4月」、「5~8月」、「9~12月」の計3図から成ります。

(「5~8月」の図)

(6)「天気図/明治十七年雨量」

こちらは(5)のデータを積み上げた年間総雨量の分布図です。全1図。


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この労作を生み出したのが、外地も含めて26か所に開設された以下の測候所群です。


日本の気象学と気象観測の黎明期。
俗に「雲をつかむような話」と言いますが、当時の人がどれほど真剣に雲をつかもうとしていたか。実際、そこに渦巻くエネルギーは大変なものだったはずで、そのことが今の私にはとてもまぶしく感じられます。

雑草のくらし2023年12月17日 15時00分03秒

先日、新聞紙上でその訃が報じられた甲斐信枝氏(1930-2023)
その代表作が『雑草のくらし―あき地の五年間―』(福音館、1985)です。


京都・比叡山のふもとの小さな空き地に、著者は5年間通い詰め、その観察とスケッチをもとに本書は作られました。甲斐氏の訃報を聞いて、すぐにこの本を再読したかったのですが、部屋の奥の奥にあったため、探すのに手間取りました。改めてページを開き、これはすごい本だと思いました。


1年目の春、むき出しの土から次々と顔を出し、勢いよく広がっていくのはメヒシバです。そして夏ともなれば、エノコログサとともに無数の種が地面にこぼれ落ちます。

2年目の春、メヒシバやエノコログサがいっせいに芽ぶくかたわらで、ナズナノゲシヒメジョオンなどがぐんぐん大きくなり、日光を奪われたメヒシバやエノコログサは死に絶えていきます。

しかし、それらをしのいで巨大化し、空き地を覆い尽くした植物があります。
その名のごとく、荒れ地に侵入して繁茂するオオアレチノギクです。


2年目の冬、空き地はオオアレチノギクに覆われ、それを見下ろすように、さらに巨大なセイタカアワダチソウがそびえています。

3年目。今度はカラスノエンドウが先住者に蔓をまきつけて伸び上がり、さしものオオアレチノギクも、日光を奪われてほとんど姿を消してしまいました。


夏にはさらに大物がやってきます。蔓を伸ばし、すべての草の上に覆いかぶさるクズヤブガラシです。そして、つる草の攻撃にも負けず、さらに繁茂するセイタカアワダチソウ。


4年目の春。種子で増える一年草に代わって、冬も根っこで生き続けるスイバが勢力を広げます。

「やがて、地下茎をもつ草同士の、いっそうはげしいたたかいがはじまる。
大きな葉っぱをひろげて、波のようにおおいかぶさってくるクズ。
長いまきひげでまきつき、つながりあってすすむヤブガラシ。
一年一年根っこをふとらせ、がんばっていたスイバも。
じょうずに生きのこっていたヒメジョオンも、
つぎつぎと葉っぱの波にのみこまれていく。
その波をつきぬけて、セイタカアワダチソウはぐんぐんのびていく。」


「思い出してごらん、あのさいしょの春の畑あとを。
草たちは栄え、そしてほろび、
いのちの短い草はいのちの長い草にすみかをゆずって。
いまはもう、ぼうぼうとした草むらとなった。」


そして、5年目の春。草むらの草は取り払われ、ふたたび空き地となりました。
そこに最初に芽吹いたのは、あのメヒシバやエノコログサたちです。

「短いいのちを終わり、消えていったメヒシバやエノコログサは、
種子のまま土の中で生きつづけ、自分たちの出番がくる日を、
じっと待っていたのだ。」

「命のドラマ」というと月並みな感じもしますが、身近な空き地でも、我々が日ごろ意識しないだけで、激しい命のドラマが常に展開しているのです。植物は無言ですが、耳をすますと、なんだか法螺貝や鬨の声が聞こえてくるようです。

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この本は純粋な科学絵本ですから、そこに教訓めいたものを求める必要は一切ありません。しかしこれを再読して、思わず昨今の政治状況を連想したのも事実で、私も甲斐氏のひそみにならい、政治の主役たちの変遷をじっくり観察しようと思います。

ただ、甲斐氏は植物のドラマをいわば「神の視点」で捉えましたが、自らが暮らす国の行く末については、そんなわけにはいきません。我々は否応なくそのドラマに参加しているプレーヤーであり、そこに影響を与え、かつ影響を受ける存在だからです。いうなれば、草の上で暮らす虫や土中の生き物が、ホームグラウンドである空き地の五年間をじっと見守っている――私の立ち位置はそんな感じだと思います。

理科室の夏2023年07月21日 05時42分53秒

地元の小中学校は、今日から夏休みです。

通勤電車がちょっぴり空くというのもあるし、それ以上に「夏休みの空気」というのがあって、夏休みの期間中は、こちらも自ずとのんびりした気分になります(小さなお子さんがいるご家庭では、また違った思いもおありでしょうが…)。

   ★

がんどうかずらの大きな実から翼をつけた種子が飛び出
して滑空する。ハンブルグのフリードリヒ・アールボル
ンによるその発見が契機となって単葉機タウペ(=鳩)が
作られた。ぼくがタウペの絵をみたのは、リリエンター
ルのようにグライダーにのって空を飛びたいと真剣に考
えていたときだった。図書館で調べた図版をもとに竹や
布で作る計画を立ていた。鐘楼の石垣から蝙蝠傘をもっ
て飛び降りようという級友の誘いを、「もっと大きな傘
がいる」と断り、実行した二人がともに捻挫と打撲を負
ったことで、無傷のぼくは臆病者にされていたので、グ
ライダーによる滑空は実行しなければならなかった。


これは稲垣足穂や長野まゆみさんからの引用ではありません。

(編集工房ノア、2000)

『幻想思考理科室』森哲弥氏(1943-)の詩集で、2001年のH氏賞受賞作です。
収録詩数はぜんぶで30篇。上に引用したのは、そのうちの「3 種子飛翔」の冒頭部です(改行は原著のまま)。

(「19 糸」)

理科室とか理科趣味をテーマにした詩というと、何となくとがった言葉をゴツゴツ並べた、ムード先行のものが多いイメージを勝手に抱いていました。まあ、これは詩人の咎というよりも、私の頭が詩文に適さず、散文向けにできているせいもあるでしょう。ですから、名作とされる賢治の詩作品だって、私には正直よくわからないものが多いです。

それに引き換え、本書に収められた作品はいずれも「散文詩」に分類されるもので。詩というよりはエッセイに近い味わいを持つものばかりです。そのせいかスッと肚におちる感じがありました。


ぼくは、自転車を見てふと考えるのだ。乗り物の発明史
の中で、自転車の発明は出色ではないかと。
自転車は作用機構だけで出来た乗り物である。車輪、ク
ランク、歯車、梃子など初歩的な力学の原理によってそ
れは成り立っている。乗り物は作用機構だけでは動かぬ。
機関が必要だ。自転車には架空の機関が厳然と想定され
てもいるのだ。この機関は立派な内燃機関である。酸素
と水と有機物とそして微量の無機物の化学合成で生ずる
エネルギーによってその機関は発動する。
(「9 力学有情」より)


この詩集を読んでいる私は、もちろんいい歳をした大人です。でも、この詩集を読んでいると、何だか自分が少年の頃に戻って、すぐれた理科趣味を持つ叔父さんから、世界の理(ことわり)を説いて聞かされているような気分になります。その言葉は怜悧というよりも、温かさを感じさせるもので、同時にとても佳い香りのするものです。

   ★

夏休みといえば理科室…というのは、私の個人的な思い込みに過ぎませんが、入道雲と人気のない理科室には、どこか通い合う情緒があるような気がします。


虫さまざま…江戸から明治へ2023年04月15日 11時42分06秒

日本画家による、日本画の絵手本としての昆虫図譜。
一昨日の森本東閣作『虫類画譜』が、まさにそうでした。もちろんそうした本も美しく魅力的であることは間違いないのですが、今一度このブログの趣旨に立ち返って、本来の博物画の文脈に沿った作品も見てみます。


『百虫画』、一名「蠕蠕集(ぜんぜんしゅう)」。

作者は、山本渓愚(やまもとけいぐ、1827-1903)
渓愚の父は京都の本草学者、山本亡羊(やまもとぼうよう、1778-1859)で、亡羊は小野蘭山に学び、シーボルトとも交流があったといいますから、その時代の雰囲気が知れます。

渓愚も父親の跡を継いで、本草学を修めました。年号でいえば、生まれたのが文政10年、亡くなったのが明治36年ですから、ほぼ江戸と明治を半々に生きた人です。明治になると新政府に仕え、明治5年(1872)には博覧会事務局に入り、明治8年(1875)には京都博物館御用掛となって…云々とウィキペディアには書かれていますが、要は江戸から明治へ、そして本草学から博物学へという過度期を生きた人です。

そうした人の手になる虫類図譜が、この明治39年(1906)に出た『百虫図』です(発行者は京都下京区の山田茂助)。刊行されたのは渓愚の没後になりますが、その辺の事情は後記に記されています(筆者は博物学者の田中芳男(1838-1916))。

(冒頭の「虫豸(ちゅうち)」は、虫類一般を指す語)

そこには、「渓愚は幼時より博物学を修め、画技を学び、動植物の写生に努め、その数は数千点に及んだ。本書はその一部を竹川友廣(日本画家)が模写したもので、絵画を志す人にとって大いに有益であろう」…という趣旨のことが書かれています。これを読むと、本書はやっぱり絵手本的な使われ方を想定していたようで、制作側の思いはともかく、受容層のニーズとしては、当時、そうした本が強く求められたことが分かります。

   ★

本書の中身を見てみます。


ご覧のとおり先日の「花虫画」とはまったく違った画面構成です。そこに植物が描き込まれている場合も、単なる景物ではなしに、その昆虫の生活史と不可分のものとして描かれています。

(クツワムシ)

(イラガの幼虫。その上に描かれた、木の枝に付着した小さな楕円体が繭。通称「雀の担桶(スズメノタゴ)」)

虫たちの描写も真に迫っていて、博物画の名に恥じません。


カミキリムシも、ちゃんとシロスジカミキリと同定できます(一昨日の森本東閣のカミキリムシは、いささか正体不明でした)。



巻末にはラテン語の学名まで載せていますが、トカゲも蛇もミミズもすべて「百虫」のうちに数えているあたりが、博物学指向といいながら、いかにも江戸時代の<虫類観>で、ちょっと不思議な感じがします(他のページには、蛙もカタツムリも、さらに冬虫夏草まで載っています)。


本の構成も、近代の生物学的分類とは無縁の配列で、この辺も江戸時代の本草書そのままですが、まあすべては過渡期の産物であり、その過渡期らしさこそが、本書の魅力なのでしょう。


余談ですが、本書の装丁は一昨日の芸艸堂の本と比べて素っ気ないですが、よく見ると一般的な「四つ目綴じ」ではなくて、「康熙綴じ(+唐本綴じ)」になっていて、この辺がさりげなく凝っています。