日本のグランドアマチュア天文家(5)2017年03月16日 22時57分18秒

萑部氏自身のことは不明ですが、萑部氏が所有していた望遠鏡(あるいは反射鏡)については、前々回も引用したように、戦後、横浜で開催された博覧会に出品された…という情報があります。

 「萑部夫妻は10吋反射(赤),6吋屈折(赤)などを持ち、〔…〕その他に18吋・リンスコット反射鏡(未組立品)を持っており,これは戦後横浜市で開かれた産業貿易博覧会に出品された。」 (『正編』、p.319)

さらに『続編』には、

 「兵庫県の萑部進は26cm反射を1933年に購入した。架台は西村のドイツ式赤道儀で、後にリンスコットの46cm反射を輸入し換装、15cmのレイの屈折が同架された。この望遠鏡は戦後初の博覧会である横浜野毛山の平和博覧会に出品され、横浜市に移管、現在は横浜学院にある。」 (『続編』、p.282-3)

とも書かれています(筆者は冨田弘一郎氏)。

後者の記述によれば、萑部氏の「六甲星見台」のメイン機材は、木辺氏が手がけた例の26cm反射鏡から、元々手元にあった46cmリンスコット製反射鏡に置き換えられたというのですが、戦況の緊迫する時期にあって、それが出来たとは到底思えないので、これは「後に…輸入し」というのと併せて、誤伝でしょう。46cm鏡は、『正編』の記述のとおり、望遠鏡未満の単品の状態で手元に留め置かれたものと思います。

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その巨大な反射鏡が、戦後、横浜で開催された博覧会(正式名称は「日本貿易博覧会」。会期は、昭和24年(1949)3月15日~6月15日)に出品された…というのも、何だか茫洋とした話ですが、この件については、天文古書の販売で有名な「いるか書房」さんが、詳しく調べて記事にされています。

昭和24年 日本貿易博覧会 望遠鏡の絵葉書

ここでも諸説紛々、関係者の証言は互いに矛盾・錯綜しているものの、それらを取捨して、ある程度蓋然性のあるストーリーを組み立てると、横浜の博覧会に展示されたのは、たしかに萑部氏の望遠鏡であり、その前後の事情は以下のように想像されます。

すなわち、

○萑部氏は戦後、自機一式(26cm反射望遠鏡、同架の15cm屈折望遠鏡、西村製架台、そして46cm反射鏡)を、すべて手放すことにした。
○ちょうど博覧会の準備を進めていた横浜市が、それを購入。
○横浜市は、五藤光学に望遠鏡のレストアを依頼。
○五藤光学は46cm用鏡筒を新たに製作し、26cm望遠鏡と換装。
○こうして、旧蔵者の萑部氏が待ち焦がれた46cm望遠鏡がついに完成した。

…という筋書きです。

これは、博覧会の絵葉書に写っている望遠鏡(いるか書房さんの上記ページ参照)と、木辺氏の記事に載っている望遠鏡の架台(ピラー)の形状がよく似ていると同時に、望遠鏡本体は明らかに大型化しているという、至極単純な理由に基づく想像なので、全然違っているかもしれませんが、でも、あり得ないことではないでしょう。

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この望遠鏡と、それを収めた「天文館」は、博覧会終了後も、そのまま公共天文台としてアマチュアにも開放されていたようですが、望遠鏡の方は後に横浜学園(上で引用した冨田氏は「横浜学院」と書いていますが、これは横浜学園が正しい由)に譲られ、今も同校にあるそうです。

上の推測が正しくて、戦前のグランドアマチュアの残り香が、かすかに浜風に乗って漂っているのだとしたら、ちょっと嬉しい気がします。


【付記】

いるか書房さんが引用されている諸々の記事の中には、横浜に伝わった望遠鏡を「英国トムキンス製」とするものがあります。また、萑部氏が輸入した鏡面は、同じ英国の「リンスコット製」だと伝えられます。このトムキンスにしろ、リンスコットにしろ、あまり聞き慣れないメーカーなので、以下にちょっと確認しておきます。

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まず、「英国トムキンス」というのは、誤伝ではないでしょうか。
いるか書房さんも言及されていますが、トムキンスというのは、戦前を代表する大型望遠鏡である、京大の生駒山天文台の60cm反射望遠鏡の製作者として知られ、「大型望遠鏡といえばトムキンス」というイメージから、どこかで話が混線したように思います。そもそもトムキンスはイギリスではなくアメリカの人です。

下の大阪朝日の記事は、「アメリカのアマチュア天文学徒トムキンス氏」と記しており、その伝は未詳ですが、専業メーカーではなく、当時アメリカで熱を帯びていたATM(Amateur Telescope Making)、すなわち熱心な鏡面自作マニアの一人でしょう。なお、この60cm望遠鏡は、1972年、生駒山太陽観測所の閉鎖とともに飛騨天文台に移され、今も現役です。

大阪朝日新聞 1940.5.17 (神戸大学 新聞記事文庫)

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一方、リンスコットというのは、イギリスの有名な鏡面製作者ウィズ(George Henry With、1827-1904)が引退して商売をたたんだ後、その用具一式を買い取って、鏡面製作に励んだ J. Linscott のことだと思います。ドーバー海峡沿いのラムズゲートの町で、鏡面作りを商売にしたリンスコットのことは、「Journal of the British Astronomical Association」に載った下記論文の巻末註9にチラッと出ています。

■Jeremy Shears: The controversial pen of Edwin Holmes.


巨砲、星を撃つ2016年11月05日 09時25分52秒

ベルリンにある、鏡筒長22メートルの巨大な望遠鏡を、かつて話題にしました。


アルヒェンホルト天文台…天空をにらむ巨人砲
 http://mononoke.asablo.jp/blog/2007/06/18/

この怪物じみた「巨人砲」の85年前の姿を、しかもそれがゴゴゴゴ…と動いて空の一点に照準を合わせるさまを、動画で見られるよ…と、先日、天文学史のメーリングリストで教えてもらいました。



フルスクリーンモードで見ると、ものすごい迫力です。

観測台が接眼部にぶら下がって動くので、筒先が空のどこを向いても楽々観測できるというこの望遠鏡のメリットも、動画で見ればただちに納得です。
そして、映像の中に登場する白ひげの男性こそ、この望遠鏡の建造者であるフリードリヒ・アルヒェンホルト博士(1860-1939)の晩年の姿の由。

   ★

ひとたびこの巨砲が火を噴けば、小惑星なんか木っ端みじんだし、そこから放たれた砲弾は、たちどころに月面に突き刺さるはずです。

天文古書に時は流れる(1)…天文台と機材2016年09月06日 06時09分15秒

(前回のつづき)

一口に「天文古書」といいますが、その古さもいろいろです。
例えば200年前の本と100年前の本では、そこに100年の時代差があるので、同じ「昔」といっても、その「昔」の指し示すものはずいぶん違います。

ここでウーレの『星界の驚異』を素材に、天文古書に刻まれた時代について、ちょっと考えてみます。

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前回登場した、4種の『星界の驚異』。

いちばん上の1860年版から、その下の1923年版まで、経過した時の流れは63年間。普通に考えても、結構長い時間ですが、さらに科学技術の進歩という点から考えると、この60年余りは、とても大きな変化のあった時代です。


これが1860年版のタイトルページ。
天文学を象徴するイコンを並べたのでしょうが、いかにも古風な感じがします。


こうした図像は、1883年版の表紙↑にも登場しており、そこに連続性も感じますが、イメージはともかく、両者を隔てる23年間に、天文学のハード面はずいぶん変わりました。

例えば、その最先端の現場である天文台と機材の図を見比べてみます。
以下3枚は、1860年版に描かれた天文台と“大型”機材のイメージ。




その後、1883年版になると、天文台のイメージは下のように変わります。



端的にいって、19世紀の後半は機材の大型化が目覚ましく進んだ時代で、それとともに天文学はきっちり組織化されたビッグサイエンスとなり、アマチュアとプロの差も歴然となったのでした。

すぐ上の図はウィーン天文台の内部を描いたものですが、これは1900年版にもそのまま登場します。そして1923年版になると、天文台のイメージはさらにこう変わります。


カリフォルニアのウィルソン山天文台の150cm径反射望遠鏡の雄姿。
この一枚の写真こそ、天文学の変化を雄弁に物語るものです。

即ちこの23年間に、
 天文学研究の中心は、ヨーロッパからアメリカと移り、
  大望遠鏡の主流は、屈折式から反射式になり、
   第一線の天文台は街を離れ、高山の頂に移動したのです。

(画像再掲)

雪山の上に輝く満天の星と、それを眺める孤独な男という1923年版の表紙絵も、そうした時代の変化を反映したものと思います。

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そして、時代の変化は、描かれた機材に読み取れるばかりではありません。

(この項つづく)

飛行機乗りと天文台2016年08月20日 17時56分29秒

1枚の絵葉書から、またぞろいろいろ思いを馳せることにします。


石版刷りの古ぼけた絵葉書です。おそらくは1930~40年代のものでしょう。


居館風の建物の屋上に設けられた小さなドームと、そのスリットから覗く、小型の機材。

その「程のよい小ささ」が、いかにも居心地が良さそうで、「アマチュア天文家の夢の城」の印象を生んでいます。ドーム脇の屋上を飾るチェッカーボード模様も洒落ているし、周囲の緑の丘も、のどかで気落ちの良い風景を作っています。

こんなところに住んで、のんびり望遠鏡を覗いて暮らせたら…ということを考えて、この絵葉書を手にしました。

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では、この素敵な天文台はいったいどこにあるのか?


その手がかりは、言うまでもなくキャプションで、ググってみれば、これが「短焦点の彗星捜索用望遠鏡を覆う東側ドームの光景」を意味する、チェコ語ないしスロバキア語であることが分かります。


さらに裏面を見れば、これはプラハに現存する「シュテファーニク天文台(チェコ語:Štefánikova hvězdárna)」の絵葉書なのでした。

シュテファーニク天文台 (公式サイト英語ページ)
 http://www.observatory.cz/english.html

場所はプラハの中心部、以前取り上げたプラハの天文時計とは、ブルタバ(モルダウ)川をはさんで反対側になりますが、そこに広がる広大なペトシーン公園の丘の上に、シュテファーニク天文台はあります。

(ウィキペディア掲載の現在のシュテファーニク天文台の姿。右手の緑青色のドームが、絵葉書に写っている「東側ドーム」。1970年代に改装されたせいで、屋上回りの様子が、絵葉書とはちょっと違います。)

この天文台が開設されたのは1928年だそうですから、そう古い施設ではありません。
そして、専門的な研究施設というよりは、教育プログラム主体の、市民向け公開天文台です。

しかし、その中央メインドームに据付けた機材は、ウィーンの熱心なアマチュア天文家にして、有名な月面観測者だった、ルドルフ・ケーニヒ(1865-1927)の巨大な愛機を移設したものであり、現在、西側ドームには37cm径マクストフ=カセグレンが、そして東側ドームには40cm径のミード製反射望遠鏡が設置されていて、公共天文台としては十分すぎる設備を有しています。

   ★

この天文台で見るべきものは、その機材ばかりではありません。
それが秘めている物語は、何よりもそのネーミングにあります。
「シュテファーニク」とは人の名前です。といって、この天文台を作った人ではありません。

(天文台の正面に立つ、ミラン・シュテファーニクの像。ウィキペディアより)

何でこんな飛行機乗りの格好をした人が、天文台と関係あるのかといえば、この人は飛行機乗りであると同時に、天文学者であり、そしてチェコスロバキア独立のヒーローだからです。そういう傑物を偲んで、この天文台は作られました。

さして長文ではないので、以下、ウィキペディアからそっくり引用します。

 「ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(Milan Rastislav Štefánik、1880年7月21日―1919年5月4日)は、スロバキアの軍人、政治家、天文学者。第一次世界大戦中にトマーシュ・マサリクやエドヴァルド・ベネシュとともにチェコスロバキアの独立運動を率いた中心的人物。

 オーストリア・ハンガリー帝国領内(現在のスロバキア北西部)のコシャリスカーで生まれる。1900年に入学したカレル大学では、哲学の講義でトマーシュ・マサリクと知遇を得て、チェコ人とスロバキア人が協力する重要性を強く認識するようになった。カレル大学では、哲学のほか、物理学や天文学について知識を深めた。1904年にパリに移り、ピエール・ジャンサンに才能を見出され、パリ天文台に職を得る。主に太陽(とくにコロナ)の観測・研究に従事した。1912年フランス市民権を取得。

 第一次世界大戦が始まると、フランス軍のパイロットとして参加するとともに、パリを拠点にマサリクやベネシュとともにチェコスロバキア国民委員会を設立して、独立に向けた外交活動を展開した。またチェコスロバキア軍団を組織し、その指導に当たった。このような外交努力によって、協商国側からチェコスロバキアの独立に対する支持を取り付けることに成功した。

 1919年、イタリアからスロバキアへ飛行機で帰国する途中、墜落事故のため死去。」

(軍服姿のシュテファーニク。出典:http://www.tfsimon.com/stefanik-note.htm

こういうのを、単純に「カッコイイ」と形容するのは軽薄でしょう。
しかし、学問を愛し、空を愛し、そして歴史の壮図に自分を賭けた、一人の人間の生き様は、心に強く響きます。少なくとも、安逸な生活に憧れ、静かな場所で望遠鏡をのんびり眺めて過ごしたい…と願うような男(私)に、彼の生き方は強く省察を迫るものがあります。

   ★

私はシュテファーニクのことも、チェコスロバキアの独立運動のことも、ついさっきまで知らずにいました。私だけでなく、東欧の近代史に関心のある人を除けば、この辺は知識の空白になっている方が多いのではないでしょうか。

世界は有名無名のドラマに満ちています。
まあ、ちっともドラマチックではない、平凡な日常こそ貴いというのも真実でしょうが、ときにはドラマに触れることも、日常を振り返る上で大切なことと思います。

(シュテファーニクが勤務したパリ天文台ムードン観測所の上を飛ぶ複葉機。この絵葉書は、かつてタルホ氏に捧げましたが、今一度シュテファーニク氏にも捧げます。)

日英交流を祝う望遠鏡2016年08月13日 08時06分52秒

イギリスの天文史学会Society for the History of Astronomy ; SHA)というのは、アマチュアも多く参加している、いわば好事な趣味人の集まりです。少なくとも、こんないでたちで、古い天文台の廃墟を訪ねるぐらいには好事な人たちです。


そして、ここは誰にでも開かれている団体です。私もその末席に連なって、紀要やニューズレターを送ってもらっているのですが、最新の紀要(Bulletin Issue25、2016春号)を見ていたら、「Japan」の文字が目に付きました。


「何かな…?」と目をこらすと、「ジャパン400委員会が贈呈した天体望遠鏡」と題する記事で、今から3年前の2013年に、日英交流400周年記念行事の一環として、イギリス側から日本に贈られた1台の望遠鏡を紹介する内容でした。

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日英交流400周年と望遠鏡がどう関係するかといえば、1613年、時の国王ジェームズ1世が、徳川家康に書状を添えて望遠鏡を贈ったことがあって、その望遠鏡の現物はすでに失われているのですが、この故事にちなんで、改めてイギリスから日本に望遠鏡を贈ろう…というアイデアが出されたのでした(実際に望遠鏡が発注されたのは2012年のことです)。

その後、望遠鏡はロンドン、ケンブリッジ、さらに東京の駐日イギリス大使館を経て、日本各地を巡回し、今年の6月にようやく最終目的地である、家康ゆかりの駿府城に落ち着きました。


日英友好の望遠鏡復元 家康ゆかりの地に展示 静岡 (静岡新聞2016/6/22)
 http://www.at-s.com/news/article/culture/shizuoka/253051.html

そんなわけで、ニュースとしてはさほど旧聞というわけでもないのですが、国内報道の記事には、いくぶん不正確な点が目につきます。

たとえば、この望遠鏡は、家康に贈られた望遠鏡の「復元品」ではなく、今回のイベント用に特注されたオリジナルです。また、その焦点距離は1000ミリちょうどですから、「全長1.8メートル」というのは、明らかに過大です。また金メッキも施されていません(その黄金色はブラスそのものの輝きです)。

…というわけで、日英修好のために、ここにより正確なところを記しておきます。
何と言っても、上の紀要記事の著者、 Ian Poyser さんは、この望遠鏡を製作した本人なので、望遠鏡の詳細について書くには、これ以上の人はいません。

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イアン・ポイザーさん(とお読みすると思うのですが、ひょっとしたら特殊な読み方をするかもしれません)は、ウェールズで、望遠鏡の注文製作を仕事にされている方です。

ポイザーさんは、望遠鏡の歴史的経緯を略説し、当時この望遠鏡に関わった2人の人物――ジェームズ1世の指南役だった、初代ソールズベリー伯 ロバート・セシルと、英国船を歓待した初代平戸藩主・松浦法印(諱は鎮信 しげのぶ)――の子孫が、400年後に顔を合わせて、改めて望遠鏡の授受をしたくだりを親しく記します。

当代のソールズベリー侯(今は侯爵だそうです)が、当代の松浦章氏に望遠鏡を手渡す場面や、それがロンドン塔に置かれた家康寄贈の甲冑の前に展示されている場面などは、なるほど歴史性に富み、絵になるシーンです。

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で、肝心の望遠鏡本体についてですが、ポイザーさんは「Technical description of the Japan400 Presentation Telescope」の節で詳述しているので、それをかいつまんで紹介しておきます。

 「ジャパン400委員会のために製作した望遠鏡は、寄贈用の品であり、セレモニーで用いられる贈呈品なので、持ち運びの便を考慮し、我が社が扱う通常の天体望遠鏡よりも小型化する必要があった。我々は研摩した真鍮製天体望遠鏡を経緯台に乗せ、同じく研摩した真鍮製の付属品を備えたオーク製三脚で支えることにした。」

以下、基本スペックです。

対物レンズは、イギリス製の2枚玉アクロマートで、レンズ径86mm、焦点距離は1000mm。接眼レンズは、焦点距離35mmのプローセル式で、前記の対物レンズと組み合わせることで、29倍の倍率が出ます。

鏡筒は引抜成型の真鍮筒で、チューブ径は3.5インチ(約8.9cm)、ここに合焦用のドローチューブが2つ付きます。1つはラックピニオン式の2インチ径(約5.1cm)チューブ、もう1つはさらにその内部に入った押し引き式の粗動チューブで13/8インチ径(約4.1cm)で、焦点を合わせた状態だと、全体の鏡筒長は42インチ(約107cm)ほどになります。

付属の十字線入りファインダーは口径25mm、倍率は10倍。

経緯台付きのオーク製三脚は、高さ53インチ(約1.35m)で、望遠鏡を取り付けたときの、望遠鏡の中心線までの高さは61インチ(約1.55m)になります。

望遠鏡を収めた箱は、ウェールズ在住の家具職人、S. Gates氏の力作で、釘やネジを一切使わずに組まれた職人技の賜物です。

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…と、訳知り顔で引用したものの、実は上の記事はポイザーさんのサイトに発表済みのものを、SHAの紀要が再掲したもので、オリジナルの記事はネットでも読めます。ポイザーさんの手わざを、美しい写真と共にご覧ください。

(ポイザーさんのサイトのトップページ。左下から以下の記事にリンク)

The Japan400 Telescope
 http://www.irpoyser.co.uk/index.php?page=108

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歴史にはとげとげしいエピソードが多く、日英の封建君主の思惑も、到底「友情」などという代物ではなかったでしょうが、400年後にこのイベントを企画した人たちは、まぎれもなくフレンドシップに富んだ人たちであり、これはちょっといい話だと思いました。

月人発見2016年08月11日 09時04分57秒

最近の買い物から。


1920年頃のクロモリトグラフカード。
欄外のキャプションは、「天文学/間違いない、月には人が住んでるんだ。」

特に説明するまでもなく、少年天文家と、彼をからかう友人たちを描いたユーモラスで可愛い絵柄。色合いもすっきりとして、見ていて気持ちがいいです。


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このカードはちょうど絵葉書大ですが、絵葉書そのものではなくて、フランスのラウル靴店(Chaussures Raoul)の宣伝用カードです。


裏面には、「ラウル靴店 最新最高の品を、最低の価格で」という、同店の決まり文句が刷り込まれています。(パリが本店だと思いますが、このカードにはフランス中部・トゥールの街の支店住所が載っています。)

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そういえば、やっぱり「天文学」と題された、上のカードよりも一寸時代の古い宣伝カードがあったのを思い出しました。


あれも望遠鏡の筒先に何やらぶら下げて、覗き見る人に一種の暗示をかけようとしている絵柄でした。読み返すと何だか切ない記事ですが、当時の自分の心持ちを振り返り、興味深いといえば興味深いです。

紫煙と顕微鏡2016年04月10日 17時20分29秒

下に掲げたのは、イギリスのJohn Player & Sonsのシガレットカード。
「隠された美」と題する、1929年に出た25枚のセットです。
ご覧のとおり、顕微鏡観察をテーマにした、いかにも理科趣味に富んだシリーズ。


John Player & Sonsは19世紀の前半にさかのぼる古いタバコメーカーですが、1901年に他社と大同団結して「インペリアル・タバコ会社」を結成し、その子会社という位置づけになりました。

(常に絵になるボルボックス。英名は“Traveling Globes”)

1929年という年は、すでにヴィクトリア時代はおろか、エドワード時代も過去のものとなっていましたから、かつてイギリス中を席捲した博物趣味は影を潜め、辛うじてその名残が、こうして子供向けのシガレットカード(煙草を吸ったのはお父さんですが)から、かすかに紫煙のように立ち昇っているわけです。


カードの裏面、シリーズの第1番には「隠された美」のタイトルで、序文のようなものが記されています。

 「昼となく夜となく、我々の周囲には自然という絵本が常に開かれ、我々の美を愛する心に訴えかけている。そして自然の『限りなき秘密の書』の中に、その『隠された美』を覗き見ることも、我々には許されている。たとえ我々の目にはありふれて、些末で退屈なものに映ろうとも、顕微鏡で眺めると、そこにはしばしば思わぬ美しさが現れる。ヒキガエルの頭部に生ずるという伝説の宝石のように、『隠された美』は全く思いもよらぬ所に存在するのだ。」

さすがにもう「神の摂理」を云々する時代ではないですね。文章の書き手も、純粋に美的見地から顕微鏡趣味を語っています。

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このカードセットは、月兎社さんから青い箱に入って届きました。


シガレットカードの存在自体は、最初別の人から教えられたのですが、月兎社の主宰者である加藤郁美さんには、シガレット帖』(倉敷意匠計画室、2011)という美しい著書もあり、その不思議な魅力を教えていただいたのは、何といっても月兎社さんによるところが大きいです。

ちなみに、コレクター向けのカタログに記載された、このセットの2015年現在の評価額は7.5英ポンド、1,200円ぐらいだそうで、そう高いものではありません。手ごろな価格で楽しめるのも、シガレットカードの魅力の1つです。

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さて、今日のメモ書きは「顕微鏡の色」について。

19世紀の顕微鏡は、おおむね真鍮製で、表面はラッカー塗膜で保護され、まばゆい金色の光を放っていました。

その後、世紀の替わり目あたりから金属加工技術が様変わりして、各種の鋼材(鉄および鉄合金)が多用されるようになり、顕微鏡もアイアン・ボディに変身しました。同時に表面塗装も、ストーブ・エナメル(エナメル塗膜を加熱固化したもの)が主流になり、顕微鏡は金色から一転して「黒いもの」になったのです。(今では白い顕微鏡が主流ですが、ちょっと前まで、顕微鏡はおしなべて黒かったです。)

1920年代は、ちょうど真鍮と鉄が共存した時代で、黒いボディのあちこちに真鍮のパーツが金色に光っていました。そういう意味で、このシガレットカードに登場する顕微鏡の姿は、いかにも1920年代チックな感じがします。



めぐる命2016年03月19日 15時01分36秒

しばらくぶりに家でノンビリしています。
雨が上がり、空をゆく輪郭のぼやけた雲に、のどかな春を感じます。

こうして春が来て、夏になり、秋が来て、冬が来る。
仕事で忙しい忙しいと言いながら、その仕事だって、いずれは終わります。
そして、ぼんやりと季節の移ろいを眺めながら、死んでいくのでしょう。

私ぐらいの齢だと、まだ自分の死をそれほど切実に感じませんが、それでも他者の死はこれまでずいぶん目にしました。人はやっぱり死ぬものです。電車の中でも、「100年後には、ここにいる人はみんな居ないのだなあ…」と、何だか妙にしみじみすることがあります。

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命の不思議さを封じ込めた木箱。


中身は蛙の発生過程を示すプレパラート標本です。



受精卵から、桑実胚、嚢胚を経て原腸胚まで10枚がセットになっています。


第1プレパラートの受精卵と第10プレパラートの原腸胚後期の比較。
たった1個の細胞が分裂を繰り返し、消化管の基礎である原腸が形成される段階まで、通常の環境だとおよそ3日以内に完了します。

しかし、この3日間で個体が経験するものの何と大きなことか。
個体発生が系統発生を繰り返すというのは、今や古風な学説かもしれませんが、それでもやはりその変化は、単細胞生物から多細胞生物へという、何億年にも及ぶ進化の歴史に匹敵する大した「事件」なのだと思います。


このパースペクティブは、生命に刻まれた「時間」そのものです。

原腸胚のあとは、神経管が形成される神経胚、口と尾が形成される尾芽胚を経て、1匹のオタマジャクシになります。そしてその身体はさらに変化を続けてカエルとなり、次の世代を産み落とし、死んでいきます。

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メーカーの科学共栄社は、験電瓶の項に既出(http://mononoke.asablo.jp/blog/2014/05/20/7317102)。


文化を覗き見ること、最早叶わず。2016年03月06日 15時56分38秒



高さ20センチの古い木箱。


上下スライド式の扉には「文化顕微鏡」の文字。
この品は、過半この古風な文字に惹かれて買ったようなものです。


中身は当然ながら顕微鏡。


接眼レンズも対物レンズも固定された、戦前の児童・生徒用の小型顕微鏡です。


それにしても、時の流れの何と容赦ないことか。
かつて子供たちの憧れを一身に集めたであろう、つやつやしたボディも、今や錆と剥げが著しく、無残な姿です。




その鏡の面はすっかり曇り、


もはや文化の影を映さず。
嗚呼、文化教養ノ果ツルトキ、文化顕微鏡モ亦其ノ身ヲ空シクセムト欲スル乎…

   ★

ときにこの文化顕微鏡。
その大時代な名称と箱の書体から、いかにも明治・大正チックな匂いがしますが、特許番号を頼りに調べたら、昭和3年(1928)に作られたもので、存外新しいものでした。



何が新案特許で、何が文化かというと、光学系は特に関係なくて、鏡筒を上下してピントを合わせるラック・ピニオン機構に一工夫した点が新しい…ということのようです。

夢の望遠鏡、望遠鏡の夢2016年02月17日 19時36分48秒

来たる2016年3月13日は、日本のアマチュア天文家&望遠鏡愛好家にとって、記念すべき日になります。いや、日本ばかりでなく、世界中のファンにとってもそうでなるはずです。

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天文趣味の一大特徴は、星への愛とともに、機材への愛がうずまいていることです。
必ずしも全ての天文ファンが…というわけでもないのですが、リアル天文愛好家(望遠鏡で実際に星を眺めて楽しむ人)のうち、少なからぬ割合の人が、少なくとも一度は望遠鏡愛に目覚めたことがあるはず。これは、写真愛好家が同時にカメラマニアになるのと類似の現象です。

しかし、望遠鏡愛好家のその後のライフコースは様々です。
早くに熱が冷める人、ほどほどのところで落ち着く人、そして一生かけて機材愛を貫く人。そして、その陰で、あまたの望遠鏡が廃棄され(いちばん最後の幸福なパターンにしても、ご当人が亡くなられた後、その機材愛がご遺族に受け継がれる確率はきわめて低いのです)、貴重な光学文化遺産は日々失われつつあります。

この点は、各地の公立・私立の天文観測施設でも事情は同じです。機材の更新に伴う旧機材の廃棄もあれば、財政難によって施設が閉鎖され、大型望遠鏡が無用の長物化する例も、近年決してまれではありません。

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こうした現状を憂えた人々が、「一般社団法人・天体望遠鏡博物館」を組織し、会員諸氏のボランティア精神に支えられた息の長い取り組みの末に、ついに現実の「天体望遠鏡博物館」が、このたび開設されることになりました。


■天体望遠鏡博物館公式サイト
 http://www.telescope-museum.com/

ロケーションは香川県さぬき市。徳島との県境に近い山ふところに立つ旧・多和小学校(2012年閉校)の校舎が、来月13日、天体望遠鏡博物館として甦ります。

同館代表理事の村山昇作氏は、元日銀マンという異色の経歴のアマチュア天文家。その周囲で活動を支えてこられたのも、みなさん本業を別に持つ、熱心なアマチュア天文家の方たちと聞き及びます。まさに天の時、地の利、人の和、そのすべてが備わった末に成し遂げられた壮挙です。

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この快事は、海外でも大きな注目を集め、アメリカを中心とするアマチュア天文家の交流サイト「Cloudy Nights」の今日の記事でも大きく取り上げられています。以下は、David McGough氏による同博物館訪問記。その写真を見るだけでも、同博物館の一端に触れることができます。この記事は、先ほど Antique Telescope Society のメーリングリストでも配信されたので、今後、多くの人の共感を呼ぶことでしょう。