土御門、月食を予見す(後編) ― 2024年06月10日 17時59分43秒
(昨日のつづき)
(画像再掲)
さて、改めてこの明和3年の月食予測の詳細を見ると、「月食五分。寅の一刻東北の方より欠け始め、寅の八刻甚だしく、卯の六刻西北の方終わり」と書かれています。
ここに出てくる「寅の一刻」とか「寅の八刻」の意味が最初分からなかったんですが、ものの本(※)を見て、ようやく合点がいきました。
★
よく知られるように、江戸時代の時刻表示は、日の出と日の入りを基準にした「不定時法」が一般的です。そのため、「子の刻」「丑の刻」「寅の刻」…等、1日を12区分した「辰刻」の長さは季節によって伸び縮みがあり、たとえば真夜中の「子の刻」は、短夜の夏場は短く、冬の夜長には長くなりました。真昼の「午の刻」ならばその逆です。
しかし、暦に記される時刻は、これとは違って(最後の天保暦を除いて)「定時法」を使っていたんだそうです。つまり、季節に関係なく子の刻なら23時~1時だし、丑の刻は1時~3時…という具合に固定されていました。これは現代の時間感覚と同じです。したがって同じ「子の刻」「丑の刻」といっても、日常生活と暦本ではその用法が微妙に違った…というのが、ややこしい点です。
暦ではそれをさらに「寅の一刻」とか。「卯の六刻」とか、細かく言い分けているわけですが、この辺は一層ややこしくて、当時の定時法では、1日を12等分した「辰刻」と、1日を100等分した「刻」という単位(1日=100刻)を併用していました。
「辰刻」と「刻」の関係は、
1辰刻 = 100÷12 ≒ 8.33刻 (8と3分の1刻)
であり、1刻を現在の時間に直せば
1刻 = 120分÷8.33 ≒ 約14分24秒
になります。何だかひどく中途半端ですが、実際そうだったのでやむを得ません。
そして、たとえば「寅の刻」だったら、以下のように呼び分けられることになります(時刻はすべて概数で示しました。「八刻」だけ他の刻より短いことに注意)。
寅の初刻 午前3:00~3:14
寅の一刻 3:14~3:29
寅の二刻 3:29~3:43
寅の三刻 3:43~3:58
寅の四刻 3:58~4;12
寅の五刻 4:12~4:26
寅の六刻 4:26~4:40
寅の七刻 4:40~4:55
寅の八刻 4:55~5:00
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こうしてようやく、上記の月食記載の意味が理解できます。
すなわち、「月食五分〔食分0.5〕。寅の一刻〔3:14~3:29〕東北の方より欠け始め、寅の八刻〔4:55~5:00〕甚だしく、卯の六刻〔6:26~6:40〕西北の方終わり」です。
これがどの程度実際を反映しているか?
国立天文台の日月食等データベースに当たると、このときの月食(部分食)は、以下の通り3:45に始まり、4:52に最大食となり(食分は0.336)、5:59に終わっています。
比較してどうでしょう? 食甚の時刻および食の開始と終了の方位はほぼ正解ですが、食分を実際よりも多く見積もった関係で(つまり、月がもっと地球の影の中心に近い位置を横切ると予想したため)、食の始まりと終わりが前後に30分ほど間延びしています。この予測を以て、「それでも、それなりに当てたんだからいいじゃないか」と言えるかどうか?
★
西洋天文学を採り入れて宝暦暦を改良した「寛政暦」の場合と比較してみます。
手元に天保8年(1837)の暦があります。
年号は天保でも、当時はまだ寛政暦を使っていました(さらに改良を加えた「天保暦」は、天保15年=1844から施行)。
(「月帯食(げったいしょく/がったいしょく)」とは、月が月食の状態で昇ったり沈んだりすること)
この年は3月17日(グレゴリオ暦では4月21日)に皆既月食がありました。
暦には、「寅の三刻【3:43~3:58】左の上より欠け始め、卯の二刻【5:29~5:43】皆既〔みなつき〕て入【=そのまま沈む】」と書かれています。
上と同じように、国立天文台のデータベースを参照すると、「3:49に欠け始め、4:50に皆既となり、5:40が食の最大、そして6:31に皆既が終わる」となっています。上記の「卯の二刻」は皆既の開始時刻とずれていますが、これが「食の最大時刻」の意味だとすれば、まさにどんぴしゃりです。
★
まあ、それぞれ1つの例だけを取り出して、逸話的に比較しても意味は薄いでしょうが、「やっぱり宝暦暦はゆるいなあ…」と感覚レベルで分かれば拙ブログ的には十分で、当初の目的は果たせたことになります。
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(※)本項の記述にあたっては、橋本万平(著)『日本の時刻制度 増補版』(塙書房、昭和56年第2版)を参照しました(特にpp.125-8「暦に見られる定時法」の節)。
(同書127頁より参考図を掲げます(第15図)。当時は仮名暦(右)と七曜暦(左)の間でも――両者ともに定時法ですが――時刻の表示法が異なり、ややこしいことこの上ないです。本項で採り上げたのは、もちろん仮名暦の方です)
コメント
_ S.U ― 2024年06月10日 19時00分25秒
_ S.U ― 2024年06月10日 19時04分48秒
すみません。ちょっと間違えていました。
江戸時代は京都で、今は明石ですが、明治の前半の一時期は東京標準時が使われていたそうで、改暦時は3分遅らすのではなく、いったん16分進めたはずなのでした。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FC6FCCBDCA4CECBDCBDE9BBD2B8E1C0FE.html
江戸時代は京都で、今は明石ですが、明治の前半の一時期は東京標準時が使われていたそうで、改暦時は3分遅らすのではなく、いったん16分進めたはずなのでした。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FC6FCCBDCA4CECBDCBDE9BBD2B8E1C0FE.html
_ 玉青 ― 2024年06月11日 18時22分09秒
>京師標準時
あっ、今昔の標準時の違いをすっかり失念していました。それを勘定に入れると、宝暦暦の食甚時刻は、記事中の扱いよりも、もうちょっと精度が良かったことになりますね。これは土御門家の名誉のために付言しておくことにしましょう。
江戸時代の時刻制度を考えるとき、不定時法に由来する季節ごとの時間変化はすぐに思い浮かびますけれど、リンクしていただいた「暦Wiki」の記述を読み、それだけでなしに、各地の経度差に応じた「地方視時」の存在も考えないといけないぞ…という事実に思い至りました。
思うに近代以前の人は、「時間とは斉一に進み、時刻は万人が共有するもの」という観念を持たない、いわば「相対論的時間」の世界で生きていたのかもしれませんね。
あっ、今昔の標準時の違いをすっかり失念していました。それを勘定に入れると、宝暦暦の食甚時刻は、記事中の扱いよりも、もうちょっと精度が良かったことになりますね。これは土御門家の名誉のために付言しておくことにしましょう。
江戸時代の時刻制度を考えるとき、不定時法に由来する季節ごとの時間変化はすぐに思い浮かびますけれど、リンクしていただいた「暦Wiki」の記述を読み、それだけでなしに、各地の経度差に応じた「地方視時」の存在も考えないといけないぞ…という事実に思い至りました。
思うに近代以前の人は、「時間とは斉一に進み、時刻は万人が共有するもの」という観念を持たない、いわば「相対論的時間」の世界で生きていたのかもしれませんね。
_ S.U ― 2024年06月12日 06時30分37秒
>相対論的時間
渋川春海の映画やテレビ番組で、貞享暦に至る彼の大発見の一つが、この北京と京都の「時差の発見」だったといいます。私は当時の資料でこれが史実かどうかは確かめていませんが、「里差」とか「大和暦」とかの言葉が残っているので、重要な発見と見なされたことは間違いないと思います。
例の暦Wikiによれば、江戸時代の知識では、北京と京都との時差は5刻であったとあります。たいへんざっくりとした精度で、実際、私が計算すると、5.4刻ですから、これでは、中国暦がたとえいくら正確でも6分くらいの誤差はまったくわからなかったことになります。この北京との里差は月食などの天体観測を使ったものではなく、たぶん、各国の地理情報から求めたものではないかと思います(中国の月食の記録を使ったかは確認していません)
寛政期以後の『星学手簡』だったかに、大陸との経度差が北方の樺太あたりの地理の議論で取り上げられ、大陸側の情報と西洋の世界地図と伊能忠敬(のちに間宮林蔵)の日本側の測量を照らし合わせて、経度差を計算し、島と大陸との位置関係を論じていたと思います。海事・軍事情報として重要になってきていたようですが、依然として測定する手段がないので、やはり外洋船で測量しないとわからない部分が多かったのではないかと思います。この辺は、日本と世界でどういうふうに情報が錯綜していたか、調べてみると面白いと思いますが、海洋測量までは手を広げていません。髙橋景保のファンは多いと思うのでまとめている人はいるかもしれません。
月食の時刻をあちこちで同時に記録すれば片付く問題ですが、そういう観測や計算は(本州、四国、九州の範囲の外では)聞いたことはありません。
渋川春海の映画やテレビ番組で、貞享暦に至る彼の大発見の一つが、この北京と京都の「時差の発見」だったといいます。私は当時の資料でこれが史実かどうかは確かめていませんが、「里差」とか「大和暦」とかの言葉が残っているので、重要な発見と見なされたことは間違いないと思います。
例の暦Wikiによれば、江戸時代の知識では、北京と京都との時差は5刻であったとあります。たいへんざっくりとした精度で、実際、私が計算すると、5.4刻ですから、これでは、中国暦がたとえいくら正確でも6分くらいの誤差はまったくわからなかったことになります。この北京との里差は月食などの天体観測を使ったものではなく、たぶん、各国の地理情報から求めたものではないかと思います(中国の月食の記録を使ったかは確認していません)
寛政期以後の『星学手簡』だったかに、大陸との経度差が北方の樺太あたりの地理の議論で取り上げられ、大陸側の情報と西洋の世界地図と伊能忠敬(のちに間宮林蔵)の日本側の測量を照らし合わせて、経度差を計算し、島と大陸との位置関係を論じていたと思います。海事・軍事情報として重要になってきていたようですが、依然として測定する手段がないので、やはり外洋船で測量しないとわからない部分が多かったのではないかと思います。この辺は、日本と世界でどういうふうに情報が錯綜していたか、調べてみると面白いと思いますが、海洋測量までは手を広げていません。髙橋景保のファンは多いと思うのでまとめている人はいるかもしれません。
月食の時刻をあちこちで同時に記録すれば片付く問題ですが、そういう観測や計算は(本州、四国、九州の範囲の外では)聞いたことはありません。
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※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
江戸時代の天文学に使われていた時刻は、1日を100刻に分けていたというと、100進法を使っていたわけで、今よりもモダンな感じですが、それをまたわざわざ子丑寅卯・・・の12分割に当てはめて8.333刻とやるとは、厳密さと緩さのミックスがこたえられません。これもあわせて勉強になりました。
なお、土御門家の計算は、「京師標準時」のつもりでやっていたはずで、今の国立天文台は「明石標準時」ですから、江戸時代の時刻は定時法でも3分進んでいたはずです。1刻の精度ではまったくどうでもいい細かい話ですが、明治初期の改暦で、心ある人は時計を3分遅らせたはずです。(実際、時計を3分戻した人がいるかどうかは調べたことがありません)