具注暦を眺める(前編) ― 2024年05月21日 18時00分27秒
このところ、大河ドラマ「光る君へ」を毎週見ています。
最近の大河ドラマの常として、今作でも「光る君へ紀行」というゆかりの地を紹介するショート動画が最後に流れるんですが、前々回(第19回)は、藤原道長(966-1028)の自筆日記『御堂関白記』と、それを今に伝える陽明文庫(近衛家伝来文書の保管施設)を紹介していました。
(『御堂関白記』長保2年(1000)上巻。出典:特別展「源氏物語の1000年―あこがれの王朝ロマン―」(2008年、横浜美術館開催)図録)
『御堂関白記』ももちろんすごいのですが、『御堂関白記』は当時の「具注暦」の余白に書かれており、平安時代の暦の実物がそのまま残っているというのもすごいことです。
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具注暦というのは、「日の吉凶に関する“暦注”を具(つぶさ)に記した暦」という意味で、その意味では昔の暦はみんな具注暦ということになりかねませんが、この名称を使うのは、もっぱら「漢文で書かれた巻物状の暦」を指す場合に限られます。そのため後に普及した「仮名暦」に対して「真名暦」とも呼ばれます。
(同寛弘8年(1011年)上巻。出典同上)
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一方、天体の運行を基準にして、暦そのものを作成する方法、すなわち「暦法」にもいろいろあって、「儀鳳(ぎほう)暦」とか、「大衍(たいえん)暦」とか、「宣明(せんみょう)暦」とか、長い歴史の中で様々な方式が採用されてきました。暦注の方ははっきり言って全て迷信ですが、月の朔望や上下弦、日月食等、客観的な天文事項も暦には記載されており、それを計算するアルゴリズムが即ち暦法です。そして予測と実測のずれが大きくなると暦法の変更が求められ、「改暦」が行われるわけです。
具注暦はあくまでも「漢文による暦注+巻子本」という物理的フォーマットに係る名称ですから、正確にいえば「大衍暦に基づく具注暦」とか、「宣明暦に基づく具注暦」とか、「貞享暦に基づく具注暦」とか、いろいろな具注暦がありえます(仮名暦が普及した江戸時代でも、具注暦はかしこき辺りへの献上用として作られ続けました)。
暦法の中でも有名なのが、平安前期(862年)から江戸前期(1684年)まで、延々と800年以上にわたって使われ続けた「宣明暦」で、『御堂関白記』も当然この宣命暦に基づく具注暦に書かれています。
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ところで、平安当時の暦注を作成したのは誰なのか?安倍晴明あたりが関わっていたのかな?…と思ったんですが、これはどうも違うらしいです。
日本のテクノクラート(技術官僚)は家ごとの専業化が著しく、その専門技術を家業として代々世襲しました。まあ、この点では平安時代も江戸時代もあまり変わらないと思いますが、和歌の家、蹴鞠の家などと並んで、「暦道の家」というのが昔から決まっていて、平安時代ならそれは加茂家です。したがって、暦注を書いたのもこの加茂家ということになります。
加茂家は暦道・天文道・陰陽道の三道を兼帯した家ですが、弟子の安倍晴明があまりにも抜きんでた存在だったので、以後天文道は安倍家に任せることとし、加茂家は暦道をもっぱらとするという住み分けが生じました(陰陽道は両家がともに所掌)。
暦と天文は切っても切り離せない関係にありますが、業としての天文道は、絶えず空を見上げて天変を察知し、その意味するところを帝に奏上する仕事なので、暦作成のようなルーチンワークとはかなり性格が異なります。いずれにしても、安倍家があのこまごました暦注作成に関わることは、基本なかったはずです。
(とはいえ、室町時代に加茂家の正系が絶えると、安倍家の直系である土御門家が一時暦道の家を兼ねたこともあるし、安倍家の一族から加茂家の分家を継ぐ者が出て、新たに幸徳井家を興し、これが江戸時代の暦道家となったり…と、後の時代にはいろいろ混交したので、「暦道の加茂家、天文道の安倍家」という区別は、あくまでも平安~鎌倉に限っての話です。)
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さて、記述がくだくだしくなりました。
以上の話は前振りで、具注暦の現物を探していてちょっと変わった品を見つけた…というのが今回の話の眼目です。
(この項つづく)
コメント
_ S.U ― 2024年05月22日 07時09分55秒
_ 玉青 ― 2024年05月23日 05時34分50秒
知ったかぶりして書いているので、何か聞かれるとオタオタしてしまいますが(笑)、まあこの辺は、実務を担当する人と、最終的に裁許する人が別というのが、昔も今も変わらぬ構図なのでしょう。
江戸半ば以降の暦についても、実際の計算はすべて江戸の天文方が行っているにしても、それを裁許する(及び暦注を付ける)のは京都の幸徳井家(あるいはその上席の土御門家)だという建前でずっとやって来たわけですよね。
平安時代の暦作成の実際は不明ですが、当然ここでも実務を担う下僚と組織の長は別で、加茂家はあくまでも全体の統率者としてふるまったのでしょう。そして実務面に限っても、計算する人、暦注を書く人、浄書する人等々、いろいろ分業はあったと想像します(浄書する人に関しては、同時代の唐の官制だと、司暦、暦生のほかに「装書暦生」というのが置かれていました)。
晴明の時代とはずれますが、平安初期の『令義解』の記述では、陰陽寮の暦担当は、暦博士1、暦生10の計11名となっていて、暦作りはこれぐらいの規模の組織が担っていたようです(暦生未満の下級官人もいたはずですが実態は不明。ちなみに天文担当も同じく天文博士1、天文生10の計11名でした)。
江戸半ば以降の暦についても、実際の計算はすべて江戸の天文方が行っているにしても、それを裁許する(及び暦注を付ける)のは京都の幸徳井家(あるいはその上席の土御門家)だという建前でずっとやって来たわけですよね。
平安時代の暦作成の実際は不明ですが、当然ここでも実務を担う下僚と組織の長は別で、加茂家はあくまでも全体の統率者としてふるまったのでしょう。そして実務面に限っても、計算する人、暦注を書く人、浄書する人等々、いろいろ分業はあったと想像します(浄書する人に関しては、同時代の唐の官制だと、司暦、暦生のほかに「装書暦生」というのが置かれていました)。
晴明の時代とはずれますが、平安初期の『令義解』の記述では、陰陽寮の暦担当は、暦博士1、暦生10の計11名となっていて、暦作りはこれぐらいの規模の組織が担っていたようです(暦生未満の下級官人もいたはずですが実態は不明。ちなみに天文担当も同じく天文博士1、天文生10の計11名でした)。
_ S.U ― 2024年05月23日 07時52分14秒
ご解説ありがとうございます。実際の計算は、陰陽寮の暦生がやっていたみたいということですね。彼らは、加茂家の部下という位置づけだったのでしょうか。実際、宣明暦は、朝廷の力の衰えた鎌倉時代も戦国時代も何の芸も無しに計算だけが受け継がれたのですから、当時であっても、上司も部下もその程度の努力ですむことだったのでしょう。
とすると、たいへんだったのは、暦法の最初の導入時だけということになりますでしょうか。
ウィキペディアでぱっと調べたところ、「大春日真野麻呂」(暦博士)という人がいて、その経歴は、
857年 五紀暦の使用を上請
858 大衍暦と五紀暦が併用
859 宣明暦伝来
860(859?) 朔旦冬至の議論
860 陰陽頭に就任
861 宣明暦の検討と奏上
862 宣明暦施行
となっていて、少なくともこの人はがんばられたようです。
とすると、たいへんだったのは、暦法の最初の導入時だけということになりますでしょうか。
ウィキペディアでぱっと調べたところ、「大春日真野麻呂」(暦博士)という人がいて、その経歴は、
857年 五紀暦の使用を上請
858 大衍暦と五紀暦が併用
859 宣明暦伝来
860(859?) 朔旦冬至の議論
860 陰陽頭に就任
861 宣明暦の検討と奏上
862 宣明暦施行
となっていて、少なくともこの人はがんばられたようです。
_ 玉青 ― 2024年05月24日 17時23分36秒
お調べありがとうございます。
恥ずかしながら大春日真野麻呂という人を知らずにいました。おそらく世間的にもそうでしょうが、この人は知られざる偉人ですね。これから渋川春海と貞享暦のエピソードを語るときは、同時に真野麻呂と宣明暦のこともちらっと思い出したいですね。
恥ずかしながら大春日真野麻呂という人を知らずにいました。おそらく世間的にもそうでしょうが、この人は知られざる偉人ですね。これから渋川春海と貞享暦のエピソードを語るときは、同時に真野麻呂と宣明暦のこともちらっと思い出したいですね。
_ S.U ― 2024年05月25日 06時11分26秒
>大春日真野麻呂と宣明暦のこともちらっと思い出したい
そうですね。官暦の業界で、渋川春海と同等の功績の人を過去に探すと、この人にたどり着くまでは他の人は原理的にいないことになりますね。
私もこの5月23日の朝まで知りませんでした。『明治前日本天文学史』を見てもこの人の名前が五紀暦と宣明暦の上申に添えて事務的に触れられているだけですので、これは、一般の年代記程度の記録しかなく、本人による記録や評伝の類いは存在しないのだと思います。だとすると、偉人の評価もしようがないのだと思います。普通は「中国の暦を移入してそれで済ませた」くらいで片付けられていますが、日本人の暦博士がいる限りは、漢書を理解し、自分たちの部署で計算できるようにし、日本の古記録と矛盾しないかチェックし、天皇に報告するという間違いのないところの仕事をしないといけないので、自動的にホイっと日本に入ってきましたで済む話ではありませんね。
たとえば、志筑忠雄もやったことと言えば、ニュートンの後継者ジョン・ケールの物理学天文学教科書を翻訳して注釈をつけただけのことですが、自由な注釈が『暦象新書』という有名本に残っているので、東洋と西洋の自然科学概念の対比と融合という貴重な議論もできれば、「志筑のセンスはケールあたりよりも上だった」というようなことをいう学者も現れるわけで、真野麻呂の書いた物が残っていないとすると、どこまでの考察ができた人だったかわからないわけで、とても惜しいことだと思います。
そうですね。官暦の業界で、渋川春海と同等の功績の人を過去に探すと、この人にたどり着くまでは他の人は原理的にいないことになりますね。
私もこの5月23日の朝まで知りませんでした。『明治前日本天文学史』を見てもこの人の名前が五紀暦と宣明暦の上申に添えて事務的に触れられているだけですので、これは、一般の年代記程度の記録しかなく、本人による記録や評伝の類いは存在しないのだと思います。だとすると、偉人の評価もしようがないのだと思います。普通は「中国の暦を移入してそれで済ませた」くらいで片付けられていますが、日本人の暦博士がいる限りは、漢書を理解し、自分たちの部署で計算できるようにし、日本の古記録と矛盾しないかチェックし、天皇に報告するという間違いのないところの仕事をしないといけないので、自動的にホイっと日本に入ってきましたで済む話ではありませんね。
たとえば、志筑忠雄もやったことと言えば、ニュートンの後継者ジョン・ケールの物理学天文学教科書を翻訳して注釈をつけただけのことですが、自由な注釈が『暦象新書』という有名本に残っているので、東洋と西洋の自然科学概念の対比と融合という貴重な議論もできれば、「志筑のセンスはケールあたりよりも上だった」というようなことをいう学者も現れるわけで、真野麻呂の書いた物が残っていないとすると、どこまでの考察ができた人だったかわからないわけで、とても惜しいことだと思います。
_ 玉青 ― 2024年05月25日 11時08分54秒
重ねてのコメント、深く頷きながら拝読しました。
今後への種を蒔くべく、真野麻呂については独立した記事に挙げておきました。
今後への種を蒔くべく、真野麻呂については独立した記事に挙げておきました。
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平安時代も貴族の中でテクノラートが分化していたなら、暦の計算は、具注暦を書く人とは別の人がしていたはずですが、どうでしょうか。宣明暦は中国の暦そのままですが、唐が滅びた後は中国では宣明暦は使われず、宋人に暦をもらうこともなかったはずで、日本人が計算していたはずです。ぱっと調べた限りでは、加茂家か安倍晴明かはわかりませんでした。