テレスコープ氏2017年07月16日 17時02分47秒



今日もフランスの紙物です。
「18世紀後期の銅版画」と称して売られていた、何かの本の1ページらしい紙片(裏面は白紙)。


タイトルは、「Potier rôle de Télescope dans la Comète」とあって、フランス語を眺めても、Googleに英訳してもらっても、「彗星における望遠鏡のポティエの役割」という、何だかよく分からぬ意味にしかとれません。


オレンジに星模様の派手な服と、彗星柄のストッキング。
手には地球儀を持ち、ポケットに望遠鏡を入れた怪しげな人物。

「うーむ…これは18世紀のカリカチュアライズされた天文家の姿で、ひょっとしたら実在のポティエという天文学者を描いたものかもしれないぞ…」と、最初は思いました。
だとすれば、天文趣味史的になかなか興味深い品です。

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事の真相を解く手がかりは、フランス国立図書館のデータベースにありました。
そこには、これと全く同じ図が載っていて(http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b6400501s)、それを足掛かりに調べていくと、この絵の正体が判明しました。

結論から言うと、これは一種の「役者絵」だったのです。

時は1811年10月、所はパリのヴァリエテ劇場(Théâtre des Variétés)。
そこで、『ラ・コメット(彗星)』という一幕物の寸劇が上演され、その中で「ムッシュ・テレスコープ」という役を、シャルル・ポティエ(Charles Potier、1774-1838)という役者が演じ、この絵はその舞台衣装を描いたものなのでした。

当初の推測は外れたものの、これがカリカチュアライズされた天文家の姿だ…というのは、まんざら間違いでもないでしょう。ただ、時代はちょっとずれていて、このいかにも18世紀っぽい装束は、19世紀初めのフランス人がイメージしたところの、幾分マンガチックな擬古的デザインの衣裳なのだと思います。


ムッシュ・テレスコープのセリフ回し。
意味はよく分かりませんが、「こりゃ大変!俺は大地をこの腕に抱き、大空を懐に入れちまったぞ!」とか何とか、おどけたことを言っているのでしょう。

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天文学者(あるいは占星術師)は、歴史の中でしばしば「おちょくり」の対象になりましたが、これも19世紀初頭における実例と言えそうです。

アンティーク望遠鏡、夢のオークション2017年05月25日 06時55分27秒

アンティーク望遠鏡ファンのメーリングリストで、あるオークションの話題が流れてきました。オークション自体は、すでに先月の初旬に終っているのですが、アンティーク望遠鏡を主体とするオークションは珍しく、興味深く思いました。

そこで話題になったのは、故アラン・マレイ氏(Allan Murray、1943-2016)の蒐集になる個人コレクションの売り立てです。

マレイ氏はスコットランドで生まれ、主に香港で活躍した銀行家。
氏はスコットランド絵画に焦点を当てた美術コレクターであると同時に、天文趣味の徒として、古い望遠鏡の蒐集でも名をはせました(さらにその旺盛な好奇心は、古い科学機器全般の蒐集へと、氏を駆り立てました)。

その膨大なコレクションは、氏の没後、大半がスコットランド国立博物館に引き継がれることになったのですが、同博物館の収集方針から外れた20点余りの品が、先月のオークションにかけられたというわけです。


そこで出品された品と落札額の一覧がこちら

ちょっと意外に思ったのは、落札額の最高は9,375英ポンド(約135万円)で、以下、千ポンド(14万円)未満で売れた品も何点かあったことです。

これならば、現行の望遠鏡の方が高いぐらいで、確かに性能を考えればそうなのかもしれませんが、これは裏を返せば、アンティーク望遠鏡は、その性能以外の「歴史的価値」や「審美的価値」が未だ十分に評価されていないということでもあります。

とは言え、私自身のこれまでの感覚に照らして、これはちょっと安すぎる気がしなくもありません。このオークションは、最低落札価格を設定しない、「慈善オークション」的性格の催しだったのかもしれません。

こういうのをヒョイと目にすると、「自分だっていつかは…」という幻想を激しく掻き立てられます。我ながら微笑ましく、美しい夢だと思いますが、ふと我に返れば、マレイ氏が旅立たれた場所に自分が赴くのも、さして遠いことではない現実に思いが至り、「たとえ夢が真実(まこと)になったとしても、真実もまた夢の如きもの…」と、望遠鏡の画像を眺めながら、ぼんやり思いにふける自分がいます。
 

空の旅(18)…新しい旅のはじまり2017年05月06日 09時22分28秒

時代が19世紀を迎えるころ、市民社会が訪れた…と、先日書きました。
そして20世紀を迎えるころ、今度は「大衆社会」がやってきたのです。

天文趣味にかこつけて言えば、それは天文趣味の面的広がりと、マスマーケットの成立を意味していました。

18世紀の末に、お手製の望遠鏡で熱心に星を眺めていたイギリスの或るアマチュア天文家は、道行く人々に不審と好奇の念を引き起こしました(後の大天文学者、ウィリアム・ハーシェルのことです)。でも、100年後の世界では、もはやそんなことはありません。望遠鏡で星を見上げることは、すでにありふれた行為となっていました。


19世紀末~20世紀はじめに発行された、望遠鏡モチーフの絵葉書類を一瞥しただけで、望遠鏡と天体観測が「大衆化」した様相を、はっきりと見て取ることができます。
それは大人も子供も、男性も女性も、富める者も貧しい者も楽しめるものとなっていましたし、ときに「おちょくり」の対象となるぐらい、日常に溶け込んでいたのです。

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この頃、並行してアカデミックな天文学の世界では、革命的な進展が続いていました。銀河系の正体をめぐる論争は、最終的に「無数の銀河の存在」を結論付けるに至り、宇宙の大きさは、人々の脳内で急速に拡大しました。また、この宇宙を形作っている時間と空間の不思議な性質が、物理学者によって説かれ、人々を大いに眩惑しました。そして、高名な学者たちが厳かに認めた「火星人」の存在。

まあ、最後のは後に否定されてしまいましたが、そうしたイメージは、見上げる夜空を、昔の星座神話とは異なる新たなロマンで彩ったのです。

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宇宙への憧れの高まり、新たな科学の時代に人々が抱いた万能感、そして実際にそれを裏付ける技術的進歩―。その先にあったのは、宇宙を眺めるだけではなく、自ら宇宙に乗り出そうという大望です。


銀色に光るロケットと、「ロケット工学の父」ツィオルコフスキーの像。
(この像は既出です。http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/08/27/)。

(像の台座部分拡大)

ツィオルコフスキー自身は、自ら「宇宙時代」を目にすることはありませんでしたが、新しい時代の象徴として、これをぜひ会場に並べたいと思いました。

(ふと気づきましたが、今年はツィオルコフスキー生誕160周年であり、スプートニク打ち上げ60周年なんですね。「宇宙時代」もようやく還暦を迎えたわけです。)

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こうして旅人は、現在、我々が立っているところまでたどり着きました。
長い長い空の旅。

ここで、この連載の第1回で書いたことを、再度そのまま引用します。

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1920~30年代に、ギリシャの学校で使われた天文掛図。
その傍らには、私の思い入れが、こんなキャプションになって添えられていました。

 「古代ギリシャで発達した天文学が、様々な時代、多くの国を経て、ふたたびギリシャに帰ってきたことを象徴する品です。天文学の長い歴史の中で、惑星の名前はラテン語化されて、木星は「ジュピター」、土星は「サターン」と呼ばれるようになりましたが、この掛図ではジュピター(木星)は「ゼウス」、サターン(土星)は「クロノス」と、ギリシャ神話の神様が健在です。」

この掛図を眺めているうちに、ふと上の事実に気づいたとき、私の心の中でどれほどの長い時が一瞬にして流れ去ったか。「やっぱり、これは旅だ。長い長い旅なんだ…」と、これは私の個人的感懐に過ぎませんが、その思いの丈を、しばしご想像願えればと思います。

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こうして連載の最後に読み返すと、我ながら感慨深いものがあります。

(画像再掲)

会場のあの展示の前に、10秒以上とどまった方は、ほとんどいらっしゃらないでしょうが、私の単なる自己満足にとどまらず、あのモノたちの向うに広がる旅の光景は、やはりそれなりに大したものだと思います。


ともあれ、ご来場いただいた方々と、冗長な連載にお付き合いいただいた方々に、改めてお礼を申し上げます。

(この項おわり)

空の旅(14)…オペラグラス2017年05月03日 11時41分52秒

世はゴールデンウィーク。

『博物蒐集家の応接間 ~旅の絵日記~』が神保町で行われてから、すでにひと月以上経ちました。でも、ブログ内の時空は、依然としてあの場に固着しています。「旅」の軽やかさとは程遠い鈍重さですが、地球全体を巡る2千年以上に及ぶ旅の日記であってみれば、歩みが遅いのも止むを得ません。(どうか、そういうことにしておいてください。)

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さて、今日のテーマは「オペラグラス」。
例によって、展示当日のプレートの文面を引いておきます。

「19世紀のオペラグラス」
「イギリスのドロンド社製の双眼鏡(19世紀前半)。観劇用に用いられたので、「オペラグラス」の名がありますが、手軽な星見の道具としても重宝されました。時代は下りますが、天文趣味を広めたギャレット・サーヴィスには、『オペラグラスによる天文学(Astronomy with an Opera-Glass)』(1910)という愛らしい本があります。」


当日は、サーヴィスの本も会場に並べて、オペラグラスと天文趣味の結びつきを視覚化しました。


オペラグラスについては贅言無用と思います。
天界散歩の友としては、スパイグラスよりも一層スマートで、観劇帰り、手にしたバッグからひょいと取り出して、今度は星たちのドラマを眺める…なんていう洒落た紳士や淑女もいたことでしょう。

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ところで、サーヴィスの本の中身ですが、こちらは現代の観測ガイドとほとんど変わりません。

(サーヴィスの本の目次)

章立ては季節ごとになっていて、そのときどきの空の見所を図入りで紹介しています。


春は北斗の季節。
今だと、ちょうど夜の9時ごろに高々と空にのぼった姿が眺められます。

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同時にこの前後、大空から天の川の姿がいっとき消えます(条件の良いところならば、地平線に沿って天の川がぐるりと一周しているのが見えるはずですが、それは望みがたいでしょう)。このとき、日本の地平面は、ちょうど銀河面と同一になり、我々はまさに銀河の只中に身を置いて、天頂高く銀河北極を眺める格好になります。そして、そこからは何十億光年も彼方の光が、微かに、しかし確実に我々の元まで降り注いでいるのです。

…ありふれた日常の中でも、そんな壮大なイメージで、世界そのものを感じ取れるのが、天文趣味の妙味。

空の旅(13)…スパイグラス2017年05月02日 09時15分54秒

天文趣味というのは、抽象的に宇宙に憧れるばかりでなしに、多くの場合、自分自身の目で、宇宙の深淵を覗き込みたいという方向に、(たぶん)自ずと向かうものです。

…というか、私がイメージする天文趣味は「天体観測趣味」とニアイコールで、そうした「趣味の天体観測」という行為が成立したのが、たぶん1800年前後だろうと踏んでいます。(最初期の天体観測ガイドブックの登場が、19世紀の第1四半期であることが、その主たる根拠です。)

19世紀の100年間、時を追うごとに、天文趣味はポピュラーなものとなっていきました。そして、当時、本格的な天体望遠鏡に手の届かない人たちが頼ったのが、多段伸縮式のスパイグラス(遠眼鏡)や、手近なオペラグラスでした。(19世紀前半には、天体望遠鏡の量産体制自体なかったので、財力の多寡を問わず、そうせざるを得ない面もありました。)

それらは、天体観測用途のスペックこそ満たしていませんでしたが、月のクレーターや、木星の4大衛星の存在なんかは教えてくれたでしょうし、何よりも肉眼では見えない微かな星を見せてくれることで、人々の「星ごころ」を強く刺激したことでしょう。

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その辺のことを表現したくて、今回の展示では、スパイグラスとオペラグラスを並べました。


木製鏡筒の古い遠眼鏡。

「1800年頃にイギリスで作られた小型望遠鏡。「昼夜兼用(Day or Night)」をうたっていますが、あまり天体観測の役には立たなかったろうと思います。それでも、こうした小さな望遠鏡を空に向けて、熱心に「宇宙の秘密」を覗き込もうとした人も大勢いたことでしょう。」


真鍮の筒をぐっと伸ばして、空をふり仰げば


この小さなレンズを通して、広大な宇宙の神秘が、かすかにその尻尾をひらめかせた…かもしれません。少なくとも、この筒を手にした人は、そう信じたことでしょう。

(この項つづく。次回はオペラグラス)

星を見上げる夢のおうち2017年04月23日 11時16分20秒

「空の旅」の途中ですが、この辺で箸休めです。

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今日の朝刊を開いたら、紙面の隅にこんな広告が載っていました。


昨日から、愛知県の刈谷市美術館で始まった、「描かれた大正モダン・キッズ 婦人之友社 『子供之友』 原画展」の案内です。(会期は4月22日~6月4日。詳細はこちら
 
これまで東京や兵庫を回って来た巡回展で、6月以降は、山形県の天童市美術館が会場になるそうです。

で、この広告に目が留まったのは、そこに使われた村山知義(1901-1977)の表紙絵が、あまりにも印象的だったからです。

(上記刈谷市美術館のサイトより寸借)

チラシ掲載の画像だと、元はこんな色合いで、1924年(大正13年)という発表年を考えると、これはもうモダンの一語に尽きます。


震災の翌年、当時まだ20代前半の新進モダニスト・村山がイメージしたところの、「一人の少女の目を通して見た理想の家」の姿がこれです。

家の中には犬がいて、ネコがいて、人形芝居が演じられるかと思えば、みんなで楽器を演奏し、気が向けば油絵を描き、そして天窓から望遠鏡で星を眺める…

旧来の家族制度を脱した、友愛に基づく人のつながり。
芸術と科学が日常に溶け込んだ生活。

これぞ大正モダニズムに裏打ちされた理想主義で、付言すれば、そこにトルストイ的な土の匂いを混ぜ込んだのが、やはり大正末期に、宮沢賢治が羅須地人協会で目指したライフスタイルなのでしょう。

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この絵では、星を眺めることが、絵画や音楽と並立する活動としてイメージされており、当時は金色に光る望遠鏡が、キャンバスやギターやピアノと同様の色合いを持っていた…というのが、天文趣味史的には興味深い点です。

要は、天体望遠鏡はハイカルチャーの象徴であったわけですが、でも同時に、それは天体観測がホビーとして人々の間に根付きつつあったこと、そして天文学が象牙の塔や一部の富者の元から、市井の人々の手の届くところまでやってきたことを意味しています。

まあ、大正時代の日本の現実はともかく、イメージとしては確かにそうで、震災の前後から一般向け天文書の出版点数は急速に増え、このあと野尻抱影は「時の人」となっていきました。

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望遠鏡イメージのポピュラライズについては、「空の旅」の最後の方で、もう一度言及します。

日本のグランドアマチュア天文家(5)2017年03月16日 22時57分18秒

萑部氏自身のことは不明ですが、萑部氏が所有していた望遠鏡(あるいは反射鏡)については、前々回も引用したように、戦後、横浜で開催された博覧会に出品された…という情報があります。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤),6吋屈折(赤)などを持ち、〔…〕その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品)を持っており,これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」 (『正編』、p.319)

さらに『続編』には、

 「兵庫県の萑部進は26cm反射を1933年に購入した。架台は西村のドイツ式赤道儀で、後にリンスコットの46cm反射を輸入し換装、15cmのレイの屈折が同架された。この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」 (『続編』、p.282-3)

とも書かれています(筆者は冨田弘一郎氏)。

後者の記述によれば、萑部氏の「六甲星見台」のメイン機材は、木辺氏が手がけた例の26cm反射鏡から、元々手元にあった46cmリンスコット製反射鏡に置き換えられたというのですが、戦況の緊迫する時期にあって、それが出来たとは到底思えないので、これは「後に…輸入し」というのと併せて、誤伝でしょう。46cm鏡は、『正編』の記述のとおり、望遠鏡未満の単品の状態で手元に留め置かれたものと思います。

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その巨大な反射鏡が、戦後、横浜で開催された博覧会(正式名称は「日本貿易博覧会」。会期は、昭和24年(1949)3月15日~6月15日)に出品された…というのも、何だか茫洋とした話ですが、この件については、天文古書の販売で有名な「いるか書房」さんが、詳しく調べて記事にされています。

昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書

ここでも諸説紛々、関係者の証言は互いに矛盾・錯綜しているものの、それらを取捨して、ある程度蓋然性のあるストーリーを組み立てると、横浜の博覧会に展示されたのは、たしかに萑部氏の望遠鏡であり、その前後の事情は以下のように想像されます。

すなわち、

○萑部氏は戦後、自機一式(26cm反射望遠鏡、同架の15cm屈折望遠鏡、西村製架台、そして46cm反射鏡)を、すべて手放すことにした。
○ちょうど博覧会の準備を進めていた横浜市が、それを購入。
○横浜市は、五藤光学に望遠鏡のレストアを依頼。
○五藤光学は46cm用鏡筒を新たに製作し、26cm望遠鏡と換装。
○こうして、旧蔵者の萑部氏が待ち焦がれた46cm望遠鏡がついに完成した。

…という筋書きです。

これは、博覧会の絵葉書に写っている望遠鏡(いるか書房さんの上記ページ参照)と、木辺氏の記事に載っている望遠鏡の架台(ピラー)の形状がよく似ていると同時に、望遠鏡本体は明らかに大型化しているという、至極単純な理由に基づく想像なので、全然違っているかもしれませんが、でも、あり得ないことではないでしょう。

   ★

この望遠鏡と、それを収めた「天文館」は、博覧会終了後も、そのまま公共天文台としてアマチュアにも開放されていたようですが、望遠鏡の方は後に横浜学園(上で引用した冨田氏は「横浜学院」と書いていますが、これは横浜学園が正しい由)に譲られ、今も同校にあるそうです。

上の推測が正しくて、戦前のグランドアマチュアの残り香が、かすかに浜風に乗って漂っているのだとしたら、ちょっと嬉しい気がします。


【付記】

いるか書房さんが引用されている諸々の記事の中には、横浜に伝わった望遠鏡を「英国トムキンス製」とするものがあります。また、萑部氏が輸入した鏡面は、同じ英国の「リンスコット製」だと伝えられます。このトムキンスにしろ、リンスコットにしろ、あまり聞き慣れないメーカーなので、以下にちょっと確認しておきます。

   ★

まず、「英国トムキンス」というのは、誤伝ではないでしょうか。
いるか書房さんも言及されていますが、トムキンスというのは、戦前を代表する大型望遠鏡である、京大の生駒山天文台の60cm反射望遠鏡の製作者として知られ、「大型望遠鏡といえばトムキンス」というイメージから、どこかで話が混線したように思います。そもそもトムキンスはイギリスではなくアメリカの人です。

下の大阪朝日の記事は、「アメリカのアマチュア天文学徒トムキンス氏」と記しており、その伝は未詳ですが、専業メーカーではなく、当時アメリカで熱を帯びていたATM(Amateur Telescope Making)、すなわち熱心な鏡面自作マニアの一人でしょう。なお、この60cm望遠鏡は、1972年、生駒山太陽観測所の閉鎖とともに飛騨天文台に移され、今も現役です。

2017年4月8日付記: 生駒から飛騨に移設された60cm反射望遠鏡は、トムキンス望遠鏡とは別の望遠鏡であることを、コメント欄でご教示いただきました。ここに訂正しておきます。詳細はコメント欄をご覧ください。】

大阪朝日新聞 1940.5.17 (神戸大学 新聞記事文庫)

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一方、リンスコットというのは、イギリスの有名な鏡面製作者ウィズ(George Henry With、1827-1904)が引退して商売をたたんだ後、その用具一式を買い取って、鏡面製作に励んだ J. Linscott のことだと思います。ドーバー海峡沿いのラムズゲートの町で、鏡面作りを商売にしたリンスコットのことは、「Journal of the British Astronomical Association」に載った下記論文の巻末註9にチラッと出ています。

■Jeremy Shears: The controversial pen of Edwin Holmes.


巨砲、星を撃つ2016年11月05日 09時25分52秒

ベルリンにある、鏡筒長22メートルの巨大な望遠鏡を、かつて話題にしました。


アルヒェンホルト天文台…天空をにらむ巨人砲
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/06/18/

この怪物じみた「巨人砲」の85年前の姿を、しかもそれがゴゴゴゴ…と動いて空の一点に照準を合わせるさまを、動画で見られるよ…と、先日、天文学史のメーリングリストで教えてもらいました。



フルスクリーンモードで見ると、ものすごい迫力です。

観測台が接眼部にぶら下がって動くので、筒先が空のどこを向いても楽々観測できるというこの望遠鏡のメリットも、動画で見ればただちに納得です。
そして、映像の中に登場する白ひげの男性こそ、この望遠鏡の建造者であるフリードリヒ・アルヒェンホルト博士(1860-1939)の晩年の姿の由。

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ひとたびこの巨砲が火を噴けば、小惑星なんか木っ端みじんだし、そこから放たれた砲弾は、たちどころに月面に突き刺さるはずです。

天文古書に時は流れる(1)…天文台と機材2016年09月06日 06時09分15秒

(前回のつづき)

一口に「天文古書」といいますが、その古さもいろいろです。
例えば200年前の本と100年前の本では、そこに100年の時代差があるので、同じ「昔」といっても、その「昔」の指し示すものはずいぶん違います。

ここでウーレの『星界の驚異』を素材に、天文古書に刻まれた時代について、ちょっと考えてみます。

   ★


前回登場した、4種の『星界の驚異』。

いちばん上の1860年版から、その下の1923年版まで、経過した時の流れは63年間。普通に考えても、結構長い時間ですが、さらに科学技術の進歩という点から考えると、この60年余りは、とても大きな変化のあった時代です。


これが1860年版のタイトルページ。
天文学を象徴するイコンを並べたのでしょうが、いかにも古風な感じがします。


こうした図像は、1883年版の表紙↑にも登場しており、そこに連続性も感じますが、イメージはともかく、両者を隔てる23年間に、天文学のハード面はずいぶん変わりました。

例えば、その最先端の現場である天文台と機材の図を見比べてみます。
以下3枚は、1860年版に描かれた天文台と“大型”機材のイメージ。




その後、1883年版になると、天文台のイメージは下のように変わります。



端的にいって、19世紀の後半は機材の大型化が目覚ましく進んだ時代で、それとともに天文学はきっちり組織化されたビッグサイエンスとなり、アマチュアとプロの差も歴然となったのでした。

すぐ上の図はウィーン天文台の内部を描いたものですが、これは1900年版にもそのまま登場します。そして1923年版になると、天文台のイメージはさらにこう変わります。


カリフォルニアのウィルソン山天文台の150cm径反射望遠鏡の雄姿。
この一枚の写真こそ、天文学の変化を雄弁に物語るものです。

即ちこの23年間に、
 天文学研究の中心は、ヨーロッパからアメリカと移り、
  大望遠鏡の主流は、屈折式から反射式になり、
   第一線の天文台は街を離れ、高山の頂に移動したのです。

(画像再掲)

雪山の上に輝く満天の星と、それを眺める孤独な男という1923年版の表紙絵も、そうした時代の変化を反映したものと思います。

   ★

そして、時代の変化は、描かれた機材に読み取れるばかりではありません。

(この項つづく)

飛行機乗りと天文台2016年08月20日 17時56分29秒

1枚の絵葉書から、またぞろいろいろ思いを馳せることにします。


石版刷りの古ぼけた絵葉書です。おそらくは1930~40年代のものでしょう。


居館風の建物の屋上に設けられた小さなドームと、そのスリットから覗く、小型の機材。

その「程のよい小ささ」が、いかにも居心地が良さそうで、「アマチュア天文家の夢の城」の印象を生んでいます。ドーム脇の屋上を飾るチェッカーボード模様も洒落ているし、周囲の緑の丘も、のどかで気落ちの良い風景を作っています。

こんなところに住んで、のんびり望遠鏡を覗いて暮らせたら…ということを考えて、この絵葉書を手にしました。

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では、この素敵な天文台はいったいどこにあるのか?


その手がかりは、言うまでもなくキャプションで、ググってみれば、これが「短焦点の彗星捜索用望遠鏡を覆う東側ドームの光景」を意味する、チェコ語ないしスロバキア語であることが分かります。


さらに裏面を見れば、これはプラハに現存する「シュテファーニク天文台(チェコ語:Štefánikova hvězdárna)」の絵葉書なのでした。

シュテファーニク天文台 (公式サイト英語ページ)
 http://www.observatory.cz/english.html

場所はプラハの中心部、以前取り上げたプラハの天文時計とは、ブルタバ(モルダウ)川をはさんで反対側になりますが、そこに広がる広大なペトシーン公園の丘の上に、シュテファーニク天文台はあります。

(ウィキペディア掲載の現在のシュテファーニク天文台の姿。右手の緑青色のドームが、絵葉書に写っている「東側ドーム」。1970年代に改装されたせいで、屋上回りの様子が、絵葉書とはちょっと違います。)

この天文台が開設されたのは1928年だそうですから、そう古い施設ではありません。
そして、専門的な研究施設というよりは、教育プログラム主体の、市民向け公開天文台です。

しかし、その中央メインドームに据付けた機材は、ウィーンの熱心なアマチュア天文家にして、有名な月面観測者だった、ルドルフ・ケーニヒ(1865-1927)の巨大な愛機を移設したものであり、現在、西側ドームには37cm径マクストフ=カセグレンが、そして東側ドームには40cm径のミード製反射望遠鏡が設置されていて、公共天文台としては十分すぎる設備を有しています。

   ★

この天文台で見るべきものは、その機材ばかりではありません。
それが秘めている物語は、何よりもそのネーミングにあります。
「シュテファーニク」とは人の名前です。といって、この天文台を作った人ではありません。

(天文台の正面に立つ、ミラン・シュテファーニクの像。ウィキペディアより)

何でこんな飛行機乗りの格好をした人が、天文台と関係あるのかといえば、この人は飛行機乗りであると同時に、天文学者であり、そしてチェコスロバキア独立のヒーローだからです。そういう傑物を偲んで、この天文台は作られました。

さして長文ではないので、以下、ウィキペディアからそっくり引用します。

 「ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(Milan Rastislav Štefánik、1880年7月21日―1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。

 オーストリア・ハンガリー帝国領内(現在のスロバキア北西部)のコシャリスカーで生まれる。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。主に太陽(とくにコロナ)の観測・研究に従事した。1912年フランス市民権を取得。

 第一次世界大戦が始まると、フランス軍のパイロットとして参加するとともに、パリを拠点にマサリクやベネシュとともにチェコスロバキア国民委員会を設立して、独立に向けた外交活動を展開した。またチェコスロバキア軍団を組織し、その指導に当たった。このような外交努力によって、協商国側からチェコスロバキアの独立に対する支持を取り付けることに成功した。

 1919年、イタリアからスロバキアへ飛行機で帰国する途中、墜落事故のため死去。」

(軍服姿のシュテファーニク。出典:http://www.tfsimon.com/stefanik-note.htm

こういうのを、単純に「カッコイイ」と形容するのは軽薄でしょう。
しかし、学問を愛し、空を愛し、そして歴史の壮図に自分を賭けた、一人の人間の生き様は、心に強く響きます。少なくとも、安逸な生活に憧れ、静かな場所で望遠鏡をのんびり眺めて過ごしたい…と願うような男(私)に、彼の生き方は強く省察を迫るものがあります。

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私はシュテファーニクのことも、チェコスロバキアの独立運動のことも、ついさっきまで知らずにいました。私だけでなく、東欧の近代史に関心のある人を除けば、この辺は知識の空白になっている方が多いのではないでしょうか。

世界は有名無名のドラマに満ちています。
まあ、ちっともドラマチックではない、平凡な日常こそ貴いというのも真実でしょうが、ときにはドラマに触れることも、日常を振り返る上で大切なことと思います。

(シュテファーニクが勤務したパリ天文台ムードン観測所の上を飛ぶ複葉機。この絵葉書は、かつてタルホ氏に捧げましたが、今一度シュテファーニク氏にも捧げます。)