パドヴァ天文台2017年02月19日 11時46分25秒

長靴型のイタリア半島の付け根、東のアドリア海に面する町がベネチアで、ベネチアの西隣に位置するのがパドヴァの町です。

ガリレオは1592年にパドヴァ大学に赴任し、1610年にフィレンツェに移るまで、この町で研究に励みました。彼の最大の功績である望遠鏡による星の観測や、『星界の報告』の公刊も、パドヴァ時代のことです。


上は、そのパドヴァの町にそびえる天文台。
1910年前後の石版刷りの絵葉書。緑のインキで刷られているところがちょっと珍しい。
左側にミシン目が入っていて、使うときは切り取って使ったものらしいです。

(一部拡大)

この塔こそ、ガリレオが星の観測に励んだ場所だ…というのは、ずいぶん昔からある伝承で、「そりゃ嘘だ。第一、時代が合わない」という声を尻目に、そう信じている地元の人も少なくないそうです。

その辺の事情を、INAF(Istituto Nazionale di Astrofisica、イタリア国立天体物理学研究所)のサイトでは、こう説明しています(以下、適当訳)。

パドヴァ天文台博物館 「ラ・スぺコラ」
 パドヴァ天文台1000年の歴史と250年の観測史

 多くのパドヴァ市民(や市外の人)に伝わる誤った伝承によれば、この天文台の塔こそガリレオの塔であり、高名な科学者は、この場所から素晴らしい天文学の発見の数々を成し遂げ、人類史上初めて、天空の裡に隠された星々の特異な性質を解き明かしたとされる。これらの発見によって、彼は天文学のみならず、科学全体に革命を起こしたのだ。

 このように広く信じられてはいるものの、パドヴァ天文台を、あの有名な科学者が訪れたことはない。なぜなら、この研究機関が設置されたのは(したがって、以前から存在したパドヴァの古城の主塔上に天文台が建設されたのは)ようやく1767年のことで、ガリレオがパドヴァを離れ、メディチ家の宮廷があったフィレンツェに移ってから、約150年も経ってからのことだからである。

 ガリレオ云々は「神話」に過ぎないとはいえ、スぺコラを訪ねる人は、決して失望することはないだろう。この場所は、多くの魅力に富み、歴史・芸術・科学にまつわる濃厚な雰囲気に満たされた場所だからだ。実際、パドヴァ天文台では1776年〔原文のまま〕以来、高い水準の研究が行われてきたし、1994年からは、その最古の部分を市民に公開し、塔屋部分は天文博物館に改装されている。現在では、過去何世紀にも及ぶパドヴァの天文学者たちの仕事部屋を縫うようにして、塔屋全体が博物館となり、昔の天文機器が展示されている。

   ★

その「スぺコラ博物館」の内部の様子は、同じINAFの以下のページで少し覗き見ることができます。

■SPECOLA, THE ASTRONOMICAL OBSERVATORY OF PADUA

展示の主力は18世紀後半~19世紀の天文機材で、ガリレオ時代のものは仮にあったとしても、他所から持ってきたものでしょう。それでも、13世紀にさかのぼる中世の塔に、古い天文機材が鈍く光っているのは、なかなか心を揺さぶられる光景です。

   ★

以下、おまけ。ちょっと角度を変えて撮った絵葉書も載せておきます。


こちらはリアルフォトタイプなので、1920年代ぐらいの光景だと思います。




天文台とは関係ないですが、添景として写っている少年たちの姿がいいですね。
こんな塔のある古い町で子供時代を送ってみたかったな…と、ちょっと思います。



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閑語(ブログ内ブログ)

沖縄のこと、福島のこと。
そしてまた南スーダン、共謀罪、森友学園の土地取得疑惑…と、政権周辺波高し。
にもかかわらず、またぞろ強行採決をもくろむとすれば、やっぱり現政権は●っているとしか思えません。でも、今日はちょっと違うことを書きます。

今朝、ふと菅元総理の「最小不幸社会」というスローガンを思い出しました。
あれは2010年のことで、その言葉がニュースで報じられるや、「なんで『最大幸福社会』と言わないんだ」と大ブーイングでした。

当時の言説をネットで読み返すと、「考えが後ろ向きだ」、「希望がない」、「覇気がない」、「敗北主義だ」とか、あまりにも感情的な言葉が並んでいるのに、ちょっと驚かされます。菅さんへの個人的好悪をさておき、私自身は、当時も今も「最小不幸社会」の実現は、政治家として至極真っ当な主張だと思っています。

金持ちがいっそう金持ちになるべく、欲望をぎらつかせることは勝手ですが、何も政府がその後押しをする必要はありません。お上は、もっと弱い立場の人に目配りしてほしい。幸福の総量が増すことと、その分配が真っ当に行われるかは別の問題ですし、仮に一部の者の幸福が、他の者の不幸の上に築かれるとしたら、それは不道徳というものです。

コメント

_ S.U ― 2017年02月20日 18時18分30秒

>第一、時代が合わない

 これ、おもしろいですね。
いまさらの疑問ですが、そもそもガリレオはパドヴァで、ちゃんとした観測所を持っていたのでしょうか。伝記でも『星界の報告』でも、リアリスティックな架台に載った望遠鏡とか観測所の図版は見たことないような気がします。ガリレオの天体観測は超有名なのに、そのへんの挿絵ときたら、あの望遠鏡2本載せた飾り付きのディプレイ用の台(あれは博物館用の展示台で、あんなもので天体観測はしないでしょう)に載っけて、ガリレオは椅子に座ってビロードのマントで正装?して見ているというアンリアリスティックな画像しか見ません。
 実際には、うちの物干し台で見ていたとか(笑)、何か記録はあるのでしょうか?

>閑語(ブログ内ブログ)
 ここで思い出すのは、宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉です。この賢治の言葉をどう捕らえるかは人それぞれだと思いますが、少なくとも賢治さんは、「世界全体が幸福にならないうちは『私』の幸福はあり得ない」という気持ちだったのではないかと思います。そして、賢治さんが、宗教者、教育者として、童話作家あるいは顧客につくす社会人として(彼は自分が社会人とは思っていなかったかもしれませんが)の信念からそう思ったならば、それが現実的かどうかは別にして、同じような立場にある人は一度は尊重して考えるべき言葉だと思います。政治家の人もこの範囲に当然はいると思います。

 昨今、小物の政治家が多いのか、選挙で一番になって選ばれたのだから、その程度の支持が続く限りは勝手な政治をしてもよい、多数派の意見に沿えばよい、と軽く考えて、それを堂々と公言する輩もいるようです。まあ心の中でそう思って自信を持つように努めるのはけっこうですが、公言するのは権力者の責務を理解していないようでいただけません。
 そのいっぽうで、「痛みを分かち合う」とか「税負担は広くみんな公平にしていただく」と言って消費税増税の理由にしたり、「戦争被害は国民が等しく甘受すべき」と空襲で被害を受けた人たちにいうのはどうかやめていただきたい。それならば、良い方向にもみんなが等しく幸福になれる政策でないと首尾一貫しないでしょう。

_ 玉青 ― 2017年02月25日 14時26分25秒

ガリレオは、実際どんなふうに観測を行なったのでしょうね。
以前の記事だと、この辺り↓ですが、どうもはっきりしたことは不明のようです。
http://mononoke.asablo.jp/blog/2012/11/10/6629762

このときは、何となく頼りない感じの架台を想像しましたが、改めて思うに、ガリレオの望遠鏡は視野が非常に狭かったので、やわな架台だと、すぐに対象が視野の外に出てしまい、すこぶる観測しにくかったはずです。となると、結構しっかりした架台を作ったのかなあ…と思ったり。まあ、器用な人ですから、それぐらいはすぐ工夫できたでしょう。

閑語の方は、この間にまた潮目が変わった気配もあるので、世間一般そろそろまともな考えに立ち返ってほしいと期待をしています。

_ S.U ― 2017年02月26日 08時53分35秒

おぉ、ありがとうございます。ちゃんとぬかりなくガリレオの時代の望遠鏡についてもお調べでしたね。具体的な記録がないというのは多少不自然ですが、職人の巧の業を高く評価するような人だったので、たぶんシンプルで機能的な架台をつかっていたことでしょう。

>閑語
あれは水戸学なんですか。「天狗党」とか「桜田門外」というのがありましたので、曲がりなりにも自分たちの意志を貫いた人たちという印象もあり、私には多少地元感もありますが、主義としては今一つ完結していない印象です。いずれにしても、米国の大統領がどう変わろうがとにかく白紙委任状を出し続けるというような主義は、水戸学はおろか、いかなる日本伝統の神仏儒にもなかったろうと思います。

 いつごろからそうなったのかわかりませんが、明治以降の宗教的社会哲学というのでしょうか、その胡散臭さというのは、エリートつまり聖職者、為政者のための哲学と大衆の教育普及のための方便が完全に乖離してしまっていることです。仏教でも儒学でも、元来は、人間は平等で自然(天)を観察して自分の進むべき道を探れという教えだったと思うのですが、このように人によって教えを使い分けているのは自己矛盾です。江戸時代では、儒学が仏僧を便法と批判していたこともありましたが、儒学も当時から身分社会を固定する方便として使われていたので目くそ鼻くその類でした。

 戦後の民主教育で学問としてのその不備が突かれるようになって久しいのですが、これら教育者を名乗る人たちはそれを逆に批判し、現代に至るまで「由らしむべし知らしむべからず」という教えを引きずっていて、為政者の支援は結局はこれが最終目的のように思います。江戸時代そのままと言いますか、江戸時代でも本当の意味での研究者であり、教育者であった梅園や松陰、篤胤らはそんなことはなかったと思うのですが。

 社会科学でも自然科学でもこういう乖離が起こってしまうと学問としては終わりです。乖離させようとする力がほうぼうから高まっている昨今ですが、我々は「他山の石」として心せねばならぬことと思っております。

_ 玉青 ― 2017年02月26日 23時27分57秒

よく曲学阿世といいますが、時に宗教者も「曲信阿世」の振る舞いをしますね。

先の大戦中の、仏教各宗派の戦争協力に関する本を読んだことがありますが、渦中にいると本当にダメです。個々の宗教者の中には、自分の信念にしたがって、進んで獄につながれたり、文字通り命を懸けた人もいますが、宗団になると、いろいろな思惑や忖度が発生してダメのようです。

まあ、最後は「犀の角のように独り歩め」というブッダの言葉に従うしかないのでしょう。

_ S.U ― 2017年02月27日 08時17分52秒

>「犀の角のように独り歩め」
 してみると、「曲学」のほうも学術団体に見解を任せることには致命的な陥穽があるということになりますか。

 近頃、軍事研究について学術会議の新見解が出されるという不穏な情勢になっています。今回の学術会議の見解自体は無難なところに落ち着くでしょうが、一般的に、常にこういう団体の見解をよりどころにするということ自体の危うさを心すべきということだと思います。基本的には、宗教も学術も国民個人個人の考えの総和によって決まることになるのが現代流ということでしょう。

_ 玉青 ― 2017年02月28日 07時03分23秒

集団には大きな力がありますね。良き力も悪しき力も。
そして社会的な動きは、まさに社会的であるが故に、集団の力に拠る以外、事を成し得ないと思いますが、その渦中にあっても常に「犀の角」を心に持していないと、大勢に流され、大切なものを見失ってしまう気がします。まあ、始終角を突き合わせていても生産的ではありませんし、鉾の納め時もあるのでしょうが、ただ仲間として信の置ける人はどんな人かと思い浮かべると、やっぱり「犀の角」を秘めた人かなあ…と感じます。

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