悲運の人、レピシエからの便り(後編)2023年11月29日 18時26分07秒

(前回の続き)


近代日本天文学の一番槍、エミール・レピシエ
その人の自筆書簡をイギリスの古書店で見つけました(もちろんネットカタログ上でのことで、それも狙ったわけではなく偶然です)。

(紙片の大きさは約11.5×13cm)

上がその全容。書簡といっても紙片に走り書きしたメモ程度のもので、日付も署名もありません。あるいはこれはもっと長文の手紙の一部を切り取ったもので、日付と署名は別の箇所に書かれていたかもしれません(その可能性は高いです)。


無署名なのに、なぜレピシエの手紙と分かるかといえば、右下に別筆で「astronome Lépissier de l'observatoire de Pékin(北京天文台の天文学者レピシエ)G.R.」と書かれているからです。この手紙の受取人、ないしは受取人から譲り受けた「G.R.」なる人物が、備忘として余白に書き残したのでしょう。ただし、レピシエが北京天文台に在籍したという記録はないので、これは事実誤認です。

肝心の本文は、幸い件の古書店主氏によってすでに読み解かれていました。

 「Si vous le jugez plus commode, Vous pouviez remettre les objets que je vous demande à Madame Coeuille, lingère au marché Papincourt, demeurant Petite rue Papincourt, No. 10, avec prière de me les fair parvenir à ma nouvelle adresse, à Shanghai, car nous avons du, pour cause de frénrité, quitter Pékin après le massacre de Tientjin.」

意味の判然としないところもありますが、Googleの力を借りると、およそ以下のような意味でしょう。

 「もしそのほうが好都合なら、私が頼んだ品々をパパンクール市場でリネン婦をしている、パパンクール小路10番地在住のクイユ夫人に託して、上海の私の新しい住所あて送ってもらうようお願いしていただいても結構です。何しろ天津での大虐殺の後、私たちは友愛会の関係で、北京を離れる必要があったものですから。」

どうやらまだ中国にいた頃、1870年に北京から上海に移った直後に、パリの知人に宛てて送った手紙のようです。

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レピシエの体温と息遣いを、このインクの染みの向こうに感じ、彼の苦労の一端を偲ぶだけでも、この書簡には大いなる価値があると思いますが、ここには新たな事実も顔を覗かせています。それは末尾の一文です。レピシエは「Tientjin」と綴っていますが、これは普通に考えて「天津」でしょう(現代フランス語では「Tianjin」と綴るそうです)。

ここでいう「天津での大虐殺」とはいったい何か?
いろいろ調べると、1870年に天津で起こった「天津教案」という事件がそれのようです(ウィキペディアの該当項目にLINK)。

なんでもこの年、天津では幼児失踪事件が相次ぎ、加うるに市中で疫病までもが流行りだし、教会が経営する孤児院でも3~40人の子供が病死する事態になりました。民衆の間から、「孤児院の修道女が子供を殺して薬の材料にしている」という噂が広まった結果、数千の群衆が教会を取り囲み、フランス領事の発砲をきっかけに、憤激した民衆がフランス領事と秘書、10人の修道女、2名の神父、2名のフランス領事館員、2名のフランス人、3名のロシア人、30人以上の中国人信者を殺害し、果てはフランス領事館とフランスやイギリスの教会を焼き討ちするという大惨事になりました。さらにこのニュースが伝わるや、各地でキリスト教徒と非キリスト教徒の衝突が頻発するようになった…という事件です。

(焼き払われた天津の教会(望海楼)。出典:平頭阿銘(筆)「天津教案謎中謎―看曽国藩是怎様身敗名裂的」 https://zhuanlan.zhihu.com/p/44288377

前編で挙げた中村・デバルバ氏の論文は、「当初のレピシエの熱意は次第に失望へと変わり,やがて,北京はもはやとどまるべき地ではないと感じるようになった」、「1870年2月には,家族を養うために上海に移った」と記し、レピシエの上海移住の理由として、北京同文館での不遇を挙げています。もちろんそれも大きな理由でしょうが、この手紙からは、この「中国版・攘夷運動」の高まりによって、具体的に身の危険を感じたから…という理由もあったように読めます(北京と天津はいわば隣町ですから、影響は大きかったはずです)。

また天津教案は1870年6月の事件なので、実際には中村氏らが説くように1870年2月にぱっと転居したわけではなく、職探しや家探しやらで右往左往しているうちに、天津で例の事件が起こり、いよいよ上海へ…という流れではなかったかなあと想像します。

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まあ瑣末といえば瑣末ですが、小なりとはいえ新資料であり新事実ですから、レピシエ顕彰の一環として記しました。そして耳をすませば、この小さな紙片の向こうから、大きくうねる歴史の濤声も聞こえてくるような気がします。