アンドロメダのくもは2024年05月03日 18時15分47秒

草下英明氏に「賢治の読んだ天文書」という論考があります(『宮澤賢治と星』、学芸書林、1975所収)。その冒頭に次の一節があります。

 「昭和26年5月、花巻を訪れて〔実弟の〕清六氏にお会いした折、話のついでに「賢治さんが読まれた天文の本はどんなものだったんでしょうか。貴方に何かお心当りはありませんか」とお尋ねしてみたが「サア、どうも覚えがありませんですね。多分貧弱なものだったと思いますが」というご返事で…」

草下氏の一連の論考は、「星の詩人」宮澤賢治の天文知識が、意外に脆弱であったことを明らかにしています。たとえば「銀河鉄道の夜」に出てくる「プレシオス」という謎の天体名。これは草下氏以降、プレアデスの勘違いだったことが定説となっています。こんな風に、賢治作品で考証が難航した天体名は、大体において彼の誤解・誤記によるものらしい。

もちろん、それによって彼の文学的価値が減ずるわけではありませんが、後世の読者として気にはなります。

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…というのは、14年前に書いた記事の一節です(引用にあたって表記を一部変えました)。

魚の口から泡ひとつ…フィッシュマウスネビュラの話

上の記事は、賢治が作品中で使った「フィッシュマウスネビュラ」という見慣れない用語について書いたもので、賢治の天文知識のあやふやさを指弾する色彩を帯びています。すなわち、賢治が今でいうところの「環状星雲」を「フィッシュマウスネビュラ」と呼んだり、天文詩『星めぐりの歌』の中で、「アンドロメダのくもは さかなのくちのかたち」とうたったのは、彼の勘違いであり、記憶の錯誤にもとづくものだ…というようなことを、草下英明氏の尻馬に乗って書き記したのでした。

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例の「The Astronomers’ Library」を、晴耕雨読よろしく庭の片づけ仕事の合間に読んでいます。その中で、上の記事に関連して、「おや?」と思う記述を目にしました。そして、少なくともアンドロメダ銀河を賢治が「魚の口」と呼んだのは、やはり典拠のある話であり、それを賢治の誤解で片づけたのは、私や草下氏のそれこそ無知によるものではないか…と考えなおしました。

というのは、「The Astronomaers’ Library」は、ペルシャで10世紀に編纂されたアル・スーフィ『星座の書』を紹介しつつ、次のように書いているからです。

 「この本のもう一つの注目すべき点は、アンドロメダ座――あるいはアラビア語でいうところの「巨魚座 Big Fish」 にある、(アラビアの天文学者には)よく知られた「小雲(’little cloud’)」に関する最初の記録であることだ。」


さらに上図のキャプションには、こうあります。

 「ギリシャ星座のアンドロメダ座〔…〕は、またアラビア星座の巨魚座でもある。現代ではアンドロメダ銀河として知られる「小雲」は、魚の口のところに黒点の集合として示されている。」

(上図部分拡大)

巨魚の口にぼんやりと光るアンドロメダ星雲。
賢治がそんなアラビア星座の知識をもとに、あの『星めぐりの歌』を書いたのだとしたら、「賢治の天文知識って、意外にしょぼいんだよ…」と後世の人間がさかしらに言うのは大きな間違いで、むしろ並々ならぬものがあったことになるのですが、さてどんなものでしょうか?

【付記】

先ほど検索したら、この件は加倉井厚夫氏が「星めぐりの歌」に関する考証の中で、「また、アラビア星座の中に「二匹の魚」という星座があり、うち一匹の魚の口の位置がちょうどM31の位置にあたっていて、このことを賢治が知っていたかどうかも大変気になるところです。」と既に指摘されているのを知りました【LINK】

ただ、アラビアの星図の中にそれが明瞭に描き込まれていることまでは言及がなく、そのこと自体あまりポピュラーな知識とは思えないので、今後の参考として書き付けました。