フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(前編)2022年11月27日 13時52分16秒

絵葉書アルバムを見ていて、ふと目に留まった1枚。


表側に何もキャプションがないので、何だかよく分からない絵葉書として放置されていましたが、改めて眺めると、なかなか雰囲気のある絵葉書です。

古びたセピアの色調もいいし、全体の構図や光の当たり方、それに小道具として取り合わせた椅子の表情も素敵です。全体に静謐な空気が漂い、これを撮影した人は明らかに「芸術写真」を狙っていますね。

そして中央で存在感を発揮している光学機器。


その正体は、葉書の裏面に書かれていました。



このチェコ語をGoogleに読んでもらうと、次のような意味だそうです。

「オンドレジョフ近くの天文台にある二連アストログラフ。ヨゼフとヤンのフリッチ兄弟社製。西側ドームに設置され、恒星、小惑星、銀河、彗星、流星の写真撮影に使用されている。」

アストログラフ(天体写真儀)は、天体写真の撮影に特化した望遠鏡です。
欄外に1934年8月15日の差出日があるので、この絵葉書自体もその頃のものでしょう。

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ときに、オンドレジョフとはどこで、フリッチ兄弟とは何者なのでしょうか?

Googleで検索すれば、オンドレジョフ(Ondrejov)天文台が、プラハの南東35kmの位置にあって、現在はチェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設になっていることを、ネットは教えてくれます。(wikipediaの「Ondřejov_Observatory」の項目にリンク)

(オンドレジョフ天文台。手前が東ドーム、奥が西ドーム。Google map 掲載の写真より。Roman Tangl氏撮影)

(上空から見たオンドレジョフ天文台。中央の緑青色のドームが東西の旧棟。それを取り囲むように図書館を含む新棟や天文博物館があります。左手の広場に見えるのは電波望遠鏡のアンテナ群)

フリッチ兄弟についても同様です。
兄のヨゼフ・ヤン・フリッチ(Josef Jan Frič、1861-1945)は若干22歳で、弟のヤン・ルドヴィーク・フリッチ(Jan Ludvík Frič、1863-1897)とともに、光学機器を中心とする精密機械を製造する会社を立ち上げた人。そこで作られたのが上のアストログラフというわけです。

(左は兄ヨゼフ。右は弟のヤン。それぞれチェコ語版wikipediaの該当項目にリンク)

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それにしても、兄弟の事績を読むと、彼等はなかなかの人物です。
そしてオンドレジョフ天文台も、単なるその製品の納入先ではなくて、そもそもこの天文台を創設したのは、ヨゼフ・フリッチその人なのでした。

ちょっと話が枝葉に入るようですが、当時の事情を覗き見てみます。

(長くなるので後編につづく)

ある望遠鏡の謎を追う(完結編)2021年10月13日 05時51分51秒

6年前、1台の古い望遠鏡を話題にしたことがあります。

■ある望遠鏡の謎を追う(前編)(後編)

(画像再掲)

木箱に入った小さな真鍮製の望遠鏡。
私はこれをヤフオクで見つけて、正体不明のまま買い入れたのですが、その後同じ望遠鏡が、島津製作所発行の戦前の理化学器械目録(学校向け理科教材カタログ)に載っているのを見つけ、さらにメーカー名は不明ながら、おそらく外国製であろうことまでは分かりました。

その後ひょんなことから、明治の青森で異彩を放ったアマチュア天文家、前原寅吉もまた同じ望遠鏡を持っていたことを知り、さらに追加記事を書いたのでした。それが昨年5月のことです。

■古望遠鏡は時を超え、山河を越えて

(画像再掲。前原寅吉が使用した望遠鏡。この件についてお知らせいただいたガラクマさんにご提供いただいたものです)

前原寅吉については、別のところでもいろいろ記事を書いたので、このことは本当に嬉しい驚きでしたが、望遠鏡そのものの正体は、依然杳として知れませんでした。

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しかし偶然の女神は備えある心に微笑むとかや。
昨日の記事を書くために、フラマリオンのことを改めて調べていて、その正体がにわかに分かったのです。


■ASTROPOLIS.FR:Camille Flammarion, 1842 - 1925.

上記のページを漫然と見ていたら、おなじみの『アストロノミー・ポピュレール』の表紙と並んで、あの特徴的な三脚と見慣れたフォルムが輝いているではありませんか。

(上記ページより画像寸借)

説明文に目を走らせると、フラマリオンは『アストロノミー・ポピュレール』の中で、「学校用望遠鏡(la lunette des écoles)」なるものを提唱し、それをフランスの望遠鏡メーカー、バルドー(Bardou)と共同で開発したようなことが書いてあります。バルドーはフラマリオン御用達で、彼の活動拠点ジュヴィシー天文台のメイン機材もバルドー製でしたから、これは大いにありうる話です。

「え!」と驚きつつさらに検索したら、この望遠鏡がフランス文化省のサイトで、文化遺産として紹介されているのを発見しました(上の望遠鏡の画像もここから採ったもののようです)。

■lunette astronomique dite 'lunette des écoles' ou 'à noeud de compas'

Googleによる英訳だと、ちょっと意味の取りにくいところもありますが、フラマリオンは初等教育の現場に望遠鏡を普及させるため、この望遠鏡をミニマムスペックのものとして提案し、1902年のフランス教育同盟の場で採択されることを願ったようです。
彼はかつて「砲筒の代わりに望遠鏡を!」と訴え、天文学が普及することで人類の意識が変化し、平和な世界が実現することを夢見ていました。いわばその「先兵」が、この望遠鏡だったわけです。

残念ながら、フラマリオンの夢はいまだ実現していません。
でも、その夢が美しく気高いものであることを否定する人はいないでしょう。その願いは、はるか日本にもさざ波のように寄せ、青森では前原寅吉がそれを手にし、また偶然の連鎖を経て、私もそれを手にすることになりました。

フラマリオンの思いに応えるために、今何ができるのか?
これは望遠鏡とともにフラマリオンから託された大きな宿題です。

謎の学校天文台2021年08月29日 08時34分00秒

1枚の絵葉書を買いました。謎の多い絵葉書です。


そこに写った2枚の写真には、それぞれ「天文台」、「屋上観望台 望遠鏡」とキャプションがあります。一見してどこかの学校の竣工記念絵葉書と見受けられます。しかし、どこを写したものか、まったく手がかりがなくて、それが第1の謎です。

(裏面にも情報なし)

(右側拡大)

背景に目をやると、ここは人家の立て込んだ町の真ん中で、遠近に煙突が見えます。戦前に煙突が櫛比(しっぴ)した都市といえば、真っ先に思い浮かぶのは大阪ですが、まあ煙突ぐらいどこにでもあったでしょうから、決め手にはなりません。

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この天文台の載った建物は、隣接する木造校舎に接ぎ木する形で立っていて、この真新しい鉄筋校舎の竣工記念絵葉書だろうとは容易に想像がつきます。

1つ不思議に思うのは、この天文台が計画的に作られたものなら、当然新校舎内の階段を通って屋上に出ると思うのですが、実際には旧校舎の「窓」から、急ごしらえの階段をつたって屋上に至ることです。なんだか危なっかしい作りです。となると、この天文台は計画の途中で、無理やり継ぎ足されたのかなあと思ってみたり。でも、そのわりにこの天文台は立派すぎるなあ…というのが第2の謎です。

【8月29日付記】 
記事を上げてから思いつきましたが、この新校舎の各教室に行くには、旧校舎から水平移動するしかなくて(壁の一部を抜いたのでしょう)、新校舎内部には一切階段スペースがなかったんじゃないでしょうか。だとすれば、第2の謎は謎でなくなります。

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実際、この天文台はひどく立派です。
この絵葉書は大正年間のものと思いますが、当時の小学校――写真に写っている風力計や風向計は、高等小学校レベルのものでしょう――にこれほどの施設があったというのは本当に驚きです。

以前紹介した例だと、大正12年竣工の大阪の船場小学校にドームを備えた天文台がありました。


船場小は地元財界の協力もあって、特に立派だったと思うんですが、しかし今日のはそれよりもさらに立派に見えます。

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そして、左の写真に写っている望遠鏡も実に本格的です。

(左側拡大)

メーカー名が不明ですが、乏しい知識に照らすと、野尻抱影の愛機「ロングトム」↓に外見がよく似ています。


口径4インチのロングトムよりも若干小ぶりに見えますが、架台を昇降させる特徴的なエレベーターハンドルがそっくりです。日本光学製のロングトム――というのはあくまでも抱影がネーミングした愛称ですが――は、昭和3年(1928)の発売。ただし同社はそれに先行して、大正9年(1920)に2インチと3インチの望遠鏡を売り出しており、ひょっとしたらそれかな?と思います。この辺はその道の方にぜひ伺ってみたいところ。

参考リンク:March 2006, Nikon Kenkyukai Tokyo, Meeting Report

上記ページによれば、日本光学製の3インチ望遠鏡(木製三脚付)のお値段は、大正14年(1925)当時で500円。小学校の先生の初任給が50円の時代です。
しかも、この屈折望遠鏡のほかに、ドーム内にはもっと本格的な望遠鏡(反射赤道儀か?)があったとすれば、破格な上にも破格な恵まれた学校ですね。

ちなみに、望遠鏡の脇のロビンソン風力計の真下は、自記式記録計が置かれた観測室だったはずで、それと隣接して理科教室があったと想像します。そこで果たしてどんな理科の授業が行われたのか、そのこともすこぶる気になります。

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こんなすごい学校と天文台のことが、今となってはまるで正体不明とは、本当に狐につままれたようです。

(※最後に付言すると、上の文章には、「これが小学校だったらいいな…」という私の夢と願いが、強いバイアスとしてかかっています。実際には旧制の中学や高校、あるいは女学校なのかもしれません。)

望遠鏡と顕微鏡2021年03月04日 22時32分14秒

昨日の記事には、下の写真を添えると良かったかなと、後から思いました。


R.A. Proctorの『Half Hours with the Telescope』(1902)と、Edwin Lankesterの『Half Hours with the Microscope』(1898)。日本の新書版とほぼ同じサイズの、ごく小ぶりの本です。もちろん専門書ではないし、特にマニア向けの本でもありません。タイトルから分かるとおり、ひと時とは言わず、せめて半時を趣味に充てて楽しもうじゃないかと、一般の読者に呼びかけている本です。

このブックデザインは、当時、望遠鏡趣味と顕微鏡趣味を「好一対」のものと感じる人が、少なからずいたことを物語るようです。博物学が依然として隆盛だった頃ですから、せめてどちらか一方に通じていることが、紳士・淑女のたしなみだ…ぐらいの雰囲気だったかもしれません。

しかし、同じレンズを覗き込むのでも、両者の違いは歴然としていました。


望遠鏡の向こうに広がるのは、どこまでも深い闇と、かそけき光の粒と雲です。
いっぽう顕微鏡の視野を満たすのは、複雑な形象と鮮やかな色彩。

それぞれが世界の秘密を分有するビジョンとして、そこに優劣はないのでしょうが、やっぱり天文趣味は、地味は地味ですね(少なくとも眼視の場合はそうでしょう)。視力よりも想像力が求められる趣味だ…と呼ばれるゆえんです。

ミクロスコープ国の独立2021年03月03日 07時09分36秒

このブログの記事カテゴリー(左欄外にずらっと並んでいます)を、今以上ゴチャゴチャにするのは気が進まないのですが、今回、顕微鏡の記事を書いていて不便に思ったのは、これまで顕微鏡と望遠鏡が「望遠鏡・顕微鏡」という1つのカテゴリーに入っていたことです。

これだと過去の記事をたどりづらいし、この二つのスコープは、そもそも活躍の場がだいぶ違うので、この際思い切って「望遠鏡」「顕微鏡」に分離することにしました。カテゴリーを変更すると、過去記事へのリンクが一部切れてしまう恐れがありますが、そこは目をつぶります。この点は、気づいたらその都度修正することにします。

カテゴリーの並び順も、「望遠鏡」の方は天文用具の並びに、「顕微鏡」の方は「動・植物」や「昆虫」の次に置いてみました。

古望遠鏡は時を超え、山河を越えて2020年05月09日 09時28分38秒

この世界では、時に意外な偶然が生じます。
「そりゃそうさ。何せ世界は広いんだから。いくら確率の低いことだって、母数が大きくなれば、当然起こりうるわけさ。」と言われれば、“まあそんなものかな”と思いますけれど、しかし、その偶然が他でもない我が身に生じたとしたら…。しかも、この「天文古玩」という、ちっぽけなブログの中でそれが起こったとしたら…。やっぱり、これは不思議の感を催さないわけにはいかないでしょう。

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ビンテージ望遠鏡界にその人あり。
香川県の「天体望遠鏡博物館」の創立メンバーとして、今もその中心で活躍されているガラクマ(白川)さんから、最近お知らせいただいたことが、その「偶然」です

ガラクマさんは、今春青森を旅行された際、明治の天文史に異彩を放つ奇想のアマチュア天文家・前原寅吉(1872-1950)が使用した望遠鏡の現物をご覧になったそうです。その望遠鏡というのは、下の絵葉書に写っている面々。

(キャプションにある「天文山」は寅吉の号。画面左はオリジナルの包み紙)

(絵葉書の拡大)

これらの望遠鏡のうち、少なくとも3台は現存しており、現在前原家のご子孫から「八戸ポータルミュージアム『はっち』」に寄託されています。

(出典:ガラクマの ウダ話 当該記事は2020/03/5掲載の「No.575 前原寅吉の望遠鏡」)

前原寅吉翁のことは、このブログで何度も取り上げており、下の記事からさらに過去記事へのリンクが張られています。

■前原寅吉、北の地で怪気炎を上げる(前編)

ですから、ガラクマさんからのお便りを読むなり、「ああ羨ましいなあ」と思ったのでした。でも、上で述べた「偶然」とは、そのことではありません。私が心底驚いたのは、「ところでTさんのお持ちの望遠鏡、前原寅吉の望遠鏡の一つと同じですね。」という一文を目にしたからです。

「!!」と、声にならぬ声をあげて、しげしげ見たら、なるほどたしかにそうです。
「はっち」に展示されている下の望遠鏡、古絵葉書だと左下に写っているのは、確かに以前記事にしたものに他なりません。

(ガラクマさん提供)

■ある望遠鏡の謎を追う(前編)(後編)

(上掲記事「前編」より)

ガラクマさんに教えていただくまで、まったく気づきませんでした。まさに灯台下暗し。かつて寅吉が覗いた望遠鏡と同じ型の望遠鏡が、いつの間にか私の部屋にあったという偶然。それも決してメジャーな望遠鏡でなく、メーカー名も知れない望遠鏡であるというのが、いっそう奇遇めいて感じられます。

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こうして、敬慕して止まぬ寅吉翁との距離はいっそう縮まりました。
まあ、他人からすれば些細なことでしょうが、私にとっては大きな出来事で、このコロナ禍の中、心がポカポカ温まる快事となったのでした。(ガラクマさん、どうもありがとうございました。)

緑の金星2020年01月15日 20時00分33秒

ふと気がつけば、日脚が目に見えて伸びてきました。
前は5時には真っ暗だったのに、今日は5時半になっても西の空がほんのり明るく、浅い朱、淡い黄緑、灰青から成るグラデーションの帯ができて、その上の濃紺の空に、金星が鮮やかに光っているのが美しく眺められました。

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私が初めて望遠鏡を手にしたのは、たしか小学2年生のときです。

それは母親がどこかで見つけてきた、メーカー不明のバッタ品で、口径は50ミリ。ただし、安物によくあるように、対物レンズの後ろに絞りが入っていたので、有効口径は30ミリぐらいしかなかったはずです。

それでも月のクレーターははっきり見えましたから、私は愛機の優秀さをあえて疑うことはしませんでした(でも、「天文ガイド」の広告と見比べて、ちょっぴり不安はありました)。

その愛機を金星に向けた子供時代の私は、ピントの合わせ方がよく分かっていなかったので、合焦ノブを回したら、金星像がボヤンと素敵に大きくなるのを見て、「すごいぞ、これが金星か!」と大喜びでした。(もちろんこれはピンボケの状態で、星像がいちばん小さくシャープに見える位置が、ピントの合った状態です。)

その巨大な金星は、レンズの色収差のせいで、目の覚めるようなエメラルド・グリーンをしていましたが、後にも先にも、あれほど美しい金星を見たことはありません。

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私の家は経済的に楽ではなかったので、あの望遠鏡は母親にとって、かなり思い切った買い物だったはずです。それでも子供が喜ぶと思って買ってきてくれたことに、感謝の気持ちしかありません。

認知症を患い、特養で暮らす現在の母親に、その気持ちを伝えるすべは残念ながらありません。それでも、ここに「ありがとう」と書いて、かすかな慰めとします。

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人が満足と喜びを味わうには、いかにわずかなものしか要さないか。
今宵の金星を見て、昔の自分の気持ちを、ふと思い出しました。

ある望遠鏡コレクションの話2019年11月24日 07時58分56秒

ちょっと気鬱になった話。
…と言って、話の発端は別に気鬱でもなんでもありません。ごく普通の話題です。

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Edward D. Wolf 博士という、かつてコーネル大学でコンピュータ工学を教えた先生がいます(現在は名誉教授)。科学の最先端を歩んだウォルフ博士は、同時にアンティーク望遠鏡の熱心なコレクターでもあり、18~19世紀の中~小型機材を中心とする、そのすぐれたコレクションは、博士のサイトを一瞥しただけで溜息が漏れるほどです。


■Wolf Telescopes ― A Collection of Historical Telescopes

黄金を欺く、まばゆい真鍮の輝き。
この平和な砲列は、過去のスターゲイザーの優美な営みを、遺憾なく伝えてくれます。(昔も今も星をきっちり観測することは大変ですから、本当はそれほど優美な営みではなかったかもしれませんが、少なくともその姿はたいそう優美です。)

昨日小耳にはさんだ話題は、そのコレクションの全容を伝えるハードカバーの立派な本が編まれていて、今なら85ドルの特別価格で購入できるよ…という耳より情報でした。それは上記サイトのサブページに説明されており、購入ページは以下。

■Wolf Telescope Collection Book

日本までの送料が50ドルというのが一寸痛かったですが、背に腹は代えられません。さっそく一冊注文しました。あとは本の到着を待つばかり。

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…と、ここまでは良いのです。
ちょっと気鬱になったというのは、ウォルフ・コレクションが、すでにウォルフ氏の手元を離れ、昨年一括して外国のプラネタリウムに買い上げられたことを知ったからです。

購入したのは中国の北京天文館。1957年にオープンし、2004年にガラス張りのモダンな新館ができた同館のことは、以前もちらっと書きました【LINK①】【LINK②】。

(北京天文館 新館)

でも、メーリングリスト情報によれば、ウォルフ・コレクションはプラネタリウム本館ではなく、今は同館が運営する「旧・北京観象台」に、他の天文測器類と一緒にズラッと展示される予定だそうです。ウォルフ・コレクション自体は、中国天文学史とは直接関係ないわけですが、北京プラネタリウムは、天文学史の包括的なビジュアル展示を狙っているようで、そこに潤沢な予算が回っているのでした。

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「気鬱」と言ったのは、別に私がいわゆる嫌中思想から、中国に優れたコレクションが渡ったことを憤っているからでは無論ありません。

むしろこの出来事によって、日本の現状が逆照射されたからです。
位相は異なりますが、日本にも望遠鏡愛にあふれた「天体望遠鏡博物館」LINK】があり、熱心な収集・保存・展示活動が行われています。しかし、それはあくまでも民間の篤志と熱意に支えられた活動です。

あけすけに言って、中国の振る舞いには「金に飽かせて…」の色彩がなくもありません。それをケシカランと言うのは簡単ですが、我がニッポンには既にその金がないのです。そう、文化にかけるお金が―。仮にウォルフ・コレクション売却の話が、最初に日本に持ち込まれていたとしても、それに応える機関や組織は、きっとなかったでしょう。私が気鬱に思うのは、そのことです。

まあ、いつの時代にも、どこの国にも、「文化で腹がふくれるか!」と豪語する人はいるので、今の日本が特別ひどいということもないのかもしれませんが、それにしたって日本国が貧困の淵に沈みつつあり、ここに来て貧すれば鈍する現象があちこちで目に付くようになったのは、否定のしようがありません。これはいつもの「アベガー」的主張ではなくて、たぶん誰が政治のかじ取りをしても、この傾向に歯止めをかけることは難しいでしょう(だからといって、安倍氏の非行が免罪されるわけではありません)。

まあ、事がアンティーク望遠鏡だけならば、そう目くじらを立てなくても良いのですが、これが真善美に関わる学芸全般のこととなると、その影響は計り知れません。やっぱり気鬱だし、侘しいです。

「NEAF 2019」に居並ぶアンティーク望遠鏡2019年07月30日 09時04分29秒

今年も蝉時雨の夏到来。
風に吹かれる空蝉や、羽化に失敗したむくろを目にして、いろいろ物思う季節でもあります。

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さて、NEAFというのは、「Northeast Astronomy Forum」の略で、アメリカ北東部のアマチュア天文家を主体とする天文イベントです(主催はロックランド・アストロノミー・クラブという非営利団体)。多くの機材メーカー、天文関係の出版社、天文団体がブースをつらね、そこに天文ファンが詰めかけて交流を深め、ときに商談に及ぶという、お祭りとビジネスショーを兼ねた催しです。

これは今年に限りませんが、アンティーク望遠鏡協会(ATS)は、今年もニューヨークで開催された「NEAF 2019」にブースを出し、会場に一種独特のムードを醸し出していました。その動画が以下。(画像は単なる切り貼りなので、その下のリンクをクリックしてください。)


この手の催しでは、最新鋭の機材に注目が集まるのが世の常。
そこに敢えて真鍮製の古望遠鏡を並べるのは、奇抜といえば奇抜だし、偏屈といえば偏屈です。まあ虚心坦懐に言って、色物的ブースといっていいでしょう。

アンティーク望遠鏡マニアは、世界的に見て、たぶんアメリカに最も多くいると思いますが、その本場のアメリカでも、アンティーク望遠鏡趣味自体が、かなり特殊でマイナーな立ち位置であることは否めません。

まあ、アンティーク望遠鏡マニアにしても、かく言う私にしても、別に世のため人のため趣味にいそしんでいるわけではないですが、そうした「記憶の番人」がいなくなると、世の中は妙に薄っぺらくなってしまう気がするので、ここは偏屈だろうが何だろうが、己の感覚を信じて、趣味に邁進して吉…と信じます。

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それに、100年前に放たれた星の光を、100年前の望遠鏡で覗くなんて、それだけでも素敵じゃないでしょうか。レンズの向こうの星の輝きと、真鍮の鏡筒の輝きの対比――それこそ、人類と星がこの時空をともに旅していることの証と感じられます。