羊飼いの暦2024年12月19日 05時57分51秒

「羊飼いの暦」という言葉をネットで検索すると、真っ先に出てくるのがシェイクスピアと同時代の英国の詩人、エドマンド・スペンサー(c.1552-1599)の 詩集『羊飼いの暦』(1579)です。

しかし、今回話題にするのは、それとは別の本です。
学匠印刷家のひとり、ギー・マルシャン(Guy Marchant、活動期1483-1505/6)が、1490年代にパリで出版し、その後、英訳もされて版を重ねた書物のことで、英題でいうとスペンサーの詩集は『The Shepheardes Calender』で、後者は『The Kalender of Shepherdes』または『The Kalender and Compost of Shepherds』という表記になります(仏題は『Le Compost et Kalendrier de Bergiers』)。

マルシャンの『羊飼いの暦』は、文字通り暦の本です。
当時の常として、暦にはキリスト教の祝日や聖人の縁日などが細かく書かれ、さらには宗教的教訓詩や、星占い、健康情報なども盛り込んだ便利本…のようです。想定読者は文字の読み書きができる人ですから、その名から想像されるような「農民暦」とはちょっと違います(この「羊飼い」はキリスト教でいうところの司牧、迷える民の導き手の意味と思います)。

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暦や占星への興味から、マルシャンの『羊飼いの暦』を手にしました。

(1493年パリ版)

もちろん本物ではなく、1926年にパリで作られた複製本ですが、複製でも100年近く時を経て、だいぶ古色が付いてきました。


一般民衆向けの本なので、言葉はラテン語ではなく、日常のフランス語です。…といっても、どっちにしろ読めないので、挿絵を眺めて楽しむぐらいしかできません。我ながら意味の薄い行為だと思いますが、何でもお手軽に流れる世情に抗う、これぞ良い意味でのスノビズムではなかろうか…という負け惜しみの気持ちもちょっとまじります。


さて、これが本書の眼目である「暦」のページ。
読めないなりに読むと、左側は10月、右側は11月の暦です。冒頭の「RE」のように見える囲み文字は、実際には「KL」で、各月の朔日(ついたち)を意味する「kalendae」の略。そこから暦を意味するKalender(calendar)という言葉も生まれました。

(12月の暦よりXXV(25)日のクリスマスの挿絵。こういうのは分かりやすいですね)


これは月食の時刻と食分の予測図でしょう。


星を読む男。


占星学の基礎知識もいろいろ書かれていて、ここでは各惑星が司る事柄が絵入りで説かれています。左は太陽(Sol)、右は金星(Venus)。


何だか謎めいていますが、たぶん天象占い的な記事じゃないでしょうか。


身体各部位を支配する星座を示す「獣帯人間」の図。


これも健康情報に係る内容でしょう。


恐るべき責め苦を受ける罪人たち。最後の審判かなにかの教誨図かもしれません。

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印刷術の登場により情報の流通革命が生じ、世の中が劇的に変化しつつあった15世紀後半の世界。

それでも庶民の精神生活は、キリスト教一色だったように見えますが、庶民が暦を手にしたことで、教会を通さず自ら時間管理をするようになり、そして星の世界と己の肉体を―すなわちマクロコスモスとミクロコスモスを―自らの力で理解するツールを手にしたことの意味は甚だ大きかったと想像します。

その先に「自立した個の時代」と「市民社会」の到来も又あったわけです。

コメント

_ S.U ― 2024年12月19日 08時07分15秒

あまり詳しくないのですが、こういう「一般庶民職業人」向け暦というのはそれでそれで興味があります。これは15世紀にすでに毎年刊行されていたのでしょうか。だとすると驚きです。

 現在でも「農事暦」というのが日本農業新聞社から出ていて、私は内容をつぶさに見たことはないのですが、これは農学の専門知識を織り込んだ暦ではなく、旧暦の知識や生活の知恵や暦註・占いが中心になっているものと思います。そのほか、かなり昔のことになりますが、そのほかの農業者向けの暦や、JA関係の『家の光』付録の暦もみたことがありますが、やはり歳時記のような生活の知恵を中心にした暦だったと思います。日月食のデータは出ていたように思います。もちろん、月齢のデータと暦註・運勢は毎年アップデートされる必要があります。

 「羊飼いの暦」というのも、そういう名前であって、酪農の職業知識の暦ではないということでしょうか。それとは別に、農作物や酪農に必要な作業の専門知識を盛り込んだ暦も当然あるはずですが、それは毎年更新する必要はなく不経済となるので、それは別に出版・購入されていたということでしょうか。名前から期待されるものと内容が時代を超えて乖離しているとすれば面白いと思います。

_ 玉青 ― 2024年12月20日 17時54分31秒

「羊飼いの暦」は、いろいろな生活情報が載っているっぽいので、たしかに後世の農事暦を思わせますが、やっぱり基本は都市識字層向けのものと思います。少なくとも「羊飼いのための暦」ではないでしょう。

西ヨーロッパでは、16世紀の100年間で識字率が顕著に上昇したらしいですが、1500年代初頭に限ると、これはドイツの話ですが、何でも3~4%、都市部でも5%というような、かなり驚くべき数字が挙がっています。
https://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2017-09-18-1.html

当時の大半の農民は、まさに目に一丁字もない状態で、これではいくら「農作業の専門知識を盛り込んだ暦」の潜在的ニーズがあっても、出版する側は二の足を踏んだことでしょう。

あと、暦書の発行間隔の件は、私も常々疑問に思っていて、暦であれば毎年発行しないと役に立たないはずですが、あれだけボリュームのあるものを毎年発行していたのか、それを毎年買う人がいたのか、そこがどうにも不思議です。

個人的想像ですが、暦の方は一枚刷りのものが毎年作られていたので、「羊飼いの暦」の購読者も、たいていはそれを買い足して用を弁じていたんじゃないでしょうか。少し時代は下りますが、16世紀半ば~後半の一枚刷りの暦が手元に何点かあって、これはいずれ実物を記事で紹介したいと思いますが、面白いのは当時販売されていた暦には「一般向けの暦」と「農民暦」の2種類があることです。で、一般向けの暦は、まあ普通に暦なんですが、農民暦の方は絵や記号だけで表現されていて、さながら日本の「南部めくら暦」のようです。

洋の東西を問わず、人間は似たような工夫をするものだなあ…と思うと同時に、当時の農民の実相がそこに表れていると感じます。

_ S.U ― 2024年12月20日 19時15分14秒

ありがとうございます。やはり識字率の壁というのがありますね。江戸時代の日本の農村では、名主(庄屋)と呼ばれる代表者がいて、上意下達を村人に読み聞かせることになっていました。年貢集め事務の責任もあったので、文字の読める人、読めない人向けに名主が適切な対応をしたはずです。欧州でこれに対応するのは荘園または農奴制ですが、これは上意下達が弱く、領主の世話が薄かったかもしれません。いずれにしても、農園の経済制度の関係の考察が必要と思います。

>「羊飼いのための暦」ではない
 ちょっと思いついたのですが、「羊飼い」はキリスト教の宗教知識にたけた人、あるいは宗教指導者(牧者)のことなのでしょうか。

>暦書の発行間隔
 少なくとも、18世紀の西洋の航海暦とか天体暦は、当年の3~5年前に出版していて、複数年を1冊にまとめて出版していたことも多かったようです。航海に出ると2年くらいは帰って来れないのでそうでないと実用にならなかったのでしょう。古い暦を見るときは、今後ぼちぼち気をつけてみたいと思います。

_ 玉青 ― 2024年12月21日 07時31分49秒

あれ?「この「羊飼い」はキリスト教でいうところの司牧、迷える民の導き手の意味と思います」と本文中で書いたのを、S.Uさんは見落とされたな…と思ったり、思わなかったり(笑)。

_ S.U ― 2024年12月21日 17時36分40秒

おっと、括弧内は見落としておりました。失礼しました。
1490年代なので、宗教改革より少し前の時代なので、今とは違って本当に牧畜民の意味かなと真っ先に考えてしまったので、見落としたのでしょう。昔から司牧=キリスト教指導者でいいのですね。

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