洋星と和星 ― 2024年10月04日 18時32分13秒
先日、『野尻抱影伝』を読んでいて、抱影の天文趣味の変遷を記述するために、「洋星」と「和星」という言葉を思いつきました。つまり、彼が最初、「星座ロマン」の鼓吹者として出発し、その後星の和名採集を経て、星の東洋文化に沈潜していった経過を、「洋星から和星へ」というワンフレーズで表せるのでは?と思ったのです。
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骨董の世界に西洋骨董と和骨董(中国・朝鮮半島の品を含む)の区別があるように、星の世界にも「洋星」と「和星」の区別がある気がします。もちろん星に洋の東西の区別はありませんが、星の話題・星の文化にはそういう区別が自ずとあって、ガリレオやベツレヘムの星は「洋星」の話題だし、渋川春海や七夕は「和星」の話題です。
(Wikimedia Commons に載っている Occident(青)vs. Orient(赤) の図)
もっとも洋の東西とはいっても、単純ではありません。
たとえばエジプトやメソポタミアは「オリエント」ですから、基本的に東洋の一部なんでしょうが、こと星の文化に関しては、古代ギリシャ・ローマやイスラム世界を通じて、ヨーロッパの天文学と緊密に結びついているので、やっぱり「洋星」でしょう。
じゃあ、インドはどうだろう?ぎりぎり「和星」かな?
…と思ったものの、ここはシンプルに考えて、西洋星座に関することは「洋星」、東洋星座に関することは「和星」と割り切れば、インドは洋星と和星の混交する地域で、ヘレニズム由来の黄道12星座は「洋星」だし、インド固有の(そして中国・日本にも影響した)「羅睺(らごう)と 計都(けいと)」なんかは「和星」です。
その影響は日本にも及び、以前話題にした真言の星曼荼羅には黄道12星座が描き込まれていますから、その部分だけとりあげれば「洋星」だし、北斗信仰の部分は中国星座に由来するので「和星」です。つまり、星曼荼羅の小さな画面にも、小なりといえど洋星と和星の混交が見られるのです。
近世日本の天文学は、西洋天文学の強い影響を受けて発展したものの、ベースとなる星図は中国星座のそれですから、やっぱり「和星」の領分です。いっぽう明治以降は日本も「洋星」一辺倒になって、「銀河鉄道の夜」もいわば「洋星」の文学作品でしょう。
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とはいえ世界は広いので、「洋星」と「和星」の二分法がいつでも通用するわけではありません。サハラ以南のアフリカや、中央アジア~シベリア、オセアニア、あるいは南北のネイティブアメリカンの星の文化は、「洋星」とも「和星」とも言い難いです。
非常に偏頗な態度ですが、便宜的にこれらを「エスニックの星」にまとめることにしましょう。すると、私が仮に『星の文化大事典』を編むとしたら、洋星編、和星編、エスニック編の3部構成になるわけです。一応これで話は簡単になります。
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「洋星」と「和星」をくらべると、一般に「洋星」のほうが人気で、「和星」はちょっと旗色が悪いです。まあ「洋星」の方が華やかで、ロマンに満ちているのは確かで、対する「和星」はいかにも地味で枯れています。
しかし抱影と同様、私も最近「和星」に傾斜しがちです。
「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」という古川柳がありますけれど、元気な若い人はまだ見ぬ遠い世界に憧れ、老いたる人は懐かしい故郷に自ずと惹かれるものです。
たしかに私は抱影ほど伝統文化に囲まれて育ったわけでもないし、幼時からなじんでいるのはむしろ「洋星」ですが、それでもいろいろ見聞するうちに、抱影その人へのシンパシーとともに、「和星」思慕の情が徐々に増してゆくのを感じています。
コメント
_ S.U ― 2024年10月05日 05時06分31秒
_ 玉青 ― 2024年10月06日 08時27分26秒
洋風と和風、洋食と和食、洋服と和服、洋間と和室、トイレなら洋式と和式…。それらと相並ぶものとして「洋星と和星」というのを考えてみたんですが、まあ「エスニック」に押し込められた地域の人々からは大ブーイングでしょうが、日本人にとって、この「洋と和」の対比は相当根深いものがありますね。これほど和だ,洋だと何かにつけて騒ぎ立てるのは、よっぽど西洋との接触がトラウマになっているんでしょうかね。
抱影にとっての「和星」開眼は、大正13年に出た新村出博士の『南蛮更紗』に収められた「日本人の眼に映じたる星」その他の天文随筆に触れたことらしいので、そうなると結構年季が入った話で、単純に「洋星から和星へ」というよりは、むしろ当初から「洋星も和星も」というほうが事実に近いかもしれません。
それでも、抱影の場合、齢を重ねるにつれて「和星」にいよいよ関心が向くようになったのも確かでしょうし、「星の翁」としてそれが“様になってきた”、あるいは周囲もそれを歓迎した…という側面もありそうです。
S.Uさんや私も、このところ「和星」がだんだん「様になってきた」んじゃないでしょうか(笑)。
抱影にとっての「和星」開眼は、大正13年に出た新村出博士の『南蛮更紗』に収められた「日本人の眼に映じたる星」その他の天文随筆に触れたことらしいので、そうなると結構年季が入った話で、単純に「洋星から和星へ」というよりは、むしろ当初から「洋星も和星も」というほうが事実に近いかもしれません。
それでも、抱影の場合、齢を重ねるにつれて「和星」にいよいよ関心が向くようになったのも確かでしょうし、「星の翁」としてそれが“様になってきた”、あるいは周囲もそれを歓迎した…という側面もありそうです。
S.Uさんや私も、このところ「和星」がだんだん「様になってきた」んじゃないでしょうか(笑)。
コメントをどうぞ
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抱影の一生の関心ごとからいうとこの順番なのだと感じます。また、冥王星発見の時にこの和名(訳名)を提唱しましたが、これはまた違った意味での「洋星から和星へ」かと感じますし、あるいは単に翻訳業としての仕事だったのかもしれないと思います。軍部の依頼で「兵用の星」というのも考えていて、これもその線上にあるのかもしれませんが、これも、単に、翻訳者なのか、それとも「洋星から和星へ」の流れなのかどちらなのでしょうか。何か二重構造を感じます。
私ごとですが、私にとってのリアルタイムの抱影の最初の印象は、マスコミで子どもたちに星座の解説をする普及家というイメージでした。ところが『天文ガイド』誌で紹介される新著本は、『星と東方美術』とか『鶴の舞』とか『大泥棒紳士館』とかよくわけのわからないものが多く、内容のわかる『日本星名事典』、『星アラベスク』を含めても中高生の小遣いをはたいて買ったものは一つもありませんでした(これは『星三百六十五夜』のところで似たようなことを書きました)。