積んどけ!2025年01月26日 09時34分21秒

先日、Facebook上の「Vintage Astronomy Books」というグループに加えてもらったという話をしました。で、その過去記事を見ていて、「天文古書とは関係ないが、興味深い内容だ」として、以下の記事が紹介されているのを目にしました。


 (日本人が「ツンドク」と呼ぶこの習慣は、永続的な効用をもたらし得る)
 BIG THINK、2022年12月22日掲載 

いきなり「tsundoku 積ん読」が出てきて面喰いますが、積ん読の功徳を大いに力説する内容で、私自身、根っからの積ん読派なので、少なからず勇気づけられました。

   ★

著者の主張をかいつまんで言えば、未読の本に囲まれて暮らすことは、自分の無知を自覚することにつながり、無知を自覚することは、自分の知っていることを自覚するよりもはるかに価値がある…ということです。

我々はみな多かれ少なかれ無知であり、無知それ自体を恥じ入る必要はありません。万巻の蔵書を誇るウンベルト・エーコだって、その全てを読んだわけではないし、人間の能力を考えれば、そもそもそれは物理的に不可能です。

未読の本の背表紙は、いかに広大な無知の領域が我々を取り巻いているか――著者の書斎の例でいえば、暗号学、羽毛の進化、イタリアの民間伝承、第三帝国における悪しき薬物使用、昆虫食とは何か等々――を教えてくれます。そして未知の対象があると知るからこそ、我々は新たな読書体験を求め続けるのです。

この「読まれざる本の山」を、著者は統計学者であるNassim Nicholas Talebの造語を借りて、「アンチライブラリー(反図書館)」と呼びます。しかし記事の後半では、アンチライブラリーの語感があまりよろしくないのと(『ダヴィンチ・コード』の著者、ダン・ブラウンの小説にでも出てきそうだ、と著者は言います)、普通の図書館だって多くの本が読まれないままなのだから、あえてアンチと呼ぶ必然性が薄いという理由で、日本語の「積ん読」に軍配を上げます。積ん読もまた「読書」の一形態だ…という点に魅力を感じたのでしょう。

   ★

著者はライターとして記事を量産している人なので、この記事にしても、どこまで本気で書いているのか、何となく常識の逆張りで人目を引こうという意図や、そもそも「こたつ記事」っぽい感じが無くもないですが、でもこうやって堂々と言ってもらうと、家族に対しても、「どうだ、Dickinson氏曰く…」と胸を張れるような気がします。

まあ、これも人は自分に都合のよい情報だけを取り入れがちという、「確証バイアス」の例に過ぎないといえば、その通りでしょうけれど…。


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