Look Up and Look Down ― 2024年09月19日 20時01分56秒
気の滅入るような出来事が多いと、忌まわしい世俗から目をそむけて、遠い星の世界を眺めてみようか…という気分になります。
双眼鏡ごしに眺める星の光は、まことに一服の清涼剤で、しばし心が慰められます。もちろん星を眺めても、気の滅入るような出来事が消えて無くなるわけではないんですが、心の平安を保つためには、そういう時間もときに必要です。
それに――。
これも時おり思うことですが、この宇宙に「世俗」が一体どれだけ存在するか? 無数の星が浮かぶ広大な宇宙においても、「世俗」はまれな上にもまれな存在で、観測技術が向上した現在でも、「世俗」はこれまでただ1か所しか観測されていません。
これほど希少な「世俗」から目をそらすなんて、まことにもったいない話で、空に向けていた双眼鏡をただちに地上に向けて、深甚の興味をもってそれを観察すべきではなかろうか…。そんな風に思ってみるのも、確かにこころの平安に役立つことで、そもそも上に書いたことは強がりでもなんでもなく、科学に裏付けられた100%正しい陳述なのですから、我々は胸を張ってそうしてよいし、そうすべきであると、ちょっと元気が出たところで、また地上に舞い戻って日々を過ごすわけです。
これまた天文趣味の「功徳」だと私は信じます。
コメント
_ S.U ― 2024年09月20日 06時27分38秒
_ 玉青 ― 2024年09月21日 05時57分42秒
S.Uさんも、よもや星見を「俗事」と捉えてはいらっしゃらないと思いますが(笑)、まあそれだけ「日常」に組み込まれているということでしょう。
これが天文学者ともなれば、星の観測こそが日常で、星を見て心が慰められるなんてことはないのかもしれませんね。「ふん、“星を眺めてお金がもらえるなんて羨ましいですね”だって?こっちの苦労も知らずによく言うよ。…ああ、趣味で星を眺められる人間が羨ましいなあ」なんて思ってたりするんでしょうか(笑)。
改めて考えると、「地上の俗事をのがれて星に慰謝を求める」という発想は、「四大元素から成る月下界 vs. エーテルに満ちた天上界」という古代ギリシャ以来の伝統の末葉に連なるものかもしれませんね。
人は何のために星を見るのか?人は星に何を求めるのか?
このテーマに深入りしていくと、月下界と天上界や、日常と非日常の対比はもちろん、穢土と浄土、地獄と天国、現象界とイデア界、生と死といったもろもろの対概念が関わってくるでしょうし、超越と救済の問題とか、世界内存在の哲学とか、いろいろな話題に発展して、そこから『星見の哲学』といった分厚い本が1冊書けそうな気もします。そういう本って、これまでありそうでなかったですね。
これが天文学者ともなれば、星の観測こそが日常で、星を見て心が慰められるなんてことはないのかもしれませんね。「ふん、“星を眺めてお金がもらえるなんて羨ましいですね”だって?こっちの苦労も知らずによく言うよ。…ああ、趣味で星を眺められる人間が羨ましいなあ」なんて思ってたりするんでしょうか(笑)。
改めて考えると、「地上の俗事をのがれて星に慰謝を求める」という発想は、「四大元素から成る月下界 vs. エーテルに満ちた天上界」という古代ギリシャ以来の伝統の末葉に連なるものかもしれませんね。
人は何のために星を見るのか?人は星に何を求めるのか?
このテーマに深入りしていくと、月下界と天上界や、日常と非日常の対比はもちろん、穢土と浄土、地獄と天国、現象界とイデア界、生と死といったもろもろの対概念が関わってくるでしょうし、超越と救済の問題とか、世界内存在の哲学とか、いろいろな話題に発展して、そこから『星見の哲学』といった分厚い本が1冊書けそうな気もします。そういう本って、これまでありそうでなかったですね。
_ S.U ― 2024年09月21日 08時18分00秒
「四大元素」「世界内存在の哲学」のお話で、またぞろ、宮沢賢治の原子物理学を思い出しました。賢治の考え方においては、原子物理学と宗教と日常の世俗が融合し、聖俗の両極端はあるにしても、境界不分明になっていたと思います。賢治自身は資質として、もともと聖俗の区別の明瞭でない特殊な人だったのかも知れませんが、ミクロの方向を俗でやっている私も、資質がなくとも、日常での原子や光の意識などで境界不文明は起こっています。生活の場面で、ああ、また原子や光が自分の性質で頑張っているなと感じることはしばしばあります。また、賢治でなくても微生物や肥料や薬石の効果を日常意識して生活している人たちもそうではないかと思います。
もとに帰って、マクロの方向はどうなんでしょうね。恒星のエネルギーは、万物の物質とエネルギーの源ですが、「星見」が仮に俗事であっても、天の構造論が俗事化している人がいるのかどうかはわかりません。
もとに帰って、マクロの方向はどうなんでしょうね。恒星のエネルギーは、万物の物質とエネルギーの源ですが、「星見」が仮に俗事であっても、天の構造論が俗事化している人がいるのかどうかはわかりません。
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よく、世の中の人々が「空の星々を見ると、世間の細かい話などみんなちっぽけに思える」と書いていらっしゃいますが、私は、素直には首肯できません。人間の世間の細かい話も、宇宙の星々同様のおおごとではないかとずっと思っています。
でも、その理由は、玉青さんのお説とちょっと違って、私が小さい時から空を見ることが人生の一部になっているから、世俗と空のことがごっちゃになっているからだと思っていました。正しいかはわかりません。その点、天体観測が本業のプロの研究者はまさにごっちゃで、どう感じておられるかと思います。私のは趣味の天文ですので、またごっちゃの意味合いが違うように思います。