柱の傷はおととしの…ギンガリッチ氏を柱にして2023年06月05日 19時44分01秒

(昨日の続き)

ギンガリッチ氏の『誰も読まなかったコペルニクス』は、一般向けの読み物として書かれていますが、テーマは間違いなく硬派だし、カタカナの固有名詞が多いので、読んでいて頭が追いつかない箇所が多々あります。言い換えると、再読の度に新しい気づきがある本です。

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今回再読していて、ギンガリッチ氏がバチカンで「風の塔」を見学するくだりがあるのに気づきました(以前も読んだはずですが、頭に残っていませんでした)。

「風の塔」のことは、今年3月にバチカン天文台のことを書いたときチラッと触れましたが【LINK】、それが念頭にあったからこそ今回気付けたわけで、こういうのがブログを書く効用のひとつです。

(「風の塔」(左はサン・ピエトロ寺院のドーム)。Wikipediaより)

―― 曰く、風の塔には、ユリウス暦と実際の季節のずれを示す、一種の日時計を設けた部屋があり、聖書に出てくる「南風の寓話」がフレスコ画で描かれていることから「風の塔」と呼ばれたこと。その逸話からさらに100年後の17世紀半ばに、スウェーデン女王のクリスティナが、プロテスタントからカトリックに改宗するためバチカンにやってきたとき、教皇が彼女にあてがったのがこの部屋であり、クリスティナを気遣って、北風の絵の下に書かれた「悪いことはすべて北からやってくる」という文句を塗りつぶしたこと。このときクリスティナが携えてきた宝物類には、『回転について』の初版本(1543)が含まれていたこと…等々。

いずれも興味深いエピソードです。

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バチカンは(禁書扱いしたくせに)『回転について』の初版本を複数冊所蔵しています。そのうちクリスティナ女王由来の本には、やはり詳細な書き込みがあり、その書き込みをした人物を突き止めたのが、他ならぬギンガリッチ氏です。

その人物とは、驚くべきことに、あのティコ・ブラーエ(1546-1601)でした。
しかもその書き込みは、ブラーエがプトレマイオスともコペルニクスとも異なる、独自の惑星体系を考案する途上にあったことを示す重要なもので、これは天文学史における一大発見です。

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ブラーエは、さらに『回転について』の第2版(1566)も生前所有しており、そこにもびっしり書き込みをしています。それは現在チェコ国立図書館が所蔵し、チェコの学者ズデニェク・ホルスキーの手によって、1971年に精確な複製本が作られました。おそらくこれもコペルニクス生誕500年を見越した記念出版でしょう。ギンガリッチ氏は、やはり1973年にパリで開かれたコペルニクス会議に出席した折に、ホルスキー自身からこの複製本を贈られています。

「筆跡を見たとき、私の心臓は踊りだしそうになった。というのも、ついこのあいだ、ローマ〔バチカン〕であれだけ熱心に見てきた筆跡に怪しいほど似ていたのだ。」(ギンガリッチ上掲書、p.105)

叙述が前後しましたが、これがきっかけとなって、氏は上に述べた「一大発見」に至ったわけです。

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つまらない自慢話をすると(そのためにこの一文を書きました)、この「ティコ・ブラーエが書き込みをした『回転について』第2版」の複製本は、私の手元にもあります。ギンガリッチ氏の本に教えられて、その後手に入れたものです。

(左・表紙、右・付属の解説冊子)

もちろん私にはまったく読めないし、理解もできません。でも、だから意味がないとは言えません。仮に読めない本に意味がないんだったら、「ヴォイニッチ手稿」も「ロンゴロンゴ」もぜんぶ燃やしてしまえ…という話になりますが、もちろんそうはなりません。いずれも潜在的には、いつか理解できる可能性があるし、読めないまでも、その「有難味」は確実に人に影響を与えるものです。

(タイトルページ)

(細かい字でびっしり書かれたティコ・ブラーエのメモ)

(同上)

この場合、ブラーエの筆跡から彼の体温と息遣いを感じることができれば、今の私には十分です。

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こういう些細なエピソードから、自分の知識とコレクションが、今も少しずつ成長を続けていることを感じます。いや、少なくともそう信じたいです。(コレクションはともかく、知識の方はこれから徐々に退歩するかもしれませんが、だからこそ時間を大事にしないといけないのです。)