銀河鉄道1941(後編) ― 2024年06月18日 05時40分19秒
坪田譲治による「銀河鉄道の夜」評は以下のようなものです。
「ところで、最後に、この「銀河鉄道の夜」でありますが、これはいふ迄もなく、天国の姿を描いたものであります。それは溢れるほどの豊かな空想で、それこそ大空の星の世界が眼前に見えるやうに描かれて居ります。たゞし、その美しい世界がなんとなく淋しく冷たく、少しばかり悲しいやうな気がいたしますが、それはやはり人間の生命の彼方側の世界のせゐでありませうか。そんな点も宮澤賢治の空想が如何に力強く、描こうとする相手の世界に迫ってゐるかを示して居ると思ひます。」(241頁)
ここで真っ先に出てくるのが、銀河鉄道は「天国」のお話だという説明で、ちょっと違和感を覚えますが、坪田譲治が目にしたのは、あくまでも初期形バージョンである点を考慮する必要があります。
現行の「銀河鉄道の夜」だと、ジョバンニが経験したのは一場の夢であり、すべては夢オチということになりますが、しかし初期形では、ジョバンニはカムパネルラの死を目撃したあとで、彼と一緒に十字架の輝く天上界を旅するのであり、それは神様然としたブルカニロ博士がジョバンニに与えたリアルな経験なんだ…という筋立てになっているので、「いふ迄もなく、天国の姿を描いたもの」という解釈は自然です。
(物語のラスト近くで、ジョバンニを教え諭すブルカニロ博士。二人とも頭上に光輪を戴いています)
それよりも気になるのは、坪田は作家・賢治を「科学者」であり、その作品を「知的」だと認めているのに、「銀河鉄道の夜」に関しては、「溢れるほどの豊かな空想」で、「大空の星の世界が眼前に見えるやうに描」いているとしながら、この作品に横溢する天文趣味的、あるいは鉱物趣味的な情調について、一言も触れていないことです。星や鉱物を愛する人ならば、賢治がそれを美しく繊細な言葉で綴ったことに、まず心を動かされたと思うのですが、坪田はその方面の趣味や知識を持たなかったのでしょう。
坪田は、ここで全編を覆う「人間の生命の彼方」=「死」のテーマに圧倒されており、ただ、「なんとなく淋しく冷たく、少しばかり悲しい」という点に、理知の世界の片鱗をも無意識に感じ取っていた気配があるばかりです。
そしてまた、「銀河鉄道の夜」のテーマとして必ず言及される、「‘ほんたうの幸’とは何か?」というジョバンニの問いや、他人の幸せの為ならこの身を焼かれても構わないという自己犠牲の観念についても、坪田は特に言及していません。
…というわけで、坪田譲治による「銀河鉄道の夜」評は、現今の評価とは少しずれる部分があるのですが、だからこそ、その後の評価の出発点ないし初期形として意味があるとも言えます。
(奥付より。出版界も戦時統制下にあった昭和19年(1944)に、3,000部の増刷が認められたのは太っ腹な扱い。「銀河鉄道の夜」が世間に広まる上で、この新潮社版が果たした役割は相当大きかったと思います)
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ときに、坪田譲治は明治23年(1890)の生まれで、宮沢賢治(明治29年、1896生)よりも6つ年上、そして野尻抱影(明治18年、1885生)よりも5つ年下で、ちょうど両者の中間の世代になります。
坪田は抱影と同門の早大英文科卒だそうで、在学中に接点があったら面白いのですが、坪田が早稲田に入った明治41年(1908)には、抱影はすでに学校を卒業して、甲府中学校に赴任した後ですから、直接の接点はありません。接点ができたとすれば、抱影が甲府から東京に戻った明治45年(=大正元年、1912)以降のことで、ともに長い作家生活を送った二人のことですから、どこかで顔ぐらいは合わせたことがあったかもしれません。
坪田も世代的にいうと、明星派の「星菫趣味」に感化された青少年時代を送っても不思議ではないんですが、星の美にはついに開眼しなかったのでしょう。といって、野尻抱影にしても「銀河鉄道の夜」を一読ただちに激賞…とはならなかったので(むしろ批判的でした)、やはりその魅力は、多くの人が世代を超えて掘り起こし、磨きをかけた結果だと思います。
(「銀河鉄道の夜」普及の一端を示す絵本や画文集等)
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