白昼に金星を視る2024年03月10日 07時49分45秒

再び絵葉書の話題。
先日、ドイツの古書店から4枚の絵葉書をまとめて送ってもらいました。そのうち「上弦の月男」、「時計塔の女の子」、「保険会社の天文時計」の3枚はすでに登場済みで、残りの1枚がこれ↓です。


ライプツィヒの望遠鏡商売を描いた絵葉書。
まだ裏面に住所欄と通信欄の区別がない、いわゆる「Undivided-back」タイプなので、年代的には1900年頃のものと思います。印刷は多色石版。

(絵葉書の裏面)

望遠鏡商売については、以前も書きました【LINK】

要は小銭をとって望遠鏡を覗かせる大道商売です。見せるのは地上の景色という場合もあったかもしれませんが、主に天体です。昼間なら太陽黒点を、夜なら月のクレーターや土星の環っかといったポピュラーな対象を、面白おかしい口上とともに見せる商売で、面白おかしいだけではなく、一般の人々に天文学の基礎を教える、社会教育的機能も果たしたと言われます。


この絵葉書だと、望遠鏡の足元に「Venus」とあって、昼間の空に浮かぶ金星を見せているようです。金星も満ち欠けをしますから、三日月型の金星を昼間眺めるというのが、この日の呼び物だったのでしょう。

描かれた場所は、絵葉書の隅に「ケーニヒス広場」とあって、これは現在の「ヴィルヘルム・ロイシュナー広場」だそうです。下の写真がちょうど同じ場所。この辺は第2次大戦中の空襲で焼かれたため、すっかり様子が変わっていますが、正面奥のライプツィヒ市立図書館(旧・グラッシ博物館)のファサードに、辛うじて昔の面影が残っています。

(Googleストリートビューの画像より)

(比較のため再掲)

左手の点景に写り込んでる自転車の少年は、かつて同じ場所で、人品卑しからぬ紳士と淑女が望遠鏡を覗いたことを知らないでしょう。でも、それを知って眺めると少し妙な気分になります。まことに人も街も、変われば変わるものです。

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ところで絵葉書に刷り込まれた「Gruss aus Leipzig(ライプツィヒからこんにちは)」の文字。

この「Gruss aus ○○」というのは、昔の観光絵葉書では定番のフレーズで、当然その町の名所や名物と並んで書かれることが多いのですが、となると望遠鏡商売はライプツィヒの名物で、よそから来た人の目には物珍しく感じられたということでしょうか? 少なくとも同時代のロンドンでは見慣れた光景だったと聞きますが、ドイツではまだ新手の商売だった可能性もあり、この辺は今後の宿題として、類例を探してみようと思います。

大コレクター逝く2023年07月29日 09時38分29秒

ペーター・ラウマン(Peter Louwman)氏の訃報に接しました。
ラウマン氏は、アンティーク望遠鏡、及びその周辺光学機器の大コレクターです。

ラウマン家は自動車の輸入販売で財をなしたオランダの一族で、代々が蒐集したクラシックカーの一大コレクションは、その私設博物館に堂々と陳列されています。


■Louwman Museum 公式サイト

ペーター・ラウマン氏の望遠鏡コレクションも同博物館の一角に収蔵されているらしいのですが、改めて公式サイトを見ても、その説明がありません。「あれ?」と思って、よくよく事情を聞いてみると、下のページにその説明がありました。


■ラウマンの歴史的望遠鏡: ラウマン博物館(オランダ、ハーグ)
 ~世界最大の望遠鏡の個人コレクションは、オランダの自動車博物館の秘密の翼廊に隠されている~

それによると、氏の望遠鏡コレクションは確かに博物館の一角に収められているものの、博物館の公式コレクションではなく、あくまでもラウマン氏の個人的営みであるため、ふだんは原則非公開。ただし毎月第1金曜日だけ、博物館の入館券を持った人に限り、見学を認めているということです。もちろん、事前にラウマン氏の許可を得れば、他の日でも見学は可能であり、いずれもラウマン氏自身が親しく展示品について説明をしてくれるだろう…というのですが、主亡き今、今後どうなるのかは不明です。

そのラウマン氏のコレクションの一端と、自ら展示品の解説をしてくれている在りし日のラウマン氏を、下の動画から偲ぶことができます。


■Louwman Historic Telescopes

それにしても、世に中にはすごい人がいるものです。
そして、この世界はまだまだ広いです。

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ラウマン氏のご冥福をお祈りします。

街頭の望遠鏡商売2023年06月08日 06時10分52秒

前回登場した「望遠鏡の街頭実演家」について、アラン・チャップマン氏は『ビクトリア時代のアマチュア天文家』(産業図書、2006)の中で、特に一章を設けて詳述しています(「第9章 1回覗けば1ペニー:大衆の天文学講座」)。

チャップマン博士が例として挙げたのは、19世紀半ばにロンドンで商売をしていたトレジェント氏なる人物で、同書の挿絵をお借りすると、その商売の様子は下のような塩梅でした。

(出典:上掲書p.250。図のキャプションは、「トレジェント氏、およびその街頭での望遠鏡の実演。[出典:H.メイヒュー著 『ロンドンの労働とロンドンの貧民 第3巻(London Labour and London Poor III)』(ロンドン、1861)82頁]」)

トレジェント氏の本業は服の仕立て屋でしたが、ふとしたきっかけで望遠鏡熱に火が付き、副業として望遠鏡商売に乗り出したといいます。

「メイヒューがインタビューした1856年10月の時点では、トレジェントは80ポンドの費用をかけた最高倍率300倍という口径4¹/₄インチ〔約11cm〕の屈折望遠鏡を筆頭に、一連の望遠鏡〔…〕を所有していた。この機材を使って、彼は一覗き1ペニーで天文学を「教授」した(他にもっと小ぶりの1台を息子に任せて、歩道の別の一角で使わせた)。」(邦訳p.176)

その商売は以下のように、一種の大道芸的な技能を伴ったものでした(改行引用者)。

「メイヒューの速記は、トレジェントが講演する語り口のニュアンスを実に見事に捉えており、権威ある意見の開陳、1ペニー払った生徒が一覗きする前にその期待を高める前口上、ユーモラスなからかいの文句、これらが混じり合って、彼がいかに成功を収めたかを示している。

トレジェントは単なる街頭実演家ではなく、大衆相手の講演家であり、教師でもあった。彼は語っている。「私が展示をするときは、客が覗き込んでる間、ふつう短い講義をします。忙しくないときなら、客自身に説明をさせます。例えば木星を見せているとしましょう。客たちの注意を引こうと思えば、こんなふうに言います。『月はいくつ見えますか?』客は答えるでしょう。『右側に3つ、左側に1つ』。そこでこういう言うと、まあ笑いが起こるでしょうよ。『月が3つ!嘘でしょう!月は1つに決まってるじゃありませんか』。こうして覗いている人が何が見えるか言うのを聞くと、みんな自分も覗きたくなるんですよ」。

ここにあるのは、商売と娯楽と真の教育との巧妙なブレンドである。」
(同pp.176-7.)

トレジェント氏によれば、こうした望遠鏡実演家が当時のロンドンには4人いたそうで、人通りの多いところで商売をする彼らの姿は、地元の人にはおなじみだったでしょう。さらに、トレジェント氏よりも「何十年も昔にレスター広場で講演を行った先人」がおり、「ウイリアム・ワーズワース〔1770-1850〕がそれを目撃して、詩に詠み込んだ」とも、同書は述べています(同p.177)。この商売もなかなか歴史が長いようです。

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望遠鏡商売は、トレジェント氏の時代からさらに半世紀経った20世紀初頭にも依然続いていました。前回の絵葉書もその証左ですが、下の絵葉書にはそのリアルな実景が写っています。


ロンドンのど真ん中、ウェストミンスター橋のたもとに立つ、「ボアディケアの像」を写したもので、その足元に望遠鏡商売の男が映り込んでいます。時代は1910年前後です(ちなみにボアディケア――ウィキペディアだと「ブーディカ」――は、古代ローマの属州だったブリテン島でローマ帝国軍に公然と反旗を翻し、武勲をあげたケルトの女王だとか)。

(上の場所の現況。向かって右手はすぐテムズ川。像の視線の先には、通りをはさんでビッグベンがそびえています)

ストリートビューで見ると、男が商売をしていたのは、現在、常設の露店が置かれている場所で、これは方位でいうと像の南側にあたり、南天をにらむ形で望遠鏡は置かれていました。


なかなか立派な望遠鏡であり、立派な風采の男ですね。
架台にべたべた貼られたビラやチラシの内容が気になりますが、画像からはちょっと読み取れません。

これは昼間の光景なので、明るい時間帯には、太陽の黒点とか、地上の光景を見せてたんじゃないでしょうか。でも、接眼部に付いているのは正立プリズムらしく、正立プリズムを必要としたということは、とりも直さずこの望遠鏡は天体(夜間)観測用のはずで、当然、夜は夜で月や星を見せたのでしょう。

(絵葉書裏面。版元はエセックス州の C.F. Castle)

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たしかに彼らが語ったのは、ごく初歩的な、ときにウロンな知識に過ぎなかったかもしれません。それでも、日々の生活に疲れ、足元に視線を落とした人々に、空を見上げるよう仕向け、星への憧れを掻き立て、たとえ一時的にせよ、その精神を地上の桎梏から解き放った功績は、はなはだ大きなものがあったと思います。

星はゆふづつ2023年06月06日 15時12分20秒

清少納言は金星(ゆふづつ)を、すばる・ひこぼしと並んで、見どころのあるものとしました。そのまばゆく澄んだ光は、清少納言ならずとも美しく感じることでしょう。

金星は今、夕暮れの西の空にあって見頃です。
6月4日には東方最大離角の位置に来て、望遠鏡でみると半月形をしていたはずです。これから金星は徐々に三日月形に細くなっていきますが、地球との距離が近づくので、明るさはむしろ増し、7月10日に最大光度マイナス4.5等級に達すると、星空情報は告げています。

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こんな絵葉書を見つけました。

(1910年発行のクロモリトグラフ)

「金星をご覧あれ。5セント」という看板をぶら下げた、望遠鏡の街頭実演家を描いたコミカルな絵葉書です。これは昔、実際にあった商売で、道行く人に望遠鏡で星を見せ、初歩的な天文学の知識をひとくさり語って聞かせて、お代を頂戴するというものです。


場面は、貧しげな風体の男が望遠鏡をのぞくと、樽の中から少年がさっと現れて、ロウソクの炎を金星と偽って見せているところ。三者三様の表情がドラマを感じさせます。まあ、こんな詐欺行為までが実景だったとは思いませんが、こうした見世物の客層が、主に貧しい人々だったのは事実らしいです。


右肩の「Things are looking up」というフレーズは、「こいつは運が向いてきたぞ」という意味の慣用句。金星はたしかに美の化身ですが、ラッキーシンボルというにはありふれているので、それを見たから格別どうということもないと思うのですが、この場合、腰をかがめて「looking up」している男の動作と慣用句を重ねて、一種のおかしみを狙っているのでしょう。

(絵葉書の裏面。版元はニューヨークのJ. J. Marks、「コミックス」シリーズNo.15と銘打たれています)

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宮廷住まいの清少納言とはいかにも縁遠い風情の絵葉書ですが、もし彼女がこれを見たら何と言ったでしょう?「いとをかし」か、「いとわろし」か、それとも「すさまじ(興ざめだ)」か?

まあ勝ち気な彼女も、晩年には「月見れば老いぬる身こそ悲しけれ つひには山の端に隠れつつ」などという歌を詠んで、人生の哀感を深く味わっていたようですから、このユーモラスな絵葉書の底ににじむペーソスも、十分伝わったんじゃないでしょうか。

アメリカン・ヒーローとしてのパロマー2023年05月16日 19時58分57秒

パロマーといえば、昔こんな紙ものを買ったのを思い出しました。


1960年の「トレジャー・チェスト」誌(Treasure Chest;1946-72刊)から採ったページですが、これ1枚だけ売っていたので、掲載号は不明。



うーむ、この色と線が、いかにもアメコミですね。
この一種能天気なオプティミズムこそが「時代の空気」というやつで、アメリカン・ホームドラマの世界とも地続きだと思いますが、その裏には核戦争の恐怖におびえ続けた冷戦期の過酷な現実もあり、なかなか微笑ましいとばかり言ってもおられません。



それでも、パロマーが――ひいてはミッドセンチュリーのアメリカ文化が――まとっていた一種の光輝をそこに強く感じます。

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さっき調べたら、「トレジャー・チェスト」はカトリック系の雑誌で、カトリックの教区立学校で配布されていた…とWikipediaは教えてくれました。まあ、アメコミ誌の中でも、ごく「良い子」向けの雑誌だったのでしょう。なお、作者の Ed Hunter こと Edwin Hunter は同誌の常連作家らしいですが、伝未詳。


ちなみに、裏面はこんな感じで、「魔法のフリバー」という空飛ぶ車の物語が掲載されています。フリバーというのはT型フォードの愛称で、1960年当時、すでに過去のオンボロ車だったT型フォードが大活躍するお話のようです。

パロマーの巨眼よ、永遠に2023年05月14日 12時01分52秒

(昨日のつづき)

パロマーといえば、かつては憧れと尊敬を一身に集める存在でした。
その偉業は当時アメリカのみが成し得たことであり、パロマーはアメリカの国力が今よりも更に強大だった、「パックス・アメリカーナ」時代のひとつの象徴と言えるかもしれません。

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古参の天文ファンだと、地人書館の下の写真集でパロマーに親しまれた方が多いと思います。


■大沢清輝(解説・編集)、ヘール天文台校閲
  『パロマ天体写真集―巨人望遠鏡がとらえた宇宙の姿』
 地人書館、1977(架蔵本は1981の初版第2刷)

「第Ⅰ編:わが銀河系」、「第Ⅱ編:100億光年のかなたに」という2部構成の、一部カラー写真を含む大判の写真集です。

(左:いて座の三裂星雲M20(NGC6514)、右:はくちょう座の網状星雲NGC6992)

(左:かみのけ座NGC4565、右:アンドロメダ座NGC891)

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さらに遡ると、先行して下の写真集も出ています。


■鈴木敬信(編)
 『天体写真集―200吋で見る星の世界』。
 誠文堂新光社、第5版1959 (初版1953

編者の「はしがき」には、

 「本書の主要部をなすものはウィルソン山およびパロマ山天文台の労作、世界にほこる100インチおよび200インチの巨鏡、48インチのシュミットカメラが、万物の寝静まる真夜中に最大の努力と手練とを傾ける観測者の熱意と相まって、うつしとった空の神秘である。おさめた写真のうち約150葉はこの写真集のために特に誠文堂新光社が同天文台から取りよせた最新のもの、約250葉は私が長年かかって収集したなかから選んだもの、残りは私自身が撮影した写真、それから東京天文台・花山天文台・水沢緯度観測所・科学博物館などから拝借した写真である。」

…とあって、写真の入手にも当時大変な苦労があったことが分かりますし、その苦労をおして写真集発刊を目指した鈴木氏と誠文堂新光社の熱意も伝わってきます。繰り返しになりますが、パロマーはそれだけ当時は「エラかった」のです。

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かつてパロマーが生み出した驚異の天体写真の数々。
でも、天文雑誌の読者投稿欄を見れば、今では鮮麗さにおいてパロマーの写真集をしのぐ美しい画像が、毎号のように載っています。これも21世紀に急伸したデジタル撮像と画像処理技術の進歩のおかげです。

その意味で、パロマーの威信もずいぶん凋落したように見えるんですが、考えてみれば、アマチュアが口径30cmの望遠鏡を使ってやれることは、当然パロマーの5.1mを使ってもやれるわけで、その口径差による圧倒的なアドバンテージは、いささかも揺るぎません。

パロマーのヘール望遠鏡は今も完全に現役で、最先端の研究に日々活用されていることが、パロマーの公式サイトに掲載されているレポートから分かります。

■Current Research and Observations Slideshow

最初に登場した、地人書館の『パロマ天体写真集』の冒頭で、編者の大沢氏は、

 「科学的な目的の天体写真には白黒が用いられ、カラーを使うことはない。カラーでは光量の量的測定をすることができないからである。世界一級の望遠鏡の観測時間を割いて、本書掲載のカラー写真が撮影されたのは、天体物理学の普及発達のためには、それも一種の必要な社会サービスだという、大所高所からの判断によるものであろうと思われる。」

…と書かれています。この辺の事情は今も同じでしょう。ハッブル宇宙望遠鏡やジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡による、目を驚かせるカラー画像がメディアを賑わせるのも、一種の「社会サービス」であり、ひいては予算獲得に向けたアピールにほかなりません。

パロマーの巨人望遠鏡は、今ではそうした役割を果たす必要がなくなったので、我々一般の目にあまり触れぬ形で、専門的な研究に一意専心できているわけです。

どうかパロマーが末永く壮健で、その澄んだ瞳が大宇宙を見つめ続けますように。

続・パロマー物語2023年05月13日 17時03分49秒

しばらくぼーっとしていました。
本を読むぞと宣言したわりに大して読めなかったし、というよりも本を読むと眠くなることに気が付きました。昔、年長の人がそう話すのを聞いて、そんなものかなあ…と思っていましたが、自分がその齢になってみると、これは一大真理ですね。もちろん興味のない本を読んでいるうちに、退屈して眠くなるのは分かるんですが、興味のある本でも眠くなるというのは意外な落とし穴で、残りの人生、もうあんまり本も読めないなあと思うと、ちょっぴり寂しいです。

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さて、ブログもぼちぼち再開です。

先日、プラネタリウム100周年の話題を書きましたが、今年は他に75周年の話題もあることを耳にしました。すなわち、パロマー山天文台の200インチ(5.1m)望遠鏡が、1948年にお披露目されて以来、今年で75歳を迎えるという話題です。


上は先日購入した、パロマ―山天文台を描いたおまけカード。
左はイギリスのリージェント石油の「Do You Know?」シリーズ(1965)、右はオーストラリアのサニタリウム・ヘルス・フード・カンパニーの「Wonder Book of General Knowledge」シリーズ(1950-51)に含まれるカードです。

200インチ望遠鏡(ヘール望遠鏡)は、アメリカ一国にとどまらず、文字通り世界のヒーローでしたから、あちこちでこういう「パロマーもの」が作られたわけです。


上は1948年8月30日に発行された記念切手を貼った初日カバー。
この日、まさに望遠鏡の鎮座するパロマー山で投函され、その日の消印が押された記念すべき品です。
ただ、望遠鏡自体の完成記念式典は、それよりもちょっと前の6月1日から行われたので、望遠鏡はあと20日足らずで75歳の誕生日を迎えることになります。

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「大宇宙を見通す目」というと、今ではジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡がその象徴でしょうが、かつてその地位を占めたのがパロマー山のヘール望遠鏡です。しかもその地位は、1976年にソ連のBTA-6望遠鏡が口径世界一の記録を塗り替えるまで、30年近く盤石でしたから、パロマーに思い入れのある天文ファンは、複数世代にまたがっているはずで、もちろん私もその中に含まれます。

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自分が書いた記事に感動するというのも妙なものですが、私はパロマーと聞くと即座に16年前の記事を思い出し、読み返しては思いを新たにします。

■パロマー物語…クリスマス・イヴに寄せて

まあ、これは私が書いたといっても、地元に住むあるアメリカ人女性の文章の引用であり、彼女の記憶の中のパロマーが美しいからこそ感動するわけですが、それに感動できるということ――つまり私の中のパロマー像が彼女の記憶と共鳴するということ――それ自体、私にとっては嬉しいことです。

Every Jack has his Jill.2023年02月18日 11時37分51秒



望遠鏡を熱心に覗く男の子。その先に輝くのは…


きみは空でいちばん明るい星

季節ネタとして、バレンタインに合わせて、こんなカードを紹介しようと思ったんですが、すっかり忘れていました。


このカードは一種の仕掛けカードで、下辺に覗くタブを操作すると、割りピンで留められた望遠鏡が左右に動くようになっています。1920年~30年代のアメリカ製で、他愛ないといえば他愛ない品ですが、こういう屈託の無さが当時のアメリカっぽいです。


この女の子が、記号的に美人に描かれてないところにも、何となくメッセージ性を感じます。アメリカのどこの町や村にも、こうした男の子と女の子がいて、彼らの数だけ小さな恋物語があり、当人たちはハラハラドキドキしながらも、全体として平凡で平穏な日常が世界を覆っていることを是とする態度といいますか。

「アメリカの良心」みたいなものが、漠然と信じられた時代だったのかなあ…とも思います。

ペーパーテレスコープ2023年02月04日 08時19分08秒

「月月火水木金金」という文字を目にすると、私の脳内では即座に「げぇつげぇつかーすいもくきんきーん」という歌声が、メロディつきで再生されます。あれは、「隣組」と同類の戦時国策歌謡と思ってましたが(実際そういう側面もあるのでしょうが)、元はれっきとした海軍生まれの軍歌だそうですね。

まあ、軍歌の話をしたいわけではなくて、突如仕事が立て込んだせいで、脳内であのメロディが繰り返し再生され、発狂しそうである…という、そんな話です。

そんなわけで、なかなか記事を書くのもおぼつきませんが、有り体にいって仕事よりも天文古玩の世界に遊ぶほうが楽しいので、隙間時間を見つけてやっぱり記事を書いてみます。

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最近届いた1枚のシガレットカード。

(ペンは大きさ比較用)

英国コープ社(Cope Bors & Co)の製品で、同社は1848年から1952年まで、約100年間にわたって存続したリバプールのタバコメーカーです。他のメーカーと同様、ここもシガレットカードを煙草のおまけに付けて、大いに販売促進を狙いました。

(カードの裏面)

上のカードは1925年に出た「おもちゃモデルシリーズ」の1枚で、他社のシガレットカードと差別化を図るため、切り抜いて組み立てると小さなおもちゃができるのを売りにしていました。いわばシガレットカードとグリコのおまけのハイブリッドみたいなものですね。

(eBayの商品写真より)

いろいろな屋台店とか、乗り物とか、遊具とか、カラフルで楽しいシリーズですが、今回はその中から1枚だけ望遠鏡のカードを買いました。これも線にそって切り抜いて、要所を折り曲げて、ちょちょいと糊付けすれば、可愛くてしかも立派な望遠鏡が完成します。


望遠鏡の構造としてどうなの?という細部の詮索はおいて、ここに漂う愛らしさといったらどうでしょう。そして、1920年代の子どもたちにとって、望遠鏡は夢と憧れであったことも、このカードからわかります。

フリッチ兄弟の夢、オンドレジョフ天文台(後編)2022年11月27日 14時30分03秒

(今日は2連投です。)

フリッチ兄弟の父親は、詩人・ジャーナリストであり、チェコの愛国者にして革命家としても著名な人物だった…という点からして、なかなかドラマチックなのですが、二人はパリで少年時代を過ごし、プラハに帰国後、兄は動物学と古生物学を、弟は物理学と化学を学び、1883年、ふたりとも二十歳そこそこで共同起業した…というのは前編で述べたとおりです。

何だか唐突な気もしますが、その前年(1882年)に、兄弟はチェコの科学者の大会に出席し、湿板で長時間露出をかけた顕微鏡写真の数々を披露したのが、大物化学者の目に留まり、その紹介で弟ヤンはドイツの工場に短期の修行に行き、さらに旋盤を購入し…というような出来事があって、それを受けての会社設立だったようです。

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ちょっと話が脱線しますが、ここで「チェコ、チェコ」と気軽に書きましたけれど、当時はまだチェコという国家はありません。あったのは「オーストリア=ハンガリー二重帝国」です。

(1871年の「オーストリア地図」。オーストリア領の西北部、ボヘミア・モラヴィア地方が後のチェコ、ハンガリー帝国の北半分が後のスロバキア)

1848年に全ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた後、中欧ではハプスブルク家専制に揺らぎが生じ、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国が成立します。しかし、チェコやスロバキアの人々はこれに飽き足らず、「自分たちはスラブ人だ。ドイツ人やマジャール人の支配は受けない」という民族意識の高揚――いわゆる「汎スラブ主義」が熱を帯びます。この動きの先にあるのが、1918年の「チェコスロバキア共和国」独立でした。

ここで思い出すのが、先月話題にしたチェコの学校教育用の化石標本セットです。

■鉱物標本を読み解く

(出典:Guey-Mei HSU、”Placement Reflection 3”

台湾出身のグエイメイ・スーさんが手がけたミニ展示会に登場したのは、ヴァーツラフ・フリッチ(Václav Fric、1839-1916)というチェコの博物学者(今回話題のフリッチ兄弟と縁があるのかないのかは不明)が監修した標本セットで、自分が書いた文章を引用すると、こんな次第でした。

 「その標本ラベルが、すべてチェコ語で書かれていることにスーさんは注目しました。これは当たり前のようでいて、そうではありません。なぜなら、チェコで科学を語ろうとすれば、昔はドイツ語かラテン語を使うしかなかったからです。ここには、明らかに同時代のチェコ民族復興運動の影響が見て取れます。そして、標本の産地もチェコ国内のものばかりという事実。この標本の向こうに見えるナショナリズムの高揚から、スーさんは故国・台湾の歴史に思いをはせます。」

これが当時のチェコの科学界の空気であり、フリッチ兄弟もその中で活動していたわけです。彼らは科学に対する自身の興味もさることながら、科学によって祖国に貢献しようという思いも強かったのではないでしょうか。純粋学問の世界から、精密機械製作という、いわば裏方に回ったのも、そうした思いの表れではなかったかと、これはまったくの想像ですが、そんな気がします。

(フリッチ兄弟社の製品群。Wikipediaの同社紹介項目より))

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話を元に戻します。

フリッチ兄弟はチェコで最初の月写真を撮り、その写真は1886年にポルトガルで開かれた国際写真展で賞をもらったりもしました。彼らの天文学への興味関心は、商売を越えて強いものがあったようです。弟のヤンは1896年、私設天文台の設立を目指して大型のアストログラフの設計図面を引きました。しかし好事魔多し。ヤンは翌1897年に虫垂炎の悪化で急死してしまいます。

兄ヨゼフは二人の夢を実現するために、オンドレジョフ村に土地を買い、建物を建て、後にチェコ天文学会会長を務めたフランチシェク・ヌシュル(František Nušl、1867-1951)の協力を得て、ようやく念願の天文台を完成させます。1906年のことでした。

(写真を再掲します)

そして、そのドームの中には弟の形見として、かつて彼が設計したアストログラフが据え付けれら…というわけで、今回の絵葉書の背後には、そうした「兄弟船」の物語があったのでした。さらにその背後には、チェコの近現代史のドラマも。

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調べてみるまで何も知りませんでしたが、何気ない1枚の絵葉書も、多くの物語に通じるドアであることを実感します。

ちなみにオンジョレドフ天文台は、1928年に国(チェコスロバキア)に寄贈され、曲折を経て、現在は前回述べたとおり、チェコ科学アカデミー天文学研究所の主要観測施設となっています。またフリッチ兄弟社は、戦後にチェコスロバキアが共産主義国になると同時に国有化され、各製造部門はあちこちに分有され、雲散してしまいました。

(ボーダーに音楽記号をあしらったスメタナ切手。彼のチェコ独立の夢が結実したのが、交響詩「わが祖国」です。)