神戸、悲運の巨人望遠鏡(5)2010年02月26日 20時46分14秒

(↑戦災後の神戸海洋気象台。『ふたたび太陽を追って』より)

今、あらためて検索したら、クック望遠鏡については前記『ふたたび太陽を追って』をダイジェストする形で、以下のようなページがすでにありました(管理されている方のお名前が分かりませんが、個人サイトです)。

○神戸の“たいよう”ものがたり
 http://homepage2.nifty.com/kobeport/monogatari/taiyo.html

写真も豊富ですので、クック望遠鏡の歴史については、上のページも併せてご覧ください。

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以下、ざっとあらましだけ書いておきます。

この望遠鏡は、戦後の一時期、大気乱流を研究する目的で、主に星のシンチレーション(またたき)を観測するのに使われましたが、それ以外はドームの中で完全に「お蔵入り」の状態でした。

これに胸を痛めた、地元の東亜天文学会関係者等の熱心な働きかけもあり、結局、望遠鏡は昭和42年(1967)、神戸市に移譲されることになりました。そのときの委譲価格は、戦前の値札のままの5万円(お買い得!)。

『ふたたび…』には、それに先だって現況調査に当たった、京都の西村製作所社長・西村繁次郎氏の私信が収められています。

「二十五センチ屈折望遠鏡・日本でも有数の望遠鏡が全く荒れて
いるので驚いた。余りにも、使用並びに手入れがされていない。
器械は使用しておれば、ともかく良好な状態なものであるが、
使用されずにあると、見る見るうちに、ほこりやサビや油切れなど
によって不調の原因となる。全く惜しい。」

昭和42年の時点で、望遠鏡はすでに10年以上使用されていなかったので、むべなるかな、です。

受け入れた神戸市側には、当然これを活用して市民天文台を作る計画があったのですが、設置費用と場所の問題で予想外に難渋し、望遠鏡はまたまたお蔵入りとなり、市内の体育館倉庫で箱詰め状態のまま、延々と16年間(嗚呼!)眠り続けることになります。

その後、ポートピアの跡地利用計画の中で、現在地である青少年科学館への設置が決まったのは、昭和56年(1981)のことでした。

昭和58年からは、西村製作所がかかりきりでレストアし、翌年、ポートアイランドの新しいドーム内に据え付け。こうして、クック望遠鏡はようやく安住の地を得ました。考えてみると、ポートアイランドに来るまでの60年間の歴史の中で、この望遠鏡が多少なりとも観測に使われたのは、せいぜい20年間ぐらいですから、いかに不遇の時代が長かったか分かります。

ポートアイランドに来てからは、既に25年経ちますので、望遠鏡にとっては、もはや今の場所がふるさとと感じられるのではないでしょうか。

今後も、この老いたる巨人が永く健やかならんことを…。

神戸、悲運の巨人望遠鏡(4)2010年02月25日 19時35分38秒


この文章を書く参考にしているのは、前にも書いたように、神戸市教育委員会が編纂した『ふたたび太陽を追って―よみがえった25cm屈折望遠鏡』という本です。この本は四半世紀前の昭和59年に出ているのですが、当時、すでにこの望遠鏡購入のいきさつは霧の中でした。

そもそも購入費用5万円(今の金で1~2億円)が、国庫から出たのか、それとも建物と同じく海運業者の寄付金で賄ったのか、それすら不明で、たぶん今でも不明のままでしょう。

ただ、25年前には、まだ関口博士と同時期に気象台に在籍した技師の方が存命で、その方の証言が本に載っています。以下は、当時84歳の一木茂氏の話。

「天文台に置くのならいざ知らず、望遠鏡は海洋気象台の業務とは、
あまり関係ない…」
「そのころも天体観測は天文台がやるもの、気象台は気象観測をや
るところ、というふうに考えられていた。だから一般的には気象台
と天体観測、ひいては望遠鏡とは関係ないじゃないかとされていた。」

関係者が断言するのですから、おそらくその通りなのでしょう。
「しかし」と、一木氏は続けます。

「しかし、気象研究のためには、太陽の気象に及ぼす影響を調査、
研究するためには太陽観測が必要だったわけだ。それを岡田武松
や関口鯉吉は先駆的に実践した。そうした先達の行動力、実行力
は高く評価されるべきだと思う。」

この「行動力、実行力」というのが、前の記事で書いた「エイヤッ」の部分ですね。

当時の『海洋気象台要覧』には、同気象台の事業項目が解説されていて、「天気図及ビ磁力偏角図ノ発行」とか「海流、潮流、ソノ他海洋ニ於ケル物理的諸現象ノ観測及ビ調査」などと並んで、「海洋気象及ビ地球磁力ノ観測及ビ調査 並ニ之カ為必要ナル天体現象ノ観測」というのが、確かに挙がってはいます。

で、その「天体観測」の中身はというと、「クロノメートル、時計等ノ検定」のための時刻測定が「当台ノ主ナル仕事」であって、その後に「更ニ五吋及び十吋赤道儀式望遠鏡ニ依リ 其他ノ観測ヲモ開始スル計画デアリマス」と申し訳のように書かれています。

要するに、関口が中心となって進めた太陽研究は、海洋気象台の本務からすれば、副次的業務の中の、さらに「その他」扱いの仕事だったわけで、「エイヤッ」でなければ、とてもできなかったろうという気はします。

   ★

関口は、この望遠鏡を使って「気温に及ぼす太陽活動の直接作用の検出」、「太陽大気の気象学」、「太陽黒点、白斑、緬羊斑の運動について」などの論文を次々に発表した後、昭和2年(1927)に、早々と中央気象台に転出してしまいます(更に昭和11年、1936年に東京天文台長就任)。

こうして、望遠鏡運用の中心的存在だった関口がいなくなったことで、この大望遠鏡は、徐々に「日陰者」と化していきました。

「昭和9年までは、一木茂が毎日のように太陽黒点の観測を続け
ていた。その後、数人が担当して管理に当たっていたものの、
一方で気象業務としては天文観測の占める比重が徐々に小さく
なっていった。学問研究の流れの移り変わりもあり、戦時下に
入るに従って研究スタッフも次第にいなくなっていった。こうして
この二十五センチ望遠鏡も使用されなくなっていくのである。」

太平洋戦争に突入し、神戸海洋気象台は白亜の本館を焼失。
ドームも焼夷弾の被害で歪み、全く稼働不能の状態となり、望遠鏡は終戦を迎えました。

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クック望遠鏡の戦後の歩みを略述するため、次回、もう1回記事にします。

ところで、先年出た、『日本の天文学の百年』(日本天文学会百年史編纂委員会・編、恒星社厚生閣)という本がありますが、ページを繰っても、海洋気象台のことも、クック望遠鏡のことも、見事に何も出てきません。かつては日本一の大望遠鏡だったというのに―。
そぞろうら寂しさを感じます。

神戸、悲運の巨人望遠鏡(3)2010年02月21日 20時01分55秒

神戸の25センチ・クック望遠鏡。

(神戸市立青少年科学館のリーフレットより。「たいよう」は望遠鏡の愛称)

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神戸に海洋気象台が置かれたのは、大正9年(1920)のことでした。
海洋気象台は、その名の通り、船舶の航行の安全のために海洋気象情報を提供するのが主任務です。で、本来これは官の事業なのですが、その設備費を国は支出することができず、設置費用はすべて地元の海運業者が賄ったのだそうです。何とも太っ腹な話です。

当時の金で21万円、現在の金にすれば数億~10億円の巨費を投入した本館は、まさに城館建築のような威容を誇りました。白黒写真ではよく分かりませんが、建物は純白のレンガを積み、その上の大屋根は赤という、実に華やかな欧州風のたたずまいでした。国の金ではない、いわば「おらが気象台」ですから、その辺は地元の意向が十分に反映されたのでしょう。これは神戸に是非残って欲しかった。

(旧海洋気象台本館。神戸市教育委員会編『ふたたび太陽を追って―よみがえった25cm屈折望遠鏡』より)

その本館の脇に、立派なドームを備えた別館(無線室棟)ができたのは、大正13年(1924)のことでした。これまた堂々たる建築です。

(旧海洋気象台無線室棟。上掲書より)

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さて、ここで疑問に思われないでしょうか。
なぜ、海洋気象台に天体観測施設があるのか?と。
それが、ここでいう「悲運」の悲運たるゆえんです。
有体にいって、この巨人望遠鏡は海洋気象情報とはあまり関係がないのです。

この気象台の設立事情が上のようなものでしたから、国のしばりが弱く、関係者の「行け行けドンドン」的な発想でエイヤッと作ってしまった…上記『ふたたび太陽を追って』の説明からは、どうもそんな風に読みとれます。

当時の台長は、その後も長く気象界のトップに君臨した岡田武松(1874-1956)。その下で望遠鏡の設置と観測実務を担った技師は、後に東京天文台長に転身した関口鯉吉(1886-1951)で、巨大望遠鏡の設置は、主に彼らの意向を反映したものでした。

関口は東京帝大の星学科の出で、在学中から太陽物理学を専攻し、その後英国に留学して研究を続けています。その延長線上に海洋気象台の仕事があるので、「太陽活動と気象変動には密接な関連がある。だから、気象台でも太陽を観測する必要があるのだ!」という理屈は、嘘ではないにしても、100%混じり気のないものだったとは思えません。

関口が中央気象台に転出すると(昭和2年)、数年を経ずして、望遠鏡の運用がストップしてしまったのは、この望遠鏡と一研究者との密接な関わり(言わば属人的性格)を物語るものでしょう。

そして、これは単なる憶測ですが、岡田も関口も東大閥の人だったために、京大と連携がうまくいかなかったことが、この望遠鏡の運用がうまく後に引き継がれなった理由ではないか…とも思います。

(この項つづく)

神戸、悲運の巨人望遠鏡(2)2010年02月20日 19時59分56秒

今週はわりあい忙しくて、ゆっくり記事が書けませんでした。
週末になって、ようやく少し自由が戻ってきました。

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さて、神戸の科学館訪問の話のつづき。
前日の晴天と打って変わり、2日目は朝から冷たい雨でした。

(雨にけむる神戸の町。ポートライナーの車窓から。)

三宮からポートライナーに乗り、「南公園駅」で下りれば、科学館はすぐ目の前です。
小学生の一団にまじって、10時頃に科学館着。

問題のクック製望遠鏡は、5階の天体観測室にあります。
とりあえず観測室の前まで行きましたが、(当然)ドアは施錠されていて、中をうかがい知ることはできません。説明板によると、「太陽黒点とプロミネンスの観察は1日2回。①11:40~12:00、②13:30~13:50」云々とあって、しかも「雨天・曇天時は中止」と書かれています。何だか悪い予感がしました。受付に戻り確認すると、やっぱり今日の観測会は中止だそうです。

残念。でも、どうしてもあきらめきれなかったので、ダメで元々と思い、天文史の愛好家(怪しい…)であることをアピールしつつ望遠鏡を見学できないかお願いしてみたら、すんなりOKが出ました。良かった。お忙しい中ご案内いただいた学芸員のK氏に深く感謝いたします。


薄暗いドームの中だと、液晶ファインダーをのぞいても被写体が確認できず、適当に構えてパシャパシャフラッシュをたいたので、写真がうまく撮れませんでした。
鏡筒や架台は、移設に際して淡いグリーンに再塗装されています。
元はたぶん上野のトロートン望遠鏡のような感じじゃなかったかと思います。

中太の葉巻型のシルエットもちょうどトロートン望遠鏡のような感じで、古風なたたずまいです。素材の関係で、剛性を確保するために、こういう形状になったのかもしれません。

(↑架台)

上の写真の左端に見える目盛り環。クックの社名が彫り込まれています。


↑今は取り外されているブラッシャー製運転時計。
この望遠鏡をレストアしたのは西村製作所で、そのときに追尾装置はモータードライブに改められています。ただし、天体の導入は今でも手動で行うとのこと。

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いよいよ、記事のタイトルにもあるように、この望遠鏡が「悲運の巨人」たる所以を書かねばなりませんが、紙幅が尽きたので、それはまた明日。

(この項つづく)

神戸、悲運の巨人望遠鏡(1)2010年02月17日 19時34分18秒

さて、神戸旅行の2日目です。
初日の記録を書くのに、だいぶ時間がかかってしまいましたが、2日目は(たぶん)もっとあっさりです。というのは、初日に急坂を歩いたせいで、腰が痛くて2日目はあまり歩けなかったからです。

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2日目は、まずポートアイランドに神戸市立青少年科学館を訪ねました。
同館は、1981年の「ポートピア博」に出展された<神戸館>と<プラネタリウムシアター>を統合して、翌82年にオープンした施設。

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長野まゆみさんの『天体議会』にもプラネタリウムが登場します。
同書では「天象儀館」と書いて「プラネタリウム」と読ませています。
(このことは以前、東日天文館について書いた記事で引用しました。)
http://mononoke.asablo.jp/blog/2006/03/05/277997

でも、現実の神戸のプラネタリウムは、あまり「天象儀館」っぽくない外観ですね。いかにも公共科学館然とした、モダンなシルエット。

まあ、ポートピア自体が<未来>志向のプロジェクトで、ガンダムやイデオンの洗礼を受けた当時の少年たちにとって、なんとなくSFチックなカッコよさの感じられる場所でした(>個人的回想)。

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しかし、ここには古風な天象儀にも匹敵する<或る物>があります。
神戸滞在中にガラクマさんからコメント欄を通じて教えていただいた、驚きの物体。

それは英国クック社製の25センチ屈折望遠鏡という、とんでもない逸物です。
この機材は、大正12(1923)年に、これまでたびたび登場した神戸海洋気象台に設置され、往時は主に太陽観測に使用されました。

その頃、国内にあった大型望遠鏡の東西両横綱といえば、東京天文台の20センチ屈折と、京都花山天文台の18センチ屈折でしたから、神戸に登場したこの望遠鏡は、それらをはるかに超える日本最大の望遠鏡であったわけです。

(この項つづく)

戦前の少年向け天体望遠鏡事情(4)…手作り望遠鏡で宇宙を翔ける2010年01月24日 20時02分05秒

(「第四回製作展覧会に天球儀を出品して一等入選した新宅徳次郎君と同君自作の望遠鏡」。子供の科学、昭和9年9月号より)

先日、コメント欄でS.Uさんに教えていただいたページ。
皆さんご覧になったかもしれませんが、感動をおすそ分けするために、記事にも書いておきます。

以下は、日本を代表するコメットハンターの本田実氏(1913-1990)の思い出の記です。

■本田実:星へものを尋ねて(わが感情天文学)
 http://www8.plala.or.jp/seijin/ikoh/ikoh.html

本田氏は1913(大正2)年の生まれですから、先にお名前を出した森久保氏とちょうど同い年。初めて望遠鏡を手に入れたのも、同じく17歳の頃です。しかし、この2人の天文家の経験はずいぶんと違います。

神奈川県厚木で、比較的裕福な家に育ったとおぼしい森久保氏に対して、中国山地の小村で成育した本田氏。時代が昭和になっても、本田氏にとって、望遠鏡ははるかな憧れでした。

上のページからもリンクされていますが、氏が最初に望遠鏡用レンズを買ったときの思い出は、以下に詳しく綴られています。

■丸いものは望遠鏡に見え
 http://www8.plala.or.jp/seijin/ikoh/inaka.html

望遠鏡のカタログを取り寄せて、暗記するほど眺め、「雨樋、電柱、丸太など細長い円筒形のものは全部望遠鏡に見え」たという本田少年。「ついにはレンズも何もない竹の筒を空に向け、望遠鏡はこうして筒先を星や太陽に向けるのであろうと思ったりした」というところを読むと、微笑ましいような、何となく涙ぐましいような気になります。

意を決した本田少年は、乏しい小遣いを貯め、ついに5円の望遠鏡自作用レンズの購入に踏み切ります。桐の丸太や、ブリキ板などあり合わせの材料で、1ヵ月かけてやっと作った望遠鏡。初めて眺める月の光景。この辺の記述は、胸にぐっと迫ります。

話が既製品に偏りましたが、当時は自作望遠鏡こそ天文趣味の王道だったかもしれません。再三取り上げた「子供の科学」昭和9年9月号にも、当然のごとく「澄みわたる秋空への準備/天体望遠鏡の作り方と地上望遠鏡の作り方」という記事が、図解入りで詳しく載っています。

本田氏が購入したのは、28ミリのシングル対物レンズと、20ミリのラムスデン式接眼レンズでしたが、「子科」の広告を見ると、確かに同サイズのレンズセットが売られていて、本田氏が買ったのもこれかな?と思います(※)。以下、広告の文面。

「本号所載の作り方記事通り上記のレンズを組合せると
倍率四〇倍、市価十数円に該当する有力な天体望遠鏡が
だれにも作れます。

観測範囲は下の通りでなかなか広範に亘り興味津々たる
ものがあります。

▲月の噴火口、山脈、光条
▲太陽黒点(サングラスを要す)
▲土星の環の存在
▲金星の半月状
▲木星の四ケの衛生
▲変光星
▲星団、星雲の代表的なものその外各星座の恒星数万個」

「恒星数万個」という言葉が力強く響きます。いっぽう、「土星の環の‘存在’」というのがやや弱気。でも、上の観望項目は『星界の報告』を彷彿とさせ、これはある意味ガリレオ追体験と言えるかもしれません。


(※)「子科」の広告では、この対物・接眼レンズのセットは2円となっていて、本田氏のいう金額と一致しません。氏の単純な記憶ちがい?それとも氏が買ったのは別の品でしょうか。2円でも今のお金で6~7千円ぐらいなので、安くはないですね。

戦前の少年向け天体望遠鏡事情(3)2010年01月21日 20時58分50秒

(↑これまた「子科」昭和9年9月号広告より。「完全なる天体観測には二吋屈折が絶対必要!」)


さて、あえて反射望遠鏡からスタートした天文少年の1人こそ、先に引用した森久保氏ご本人に他なりません。

森久保茂氏(1913-2004)はアマチュア天文界の大立者で、本業は医師。流星塵の研究で有名です。私は直接お会いしたことがないのですが、かつて日本ハーシェル協会の会員でもありました。

氏は前掲の文章の中で、「昭和初年のある経験」という自らの思い出を綴っています(pp.21-23)。

昭和6年(1931)といえば、氏はすでに旧制中学校の5年生ですが、当時の課程では、中学5年でやっと<地理通論>という科目の一部として<天文>を習ったそうで、しかも、その中身たるや、「主として太陽系と地球との関係を記載するに止まり星や宇宙全般については触れていな」かったというのは、ちょっと意外な話です。

さらに、「図書室には天文の本は無く〔…〕筆者はその頃「子供の科学」を愛読していたが、先生にも友人にも天文の好きな人は一人もいなかった」という状況。

当時の「子科」を懐古的に見て、理科少年の黄金時代のように見なすのは、ちょっと留保が必要かもしれません(少なくとも、天文少年はあまりポピュラーではなかったかも)。そんな中、森久保氏は天文道に精進し、翌年ついに天体望遠鏡を手に入れます。

「1932年誠文堂代理部より7cm反射経緯台(ニュートン式)を購入した。その値段は47円。また1934年同じく誠文堂より3.5cm屈折経緯台を購入、価格22円。これはまもなく対物鏡を5cmに改めた。そして1933年に日本天文学会に、1934年に東亜天文協会に入会した。」

こうして押しも押されもせぬ天文マニアが1人誕生したわけです。

ところで驚いたのは、氏が最初に購入した7cm反射望遠鏡の現物が、ネット上で紹介されていたことでした。

○星空寄り道散歩道:レトロ望遠鏡(by ほくと(やぬし)さん)
 http://m-hokuto.at.webry.info/200811/article_8.html

さらに以下の記事では、森久保氏自筆の箱書きも紹介されています。

○天体望遠鏡自作掲示板 http://425.teacup.com/tomoda/bbs/913

真っ白な鏡筒とピラーは、氏の没後に塗り替えられたもののようで、個人的には存分に古色が出ていた方が良かったのですが、これもまた氏を追慕する後人の気持ちの表れでしょう。この画像と、一昨日の広告に写っていた5cm反射望遠鏡を併せて見ると、戦前に流通していた反射望遠鏡の表情がよく分かります。

戦前の少年向け天体望遠鏡事情(2)2010年01月19日 22時09分30秒


この話題は、たぶんものすごくお詳しい方もいると思います。
ですから、私が半可通を決め込んでもしょうがないのですが、天文趣味史の肝の部分であることは間違いないので、主として(正・続)『日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)の記述によって、ごく簡単にアマチュア用天体望遠鏡史をおさらいしておきます。(参照したのは、主に正編の森久保茂氏「総説」(pp.1-33)と、続編の冨田弘一郎氏「望遠鏡と観測機械」(pp.273-313)です。)

森久保によれば、「明治大正の頃はアマチュア向けの望遠鏡は国内ではほとんど生産されず、輸入品で高価であったため普及しなかった」(上掲書10ページ)ということですから、今日的な意味でアマチュア向けの望遠鏡市場が成立したのは、昭和初年以降でしょう。

日本光学が大正6年(1917)に設立され、そこから五藤光学が派生したのが、まさに大正15年、すなわち昭和元年(1926)のことでした。
「最初は1吋(2.5cm)口径の屈折経緯台式望遠鏡で、その年の秋頃科学画報社(誠文堂新光社代理部)から売出され、「科学画報」誌上に広告された。翌年頃からは、毎月100台以上が全国の小学校などに購入された」(森久保、上掲書11ページ)とあって、昭和以降の普及はかなり急だったようです。

また冨田によれば、「〔五藤光学の〕ベストセラーのウラノス58mm屈経は、対物レンズは富岡光学、接眼鏡は東洋光学が下請けで、定価190円であった。誠文堂新光社代理部(現科学教材社)は、外観が同じものを75円で発売し、中村の50、75mmや、上野珓吉が研磨した15cm反射鏡を石原製作所の一本支柱の経緯台に載せて供給し、望遠鏡の普及に貢献した。定価は50mm22円、75mm40円、15cmが200円であった」(冨田、上掲書291ページ)とあります。

なるほど、昨日書いた75円の高級機というのは、これだったわけですね。そして、昨日の広告には、たしかに下の方にチラッと「反射望遠鏡二吋より六吋迄」と書かれています。

上の写真は昨日の広告の裏面です。当時の天文少年御用達のシリウス型望遠鏡が写っています。そして、注目すべきはその下の広告。冨田のいう50mm22円也の反射望遠鏡はこれです。昨日のレートで言えば、今の価格で6~7万円相当と、結構な額です。

「故中村要氏御設計」というのが泣かせますね。鏡面研磨の天才・中村要が、目の病気を悲観して自ら命を絶ったのは一昨年、昭和7年(1932)のことでした。それにしても、口径50ミリの反射望遠鏡というのはどんなものでしょうか。まあ性能はともかく、この小反射望遠鏡、シルエットが実に愛らしく、手に入るものなら欲しい気がします。

日本のアマチュア用小口径望遠鏡は、中村がいなかったら、ひょっとしたら屈折一色でスタートしていたかもしれませんが、彼のおかげで意外に早く反射式の市販品が流通していたことが分かります。

そして、少しでも大きい口径を求める心理は昔も変わらず、まず反射望遠鏡からスタートしたファンもいました。

(この項つづく)

戦前の少年向け天体望遠鏡事情2010年01月18日 22時16分47秒

(昨日のつづき)

昭和3年、野尻抱影はスチーブンソンの『宝島』の翻訳仕事をし、それが折からの円本ブームで売れに売れて、印税でしこたま儲けました。その金で彼は初めてのマイ望遠鏡(日本光学製4インチ屈折。抱影の付けた愛称は“ロング・トム”)を購入したのですが、その価格、実に600円余り。今の金にすれば2~3百万円にはなるでしょう。

そんな話を聞くと、戦前の望遠鏡はみな途方もなく高価だった…という印象を受けますが、そこは魚心あれば水心。乏しい小遣いを握りしめた、少年天文家の需要にこたえる供給元もちゃんとありました。

その一例が上の写真。昨日と同じく、「子科」昭和9年9月号の巻末広告です。
「子科」の版元・誠文堂は、これまた原田三夫の発案によって「子供の科学代理部」という名称で物販も行っており、望遠鏡の他にも、鉄道模型部品やら、顕微鏡やら、鉱石ラジオやら、各種理系グッズを手広く扱っていました。

上の画像を拡大して見ていただくとわかりますが、いちばん安価な「プルトー天体望遠鏡」(口径不明。40倍卓上用)が4円、最上位機種の「58ミリ屈折天体望遠鏡」が75円。両者の間にあって、スタンダード機と思われる「シリウス天体望遠鏡」は8円50銭。(シリウスは、次ページにも単独で広告が載っていて、「学生天文愛好家用として絶好」とあります。口径は35ミリですが、木製三脚付きで、なかなかそそる望遠鏡です。)

初任給でいうと、小学校の先生が50円、銀行員が70円の時代ですから、ざっとプルトーが1万5千円、シリウスが3万円、58ミリの最上位機種で30万円弱ぐらい。

どうでしょう、わりとリーズナブルというか、今とあまり変わらない感じがしないでしょうか(さすがに性能比でいうと、今よりも高価ですが)。これぐらいならば、親にねだって買ってもらう少年も、結構多かったような気がします。

これらの望遠鏡が、実際どの程度見えたかはわかりません。
ただ、思うに、たぶんスペックは二の次で、少年たちにとっては、何よりも「天体望遠鏡を所有する」ことが大事であり、たとえ物理的に対象がよく見えなくても、きっとそれを心眼で補っていたんじゃないか…と、想像します。

そして、それでは満足できなくなったハイレベルの少年たちは、地域の天文同好会や学校の天文部に入って、さらに上を目指した…というのが、当時の天文少年のあり様だったと思います。(この辺は、戦後もあまり変わらない時代が長かったかも。。。)

ケーニヒシュトゥール天文台2009年08月24日 22時55分43秒


今日届いた絵葉書です。

周囲に余白があるので、一見1930年代に流行した「ホワイトボーダー」タイプの絵葉書のように見えますが、ホワイトボーダーのようなツルツルの印画紙ではなくて、マットな質感の紙に印刷されています。おそらくコロタイプ印刷や、それに類する技法で制作された品でしょう。裏面には1919年という発行年が見えます。

写っているのは、ドイツのケーニヒシュトゥール天文台の反射望遠鏡。
ここは古都ハイデルベルグの丘の上に立つ観測施設で、前身にあたるマンハイム天文台は1772年の創設ですから、ドイツでも由緒ある天文台の1つ。
現在地には、観測適地を求めて1898年に移転してきました。

当時の台長は写真観測のエキスパート、マックス・ヴォルフ(Max Wolf, 1863-1932)。
被写体となった機材は、ヴォルフも愛用した、72センチ径の Walz 製反射望遠鏡だと思います。
この望遠鏡は今でも現役ですが、鏡筒や架台はその後だいぶ手が入ったらしく、外見はすっかり今風に改変されています([2]参照)。

現在の白いのっぺりした鏡筒に比べ、いかにも仰々しい機械っぽさが魅力的。
陰影に富んだ、ドーム内部の静謐な空気にも惹かれます。

【参考】
[1] Wikipedia: Landessternwarte Heidelberg-Königstuhl
http://en.wikipedia.org/wiki/Landessternwarte_Heidelberg-K%C3%B6nigstuhl
[2] Maximilian Franz Josef Cornelius Wolf
http://www.klima-luft.de/steinicke/ngcic/persons/wolf_m.htm