骨のある話2023年01月01日 10時11分34秒

新年明けましておめでとうございます。
干支が寅から卯にバトンタッチしたので、今年も骨のある話でスタートです。


上はトラ…ならぬネコに代役を努めてもらいました。ただし本物ではなくて、プラスチック製の模型です。下のウサギの骨はずいぶん傷んでいますが、フランスのオゾー社製という由緒を持ち、創業者のオゾー博士のことと併せて、だいぶ前に一文を書きました。

■博物趣味の欠片…ウサギの骨とドクトル・オゾー

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こんな風に元旦はいつも骨の話題で始まっている気がしたのですが、さっき確認したら、その始まりは2019年からで、そんなに昔のことではありませんでした。
これまで登場した骨のある顔ぶれは、以下のとおりです。

(2022年 丑→寅(ネコ))

(2021年 子→丑)

(2020年 亥→子)

(2019年 戌(オオカミ)→亥)

この調子で干支が一巡するのは、7年後の2030年で、それまでこのブログが続いているかどうか、すこぶる怪しいですが、これまでも途中失速しながら、結構しぶとく続いているので、意外に半々ぐらいの確率でいけそうな気もします。

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室町時代の一休和尚は、正月早々、骸骨をぶら下げた杖をついて歩きながら、「正月は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んだと伝わります。この逸話は後世の脚色も加わっているみたいですが、広く人口に膾炙しているのは、やはり人々の心にズシッとくる真実を含んでいるからでしょう。

今朝起きたら、大掃除の余波で、腰から腿にかけてひどく痛みました(今も痛いです)。これもまた「めでたくもあり、めでたくもない」話ですが、でもこうして呟けるうちは、まだめでたい部類なんだろうなあ…と、自らの骨を撫でさすりながら思いました。

…と、今年もこんな無駄話を暇にあかせて書き綴っていきます。
どうかよろしくお付き合いのほど願います。

波乗り兎のこと2023年01月02日 11時02分24秒

ウサギと天文といえば「うさぎ座」という、そのものズバリのものがありますけれど、ここではちょっと方向を変えて、月のウサギにちなむ品を採り上げます。

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私の趣味嗜好として、月をかたどった品は昔から気になるもののひとつで、特に集めているわけでもないんですが、目についたものをポツポツ買っているうちに、少しずつ集まってきました。


そうしてやってきたひとつが、この月と兎のかんざしです。


全体は銀製。文字通り「銀の月」に赤珊瑚の兎が乗っています。


角度をちょっと変えると、兎の造形も達者だし、


正面から見ると、鼻先から口元にかけて珊瑚の白い部分が生かされていて、なかなか芸が細かいです。かんざしの細工が高度に発達したのは、江戸時代よりもむしろ明治の末~大正頃で、これもその頃のものだろうと売り手の方から聞きました。

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「波乗り兎」は和の文様としてポピュラーですが、この「月・兎・波」の3点セットは、謡曲「竹生島」の以下の詞章に由来します。


 「緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり 
 月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか」

琵琶湖に浮かぶ竹生島明神へ参詣の折、船からあたりを眺めると、島影と月が湖面に鮮やかに映り、あたかも魚が木に登り、月に棲む兎が波の上を走るようだ…という美辞です。

岩波の日本古典文学大系の『謡曲集』注解は、同時代の文芸作品にも似たような表現が複数見られることを指摘していますが、いずれにしてもこれは中国に典拠のない、純国産の表現のようです。そして近世以降、謡曲の知識が庶民層に普及する中で、それに基づくデザインの方も人気を博すようになったのでしょう。


このかんざしは、波の表現もダイナミックで、水上を奔る兎の勢いが感じられます。

(かんざしの裏面)

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こういう品を、あのジャパン・ルナ・ソサエティ(LINK)に持ち込んで、各人の評価を聞いてみたいなあ…と思います。

神の矢尻2023年01月03日 10時12分27秒

頭足類で、イカの近縁にあたる「ベレムナイト」
その柔らかい身体が化石として残ることは極めて稀ですが、いわゆる「イカの甲」に当たる、軟体内部の細長い砲弾型の殻は、各地で化石として普通に産出します(この辺の事情は、同時代を生きたアンモナイトの化石と同様です)。


その化石は、日本でも「矢石」と呼ばれるように、ちょうど尖った矢尻の形をしていて、昔の人はこれを「神様が使った矢尻」だと考えたらしいです。そして神の矢は激しい雷光とともに放たれ、地面を射抜けば、そこに先日のフルグライトが形成されるのかも…という、一種の見立てをコメント欄でいただきました。


コメントの主は、このブログではおなじみの、ウクライナのブセボロードさんで、同地におけるここ数日の激しい戦闘のニュースを見ていると、今や人間は、太古の神々以上の攻撃力を備えるに至ったことを痛感します。

しかし武器はどんどん進化しても、「中の人」はあまり代わり映えがしないので、そこにこそ人間の悲劇はある…というのは、月並みな感想かもしれませんが、月並みでも何でも、繰り返し反芻しなければならない真理だと思います。

どうか、この「神の矢」が破魔矢となり、世の悪心を祓ってくれますように。
ブセボロードさんのご無事と、彼の地に平和が早く訪れることを心から祈ります。

小さな月の工芸品2023年01月04日 06時10分35秒

一昨日のつづきで、少し話をふくらませます。

門外漢の言うことなので、あまり当てにはなりませんが、日本では装身具があまり発達しなかった気がします。端的にいって、指輪、ネックレス、ブレスレット、イヤリング、ブローチ、宝冠…等々を身につける習慣がなかったし、特にジュエリーの類は、ヨーロッパ世界との懸隔が目立ちます。

近世は奢侈品が禁じられたので、やむを得ない面もありますが、それ以前だって、あまりポピュラーだったとは思えません。まあ、別に装身具が発達したからエラい、しなかったからダメという話ではなくて、単に文化の在りようが違うといえばそれまでです。

ただ、仏典には「七宝」の記述があるし、菩薩像の絢爛たる宝冠、瓔珞、腕輪などの造形を考えれば、日本人がそういうものの存在を知らなかったはずはないので、そこはちょっと不思議な気がします。(あるいは逆に、そこに「仏臭さ」を感じて、自ら身に着けることを忌避した…ということかもしれません。)

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そんな中で近世にあっては、女性ならばかんざし、男性ならば提げ物(煙草入れなど)とそれに付随する装飾が、装身具として独自の発展を遂げました。また刀も身に帯びるものですから、凝った刀装具を、装身具の一部に数えていいかもしれません。こうした日本独自の細密工芸品は、海外でも国内でも、コレクターが多いと聞きます。

月のモチーフ限定ですが、私もそうした細々した品に惹かれるところがあって、一昨日の兎のかんざしも、その流れで手にしたものです。さらに今日はもうひとつ、提げ物の金具を見てみます。


これは形状から留め具と思われる品で、左右2.8cmのごく小さな細工物です。モチーフは波にもまれる月。ここに兎は登場しないし、海上の月はそれ自体独立した画題でもありますが、それでも例の「月海上に浮かんでは 兎も波を奔る」(竹生島)の連想は自然に働きます。


一方、こちらは典型的な波乗り兎。おそらく煙草入れの前金具で、左右は4.8cmと一寸大きめです。こちらは逆に月が描かれてませんが、文化的約束事として、この兎は月をシンボライズしているので、見た目は違っても、結局両者は「同じもの」だと思います。


「月の登場しない月の工芸品」というのは一見奇妙ですが、シンボルとはそういうもので、西洋の人が白百合の絵を見て、「ここには聖母マリアが描かれている」と言ったりするのも同じことでしょう。

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以前、天文モチーフのアクセサリを探していたとき、「そういえば、日本にこういうのはないなあ…」と一瞬思ったんですが、でも改めて考えたら結構あるような気もして、そのことを思い出しつつ、今日は日本文化論を一席ぶってみました。(新春大放談ですね。)

(おまけ。今年の年賀状に使った柴田是真筆「玉兎月宮図」(部分))

再び小さな月の工芸品…「月と薄」2023年01月05日 18時33分21秒

話にはずみがついたので、もう一回話を続けます。


これまた小さな月の工芸品。左右は3.9cmほどで、人差し指の先にちょこんと乗るぐらいのサイズです。


月に薄の図で、三日月とススキの穂に金箔を置いたのが、渋い中にも華やかさを感じさせます。よく見るとススキの葉に小さな露が玉になっていて、こういうところが細工士の腕の見せ所。

これは「目貫(めぬき)」、つまり日本刀の柄(つか)を飾った金具で、昔の侍というのは、威張っているばかりでなく、なかなか風雅な面がありました。

月に薄の取り合わせは、お月見でもお馴染みですし、ふつうに秋の景色を描いたものとして、特段異とするには足りないんですが、実はこの目貫は2個1対で、もう一つはこういう図柄のものでした。


こちらは烏帽子に薄です。「これはいったい何だろう?」と、最初は首をひねりました。昨日の記事で「文化的約束事」ということを述べましたが、こういうのは要は判じ物で、分かる人にはパッと分かるけれども、分からない人にはさっぱりです。私もさっぱりの口だったんですが、ネットの力を借りて、ようやく腑に落ちました。

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まず、ここに描かれているのは烏帽子ではなくて、「冠」だそうです。


正式には巻纓冠(けんえいかん)と呼ばれるもので、特に両耳のところに扇形に開いた馬の毛の飾り(老懸・おいかけ)が付いているのは、武官専用の冠であることを示しています。

そして、この冠の主は下の人物だと思います。

(在原業平像 狩野探幽筆『三十六歌仙額』)

在原業平(825-880)は歌人として有名なので、文人のイメージがありますが、その官職は右近衛権中将で、れっきとした武官です。したがって狩野探幽が業平を武官姿で描いたのは正確な描写で、彼は古来「在五中将(在原氏の五男で中将を務めた人)」の呼び名でも知られます。

そして業平といえば、『伊勢物語』です。中でもとりわけ有名な「東下り」と武蔵国でのエピソードが、この「薄と冠」の背景にはあります。したがって「月と薄」の方も、単なるお月見からの連想というよりは、和歌で名高い「武蔵野の月」(※)をモチーフにしたものであり、ここに共通するテーマは「武蔵野」です。

(「武蔵野図屏風」江戸時代、根津美術館蔵)

(※)たとえば源通方が詠んだ、「武蔵野は月の入るべき峯もなし 尾花が末にかかる白雲」(続古今和歌集所収)など。

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何だかしち面倒くさい気もしますが、文芸的伝統の本質とは、幾重にも重層的な「本歌取り」の連続にほかならず、そうした伝統の末に、次のような表現も生まれたような気がします。

「そうだ。おや、あの河原は月夜だろうか。」
 そっちを見ますと、青白く光る銀河の岸に、銀いろの空のすすきが、もうまるでいちめん、風にさらさらさらさら、ゆられてうごいて、波を立てているのでした。
「月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。」ジョバンニは云いながら、まるではね上りたいくらい愉快になって、足をこつこつ鳴らし、窓から顔を出して、高く高く星めぐりの口笛くちぶえを吹きながら一生けん命延びあがって、その天の川の水を、見きわめようとしました」
 (宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より「六、銀河ステーション」の一節)

新暦150年の陰で2023年01月07日 10時56分34秒

昨年の暮れに、旧暦から新暦への切り替えについて記事を書きました。
すなわち、明治5年(1872)12月2日の翌日を、明治6年(1873)1月1日とし(※)、以後は太陽暦を使用せよ…というお達しに関する話題で、今年は新暦施行150周年の節目の年に当たります。


暦の上では、12月がほぼ1か月まるまる消失し、師走が来たと思ったら、すぐ正月だということで、庶民は大混乱に陥った…と、面白おかしく語る向きもあります。でも、同時代の資料を見るかぎり、実際にはそれほど混乱があったようにも見えません。以前の記事で書いたように、旧暦の併用は公に認められていたし、それ以上に徴兵制の導入をはじめ、新時代の高波は、暦の切り替えなどちっぽけな問題と思えるぐらい大きかったからです。

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ただし、そんな中で大混乱に陥った一群の人がいました。暦屋です。
何せ改暦の布告が出たのは11月9日のことですから、業者はすでに翌年の準備に余念がなく、それを全部チャラにして、しかも1か月前倒しで新しい暦を刷り上げろという無理難題ですから、混乱して当然です。

そんなわけで、巷には「幻と消えた明治6年の旧暦」が一部流出し、心掛けの良い人はそれをちゃんと取っておいたので、今もそれを手にすることができます。


とはいえ、やっぱり珍しいものには違いなくて、私も時折思いついたように探してはいたのですが、なかなか見つかりませんでした。それがふと見つかったのは、先日の記事を書いた後のことで、こういうのを「機が熟した」というのでしょう。


こうして私は「明治5年 最後の旧暦」、「明治6年 最初の新暦」、そして「明治6年 幻の旧暦」のロイヤルストレートフラッシュを完成させ、大いに鼻高々です。まあ、虫の喰った煤けた紙束を自慢しても、あまり大方の共感は得られないかもですが、6世紀に暦法が本朝に伝来して以来1500年、中でも最大の出来事が太陰暦(正確には太陰太陽暦)から太陽暦への変更ですから、これはやっぱり貴重な史資料ではあるのです。

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肝心の幻の旧暦の中身ですが、まあ普通に旧暦です。


明治6年は「みつのととり(癸酉)」の年で、途中「閏六月」が挿入されたため、1年は13ヶ月、384日ありました。


暦の下段に書かれた暦注が、いかにも旧弊。
試みに右端(1月4日)下段を読んでみると、「十方くれニ入(十方暮に入る)神よし(神吉)大みやう日(大明日)かくもんはしめよし(学問始め吉)」、その隣の黒丸は大凶の「黒日」の印で、さらに「五む日(五墓日)めつもん(滅門)さいけしき(歳下食)」「大みやう(大明)母倉 大くわ(大禍)ちう日(重日)」と続きます。

今では完全に暗号化していますが、昔の人にはちゃんと意味があったのでしょう。江戸時代にあっても、一部の学者はこうした暦注を迷信として激しく排撃しましたが、長年の慣習はなかなか改まらないものです。

それにしても、こういうものが「文部省天文局」の名前で出版されていたのが、わずか150年前のことです。世の中変ったなあ…と思いますが、現代人も友引に葬式を出さなかったりするので、一見した印象ほどには変わってないのかもしれません。


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(※)この書き方は不正確です。これだと1872年12月2日の翌日が、いきなり1873年1月1日になったように読めますが、もちろんそんなことはありません。正確には「旧暦の明治5年12月2日(西暦1872年12月31日)の翌日を、新暦の明治6年1月1日(西暦1873年1月1日)とした」と書かねばなりません。

戦火の星2023年01月08日 12時48分53秒

先月最接近した火星は、まだまだ明るいです。
下は「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌、1909年11月27日号表紙より、「火星」と題されたイラスト(額装用に表紙だけバラして売っていました)。


作者は、画家・版画家のPierre Marie Joseph Lissac(1878-1955)で、こういうカリカチュアを描くときは「Pierlis」を名乗ったので、サインもそのようになっています。


火星を闊歩するのは、古代ローマ風の男性兵士と、それを指揮・督励している女性士官たち。


キャプションには「婦人参政権論者が雲上から地上に降臨させることを夢見るマーシャル文明」とあって、この「マーシャル」は、「戦闘的」と「火星の」のダブルミーニングでしょう。明らかに当時の「新しい女性」を揶揄した絵柄です。「ラ・ヴィ・パリジェンヌ」誌は、1863年から1970年まで刊行された老舗総合誌で、誌名から想像されるような、いわゆる「女性誌」ではなかったので、こんなアイロニカルな挿絵も載ったのでしょう。

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火星は軍神マルスの星で、古来戦争と関連付けられてきました。火星の惑星記号♂も、盾と槍を図案化したものと聞けば、なるほどと思います。

野尻抱影は火星について、こんなふうに書いています。

 「何となく不気味で、特に梅雨の降りみ振らずみの夜などに赤い隻眼を据えてゐるのを見ると、不吉な感さへも誘ふ。西洋でこれを血に渇く軍神の星としたのも、支那で熒惑〔けいこく〕と呼び凶星として恐れてゐたのも、この色と、光と、及び軌道が楕円上であるため動きが不規則に見えるのとに由来してゐた。」(野尻抱影『星の美と神秘』、1946)

火星に不穏なものを感じるのは、洋の東西を問いません。
こうして「マーシャル」という形容詞が生まれ、上のようなイラストも描かれたわけです。

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【閑語】

ロシアがウクライナにふっかけた戦争を見ていると、そして過去の戦争を思い起こすと、戦争というのはつくづく損切りが難しいものだと思います。戦争というのは、そもそも構造的にそれができにくい仕組みになっているのでしょう。

なぜなら、自国の兵士が亡くなれば亡くなるほど、「彼らの流した血を無駄にするな!」という声が強まり、「徹底抗戦」へと世論が誘導されていくからです。本当は「これ以上犠牲を増やさないために、戦争を早く終わらせるべきだ」という判断のほうが、はるかに合理的な局面は多いと思うんですが、いつだって白旗を掲げるのは、損益分岐点を<損側>に大きく越えてからです。

この辺はギャンブラーの心理を説明した「プロスペクト理論」とか、現象としては「コンコルド効果」として知られるものと同じですが、戦場における人間の狂気と並んで、為政者(と国民)が下す判断の不合理性も、戦時における特徴として、ぜひ考えておきたいところです。その備えがないと、あまりにも大きなものを失うことになると思います。

ある天文学者の書斎2023年01月12日 21時40分32秒

YouTubeで、「An Astronomer's Great Library」という動画をおすすめされました。1か月前に公開され、すでに49万回再生されているので、相当見られているようです。(下は例によって単なる画像に過ぎないので、その下のリンクをクリックしてください。)


こういうのを何て言うんでしょう?アンビエント動画?
途中からはBGMも極端に控えめになって、あとはかすかに炎がパチパチはぜる音や、コツコツ歩き回る音が聞こえる中、空想の天文学者の書斎のCGが延々と続きます。単調といえば単調ですが、単調さこそがこうした環境映像に求めれられるものなのでしょう。

もちろん、見ている人はこれがすべてファンタジーだと納得づくで見ているはずですが、「天文学者の書斎」というテーマに対して、現代の人々がどんなファンタジーを重ねているか、それを示している点で興味深いと思いました。

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この動画は、映画版「ハリー・ポッター」に出てくるダンブルドア校長の部屋↓と、発想源は同じだと思います。

(画像は拾い物)

そこでイメージされている天文学者は、半ば魔法世界の住人であり、占星術師でもあり、要は下のような姿の人なんだと思います。


この画像は、今から12年前に書いた以下の記事に貼ったものです。

■カリカチュアライズされた天文学者のルーツを探る(前編)
■同(後編)
記事では、ファンタジックな天文学者像のルーツを求めて、啓蒙主義思想の行き渡った18世紀にその答を求めました。それはすなわち、16世紀に隆盛を誇った占星術が公式科学の世界から退場し、占星術師がことさら「愚昧な存在」と人々にイメージされるようになった時代です。

当時の占星術師は、現実にはかぶったことのないとんがり帽子をかぶせられ(それは本来、17世紀半ばの医者や薬種屋のコスチュームでした)、16世紀には存在しなかった望遠鏡を持った姿で描かれました。それがさらに天文学者にまで応用された結果が、上のファンタジックな天文学者像というわけです。

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冒頭の動画は、そうしたイメージが延々と21世紀になっても生きていることを示すものですが、ただ18世紀と違って、そこには嘲りの調子がありません。あるのはむしろ憧れと畏敬の念です。

そのことをどう評価するかは、またいろいろな論点があって、話は容易に尽きそうにないので、この件はいったん寝かせておきます。

ルネサンス期の天文学者の部屋を覗く2023年01月14日 10時55分40秒

前回、空想の天文学者の書斎を眺めました。
じゃあ、現実のルネサンス期の天文学者の部屋はどうだったのか?
それを窺わせるのが、かつて(2012年)オックスフォードの科学史博物館で開かれた「天文学のルネサンス」展です。


 
そのトップページに、以下の画像が貼られています。

(上のサイトから入ってもらうと、もっと大きな画像を開くことができます)

窓辺に置かれたアーミラリー、天球儀、日時計、アストロラーベ…。
演出写真とはいえ、当時の天文学者の身辺日常を彷彿とさせます。いずれの品も、現在の評価額は唸るような価格でしょうが、ただこれが絵面として豪華かといわれると、やっぱり地味は地味です。ひとつの島を領有し、立派な城に住んだティコ・ブラーエのような例外を除き、当時の(今も?)天文学者はおしなべて富貴とは縁遠かったと思います。

余談ながら、このインスタレーションを行った人は、たぶんフェルメールの有名な『天文学者』(1668年頃)を意識したんじゃないでしょうか。


17世紀後半、オランダ黄金時代の天文学者でも「きらびやか」とは程遠い、地味なイメージで描かれているわけですから、その100年前の天文学者が地味でも、ちっとも不思議ではありません。

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ついでなので、上の画像に写っているモノたちの素性を確認しておきます(それぞれ個別の説明ページにリンクを張りました)。


④~⑤ ※不明
⑥ カミーロ・グアリーノ・グアリーニ(著)『天界数学論・第一部』
 (Camillo Guarino Guarini、Caelestis mathematicae pars prima、1683)
  ※出品リストになし
⑨ 『ユークリッドの光学(Euclidis Optica)』 ※出品リストになし

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地味かもしれませんが、こういうのはいいなあと思います。
眺めるだけでなく、雰囲気だけでも真似してみるか…と思ったりもします。